名馬であれば馬のうち

読書、映画、ゲーム、その他。


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2022年の新作まんがベスト10

 今日まだ誰も言ってないかもだから言っておくね、「きみはスペシャル」
 きみはまだ信じてないかもだから言っておくね、「きみはスペシャル」
   
 ーーLizzo「Special」




 
 2022年はまんがにとってなんの年だったか。これは一言で定義できます。
 お嬢さままんがの年です。『クロシオカレント』、『桔香ちゃんは悪役令嬢になりたい!』、『エセお嬢様VSガチお嬢様』、『徳川おてんば姫』、それらの新刊お嬢さま勢で最高のお嬢さままんがの座に輝いたのがーー。

【新作連載まんがベスト10】*1

1.天野実樹『ことり文書』(ハルタコミックス)

 良家のお嬢さまである鳳小鳥は、「深窓の令嬢」タイプとはほど遠い、アクティブで快活で天真爛漫な十三歳。執事兼教育係である白石はさまざまな騒動を引き起こす小鳥のおてんばに手をやきつつも、その成長を見守っていく……という典型的なハルタの日常系まんが。

 この世には純粋無垢な善き魂が存在し、わたしたちはなにに代えてもそれを守り抜かねばいかない。そうしないと、この世界が信じるに値しない地獄になってしまうから。
 これはそうしたまんがです。昨年の映画でいえば、沖田修一監督のさかなクン伝記映画『さかなのこ』のマインドに近いかもしれません。人の形をした世界の魂を、周囲のひとびとが傷つかぬように寄り添おうと頑張っていく話。とはいえ、あそこまでヘンテコなまんがでなく、ガワとしてはかわいらしい日常コメディです。
 表情が抜群にいいですね。小鳥は喜怒哀楽がはっきりしていて、泣いたり笑ったりコロコロ感情が変わっていきます。全体的に画風は「いかにもハルタ*2」ですが、小鳥のデザインは目がはっきり大きく、ときどき口が「3」になったりなんかもして、もともと少女まんがの影響の濃いハルタ系でもさらに九十年代に寄った印象があります。それでいて表情の動かし方は今風に洗練されていて、もうこういうの見るだけでうれしいですね。泣き顔の巧いまんがはそれだけでベストなんですよ。
 そうしたデフォルメの利いた、どこか懐かしい小鳥のデザインが、前述した「人の形をした純粋無垢な世界の魂」っぽさとつながっていて、そういうものがやさしく環境にくるまれているだけで涙が出てきます。

2.山口貴由『劇光仮面』(ビッグコミックススペシャル)

 帝都工業大学特撮美術研究会、通称特美研。特撮番組や映画の着ぐるみやミニチュアといった美術を扱う研究会だ。その部長だった切通昌則が29歳で死んだ。彼を弔うために元特美研メンバーたち、実相寺、真理、芹沢、中野の四人は実相寺の自宅マンションに集う。切通のある「遺言」を果たすために……という出だしから始まる物語。

衛府の七忍』という若先生ワールドの総決算的大傑作がああいう形で終わってしまい、日々灰色に嘆き暮らしていた我々のもとに届いた一冊の新刊。一抹の不安を抱きながらも読みだすと、それまでの涙はたちどころにピタリと止まり、新たな傑作の誕生を予感します。
 しかし、同時に沸いてくる感情がありました。その感情はやがて素朴なファンボーイ的歓びやひねた批評的アングルなどといった他の情動を覆い尽くしていき、全身を純一に染めあげていきます。
 恐怖です。
 畏れといってもいいかもしれない。
 だって、この不穏さはただごとではない。
 一見すると、なにも凶事は起きていません。一巻では切通の遺言を果たすためのある儀式と、大学時代の回想が交互に語られるだけです。そこでは誰も死なないし、爆発やバイオレンスも起きない。どこに話が転がるかも見当がつかない。
 しかしそれでも肌が感じ取っている。不可視の奥底で、確実にとんでもない何かが進行している。
 その不穏さの源となっているのが、実相寺二矢という主人公です。
 まあ名付けからしてとんでもない。「実相寺」という名字なのはハハア特撮ネタだしね、と特に驚きもないのですが、その名字につなげてくるのが「二矢(おとや)」。そう、浅沼稲次郎暗殺事件を起こした右翼少年、山口二矢です。この二つの名をつなげる時点で相当イカれている。
 実際、劇中の実相寺は人並から外れた静かな異常者として描かれます。ねじまがっているタイプの異常者ではなくて、あまりにもまっすぐすぎるタイプの異常者です。脂肪どころか筋肉すらも削るほど肉体を研ぎ澄まし、元特攻隊の老人から「きみはいつの時代の人間なんだ」とビビられ、「人間機雷(特攻兵)に選抜されるのはきみのような人間だ」と評される。そしてその心性を保ったまま29歳の現在まで生きている*3
 この特撮オタク版藤木源之助みたいな少年に山口貴由は何を託そうとしているのか?
 劇中で在りし日の切通の口や実相寺のモノローグを通じて、延々と語られる特撮美術論はなんのためのものなのか?
 静謐で強大な圧に押しつぶされそうになりながらもようよう二巻の終わりまで読み進めて、ようやくわかります。
 すべては「この世界」を信じさせるための儀式だったのだと。「特撮」や「ヒーロー」を子供だましの空想とバカにしている圧倒的大多数の読者の眼を開くための500ページだったのだと。
「『衛府』という山口貴由の本気の傑作が終わってしまった」? とんでもない。
 この先生はいつでも全身全霊で本気です。

3.冬虫カイコ『みなそこにて』(webアクションコミックス)

 悲劇的な人魚伝説の伝わる、とある田舎の町。その町にいる祖母の家に預けられた少女、一花は千年(ちとせ)というミステリアスな雰囲気の少女に出会う。最初は不在の母親を待望し、早く町から出たいと願う一花だったが……という連作短編形式の伝奇群像劇。

 冬虫カイコをお読みでない? なにも失ったことがないならそれでいいけど(by 円城塔
『みなそこにて』の基調はクソ田舎伝奇ホラーです。閉塞感のあるクソ田舎におのおの鬱屈した思いを抱えている女性たちがいて、そこに絡め取られてしまう彼女たちの絶望が描かれます。
 冬虫カイコの天賦のひとつは、その絶望とあきらめの瞬間のエグいまでのうまさ。これは第一短編集である『君のくれるまずい飴』(2019年)から磨き上げられており、今回は題材と資質が異様なまでにマッチしています。
 さらに驚愕させられるのが、千年の異質さの描写です。千年の見た目は金髪で眼が爛々としていて歯がちょっととんがっていて、山に囲まれたクソ田舎にいる女の子としては浮世離れしているものの、おおむね人間の形をしています。いきなり別の異形になったりはしません。行動もかなり突飛ではありますが、魔法を使ったり人を殺して腸をひきずりだしたりはしません。
 しかし、この女は確実に異質な存在なのです。ストーリーやセリフでそう説明されているのもあるでしょうが、まずなにより、読んでいるときの肌感覚としてそう感知される。
 その感覚を成り立たせているのはまんがとしての演出です。ありとあらゆる表現技法が千年にはつぎこまれています。彼女の登場するコマにはかならずといっていいほど、時にささやかであるほどに「他とは違う」何かが含まれているのです。
 こうした技巧は三年前の短編集ではあまり目立たなかったように思われますが、この『みなそこにて』と、もうひとつ22年に出た本である第二短編集『回顧』ではほとばしっています。
 あるいは志村貴子に近づくかもしれない群像劇のストーリーテリング含め、見逃してはならない才能です。
 

4.とよ田みのる『これ描いて死ね』(ゲッサン少年サンデーコミックス

 離島の伊豆王島に住む高校生、安海相は『ロボ太とポコ太』という一巻で打ち切られたまんがの熱烈な愛読者。授業中にも隠れて読み返すありさまで、まんがに否定的な担任の手島先生からたびたび注意を受けていた。
 そんなある日、安海が作家休業状態の☆野のツイッターをチェックしていると、ひさびさに更新が。なんとコミティアで『ロボ太とポコ太』の新作を発表するという告知だった。安海は120キロ隔たった東京へ渡り、コミティアで☆野のブースへと向かう。そこに座って居たのはなんと担任教師の手島だった……という出会いから始まるまんが創作賛歌。

 とよ田みのるってどっちかっていうと苦手だったんですよね。いや、いいまんがを描くとおもいますよ。『FLIP-FLAP』とか。でもなんというか……なんだろうな、ノリが合わないっていうか……わたしの棚には入らない。そういう認識でした。
 ところが『これ描いて死ね』はバチバチに刺さった。創作を描いたまんがだから? 主人公がコミティアに初めて同人誌を出して、一冊も売れない苦渋を味わうから? そういう部分もあるでしょう。
 しかし一番の理由は、この世界が美しくてワクワクするものだと謳ってくれているからです。熱情をもって切り開けばだれにとってもそうなると教えてくれるからです。
 それはこれまでのとよ田まんがでも一貫して訴えられてきたメッセージでした。しかし、まんがをまんがによって表現する本作においてはよりピュアに研ぎ澄まされているのだと思います。


5.なか憲人『とくにある日々』(ヒーローズコミックス わいるど)

 なかよし二人組の椎木しい(しいちゃん)と高島黄緑(きみ)は高校に入学したての一年生。学園生活に期待を膨らませ、さまざまな奇行に走る。部活の新歓で、廃部となったお嬢様部の先輩たちから部室を譲り受けてもらった二人は新しい部活を創設しようとする……という学園ギャグまんが。
 
「犬のかがやき」のペンネームでツイッターまんが界を制覇した(ツイッターのほうのまんがも『犬のかがやき日記』として去年まとまった)なか憲人がわりと普通の尺の連載まんがでも天才を証明した一作。ツイッターと他の媒体でがらりと作風の変わる人は、特にエッセイの体裁で描いてる人(エッセイじゃないんだが)には多いのですが、この人に関しては、ツイッターのオフビートでウィアードなテイストをうまく活かして長篇にも馴染ませている印象です。
 基本的には日常の出来事や物事をその延長線上でズラシたりやや通常と違った角度で眺めつつ、空想を転がしていき、気がついたらヘンテコな景色まで連れてってくれる系のまんが*4で、そこに奇人や奇妙めの空間がブレンドされていきます。これだけで十二分におもしろいのですが、特筆すべきはそのタッチ。
 超絶エモーショナルなんですよね。カラーの塗りが。
 展開される話やセリフはほんとうにしょーもない馬鹿話なのに、同時に懐かしさと切なさが視覚を伝って脳に届く。
 ほんとうに楽しかった青春は劇的でもなんでもない日常、というのはよく聞く話ですが、それを表現レベルで演出しているのは発明です。あらかじめ失われることが予感されている青春の一コマが、文字どおりの意味でそこにあります。

6.躯咲マドロミ『カラフルグレー』(MeDu Comics)

 グランギニョル城に棲まう不死身の令嬢イリスは、行き過ぎた人体実験の罪で帝国軍に討伐された父である〈死神卿〉タナトスを復活させるべく、帝国軍兵士たちに移植された父の身体のパーツを集めようと首無メイドのメアリーとともに戦ったり怠けたりしながら広大な城内を大冒険。三ヶ月以内にタナトスを復活させないと、管理者のいない魔導融合炉が暴走して世界に破局がおとずれるらしいのだが……というスラップスティック・ダークファンタジー・ギャグまんが。
 
