きのう、またマンダレーに行った夢を見た。
ーーアルフレッド・ヒッチコック監督『レベッカ』

消えろ消えろ束の間の灯し火
日本では禁じられた暗度だった。
文字通り一寸先すら視えない。きっと、消防法はこの完全な暗さを気に入らないだろう。
たとえ法で規制されてなかったとしても、日本人は暗がりを恐れる。わたしもまた恐れる。陰翳礼讃とはいうけれど、谷崎が「必須の条件」に数えていたのは「或る程度の薄暗さ」だ。「或る程度」の。これほどの、ではない。動こうとすると足を絡め取ってくるような濃さの闇では。
勇を鼓しつつおずおず足を踏み出す。すこしすると、虚空に赤々として浮かぶ炎に出逢う。ロウソクだ。点々と、どこかへと続いている。そのつかの間の灯火を頼りに進む。次第に闇の濃度が薄れはじめ、角を曲がると、洒落たジャズエイジ風のバーが出迎えてくれる。
「マンダレイ・バーへようこそ」。看板にはそうある。

マンダレイ。密やかで瀟洒で、わたしたちのもう戻ることのできない、あのマンダレイ。
バーでモクテルを頼んでしばらく所在なくだらけていると、店員から呼ばれて奥の部屋へと通され、仮面を手渡される。その仮面をかぶるとあなたは不可視の存在になる。喋るな、ただ視ろ、聞け。亡霊になれ、ということだ。やがてエレベータに乗せられ、他の亡霊たちとどこかに運ばれていく。あたりを欺くのだ、偽りの心のたくらみは、偽りの顔で隠すしかない*1。エレーベータの添乗員であるホテルマンはなにごとかをつぶやいているが、韓国語なのでわからない。やがてどこかの階層に到着する。降りるようにうながされる。そこもまた、薄暗い闇。
古ぼけたエレベータから一歩踏み出すと、そこは1930年代のアメリカだかスコットランドだかの路地だ。視界の左右にはさまざまな店が軒をつらねている。お菓子屋、仕立て屋、葬儀屋、動物の骸骨がガラスケースに並べられたなにか、ピンク色で装飾された一室、シャワールームを備えたモーテル。
何者かが路地の奥から駆けてくる。目の前を通り過ぎて、うしろに従えた大勢の仮面たちを従え、こちら側の闇へと消える。
なんなのか。
ある一角で、わずかに開いたドアから光が漏れていた。覗くと、数名の仮面たちに囲まれた男が見える。なにやら緊張した面持ちをしている。彼は、ゆっくりと居並ぶ幽霊を見渡して、
わたしと目が合う。
男はゆっくりとこちらへ手を差し伸べる。来い、と手招いているようでもあった。
わたしはオフィスのドアをおそるおそる押す。黒胡桃材の扉がかそけく鳴き、机に置かれた無骨なタスクランプの傘越しに、差し出されたその手を握る。男の名前も知らない。この場所はなんなのか。どのような流れで男と幽霊たちがここにいるのか。なぜ招かれたのか。なにも知らない。
あるツールボックスの引き出しを開けるように促され、開けるといくつか卵が入っている。そのうちのひとつを手に取ると、別の部屋へと誘われる。暗室だ。洗濯バサミにはさんでつるされた十数葉の写真はいずれも鳥の死体か卵を写してある。意味がわからない。わからないままに、男に卵を持った側の手を取られ、ソラマメのような形の金属トレイの上に。
男がなんの予告もなく、勢いよくわたしの手を叩いた。掌中にあった卵が、ぱきッ、と砕ける。
割れた卵のなかから紫色の粉末が煙のように吹き出し、トレイへと流れ落ちる。謎めいた卵への思考を巡らす間もなく、次の展開が生じる。エッ、と、きゅうに男がえずきだして、エッ、エッ、エッ、と腹を抱えて喉を鳴らす。なにかを吐き出そうとしている。エッ、エッ、エッと。
男は眼を見開きながら手を自分の口につっこみ、よだれまみれの黒く細長い物体をひきずりだし、トレイに置く。見る。羽根だ。黒い鳥の、羽根。ねっとりとしたよだれが室内光を反射して、あやしく輝いている。その魔術めいた雰囲気に惹かれて、わたしは無意識に手を伸ばそうとするが、やめろ、と男に腕を掴まれ、身体が固まる。壁に身体を押しつけられる。吐息の熱を感じられるほどの近さまで男の顔が寄る。困惑と恐怖が深く刻まれた顔。
その顔が、問う。
「おまえは……何者だ?」
昼の世界の善きものたち

