名馬であれば馬のうち

読書、映画、ゲーム、その他。


読書、映画、その他。


2024年上半期の新作映画ベスト10


最近は映画に刺激を受けることもなくなったな……とおもっていたのですが、今日トッド・ヘインズの『メイ・ディセンバー』を観て、こんなギリギリのプロットを画の力だけでこれほどまでに押し通せるものなのかと感動し、少し前まで出す気もなかった上半期のベストを並べる気になりました。いい映画というのは、映画の原義について考えさせてくれるものですね。

1.『ゴッドランド/GODLAND』(フリーヌル・パルマソン監督、アイスランド

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上司から「アイスランドに教会建てろ」って言われたデンマーク人の牧師が、湿板写真の機材をえっちらおっちらかつぎながらマジでなんもない大地に教会を作ろうとする。『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』や『フィツカラルド』の風格を具えていますが、もうすこし世知辛い。この世知辛さがいいんですね。画面も当時の写真の規格に合わせたような窮屈な画角になっていて、そんな世界で馬や人が不毛の地に呑まれて死んでいく。特定のだれかやなにかの悪意に苛まされるわけではなく、強いて言えばアイスランドという途方もない空白が人間を叩きのめしていく。牧師はずっと「デンマークに帰りたい帰りたい」としかぼやかない。
世にも最悪な「走る馬(マイブリッジの)」オマージュが出てくるんですよね。*1写真の映画(なにせ「この映画はアイスランドで発見された七葉の写真を着想とした」というウソ字幕が出る)でもあるし、アンチシネマでもある。信仰も科学も生命も文化も、すべてここでは無力なんだ。

2.『アイアンクロー』(ショーン・ダーキン監督、米)

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プロレス一家もの。といっても『ファイティング・ファミリー』みたいにハッピーな感じではぜんぜんなくて、ほとんどホラーじみた陰惨な悲劇を淡々と描いていく実録バイオピック。
あまり撮り方の巧い映画ではないんだけれど、題材がどストライクです。強権的な父親の下でプロレスエリートとして育てられる三人の兄弟たち。幼い頃は無邪気に戯れていたかれらが成長するにつれて才能の格差や父親からの期待の差なんかでボロボロになっていく。ブラザーフッドの崩壊はつねにうつくしい。この映画もまた例外ではありません。

3.『TALK TO ME トーク・トゥ・ミー』(フィリッポウ兄弟監督、オーストラリア)


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去年公開だけど今年観たので。
ジェイムズ・ワン以降といっていいのか、「異界」としてのあの世とつながる映画はいくらも出てきたけれど、この映画はそのつながり方の描写が群を抜いている。

4.『夜明けのすべて』(三宅唱監督、日本)

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フラジャイルな主人公のモノローグで映画がはじまったときは逃げ出したくなったんですけれど、そこで見切らなくてよかった。モノとことばの往復がていねいな映画。救われる気概のあるひとたちが救われていく。映画にしかつけないうつくしいうそです。

5.『ゴジラ×コング 新たなる帝国』(アダム・ヴィンガード監督、米)


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近年ではマイケル・ベイの『アンビュランス』なんかもそうだけれど、「映画ってこれでいいんだ」と開き直らせてくれる作品に弱い。ひたすら前に向かって疾走しつづける映画は、停止ボタンのない映画館でしか存在できない。それってすごいことですよ。

6.『美しき仕事』(クレール・ドゥニ監督、仏)


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1999年の作品の日本初上映。初めてドゥニ作品を観たのは『ハイ・ライフ』で、こんな退屈極まる映画を撮る監督なら今後二度と観なくてもいいかとおもっていたのですけれども、予告編がたまらなく魅力的だったので本作を観に行きました。大正解。フランス外国人部隊の男たちがひたすら肉体と醜い嫉妬心をぶつけあう(ときにはマッパで)映画です。
太陽と肌を佳く撮る作品も少なくなりつつあります。

7.『恋するプリテンダー』(ウィル・グラック監督、米)


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『マイ・エレメント』もそうだったけれど、最近はクラシックモダンなロマコメの波が来ている。自分のなかだけで。世間的にはクラシカルなロマコメはあんまり求められてない風向きなので、出たときに貪るのが吉かも。あとエンドロールが最高。マジで。

8.『チャレンジャーズ』(ルカ・グァダニーノ監督、米)


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ときおり正気じゃないカットの挟まる感情と時間のラリー。あんまりノッてないときのグァダニーノに近いんだけど、役者のパワフルさでどうにかしている。

9.『システム・クラッシャー』(ノラ・フィングシャイト監督、ドイツ)


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救いたくてもけっして救えないハズレものを救うにはどうすればよいのか→どうにもなんねえよね、というあられもない現実をなお希望があるかのように見せかけられるのが映画の美点。

10.『落下の解剖学』(ジュスティーヌ・トリエ監督、仏)


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最後のひと枠は『リンダはチキンが食べたい!』でもよかったんですが、イヌがよかったので『落下の解剖学』に軍配があがりました。適度なコンシャスさと適度なアートハウスっぽさに少々のポップさを加えた仕上がりはいかにもカンヌ好みだけど、そのバランスであまりいやらしくはないところもいい。去年のアカデミー作品賞ノミニーのなかではいちばんかな、とおもっていたんですが、最近観た『ホールドオーバーズ』に鞍替えしました。
proxia.hateblo.jp

*1:「走る馬」といえば、劇場版ウマ娘ジャングルポケットのやつでも冒頭のシーンでウマ娘版「走る馬」が出てきますね。

越えていく物語たちのポリフォニー――ゲーム『未解決事件は終わらせないといけないから』に影響した作品について

미제사건은 끝내야 하니까、2024)

(注1:本記事はゲーム『未解決事件は終わらせないといけないから』、小説『白光』『新参者』『終わりの感覚』、映画『ファーザー』の軽度〜中度のネタバレを含みます)
(注2:基本的には、『未解決事件』をクリアした人に向けて書かれた文章です。なに? まだやってない? 傷ついたことがないならそれでいいけど。まあ二時間くらいで終わるのでサッと買ってやっちゃいなよ。)

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 なぜ小説を書きたいのだろうか。それは小説を読んだからだ――という形で、「読む」ということと「書く」ということを、結びつけてみようと思ったのである。


 後藤明生『小説――いかに読み、いかに書くか』アーリーバード・ブックス



物語は越境します。ときには言語を。ときにはジャンルを。ときには時代を。ときには媒体を。
ひとつの作品をひもといて見るとき、それはすでに複数の物語をはらんだ集合体なのであって、真に孤立した物語というのは存在しません。あらゆる物語は越境の行先地であり、出発点でもある。その事実自体はなんら興奮をもたらす問いではない。
なので、問題となるのは、それがどのような仕方で越えられているか、ということなのです。


今年一月にリリースされた韓国産ミステリーADV、『未解決事件は終わらせないといけないから』(以下『未解決事件』と略)。過去に起こって迷宮入りしていた少女誘拐事件をめぐる、記憶と物語、そしてひとりの人間たちの再生の物語を独特なゲームシステムで描き、話題を呼んだ作品です。
そのユニークさや内容はさまざまなところで紹介されているので、いまさらここで改めては語りません。


www.4gamer.net
(ゲーム内容について知りたいかたはこちら)




さて、『未解決事件』の開発者であるSOMIが、日本のゲームニュースサイトのインタビューに答えてこんなことを言っていました。



――本作の開発にあたって影響を受けた作品はありますか?

