名馬であれば馬のうち

読書、映画、ゲーム、その他。


読書、映画、その他。


文字と声と亡霊たちの天国――『ディスコ・エリジウム ザ・ファイナル・カット』について


「けど、”ディスコ”・エリジウムでしょ……。おかしくないかしら? ディスコは過去のもの、忘れられたものでしょう?」
「過去は未来だが、未来は死んでいる!」


 ――『ディスコ・エリジウム




 『ベイビー、あんたが探してんのは結局あんた自身なのよ』


 ――舞城王太郎ディスコ探偵水曜日』(新潮文庫


 Disco Elysium の感想を書くなんてことは不可能だ。なぜなら、それは概観して全貌を捉えようにも分裂しすぎていて、要素へ分解しようにも継ぎ目がなさすぎる。*1そもそも世界の感触をことばで伝えるなんて人間の技量を超えているのでは?
 なので、ここに書かれているのはプレイ中に発された声の残響だ。あなたのために用意された25番目のスキル。それがわたし。


知覚(聴覚)[中:成功]
   遠くでラジオが聴こえる。世界のラジオが。音が流れてくる。おはよう、エリジウム。もうすぐ世界に戻る時間だ。


 大脳辺縁系*2と古代爬虫類脳に苛まされる常闇から抜け出すと、あなたはホテルの一室ですっぱだかになって昏倒している四十代の髭面の中年男性だ。自分の名前もわからない。なぜそこにいるのかもわからない。今が何年の何月何日かもわからない。なにもわからない。自分がみじめであること以外は、なにひとつ。

これがあなた。どんなに泣いて拒もうが、暴れて嫌がろうが、これがあなた。


 あなたは部屋中に散らばった衣服をかきあつめ(なぜ窓が割れているのだろう?)、のろのろと部屋の外へ出る。その瞬間から三十時間に渡る洪水に見舞われる。文字と声の氾濫だ。
 もちろん人が喋る。あなたが話しかけたキャラクターは(あなたを嫌っている人物でさえ)みな饒舌に自分のことを語ってくれる。物も喋る。街中に散りばめられたオブジェクトは土地を語り、歴史を語っている。ときに比喩ではなく物が”喋り”、こちらへ語りかけてくることさえある。コンテナや郵便ボックスやネクタイとは仲良くしたほうがいい。

もちろん死体も喋る。「物言わぬ死体」なんて誰がいった?


 そして、なにより、あなたの脳の中の24のスキルたちがささやきかけてくる。「論理」が指針を構築し、「百科事典」が用語を解説し、「修辞学」が会話を助け、「演劇」が相手の嘘を見抜き、「概念化」が芸術を称揚し、「視覚計算」が捜査し、「意志力」が正気を保ち、「内陸帝国」が狂気へ突き落とし、「共感」がやさしくさせ、「権威」が脅し、「団結心」が拠り所となり、「暗示」が皮肉を効かせ、「耐久力」によって耐え、「痛覚閾値」が痛みを求め、「肉体装置」が暴力を求め、「電気化学」が快楽を求め、「悪寒」があらゆる情景を描き出し、「薄明」があらゆる不安をほじくりだし、「手と眼の協調」が工作し、「知覚」が読み取り、「反応速度」は即応し、「才覚」が自由市場原理を唱え、「手さばき」が盗み、「平静」は二十四時間いつでも平静だ。これらの声は単にTRPG的なダイスロールによる成功判定に用いられるだけでなく、あなたの頭のなかで常時がなりたてたりケンカしたり議論したり一致団結したりする。
 頭のなかに24の人格がいる状態、と聞いて、あなたはもしかして自分が狂ってしまったのかと心配するのかもしれない。安心してほしい。その懸念は当たっている。
 ありとあらゆる声が文字となり、一つの小さな区画に閉じ込められている。Disco Elysium とはそういうゲームだ。


概念化 -
   ゲームだと? ゲーム? これが? ゲームというのはもっと……


 そう、あなたは(FGOを抜きにすれば)2020年代ビデオゲームとしては考えられないほどのテキスト量に呑み込まれる。ようこそ、エリジウムへ。ひとつのゲームとしてはもちろん、あるいは小説としてさえ異常な文字数だ。英語にして120万ワード弱*3。量だけでいえば、これを超える文学作品はマルセル・プルーストの『失われた時を求めて*4くらいしか存在しない。ピンチョンもトルストイもギャディスもトールキンドストエフスキーもスターンもGRRマーティン(電気化学:「早く続きを出せ!」)も、Disco Elysium に比べたらどんなに長い作品でも半分ほどの量しかない。
 あなたは目覚めたばかりのねぼけた頭でこう反発するだろう。
 量が問題なのか? 物語の質とは量なのか?
 そうだ。少なくともこの場合は、量だ。
 今話しているのはひとつの物語についてではない。必要最小限の手数で最大限の快楽を得られるようなハンディなドラッグについて話しているのではない。世界を作るために、あなたに世界がここに在るのだと錯覚させるために必要な物量について話している。