 線も身体もか細いキャラクターたちがややもするとアクションに不向きなように見えるけれど、これがまあよく動きます。合わない絵柄で無理に別のまんががやるようなアクションを描くのではなく、この絵柄に相応な、時間を止めた見せゴマをつくっていくかんじ*5。コマやページごとの間の緊張と緩和も絶妙で、特に一巻57-58ページはキャラの表情を含めたすべての流れが「停まっているのに動いている」というかなりすごいことをやっている。
キャラの性格もいいですよね。みんな自分勝手で蓮っ葉。その抜けの良さが死生観にもあって、世界観とつながっている。ダークでありつつもカラっとしていて、滅びつつあるけれどもペシミスティックではない。
 あんまり長続きしそうな感触ではありませんが、こういうのがあるおかげでクソみてえな現実が明るく照らされるんですよ。

7.雁須磨子『ややこしい蜜柑たち』(FEEL COMICS swing)

 デザイン事務所にアルバイトとして勤める浜里清見は、昔からの友人である瀬戸初夏から彼女の新恋人である白柳結を紹介される。初夏は(けっこう短期間に)彼氏が変わるたびに清見に引き合わせて紹介するという奇妙な習慣があった。
 清見は初夏に薦められて、なぜか結とふたりきりででかけることになる。それをきっかけに結に興味を抱いた清見は隠れて結と会うようになる。最初は初夏という不可解な女を共通の話題に語りあう飲み仲間のようなものだったが、ある夜、うっかりホテルで姦通してしまう。
 朝起きて後悔に襲われる清見。結は「初夏と別れて清見とちゃんと付き合う」と申し出るが、清見は「それだけは絶対やめろ」と止める。自分の犯したあやまちに混乱する清見だったが、唐突に初夏に呼びだされると事態はおもわぬ方向に……。

 という序盤の筋だけ紹介すると、よくある三角関係恋愛ものなのかな、とおもうじゃないですか。ぜんっぜん普通じゃないんですよね。どころか相当異常な話です。
 まず主人公の清見がかなりヘン。顔立ちもパリッとしていて傍から見た言動も比較的まともで、一見常識人っぽい。ところが、初夏が絡んでくると静か狂っていく。
 たとえば、清見にも同棲している彼氏がいるのですが、自分は初夏から毎回彼氏を紹介されているのに自分の彼氏のことは「初夏にバレるのがいや」だから言わない。結とうっかり寝てしまったときも、「初夏と別れる」と言い出した彼を止める理由が「こんなことが初夏にバレたら私はあなたに何をするかわからない」から。
 総合すると清見は初夏のことが好きっぽいんですが、好意の回路がかなり奇妙な配線になっているといいますか、なんかもう素直な意味で好きなのかどうかすらわからない。
 対する初夏も裏表のない陽キャのようでいて、清見視点ではブラックボックス的に描かれて、絶妙な間合いとふるまいで清見を振り回してくる。
 そして、このふたりのあいだに挟まる犠牲者となるのがシロくんこと結。清見と初夏よりは年下で、初登場時は大学生なのですが、まあまっとうで素朴な人間です。この純朴な青年が、そのまっとうさゆえに、竜巻のようなふたりの関係に巻きこまれると心身ともにズタボロにされていく。一巻の後半は清見中心の視点から彼中心の視点に切り替わるんですが、この彼から見ると、前半部分でもある程度客観的にヘンな人間として描かれていた清見のキャラがいよいよホラー性を帯びていく。
 これらのかぎりなくめんどくさい三者間の関係の見せ方がモチーフ使い含めて非常に巧く語られて、読者の心を終始かき乱してくれます。
 いまさら雁須磨子はよいなんて褒めるほど陳腐なことはありませんが、陳腐の誹りをこうむってでも褒めたい魅力が『ややこしい蜜柑たち』にはあります。
 

8.トマトスープ『天幕のジャードゥーガル』(ボニータ・コミックス)

 十三世紀、モンゴル帝国が大陸を席巻していた時代。少女シタラはイラン東部の都市トゥースである一家に奴隷として仕えていた。しかしあるときモンゴル軍が侵攻してきて、トゥースの街を蹂躙、シタラの敬愛する女主人もシタラをかばって殺されてしまう。すべてを失ってモンゴル軍の捕虜となったシタラに残された希望は、ある決意を胸に時代の荒波に立ち向かっていく……というお話。

 かつて『ダンピアのおいしい冒険』で話題になったときはなるほど~とおもって一巻だけ読んでそのあと購読していなかったトマトスープ先生でしたが、2022年になって『ジャードゥーガル』を読んでびっくらこいた。山本ルンルンと藤子Fをミックスしたような平面的でデフォルメの利いた絵柄がより線の洗練され記号的な印象を強めており、にもかかわらず奥行きがバチバチにきいている。
 二次元的であるはずの絵が三次元的に展開されているのです。アホみたいに足りない言い方ですが、なんだこの感覚は? 脳がハックされている気がする。無類すぎる。
 チンギス・カンの息子たちの顔立ちが「幼い」のもある種踏みにじる側にあるポジションの人間の描写として絶妙ですよね。
 話もフツーにおもしろい。踏みにじられる側と踏みにじる側との断絶を描き出してそれがドラマとしてもキャラクター描写としても機能しているし、全体としても歴史物としての広い視野がある。

9.黒崎冬子『平家物語夜異聞』(ビームコミックス)

 現代。家庭的な少年・夜とエキセントリックな少女・沙羅は16歳。互いを思いやる仲良しのおさななじみだったが、ある夜、平清盛の呪術?によって夜は平氏全盛期の平安時代へタイムスリップ。そこで彼は平清盛から「平徳子」すなわち清盛の娘として高倉天皇に入内せよという無茶ぶりをされる。個性的な平家の面々にふりまわされながらも自分の居場所を見いだしていく夜だったが、沙羅も同じ時代に来ているとわかって……という歴史ギャグもの。
『無敵の未来大作戦』で勇躍ビームコミックスの星に成り上がった黒崎冬子が次に選んだのは源平物でタイムスリップ。源平パロディにしろタイムスリップ歴史ものにしろ、さんざん擦られたネタじゃない? 大丈夫? という心配もこの作家には杞憂でした。まあめっぽうおもしろい。
平徳子を男子高校生にする」というアイデアからしてつじつまを合わせるのが大変だろうに、一コマごとにネコとネタが横溢するスラプスティックな黒崎節をあいかわらずぶん回し、読者をギリギリ置いてけぼりにするかしないかの速度で、しかし奇跡的にバランスが取れている。相当程度むちゃくちゃをやりながらも筋は存外原典の『平家物語』に忠実。徳子視点なのも相まって山田尚子版『平家物語』を彷彿とさせます。後白河法皇がマゾヒストとして描かれているところなんか、ギャグなんですが、あのあたりの時代見てるとあの人そうとしか解釈できんよなってのも超わかる。
 夜と沙羅の関係も、「家族」という軸から割とシリアスに切り込んでいて、マアーマジなシーンもマジでうまい。
 割と展開は早足気味なので、四巻くらいに収まるでしょうか。

 

10.藤近小梅『隣のお姉さんが好き』(ヤングチャンピオン・コミックス)

 中学生男子のターくんは隣に住む幼なじみの高校生、心愛(しあ)さんに恋をしている。映画マニアの心愛さんと距離を詰めるべくターくんは毎週水曜日に心愛さんの家でいっしょに映画を見る約束を交わすが、心愛さんのガードは果てしなく固く……というラブコメ

 本作がいかなるまんがか、あるいは藤近小梅がどういう漫画家であるかは、『隣のお姉さんが好き』単行本第一巻の表紙カバーとその表紙をめくってすぐの扉の絵を見れば一発でわかります。
 まず表紙は棒立ちになっている心愛さんが微笑みを浮かべて正面を向いている絵。それが電子版では二ページ先の扉では、まったく同じ構図と背景なのに、心愛さんが真横を向いてあさっての方向を見つめている。
 そう、これは視線についてのまんがです。
 並行で連載されている『好きな子がめがねを忘れた』ですでに十二分に証明されていることではありますが、藤近小梅はもっとも視線の扱いに敏感な漫画家のひとりです。常に視線の重なりとすれ違いが問題にされ、もうオブセッションの域に達しているといってもいい。
 そんな藤近小梅が映画を題材にラブコメを描くという*6。事件にならないはずがありません。
 一話目から全力でターくんが「見る側の人」であることが描写されています。この作品世界においては、見るということは愛するということです。しかし見られている側の心愛さんの視線はターくんとは重ならない。映画をふたりで鑑賞しているとき、ターくんは心愛さんの顔しか観ていないのに、心愛さんの視線は画面に注がれている。このとき、ターくんは心愛さんの横顔を眺めていることになります。その横顔に、ターくんは(一話目から!)告白するのです。「好きです」と。
 心愛さんは視線を画面から外さず、「この映画? よかったー気に入ってもらえて」といなします。
 追う視線と追われてそれを回避する視線、このふたつが水平に交わる瞬間はあるのかどうか。それだけでたまらないサスペンスが生じています。
 のみならず、視線の一方性と暴力性を自覚的にかつわざとらしくなく描きだし、「ただ見るだけでは愛することにはならない」とつきつけているところなんかはジョーダン・ピールの『NOPE』にも比肩する先鋭さがあります。
 藤近小梅は今もっとも映画的な漫画家です。それは映画を題材に扱っているからでも、映画ネタをこするからでも、映画のようなネームを描けるからでもありません。人間の眼について突き詰める態度が映画と一致しているからなのです。

ベスト10に入れるかどうかギリギリまで迷った枠

阿賀沢紅茶『正反対な君と僕』(ジャンプコミックス

 ギャルな見た目の高校生・鈴木は隣の席に谷くんにぞっこん。いろいろ考え過ぎな性分である鈴木はクールで孤高な谷くんの態度にやきもきしていたが、あるとき思い切って告白すると、受け容れてもらえることに。不器用なふたりの恋の行方は……という群像青春恋愛劇。
 端的にいってしまうとポスト『スキップとローファー』。主人公カップルの恋模様を軸に、他のまんがだとモブとして一面的に処理されがちなタイプの周囲の人々(スクールカースト的な規範が強く内面化されている)までひとりの人間として繊細に描き出していく。
 基本的には根っからの悪人や無神経な人間はいなくて、一見そう見える人でも内面ではいろいろいっぱいいっぱいに悩んでいたりする。日本の学生生活に「あるある」なコミュニケーションの難しさを用いるのがポイント。
 ……とまあ、そう括ってしまうとなんだか簡単そうですが、実際ちゃんと見せられるものに作るのウルトラ大変だとおもいます。マジで。成立しているだけでも奇跡。
 主人公たちに悩みは多いわけですが、基本的には独り相撲で読んでてあんまりイヤな気分にはならない。
 こういう作品(絵柄含めて)がいちおう少年漫画誌の看板を背負っているジャンプラから出ている事実は、公共的にも善きことだとおもいます。これが新人だっていうんだから、びっくりですよ


相馬康平、日下氏『桔香ちゃんは悪役令嬢になりたい!』(まんがタイムKRコミックス)

