名馬であれば馬のうち

読書、映画、ゲーム、その他。


読書、映画、その他。


眠りなき夜に生れつくーー『Sleep No More』について



  きのう、またマンダレーに行った夢を見た。


  ーーアルフレッド・ヒッチコック監督『レベッカ』





消えろ消えろ束の間の灯し火

 日本では禁じられた暗度だった。
 文字通り一寸先すら視えない。きっと、消防法はこの完全な暗さを気に入らないだろう。
 たとえ法で規制されてなかったとしても、日本人は暗がりを恐れる。わたしもまた恐れる。陰翳礼讃とはいうけれど、谷崎が「必須の条件」に数えていたのは「或る程度の薄暗さ」だ。「或る程度」の。これほどの、ではない。動こうとすると足を絡め取ってくるような濃さの闇では。

 勇を鼓しつつおずおず足を踏み出す。すこしすると、虚空に赤々として浮かぶ炎に出逢う。ロウソクだ。点々と、どこかへと続いている。そのつかの間の灯火を頼りに進む。次第に闇の濃度が薄れはじめ、角を曲がると、洒落たジャズエイジ風のバーが出迎えてくれる。

「マンダレイ・バーへようこそ」。看板にはそうある。





 マンダレイ。密やかで瀟洒で、わたしたちのもう戻ることのできない、あのマンダレイ。

 バーでモクテルを頼んでしばらく所在なくだらけていると、店員から呼ばれて奥の部屋へと通され、仮面を手渡される。その仮面をかぶるとあなたは不可視の存在になる。喋るな、ただ視ろ、聞け。亡霊になれ、ということだ。やがてエレベータに乗せられ、他の亡霊たちとどこかに運ばれていく。あたりを欺くのだ、偽りの心のたくらみは、偽りの顔で隠すしかない*1。エレーベータの添乗員であるホテルマンはなにごとかをつぶやいているが、韓国語なのでわからない。やがてどこかの階層に到着する。降りるようにうながされる。そこもまた、薄暗い闇。

 古ぼけたエレベータから一歩踏み出すと、そこは1930年代のアメリカだかスコットランドだかの路地だ。視界の左右にはさまざまな店が軒をつらねている。お菓子屋、仕立て屋、葬儀屋、動物の骸骨がガラスケースに並べられたなにか、ピンク色で装飾された一室、シャワールームを備えたモーテル。

 何者かが路地の奥から駆けてくる。目の前を通り過ぎて、うしろに従えた大勢の仮面たちを従え、こちら側の闇へと消える。

 なんなのか。

 ある一角で、わずかに開いたドアから光が漏れていた。覗くと、数名の仮面たちに囲まれた男が見える。なにやら緊張した面持ちをしている。彼は、ゆっくりと居並ぶ幽霊を見渡して、

 わたしと目が合う。

 男はゆっくりとこちらへ手を差し伸べる。来い、と手招いているようでもあった。
 わたしはオフィスのドアをおそるおそる押す。黒胡桃材の扉がかそけく鳴き、机に置かれた無骨なタスクランプの傘越しに、差し出されたその手を握る。男の名前も知らない。この場所はなんなのか。どのような流れで男と幽霊たちがここにいるのか。なぜ招かれたのか。なにも知らない。

 あるツールボックスの引き出しを開けるように促され、開けるといくつか卵が入っている。そのうちのひとつを手に取ると、別の部屋へと誘われる。暗室だ。洗濯バサミにはさんでつるされた十数葉の写真はいずれも鳥の死体か卵を写してある。意味がわからない。わからないままに、男に卵を持った側の手を取られ、ソラマメのような形の金属トレイの上に。

 男がなんの予告もなく、勢いよくわたしの手を叩いた。掌中にあった卵が、ぱきッ、と砕ける。

 割れた卵のなかから紫色の粉末が煙のように吹き出し、トレイへと流れ落ちる。謎めいた卵への思考を巡らす間もなく、次の展開が生じる。エッ、と、きゅうに男がえずきだして、エッ、エッ、エッ、と腹を抱えて喉を鳴らす。なにかを吐き出そうとしている。エッ、エッ、エッと。

 男は眼を見開きながら手を自分の口につっこみ、よだれまみれの黒く細長い物体をひきずりだし、トレイに置く。見る。羽根だ。黒い鳥の、羽根。ねっとりとしたよだれが室内光を反射して、あやしく輝いている。その魔術めいた雰囲気に惹かれて、わたしは無意識に手を伸ばそうとするが、やめろ、と男に腕を掴まれ、身体が固まる。壁に身体を押しつけられる。吐息の熱を感じられるほどの近さまで男の顔が寄る。困惑と恐怖が深く刻まれた顔。

 その顔が、問う。

おまえは……何者だ?

昼の世界の善きものたち


ソウル公演版ポスター



『Sleep No More』はイマーシブ・シアターと呼ばれる観客参加型の演劇、その先駆とされる作品だ。イマーシブ・シアターとは、まあ、ステージという垣根を失くし、観客が舞台となる場所を自由に移動して役者やプロップなどを間近に観察できる劇だとさしあたりは考えてくれればいい。

 仕掛け人はフェリックス・バレット率いるPunchdrunk。2000年代初頭、英国エクセター大学の学生だったバレットは、既存の建物を利用しつつその環境に重点を置いたアプローチを行う演劇について模索していた。そうしていくつかの作品を制作する過程で、断片的なストーリーテリング、ループ構造、仮面を用いた観客の匿名化及び演者との差別化などの手法をおもいつき、それらの総決算となる作品を2003年に世へ問うた。

 それが『Sleep No More』だ。最初は予算3万ポンド程度のプロダクションで、観客の規模も慎ましやかだったものの、その少ないファンのなかに英国の誇るナショナル・シアターの関係者がいたから運命が変転する。

 2009年のボストン公演を経て、決定版となる2011年のニューヨーク公演で大反響を呼び、以後同地で14年に渡るロングランを達成した。*2

 そして、ニューヨーク公演終了後はアジア方面にも展開されていった。上海へ。ソウルへ。

忠武路のマッキタン・ホテル



 わたしはそのソウル公演に来ていた。映画の街、忠武路の駅前にそびえた〈マッキタン・ホテル〉はかつて当地のランドマークだった映画館「大韓劇場」のビルを利用したもので、それは映画産業の終わりと次に来るものを予言しているようですらあった。かつて娯楽の王であった映画を殺し、その玉座を簒奪したイマーシブシアターという呪われた血縁……。

 とはいえ、新顔ではない。初演から23年経っている。NY版から数えても15年。ジャンルを指し示すことば自体が存在しなかったころから演じられ、フォロワーたちを、そのフォロワーのフォロワーたちを産んだ。