踊る大捜査線


 文字を読むこと。とにかく膨大な記述を眼で追うこと。それは書物時代の儀式であり、リュミエール以降には避けるべきとされる忌まわしい行為だった。21世紀のひとびとはアクションにしか興味をもたない。なるべく喋るな、なるべく書くな、語るな、見せろ、猫を守れ。
 そうしてメガノヴェル的なパラノイアは前世紀へと駆逐され*5、わたしたちは聖堂のように静かなスクリーンを慎み深く眺める禁欲的な消費者になった。
 Disco Elysium はその逆をいく。世界を文字で溢れさせている。そして、決定版となる現行の Final Cut バージョンではその文字に(声として発されるべきものについては)すべてボイスが吹き込まれている。
 文字も声も語るためのツールだ。それらは何を語っているのだろう。物語? 半分は正解だ。しかし人は物語には感動はしても崇めはしない。わたしたちが畏敬を抱く対象は世界そのものだけだ。そして、わたしたちは世界を広大さによって知覚する。果てのない感覚。果てにはまだその先の果ての果てへの期待。未視感。驚異。憧れ。
 それはしかし本来は”画”に媒介される感覚だ。文字に表現できる範囲は、非合理なまでに狭い。だが、文字という不便で不器用な方法の積み重ねによってでしか表現しえない領域がある。記憶と過去がそれだ。


百科事典
   ボルヘスはかつてこう言った。書物は記憶と想像力が拡大延長されたものだ、と……。*6 ついでに、こうも言った。書物は残されているが、死んでいる、と。


平静[失敗:やや難しい]
   それは言っていない。


 Disco Elysium の舞台となるのはレヴァショール*7という架空の都市の一区画であるマルティネ―ズだ。フランス革命ロシア革命が同時に起こったような騒乱で一度は共産主義政権が樹立されたものの、《連合》と呼ばれる資本主義者の外圧によって粉砕された。以降はどの警察の管区にも属さない、政治的社会的空隙のような一劃になっている。1910年代と30年代と70年代と2020年代のそれぞれの挫折をミックスしてかき回したような終末の感覚。夢見られていた理想は王政時代の立像の下に埋葬されてしまった。
 革命も熱狂もとうに冷えている。そこに住むのは打ち捨てられた人々だ。誰もかれも貧しく、絶望している。12歳の少年はヤク中の父親に虐待されて家を飛び出し、連日木から吊るされた死体に石を投げている。公的機関に替わって街を取り仕切る労働組合は腐敗しきっており、過激な人種主義グループと結託してさえいる。時代に取り残され、誰からも必要とされなくなった老人ふたりは肩を寄せ合うようにして毎日街の片隅でペタンクに明け暮れる。
 街自体も寂れきっている。鈍色の建物や銅像が雪に埋もれ、なにかが芽吹く気配を微塵も感じさせない。その中心にあるのが呪われた集合商業施設で、そこに入ったテナントはたちまちに潰れてしまうと噂される。
 ゲームを開始して三十分であなたは理解する。壊れてしまっているのはあなただけではない。この街もだ。


