ゲーム実況で実況者たちが絶叫してるあのゲームです。
タイトルは『Getting Over It with Bennett Foddy』。そう、タイトルになっているひとが、このフォディさん。
一見スロップなネタゲーに見える(そしてその工面はまったく否定できない)『Getting Over It』ですが、実はその裏側に作者の深遠な思想と激動の半生が隠されていたとしたら……?
とはいえ、問題は罪を犯す可能性を心配することではなく、その罪が犯されてすらいないことだと個人的にはおもいます。わたしたちはあまりにインディゲーム作家を作家として扱っていない。興味深いキャラクターであるとさえみなしていない。
現代インディーゲームのアクターたちを作家として語ろうとする試みは、これまでもなかったわけではありません。かつて、今井晋はAutomatonで〈ONE MAN DEV〉というインディー個人開発者の列伝を書こうとしました。今読んでも非常に興味深い記事です。「全五回」だったはずの連載企画がなぜ第二回までで途絶してしまったのかは知りようがないわけですが、しかしもともとが困難に満ちた道であったのはわかる。
2014年の連載なのです。Cactusことヨナタン・ソダーシュトルムにしろ、テリー・キャヴァナーにしろ、まともに書こうとしたら「それまでめちゃくちゃいっぱいFlashゲーム作ってた人が商業で一作(Cactus)か二作(キャヴァナー)すごいゲームを出しました」くらいの材料しかない。そこをおもしろく書き上げたのが〈ONE MAN DEV〉のすさまじさなのですが、つまりは、ですね。ある時期までのインディー作家には絶対的に不足していたわけです。星座を形作れるだけの作品数が。人生の嵩が。
これは当時の在野出身の個人開発者はだいたいそうで、フォディも『QWOP』と『GIRP』は出していたものの、本格的な商業作品デビューはまだ先の時期でした。また、扱うに足る作品数だけが十分であったとしても、それをインディーやゲーム業界の流れの中にどう位置付けて語るか、といった背景の部分でも難しかった。
材料がないならないでどうにかこしらえるのが執筆者の技量ではあるでしょう。残念ながら、わたしにはそこまでの筆力はありません。その時代なりに語られること、語るべきことはあり、それを残すのは貴重な仕事だったのでしょうが、しかしどうしたって伝記だけは書けない。
時代が早すぎた。
〈ONE MAN DEV〉から12年が経ちました。
わたしたちはようやく「インディーゲーム」を振り返られるようになった。十分な材料、十分な背景、十分な嵩が時代が進んだことで単純に蓄積された。それは、かつて信じられていた制度の失効あるいは黄昏を意味しているのかもしれませんが、それよりはわたしはインディーゲーム作家たちが積み上げてきた星霜とそれを記録しようとしつづけてきた〈ONE MAN DEV〉のような執着があったからだと信じたい。
*3:そしてそれは当時のインディーシーンの光の部分だけを映しているわけではありません。連載中に二度、アレック・ホロウカという名前が出てきます。TIGSフォーラムでは中心的な常連のひとりであり、管理人であったデレク・ユウとは『Aquaria』で組んでIGFの大賞を獲った人物です。のちに彼は日本でも『Night in the Woods』のメインクリエイターのひとりとして知られるわけですが、2019年に性的虐待の告発を受けたのち、自殺しました。この問題は、基本的には彼ひとりの病んだメンタリティのせいにされているわけですが、果たしてそうだろうか。アンナ・アンスロピーなどが指摘しているように当時のTIGSやほかのゲーム関係のフォーラムを見ていると「ボーイズクラブ」的な空気があったのは間違いなく(2000年代の日本のインターネットの空気を思い出してもらえればよい)、そこで育まれていたメンタリティというものは確実にあったはずではなかった。ホロウカとの記憶について語ったスコット・ベンソンのメモワールに描かれたホロウカを見たときにまず思い出したのは、『Indie Game: The Movie』に出てきた『Fez』開発者フィル・フィッシュだった。フィッシュもホロウカも気分の上がり下がりが激しく、意に沿わない他人に対して攻撃的で、すぐ「自殺する」と自死を脅迫に使う。