名馬であれば馬のうち

読書、映画、ゲーム、その他。


読書、映画、その他。


夢と魔法の王国への旅2023 告知エディション



上方の ぜいろく共が やって来て 東京などと 江戸をなしけり


(落首)
上野観光連盟|上野の歴史−4


 暑い日がつづきます。黄昏の世界です。しかし、あまりにも激しく燃え上がり、あまりにも詩的なので、あたかも新しい夜明けのようです。*1

 あまりにダルいので生活の維持をさぼって梅小路公園の水族館で飼われ(うお) たちにまぎれ餌などかすめとっておりますと、電話がかかってきて、「ディズニーランドば、ゆくぞ」と告げられます。姉の声です。

「ディズニーランドとは、どこですか」

「東京。遠かか?」


 わたしだって、かつて右京(にしのきょう) は北野の天神さまに寓した山椒魚(うお) です。左京(ひがしのきょう) はたしかに川を隔てた異境ではありますが、出町柳くらいまでなら今でも稀に参りますし、遠いとはおもいません。田舎に住む姉は、都会の地理感覚にうといのでしょう。

 わたしは「東京? くらい、伏見稲荷からだろうが石清水八幡宮からだろうがおけいはんなら一本だわ」と啖呵を切って水槽から飛びだしました。精確には京阪は出町柳までしか至らないので、その先はおぼつきません。しかし、そこは狭い京都のこと、なんとかなるだろうと楽観しておりました。ほら、『たまこラブストーリー』でも出町柳から東京へ行っていたではありませんか。

 そうしてペタペタ出町柳の駅で駅員さんにディズニーランドの所在を訊ねますと、「あー、だったら京都駅で新幹線の切符買ったほうが早いですねえ」などといわれ面食らいます。水族館から出町柳に来て出町柳から京都駅となると、ほとんど出戻りです。なんだか理不尽ですが、公共交通機関の時空間とは複雑怪奇なもの。あきらめて新幹線の切符を買います。

 ゆったりとしているようなしてないような座席に座し、発車を待っておりますと、車内放送のアナウンスがたおやかな声でこう申します。《東京駅への到着は〇〇時△△分……》。

 二時間後? たかだか市内を左から右へ移動するのに二時間もかかる? 嵯峨野線の鈍行より遅いのでは?

 わたしは鉄道には詳しくないのですが、この新幹線というのは奈良辺りに設置されたブラックホールを利用して動くに違いありません。おそらくスイングバイを利用して遠隔地にすばやく到達しようと意図された設計なのでしょうが、今回のような近場だと十分な位置エネルギーを得られず、単にかぎりなく移動速度を低下させるだけなのでしょう。そうでもないと説明がつきません。二時間ですよ。二時間あったらなにができますか……ちょっと寝てごきげんななめに起きるとか……。

 わたしは通りがかった乗員に不安を訴えます。二時間ですよ。

「二時間ですね」と乗員は相づちをうち、押していたカートからアイスクリームのカップのようなものを取り出します。ような、というか、アイスクリームのカップです。そのものです。白いパッケージに「ずんだ味」と表記されています。

霜がついてますが



「召しそうらへ」

 甘いものでも食べておちつけ、ということでしょうか。欺瞞を感じます。元国営企業だけあって、クレームのかわしかたに横着な傲慢さがある。しかし、ずんだは好きです。わたしはカップを受けとって、スプーンで薄緑色の誘惑を掬おうとしました。

 が、掬えません。硬いのです。岩のように硬い。天満宮の牛みたいに硬い。スプーンをつきたてると、カツーンと軽快な音を発して跳ねかえします。カツーン、カツーン、と。

 ふと、周囲を見渡すと他の乗客もカツーンカツーンやっている。みなアイスを凝視し、ひたすら彫刻に掘るように腕をふるっています。そんなにアイスを食べたいか。

 わたしも食べたい。通れッ! と念じながらスプーンでアイスを掘ろうとしますが、何度挑んでもカツーンカツーンいうだけで表面に傷ひとつつかない。ほんとうにアイスなのでしょうか。オリハルコンヒヒイロカネでできているのではないでしょうか。逆にこれだけつきたたても壊れないプラスティックスプーンのほうも異常なのではという気もしてきます。

 そのような不毛な作業と思考に没頭しているうち、いつしか時間の感覚がなくなり、気がつけば、東京駅への到着を告げるアナウンスを聞いています。しぶしぶカップを持って降車しようとすると、駅員から「すいませんがそれは車外に持ち出し禁止なんで……」と放棄を強いられます。禁止の理由が法的なものなのか科学的なものなのか呪術的なものなのかはわかりませんが、そういうものらしいです。せめて、舐めておけばよかった、といまさらながら悔やまれます。

 日本には「絵に描いた餅」という慣用句があり、意味は「食べられない食べものを見ると異常に腹が減る」。Youtube などでバーベキューや中華料理店のキッチンの動画を観るときによく使われます。

 そんな気持ちで、そんな空腹感で、東京駅をふらつき、スシの店を見つけたので入ります。ツナのにぎりが三貫、供されます。本物のツナ? と疑い半分で口に入れると、たしかに生のツナの味です。いやしかし、こんな内陸に本物のツナが入荷されるはずもないし、おそらくいつも食べているようなソイフィッシュなのでしょう。

 腹をくちくして駅構内を見渡すと、なんだか、どうも、違和感がめばえます。

 ヒトが多い。祇園祭はつい先日終わったというのに、この東京駅はヒトでいっぱいです。多すぎて、というか、密度が濃すぎて、酔うほどに。

 それになんというか……京都っぽくないのです。

 往くヒト来るヒトみんなスポンジケーキにバナナクリームを詰めたような匂いを発している。心が冷たそう。そばとか喰ってそう。どんな一見さんもおいしいぶぶ漬けでもてなす京都のあたたかみとは百八十度違います。まあ、洛外であるというだけでも剣呑な土地でありますし、出町柳のさらに遠方なら、天外魔境も同然。なるほど、あずまえびすとはこうした御面相でありますか。ハハア。

 いかつい東京人たちのあいだを怯えながら進みつつ、姉から指示されたとおりに形容線を目指します。形容線は読んで字のごとく、というべきか、その名に反して、というべきか、ともかくなんとも形容しがたいかたちをしております。

 しかも長い。形容線に入ってから、電車に乗るまで、無限に歩かされます。歩かされるだけならまだしも、降らされもします。黄泉までつづくような降りエスカレータに三回も乗る必要があり、降っていくあいだ、ずっと亡者たちの阿鼻叫喚と獄卒たちの高笑いを聞かされます。鉄の象がパオーンと鳴いてなにかを踏み潰しているのも見た気がします。ヒトを魂魄まで灼きつくす青白い炎も見た気がします。ここもブラックホールに近いのでしょうか。

