- 『トイ・ストーリー5』を語る前に
- おもちゃとはなにか
- おとなのおもちゃであることとはなにか
- 『トイ・ストーリー』〜『トイ・ストーリー3』まではなんだったのか
- ノスタルジーを語るがノスタルジーはやらないピクサー

『トイ・ストーリー5』を語る前に

印象派やフォービズムなどがそうであったように、ある芸術に対する一見無理解で否定的な評言が、その肯定的な本質を射抜くことがある。
『トイ・ストーリー』の場合は、ディズニーCEOマイケル・アイズナーがジョン・ラセターにかけた「お人形で遊ぶ小さな男の子の映画なんてだれが観たがるんだ?」ということばがそれだった。
そう、『トイ・ストーリー』は「お人形で遊ぶ小さな男の子の映画」として始まった。その事実にピクサーはときに励まされ、ときに惑わされ、そしてときには見直しを迫られてきた。その軌跡は、スタジオとしてのピクサーの浮沈(他のアニメスタジオからすれば羨ましくなるくらいに凪いだ海での航海だったのかもしれないが)とも一致する。
ピクサーとはなにか。それはシリーズとしての『トイ・ストーリー』を観ればわかる。
おもちゃとはなにか

『トイ・ストーリー』におけるおもちゃとはなんだろう。『1』におけるウッディとバズの対立を眺めるにつけ、シリーズにおけるおもちゃたちは奇妙な前提を持っていることに気づく。
一、かれらは自分たちがおもちゃであるという自覚をもっている。
二、かれらは自分たちが表象しているキャラクターの設定を信じてはいない。
トトロのぬいぐるみはジブリアニメに出てくる通りのトトロではないし、グリーン・アーミー・メンは軍人調に喋りはするものの軍隊そのものではない。ウッディは1950年代のテレビ人形劇を、バズはSFアクション映画(2022年の『バズ・ライトイヤー』が悪い夢でなかったとして)をそれぞれベースにしているはずだが、ウッディのほうは原作の設定にひきずられず(そもそも彼は自分がなにかのキャラクターであることも知らなかった)、一個の人格(玩格?)を有している。
そして、バズが「自分は特別な使命を帯びたスペースレンジャーである」とおもいこんでいるのを徹底的にからかいつづける、それでも曲げずにスペースレンジャーを演じ続けるバズにたまりかね、ついにはこうキレる。
「おまえは、お・も・ちゃ・なんだ! 本物のバズ・ライトイヤーなんかじゃない! ただのアクション・フィギュア! 子どもの遊び道具なの!」
その後、おもちゃたちに恐れられている悪童シドの家でバズ人形のCMを観たバズは自分が大量生産品のひとつにすぎず、宇宙服に備え付けられた翼を使っても実際に飛べないのを悟り、うちひしがれてしまう。
自分たちは「本物(REAL)」ではないと自覚し、世間に喧伝されているヒロイックな夢を信じず、ただ与えられた身体と立場だけを現実とし、子どもの相手をする生きもの。
それをわたしたちは「大人」と呼ぶ。
おとなのおもちゃであることとはなにか

ピクサーが親や保護者の目線を描いてきたことはしばしば指摘される。『ファインディング・ニモ』はまさしくシングルファザーの奮闘の物語であるし、『モンスターズ・インク』や『インサイド・ヘッド』は子どもを守ったり善導したりしようとする保護者たちの話だ。
実際、ラセターはアクション・フィギュアに熱中する自分の子どもたちが着想のひとつになったと語っているし、アンドリュー・スタントンは『1』のころから冗談めかして「僕は孫たちのために映画を作っているんだ」と語っていたという*1。
ラセター(1959年生)、ジョー・ランフト(1960年生)、アンドリュー・スタントン(1965年生)といった主要メンバー*2は*3『トイ・ストーリー』の企画から公開までのあいだにいずれも年ごろの子どもを育てており、その経験が反映されていたことは疑い得ない*4。
しかし「大人」としての『トイ・ストーリー』のおもちゃたちが興味深いのは、他作品ほど直接的に子どもの危機を救ったり関係したりはせず、ずっとおもちゃたち自身のアイデンティティクライシスを描いてきたことだろう。
ラセターは2002年のインタビューでこのように話している。
たとえば『トイ・ストーリー』では、大きな狙いの一つは、おもちゃたちの性格を大人のものにすることで、子どものような性格にはしないことでした。ですから、アンディが部屋を出ておもちゃたちが生き始めると、そこは職場のようになります。おもちゃであること、遊んでもらうことが彼らの仕事のようになっている。