このような二人が、かたや今でもインディーゲーム史上の伝説として称えられ、かたや悪に塗れた罪人として葬られる(ホロウカが死んだとき、ユウが距離を取ったよそよそしいコメントを出していたのを憶えている)。『Night in the Woods』のパブリッシャーであったFinjiを率いていたのはアダム・サルツマンで、サルツマンはやはりTIGS常連としてホロウカとは共同開発まで行う旧知だった。パブリッシングもその伝手だったのだろう。とすれば、『Night in the Woods』もTIGSの、2000年代インターネットのボーイズクラブ的な空気とは無縁ではなかったということだ。ベンソンはアレックの問題行動をアダムに報告したとき、「現場で何が起きているのかを話すと、彼らはショックを受けた。なにも知らなかったから。知っているわけがない。外からは順調なように見えていたのだ」と記している。ほんとうにサルツマンは知らなかったのだろうか? デレク・ユウが知らなかったように? 10年来の付き合いだった彼らはホロウカのトキシックさをまったく認知していなかったのだろうか? できていなかった、としよう。それはそれで2000年代個人開発インディーシーンのある種の悪弊を示唆している。そして、それはまだ残っているのだ。そこいらじゅうに、TIGSとかつてかかわりをもとうがそうでなかろうが、開発者だろうがプレイヤーだろうが、日本だろうがアメリカだろうが、はびこっているのだ。『Getting Over It』についてフォディが「ポストゲーマーゲートのゲームだ)というとき、『Baby Steps』について「挫折した男性性のゲームだ」というとき、彼もまたそれらの空気と無縁ではなく、内省し、考えつづけていたことを示しているのではないでしょうか。
彼の提言はたちまち業界陣の反響を引き起こし、『Game Developer』誌には翌号からひっきりなしに「ゲームのサンダンス」に関する投書が届くようになりました。
この流れを受けて、なのか、予定されていた仕込みだったのかはわかりませんが、ダンはディベロッパー本位を掲げる新興パブリッシャーのThe Gathering of Developers*18と手を組み、第一回のIndependent Games Festivalの設立と開催の告知を1998年12月号のコラムにて宣言します。
(第一回のIGFの大賞に輝いた『Fire and Darkness』制作チームの面々。大学生や高校生で構成された学生チームだったらしい。結局、受賞作は製品化されず、チームメンバーたちもその後ゲームづくりから離れたものの、なんか作った会社をAppleに売却したりして社会的には成功しているらしいです。才能というのはどこかで帳尻が合うものですな)
2005年に大賞を受賞した『GISH』(Chronic Logic)は後に『Super Meat Boy』や『The Binding of Isaac』でインディー作家の象徴的存在となるエドマンド・マクミランの商業デビュー作ですが、同年に候補作となったトム・フルプの『Alien Hominid』(The Behemoth)やMetanet Softwareの『N』とともにそれまでメインストリームで蔑視されてきたFlashゲームの美学*25を「ゲームの賞に値する作品」として高めました*26。
(『GISH』)
2006年の『Darwinia』(Introversion)は、80年代を想起させるワイヤーフレームを用いたデザインでレトロ・ノスタルジア傾向を示すインディー趣味を先取りするとともに、前年には『Rag Doll Kung Fu』とならんで非Valve製ゲームとしては初めてSteamでリリースされたゲームのひとつとなりました*27。2006年はデザイン部門賞でジョナサン・ブロウの『Braid』が、学生部門で後に『Portal』(Valve, 2007)の原型となる『Narbacular Drop』が受賞したことも大変重要です。
(『Darwinia』)
2007年の大賞『Aquaria』(Bit Blot)は、フォディ伝でも書いたように、個人ゲーム開発者にとってネットにおける重要なハブだったTIGSource(The Independent Games Source)*28の管理人であったデレク・ユウによるゲームです。彼がここでIGFを獲っていたことがTIGSourceにおいて、ひいては個人ゲーム開発コミュニティにおいて信頼を受ける一因となったことは疑いないでしょう。
