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『トイ・ストーリー』とはなんだったのかーー『トイ・ストーリー』シリーズについて


『トイ・ストーリー5』を語る前に

 印象派やフォービズムなどがそうであったように、ある芸術に対する一見無理解で否定的な評言が、その肯定的な本質を射抜くことがある。
『トイ・ストーリー』の場合は、ディズニーCEOマイケル・アイズナーがジョン・ラセターにかけた「お人形で遊ぶ小さな男の子の映画なんてだれが観たがるんだ?」ということばがそれだった。
 そう、『トイ・ストーリー』は「お人形で遊ぶ小さな男の子の映画」として始まった。その事実にピクサーはときに励まされ、ときに惑わされ、そしてときには見直しを迫られてきた。その軌跡は、スタジオとしてのピクサーの浮沈(他のアニメスタジオからすれば羨ましくなるくらいに凪いだ海での航海だったのかもしれないが)とも一致する。
 ピクサーとはなにか。それはシリーズとしての『トイ・ストーリー』を観ればわかる。

おもちゃとはなにか

『トイ・ストーリー』におけるおもちゃとはなんだろう。『1』におけるウッディとバズの対立を眺めるにつけ、シリーズにおけるおもちゃたちは奇妙な前提を持っていることに気づく。
 一、かれらは自分たちがおもちゃであるという自覚をもっている。
 二、かれらは自分たちが表象しているキャラクターの設定を信じてはいない。
 トトロのぬいぐるみはジブリアニメに出てくる通りのトトロではないし、グリーン・アーミー・メンは軍人調に喋りはするものの軍隊そのものではない。ウッディは1950年代のテレビ人形劇を、バズはSFアクション映画(2022年の『バズ・ライトイヤー』が悪い夢でなかったとして)をそれぞれベースにしているはずだが、ウッディのほうは原作の設定にひきずられず(そもそも彼は自分がなにかのキャラクターであることも知らなかった)、一個の人格(玩格?)を有している。
 そして、バズが「自分は特別な使命を帯びたスペースレンジャーである」とおもいこんでいるのを徹底的にからかいつづける、それでも曲げずにスペースレンジャーを演じ続けるバズにたまりかね、ついにはこうキレる。
「おまえは、お・も・ちゃ・なんだ! 本物のバズ・ライトイヤーなんかじゃない! ただのアクション・フィギュア! 子どもの遊び道具なの!」
 その後、おもちゃたちに恐れられている悪童シドの家でバズ人形のCMを観たバズは自分が大量生産品のひとつにすぎず、宇宙服に備え付けられた翼を使っても実際に飛べないのを悟り、うちひしがれてしまう。
 
 自分たちは「本物(REAL)」ではないと自覚し、世間に喧伝されているヒロイックな夢を信じず、ただ与えられた身体と立場だけを現実とし、子どもの相手をする生きもの。

 それをわたしたちは「大人」と呼ぶ。

おとなのおもちゃであることとはなにか

 ピクサーが親や保護者の目線を描いてきたことはしばしば指摘される。『ファインディング・ニモ』はまさしくシングルファザーの奮闘の物語であるし、『モンスターズ・インク』や『インサイド・ヘッド』は子どもを守ったり善導したりしようとする保護者たちの話だ。
 実際、ラセターはアクション・フィギュアに熱中する自分の子どもたちが着想のひとつになったと語っているし、アンドリュー・スタントンは『1』のころから冗談めかして「僕は孫たちのために映画を作っているんだ」と語っていたという*1
 ラセター(1959年生)、ジョー・ランフト(1960年生)、アンドリュー・スタントン(1965年生)といった主要メンバー*2*3『トイ・ストーリー』の企画から公開までのあいだにいずれも年ごろの子どもを育てており、その経験が反映されていたことは疑い得ない*4
 しかし「大人」としての『トイ・ストーリー』のおもちゃたちが興味深いのは、他作品ほど直接的に子どもの危機を救ったり関係したりはせず、ずっとおもちゃたち自身のアイデンティティクライシスを描いてきたことだろう。
 ラセターは2002年のインタビューでこのように話している。

たとえば『トイ・ストーリー』では、大きな狙いの一つは、おもちゃたちの性格を大人のものにすることで、子どものような性格にはしないことでした。ですから、アンディが部屋を出ておもちゃたちが生き始めると、そこは職場のようになります。おもちゃであること、遊んでもらうことが彼らの仕事のようになっている。
https://freshairarchive.org/segments/john-lasseter


 つまりは、『トイ・ストーリー』の「大人」とは子育てする親だけでなく、仕事に責任を負った社会人としての面を持っている。かれらのおもちゃ業が「仕事」であることは序盤から強調されてもいる。おもちゃたちはアンディ一家の引っ越しを間近に控えてミーティングを行い、組織としての意思共有を行う。ウッディはそのチームリーダーだ。
 空想的な世界を扱う際にそれをある種の産業や官僚制のパロディとして描きだす、というのはこの後もピクサーの十八番となっていく手法だ。『モンスターズ・インク』に至っては文字通り「会社」を舞台していたことはいうまでもないだろう。
 『トイ・ストーリー』劇中では、「宇宙飛行士バズ・ライトイヤー」という夢から覚めて発狂しかけたバズがシドの妹でピンクのエプロンを着せられておままごとをさせられているシーンがまさにそれだ。夢が挫けるという去勢めいたプロセスを経て、やがて仕事人としての自覚を持っていく。
 一方でウッディはウッディで自分が自分の生業から不要とされるのを極度におそれている。プレイスクールやマテルといった『アメリカのおもちゃ』であることを誇るウッディの仲間たちの前に『台湾』から来た『ハイテク』おもちゃであるバズが現れるという導入は90年代アメリカの抱えるゼノフォビアックな不安が見え隠れしもするけれど、ともあれ、さしあたりウッディはかなり直接的なレイオフの恐怖にさらされている。

 とはいえ、「大人」の物語としての『トイ・ストーリー』ばかりではない。
『トイ・ストーリー』において描かれている子ども時代の風景が1990年代よりはラセターら主要制作メンバーが幼少期を過ごした1960年代のほうに深く結びついている、というのはよく指摘されるところではある。
 そういえば、ラセターが『トイ・ストーリー』に込めたノスタルジーについては別の場所で一度書いた。

web.archive.org
 
 そのときの話を繰り返すことになるけれども、ウッディにおける紐をひっぱって録音された音声を発するギミックはラセターの幼少時代に肌身離さず持ち歩いていたおばけのキャスパーの人形が着想元であり、ウッディの出自である1950年代の人気テレビ人形劇『ウッディのラウンドアップ』は40年代から60年代にかけて放映された人形西部劇『Howdy Dowdy』を参照しており*5、「西部劇がSFにとって変わられる」という流れも50年代から70年代にかけてのアメリカエンタメ史*6を反映している。 

 

 デイヴィッド・ハルバースタムの『ザ・フィフティーズ』などによると「郊外に住むアメリカの幸福な中産階級核家族」のイメージが完成したのは1950年代後半だそうだけれど、まさにその時代にラセターらは、ある種のアメリカ人たちにとっては今なおノスタルジーの対象である「古き良きアメリカ」で幼い日々を送っていた。幼少期の原風景を公共の夢として再現しようとする点で、ラセターはウォルト・ディズニーと近いといえ、2000年代後半にディズニーアニメ中興の祖となったのも運命的に感じられるのであるけれども、しかしラセターはウォルトほどあからさまでない。巧妙である、というべきか。
『トイ・ストーリー』シリーズは現実世界をベースにしたロウファンタジー的物語でありながら、作中年代を断定しにくい。ふつうに考えれば一作目の『トイ・ストーリー』の舞台は制作・公開年である1990年代前半であるとみなすべきだが、そうとも断じずらい。子ども向け映画の空間が時事ときりはなされているのはめずらしいことではないけれど、単に無時間的とも形容しづらい。
 というのも、おもちゃたちの顔ぶれが古いのだ。ミスター・ポテトヘッド、イヌのスリンキー、スケッチー、バレル・オブ・モンキーあたりはいずれも実在するおもちゃたちだが、だいたいは50年代から60年代にかけてうりだされて人気だったおもちゃたちだ。ここに60年代のノスタルジーが織り込まれている。

 そもそも、90年代におもちゃが子どもの遊び相手の地位を奪われると懸念するのであれば、その相手は家庭用ビデオゲームになるはずで、しかしデジタルデバイスとの対決は『5』を待たねばならない。別にATARI出身にしてApple創業者でもある大株主、スティーブ・ジョブスへの遠慮があったわけでもないだろうけれども。いちおう『1』でピザ屋付設のゲームセンターは出てきたし、『2』の冒頭はスーパーファミコンを遊ぶシーンから始まってはいるが、どちらも本筋には絡まない。
 何食わぬ顔で90年代あるかのようにふるまいながらも、60年代が混入している。『トイ・ストーリー』シリーズ初期の不思議な時空間はそのようにしてある。

 それらはオタクとしてアニメーション産業で夢を追い続けながら*7も、ディズニーという大企業*8の下で働いたり、家庭を持って親になったりといった、「子ども」と「大人」の両面をラセターたちは生きていた。そしてこれまたかられ自身がそうであるように、そのアンビバレントさがあたかも自然なこととして映画のなかで物語られていく。


『トイ・ストーリー』〜『トイ・ストーリー3』まではなんだったのか


『トイ・ストーリー』が「お人形で遊ぶ小さな男の子の映画」であった、とは、つまりはそういうことだ。子ども時代の自分は無垢なアンディに宿り、悪戦苦闘する大人である現在の自分たちはウッディへと託される。


 そう、ただの「子ども」ではなく、「男の子」。 


 ピクサーの元CEOであるエド・キャトムルの回想録『Creativity, Inc.』*9の2023年に改訂版として追加された新章では、2010年代から始まったDEI志向の社内改革について多くのページを割いている。
 その取り組みのひとつがメアリー・コールマンとニコル・グリンドルの提案によって2014年に始まったStory Artistas という女性ストーリーボードアーティストのグループだ。それまでも表立っては男女わけへだてないようにふるまい、実際意識としてそのようにあろうとしてきたピクサーではあったが、監督を育成する場でもあるストーリー部門ではなかなか次世代の女性監督を育てきれないでいた。
 その一因が会議やチームなどの場では女性アーティストは遠慮がちになってしまうこと*10などにあると判明し、彼女たちは自ら意識改革を行うべく、Story Artistasを立ち上げ、グループ内で忌憚なく意見交換をしたり、外部から講師を招いての講演を行った。そうした取り組みが、のちに『私ときどきレッサーパンダ』でピクサー初の女性監督*11となったドミー・シーを筆頭として、主要ポジションにおける女性比率の向上へとつながったという。
 
 さて、そうしたピクサーの背景を踏まえたときに『トイ・ストーリー』シリーズ通した変遷がどう読まれるか、といえば、「お人形で遊ぶ小さな男の子の映画」からの脱却といったところだ。
『4』の監督を務めたジョシュ・クーリー曰く「『3』まではアンディとウッディの物語で、『4』はウッディの物語」*12と見立てられる。

『2』と『3』は子離れとその準備についての話だ。
『2』は全編通じておもちゃの死を示唆していく。序盤では音声機能を損なわれて埃をかぶっているペンギンの人形を脇に見つつ、ウッディのパーツの破損からアンディの外出に置いていかれ、それが老いーー身体的にくたびれはてた末にヤードセールで売られてしまうという末路についてまず示される。
 カウガール人形のジェシーはかつての持ち主であるエミリーから捨てられたことをトラウマとして抱え、ウッディにこういう。「私たちおもちゃはアンディやエミリーを忘れない。でも、かれらのほうは私たちを忘れてしまう」
 仲間たちとの協力によってもろもろの騒動が解決し、無事アンディのもとに帰還したウッディは、ひとり外出していくアンディを子ども部屋の窓から見送る。もはや、故障に関係なく、アンディはおもちゃを必要としない年齢になりつつある。
 その寂しげな背中にバズはこう声をかける。「アンディの成長が不安か?」
 ウッディはこう返す。
「いや、今を楽しむさ。それに、アンディがいなくなっても、おれにはおまえがいる」

 ここではウッディの未来が暗示されている。子どもは成長するとおもちゃから離れる。それは逃れられない運命であり、終焉だ。その運命に対してウッディはアンディに固執しつづけるのではなく、相棒やコミュニティの仲間たちといった出口を見出す。
 アンディがいなくなることは運命であり、そのときに残るのは仲間である――その思想は『3』の色濃く表れている。大学で実家を離れることになったアンディはいよいよおもちゃの取捨を迫られ、ウッディだけを手元に残し、バズを含めた残りのおもちゃたちを屋根裏へと置き去りにすることを決意する。
 ここで注意したいのは、アンディはおもちゃを「卒業」したわけではないということだ。ティーンになって遊ぶ機会こそ激減したとはいえ、いざという段になって、アンディはウッディだけを残すという選択をした。幼少時代からの代えがたい友人であるウッディを切り捨てるということは、自身のアイデンティティを捨てるということでもある。


