名馬であれば馬のうち

読書、映画、ゲーム、その他。


読書、映画、その他。


一生自分で自分の機嫌をとっていきなSciFiのゲーム――『The Alters』について

ふたつの可能性が存在する。ひとつは、この広い宇宙でわたしたちはひとりぼっちであるかもしれない、という可能性。もうひとつは、そうでないかもしれない、という可能性。どちらもおなじくらいに恐ろしいのではないか。
   --アーサー・C・クラーク*1

諷刺の絶滅した時代について

 あなたがとっくに聞き飽きたお話からはじめましょう。
 わたしたちは文明の袋小路にいる、という話です。

 そうですね、SFは……といってしまうとジャンルファンからお叱りを受けるので、さしあたって射程を広げておきます。殺人を隠蔽するには殺戮を行えばよいのです。というわけで、主語は「フィクション」になります。そのあとにこんな題目をつらねてみましょう。

 ”フィクションはもはや、現代資本主義を戯画化できない。”

 ちょっと前に『ミッキー17』を観ました。ポン・ジュノはやはりメルヘンの作家なのでした。
 先月は『マウンテンヘッド』を観ました。『サクセッション』で四十時間かけて二〇一〇年代におけるテレビメディア帝国とアメリカン・ファミリーのたそがれを描いたジェシー・アームストロングも、その夜の狂騒を二時間に切り取るのは手に余るようでした*2
 先週は『メガロポリス』を観ました。わざわざ、副題に「A FABLE(ある寓話)」と銘打った作品です。コッポラもなにやら現代資本主義について一家言あるようでしたが、どうも『摩天楼』のランド主義をさらに劣化させたにすぎないもののようでした。

(「こんな変なハンマーどこで売ってるの?」と言ってたら、ほかのひとから「これハンマーじゃなくて製図用の定規だよ」と教えられました)

 これらの諷刺作品のつまづきは、なにも個々の作家の力量や錯誤によるものではありません*3アンブローズ・ビアスのいうところの「諷刺の精髄である機知と寛大な思いやり」*4は、わたしたちと同時代の作家たちにも十分に具わっているようにおもわれますし、それを表現できる場にも欠いているわけでもない。
 だというのに、諷刺は死んでしまった。なぜか。今、わたしたちの目に見える世界そのものが十分に戯画的になってしまったせいです。
 本来、諷刺や寓話は、複雑でおとなしいはずの現実を単純化し、そこから切り取った特定の部分を過剰に膨らませることで機能します。しかし、いまある現実が十分過剰で非現実的であったなら? もっといえば、フィクション的であったなら?

 またも映画を例に出しましょう。
バトルランナー』というSFがあります。スティーブン・キング*5の小説を、一九八七年にアーノルド・シュワルツェネッガー主演が映画化したものです。経済難のアメリカ政府がメディアと結託して、出演者の生死を賭した残酷極まるリアリティ・ゲームショウを流している……という設定です。当時は荒唐無稽なアクション映画として受け取られましたが、「リアリティ番組の司会者が強大な政治的な権力を有している」ことをはじめとしたアメリカのテレビ文化の諷刺画として、今日では時代を超えた強度を帯びるようになりました。爾来、デスゲームものはつねにコロッセオ的な残酷さを消費する視聴者やそれを使って大衆を飼いならそうとする権力と切り離せない要素となってきたのです。

(『バトルランナーのきんぴかシュワちゃん

 そんな『バトルランナー』のエドガー・ライト版リメイク公開を控え今年、あるいは映画版『ハンガー・ゲーム』最新作を翌年に控えた今年、アメリカ政府が移民が米市民権をめぐって競うリアリティー番組の制作を検討しているというニュースが報じられました。
 官製デスゲームが現実のテレビで流れているときに、スクリーンのなかのデスゲームは現状追認以上に何になれるというのでしょう?
 諷刺や寓話は現実から適度に距離を取るつつましさによってようやく広く読まれるようになるもので、二分間憎悪を国民に課すようになった世界では、『一九八四年』もうんざりするようなバッドエンドの陳腐なロマンス活劇です。そうした世界では、より明瞭で直接的な主張を含んだ表現のほうが好まれるようになるでしょう。いまのわれわれがそうであるように。

 もはやフィクションで安全に傷つくことのできなくなった世界でなおSFを扱おうとする、というのは勇気ある行為といえるでしょう。なぜなら、多くの場合、ある程度の長さを持った心あるSFとは社会を描くものであり、社会とはつまり生活であり政治であるからです。*6

