名馬であれば馬のうち

読書、映画、ゲーム、その他。


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フェイクにフェイクを混ぜてブギーな胸騒ぎーー『カルロス・カイザー サッカー史上最も奇妙な成功者』について

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『カルロス・カイザー サッカー史上最も奇妙な成功者』(ルイス・マイルズ監督、2018)は「一度もサッカーをプレイせずに成功した唯一のサッカー選手」ことカルロス・カイザーの伝記ドキュメンタリーで、要するに詐欺師ものなのだけれども、それはそれとしてヘンな試みをしている。
 映画はこんな内容だ。80年代から90年代にかけてカルロス・カイザーというブラジル人がいた。彼は主にサンパウロの名門サッカーチームを中心に優秀なストライカーと称して籍を置くものの、試合には怪我だのなんだの理由をつけて一切出場しない。実はサッカーが下手くそなのだ。彼の同僚たちはたちまち彼の詐称を見抜くのだけれど、ふしぎなことにチームのオーナーたちはつぎつぎと騙されていってしまう。カイザーには人間的な魅力とポン引きとしての才能と土壇場での胆力があり、それでなんとか次の年の契約をもぎとっていってしまうのだ。カイザーの本当の実力を知っている同僚たちは不思議と憎めない(そして美女たちを遠征先であてがってくれる)彼に呆れながらも告発を見送る。そんなこんなで彼は一試合も試合に出ないまま十年以上もプロサッカー選手として過ごし、どころか一流選手しか出演し得ないテレビ番組でレポーターの地位まで獲得し、全国区の名声まで勝ち得ていく……というような話が主にカイザー本人の口から語られていく。

 

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 コン・ゲームというジャンルがあるくらいで、われわれは詐欺師の映画が好きだし、実在した詐欺師の伝記映画も好きだ。『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』のフランク・アバグネイル、『ウルフ・オブ・ウォール・ストリート』のジョーダン・ベルフォード、『アプレンティス』のドナルド・トランプ。特にアメリカ合衆国で詐欺師の一代記が好まれるのは、それがアメリカン・ドリームなるものの輝きと歪みを同時にもっとも色濃く体現しているジャンルだからに他ならない。佐藤亜紀風にいうのなら神なき近代社会において人は誰しも自分の顔を造る必要があるわけで、それは同時に自分ではないなにものかを装う必要がある。生きるというのはそれ自体、自分ではない別の誰かを演じるという感覚をともなうもので、つまりは人類はみな詐欺師だ。
 それはともかく、『カルロス・カイザー』はそうした豊穣な詐欺師ものジャンルにあっては平凡な出来におさまっていて、サッカーに興味がないなら*1別に観ても観なくてもいいような映画ではある、あるのだけれど、終盤でちょっとしたどんでん返しがほどこされている。
 カイザーは本人曰く、二年ほどフランスリーグ二部に属していたコルシカのアジャクシオ(当時はガゼレクFCアジャクシオ)にいたという話で、テレビ番組に出演したさいもアジャクシオのユニフォームを誇示したり、他チームでの身分照会にもアジャクシオの選手証を提示したりとなにかとアピール材料にしていた。

 

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 これがどんでん返される。アジャクシオに属していたのはカイザーの知り合いである別のプロ選手で、カイザーは彼からユニフォームを譲り受けたうえ、コルシカでの生活を根掘り葉掘り訊ね、「アジャクシオ所属時の写真」を捏造したうえで自らの前歴をでっちあげた。
 ドキュメンタリー撮影班はカイザーにアジャクシオ所属歴を乗っ取られたこの選手に接触してこのでっちあげを突き止めたうえでカイザーにつきつける。カイザーは「コルシカにいた思い出は自分の誇りだ。なぜ彼はそんな嘘をつくのか」と大げさに嘆き、捏造疑惑を猛烈に否定する。
 そして(ドキュメンタリーの編集がやや飛ばし気味なのであいまいなのだけれど)カイザーは数ヶ月間雲隠れした末に、観念し、憔悴しきった姿でドキュメンタリー班の現れて「真相」を語り出す。「なぜ、あいつは裏切ったんだろう。自分は詐欺師だったかもしれないけれど、だれかを傷つけるようなマネだけはしなかった……」。
 要するに、一種の信頼できない語り手的な仕掛けというか、「事実として語られていた部分が実はウソだった」という話なのだけれど、しょうじきなところ、観ている方は戸惑ってしまう。
 詐欺師の話なのだ。それまでずっと「自分はこんなウソをついて人を騙してきました」という話をえんえんされてきて、あとでその一部がフェイクでした、といわれても、結局ウソと詐欺の話であることは変わりないわけで、いうほどサプライズ感がない。
 あるいは制作側がそんな大した作為を持ち合わせていなかった可能性もないではないのだけれど、構成を見るに、すくなくとも終盤の山場として置いたものとみたほうがよいだろう。