 まあ、なにはともあれ、電車に乗ってさえしまえば、今度はすぐです。ディズニーランドです。






 マイク・ハマー駅に到着し、入国審査を通過すると、姉が出迎えてくれました。約束の待ち合わせ時間から少々わたしが遅れたせいか、しびれをきらして駅にいたものを二三呑みこんで銀の卵を産みそこから混沌(カオス) 天空(エーテル) を生じさせたりしていたようでした。しかしそれですっきりしたのか、おもったよりもご機嫌です。全長十六メートルの万古不易の大蛇ともなると、気の持ちようも違ってくるのでしょう。

「あいが見ゆるがか」

 姉はしっぽでディズニーランドの中心、名にしおうシンデレラ城を示します。

「あン城ば() る」

 これだから九州人は。鬼石曼子(グイシーマン) だけじゃない。大友、立花、龍造寺、鍋島、秋月、阿蘇、松浦、それに加藤や細川。たいがいどこも野蛮です。蛮族です。城や国と見ると、奪うことしか考えません。

 事前に姉から渡されたスマホアプリには、ディズニーランドの地図が載っています。それによれば、天下の堅城です。円形の領域の中心にあるのはシンデレラ城、そこから放射状に道が延び、八方に廓を成しています。まずこれらを落とさないことにはランドの攻略など不可能です。日没までに終わるのでしょうか……?

 そういえば、わたしは聞いたことがあります。ディズニーランドにはファストパスなる制度があるらしい。早朝に早駆けしてチケットを穫れば、優先的にライドに乗れる券がもらえると。しかし、わたしたちが集った時点で、開園してからそこそこ時間が経っています。これでは、ファストパスとやらは売り切れてしまっているのではないのでしょうか。

「今はファストパスなどなか」

「え? ない?」

「時間指定制の優先パスは発行されとる。だが、朝駆けなんぞせからしい」

「じゃあ、どうやって優先パスの割当てを決めるんですか? 完全なる抽選?」

 姉はしゅるると舌を伸ばして微笑みました。

「カネじゃ。厳正に公正じゃなかね」

 姉はカネに糸目をつけませんでした。購入した優先パスで、ベイマックスに会いに行きます。

ベベイ



 ベイマックストゥモローランド・エリアに出没する大きくて白いぶよぶよした物体です。ロボットらしいです。エリア一帯は自動販売機から売店のグッズに至るまでこの白いまんじゅうの意匠にあふれ、ときおり街宣車のような車がのろのろ走りながら「わたしはベイマックス、あなたの心と身体の安全を守ります」と繰り返し呼びかけています。とてもディストピアっぽいです。監獄が誕生して以来、権力はこのような仕方でわたしたちを抑圧しようとするのですね。

 当のベイマックスに会うためには150分ほど並ばないといけないのですが、姉はカネにあかせた優先チケットを持っているのでわたしともども優先されます。あやしげな未来的施設に案内されると、なかではベイマックスがたくさんいて、背中にヒトを乗せビュンビュン飛ばしています。ベイマックスはひとりではなかったのです!

 多量の視覚的ベイマックスを浴びたベイマックス大好きな姉は大盛り上がりです。

「うはー、すごかー。ほら、見んね。ベイマックスにもベイマックスが乗っとる」

 姉がいっているのはベイマックスに乗ったベイマックスによく似たスキンヘッドにサングラスのおじさんでした。死ぬほど愉しくなさそうな様子で、二人用のベイマックスの座席でひとりクタッとうなだれています。心も身体もやや危険な状態にありそうです。

「ほら、ベイマックスベイマックスべべべのベイベイマックス。ブハハハ」

 姉はウケまくりながら、見知らぬ男性の写真を勝手に撮っています。倫理というものがないのでしょうか。ないのですね。九州には。

 ところがです。ベイマックスに乗ったおじさんの表情は飛んでるうちにだんだんと晴れやかになっていき、地上に降り立つころには幸福値が二百を超えていました。これには姉もわたしもびっくりです。

 自分たちで乗ってみると、なるほど理解できました。座席は心地がよく、なんだかいいにおいが漂い、ベイマックスのあたたかい声が常時語りかけてきます。これはハッピーになってしまいますね。幸せハッピースパイラルにやられてしまった姉は、ライドが終わるころには完全に弛緩して「これ……よさぬか……ベイマックス」などと気持ちよさそうなうわごとを発しておりましたとも。

 すっかりハッピーになった姉は調子に乗って、いきなり大将首を狙いにいきます。


 ミッキーマウスです。


 トゥーンタウンなる住宅街にあるミッキーの家まで押しかけます。

「おらーいれろー」

 姉は暴力的に戸を叩きます。ヒカキンの新居に押しかける厄介キッズのようです。いやキッズとて、ここまでアグレッシブではないでしょう。もちろん、中からの応答はナッシング。まあ、だれだって全長十六メートルで自在に火を吹く大蛇が自分の家の前にいたらビビります。

 ここは出直したほうが……と忠告する間もなく、姉は「たたきつける(いりょく:80)」でミッキーの家の扉をぶち破りました。ずんずか踏み入っていく姉を引き留める力もないわたしは姉のしっぽをおいかけます。

 入ってみるとふつうっぽい家です。なんの変哲もありません。玄関に貼られたミッキーとウォルト・ディズニーの写真の前をすぎると、書斎があり、本があり、キッチンがあり、机があり……と、机になにかメモのようなものが留められています。チェックリストです。自分を研鑽するための毎日の日課が書かれていました。おなじことをやっていた人物をわたしは知っていました。『グレート・ギャツビー』のギャツビーです。なにやら不穏な暗合な気がします。

 家さがししても主の姿はありません。国際的スターでありますし、多忙ゆえ不在なのでは……と姉に進言しようとしましたが、姉はずかずかと裏庭に侵入します。死体でも掘り起こすのでしょうか。

 庭もまたふつうです。家庭菜園といった趣の畑にはニンジンなどが植えられており、愉快げな効果音に合わせて出たりひっこんだりしています。やや普通でないのは、納屋でしょうか。納屋自体はアメリカ人の家には標準装備なのでしょうが、ミッキーの納屋は家のサイズに対してややデカい。郊外のモダーンなおうちには不釣り合いです。どうもこれは……

 おや? どこからか声が聴こえます。



ウォルト・ディズニーは幼少期を過ごした農村について終生、強い郷愁を抱いていた
 ここは庭ではない。家の内部(﹅ ﹅) に村があるのだ。心のなかにある原風景だ。だから、このなかには



 チェストー。


 と。

 姉が納屋の扉に「たいあたり(いりょく:40)」をくらわすと、牛や農業用具ではなく映画セットが出てきました。壁にかけられたスクリーンではミッキー主演映画の予告編が流されています。

 そして、さらにその奥には。

 いました。ミッキーマウスです。異教的であやしげな衣装に身を包んだ信者?らしきひとびとに愛想をふりまいて記念撮影しています。

 姉はわたしの背中を叩きました。

「さ、いきんしゃい」

 え?