複製技術時代の生存法

 ポーランドは11 bit Studiosの新作、『The Alters』もそんな勇敢なSF作品のひとつです。
 あらすじはこう。
 主人公のヤン・ドルスキは巨大総合テック企業から無人惑星に派遣され、そこで特殊な鉱石ラピディウムを採掘することになります。ところが惑星に向かう途中で事故に遭い、彼以外のクルーは全滅。惑星の過酷な環境下では、採掘はおろか、ひとひとり生き残るもの絶望的です。
 そこで企業側のスタッフはヤンに「ラピディウムの力を使って自分の複製を作り、マンパワーを増やして生存と任務達成を図れ」と命じてきます。
言われるがままにクローニングを行うヤン。しかし、そうして生まれた〈アルター〉は、ヤン自身の過去から分岐した存在、すなわち「あり得たかもしれない自分の可能性たち」だったのです……。

(だいたいこんなゲームかもしれない)


 ストア紹介文で謳われているコンセプトを引用しましょう。

「SFストーリーが好きなら」「心を揺さぶるストーリー」「答えのない実存的な問い」
「プレイヤーがヤンとして向き合うことになるのは、人生の根本的な問い「人が運命を決するのか、それとも運命が人を導くのか」」

 いかがですか。なんと陳腐な売り文句か、とおもいませんか。
 クローンや意識の複製による実存のゆらぎも、過去にあり得たかもしれない可能性への感傷もフィクションにおいては使い古されたテーマです。あなたはそういうものをいくつも読んできたし、わたしもそういうものをいくらか観てきました。そうですね、『リック・アンド・モーティ』とかね。その経験からいえば、ここは枯れた井戸です。ピーター・ワッツやテッド・チャンに脚本を書かせるか、あるいはポーランドの会社なのだからレムを甦らせるかでもしないかぎりは到底新鮮味を期待できない。

 ところが『The Alters』を実際プレイしてみると、どうもなにやら、現代資本主義社会に生きるわたしたち自身の隠喩としてすぐれている。

 それはストーリーではなく、プレイに顕れます。
アルター〉たちは、リーダーであるオリジナルのヤンの指示のもと、日々の労働を分担して行います。根っこはおなじ自分同士とはいえ、十代や二十代で分岐してそれぞれの三十五歳現在にいたった身でありますから、性格や好みも違ってくる。当然、〈アルター〉同士でソリが合わない、という状況も生まれてくるわけです。
 たとえば、ある〈アルター〉は効率性第一を至上とし、通常一日九時間労働のところを、十二時間に延長するクランチを提案してきます。そんなもん、とうぜん他の〈アルター〉たちの精神衛生には悪影響です。〈アルター〉のなかには、労働組合の委員長にまでなった闘士さえいます。かといって、提案を却下すれば、提案者の機嫌に悪影響が出てしまう。
 ほかにも、〈アルター〉たちはささいなことですーぐぶつくさいいます。食事が毎日BASE BREADみたいなやつばかりだというので不満が溜まる。自分の仕事場が電磁嵐の直撃でぶっこわれてしまっておもうように進捗しなくなったというので不満が溜まる。クローン時の脳の変性により自分たちが数日中に死んでしまうかもしれなくて不安だといって不満が溜まる。

(腕を切り落とすやつまで出てくる。腕を切り落とさないでほしい。)

 そんなクッッソどうでもいいことでブーたれまくった末、ストレスが極に達すると、〈アルター〉たちは反乱を計画しはじめます。蜂起までにかれらを鎮めないとゲームオーバーです。
 鎮める方法はかぎられています。この無人惑星には賃上げやベースアップという概念は存在しません*7。自分を殴りつけるわけにもいきません。ひとりひとりに話しかけ、かれらの欲求を満たし、不満をなだめ、ケアしていくのです。*8

(〈アルター〉たちのご機嫌はつねにモニターされている)


「自分の機嫌を自分で取る」。
 ちかごろ、よく聞くようになったフレーズです。わたしの観測範囲だと、コラムニストのジェーン・スーがラジオの人生相談で頻用していますね。彼女自身はこのフレーズの用法に慎重で、あくまで「わざと不機嫌な態度を取ることで他人に自分の機嫌を取らせようとするひとびと」に対するアンチテーゼとしていっているようにおもわれますが、しかし、ことばというのは一度手元から離れてしまうと勝手にほっつきあるくもの。ネットで独り歩きしつづけた結果、「自分のメンタルは自分で管理すべきだ」というネオリベ的な自己責任論へと逢着してしまった。
 そうなってしまったのは、メンタルの自己管理が社会の要請に即したものであるからです。哲学者のミシェル・フーコーは十七世紀に監禁施設へと収容された「狂者」たちはいずれも資本主義社会にプレイヤーとして参加できないひとびと(物乞いなど)であったと指摘しましたが、つまり、資本主義がイコールで社会になってしまった現し世に参画しつづけるには「壊れ」ないでいつづける必要がある。二〇世紀以降はだれもが起業家*9です。身体と心は文字通りあなたの資本であり、それらの維持は義務であり責任です。*10
 自由市場そのものと化した社会で個人の抱えるストレスもまた「民営化*11」されると説いたのはマーク・フィッシャー。彼は臨床心理学者のデイビッド・スメイルの提唱した「魔術的自立主義*12」の概念を援用し、ストレスやメランコリーへの対処法と新自由主義の関係を暴きました。