 三船桔香はアニメで観た悪役令嬢に憧れる小学五年生。ある日、悪役令嬢デビューをしようと傲慢お嬢さまムーブをとるのだが(実際に家は金持ちだったりする)、もちろんクラスメイトは誰も合わせてくれない。完全に孤立して夢を阻まれた桔香だったが挫けない。クール陰キャの絃(イト)、イヌになりたい願望を持つ女・繋(ツナギ)、ごく真面目な学級委員長の葵(アオイ)といった危険な変人たちをしもべにすることに成功し、誇り高き悪役令嬢坂を登り始める……という四コマギャグ。

 カツヲ先生が『三ツ星カラーズ』をてじまいしに、セクシーゾンビものを描き出した2022年、われわれの愛したクソガキまんが(命名:ななめの氏)は永遠に失われてしまったのかーー答えはノーです。まだ火は絶えておりません。
 『三ツ星カラーズ』や涼川りん『りとるけいおす』といった作品を代表とするクソガキまんがの良いところは、そこにあるつながりのうつくしさです。人間、思春期に入ると他者にも気持ちがあるんだということに気づき始め、その気持ちを慮ったり先取りしすぎたりなんかしてドギマギしていき、それがおもしろいラブコメなんかになったりするわけですが、小学生の世界にはそんな繊細な気遣いなど一切存在しません。自分の利益と欲望しか勘定せず、友だちといてもただ自分のやりたいことだけを破壊的に貫く。そして、やりたいことはひとりひとり当然異なるわけで、傍から見るとグループ内ですれちがっているように見える。
 それなのにグループ内ではなぜかコミュニケーションが成立しており、たがいのことを友人だとおもっており、つねにいっしょに行動している。なにより、かれら自身がかれら自身と妥協なく在る。そうしたウィズネスの奇跡がもっとも純粋な形で顕れるのが、自由な小学生のピアグループを描くクソガキまんがなのです*7。分断が極に達しつつあるこの世界で、今もっとも必要とされているジャンルといえるでしょう。
 外殻の話が長くなりました。でも、ながながいっといてなんですが、『桔香ちゃん~』は厳密な意味でのクソガキまんがとは少し違う。どちらかといえば、最近のきららで受けてるメインストリームである方向に近いかな。スイッチが入ると、つい……ごめんね。
 まあしかし、クソガキまんが的な要素は序盤は特に濃くて、本作でも三人組みである桔香、イトちゃん、ツナギの三人で目的が全然違うんですよね。たがいに都合のよい部分からつながったにすぎない。桔香の行動と思考がすべて自身の想像する悪役令嬢なるものを模倣する一方で、最初はその「しもべ」であるイトちゃんやツナギは悪役令嬢に対する興味なんてビタイチないわけです。
 それがおっちょこちょいでヘタレだけど愛嬌はある桔香を否定せずつきあうことで、思想や目的でというよりは人としての桔香をハブとするつながりの心地よさみたいなものに浸る。最初は桔香とそれぞれとの一対一の関係だったのが、グループとして行動していくうちに、「みんな仲良し」に、なんならグループ外の人間との新たな出会いすらある。
 ただ人間同士が仲良くなっていく。それがエンターテイメントになると気づいたのは、きららというジャンルの最大の功績です。
 一巻の最後に桔香の好きな悪役令嬢のアニメをみんなで鑑賞会するシーンは最高ですね。おたくにとっての鑑賞会は結束を確認し強めるための儀式ですからね。スパイク・リーの『ブラック・クランズマン』でKKKのひとたちが『國民の創生』を笑顔で上映していたのとおなじです。


額縁アイコ『リトルホーン〜異世界勇者と村娘〜』(ヤングマガジンコミックス)

「狭き大陸」と呼ばれる世界を支配していた魔王を異世界から来た勇者が討伐した。その勝利に沸く大陸の片隅の田舎村で、薬屋の娘ルカは勇者に憧れその従者になることを夢見、その友人リトルホーンと毎日伝え聞く勇者譚を愉しんでいた。
 そんなある日、勇者の一行が村にやってくる。殲滅したはずの魔族の生き残りが村に隠れているというのだ。勇者の脅迫によってあぶりだされたのはリトルホーンの姉たちだった。リトルホーンは魔族だったのだ。勇者一行はリトルホーンの姉たちを殺すと、魔族を匿ったとして村人も全員虐殺。ルカとリトルホーンだけが生き残る。
 勇者への憧れが憎しみに反転したルカは、リトルホーンとともに復讐を誓い、勇者殺しの旅にでる……という変則異世界転生ファンタジー

 ヒーローと悪役を反転させた物語っていくらでもあるのでしょうが、これは勇者のクズの方向性がフレッシュ。最初に主人公たちと対決する勇者パーティのひとりナイトのナイトーは、ガタイこそ立派で屈強な大人なんですけど中身は十歳の「異世界転生者」なんですね。 何かを守ることを異常な執着をもちすぎているひとなんですけれど、その異常さに年少ゆえの視野の狭さみたいなものが付加されてえらくグロテスク。たとえば、このナイトーは旅に出たルカと遭遇するのですが、自分らで村民を皆殺しにしといて、生き残りがいたと喜び。なぜかといえば、「故郷を失った薄幸の少女を育てる」ことが「一番大好きなクエスト」だから。この時点でヤバい。そして、ルカに「マリ」と名付ける。「マリ」はナイトーの異世界(日本)での幼なじみの名前で、彼はゲームをやるときにはヒロインの名前を常に「マリ」にしているのです。その「マリ」は病弱な少女なので、キャラの設定を合わせるために「キャラメイク」と称して五体満足なルカをおもいきり殴りつける。 
 狂った人間が狂った論理を転がし、圧倒的な暴力でもってその論理を通そうとする。このキャラ造形はすばらしい。しかもそのイヤさがいやでもゲームをやるときの人間ってこういうサイコパス感あるよね、といういやな現実味もあり、奇妙な心地になる。
 ほかにもやべーポイントが多数あって、もう全部盛りといったかんじ。単なるアンチジャンルものとは一線を画しています。こういうのがこの先いくらも見られるとおもうと期待が高まる。あとアクションも見応えがある。



井上まい『大丈夫倶楽部』(マンガ5)

 会社員の花田もねはとにかく日々が不安でしょうがなく、「大丈夫」になることを願っていた。彼女はある夜浜辺で出会った宇宙人(バクっぽい)の芦川といっしょに「大丈夫になる」ことを目指す部、大丈夫倶楽部を結成。「大丈夫」を日々希求していく……という連作。

 まあ、大丈夫になりたがっている時点でぜんぜん大丈夫じゃないひとたちの話だってのはわかっていただけると思います。第一話からいきなり散らかり放題の部屋で、捜し物が見つからずテンパりまくってるところから始まるんですね。まったくもってなにひとつ大丈夫ではない。そういう日々の大丈夫でなさを解きほぐし、心の均衡をささやかに保っていく。基本的にはそういうまんがです。『ご飯は私を裏切らない』(heisoku)のもうちょっと外向的なヴァージョンとでもいいましょうか。
 大丈夫じゃないもねが大丈夫になっていくさまだけで十分ほほえましくおもしろいんですが、そこに芦川の謎めいた過去が語られていったりしてそこでも読者をひっぱる。妙に錯綜したプロットで手から漏れるんじゃないかとハラハラしますが、いまのところは大丈夫に回っている印象。 
 ゲッサンの『春のムショク』でも井上まいは「なんか気持ち的にブラブラしていて茫漠たる不安を抱えたよんどころのない人間」を主人公にしていて(うろおぼえ)、そちらはそれをわりと直球の落ちモノブコメに仕立てていた記憶がありますが、今回は落ちモノ路線とはいえラブコメじゃない方向へ振ったところでより作家性のコアにそぐう作品になっていると思います。


まどめクレテック『生活保護特区を出よ。』(トーチコミックス)

 生活能力に乏しい人間が国によって保護され、「生活保護特区」に居住させられるようになった日本。トーキョー在住の高校生のフーカはある日、国からの要請によってその特区へ移住することに。彼女の割り当てられた新しい住処である「にいなめ荘」にはなるほど生きづらそうな人々が集まっていて……というお話。

 要するにあんまり上手く人並みにお仕事などができない人たちが押し込められる区域があり、そこに住む人たちはできなさに絶望してよく自殺未遂などを起こしている。気が滅入るようなセッティングですね。そのなかでもギリギリな人間たちはギリギリにコミュニケーションをとって社会生活を営んでおり、そのギリギリさ加減にリアルがある。
 わりと序盤からキャラがわちゃわちゃ出てきて話もややとっちらかって、どこに転がっていくのか今のところわからない。どうも「世界」をまるごと構築しようとしている節があり、とんでもないことになりそうな雰囲気を醸しています。画もいいですね。ざらりとしていて、でも動きが軽やか。

 

はせべso鬱、羽流木ない『百合の園にも蟲はいる』(ヤンマガKCスペシャル)

 女子校の男性教師ものということで、『女の園の星』の二匹目のどじょう狙いかな~と半分ナメながら読んだら意外に誠実な教師まんがでした。子どもは無垢ではないし、教師も聖人ではない。誰もが理想と現実のあいだでもがいていて、そこに対する真摯さには好感が持てます。ギャグもツイストもよく機能していて、フツーに読ませる。三巻で完結してしまい終盤がやや早足だったのが残念。


もくもくれん『光が死んだ夏』(角川コミックス・エース)

 ある田舎の村に住む高校生よしき。彼は、親友の光が人間では別のなにかに入れ替わっていることに気づいてしまうが、光への執着からその状態を保つ方向へ動き始める……という伝奇ホラー。

 演出から物語、設定に至るまで、パーツごとに切り分ければどこかで見たものになる。にもかかわらず、それらが組み合わさった総体としての本作は烈しいまでの清新さを放っています。あるいは、マンガとはそうした組み合わせの妙に尽きるのではないのか、という気にすらなってくる。すでにかなり語られ尽くされている作品で、いまさらわたしが付け足すことなどないですが、間違いなく評価されるべき作品です。


松本次郎『Beautiful Place』(ヒーローズコミックス わいるど)

・セーラー服姿のティーンエイジャーが武装してドンパチやっているのはいつもの松本次郎先生なのですが、『いちげき』を経て確実にヌケがよくなっている。今後次第で最高傑作になるポテンシャルも。幕末の日本初の銃歩兵隊を描いた長篇の『列士満』(列士満 (SPコミックス))も要チェック。


松木いっか『日本三國』(裏少年サンデーコミックス

現代日本の風景そのままに架空戦記が展開されるエキサイティングさは他に代えがたい。キャラのアクの強さは好き嫌いが別れるところでしょうが、一巻でそう感じたとしても二巻三巻と読みすすめるべきといえるだけの構築力がある。

その他よかったもの

コンドウ十画『スケルトン・ダブル』(ジャンプコミックススケルトンダブル 1 (ジャンプコミックスDIGITAL)
・異能や異能的シチュエーションの転がし方がうまい。

浄土るる『ヘブンの天秤』(ビッグコミックスヘブンの天秤(1) (ビッグコミックス)

・浄土るるという異形の才能をうまく飼い慣らそう頑張る編集部の苦心が見て取れる。そしてそれはその方面ではある程度うまくいっている。

あらゐけいいち『雨宮さん』(ゲッサン少年サンデーコミックス雨宮さん(1) (ゲッサン少年サンデーコミックス)
あらゐけいいちってそんなに好みの作家ではないんですが、これはいいですよ。