『Sleep No More』はイマーシブ・シアターと呼ばれる観客参加型の演劇、その先駆とされる作品だ。イマーシブ・シアターとは、まあ、ステージという垣根を失くし、観客が舞台となる場所を自由に移動して役者やプロップなどを間近に観察できる劇だとさしあたりは考えてくれればいい。
仕掛け人はフェリックス・バレット率いるPunchdrunk。2000年代初頭、英国エクセター大学の学生だったバレットは、既存の建物を利用しつつその環境に重点を置いたアプローチを行う演劇について模索していた。そうしていくつかの作品を制作する過程で、断片的なストーリーテリング、ループ構造、仮面を用いた観客の匿名化及び演者との差別化などの手法をおもいつき、それらの総決算となる作品を2003年に世へ問うた。
それが『Sleep No More』だ。最初は予算3万ポンド程度のプロダクションで、観客の規模も慎ましやかだったものの、その少ないファンのなかに英国の誇るナショナル・シアターの関係者がいたから運命が変転する。
2009年のボストン公演を経て、決定版となる2011年のニューヨーク公演で大反響を呼び、以後同地で14年に渡るロングランを達成した。*2
そして、ニューヨーク公演終了後はアジア方面にも展開されていった。上海へ。ソウルへ。

わたしはそのソウル公演に来ていた。映画の街、忠武路の駅前にそびえた〈マッキタン・ホテル〉はかつて当地のランドマークだった映画館「大韓劇場」のビルを利用したもので、それは映画産業の終わりと次に来るものを予言しているようですらあった。かつて娯楽の王であった映画を殺し、その玉座を簒奪したイマーシブシアターという呪われた血縁……。
とはいえ、新顔ではない。初演から23年経っている。NY版から数えても15年。ジャンルを指し示すことば自体が存在しなかったころから演じられ、フォロワーたちを、そのフォロワーのフォロワーたちを産んだ。
今ではイマーシブシアターはありふれている。そのどれもが「没入」的な体験を約束してくれる。ここではないどこかへと誘い、これではないなにかをくれる、という。わたしたちはその謳い文句を信じない。映画、演劇、テーマパーク、VR、リアル脱出ゲーム、ARG……似たような約束をしてきた第一から第九までの芸術ことごとくに裏切られ、十番目の芸術であるゲームまで心もとないとなれば、どうして信じられるだろうか。ここはどうしようもないほどにここであり、これはかけらも疑えないほどにこれだ。
フェリックス・バレットの約束はシンプルだった。
「広さ約8万平方フィート、100を超える部屋、6つのフロア、その80%は完全なる暗闇。
きみはどこへでも好きなところへ行ける。
ぼくらはきみになにをすべきか、絶対に告げない。」*3