https://freshairarchive.org/segments/john-lasseter
つまりは、『トイ・ストーリー』の「大人」とは子育てする親だけでなく、仕事に責任を負った社会人としての面を持っている。かれらのおもちゃ業が「仕事」であることは序盤から強調されてもいる。おもちゃたちはアンディ一家の引っ越しを間近に控えてミーティングを行い、組織としての意思共有を行う。ウッディはそのチームリーダーだ。
空想的な世界を扱う際にそれをある種の産業や官僚制のパロディとして描きだす、というのはこの後もピクサーの十八番となっていく手法だ。『モンスターズ・インク』に至っては文字通り「会社」を舞台していたことはいうまでもないだろう。
『トイ・ストーリー』劇中では、「宇宙飛行士バズ・ライトイヤー」という夢から覚めて発狂しかけたバズがシドの妹でピンクのエプロンを着せられておままごとをさせられているシーンがまさにそれだ。夢が挫けるという去勢めいたプロセスを経て、やがて仕事人としての自覚を持っていく。
一方でウッディはウッディで自分が自分の生業から不要とされるのを極度におそれている。プレイスクールやマテルといった『アメリカのおもちゃ』であることを誇るウッディの仲間たちの前に『台湾』から来た『ハイテク』おもちゃであるバズが現れるという導入は90年代アメリカの抱えるゼノフォビアックな不安が見え隠れしもするけれど、ともあれ、さしあたりウッディはかなり直接的なレイオフの恐怖にさらされている。
とはいえ、「大人」の物語としての『トイ・ストーリー』ばかりではない。
『トイ・ストーリー』において描かれている子ども時代の風景が1990年代よりはラセターら主要制作メンバーが幼少期を過ごした1960年代のほうに深く結びついている、というのはよく指摘されるところではある。
そういえば、ラセターが『トイ・ストーリー』に込めたノスタルジーについては別の場所で一度書いた。
web.archive.org
そのときの話を繰り返すことになるけれども、ウッディにおける紐をひっぱって録音された音声を発するギミックはラセターの幼少時代に肌身離さず持ち歩いていたおばけのキャスパーの人形が着想元であり、ウッディの出自である1950年代の人気テレビ人形劇『ウッディのラウンドアップ』は40年代から60年代にかけて放映された人形西部劇『Howdy Dowdy』を参照しており*5、「西部劇がSFにとって変わられる」という流れも50年代から70年代にかけてのアメリカエンタメ史*6を反映している。
デイヴィッド・ハルバースタムの『ザ・フィフティーズ』などによると「郊外に住むアメリカの幸福な中産階級核家族」のイメージが完成したのは1950年代後半だそうだけれど、まさにその時代にラセターらは、ある種のアメリカ人たちにとっては今なおノスタルジーの対象である「古き良きアメリカ」で幼い日々を送っていた。幼少期の原風景を公共の夢として再現しようとする点で、ラセターはウォルト・ディズニーと近いといえ、2000年代後半にディズニーアニメ中興の祖となったのも運命的に感じられるのであるけれども、しかしラセターはウォルトほどあからさまでない。巧妙である、というべきか。
『トイ・ストーリー』シリーズは現実世界をベースにしたロウファンタジー的物語でありながら、作中年代を断定しにくい。ふつうに考えれば一作目の『トイ・ストーリー』の舞台は制作・公開年である1990年代前半であるとみなすべきだが、そうとも断じずらい。子ども向け映画の空間が時事ときりはなされているのはめずらしいことではないけれど、単に無時間的とも形容しづらい。
というのも、おもちゃたちの顔ぶれが古いのだ。ミスター・ポテトヘッド、イヌのスリンキー、スケッチー、バレル・オブ・モンキーあたりはいずれも実在するおもちゃたちだが、だいたいは50年代から60年代にかけてうりだされて人気だったおもちゃたちだ。ここに60年代のノスタルジーが織り込まれている。