堀北カモメ『ゲモノが通す』(トーチコミックス)ゲモノが通す (1) (トーチコミックス)
・修理屋さんのお仕事まんがから人外異能バトルへの無茶なスライドの仕方がゴッツい。勢いで押し通そうとして通ってしまっている。今見たら一巻二巻アンリミ入ってたので加入者は是非。

嶋水えけ『ポラリスは消えない』(ガンガンコミックスJOKER)ポラリスは消えない 1巻 (デジタル版ガンガンコミックスJOKER)
・死んだアイドルにファンが成り代わるというヤバサスペンス。頭のネジが外れたキャラを描けばその時点で勝利であることを証明した例。

頬めぐみ『おいしい煩悩』(MFコミックス)おいしい煩悩 1 (MFコミックス フラッパーシリーズ)
・泣いてる顔が良いまんがは良いまんがです。(二回目)

池田邦彦、萩原玲『艦隊のシェフ』(モーニングコミックス)艦隊のシェフ(1) (モーニングコミックス)
・池田邦彦の連作短編作家としてのセンスの良さがここでも発揮されている

筒井いつき『夜嵐にわらう』(ヤングジャンプコミックス)夜嵐にわらう 1 (ヤングジャンプコミックスDIGITAL)
・教師と生徒の暗黒百合。筒井いつきはいつだって私たちを裏切らない。

中村すすむ『私の胎の中の化け物』(少年マガジンエッジコミックス)私の胎の中の化け物(1) (少年マガジンエッジコミックス)
・やや定型に落ちる感も残すが、この手の学園ホラーとしては抗いがたい艶がある。

地球のお魚ぽんちゃん『霧尾ファンクラブ』(リュエルコミックス)
霧尾ファンクラブ(1) (リュエルコミックス)
・一人の憧れの男子をめぐる女ふたりの恋のさや当て日常コメディ。ライバル以上敵未満の関係が非常に良い。

酢豚ゆうき『月出づる街の人々』(アクションコミックス)月出づる街の人々 : 1 (アクションコミックス)
・人外学園日常連作。この手のものとしてはあまり驚きはないものの、丁寧に作られている。メドゥーサの話がすき。

みやまるん『メガロザリア』(青騎士コミックス)メガロザリア 1 (青騎士コミックス)
・エグめの異色悪役令嬢ものかと思ったら異能バトルへと暴力的にスライドしていく謎まんが。

江坂純、凸ノ高秀『She is beautiful』(ヤングジャンプコミックス)she is beautiful 1 (ヤングジャンプコミックスDIGITAL)
・女を監禁する女。箱庭系学園アフターものとしては印象が高野ひと深の『ジーンブライド』(FEEL COMICS)とかぶるんですが、どっちも味が違ってておもしろい。

道満晴明ビバリウムで朝食を』(チャンピオンREDコミックス)ビバリウムで朝食を 1 (チャンピオンREDコミックス)
・この歳になっても安定してこのレベルをたたき出せるのはすさまじいことです。藤子Fマインドっていうのは、こういうのをいうんですよ。

カレー沢薫『いきものがすきだから』(モーニングコミックス)いきものがすきだから 1
・ドッグシェルターの話。単に「動物が好き」だからではどうにもならない現実に手をつっこんでいくのがカレー沢先生の真骨頂。

五十嵐純『ドミナント』(MFCドミナント 1 (MFC)
・いやー、この出だしからこういう方向に行くのか~という。

ピエール手塚『ゴクシンカ』(ビームコミックス)ゴクシンカ 1 (ビームコミックス)
・変人ヤクザ版HUNTER×HUNTER

眞藤雅興『ルリドラゴン』(ジャンプコミックスルリドラゴン 1 (ジャンプコミックスDIGITAL)
・エブリデイマジックの端正さ。

宇島葉『猫のまにまに』猫のまにまに 1 (HARTA COMIX)
・ネコを美少女として擬人化するというよくあるしょーもなネタのはずなのにまんがが異常にうまいせいで無限に読める

鶴田謙二『モモ艦長の秘密基地』モモ艦長の秘密基地 1 (楽園コミックス)
・もうツルケンは一生これでいいんです。私たちも、また。

荒井小豆、ジアナズ『異世界ありがとう』異世界ありがとう(1) (裏少年サンデーコミックス)
異世界ものという分野においてなにかがスペシャルというわけでもないんだけれど、表情豊かさでなんだか読ませてしまう魅力がある。

荒川弘『黄泉のツガイ』(ガンガンコミックス)
黄泉のツガイ 1巻 (デジタル版ガンガンコミックス)
・あまりに堂にいったバトルエンタメ。

とあるアラ子『ブスなんて言わないで』(&SOFAコミックス)
ブスなんて言わないで(1) (&Sofaコミックス)
・ただしさからこぼれ落ちてしまうものをすくい取りつつもそれでもただしくあろうとする人間の営為。はっきりとフェミニズム的なテイストを前面に打ち出したまんがが去年は目立っていて、各種ランキングでも評価されていたはず。

文野紋『ミューズの真髄』(ビームコミックス)ミューズの真髄 1 (ビームコミックス)
・『ブルーピリオド』になれなかった人たちの地獄みたいな美大(受験)残酷物語。ブルピなんだかんだ「エリートの物語」だと美大のひとがいうてらしたのを思い出す。都度都度上向くかと思わせ説いてたたき落としてくるところがほんに地獄やね。

たかたけし『住みにごり』(ビッグコミックス住みにごり(1) (ビッグコミックス)
・とにかく異常な人間を異常なものとして描く手際において卓抜している。

ばったん『けむたい姉とずるい妹』(KISSコミックス)けむたい姉とずるい妹(1) (Kissコミックス)
・三角関係を構成する三点(姉妹と男)がいずれもめんどくさい独り相撲をしまくるめんどくさ恋愛まんがでこういうのをずっと読んでいたいですよね。キメるとこがキマりまくっているのはさすが。


【単発・短編集・エッセイ】*8

五選

山口つばさ『ヌードモデル』(アフタヌーンコミックス)

『ブルーピリオド』で超売れっ子となった山口つばさの短編集。この人の本質はフェティッシュなまでのエロティックな瞬間(=コマ)とファム(オム)ファタルにあるのだと再認識させられる。よく考えたら『ブルーピリオド』も矢虎くんの前にファム・ファタルやオム・ファタルなひとびとがひっきりなしに登場するまんがといえなくもない。

冬虫カイコ『回顧 冬虫カイコ作品集』(MeDu Comics)

 女同士の「じゃあ、どうすればよかったんだろうな……」みたいな話が詰まった短編集。短編の尺で、あまり劇的なイベントを起こさないのに、ここまで抉られるものを書けるのは途方もない。あなたも読んで「じゃあ、どうすればよかったんだろうな……」となってください。

小骨トモ『神様お願い』(webアクションコミックス)

「性」を軸にしたイヤ~なサイコホラーまんがの短編集。森山塔を若干高橋葉介に寄せたような、ポップでありつつも湿度の高い絵柄で徹底的に責めてくる。どの話も特にクライマックスではどうかと思うぐらいのアクセルベタ踏みっぷり。この情念はこの手のジャンル以外で活かせるかどうかわからないのですが、しかし継続的に読みたくなる才能。

朝田ねむい『スリーピング・デッド』(Canna Comics)

 高校教師の佐田が夜道で通り魔に刺され死亡……したと思ったら、謎の研究所のようなところで目覚める。どうやら間宮というマッドサイエンティストの開発した細菌によってゾンビとして復活させられたらしい。手錠につながれて監禁された佐田の運命はいかに……というBLゾンビまんが。BLだけれど、意外に濡れ場が挿入されるのはやや遅め。それ以前にグロが満載だけれど。
 あきらかに病んだ状態から出発するふたりの関係の行く末が、あそこまで美しく残酷なものになるのか、という驚きがあります。ラストだけでいったら今年一番。全体通しても、朝田ねむいの最高傑作のひとつなんじゃないんでしょうか。藤本タツキもオススメしてたぞい。

あらいぴろよ『母が「女」とわかったら、虐待連鎖ようやく抜けた』(バンブーコミックスエッセイ)

『虐待父がようやく死んだ』『ワタシはぜったい虐待しませんからね!』などから続く自伝的エッセイまんが。父親の激しい虐待から抜けだし、結婚して子どもを産んだ著者。自分は「父親とは違う、ちゃんとした親になる」と決意するが、日々の育児のなかで子どもや夫につい憎悪を弾けさせてしまう。「親」としての自分と向き合うため、「子ども」だったころの自分を乗り越えようとする彼女。そうして、子ども時代を思い出していくと意外な盲点に気づく。直接的に虐待していた父親だけでなく、それまで自分を守ってくれていたと思っていた母親もまた「親」としておかしなところがあったのではないかーー。
 地獄の果てでさらに地獄を直視することが救いになる、という途方もなく壮絶な話。毒親・虐待系のエッセイまんがにはいくらか自己セラピー的な側面が見られますが、ここまで苛烈かつ破壊的に感情を掘り下げてギリギリで希望をつかみ取るのはあまり見ません。
 

他によかったもの

玉置勉強玉置勉強短篇集 ザ・ドラッグス・ドント・ワーク』玉置勉強短編集 ザ・ドラッグス・ドント・ワーク (MeDu COMICS)
・この行き場のない人間の行き場のなさを描けるのは玉勉先生だけなのかもしれない。これは情緒かな。

犬のかがやき『犬のかがやき日記』犬のかがやき日記
ツイッタージェニックまんがの模範解答としては『ちいかわ』や『ポプテピピック』に並ぶけれど、それらよりは幾分品がある。

岡藤真依『あなたがわたしにくれたもの』あなたがわたしにくれたもの (ビームコミックス)
・京都を舞台にカップルのお別れセックスを描く短編集。コンセプトの時点で勝っているが、セリフ回しと表情がいちいちすばらしい。

詠里『僕らには僕らの言葉がある』僕らには僕らの言葉がある
・聾唖の高校球児とその相棒役になったキャッチャー、そして彼らの周囲を描く長篇。完璧に「これは善きこと」と割り切れなさも残るなかで、それでも子どもを信じるの大切さを訴えているのがよい。野球マンガでいえば、今年は伊図透『オール・ザ・マーブルズ』も押さえておきたいところ。

谷口菜津子『うちらきっとズッ友』うちらきっとズッ友 ―谷口菜津子短編集― 【電子コミック限定特典付き】 (webアクションコミックス)
・何年連続で谷口奈津子を良かったリストに入れてんだろうって感じですが、しょうがないじゃん。毎回良いんだから。最悪で救い様のない人間にさえ寄り添ってみせる。それこそが谷口奈津子作品の強さなのだとおもいます。

panpanya『模型の町』模型の町 (楽園コミックス)
・何年連続で panpanya を良かったリストに入れてんだろうって感じですが、しょうがないじゃん。毎回良いんだから。ジオゲッサーにいきなりハマったみたいな感じになっててウケたけれど、そこから掘れる深度がやはり尋常ではありません。

水谷緑『私だけが年を取っているみたいだ ヤングケアラーの再生日記』私だけ年を取っているみたいだ。 ヤングケアラーの再生日記 (文春e-book)
・ヤングケアラーたちの経験をひとりのキャラに統合した半エッセイ的ストーリーまんが。