 今ではイマーシブシアターはありふれている。そのどれもが「没入」的な体験を約束してくれる。ここではないどこかへと誘い、これではないなにかをくれる、という。わたしたちはその謳い文句を信じない。映画、演劇、テーマパーク、VR、リアル脱出ゲーム、ARG……似たような約束をしてきた第一から第九までの芸術ことごとくに裏切られ、十番目の芸術であるゲームまで心もとないとなれば、どうして信じられるだろうか。ここはどうしようもないほどにここであり、これはかけらも疑えないほどにこれだ。


 フェリックス・バレットの約束はシンプルだった。
「広さ約8万平方フィート、100を超える部屋、6つのフロア、その80%は完全なる暗闇。
 きみはどこへでも好きなところへ行ける。
 ぼくらはきみになにをすべきか、絶対に告げない。」*3





 路地のフロアでは、つねになにかしらの出来事が起こっている。
 魔女のひとりが観客のひとりを菓子屋に連れこんで、飴を与えるふりをしてからかっている。その隣の探偵事務所らしき建物では、さきほど黒い羽根を吐き出した男性が隣の女性と鹿爪らしい顔で一葉の写真へ見入っている。ふたつの建物のあいだからそれらのシーンへ交互に目をやっている自分の背後を、これまでの30分間に一度も見かけなかった若い男性がなにやら焦った様子で早足に通り過ぎようとしている。そして、その男の進路方向の反対側から、ベルの鳴る音が聞こえた。

 どこに行けばいいのか。なにを見ればいいのか。『Sleep No More』は絶対に告げてくれない。仮面を与えられたときに与えられたルールはせいぜい3つか4つだ。仮面を外すな、喋るな、ひとりでいろ。

 ほかはなにひとつ教えてもらえない。どの部屋に入ってよくて、どの部屋に入ってはいけないか、室内の家具や物に触っていいのか、階段は使っていいのかどうなのか、トイレに行きたいときはどうすればいいかーーなにひとつ。

 もっともわかりやすい選択肢は、役者についていくことだ。仮面をつけていない人物たちが四六時中動き回り、ほかの人物たちと身振り手振りやダンスで掛け合いを行う。かれらのいずれかについてまわれば、とりあえずはなにかが起こる。話を理解できるようになる。

 そんな淡い期待を抱いて、名前も知らないだれかのあとを追う。そのだれかはある部屋で別のだれかと遭い、別れる。ふとここで、ふたつの選択肢が生じたことに気づく。今までつけてきた人物を追いつづけるか、それとも別れたもうひとりを追うか。いや、もっともある。あるいは、この場に留まり、つぎに部屋へとやってくる人物を待ち受ける。あるいは、部屋から出て、ふたりのどちらも追わないという道もある。あるいは、なにもしない。あるいは……。

 気づく。我が身はひとつしかない。行動もひとつしか選べない。この一回の体験のなかで、選べる道はひとつだけなのだ。迷いと焦りが同時に襲ってくる。ひとつのシーンを見るということは、同時に展開されている他のすべてのシーンを見られないということも意味している。なんと残酷なことだろうか。この選択は絶対に間違ってはいけない。

 

ときには物語の本筋と関係ない、無人の廃病院らしき場所に出る



 しかし、どうやって正誤を知ればいいのだろう?
 そもそも正解なんてものが存在するのかもわからない。眼の前の物語がどういう話か皆目わからず、なにが謎なのかすら謎という状況なのだ。しばらくすれば、だいたいのあらすじを把握できるものとおもっていた。エンターテインメントのコンテンツとはそういうふうにできているものだ。わかるように。最初はわからなくても、いずれわかるように。
 ところが、開幕一時間経っても目に見えるものがなにひとつわからない。


 メイドがある部屋の掃除して、きゅうにひとつの写真に目を留める。なぜかはわからない。
 魔女がナイフとフォークで茶色いゼリー状の物体を食べている。なぜかはわからない。
 全裸の男(そう、全裸だ)がベッドの上に座ってうなだれている。なぜかはわからない。


 あらゆる場面が断片的で、抽象的だ。セリフらしいセリフがほぼない。説明もない。記憶に定着しづらい。ヒッチコックの『レベッカ』でジョーン・フォンテインが願ったように、記憶も瓶に入れて蓋できるといいのに、とおもう。でも、無理なのかもしれない。ここでのわたしは幽霊だ。脳につながらない眼しか持たない幽霊。
 

 劇である以上、物語があるはずだ。物語である以上、謎と筋があるはずだ。謎は筋に結び目をつくる。だが、その結び目を、1時間半見てなお、掴みかねている。

Sleep No Moreはゲームなのか


これはSNMと関係なく、ゲーム博物館目当てで行った韓国の大手ゲーム会社Netmarble本社前のモニュメント



 まるでゲームのような体験だ、と多くのひとは語る。

 それはまるで『Type Help』(2025)みたいな。『Return of the Obra Dinn』(2017)のような。自分で探索し、自分で発見し、自分で推理していくゲーム。

 実際、いくつかのビデオゲーム作品に影響を与えている。たとえば、ウォーキング・シミュレーターでも屈指のヒット作となった、The Fullbright Companyの『Gone Home』(2013)、同スタジオのSF劇『Tacoma』(2017)*4、Cavalier Game Studiosによる館ミステリループものの『The Sexy Brutale』(2017)、Remedyの『Alan Wake 2』(2023)*5あたりはNSMからの影響を公言している。劇評では『BioShock』と重ねられることもあったが、『BioShock Infinite』のリードライターであったケン・レヴィーンはかつて、プレイヤーの自発性の観点からゲームは『Sleep No More』のようなイマーシブシアターに学ぶべきと述べたこともある。

『Tacoma』 宇宙ステーションにかつて存在したひとびとのやりとりを、後から調査にきた主人公が立体映像として再生する。特にSNMの影響の強いタイトルのひとつ。


 しかしゲームはゲームである以上、万人にわかるストーリーや解決が用意されている。みずからの能動的なかかわりによって不安から解放され、カタルシスを得られる装置。それがゲームだ。

 そのようなゲーム的な期待を持って『Sleep No More』に臨むと、肩透かしをくらうことになるだろう。

 たとえば、たいていのミステリゲームは焦点となる謎を与えられる。たとえば、『Obra Dinn』だったら目の前で死んでいるこの死体は誰なのか、なぜ、どういった経緯で死んでしまったのか。画面に散りばめられた手がかりを見つけ出し、そこから次の場面につながる意図をたぐりよせていく。開発者のルーカス・ポープは「登場人物同士のノードをつなぐことに腐心した」と制作日誌で語っていた。こうしたゲームの体験は、山登りのようなものだ。ひとつのでっぱりに手をかけ、別の側の腕をおそるおそる伸ばして、次なるでっぱりを探る。手をかけるごとに小さな達成感を得られる。*6