 この奇妙なズレに関して、本作の監督は「最初はカイザーの語る物語に魅了されていたが、周囲の関係者たちにも取材するうちに細かい点の辻褄が合わないことに気づいていった」というようなことを語っている*2。
 カイザーは聞かせたいホラ話をデザインした結果として「自分はこんな詐欺を働いた」というウソ、いわばフェイクについてフェイクをつくりあげてしまったわけで、なかなかねじまがっている。詐欺師ならではの心性というか、詐欺を白状するにしても「詐欺師として輝いていた自分」を演出したいという欲望が先に立ってしまう。
 考えてみれば、こういう詐欺師であった自分を信頼できなさそうな形でおもしろおかしく語る映画というのは詐欺師ものとしてはむしろスタンダードで、さっき名前を出した『ウルフ・オブ・ウォールストリート』だってそうだ。

 

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 しかし、あの映画の中のジョーダン・ベルフォードがどこまでもかろやかだったのに比べて、「真相」を明かしたときのカイザーのたたずまいはみじめったらしい。できれば明かしたくなかった生身の自分をさらけ出して、それまで語ろうとしてきた軽薄で機知に満ちたトリックスターのイメージを放棄し、スラム育ちの不幸で不器用な青年としてのカイザー像を提出する。ご丁寧に、それまでのインタビューではずっとかけてきたサングラスを外し、白濁して見えなくなった片目までカメラに差し出して。
 もちろん、そうした告解すらもカイザーの詐欺の一部である可能性はある。そのような疑念を植えつけるようにこの映画は企まれている。大雑把で細部にかける説明と時系列のあいまいさはこの映画全体をおおっていて、それは素材の不足と同時にカイザーという語り手のあいまいさと同調した結果でもある。
 
 ヒトはウソをつく。ウソには文単位でのウソとプロット単位でのウソがあって、前者は現在形で場当たり的につかれ、後者は過去形で構築的につかれる。カイザーの物語をの場合は現在形でウソをついてきた過去をあとから回想して語る、という形式だから二重のウソが塗り重ねられる奇妙な構造になっていて、まあでも物語とはそういうものです。
 場当たり的な現在形のウソというのはたいてい「バレたくない」以外の目的を持たないので、夢のように指向性がグチャついている。夢というのはお話にならないから夢なのであり、二時間の映画にしたいならどうにか編集する必要がある。その過程は、他人の、すなわちオーディエンスの視線と欲望を意識する過程でもあって、だからできあがるものはそうした外部への応答が含まれることになる。
 わたしはいま、大事な話をしています。
 わかりますか?

 

 

*1:80年代のブラジルプロサッカーの舞台裏の話としては新鮮でおもしろい部分がある。民間サッカーくじの胴元が富豪兼マフィア化して、サッカーチームを所有して、おなじマフィア同士で選手を融通しあってたとか。

*2:https://note.com/eiga_hiho/n/ncac003a96b95

ゲームにとって友だちとはなにか――『Big Walk』について


 声を聞くと惹かれ すぐに忘れ つらつらと
 気まぐれな僕らは 離ればなれ つらつらと
 ――サカナクション「アルクアラウンド」



 もう、十分も歩いている。二人で、あるいは四人で、もしくは十二人で。

 目に映るのは、硬そうな低木やユーカリや三億八千万年前から地肌として露出しているまだら模様の花崗岩。海岸ではまるまると洗われた石が転がっていて、浜を歩くとキュッキュッと砂がたのしげに鳴く。夕方にはその海の水平線へとオレンジ色の太陽が沈んでいき、夜のあいだはずっと同じところに偽物の月が浮かぶ。



 きみになじみのない景色、きみになじみのないデザイン。なにより想像とかけはなれていたのはゲーム中に次に向かうべき場所を指し示すマーカーもミニマップもなければ、三分に一回はみんなで指さしてはしゃげるようなサプライズも存在しないことだ。これがゲームと呼べるだろうか?
 次に行けばよい場所はだいたいわかる。けれど、その場所までたどりつくためのショートカットはほとんど存在しない。運が良ければ環状線をぐるぐる回っている列車に飛び乗れはするにしても、だいたいの場合はやはり徒歩しかない。



 五分、十分、あるいは三十分。気分的には永遠にも似たその途上で、高低差のはげしい地形とうっそうとした植物たちが視界をふさぎ、山に行けば急な斜面がきみの足をふみはずさせて滑落へと追いこんで、パーティを分断する。


 その捜索と合流に、また十分。



 挙げ句の果てに、きみはロープウェイに乗せられるだろう。二人乗りのリフトだ。最大で、二人乗り。意味がわかるか? つまり、きみのパーティが五人だろうが十二人だろうが、リフトに乗るときはひとりかふたりにならなければいけない。まあ孤独に一人で乗ることを選んでもいいが……これはCO-OPゲームだ。仲間との相乗りを断る理由がどこにある? そうだ、きみはいやなわけではない。けっして、ふたりで乗ることがいやなわけではないのだ。いやなわけではないのだけれど。
 きみはだれかとリフトに乗る。数分間のあいだ、ふたりきりにさせられる。きみはなにを話すだろう? そのだれかはなにを話すだろう? ゲームのことを話題にしようにも、壮大なストーリーや難解な謎を提示されていないのだし、いままさにこの瞬間はなにも起こっていないわけだし……世間話? 雑談といえば天気の話をすればよいというけれど、『Big Walk』の空はいつだって晴れ渡り、百点満点の青空だ。あれ、困るな?
 きみは助けを乞うようにして、隣に座っただれかを見つめるだろう。その顔とは、そのだれかとは、きみにとって、なにものなのか。