Somi:主に小説からインスピレーションを受けています。ゲームのクレジットにもありますが、韓国の小説家キム・ヨンスが書いた「濡れずに水に入る方法」からインスピレーションを受けました、 この小説は、他人に対する無条件の優しさについて書かれています。また、ミステリー部分では三木彦連蔵の小説「白光」から、ドラマティックな部分では東野圭吾の小説「新参者」から多くのヒントを得ました。


『未解決事件は終わらせないといけないから』の最大の特徴は、プレイすることで安らぎを得られること―人気短編ADV多数手掛けるクリエイターSomi氏【開発者インタビュー】 | Game*Spark - 国内・海外ゲーム情報サイト



三木彦連蔵ってだれだよ、連城三紀彦だろがい、直木賞作家やぞ、という翻訳部分でのツッコミはすでに散々なされているであるのでともかくとして、これは実はかなりクリティカルな回答だったりします。
映画にしろゲームにしろクリエイターがインタビューで出してくる「影響を受けた作品」なんてのは、たいてい刺身のツマ程度の参考にしかならないのですが、『未解決事件』に関しては「あれ、『新参者』と連城の『白光』なんですよ」と言えば既読者なら膝を打つはず。実際、わたしの身の回りにいるミステリオタクも膝を打ちすぎてゴリランダーになっていました。*1

というのも、『白光』にはこんな一節が出てくるんですね。



そんな風に自分が起こした自殺未遂事件のことさえちゃんと説明できずにいる僕が、今度の事件のまだ未解決の部分を……たとえば誰がどんな動機で僕の大切な……大切な娘を殺害したか……あの正月の一つの「家族の風景」が今度の事件にどうつながり、一人の罪のない少女を死へと追いつめたか……説明するために警察を訪ねてきたと言っても、信じてもらえないかもしれませんね。
でも僕は今日、やっと勇気を出して真実を語りにここへ来たのです。



連城三紀彦『白光』光文社文庫(no.1227)
(太字は筆者による強調)



まさに「未解決事件を終わらせないといけないから」。いや〜、こういうのを見ると……嬉しくなっちゃいますよね。なりませんか? 🙋読者「なるなる〜」  👍御同意ありがとう!

作者のブログでは、ほかにもアンソニー・ホプキンスのオスカー受賞で話題になった*2『ザ・ファーザー』なども参考作にあげられています。もちろん、ゲーム本編のエンディングに引用文献として紹介されるジュリアン・バーンズ『終わりの感覚』やキム・ヨンスの作品も忘れてはいけません。

いってみれば、『未解決事件は終わらせないといけないから』は複数の異なる国のフィクション、そして複数の異なるメディアの交差点でもあるわけです。ボルヘスが言うように、引用とは言語のシステムであるわけですが、同時に書き直す(リライト)ことでもある。
作者が影響を公言しているこれらの作品群は『未解決事件』において実際どのように作用していったのか。

ひとつずつ、見ていきましょう。

連城三紀彦『白光』

連城三紀彦の『白光』はこんな話です。
聡子という主婦が妹の幸子から娘である直子を預かります。カルチャースクールへ出かける、というのが幸子の大義名分でしたが、実は不倫相手の大学生・平田とあいびきするためであることを聡子は知っていました。そして、聡子が家に直子とボケかかっている舅の桂造を残し、娘の佳代と買い物に出かけているあいだに直子が行方不明になってしまう。直子の父親である武彦や聡子の夫である立介も直子の捜索に出るのですが……

と、まあ、ここまでおわかりのとおり、扱う範囲が”家族”なわりに登場人物がやたら多い。三世代で二組の家族が出てくる。しかも、かれらの関係と感情の矢印が錯綜しまくり、それがまた物語のダイナミズムとなっていくので、ちょっとあらすじとしてまとめにくいんですよ。しかし、これはミステリなので、「ネタバレ防止」というエクスキューズをもってサボることができる。楽ですね。
とはいえ、四行五行程度のあらすじでも『未解決事件』との関連はいくつか見て取れるはずです。
まずなにより、少女が、それも娘であり孫でもある少女が失踪する事件であること。痴呆症気味の老人が出てくること。さらに物語が進むと、前に示した引用部からも読み取られるように、ある人物が警察に自首します。ここも共通していますね。細かいところでは、「つま先立ちして塀の向こうにいる子どもを覗く」という行為も。

(自白司法制度の国では事件解決の図)

しかし、『未解決事件』が『白光』からなによりも受け継いだのは、その語りの部分です。前述のSOMIのブログでは*3こう述べられています。
『白光』からは、一つの事件に注がれる複数の異なる視線がもたらす反転の魅力を学んだ」、と。
ミステリ作家の綾辻行人が、かつて「逆転の小説」であると形容したように*4、連城作品はとにかく構図が逆転反転しまくります。長編はもちろん、短篇でもおかまいなしに三回も四回もどんでんがえりまくる。そうして、最初に見えていた絵が最後には完全に別物となって立ち現れてくる。
そんな連城式の「逆転」を可能にしているのが語りの操作です。特に『白光』ではとにかく視点がせわしなく切り替わります。正体不明の老人(のちに桂造と判明)の一人語りに始まり、聡子、武彦、立介、幸子、平田……人物だけでなく人称も一人称と視点人物よりの三人称を自在に使い分け、しかも視点の切り替わりも章分けでなく一行空けでポンポンやってくる。
登場人物たちは平凡な生活な上で決して表に出さない「秘密」――この場合はある人物のある人物に対する想い――を抱え、その「秘密」同士がすれ違い、観測者である読者の想定を裏切りつづけていく。
『未解決事件』は、なるほど、連城作品の「反転の魅力」をスマートに翻訳にした語り口であるといえるでしょう。