「一番槍じゃ。大将首じゃ。誉れぞ。骨は拾っちゃる」

 ええ~~~~?

 これが止まっている車を見たらヤクザの死体が入っているとおもわなければならない国からやってきた蛇です。いうことが違います。しかし、ここは果てといえど、京都です。法があり、仕来りがあります。そして、みな理性を持っています。めったなことでは他人を殺してはならないのです。他人っていうか、ネズミだけど。

 わたしがひとしきりいやいやしていると、姉は、がんにゃあね、とつぶやき、わたしの腹にしっぽを巻きつけました。あっ、(ひや) い、と感じた次の瞬間には、身体が浮いていました。どうやらミッキーに対して投げつけられたようです。


 こんなの誉れじゃない〜〜〜。



 そのあとのことはよく憶えてません。
 



 べべイのベイ、という謎の声に起こされました。

 目覚めると、視界をぶよぶよした例の巨大なボデーが占めています。

 どうやら、通りがかりのベイマックスに介抱されたようです。よくみたら、ベイマックスのアトラクションで姉に写真を撮られまくっていたサングラスのおじさんでした。

「ちゃんと水分補給はこまめねに。この暑さなんだから」

 親切なおじさんだったようです。みなさんも熱中症対策は怠らないにしましょう(注意喚起)。

 そんなこんなで、いつのまにか、トゥーンタウンからトゥモローランドへ戻されていたようです。

 姉はといえば、わたしの隣で傷だらけの身体をペロペロと舐めていました。バチボコに負けたようです。わたしが起きたと気づくと、彼女はおちゃめに笑いかけてきました。

「やっぱ、中央(ヤマト) の王とホームグラウンドでやりあうのは分が悪か。出直しじゃ」

 鱗一枚も懲りていません。戦闘民族です。九州の北の方でもこれなのですから、日向とか薩摩とかどうなっているんでしょう。Vampire Survivor みたいな状況でしょうか。たぶん。

 日は暮れかけて、刺すようだった日射しもいくらか柔らかくなって、祭りが始まります。ランドの大通りをディズニー作品を象った山鉾が練り歩き、沿道の有象無象たちも拍手喝采。姉によれば、山鉾は毎日出てくるらしく、つまりここでは毎日が祇園祭ってコトでしょうか。ずいぶん愉快な京都もあったものだと感心するのですが、しかし、まあそれなりに気合いの入った鉾ばかりなので、毎日でも晒したいというのも令和らしい人情なのかもしれません。

「ベベイ」

 おっ、ベイマックスだ。

ベベイのベイ



 デカッ。 

【ベイ鉾 BAY HOKO (東京ディズニーランドワールドバザール上ル)】
ベイマックスは古来より宇迦之御魂神と縁があり、医療と統治の神として崇められていた。そのベイマックスを祀っていたのでこの名がある。山を飾るベイマックス御神体(人形)はネコを抱いた姿で、ラセター9年(2014年)穴亭曇衛門と羽入空理秀太郎との共作。前懸・見送ともにサンフランシストーキョーという架空の都市を象っている。作者は不明だが、アメリカ美術工芸品商会のロバート・チルダン氏から1965年に購入したもの。
ベイ鉾 | 山鉾について | 公益財団法人祇園祭山鉾連合会より



 山鉾が終わると、それまで黒い板のような御札?を向けてさかんにベイ鉾を崇め奉っていたものどもがドッと押し寄せ、たちまちにベイマックスを解体し、その肉を火で炙ってパンに挟み、おいしそうなバーガーに仕立てます。神の肉を体内に取り込むことで神に近づくというわりと普遍的な儀式ですね。わたしにもひとつわけてくれました。

ベイバーガー


 東京の民はベイバーガーを食べればベイの声が聞こえるようになるといいます。そんな迷信を信じているとは田舎ものっぽくてかわいらしいですね。バーガーはバーガー。ただのファストフードです。こう、パクっと一口噛んでもぐもぐと咀嚼すれば、う〜ん、ジューシィな味わいが……

……として……だろう…………夏の…………



 ん? なにやらまた冒涜的(ブラスフェモス) な声が脳で……?



 ……私は〈イッツ・ア・スモール・ワールド〉に行った。近年*2リニューアルされて、出し物も一新されたと聞いたからだ。行くとたしかに小綺麗になっている。いまとなっては以前のヴァージョンの詳細を憶えていないのだが、〈イッツ・ア・スモール・ワールド〉オリジナルのメアリー・ブレアのコンセプトアートにさらに寄せた印象のキューエリアになっている、気がする。
 〈イッツ・ア・スモール・ワールド〉はもともと1964年のニューヨーク世界博のために作られたアトラクションだった。世界博終了後にすでにあったアナハイムのディズニーランドへまるごと移設された。エスケイプ・フロム・トゥモロー』(ランディ・ムーア監督)を引き合いに出すまでもなく、〈イッツ・ア・スモール・ワールド〉は隠微な不安をゲストに与える。その感覚は正しい。〈イッツ・ア・スモール・ワールド〉はもとをたどればダークライドと呼ばれるジャンルのアトラクションだ。十九世紀後半に生まれた最も初期のダークライドは水の流れる人工的な運河にボートを浮かべ、くらがりを進んだ。客の多くはカップルであり、ダークライドの提供する暗闇が当時公共では許されなかったキスや情熱的な抱擁を交わす秘密の逢瀬の場となった。*3それをウォルト・ディズニーは脱臭して、子どもの人形で満たされた、清潔で平和な場に作り上げた。
 淫猥な出自を持つものを浄化すること。それ自体、倒錯的な行為だ。その倒錯が〈イッツ・ア・スモール・ワールド〉というアトラクションにある種の背徳感を付与した。
 そして、実際に改装後の舟に乗ってみると、さらなる倒錯が行われているのだと知る。あたらしい人形が大量に追加されているのだ。その人形はいずれもディズニー/ピクサーの映画のキャラクターたちだ。圧倒的な経験だったといいたい。わたしはなにか大きくて悍ましいものに圧倒されてしまった。
 その感覚を振り払うために、わたしは〈魅惑のチキルーム〉へ向かった。ディズニーランドを訪れたときはいつでもわたしのオアシスになってくれるアトラクションだ。2008年に二度目のリニューアルを行って以降はあの名曲「魅惑のチキルーム」を聴けなくなってしまったが、それでも心穏やかでいられる楽園でありつづけている。
 わたしは二度目のリニューアルから登場するようになった『リロ&スティッチ』のスティッチの存在をこれまで特に気にかけたことはなかった。だが、〈イッツ・ア・スモール・ワールド〉の直後だと、妙にスティッチのでしゃばりさがひっかかった。別にスティッチ自体が不快なわけではない。不快感というより不安に近い。不安というより不安定さ。「これ」はなんだろう?
 気づいた。ディズニーランドはディズニーキャラによって征服されつつある。それまでディズニーランドの内部にあって、ディズニーの手から逃れつづけてきたものたち。かれらもまたディズニーキャラクターと化しつつある。なぜならディズニーランドにおいて最も売れるのは「ディズニーキャラクター」であるから。それは「ディズニー/ピクサー映画のキャラクターたちによってランドが占有される」という単純な話ではない。
 一例が、誕生以来日本で急速にプレゼンスを高めているクマのダッフィーとその徒党だ。ほとんど無からしたたりおちて生じた彼らは日本渡来以降、プー、ハンフリー、カントリーベアーズ、リトル・ジョン、バルー、ブレア・ベア、キナイ、コーダといった並み居るディズニーのクマの先輩たちを押しのけ不動の人気を確立し、年々「仲間」を増やしていった。日本では権利料の関係か、クラリスチップとデール)やマリー(おしゃれキャット)といったマイナーキャラをプッシュする傾向にあったが、ダッフィーは一味違う。『原典』となる作品を持たない。ただただ純粋な「ディズニーキャラクター」なのだ。そんなかれらがディズニーランドでは一大勢力を築いている。シーに至っては独自のショウや家屋まで持っている。販売可能なキャラクターとして、浦安の地に栄えている。
 ディズニーランドですらディズニーから逃げられないのではないか。このアイデアは私に戦慄を与えた。社会学の用語に「ディズニフィケーション」ということばがあるが、今この語が意味するべきはここに広がっている状況なのではなかろうか。ウロボロスの蛇のように自らを食らいつづけて、なお肥え太る。この怪物に今すぐ名をつけるべきではないのか。。
 ディズニーそのものがディズニーから逃れられないのであれば、より無力な私たちはなにをいわんや。「戦争」が起きているハリウッドに目を向ければ、それはすでに完遂されてしまっているようにも見える。私たちは消費者としてもはや目的ですらない。ただの養分だ。喰われるのを哀れに待つだけの。
 エ〜ッ。
 味噌漬けにしてあげる。