『Big Walk』は公式ストア紹介文で、みずからをこう定義している。

 親しい友人たちと広大な世界を探索したり、迷子になったりしてみよう。『Untitled Goose Game』の開発陣が贈る、協力型オンライン通信ゲーム。



「親しい友人」。きみの隣にいるひとは友人であるはずだ*1。当然だろう。協力プレイのゲームにおいて、基本的に遊ぶ相手は友人しかいない。オンライン以前のオフライン時代からそうだ。オフライン時代以前のオンライン時代からそうだ。
 では、友人とはなんだろう? ビデオゲームは友人の定義をことばではなく、作品によって遂行的に示してきた。『マリオブラザーズ』、『マリオカート』、『マリオパーティ』に『大乱闘スマッシュブラザーズ』。なんだかマリオばかりですね。
 ローカルマルチプレイで遊ばれていたころ、それらのゲームは〈パーティゲーム〉と呼ばれていた。いまは作品の意図や内容が異なるにしても、消費の目的において『めっちゃカメレオン』や『R.E.P.O.』に代表される〈フレンドスロップ〉*2と呼ばれるジャンルがその役割を担っている。

(『めっちゃカメレオン』 やるとめっちゃおもしろい)
(『ULTIMATE CHICKEN HORSE』 やると人間性が出る)


 それらのゲームは遊んでいる人間だけでなく観ている人間たちも楽しめるようにできていて、まあだから配信者向けのゲームとも評されており、実際にはYoutubeやTwitchでは大勢の配信者たちが知り合い同士でたのしげに遊んでいる。「友人」のありさまがそこにはあるように見える。
『Big Walk』もそんな〈フレンドスロップ〉作品のひとつだとみなされていた。すくなくとも、リリース前には英語版 Wikipedia の「Friendslop」の記事で作例のひとつとして数えられていたようにおぼえている。*3

 ところがいざ発売されてみると、「ゲーム実況配信者は『Big Walk』がお嫌い」という言説が出回るようになった。 Youtubeでビデオゲーム批評を展開しているBrando曰く、『Big Walk』をプレイした有名ストリーマーたちはのきなみ「つまらない」「退屈だ」と途中でゲームを放り出し、なかにはSteamで返金する様子を実況するものまで現れた。いまやゲーマーのオピニオンリーダーである配信者をそこまで憤慨させているのだから、さぞかしひどいゲームなのだろうな、とおもわれそうであるけれど、動画配信サイトの外に目を向けてみれば、Metacriticでは批評家のスコア平均が91点*4で、Steamでは25000件以上のレビュー数で支持率95パーセントの「圧倒的好評」を記録している。要するに、批評家もプレイヤーも両手をあげて大絶賛している。

(Brandoの動画内で「『Big Walk』を嫌う人気配信者」のひとりとして取り上げられたJojoことJoe Bartは批評を好意的に捉え、レスポンスを返している。曰く、「普通にプレイするぶんにはおもしろいんだけれど、視聴者を愉しませなきゃいけないゲーム配信向きではない」)

 なのに、なぜストリーマーだけが、それもほかの〈フレンドスロップ〉作品をたのしく遊んでいるようなストリーマーたちが、ふきげんなのか? Brandoは、その原因は配信者が配信者であることに由来する、と答える。
 一般的に、〈フレンドスロップ〉にくくられる作品では「なにもない」時間がすくない。数分に一度、数十秒に一度の間隔で、なにかは起こる。モンスターが出てきたりとか、ゾンビキノコに身体を乗っ取られたりだとか、フレンドがとにかくくだらないミスをやらかすだとか、そして、その出来事はなにかしらおどろいたり笑えたりとリアクションが取れ、そのリアクションを他のプレイヤー=配信者や視聴者と共有できる。
 つまりは、撮れ高がある。 配信者は配信仲間とゲームをあそぶ。かれらは「友人同士」と称しており、プライベートでは実際にそうなのかもしれないにしても、売れっ子であればあるほど内実は「仕事仲間」に近くなる。かれらは「金曜に他になにもすることがないからゲームをいっしょに遊ぶ仲間」ではない。チームなのだ。かぎられた時間内に協力して動画をおもしろくする責務を負っていて、『Big Walk』は一見そんなかれらにぴったりのゲームにおもわれるけれど、やってみると実は違う。その期待の落差が配信者界隈での不評につながった。



 Brandoの評は動画内で張られたいくばくかの予防線を踏まえてもなお単純化しすぎるきらいがあるのでまるめておくと、かんじんなのは、一部のプレイヤーたちが『Big Walk』の要求する「友人」の型から外れてしまう、という示唆だ。つまり?