路地のフロアでは、つねになにかしらの出来事が起こっている。
魔女のひとりが観客のひとりを菓子屋に連れこんで、飴を与えるふりをしてからかっている。その隣の探偵事務所らしき建物では、さきほど黒い羽根を吐き出した男性が隣の女性と鹿爪らしい顔で一葉の写真へ見入っている。ふたつの建物のあいだからそれらのシーンへ交互に目をやっている自分の背後を、これまでの30分間に一度も見かけなかった若い男性がなにやら焦った様子で早足に通り過ぎようとしている。そして、その男の進路方向の反対側から、ベルの鳴る音が聞こえた。
どこに行けばいいのか。なにを見ればいいのか。『Sleep No More』は絶対に告げてくれない。仮面を与えられたときに与えられたルールはせいぜい3つか4つだ。仮面を外すな、喋るな、ひとりでいろ。
ほかはなにひとつ教えてもらえない。どの部屋に入ってよくて、どの部屋に入ってはいけないか、室内の家具や物に触っていいのか、階段は使っていいのかどうなのか、トイレに行きたいときはどうすればいいかーーなにひとつ。
もっともわかりやすい選択肢は、役者についていくことだ。仮面をつけていない人物たちが四六時中動き回り、ほかの人物たちと身振り手振りやダンスで掛け合いを行う。かれらのいずれかについてまわれば、とりあえずはなにかが起こる。話を理解できるようになる。
そんな淡い期待を抱いて、名前も知らないだれかのあとを追う。そのだれかはある部屋で別のだれかと遭い、別れる。ふとここで、ふたつの選択肢が生じたことに気づく。今までつけてきた人物を追いつづけるか、それとも別れたもうひとりを追うか。いや、もっともある。あるいは、この場に留まり、つぎに部屋へとやってくる人物を待ち受ける。あるいは、部屋から出て、ふたりのどちらも追わないという道もある。あるいは、なにもしない。あるいは……。
気づく。我が身はひとつしかない。行動もひとつしか選べない。この一回の体験のなかで、選べる道はひとつだけなのだ。迷いと焦りが同時に襲ってくる。ひとつのシーンを見るということは、同時に展開されている他のすべてのシーンを見られないということも意味している。なんと残酷なことだろうか。この選択は絶対に間違ってはいけない。

しかし、どうやって正誤を知ればいいのだろう?
そもそも正解なんてものが存在するのかもわからない。眼の前の物語がどういう話か皆目わからず、なにが謎なのかすら謎という状況なのだ。しばらくすれば、だいたいのあらすじを把握できるものとおもっていた。エンターテインメントのコンテンツとはそういうふうにできているものだ。わかるように。最初はわからなくても、いずれわかるように。
ところが、開幕一時間経っても目に見えるものがなにひとつわからない。
メイドがある部屋の掃除して、きゅうにひとつの写真に目を留める。なぜかはわからない。
魔女がナイフとフォークで茶色いゼリー状の物体を食べている。なぜかはわからない。
全裸の男(そう、全裸だ)がベッドの上に座ってうなだれている。なぜかはわからない。
あらゆる場面が断片的で、抽象的だ。セリフらしいセリフがほぼない。説明もない。記憶に定着しづらい。ヒッチコックの『レベッカ』でジョーン・フォンテインが願ったように、記憶も瓶に入れて蓋できるといいのに、とおもう。でも、無理なのかもしれない。ここでのわたしは幽霊だ。脳につながらない眼しか持たない幽霊。
劇である以上、物語があるはずだ。物語である以上、謎と筋があるはずだ。謎は筋に結び目をつくる。だが、その結び目を、1時間半見てなお、掴みかねている。
Sleep No Moreはゲームなのか

まるでゲームのような体験だ、と多くのひとは語る。
それはまるで『Type Help』(2025)みたいな。『Return of the Obra Dinn』(2017)のような。自分で探索し、自分で発見し、自分で推理していくゲーム。
実際、いくつかのビデオゲーム作品に影響を与えている。たとえば、ウォーキング・シミュレーターでも屈指のヒット作となった、The Fullbright Companyの『Gone Home』(2013)、同スタジオのSF劇『Tacoma』(2017)*4、Cavalier Game Studiosによる館ミステリループものの『The Sexy Brutale』(2017)、Remedyの『Alan Wake 2』(2023)*5あたりはNSMからの影響を公言している。劇評では『BioShock』と重ねられることもあったが、『BioShock Infinite』のリードライターであったケン・レヴィーンはかつて、プレイヤーの自発性の観点からゲームは『Sleep No More』のようなイマーシブシアターに学ぶべきと述べたこともある。