 一方で、SNMの体験はそのようにできてはない。たしかについていくキャラは選べるが、なぜそのキャラについていかねばならないかについては論理的な確信を持てない。あるシーンから次のシーンへのつながりを示唆するてがかりを与えられることはほとんどなく、あるシーンでの違和感があとのシーンで回収されることもあまりない。下敷きになった『マクベス』の筋を知っていれば主要キャラの関する行動の予測やシーンの理解はたやすくはなるが、それは単に『マクベス』であったシーンをあてはめているだけの推理とはかけはなれた確認の作業にすぎない。そもそも、『マクベス』の話なら犯人はマクベスと決まっている。

 また、極めて精巧に構築された内装やオブジェクト群は一見、漏れなく物語の核心についての秘密を孕んでいるようでいて、大半は実はおぼろげて頼りない。それらはよくてわれわれの部屋に存在するオブジェクトと同程度の情報量しか持たず、悪い場合には過剰に謎めきすぎてわれわれの思考をさらなる混沌へと導く。

 受動的に、ただ眼の前の出来事に反射的に反応し、流されていく。それが『Sleep No More』の体験だ。ゲームで一番近い作品でいうのならサム・バーロウの『Immortality』(2022)だろうか。

『Immortality』 複数の映画などの映像をひたすらザッピングしていくゲーム。答え合わせはない。


 SNMについてビデオゲーム的な観点からの解釈を試みたキャスリン・ユウは、作品のゲーム的な装い(その多くはSNMの初演後に広まった要素だ)に反して「『Sleep No More」は明示的な勝利を目指すゲームでも、解決を意図したパズルでもない」と看破し、特にゲーマーにおけるSNMに対する失望やゲーマー的な欲望が劇の体験に及ぼす悪影響について触れている*7
 必然的にリピーターの増えるSNMの構造にあって、かれらは物語の構造やシーンや隠された意味を研究して舞い戻り、「ゲームとして攻略」しようと意気込んだ。そして、前回のプレイからなにかしらの「進展」を得られないと、失望して去っていった。

 わたしも最初はゲームとして「攻略」しようと目論んでいた。カーテンの裏側を逐一あらため、会話を盗み聞きし、さきほどもまでキャラが熱心に読んでいた本を自分も読み、「物語」を完成させようとした。

 けれど、階段の踊り場でへたり込んでハイヒールを履き直す女を自分の足元に見ながら、彼女の物語に思いを馳せたり、その次に起きる出来事をぼんやりとでも予想するのはむずかしい。ノンバーバルで、謎めいたダンスが演技の半分を占めるような演劇で、なにを読み、なにを考えろというのか。そして、その前のシーンで起こったことさえ忘れかけている。シーンの前後の順番もあやふやになっている。

さまよい歩く亡霊さながらに






 現に、観客が物語を追うように意図して劇を作っていなかった、と作者のバレットは語っている。コンテンポラリーダンスのダンスカンパニーからスポンサードを受けるために書かれた劇、という出自を踏まえれば、ダンス主体になるのも当然だろう。
 しかし、現在のバレットは「一周回って、ショーを見る時には物語を求めるようになっている」という。あまつさえ、ビデオゲームのようにしたいのだとさえ述べる。



 今スリープ・ノー・モアを作るとすれば、ニューヨーク版のような形にはならないだろう。汗と喧騒にまみれ、何かを見ても見なくてもどうでもよく、すべてを見尽くすことは不可能である、という作り方ではなくなるだろう。…(中略)…ショーを見て、そのショーの何たるかを精確に知ることができ、追いかけることができ、明るく、熱く、掴みやすく、フィニッシュラインまでサーフしたければできる。でも、もしサーフボードを手放して海に飛び込み、下のサンゴ礁を探索したければ、それもできる。


…(中略)…


 現在、私たちはある実験に取り組んでいる。観客にさらなるエージェンシーを与え、自分の夜の体験をコントロールする能力を増幅させるのだ。カメラオペレーターのように受動的に浮遊する幽霊(それがある意味で仮面の役割だ)であるのではなく、観客は今や主人公として、コンテンツ内で起こる出来事を左右する存在になる。ビデオゲームのメカニクスを参照し、ゲームで育った人なら第二の本性として持っているあのボキャブラリー――あなた自身がエンターテインメントの中心にいるという感覚――を真剣に取り込む。


 ーーFelix Barret. 2026. ”Sleep No More Testimony”



 実際に現在ロンドンで行われているPunchdrunkの新作はそのような「ゲーム的なエージェンシーを持った体験」が味わえるらしい。ゲームを愛するわたしも、ソウルよりもそこに行くべきだったのだろうか? 

 そうはおもわない。別にロンドン行きの往復航空券がソウル行きの五倍の値段をするから、とかいった理由ではない。
 

 三時間が経ち、最初のSNM鑑賞が終わるころにはもう気づいていた。

 わたしは幽霊になりたかったのだ。主人公ではなく。

「汗と喧騒にまみれ、何かを見ても見なくてもどうでもよく、すべてを見尽くすことは不可能である」。

 そういうものこそを見たかった。

 広大かつ極めて巧妙に造られ、その息遣いまでを信じられ、触れられるようで触れられず、わたしに対して無関心でありながらもその存在を許容しているような、崇高さすら帯びた贋物の世界。

 それはおそらく、ゲームにも、映画にも、演劇にもないものだ。関節のタガがハズレてしまったこの世の不条理を慰撫するために生み出された、意味のある一連を成す物語にはないもの。すべてがバラバラに独立してしていると同時にか細くつながっていて、ギリギリで世界の形をなしている空間。

 そんな場所で、ただまなざすだけの眼として浮かび、漂いたかった。

 VRChatでかつて出遭った「Organism」ワールド以来だろうか。そんな願いをおもいださせてくれたのは。


お前は何者だ?」というあの最初の問いに、いまならちゃんと答えられる。

 ラストシーンを見守る幽霊たちの顔を見渡す。

 仮面の穴に縁取られた双眸がどれも爛と輝いている。街なかではまず見られない眼だ。彼岸を覗き見ている眼だ。自分もきっとおなじ眼をしているのだろう。

『No Sleep More』。

 そのタイトルは『マクベス』におけるマクベスの有名なセリフにちなむ。後戻りできない、決定的な一線を超えてしまった彼にささやきかける闇からの声だ。意味はこうだ。

「もう眠りはないぞ!」*8



これは東大門あたりにいた目つきのわるいネコ。



おまけ

realsynanthrop.com
『Sleep No More』の匿名感想鼎談*9。わたしに「『Sleep No More』めっちゃいいから行ったほうがええで!」と勧めてくれた『Type Help』の日本語版翻訳者フマノさん主宰。あの紹介がなかったら行ってなかったとおもう。感謝。


salmon-butter.hatenablog.com
今回の『Sleep No More』ソウルツアーの同行者、SF(Sexy Fantasyの意)作家の暴力と破滅の運び手さんの体験記。鑑賞直後に感想を言い合えたおかげで、体験を咀嚼しやすくなった。ちんちんの話しかしてなかった気もするけど。感謝。