東野圭吾『新参者』

『白光』とならんで日本のミステリ小説からの参考作としてあげられている『新参者』は、「ドラマティックな部分」(インタビュー)あるいは「事件をめぐるキャラクターたちの態度」に影響を受けたと語られています。
東野圭吾はいまさら説明もいらない国民的ミステリ作家で、『新参者』も有名作ですが、いちおう概要を説明しておきましょう。

まあたしかにこんな顔力(かおぢから)の「新参者」刑事が来たら一発で地域になじみそう

探偵役をつとめる刑事・加賀恭一郎(ドラマや映画では阿部寛が演じています)という男がおりまして、そのシリーズ八作目です。
東京は日本橋の警察署に異動したてほやほやの加賀。その彼があるマンションの一室で起きた中年女性殺害事件を追う連作短篇……であるはずなのですけれど、ちょっと構成が奇妙なんですね。
最初の方はわりと殺人事件と直接関係あるようであんまりない、料亭の小僧さんを加賀がコロンボ的な陰湿さでいじめる小咄だったり、ちょっと泣かせる人情噺のような短篇(もちろんミステリですが)などが続きます。読み進めていくにつれ、加賀は被害女性に近しい人物に寄っていき、彼女を取り巻いていた人間関係や物語が浮き上がってくるのです。
この構成は意識的に組まれている。加賀は下町の「新参者」として「誰もが見向きもしないような些細なことに拘り、たとえ事件に無関係だとわかっていても、決して手を抜かずに真相を突き止めようとしてきた」*5からこそ、最終的な真相を解決までに持っていく最適な一手を見抜き、そのためにただしく動けるようになるのです。
途中、加賀はミステリの探偵役としてあまりに寄り道をしがちなことに、あるキャラからメタ的な疑義を呈されます。それに加賀はこう答える。



捜査もしていますよ、もちろん。でも、刑事の仕事はそれだけじゃない。事件によって心が傷つけられた人がいるのなら、その人だって被害者だ。そういう被害者を救う手だてを探しだすのも、刑事の役目です*6



これはミステリの探偵役としては異端な思想です。事件そのものを解決してこその探偵なのですから、そこから派生した事件にまで関わる必要は、本来であれば、ない。
しかし、こうした加賀の態度、「ある悲劇的な事件が起きた場合、その”被害者”は直接的に加害された当人だけではなく、”事件”もまたひとつだけに留まらない」という考えは『未解決事件』における登場人物たちの扱いに通底しています。
悲劇に関わったすべての人間を救済すること。それは『未解決事件』でも間違いなく意識されているテーマであるのだとおもいます。
そして、「だれもがだれかのために『秘密(嘘)』を抱えている」というコンセプトも。


ジュリアン・バーンズ『終わりの感覚』

「歴史とは、不完全な記憶が文書の不備と出会うところに生まれる確信だ」という引用によりエンディングで参考文献として銘記されているジュリアン・バーンズの『終わりの感覚』ですが、単に一文を引用したという以上に、『未解決事件』に深い影響を及ぼしています。


https://pbs.twimg.com/media/GEy-utjaMAAlReL?format=jpg&name=large


『終わりの感覚』は、ひとりの老人が自らの半生を振り返る回想の物語です。
あるとき、主人公のトニー老人のもとにある人物から遺産の一部を譲り渡すという報せが届きます。その人物とは、大学生時代に恋人だった女性ベロニカ……の母親。
トニーは訝しみます。というのも、元恋人の母親とは40年前に一回だけ会ったきりだったからです。遺贈される品にはお金だけでなく、トニーがかつて敬愛していた友人エイドリアンの日記も含まれていました。これまた奇妙です。たしかにエイドリアンはトニーとベロニカが別れた後、ベロニカに付き合いだしていました。そして、大学卒業間近になったころに唐突に自殺してしまっていたのです。その彼の日記をなぜベロニカの母親が?
疑問を抱きながらも、彼は親友の死の真相がかかれているかもしれない日記を手に入れるため、かつての恋人ベロニカと40年ぶりに会おうとします。
その過程で、彼は高校時代のエイドリアンや、大学時代のベロニカとの記憶を思い出すのです。それは未熟で恥ずかしい思い出ですが、老人となった今では懐かしく甘美なものでした。
ですが、どうしてもエイドリアンの日記を引き渡そうとしないベロニカと駆け引きを繰り返すうちに、彼女からこんなことばを投げつけられるのです。「あなたってなにもわかっていないのね。昔から、そうだった……」

新潮クレスト・ブックスという海外文学のレーベルから出ているとはいえ、ミステリ的な要素をもつ小説であるので、過度のネタバレはよしておきましょう。
しかし、『終わりの感覚』を一言で表すなら、「人生において、他者も自分も、なにひとつ、全然わかっていなかった人間の話」です。

こうしたことを踏まえて、『未解決事件』の「歴史とは、不完全な記憶が文書の不備と出会うところに生まれる確信だ」の前後の会話を見てみましょう。主人公である「清崎蒼」が彼女の前に現れた警察官(「審判者」とこの場面では呼称されている)と会話する場面です。



審判者「『歴史とは、不完全な記憶が文書の不備と出会うところに生まれる確信だ』と言います。」
清崎蒼「どういう意味ですか?」
審判者「あなたは『全然わかってない』って意味です。」



『終わりの感覚』のなかでこのセリフが出てくる文脈もまた『未解決事件』を読み解くうえで示唆的です。
これは高校時代に早熟の哲人であったエイドリアンが授業中に先生から「歴史とはなにか?」と問われた際に言ったセリフ*7なのですが、彼はその実例として先に女性を妊娠させたことを苦に自殺した同級生を引き合いに出します。
妊娠させたガールフレンドがいたらしいということからその同級生の死についてわかった気でいるが、しかし自分たちの手元にあるのはかぎられた情報だけで、もしかしたら他にも死に至る動機や理由もあったかもしれない……時間が経って彼のことを記述したいとおもったとき、そんな彼をどう書けばよいのか。
一方で、先生は賢しらな若者にこう返します。



問題だとはわかる。だが、フィン君*8、君は歴史というものを――ついでに歴史家というものを――見くびっている。仮に哀れなロブソン君*9が歴史的興味を掻き立てる存在だったとしよう。歴史家が直接的証拠の不足に直面するなど、いまに始まったことではない。むしろそれが当たり前だ。だが、今回の件では検屍が行われているはずだな。ならば検屍官の報告書があることを忘れてはならん。ほかにも、ロブソン君は日記をつけていたかもしれんし、手紙を書いたかもしれん。
誰かに電話をして、その内容が相手の記憶に残っているかもしれん。ご両親は寄せられたお悔やみの手紙に返事を書いているだろう。いまから五十年後、現在の平均寿命からすると、君ら生徒諸君もかなりの人数が生き残っていて、聞取り調査に応じられるだろう。君の想像ほど手に負えない問題ではないかもしれんよ