 ウッディとアンディの関係は、『3』の悪役であるハグベアのロッツォとその前の持ち主だったデイジーとの関係の裏返しでもある。ロッツォはピクニックで事故的にデイジーとはぐれ、その後自力でデイジーの家までたどりついたものの、新しいハグベアで遊ぶデイジーの姿を見て絶望し、「おもちゃはみんなゴミ」「子どもは誰もおもちゃを愛さない」といった極度の人間不信に陥る。
 このロッツォの絶望は「愛されているのは『自分』ではなかった」という、大量生産品であるおもちゃ独特の性質に由来している。まったく同じ姿形のハグベアであるならば、デイジーはロッツォでなくともよかった。子どもからおもちゃへの愛情と、おもちゃから子どもへの愛情は、そもそも非対称であるのだ。そう悟ったロッツォがやさぐれて利己的な保育所マフィアのボスになるのは当然かもしれない。
 しかし、ロッツォの危機はウッディには訴えかけない。ウッディはそもそも大変稀少なヴィンテージドールであるし、十数年をかけて育まれたアンディとの思い出がある。ロッツォが体験した「持ち主とはぐれ、長い旅路の末にまた持ち主の家に戻る」というのは『トイ・ストーリー』シリーズにおいてウッディが何度も繰り返してきたプロットであるけれども、ウッディはロッツォのような拒絶にはあわなかった。
「だれかと特別な関係を築くことで自分も相手も替えの利かない存在になる」というのは実は『2』の時点で、示唆されてもいて、途中でパーティに加わるニセバズのサブプロットがそうだ。最初はおもちゃ屋で他のバズ人形とほとんど変わらないキャラクターを持っていたニセバズだったが、終盤に出会ったザーク*13と父子の関係を築くことで他のバズたちとは違う出口へと着地する。
 ロッツォは、そうした誰かと無二の関係を築けなかった。トラウマによって培われた利用するかされるかの冷たい価値観は、デイジー時代からの知己であったはずの赤ちゃん人形のビッグベビーとの間柄にも適用され、やがてそれが彼の敗因ともなる。
『3』のクライマックスとなる熔鉱炉のくだり、絶体絶命となったウッディ一行はもはや覆しえない運命をさとり、おもちゃ仲間たちで手をつなぎあい、死を覚悟する。
 もちろん、最後にはどうにかなってしまうのだが、そんなことはどうでもよくて、このシーンではアンディとの別れより一足先に「アンディがいなくなっても、おれにはおまえがいる」、すなわち最後には仲間がいる、という『2』でのセリフが実現しているわけだ。
 そうして、『3』のラストで、ウッディは自らアンディとの別れを選び、アンディもウッディを他のおもちゃたちとともに幼い少女ボニーへと譲渡する。
 
 この瞬間に「お人形で遊ぶ小さな男の子の映画」は二重の意味で終わりを迎える。アンディがウッディたちと別離したことで、「お人形で遊ぶ子ども」の物語は終わり、その譲渡先がボニーという女の子だったことで「小さな男の子」の物語もまた終わる。

『3』の公開年は2010年、『4』の公開年は2019年。実に九年の開きがある。この間、ピクサーという会社は大きな構造的変革を迎えていく。

 まず、ピクサーの創設者にしてクリエイティブの支柱でもあったジョン・ラセターがピクサーを離れた。発端は2017年にハーヴェイ・ワインスタイン告発をきっかけに活発化したいわゆるMeTooムーブメントで、ラセターは常日頃からのスタッフへの非同意の肉体的接触などが問題視され、2018年に*14ピクサーから逐われることとなり、当初監督を予定していた『4』もジョシュ・クーリーへと交代となる。
 
 ポルト大学のガブリエラ・サによる2022年の研究によれば*15、ピクサー作品のクレジットに見られる主要ポジションの女性比率は1995年〜2019年の21作品で約16%だった。それが、2020〜2022年の5作品では約38%に増加している。特に2019年までの作品では主要ポジションにおける女性が10名を越える作品はなかったものの、2020年の『2分の1の魔法』では18名を記録しており、2019年がひとつの節目だったことがわかる*16
 ラセター後のピクサーにおける女性スタッフの躍進はもちろん偶然ではない。
 ラセター辞任後に新COOに就任したピート・ドクターのもと、ピクサーはクリエイティブの意思決定に関わる諮問チームについて女性の比率を最低でも50%にすることとし、年齢や人種的多様性についても向上させていくという方針を打ち出した。
 その結実が2022年のドミー・シー監督『私ときどきレッサーパンダ』だ。ピクサー初の単独女性監督作品である『レッサーパンダ』はテーマ的にも、「北米*17におけるアジア系移民の二世三世の女性へのプレッシャー」というシー監督のアイデンティティが反映された物語になっている。それまで24作品中で女性主人公といえるのは3作品*18にすぎなかったが『レッサーパンダ』以降は『マイ・エレメント』、(どちらかといえば無性的な存在だが)『インサイド・ヘッド2』、『私がビーバーになる時』、そして『トイ・ストーリー5』と5年ですでに5作の女性主人公映画を送り出している*19
 
 そんな節目の年にリリースされた『トイ・ストーリー4』もまた世代交代の話であり、そこで「古い時代の男性」がアイデンティティクライシスに直面する話でもある*20

 まず、冒頭でウッディはすでに「主力」ではないことが示される。ボニーとよく遊んでいるのは『2』で登場したカウガール人形のジェシーであり、ウッディはクローゼットからかれらの楽しげな様子を眺めることしかできない。監督であるクーリーのコメンタリーによれば、「ボニーはウッディがいなくても構わない。それがエンディングにつながっているんだ」。
『1』のころのウッディなら闇落ちしていかもしれない状況だが、すでに人格的に成熟したウッディは寂しさを抱えながらもジェシーに嫉妬したりなどはしない。しかし、心の何処かで焦りは募る。自分がボニーにとって不要であるとするならば、自分がボニーに与えられるものとはなんなのか?
 ウッディはみずからの有用性を、新入りであり、ボニーががらくたで作った自作品ゆえに「おもちゃ」としての自覚をもてていないフォーキーの教育に見出そうとする。「なぜ、そこまでフォーキーに固執するのか?」と問われたときにウッディが発する「だって、もうそれ以外におれにはなにもないんだよ!」という叫びは切実だ。

 しかし、これまでのシリーズで繰り返されてきたようにまたしてもウッディは(フォーキーとともに)持ち主とはぐれてしまう。
 なんやかんのあった末にふたたびウッディはボニーのもとへ戻るチャンスを得る。しかし、バズに「内なる心の声(your innner voice)を聞け」と促され、ウッディは結局かつての恋人であるボー・ピープ*21率いる、特定の持ち主を持たない公園のおもちゃたちの一団に加わることを決め、バズたちに別れを告げる。ウッディを見送るおもちゃたちが「ウッディは迷子(lost boy)になったの?」と訊くと、バズは「もう彼は迷子じゃないんだよ」と、シリーズで繰り返されてきたプロットに対するメタ的な言及をし、「ウッディの物語」を締めくくる。
『4』がもはやこれまでのような「おもちゃとしてのウッディの物語」ではないことはオープニングシーンで示されていて、『1』〜『3』のオープニングは「子どもが空想の力を駆使しておもちゃで遊ぶところ」を描いていた。ところが、『4』ではボー・ピープのいなくなった晩(『2』と『3』のあいだ)の回想から展開されていく。つまり、「おもちゃとしてのウッディ」よりは「ひとりの経験をもった人格としてのウッディ」を重視しますよ、ということがここで予告されている。前述したとおり、「ウッディとアンディの物語」だった『3』までに対して、『4』は「ウッディの物語」にケリをつける映画だ。ウッディの替えの利かない唯一のおもちゃとしてのアイデンティティはアンディとの関係において機能するものであり、彼の依ってたつところはすでにおもちゃ仲間へと切り替わっている。だから、彼はボニーとの特別な関係ではなく、おもちゃとしてより広範に貢献できる公園での生活を選んだのあり、『5』でかつてのおもちゃ仲間から支援の要請を受ければたちまち駆けつけもする。
 
 そして、アンディがいなくなったボニーの家でボニーと関係を結ぶのは?

 ジェシーだ。

「お人形で遊ぶ小さな男の子の映画」だった『トイ・ストーリー』は『4』を通してひそやかに「小さな女の子の映画」へとバトンタッチされ、『5』ではいよいよジェシーが主人公としてボニーのために奮闘することとなる。かつてのウッディの旅路を辿りながら。

ノスタルジーを語るがノスタルジーはやらないピクサー

(『私ときどきレッサーパンダ』)

『トイ・ストーリー』シリーズの変化は、かつては文字通りの意味でボーイズクラブだったピクサー内部の変革の軌跡とも一致している。『トイ・ストーリー』、『モンスターズ・インク』、『カーズ』、『Mr.インクレディブル』と、かつてのピクサー作品には50年代60年代的なノスタルジーが顕著に表れていた。それはラセター自身(とピクサーアニメ初期メンバーたち)のノスタルジーであり、もっと広くいえばアメリカのノスタルジーだった。
 ラセターが抜けたことでピクサーからノスタルジーは失われたのか? といえば、否である。近年の作品でも『マイ・エレメント』は古典的なロマンティック・コメディを踏襲しているし、『星つなぎのエリオ』は宇宙開発時代全盛のノスタルジアを引き継いでもいる。というか、どの作品も主に監督の個人的なノスタルジーがソースとなっている点では変わらない。
 だが、そのソースが多様化している。『レッサーパンダ』が北米におけるアジア系移民コミュニティで育つことに大きく依っているのもそうだし、『2分の1の魔法』のファンタジー世界は『ダンジョンズ&ドラゴンズ』がベースで、『リメンバー・ミー』の舞台はメキシコで、『あの夏のルカ』はイタリアだ。プロット自体は古典的な『マイ・エレメント』でさえも韓国系移民二世であるピーター・ソーン監督が体験した1970年代のニューヨークの風景が反映されている。

 裏を返せばそれは、アメリカのノスタルジーの分裂を示しているともいえる。特に映画産業において、かつてアメリカのノスタルジーは世界のノスタルジーでもあった。しかし、2020年代の現在にあってはそれはもはや疑わしい。「お人形で遊ぶ小さな男の子の映画」の物語は失効してしまった。その状況は、仮に2018年以降もラセターがピクサーに留まりつづけたとしても変わらなかっただろう。
 ノスタルジー研究の大家フレッド・デイヴィスがいうように、私的なノスタルジーと集合的なノスタルジーは異なるものであり、集合的なノスタルジーはメディアによって作られる部分が大きい。ラセター時代から私的なノスタルジーに依るところが大きかったピクサーの作風では、たまたま集合的なノスタルジーと一致する私的ノスタルジーを持っていたラセターは再現性がなかったのだろう。
 
 ラセターは結局、ウォルト・ディズニーにはなれなかったのだとおもう。それは、ラセターがノスタルジーを語るのみに留まり、観客に新たなノスタルジーを植え付けることができなかった、という点においてそうだった。創作者や映像作家としての優劣の問題ではない。なぜかといえば簡単なことで、ラセターはディズニーランドを造らなかった。
 そして、ピクサー自身も私的なノスタルジーを語りながら、自らがノスタルジーの対象であることを拒否しつづけている。続編を作りまくっている。キャットムルは「続編は安定的なスタジオの運営にとって必須だが、創造性を殺さないために総作品数の3分の1に留める」と自著に書いていて、たしかに今後のリリーススケジュールも「3分の1」ペースを守ってはいる。だが、親にして兄弟たるディズニー本家ではその長い歴史やかつてのビデオ続編濫造や近年の続編強化傾向にもかかわらず、『トイ・ストーリー』シリーズのように5作目まで続編を出したことはない。
 常に続編によって現在を更新しつづけようとするからこそ*22、ピクサー作品はオーディエンスのノスタルジーの対象になりにくいのではないか。そんな気がする……というようなことを『トイ・ストーリー5』の感想を書くにあたってつらつら考えていたら、『5』の感想を書くスペースがなくなりましたとさ、って話。


*1:https://apnews.com/article/toy-story-5-movie-andrew-stanton-34af3a8622b0fc6981b4413be64a9b5a

*2:のちにブレイントラストというピクサーの物語制作部門の中核となるグループ。最初期メンバー、ラセター、ランフト、スタントン、ドクター、リー・アンクリッチの五人

*3:1967年生のピート・ドクターを除いて

*4:年若だったドクターものちに『インサイド・ヘッド』シリーズでやはり自身の子育ての経験を色濃く作品に投影している

*5:David A. Price, "The Pixar Touch"