そもそも、90年代におもちゃが子どもの遊び相手の地位を奪われると懸念するのであれば、その相手は家庭用ビデオゲームになるはずで、しかしデジタルデバイスとの対決は『5』を待たねばならない。別にATARI出身にしてApple創業者でもある大株主、スティーブ・ジョブスへの遠慮があったわけでもないだろうけれども。いちおう『1』でピザ屋付設のゲームセンターは出てきたし、『2』の冒頭はスーパーファミコンを遊ぶシーンから始まってはいるが、どちらも本筋には絡まない。
何食わぬ顔で90年代あるかのようにふるまいながらも、60年代が混入している。『トイ・ストーリー』シリーズ初期の不思議な時空間はそのようにしてある。
それらはオタクとしてアニメーション産業で夢を追い続けながら*7も、ディズニーという大企業*8の下で働いたり、家庭を持って親になったりといった、「子ども」と「大人」の両面をラセターたちは生きていた。そしてこれまたかられ自身がそうであるように、そのアンビバレントさがあたかも自然なこととして映画のなかで物語られていく。
『トイ・ストーリー』〜『トイ・ストーリー3』まではなんだったのか

『トイ・ストーリー』が「お人形で遊ぶ小さな男の子の映画」であった、とは、つまりはそういうことだ。子ども時代の自分は無垢なアンディに宿り、悪戦苦闘する大人である現在の自分たちはウッディへと託される。
そう、ただの「子ども」ではなく、「男の子」。
ピクサーの元CEOであるエド・キャトムルの回想録『Creativity, Inc.』*9の2023年に改訂版として追加された新章では、2010年代から始まったDEI志向の社内改革について多くのページを割いている。
その取り組みのひとつがメアリー・コールマンとニコル・グリンドルの提案によって2014年に始まったStory Artistas という女性ストーリーボードアーティストのグループだ。それまでも表立っては男女わけへだてないようにふるまい、実際意識としてそのようにあろうとしてきたピクサーではあったが、監督を育成する場でもあるストーリー部門ではなかなか次世代の女性監督を育てきれないでいた。
その一因が会議やチームなどの場では女性アーティストは遠慮がちになってしまうこと*10などにあると判明し、彼女たちは自ら意識改革を行うべく、Story Artistasを立ち上げ、グループ内で忌憚なく意見交換をしたり、外部から講師を招いての講演を行った。そうした取り組みが、のちに『私ときどきレッサーパンダ』でピクサー初の女性監督*11となったドミー・シーを筆頭として、主要ポジションにおける女性比率の向上へとつながったという。
さて、そうしたピクサーの背景を踏まえたときに『トイ・ストーリー』シリーズ通した変遷がどう読まれるか、といえば、「お人形で遊ぶ小さな男の子の映画」からの脱却といったところだ。
『4』の監督を務めたジョシュ・クーリー曰く「『3』まではアンディとウッディの物語で、『4』はウッディの物語」*12と見立てられる。

『2』と『3』は子離れとその準備についての話だ。
『2』は全編通じておもちゃの死を示唆していく。序盤では音声機能を損なわれて埃をかぶっているペンギンの人形を脇に見つつ、ウッディのパーツの破損からアンディの外出に置いていかれ、それが老いーー身体的にくたびれはてた末にヤードセールで売られてしまうという末路についてまず示される。
カウガール人形のジェシーはかつての持ち主であるエミリーから捨てられたことをトラウマとして抱え、ウッディにこういう。「私たちおもちゃはアンディやエミリーを忘れない。でも、かれらのほうは私たちを忘れてしまう」
仲間たちとの協力によってもろもろの騒動が解決し、無事アンディのもとに帰還したウッディは、ひとり外出していくアンディを子ども部屋の窓から見送る。もはや、故障に関係なく、アンディはおもちゃを必要としない年齢になりつつある。
その寂しげな背中にバズはこう声をかける。「アンディの成長が不安か?」
ウッディはこう返す。
「いや、今を楽しむさ。それに、アンディがいなくなっても、おれにはおまえがいる」
ここではウッディの未来が暗示されている。子どもは成長するとおもちゃから離れる。それは逃れられない運命であり、終焉だ。その運命に対してウッディはアンディに固執しつづけるのではなく、相棒やコミュニティの仲間たちといった出口を見出す。
アンディがいなくなることは運命であり、そのときに残るのは仲間である――その思想は『3』の色濃く表れている。大学で実家を離れることになったアンディはいよいよおもちゃの取捨を迫られ、ウッディだけを手元に残し、バズを含めた残りのおもちゃたちを屋根裏へと置き去りにすることを決意する。