……認知行動療法のようなセラピーは、人生の早い段階に焦点を当てること(つまり一種のお手軽な精神分析)と、個人こそが自身の運命の支配者になりうるのだという自助の教義を組み合わせたものだと言える。スメイルは、「セラピストやカウンセラーの専門的な助けを借りれば、あなたは最終的な分析においておなた自身が責任を負っている世界を変えることができ、結果としてそれによって苦痛を感じることもなくなるのだ」という見解に対して、魔術的自立主義という、実に示唆に富んだ名前を与えている。
   ――マーク・フィッシャー「ストレスの民営化」*13

そして、鬱病とはこの「魔術的自立主義」の裏返しに他ならない、とすれば? つまりはこうだ。鬱病の原因はいつだって自分にあり、自分の不幸の責任は自分にしかなく、それゆえその苦しみを受けるに値する、と。再帰的な悪循環と無能感。ここから、また別の自己責任が招来してくる。貧困、機会の喪失、失業、それらもまた自分自身だけの責任であり、その境遇を受け入れなければならない。
   ――木澤佐登志『失われた未来を求めて

(そんなどうでもいいことで悩むな、働け、といいた気持ちをこらえて、話をちゃんと聞いてあげるのが大事)


『The Alters』における〈アルター〉たちのストレスの管理は、まさしく自己に対するセラピーです。ある〈アルター〉は過剰に怒りっぽく、アンガーマネジメントを必要とします。ある〈アルター〉は放って置くと働き過ぎですぐ身体を壊してしまいます。
 主人公であるオリジナルのヤン(=プレイヤー)は、そうした〈アルター〉たちの「精神的な欠点」の原因をカウンセリングしながらつきとめ、取り除いてやることで、理想的な労働者に作り変えていく。そして、それは自分の人生を点検し、自分と和解していくプロセスでもあります。まさしく、セルフケア。〈アルター〉とはオリジナル(端的に、人生に失敗した人物です)の影であり、かれらに見出される困難は実はオリジナルも抱えている問題なのです。自分自身と対話していくことで自分を客観視できるようになる。そうしたメタ認知的視点はトラウマ克服に有効な手段のひとつです。 

(一時険悪な仲となった〈アルター〉と、お袋の味であるピエロギ(東欧の餃子的な食べ物)を共有することで和解していくさま。)


アルター〉たちの分岐した人生の道程は〈マインドレコード〉と呼ばれるシステムによってたどることができるわけですが、皮肉なことに、その〈レコード〉はヤンの雇い主である企業がヤンから無断で(精確には煩雑な契約書に紛れさせることで)収奪した個人情報に基づきます。その「人生の早い段階に焦点を当てた」データを会社のアセットである量子コンピュータと組み合わせることで、〈アルター〉たちが可能となり、ヤン(たち)をラピディウム採掘のために使役することができる。*14

 酷な搾取です。しかし、その搾取はたがいに生存するための唯一の術でもあります。〈アルター〉はメンテナンスされるべき壊れすい自分でもあると同時に、資源そのものでもある。タイムリミットを設けられた本作のサバイバルにおいて、すべての作業は工数に置き換えられます。採掘用のマシンを作るのに、任意の〈アルター〉ひとりと六時間がかかる。ステージクリアに必要な研究を完了するまで、専門の〈アルター〉ひとりと十時間がかかる。そして、狂った太陽がパーティを滅ぼすまで、あと七十二時間。そんな状況下では、すべての〈アルター〉は電子レンジや洗濯機のように目的達成までの時間を削っていく機械としてしか映らなくなる。ところが、その機械をメンテするために話しかけたときには暖かみを持った、共感的な存在として立ち上がってくる。
 この人間-非人間の印象の反復横とびを、プレイヤーは強いられていきます。あなたが目の前の自分をケアするのは、それが壊れたら困る作業機械だからでもあるし、感情的に親しみやすい友人だからでもあり、そもそも自分自身だからでもある。こうして、あなたは労働と資本主義へと狡猾に回収されていく。
『The Alters』の秀抜な点は、「自分の機嫌を自分で取ること」がゲームクリアに必須であり、それがプレイの機構に組み込まれていることにあります。このメカニクスに比べれば、別れた妻、死んだ母や父、生い立ちの不幸、暗躍する会社のお偉いさん、会社からの命令、ヤンの人生についてのあらゆる悔恨などといった脚本に書かれた物語はすべて*15些末なことです。すべての他なる自分自身をなだめ、それでいて核となる「本物の自分自身」はいくら(まったくの自由意志によって)長時間労働しても(みずからの選択として)精神的負荷をかけられてもめげない、ぶれない、鋼のたましいの持ち主であること。これが現代社会における人間の条件です。いかなる環境にあっても独力でサバイブできる人間離れした人間だけが人間なのです。