薄明
   ここもだ。

金持ちすぎて光(空間)を捻じ曲げるおとこ。大好き。来賀友志がSF作家だったらこういうキャラを考えていたかもしれない。


 そうした壊れ果てた街と人々からあなたは世界と人々についての過去を掘り返す。あるいは思い出す。忘れないでほしい、意味不明な単語や歴史を教えてくれる「百科事典」スキルも元はあなたの脳に宿っている。
 そうしてあなたの人格も思い出されていく。しかし注意してほしいのだけれど、思い出されていく自分自身の人格とは、ゲームプレイ上では作り出されるものでもある。あなたは社会主義理論の信奉者だったかもしれない。ハードコア美学の理解者だったのかもしれない。ネオリベも裸足で逃げ出すウルトラリベラリストだったのかもしれない。極めて複雑で奇々怪々な人種差別理論をインプットしたファシストだったのかもしれない。自身のセクシュアリティから”解放”された人だったのかもしれない。すばらしい量のクソを勢いよくぶちまける肛門の持ち主だったのかもしれない。あらゆる物質を変形破壊することで次の創造の形を導く対オブジェクト部隊員だったのかもしれない。コル・ド・ド・ダクアの声を聞くために全身の皮膚を聴覚器官と化した黄金の耳の持ち主だったのかもしれない。共産主義の0.000%を実現して”真実”の学位を取得し今、共産主義を立ち上げるのではなく、二枚舌のグロテスクなこの世界の正確なモデルを確立しようとしている本物の共産主義者だったかもしれない。これらすべてであった可能性もある。どれでもなかった可能性もある。

ここでのあなたは熱烈な共産主義者であり、レイシストであり、ほとんど浮浪者であり、黙示録の到来を予感させるスーパースター刑事だ


 あなたはゲームプレイを通じてあなたという人格を作り出していく/思い出していく。*8注意してほしい。あなたが取り戻していくのは、自分が「どういうふうに壊れていた」のかということだ。そう、「壊れていた」という事実だけは動かしがたい。マルティネ―ズという街がそうであるように。
 なんでも言おう。大量のテキストが要るのだ。それは自動的にあなたの網膜に流し込まれていく文章ではない。あなたが自分で選び、鯨飲せねばらない。破滅的な飲酒を行うようにして、あなたは進んでテキストに酔い、テキストに呑まれていく。*9
 そう、望むのなら、あなたは自分がアルコール中毒者だったということにもできる。


内陸帝国
   あなたさまはここで、是が非でもカラオケをしなければなりません。このような機会は滅多にないのですから。内に秘めたその感情を表現なさるべきです。あなたの海にように広大なお心を、皆に広く知らしめるべきです。


 だからこそ、*10Disco Elysium はハードボイルド刑事小説のとらねばらなかった。昏倒から始まり、歩行と聞き取りによって街と人の(忌まわしい)記憶を呼び起こすには、これ以上ふさわしいジャンルはない。
 単にメインのストーリーとその道具立てだけをなぞるなら、本作はシンプルで古典的で明快だ。名も無き死体、ファム・ファタル労働組合と企業の対立、スト破り、酔いどれ刑事、戦争の記憶、みなしごたち、人種差別、スラムの再開発、陰謀、地下の同性愛者たち、素手の殴り合い、男たちの友愛、消えた銃、共産主義、行方不明者たち……そういうものがハメットの『血の収穫』風の勢力間衝突とチャンドラー好みの”男と女の物語”を通して*11語られていく。懐かしさすらおぼえるかもしれない。
 そのシンプルな物語が、それまで呑んできた(一見本筋とは関係ない)テキストと記憶によってたまらなくオリジナルな体験になる。
 つまるところ、Disco Elysium は難解なゲームではない。たしかに複雑な歴史が描かれているし、現実とは異なるテクノロジー(ラジオ通信によるインターネット!)や明らかにSF的な設定(〈識域〉と呼ばれる謎の空間物質)に満ちている。しかし、それらは全く未知というわけでもないし、理解不能というわけでもない。ただ、膨大なのだ。そして、広大なのだ。世界のように。世界そのもののように。わたしたちの脳みそが処理しきれないレベルで。
 もちろん、「広い」ゲームはいくらでもある。「豊かな」ゲームも無数にある。世界を語るために散りばめられたロアにしたって、最近の大作オープンワールドRPGなら当然のように具わっている。*12しかしそうしたゲームにおいて世界は視られ、触れられるべきものだ。Disco Elysium での世界とは、読まれ、聴かれるべきものだ。


柳田國男
   つまり、セックスってことやね。

折口信夫
   今回は違うと思います。


 だから、あなたも聴くだろう。読むだろう。思い出すだろう。
 過去からやってきた未来の天国。
 グルーヴィでディスコなエリジウム







*1:本作の世界観、ゲームプレイ、設定、人物、背景知識、レファレンス元などを知りたければ、ゲームメディアの doope! の特集連載を読めば大体足りる。プレイ前に概要を掴みたいならここを読もう。https://doope.jp/2022/06127832.html

*2:「記憶は海馬でコード化され、大脳真皮質に貯蔵され、前頭―辺緑系のメカニズムによって取り出される」『意識はどこから生まれてくるのか』マーク・ソームズ、岸本寛史&佐渡忠洋・訳