*1:ウィリアム・シェイクスピア、福田恆存訳『マクベス』新潮文庫、第一幕第七場

*2:5000回に及ぶ公演回数で来場者数200万人以上が記録されたという。https://apnews.com/article/sleep-no-more-closing-new-york-b1635c679665417740cc76a20a216383

*3:https://www.youtube.com/watch?v=8yNMDTBQio0

*4:『Tacoma』にいたっては作中に直接的なオマージュシーンもある

*5:ただし、サム・レイクは「SNMを直接見たことはないが、そのコンセプトに影響を受けた」と述べるに留まっている。

*6:というような話を最近別の場所でした気がする。というような話かな? まあいいや。こっちも読んでね。

*7:Kathryn Yu. 2026. ““PLAYING” Sleep No More.” https://playstorypress.org/books/the-psychgeist-of-pop-culture-sleep-no-more/

*8:福田恆存訳

*9:特定しようとおもえば二手以内でおわるから実質匿名ではない

ファッション映画の続編が教えてくれるダイジなこと:『プラダを着た悪魔2』について






 突然、気づいた これこそ、わたしがなりたかったもの


 ーーKTタンストール「Suddenly I See」



 いまや、終末の感覚はあなただけのひそやかな感傷ではなくなった。

『プラダを着た悪魔2』を観るといい。

 どこもかしこも死の匂いと終末論者に溢れている。かれらは叫んでいる。出版業界は死につつある、ファッション業界は死につつある、映画業界は死につつある、芸術が死につつある、人間が死につつある。あなたも、わたしも。すべてが滅びつつある。だれでも知っている。いまや、靴磨きの少年でさえシオランbotの警句を賢しら顔で引いている。





『2』のオープニングは『1』とおなじくアンディ・サックス(アン・ハサウェイ)が朝、電動歯ブラシを口につっこむところからはじまる。あきらかに『1』のセルフオマージュであるけれど、違うところは多い。若き女性の野心と憧れを歌ったKTタンストールの『Suddenly I See』は、頂点に立った誇りを歌ったレディ・ガガとドーチーのオリジナル曲『RUNWAY』にとってかわられ、アンディと並行して映っていた名もなき女性たちは消えてアンディひとりのみのルーティンとなっている。
 功成り名を遂げ、その他大勢のひとりでしかない代わりに多様に開かれていた未来はひとつの現実に収束した。つまりは、そういうことだ。あれから20年が経った。

『1』でアンディは新聞社の調査報道記者として輝かしいキャリアを歩んでいた。が、その栄光は映画の冒頭で早々にうばわれてしまう。コスト削減のため、新聞社はアンディを含めた調査報道部門をまるごと解雇したのだ。新聞の死。報道の死。メディアの死。
 落ち込んでいたアンディに、かつて訣別した『ランウェイ』誌からのオファーが転がりこむ。彼女は奴隷労働で利益を上げているブランドを讃えた咎で炎上中の編集長ミランダ(メリル・ストリープ)で揺れる編集部を救うために呼び戻されたのだった。アンディは謝罪声明記事を書き、『ランウェイ』のウェブ版に載せる。記事は真摯な姿勢が評価され、一定の好評を得る。アンディはこれならミランダも認めてくれるはずだと胸を張るものの、編集長はすげない。誰があんたの記事なんて読んでるの、という。そう、もはや誰も雑誌など読まない。ウェブだろうが、紙だろうが。
『プラダを着た悪魔』はファッション業界についての映画である以前に、メディアについての映画だった。2006年にはモードを左右する帝国だった『ランウェイ』は、2026年には黄昏を迎えている。なぜ、って、説明が必要だろうか? 理由など誰もが知っている。考えたことがなかったとしても、自分のふだんの消費行動を一から省みれば万もの原因におもいいたるだろう。けっきょくは、『ランウェイ』はファッション雑誌なのであり、メディアコングロマットの一部であり、他の古い世代のあらゆるメディアとおなじ運命を共有している。似たような腐臭を放っている。


 死につつある。恐竜であるわれわれは、古い世代であるわれわれは、このメディアは、このジャンルは、ここは逃れきれない破局への途上にある。そのテーゼを発見したのは『プラダを着た悪魔2』が最初ではなかった*1し、そのことをかれらは自覚もしている。どころか、もはや当たり前の現実として受け入れてすらいる。
『2』のラストをネタバレを避けてひとことで表すのなら、『トップガン: マーヴェリック』のあのセリフがちょうどいいーー「そうかもしれませんね。でも、今日じゃない(Maybe So, Sir. But Not Today.)」。





 当時、トム・クルーズのあのセリフは老兵たる自分だけに向けられたものでなく、映画業界全体に対するエールとして受け止められた。そしてもちろん、『プラダを着た悪魔2』もまた映画業界のメタファーとして機能している。AIの台頭に対する恐怖やテックビリオネアに牛耳られつつある現況(MGMはジェフ・ベゾスに、パラマウントとワーナーはデヴィッド・エリソンに買収された)は奇妙なほど、といいたいところだけれども、もはや陳腐なほど自然に『2』のプロットに溶けこんでいる。
 だが、その滅びはもはや「明日」なのだろうか? みんなに知れわたっていることは、すでに現出しているもの同然なのではないか? 映画業界の終わりについて語る映画はそのグロテスクなセルフパロディをすすんで演じている。
『トップガン・マーヴェリック』はエリソンのスカイダンスのもとで作られたし、ミランダのモデルとなった『VOGUE』のアナ・ウィンターが議長を務めるMETガラの今年の共同議長はジェフ・ベゾスだ。
 首斬り役人がお経まで読んでくれている、というわけで、ではやはり死んでいるのでは?