たばよう『おなかがへったらきみをたべよう』おなかがへったらきみをたべよう
・なんとなくいい話にしようとした様子がうかがえるのがほほえましい。ぜんぜんなってないんですが。

もぐこん『推しの肌が荒れた もぐこん作品集』推しの肌が荒れた ~もぐこん作品集~【電子特典付き】 (バンチコミックス)
・今後、危ういところが危ういままなのか、洗練されていくのか。

高研『緑の歌 収集群風』緑の歌 - 収集群風 - 上 (ビームコミックス)
・濃厚なまでの80年代サブカルノスタルジー。今、日本で日本人がやったら絶対許されないと思う。本棚のシーンで焼き尽くされました。

小林銅蟲『ファミ魂特異点ファミ魂特異点 (ゲームラボコミックス)
・その時代の片隅に確かに棲息していた異常な人々を記録する実録まんが。マジでこんなゲーム同人文化があったことを知らなかったのでビビった。異常さでは『ファミコンに育てられた男』もなかなか。

宮澤ひしを『苦楽外』苦楽外 (ビームコミックス)
・この手のうまく収まる幻想が年一冊くらいは読みたい。

いしいひさいち『ROCA 吉川ロカストーリーライブ』
・読み終わった瞬間にいやあ、いいものを読んだ、となれる。

ニック・ドルナソ『アクティング・クラス』アクティング・クラス
・カリスマ講師率いる無料演技体験クラスが大変なことになっていく。前回(『サブリナ』)より好きですね。あのポーカーフェイスの活かし方を発見したようで。濱口竜介に映画化させたい。

高江洲弥『リボンと棘 高江洲弥作品集』リボンと棘 高江洲弥作品集 (HARTA COMIX)
・この世のすべての性癖をカバーしてるのではという恐怖。「ある日森の中」と「誘い花」がベスト。この怪物を飼い慣らせるハルタという雑誌もおそろしい。人はハルタ作家として生まれるのではなく、ハルタ作家になっていくのだ。

タイザン5『タコピーの原罪』タコピーの原罪 上 (ジャンプコミックスDIGITAL)
・『ちいかわ』ほどの安定感はなく、『星のポン子と豆腐屋れい子』ほどの計算高さもない。でも、ぼくたちはタコピーやしずかちゃんの泣いてる顔が大好きだ。

岡田索雲『ようきなやつら』ようきなやつら (webアクションコミックス)
・出来不出来がわりあいはっきりしているけれど、そのなかでもアティテュードは一貫しているのが作家という感じ。というか岡田索雲はデビュー当時からずっと一貫してきて全然ブレない。
proxia.hateblo.jp

【五巻以内で2022年に完結したまんが五選】

・このへんは個別に記事を立てたいところ。疲れてきたので手短に。

平方イコルスンスペシャル』(全四巻、トーチコミックス)

・2022年は『スペシャル』が完結した年として記憶されるべき。

戸倉そう『すぐに溶けちゃうヒョータくん』(全二巻、webアクションコミックス)

・かなりギリギリというかアウトなところをついてしまった加虐同棲まんがの傑作。その過激さが、三巻以上継続することを世界に許されなかった。

熊倉献『ブランク・スペース』(全三巻、ヒーローズ・コミックス)

・無理に群像劇にしなくともよかったのではないかな、と思う反面そこは思想の領域なのでこうせざるを得なかったかなとも思う。いずれにせよ些末な問題で、おおむねすばらしい奇想まんがです。

はせべso鬱、羽流木ない『百合の園にも蟲はいる』(全三巻)

・前述の通り。

冬野梅子『まじめな会社員』(全四巻、コミックDAYSコミックス)

・社会のクソさも自分のダメさも他人のアレさもひとしく掻いて掻いて出血しまくっているという点で、この作家に及ぶものはあまりいないのでは。


【+α】

綾辻行人清原紘十角館の殺人十角館の殺人(1) (アフタヌーンコミックス)
・ミステリのコミカライズとしてひとつの至福なあり方。ハッタリの効かせ方含めて。

若槻ヒカル『エルフ甲子園』エルフ甲子園(1) (コミックDAYSコミックス)
・若槻ヒカルのブルータルさに世間が順応する日まであとどれだけ必要なのだろう?

くみちょう『たぬきときつねの田舎暮らし』たぬきときつねと里暮らし 1 (ヤングジャンプコミックスDIGITAL)
・獣としての子どもの無軌道さがよく出ていた。


*1:2022年1月〜12月に第一巻が発売された作品が対象

*2:森薫か入江亜紀のどちらかの系統に近い絵をさす

*3:他の三人の元特美研メンバーたちが「大人」になっているのと対照的に描いているのが巧い

*4:アナロジーとして想起されるのは panpanya

*5:逆に瞬間瞬間の「動」を描こうとするときはやはり弱い印象もある

*6:ちなみに元になった「シアちゃんターくんの映画劇場」というショートマンガが先行して存在するのですが、それは映画の紹介マンガでした

*7:マインドさえ保てるのなら小学生に限定する必要はないのですが、涼川りんの『あそびあそばせ』がどうしても思春期要素を取り入れざるをえなかったように、望むにしろ望まないにしろ、年齢区分による圧というのは働くのです

*8:22年1月〜2月に発売された短篇集、単発作品、エッセイまんが。長編であれば完結した作品が対象

2022年の新作映画ベスト10とその他:第三期ピークTVの時代、あるいは犬の年


前説

 2022年の映像作品を思い返すに『ピースメーカー』はよかったなーとか『鎌倉殿の十三人』は最高だったなーとか『アトランタ』S3はたのしかったなーとか『ブラックバード』はごつかったなーとか、どうも浮かぶのはドラマばかり*1で映画の記憶はうすいのですが、まあ、観てはいる。観てはいるんですが、「自分の映画」がありませんでした。
 これは自分としてはわりとショッキングなことで、というのも、2022年はポール・トーマス・アンダーソン(『リコリス・ピザ』)、ウェス・アンダーソン(『フレンチ・ディスパッチ』)、マイク・ミルズ(『カモン・カモン』)、ノア・バームバック(『ホワイト・ノイズ』)と、「自分の監督」だったはずの監督の新作がたてつづけに出たにもかかわらず、いずれも(悪くないんだけど)そんなに自分のなかでしっくりきませんでした。
 一方で、ジョーダン・ピール(『NOPE』)だとか原田眞人(『ヘルドッグス』)だとかマイケル・ベイ(『アンビュランス』)だとかギレルモ・デル・トロ(『ギレルモ・デル・トロピノッキオ』、『ナイトメア・アリー』)だとかコゴナダ(『アフター・ヤン』)だとか、それまで「自分の監督」ではなかったひとたちのほうが「自分の映画」感のあるものを撮ってくれたような印象があります。

 年間ベストとは集計されるものと個人で出すものは見た目似ているようで目的はぜんぜん違うもので、集計されるものはどうしたって商業的なプロパガンダにしかならなくて、個人においては孤独な思想的なプロパガンダにしかなりません。
 どっちが良くてどっちがいいのか、というのは別になくて、強いていうのならどっちもわるい。価値をかかげることは領土を一方的に策定する行為であり、それははたからみれば侵略とよばれます。
 
 では、わたしの領土はどこにあるのか。
 本当に映画の未来を想うなら映画という枠組みをストーリーテリングや技術や興行といった側面からゆるがせにきている作品を選出すべきなのでしょう。それは『スパイダーマン:ノーウェイホーム』だったり、『トップガン:マーヴェリック』だったり、『アバター:ウェイ・オブ・ウォーター』だったり、『SLAM DUNK THE FIRST』だったり。
 あるいは、なんというか、カイエ・デュ・シネマみたいな選びかたをすべきなのでしょう、しかしわたしは……などといけすかなさを遠ざけようとしてみたけれど、実際のカイエの2022年ベスト見たら日本公開作に関してはほぼほぼかぶっててやんなるね*2*3*4
 映画配信サイトのレコメンド機能なみに主体性や一貫性のないように見えるそんなわたしでも、いちおう評価基準はあるようで、ベストを並べるとその年の自分のテーマが浮き上がったりします。
 では、今年のわたしのテーマとはなにか。


 イヌです。


新作映画ベスト10

1.『戦争と女の顔』(カンテミール・バラーゴフ監督、ロシア)


 画面いっぱいにボルゾイの顔のドアップが映る。本年度のベストです。


 アレクシェーヴィチの『戦争は女の顔をしていない』を下敷きにしたという宣伝文句はともかく、まさしく顔の映画*5であったことはたしかで、常に誰がどういう表情をしているか、画面にふたつならんだ顔のどちらが前でどちらが後にきているか、というようなことばかりが問題にされる映画だった。一方で声(鳴き声)の映画でもあった。なぜこんなにイヌの声であふれているんだろうか。
 親友であるはずの女ふたりのあいだに流れる緊張感が終始ヤバくて、こういう不穏さのぶつかりあいみたいなものが観たいんだよな、とおもう。
 ラストのあれは『アンナ・カレーニナ』に対するアンチテーゼなのかな。

2.『アンビュランス』(マイケル・ベイ監督、アメリカ)

 銀行強盗に失敗した兄弟が救急車を盗んで走り出す。しかしその救急車にはいまにも死にそうな患者が乗っていて……というアホな設定の爆走映画。ドローンを駆使した意味のわからないショットがぎょうさん出てきてあいかわらずベイさんはきばりやすなあ、という感じなのですけれども、基本的にドラマが狭い救急車内で起こるというコンパクトさがちょうどよい。
 本作は長いのに一秒たりとも退屈な時間がない。精確にいえば、本来一時的な退屈は映画に必須の要素であるのだけれど、作る側に退屈にさせようという気がない。それは終盤のあるシーンによく現われている。高速道路を走行しつつも追い詰められつつある兄弟の片方が、スマホのイヤフォンで昔ふたりでよく聴いた懐メロ(曲は忘れた)をシェアする。ふたりしてノリノリで歌いだして思い出に浸るか……とおもわれたところでもうギレンホールが「こんな状況で落ち着けるか!」とキレて、イヤフォンをぶち切る。ノリツッコミである。振り返っている時間はない。映画は走り続けなければいけない。そして、ジェイク・ギレンホールはダウナー顔芸をやりつづけなければいけない。

 あとなんか特に意味もなく巨大なイヌが出てきます。

3.『ブラック・フォン』(スコット・デリクソン監督、アメリカ)

 連続少年監禁殺人魔のイーサン・ホークにある少年が捕まって、さあ、大変といった映画。
 ピタゴラスイッチ的な脱出ゲーム演出に、ある感情が乗る。その感情がねえ、感情なんですよ。地上で髪の毛ひとつ残さずに失われてしまった少年たちが地下で残したかすかな痕跡を拾い集めていく。そういう行為こそが鎮魂なのです。死んだものの拾われなかった声を拾うこと。その結実がセリフではなくアクションで見せられるのもたまらない。スコット・デリクソンはやはりマーベルにはもったいない才能だった。
 異世界(精確には過去)パートの映像表現もすき。

4.『NOPE』(ジョーダン・ピール監督、アメリカ)