*3:https://doope.jp/2022/07128131.html

*4:英訳版は約126万ワードとされる

*5:メガノヴェル自体は前世紀的ではないやりかたで今も生まれ続けている。https://www.esquire.com/entertainment/books/a40828532/adam-levin-mount-chicago-maximalist-novel/?fbclid=IwAR2xowm6yCab6cV-9hTGRKdzWmXAaUhhi8GF8rbNHTV7eQSRmhuEaLmuaeM

*6:『語るボルヘス 書物・不死性・時間ほか』ホルヘ・ルイス・ボルヘス木村榮一・訳

*7:Ravachol 間違いなく19世紀にレストランを爆破してギロチンにかけられた元墓泥棒のアナキスト、フランシス・ラヴァショルに由来している

*8:もしかしたらあらゆる”ロールプレイ”をしつつもどの”ロールプレイ”にもならないことがこのロールプレイングゲームの核心なのかもしれない

*9:公平を期すなら Disco Elysium こそ要所要所でのビジュアライズが卓越した作品であることは言明しておかねばならない。それを認めることがこの記事の記述の大半に反することになってもだ。特にブランコのシーンやあの”虫”が登場する瞬間の美しさといったら……

*10:「歩くことは読むことである」というクリシェと化したレベッカ・ソルニットの名言を引くまでもなく

*11:そして驚嘆すべきことに、2020年代的なバランス感覚で

*12:直接の参照元となった Planescape 以外にも本作に多大な影響を与えたcRPGの伝統も見逃していけないだろう。その伝統が他国より強大だったエストニアのゲーム文化という背景も。そこのあたりは前述の doope! の特集記事に詳しい。

あこがれを吸い寄せる虚空――『虚空の人 清原和博をめぐる旅』について

 長島は英雄だった。難しい理由は必要なかった。子供にも即座に理解できる英雄だった。長島になりたかった。野球選手になって長島になりたかった。たとえ野球選手にならなくても長島になりたかった。
 少しずつ自分は長島でなく、長島になれないのだということがわかってくる。しかし、高校生になり、大学生になっても、心のどこかに長島になることができたらと思いつづけてきにちがいない。もし長島になれたら……。
     沢木耕太郎「三人の三塁手」(『敗れざる者たち』文春文庫)



『虚空の人』は、覚醒剤取締法違反で逮捕された元プロ野球選手、清原和博の釈放後の人生を追ったルポルタージュだ。
 清原はPL学園時代に甲子園で活躍して大スターとなり、プロになってからも西武ライオンズ読売ジャイアンツの主力バッターとして君臨した。タイトル獲得歴こそないものの、高校時代から常に球界の話題の中心にいた選手であり、それは引退後も変わらなかった。
 2016年2月、清原が覚醒剤で逮捕された。釈放後、スポーツライターの鈴木忠平は清原ファンである『Number』編集長と組んで、甲子園時代の清原に関する特集を組む。その記事を読んだ清原からかかってきた電話をきっかけに、清原と鈴木の交流が始まる。
 絶望の底にあり、自分からはほとんど何も話さない清原だったが、取材中、鈴木がふと口にした「今年の夏の甲子園第百回記念大会を観戦しにいってはどうか」というアイディアに興味を示す。そこから現役時代からの友人であるスポーツ用具会社の社長・宮地やステーキハウスの店長・サカイらとチームを組み、甲子園観戦に向けてたるんだ身体を鍛え直そうとしはじめる。
 ところが、清原はトレーニングを始めてすぐに気力を喪失してしまう。ジムに行きたくないと駄々をこねたり、宮地たちの呼び寄せたインストラクターをクビにしようとしたり。典型的なうつの症状なのだが、わかっていても支援している仲間たちは果てしない徒労感をおぼえてしまう。
 だが、彼らは清原を見捨てない。本業であるスポーツ用具業やステーキハウス業をなかば投げ出してまで廃人同然の清原を助けようとする。世間的には「終わった人」である清原を。
 なぜか。
 著者がそのことについて宮地に直接尋ねるシーンがある。宮地は返答に窮し、「ちょっと考えさせてください」といって電話を切る。その問いは清原を追う著者本人にも返ってくる。
 なぜ清原でなくてはいけないのか。