「途中から、ちいかわ朗読してなかった?」



 エ〜ッ?



「ディズニー・シーはたしかにダッフィー多いけど、アトラクションはキャラクターに頼ってないの多いとおもうんだけど……」



 そうね。



「あんた、だれン話しとるとね?」

 姉が絡んできました。

「だれって……神?」

「ああ、たまにあっちゃね」

 わかってくれたようです。

 暗くなったから帰ろう、と姉は告げました。姉は日本の蛇なので夜にはよわいのです。

 でも、ちょっとまって。わたしには寄りたい場所があります。


 


 夜のワールドバザールが昔から好きです。別れを予感させるさびしげな佇まいが。やさしく見送ってくれる仄かな灯りたちが。

 そのアーケードの一角、キャンディ屋とおもちゃ屋にはさまれた狭いスペースに、わたしのノスタルジーをもっとも掻き立てるお店があります。

ペニー・アーケード内部の様子。どんな遊具があるのかまったくわかりませんね。



 ペニー・アーケードです。今風にいえばゲームセンターでしょうか。ただし、二条のサードプラネットや河原町ラウンドワンのようなピコピコのゲームセンターではありません(ピコピコのも昔はあった気がします*4)。野球盤やピンポール、占い人形などの古めかしいゲームを揃えたキュートな遊び場です。稚魚のころのわたしはなぜかここで遊ぶのが好きでした*5

 一プレイ10円や30円の、他愛もないといえば他愛のないゲームばかりですが、この空間こそディズニーランドのひとつのテーマでもある「グッド-オールドなアメリカへのあこがれ」をもっとも能く体現していて、ディズニーランドにはない「雑駁と汚れた場所」でもあり、ひとたび銅貨をマシンに入れてピンポールを跳ねれば、わたしは1910年代のアメリカン・ボーイに……

 あれ? ピンポールマシンなくない?

 昔はあったよね? 撤去したのか? いや、記憶違い???

 というか……店内の遊具の半分くらいが動かないんですけど……

こんなかんじでコイン投入口がふさがれまくっている


 
 こんな……こんなはずでは………夢じゃ、これは夢にござる…………



 ベベイのベイ。

 帰り際、姉は福砂屋のカステラを持たせくれました。おしゃれなキュービックの箱に包まれた小分けパッケージで、なんともしゃらくさいですが、福砂屋のカステラは美味です。抗えません。このような偽物のノスタルジーではなく、ふるさとのおかしを食べて本物の思い出に浸れという姉からのプルースト的なメッセージだったのかもしれません。

 しかし、カステラは美味いだけで、特に記憶が喚起されたりはしません。八つ橋を食べて懐かしい気持ちになる京都人がいるか? いるかもしれない。京都人ってふだん何食ってんだろ……湯葉とか?

 

 帰りも新幹線です。京都駅に着きますと、入国審査にかけられます。ディズニーランドで出入国審査があるのはわかりますが、東京駅から京都駅までなら京都市内を行き来したです。なぜこのように尋問を受けるのでしょう。

「おまえ、京都住んでるの? ほんとに?」

 京都駅の入国審査官は例外なく横柄です。人の心がない。特に山椒魚に対しては。教習で『Papers, Please!』をやらなかったんでしょうか。

「なんか証拠ある? 京都民だっていうのの」

 わたしは口のなかから一冊の文庫本を取り出しました。

「これは京都にゆかりのある作家を集めたアンソロジー京都小説集です。ここに作品が載っています。京都があったりなかったりするような話を書きました。8月20日京都市内の書店で先行して発売されましたが、8月31日からネット書店を含めた各地の書店でも入手可能になります*6。これは身分証明になりませんか?」

「うーん」

「あとこれ」



「『SFマガジン』じゃん」

「8月25日発売の『SFマガジン 2023年10月号』の特集「SFをつくる新しい力」でSF入門向けの小説を二冊ほど紹介しています」

「ふーん。でもこれ京都関係なくない?」



「あと、9月10日の大阪文学フリマ声をテーマにした百合小説のアンソロジーに書いています。同じスペースで百合の泰斗・織戸久貴による怒涛のヒドゥンジェム的百合短篇レビュー本『百合小説アーカイヴ』も出ますからそちらもオススメ」

「百合」

「わたしのは豚の話です」

「百合?」



「あと、同じ大阪文フリで💖鴨川エッチ研究会💖というサークルから出るケモのアンソロジーにも小説を寄稿しています*7ウォルト・ディズニーがクマだったみたいな話です」

「エッチなんですか」

「わたしのはディズニーランドのように清らかで全年齢向けです」



「あとまだ告知されてないんで詳しくいえないけど、9月中ももう一個出る同人誌があって、そこにチップとデールについてのエッセイ?評論?が載ります」

「めっちゃがんばってるね」

「がんばってるんですよ。この記事も告知のためにがんばって書きました。あまりにがんばりすぎたので今日はかっぱ巻みっつしか胃にいれてません」

「感動したッ!」



 入国審査官はポンッとゲートを通してくれました。

 がんばっていれば、いいことあるんです。努力はかならず報われ、英語は勉強したぶんだけTOEICの点数に反映される。

 よかったね。

 めでたしめでたし……。



「しかし、わざわざ関東までなにしに行ってたのかね? 観光か?」

 審査官はおもしろいことをいいます。

 関東?