『Big Walk』は「友人」を定義しようとしている。

 なんとおそるべき試みだろうか。今年発売されるどんなゲームよりも、そう、おそらくは『GTA VI』さえも寄せつけないほどに、プレイヤーにとって残酷で野蛮で暴力的な挑戦だ。いつだってゲームは「友だちとはなにか?」という問いかけを巧妙に避けてきた。今はともかく、90年代とか2000年代においてはゲームで遊んでいるのは子どもでなければ、友だちのいな……もとい、孤独であることを好む人間だったのだから。
 だれかとゲームを遊ぶとき、わたしたちはかれらを「友人」であると信じて疑わない。疑いようがない。ゲームのほうもまた、今そこにいるふたりのプレイヤーが友人同士であるのは任天堂のCMみたいに自明な事実として扱う。
『Big Walk』は、そのあまりに透明な前提を疑う。きみたちは友だちなのか? ふうん。じゃあ、ひとつ、ここで試してみようじゃないか……と。そこで『Big Walk』はこんなパラドクスめいた問いを出してくるのだ。
 もしきみたちがゲームをいっしょに遊ぶほどの友人同士なのであれば、ゲーム抜きでも友人であるはずだ。


 
『Big Walk』の友だち試験的態度を象徴するパズルがある。精確にはパズルではない。〈無の部屋〉と仮に呼ばれている、その部屋ではなにもできない。狭い閉所に他のプレイヤーたちと監禁されて、数分感過ごせといわれる。『HUNTERXHUNTER』のハンター試験編の塔での待機所みたいな感じだ。わたしたちができるのは、他のプレイヤーと話すことくらい。
 パズルでないと同時に、究極のパズルともいえる。人間をパズルとみなすなら。CO-OP(協力プレイ)ゲームであることとは、ほかの誰かとなにかをやることだ。協働して敵を倒す、協働してパズルを解く、協働して障害を取り除く。作業を通じて対話する。美しい行為だ。こと、わたしたちにとっては。わたしたちのように他人と雑談のできない人間は、なにかの共同の作業やトピックを通じてしか会話ができない。でなければ、自分の話だけを一方的にすることを対話だと信仰している。人類がこの4000年間気づいてこなかった驚くべき真実を告げると、実はそのどちらも他人といることにはならない。
 ただ他人といることをやりすごす。他人といる時間を、他人といる空間に、ただ存在する。その気まずい耐えがたさ。



 きみは朗らかにいうかもしれない。「大丈夫だよ。ただ友だちと五分間部屋で過ごすだけなんだから」
 両親からの愛情を一身に受け、一切の不自由なく、すくすくとのびのび育ってきたきみはわからないかもしれないが、違う。なにひとつ大丈夫ではない。これは「ただ友だちと五分間部屋で過ごすだけ」ではない。それはクエストなのだ。
 〈無の部屋〉は課題として「なにもしないこと」を設定していると開発者は語っている。本作の初期の設計思想は「少しの協力を必要とするけれど、一緒に遊んでいる相手から決して注意を逸らさせないなにかをやってもらう」ことで、その「なにか」に「なにもしないこと」を取り入れたのだと。
 一般にゲームは画面に映るものをすべて道具や資源として見なすことをプレイヤーに強制するのだけれど、このときあなたの目に映る「資源」は友だちだけだ。ルールは課題を際立たせる。課題として意識することは、課題の対象の本質を問い直すということでもある。だから、あなたは無意識に自問するようになるのだ。「『友だち』と『協力』して五分間『なにもせず』に過ごす」とは、いったいなんなのだ? と。
 その問いは〈無の部屋〉を出てからも続くだろう。先にも書いたように、『Big Walk』はあきらかに移動時間が多く、パズルを解くにあたってさえ二人や三人の別チームに分かれることを要求されがちだ。パズルは*5四人いれば事足りることがほとんどで、五名以上でプレイしている場合はだいたいだれかが手持ち無沙汰になる。仲間たちが知恵をしぼって作業しているあいだ、ぼんやりとなにもしないでいるのは罪悪感と焦りを生じさせる。それらを打ち消すために、誰かの推察に相づちをうったり、不要だと捨てられたパネルを持ち上げては落としてみたり、ジャンプを繰り返したり、とりあえずなにかをしているふりをしてみたりもする。


 
「まったく何もしないのは案外難しい」と、レベッカ・ソルニットは歩行にまつわるエッセイ集『ウォークス:歩くことの精神史』(訳・東辻賢治郎)で書いていた。「人は何かをしている振りすることがせいぜいで、何もしないことに最も近いのは歩くことだ。歩くことは意志のある行為でありながら、呼吸や心拍といった身体の不随意なリズムに極めて近い」。
 無為に対する焦燥は、「働かざる者食うべからず」と言い残した一休さんという忌まわしい先駆を除けば、後期資本主義に植えつけられた病だ。フォードが労働者の余暇すらも資本主義の営みに回収してしまったように、テクノロジーと資本の運動は効率と生産性の名のもとにゲームにすら無為をゆるさないように発展してきた。ロード時間は短縮され、クエストが隙間なく敷き詰められる。プレイヤーの幸福はつねに絶え間なくボタンを押しているかどうかで測られるようになった。