このかれらのやりとりは、『終わりの感覚』のその後の展開に深く関わってきます。
そして、もちろん『未解決事件』にも。
記憶はたしかに曖昧になっていくし、十分な情報を得られないこともあるかもしれない。しかし、早々に悲観して諦めず、丹念に記憶を掘り出し、証拠書類を探し出して突き合わせれば、わたしたちはいずれ「真相」にたどり着ける。それは『未解決事件』においては、悪しきニヒリズムに屈しない態度へと昇華されています。

(『未解決事件は終わらせないといけないから』より)

そして、『終わりの感覚』では老いと記憶についてこうも語られます。



年齢が進むにつれ、その感覚と思いは鈍ってくる。記憶は重なり合い、行きつ戻りつし、虚偽の記憶が充満してくる。若ければ、まだ短い人生の全体を思い出すことができるが、老人の記憶は断片の集まりや継ぎはぎになる。記憶は、飛行機事故を記録するブラックボックスのようなものだ。墜落がなければテープは自動消去される。何かがあって初めて詳細な記録が残り、何事もなければ、人生の旅路の記録はずっと曖味なものになる。



「最初にキャラクター(と読者)の想像していた構図がひっくり返され、その画が衝撃となる」という点では、『終わりの感覚』は、連城作品同様、『未解決事件』の手触りとよく似ています。欠落したりバラバラになった過去の記憶と、その再構成への試み、あるいは後悔の意識、という点でも共通している。
読んでいるときの印象という点では、どの参考作よりも『未解決事件』に近いかもしれません。

とはいえ、「老いと記憶」というテーマについて、直接的にモチーフに取られている参考作はほかにもあります。
映画『ファーザー』です。


ロリアン・ゼレール監督『ファーザー』


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『ファーザー』はそのものずばり、認知症により記憶の混濁した老人(アンソニー・ホプキンス)を主人公にした作品です。
この映画から『未解決事件』は開発者曰く「認知症にかかった老人のもつれた記憶と歪んだ現実認識という、ゲームの根幹をなす構成を得」たのだそう。

どういうことか。

『ファーザー』では、アンソニー・ホプキンスの主観で話が進んでいきます。一人暮らしをしていた偏屈な老人のもとに娘のアンがやってきて、恋人のいるパリに移住すると言い出す。見捨てられたのか……と老人が悲嘆に暮れていると、家のソファに見知らぬ男が座っている。「あんた誰だ」「誰って……ポールですよ」どうもポールはアンの夫らしいのですが、さきほどアンから「恋人ができたのでパリに引っ越す」と言われたばかりの老人は(視聴者といっしょに)戸惑います。やがてアンが帰ってきたので「お前の夫のポールを見た」と彼女に告げると、「夫? 夫なんていないけど?」と不思議がられ……
とまあ、このような感じでどんどん錯綜していきます。認識している記憶の時系列がめちゃくちゃに入れ替わり、ある人物だとおもっていた者が別の人物としてズラされていく体験はたしかに『未解決事件』の「ゲームの根幹をなす構成」に巧妙に翻訳されて導入されているといえるでしょう。

『ファーザー』において、アンソニー・ホプキンスはひたすら混乱していく自らの現実認識と記憶について、こう訴えます。「すべての葉を失ったようだ……枝や風や雨が……もうなにがなんだかわからんよ……
そして映画はおだやかに風に揺れる木々のカットで終わります。
こうした記憶や人格としての木のイメージは『未解決事件』でも、反転したポジティブな形として、継承されているように思われます。
よく「twitter的」と評される『未解決事件』のインターフェイスですが、個別の発言や発話者を入れ替えることで発言の「ツリー」をつくりあげていく作業がそのゲームプレイとなっています。
年月や精神という風雨によって散ってしまった葉や枝をかき集めて、樹木を再生していくこと。
作者のSOMIは、『ファーザー』のあまりにあわれなアンソニー・ホプキンスを救いたいという気持ちがあったのではないか。

まとめのようなもの

ここまで挙げた作品はいずれも「記憶」や「秘密」の話です。記憶や秘密の話でないミステリなんてまずほとんどないので、それ自体はカロリーのない言明ですが、その記憶をどう再構成するかで各メディアで違いが出てきます。
ミステリには探偵役というものがいて、終盤でそれまでバラバラで断片的だった証言や証拠を時系列に沿ったリニアなプロットして提示します。これが解決と呼ばれる行為です。この解決の作業をゲームのシステムに取り込んでプレイヤーを強制的に参加させるのがミステリゲームといえます*10。まあ例外はある。例外はいくらでもあるのだが、今この瞬間はそういうことにしておいてください。
『未解決事件』もそうした「ミステリ小説への読者の能動的な参加」というゲームのうちではあるのですが、注目したいのは、ゲーム内において再構成されるのは実は「事件のプロット=誰が犯人で、どのように犯行が行われたか」ではなく、「各証言者におけるタイムライン=事件の関係者の物語」であるということです。
最初は不審だったり距離のある感じを出していた人物が、実はひとりの人間であったと識る。それは『未解決事件』が上記参考四作から共通して受け継ぎ、ビデオゲームならではの語り口として翻訳されたエッセンスだったのではないでしょうか。

エンディングで示されるSOMIからのメッセージも、そうした態度を証しているのだとおもいます。



「各自図生*11」が答えだと誰もが言う
弱肉強食が然だと言い張り怒りと嫌悪を帰る時代
その中で揺れ動き時には嘲笑され見下されても周りを見て連帯できるみなさんを私は心から応援したい
他人に理由なく優しくしたとき
それまで存在しなかった物が新たに作り出されて人生のプロットが変わると信じながら私はこのゲームを完成させた



国やジャンルや媒体を越えて、わたしたちは影響されあっている。越えてきたものは、その都度、適切な語り口、適切な物語へとアダプテーションされていくわけですが、確固として変わらない部分もある。
そうしたなにかをつないでいくことこそが、読むという行為であり、作るという営為なのではないでしょうか。