インディー趣味に残した足跡として注目したいのはもう一点、メトロイドヴァニアであったことです。ユウは『洞窟物語』(開発室pixel, 2004)を「インディーゲームのはじまり」に置くほどのメトロイドヴァニア好き*29でした。いっぽう、現在におけるインディーのメトロイドヴァニアの盛況からすると意外の念さえありますが、IGFはそれまでのコンペノミネーションにおいてメトロイドヴァニアに該当するゲームをほとんど取り上げてきませんでした。インディーにおいてメトロイドヴァニアが本格的に隆盛していくのは2010年代中盤からですが、その準備をしたという点においても『Aquaria』は見逃せません。
(『Aquaria』)
2008年はペトリ・プルホが『Crayon Physics Deluxe』で大賞を受賞したのを始め、部門賞を『World of Goo』(2D Boy)、『Fez』(Polytron Corporation, 2012)、『Audiosurf』(Dylan Fitterer)などの現在にも名を残すインディーの古典たちが揃って獲った年でした。
ちょうど2005年ごろから08年*30にかけて、といえば、Xbox Live ArcadeやPlayStation Netwrkなどコンソール方面でもゲームのダウンロード販売が拡充されてきた時期にもあたります。『Braid』や『World of Goo』、『Castle Crashers』(The Behemoth)などのヒットで「インディーは売れる」という機運が大盛り上がりとまではいかないまでも、ポツポツと匂われてきたころです。ちょうど、ロバート・ロドリゲスやタランティーノが見いだされたころのサンダンスのように……。
当時はディベロッパーやパブリッシャーがダイレクトにゲームを売りだす仕組みは整備されておらず、マイクロソフトやソニー、あるいはSteamの場合はValveといったプラットフォーマーにそれぞれ認められる必要がありました。好む好まざるにかかわらず、「インディー」は大手資本との折衝を余儀なくされていたのです。*31
実際、これまでの受賞者にはジェイソン・ローラーを初めとして、Alienmelonことナタリー・ロウヘッド、Cosmo D、Tales of Taleなど、「一般的には知名度が高くないが、アート寄りのインディーシーンでは超大物」という作家たちが名を連ねています。まあ、たまに100万本売り上げるクラスの作家も入りますが。Cactusとか、Messhofとか、ベネット・フォディとかね。
参入作家や表現の多様化によってハイブロウ/ロウブロウに分かれつつあった(とゴイヤーなどは見ていた)インディーゲーム界をゲームの名のもとに統合することで、全体の生存圏の底上げを図る、という点でIGFはしたたかにやってきたわけです。
Indie Game Jamは、実験を促そうとする試みだった。優秀なデザイナー兼プログラマーを大勢一つの部屋に集め、焦点の絞られた、ほぼ枯れたテクノロジーを渡して、何が起こるかを見る。それは、プロのミュージシャンが一つの曲をもとに即興でリフを重ねるジャズのジャムセッションや、その週末のテーマが決められている創作ワークショップのようなものだ。
IGFでもIndieCadeも予算が大規模化し、技術的に高度化し、しかしそのせいで硬直化してしまったメインストリームのゲーム制作に対するいらだちや反発からのカウンターとしてのインディーに可能性を見いだしていました。その点では、Indie Game Jamも問題意識としては似ています。
ただ、IGFが業界を俯瞰するジャーナリストやパブリッシャーからの、IndieCadeがアカデミアからのアプローチであったのに対し、Indie Game Jamは業界の現場にいた現役のクリエイターたちからアプローチであったことにその特異性があります。
