名馬であれば馬のうち

読書、映画、ゲーム、その他。


読書、映画、その他。


37歳のネコは親でもおじさんでもなくて、まるで天使のようだ――映画『化け猫あんずちゃん』について


 さりながら諸君よ、感じやすく、子供のごとく純粋で、おれのように誠実な心の持ち主である諸君よ、いうまでもなく諸君のためなのだ。

 ーーE・T・A・ホフマン、石丸静雄・訳『牡猫ムルの人生観』




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死んだ母親たち、使えない父親たち、外されたネコ。

 なぜネコに頼むのか、という疑問がある。
 アニメ映画『化け猫あんずちゃん』の話だ。

 片田舎に建つ草成寺にすみつく化け猫・あんずちゃんは、寺の和尚さんから彼の孫である小学生、かりんちゃんの世話を頼まれる。かりんちゃんの父は、声が青木崇高*1であることからも察されるようにまあだらしない父親で、借金取りから逃げまわるあいだ、娘を父である和尚さんにあずけたのだった。
 ここにかりんちゃんを取り巻く三世代ぶんの家族があるわけだけれど、「家族」と呼ぶにはあまりにもやる気がない。なぜなら保護者としての親がひとりも存在しない。

 かりんちゃんの父はねんがらねんじゅう借金とりに追い回され、性格も軽薄で、悪い意味で親としての威厳がない。娘からも「哲也」と名前で呼ばれている。続柄が代名詞になる日本語空間においては、ややおちつかない扱いだ。親しみから親を名前で呼ぶ家庭はあるだろうが、かりんちゃんの場合は侮蔑とまではいわないまでも、あきらかに「敬意を払うに値しないから」という含意が読み取れる。

 その父の父でかりんちゃんの一応の預け先になる和尚さんも、小学生の保護者としてはすこし弱い。
 アウトサイダーばかりの劇中では屈指の常識人として描かれ、かりんちゃんことは気に掛けてやさしくしてはあげている。あげているのだが、存在すら初めて知ったばかりの孫にとまどいを感じているのか、じかに接するとなると、おこづかいをあげて町で遊ばせるぐらいのことしかできない。お話を通しても、あまり保護者という感じがしない。
 では、母と祖母はどうなのか。いってしまえば、どちらも死んでいる。特に祖母は原作では健在であり、生きていればかりんちゃんの保護者となりえたはずの存在だったのだが、映画化にあたって死んだことにされてしまった。
 かりんちゃんの母親は、映画化によって追加されたキャラだ。かりんちゃんはこの母親を恋しがり、何度もその想い出を噛みしめ、ついには再会のために地獄までおもむくことになるのだけれど、まあともかく死んでしまっている。

 父親たちは頼りなく、母親たちは喪われている。そんなかりんちゃんの「めんどうを見る」存在としてあらわれるのが、化け猫あんずちゃんである。

 それにしても、なぜネコなのか。
 フィクションにおけるのネコの表象といえば、自由・無責任・孤高あたりだろうか。
 たとえば、『ヤニねこ』の主人公ヤニねこはヤニを空気のように吸って生きているだけの社会不適合者だが、ネコである。こうしたキャラクターは、他の動物では成立しない。タバコをくゆらせているドーベルマンは警察関係者なんだろうな、という印象を抱かれるだろうし、ペンギンがシーシャを吸っていると潜水能力に影響するのではないか、とハラハラされる。

(にゃんにゃんファクトリー『ヤニねこ』講談社


 実際、『化け猫あんずちゃん』の共同監督のひとりである久野遙子もパンフレットのインタビューでこう語っている。「猫の無責任さって、人の無責任さとは全然意味が違うんです。猫に責任がないのは普通のことだから。そのフラットさがあんずちゃんのキュートなところですね」。

 子どもの世話をする、その保護者になる。それは人類にとり、もっとも重大な責任を課されるタスクのひとつだ。そんな仕事をあえて無責任の象徴たるネコにおしつける。

 しかも、だ。あんずちゃんは、オスである。劇中でもたびたび、たまぶくろが強調されている。オスのネコは、基本的に子育てに参加しないことで有名だ。ますます保護者に不向きすぎる。

 そもそも原作にはかりんちゃんなどという小学生は出てこない。かりんちゃんの母親同様、映画版で追加されたキャラだ。保護者不在の哀しい女の子など、いましろたかしの世界にはいなかった。

『あんずちゃん』にいたるまでの「おじさん」映画の系譜

 本作の共同監督を久野とともにつとめた山下敦弘は、『あんずちゃん』とよく似た映画を以前に撮っている。
 2016年の『ぼくのおじさん』が、それだ。

(『ぼくのおじさん』)


 北杜夫の原作(1972年)でちまたに知られる本作は、小学生である「ぼく」とその叔父である「おじさん」(松田龍平)の交流を描く。
「おじさん」は哲学講師であるのだけれど、受け持つ講義は週に一コマだけで、ほかになにをしているのかよくわからない。「ぼく」の一家の居候として無駄飯を食らい、マンガ雑誌を「ぼく」にたかろうとする。とくに人格的に輝く面を持っているわけでもない。ろくでもない野郎である。

 そんな無為徒食の「おじさん」は、たびたび「ぼく」の親から「ぼく」の面倒をおしつけられるのだけれど、ここでもあまり大人としての保護者力を発揮しない。「ぼく」からは適度にかろんじられていて、どちらかといえば友だち感覚に近い。かといって、小学生である「ぼく」と30前後とおぼしき「おじさん」では完全に対等な友だちということもありえず、なんとも独特な関係を築いている。この距離感は、いかさま、『あんずちゃん』っぽい。


 そして、映画の構成も似ている。この『ぼくのおじさん』は、前半で「おじさん」と「ぼく」の日常描写パート、後半からはガラリと舞台をハワイに移してのわりとしっかりしたドラマパートに分かれている。『あんずちゃん』も前半が日常パート、後半からは黄泉下りだ。 つまり、山下敦弘のフィルモグラフィ上では、「なんかしらんがぶらぶらしている謎のおじさん」と「なんかしらんがぶらぶらしている謎の化け猫」が同一視されている。

 さらに遡るなら、『ぼくのおじさん』で松田龍平演じる「おじさん」とは高等遊民のパロディ、もっといえば夏目漱石の『それから』(1910年)的な明治期の高等遊民のパロディといえる。*2 