 ジョーダン・ピールがいきなりおもしろくなってしまった。これまでのピールはいまいち弾けきれなくて、どこか生真面目すぎるというか、理屈っぽすぎるところがあった。それは社会派意識ゆえの性向ではなくむしろ逆で、自分のなかに抱えられた不定形の情念や経験を外の世界に出すにあたって形にしようとしたときに、そういう計算しか使えなかったからだろうとおもわれる。
 キレイすぎる自覚はあったのか、『アス』なんかでは割り切れない奇妙さをあえて出そうと苦心していたけれど、どうにもから回っていた。
 で、頭でっかちさでは『NOPE』もそんなに変わらない。むしろ今回は「映画史はおれが背負う!」みたいな気迫で望んでいるので史上最高にあたまでっかちかもしれない。でも確実にワンカット以上は画が理屈を超越する瞬間があった。
「スペクタクル」を謳うだけはある。柳下毅一郎の定義に従うのなら、映画は見世物であって、何を見せるかというと驚異を見せるのだ。その見世物根性を忘れないのなら、ピールはたしかにいつかは本物のスペクタクルを撮られるのかもしれない。

5.『ニトラム NITRAM』(ジャスティン・カーゼル監督、オーストラリア)

 ファーストショットがいいんですよね。(ロケ地は知ないがたぶん)タスマニア島のうつくしい夕焼けを背景にケイレブ・ランドリー・ジョーンズが花火をしている。隣近所からは「迷惑だからやめろ!」と罵声が飛んでくるんだけれど、ケイレブは委細構わず花火を燃やしつづける。これだけで「あっ、これは関わっちゃいけないむずかしい人を主人公にした映画なんだ」と一発でわかる。
 そんなむずかしい主人公が資産家の独身女性に拾われる。そう、拾われる。彼女はイヌをたくさん屋敷内に飼っていて、それで孤独を癒やしている。主人公もそうした「イヌ」の一匹だったのだけれど、主人公も彼女自身もそのことに気づかなかった。それが悲劇の種になってしまう。
 最終的に主人公がシンパシーを抱く相手はイヌだけになってしまい、彼は大量虐殺事件を起こす前に主を失ったイヌたちを解放する。このあと放たれたイヌたちが野良で生き延びられるかはともかく、ストーリー上はイヌを生かして人を殺すわけだ。
 今年の二大「イヌとしてのヒト」映画のひとつ。

6.『TITANE』(ジュリア・デクルノー監督、フランス)

 車とセックスして車の子供を孕む連続殺人鬼の話。アホな展開がたくさんあって子どものころに子ども会の運動会に参加したときにもらえる駄菓子の詰め合わせパックみたいなプリミティブなうれしさがある。

7.『アフター・ヤン』(コゴナダ監督、アメリカ)

 ふだんならコゴナダみたいな静謐でミニマルで落ち着いた小品です然とした映画をつくる監督なんてでえきらいで、実際『コロンバス』なんか退屈きわまりなかったのだけれど、ドラマの『パチンコ』から潮が変わってきた。踊るのだ。比喩ではなく、文字通りに。

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 最初にいい感じにキビキビ踊る人間の映像を見せると視聴者は脳をやられ、あとに続く映像もなんとなく信頼感をもって見守るようになる。これが2022年にコゴナダが開発したテクニックというか詐術で、『アフター・ヤン』でも、まず踊る。

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 このように人間の認知というのは信用がならない。
 ところで、本作もまた映画についての映画みたいな部分があって、要するに映画とは茶葉を煮出して作るお茶のようなものだみたいなノリがある。理屈と膏薬はどこにもくっつくなあ、とおもうと同時に、映画とは自分で作り上げてしまう理屈を超えられるかどうかだともおもう。本作に関しては超えられていたほう。

8.『リコリスピザ』(ポール・トーマス・アンダーソン監督、アメリカ)

 カップルなようなそうでないような腐れ縁のふたりが愛し合いつつ傷つけ合いつつようやっとキスするまで描いたノスタルジックラブコメ
 ポール・トーマス・アンダーソンの映画はいつもイカれた二人の、外部からは理解できない関係を語る。そういうものを観られるだけでいい。

9.『ヘルドッグス』(原田眞人監督、日本)

 大竹しのぶが演じるマッサージ師があるヤクザ幹部の邸宅を訪問するシーンで、控えの間にいる若い衆たちがテーブルサッカー(サッカー選手に見立てた人形に棒を通した台でガチャガチャするアレ)に興じている姿がちょびっと映るのだけれど、妙にはしゃいでいる。酒の入っていない状態でテーブルサッカーにあそこまで熱中している大人の描写はほかの映画ではあんまり見ない。まあ、たぶんスマホとか携帯ゲーム機とかいじったら怒られる環境で、ろくに娯楽もなくて退屈なぶんをテーブルサッカーで発散しているのだろうけれど、にしてもテーブルサッカーだ。
 かれらもまたイヌなんだとおもった。本作は全編通して(人間に使われる存在としての)イヌの映画で、そういうイヌたちが地獄をめぐる。まさにタイトル通りにヘルドッグス。
 坂口健太郎演じる主人公(岡田将生)の弟分もイヌっぽい。冒頭のトレーニングシーンなんかイヌ同士で馴れ合っているようにしかみえない。
 そして、かなしいかな、この手の映画でイヌがヒトになろうとすると、破滅するのだ。
『二トラム』とならぶ今年の二大「イヌとしてのヒト」映画のひとつ。

10.『アポロ10 1/2:宇宙時代のアドベンチャー』(リチャード・リンクレイター監督、アメリカ)

 リチャード・リンクレイターは一生うそなんだかほんとなんだか曖昧なノスタルジーを垂れ流し続けてほしい。


他なんかよかったり言及したかったりする作品をてきとうに

アンネ・フランクと旅する日記』(アリ・フォルマン監督)
 現代のアムステルダムアンネ・フランク博物館に展示されていた日記からアンネ・フランクのイマジナリフレンドであるキティが抜け出し、いなくなったアンネ・フランクを探し求める。これだけで設定の大勝利みたいな話だけれど、ここからWWIIの時代と現代を接続する力技も見もの。

『さがす』(片山慎三監督)
 行方不明になった父親を中学生の少女が探すミステリ。さすがにあざとすぎるところがちょくちょくあるものの、おおむね力強い画に溢れている。

ギレルモ・デル・トロピノッキオ』(ギレルモ・デル・トロ監督)
 ゼメキスとディズニーが恥知らずな実写リメイクを垂れ流したのと同じ年に、デル・トロはまさしく2022年のピノッキオを再創造した。今年のアカデミー賞の長編アニメーション部門はこれでしょうね。

『不都合な理想の夫婦』(ショーン・ダーキン監督)
 見栄っ張りな夫のせいでひたすら夫婦仲が最悪になっていくだけの話がこんなにおもしろく観られるのは、監督の技倆の高さの証。

『スティルウォーター』(トム・マッカーシー監督)
 アメリカの父性がフランスで暴力に目覚めていく話。この出だしがこういう転がり方するのか、という驚きに満ちている。

『ミセス・ハリス、パリに行く』(アンソニー・ファビアン監督)
 ミセス・ハリスをハウスで目撃したディオールの従業員が舞台裏のモデルやお針子たちに「ねえねえ、すてきなご婦人が来たの!」と報せるシーンで泣いちゃった。みんなを幸せにしてくれる天使をだれが幸せにしてくれるのかという映画です。

ルイス・ウェイン 生涯愛した妻とネコ』(ウィル・シャープ監督)
 退屈極まる前半のロマンス劇がすべて後半のカンバーバッチ虐めのための前フリであったことを悟った瞬間の戦慄。

『ザ・メニュー』(マーク・マイロッド監督)
 変則的なスプラッタホラーだとおもう。シェフの自宅が「この種の狂った人間」の描写としてピカイチ。

『カモンカモン』(マイク・ミルズ監督)
 前作ほどでないにしても、よかったよ。

『ハッチング 孵化』(ハンナ・ベルイホルム監督)
 やや図式的すぎるきらいはあるものの、クリーチャー造形が秀抜。


ブラックボックス 音声分析捜査』(ヤン・ゴズラン監督)
 強迫症的で有能な人物描写としてはコレ以上の映画は今年なかったのではないか。

『ナイトメア・アリー』(ギレルモ・デル・トロ監督)
 なんといってもラストのあの顔。ちいかわですね。

『タミー・フェイの瞳』(マイケル・ショウォルター監督)
 成功した詐欺師の話はいつでもおもしろい。自分を詐欺師とおもってなければさらにおもしろい。
 
『英雄の証明』(アスガー・ファルハディ監督)
 この件でファルハディが黒か白かは別にしても、これまでやってきたはわりとクロっぽいと思う。それはそれとして映画は抜群におもしろい。

ナイル殺人事件』(ケネス・ブラナー監督)
 ケネス・ブラナーの虚仮威しみたいな演出が好きで、これはやりすぎの域にまで達してくれた。ラストはポアロ読者なら大爆笑か大激怒のどっちかだとおもう。

『ウエストサイドストーリー』(スティーブン・スピルバーグ監督)
 もう何撮ってもおもしろいんだもん、このごろのスピルバーグ

『フレンチディスパッチ』(ウェス・アンダーソン監督)
 二回観られなかったので正式な評価をくだすのが不可能なのですが、そもそもびっくりミステリでもないのに二回観ないと評価できない映画をつくる監督のほうに問題があるのでは。

『家をめぐる三つの物語』
 ネトフリで年始に観たオムニバス。どれも家をめぐる嫌な話でとてもよかった。「あまり言及されてない22年のオススメ」を選ぶならこれかな。

シチリアを征服したクマ王国の物語』(ロレンツォ・マトッティ監督)
 原作からの語りの改変が絶妙。ほら話ってのはこうでなくちゃね。

『さかなのこ』(沖田修一監督)
 語られている以上にストレートな聖愚者の物語。

神々の山嶺』(パトリック・アンベール監督)
 原作ファンから不満があるのはわかるが、映画の尺におさめるなら理想に近いとおもう。特にあの実写版を観てしまった身からすると。ほんと。アニメ映画版に文句いってるヒトは実写版観てからにしてほしい。
 登山行の美しさと孤独を画面一発で提示でてきるのは大きい。

オートクチュール』(シルヴィ・オハヨン監督)
 お針子版巨人の星みたいな映画。そうでもないか。ちなみに『ミセス・ハリス』とおなじくディオールが舞台。フランス映画である本作とイギリス映画である『ミセス・ハリス』とで「オートクチュール」観の違いを見出すのも愉しい。
 ところでファッション業界が題材になってると点が甘くなりますね。しょうがないじゃん。だって即物的にきれいなもんが映ってるんだもん。

『帰らない日曜日』(エヴァ・ウッソン監督)
 観た直後は、鶴田謙二のまんがみたいなシーンがある映画だったなあ、ぐらいの感想だったけれど、日が経つにつれこういうリストに入れたくなってくる。

『ホワイト・ノイズ』(ノア・バームバック監督)
 原作からして映画向きじゃないのにどうすんだ?とおもってたらいつものバームバック映画に仕立てやがった。それでもアダム・ドライバーじゃないと成り立たなかったとおもう。それくらいアダム・ドライバーはえらいのだけれど、あまりにえらすぎて、最近はこういう使われかたしかされてない。いいのかな。