 ところで、ソルニットはこうも書いている。「人生をかたちづくるのは、"公式"の出来事の隙間で起こる予期できない事件の数々だし、人生に価値を与えるのは計算を越えたものごとではないのか。田園、および都市の徒歩移動は二世紀間*6にわたって、予期できぬことや計算できぬものを探りあてる第一の方法であり続けた。」
 おそらく、ダン・ピンチベックはソルニットに同意するだろう。ピンチベックは『Dear Esther』という歩行以外のインタラクションを持たないアドベンチャーゲームを作り、〈ウォーキング・シミュレータ〉というジャンルの理論的な始祖となった。かれの作意はストーリーテリングの装置としてのビデオゲームの純粋性への探究から始まっており、『Baby Steps』のベネット・フォディ*7にいわせれば〈ウォーキング・シミュレータ〉とは「探索と観察を主眼にしたジャンル」だ。

(『Dear Esther』)


 歩くことは視力をとぎすます。〈ウォーキング・シミュレータ〉というジャンルが短命ながらもその思想を支持されたのは、ビデオゲームが歩くときの眼を濁らせるように発展してきてしまったからだ。*8
 つい最近、『Ultima Online』などでMMORPGの歴史に偉大な足跡を残したラフ・コスターのインタビューがドキュメンタリーチャンネルの/noclipにあがっていたのだけれど、彼がいうには初期のMMORPGのプレイヤーたちは「プレイ時間の半分を突っ立って雑談しながら過ごしていた」らしい。ロールプレイを重視するロールプレイヤーたちも多かった。
 しかし、『World of Warcraft』で常時表示のクエストログと、次のクエストの存在を示唆するためにNPCの頭上に黄色い「!」マークが浮かぶようになってから、すべてが変わった。
 プレイヤーたちは他のプレイヤーたちよりも「!」を、次のクエストを追いかけるようになったのだ。クエストをこなせば経験値が手に入る。そうして、クエストを絶え間なく追いかけていったプレイヤーたちと、用意されたクエストをあまり重視しないロールプレイヤーたちのあいだで深刻なレベル差が生じる。友だちと話したいなら、レベル差を埋めないといけない。こうしてロールプレイヤーたちもまたクエストへと駆り出され、いつしかロールプレイの時間が減っていく*9。

(『World of Warcraft』)

 
 「!」マークとクエストログはもともとゲームプレイをちょっとわかりやすくしようとした、いうなれば開発側の親切心のようなもので、ゲームデザインやプレイヤーの行動を抜本的に変えようと意図したものではなかった。だが、それは結果的にプレイヤーの行動とゲームに対する接し方を変え、コスターが「クエスト主導型ゲーム(quest-led game)」(要するに『アサシンクリード』のように大量のクエストで埋め尽くされた作品のこと)と呼ぶひとつの潮流になった。興味の対象が人からモノへと移ったのだ。
 コスターは「かつてはゲームとは社交的(Social)なものであったのにね」と嘆く。彼のゲーム開発者としてのキャリアは『LegendMUD』というオンラインゲームに端を発しているけれども、MUD(Multi-Player Dungeon)とは、テキストベースのオンラインRPG/アドベンチャーのことで、その歴史は1970年代に遡る。簡単にいえば、テーブルトークRPG(もっといえば当然『Dungeons & Dragons』)をオンラインで遊べるようことを目指して始まったもので、プリミティブながらもテキストベースの利点を生かして豊かな物理環境や遊びの幅、そしてプレイヤー同士の交流が設計されていた。さらに、もっとも初期のビデオゲームのひとつとされる『Spacewar!』*10は二人プレイ専用だったし、ビデオゲーム以前に遡れば、だいたいのゲームはソリティアなどのひとにぎりの例外を除いてすべて二人以上でのプレイを想定している。「実のところ、ゲームの歴史において、シングルプレイヤーゲームこそが異質なのだ」というコスターの主張はむしろ主流の意見であり、2010年前後のFacebook/ソーシャルゲームや最近の〈フレンドスロップ〉のように、ことあるごとにゲームがソーシャル性へと回帰しようとするのはゲームの本性にかなった運動であるといえる。

 そして、クエストログと「!」マーカーに弱いのはゲーマーばかりではない。こんにち、「観光」というものがどのようにデザインされているかを考えてみるといい。わたしたちは古くは観光ガイド、今ではSNSに教えられて、ある土地のある場所に行けば、ある特定の感情をもよおす思い出が手に入ると約束される。それは、NPCから教えられて、ある土地のある場所に行けば、ある特定のイベントを経てなにがしかの有益な報酬が手に入ると約束されるゲームのプレイとなんら変わらない。違いといえば、クエストの報酬が経験値であるか、スマホに大量に保存した写真や動画であるかどうかくらいだ。
 順序でいったら当然、観光が先だ。今日的な旅行ガイドブックの成立は19世紀のことらしい。ビデオゲームにおける「世界」も現実の世界とおなじ商業的合理化の筋道をたどったといえる。クエストとはつまり観光のガイドであり、クエストのチェックリストを潰すようにして人生のTo Do リストを潰していき、それが終わったら安心して電源を切ることが叶う。管啓次郎はいう。巨大な観光産業にあって、わたしたちの眼のレンズは曇り、どこへいってもまぼろしを見ているにすぎなくなってしまった、と。「この蜃気楼の豪壮な楼閣の存在の目的はただひとつ。ぼくらの貧弱な視力に、『世界そのもの』のまぶしさを見ることを免除してくれる、という一点だけだ」*11。
 そして、『Big Walk』では、あまりにまぶしい「世界そのもの」に「友人」も含まれる。