『それから』の主人公である代助は、帝大を出ながらも30歳で特に仕事もしない。裕福な家族から就職や結婚といった社会参加への”圧”をかけられてものらりくらりとかわしていく。『ぼくのおじさん』の「おじさん」も、寄生先が富裕でないところ以外、ほぼそうした塩梅である。

『それから』のお見合いを強要されるくだりでは、見合い相手の容貌にいちいちケチをつけるのだけれど、映画『ぼくのおじさん』でもそこもオマージュされている。映画版『ぼくのおじさん』で松田龍平が起用されるにあたり、その父である松田優作森田芳光版『それから』(1985年)で主演を張った事実が意識されなかったはずはないだろう。*3

森田芳光版『それから』。ふとした瞬間の松田優作の顔が松田龍平によく似ていて、やはり親子なのだなと感じる)


あるいは「ネコ=おじさん」映画の系譜。

 ここに高等遊民パロディ映画としての系譜が、『それから』から『ぼくのおじさん』を経由して『化け猫あんずちゃん』へと引かれていく。それは日本の映画史的/文学的なラインなのだけれど、実はもう一本、継承されているモチーフで引けるラインがある。

 ネコだ。映画版『ぼくのおじさん』では序盤から白いネコが出てきて、影のように「おじさん」によりそう。自由で、無責任で、とらえどころのない存在としてのネコ=「おじさん」というわけ。

 そして、「おじさん」がひとなみに恋に落ちていくハワイ編*4で、ネコは姿を消す。『それから』もそうだが、高等遊民は遊民でありつづけることはできない。かれらは恋をし、その恋によって他人に、そしてより大きな枠組みへと関わっていく。ネコみたいな人間は、やがてネコではいられなくなってしまうのだ。

 それはともかくとして、『ぼくのおじさん』の「おじさん」に『それから』の代助という先祖がいたのとおなじく、『ぼくのおじさん』のネコにも参照されるべき先達がいる。フランスの巨匠、ジャック・タチの『ぼくの伯父さん』(1958年)に出てくるイヌたちがそれだ。

ジャック・タチぼくのおじさん』に出てくるダックスフント


『ぼくの伯父さん』も戯画的なほどにガッチガチに厳格な両親のもと*5で息苦しくなっている少年を、浮世離れした(しかし日本の「おじさん」と違って洒脱な)「伯父さん」たるユロ氏が逃避へと誘う話なのであり、タイトル的にも『ぼくのおじさん』へ明白な影響をおよぼしている。

『ぼくの伯父さん』は、街をうろつく野良イヌの集団をながながと映すカットから始まる。イヌたちは薄汚いけれど、かろやかに、自由に街をかけていく。やがて、そのうちの一匹、服を着たダックスフントが群れから外れ、フューチャリズム建築っぽい住宅へと入っていく。ダックスフントは、この家の子どもである「ぼく」の飼い犬なのだ。

 このダックスフントと無口な「伯父さん」氏のイメージはふしぎと重なっていき、「伯父さん」が「ぼく」の家に現れるときにもダックスフントが同時に画面に出てくる。そうして犬としての「伯父さん」のイメージが強化されていく。

 もちろん、スタイリストであるジャック・タチのことだから、偶さかにそうした印象ができあがったわけではない*6。映画と同時並行で書かれたノベライズ版を読めば、そのことは疑いようもない。

ぼくが忘れることの出来ないのはダキだ。ダキはダックスフント種の犬で、ちょうどうなぎに四本足をつけたように胴長の犬だ。パパとママがいるときは、ぼくはお行儀よくしていなければならない。あぐらかきで呑気にのおのお出来るのは、伯父さんといるときか、ダキと遊んでいるときだ。もっとも、伯父さんとダキも、はなすことが出来ない仲良し同志。
(中略)
現在にも、未来にも、そして過去にさえ興味や希望の思い出を持たなかった伯父さんは、ときどき、ふうっと自分が宙にういてしまっていたのではないか。時間とともに音をたてないで、流れてゆくいのちを涙ぐんで見つめている動物的な感覚が、伯父さんを自失状態においたのだ。そんなときでも、伯父さんは別に悲しい顔なんかしていなかった。ぼくの犬のダキのような表情が、その瞳にあるような気がした。

 ――ジャック・タチ、秦早穂子・訳『ぼくの伯父さん』三一書房



 イヌは人類のもっとも古い友だちである、とはよくいわれるところ。「ぼく」はそのイヌを最良の友とし、同時にその友の面影を自分の「伯父さん」とダブらせる。閑静で清潔感溢れる「ぼく」の家と、雑然とした下町を自在に行き来するイヌと「伯父さん」は、「ぼく」の息苦しさを救ってくれる。*7

 なにかと世界が狭くなりがちな子ども時代にとって、ここではないもうひとつの世界を見せてくる存在がどんなに貴重なことか。
『ぼくの伯父さん』は、徹底したイヌ映画だ。イヌに始まりイヌに終わる。人ではない、いまここではない出口としてのイヌ。そのイメージは日本の『ぼくのおじさん』にネコへ変換*8されて持ちこまれ、『化け猫あんずちゃん』で人そのものと融合した。
 

 と、このような仕方で山下敦弘は、ジャック・タチの『ぼくの伯父さん』と森田芳光の『それから』を組み合わせて『ぼくのおじさん』を造り出し、それを『化け猫あんずちゃん』へと昇華させていった。そうした流れが、まあ、ある。あるということにする。*9


「おじさん」でも「ネコ」でもあり、「おじさん」でも「ネコ」でもない。

 ところで、代助、「おじさん(松田龍平)」、「伯父さん(ユロ氏)」といったおじさんたちには共通した美点がある。
 つまり、子ども(甥や姪)にやたら好かれる。
 さきほど『ぼくの伯父さん』の話で触れたように、きっちりしたレールの上におらず、大人と子どもの中間のような位置にいる「おじさん」たちは、親類の子どもたちにとって一種のアジールだ。
 しかし、それは責任持って子どもをはぐくむ「ちゃんとした父母」という存在がいて、家庭という枠組みが機能しているからこそ出現する逃避先だ。

