声を聞くと惹かれ すぐに忘れ つらつらと
気まぐれな僕らは 離ればなれ つらつらと
――サカナクション「アルクアラウンド」
もう、十分も歩いている。二人で、あるいは四人で、もしくは十二人で。
目に映るのは、硬そうな低木やユーカリや三億八千万年前から地肌として露出しているまだら模様の花崗岩。海岸ではまるまると洗われた石が転がっていて、浜を歩くとキュッキュッと砂がたのしげに鳴く。夕方にはその海の水平線へとオレンジ色の太陽が沈んでいき、夜のあいだはずっと同じところに偽物の月が浮かぶ。
きみになじみのない景色、きみになじみのないデザイン。なにより想像とかけはなれていたのはゲーム中に次に向かうべき場所を指し示すマーカーもミニマップもなければ、三分に一回はみんなで指さしてはしゃげるようなサプライズも存在しないことだ。これがゲームと呼べるだろうか?
次に行けばよい場所はだいたいわかる。けれど、その場所までたどりつくためのショートカットはほとんど存在しない。運が良ければ環状線をぐるぐる回っている列車に飛び乗れはするにしても、だいたいの場合はやはり徒歩しかない。
五分、十分、あるいは三十分。気分的には永遠にも似たその途上で、高低差のはげしい地形とうっそうとした植物たちが視界をふさぎ、山に行けば急な斜面がきみの足をふみはずさせて滑落へと追いこんで、パーティを分断する。
その捜索と合流に、また十分。
挙げ句の果てに、きみはロープウェイに乗せられるだろう。二人乗りのリフトだ。最大で、二人乗り。意味がわかるか? つまり、きみのパーティが五人だろうが十二人だろうが、リフトに乗るときはひとりかふたりにならなければいけない。まあ孤独に一人で乗ることを選んでもいいが……これはCO-OPゲームだ。仲間との相乗りを断る理由がどこにある? そうだ、きみはいやなわけではない。けっして、ふたりで乗ることがいやなわけではないのだ。いやなわけではないのだけれど。
きみはだれかとリフトに乗る。数分間のあいだ、ふたりきりにさせられる。きみはなにを話すだろう? そのだれかはなにを話すだろう? ゲームのことを話題にしようにも、壮大なストーリーや難解な謎を提示されていないのだし、いままさにこの瞬間はなにも起こっていないわけだし……世間話? 雑談といえば天気の話をすればよいというけれど、『Big Walk』の空はいつだって晴れ渡り、百点満点の青空だ。あれ、困るな?
きみは助けを乞うようにして、隣に座っただれかを見つめるだろう。その顔とは、そのだれかとは、きみにとって、なにものなのか。
『Big Walk』は公式ストア紹介文で、みずからをこう定義している。
親しい友人たちと広大な世界を探索したり、迷子になったりしてみよう。『Untitled Goose Game』の開発陣が贈る、協力型オンライン通信ゲーム。
「親しい友人 」。きみの隣にいるひとは友人であるはずだ*1 。当然だろう。協力プレイのゲームにおいて、基本的に遊ぶ相手は友人しかいない。オンライン以前のオフライン時代からそうだ。オフライン時代以前のオンライン時代からそうだ。
では、友人とはなんだろう? ビデオゲームは友人の定義をことばではなく、作品によって遂行的に示してきた。『マリオブラザーズ』、『マリオカート』、『マリオパーティ』に『大乱闘スマッシュブラザーズ』。なんだかマリオばかりですね。
ローカルマルチプレイで遊ばれていたころ、それらのゲームは〈パーティゲーム〉と呼ばれていた。いまは作品の意図や内容が異なるにしても、消費の目的において『めっちゃカメレオン』や『R.E.P.O.』に代表される〈フレンドスロップ〉*2 と呼ばれるジャンルがその役割を担っている。
(『めっちゃカメレオン』 やるとめっちゃおもしろい) (『ULTIMATE CHICKEN HORSE』 やると人間性が出る)
それらのゲームは遊んでいる人間だけでなく観ている人間たちも楽しめるようにできていて、まあだから配信者向けのゲームとも評されており、実際にはYoutubeやTwitchでは大勢の配信者たちが知り合い同士でたのしげに遊んでいる。「友人」のありさまがそこにはあるように見える。
『Big Walk』もそんな〈フレンドスロップ〉作品のひとつだとみなされていた。すくなくとも、リリース前には英語版 Wikipedia の「Friendslop」の記事で作例のひとつとして数えられていたようにおぼえている。*3