しかしゲームはゲームである以上、万人にわかるストーリーや解決が用意されている。みずからの能動的なかかわりによって不安から解放され、カタルシスを得られる装置。それがゲームだ。
そのようなゲーム的な期待を持って『Sleep No More』に臨むと、肩透かしをくらうことになるだろう。
たとえば、たいていのミステリゲームは焦点となる謎を与えられる。たとえば、『Obra Dinn』だったら目の前で死んでいるこの死体は誰なのか、なぜ、どういった経緯で死んでしまったのか。画面に散りばめられた手がかりを見つけ出し、そこから次の場面につながる意図をたぐりよせていく。開発者のルーカス・ポープは「登場人物同士のノードをつなぐことに腐心した」と制作日誌で語っていた。こうしたゲームの体験は、山登りのようなものだ。ひとつのでっぱりに手をかけ、別の側の腕をおそるおそる伸ばして、次なるでっぱりを探る。手をかけるごとに小さな達成感を得られる。*6
一方で、SNMの体験はそのようにできてはない。たしかについていくキャラは選べるが、なぜそのキャラについていかねばならないかについては論理的な確信を持てない。あるシーンから次のシーンへのつながりを示唆するてがかりを与えられることはほとんどなく、あるシーンでの違和感があとのシーンで回収されることもあまりない。下敷きになった『マクベス』の筋を知っていれば主要キャラの関する行動の予測やシーンの理解はたやすくはなるが、それは単に『マクベス』であったシーンをあてはめているだけの推理とはかけはなれた確認の作業にすぎない。そもそも、『マクベス』の話なら犯人はマクベスと決まっている。
また、極めて精巧に構築された内装やオブジェクト群は一見、漏れなく物語の核心についての秘密を孕んでいるようでいて、大半は実はおぼろげて頼りない。それらはよくてわれわれの部屋に存在するオブジェクトと同程度の情報量しか持たず、悪い場合には過剰に謎めきすぎてわれわれの思考をさらなる混沌へと導く。
受動的に、ただ眼の前の出来事に反射的に反応し、流されていく。それが『Sleep No More』の体験だ。ゲームで一番近い作品でいうのならサム・バーロウの『Immortality』(2022)だろうか。

SNMについてビデオゲーム的な観点からの解釈を試みたキャスリン・ユウは、作品のゲーム的な装い(その多くはSNMの初演後に広まった要素だ)に反して「『Sleep No More」は明示的な勝利を目指すゲームでも、解決を意図したパズルでもない」と看破し、特にゲーマーにおけるSNMに対する失望やゲーマー的な欲望が劇の体験に及ぼす悪影響について触れている*7。
必然的にリピーターの増えるSNMの構造にあって、かれらは物語の構造やシーンや隠された意味を研究して舞い戻り、「ゲームとして攻略」しようと意気込んだ。そして、前回のプレイからなにかしらの「進展」を得られないと、失望して去っていった。
わたしも最初はゲームとして「攻略」しようと目論んでいた。カーテンの裏側を逐一あらため、会話を盗み聞きし、さきほどもまでキャラが熱心に読んでいた本を自分も読み、「物語」を完成させようとした。
けれど、階段の踊り場でへたり込んでハイヒールを履き直す女を自分の足元に見ながら、彼女の物語に思いを馳せたり、その次に起きる出来事をぼんやりとでも予想するのはむずかしい。ノンバーバルで、謎めいたダンスが演技の半分を占めるような演劇で、なにを読み、なにを考えろというのか。そして、その前のシーンで起こったことさえ忘れかけている。シーンの前後の順番もあやふやになっている。
さまよい歩く亡霊さながらに