 ひるがって、あんずちゃんはどうか? 
 子どもであるかりんちゃんは、完全に規範となりうる親を見失っている。母を喪い、父親に見捨てられ(たと感じ)、いままでろくに会ったこともなかった祖父の寺にいきなり預けられ、ろくに知り合いもいない田舎で暮らす。孤児ではないけれど、気分は孤児に近い。山の妖怪たちでなくとも同情して大号泣ものだろう。*10
 そこに登場するのが、あんずちゃんだ。37歳。見た目も仕草もおっさんとネコのハイブリッドだ。

 そして、あんずちゃんはネコであるがゆえに、代助や「おじさん」のように結婚だの就職だのの圧力を受けない。
 そう聞くと『ゲゲゲの鬼太郎』のテーマソングのようでお気楽至極なようだけれど、『あんずちゃん』で描かれるあんずちゃんの日常は、もうすこし陰惨だ。なぜなら、あんずちゃんは社会から拒絶されつつも社会で生きるしかない存在として描かれている。
 和尚さんの扶養の下にあるものの、人間のような図体で人間のようにメシや娯楽を消費するあんずちゃんにはカネがいる。それを稼ぐために、按摩*11や川から鵜を追い払うといった仕事未満のアルバイトをこなしていく。

 だが、バイト帰りにスクーターで走行中、あんずちゃんは警察に捕まる。そして、免許証の不所持をとがめられる。「だめだよ」と警官はいう。「免許は16歳から取れるんだから」
 おかしみに満ちつつも、酷な発言だ。なぜなら、あんずちゃんは30歳を越えてやっとイエネコから化け猫に転化したという設定であり、16歳のときはふつうのネコにすぎなかった。免許など取りようがない。*12

 社会からはじき出されたまま、システムには付き合わなければならない。責任や義務を履行しようにも、その支払い先がわからない。完全なアウトサイダーだ。市民未満であり、人間未満。

 いつもノンシャランとしているあんずちゃんの様子からはわかりずらいかもしれないけれど、かれもどうもそうした状況に対して鬱屈を抱えているらしい。

 その鬱積が爆発するのが、自転車の盗難に遭う場面だ。パチンコの帰りに自転車を盗まれたかれは家に帰るや尋常ならぬ面持ちでぶつぶつ恨みをつぶやきながら、棒に包丁をガムテープでまきつけて即製の槍を作り始める。終始興奮を抑えられず、和尚さんの静止もきかず、四つ足で忙しなくばたばたと廊下を駆け回ったりしながら、自作の槍でふすまを突きまくる。そして半べそをかきながら、「だってだって、くっそ~~~~、俺は悔しいんだよ、おしょうさん!」

いましろたかし『化け猫あんずちゃん』講談社

 自分に向けられた顔のない悪意*13。それは人間からの自分への攻撃的な拒否でもある。あんずちゃんは、そう捉えたのではないか。

 代助や「おじさん」には見られない屈折が、ここにはくすぶっている。生まれたときから人間社会へ包摂される可能性を閉ざされた存在、それがあんずちゃんだ。飲み会にさそってもロクに「つるまない」山の妖怪たち*14に対してあんずちゃんが不満を漏らすのも、そうした孤独からの脱出口を妖怪たちに見出そうとしたからにおもわれる。*15

 だが結局、かれは山では暮らせないし、人間にもなりきれない。もはやネコにも戻れない。えらく半端な境界上の生き物だ。かりんちゃんとの東京行きの直前で和尚さんが指摘するようにあんずちゃんは「大人」ではある。だが、それは「一定の年齢を重ねている」以上の意味を持たない。かれは父親でもなければ、なんらかの地位を持つ社会的存在でもない。


 そんなあんずちゃんが、かりんちゃんの親代わり、あるいは保護者となりうるのか。


 いってしまえば、なれない。映画でも、そうなってはいない。

 かりんちゃんにとって、ケアしてくれる大人は死んだ母親以外に存在しない。かりんちゃんに同情してくれる山の妖怪たちも志だけは保護者マインドなのだが、なさけないまでに惰弱であり、子どもを守る力を持たない。

 けっきょく、かりんちゃんはその母親と決別したあと、父親に対して「早く大人になる」ことを宣言する*16。自分以外に頼れるものがない。それが彼女の生きていくことになる世界だ。


 それでも。


「大人」になるまでの猶予を過ごすパートナーとして、彼女は(父親ではなく)あんずちゃんを選ぶ。
 疑問が反芻される。
 なぜ、ネコなのか?

世界の果てまでつきあって

 劇中でのあんずちゃんは、かりんちゃんに対して保護者らしい行動をあまり取っていない。
 特に、日常の描かれる映画前半パートでは、あんずちゃんはかりんちゃんと別行動していることも多い。「いっしょにやった」といえるのは、鵜を川から追い立てるバイトくらいだろうか。ちょっと距離がある。

 しかし、同時に、あんずちゃんはなんだかんだでかりんちゃんを見捨てない。かりんちゃんが行方不明になれば、めんどくさがりながらも見つかるまで探す。唐突な東京行きにもつきそう。貧乏神がかりんちゃんに取り憑きそうになると、ひきはがそうとする。地獄までもつきあう。
 かりんちゃんの母親を地獄から連れ出して、追っ手である鬼たちから逃げるくだり。あんずちゃんは禁じられているはずのスクーターに乗り込み、かりんちゃん母娘を乗せて爆走する。


「どこまで行くの?」とかりんちゃんは訊く。*17

 あんずちゃんは叫ぶ。

「そりゃあ、世界の果てまで行くんだにゃ~」

 どこまでも連れだってくれる存在。

 それがあんずちゃんの定義だ。



 なにかを与えてくれるわけでもない、戦って勝ってくれるわけでもない、頼りにはまったくならない。ただ、いっしょにいてくれる。
 それはあんずちゃんが人間と異なる種だからこそ成り立つ距離感だ。これがヒトであれば、ほかの「おじさん」たち同様に、多かれ少なかれ人間社会の磁場にからめとられてしまう。


 ネコは自由だ。なにから自由なのか。人間社会の重力から自由なのだ。

 だからこそ、世界の果てまでも、かりんちゃんのそばにいられる。そのことばに真実味を持たせられる。ネコにしか頼めない仕事だ。*18
 ふたたび、パンフレットのインタビューを引こう。山下敦弘はこう述べている。

 終盤あんずちゃんが「ずっとかりんちゃんのそばにいるニャー」というんですよ。でも、それはなにかをしてくれるわけじゃない。ただ隣にいるだけ。それがあんずちゃんと人間の距離感なんです。