 本の終盤、野々垣という清原の元秘書兼運転手が出てくる。野々垣は元プロ野球選手。甲子園でPL学園の敵チームの応援として初めて清原を目撃し、PL学園時代は清原の後輩、そしてプロ入り後の西武時代はチームメイトでもあった。
 現役引退後は安定した会社員生活を送っていたが、ある日、巨人に移籍した清原からかかってきた一本の電話で彼は清原の付き人に転職する。清原が引退し、離婚のストレスから球界外のあやしげな人間たちと付き合い出すと野々垣は違和感をおぼえて清原のもとから離れる。そしてなんと清原の因縁の相手である桑田真澄の経営する少年野球チームのコーチに就く。
 それでも心は清原から離れられない。清原の逮捕時には、鈴木と接触し、「自分が清原さんについての本を書くから、その売り上げを全部清原さんにあげられないか」と申しでる(当然無理だった)。
 人生を通じ、野々垣は清原とくっついては離れていく。それであまり報われているようには見えない。むしろ、清原のいないほうが少なくとも社会的には安定した人生を送られたのではないか。彼はいう。
「清原さんといっしょにいるのが一番しっくりくるんです」
 こうもいう。
「僕は清原和博になりたかったんですよ」


 そのセリフで別のルポを思い出す。
 沢木耕太郎の「三人の三塁者」だ。
 レギュラークラスの実力を持ちながらも、長島茂雄の巨人入団によって野球人生を狂わせてしまった二人の三塁手、難波と土屋のその後を沢木が追う話だ。
 長島は沢木にはあこがれのヒーローだった。しかし同時に決してつかむことのできない幻影でもあった。
 その感情を沢木は団塊世代の「ぼくら」共通の敗北として描いた。子ども時代にだれもがぼんやり恋い焦がれる将来のイデアとしての長島。だが、成長の過程で可能性は剪定されていき、大多数はどこかの段階で長島にはなりえないのだと悟る。
 だからこそ、沢木は「長島になれる可能性があった長島のライバルたち」を感情移入として見いだす。

 もしも長島になれたら! しかし、ぼくらはついに長島たりえなかった。だからだろうか、やはりついに長島になりえなかった二人の男に、強く心を惹かれるのは……。
    沢木耕太郎「三人の三塁手



「三人の三塁手」の長島像と『虚空の人』の清原像は似ている。どちらも天真爛漫で裏表がなく、人なつこい。レギュラー争いで蹴落とされたり、試合で敗北したライバルたちからも愛されてしまう。*1
 私はスターであったころの長島も清原も知らない。一般論で話すと、「スターとは観客の欲望を受け止めるからっぽの器である」という説をよく聞く。長島や清原もそうした意味でただしくスターだったのだろう。なれるはずのないことはわかっていてもなりたいという憧れを止めることのできない欲望の対象。「その人になりたい」という同一化への強烈な感情は外から見れば愛として観測される。
 宮地にとっても野々垣にとっても、そしておそらく著者にとっても、清原は他者であると同時に自分でもある。
 『虚空の人』でのなかの清原はどこまで閉じた人間だ。状況が状況なのでしょうがないのだが、あまり多くを語らないし、自分の行動に説明をつけない(というか、つけられない)。
 説明されずに閉じている、というのは同時に解釈にあたっては開かれているということでもある。 著者は徹底的に清原を調べようとする。PL学園時代の監督や同級生を取材し、そのキャラクターに迫っていく。
 だが、あるとき、PL学園時代の監督からこんな非難を受ける。
「あなたは結局、清原を食い物にしようとしているだけではないのか」
 そのことばにショックを受けて自分の中にあったある欲望に気づいた著者は、清原についての取材を中断し、清原とのつながりそのものを絶とうとする。
 実は「三人の三塁手」にも似たような流れがある。長島の先輩で、長島入団と同時にレギュラーの座を奪われてしまった土屋という選手がいた。沢木耕太郎は土屋本人に会うために、彼の親族や関係者との接触を試みるのだが、「ほうっておいてあげてください」などと言われてなかなかうまくいかない。それでもどうにか渡りのつけられそうな人物を発見するのだが、そこで疑問が芽生えてしまう。

 彼と会ってどうしようというのか。なにをきこうというのだろう? 重いものが、ぼくのなかに溜りはじめていた。
(中略)
 土屋と動機の友人に連絡の橋渡しを頼み、ひたすら彼からの連絡を待った。ついに彼からの連絡はこなかった……と、本来ならば書くところであろう。この文章の首尾を一貫させるためには、そうでなくてはならない。しかし、事実を記しておこう。ぼくは土屋をおいかけることをやめてしまった。彼に会って、どうしたらよいのか? もう訊ねるべきことはなかった。
    沢木耕太郎「三人の三塁手