チップとデールの大作戦 レスキュー・レンジャーズ』(アキヴァ・シェイファー監督)
 ディズニーのアイコンとしての「チップとデール」というよりは、『レスキューレンジャーズ』のチップとデールの話なので、その時点で一般の観客に混乱を引き起こす上にロンリー・アイランド映画でもあるのでグダグダになった腐れ縁友情ものの要素とバッドテイストなしょーもなギャグまであって、本当にいいのか、ディズニー? 
 それはとりあえず感動的なのはこれが『ロジャー・ラビット』の後継たるライブアクション×アニメーションのハリウッド舞台裏ものである、という事実。『ロジャー・ラビット』では実写と2Dセルアニメだけだったけれど、今回は3Dに加えて日本のアニメ風、サウスパーク、80年代風、パペット、90年代CGアニメ風、粘土ストップモーションなどなどの細かに異なるルックがすべてごたまぜになって世界にひとしく溶け込んでいて、それだけで奇跡を見ているようだった。
 ずっと『ロジャー・ラビット』をリバイバルしてくれ、とおもっていた自分には夢のような作品。こういうときにあらゆるIPを支配しているディズニーは強い。っていうか、ディズニー以外も出ている気がするのだが、どうやってんだか。あと、まあ、さすがにもっとちゃんと話をつくれよ、とはおもったけれど。

 そういえば、この映画でもチップがイヌを飼ってました。チップの家はリスサイズなので、仔犬でも相当みちみちなんですよね。あのみちみち感は『でっかくなっちゃった赤い子犬 僕はクリフォード』っぽかった。でかい犬好きな人は両作とも必見です。
 あとイヌ映画としては『ストレイ』とか『レスキュードッグ・ルビー』とかも相応に良かったです。


 イヌ映画といえば気になるのが最近のアニメにおけるイヌ描写。
 ディズニーの新作『ストレンジ・ワールド』では四肢が欠損して三本脚になってるイヌが出てくるんですが、それを観た数日後に鑑賞した『ギレルモ・デル・トロピノッキオ』でも三本脚のイヌが出てきたんですよね。ふたつとも出てくる脈絡はわかる。前者はダイバーシティの称揚で、後者はWWI後の戦間期傷痍軍人のメタファー。しかし、三本脚のイヌって去年『竜とそばかすの姫』でも出てきたじゃないですか。
 ここまで同時多発的に続くとなんなんだって気持ちになりますよね。アニメ監督はそんなにイヌを脚をひっこぬきたいのか。『ヒックとドラゴン』を観てあたらしい性的欲求でも掘り起こされたのか。アニメなんでなにやっても自由だとはおもいますけれど、架空のイヌの脚を抜く前に、それってほんとにイヌでやる必要がある? 人間でよくない? と自らに問いかけるべきだとおもいます。

 
 ところで、これはわたしが交配によって生み出した五本脚のイヌです。



 かわいいね。



〜おしまい〜

store.steampowered.com

*1:それだって観たかったのの半分も観られていない

*2:『パシフィクション』は映画祭限定上映なのでカウントしてない

*3:『偶然と想像』は昨年のベストリストに入れてる

*4:だから実質かぶってないのは『イントロダクション』くらい。逆に一本も観てないホン・サンスに興味湧いてきた

*5:ちなみに原題は「のっぽさん」みたいな意味で顔とは言っていない

ゲームの夢、映画の魔――『IMMORTALITY』について

(本記事は本ブログに珍しく、あまりネタバレが含まれていない。ちょっとはあります)




 君という光が私を見つける 真夜中に



 宇多田ヒカル「光」


(本編より)



視覚芸術分野において「見ることと見られることについての作品」というフレーズで評することは若干の気恥ずかしさを伴う。使い古された表現であるという以上に、映像の本性がそういうもので、いってみれば(特に映画は)すべてに見る見られる関係を見出せるからだ。論の起点としてはよいのだが、それだけではなにも射抜いてないにひとしい。


とはいえ、「これは見ることと見られることについての作品だ!」と騒ぎたくなる作品はある。そうしたテーマが意識されているものを立て続けに観ていると特に。わたしは最近『NOPE』を観た。『心霊マスターテープ EYE』を観た。『隣のお姉さんが好き』を読んだ。『ブロンド』を観た。『アフター・ヤン』を観た。どれもがそのようにあった。
いずれも映画であり、連続ドラマだ。ゲームではない。ゲームにはふつう「カメラ」があるから。ビデオゲームにおける原罪とは「操作することと操作されること」であり、メタ要素もその局面に顕れる。
つまりは、生命の存在を撮ってしまうことによる罪悪と、非生命に取ることで命を吹き込んでしまうことによる罪悪の違いだ。窃視か、創造か。あなたはどちらで罰せられたいのか。
ゲームがいかに映画を夢見て映画に近づき、映画的な演出が可能なほどのグラフィックと容量を持ち得たとしても、究極的には映画そのものになれない(というか、なる必要がない)理由もそこにある。*1
逆もまた然りだ。映画がどれほどプレイヤーとゲームとの密接な距離に嫉妬したとしても、ゲームにはなれない。

(『ブラック・ミラー:バンダスナッチ』より。朝食のシリアルも選べる)



Netflix の実写インタラクティブドラマ『バンダスナッチ*2は、映画を夢見たゲーム、あるいはゲームを夢見た映画としての失敗のよい見本だ。
ゲームブック的な選択を愚直なまでに貫いて、膨大な数の分岐すべてに映像を用意する。二億人を超えるネトフリの契約者たちがいまだに一人として見たことのない分岐もあるという。狂っている。しかしその狂気じみた物量がなければ、「映画でゲームをやる」夢は見られなかった。*3そして、その夢は現実にはならなかった。あなたがネトフリと契約しているなら実際に観てみるといい。失望が味わえる。それはゲームのできそこないであり、ドラマのできそこないだ。「コントロール」できることがゲームの醍醐味であるはずなのに、選択分岐式のフルモーションビデオゲームではプレイヤーにはあれかこれかという限定的な支配権しか与えられない。その感覚はゲームと映画に共通する美点である没入感を蒸散させる。しかし、歴史の一部を目撃できているのかもしれないという感覚を持てるという点では、体験に値する失望ではある。
実写FMVゲームの理想といえば、テキスト的な選択肢に限らないプレイヤー=キャラの行動や決断がゲームの筋に影響を与えていくような形だろうが、それは実写でなければすでにクアンティック・ドリーム社のデイヴィッド・ケージが『Detroit: Become Human』で完成しており、そして現在のシネマティック3Dゲームは実写に嫉妬しないでいられるほどには実在感を獲得できている。このまま技術が発展していけば、やがては実写と見紛うルックに達するかもしれない。そのとき、真にインタラクティブなFMVゲームが完成するだろう。そのころのわたしたちがそうした種のエンターテインメントを求めているかは別にして。
 

では、映画とゲームはその未来まで幸福な結婚を成就できないのか。
そのとおり、とわたしは答えていた。そもそも映画は映画によって語られるものであり、ゲームはゲームによって語られるものだ。交雑させる必要もない。そう考えていた。



そこに『IMMORTALITY』が現れた。


『IMMORTALITY』は『Her Story』や『Telling Lies』、そして『#WARGEMES 』*4などを制作したサム・バーロウの最新作*5である。
とだけいえば、インディーゲームファンならだいたいどういうゲームか想像できるだろう。わたしもできるならばあなたの知識と想像力にフリーライドして楽をしたいのだが、いちおうワールドワイドウェブは万人に開かれた公共空間であり、この記事もまた万人に開かれた文書であるので、いちおうゲームの概要を説明したい。


『IMMORTALITY』は200を超える実写の映像クリップから成る。三本の未公開映画(『アンブロシオ』*6、『ミンスキー』、『トゥー・オブ・エブリシング』)の撮影カットとそのリハーサルシーン、ホームビデオ、TV番組の録画映像などだ。プレイ開始時点ではほとんど映像クリップは表示されていない。プレイヤーは映像中に映されている人物やアイテムを選択すると、そこからハイパーテキスト的な要領で共通する要素を保つ別の映像へとジャンプすることができる。そうやって未発見のクリップを探し出していくわけだ。
三本の長編映画には共通してある女優が出演している。マリッサ・マーセルという名の人物だ。将来を嘱望されたスター候補だった彼女は三本の作品がそれぞれの理由で不幸なお蔵入りとなったのち、現在は行方知れずとなっている。プレイヤーの目的は失われたフィルムの再構成を通じて彼女の人生の物語を追うことだ。
ただし、本作には(サム・バーロウの過去二作同様)「正解」を示してくれる明快なエンディングもなければ、途中途中であなたの理解を確認してくれるような採点システムもない。選択肢だって一度も表示されない。
アイテムや人物をたどりながら、ただ映像を観ていくこと。それだけが本作におけるゲームプレイだ。あまりおもしろくなさそうに見えるでしょう?

(本編のメニューより)



どこまでを明かすべきか迷う。
あなたが「それ」に出逢う瞬間の驚き、歓び、そして怖れに一点の曇りもあってほしくない。本作は他のあらゆるゲームと同様に、なんの前情報も与えられずにプレイすべきだ。疑いなく人を選ぶゲームではある。しかし、選ばれなかったことすらも代えがたい経験にしてくれる作品というのはある。



そのものではなく、その影ををなぞっていこう。そうすることが本作にとってもふさわしいはずだから。


映画のメタ性についての話まで戻ろう。映画は「誰がこの映像を撮っている/見ているのか」という問いに行き着いた瞬間に虚構性を暴かれて立ちいかなくなる。だから、たいていの作品では作り手も観客もわざとそこを無視する相互的な了解を交わしているわけで、いってみれば甘い犯罪のようなものであり、そこをグダグダいうとるようでは一生映画なんて観られない。
『IMMORTALITY』の作者であるサム・バーロウは、やはり断片的な実写映像によるアドベンチャーを試みた過去二作品において「誰がこの映像(=画面)を見ているのか」について自覚的だった。
『Her Story』でも『Telling Lies』でも「誰」がそのビデオを観ているのかは作中で設定されていて、ときおりホラーのような演出で画面に「観ている顔」が反射する。
その顔はプレイヤーの顔ではない。なぜなら記録映像とその映像を観ることはプレイヤーの人生に関係ない。
バーロウ作品における映像の大半はプライベートなものだ。『IMMORTALITY』の核心をなす映画群ですらどれも未完成かお蔵入りの作品だ。
そうした映像を観る主体は匿名で大勢で交換可能なプレイヤーである「あなた」ではありえない。実際、『Her Story』や『Telling Lies』ではあなたと映像のあいだに第三者を媒介にしている。ところが『IMMORTALITY』ではその隔壁が取っ払われ、あなたと映像が直につながった作品となっている。まさしく、「あなた」がその画面を見ているのだ。物語レベルでそのような作りにするのはいかにも容易なことだけれど、ここで注目されるべきはジャンル的な安易なツイストではない。そのように語られるためにどんな道具立てが用意されたのかだ。


(本編より)