 それはまあ、けっきょくところの人間にとって都合のよい動物の搾取なのかもしれない。
 だが、フィクションで動物を描くとき、人間は搾取以外のなにができるっていうんです?
 ともあれ上の山下監督のインタビューに呼応することばが、文学者ドリス・レッシングのネコエッセイ『Particularly Cats』*19にある。今日はこれでしめくくることにしよう。

かれはしずかに私といっしょに座るのを好む。でも、それは私にとって簡単なことではない。書き物や庭の手入れや家事に追われていると、かれとゆっくり座っているひまなどなくなる。かれは子猫のころから、私に注意を要求する猫だった。本を読みながら義務的に撫でているだけでは、たちまちにそぞろな心を見抜かれてしまう。私がかれのことを考えなくなると、かれはそっぽをむいて去ってしまう。
かれと一緒に座りたいならば、私は自分自身をゆっくりと落ち着かさせ、いらだちや焦りを頭から追い払わねばならない。かれもまた、心身を落ち着いている必要がある。そうして私は、かれに、猫に、猫の本質に、かれの最高の部分に近づいていくのだ。人間と猫、私たちは私たちを隔てるものを超えていく。

――ドリス・レッシング『Particularly Cats』



 おつかれまんにゃー。


原作。


共同監督の久野遥子のまんが。傑作。

*1:リメイク版『蛇の道』、『ミッシング』のながれ

*2:現実の明治・大正期における高等遊民たちは、いまでいう高学歴就職難民的な、日露戦争後の社会問題としての側面があり、われわれが『それから』を読んでイメージするほど優雅な存在ではない。『近代日本の就職難物語』(吉川弘文館)参照。

*3:夏目漱石つながりでいえば、『吾輩は猫である』の元ネタといわれるホフマンの『牡猫ムルの人生観』がドイツ的なビルトゥングスロマンのパロディであることも思い出していいのかもしれない。ネコとは、アンチビルトゥングスロマン的な存在だ

*4:ちなみにおじさんが異性と恋に落ちる展開は映画版のオリジナル

*5:1958年に出たノベライズ版『ぼくの伯父さん』の訳者・秦早穂子の解説によると、ジャック・タチは機械中心主義的な近代に対するアンチテーゼとして本作を作りあげたという。

*6:そもそも「偶然」とはジャック・タチの映画から一番遠い言葉だ

*7:映画版では描かれないが、ノベライズ版では「伯父さん」は風邪をこじらせて死んでしまい、「伯父さん」がアトリエを構えて野良イヌたちが遊んでいた古い下町も開発にともなって失われていく。

*8:その変化は「おじさん」とユロ氏との質的な違いにも関係している。ユロ氏は保護者とまではいわないものの、「ぼく」にとっての守護天使的なポジションにいる。イヌはネコよりはやや保護者に近いポジションにいる、というわけだ

*9:もっと山下敦弘のフィルモグラフィを丹念に精査すれば、山下敦弘における「おじさん」たちの扱いについて一定の見解がえられるのだろうけれど、ここでやりすぎるようなトピックでもなく、今はその元気もない

*10:とはいえ、子ども向けフィクションにはよくあるシチュエーションではある。

*11:この職業がかつて盲者、すなわち被差別層の仕事だったことに留意しなければならない

*12:最初から疎外してくるくせに、ショバ代だけはきっちり徴収していく。そうしたシステムへの不信感は高等遊民的というより、原作者のいましろたかしが『釣れんボーイ』などで描いてきた肌感覚に発したものだろう。いましろ的な感覚とは個人的には「大人になりたいという願いはあるのに、自身の抱える(逃避的)衝動のせいでできない」といったジレンマであり、そうしたところを踏まえると彼が「あんずちゃん」お脚本の改変に不満を抱いたのも当然な気もするが、ここではいましろについては論じない。

*13:映画では犯人が出てくるが、原作では結局犯人の正体は不明のまま終わる

*14:そして終盤の展開を見ればわかるように、かれらもまた人間にとってが「役立たず」である。

*15:あんずちゃんは「友だち」に対してはかなり強めの責任感を持つ。よっちゃんに取り憑いた貧乏神との交渉を見よう。

*16:同級生の男子とは結婚の約束までする

*17:母親が訊いてた気もする

*18:ここで、ダナ・ハラウェイ的な伴侶種概念を持ち出すこともできるけれど、あるいはあんずちゃんが「おれ、死なないから、化け猫だから」と言ったことに注目して、むりやり『マルクスの亡霊たち』を結びつけてもいい気がするけれど

*19:邦訳は『なんといったって猫』晶文社

『インサイド・ヘッド2』の感想、あるいはディズニー/ピクサーにとっての続編とはなにか。

 歴史とは復活である。

 ――ジュール・ミシュレの墓碑銘

【これまでのあらすじ】

2024年、夏。
日本人の大半はピクサーの新作に対する興味をほぼほぼ一切完膚なきまでに喪失し、ティーンの女子がバンドを組むアニメや、ティーンの女子がバンドを組むアニメ(2)や、ティーンの女子がバンドを組むアニメ(2)や、青い髪のティーンの女子が負けるアニメや、ティーンの女子がバンドを組む山田尚子の新作などにうつつをぬかしていたものの、わたしは幼少時に受けた恩義からピクサーに対する義理を失っていなかった。
かれらはかれらの外向きの欲動を、わたしはわたしの内向きの欲動を食らって生きている。
というわけで、『インサイド・ヘッド2』を観に行った。

ピクサーは「復活」したのか。

昨年のいまごろ、ピクサーはほぼ「終わったスタジオ」扱いされていた。
ディズニーの配信プラットフォーム重視の戦略に振り回されて本来劇場で公開すべきだった三作の完全新作(『あの夏のルカ』『ソウルフル・ワールド』『わたし、ときどきレッサーパンダ』)をDisney+に流したのち、劇場へのカムバックとなった『バズ・ライトイヤー』と『マイ・エレメント』でどちらも歴代ピクサー作品でも最低クラスの興収を出してしまった。
昨年の各種メディアの記事の見出しもその事実を物語っている。「『マイ・エレメント』は沈みゆくピクサーのメタファーである」(ニューヨーカー誌*1)、「ピクサー新作の大コケは魔法を再生するのにディズニーが苦労している証拠」(フィナンシャル・タイムズ*2)、「ピクサーはまだ死んではいないが、生命維持装置につながれた状態にある」(スクリーンラント誌*3)。
YouTuberたちもこぞってピクサーの凋落を取り上げ、その原因を続編商法、ラセターの追放、パンデミック、ある種の「暗さ」を失ったこと、親会社ディズニーの経営方針、他スタジオの伸長、情熱や創造性の欠如などに帰した。。
とりわけ、批判されたのが続編商法だ。前述の記事でスクリーン・ラント誌のサラ・リトルはこうしめくくっている。「現在制作中の『トイ・ストーリー5』と『インサイド・ヘッド2』は、あきらかに不要な続編だ。この二作はもしかすると以前のピクサーのきらめきをいくらか取り戻してくれるかもしれないが、あるいはただ失敗するだけかもしれない。ただ時間のみぞ結果を知る」……。