ところがいざ発売されてみると、「ゲーム実況配信者は『Big Walk』がお嫌い 」という言説が出回るようになった。 Youtubeでビデオゲーム批評を展開しているBrando曰く、『Big Walk』をプレイした有名ストリーマーたちはのきなみ「つまらない」「退屈だ」と途中でゲームを放り出し、なかにはSteamで返金する様子を実況するものまで現れた。いまやゲーマーのオピニオンリーダーである配信者をそこまで憤慨させているのだから、さぞかしひどいゲームなのだろうな、とおもわれそうであるけれど、動画配信サイトの外に目を向けてみれば、Metacriticでは批評家のスコア平均が91点*4 で、Steamでは25000件以上のレビュー数で支持率95パーセントの「圧倒的好評」を記録している。要するに、批評家もプレイヤーも両手をあげて大絶賛している。
(Brandoの動画内で「『Big Walk』を嫌う人気配信者」のひとりとして取り上げられたJojoことJoe Bartは批評を好意的に捉え、レスポンスを返している。曰く、「普通にプレイするぶんにはおもしろいんだけれど、視聴者を愉しませなきゃいけないゲーム配信向きではない」) なのに、なぜストリーマーだけが、それもほかの〈フレンドスロップ〉作品をたのしく遊んでいるようなストリーマーたちが、ふきげんなのか? Brandoは、その原因は配信者が配信者であることに由来する、と答える。
一般的に、〈フレンドスロップ〉にくくられる作品では「なにもない」時間がすくない。数分に一度、数十秒に一度の間隔で、なにかは起こる。モンスターが出てきたりとか、ゾンビキノコに身体を乗っ取られたりだとか、フレンドがとにかくくだらないミスをやらかすだとか、そして、その出来事はなにかしらおどろいたり笑えたりとリアクションが取れ、そのリアクションを他のプレイヤー=配信者や視聴者と共有できる。
つまりは、撮れ高がある。 配信者は配信仲間とゲームをあそぶ。かれらは「友人同士」と称しており、プライベートでは実際にそうなのかもしれないにしても、売れっ子であればあるほど内実は「仕事仲間」に近くなる。かれらは「金曜に他になにもすることがないからゲームをいっしょに遊ぶ仲間」ではない。チームなのだ。かぎられた時間内に協力して動画をおもしろくする責務を負っていて、『Big Walk』は一見そんなかれらにぴったりのゲームにおもわれるけれど、やってみると実は違う。その期待の落差が配信者界隈での不評につながった。
Brandoの評は動画内で張られたいくばくかの予防線を踏まえてもなお単純化しすぎるきらいがあるのでまるめておくと、かんじんなのは、一部のプレイヤーたちが『Big Walk』の要求する「友人」の型から外れてしまう、という示唆だ。つまり?
『Big Walk』は「友人」を定義しようとしている 。
なんとおそるべき試みだろうか。今年発売されるどんなゲームよりも、そう、おそらくは『GTA VI』さえも寄せつけないほどに、プレイヤーにとって残酷で野蛮で暴力的な挑戦だ。いつだってゲームは「友だちとはなにか?」という問いかけを巧妙に避けてきた。今はともかく、90年代とか2000年代においてはゲームで遊んでいるのは子どもでなければ、友だちのいな……もとい、孤独であることを好む人間だったのだから。
だれかとゲームを遊ぶとき、わたしたちはかれらを「友人」であると信じて疑わない。疑いようがない。ゲームのほうもまた、今そこにいるふたりのプレイヤーが友人同士であるのは任天堂のCMみたいに自明な事実として扱う。
『Big Walk』は、そのあまりに透明な前提を疑う。きみたちは友だちなのか? ふうん。じゃあ、ひとつ、ここで試してみようじゃないか……と。そこで『Big Walk』はこんなパラドクスめいた問いを出してくるのだ。
もしきみたちがゲームをいっしょに遊ぶほどの友人同士なのであれば、ゲーム抜きでも友人であるはずだ。
『Big Walk』の友だち試験的態度を象徴するパズルがある。精確にはパズルではない。〈無の部屋〉と仮に呼ばれている、その部屋ではなにもできない。狭い閉所に他のプレイヤーたちと監禁されて、数分感過ごせといわれる。『HUNTERXHUNTER』のハンター試験編の塔での待機所みたいな感じだ。わたしたちができるのは、他のプレイヤーと話すことくらい。