ここで注意したいのは、アンディはおもちゃを「卒業」したわけではないということだ。ティーンになって遊ぶ機会こそ激減したとはいえ、いざという段になって、アンディはウッディだけを残すという選択をした。幼少時代からの代えがたい友人であるウッディを切り捨てるということは、自身のアイデンティティを捨てるということでもある。
ウッディとアンディの関係は、『3』の悪役であるハグベアのロッツォとその前の持ち主だったデイジーとの関係の裏返しでもある。ロッツォはピクニックで事故的にデイジーとはぐれ、その後自力でデイジーの家までたどりついたものの、新しいハグベアで遊ぶデイジーの姿を見て絶望し、「おもちゃはみんなゴミ」「子どもは誰もおもちゃを愛さない」といった極度の人間不信に陥る。
このロッツォの絶望は「愛されているのは『自分』ではなかった」という、大量生産品であるおもちゃ独特の性質に由来している。まったく同じ姿形のハグベアであるならば、デイジーはロッツォでなくともよかった。子どもからおもちゃへの愛情と、おもちゃから子どもへの愛情は、そもそも非対称であるのだ。そう悟ったロッツォがやさぐれて利己的な保育所マフィアのボスになるのは当然かもしれない。
しかし、ロッツォの危機はウッディには訴えかけない。ウッディはそもそも大変稀少なヴィンテージドールであるし、十数年をかけて育まれたアンディとの思い出がある。ロッツォが体験した「持ち主とはぐれ、長い旅路の末にまた持ち主の家に戻る」というのは『トイ・ストーリー』シリーズにおいてウッディが何度も繰り返してきたプロットであるけれども、ウッディはロッツォのような拒絶にはあわなかった。
「だれかと特別な関係を築くことで自分も相手も替えの利かない存在になる」というのは実は『2』の時点で、示唆されてもいて、途中でパーティに加わるニセバズのサブプロットがそうだ。最初はおもちゃ屋で他のバズ人形とほとんど変わらないキャラクターを持っていたニセバズだったが、終盤に出会ったザーク*13と父子の関係を築くことで他のバズたちとは違う出口へと着地する。
ロッツォは、そうした誰かと無二の関係を築けなかった。トラウマによって培われた利用するかされるかの冷たい価値観は、デイジー時代からの知己であったはずの赤ちゃん人形のビッグベビーとの間柄にも適用され、やがてそれが彼の敗因ともなる。
『3』のクライマックスとなる熔鉱炉のくだり、絶体絶命となったウッディ一行はもはや覆しえない運命をさとり、おもちゃ仲間たちで手をつなぎあい、死を覚悟する。
もちろん、最後にはどうにかなってしまうのだが、そんなことはどうでもよくて、このシーンではアンディとの別れより一足先に「アンディがいなくなっても、おれにはおまえがいる」、すなわち最後には仲間がいる、という『2』でのセリフが実現しているわけだ。
そうして、『3』のラストで、ウッディは自らアンディとの別れを選び、アンディもウッディを他のおもちゃたちとともに幼い少女ボニーへと譲渡する。
この瞬間に「お人形で遊ぶ小さな男の子の映画」は二重の意味で終わりを迎える。アンディがウッディたちと別離したことで、「お人形で遊ぶ子ども」の物語は終わり、その譲渡先がボニーという女の子だったことで「小さな男の子」の物語もまた終わる。
『3』の公開年は2010年、『4』の公開年は2019年。実に九年の開きがある。この間、ピクサーという会社は大きな構造的変革を迎えていく。
まず、ピクサーの創設者にしてクリエイティブの支柱でもあったジョン・ラセターがピクサーを離れた。発端は2017年にハーヴェイ・ワインスタイン告発をきっかけに活発化したいわゆるMeTooムーブメントで、ラセターは常日頃からのスタッフへの非同意の肉体的接触などが問題視され、2018年に*14ピクサーから逐われることとなり、当初監督を予定していた『4』もジョシュ・クーリーへと交代となる。
ポルト大学のガブリエラ・サによる2022年の研究によれば*15、ピクサー作品のクレジットに見られる主要ポジションの女性比率は1995年〜2019年の21作品で約16%だった。それが、2020〜2022年の5作品では約38%に増加している。特に2019年までの作品では主要ポジションにおける女性が10名を越える作品はなかったものの、2020年の『2分の1の魔法』では18名を記録しており、2019年がひとつの節目だったことがわかる*16。