 あはは、ご冗談を。

 だって、あなた、あんな山奥に住んでいるのはタヌキかネズミくらいのものですよ。



*1:ギー・ドゥポール、土屋進訳:ポール・ヴィリリオ『黄昏の夜明け:光速度社会の両義的現実と人類史の「今」』序文

*2:調べてみると改装は2018年。けっこう前だ。18年以降にもディズニーランドを訪れたおぼえはあるのだけれど、そのときは友人と特にライドやショウなどに寄らず園内をうろつき回ることが主目的だったので、乗らなかった。

*3:高橋ヨシキ『暗黒ディズニー入門』

*4:トゥモローランド内に存在し、2015年ごろに閉鎖された「スターケード

*5:いままでは初めてディズニーランドに来たみたいなふうだったくせにここで唐突に設定が変わっている

*6:姉妹編として『大阪SFアンソロジー』というのもある。セットでどうぞ。大阪SFアンソロジー:OSAKA2045

*7:主催のツイート:https://twitter.com/violence_ruin/status/1690245350668546048?s=20

小惑星の魔女は鬼道占師――The Cosmic Wheel Sisterhood について



おのれの能力を越えて上昇しようとするような輩に用心しよう。死を免れない人間に否定されたるものごとを探し求める者たちに。


――ジェフリー・ホイットニー『エムブレム選集』





store.steampowered.com


The Cosmic Wheel Sisterhood はタイトルを裏切らないゲームです。宇宙の話をやり、回転する輪の話をやり、シスターフッドの話をやる。そして、タイトル以上でもある。ゲームについての話もやるゲームなのですから。


独り身でも魔女


チュートリアル終わりに入るオープニングアニメ。演出にあきらかにセーラームーン魔法少女ものの影響が見て取れて興味深い。



主人公のフォルトゥーナは魔女です。
あるとき、得意とするタロット占いによって自身の属するコヴン(魔女団)の崩壊を予言したために、リーダーから魔力とタロットを奪われた上、辺境の小惑星へ1000年の島流しに処されてしまいます。200年ほど経ったころ、底なしの孤独に耐えきれなくなった彼女は魔女の掟を*1破り、封印されしベヒモス・エイブラマーを召喚する。
エイブラマーはフォルトゥーナにこんな提案を行います。新しいタロットを作るのだ、昔の出来合いのタロットではない、自分だけのタロットを……。

呼び出すなり幽閉年数でマウントをとってくるベヒモス



ゲームは基本的にアイソメトリック視点で表示されるフォルトゥーナの家で進行していきます。この二階建ての手狭な家で禁足を強いられているフォルトゥーナはエイブラマーと問答したり、タロットカードを制作したり、ときおりやってくる訪問者を迎えたりします。訪問者とはつまり他の魔女たちのことです。彼女たちは宇宙を自由に飛び回り、自らの道を探求しています。
本作における魔女とは、元は人間だったものたちが「昇醒(ascend)」というプロセスを経て不老長寿と自由を手に入れた姿です。それぞれ出身年代や出身惑星が異なるものの、魔女であるという一点においてなんとなく緩やかに通じ合っています。
この魔女たちの対話が愉しい。すべての魔女には信念と希求する目的(学究や芸術など)があり、厄介な個性があり、奇天烈な見た目があり、それらがゆえに主人公と対立することもありますが、それでもどの魔女とも(最大の敵であるはずのコヴンの長とすら)どこかでつながっている感覚がある。人と人との関わりを描くのがADVの醍醐味のひとつですが、深いところでこのような感覚をもたらしてくれるゲームはなかなかありません。
魔女たちとの交流を通じ、フォルトゥーナは宇宙の運命へと関わっていくことになっていきます。重要になってくるのはもちろん、彼女のタロット占いの能力です。彼女は他の魔女や自分自身の運命をタロットによって占い、それが物語の行く末に重大な影響を及ぼしていくのです。

質問に対してタロットがいくつかの選択肢を提示してくれる。どんな選択肢が生じるかはカードにより、どの選択肢を選ぶかはプレイヤーによる。


と、まあ、ゲーム本編まわりのことは某ゲーム販売プラットフォームのレビューでも書いたので、なんかもういいかなという感じがする。詳しいゲーム内容などが気になった方は、今はインターネットというものもありますし、各種ゲームサイトの紹介記事や youtube での序盤のプレイ動画などを見るとよろしいでしょう。この記事では魔女とタロットとゲームの話をします。


個人的なフェイバリット魔女のひとり、ウンヌさん。こう見えてかなりヤベーやつです。


魔女とタロット

魔女とタロット占いは、実はもともとさほど深い関係にありませんでした。
原型となる図像入りのカードは十五世紀くらいからあったらしいのですが、当時はゲームや賭け事の道具であって、占いには使われていなかった。そういうものに啓蒙時代*2以降、長い時間をかけて色んな人がよってたかって古代エジプトの神秘やらユダヤ教カバラやらオカルトやらでゴテゴテ装飾して意味づけしていった末、黄金の夜明け団という魔術結社出身の人らが20世紀初頭に現在のタロットの原型を作った*3
いっぽう、魔女というのがヨーロッパ的に政治的に盛り上がったのは15世紀から17世紀にかけてでした。魔女狩りですね。つまり、タロットが本格化を初める以前の存在だったわけです。もちろん、中近世の魔女も占いはやっていたわけですが*4、タロットを使っていたという話は聞きません。
19世紀末にはタロットも魔女も、オカルティズムの魔術結社なんかを通じて接近する機会もあったはずですが、決定的には交錯しませんでした。
これらふたつがようやく合流するのは、20世紀に入ってから、1960-70年代のカウンターカルチャーの時代です。