加藤幹郎の『映画館と観客の文化史』によると、80年代にVCR(ビデオ・カセット・レコーダー)の普及により、ノンリニアで反復的な能動的見方をすることが可能になり、「映画を見る」ことから「映画を読む」ことが(映画業界に直接関わらない個人でも)できるようになったという。ここからシーンにおけるコマ数の比較やコマ単位でのカットの変化などを分析する計量映画学*7が産み出されたわけだけれど*8、『IMMORTALITY』においてあなたはまさしくコマ送りやスローモーションや一時停止を駆使して映像を「観る」というより「読む」ことになる。
映画あるいは映画であることの定義は百家争鳴の有様*9だけれど、家庭用映像ソフト登場以前は時間的な不可逆性もおそらく要件の一つだった。
映画の時間は、映画の物語内部ではもちろんさまざまな時間操作が行われていたによせ、現実と同じ流れのなかにあった。その時間の流れはわたしたちには介入不可能で、不可触で、堅固だった。
見ているものしか見えない。それがかつての映画の特性だった。
レーザーディスクやビデオの普及によって巻き戻したり停止することが可能となり、どうなったか。
見えないものが見えるようになった。*10



それはたとえば、幽霊。



心霊映像の多くは一時停止と画像的な引き伸ばしによって霊の存在を指摘する。それらは、その映像をふつうに視聴していた場合には見逃してしまう細部として語られる。厚みを持った映像を薄い一枚の画像にスライスすることで、ようやくわたしたちは霊を視ることが可能になる。
かれらはどこから来たのか。
ベンヤミンは言う。スローモーションには既知の運動のなかに未知の要素を見いださせる機能がある。
そのベンヤミンの言う視覚的無意識を霊へと敷衍した木澤佐登志は言う。「霊がいるからビデオを撮影するのでない。逆である。ビデオを撮影するからそこに(不可避的に)霊が取り憑いてしまうのだ」*11


写真が誕生当初からオカルトやスピリチュアリズムの温床だったことをあなたはどこかで聞いた覚えがあるかもしれない。考えてみれば不思議なことで、ふつうなら現実をありのまま精確に切り取る写真に「ありのまま」以上の要素など見出せないはずだ。ところが初期の写真技術はむしろその精確さと錬金術めいた光化学プロセスゆえに人の眼には見えないもの*12まで”精確に”観測することができるものと期待された。*13
そして、心霊写真家が多数出現することとなる。

(ユジェーヌ・ティエボーの心霊写真。おっさんのオーバーなポーズが愛らしい)



当時のインチキ心霊写真では同じプレート*14で二度撮影する二重露光がよく用いられたという。二重露光(二重露出)は心霊写真の基本技術であり、ダゲレオタイプから百数十年経った時代の日本のホラー映像作品でも二重露出による幽霊表現が使われていた。*15そのことを述べた『ホラーの作法 ホラー映画の技術』で小中千昭は写真・映像のなかの霊についてクリティカルな指摘をしている。「霊魂の顔は、いずれもボケた感じがしている。ボケとは何か。レンズの焦点距離から外れた像だ」。


本来フォーカスしていない対象を過剰に視ること。それこそ映像のなかの霊に出会うための手段だ。映像の媒体も霊媒もどちらもメディウムと呼ばれる。そう、わたしは今『IMMORTALITY』の話をしている。サム・バーロウが本作において最も意識したと公言する*16二作品のひとつ、『CURE』*17の監督である黒沢清はこう言った。「「存在していること」が「見ること」によって保障され、同時に「見ること」の可能性が「存在そのもの」によって極限まで高められる、これが作る側と見る側とが共に経験する映画というプロセスなのではないでしょうか。そして、見るためには当然光が必要です。光があれば、突然反対側に闇ができます。これが映画というものです」。*18この言葉を額面通りに取るならば、『IMMMORTALITY』は映画だ。いかに内部の収められた三作品*19が映画としてぎこちなく、物語としてそそられないものであったとしても、態度においてそうある。

(本編より。クリップには台本の読み合わせやリハーサル、日常風景の場面も含まれている)



『IMMMORTALITY』において、あなたは観客でもあると同時に編集者でもある。あなたがプレイの過程において、クリップを再生したりコマ送りしたりする作業は「本来この映像の編集に使われいたと思われる機器」*20であるムヴィオラを再現したコンピュータソフトを通じて行われているという設定だ。ムヴィオラはアナログな編集機材で、70年代くらいまでハリウッドのスタジオではこの機械で編集作業を行っていた。*21
ゲームプレイにおいてあまりにも些末なこの設定は、しかし本作の本性に迫る上で重要な要素でもある。
あなたは編集作業を行っているのだ。三本の映画にもなっていない映画をランダムに行き来して、バラバラで空白だらけのクリップを頭のなかで補完し、その語りと物語をひとつらなりにつないでいく。自分だけの解釈を作っていく。それは『Her Story』や『Telling Lies』でも試みられてはいたが、映画というメディアを背景にした本作ではより核心的なものとなる。
映画以外のメディアで映画について語ろうとした作品はいくつかあり、なかにはスティーヴ・エリクソンの『ゼロヴィル』のような傑作も存在するのだが、しかし作品受容体験を映画そのものと一致させようとしたものはあっただろうか。映画自身でさえ、そんな芸当は不可能だった。それはクリエイションの体験を受け手と共有するには、フラグメンタルでノンリニアな語りだけでなく、能動的な再構成への挑戦も促さなければならないからで*22、(その受容形態の変化にも関わらず)受け手が直接に触れることを想定していない*23映画には『IMMORTALITY』のような語りは可能なようでいて不可能だ。*24



『IMMORTALITY』は映画を夢見て実際に映画になっているのかもしれない。一方で、ゲームにしかできない仕方で映画を語ってもいる。唯一であることはかならずしもおもしろさを保証しないけれど、無二の達成をしていることはたしかだ。
見返される視線は一方的な権力関係の転覆と双方向性を表す。
そうした視線がふさわしいゲームは現状『IMMORTALITY』以外には存在しない。



*1:そして、似たような理由でアニメーションは映画ではない。よく勘違いされがちだが、「映画ではあること」は優れたメディウムであることの証明ではない。

*2:精確にはドラマ・オムニバス・シリーズ『ブラック・ミラー』のスペシャル・エピソード

*3:ゲーム側からのアプローチ――フルモーションビデオゲーム作品で『バンダスナッチ』と似たようなADVをやろうとした作品はいくつかある。近年ではトビアス・ウェバー監督の『Late Shift』(2016年)、そのパブリッシャーだった Wales Interactive が Good Gate Media と組んだ『The Complex』(2020年)などの一連の作品群、日本では小高和剛の『デスカムトゥルー』などが知られる。興味深いことに『Night Trap』(1993年)などの黎明期のFMVゲーム作品はシンプルに選択肢によって分岐するインタラクティブ・ムービー的な形態をあまり取らなかった。「分岐する映画」を作るには容量と予算が足りず、パズルアドベンチャーにしたりポイントアンドクリック方式にしたりなどの工夫が求められたらからだろう。映画側からの「インタラクティブ」な物語分岐のアプローチとしてはまずギミック映画の巨匠ウィリアム・キャッスルの『Mr.Sardonicus』(1961年)が挙げられる。「二通りあるラストの結末が観客の投票によって選ばれる」という趣向だったが、現在では、実はキャッスルは「二通りのフィルム」など用意しておらず、ストーリーとナレーションによって観客を一意の投票行動に誘導していたとする説が有力(柳下毅一郎『興行師たちの映画史』)。そういうわけで、事実上のインタラクティブ・フィルム第一号はモントリオール万博のチェコスロバキア館で公開された『Kinoautomat』(1967)とされる。これは途中の九つの分岐ポイントで上映が中断され、司会が主人公の行動に関して観客に二者択一の投票を行わせて、それによって物語が分岐していくもの。万博でナンバーワンの人気を集め、そのアイデアに魅了されたハリウッドがメソッドの輸入を試みたがチェコスロバキア共産党によって阻まれたという伝説まである。選択分岐式実写FMVゲームの詳しい歴史については本記事の本題ではないので、またの機会に回す。またアニメーションによるFMVは巨匠ドン・ブルースによる『Dragon’s Lair』(1983年)からデイヴィッド・ケージ作品やDONTNODの『Life is Strange』シリーズ、スーパーマッシブゲームズの『Until Dawn』などに至るまでの長い別筋の歴史があるが、これも今は措く。

*4:日本ではほとんど知られていないが、映画『ウォーゲーム』を原作としてハッカー文化をフィーチャーしたインタラクティブウェブビデオ。無料で遊べる。https://eko.com/wargames-xboxcopy

*5:そして彼の開発会社である Half Mermaid のデビュー作

*6:マシュー・グレゴリー・ルイスの小説『マンク』 The Monk の脚色という設定

*7:シネメトリクス。アニメーションの場合は計量アニメーション学とも

*8:北村匡平『24フレームの映画学;映像表現を解体する』、加藤幹郎編『アニメーションの映画学』

*9:特に最近はネット配信がらみで「『複数人の観客がひとつの画面に視線を注ぐこと』を『映画』の要件に入れるかどうか」(たとえば、リュミエールこそ映画の始原と信じる人々はこの条件を「入れる」ほうの定義を取る)でビデオ時代以上にマニア的にも商業的にも論争が繰り広げられているのだけれど

*10:見ることは啓示であり奇跡であるけれど、読むことは祈りやまじないに近い。止まり留まり戻りを繰り返すことで行間から神秘の徴を掬い取る、あるいは幻視する。再読は精読のためではなく、誤読のためにこそ行われる。

*11:木澤佐登志「霊は細部に宿り給う、とでもいうのだろうかーー『ほんとにあった!呪いのビデオ』のクリティカル・ポイント」『霊障 vol.1』心霊ビデオ研究会

*12:たとえば、流体(fluid)。エーテルとか動物磁気などと呼ばれ、空気中や人体の周囲を取り巻いていると考えられていたそれらの物質を写真は捉えられるのではないか、そう考えられていた。

*13:『写真のボーダーランド X線・心霊写真・念写』浜野志

*14:フィルムに相当

*15:もっといえば、映画はその誕生以前から幽霊を弄んでいた。十八世紀末のイリュージョニスト、エティエンヌ=ガスパール・ロベールが幻燈機を利用して行ったファンタスゴマリアと呼ばれる幽霊ショーがそれだ

*16:https://www.washingtonpost.com/video-games/2022/09/16/immortality-sam-barlow-interview/

*17:もうひとつは『インランド・エンパイア

*18:黒沢清、21世紀の映画を語る』

*19:小説家でもあるアメリア・グレイ(バーロウの前作である『#WARGAMES 』が『Mr.Robot』とからんでいるので、その関係もあっただろうか)、『ワイルド・アット・ハート』の原作者にして『ロスト・ハイウェイ』の脚本家であるバリー・ギフォード(『IMMORTALITY』に限らずバーロウ作品はデイヴィッド・リンチの影響が絶大)、バーロウが本作の影響元のひとつに挙げている『赤い影』の脚本家アラン・スコットの三人がそれぞれ脚本を担当している事実は非常に重要。

*20:ゲーム中のガイドより

*21:マイケル・カーンは05年に『ミュンヘン』でアカデミー賞最優秀編集賞にノミネートされたときまでムヴィオラを使用していたという。

*22:ミステリにおける「なぜ読者は読者への挑戦状を受け取らないのか?」という問題とも似ている

*23:触れ得ないことが映画の神聖さでもある

*24:そうしたものに接近した例としては本作でもリスペクトが捧げられているデイヴィッド・リンチがいて、というかリンチを観たせいでバーロウもこんなものを作ったのだとおもうのだけれど、観客はともかくリンチ自身は『IMMORTALITY』的な方向性に興味があるようには見えない