ラセター後のピクサーにおける女性スタッフの躍進はもちろん偶然ではない。
ラセター辞任後に新COOに就任したピート・ドクターのもと、ピクサーはクリエイティブの意思決定に関わる諮問チームについて女性の比率を最低でも50%にすることとし、年齢や人種的多様性についても向上させていくという方針を打ち出した。
その結実が2022年のドミー・シー監督『私ときどきレッサーパンダ』だ。ピクサー初の単独女性監督作品である『レッサーパンダ』はテーマ的にも、「北米*17におけるアジア系移民の二世三世の女性へのプレッシャー」というシー監督のアイデンティティが反映された物語になっている。それまで24作品中で女性主人公といえるのは3作品*18にすぎなかったが『レッサーパンダ』以降は『マイ・エレメント』、(どちらかといえば無性的な存在だが)『インサイド・ヘッド2』、『私がビーバーになる時』、そして『トイ・ストーリー5』と5年ですでに5作の女性主人公映画を送り出している*19。
そんな節目の年にリリースされた『トイ・ストーリー4』もまた世代交代の話であり、そこで「古い時代の男性」がアイデンティティクライシスに直面する話でもある*20。
まず、冒頭でウッディはすでに「主力」ではないことが示される。ボニーとよく遊んでいるのは『2』で登場したカウガール人形のジェシーであり、ウッディはクローゼットからかれらの楽しげな様子を眺めることしかできない。監督であるクーリーのコメンタリーによれば、「ボニーはウッディがいなくても構わない。それがエンディングにつながっているんだ」。
『1』のころのウッディなら闇落ちしていかもしれない状況だが、すでに人格的に成熟したウッディは寂しさを抱えながらもジェシーに嫉妬したりなどはしない。しかし、心の何処かで焦りは募る。自分がボニーにとって不要であるとするならば、自分がボニーに与えられるものとはなんなのか?
ウッディはみずからの有用性を、新入りであり、ボニーががらくたで作った自作品ゆえに「おもちゃ」としての自覚をもてていないフォーキーの教育に見出そうとする。「なぜ、そこまでフォーキーに固執するのか?」と問われたときにウッディが発する「だって、もうそれ以外におれにはなにもないんだよ!」という叫びは切実だ。

しかし、これまでのシリーズで繰り返されてきたようにまたしてもウッディは(フォーキーとともに)持ち主とはぐれてしまう。
なんやかんのあった末にふたたびウッディはボニーのもとへ戻るチャンスを得る。しかし、バズに「内なる心の声(your innner voice)を聞け」と促され、ウッディは結局かつての恋人であるボー・ピープ*21率いる、特定の持ち主を持たない公園のおもちゃたちの一団に加わることを決め、バズたちに別れを告げる。ウッディを見送るおもちゃたちが「ウッディは迷子(lost boy)になったの?」と訊くと、バズは「もう彼は迷子じゃないんだよ」と、シリーズで繰り返されてきたプロットに対するメタ的な言及をし、「ウッディの物語」を締めくくる。
『4』がもはやこれまでのような「おもちゃとしてのウッディの物語」ではないことはオープニングシーンで示されていて、『1』〜『3』のオープニングは「子どもが空想の力を駆使しておもちゃで遊ぶところ」を描いていた。ところが、『4』ではボー・ピープのいなくなった晩(『2』と『3』のあいだ)の回想から展開されていく。つまり、「おもちゃとしてのウッディ」よりは「ひとりの経験をもった人格としてのウッディ」を重視しますよ、ということがここで予告されている。前述したとおり、「ウッディとアンディの物語」だった『3』までに対して、『4』は「ウッディの物語」にケリをつける映画だ。ウッディの替えの利かない唯一のおもちゃとしてのアイデンティティはアンディとの関係において機能するものであり、彼の依ってたつところはすでにおもちゃ仲間へと切り替わっている。だから、彼はボニーとの特別な関係ではなく、おもちゃとしてより広範に貢献できる公園での生活を選んだのあり、『5』でかつてのおもちゃ仲間から支援の要請を受ければたちまち駆けつけもする。
そして、アンディがいなくなったボニーの家でボニーと関係を結ぶのは?