「三人の三塁手」において、沢木が取材を途絶した具体的な理由は描かれない。
 ただ、彼は気づいてしまったのではないかと思う。ルポルタージュにおいて、取材対象が実は自分自身の欲望の映し鏡であることに。
 土屋と会って話したところで、そこにいるのは自分の欲望した「長島になれなかった自分」の似姿でしかない。
 土屋が長島とのポジション争いや野球人生を通じて実際に何を考えどう感じたのかとは、なんの関係もない。一流のストーリーテラーである沢木は予感していたのではないだろうか。土屋と出会ったら「物語」が崩れてしまうことに。*2
 翻って、『虚空の人』の鈴木は沢木ほどには作家的な才覚(詐術、と言い換えてもいい)に恵まれてはいない。そのことが、『虚空の人』の語りをぎこちなくもするし、誠実にしもする。
 本書を読んでも清原和博という人間がどうして薬物に手を出したのか、逮捕後に何を考えてどう過ごしていたのか、深いレベルではわからない。ただ、清原という誘蛾灯に引き寄せられ、その身を焦がすひとびとの昏い輝きを目にすることはできる。
 うつくしいと思うべきか、かなしいと感じるべきか、どちらなのかは知らない。

*1:実際の人物がどうであったかは私はビタイチ興味がない

*2:そんな彼の作家的資質が最も露骨かつ上質な形で出たのが『人の砂漠』に収められている「おばあさんが死んだ」だ

ORGANISM という未来の廃墟に行った。ーーVRChat紀行

 
 
 廃墟というのは裏返しの未来にすぎない。
        -ウラジミル・ナボコフ

 

 

 
 
 
 
 

 エメラルドの鹿に導かれて電話ボックスから出ると、そこは誰の記憶にもない中庭だ。

 暗い。異様に暗い。団地なのか、マンションなのか。陰鬱とした空気に憑かれた高層住宅に四方を囲まれ、上を見ると建物が渦をまいて白く輝く空の穴に吸い込まれている。

 出口はない。

 心細くなっていると、柔らかな表情の球体関節人形、八十年代から復活してきたかのようなウサギめいた謎電子生物、リトルグレイ、黒い天使、黒い少女、ワンピースの少女、黒いペスト医師などが出迎えてくれた。

 これからいっしょに ORGANISM を攻略しようという。

 ORGANISM ?

 眼の前にそびえる建物は有機体というよりは、どうしようもなく無機物であるようにおもわれた。仲間たちに疑問をそのままぶつける。

 どういう意味なの?

 それをこれから見に行くのさ、と電子生物は長い耳を揺らしていった。

 

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 ORGANISM は DrMorro なる人物が創造した VRChat 上のワールドだ。あらゆる地獄がそうであるように数ステージの階層からなり、ステージごとにテーマとなる舞台が異なる。容量は400MBほど。VRCのワールドのなかでは大きめの部類だが、ずばぬけたサイズというわけでもない。

 最初のステージは集合住宅だ。

 黒電話と謎の信号を映したブラウン管テレビの置いてあるエントランスから短い螺旋状の階段を上ると、吹き抜けになった一角へと出る。そこの壁には長方形の銀色の口が無数にあるいは無限に並んでいて、これはなんだろうといぶかしんでいると、

「郵便箱ですね」

 と同行者のひとりから声があがる。

 なるほど、郵便箱。集合住宅の出入口付近にあるのだし、理に適っている。

 郵便箱そのものに触れてもインタラクションは生じない。遊びに来たのだからなにかおもしろい仕掛けはないものかともう一度あたりを見回す。

 壁沿いに備え付けられた階段とタラップに気づいた。望めば天国まで届きそうなほどの高さまで続いている。

「あっ」とふいに電子ウサギが声をあげた。「エレベーターがありますよ」

 エレベーター。エメラルドの鹿がエレベーターについてなにか警告していた気がする。ここでははぐれると合流が難しい。不審なものにうかつに触れたり乗ったりすると変な場所に飛ばされ、もとの地点へ戻るのに苦労する。

 止めなければ、と思ったときには好奇心旺盛な電子ウサギは全速力で走り出していて、いきおいのままに昇降ボタンを押し、瞬時に消失する

 声をかける間もない。

 そのさまを見ていた別の同行者と目が合う。

「……あれは死んだものと思いましょう」

 建物に侵入してから十分も経っていない。こういう映画を、むかしに観た気がする。おろかで脆弱な人間どもが武装して《ゾーン》を探索へ向かうが、ひとり、またひとりと静かに無残に退場していく。あれに似ている。