そうして、2024年7月。『インサイド・ヘッド2』が公開され、その「結果」が出た。世界興収15億ドル突破。アニメーション史上最高の興収*4をあげたのだ。

この商業的な大勝利はピクサーの復活を意味しているのだろうか?

(公開時の大コケスタートからのちに多少盛り返したとはいえやはりコケてしまった『マイ・エレメント』。傑作ではないかもしれないけれど、不当に低く評価されている良い作品)

創造性の破綻としての続編、必要悪としての続編

ピクサーは金のために続編をつくる。
そうした物言いは『モンスター・ユニバーシティ』や『ファンディング・ドリー』や『マイ・エレメント』を観もせずに今日のピクサーのありようをディスっているワケ知り顔のカスどもの戯言に聴こえるし、実際わたしはそうした文言をSNSで見かけるたびに頭のなかのカナシミとイカリがあばれだすのであるけれど、残念ながら真実でもある。
なぜなら、本人たちがそう公言している。

続編は創造性の破綻」である。かつて、そう述べたのは、ピクサーの共同創業者エド・キャットムルで、同時にそれはある種の必要悪である、とも彼はいう。

合併の前後、オリジナル映画と続編のバランスをどうとろうかと検討していた時期があった。作品を気に入ってくれた人はその世界の物語をもっと見たいと思ってくれるのはわかっていた(言うまでもなく、マーケティングやグッズの担当者は売りやすい映画をほしがる。その意味で続編は手堅い)。しかし、続編しかつくらなければ、ピクサーは千からびてしまう。私は続編を創造性の破綻のように思っていた。
オリジナル映画のほうがリスクが高くとも、新しいアイデアを次々と世に送り出す必要がある。続編をつくればそこそこの興行成績が約束されるため、オリジナル映画で冒険する余地ができると考えた。オリジナル映画を毎年一本と続編を一年おきに一本、または二年間に映画三本のような組み合わせが、財政的にも創造的健康という意味でも妥当であるように思えた。

――『ピクサー流 創造するちから 小さな可能性から、大きな価値を生み出す方法』ダイヤモンド社


「冒険」のための「健康」を保つ作戦。それが続編だ。
実際、ピクサーは映画を矢継ぎ早に作り続けなければならなかった。
ディズニーと三本分の契約を結んで長編制作を開始した当初、ピクサーは四年に一本のペースを想定していた。当時のピクサーは年に300万ドルの売上しかないRenderMan、TVCMくらいしか主な収入源がなく、株主価値はマイナス5000万ドル。創業オーナーだったスティーブ・ジョブス自身の個人的な持ち出しによってなんとか会社の体をなしているという悲惨な状況だったものの、ディズニーの奴隷じみた契約(CFOだったローレンス・レビー曰く「買収せずに子会社化したようなもの」)によって長編の制作費用だけは全額ディズニーの負担で成っており、とりあえず「作るだけ」なら悠長なペースでも許された。制作ラインをひとつしか持たないアニメーション会社としては、極めて妥当なペースでもあった。
が、ピクサーは一本目から成功しすぎた。初長編の『トイ・ストーリー』が爆発的ヒットを飛ばし、その直後にIPOを果たし、ほとんど一夜にしてディズニーに対抗しうるトップスタジオに成り上がって”しまった”。*5
上場した以上は株価を上げつづけなければ――前年以上の成功と成長をつづけなければならない。それが資本主義の掟だ。

そうしたわけで、ピクサーは一年に一本ペースのリリースを強いられることとなる。ディズニーによる買収後はさらにその傾向が加速していく。実際、98年の第二作『バグズ・ライフ』以降は27年で27作の長編を送り出している。2015年〜24年までの直近10年間に限れば14作品だ。2年に3本ペースに近い。*6
インサイド・ヘッド2』まででピクサーの続編作品は10作品。そのうち9作品は2010年の『トイ・ストーリー3』以降のもので、ここ15年に限ると18作のうち9作品、すわなち半分が続編となる。
キャットムルが想定した比率、「オリジナルと続編で3:2」を超過している。

(直近で大コケした続編(正確にはシリーズスピンオフ)『バズ・ライトイヤー』。「『トイ・ストーリー』に出てくるバズ・ライトイヤー人形の元ネタになった映画(だったっけ?)をやる」という複雑怪奇なコンセプトで、ピート・ドクターだったかがインタビューで「いやあ、あそこまで需要ないとはおもわなかったよ」とか言っていた。)

ディズニーと続編

ピクサーの幹部たちは、インタビューで「なぜ、続編を作ることになったのですか?」と訊かれると、「わたしたちは一作目であまりにキャラや世界を緻密に作ったために一作だけでは語り足りなかったんですよ、ハッハッハ」などと答えがちだ。『ファインディング・ドリー』のときのアンドリュー・スタントンもそうだったし*7、今回のピート・ドクター*8もそうだった。かれらはかつてラセターが率い、ジョブズがクリエイティブを一任したオリジナルの「ブレイントラスト」*9の中心メンバーだった。
創造性あふれるベテランクリエイターたちの言がまったくうそっぱちとはおもわないし、『ドリー』は実際そういう話だったとおもう。

一方でピート・ドクターは創造における苦労が続編を生むとも吐露している。
独創性のあるアイデアを思いつくのはむずかしい。そして、それを売る場合、単に独創的なだけでなく観客の共感を得なければならない。その一見矛盾するようなアイデアを出していたのが初期のピクサーだった。