ジェシーだ。
「お人形で遊ぶ小さな男の子の映画」だった『トイ・ストーリー』は『4』を通してひそやかに「小さな女の子の映画」へとバトンタッチされ、『5』ではいよいよジェシーが主人公としてボニーのために奮闘することとなる。かつてのウッディの旅路を辿りながら。
ノスタルジーを語るがノスタルジーはやらないピクサー

『トイ・ストーリー』シリーズの変化は、かつては文字通りの意味でボーイズクラブだったピクサー内部の変革の軌跡とも一致している。『トイ・ストーリー』、『モンスターズ・インク』、『カーズ』、『Mr.インクレディブル』と、かつてのピクサー作品には50年代60年代的なノスタルジーが顕著に表れていた。それはラセター自身(とピクサーアニメ初期メンバーたち)のノスタルジーであり、もっと広くいえばアメリカのノスタルジーだった。
ラセターが抜けたことでピクサーからノスタルジーは失われたのか? といえば、否である。近年の作品でも『マイ・エレメント』は古典的なロマンティック・コメディを踏襲しているし、『星つなぎのエリオ』は宇宙開発時代全盛のノスタルジアを引き継いでもいる。というか、どの作品も主に監督の個人的なノスタルジーがソースとなっている点では変わらない。
だが、そのソースが多様化している。『レッサーパンダ』が北米におけるアジア系移民コミュニティで育つことに大きく依っているのもそうだし、『2分の1の魔法』のファンタジー世界は『ダンジョンズ&ドラゴンズ』がベースで、『リメンバー・ミー』の舞台はメキシコで、『あの夏のルカ』はイタリアだ。プロット自体は古典的な『マイ・エレメント』でさえも韓国系移民二世であるピーター・ソーン監督が体験した1970年代のニューヨークの風景が反映されている。
裏を返せばそれは、アメリカのノスタルジーの分裂を示しているともいえる。特に映画産業において、かつてアメリカのノスタルジーは世界のノスタルジーでもあった。しかし、2020年代の現在にあってはそれはもはや疑わしい。「お人形で遊ぶ小さな男の子の映画」の物語は失効してしまった。その状況は、仮に2018年以降もラセターがピクサーに留まりつづけたとしても変わらなかっただろう。
ノスタルジー研究の大家フレッド・デイヴィスがいうように、私的なノスタルジーと集合的なノスタルジーは異なるものであり、集合的なノスタルジーはメディアによって作られる部分が大きい。ラセター時代から私的なノスタルジーに依るところが大きかったピクサーの作風では、たまたま集合的なノスタルジーと一致する私的ノスタルジーを持っていたラセターは再現性がなかったのだろう。
ラセターは結局、ウォルト・ディズニーにはなれなかったのだとおもう。それは、ラセターがノスタルジーを語るのみに留まり、観客に新たなノスタルジーを植え付けることができなかった、という点においてそうだった。創作者や映像作家としての優劣の問題ではない。なぜかといえば簡単なことで、ラセターはディズニーランドを造らなかった。
そして、ピクサー自身も私的なノスタルジーを語りながら、自らがノスタルジーの対象であることを拒否しつづけている。続編を作りまくっている。キャットムルは「続編は安定的なスタジオの運営にとって必須だが、創造性を殺さないために総作品数の3分の1に留める」と自著に書いていて、たしかに今後のリリーススケジュールも「3分の1」ペースを守ってはいる。だが、親にして兄弟たるディズニー本家ではその長い歴史やかつてのビデオ続編濫造や近年の続編強化傾向にもかかわらず、『トイ・ストーリー』シリーズのように5作目まで続編を出したことはない。
常に続編によって現在を更新しつづけようとするからこそ*22、ピクサー作品はオーディエンスのノスタルジーの対象になりにくいのではないか。そんな気がする……というようなことを『トイ・ストーリー5』の感想を書くにあたってつらつら考えていたら、『5』の感想を書くスペースがなくなりましたとさ、って話。