補記:読めなかった参考作

冒頭部のインタビューでも触れられていたように、『未解決事件』では韓国人作家のキム・ヨンス(金衍洙)の「「젖지 않고 물에 들어가는 법(ゲーム中の日本語訳では「濡れずに水に入る方法」)」も直接の引用として出てきます。:「他人に理由もなく優しくしたとき、存在しなかった物が新たに作り出されて今までの人生のプロットが変わります」
この小説はキム・ヨンスが23年に出したばかりの短編集である『너무나 많은 여름이(「あまりにも多くの夏が」といったような意味らしい」)』に収録されている作品で、現状未邦訳であり、当然読めません。
どうもコロナ禍の状況が強く反映された作品集であるらしく、おなじくコロナ禍が思索の起点になったという『未解決事件』と通じるところがあるようです。
キム・ヨンス自体は日本でも近年の韓国文学ブームを受けて著書がものすごい勢いで訳されまくっているので*12そのうち、この短編集も出るといいなあ。

(クラゲネタはSOMIの娘がクラゲ大好きで「絶対ゲームに入れて」と頼まれたから入れたらしい)

ちなみに作者はこの記事で取り上げた作品以外にも引用やオマージュをたくさん仕込んでいると語っているのですが、それを発見するのはプレイヤーの楽しみのひとつであろうということで明かすのを我慢しているのだとか。そうしたものを探していったら、また『未解決事件』の読みのアングルも変わっていくのかもしれませんね。

*1:オタクはよくゴリランダーに進化します。気をつけましょう。

*2:なぜ"話題になった"かは各自ググって調べてください

*3:Google翻訳が韓国語ビタイチできない私を騙そうとしてしないかぎりにおいて

*4:逆説というより、もっと分かりやすい”逆転”ですね。「実は逆だったのだ」という構図が、いったいどれだけ連城作品の中に出てくることか。象徴的な意味での”逆”に限らず、もっとあからさまな”逆”がいっぱい!」(『連城三紀彦 レジェンド2 傑作ミステリー集』講談社文庫)

*5:p.389

*6:p.253

*7:『終わりの感覚』の劇中では、『歴史とは、不完全な記憶が文書の不備と出会うところに生まれる確信だ』はパトリック・ラグランジュというフランス人の言葉とされています。しかし、本書の訳者あとがきによれば、ラグランジュは作者ジュリアン・バーンズがでっちあげた人物の可能性が高い。「バーンズのミドルネームがパトリックであり、ラグランジュを英訳すればバーン(Lagrange→la grange→the barn=納屋)になるのだから、パトリック・ラグランジュジュリアン・バーンズ本人と考えて間違いあるまい。」

*8:エイドリアンのこと

*9:自殺した生徒

*10:成功している例は少ないですが

*11:「各」々が「自」分で「生」き残ることを「図」る、というような意味の韓国の熟語らしい。社会競争の熾烈さを伺わせる

*12:わたしは『世界の果て、彼女』くらいしか読めていませんが

プレイヤーの破滅を目的とするゲームについて―『Balatro』の感想



「塗辺くん」ふいに、真兎が言った。「もしかしてだけど、カードは――」
「「こことは別の場所にある?」」
絵空も声をそろえ、まったく同じ質問をした。


青崎有吾「フォールーム・ポーカー」


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インターネットは今日も平和

 インターネットは行き場のない叫びの行き場であり、神なきひとびとのための教会であり、どんなにみじめな嘆きもここではゆるされる。
 わたしはその夜、Reddit を覗きに行っていた。Reddit とはアメリカ最大の掲示板サイトで、いまどき掲示板なんて流行らないだろうと日本ではおもわれそうだが、なかなかな盛況ぶりを見せていて、2020年代に入ってもゲームストップ株をめぐる大騒動の震源地になったり*1、株式市場では本年度最大規模のIPOが見込まれていたりする*2
 魂が死んでいるときに寄るぶんには、よい場所だ。
 そして、こんなスレが視界に飛び込んできた。

https://www.reddit.com/r/truegaming/comments/1baj1nw/when_does_addictive_gameplay_become_a_bad_thing/

 スレッドのタイトルは「中毒的なゲームプレイはいつ害悪へと変わるのか? 『Balatro』の事例」。

 スレ主は、『Balatro』というゲームにいたく熱中していた。よくデザインされた、実にたのしいゲームである。それを数日のあいだに20時間ほどぶっつづけで遊んだあと、スレ主はきゅうにある恐怖に襲われるようになった。「自分はこのゲームで何を得られているんだろうか?」
 これは20年来のゲーマーであるスレ主が他のゲームを遊んでいるときには抱かなかった恐怖だった。Balatro はあきらかにプレイヤーを中毒にさせるようにデザインされている。実際、ゲームサイトや steam のユーザーレビュー欄には中毒に陥っていることを訴えるプレイヤーたちの(なかば冗談めいた)書き込みがあふれている。
 スレ主はこうした Balatro の中毒性を危惧した。ゲームはそもそも実際的な効用を伴わないものであるけれども、それでも良いアートであることはできるし、スレ主もそうしたゲームを期待する。Balatro のような、快楽中枢をひたすら叩き続けるようなゲームはたしかに楽しく魅力的であるけれども、どこか倫理に反しているような気がする。すくなくとも、子どもたちにはやらせたくない*3――。

 あらゆる問題提起がそうであるように、スレ主の感想に対しては賛否両論がわいた。「典型的な中年の危機だね。私のゲーム仲間たちも30代後半になると、多くがゲームに時間を費やすことに耐えられなくなって離れていったよ」「Dotaを1000時間プレイしたが、『NieR: Automata』や『Spec ops』をプレイした数時間のほうがよほど有意義に感じた」「Balatro は良心的だよ。買い切りゲームなんだから。デイリーやガチャのあるソシャゲやマイクロトランザクションのあるゲームのほうが凶悪だ」……。

 傍から見れば、スレ主は一見矛盾したことに悩んでいるように見えるだろう。ゲームで遊ぶことが一般的な意味での生産性につながらないことはわかりきっている(だからこその遊びなのだ)。なのに、この人物は「見返り」を得られないことに悩んでいる。あるいは、ゲームの「見返り」が”芸術”的な有意義さであるのならば、物語性の高いゲーム(RPGとかアドベンチャーとか)や習熟に時間を要するゲーム(ソウルライクやプラットフォーマー)をやればいいだけであり、それでも足りなければそもそもゲームなどやめたほうがよい。部屋を出ろ。本物の人生を生きるんだ。
 
 だが。

 わたしにはスレ主の気持ちが痛いほどよくわかった。
 なぜなら、わたしも Reddit へアクセスする数分前に自分のPCから Balatro をアンイストールしたばかりだったからだ。