 だが、「終わっていること」は映画は描けない。死は一切を停止させるが、物語は生起が義務付けられている。「終わりつつあること」や「終わっていること」を描けたとしても、「終わったこと」を描けるようにできていない。それは映画に限った話ではなく、他の媒体も、われわれ自身だってそうだ。

 かつてボードリヤールはこう指摘した。歴史が終わっていたとしても、われわれはその「終わり」に燃料を焚べつづけるようにできているのかもしれない、と。



かつて私たちは狂乱の後に来るものを問うた——喪か、メランコリーか。だが、おそらくそのどちらも来ない。すべてが終わりを迎えつつあるという黙示録的な予感の中でやってくるのは、近代以降におけるすべての変遷とその解放プロセス(民族、性、夢、芸術、無意識——要するに私たちの時代の狂乱を構成するすべてのもの)の際限のない後始末だろう。未来へと突き進んで飛び立つ代わりに、私たちは回顧的な黙示録と包括的な改訂主義を好む。


Jean Baudrillard, The Illusion of the End(English Edition)



 物語は模倣しかできない。わたしたちはかつて見た「なにかの終わりについての話」でしか終わりを描けないし、なぜだか知らないがそれをひたすら反復することで終わりを先送りできると考えている。
 あるいは(もっと悲惨で現実的な仮定として)単に終わったあとの話を手札に持ちあわせていないだけかもしれない。
「終わりつつある」と語り続けることでしか「終わり」を表現できない。なにもかもがとっちらかってわやくちゃになってる混沌のなかから、使える材料をかき集め、本作のアンディの恋人となる建築家(パトリック・ブラモール)のように崩れかけた歴史的建造物をリフォームして高く売りつけるようにして、なんとかなにかを絞り出すのだ。後始末の作業として。
 ここに奇妙なジレンマがあって、そのような映画は「つつある」と強迫的にいいつづけられていても「終わった」と言い切ることはできない。
 ランティモスの『ブゴニア』のラストが示すように、終わるということは終わるということだ。続きがない。そこから現生地球人類の営みを描くことは不可能になる。営みなど、消滅してしまうのだから。
 なにより、映画で描かれる「終わり」がつねに映画業界のメタファーである以上、その終焉を受け入れることは映画そのものの自意識が許さない。特にスターが。




 
 この終わった世の中で『トップガン:マーヴェリック』と『プラダを着た悪魔2』を「終わり」についての映画として成り立たせている要素はなにか、といえば、それはスターたちの顔だ。トム・クルーズの顔であり、アン・ハサウェイの顔であり、メリル・ストリープの顔である。
 両作品とも数十年越しの続編という、本来なら超越不可能であるはずのブランクをたやすく成り立たせて、かつ「それは今日ではない」と言い切らせるだけの傲岸さと力強さを兼ね備えられるのはこれらのスターの顔が一作目と変わらずにそこにあるからだ。
 それはハリウッドスターは若作りがうまい、といった美容的な事実だけでなく、もっと魔術的でおそろしい事態でもある。トム・クルーズやアン・ハサウェイやエミリー・ブラントの顔は20代前半当時と変わらず朗らかに画面に現れる。十分におどろくべき事態だけれど、それはいい。だが、前作で50代だったメリル・ストリープが20年後も50代のままのように現れ、50代のときと変わらぬふるまいを見せるときに抱く、いわくいいがたい畏れをなんと形容したものだろう?
 いま。この瞬間。編集会議でクリスマスツリーのようにゴテゴテとタッセルをぶらさげたドリス・ヴァン・ノッテンのジャケットを着て、ハサウェイをいびる75歳のメリル・ストリープの両肩に、映画界全体の、あるいは人類すべての運命がかかっている--そんな錯覚さえ抱いてしまう。心打たれさえする。わたしが変わらないから映画も滅びない。そう宣言しているかのようだ。

 
 これまでハリウッド俳優たちが鼻筋にプロテーゼを挿れ、咬筋にボトックスを打ち、糖尿病でもないのに糖尿病治療薬を使ってまで減量するのは自分の身体の市場価値を保つための営業努力か、さもなくば誇大的なナルシシズムかだとおもっていた。まちがっていた。変わらないことはスターの神聖な義務なのだ。映画を永遠にするためには、まずみずからを永遠にしなければならない。
「今日ではない」とトム・クルーズが断言したときにわたしたちが信じられるのは、トム・クルーズがトム・クルーズであるからだ。同じセリフをキャリアの紆余曲折を経て、声帯まで失ったヴァル・キルマーが言ったらそれはそれで味わい深かった(『ヴァル・キルマー/映画に人生を捧げた男』は観るべきドキュメンタリーだ)ろうが、だが映画の存続までは信じられなかっただろう。トム・クルーズは36年前と変わらずトム・クルーズでありつづけた。本人が不死でないのなら、どうして自分の属する世界の存続を語れるだろう?
 かれらの顔はある意味では古代ローマの廃墟のようなものだ。あるものの死は、死なないものを通して伝えられる。あるいは、墓碑のような、といってもいい*2。フィッツジェラルドの短編「氷の宮殿」で、北部人の男性と婚約した南部の娘がフィアンセを南北戦争で戦死した南軍兵士の墓が立ち並ぶ墓地へと連れて行くくだりを思い出そう。彼女はこういうのだ。「みんなこの世でもっとも美しいもののために死んだのよーー死せる南部のために」と彼女はいう。「夢の対象は全部死んでしまった物事ばかりだから幻滅を感じる危険性がないんですもの。…(中略)…ここには何かがあったの、何かが! あなたに分っていただこうとしても、とてもできそうにないけれど、何かがあったのよ*3


 映画も、出版も、ファッションも、いまやアンシャン・レジームの呪われた美であって、それは『プラダを着た悪魔2』でも十分に意識されている。言及さえされる。ミランダは、『ランウェイ』を買収せんと目論むイーロン・マスク*4じみたテックビリオネア(もちろん彼はあらゆる面におけるAIの導入と人間の消滅を大いに擁護している)に古典的な美の不滅を説きつつも、同時にその終わりを自覚する。あれほどまでに剛毅だった名物編集長の顔が、感傷と哀悼の涙にあふれている。

 そして、その顔にわれわれは金を払う。狭い意味ではチケット代として、広い意味では、そう、あらゆる意味で。
 スクリーンの外に眼を転じると、アメリカでの展開はダイエットコークとコラボしたり40ドルもするポップコーン容器を売ったりと商魂たくましい。滅んだあとでさえ、人はグズグズと生きつづけなければならず、われわれは買いつづけなければいけない。
 それをもっとよく体現していたのが、映画本編の直前に流れたシャネルのCMだった。カイリー・ミノーグの「Come Into My World」のMVをマーゴット・ロビー(彼女もスターだ)を主演にしたパロディ。シャネルが新作バッグ「CHANEL 25」にちなんで、26年にリリース25周年を迎える「Come into My World」をミシェル・ゴンドリー直々にセルフオマージュさせたものだ。


www.youtube.com


 ノスタルジーとよぶにはあまりあっけらかんとして脈絡もてらいもないあのCMのような過去を、われわれは贖いつづける。スクリーンの向こうに映る不死者たちを羨みながら、すでに無名兵士の墓地に埋葬されてしまったわれわれは……。



*1:イーストウッド映画や『雨に唄えば』などをひきあいに出すまでもなく、映画はトーキー登場以来滅びゆく自身への哀惜と感傷を持ち続けてきたマゾヒスティックなメディアだ

*2:マーク・フィッシャーはこういっている。「博物館のなかでしか出会えないようになってしまった文化は、すでに枯れきっている。記念や顕彰に明け暮れる文化は墓場である。それを見る新たな眼差しがもはや存在しないとき、いかなる文化的対象もその力を保つことはできない。」(https://k-punk.org/coffee-bars-and-internment-camps/) おそらくフィッシャー的には『トゥモロー・ワールド』と『プラダを着た悪魔2』は似たような映画だ。

*3:沼澤洽治・訳

*4:ところでこの人はいったい何回2020年以降の映画の悪役にされているんだろう?