*1:https://apnews.com/article/toy-story-5-movie-andrew-stanton-34af3a8622b0fc6981b4413be64a9b5a
*2:のちにブレイントラストというピクサーの物語制作部門の中核となるグループ。最初期メンバー、ラセター、ランフト、スタントン、ドクター、リー・アンクリッチの五人
*3:1967年生のピート・ドクターを除いて
*4:年若だったドクターものちに『インサイド・ヘッド』シリーズでやはり自身の子育ての経験を色濃く作品に投影している
*5:David A. Price, "The Pixar Touch"
*6:『トイ・ストーリー2』で、プロスペクターが「なぜ『ウッディのラウンドアップ』は打ち切られてしまったのか?」というウッディからの質問に対し、「スプートニクのせいさ!」と返している。
*7:つけくわえるならば、『トイ・ストーリー』はアウトサイダーとしてのかれらも投影されている。シドを最終的にやっつけることになるのはシドによって魔改造されたおもちゃたちだが、かれらがシドを襲うホラー的なシーンはあきらかにフリークス映画的な作法に即している。この世界観において、「いじめっこ」であるシドが絶対悪として描写されるのも無理はない。
*8:勘違いされがちだが、すくなくとも財政的にはアニメーションスタジオとしての初期からピクサーはディズニーの強い影響下にあった。
*9:邦訳は『ピクサー流 創造するちから 小さな可能性から、大きな価値を生み出す方法』(ダイヤモンド社)。ただし2014年の訳書なので改訂版の追加新章分は未訳。
*10:たとえば「他人をさえぎってまで意見をしゃべろうとする」といった傾向が男性に比べて女性は低い
*11:正確には長編において単独でクレジットされた女性監督として
*12:『トイ・ストーリー4』の監督コメンタリーより
*13:おもちゃとしてのバズ・ライトイヤーのもととなった作中映画における悪役で、バズの実の父。要するに『スターウォーズ』のダース・ベイダー
*14:キャットムルを含めたピクサー首脳部は辞任の直接的な理由に関しては「契約上の秘密事項」として口をつぐんでいる
*15:https://www.researchgate.net/publication/379249543_Domee_Shi's_Turning_Red_as_Feminist_Hope_for_Feature_Animation
*16:『トイ・ストーリー』では主要ポジション18名中わずか1人(約5%)。初の女性共同監督を迎えた『メリダとおそろしの森』でも28パーセント程度だったが、『2分の1の魔法』から『バズ・ライトイヤー』まででは30%台後半から40%台で推移している。論文に掲載されていない2023年以降のは比率は詳しく調べていないが、だいたい40%台を維持しているものとみられる
*17:舞台はカナダ
*18:『メリダとおそろしの森』、『ファインディング・ドリー』、『インサイド・ヘッド』。女性性が明確に規定されているものでは実質『メリダ』のみ
*19:一方で『星つなぎのエリオ』の制作過程で起きたトラブルのように、性的マイノリティに対する排除圧力が根強く残っていることに関しては留意しておかねばならない。
*20:余談だが、『トイ・ストーリー4」に対する好き嫌いはともかくとしても、「『トイ・ストーリー4』はカスだから」といった態度でひたすら『4』の減点ポイントについてしか述べないような輩はそもそも『トイ・ストーリー』シリーズを理解しようとしていないのであるから話を聞くに値しない。人生で役立つ豆知識だ。
*21:羊飼いの女性の陶製人形。3でアンディのもとからいなくなったことが示唆されていた。
*22:それもプログラムピクチャー的な「毎年劇場版を出す」といったようなシリーズではなく、新しいチャレンジを行いつづけているからこそ

