金銭抜きの純粋なギャンブル的中毒性



子曰、飽食終日、無所用心、何矣哉、不有博奕者乎、爲之猶賢乎已。
(先生がいわれた、「一日じゅう腹いっぱいに食べるだけで、何事にも心を働かせない、困ったことだね。さいころ遊びや碁・将棋*4というのがあるだろう。〔あんな遊びでも〕それをするのは何もしないよりはまだましだ。」)


論語』、金谷治・訳注、岩波文庫


Balatro はポーカーをベースにしたローグライトだ。公式には「ポーカーローグライク」と謳われている。ディーラーや他のプレイヤーを相手にするのではなく、その場にいるのはプレイヤーひとり。配られる手札を入れ替えたり入れ替えなかったりしながら役を揃えてスコアを得、一つのラウンドを突破するのに必要な目標点数を稼いでいく。ビデオポーカーからベット要素を差っ引いたものだ。
もちろん、カネもかかってないのに一人ポーカーするだけではおもしろくない。そこで Balatro は倍率に魔法をかけた。詳しいメカニクスは省くが(そんなに複雑でもないけれど)、手役の倍率は一ゲーム中で増加していく*5。ラウンドの合間にローグライトではおなじみのショップがあって、そこで手役やカードを強化して倍率を増やすことができる。

(Balatro のジョーカーのひとつ)

最も重要になってくるのが「ジョーカー」と呼ばれるカードだ。これは普通のポーカーと違ってワイルドカードとしてではなく、100種以上のジョーカーそれぞれに固有の特殊能力が付与されている。主には倍率を増やしたり、ショップで使える資金を増やせたりといった具合。
ジョーカーはゲーム外でスタックされ(基本五枚まで)、ワンハンドごとにその効果を発揮する。さらにジョーカー同士のシナジーが発揮されると、倍率はどんどん跳ね上がっていく。たとえば、最初ワンペアはだいたい最大でも60点ほどしかもらえないのだが、デッキ構築の手練次第で一撃で数万点は出せるようになったりする*6。これが気持ちいい。得点がカウントされるときの小気味よい演出もあいまって、脳から汁が出まくる。
先行作品をよく研究しながらデザインされたようで、プレイの流れも非常に洗練されている。まあ、そのへんの詳しいこと、具体的なゲームについてはググればいくらでも記事が出てくるので、そちらを参照していただきたい。あるいは実際に Balatro を買って遊ぶのもよいだろう。
いや、「よいだろう」ではない。

よくないのだ。

ぜんぜん、よくない。

わたしはあまり正直でもなければ、さほど道徳的な人間でもない。
しかし、だからといって、わざわざ自分のブログにアクセスしてなんだかよくわからない曖昧な文章を読んでくれる人間を地獄の釜の底に送り出すような真似はしたくない。たまにそういうことがしたくなる夜もありはするが、すくなくとも、今日ではない。


もちろん、Balatro は違法ではない。
というか、ギャンブルですらない。定価で1700円で支払えば、それ以上の金銭は求められない。正直、今後開発者が儲けを増やせるのかどうか、心配になるほどだ。DLCを売るにしても、ポーカーというゲームの拡張性のなさ、Balatro 自体の完成度の高さを見ると、何をDLCにすればいいのか。キャラグッズを展開するにしても、Balatro に出てくるキャラといえば、ジョーカーの大半に描かれた、どこか不吉さを漂わせる奇妙なピエロぐらいだ。
なにかのソーシャルゲームのように半年ごとに最高レアのキャラの引き換え券を5000円で買うように求めてくることもないし、なにかのソーシャルゲームのように盆暮れ正月クリスマスにガチャを回せと圧をかけてくることもない。

にもかかわらず、Balatro のデザインはあらゆる点でギャンブル的だ。あたかもギャンブルから金銭要素を抜いて中毒性だけを残したようですらある。そんなものを作ってどうするんだ、という気もするけれど、現にこうして存在する。

Balatro を語るとき、ひとは「ポーカーとローグライトとの融合」というくくりで、どうにかして「ゲーム」の範疇に引き入れようとする。実際、ローグライトとして取捨選択を的確に行ったデザインがなければ、Balatro の中毒性はありえなかっただろう。

それでもやはり、Balatro はそのデザインにおいてギャンブル的なのだ。カネも賭けられていないのに、そんなことが有り得るのか? 有り得る。それこそ、まさに Balatro が証明した達成なのだから。

Balatro におけるギャンブルのデザイン



「マシンに向かえばすべてを消去できる--自分自身だって消去できます」と言ったのは、ランダルという名のエレクトロニクス技術者だった。ギャンブルとは“ただで手に入るもの”を欲しがることだという一般的な考えとはうらはらに、彼は“無”こそを求めているという。先にモリーも言っていたように、だいじなのは、「ほかのいっさいがどうでもよくなる」〈ゾーン〉にいつづけることなのだ。


『デザインされたギャンブル依存症』ナターシャ・ダウ・シュール 、日暮雅通・訳、青土社



 建物からマシンまで、現代のカジノがいかに客を搾り取るように設計されているかについて刻銘に分析するノンフィクション本、『デザインされたギャンブル依存症』では、〈ゾーン〉*7を目指すギャンブラーたちの姿が描かれている。〈ゾーン〉とはかれらにいわせれば「台風の目に入ったような状態」のことで、「視界がクリアなのに、まわりでは世界がぐるぐる回っていて、何も耳に入らない。そこにはいない--マシンのそばにいて、マシンだけを相手にしている」ような感覚になるのだという。
 そうした境地において、ギャンブル行為はもはや勝つことを目的としない。続けることこそを目的とするようになる。
 重要なのは、速度だ。
 デジタル化されたスロットマシンとビデオポーカーは、プレイの速度を極限まで圧縮した。ディーラーや他のプレイヤーといった他者の存在を廃し、レバーやトランプカードをボタンに置き換え、チップをのやりとりを仮想空間上ですばやく行うようにした。プレイヤーが注意をはらうべき事象は劇的に減った。賭け、試し、結果を見る。そのプロセスを一定のテンポで繰り返していくうちにいつしかプレイヤーは〈ゾーン〉に入っていく。
 適切な速度を保つために、マシン上で表示される色、照明、アニメーション*8サウンド、空間の5つの要素が渾然となってプレイヤーの腹側被蓋野ニューロンを叩き続け、プレイヤーをスキナーボックス――脳に電極を埋め込まれたマウスが快楽を生じさせる電気刺激を求め、電気ショックのレバーを一時間に7000回も引いた箱――に閉じ込める。

(ラスベガスのビデオポーカー)