2025年のそこそこ良かった新作ゲームたち

 Sweet Thames, run softly, till I end my song.

  ――T・S・エリオット『荒地』


これまでのあらすじ

・毎年このブログで発表してきた年間ベストゲーム記事ですが、今年はJiniさんのInteracrit(旧ゲームゼミ)へ寄稿する形と相成りました。
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・で、上の記事はベスト10までなのね。ここではベスト10から漏れたけれど、良かった新作ゲームたちについて簡単に触れておきたい。
・まじで簡単にね。
・最近、元気がなくてね。
・思い出せるゲームだけなので、思い出せなかったらすいません。
・特にゲームの内容を紹介したりはしない。ごめんね。
・わたしは田舎のネズミが好き。

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【そこそこどころではなく良かった枠】

Absolum


・ファンタジー風味のベルトスクロールアクション×ローグライト。今どきベルトスクロールアクションに全力投球なスタジオが作っているだけあって、ちゃんと志とおもしろさが磨かれています。下敷きになった『HADES』の2よりも好きかもしれない。

Ball x Pit


・RPG風ブロック崩しローグライト。ローグライトととして非常によく磨かれています。村作り要素は余計かともおもいましたが、サブのメカニックを並走させて味変しつつプレイヤーをとにかく忙しくさせる昨今のローグライトの潮流にも乗ってるし、まあよいのでは。見た目よりプレイにバリエーションが出るのも楽しいところ。きみのフェイバリットヒーローは誰かな?
・Devolverは25年は『Baby Steps』、『Look Outside』、『Skate Story』とシブくて良い作品を連発しましたね。近年低調との声もありましたが、豊年だとおもいます。『Possessor(s)』? 知らんな、そんなタイトルは……。いやうそ、なんとかHeatMachineには復活してもらいたいですね…‥けど見てると……もうだめそう……。

Type Help

・ベスト10の記事でだいたい言った気もします。『Obra Dinn』から『Golden Idol』へ、『Golden Idol』と『Her Story』から『Roottrees』へ、と下ってきたところをさらに「じゃあ、テキストだけでやるにはどうするか」を達成してのけたところは称賛してもしきるところがありません。おそらく『CLUEDO』から得た「部屋と時間と人物の一致」、さらにシステムを活かすためのトリッキーなメタ演出と『そして誰もいなくなった』的シチュエーション。すべてがガチガチに組み立てられていて、一見シンプルで容易いようでいて、実は上に列記した先行作のどれと比べてももっとも再現がむずかしいゲームなのではないか。
・というところで、今年遊んだ『The Red Pearls of Borneo』なんかは、Type Helpが到達した地点から少し巻き戻すようにビジュアルをつけることでアクセシビリティを上げ、ストーリー部分の物足りなさを補っています。また、先ごろ話題となった『ギルド探求団へようこそ』もビジュアルとキャラの味付けを行うことで愉しい一品にしあがりました。
 ・要するに、『Type Help』くらいガチガチにできないのならビジュアルはあったほうがいい、という感じ。罠ですね。

Eclipsium


・3Dプラットフォーム謎解きアクション。巨女がじっと見つめてくるパート(巨女といえば、『SAEKO』も期待より良かった)ばかり注目されますが、全体的に楽しいウィアードホラー・ウォーキング・アドベンチャーです。
・なんというか、ウォーキングシムのコアのひとつである「見ること」を非常によく転がしており、悪夢巡りがロジカルにできている。近年のウォークシム(パズル要素が多々あるけれども)ではかなり上位に来る一作ではないでしょうか。
・それにしてもロシアの人が考える終末世界ってなんでだだっぴろい海辺に虚無(ヴォイド)の穴が空いてるイメージばっかなんだろな……とおもったらスウェーデンのスタジオだった。まあ、寒い国つながりということで。今年は日本が世界で一番寒いらしいです。
・去年のCritical Reflexパブリッシング作品としてもいちばん良かったですね。去年は『No, I'm not human』もありました。あちらはコンセプトが非常に現代社会への批評として最高だったのですが、肝心のゲームプレイがあまりに淡白すぎたと申しますか、デモで遊んだ感触から一歩も外に出なかったのが惜しい。でも、プレイすべき作品だとおもいます。

黄泉に落ちても麻雀


・昨年は麻雀をローグライト(っていうかBalatroライク)にしたゲームが一挙に三つも出ました。『青天井』、『雀魂』の「青雲の志」、そして本作です。「青雲の志」は24年だった気もしますが、まあいいでしょう。そのなかで中毒性においてベストだったのがこれ。とりあえずすべての牌を風牌にしてみたり、全部白にしてみたりすると、日式なんだかチュンマなんだかよくわからない役がつきまくって点が億を超えます。いちおう計算式で出るはずのスコアの計算が、派手派手演出とインフレの快楽によってどうでもよくなってしまうのがただしくカジノローグライト。主題歌つきだったり、最初中国語しかなかった声がのちに日本語でも吹き替えられたりとやたら開発陣に熱意があるのもよし。

MINDWAVE(デモ版)


・デモ版なのに一生やれる。製品版出たら九生でも足りなくなりそう。
・デモ版でめちゃ良かったのだと、『Mina the Hollower』なんですが、開発元がかなりヤバい状況にあるっぽくて心配。

【そこそこ良かった枠】

HADES 2


・なんかこう、みんながHADESの1のときに言ってたことがわかってきた気がする。
・キャラはあいかわらず良い。わたしのメインヒロインはアルテミスです。キャラたちと会話するために周回していると、なんだかこう、ペルソナ5みたいだなっておもいます。

SHINOBI 復讐の斬撃


・「ステージクリア型のメトロイドヴァニア」という矛盾したジャンル名を当てはめたくなる探索要素アリなスタイリッシュ・プラットフォーム・アクション。細部はよく覚えてないけどカッコいい忍殺をキメまくれる良いゲームでした。
・25年はニンジャの年でしたね。『NINJA GAIDEN: RAGE BOUND』*1? 『NINJA GAIDEN 4』*2? 『忍者明ら』*3? 何をおっしゃいますやら。男は黙って、『忍者ハヤテ HDリマスター』!*4