 果たして二時間後にどれだけのものが生き残っているのか――

 などとおののいていると、空から何かが音もなく墜落した。さっきの電子ウサギだった。

「エレベーターはかなり上の階につながってるみたいでした」

 階段を登るのが億劫な人のために設置されたショートカットらしい。わざわざショートカットがあるということは、そこが正規のルートなのだろうか。

 われわれは上へ登るのを後回しにし、廊下から通じている別の部屋を探索することにした。

 なかはいかにも古いマンションといった具合で、黒いゴミ袋がダストシュートのまわりに投棄されていたり、複数の電気ボックスが階段状にならんでいたり、『インセプション』みたいに空間が螺旋状にねじれた廊下があったり、廊下の壁ぎちぎちに詰まった列車の前にリトルグレイが立っていたりした。

 

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 中庭もあった。最初も中庭だった気もするが、ここは比較的狭く囲われた場所だ。中庭というよりは窪みに近い。積もった雪かなにかがシェードのついた電球の上方にある何かの吸引口に吸い込まれている。積もっている白いものは『エルデンリング』のローデイル城(後)のような起伏を生じさせていて、赤々としたライティングといいどうも不吉だった。

 長居するような場所ではないと判断してみな階段から戻ろうとする。が、アバターが階段の天井にひっかかって出られない。背をかがめて一歩ずつ段をあがっていき、なんとか脱出する。ひとりだけ、リトルグレイがどうしても上れずに、白い底でさびしく立ち尽くしていた。

 

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 造られたときから廃墟となることを運命づけられた風景、それが VRChat のワールドだ。VRChat のワールドには基本的に人がいない。ひとけのあるワールドも存在するが、そこにいるかれらもまた訪問者であり、その世界に棲むために創られたものではない。だれもがひとりでやってきて、ひとりで去っていく。

 

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 ウンベルト・エーコによれば、「十六世紀から十七世紀末にかけて、人びとは失われた文明のイメージを廃墟にみてとり、そこに人間の命運のはかなさに対する教訓的な思索の糸口を得ていた」(「芸術における不完全なかたちについて」)

 十八世紀的な廃墟とは「精神的な一貫性を欠く断片のコラージュ(イタリアをちょっと、中国をちょっと))」(高山宏)なのだが、ORGANISM は断片でありながらもどこか一貫している。

 おそらくそれは DrMorro*1 というひとりの作者の夢と記憶に由来しているからかもしれない

 DrMorro のワールドを訪れた経験があるものは多いはずだ。一時期、常時「人気のワールド」欄に表示されていた大規模ワールドである Olympia には、わたしも右も左もわからない Vistor 時代に訪れ、その広大さに感銘を受けた。初めて VRChat の可能性を感じさせてくれたワールドでもある。

 Olympia はヘレニズム的な雰囲気をたたえている。一方で、DrMorro のワールドにはもうひとつのラインがある。

 Moscow Trip シリーズがそれだ。「Moscow Trip 1952」と「Moscow Trip 2002」のふたつが現状公開されており、そのタイトル通り、1952年と2002年のモスクワの風景が再現されている。「1952」に入ると当時のロシアの典型的な集合住宅でスポーンし、外に出て公園で遊んだり、遊覧船に乗って偉大なるスターリズム建築の世界を愉しむことができる。ここの公園で『同志少女よ、敵を撃て』の読書会を開いたのはわたしにとってのソ連時代のよい思い出だ。

 

www.youtube.com

 VRChat で印象的なのは、自分たちの生活圏を再現しようとする人々だ。ロシア人と韓国人に多い気がする。どちらもこの三十年で劇的な変化を経験した国だ。かれらはチェーンのスーパーや実在する鉄道駅や集合住宅の一室を VRChat の世界に復元しようとする。

 

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(*これは ORGANISM とは別の、韓国の駅を再現したワールド)

 