 もちろん、Balatro でも刺激が適切に配置されている。倍率がカウントされるたびにキン、キン、キンとリズミカルに鳴る金属音。ワンハンドで目標点数を突破したときに燃え上がる倍率ゲージ。跳ね上がっていく点数。カードを強化するパックを破るときの派手なエフェクト。メロウで起伏のない単調なBGM*9
 慣れたプレイヤーならオプションでゲーム速度を4倍速に変えるだろう。ラスベガスのビデオポーカーマシンが同時並行で三種から百種の手札をプレイできるようにしてスピードを何十倍にも増したように。〈ゾーン〉中毒者たちがたびたび速度に引きずられて判断ミスを犯すのとおなじように、最大速度で Balatro を遊ぶプレイヤーたちもミスでホールドするカードを間違えたり提出するハンドを勘違いしたり(フラッシュと思って出した手札に一枚だけ違うスートが混じっていたり)する。
 トランプや残り山札を前にして逡巡することはなくなり、あらゆる決断が半自動的に行われるようになる。思考も意識も勝ちも負けも等質にゲームの流れへ溶けこむ。勝ち負けがそんなに重要なことだろうか? 長期的に見れば、ギャンブルのプレイヤーはみな敗北を運命づけられている。エンドレスに続くタイプのビデオゲームもそうだ。『テトリス』のテトリミノはあなたを殺すまで加速しつづける。どんどん速く、速くなり。
 そうして、わたしたちは一日が二十四時間である〈ここ〉とは別の時間が流れる世界へと足を踏みいれる。〈ゾーン〉だ。*10
 自分という存在がゼロになる空間。
 そこが最終目的地だ。わたしはできるだけ、そこに留まりたい。
 しかし、無理だ。そこかで何かが狂う。適切なペースを保てなくなり、〈ゾーン〉に裂け目が生じてしまう。その裂け目から光が覗いている。気づく。朝だ。
 夜九時に Balatro を始めて、気がつけば、朝の五時になっている。
 わたしはさっき、うそをついた。このゲームは「ビデオポーカーからベット要素を差っ引いたものだ」と。とんでもない。
 賭けられているものは確実に存在する。時間だ。そして、まるごとかっぱがれてしまった。現実のギャンブルがそうであるように、だ。ボードレールが言うとおり、貪欲な賭博者である時間はいかさまなどに頼らずとも、あらゆる勝負を物にする。
 Balatro は狂っている。カジノならまだプレイヤーを中毒にする理由がある。金を無限に吸い取るためだ。繰り返しになるが、Balatro には、1700円を払ったっきりでおしまいなこのささやかなゲームには、わたしを底なし沼に突き落とす動機がない。完全な無差別な狂気以外に説明がつかない。純粋なる持続"のみ"を目的とした大量殺人鬼だ。そういえば、マスコットのピエロもなんとなく人を殺して笑っていそうな面構えをしている。

 怖いな、と感じてしまう。

 このゲームは、怖い。
 人生を無益な時間に費やしてしまった焦燥でも、実在のギャンブルをベースにした「非芸術的な」ゲームに淫してしまった罪悪感でもない。ピエロに対して恐怖症を抱いているからでもない。このゲームは、わたしが欲しいもの、ずっと心の底で欲しがっていたのに欲しいと口に出した瞬間に破滅してしまうなにかを知っている。
 だから、怖い。

ゲームには向かない人間



 何度でも初めからやり直すこと――これが賭博の理念の規定しているものである。だから、ボードレールにおいて秒針――〈秒〉――ーが賭博者のパートナーとして登場することには、厳密な意味がある。


 ヴァルター・ベンヤミンボードレールにおけるいくつかのモティーフについて」山口裕之・訳、河出文庫



 ギャンブルはゲームではない。
 ほんとうにそうか? ギャンブリング・マシンの業界人は自分たちの機械のことを「ビデオゲーム」と呼ぶし、内部のシステムを考えるデザイナーは「ゲームデザイナー」と呼ばれる。
 そして、一般的な意味でのビデオゲームの側もギャンブルの技術を使う。

 最近の代表例は、Vampire Survivors だろう。
 スロットなどを扱うオンラインカジノでキャリアを始めた*11開発者の Luca Galante はそこで培ったノウハウを自作のゲームに持ち込んだ。The Verge誌のインタビューでガランテはこう語っている。



「スロットゲームはとてもシンプルです」と彼(ガランテ)は言う。「プレイヤーのやることはボタンを一つ押すことだけです。そして、ゲームデザイナーはそのボタンを押す(press)ようにプレイヤーの背中を押す(Push)方法を探し出さねばなりません。ボタンを押すたびにプレイヤーはお金を使うわけですからね。なので、サウンドやアニメーション、シーケンスの細部にまで細心の注意が払われます。基本的に、(デザイナーは)それらの要素がプレイヤーに与えるインパクトを最大限に引き出そうとします。私はギャンブル業界でその知識を吸収しました。だから、そうしたことを自分の作るゲームにあたりまえに適用したんです」


https://www.theverge.com/2022/2/19/22941145/vampire-survivors-early-access-steam-pc-mac-luca-galante



 Vampire Survivors をプレイしたものなら誰でもあの、宝箱を開けるときのパチンコじみた演出を網膜に刻まれていることだろう。そのときの多幸感も。だが、彼がギャンブル業界から輸入してきた手管がそれだけないことも知っているはずだ。なんといっても、Vampire Survivors はそのタイトル通り「生き延び”続ける”」ことを目的とするゲームであり、プレイヤーもそうするために何度も挑戦したくなるデザインになっている。

Vampire Survivors

 ギャンブルといえば、ピンボールはかつてアメリカ全土で禁止されていた。実際に金が賭けられ、ランダム性も高かったために、ギャンブルだとみなされていたのである*12*13。一九七六年、娯楽業界からニューヨークの市議会へピンボール解禁の嘆願が出され、それを受けて当時のニューヨーク市長の前でピンボールの達人、ロジャー・シャープがピンボールを実演することになった。彼は数々のショットやテクニックを市長と関係者の前で実演して見せて、ピンボールを「チャンス(運、偶然)ではなくスキル(技)に基づくゲームである」*14ことを実証した。*15
 スキルと運のバランスはゲームの競技性を測る指標でもある。eスポーツの大会に採用するタイトルならそこのあたりに厳密に気を配る必要があるだろう。だが、われわれが日常でなんとなく愉しむのであれば? パチンコにだってテクニックはあり、なんとなれば麻雀は究極のローグライトだ。
 偶然(アレア)と競争(アゴン)の交わるところでは、あらゆる遊びがゲームとギャンブルの境界線上にある。その重なる部分には共通した快楽が宿り、プレイヤーの心や脳の適切な部分を叩けば〈ゾーン〉を生み出せる点ではさして変わらない。*16


 なにが言いたいのかって?