気のおけない友人たちと浜辺でピザパーティをやっていた60年代



The Cosmic Wheel Sisterhood の主人公であるフォルトゥーナは1960年代に人間から魔女に「昇醒」したという設定です。人間時代はフォルクスワーゲンのヴァンで姉や友人と爆走し、半分ヒッピーみたいなノリで生きていたアメリカ人でした。そして、人間のときからタロット占いが得意だった。
この人物設定は「魔女とタロット」をやる上では、絶妙にクリティカルといえるでしょう。
まずタロット占いが大衆化されたのは60年代です。それまでは一部のディープなオカルト好きのものだったタロット占いでしたが、1960年にアメリカにおいて元女優のイーデン・グレイが煩わしい隠秘学の作法を薄めてわかりやすく実用と実践に徹した一般向けタロット占い本『Tarot Revealed』を出版し、タロット占いが一挙に大衆化します。フォルトゥーナもたぶんここからタロットにハマったのでしょう。
かたや魔女も60年代から70年代にかけてカウンターカルチャーの文脈で再解釈が行われます。1950年代に英国でジェラルド・ガードナーというオカルティストが『今日の魔女術』なるこちらもそれまでのややこしい隠秘学的な要素を排した実践的なウィッチクラフトの書を出版し、また自身のコヴンを組織することで現代的な文脈で魔女を復興します*5。その潮流が海を超えたアメリカで第二波フェミニズムと合流し、自らを魔女をとして再定義する女性たちのムーブメントへと発展していきます*6
これら二つの「大衆化」の流れにおいての共通のバックボーンとなったのがニューエイジ運動でした。モノ優先の資本主義社会に対するアンチテーゼとして精神世界を重視するニューエイジはそれ自体オカルティズムの文脈の混じったものです。いまここではないオルタナティブな象徴と繋がれるタロット占いはまさにうってつけのアイテムだったわけです。
ニューエイジ運動からエコ運動やスピリチュアリズムが拡大していったわけですが、この時期勃興したエコフェミニズムも家父長的な色彩の濃い現代文明へのカウンターとして女性と自然のつながりを象徴的に捉えることから始まった運動です。こうした文脈において魔女も自然と親しいエコな存在として再解釈されました。魔女狩りの時代において、魔女として告発されていたのはしばし、村落共同体からやや外れた場所で自分の庭や森林から植物を採取し、薬草やハーブとして他者の癒やしに用いていたアウトサイダーたちでした。

わりかし最近のゲームである The Excavation of Hob's Barrow というアドベンチャーゲームにも、上記のイメージ通りのコッテコテな「森に住む魔女めいたお婆さん」が出てきます。もちろん、あるクエストで薬草を調合するときに役立ってくれる。



現在でもフィクションで魔女的な人物がしばしガーデニングを趣味としているのもそうしたイメージです。『水星の魔女』でミオリネが自分だけの庭を持っていたりね。
The Cosmic Wheel Sister でもフォルトゥーナの親友としてジャスミンという魔女が登場します。彼女は自分の温室で植物を育てており、薬草からドラッグめいたものまでなんでもそろっています。

ジャスミン(左側の金髪)の温室。



タロットが占いの道具として取り込まれていった結果、占いを行うメジャーな主体である魔女とタロットも結び付けられて、その際にニューエイジ運動やネオペイガニズムが強力な触媒になって現在の「タロット占いを行う魔女」というなんとなくありそうなイメージに発展した、というところでしょうか。*7*8
共同体的なムーブメントとしての魔女は最近とみに盛り上がっている感もありますが*9、ともあれ、「魔女でタロット」をやるなら60年代のヒッピー以外ありえなかったわけです。

2000年から連載スタートしたジム・バレントの長寿アメリカン・コミック「Tarot: Witch of the Black Rose」。主人公の魔女タロットはその名の通り、タロットカードを介してスーパーな能力を発揮できるらしい。魔女・ミーツ・タロットなフィクションのひとつ。

ところで、意地でも魔女とタロットを結合させてやろうとする開発側の野望は、主人公の名前からも読み取れます。
フォルトゥーナとはタロットでいえば、10番のアルカナ「運命の輪」に関係する名前です。「運命の輪」のカードには運命を司る輪が描かれるわけですが、これはローマ神話のある女神の回している輪のことです。その女神の名がフォルトゥーナ。英語で「運命」を意味する Fortune の語源ともなっています。

「運命の輪」のタロットは本作でも”最強”のカード。どのように最強であるのかは実際にプレイしてたしかめてください。



これだけでも本作の主人公にふさわしい名であるとわかりますが、実は Wheel というモチーフは魔女的にも関係があります。
魔女を表す Witch の語源には諸説あるのですが、そのうちのひとつに「曲げる、回転させる」といった意味が含まれるものがあります。*10
つまりは、運命の輪を回す存在でありつつも、その運命を少し違った形に変える力を持った存在、それが魔女フォルトゥーナなのですね*11。まさに、The Cosmic Wheel Sisterhood。


ジャスミン氏。優しげな風貌であり実際優しいひとではあるけれど、根っこのところで意志が強く、敵に回すと厄介。



背景が練られているのはフォルトゥーナだけではありません。
さきほど言及したジャスミン1800年ごろの産業革命期の英国からやってきたという設定です。1800年ごろといえば、フランス革命を経てオランプ・ド・グージュ*12やメアリー・ウルストンクラーフト*13といった活動家たちがフランスの人権宣言やアメリカの独立宣言に女性が含まれていないことについて闘っていた時代。そうした抑圧的な時代で過ごしていたためか、ジャスミンは男性&地球不信であり、「自分たちの時代には選挙権もなかった」とフォルトゥーナたちに言い募ります。
ジャスミンは今いる魔女のコミュニティに強い繋がりを感じて固執しており、そのために友人たちと政治的に対立することにもなっていきます。
1800年ごろの英国は女性たちだけでなく、魔女にとっても受難の時代でした。1736年に制定された(アンチ)ウィッチクラフト法は魔術や魔女を禁止する法律で、なんと1951年まで続いたのです*14
ジャスミンは「お茶とガーデニング*15が大好き」という部分だけでなく、こうした背景からもまさに「英国の魔女」であることが刻印されているのです。

フォルトゥーナの親友その二のダリア。だいたい見た目通りの魔女。


ゲームについてのゲームとしての The Cosmic Wheel Sisterhood

このように The Cosmic Wheel Sisterhood はキャラクターひとつとっても練りに練られていることがおわかりいただけるかと思います。しかし、本作がマジなのは魔女とタロットに対してだけではありません。ゲームに対してもそうなのです。

(*注意:ここからはゲーム本編についての軽度から中度のネタバレを含みます)

フォルトゥーナは最初、「読む人」としてプレイヤーの前に提示されます。彼女はタロットから他者や自身の運勢を「読む」し、監禁生活の数少ない娯楽は読書です。
しかし、(ネタバレになるので詳しくはいいづらいのですが)ゲームの中盤で彼女は実はただの受動的な読み手ではなく、より能動的な物語の創り手であることが明かされます。