*6:『トイ・ストーリー2』で、プロスペクターが「なぜ『ウッディのラウンドアップ』は打ち切られてしまったのか?」というウッディからの質問に対し、「スプートニクのせいさ!」と返している。

*7:つけくわえるならば、『トイ・ストーリー』はアウトサイダーとしてのかれらも投影されている。シドを最終的にやっつけることになるのはシドによって魔改造されたおもちゃたちだが、かれらがシドを襲うホラー的なシーンはあきらかにフリークス映画的な作法に即している。この世界観において、「いじめっこ」であるシドが絶対悪として描写されるのも無理はない。

*8:勘違いされがちだが、すくなくとも財政的にはアニメーションスタジオとしての初期からピクサーはディズニーの強い影響下にあった。

*9:邦訳は『ピクサー流 創造するちから 小さな可能性から、大きな価値を生み出す方法』(ダイヤモンド社)。ただし2014年の訳書なので改訂版の追加新章分は未訳。

*10:たとえば「他人をさえぎってまで意見をしゃべろうとする」といった傾向が男性に比べて女性は低い

*11:正確には長編において単独でクレジットされた女性監督として

*12:『トイ・ストーリー4』の監督コメンタリーより

*13:おもちゃとしてのバズ・ライトイヤーのもととなった作中映画における悪役で、バズの実の父。要するに『スターウォーズ』のダース・ベイダー

*14:キャットムルを含めたピクサー首脳部は辞任の直接的な理由に関しては「契約上の秘密事項」として口をつぐんでいる

*15:https://www.researchgate.net/publication/379249543_Domee_Shi's_Turning_Red_as_Feminist_Hope_for_Feature_Animation

*16:『トイ・ストーリー』では主要ポジション18名中わずか1人(約5%)。初の女性共同監督を迎えた『メリダとおそろしの森』でも28パーセント程度だったが、『2分の1の魔法』から『バズ・ライトイヤー』まででは30%台後半から40%台で推移している。論文に掲載されていない2023年以降のは比率は詳しく調べていないが、だいたい40%台を維持しているものとみられる

*17:舞台はカナダ

*18:『メリダとおそろしの森』、『ファインディング・ドリー』、『インサイド・ヘッド』。女性性が明確に規定されているものでは実質『メリダ』のみ

*19:一方で『星つなぎのエリオ』の制作過程で起きたトラブルのように、性的マイノリティに対する排除圧力が根強く残っていることに関しては留意しておかねばならない。

*20:余談だが、『トイ・ストーリー4」に対する好き嫌いはともかくとしても、「『トイ・ストーリー4』はカスだから」といった態度でひたすら『4』の減点ポイントについてしか述べないような輩はそもそも『トイ・ストーリー』シリーズを理解しようとしていないのであるから話を聞くに値しない。人生で役立つ豆知識だ。

*21:羊飼いの女性の陶製人形。3でアンディのもとからいなくなったことが示唆されていた。

*22:それもプログラムピクチャー的な「毎年劇場版を出す」といったようなシリーズではなく、新しいチャレンジを行いつづけているからこそ

インディーゲーム作家の伝記を書くことについて

 歴史そのものが詩人や劇作者としての真に支配力を持っているところでは、いかなる詩人であれ歴史を凌駕しようとこころみてはならない。

  ――シュテファン・ツヴァイク『人類の星の時間』


 と、いうわけで。


realsound.jp
(↑連載第一回)


全掲載分のまとめ[逆順]はこちら


 RealSoundテックのほうで連載していたベネット・フォディ(Bennett Foddy)の小伝が全七回で無事完結しました。読むなら今!!
 九割くらいは、ある日いきなり七万字くらいの怪文書を送りつけられ、こんなん誰も読まねえよ!とリジェクトのうえ威力業務妨害で官憲に通報しても全然よかったはずのところを、「じゃあ分割掲載形式で連載にできるかどうか、上にかけあってきます!」とハツラツと飛び出していった編集部の三沢氏のおかげです。感謝。
 
 ベネット・フォディさんはインディーゲーム作家です。
 だれ? というかたにさらに説明しますと、このゲームの作者です。

 ゲーム実況で実況者たちが絶叫してるあのゲームです。
 タイトルは『Getting Over It with Bennett Foddy』。そう、タイトルになっているひとが、このフォディさん。
 一見スロップなネタゲーに見える(そしてその工面はまったく否定できない)『Getting Over It』ですが、実はその裏側に作者の深遠な思想と激動の半生が隠されていたとしたら……?

 というのが第一層目のたくらみ。

 第二層目にあるのが、連載タイトルにもなっている〈ベネット・フォディを中心にして見るインディーゲーム史〉です。
 ここでは「インディーゲーム」の範囲をかなり狭くとっています。2000年代後半からダウンロード販売プラットフォームを中心に世間で可視化されてきた、小規模制作チームによる、主として欧米圏発の作品群です。
 それは今でもインディーゲームの一般的なイメージのコアに座しているものでもある。一部のひとはそんなのは幻想にすぎないと主張します。たしかに幻想ではあるかもしれないが、幻覚ではない。たしかにここに"これ"はある。では、"これ"はなんなのか。どこから来て、どこへいくのか。そして、インディーゲームを定義する/していたものとはなんなのか。

 わたしはそれに興味があります。

 急いで付け加えるならば、それらは現在インディーゲームとして流通している作品の総和の一側面でしかありません。インディーゲームは、2000年代以降の〈現代インディーゲーム〉はいくつかの異なる流れが合流してできている。フォディが属していたTIGSourceフォーラムに代表される開発者用フォーラム、各種ゲーム制作ツールコミュニティ、NewgroundsやKongregateなどに代表されるFlashポータル、IGFやIndieCadeといった賞/展示、Indie Game Jam(とそこから派生したExperimental Gameplay Workshop)やLudum Dareといったゲームジャム文化、大学における学生制作や研究者ネットワーク、MOD文化、シェアウェア/フリーウェア、『洞窟物語』や『ゆめにっき』にような日本のフリーゲームからの影響……まあ、そういうものが織物のように重なっている。*1
 そのあたりの一部(賞制度と現代インディーの黎明における"インディー"でなさ、みたいな部分)はここですこし書いたつもりです。

proxia.hateblo.jp


 で、まあ、しかし、当時そうしたムーブメントの渦中に身を置いていた当事者でもなければ、それらを取材していた記者でもなく、2020年代に炬燵でぬくぬく本や記事を読んでいるだけのこの卑小な身にはこれらの膨大な流れをひとつの歴史として見ることも語ることもできない。そもそも、知らないことわからないことがあまりに多すぎるわけですからね。
 
 なればこその伝記なのです。視点となる人物を置くことで、グラウンドレベルで、しかもそのレベルでしか見えない景色を見ることができる。それも、あまり語られてこなかった界隈を。
 その主人公がベネット・フォディであったことは意図せずしていくつかの幸運をもたらしてくれたのですが、そのうちのひとつが彼のキャリアパスです。
「ゲーム業界未経験からFlashを作りはじめ、TIGSフォーラムから大学(NYU)の教員へ」という軌跡。Youtubeにおけるゲーム配信黎明期でのバズやニューヨークにおける〈ニュー・アーケード〉ムーブメントも経験し、IGFでの受賞経験もあり、ZX Spectrum/Amigaにルーツを持つ世代で、オーストラリアという国際的なゲーム地図の周縁出身であり、日本での作品知名度も比較的(あくまで比較的)そこそこある。
 われわれが俗的にイメージする「身一つのインディーゲーム開発者」を体現すると同時に、秘密めいた一匹狼でもなく、かつ風変りで興味深い来歴を持っている。
 こんな変すぎるおかげで万遍なくちょうどいいひと、ほかにそんないないわけです。*2
 大河ドラマで主人公がよく「おまえはなんでそんな時代時代の都合のいい時に都合のいい劇的な場面におるねん」とツッコミたくなるときがありますが、それを地でいく人物ともいえます。

 もちろん、彼の人生だけで"すべて"は到底捉えつくせないわけですが、彼の肩をなめたカメラで撮ることで豊饒なものが見えてくる。ここ二十年のアメリカ/英語圏ウェブのインディーシーンというドラマが、その変遷が、非常におもしろく撮れるのです。
 彼自身の思想(TIGS的なノスタルジー、「不服従」なソフトウェアの思想、名づけることについて、人間としてのプレイヤーと開発者の対話……)もそれぞれに時代と個性を反映していてユニークだし、彼と関わるアクターたちもやはりそれぞれに個性豊かで時代を反映している人物ばかりです*3

 まあ、企図して主人公に起用したのでなく、「特に何も考えずにやってみたらそうなった」というようなもので、これこそ幸運のたまものなわけですが。

 伝記はいちばん遅くにやってきます。ヴィヴィアン・ド・ソラ・ピントによれば、伝記とはすべての人間を「尊重に値する個人」として考える観念を持つ社会を前提にして初めて成立する文学形式です。いうまでもなく、人類が個人を重要な単位と捉えだしたのはごくごく最近のことでありますし、そのあとでさえ文化の領域においては何かあたらしいメディアが出てくるたび、個人の価値はゼロベースでリセットされていくものです。

 もちろん、ある種の領域においては個人に眼を向けすぎるのも誤謬のもとであって、マンガとゲームで育ったわたしたちはいとも簡単に生身の人間をキャラクター化し、出来事(事件史)主義的な歴史観や英雄史観に堕したりもする。
 小説やマンガならまだしも、基本的に集団制作物であるゲームでは特に取り扱いに注意が必要です*4。小規模インディー、ソロデヴにおいてすらなお、わたしたちはその咎から足抜けすることはおそらくできない。

 とはいえ、問題は罪を犯す可能性を心配することではなく、その罪が犯されてすらいないことだと個人的にはおもいます。わたしたちはあまりにインディゲーム作家を作家として扱っていない。興味深いキャラクターであるとさえみなしていない。
 現代インディーゲームのアクターたちを作家として語ろうとする試みは、これまでもなかったわけではありません。かつて、今井晋はAutomatonで〈ONE MAN DEV〉というインディー個人開発者の列伝を書こうとしました。今読んでも非常に興味深い記事です。「全五回」だったはずの連載企画がなぜ第二回までで途絶してしまったのかは知りようがないわけですが、しかしもともとが困難に満ちた道であったのはわかる。
 2014年の連載なのです。Cactusことヨナタン・ソダーシュトルムにしろ、テリー・キャヴァナーにしろ、まともに書こうとしたら「それまでめちゃくちゃいっぱいFlashゲーム作ってた人が商業で一作(Cactus)か二作(キャヴァナー)すごいゲームを出しました」くらいの材料しかない。そこをおもしろく書き上げたのが〈ONE MAN DEV〉のすさまじさなのですが、つまりは、ですね。ある時期までのインディー作家には絶対的に不足していたわけです。星座を形作れるだけの作品数が。人生の嵩が。
 これは当時の在野出身の個人開発者はだいたいそうで、フォディも『QWOP』と『GIRP』は出していたものの、本格的な商業作品デビューはまだ先の時期でした。また、扱うに足る作品数だけが十分であったとしても、それをインディーやゲーム業界の流れの中にどう位置付けて語るか、といった背景の部分でも難しかった。
 材料がないならないでどうにかこしらえるのが執筆者の技量ではあるでしょう。残念ながら、わたしにはそこまでの筆力はありません。その時代なりに語られること、語るべきことはあり、それを残すのは貴重な仕事だったのでしょうが、しかしどうしたって伝記だけは書けない。
 時代が早すぎた。

〈ONE MAN DEV〉から12年が経ちました。
 わたしたちはようやく「インディーゲーム」を振り返られるようになった。十分な材料、十分な背景、十分な嵩が時代が進んだことで単純に蓄積された。それは、かつて信じられていた制度の失効あるいは黄昏を意味しているのかもしれませんが、それよりはわたしはインディーゲーム作家たちが積み上げてきた星霜とそれを記録しようとしつづけてきた〈ONE MAN DEV〉のような執着があったからだと信じたい。
 
 わたしは怠惰な人間です。書き物のできるだけの体力が持つのはせいぜい一日三時間までで、あとはずっと庭の孔雀を眺めて過ごしています。あまり遠出もしません。人とも会いません。世間のことを教えてくれるのは10年前に北野天満宮の朝市で買ったMacbookだけです。
 
 伝記の書かれる時代とは、そのような人間でも作家と出会える時代のことです。
 たとえそれが、ボズウェルとジョンソン以前のようなカタルシスの作法に乗っ取ったうそくさい聖人伝であろうが、リード・ウィットモアが嘆いたような何もかも包括しようとしてごちゃごちゃになっただけの細部のカタログであろうが、です。

 だから……そうですね。みなさん、もっと伝記を書きましょう。作家論を書きましょう。

 わたしたちにはもう時代などという贅沢は残されておらず、そんな戯れしかなくなってしまったのかもしれないから。



note.com
(そういえば昨日オブラディンみたいなゲームのカタログも書きました。よろしくね。)