パズルでないと同時に、究極のパズルともいえる。人間をパズルとみなすなら。CO-OP(協力プレイ)ゲームであることとは、ほかの誰かとなにかをやることだ。協働して敵を倒す、協働してパズルを解く、協働して障害を取り除く。作業を通じて対話する。美しい行為だ。こと、わたしたちにとっては。わたしたちのように他人と雑談のできない人間は、なにかの共同の作業やトピックを通じてしか会話ができない。でなければ、自分の話だけを一方的にすることを対話だと信仰している。人類がこの4000年間気づいてこなかった驚くべき真実を告げると、実はそのどちらも他人といることにはならない。
ただ他人といることをやりすごす。他人といる時間を、他人といる空間に、ただ存在する。その気まずい耐えがたさ。
きみは朗らかにいうかもしれない。「大丈夫だよ。ただ友だちと五分間部屋で過ごすだけなんだから」
両親からの愛情を一身に受け、一切の不自由なく、すくすくとのびのび育ってきたきみはわからないかもしれないが、違う。なにひとつ大丈夫ではない。これは「ただ友だちと五分間部屋で過ごすだけ」ではない。それはクエストなのだ。
〈無の部屋〉は課題として「なにもしないこと」を設定していると開発者は語っている 。本作の初期の設計思想は「少しの協力を必要とするけれど、一緒に遊んでいる相手から決して注意を逸らさせないなにかをやってもらう」ことで、その「なにか」に「なにもしないこと」を取り入れたのだと。
一般にゲームは画面に映るものをすべて道具や資源として見なすことをプレイヤーに強制するのだけれど、このときあなたの目に映る「資源」は友だちだけだ。ルールは課題を際立たせる。課題として意識することは、課題の対象の本質を問い直すということでもある。だから、あなたは無意識に自問するようになるのだ。「『友だち』と『協力』して五分間『なにもせず』に過ごす」とは、いったいなんなのだ? と。
その問いは〈無の部屋〉を出てからも続くだろう。先にも書いたように、『Big Walk』はあきらかに移動時間が多く、パズルを解くにあたってさえ二人や三人の別チームに分かれることを要求されがちだ。パズルは*5 四人いれば事足りることがほとんどで、五名以上でプレイしている場合はだいたいだれかが手持ち無沙汰になる。仲間たちが知恵をしぼって作業しているあいだ、ぼんやりとなにもしないでいるのは罪悪感と焦りを生じさせる。それらを打ち消すために、誰かの推察に相づちをうったり、不要だと捨てられたパネルを持ち上げては落としてみたり、ジャンプを繰り返したり、とりあえずなにかをしているふりをしてみたりもする。
「まったく何もしないのは案外難しい」と、レベッカ・ソルニットは歩行にまつわるエッセイ集『ウォークス:歩くことの精神史』(訳・東辻賢治郎)で書いていた。「人は何かをしている振りすることがせいぜいで、何もしないことに最も近いのは歩くことだ。歩くことは意志のある行為でありながら、呼吸や心拍といった身体の不随意なリズムに極めて近い」。
無為に対する焦燥は、「働かざる者食うべからず」と言い残した一休さんという忌まわしい先駆を除けば、後期資本主義に植えつけられた病だ。フォードが労働者の余暇すらも資本主義の営みに回収してしまったように、テクノロジーと資本の運動は効率と生産性の名のもとにゲームにすら無為をゆるさないように発展してきた。ロード時間は短縮され、クエストが隙間なく敷き詰められる。プレイヤーの幸福はつねに絶え間なくボタンを押しているかどうかで測られるようになった。
ところで、ソルニットはこうも書いている。「人生をかたちづくるのは、"公式"の出来事の隙間で起こる予期できない事件の数々だし、人生に価値を与えるのは計算を越えたものごとではないのか。田園、および都市の徒歩移動は二世紀間*6 にわたって、予期できぬことや計算できぬものを探りあてる第一の方法であり続けた。」