ゲーム内にはインタラクティブ・ブックというゲームブックのような軽いミニゲームがある。


ただ読んでいるだけかと思っていたら実は自分も物語の創造に参加している、その感覚はまさしくインタラクティブ・フィクションたるゲームにおけるプレイヤー自身の体験でもあります。
多くのゲーム、たとえばノベルゲームやテキスト主体のアドベンチャーゲームにおいてはキャラや世界の未来を選び取っていく感覚が多かれ少なかれついてくるものでしょう。
The Cosmic Wheel Sisterhood がとりわけすばらしいのは、そうしたプレイヤーによる創造の感覚が未来だけでなく過去へも向けられている点です。
筆者が感動したシーンにフォルトゥーナの師匠でるユーエニアとの会話があるのですが、そこでは窮極的にはリアルな過去も未来も持たない、ともすれば空虚な存在であるゲームキャラクターとのやりとりが、血肉をもった温かい親密さを帯びて立ち上がっていくのです。

鹿の姿をしている師匠



限られた選択肢ひとつで過去と未来と現在が生成消滅していく幸福な残酷さこそ、ゲームならではの快楽であると The Cosmic Wheel Sisterhood は気づかせてくれます。そして、そのような空間において、ゲームキャラクターたちと関係を取り結ぶというのがどういうことであるかも。





サントラ

参考文献

*1:「魔女は死刑にすべきである。殺人を犯したからではなく、悪魔と結託したがゆえ」 ジョージ・ギフォード『魔女と妖術に関する対話』

*2:フランス革命期のフランスでタロット的なカードを使った占いの目撃情報が出てくる

*3:ウェイト(監修者の名)版、ウェイト=スミス(アーティストの名前)版、ライダー(出版社の名前)版、あるいはライダー=ウェイト=スミス版と呼ばれるタロット

*4:キリスト教的には占いは異教の営みであり、悪魔の力を借りて行うものとされ、魔女狩りのさいにはたびたび処刑理由にあげられました

*5:こうしたかつてキリスト教によって葬られた異教やアニミズム復権しようとする運動はネオペイガニズム(新異教主義)ともいわれた

*6:68年には「W.I.T.C.H.」というフェミニスト団体がそのマニフェストのなかで「あなたは魔女だ」と謳い上げている。W.I.T.C.H. はその年に活動を終えるが、のちのフェミニズム神学や新魔女運動に大きな影響を与えた。磐樹炙弦 『ウィッチ・フェミニズム──現代魔女運動の系譜』 #01 序論「"私たちのフェミニズム"の耐えられない軽さ」 | DOZiNE

*7:ヨーロッパではタロット占いはロマの人々と結び付けられるイメージも強いですが、このへんはあんまり調べても出てこなかった。

*8:アメリカだと映画観てるとよく出てくる「占い師が電話をかけてくる相談者を占うテレビ番組」とかイメージに影響してそう

*9:日本で増殖する「現代魔女」たちの証言/オカルト探偵「女が怖い」|webムー 世界の謎と不思議のニュース&考察コラム

*10:「witch という語は賢さ(wise)、曲げること(to bend)、ねじること(to twist )、回すこと(to turn)、コントロールすること(to control)、変えること(to change)などに由来します。ウィッチクラフトとは、変革の術なのであり、テクノロジーの別の形なのです」Leliah Corby, "How to Form Your Own Coven," Green Egg, November 5, 1975

*11:ちなみにフォルトゥーナに関していえばゲーム開始時の行動からまさに「魔女」であることが示されています。渡良好一の『魔女幻想』によれば、16世紀後半のイングランドにおいては witch とは「悪魔や悪霊と契約したもの」を指しました。欽定英訳聖書におけるの「出エジプト記」の thou shalt not suffer a witch to live. (ウィッチを活かしておいてはならない)における「ウィッチ」もそうした用法です。ゲーム冒頭でベヒモスを呼び出すフォルトゥーナはまさにこの意味においても witch なのです

*12:フランスで革命期に憲法に女性の権利の擁護が盛り込まれていないことに不満を抱き、『女性の権利宣言』を著してギロチンにかけられた人物

*13:英国人。ルソーの女性蔑視を糾弾する『女性の権利の擁護』で男女平等を先駆的に訴えたものの、当時の言論界からは激しいバックラッシュを浴びた。『フランケンシュタイン』のメアリー・シェリーの母。

*14:魔女狩りが下火になりつつあった時代に魔女を禁止する法律をわざわざ新しく制定するというのは奇妙な気がしますが、魔術が下り坂だった時代だからこそ、超常的な存在や力を否定し、「詐欺師」として取り締まる意図があったのだそう。教会の権威への挑戦もあったのでしょう。そもそも「存在すら否定される」という形の差別だったわけです。そういったこともあってか、魔女狩りとは違って死刑にはならず、懲役は最長でも一年と軽めに定められていました。ちなみに1600年初頭にジェームズ一世治世下で定められた「悪魔呼び出し、魔女術、悪霊との取引を禁ずる法令」では悪魔を呼び出そうとしたものは「いかなる意図があったとしても、死刑」でした。

*15:ちなみに英国で王立園芸協会が発足したのもの1804年

コマったさんの台湾怪奇ミステリまんが――シャオナオナオ『守娘』

台湾のまんがってえいいますと、去年ビームコミックスから発売されて村上春樹岩井俊二はっぴいえんどゆらゆら帝国などをピュアッピュアの小細工抜きで投げてきて日本の腐りきったサブカルクソ野郎どもを浄め死滅させた豪速球文化系青春ラブストーリー『緑の歌』(緑の歌 - 収集群風 - 上 (ビームコミックス))が思い出され、ああ、あれは傑作だったな、などとなつかしくなるわけですが、わたし自身、詳しいかというとそんなでもない。

全国100万のサブカルクソ野郎どもを燃やし尽くしたといわれるノルウェイの森を貸す男。自分たちを村上春樹小説の登場人物に重ねているところがポイント高い。(高妍『緑の歌 - 収集群風 -』ビームコミックス)
世界100億のサブカルクソ野郎を一瞬にして蒸発させたといわれる殺人本棚(高妍『緑の歌 - 収集群風 -』ビームコミックス)


しかしそんなでもないそんなわたしをぶん殴ってくるおもしろ台湾マンガが、今年も海を渡ってやってきました。


シャオナオナオの『守娘』です。
レーベルは角川のMFコミックスComicWalker などの連載作が書籍化されるときのレーベルですが、近年は華文まんがもよく翻訳しています。



タイトルになっている「守娘」とは、台湾では有名な怪奇怨霊物語に出てくる主人公「陳守娘」のこと。本作に附されている解説によれば、「呂祖廟焼金」「林役姐」と並んで台湾三大伝説*1と呼ばれるお話のひとつです。ちなみにわたしは寡聞にしてこの台湾三大伝説をいままで知らなかったのですが、解説されているところでは三つとも女性が男性によってひどい目にあわされて怨霊と化すお話で、なんぼなんでもアンソロジーなら(アンソロジーではない)もうちょっとテイストばらけさせない!? と選者に対して感じます。しかし本邦でも幽霊譚といえば番町皿屋敷みたいに勝手な男にひどい目にあわされて祟る女の話と相場は決まっているので、そういうものなのかもしれません。