*1:そして、雑に欧米圏と括ってもその国ごとにわりと固有のゲーム文化的背景がある。フォディの生まれたオーストラリアとかは良い例ですね。もっともフォディ自身はオーストラリアゲーム産業に籍を置いたことはないのでオーストラリアゲーム界史上最大のトラウマとなった世界金融危機によるゲーム産業の崩壊を経験していない、という特異な存在なのですが。

*2:蓮實重彦的な意味における「凡庸」さってやつね

*3:そしてそれは当時のインディーシーンの光の部分だけを映しているわけではありません。連載中に二度、アレック・ホロウカという名前が出てきます。TIGSフォーラムでは中心的な常連のひとりであり、管理人であったデレク・ユウとは『Aquaria』で組んでIGFの大賞を獲った人物です。のちに彼は日本でも『Night in the Woods』のメインクリエイターのひとりとして知られるわけですが、2019年に性的虐待の告発を受けたのち、自殺しました。この問題は、基本的には彼ひとりの病んだメンタリティのせいにされているわけですが、果たしてそうだろうか。アンナ・アンスロピーなどが指摘しているように当時のTIGSやほかのゲーム関係のフォーラムを見ていると「ボーイズクラブ」的な空気があったのは間違いなく(2000年代の日本のインターネットの空気を思い出してもらえればよい)、そこで育まれていたメンタリティというものは確実にあったはずではなかった。ホロウカとの記憶について語ったスコット・ベンソンのメモワールに描かれたホロウカを見たときにまず思い出したのは、『Indie Game: The Movie』に出てきた『Fez』開発者フィル・フィッシュだった。フィッシュもホロウカも気分の上がり下がりが激しく、意に沿わない他人に対して攻撃的で、すぐ「自殺する」と自死を脅迫に使う。このような二人が、かたや今でもインディーゲーム史上の伝説として称えられ、かたや悪に塗れた罪人として葬られる(ホロウカが死んだとき、ユウが距離を取ったよそよそしいコメントを出していたのを憶えている)。『Night in the Woods』のパブリッシャーであったFinjiを率いていたのはアダム・サルツマンで、サルツマンはやはりTIGS常連としてホロウカとは共同開発まで行う旧知だった。パブリッシングもその伝手だったのだろう。とすれば、『Night in the Woods』もTIGSの、2000年代インターネットのボーイズクラブ的な空気とは無縁ではなかったということだ。ベンソンはアレックの問題行動をアダムに報告したとき、「現場で何が起きているのかを話すと、彼らはショックを受けた。なにも知らなかったから。知っているわけがない。外からは順調なように見えていたのだ」と記している。ほんとうにサルツマンは知らなかったのだろうか? デレク・ユウが知らなかったように? 10年来の付き合いだった彼らはホロウカのトキシックさをまったく認知していなかったのだろうか? できていなかった、としよう。それはそれで2000年代個人開発インディーシーンのある種の悪弊を示唆している。そして、それはまだ残っているのだ。そこいらじゅうに、TIGSとかつてかかわりをもとうがそうでなかろうが、開発者だろうがプレイヤーだろうが、日本だろうがアメリカだろうが、はびこっているのだ。『Getting Over It』についてフォディが「ポストゲーマーゲートのゲームだ)というとき、『Baby Steps』について「挫折した男性性のゲームだ」というとき、彼もまたそれらの空気と無縁ではなく、内省し、考えつづけていたことを示しているのではないでしょうか。

*4:二〇〇〇年代には平均六〇人前後だったのが今はAAAタイトルだと平気で4000人や5000人を超える状況を考えると、ここ十年はとみに〈個人〉が薄まっている時代とも捉えることもできる。

サンダンスを夢見て:インディーゲーム(業界)とインディー映画(業界)の関係について

本日のお話

 現在絶賛連載中*1のベネット・フォディ*2評伝のなかでIndependent Games Festival(IGF)について触れました。

realsound.jp
(連載第一回)

ベネット・フォディを中心に見るインディーゲーム小史の記事・ニュース・画像一覧|Real Sound|リアルサウンド テック
(連載まとめ)


 さて、IGFはその名のとおり、インディーゲームの祭典です。腕に覚えのある作家たちからインディーゲームを募り、賞を与える。ここで評価されることはインディーゲーム作家たちにとってまたとない歓びである、らしい。

(IGFの受賞式の様子)

 IGFはインディーゲーム作家としてのフォディ個人にとっては2012年に『GIRP』でNuovo賞*3に初ノミネートされて以来、2026年に歴代最多部門ノミネーションを受けた『Baby Steps』に至るまで主戦場でありつづけているのだけれど、マア一般的にはぜんぜん有名ではありません。というか、ゲームをやるひともそんなピンとこないのじゃありますまいか。

 IGFとは簡単にいえば、インディーゲームを評価するゲーム賞の先駆けであり、「インディーゲーム」の枠組を、とりわけ芸術性や精神性を左右してきた権威的な場でもあります。少なくとも、欧米圏のインディーゲーム作家たちにとってはいまでも憧れの場所といえるでしょう。

 それではIGFはインディー(独立)の楽園なのか――すなわち、ゲーム研究者のイェスパー・ユールのいう財政的独立・美学的独立・文化的独立の三つをそれ自身で満たした場なのか、といえば、その成り立ちからすれば、かならずしもそう言い切れない部分がある。

 というのも、IGFは90年代の「インディー映画産業」をゲーム界に持ち込もうとした試みだったからです。そして、インディー映画に憧れたインディーゲームイベントはIGFだけではなかった。

 今回は、IGF、IndieCade、Experimental Gameplay Workshopという三つの制度から、インディーゲームがいかにインディー映画を夢見つつ、映画とは違うものになったかを見てみましょう。
 最近調べてることのメモみたいなものなのでダラリと長いですが、てきとうにつまみ読んでいただければさいわいです。最後には大事な教訓もありますよ?

(IGFのNouvo Award受賞時のベネット・フォディ)

Independ Games Festivalはサンダンスの夢を見るか?

 Independent Games Festivalの発端は1998年に遡ります。ゲーム業界向けの雑誌『Game Developer』*4誌の9月号にこんなタイトルのエッセイが掲載されました。

「われわれのサンダンスはどこにあるのか?」

 執筆者は、同誌の編集長であったアレックス・ダン。

(「われわれのサンダンスはどこにあるのか?」https://gdcvault.com/gdmag

「われわれのサンダンスはどこにあるのか?」

 何年か前、ある方面の人々は、ハリウッドとシリコンバレーの結婚は手配されるべきだと決めつけていた。この婚姻についてはさまざまなひとが、さまざまなことを書き立て、この結びつきが両業界を永遠に変えるだろうと予言した。けっきょく、この未来予想図は成就しなかった。
 そして、ゲーム開発者たちは映画づくりに励む同胞たちから距離を置くことを好んできた。だが最近、私は、映画産業のある一面はゲーム開発者たちがもっとよく観察するに値するのではないかと考えている。それは、インディペンデント映画祭という概念である。サンダンス映画祭は、われわれにとって模倣することで大いに学びを得られるイベントだ。
 サンダンス映画祭は1978年に始まった(当時は〈U.S. Film Festival〉*5と呼ばれていた)、同国初の映画祭だった*6。この映画祭のもともとの理念は単純明快だった。すなわち、映画作家、作家、俳優たちをユタに招き、往年の名作インディペンデント作品を上映して、映画に繁栄された現代的な社会問題について語り合う、というものだ。(「インディーズ」とは、型にがんじがらめにされた巨大なハリウッドのシステムの外で作られる、極小規模の予算で制作される映画のことである)当時、南カリフォルニア大学(USC)の映画教授だった故アーサー・ナイト*7は、この映画祭を全国的なコンペティションへと作り変え、アメリカ産インディペンデント映画の新興市場を育成することを提案した。映画祭が成長するにつれ、プレミア上映がプログラムを占めるようになり、古典作品の上映は縮小されていった。
 今日、サンダンス映画祭は映画産業最大のイベントのひとつであり、その目玉は、アメリカの新作インディーズを初上映する劇映画とドキュメンタリーのコンペである。このコンペがノミネート作にもたらす露出の大きさは、いくら強調してもしすぎることはない。こうしたインディーズ映画の大半は、もしコンペに入らなかったら配給会社やスタジオの目に触れることはないまま埋もれていく作品だ。
 だからこそ、実に多くのインディペンデント映画作家が、影響力のある観客の前で自分の映画を披露する機会を得るためにサンダンスを目指す。配給会社は、映画祭の作品を観て、より幅広い観客に向けた配給のためにインディーズ作品と契約する。映画業界の幹部たちは映画祭を訪れ、まだ発見されていない才能を掘り起こし、最先端の映画がどんなテーマを探求しているかを見る。試写に押し寄せる観客たちは、あわよくば制作者たちと肩を並べて映画を観られるかもしれない。
 サンダンスの理念はその後、世界の至る場所で模倣されてきた。おそらく、あなたの近くの街にも、独自の映画祭があるだろう。みんなの憧れであるサンダンス映画祭ではないにしても、似たような何かがある。
 ゲーム開発コミュニティが絶好の機会を逃している、と感じているのは私だけだろうか? いまこそ、サンダンスのようなイベントを作り、小規模なゲーム開発会社による作品を中心に、すぐれた新作ゲームに光を当てるべき時期だろう。
 現在、ゲーム開発者にとっての大きなローンチ(というか実質プレビュー)の場はE3*8だ。E3には、確かに既存の出版社をウォルマートの買い付け担当のような相手と結びつけるという役割はあるが*9、ゲームのパブリッシング契約に署名したい、あるいは市場に参入したいだけの、知名度の低い開発者にとっては十分ではない。洞穴のように広大な展示会場をそぞろ歩く3万人の人々、高デシベルのテクノロックの鼓動、そしてなにより、高額な出展費の狭間で、小規模なディベロッパーが注目される可能性はほとんどない。
 ゲーム開発業界に必要なのは、もっとリラックスできる別の会場である。そこでなら、「インディー」ゲーム*10を快適な環境で「上映」でき、一般のゲーマーたち、そしてゲーム開発を志す人々が、どんなタイトルが作られているのかを短いリストから見ることができる。サンダンスのように、応募資格の要件があり、応募作品を選定・審査する審査員団があり、与えられる賞があるべきだ。インディーゲームの映画祭という考えを鼻で笑う人もいるかもしれないが、私は、この種のイベントを使って自分たちのプロジェクトや技術を見せられる、恐ろしく才能のある開発者たちを何人か知っている。インディペンデント映画祭という発想を退けた人々が、数十年前に真に受け止められていたら、『フープ・ドリームス』*11、『セックスと嘘とビデオテープ』*12、『クラム』*13、『クラークス』*14、『マクマレン兄弟』*15、『パリ、夜は眠らない。』*16、そしてサンダンスでプレミアされた他のすぐれた映画群は、注目を集めるどころか、そもそも作られることさえなかったかもしれない。
 あなたも「ゲームのサンダンス」のアイデアに興味をそそられるなら、ぜひ知らせてほしい。あなたの意見を聞きたい。考えやアイデアを僕のメールアドレス*17まで送ってほしい。これがどこへ向かうのか、見てみよう。

 アレックス・ダン

 彼の提言はたちまち業界陣の反響を引き起こし、『Game Developer』誌には翌号からひっきりなしに「ゲームのサンダンス」に関する投書が届くようになりました。
 この流れを受けて、なのか、予定されていた仕込みだったのかはわかりませんが、ダンはディベロッパー本位を掲げる新興パブリッシャーのThe Gathering of Developers*18と手を組み、第一回のIndependent Games Festivalの設立と開催の告知を1998年12月号のコラムにて宣言します。

 ちなみに、IGFは初回から現在に至るまでゲーム業界の内輪向けカンファレンスであるGame Developers Conference(GDC)と併催される形をとっています。これは『Game Developer』誌の親会社がGDCも運営していた縁が関係していて、いってみれば影響力ある業界誌と影響力ある業界イベントというふたつを抑えていたダンならではの立場を利用したアクロバットでもありました*19
 

(サンダンス映画祭の創設者のひとりとして象徴となっている名優ロバート・レッドフォード。そういえば、この前初めて『スパイ・ゲーム』を観ました。良かったです)