おそらく、ダン・ピンチベックはソルニットに同意するだろう。ピンチベックは『Dear Esther』という歩行以外のインタラクションを持たないアドベンチャーゲームを作り、〈ウォーキング・シミュレータ〉というジャンルの理論的な始祖となった。かれの作意はストーリーテリングの装置としてのビデオゲームの純粋性への探究から始まっており、『Baby Steps』のベネット・フォディ*7 にいわせれば〈ウォーキング・シミュレータ〉とは「探索と観察を主眼にしたジャンル 」だ。
(『Dear Esther』)
歩くことは視力をとぎすます。〈ウォーキング・シミュレータ〉というジャンルが短命ながらもその思想を支持されたのは、ビデオゲームが歩くときの眼を濁らせるように発展してきてしまったからだ。*8
つい最近、『Ultima Online』などでMMORPGの歴史に偉大な足跡を残したラフ・コスターのインタビューがドキュメンタリーチャンネルの/noclipにあがっていた のだけれど、彼がいうには初期のMMORPGのプレイヤーたちは「プレイ時間の半分を突っ立って雑談しながら過ごしていた」らしい。ロールプレイを重視するロールプレイヤーたちも多かった。
しかし、『World of Warcraft』で常時表示のクエストログと、次のクエストの存在を示唆するためにNPCの頭上に黄色い「!」マークが浮かぶようになってから、すべてが変わった。
プレイヤーたちは他のプレイヤーたちよりも「!」を、次のクエストを追いかけるようになったのだ。クエストをこなせば経験値が手に入る。そうして、クエストを絶え間なく追いかけていったプレイヤーたちと、用意されたクエストをあまり重視しないロールプレイヤーたちのあいだで深刻なレベル差が生じる。友だちと話したいなら、レベル差を埋めないといけない。こうしてロールプレイヤーたちもまたクエストへと駆り出され、いつしかロールプレイの時間が減っていく*9 。
(『World of Warcraft』)
「!」マークとクエストログはもともとゲームプレイをちょっとわかりやすくしようとした、いうなれば開発側の親切心のようなもので、ゲームデザインやプレイヤーの行動を抜本的に変えようと意図したものではなかった。だが、それは結果的にプレイヤーの行動とゲームに対する接し方を変え、コスターが「クエスト主導型ゲーム(quest-led game)」(要するに『アサシンクリード』のように大量のクエストで埋め尽くされた作品のこと)と呼ぶひとつの潮流になった。興味の対象が人からモノへと移ったのだ。
コスターは「かつてはゲームとは社交的(Social)なものであったのにね」と嘆く。彼のゲーム開発者としてのキャリアは『LegendMUD』というオンラインゲームに端を発しているけれども、MUD(Multi-Player Dungeon)とは、テキストベースのオンラインRPG/アドベンチャーのことで、その歴史は1970年代に遡る。簡単にいえば、テーブルトークRPG(もっといえば当然『Dungeons & Dragons』)をオンラインで遊べるようことを目指して始まったもので、プリミティブながらもテキストベースの利点を生かして豊かな物理環境や遊びの幅、そしてプレイヤー同士の交流が設計されていた。さらに、もっとも初期のビデオゲームのひとつとされる『Spacewar!』*10 は二人プレイ専用だったし、ビデオゲーム以前に遡れば、だいたいのゲームはソリティアなどのひとにぎりの例外を除いてすべて二人以上でのプレイを想定している。「実のところ、ゲームの歴史において、シングルプレイヤーゲームこそが異質なのだ」というコスターの主張はむしろ主流の意見であり、2010年前後のFacebook/ソーシャルゲームや最近の〈フレンドスロップ〉のように、ことあるごとにゲームがソーシャル性へと回帰しようとするのはゲームの本性にかなった運動であるといえる。
そして、クエストログと「!」マーカーに弱いのはゲーマーばかりではない。こんにち、「観光」というものがどのようにデザインされているかを考えてみるといい。わたしたちは古くは観光ガイド、今ではSNSに教えられて、ある土地のある場所に行けば、ある特定の感情をもよおす思い出が手に入ると約束される。それは、NPCから教えられて、ある土地のある場所に行けば、ある特定のイベントを経てなにがしかの有益な報酬が手に入ると約束されるゲームのプレイとなんら変わらない。違いといえば、クエストの報酬が経験値であるか、スマホに大量に保存した写真や動画であるかどうかくらいだ。