その態度は、初回のジャムのテーマにも表れています。それは「かならず10万スプライトを使うこと」。グラフィックを描画するスプライトは70年代から存在したビデオゲームに欠かせない技術で、どちらかといえば昔のゲーム機のスペック的な制約下での省エネに役に立っていました。それが90年代以降の3D全盛時代の到来で脇に追いやられていたわけですが、「10万スプライト」という制約は3Dに費やすようなリソースを今スプライトにぶっこむとしたら? というような、あえての時代錯誤的な実験なわけです。昭和100年的なオルタナヒストリーを創出する試みです。
メインストリームに対するカウンターとは、ひとことでいえば、今存在している時代に対してオルタナティブな可能性を提示する行為です。IGFはビジネス構造のオルタナティブを夢想し、IndieCadeは(ゲームの形態を含めた)多様性にオルタナティブを打ち出した。Indie Game Jamではなにはともあれ、まず技術。まさに「Looking Glass派」の現役開発者たちの面目躍如ですね。
(第ゼロ回 Indie game jamの様子。たぶんホワイトボードの前にいるのがジョナサン・ブロウ)
で、このIndie Game Jamの成果を報告するために彼らがGDCで始めたのがExperimental Gameplay Workshopのセッションだったわけです。ExGWの運営はクリス・へッカーを筆頭として、Looking Glass派の大物ダグ・チャーチ、のちに『風ノ旅ビト』のプロデューサーとして名を馳せるロビン・ハニケ*49、そして、のちにインディーゲームを代表する作家となるジョナサン・ブロウ、この四人でした。
ちなみにブロウはLooking Glass系統のスタジオには関わってきませんでしたが、アレックス・ダン編集長時代の『Game Developer』誌には技術関係の連載コラムを持っており、業界内では「技術の人」として一定の知名度があったようです。
年を経ると、ExGWはIndie Game Jam以外の実験的ゲームにも食指を伸ばすようになり、日本からも『モジブリボン』で松浦雅也を、『塊魂』で高橋慶太*50を招聘し、大いに刺激を受けます。そこのあたりからキュレーションを受けたショーケースとして変容していきました。
さておきつ、この〈ドグマ2001〉がIndie Game Jamの礎になったという説があります。これまで「インディー映画の翻訳としてのインディーゲーム」を推し進めてきた本稿には魅力的な話です。
たとえば、先に引用した4gamerの記事では「ヘッカー氏は2001年,「パブリッシャや市場の制約を受けず,自由なアイデアでゲームを作る実験」の必要性を訴えたマニフェスト「Dogma 2001」をGame Developers Conferenceで発表し」とあり、その記事を参照した学術テキストには「最初のゲームジャムである0th Indie Game Jam はゲーム業界を代表する産学の開発者によって行われたもので、その中には映画運動「ドグマ 95」にインスパイアされた「Dogma 2001」の提唱者も含まている*54インディペンデントゲーム運動」とあります。
たしかにへッカーが〈ドグマ2001〉の提唱者のように書かれている。ソースもある。ソースの中身は? 先ほど引いたアダムスによるIGJ初開催報告&へッカーインタビューの記事、それとウィル・デイモンというひとがIntelの公式サイトに書いた技術解説記事です。
アダムスの記事のほうは別に「へッカーが〈ドグマ2001〉を提唱した」ということは述べられていません。記事の内容を要約すると「おれが前にいった〈ドグマ2001〉のテーゼを逆転させたようなゲームジャムがあったぜ!」というようなものであり、それ以上ではありません。わざわざ、「へッカーとバレットがブレインストーミングをしているときに初回のIGJのアイデアをおもいついた」と起源まで書いてさえいる。アダムス自身が言っているように〈ドグマ2001〉は「技術をなるべく行使しない」という禁欲的な戒律であり、技術を弾けさせまくるIndie Game Jamとは正反対です。だからこそ、アダムスは「逆転させたような」といっている。
この時点で仮に接点があったとしても「Indie Game Jamが〈ドグマ2001〉に則っている」と主張するのは無理があるのですが、まあ、それでもどこかでへッカーが「〈ドグマ2001〉にインスパイアされた」と証言しているのなら、まだインディー映画とインディーゲームの接続は救われます。