『Big Walk』の開発思想について、開発元のHouse Houseは前述のインタビューでこんなことを語っていた。

(開発の方向性として)「キャラクターを持って、お互いに細やかに注意を向けるのが楽しい」ということに向かっていた気がします。実際に啓示的だったのは、インタラクションのスケールだったと思う。他にやることがなくて、一緒に遊んでいる相手だけに本当に集中しているなら、手の動きや手を振る仕草、他のプレイヤーを持ちあげるといった要素を入れられる。そしてそれがノイズが増えたようには感じられず、本当に注意を向ける対象になって、すごく親密に感じられ、一緒に遊んでいる人とのつながりを感じさせてくれる。僕らが作りたいスケールはここなんだと気づいたんです。



 旅における視線の対象は風景だ。

『Big Walk』の目的は? 友人を視ること。

 パズルとは共に視線を向けて片付ける対象ではなく、プレイヤー同士がたがいに眼を向け合うためのプロセスだ。

 いつしか、間を持たすための話術はゲームクリアに必要でないと気づきはじめる。



 また、はぐれてしまって、もう十分は経つだろうか。
 『Big Walk』の夜は昏い。灯りがなければ、十センチ先もほとんど見えない。原始の闇とはこんな感じだったのだろうな、とおもう。
 空にかがやく星々が照らし出してくれる樹々や山々の影だけを頼りに歩かねばならない。はぐれた仲間たちがどこにいるかも、どうやって連絡を取ればよいのかもわからないのに。
 CO-OPゲームでひとりになるほど、みじめな経験はない。たいしてパズル攻略に貢献してなかったとしても、一定の人数がそろわなければそもそもパズルへ挑戦できない。自分がどんくさいせいで、他人の時間を浪費し、迷惑をかけている。
 しかも、はぐれただけならまだしも、攻略で重要な役割を果たしてたアイテムを暗闇で足をふみはずした調子に落として失くしてしまった。ああ。
 こんな役立たずは目の前の海に飛び込んで死ぬべきではないか、とさえおもわれてくる。が、ゲームで入水したところでログアウトはできない。泣きそうになるが、泣いてもなぐさめてくれるひとも叱ってくれるひともいない。
 だれもいない。
 ひとりだ。

 ……よく考えたらこのインスタンスには五人いるのだから、一人抜けてもゲームは進行できるはずだ。
 では、ゲームとしての最適解ははぐれたバカを放って他の四人で進めることでは?
 きみは数合わせですらなかったのだ。かれらにふさわしい友だちではなかった。

 そんなふうにメソメソしながら無目的にさまよいながら絶望に浸っていると、夜空に一条の赤い光線が走った。

 


 レーザーポインタ……? だれが……? と立ち止まって見上げていると、同じ方角からまばゆい閃光があがった。信号弾だ。

 

 
 
 どうも、向こうの方角にある塔から打ち上げられているらしい。
 みんな、いるんだ、とおもう。
 あそこで待ってくれている。

 塔へ向かってまっすぐに駆け出していた。地面はあいかわらず真っ暗ででこぼこしているけれど、方向さえ教えてくれるのならたどりつける。仲間のもとへ。友人たちのもとへ。
 
 他人に注意を向けているということは、他人から注意を向けられているということでもある。真にソーシャルである、ということ。それが『Big Walk』の定義する「友人」だ。

 眼はすでに晴れている。あとは、視るだけだ。*12


(遊んでくれたみんな、サンキュー!)


 

*1:『Big Walk』はいわゆる野良プレイを許可していない。

*2:Friendslop。slopとは「粗製乱造でカスの~」的な意味を持つ接尾辞。最近の英語圏で不愉快におもわれているものにはなんでもついている(主に生成AIのせい)。日本人にはあんまりピンとこない新語だが、よくない響きらしいので、特にゲーム開発者に向けてはあんまり使わない方がよいとされる。

*3:2020年か21年に開発の始まった本作はおそらくそのリストに載っているほとんどのゲームに先立っていたのだが

*4:一定程度のレビュー数を集めているゲームならば、各ゲームオブザイヤーのノミニーとなる可能性を有望視されるライン

*5:セッションに接続している人数(2名、3名、4名以上)で左右されるが

*6:ソルニットによれば、英国において「途中の風景を愉しむ=歩行を愉しむ」という観念ができたのは、イギリス式庭園を(絵画的な愉しみを宿すフランス式庭園のアンチとして)映像的な連続性をもって愉しむようなり、街道が道路的にも治安的にも整備されるようになって旅が安全にできるようになった18世紀中頃のころだったらしい。

*7:『Big Walk』のスタジオHouse Houseとおなじくオーストラリア出身であり、『Baby Steps』のプレイテスターにはHouse Houseの中核メンバーたちが、『Big Walk』のプレイテスターにはフォディとゲイブ・クッジーロの『Baby Steps』組が相互に参加している。