『自分が部屋にいないときにおもちゃがひとりでに動く』とか『クローゼットのなかにモンスターがいる』といったことは誰しもが夢想します。わたしたちはそうした、誰しも一度は思いつくものの物語の核として使われたことのないようなアイデアをいまだに探し求めているのですが、28作も映画を作ったいまではそうした鉱脈を掘り当てるのも困難です。
https://time.com/6986308/inside-out-2-peter-docter-interview/

そして、続編があふれるのは制作者ではなく観客の怠惰の問題だとも指摘する。

誰もが「なぜピクサーはもっと独創的なアイデアをやらないのか?」と言います。ところが実際にわたしたちが独創的なことをやろうとすると、人々はそれに親しんでいないので、見ようとしません。続編なら、「ああ、見たことある。あれ、大好き」といって見に来ます。
https://time.com/6986308/inside-out-2-peter-docter-interview/

観客は口では新規性を求めるが、本当に新奇な作品はとっかかりがなくて見に行かない、というのはたしかに一面では真実ではある。


一方で、ピクサーの続編制作ペースが親会社であるディズニーの近年の傾向と同調しているのは事実だ。
たとえば、2015年の『シンデレラ』から正式に始まったディズニー・クラシックスの実写リメイク路線*10
実写リメイクは、ティム・バートンの『ダンボ』などの一部の例外を除けば、申し訳程度に現代性を付与した挑戦のない無味無臭の作品にすぎず、『ライオンキング』『わんわん物語』『リトル・マーメイド』など喋る動物をフィーチャーした作品に至ってはフォトリアルな動物がセリフをしゃべるさまがグロテスクなMAD動画にしか見えない。

だが、商業的には哀れな『ダンボ』以外おおむねヒットしており、特に『アラジン』『ライオンキング』『美女と野獣』の三作は世界興収が10億ドルを超えている。さっき見た並びですね。そう、95年の『トイ・ストーリー』以前に国内興収1億ドルを突破したことあるの数少ないアニメーション映画、ディズニー・ルネサンス期の名作たちだ。これらはビデオの普及によって家庭での映画鑑賞が世界的に容易になった最初期の作品でもある。親たちは幼少期に映画館やビデオで観てすでにそれらが名作であること、安心して子どもに見せられるストーリーであることを知っていた。だから、映画館に子ども連れが詰めかけた、というわけだ。
むしろ、「原作」*11とおなじであること、創造性を発揮しないことがヒットの要因となった。
リメイク版『シンデレラ』企画の直接のきっかけとなったのは、2010年の『アリス・イン・ワンダーランド』(『不思議の国のアリス』の後日譚)のヒットだと言われている。2010年が『トイ・ストーリー3』の公開年だと考えるなら、不気味な符号だ。

アメリカにおける映画やアニメーションは、数年から五年スパンで企画される。『トイ・ストーリー3』は企画自体は2000年代初頭から存在していたものの、現在の形で本格的に始動したのは2006年のディズニーのピクサー買収直後のことだったし、『カーズ2』は2006年の『カーズ』公開ワールドツアーのさいにラセターが着想した。
皮肉な話ではある。というのも、ディズニー傘下でなかった時代のピクサーは、続編制作の権利をディズニーに握られていた。当然、ディズニー側はピクサーの続編で商売しようと目論み、2004年にはサークルセブンというピクサー続編専門のスタジオまで作った。このスタジオの存在はラセターやスタントンといったピクサークリエイティブ幹部からは目の敵にされ、案の定、ラセターがディズニーのCCOの座につくや、駆逐された。ちなみに、そのサークルセブンで練られていた続編企画とは『モンスターズ・インク2』、『ファインディング・ニモ2』、そして『トイ・ストーリー3』で、そのときの案がサークルセブンお取り潰しで廃されたあとにあらためてそれぞれ一から構想をリブートしたという。*12
そうした経緯を踏まえると、『トイ・ストーリー3』『ドリー』『ユニバーシティ』あたりはディズニーによる抑圧への反発から進んでつくりたがっていたのかもしれない。主観的な判断になるけれど(特に『ドリー』を評価しないファンは多い)、この三作はピクサー続編の中でもクオリティが高い。

現在のピクサーのクリエイティブのトップであるピート・ドクターは「自分は実写リメイクはやらない」と公然とディズニーのリメイク路線に対する批判を口にしているし、買収以来、ピクサーとディズニーは「別物」として距離を取っている様子は伺える。だが、やはりどういいつくろったところでピクサーはディズニーの所有物なのだ。なんとなれば、『トイ・ストーリー』を作るために事実上の専属契約を結んだときからずっとそうだった。

わたしたちは、ディズニーが買ったIPをどう扱ってきたかを知っている。『スター・ウォーズ』がどうなったか、20世紀FOXがどうなったか、そしてマーベルがどうなりつつあるか、もう知っている。

そして、市場の成長主義の論理は映画界の覇者となったディズニーすら縛る。
2023年、ディズニーは配信事業戦略の失敗(会員量値上げで百万単位の加入者を失った)とハリウッドのSAGAFTRAストライキに伴う興行不振による大幅な収益低下に見舞われた。

貧した大企業は安全策を取ろうとする。

2000年代のディズニーがそうだった。90年代の勢いを失ったディズニーはディズニートゥーン・スタジオというスタジオを立ち上げて、ビデオで『シンデレラ2』『リトル・マーメイド2』などといった過去作の粗悪な続編を乱発し、ファンの不興を買った*13
ディズニーのCEOボブ・アイガーはすでに「今後はオリジナルより続編を重視する」と公言している。「なぜなら、既存のタイトルはすでにみなさんに親しまれており、マーケティング費用も安く済むからです」。*14*15
2023年のディズニーが経営を立て直す策として、投資家たちに送った企画中のタイトルはこうだった。『モアナ2』、『アナと雪の女王3』、『ズートピア2』、そして、『トイ・ストーリー5』……いずれも近年のヒット作の続編だ。*16
今年はすでに『オーメン』と『猿の惑星』と『デッドプール』の続編をやった。そして『エイリアン』、『モアナ』、3DCG版『ライオンキング』の続編(なにしてんだ、バリー・ジェンキンス)が控えている。
ちなみに、『猿の惑星』、『オーメン』、『デッドプール』、『エイリアン』はどれももとは20世紀FOX
いまや、ディズニーはより巨大なディズニートゥーン・スタジオになりつつある。