Promise Mascot Agency


・九州ヤクザマスコット派遣アドベンチャー。見た通りに奇妙奇天烈なゲームであるものの、九州の限界地方都市にここまでポップかつ的確に迫ったゲームを他に知らない。リアリズムのゲームであるところは声優起用にも現れていて、学校で英語を教えているALT(外国語指導助手)が出てくるんですが、そのひとの日本語がアニメでよくある「◯◯デース」みたいなエセ外国訛り日本語ではなく、「母語が日本語ではないひとが喋るめちゃ上手い日本語」のアクセントで喋る。このニュアンスはゲームだとまず見ません。
・キャラとテキストがよく描けている一方で、ゲームのコアとなるマスコット派遣パートはややタルかった。

FaceMiner


・上半期まとめブログ参照。これについてはもう三回くらい書いてる気がする。最近は資本主義についてのコメンタリーが巧みなゲームが多くなってきた印象で、『Pipistrello and the Cursed Yoyo』もその範疇。

Lumines Arise


・期待通りのものを出してくれた印象。水口先生は電子ドラッグディーラーという本分を貫きつづけてるのがエラい。本人がブツをつまんでいるアディクトなだけかもしれませんが……。

ステラーコード


・もう日本の『プロジェクト・ヘイル・メアリー』はこれで良い気もしてきますが、それはさておき、懐かしい感じの手触りを残しつつちゃんとSFしているのが好印象。
・世間には「頭の良いひとたちが伝導率100%で頭の良い会話をしている小説を読みたい!」と願う層が一定数いて、わたしのほうは頭の良いひとたちの会話って読んでて逆に疲れないか、などとおもうのですが、たまに味わうぶんにはよいものです。

Time flies


・Playablesといえば良い意味でも悪い意味でも「アートゲーム」の代表格だったわけですが、今回はわりと「ゲーム」に寄せてきて、それでいてアート的な手触りとテーマ性をきっちり整えてくるという器用なことをしてきた。やればできるじゃん。
・アートアニメがやりたいんだったらアートアニメをやれ、インタラクティブ・アートやりたいんだったらインタラクティブ・アートやれ、といいたい気持ちはまあわからなくもないのですが、その境界を曖昧にしていくことの利点もあるのだとおもいます。

Keep Driving


・ルックとコンセプトの勝利やね。
・こういう戦闘がRPGっぽいけど厳密には分類不能なローグライトって最近そこそこあって、最近触ったゲームだと『Winnie's Hole』とかもそうだったんですけれど、なんつーか、遠回しにいえば、デザインがむずかしいよね〜、となります。ストレートにいえば、タルい。

He is Coming


・で、RPGっぽいローグライトをやりたければRPGローグライトをやりましょう、という話になるわけです。そこで安心と信頼のHooded Horseの出番になる。
・装備の組み合わせが限定されてるぶん、カスみたいに脳死でプレイしていてもある程度は筋道みたいなのが見えてきて、そこそこのところで死ねる。カスみたいに脳死でプレイできるローグライトはいいローグライトです。まあこれはローグライクといってもいいかもしれない。

ダレカレ


・ストーリーストーリーというわりにはストーリーテリングの方法にあまり気を遣わない本邦において、比較的貴重な一作。
・『ダレカレ』に関しては(『FLORENCE』と違って)ルドナラティブなストーリーテリングに齟齬をきたしてはいないか? というご意見を耳にしました。わたしなどは、え? そうとう出来てるほうでは? と感じたのですが、たぶん比較的チャレンジングでありつつも不出来な『FLORENCE』ライクを触っているからでしょう。今はあんまり触っていません。

『ENDER MAGNOLIA』

『CITIZEN SLEEPER 2』


・どっちも「前作よりはノレないけど悪くない続編」枠です。CS2は物語的に1と変わったところがわかりやすかったといいますか、今度は仲間がいるぞ! というドラクエ1が2になるみたいな正統派の拡張の仕方をしていたんですが、それがサイバーパンク世知辛スペースオペラという枠組みに合致していたかはちょっとどうでしょう。そういえば、CSシリーズを出している一人スタジオJump over the ageのギャレス・ダミアン・マーティンが批評家時代に出していた建築×ゲームというコンセプトの批評同人誌をitch.ioでまとめ買いして読んでるんですが、おもしろいです。こういうアングルの人なのか、とおもうと、CSのやや冗長なまでに書き込まれたテキストもなんとなく受け入れやすくなります。
・マグノリアについてはOKなんだけれど、このノリのまま三作目はちょっとつらいぞ、とおもいます。
・あと『The Outer World 2』に関しては途中でなんとなく違うなってなってギブアップしました。

Dogpile


・2025年のヒドゥン・ジェムはこれ。
・スイカゲームのフルーツをイヌに置き換えてローグライトにしたゲーム。最高なワードしか並んでないな。天国で飼い主を探すゲームをぶっちぎって2025年のイヌゲームオブザイヤーです。天国で飼い主を探すゲームまだ積んでますが。
・「スイカゲームをローグライトにするならどんなバフデバフが考えられるか」について真剣に向き合った稀少なゲームであるともおもうので、別にイヌ好きでなくともオススメしたい。

Birdigo


・昨年はWordleをローグライト(っていうかBalatroライク)にしたゲームが一挙に三つも出ました。『Word Play』、『Wardatro』、その中でも総合的にベストだったのがこれ。
・やはりビジュアルって大事だなっておもうわけです。システム的には他の二作とあまり変わらないわけですが、ローポリのさまざまな鳥さんたちが楽しげに踊り狂っているのを見るのは目に愉しい。まあ、あと強化のバリエーションもこれが一番わかりやすかった気がする。
・たぶん、これ以上発展しようのないジャンルではある。

The Warrior


・最近はみんなゲームでメタフィクションやることに飽きたのかな、といった印象だったところで、こういうパロディとしてのメタフィクエンタメをやってくれるのは嬉しいですね。サイズ感に対して収まりの良い完成度です。もっと気軽にメタフィクションしましょう、みなさん。
・フレンドから勧めてもらったおぼえがある。みんな、ゲム友は大事だぜ!