で、まんがのほうの『守娘』では、この幽霊譚としての「守娘」を下敷きにしながらオリジナルな伝奇ミステリが展開されます。

舞台は清朝末期の台湾*2。主人公は名士の娘である潔娘(ゲリョン)。女性を婚姻と出産のための道具としか見なしていない世の中にファックな不安を抱いていた彼女は、ある日、道端で亡くなった女性の霊を鎮める儀式を行っていた済度師(霊媒師のようなもの)の繡娘(シュウリョン)に出会い、押しかけ弟子のような立場になります。
ちょうどそのときから潔娘の周囲で不穏な不思議現象が発生しはじめ、さらには街を覆う陰謀にも巻きこまれていく……

とまあ、そういうノワリッシュな伝奇ものなのですが、上に説明したあらすじ以外にも要素や各キャラの秘されたサイドエピソードが山盛りでお出しされてきます。複数のプロットラインが同時並行的に動いて絡み合うので、物語を追おうとするとちょっとよみづらい部分があるかもしれません。
台湾の歴史文化と縁遠い日本の読者には、文化的背景の読解でさらに負担がかかるかもしれない。
ちなみに元ネタとなったほうの「陳守娘」のお話は作中であらすじを語ってくれるので、そこに関しては予習は不要。

それでもちゃんと読んでいくと、女性に対する抑圧の歴史に向き合った著者の真摯さが響くうつくしいお話に仕立てられております。



ところで、本作の特異で興味深い点は物語そのものとは別のところにあります。
まずはこちらをごらんください。

(シャオナオナオ『守娘』MFC


ページ下部の手前にいる女性が潔娘で、奥にいる背の高いほうが繡娘です。ある儀式を追えてただ去っていくだけの場面なのですが、コマの配置がどうも奇妙。
右のコマは手前の潔娘と重なって奥のレイヤーに位置しているようです。が、一方で左のほうのコマは繡娘の手前に来ている。もしかすると、左のほうのコマは潔娘よりも手前にきているのかもしれない。右のコマは潔娘と繡娘のあいだに挟まれていると見るのが妥当でしょうか。

何が言いたいかというと、コマの配置に奥行きが与えられており、その配置とキャラクターの配置とが同等に描かれているということ。これがこのページだけの表現にとどまらず、全編通して貫かれています。コマ同士が奥行きの軸に対してフラットに配置する通常の作法と比べると、かなりトリッキーです。

実際、ちょっと読みにくかったりするわけですが、作者はなにも酔狂でこんな細工をほどこしているわけではありません。
たとえば、こちら。

(シャオナオナオ『守娘』MFC

いっけんごっちゃりした絵面ですが、読むときの眼の運びに迷うことはないかとおもいます。
右上の始点からすぐ下のコマ、さらに下、そこから左上、下、吹き出しからつながって左、そこからそのセリフを発している女性の表情から左どなりのコマの吹き出し……。
そうした視線誘導が実現しているのは、ふきだしのつなぎもさることながら、コマ間の奥行きで高低差を出しているからです。ページ右側を読むときは手前(上)から奥(下)へ、ページ中央でいったん浮上して、左へ移ると一段下がり、左端でさらに一段下がります。
ついでにこの奥行きの高低差はセリフ外でキャラクターの心情を伝えるのにも貢献しています。
このシーンに至るまでのゆきさつを知らない読者(つまり、あなた)だったとしても、ページの左側で笑顔で「あなたの結婚式もその日にしましょう!」とはしゃいでいる少女と、左端でスン……となっている少女(潔娘)のあいだに感情的なすれ違いが生じているのは直感できることかとおもいます。
それは「潔娘がすぐに応答しない」「潔娘のコマの背景(心情の反映)が真っ黒」「ふたりの表情の描き方の違い」「片方はアップで片方はロングショット」というさまざまな技巧の組み合わせが作用しているおかげですが、そうした技巧のひとつに「ふたつのコマの高低差」も含まれます。ふたつのコマの間の”落差”がそのままふたりの感情の落差、そして地の底へと突き放されていくような潔娘の心の動きと同期しているのです。


本作の画的な奥行きは、あきらかにストーリーテリングとつながっているわけですね。

奥行きは本作独特のモノクロの濃ゆいコンストラスト抜きでは語れません。たとえば、これ。

(シャオナオナオ『守娘』MFC

ただでさえ不気味な暗闇が、さらにそのレイヤーの上にあるコマを置くことで途方もない底なしの穴を覗いているような気分にさせられます。不安を煽るホラー演出として手堅くも心憎い気の利かせかたです。

「穴」といえばこちらのページも別のアングル、そして別の意味で穴っぽい。

(シャオナオナオ『守娘』MFC

見開きの中央に穿たれた奇妙な台形のコマからひょいと顔を覗かせるようなショット。
このページだけでこの女性=繡娘のただものでなさが伝わってきます。実際、かなーりただものではない女です。


さて、ここまで見てきたページでもわかっていただけるとおもうのですが、『守娘』では「タテに細長いコマ」が多用されます。レイヤーも上に来ることが多く、べたべたと貼られた付箋みたいな感触を読み手に与えたりもします。最初は「縦読みマンガ由来?」かとも考えたのですが(ちょっと調べても元が縦読みだった形跡は確認できず)、おそらくこれも実はストーリーテリングと関係した手法かもしれません。
というのも本作では呪符と呼ばれるまじない用の御札が出てきます。ストーリーの核心に触れるので多くはいえませんが、「紙に書かれた願いや呪い」が本作では結構重要になってきます。
それを踏まえると、ここまで縦長コマが連打されるのも、本書そのものがひとつの呪術的な儀式であるから、といえるのかもしれません。


コマ単位での階層づけや変形ゴマによる立体的な演出や枠線を取り払った絵をレイヤーの最下層に置く手法そのものは、取り立ててレアではありません。
しかしここまで全編に明示的に取り入れつつ、さらにストーリーテリングやテーマとナチュラルに絡ませてくる完成度の高い作品は希少ではないでしょうか*3。絵自体も静謐でありつつもヴィヴィッドとにかく良し。
天と地の間には、まだまだおもしろいまんががいーっぱいあるね、ハム太郎



🥩 ……



ん、ハム太郎……?


いや、違う。おまえは……!!?


ヘケッ!

ラム太郎やんけ〜〜〜〜〜〜〜〜〜


<完>


MFCから出た台湾マンガで最近よかったやつ

*1:いずれも元ネタは劉家謀の『海音詩』

*2:17世紀後半から19世紀末にかけて台湾は清朝の統治下にあった

*3:だいたいは珍奇な演出であれば珍奇な演出であるほど見せ場にもってくるものですし