デッドプールウルヴァリン』より


ディズニーとはなにか。あらゆる外部をみずからの王国に併呑しようとするイデオロギーのことだ。
それこそ、あらゆる伝記の証すとおりウォルト・ディズニーの遺志でもあり、どれだけ企業体質が変わっても今なお受け継がれている欲望だ。
単にIPだけについて言っているのではない。『ポカホンタス』からこの方、不器用なりにマイノリティを包摂しようと努力していることすら、おそらくはある程度までは純粋といえそうな現場レベルの善意ですら、そうして領有されていく。ディズニーにとって続編とはそのための武器のひとつだ。

中国の妖怪で、あらゆるものを食らう貪欲の化身、ドン(犭貪、トンとも)のようなものだ。放っておくとついには自分まで食らいだす。*17
最近のディズニーの好物は、自らの過去とした他人の過去だ。セルフリメイクやセルフパロディはある種のノスタルジアと受け取られがちだけれども、他人の過去である『デッドプールウルヴァリン』や触れられないほど遠くなった自らの過去であるクラシックス実写リメイクの手触りは、懐かしさからどこかかけ離れている。他者や他の時代から簒奪されたものに、ディズニーテイストを付け足したときの、あのプラスティックな手触り。ノスタルジー抜きのノスタルジー

マーク・フィッシャーは他人や他の時代といった自分が直接に経験していいないものへの代理的で表面的なノスタルジーレプリカントノスタルジアと名付けた*18が、ここにはもはやノスタルジーと錯覚しうる感傷すら存在しない。葡萄酒がキリストの血の味に感じられないように。
ほんらいはまったく異なる作品であるはずの『デッドプールウルヴァリン』と『ウィッシュ』が似た味わいを与えるのも、偶然ではない。すべてはディズニーランドの物語であるからだ。自らの過去への郷愁と、アメリカの未来への欲望と、他人の創造をすべてひとつの領域に封じようとしたあの狂気のつづき*19
50年前にアリエル・ドルフマンとアルマン・マトゥラールが指摘したディズニー世界の構造は今なお、今だからこそ有効なのかもしれない。「ディズニーの世界は、十九世紀的な孤児院なのである。しかし、この孤児院には外部というものがない。孤児たちには逃げ出す場がない。この世界のキャラクターたちは、あちこちへ何度も移動し、あらゆる大陸へ旅行し、熱に浮かされたように流動するにもかかわらず、同一の権力構造のなかに決まってとどまり、あるいはそうした構造に必ず回帰する」*20
キャラクターたちだけなく観客であるわたしたちはその王国から脱けだせず、既知だったり未知だったりする記憶を食いつぶしていくしかない。
ドンが宇宙と自らを食らい尽くした末に残すのは、果てしない虚無だ。そして、『デッドプールウルヴァリン』を観ればわかるように、今日においては虚無すらもかれらの領地であったりする。


インサイド・ヘッド2』について:語りを不要とする続編

(以下は『インサイド・ヘッド2』についてのネタバレを含みます)

ディズニーの話になってしまった。ピクサーに戻そう。個別の作品について語ろう。本来なら、それ以外について書くべきではない。
インサイド・ヘッド2』はどうだったのか?
それは前作の不完全なエピゴーネンであるともいえる。
それは予定調和を破壊しようとして破壊しきれず予定調和におさまってしまった物語であるともいえる。


前者の話からはじめよう。前作『インサイド・ヘッド』と、『インサイド・ヘッド2』のプロットはよく似ている。

1のあらすじはこうだ。サンフランシスコに住む少女ライリーの頭のなかに棲まう擬人化された感情たちが、元気いっぱいのヨロコビ(Joy)をリーダーに戴いて”司令部”でそれぞれ情動を調整し、日々ライリーの幸せを希求している。感情たちのなかにはヨロコビにとって不要とおもわれる比較的新参のカナシミ(Sadness)もいて、彼女と折り合いがうまくつけられないのでいたのだけれど、ひょんなことからふたり”司令部”の外に放り出されてしまい、帰還のためにライリーの心のなかを冒険することに。一方ライリーの身にもただならぬ事態が起きてしまい……という感じ。

2のあらすじはこうだ。サンフランシスコに住む少女ライリーの頭のなかに棲まう擬人化された感情たちが、元気いっぱいのヨロコビ(Joy)をリーダーに戴いて”司令部”でそれぞれ情動を調整し、日々ライリーの幸せを希求している。そこにシンパイ(Anxious)などを筆頭に思春期を迎えたライリーのあたらしい感情たちが入ってきて、ヨロコビは自分からしたら一見不要とおもわれる彼ら彼女らとうまく折り合いをつけられないでいた。そんなあるとき、シンパイはヨロコビら古参の感情たちを追放して”司令部”の外へ放り出す。ヨロコビたちは帰還のためにライリーの心のなかを冒険することに。一方ライリーの身にもただならぬ事態が起きてしまい……という感じ。

アバウトなアウトラインが前作と続編で似るのはめずらしいことではない。
トイ・ストーリー』だって1も2も「偶然な事故から持ち主の少年とはなればなれになったウッディが、その少年のもとに戻るまでの冒険を描く話」といえば変わらないし、『ファインディング・ニモ』と『ファインディング・ドリー』はどちらも「親と生き別れになった子どもがその親を探しに行く話」という点では共通している。物語構造が似るのは脚本家がなまけているせいではなく、その構造自体が作品のコンセプトやアイデンティティと結びついているからだ。

問題は1から2でどう変わったか、もっといえばより深く掘り下げられたか、という点だ。続編は前作との偏差で語られる。*212では1での達成を土台にするのがふつうだ。ふつうなのだが。

この前提が、『インサイド・ヘッド2』ではそもそも崩れている。
ヨロコビは前作で得た「自分の理解できないネガティブそうなものも実はライリーのためになっている」という学びを忘れているように見える。シンパイとの対立は陥れられた面が強いからまだいいにしても、自慢気に披露される不要な思い出を排除する装置はどう受け止めればいいのだろう。一方でときどき彼女は前作での学びに留意するようなアピールもやるので、こいつはなんなんだ、とおもってしまう。
だけど、まあ、それはいいだろう。前作で成長した主人公が学びをリセットされる続編ですばらしい作品など、いくらでもある。細かなキャラクターの不整合など、ストーリーの力強さで押し切ればいい。