 結局のところ、Balatro をギャンブルにしているのは Balatro そのものではない、ということだ。
 わたし自身の技術的向上心のなさが Balatro を呪いをかけているのだ。
 Balatro にもプレイヤースキルの介入する余地はある。大いにある。経験でわかること(ジャック同士のシナジーやパックを買う優先順位や状況に応じた立ち回り)が増えていき、攻略していくことの喜びが用意されている。
 スキルフルなプレイヤーなら随所に散りばめられた有益なヒントを読み取っていけることだろう。残りの山札の内訳をワンクリックで覗かせて、現実のポーカーでは禁止されているカウンティング行為をゆるしてくれるし、現状のデッキ構成が苦しければ一試合スキップして立て直しの機会を与えてくれる。立ち止まって思考し、計算することができるプレイヤーは勇気という名のチップをベッドした本物の賭けを行える。それこそが Balatro の望むゲームのありかただろう。
 でも、わたしはそうはできない。プレイヤーとしてのわたしは単純な反復を好む。どんなゲームであれ、挑戦や新しい戦術の試行にはつい、腰がひけてしまう。ノータイムで捨て札を選択し、ひと呼吸のあいだにわかりやすく高得点なハンドを選び(そしてミスる)、常に似たようなジョーカーと戦略を選び*17、そして前とおなじように6番目か7番目のアンティで崩壊する。このスキナー箱は7000回の確実な破滅をもたらしてくれる。持続する終わりの感覚。
 わたしはソシャゲのシナリオをスキップしてガチャを回すだけのゲームにしてきたし、ローグライトゲームをひたすらパーマネントレベルアップ要素を貯めるための無の周回を繰り返すゲームにしてしてきた。麻雀とはひたすら自分の手牌に注視し絵合わせをするゲームであり、SEKIROは門番に無限回殺されて終わるゲームだ。
 ゲームにおけるわたしの学習曲線はいつも死人の心電図のように真っ平らだ。
 こんな態度で Balatro を走りつづけるのはゲームに対しても失礼だろう。やめるべきだ。やめろ。やめた。アンイストールした。Balatro をライブラリから削除したぞッ!
 今後はもっと健全な人生を生きよう。
 自己を研鑽し、子どもを育て、イヌを飼い、毎朝の庭の芝刈りをかかさず、ご近所とはさわやかな笑顔で挨拶を交わし、週末にはバーベキューをやる。SEKIROにもちゃんと再挑戦して、芦名なんたらをどうにかする。Elden Ring のDLCが出るまでにどうにかする。自分を高めろ。上昇しろ。無になるな。
 ソシャゲのシナリオもちゃんと読もう。エデン条約編で涙できる大人になろう。
 おっ、そういえば、最近始めた Limbus Company のログボを今日はまだもらってなかったな……Steamを立ち上げねば……
 

>

ア、アンイストールしたはずのおまえがなぜ……??
< 

た、たすけっ……
〜完〜

 

 

 

*1:https://ja.wikipedia.org/wiki/GameStopのショートスクイズ

*2:https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2024-03-11/SA6R66T0AFB400

*3:ちなみに Balatro は実際に Switch で年齢レーティングの不備を理由に一時的に販売を禁じられた。https://www.gamespark.jp/article/2024/03/04/139015.html

*4:博がすごろくのような遊びで、奕が囲碁

*5:稀に減ることもある

*6:ゲームのデザインとしてはデッキ構築型というよりは、Wingspan のようなエンジン構築型と形容したほうが適切な気もするのだが、公式にはデッキ構築ローグライクと称されている。

*7:書籍中では〈マシン・ゾーン〉とも表現され、いわゆるチクセントミハイの〈フロー〉理論と同一視されるときの〈ゾーン〉とは微妙に違うっぽい

*8:「一九九〇年後半に考案された(ダイナミックプレイ・レート)は、ユーザーがゲームプレイのペースをコントロールできるようにした革新のひとつだ。これはビデオ・ポーカー機(ファントム・ベル)に搭載された機能で、メインのプレイ画面の上にある補助画面に、カードディーラーの手のアニメーションだけが映る。ディーラーの手は、プレイヤーのペースに合わせてゲームを進めていく。つまり、動きが遅いプレイヤーにはゆっくりカードを出し、動きの速いプレイヤーには素早い手さばきで対応し、最も速いプレイヤーのときにはディーラーの手自体がえてしまうのだ。」。ゲームの速度調整がプレイヤーとゲームのあいだにコミュニケーションを生む」同書より

*9:リズムに変化のないスローな曲は、消費者の行動を調整しやすく、〈機能的音楽〉とも業界では呼ばれる。こうしたものもゾーンを維持する助けになる。

*10:「〈マシン・ゾーン〉における時間は、クロノス的時間ードゥルーズガタリの言う“物と人の位置を定め、形をつくり、主体を決定する“標準時間”ーから逸脱して、“イベントの無期限の時間”に従う。それは“相対的な速さと緩慢さ”によって測られ、ほかのモードにおける時間が前提とする“時計や時系列の価値から独立した”時間だ。ミハイ・チクセントミハイも同様に、〈フロー〉活動の時間は自身の体験に“適応する”のであって、その逆ではないと考えた。」同書, 位置No4761

*11:https://www.youtube.com/watch?v=XQVdR8mJrds

*12:https://en.wikipedia.org/wiki/Pinball

*13:追記:Tristan Donovan の『Replay: The History of Video Games』によれば、ピンボール=ギャンブルのイメージはビデオゲーム黎明期の70年代まで尾を引き、ビデオゲームの場としてのゲームセンターのイメージまで悪影響をおよぼしていたという。「ピンボールとゲームセンターは、ギャング、ギャンブル、モラルの低下と切っても切れない関係にあるという考えを定着させたのだ。」。このイメージのせいで、ATARIノーラン・ブッシュネルが『Pong』の追加生産のための融資を求めたさいにいくつもの銀行から拒まれたらしい。

*14:吉田寛デジタルゲーム研究』第六章より。ギャンブルとゲームの境界を探った論文のひとつでもある。

*15:そういえば、balatroの作者が影響を受けたと公言している(プレイ動画を観ただけらしいのだが)『幸運の大家様』も実際のスロットと同じ発展の過程を辿るゲームだ。図柄を増やしていくのだ。

*16:『Palworld』なんかこのへんがよく出来てましたね。

*17:あらゆる祈りがそうであるように、フラッシュデッキへの誘惑は罠だ……