 ここで留意したいのがダンのマニフェストが「独立」を思想として重視していなかった点です。むしろ、まだ見ぬ才能たちをいかに既存のシステムへ回収するかを考えていた。
 要するに、IGFとは、ビジネスを志向して、ゲーム業界内部からの要請によって立ち上げられたインディーフェスだったわけです。大手が作るゲームが硬直化し、新鮮味を失っているところにアイデア本位の新しい風を吹き込ませてやろうとするインディースピリットの萌芽のようなものはその時点でたしかに風潮として存在し(後述するExperimental Gameplay Workshopなど)、ダン自体にもそうした気概がなかったわけでありませんが、しかしまずもってダンの視線は当時のゲーム産業構造へと向けられていた。
 なればこその「サンダンス」なのですね。当時のサンダンス映画祭はダン自身が述べているように「映画産業界最大のイベント」であり、映画界では「過度に商業化し、初期の精神を失っている」と批判されることも多かった。
 80年代以降、大手スタジオの崩壊とビデオソフトの普及によって先鋭的な実験作を取り込んで市場に送り出すインセンティブが映画界に生じていていました。その流れでメジャー各社は自社に「インディー配給部門」を作り出します。ディズニーはワインスタイン兄弟のミラマックスを買収し、タイム・ワーナーは『エルム街の悪夢』などのカルト作で知られた老舗のニュー・ライン・シネマを買収。ソニー、パラマウント、フォックスはそれぞれ自社内部にインディー部門として子会社(このなかで最も成功したのがフォックス・サーチライト・ピクチャーズ)を新設しました。
 映画界においては90年代時点で「インディー」はサンダンスを含めて、すでに大手による支配のシステム――すなわち”映画産業”に取り込まれていたのです。
 IGFは良くも悪くも「インディーゲーム」という制度の確立に大きな役割を果たしてきたわけですが、なればこそ、この第一歩目に企まれてきたことの内実を忘れてはならない。でなければ、初回からマイクロソフトやAMDといった大企業をスポンサーにつけ、TGoDのマイク・ウィルソンのようなやり手と組み、1万人近い業界関係者が出入りするイベントに堂々と陣を張れるものでしょうか。

 さて、ダンが議長(チェア)となり、1999年3月に初回のIGFが開催されたわけですが、最初からわたしたちの考える「インディーゲーム」が受賞していたわけではありません。イェスパー・ユールが著書『Handmade Pixels』で指摘しているように、2000年代前半までの受賞作は大手の作る大作ゲームの廉価版のような傾向が強く*20、IGFを通してパブリッシャーと契約し、「ちゃんとしたゲーム」にしようという色気も覗かせていました。これはIGFが未完成のデモでも応募を受け付けていたこと*21と、「ゲーム版サンダンス」として当初から小規模ディベロッパーとパブリッシャーを縁づけしようとしていた姿勢も影響したとおもわれます。実際、第一回の受賞者には副賞としてTGoDのトップであるマイク・ウィルソンとの面談の権利もついていました。もっとも、そのときの受賞作は契約には至らず、最終的には完成版のリリースすらされじまいでしたが。

(第一回のIGFの大賞に輝いた『Fire and Darkness』制作チームの面々。大学生や高校生で構成された学生チームだったらしい。結局、受賞作は製品化されず、チームメンバーたちもその後ゲームづくりから離れたものの、なんか作った会社をAppleに売却したりして社会的には成功しているらしいです。才能というのはどこかで帳尻が合うものですな)


 インディー作品を大手と契約させて世に出そうとするのは、当時としては当たり前の考えだったといえます。ダンが先に触れたE3も大規模化していったのは、物理パッケージしか販路のなかった当時において「ゲーム会社と小売りを結びつける」という役目を担ったところが大きかったわけで*22、そもそもそうした販路のツテがないと売ることもできない*23
 いちおう1990年代にはすでに「シェアウェア」の概念はあって、『DOOM』(1993)などはオンラインダウンロード販売の(最も初期の)成功例として知られてはいましたが、だれもがマネできるやり方といえばそうではありません。「データを買うこと」がまだまだ一般に浸透してなかったことや、海賊版対策の困難さもあり、あまり現実的な販売法とは見られていませんでした。*24
 そういう意味では、映画館というメジャーな会社の握っている流通網に載らないことには日の目を見られない、つまりはインディーの入る余地のなかった映画界とも似ていたわけです。
 
 こうした「いうても大手だよね」な雰囲気が変わるのは2000年代中盤から後半にかけてです。ひとことでいえば、インディーにしかない表現、ユール風の言い方をすれば、「どれだけの追加資金を注ぎ込んでもそれ以上拡張しえない美学を持った」ゲームが目立ってきます。

 2005年に大賞を受賞した『GISH』(Chronic Logic)は後に『Super Meat Boy』や『The Binding of Isaac』でインディー作家の象徴的存在となるエドマンド・マクミランの商業デビュー作ですが、同年に候補作となったトム・フルプの『Alien Hominid』(The Behemoth)やMetanet Softwareの『N』とともにそれまでメインストリームで蔑視されてきたFlashゲームの美学*25を「ゲームの賞に値する作品」として高めました*26

(『GISH』)


 2006年の『Darwinia』(Introversion)は、80年代を想起させるワイヤーフレームを用いたデザインでレトロ・ノスタルジア傾向を示すインディー趣味を先取りするとともに、前年には『Rag Doll Kung Fu』とならんで非Valve製ゲームとしては初めてSteamでリリースされたゲームのひとつとなりました*27。2006年はデザイン部門賞でジョナサン・ブロウの『Braid』が、学生部門で後に『Portal』(Valve, 2007)の原型となる『Narbacular Drop』が受賞したことも大変重要です。

(『Darwinia』)


 2007年の大賞『Aquaria』(Bit Blot)は、フォディ伝でも書いたように、個人ゲーム開発者にとってネットにおける重要なハブだったTIGSource(The Independent Games Source)*28の管理人であったデレク・ユウによるゲームです。彼がここでIGFを獲っていたことがTIGSourceにおいて、ひいては個人ゲーム開発コミュニティにおいて信頼を受ける一因となったことは疑いないでしょう。
 インディー趣味に残した足跡として注目したいのはもう一点、メトロイドヴァニアであったことです。ユウは『洞窟物語』(開発室pixel, 2004)を「インディーゲームのはじまり」に置くほどのメトロイドヴァニア好き*29でした。いっぽう、現在におけるインディーのメトロイドヴァニアの盛況からすると意外の念さえありますが、IGFはそれまでのコンペノミネーションにおいてメトロイドヴァニアに該当するゲームをほとんど取り上げてきませんでした。インディーにおいてメトロイドヴァニアが本格的に隆盛していくのは2010年代中盤からですが、その準備をしたという点においても『Aquaria』は見逃せません。

(『Aquaria』)


 2008年はペトリ・プルホが『Crayon Physics Deluxe』で大賞を受賞したのを始め、部門賞を『World of Goo』(2D Boy)、『Fez』(Polytron Corporation, 2012)、『Audiosurf』(Dylan Fitterer)などの現在にも名を残すインディーの古典たちが揃って獲った年でした。
 
 ちょうど2005年ごろから08年*30にかけて、といえば、Xbox Live ArcadeやPlayStation Netwrkなどコンソール方面でもゲームのダウンロード販売が拡充されてきた時期にもあたります。『Braid』や『World of Goo』、『Castle Crashers』(The Behemoth)などのヒットで「インディーは売れる」という機運が大盛り上がりとまではいかないまでも、ポツポツと匂われてきたころです。ちょうど、ロバート・ロドリゲスやタランティーノが見いだされたころのサンダンスのように……。
 当時はディベロッパーやパブリッシャーがダイレクトにゲームを売りだす仕組みは整備されておらず、マイクロソフトやソニー、あるいはSteamの場合はValveといったプラットフォーマーにそれぞれ認められる必要がありました。好む好まざるにかかわらず、「インディー」は大手資本との折衝を余儀なくされていたのです。*31

 では単にIGF的なるものは大手資本から一方的に搾取されていたのか、といえば、そうとばかりはいえなくて、資本の圏内に閉じ込められている立場を逆手にとって、インディーの側から「ゲーム」の領域を拡張しようとしてもきました。

 そうした試みのひとつが2009年に始まった部門賞「Nuovo Award」(旧称:Innovation Award)です。Nuovo Awardは、より実験的だったり、ゲーム的な慣習に囚われないアーティスティックなゲームを讃えるため部門であり、三代目のIGF議長のブランドン・ゴイヤー曰く、「これまで私たちが考えもしなかった方向に『ゲーム』を拓こうとしている」開発者のための賞です。当時、『Passage』のジェイソン・ローラーなどを中心として盛り上がりつつあったアートゲームのシーンを取り込むための試みともいえるでしょう。

(『Passage』。「アートゲームといえばまずこれ!」と偉い人が行っていた気がする)


 実際、これまでの受賞者にはジェイソン・ローラーを初めとして、Alienmelonことナタリー・ロウヘッド、Cosmo D、Tales of Taleなど、「一般的には知名度が高くないが、アート寄りのインディーシーンでは超大物」という作家たちが名を連ねています。まあ、たまに100万本売り上げるクラスの作家も入りますが。Cactusとか、Messhofとか、ベネット・フォディとかね。
 参入作家や表現の多様化によってハイブロウ/ロウブロウに分かれつつあった(とゴイヤーなどは見ていた)インディーゲーム界をゲームの名のもとに統合することで、全体の生存圏の底上げを図る、という点でIGFはしたたかにやってきたわけです。


 ともあれ、2010年代後半になってくるとインディーのエコシステムは完成されていきます。Devolver、Fellow Traveller、Annapurna、Finji、Panicといった地位を固めたインディーパブリッシャーがIGF参加以前に有望な作品やスタジオと契約を済ます傾向が強まっていくのです*32。かつてはインディーディベロッパーが箔付けしてパブリッシング契約を勝ち取る場だったIGFが、近頃ではインディーパブリッシャーが箔付けのために契約した作品を出す……といった場になりつつあるのかもしれません。それでもまあここ十年の大賞受賞作の半分くらいはディベロッパーの自社パブリッシング作品なところも、らしいといえばらしい。

 映画産業のように大手の傘下にあるインディー部門(子会社)がインディースタジオと契約してパブリッシングを行う……といったことはゲーム業界でもなかったわけではない、というかめちゃくちゃあったわけですが*33、IGF参加作品とは別の力学で動いているようで、IGFが培ってきた独特の文化を感じます。同じアワードにしたって、The Game AwardsのBest Independent Game部門や、BAFTAのBeyond Entertainment部門と受賞作やノミネート作の毛色がまったく違うわけですしね。
 ともかくも、インディー映画産業を夢見て始まったIGFとインディーゲーム産業は、相似形を描いているようで映画とは微妙に違うなにものかになったわけです。なんかテキトーな結論だな。2010年代中盤以降はあんまし熱心に調べてないので、いつか調べます。
 

IndieCadeとスラムダンス

 で、ここからは半分おまけみたいな感じになるのですが、インディー映画を夢見ていたのはIGFだけではないよ、というお話。

 IGFと並び称されるインディー専門フェスとして、2008年から開催されているIndieCadeがあります。デジタルゲームだけでなく、ボードゲームや変形コントローラーゲーム、さらにはインスタレーションに近いものまでなんでも受け付けている懐の広いイベントです。

 IndieCadeについては共同創設者のひとりであるセリナ・ピアースが書いた『IndieCade: A History』という回顧録的な本があり、それを読めばだいたいIndieCadeの概要とヘンさがわかる、あとついでにインディーゲーム史もわかって大変お得です。

(IndieCade。ピアースがAlt+Ctrlという変形コントローラーのフェス出身なのもあってヘンなコントローラーのゲームが多いらしい。ほんとかな)


 さて、ピアースによれば、IndieCadeは南カリフォルニア大学のマルチメディア研究所*34に勤めていたステファニー・バリッシュ(現IndieCade CEO)が、スティーブン・スピルバーグなどと協同してホロコースト(ショア)を題材にしたインタラクティブ・ドキュメンタリーを制作していたときに、既存の映画賞などにそうしたメディアを評価するような受け皿が存在しないのに不満をおぼえたことに端を発します。
 バリッシュは新しいフェスティバル立ち上げのためを同志をつのっていき、そのなかでテーマパークや美術館でインタラクティブ・コンテンツの制作に携わってきたピアースと出会い、USCのメディア芸術学部でインタラクティブ・メディアのプログラムの立ち上げに共に関わることとなります。いってみれば彼女たちは2002年に設立されることになるUSCのインタラクティブメディア&ゲーム学科を準備した教員たちのひとりなわけで、そうした縁もあってか、IndieCadeの初期のボードメンバーにはトレイシー・フラートン*35やケリー・サンティアゴ*36も名を連ねています。
 バリッシュの「インタラクティブ・メディアのためのフェスティバルを」という理念に共感したピアースは彼女ともにフェス開催の準備を始め、その一貫としてトレンドの把握のためにE3の視察へ出かけます。
 そして、そこで見た光景が、ある意味で彼女たちに指針を与えるのです。「アンチE3」というコンセプトを。