Ropuka's idle lsland


・Rusty's Retirementに始まったデスクトップアクセサリ式インクリメンタル放置ゲームもすっかり定着しきった昨今ですが、そのなかでもひときわ惹かれるのがこれ。目つきの悪いカエルくんがのんびりくらす。それでいいんです。

Evil egg


・無料ゲームとしては去年の十指に入るのでは。レトロ趣味やるんなら偽史作るくらいには設定には凝らないといけない。

Clical Trial

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・「自分が翻訳した作品はベストにいれない」という原則を持っているわけではなく、単にリリースが24年の暮れだったためなんとなく外れてしまった。無料有料関係なくRPGツクール製アドベンチャーでは近年稀に見るクオリティだとおもいます。
・それはそれとして自分はゲーム翻訳にあんまり向いてないな……とおもう点が二点があり、ひとつはアップデート無精なところ(今も直したい部分が数カ所あるのだけれど腰が重すぎてやれない)、もうひとつは実況動画を無限に見てしまうところで、まあ、要するに他にやることが……多い……。
 ・ちなみにCTのあとで『Space Funeral』を翻訳しようとして、RPGツクール2003問題にぶちあたってやめました。

The Alters

proxia.hateblo.jp
・「コンセプトについてはなにか語りたくなるけれど肝心のゲームプレイはタルい」という作品は多々存在し、先に言及した『No, I am not Human』なんかもそのひとつなのですが、まあしかし言い換えれば、なにかをいいたくなるだけの魅力はあるといえる。
・かといって、つまらないわけではないんだよな。
・かといって、おもしろいわけでもないんだよな。
・そういうゲームをやっていける時間がある状態を、「余裕がある」といいます。
・なんかこう、このくらいの温度感の作品って去年だと『文字遊戯』もね……。

Öoo


・解法があまりにカッチリ決まりすぎている気もするけれど、イマーシブ・シム志向のインディー界にあっては良いアクセントなのかもしれない。ああ、でも、倉庫番とかあるか。

ドドトリ


・たまにはこのくらいの小品がいいときもある。ブレイニア要素もあるよ。

StarVaders


・『Into the Breach』を大衆化したのはエラすぎる。
・そのジャンルである時点で自分のなかの得点の上限が決まっているジャンルというのがあって、ローグライトSLGというのはそれなのですが、そのなかでは最高得点。

Discopup


・ローポリ『どうぶつの森』的マスコットホラーの雰囲気をたたえたイマーシブ・シム
・いろんなところが変。

OVIS LOOP


・そこそこ良い感じの高速ローグライトメトロイドヴァニアって年にやまほど出るんで甲乙つけがたく、けっきょく甲乙つけないままでいいかってなりがち。でもそのなかではOVIS LOOPはストーリーをやろうと頑張っているぶん忘れがたかったかも。
・最近は触ってなかったけど、アップデートが不評みたいね。どうなってるのやら。
・ローグライトメトロイドヴァニアだと『Lia: Hacking Destiny』も悪くなかったけど、こっちはほんとダラダラやるかんじ。

【良いかんじだったけれど、十分に遊んでないもの】

Death Howl

・なんでもソウルライクっていえばいいってわけじゃないけれど、いいゲームです。

Look Outside

・RPGツクール製ホラーはあいかわらず元気かつオーバーテクノロジー気味で、本作はその最先端。ツクールのドラクエ式戦闘画面で「敵かどうかわからない不信感」を煽るのはいじわるすぎてよい。

Pipistrello and the Cursed Yoyo

・ヨーヨーでやる見下ろしゼルダライクアクション。とにかく手触りが快適。
・ボンボンです。これはコミックボンボンです。なぜかというと主人公が正義の味方でなくて資本主義の犬だから。

Skate Story

・スケボゲームってあんまり好きじゃないというか、スケボというよりなにかにライドしながらトリックを決めましょう!といったようなゲームがあまり好きじゃない。だってうまくコンボを入力できないもの。のですが、本作に関してはそのへんがけっこうゆるゆるでもかっこよくキメられて、ベリーグッドです。

Scrabdackle

・ゼルダライクといえばいいのか。全体的にウィアードでゆるい世界観で楽しげ。

歴史の終わり

・アップデート待ち。『太閤立志伝』ファンの残党なので、いつまでも待てる。

Easy Delivery Co.

・何度か凍死したのでゲームを味わい尽くしたといえばそうなのかもしれないけれど。

Little Rocket Lab

・工場建設系ってだいたい二時間でやる気がなくなるんだけれど、これはその先に百合のにおいがする。

Dice Gambit

・システムに比べて味付けがピーキーすぎへんか???

【新作ではないもの】

Antimatter Dimension

・去年今年とクリッカー/インクリメンタルの古典をあらかた触りました。クリッカーは外部から見たときと内部に入っていったときの景色がかなり異なるジャンルで、なんというか、なんてことない洞穴だとおもって入ったら古代遺跡の大迷宮だった、みたいなかんじです。古典とされている作品は多く、ジャンル的な議論の蓄積もそこそこあるんですけれども、その99%はジャンル外だと誰も知らない。
・なかでもAntimatter Dimensionはすごい。クッキークリッカーと比肩するレベルにあるのはこれくらいでしょう。
・「シンプルなインクリメンタルにできること」を突き詰めたような代物で、フェーズが変わるごとにゲームそのものも変わる。時にはゲームをオフにすることが最大効率となる。禅問答のようなクリッカーゲーム。

Space Plan

・クリッカー古典探訪その二。元ネタは『lifeline』か『a dark room』あるいはその両方だとおもうのだけれど、ストーリーテリングのなめらかさとウィット効き具合が頭抜けている。

Universal Paperclips

・クリッカー古典探訪その三。クリッカー/インクリメンタルの最高傑作の一つだとおもう。インクリメンタルであることそれ自体をストーリーテリングに取り入れたゲームは多いけれど、これに並ぶものはそうそうないのではないか。ちなみに作者(フランク・ランツ)は25年には『Q-UP』を出していますが、こちらも実質クリッカー……だとおもってたら最終的にバリバリのデッキ構築を要求してきてビビった。

Tiny Rougues

・ちょうどよすぎ!

【めんどくさいので、短編クリッカー/インクリメンタルに関してはここで新旧含めたランキングを出しておきます】

・主に10時間以内で終わるもの。Universal Paperclipもプレイの仕方によっては10時間以内で終わるとおもうんだけれど、初プレイでそれ以上かかった記憶があるので除外しておきました。

1.nodebuster
2.Digseum
3.(The)Gnorp Apologue
4.Feed the Reactor
5.Space Rock Breaker
6.Faceminer
7.Magic Archery
8.Astro Prospector
9.Click and Conquer
10.Lyca
11.Defrag
12.Execute
13.Shelldiver
14.Unfair Flips
15.keep on mining!
16.Clickolding
17.Outhold
18.A Game about feeding a black hole
19.A game about digging a hole
20.This game will end in 205 clicks
21.Fill up the hole
22. Snakremental
23.Pinata Go Boom
24.Duncrush
25.Trainatic


【期待してたけど良くなかったで賞2025】*5

『Wonderstop』。アンチRPGティーハウスコージーアドベンチャー。Davey Wredenに求めていたものではなかった。あと茶摘みがダルい。



ほかにも遊んだり飽きたりしていました。しかし、だいたいそんなところでしょうか。今年もよろしくお願いいたします。

*1:途中で止まってる

*2:買ってない

*3:買ってない

*4:やっぱり買ってない

*5:2023年は『Starfield』、2024年は『Sea of Stars』