*8:そして『Big Walk』は袋小路に陥っていたウォークシムジャンルにあたらしいアングルを持ち込んだ、とわたしは見立てているのだけれど、それはまた別のときに話そう。

*9:ここのあたりはイェスパー・ユールの『A Casual Revolution』で紹介されていたエピソードなんかも思い出す。あるプレイヤーが、やはり『WoW』で、友だちだとおもっていたプレイヤーにレベル差をつけられて一緒に遊べなくなり、「友だちよりゲームの進行を取るのか」と憤慨するのだ。つまり、ゲームの進行や熟達を優先する「ハードコアゲーマー」と、友だちとの楽しみを目的とする「カジュアルゲーマー」のズレが表われている、という話。

*10:精確にいえばもっと以前のビデオゲームとしては『Tennis for Two』や『Marienbat』もあげられるのだけれど、複数の端末でより広いオーディエンスにゲームとして遊ばれたものとして、という点では『Spacewar!』は他の「始祖」に比べて影響力がはるかに強い。

*11:『狼が連れ立って走る月』

*12:そういえば、『Big Walk』にはフォトモードが存在しないので、記念撮影にはいつも撮影者だけ映れない、という事態になる。

『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ 〈ワルプルギスの廻天〉』についてお話させていただきます。




 ずっと、キャラクター解釈の話をしている。
 なにかがちがう、なにかがずれている、彼女はこうだったのに、ああだったのに、こうあるべきだったのに、そうして、あなたはあれで、自分はこれです。
 廻天の話は以上です。





 そういえば、解釈そのものはゲームではないけれど、解釈をたたかわせることはゲーム的な営みであるという話がある。ゲームデザイナーで研究者のフランク・ランツが「囲碁は一手ごとにプレイヤーの世界観や解釈を主張しあうゲーム」みたいなことをいっていて、ゲームとはプレイヤー同士やソフトウェアとプレイヤーのあいだで交わされるそのような対話だ。廻天を観ながらそんなことをおもいだしていた。まどマギのゲーム化はどれも退屈だったな。さっきのはうちのイヌがいいました。あとで叱っておきます。
 ゲームの話は以上です。


 


 まあ、だが、しかし。最近観た映画はだいたいキャラクター解釈の話だ。そのうちにたまにズレの話もある。『スパイダーマン:ブランド・ニュー・デイ』とかさ。あれも「原作」と「脚色(続編や二次創作と言い換えてもよい)」のズレに苦しむオタクを描いていた描いていたよね? 描いていました。はい。
 スパイディの話も以上です。





 マルチバースだとか世界改変だとかループものだとかが流行っていた(過去形)なのは読者としてのオタクの現実感覚が一致しているからだ、という説があり、どんな人が唱えているかは知らないものの、わたしごときが二秒でおもいつく仮説であるによって、かなりの確度で他のだれかがとっくにおもいついてる。
 映画化、アニメ化、リメイク、続編、二次創作。2026年のスクリーンに映る毎秒24コマは透かして見れば24コマ以上のなにかを基底に敷いており、オタクはスクリーンの光よりも暗がりにしずんでいるそれを掬いとることを最近では至上の目的にしている。良いかわるいかなどは、どうでもよい。〈真の映画〉の実在など、いまどきだれが信じるだろう? 
 いや、〈映画〉さえもとっくに信じられてはいない。『映画ちいかわ 人魚の島のひみつ』を観たときのかすかな失望を、あなたはもう忘れてしまったかもしれないが、それはあなたがマンガと映画をかぎりなく一致させることを誠実さだと主張する世間に倦みきってあきらめてしまったからだ。ナガノという名を神棚に飾って拝むお祭りに流されてもなんの痛痒も感じなくなってしまったからだ。
 読者は原作との寸分狂いのない一致こそを望んでいるのではない。キャラクターのズレを望んでいないのだ。プロットの変更がきらわれるのは、筋の変更がキャラクターの描写をゆがめてしまうからにすぎない。言わないでしょ、そんな事っ。言わないよねェッ。
 そういえば、廻天でも非力そうな有象無象たちがさすまたを構えて怪異めいた相手に「ヤーッ!」と気炎をあげているのを見た。ちいかわだとおもった。これがちいかわじゃなかったら、逆になんなんだ。
 ちいかわの話は以上です。