 私(ピアース)は、1995年の初年度のE3に参加したときに味わった、胸の沈む思いをいまでも鮮明に覚えている。それは騒々しく、過度に商業的で、過度に男性中心的で、暴力的だった。私の業界はいったい何になってしまったのか。私はそういぶかしんだものだ。初期の多様性と「何でも可能だ」という高揚した興奮は、利益への執着へと取って代わられていた。だが十年後、ステファニーと一緒にE3を訪れたとき、私はあらためて希望を感じた。私たちは、IndieCadeをあらゆる面でE3の正反対にしたいと語り合った。
…(中略)…
 私たちは、巨大なテーマパーク風のブース、シューティングゲーム、騒々しい音楽、そしてブース・ベイブ(呼び込みのためにブースに配置されるセクシーな女性)を擁するE3の対極にあるものを作ろうと決意して帰ってきた。私たちは、マーケティングよりもゲームと制作者に焦点を当てたイベントを作りたかったのだ。

 ――『IndieCade:A History』

 バリッシュは「インタラクティブ・メディアとゲームのためのサンダンスを」と語っていたそうで、そのセリフだけとればIGFのアレックス・ダンの掲げた「われわれのサンダンスを」というキャッチフレーズと酷似しているわけですが、その方向性は正反対のものでした。
「私たちは、マーケティングよりもゲームと制作者に焦点を当てたイベントを作りたかったのだ。」――IndieCadeは主流のゲーム文化に対する真っ向からのカウンターを意識していたわけです。そうした点で、産業をある程度見据えていたIGFとは性格を異にしています。
業界人中心となって発足したIGFと、大学人が中心となって発足したIndieCadeの差でしょうか。とはいえ、当初はE3やPAXといった大規模なゲーム見本市イベントに間借りする形でアートゲームを紹介していたわけで、そこもまた割り切りにくいところではありますが……。

(IndieCadeを象徴するゲームのひとつ、ダグ・ウィルソンの『Johann Sebastian Joust』。Playstation Moveコントローラーを用いた鬼ごっこ的なゲームだとか)


 さて、インディー映画とインディーゲームの結節点を語るのであれば、IndieCadeの共同創設メンバーにはもうひとり、重要な人物がいます。フェスティバル・ディレクターを務めることになるサム・ロバーツです。
 サム・ロバーツはもともとスラムダンス映画祭というインディー映画祭でゲーム部門のディレクターを務めていました。
 1995年に創始されたスラムダンス映画祭はそのパロディめいた名の示すとおり、サンダンスに落選した映画人たちの手弁当で立ち上げられた映画祭です。当時、すでに世界中から数千単位での応募作が集まっていたサンダンスでは自然とクオリティの要求水準が上がっていき、低予算で尖ったあまりに”インディー”すぎる作品は切り捨てられがちになり、そうした作品の受け皿が求められるようになっていました。いってみれば、規模の大きくなりすぎた”インディー”の自己矛盾から誕生したようなフェスティバルです。

『アベンジャーズ:エンドゲーム』のルッソ兄弟や『ヘレディタリー』のアリ・アスターが評価されるきっかけになった*37のもスラムダンスですし、クリストファー・ノーランをアメリカでいち早く評価した映画祭のひとつ*38でもあります。

 そして、映画祭として、というか、ゲームを含めたあらゆるメディアの賞でもかなり早い時期にインディーゲームのカテゴリを作ろうとした賞でもありました*39。2006年に始まったGuerilla Gamemaker Competitionというのがそれで、ロバーツはそこの仕切りを任せていたわけです。
 初回の2006年こそは12のノミネーション作品のなかから『Façade』(Procedural Arts, 2005)*40、『N』、『Cloud』*41など今もインディーゲーム史に残る面々を賞を与え、上首尾に終わりました。


 しかし、翌年の第2回で事件が起きます。
その年のノミネーション作品もそうそうたるメンツが揃っていました。ジョナサン・ブロウの『Braid』、The Behemothの『Castle Crashers』、ジェイソン・ローラーの『Cultivation』、ジェノバ・チェンの『flOw』、ヘンパス・ソダーシュトロム*42の『Tribash』……スラムダンスらしい変わり種では、コンピュータ科学とデジタルメディアの研究者で、コンピュータによる自動生成文学の第一人者でもあるニック・モンフォートのインタラクティブ・ノベル『Book and Volume』までありました。
 そんなノミネーション作品たちのなかに、あきらかに毛色の違うタイトルがひとつだけありました。ダニー・レドンの『Super Columbine Massacre RPG!(スーパーコロンバイン大虐殺RPG!)』です。

(『Super Columbine Massacre!』)


 本作はゲーム制作未経験者だったレドンがコロンバイン高校銃乱射事件を題材に『RPGツクール2000』で作り上げたパロディゲームです。2005年にフリーゲームとしてリリースされ、当初はほとんど話題にならなかったのですが、翌年に哲学者でゲーム研究者のイアン・ボゴストのブログで取り上げられるやたちまち広まり、その過激さや悪趣味さについて大論争を巻き起こしていました。

 ロバーツはその炎上まっ最中のレドンにメールを送ります*43。Guerilla Gamemaker Competitionへの応募をしてほしい、とロバーツは。なるほど、このときのレドンはだれよりもGuerilla Gamemakerの名にふさわしい開発者といえたでしょう。
 そうして、コンペティションのファイナリストに残ったわけですが、しかしそこで映画祭全体のほうのディレクターから待ったがかかり、「遺族感情への配慮」や「素材の無断使用」という理由でファイナリストから取り下げられてしまったのです。
 ゲーム開発者たちはこの動きに怒り、スラムダンスに非難が集中しました。ノミネーションを受けた開発陣たちからも「表現の自由はどうした」「ゲームがシリアスな題材を扱ってはならないのか」といった反発が起き、『Braid』『flOw』『Book and Volume』『Castle Crashers』ら6作品(『Super Columbine』を含めれば7作品)がノミネートを辞退するという異常事態に発展。


 これがいわゆる「スラムゲート」と呼ばれる騒動です。
 Guerilla Gamemaker Competitionのメインスポンサーには南カリフォルニア大学のインタラクティブ・メディア学部もついていたのですが、スラムダンスの運営に不信感を抱いて撤退してしまいました。これはスラムダンスにとっては相当な痛手であったと想像できます。USCのスポンサードを仕切っていたトレイシー・フラートンは前述のとおり、『Cloud』、『flOw』と二年連続でGuerilla Gamemaker Competitionのファイナリストを送り出していたthatgamecompanyのメンターであり、ここでフラートンとUSCの関係を断ち切られるということは、当時芽生えつつあった大学のゲーム専門コース発のアートゲーム/インディーゲームとのコネクションを失うということでもありました。
 それでなくとも開発者コミュニティに与えた反感は修復不可能なレベルにまで深まっていました。結局、この年かぎりでGuerilla Gamemaker Competitionは廃止の憂き目を見ます*44

 映画祭と開発者コミュニティのあいだで板挟みにされた末に放り出されたサム・ロバーツはバリッシュとコンタクトをとり、IndieCade準備チームの一員となったのです。
 ともあれ、スラムダンスのディレクターだったロバーツがIndieCadeの中核メンバーになっているのは興味深い。スラムダンスはサンダンスの傍流として産まれ、規模を拡大しながらもそのポジションをうまく保ってきたのですが、なんとなれば、IndiCadeも”インディー”の本道であるIGFに対する傍流的なポジションとみなせるわけで、図らずも位置取りが似ている。

 さらにいえば、ゲーム開発者たちのスラムダンスからの離反は「映画はどんな題材でも扱ってもいいのに、なんでゲームは制限されるんだ」という無意識の差別への反発からきてもいます。

 すなわち、IndieCadeとは三方面へのカウンターから来ているわけです。
 ひとつは、E3などのゲーム産業におけるメインストリームへのカウンター。
 もうひとつは、IGFというインディーにおけるメインストリームへのカウンター。
 そして、もうひとつが、ゲームを排除してきたメディアや文化のメインストリームへのカウンター。

 多様性を重視し、大学関係のコネクションを中心に築き上げられ、インディーゲームを「収益偏重のマーケティングからではなく、人の心から生まれ、その創造的なビジョンに従うゲームのことである」と定義するIndieCadeは、われわれが想像する「インディー」のイメージ像に最も近いところにいるフェスティバルなのかもしれません。


Indie Game Jam/Experimental Gameplay Workshopにおける〈ドグマ2001〉の神話

 このさいなので、Experimental Gameplay Workshopの話もしましょうか。

「インディー映画をなぞってできたインディーゲームのムーブメント」という点では、Experimental Gameplay Workshop(ExGW, のちにExperimental Gameplay Showcaseに改称)もそういう説明がされがちです。

 ExGWとはGDC内で催されるワークショップで、応募されてきた実験的な試み*45のなされているゲームを制作者がプレゼンしていきます。そうしてお披露目された作品のなか(一部はプロトタイプ状態だったもの)から、ゲーム史を変えるような作品もいくつも出ていたのです。一番有名な例はジョナサン・ブロウの『Braid』。ExGWの主催メンバーでもあった彼は2006年のExGWで『Braid』のプロトタイプをお披露目し、居合わせたひとびとを夢中にさせました。他にも『Portal』、『風ノ旅ビト』、『Untitled Goose Game』、『The Witness』、『Baba is You』、『What the Golf?』、『塊魂』などといった名作群がExGWで取り上げられました*46

 この前身となったのが2002年に始まったIndie Game Jamという業界人有志によるゲームジャムイベントです。いまでこそ用語としては日本でもそこそこ浸透したゲームジャムですが、その走りとなったイベントですね。
 たとえば、日本のゲーム情報サイトでもこんな紹介のされかたをしている。

「ゲームジャム」という言葉を始めて聞く人もいるかも知れないが,この形式のイベントは,2002年にアメリカで行われた。Microsoftやid Software,EA Maxisなどでゲーム開発に従事してきたプログラマー,クリス・ヘッカー(Chris Hecker)氏の提唱によって開催された0th Indie Game Jamが行われており,これが世界最初のゲームジャムと言われる。ヘッカー氏は2001年,「パブリッシャや市場の制約を受けず,自由なアイデアでゲームを作る実験」の必要性を訴えたマニフェスト「Dogma 2001」をGame Developers Conferenceで発表しており,これを実践したのがゲームジャムだったというわけだ。

 わざわざ引用したのは記述にひっかかりがあるからで、それはさておきまずはExGWについて語らねばなりません。

 個人的に、ExGWへ対する興味は、輩出してきたゲーム群よりもその起源にあります。
 というのも、先述の初回のIndie Game Jamに集ったのが驚くべき陣容なのです。すなわち、ダグ・チャーチ、クリス・ヘッカー、ブライアン・シャープ、クリス・カロロ、ジョナサン・ブロウ、ケン・デマレスト、ザック・ブース・シンプソン、マーク・ルブラン、ショーン・バレット、ロビン・ウォーカー、ブライアン・ジェイコブソン、アート・ミン、チャールズ・ブルーム、サッチャー・ウルリッヒ、オースティン・グロスマン、ジャスティン・ホール。
 いずれもひとりひとり経歴をつまびらかにすると、それだけで一記事埋まるほどの傑物ぞろいですが、重要なのはかれらがどういったつながりや属性を持っていたか、ということ。
 かれらの多くはLooking Glass出身で、そこにValveやIon Storm、Originのひとびとが加わっている、といった構成になっています。
 Origin, Looking Glass, Ion Storm……心ある方々にはもうおわかりでしょう。ウォーレン・スペクターです。イマーシブ・シムです。イマーシブ・シムの説明は……めんどくさいな。もう二万字書いてるんですよこっちは。アガーッ(鷺が魚を呑み込むときに似た声)。この記事の冒頭がいい感じにまとまっているので、各自で適宜参照してください。まあ、要するに一つの問題に対してゲーム内環境などを利用した複数の解法(時には開発者自身想定していないものを含む)がある(大抵はアクション)ゲームです。現在では絶滅危惧種とされています。

(マーク・ルブランは『Oasis』というゲームで2004年のIGFの大賞を獲ってもいる)


 で、主催者であったクリス・へッカーはindie game jamに集った開発者たちについてこんな表現をしています

 私たちが選んだのは、いわゆる「Looking Glass派(Looking Glass-School)のデザイナー兼プログラマー」です。Looking Glass Technologiesは、ある種の「アルゴリズムに精通したデザイナー」と「デザインに精通したプログラマー」を育成してきました。そして、私はそれがゲームというアートフォームの未来だと考えています。Looking Glassのゲームをプレイすれば、LGの美学がインタラクティブ性を重視し、それを新しい方法で活用することにあることが分かります。私はGame Developer誌にこのテーマについてのコラムを書いたばかりですが、要するに、ゲームデザインはインタラクティブ性に関わるものであり、インタラクティブ性はアルゴリズムに関わるものです。

 ゲームジャムは短期間にゼロからゲームを作り上げるイベントですが、4日間というかぎられた時間内でかつ一人か二人のチームで一作品を仕上げるには「デザインとプログラミングの両方をひとりで出来る人材」でなければなりませんでした*47。ひとりでデザインと実装にどちらも長けた開発者――それはまさにこれから来たるべき時代の“Indie” 開発者に必要とされる資質でした。また、イマーシブ・シムのような、創発性を要求されるシステムドリヴンのゲームに携わった経験も見込まれたのかもしれません。