順序でいったら当然、観光が先だ。今日的な旅行ガイドブックの成立は19世紀のことらしい 。ビデオゲームにおける「世界」も現実の世界とおなじ商業的合理化の筋道をたどったといえる。クエストとはつまり観光のガイドであり、クエストのチェックリストを潰すようにして人生のTo Do リストを潰していき、それが終わったら安心して電源を切ることが叶う。管啓次郎はいう。巨大な観光産業にあって、わたしたちの眼のレンズは曇り、どこへいってもまぼろしを見ているにすぎなくなってしまった、と。「この蜃気楼の豪壮な楼閣の存在の目的はただひとつ。ぼくらの貧弱な視力に、『世界そのもの』のまぶしさを見ることを免除してくれる、という一点だけだ」*11 。
そして、『Big Walk』では、あまりにまぶしい「世界そのもの」に「友人」も含まれる。
『Big Walk』の開発思想について、開発元のHouse Houseは前述のインタビューでこんなことを語っていた。
(開発の方向性として)「キャラクターを持って、お互いに細やかに注意を向けるのが楽しい」ということに向かっていた気がします。実際に啓示的だったのは、インタラクションのスケールだったと思う。他にやることがなくて、一緒に遊んでいる相手だけに本当に集中しているなら、手の動きや手を振る仕草、他のプレイヤーを持ちあげるといった要素を入れられる。そしてそれがノイズが増えたようには感じられず、本当に注意を向ける対象になって、すごく親密に感じられ、一緒に遊んでいる人とのつながりを感じさせてくれる。僕らが作りたいスケールはここなんだと気づいたんです。
旅における視線の対象は風景だ。
『Big Walk』の目的は? 友人を視ること。
パズルとは共に視線を向けて片付ける対象ではなく、プレイヤー同士がたがいに眼を向け合うためのプロセスだ。
いつしか、間を持たすための話術はゲームクリアに必要でないと気づきはじめる。
また、はぐれてしまって、もう十分は経つだろうか。
『Big Walk』の夜は昏い。灯りがなければ、十センチ先もほとんど見えない。原始の闇とはこんな感じだったのだろうな、とおもう。
空にかがやく星々が照らし出してくれる樹々や山々の影だけを頼りに歩かねばならない。はぐれた仲間たちがどこにいるかも、どうやって連絡を取ればよいのかもわからないのに。
CO-OPゲームでひとりになるほど、みじめな経験はない。たいしてパズル攻略に貢献してなかったとしても、一定の人数がそろわなければそもそもパズルへ挑戦できない。自分がどんくさいせいで、他人の時間を浪費し、迷惑をかけている。
しかも、はぐれただけならまだしも、攻略で重要な役割を果たしてたアイテムを暗闇で足をふみはずした調子に落として失くしてしまった。ああ。
こんな役立たずは目の前の海に飛び込んで死ぬべきではないか、とさえおもわれてくる。が、ゲームで入水したところでログアウトはできない。泣きそうになるが、泣いてもなぐさめてくれるひとも叱ってくれるひともいない。
だれもいない。
ひとりだ。
……よく考えたらこのインスタンスには五人いるのだから、一人抜けてもゲームは進行できるはずだ。
では、ゲームとしての最適解ははぐれたバカを放って他の四人で進めることでは?
きみは数合わせですらなかったのだ。かれらにふさわしい友だちではなかった。
そんなふうにメソメソしながら無目的にさまよいながら絶望に浸っていると、夜空に一条の赤い光線が走った。
レーザーポインタ……? だれが……? と立ち止まって見上げていると、同じ方角からまばゆい閃光があがった。信号弾だ。
どうも、向こうの方角にある塔から打ち上げられているらしい。
みんな、いるんだ、とおもう。
あそこで待ってくれている。
塔へ向かってまっすぐに駆け出していた。地面はあいかわらず真っ暗ででこぼこしているけれど、方向さえ教えてくれるのならたどりつける。仲間のもとへ。友人たちのもとへ。
他人に注意を向けているということは、他人から注意を向けられているということでもある。真にソーシャルである、ということ。それが『Big Walk』の定義する「友人」だ。
眼はすでに晴れている。あとは、視るだけだ。*12
(遊んでくれたみんな、サンキュー!)