 しかしこの夏に「原典と一致させること」になにより情熱を燃やしたのは『ちいかわ』ではなかった。実写*1リメイク版の『モアナと伝説の海』は、ほとんどガス・ヴァン・サント版『サイコ』じみた執拗さでリメイク元と一致させようとしていた*2。その試みははからずもアニメと実写の違いをきわだたせる、よいサンプルケースとなったようにおもわれる。
 たとえば、冒頭でモアナの祖母がモアナを含めた村のこどもたちに半神半人のトリックスターであるマウイの伝説を語っていると、それに怯えた子どもたちがわめきながら、実際の子どもにはありえない身体能力で室内をかけまわる場面がある。アニメではいかにもアニメ的なデフォルメを効かせた、よくあるといえばあるけれど、いきいきとしたカットだ。これが実写版では、当然、本物の子役を使うことになる。現実の質量をひきずりながら、いかにも義務的にわめいてドタドタと走る子どもから、モアナの故郷の村の活気をどう読み取れというのか。
 ようするに、現実の身体はどうとりつくろったところで、アニメの身体よりも重たすぎる。ディズニーのアニメーションがウォルトの指導のもと、ゴムホース的な身体から『白雪姫』あたりからリアリティとの融合に舵を切ったという歴史はまああるにせよ、それでもいまだにだいぶ軽やかだし、そもそも現実の重力から逃れるためにアニメはあるのではなかったか。アニメ作品の実写化でつねにふしぎなのは、なぜアニメからわざわざ精気を抜いて死んだようなどんくさい肉を与えようとするのか、ということで、それは『秒速五センチメートル』のようなアニメの実写化作品にさえ感じられる。ええ、そのとおり。わたしは実写版『秒速五センチメートル』を観ましたし、ディズニークラシックの実写リメイクは『ムーラン』以外すべて観ています。唖然とするようなカット、途方にくれてしまうようなショットを何百も観てきた。なぜ? って、義務とはそういうものなのだよ。きみは子どもだからまだわからないかもしれないね。
 モアナの話は以上です。





 解釈違いによって死んでしまう男の映画がある。パリにある新凱旋門、その建設の舞台裏を描いた『新凱旋門物語』だ。デンマークからやってきた建築家、フォン・スプレッケルセンがフランス革命二百周年の記念国家事業として新凱旋門設計を請け負うものの、建造する過程で政治的や費用的なもろもろに振り回されたあげく、自分のオリジナルプランがどんどんゆがめられていくことに耐えられずに辞職してしまう。そして、最後にパリで完成しかけの新凱旋門を目の当たりにし、その醜悪さのあまりに心臓発作を起こして死ぬ。
 いちおう実話ベースであるものの、芸術家肌がすぎるあまり理想像と異なる完成品を見て憤死するのはさすがに脚色であるらしい。それでも、彼は伝記映画における解釈として「解釈違いで死ぬ男」の役を与えられた。そう、われわれはイメージで死ねてしまうのだ。1980年代にイメージの齟齬で死ねるのは偏屈な北欧の芸術家だけだったかもしれないが、最高に想像力と自意識の高まった2020年代には読者であるわたしたちも平等に死ぬことができる。廻天とは、その死に向かって進みゆくあなたがたの姿を、「惜し活応援映画」というおしきせをかぶせて、心より応援するものです。
 新凱旋門物語の話は以上です。





 天幕のジャードゥーガル。ジャードゥーガルについて話すなら「ドレゲネとは『Under the Rose』(船戸明里のやつ)のアンナである」、あるいは「ドレゲネとは『Under the Rose』のアンナではない」ということについて話すべきなのだが、三千行ほど書いたところであなたがたには微塵も通じないし、自分にとっても意味がないということに気づいた。気づくのは大事だ。
 歴史フィクションというのは歴史そのものではなく、そこにいた人間もまたキャラクターそのものではないのだが、人間にはキャラクターを通してしか人間を理解できないというバグがあり、わたしたちの大半はファーティマやドレゲネについて、『天幕のジャードゥーガル』を通してでしかイメージできない。『モンゴル帝国 草原のダイナミズムと女たち』(講談社現代新書, 2024)の著者、楊海英はさまざまな文献を通じてファーティマに萌え萌え*3になっているけれど、そういうのは稀だ。
 わたしたちのイメージする坂本龍馬はだいたいのところ司馬遼太郎にさかのぼれてしまい、というかそれ以外のソースを持てない。
 それは罪なのだろうか? 罪になる場合もあるだろう。『開戦前夜』の國村隼人の役みたいに。だが、そもそも史料というものがほとんど残っておらず、そういうものでさえバイアスがふんだんにまぶされている。
 そうした存在したのに証せない領域で眠っている800年前の人間を、エッセイマンガや近現代史もので描かれるようにして描いてくのはおそらくむずかしくて、結局のところ『天幕のジャードゥーガル』以外のなんの本を読んでもジャードゥーガル以外のファーティマには近づけない。それでも、実在したファーティマのかけらがあると読者は信じて読む。読書とはそのような救いがたい行為で、アニメを観ることもそうだし、映画を観ることだってそうだ。トマトスープ先生やアニメ版スタッフがなにがしかの解釈をひねりだして、ぶつけてきた以上、わたしたちもなにがしか応答する必要がある。ゲームをやらねばならなくなる。
 そういえば、『Under the Rose』もキャラクターの解釈の齟齬についての物語だった。
 ジャードゥーガルの話は以上です。


 まどマギの話は以上です。


 この夏に観た映画の話は以上です。


 ご清聴ありがとうございました。




*1:とはいえよくいわれるように、大半はCGであり、実写版『モアナ』はそのうえ航海シーンをグリーンバックで撮っていることをほとんど糊塗しようとしていなかったが。

*2:もちろん、細かい違いを並べればキリがなくて、その意味では完全にヴァン・サント版『サイコ』ではない。

*3:「萌え」とは化石と化したワードだが、いまだに世界では「萌え萌え」という形容でしか言い表せない他人の状態がある