(イマーシブ・シムの金字塔とされる『System Shock』)


 おもしろいのは、そういうへッカー自身はLooking Glassの血統ではないこと*48で、会社の垣根を越えたクリエイター同士のリスペクトが垣間見えます。
 へッカーはIndie Game Jamの設立意図についてこう説明します。

 ゲーム業界は実験が足りないと思う。私たちはリスクを避けすぎている。ゲームには多額の金がかかり、パブリッシャーは投資した資金を回収できる妥当な見込みを求める。だから設計は保守的で進歩に乏しいものになってしまう。短期的にはそれが多くの収益をもたらしてきたとはいえ、長期的に見て、このメディアにとって健全だとは思わない。ほかのアートフォームを見れば、実験と、その実験を活かすための仕組みが、もともと組み込まれている。それはときにガレージバンドがサウンドを大手に盗用される場合もあれば、レコード契約を勝ち取る場合もある。映画なら、実験的な映画祭のヒット作が大手スタジオに配給されることもある。アートフォームとしてのゲームは、まだその可能性のほんの表面をかすめた程度のことしかやっていないのに、私たちはもう硬直して保守的になってしまった。

 Indie Game Jamは、実験を促そうとする試みだった。優秀なデザイナー兼プログラマーを大勢一つの部屋に集め、焦点の絞られた、ほぼ枯れたテクノロジーを渡して、何が起こるかを見る。それは、プロのミュージシャンが一つの曲をもとに即興でリフを重ねるジャズのジャムセッションや、その週末のテーマが決められている創作ワークショップのようなものだ。

 IGFでもIndieCadeも予算が大規模化し、技術的に高度化し、しかしそのせいで硬直化してしまったメインストリームのゲーム制作に対するいらだちや反発からのカウンターとしてのインディーに可能性を見いだしていました。その点では、Indie Game Jamも問題意識としては似ています。
 ただ、IGFが業界を俯瞰するジャーナリストやパブリッシャーからの、IndieCadeがアカデミアからのアプローチであったのに対し、Indie Game Jamは業界の現場にいた現役のクリエイターたちからアプローチであったことにその特異性があります。
 その態度は、初回のジャムのテーマにも表れています。それは「かならず10万スプライトを使うこと」。グラフィックを描画するスプライトは70年代から存在したビデオゲームに欠かせない技術で、どちらかといえば昔のゲーム機のスペック的な制約下での省エネに役に立っていました。それが90年代以降の3D全盛時代の到来で脇に追いやられていたわけですが、「10万スプライト」という制約は3Dに費やすようなリソースを今スプライトにぶっこむとしたら? というような、あえての時代錯誤的な実験なわけです。昭和100年的なオルタナヒストリーを創出する試みです。
 メインストリームに対するカウンターとは、ひとことでいえば、今存在している時代に対してオルタナティブな可能性を提示する行為です。IGFはビジネス構造のオルタナティブを夢想し、IndieCadeは(ゲームの形態を含めた)多様性にオルタナティブを打ち出した。Indie Game Jamではなにはともあれ、まず技術。まさに「Looking Glass派」の現役開発者たちの面目躍如ですね。

(第ゼロ回 Indie game jamの様子。たぶんホワイトボードの前にいるのがジョナサン・ブロウ)

 

 で、このIndie Game Jamの成果を報告するために彼らがGDCで始めたのがExperimental Gameplay Workshopのセッションだったわけです。ExGWの運営はクリス・へッカーを筆頭として、Looking Glass派の大物ダグ・チャーチ、のちに『風ノ旅ビト』のプロデューサーとして名を馳せるロビン・ハニケ*49、そして、のちにインディーゲームを代表する作家となるジョナサン・ブロウ、この四人でした。
 ちなみにブロウはLooking Glass系統のスタジオには関わってきませんでしたが、アレックス・ダン編集長時代の『Game Developer』誌には技術関係の連載コラムを持っており、業界内では「技術の人」として一定の知名度があったようです。
 年を経ると、ExGWはIndie Game Jam以外の実験的ゲームにも食指を伸ばすようになり、日本からも『モジブリボン』で松浦雅也を、『塊魂』で高橋慶太*50を招聘し、大いに刺激を受けます。そこのあたりからキュレーションを受けたショーケースとして変容していきました。

 で、なんでしたっけ。インディー映画とのかかわりでしたね。
 ExGWには、よくいわれる「起源」があります。〈ドグマ2001〉です。
 もともと、映画監督のラース・フォン・トリアーとトマス・ヴィンターベアが旗振り役としてぶちあげた〈ドグマ95〉というムーブメントがありまして、まあ要する映画の技法における自然主義を戒律として制度化したもので、当時のインディー映画シーンにおいて一定の指針というか影響を与えていました。まあトリアーやヴィンターベア自身はそうそうに〈ドグマ95〉を放り出しちゃって、映画の出来としてもどちらの監督も非ドグマ系の映画のほうがぜんぜん良いんですが、それはともかくとしてそういうものがある。今も90年代における技術偏重のハリウッド的な映画産業へのカウンターとして記憶されている。
 そして、2001年にやはりゲームの過度なテクノロジー化を憂いていたアーネスト・アダムスというゲームデザイナーが「ゲームでも〈ドグマ95〉をやろうじゃないか」といったようなことを記事に書きました。概要は以下です。

1. 設計文書における対象マシンの外装ケース内部に設置される機器に関する記述の禁止。
2. ハードウェアによる3Dアクセラレーションの使用の禁止。
3. 使用できる入力デバイスの制限。
4. 騎士、エルフ、ドワーフ、ドラゴンの禁止。
5.特定のゲームジャンルの禁止:。一人称視点シューティングゲーム、横スクロールゲーム、「特殊攻撃」のあるアクションゲーム。また、20世紀または現在の軍用車両のシミュレーション、テレビで定期的に生中継される類いのスポーツのシミュレーション、戦争と武器生産のみに焦点を当てたリアルタイム戦略ゲーム、鍵と錠前を使ったアドベンチャーゲーム、数字を多用するロールプレイングゲーム、および『Hoyle's Rules of Card Games』*51に記載のあるカードゲーム。
6. ムービー、カットシーン、その他インタラクティブでない動画の禁止。
7. 暴力描写の制限。
8.単純化された善悪の対立の禁止。
9.リアリスティックなゲームにおける、論理的でない、または常識的でない事象の発生の禁止*52
10.人工物や危険な架空の非人間生物を描写するために黒色を用いることの禁止。

〈ドグマ95〉自体もそうですが、キリスト教圏の人間はモーセの十戒のパロディが大好きであり*53、アジア人には冗談なのか本気なのかときどき見分けがつきません。
 アダムスの〈ドグマ2001〉もまあ、当時の「ゲームあるある」についての当てこすりみたいなところもあります。実際、あとで「皮肉として書いた」というようなことを吐露していますし。愉快なのはアダムス自身がアメフトゲームの『Madden』シリーズに長らく関わっていて、自ら戒律の5番目である「テレビで定期的に生中継される類いのスポーツのシミュレーションの禁止」に反しているところでしょう。ゲーム業界に対する当てこすり的な皮肉だけではなく、そこに身をおかざるをえない我が身への自虐も含まれていたわけです。

 さておきつ、この〈ドグマ2001〉がIndie Game Jamの礎になったという説があります。これまで「インディー映画の翻訳としてのインディーゲーム」を推し進めてきた本稿には魅力的な話です。

 たとえば、先に引用した4gamerの記事では「ヘッカー氏は2001年,「パブリッシャや市場の制約を受けず,自由なアイデアでゲームを作る実験」の必要性を訴えたマニフェスト「Dogma 2001」をGame Developers Conferenceで発表し」とあり、その記事を参照した学術テキストには「最初のゲームジャムである0th Indie Game Jam はゲーム業界を代表する産学の開発者によって行われたもので、その中には映画運動「ドグマ 95」にインスパイアされた「Dogma 2001」の提唱者も含まている*54インディペンデントゲーム運動」とあります。

 美しい物語です。IGF、IndieCade、ExGW(IGJ)、あらゆるインディーゲーム・ムーブメントの起源はインディー映画に通ず。すべてがすっぽりおさまります。こんなダラダラながながと益体もまとまりもない文章を書き連ねてきた甲斐があるというものです。
 インディーってほんとうにいいもんですねえ、それではみなさん今日はこのへんで、サイナラ、サイナラ、サイナラ……。
 

 いや、おかしい。

 あなたがこれまで記事を読んできて意識を朦朧とさせていないかぎり、記述にムジュンがあることに気づくはずです。
「ヘッカー氏は…(中略)…マニフェスト「Dogma 2001」をGame Developers Conferenceで発表し…」「その中には映画運動「ドグマ 95」にインスパイアされた「Dogma 2001」の提唱者も……」
 
 クリス・へッカーは、〈ドグマ2001〉の提唱者ではない。
 それはアーネスト・アダムスのはずではなかったか。

 そして、Indie Game Jamイベント開催を伝えるアダムスの記事にも〈ドグマ2001〉がIndie Game Jamに直接的なインスピレーションを与えたなどという事実はひとことも言及されていません。へッカーにインタビューまでしてあるのに。
 いったい、どういうことなのか。


 Wikipediaです。


 こういうときは、だいたいいつも、Wikipediaがわるい。


 現状の英語版Wikipediaの「Indie Game Jam」の項目にはこう書かれています。

「このイベント(IGJ)の着想は、クリス・ヘッカーとショーン・バレットによるもので、[7][5] 彼らはもともと、技術に頼らずにゲームを作ろうとする〈ドグマ2001〉チャレンジを2001年のGame Developers Conference(GDC)向けに提示していた。[7][8] IGJでは、その逆のアプローチがとられた。[9]」
 
 たしかにへッカーが〈ドグマ2001〉の提唱者のように書かれている。ソースもある。ソースの中身は? 先ほど引いたアダムスによるIGJ初開催報告&へッカーインタビューの記事、それとウィル・デイモンというひとがIntelの公式サイトに書いた技術解説記事です。
 アダムスの記事のほうは別に「へッカーが〈ドグマ2001〉を提唱した」ということは述べられていません。記事の内容を要約すると「おれが前にいった〈ドグマ2001〉のテーゼを逆転させたようなゲームジャムがあったぜ!」というようなものであり、それ以上ではありません。わざわざ、「へッカーとバレットがブレインストーミングをしているときに初回のIGJのアイデアをおもいついた」と起源まで書いてさえいる。アダムス自身が言っているように〈ドグマ2001〉は「技術をなるべく行使しない」という禁欲的な戒律であり、技術を弾けさせまくるIndie Game Jamとは正反対です。だからこそ、アダムスは「逆転させたような」といっている。
 この時点で仮に接点があったとしても「Indie Game Jamが〈ドグマ2001〉に則っている」と主張するのは無理があるのですが、まあ、それでもどこかでへッカーが「〈ドグマ2001〉にインスパイアされた」と証言しているのなら、まだインディー映画とインディーゲームの接続は救われます。
 もうひとつの、Intelのほうのソースでどういう話が載っているかというと……

 GDC 2002 で何か新しいことを試したいと考えた数人のゲーム開発者が集まり、〈ドグマ2001〉チャレンジを考案した。オリジナルの主催者の 2 人、クリス・へッカーとショーン・バレットは、ゲームのアイデアをブレインストーミングしているうちに、最新のPC ハードウェアでリアルタイムにレンダリングできるスプライトの数、そしてさらに重要なことに、そのような膨大な数のキャラクターでどのような種類の面白いゲームを作成できるかについて考え始めた。そうして産まれたのが、Indie Game Jamだった。

 この文章につけられているリンクはやはりアダムスのIGJ開催報告記事で、へッカーとバレットがどうやって初回のIGJのテーマに至ったかについては記事通りのことが書いてあります。問題なのは「何か新しいことを試したいと考えた数人のゲーム開発者が集まり、〈ドグマ2001〉チャレンジを考案した(a few game developers got together and invented the Dogma 2001 Challenge.)」というくだり。inventedっていっちゃってるんだよな。
 好意的に読めば「〈ドグマ2001〉そのもの」ではなく、「〈ドグマ2001〉(に基づいた)チャレンジ企画」を「考案」した、といっているようにも捉えられ……るのか? 英語ってよくわかんないですね。
 いずれにせよ、粗忽なウィキペディアンがはやとちりして、「ヘッカーが〈ドグマ2001〉を作った」とWikipediaに書いてしまい……いや、それでもおかしい部分があるんですよね。「(ヘッカーらが)「Dogma 2001」チャレンジを2001年のGame Developers Conference(GDC)向けに提示していた」ってどこから来たんだろう。
 今回はできうるかぎりIGJについて書かれた資料を漁ってみたんですが、そんな話はどこにもない。どうもアダムスの記事をよくわからない理解していたっぽい。たしかにアダムスよりはへッカーのほうが色々な意味で見映えはするし、〈ドグマ95〉から実験的なインディーのムーブメントへ繋がっていた、と綺麗に筋が通ります。
 しかし、往々にしてきれいに落ちないのが現実というものであり、ぐだぐだのままに終わるのがブログの記事というものであります*55
 四半世紀も前の出来事です。神ならざる身には細かな出来事(しかも当時はあまり重要とおもわれていなかった)を後追いでチェックする術は限られています。もしかしたら、25年前のGDCでヘッカーが「マニフェスト「Dogma 2001」を発表して」いたのを、私、この目で見ました!! というひとが現れるかもしれません。いたら、ぜひ。出てきて欲しい。
私は「Dogma 2001」の帰属先の正誤は大した問題だとおもっていません。もっと大きな問題は、いかなるインディーシーンであれ、当時リアルタイムでその場にいたはずの日本語話者のひとたちが現在も広く閲覧可能な形で、なにがしかの視点に位置付けられたひとつらなりの記録としてまとめていないことです。ほんとうにその場そのときの断片しかない。だから、あとから調べようとすると苦労する。英語圏もウェブ上になにもかも残っているかといえば微妙ですが、そもそもあのひとたちブログブーム始まる前から完全に終わりきった現在に至るまで超メモ魔かつ共有しまくりですからね……こわい。けど助かる。
 とにかく、まあ、そのようにして、インディーゲームとインディー映画の関係についてのオタクブログは終わるのです。たようなら……。

【本日の教訓】

・Wikipediaにテキトーなこと書くな!!!!