(〈アルター〉たちのカウンセリングを通じて自らもまた「圧倒的成長」を遂げていく。)


 そう、どうすれば生き延びられるか。ディベロッパーとしての11 bit Studiosは過去に『This War of Mine』や『Frostpunk』といった極限状況下で難しい資源管理や過酷な選択をプレイヤーに強いていく作品を世に問うてきましたが、三人称的な語りの印象が強かった既作*16に比べて、ぐっと一人称の物語に近づきました。そうした視点の変更も、『The Alters』には必然のデザインであったようにおもわれます。そうしたスタジオのカラーにおいて、あるいは生存の思想としてのゲームをいままでもっとも高度に達成したのは本作であるのかもしれません。なぜなら、『The Alters』におけるサバイバル状況は、戦時下の地域(『This War of Mine』)や資源枯渇極寒統制社会(『Frostpunk』)よりももっと広範な場所で起きている。そう、ここ、日本でも。
  ことによると、諷刺や寓話はまだ死んでいないのかもしれません。それを読もうとする意志*17を持つならば。



余談:関連してそうな書籍と関連していない記事

『The Alters』のレビューではよく「『ミッキー17』(『ミッキー7』)×『オデッセイ』(『火星の人』)!」みたいに評されている。実際やってみるとこの二作とけっこう印象が違う。

「エクストラ」。イーガンのわかりやすい意地悪コメディ。

ゴーレムを下敷きに自分のクローンを自分の代わりに使役している社会の話。いまにしてみると『ミッキー7』とちょっと設定似ている。ストーリーはよくおぼえてないけど、結局ドンパチアクションになってた気がする。

複製意識の自己同一性問題とかを諦めた映画。『ミッキー17』よりおもしろいよ。

realsound.jp
昨日書いた。LapwingというVRChatのアバターと『ブレードランナー2049』のライアン・ゴズリングと『her』と『ブラック・ミラー』の話を主にしています。SFですね。

明日出ます。ウィリアム・ギブスン特集ということで『カウント・ゼロ』のブックガイドを担当しています。あれのあらすじを約1500字に要約するという偉業を成し遂げました。成し遂げたのか? 君の目で確かめるんじゃ。



次は『Blue Prince』かカオマンガイの話をしたいですね。

*1:http://clarkeinstitute.org/arthur-c-clarke/quotable-arthur-c-clarke/

*2:ウォール・ストリート・ジャーナル』の報道によると、18のテレビネットワークにおける2020年大統領選のプライムタイムの視聴者数はおよそ5690万人だったが、2024年には4230万人と約25パーセント低下した。ちなみに2016年の選挙では約7100万人であり、そこから数えると10年足らずのあいだに40パーセント近くも視聴者が減った計算になる。https://www.wsj.com/business/media/new-media-social-media-presidential-election-591b0644

*3:まあ、まったくないとはいいません。

*4:西川正身・訳『新編 悪魔の辞典』、岩波文庫

*5:出版当時の名義は別ペンネームであるリチャード・バックマン

*6:そして、パラドキシカルではありますが、諷刺や寓話が死んだのは、現実が過剰に複雑になってしまったせいでもあります。アルゴリズムが監視資本主義的にわたしたちを収奪する仕組みをわたしたちはどう物語化できるというのでしょう?

*7:福利厚生はある。ビアポンとかね

*8:各〈アルター〉の「感情管理」が数値的なパラメータではなく、あくまで漠然とした言葉によって説明されるインターフェースは特筆すべきでしょう。インタビューよれば、これは〈アルター〉ひとりひとりをプレイヤーから人間扱いしてもらうために意図されたデザインです。https://www.thegamer.com/the-alters-interview-tomasz-kisielewicz-katarzyna-tybinka/

*9:an entrepreneurial self

*10:会社法における資本維持の原則ってやつね

*11:privatisation

*12:magical voluntarism

*13:『マーク・フィッシャー評論選集 自分の武器を選べ――音楽・政治』

*14:かぎりなく出生時のヤンに近い〈アルター〉を「タブラ・ラサ」と呼ぶのは興味深いことです。ジョン・ロック的な認識論の観点にもとづけば、人間の認識はすべて経験からかたちづくられていくわけですから。

*15:資本主義のジレンマを問いかけるような会社とのやりとりでさえ

*16:『Frostpunk』は文字通り三人称視点でしたし、『This War of Mine』は複数キャラの操作を要求される

*17:誤読する蛮勇、と言い換えてもいいかもしれません