現に、観客が物語を追うように意図して劇を作っていなかった、と作者のバレットは語っている。コンテンポラリーダンスのダンスカンパニーからスポンサードを受けるために書かれた劇、という出自を踏まえれば、ダンス主体になるのも当然だろう。
しかし、現在のバレットは「一周回って、ショーを見る時には物語を求めるようになっている」という。あまつさえ、ビデオゲームのようにしたいのだとさえ述べる。
今スリープ・ノー・モアを作るとすれば、ニューヨーク版のような形にはならないだろう。汗と喧騒にまみれ、何かを見ても見なくてもどうでもよく、すべてを見尽くすことは不可能である、という作り方ではなくなるだろう。…(中略)…ショーを見て、そのショーの何たるかを精確に知ることができ、追いかけることができ、明るく、熱く、掴みやすく、フィニッシュラインまでサーフしたければできる。でも、もしサーフボードを手放して海に飛び込み、下のサンゴ礁を探索したければ、それもできる。
…(中略)…
現在、私たちはある実験に取り組んでいる。観客にさらなるエージェンシーを与え、自分の夜の体験をコントロールする能力を増幅させるのだ。カメラオペレーターのように受動的に浮遊する幽霊(それがある意味で仮面の役割だ)であるのではなく、観客は今や主人公として、コンテンツ内で起こる出来事を左右する存在になる。ビデオゲームのメカニクスを参照し、ゲームで育った人なら第二の本性として持っているあのボキャブラリー――あなた自身がエンターテインメントの中心にいるという感覚――を真剣に取り込む。
ーーFelix Barret. 2026. ”Sleep No More Testimony”
実際に現在ロンドンで行われているPunchdrunkの新作はそのような「ゲーム的なエージェンシーを持った体験」が味わえるらしい。ゲームを愛するわたしも、ソウルよりもそこに行くべきだったのだろうか?
そうはおもわない。別にロンドン行きの往復航空券がソウル行きの五倍の値段をするから、とかいった理由ではない。
三時間が経ち、最初のSNM鑑賞が終わるころにはもう気づいていた。
わたしは幽霊になりたかったのだ。主人公ではなく。
「汗と喧騒にまみれ、何かを見ても見なくてもどうでもよく、すべてを見尽くすことは不可能である」。
そういうものこそを見たかった。
広大かつ極めて巧妙に造られ、その息遣いまでを信じられ、触れられるようで触れられず、わたしに対して無関心でありながらもその存在を許容しているような、崇高さすら帯びた贋物の世界。
それはおそらく、ゲームにも、映画にも、演劇にもないものだ。関節のタガがハズレてしまったこの世の不条理を慰撫するために生み出された、意味のある一連を成す物語にはないもの。すべてがバラバラに独立してしていると同時にか細くつながっていて、ギリギリで世界の形をなしている空間。
そんな場所で、ただまなざすだけの眼として浮かび、漂いたかった。
VRChatでかつて出遭った「Organism」ワールド以来だろうか。そんな願いをおもいださせてくれたのは。
「お前は何者だ?」というあの最初の問いに、いまならちゃんと答えられる。
ラストシーンを見守る幽霊たちの顔を見渡す。
仮面の穴に縁取られた双眸がどれも爛と輝いている。街なかではまず見られない眼だ。彼岸を覗き見ている眼だ。自分もきっとおなじ眼をしているのだろう。
『No Sleep More』。
そのタイトルは『マクベス』におけるマクベスの有名なセリフにちなむ。後戻りできない、決定的な一線を超えてしまった彼にささやきかける闇からの声だ。意味はこうだ。
「もう眠りはないぞ!」*8。

おまけ
realsynanthrop.com
『Sleep No More』の匿名感想鼎談*9。わたしに「『Sleep No More』めっちゃいいから行ったほうがええで!」と勧めてくれた『Type Help』の日本語版翻訳者フマノさん主宰。あの紹介がなかったら行ってなかったとおもう。感謝。
salmon-butter.hatenablog.com
今回の『Sleep No More』ソウルツアーの同行者、SF(Sexy Fantasyの意)作家の暴力と破滅の運び手さんの体験記。鑑賞直後に感想を言い合えたおかげで、体験を咀嚼しやすくなった。ちんちんの話しかしてなかった気もするけど。感謝。
*1:ウィリアム・シェイクスピア、福田恆存訳『マクベス』新潮文庫、第一幕第七場
*2:5000回に及ぶ公演回数で来場者数200万人以上が記録されたという。https://apnews.com/article/sleep-no-more-closing-new-york-b1635c679665417740cc76a20a216383
*3:https://www.youtube.com/watch?v=8yNMDTBQio0
*4:『Tacoma』にいたっては作中に直接的なオマージュシーンもある
*5:ただし、サム・レイクは「SNMを直接見たことはないが、そのコンセプトに影響を受けた」と述べるに留まっている。
*6:というような話を最近別の場所でした気がする。というような話かな? まあいいや。こっちも読んでね。
*7:Kathryn Yu. 2026. ““PLAYING” Sleep No More.” https://playstorypress.org/books/the-psychgeist-of-pop-culture-sleep-no-more/
*8:福田恆存訳
*9:特定しようとおもえば二手以内でおわるから実質匿名ではない
