*1:まだ絶賛していないキミは是非絶賛しよう!の意

*2:世間的には壺おじさんゲームこと『Getting Over It with Bennett Foddy』を作った人

*3:革新的なアイデアを持つゲームを顕彰する部門。小規模開発のアート寄り作品や斬新なギミックのある作品が受賞する。フォディは2018年に『Getting Over with It』で受賞している

*4:1994年創刊、2013年廃刊。姉妹紙にウェブ版の『Gamasutra』(1997~)があり、2021年からはこちらが『Game Developer』の名を引き継いで運営されている。

*5:訳注:精確には〈Utah/U.S.Filmfestival〉。開催地であったユタ州にちなむ。

*6:編注:精確にはサンフランシスコ国際映画祭(1957年)やニューヨーク映画祭(1963年)が映画祭としては先んじている

*7:編注:映画評論家(1916-1991)。USCを初めとしてさまざまな映画教育機関で教鞭を執り、USCではジョージ・ルーカスやジョン・カーペンターなどを教えたという

*8:1995年から2021年まで行われていたビデオゲームの業界向け見本市イベント。ゲームの展示会としては開始当初から最大かつ最も権威あるものだった

*9:編注:ジャーナリストのジェイソン・シュライヤーはまさに「ゲーム会社と小売りを結びつけるという場」だったことにE3の発展と衰亡の原因があったと語る。2010年代以前のダウンロード販売が発展していなかった時代には、ゲームは物理的なパッケージをゲームショップや大型量販店に陳列して売るしかなかった。E3はその商談のための場という役割が大きかった。また、もうひとつの大きな役割で一般消費者の目に触れやすかったプレスカンファレンスなども当初は業界人向けのビジネスプレゼンの傾向が強かったという。それがダウンロード販売の発達によってパブリッシャーとユーザーが直接結びつくようになると、だんだんとE3は自らの役割を見失っていった。ゲーム史を語る上でこの「小売りの崩壊」の重要性はいくら強調してもしすぎることはない、とシュライヤーは述べている。

*10:編注:「”indie” games」。「インディーゲーム」という単語が用いられた最も初期の例とされている。

*11:1994年、スティーブ・ジェームズ監督。シカゴに在住の高校生ふたりがバスケットボールでプロ選手を目指すさまを追うドキュメンタリー。ドキュメンタリー作品のオールタイムベストのひとつとされ、国際ドキュメンタリー協会の「史上最高のドキュメンタリー映画」で一位に選ばれたこともある

*12:1989年、スティーブン・ソダーバーグ監督。デビュー作にしてソダーバーグを史上最年少の26歳でカンヌ受賞作家にしたインディー映画の特異点。

*13:1994年、テリー・ズワイゴフ監督。アングラコミックの巨匠、ロバート・クラムについてのドキュメンタリー。これも史上最高のドキュメンタリー映画のひとつとして数えられている。

*14:1994年、ケヴィン・スミス監督。アメリカのインディー映画を象徴する存在、ケヴィン・スミスのデビュー作。サンダンスで注目され、ミラマックスとの契約につながった

*15:1995年、エドワード・バーンズ監督。バーンズのデビュー作にしてその年のサンダンスの大賞受賞作。

*16:1990年、ジェニー・リヴィングストン監督。80年代末のNYのドラァグ文化に密着したドキュメンタリー。クィア映画の大古典。

*17:原文には実際のメアドが記載されている。失効しているとおもうが、まあ載せないでおく。

*18:元Ion StormのCEOであるマイク・ウィルソンを中心として結成されたパブリッシャー。TGoD自体は中核メンバーの急逝や買収元のTake-twoとの不和などでうまくいかなかったものの、中核メンバーたちがのちにDevolver Digitalを結成し、それが今日のインディーパブリッシャーのトップランナーとなっている。

*19:実際、IGFの開催を宣言した12月号のコラムでダンは「うちの親会社はGDCの親会社でもあるから、説得は簡単だった」と明け透けに匂わせています。

*20:2002年の大賞である『Bad Milk』は数少ない例外とされる。もっとも2004年のウェブ/ダウンロード部門の大賞で、ルッキンググラス出身者たちで設立されたMind Control Softwareの『Oasis』などはExperimental Gameplay Workshopに関わったマーク・ルブランも主要メンバーに名を連ねているし、家内制手工業みたいに一家でゲーム作ってたシーマス・マクナリーもいるし、一概に大手作品劣化コピーみたいな扱いをすると何かがこぼれる気もする。

*21:第一回の受賞作『Fire and Darkness』もデモ版で受賞したクチで、当時の他のノミニーはのちのインタビューで「デモ版であいつらが獲ったのが内心納得いかなかった」とこぼしています。

*22:「…IGFによると、1999年のインディペンデントゲームとは何だったのか?フェスティバルの規則は、エントリーは「商業出版社」と「いかなる形でも提携または支援されていない」必要があることを指定していた:「ゲームエントリーは、フェスティバルに参加する時点で、確立された出版社(「商業出版社」)といかなる形でも提携または支援されていてはなりません。商業出版社によって開発、資金提供、またはいかなる形で支援されたゲームエントリーは、フェスティバルに不適格とみなされ、失格となります。[フェスティバル主催者]MFIはすべてのエントラントに商業出版社のリストを提供しますが、そのようなリストはすべてを網羅するものではなく、MFIとフェスティバル管理は、エンティティが商業出版社であるかどうかを決定する権利を留保します。」 これは、配給を確保する場所としての映画祭の概念を反映していた。」, ユール『Handmade Pixels』

*23:リチャード・ギャリオットの『Akalabeth』(1979)やウィリアムズ夫妻の『Mystery House』(1979)はゲームの入ったフロッピーディスクをジップロックに入れて郵送していたというエピソードが有名ですね。初期の「インディー開発者」たちも長らくそうした方法で草の根的に通販するのがふつうで、たとえば同性愛を主題にしたパロディ色の強いRPG『GayBlade』(1992)もLGBTQ向けの雑誌に広告を載せ、フロッピーを発送するというやりかたで売っていました。

*24:ジョナサン・ブロウだったかが「1996年のインターネットではだれも金を払うことなんて想像してもなかった」と語っていた気がする。

*25:90年代のカートゥーンアニメの画風や作風をネットの悪趣味ジョーク文化を通して熟成させ、NewgroundsやKongregateといったFlashポータルで花開いた文化、と私的には解釈しています。『N』はまたもうちょっと違う文脈でしょうが。

*26:当時のインディーゲーム文化を語るうえではFlashゲームも見逃せないところですが、そこらへんは別の場所でする予定

*27:『Rag Doll Kung Fu』が2005年10月、『Darwinia』が12月のリリース

*28:同年にはフォーラム機能も追加してその後の数年間、個人ゲーム開発の中心的なコミュニティとなる

*29:とはいえ当時は「メトロイドヴァニア」という用語はさして一般的ではありませんでしたが

*30:IGFでは2005年頃から初代議長のアレックス・ダンから二代目のサイモン・カーレスらに代変わりしている

*31:マクミランやブロウなどの当時の証言を見ると、「マジでマイクロソフトはムカついた」的なことがいわれていたりする

*32:例外的にAnnapurnaでも2015年のIGF大賞作『Outer Wilds』は受賞後の契約

*33:Electronic Artsのインディー支援レーベルEA Originals(2017~)、Take-TwoのPrivate Division(2017-2024年売却)、RiotのRiot Forge(2019-2024)、バンダイナムコのGYAARスタジオ(2021~)、ParadoxのParadox Arc(2022~)、ActivisionのSierra(2014~)あたり。また大手の内部インディーレーベルとしては『Dave the Diver』を輩出したNEXONのMINTROCKET(2022~)がつとに有名

*34:公式サイトの説明によれば、1998年に当時USCのメディア芸術学部の学部長だったエリザベス・デイリーがジョージ・ルーカスとの対話をきっかけに設立した、デジタルメディアについてのリテラシーを探求するための組織

*35:USCインタラクティブ・メディア&ゲーム学科の初期からの教員で、アドバイザーとしてジェノバ・チェンやケリー・サンティアゴの『flOw』などを指導。自身も開発者として『Walden』(2017)などを制作。

*36:『風ノ旅ビト』などを開発したthatgamecompanyの共同創設者でUSCインタラクティブ・メディア&ゲーム学科の卒業生

*37:両者とも短篇作品でフックアップを受けたりバズったりした

*38:初長編『フォロイング』がサンフランシスコ映画祭と並んでスラムダンスで受賞

*39:たとえば、現在ゲームの賞もやる映画祭として最も著名なのは英国アカデミー賞(BAFTA)ですが、革新的な(つまりはインディー寄りの)ゲームを評価するGame Beyond Entertainment部門を設置したのは2017年のことです

*40:会話部分にAIを用いたインタラクティブ・ドラマ

*41:thatgamecompanyの初期作

*42:Cactusとは関係ない人

*43:前段階として、ボゴストから「スラムダンスに送るべき」という説得を受けて、レドンがスラムダンスに応募資格の問い合わせを行っていた。

*44:その後、2019年にスラムダンスは「デジタル・インタラクティブ・ゲーミング」のカテゴリを創設し、ふたたびゲームを賞の対象とするようになった

*45:公式サイトの説明に依れば「実験的」とは1.メカニズムを通じて、予期せぬプレイ体験を生み出したり、プレイヤーに独特の感情を抱かせたりする。 2.生成的なゲーム(Generative Games)。すなわち、プレイヤーの選択に基づいてゲームプレイや世界が変化するゲーム。3.創発的なゲームプレイのあるゲーム。すなわちゲームシステムが相互作用して予期せぬ状況を生み出すもの。4.インタラクティブなストーリーテリングのあるゲーム。明確な「分岐点」とは対照的に、プロットやセリフが細かく変化するもの。5.革新的なユーザーインターフェースを持つゲーム。自然言語処理、画像認識、ジェスチャー制御、新しいハードウェアデバイス。6.斬新なマルチプレイヤーインタラクションのあるゲーム。

*46:https://docswell.com/s/s-yamane/5223N7-20220428

*47:脚本が本業でプログラミングのできないグロスマンは例外であったらしい

*48:元マイクロソフトで、のちにMaxisに加わり、ウィル・ライトのもとで『Spore』に携わった

*49:ちなみにIndieCadeのフェスティバル・ディレクターであるサム・ロバーツは、ノースウエスタン大学で演劇専攻の学生だったときにハニケから人工知能についての講義を受けていたという縁がある。

*50:のちに『Wattam』で高橋がハニケと組むのはExGWつながりだったのかな、とおもったりもする。よく調べてないのでてきとうですが。

*51:18世紀の作家、エドワード・ホイルが古今東西のカードゲームとそのルールをまとめた本。基本的なトランプゲームはたいがい全部載っているらしい。

*52:要するにカプコン的なセンスの禁止

*53:有名どころではミステリにおける「ノックスの十戒」やフロベールの「フロベールの十戒」

*54:原文ママ

*55:それはそれとして、4gamerでの奥谷海斗氏の連載Access Acceptedは当時のインディーシーンなどがリアルタイムに記録された偉大な資料であり、わたしも普段から大いに参考にさせていただているので、4gamerはなんらかの手段を講じて永久に保存しておくべきだとおもいます。本にして国会図書館に納めるとか。