 それらの施設はどれも使い古されていて、さびしく、しかしどこか懐かしい。異国人であるわたしはそうした原風景を記憶に持っていないにもかかわらず、そう感じてしまう。「アメリカ映画を見て郷愁をおぼえるすべての観客は〈アメリカ人〉」*2であるように、1950年代の集合住宅*3の壁紙の質感に、ロシア人の気持ちになってしまう。その懐かしさが実際のロシア人の抱くものとおなじであるかは関係がない。なぜなら、その世界はロシア人を欠いている。ただひたすらの廃墟。一個人によって夢見られた世界がその世界と接続していなかったはずの誰かの記憶を浸食していく。それは『ゆめにっき』で行われたことだ。『Undertale』で行われたことだ。Vaporwave の世界で、Liminal Space の世界で、インディーやアンダーグラウンドと冠されるあらゆる芸術の領域で行われてきたことだ。 自分の幻想で他人の脳を塗りつぶすためには、ある程度まとまった規模の世界を用意する必要がある。「Moscow Trip」シリーズは愛らしくも強固な世界観を有していたが、それはVRの旅人たちの祖国を乗っ取れるほどに巨大ではなかった。そのモスクワは組織されているようで、やはりばらばらの断片の寄せ集めだったのだ。

 断片をつなぎあわせるための糸を物語と呼ぶ。

 

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 ORGANISM には物語があった。

 VRChat のワールドには人間を含めた生物がいない。オルガニズムが不在なのだ。

 ハーバート・スペンサーやリリエンフェルトらが提唱した社会有機体説では、社会は生物有機体に擬せられる。部分は部分同士で相互に依存しあい、分解して戻しても機械のようにはふたたび機能しない。全体でようやくひとつの単位なのだ。

 ORGANISM でも一見脈絡のないあらゆる要素が分かちがたく絡み合っている。ある種のイメージやオブジェクトは反復され、その反復が複数の趣の異なるワールドをつないでいる。

 

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 わたしたちは輝く液体で満たされたタイル張りの水槽を見るだろう、廊下に放置されたベッドを見るだろう、八方から飛び出してくる電車の運転席を見るだろう、だれかのささやきを聴くだろう、頭上を照らすまばゆい光を見るだろう。

 それらはおそらく簡単なプロットに言語化しうる。だが、それはわれわれの物語ではない。物語の解読をすること自体は実は重要ではない。いや、あるいは重要なのかもしれない。物語を読み込もうとすると自然、細部を凝視せざるをえなくなる。イメージが脳に焼き付く。世界が乗っ取られてしまう。その過程の罠に誘うために物語は必要なのかもしれない。

 驚くべきは目に見える場所にはだいたい行けること。AAAのオープンワールドRPGのような開かれた自由さがここにもあらわれている。この自由さが細部への耽溺を可能にもしている。

 ORGANISM は未来の廃墟だ。二十一世紀のわれわれは廃墟を造り出すために他人のイメージを必要としなくなった。いまや他者は攻め落とされるべき目標としてのみある。創り出さないわたしは蹂躙されるしかない。

 ORGANISM を訪れてからもう二日、あの世界のことばかり考えている。

 

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 ユルスナールはピラネージの《幻想の牢獄》を「人工的でありながら不吉な現実世界、密室恐怖症的でありながら誇大妄想狂的な世界」と評した*4。どう見ても虚構なのにリアルに感じられ、狭苦しくありながらも無辺であるという感覚はまさに ORGANISM そのものだ。ピラネージといえば、スザンナ・クラークの幻想小説『ピラネージ』では、ピラネージの絵画のような館に住む語り手の生活が描かれていて、後半で実はある「方法」によって基底現実からその世界へ送り込まれていたと判明するけれど、われわれはもはやピラネージ的な廃墟へ跳ぶためにそのような魔術を必要としない。

 Oculus Quest 2(現在は Meta Quest 2 という呪われた名を背負っている)は37180円で売られており、VRChat は基本無料だ。三途の川の渡し賃はかつてないほどリーズナブルになっている。

 入口はそこに用意されている。

 入ってしまえば、出口はない。

 

 

 

 

ファンムービーを作った人。すごい。

 

  

vrchat紀行その一はこちら。

 

[追記:5月25日]

エメラルドグリーンの鹿さんこと TerrieH さんのステージごとの読解。あくまでTerrieHさんの「深読み」とうたわれているけれど、背景にあるソ連史やモチーフと絡めて読み解きで納得感がある。ネタバレ注意。

https://terriehashimoto.info/archives/20220524/

 

 

 

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*1:PAUL.A.Kという名義で画家としても活動している

*2:管啓次郎コロンブスの犬』

*3:こんにち我々がロシアのオタク界隈でよく見るフルシチョフカ的な団地より以前のものか

*4:須賀敦子ユルスナールの靴』