もうひとつの、Intelのほうのソースでどういう話が載っているかというと……
GDC 2002 で何か新しいことを試したいと考えた数人のゲーム開発者が集まり、〈ドグマ2001〉チャレンジを考案した。オリジナルの主催者の 2 人、クリス・へッカーとショーン・バレットは、ゲームのアイデアをブレインストーミングしているうちに、最新のPC ハードウェアでリアルタイムにレンダリングできるスプライトの数、そしてさらに重要なことに、そのような膨大な数のキャラクターでどのような種類の面白いゲームを作成できるかについて考え始めた。そうして産まれたのが、Indie Game Jamだった。
この文章につけられているリンクはやはりアダムスのIGJ開催報告記事で、へッカーとバレットがどうやって初回のIGJのテーマに至ったかについては記事通りのことが書いてあります。問題なのは「何か新しいことを試したいと考えた数人のゲーム開発者が集まり、〈ドグマ2001〉チャレンジを考案した(a few game developers got together and invented the Dogma 2001 Challenge.)」というくだり。inventedっていっちゃってるんだよな。
好意的に読めば「〈ドグマ2001〉そのもの」ではなく、「〈ドグマ2001〉(に基づいた)チャレンジ企画」を「考案」した、といっているようにも捉えられ……るのか? 英語ってよくわかんないですね。
いずれにせよ、粗忽なウィキペディアンがはやとちりして、「ヘッカーが〈ドグマ2001〉を作った」とWikipediaに書いてしまい……いや、それでもおかしい部分があるんですよね。「(ヘッカーらが)「Dogma 2001」チャレンジを2001年のGame Developers Conference(GDC)向けに提示していた」ってどこから来たんだろう。
今回はできうるかぎりIGJについて書かれた資料を漁ってみたんですが、そんな話はどこにもない。どうもアダムスの記事をよくわからない理解していたっぽい。たしかにアダムスよりはへッカーのほうが色々な意味で見映えはするし、〈ドグマ95〉から実験的なインディーのムーブメントへ繋がっていた、と綺麗に筋が通ります。
しかし、往々にしてきれいに落ちないのが現実というものであり、ぐだぐだのままに終わるのがブログの記事というものであります*55。
四半世紀も前の出来事です。神ならざる身には細かな出来事(しかも当時はあまり重要とおもわれていなかった)を後追いでチェックする術は限られています。もしかしたら、25年前のGDCでヘッカーが「マニフェスト「Dogma 2001」を発表して」いたのを、私、この目で見ました!! というひとが現れるかもしれません。いたら、ぜひ。出てきて欲しい。
私は「Dogma 2001」の帰属先の正誤は大した問題だとおもっていません。もっと大きな問題は、いかなるインディーシーンであれ、当時リアルタイムでその場にいたはずの日本語話者のひとたちが現在も広く閲覧可能な形で、なにがしかの視点に位置付けられたひとつらなりの記録としてまとめていないことです。ほんとうにその場そのときの断片しかない。だから、あとから調べようとすると苦労する。英語圏もウェブ上になにもかも残っているかといえば微妙ですが、そもそもあのひとたちブログブーム始まる前から完全に終わりきった現在に至るまで超メモ魔かつ共有しまくりですからね……こわい。けど助かる。
とにかく、まあ、そのようにして、インディーゲームとインディー映画の関係についてのオタクブログは終わるのです。たようなら……。
SNMについてビデオゲーム的な観点からの解釈を試みたキャスリン・ユウは、作品のゲーム的な装い(その多くはSNMの初演後に広まった要素だ)に反して「『Sleep No More」は明示的な勝利を目指すゲームでも、解決を意図したパズルでもない」と看破し、特にゲーマーにおけるSNMに対する失望やゲーマー的な欲望が劇の体験に及ぼす悪影響について触れている*7。
必然的にリピーターの増えるSNMの構造にあって、かれらは物語の構造やシーンや隠された意味を研究して舞い戻り、「ゲームとして攻略」しようと意気込んだ。そして、前回のプレイからなにかしらの「進展」を得られないと、失望して去っていった。