いやしかし、その物語がまたおぼつかない。
第一作目では不本意な旅の道中でヨロコビがカナシミの重要性に気づき和解していくプロセスが細やかに描かれ、サブプロットにライリー本人の意識に上らない幼年期との別れがエモーショナルに挿入された。それらが十年たった今でも記憶に残るのは、作品全体の結論と強力に結びついたドラマであったからだ。まさに『インサイド・ヘッド』の設定下であったからこその感動だった。
けれど、『2』における感情古参勢の珍道中はなにもかもばらばらで薄味だ。一部のギャグはまだよいにしても、展開やキャラの感情は唐突で物語全体に対する有機性を欠き、印象に薄い。

感情側の物語の主軸となるシンパイとの対立にしても、一作目のヨロコビとカナシミのような発展的解決を見せるようで見せない。いや、いちおう解決する場面はあるのだけれど、なんかこう、なし崩し的というか至極あっさりしている。
展開にしろキャラにしろこのうつろさの元凶ははっきりしていて、まあ、キャラが多すぎる。古参感情勢と新規感情勢を合わせると単純にキャラが二倍。コンセプト上、ただでさえ90分そこそこのランタイムをライリー本人の物語と半々にしないといけないところに、倍のキャラたち。回せるわけがない。*22

というか、そもそもうまく物語を回そうとした形跡も見当たらない。
監督や脚本家はインタビューでたびたび「思春期に到来する感情としての不安を中心に据えた」と強調する。プロデューサーのマーク・ニールセンは「わたしたちは不安に対して正直になる必要があった。不安は最初は悪役に見えるかもしれないが、どこかに追いやるべきものではなく、和解すべきものだ。」*23という。
たしかに物語上はヨロコビたちはシンパイと和解し、融和するだろう。だがそれは物語の流れの必然としてそうなったのではなく、制作者がテーマとしてそのようにあるべきだと決めたからにしか見えない。
そこが、前作のヨロコビとカナシミとの和解と異なる部分だ。
インサイド・ヘッド』シリーズはきわめて観念的で抽象的なコンセプトの作品だ。だからこそ、丁寧なストーリーテリングと地に足のついたキャラクターを必要とし、実際1ではそれに成功した。
ところが2では抽象的なコンセプトを抽象的なままに、感情や人格とはこうあるべきだからこうなりました、という映画にしかなっていない。キャラクターと物語を必要としないのであれば、なぜ映画にするのだろう?

わたしのこうした幼稚な疑問の答えは興行成績をもって答えられている。
それで映画になるからだ。
ライリーパートの思春期あるあるネタと、脳内パートで感情たちが感情のまま動くこと。それだけでダイレクトに観客の経験に訴える。
物語はスクリーンの中にあるのではない。観客の頭の中に、記憶のなかに存在するのだ。だから、べつに本編のストーリーテリングがぎこちなかろうが、観客の側で補完してくれる。それこそが『インサイド・ヘッド』のコンセプトの強みだ。

記事前半部で引用したピート・ドクターの続編に関する諦念に似たことばを思い出そう。観客は、一人の例外もなく、未知のものより既知のものを好む。わたしたちが『インサイド・ヘッド2』を観るのはそれが新規IPではなく続編だからであり*24、映画館の暗闇でしか目撃しえない新鮮味のある挑戦的な物語だからではなくわたしたちの経験した物事について反応できる映像だからだ。

いちおう、制作陣がスクリーンの中で爪痕を残そうとした形跡はある。ラストのヨロコビの結論は「自分たち感情よりも『大きなもの』がある」と受け取ることができるもので、それは彼女たちのアイデンティティを根幹から破壊しうるアイデアではあった。自分たちの存在意義を突き詰めて自己の殻を破る話はわたしも好きで、ファンから蛇蝎のごとく嫌われている『トイ・ストーリー4』を評価する理由もそこにある。
が、けっきょく、『インサイド・ヘッド2』では殻をやぶって無限の彼方へは行きはしない。それはやはり、本編の物語での細部でのタメが不足していたからだ。飛んでるのではない。カッコよく落ちているだけ。
もっとも、おもちゃたちと違って感情に自分のアイデンティティについて疑いを持ってもらっても困るので、やはりコンセプトの範疇に収まってよかったのかもしれない。


おわりに

ともあれ、ディズニー/ピクサーはかれらの戦略の正しさを証明した。:
「続編は売れる」。
この認識において行き着く先はピクサーもまたリメイク・続編工場となりはてるディズニートゥーン化であり、かつて彼らの唾棄したサークルセブン化だろう。なればこその「復活」だろうか。

ピクサーの次なる公開作品は『星つなぎのエリオ』。監督脚本は、『リメンバー・ミー』のエイドリアン・モリーナ。『リメンバー・ミー』はピクサーの非続編作品のなかで劇場でヒットしたと言える*25最後の映画だ。もう七年も前になる。
インサイド・ヘッド2』は現在のピクサーを延命した。
そして、『エリオ』が未来のピクサーの試金石になることは間違いない。
そこにあるのはヨロコビか、カナシミか。


*1:https://www.newyorker.com/culture/cultural-comment/elemental-is-a-tearful-metaphor-for-pixars-decline

*2:https://www.ft.com/content/b50259e7-67d1-44ae-a749-636139cc5855

*3:https://screenrant.com/pixar-movies-what-went-wrong-problems-explained/

*4:現時点では3DCG版『ライオンキング』が若干上な気もするが、なんにせよ歴代一位になることは確実。

*5:ローレンス・レビー『PIXAR <ピクサー> 世界一のアニメーション企業の今まで語られなかったお金の話』文響社

*6:おそるべきは、それだけのハイペースで発表されたにもかかわらず、ほとんどの作品が大ヒットしたことだ。95年の『トイ・ストーリー』公開以前、長編アニメーション映画で国内興収1億ドルのラインを突破した作品は、『ライオンキング』『アラジン』『美女と野獣』『ポカホンタス』、そして実写とのハイブリッドである『ロジャー・ラビット』だけだった。言うまでもなく、すべて本家ディズニー作品だ。インフレーションを考慮にいれる必要があるとはいえ(2024年現在は国内興収1億ドルではアニメーション分野の歴代トップ100にも入れない)、このディズニーの牙城を始めて打ち破ったのが1.9億ドル稼いだ『トイ・ストーリー』であったことは特筆に値する。以降、コロナ下での公開となった『1/2の魔法』などの一部の例外を除き、毎作基本国内2億ドル以上のヒットを飛ばしている。もっとも近年の制作費は2億ドルほどが基本なので、世界興収で6億ドル稼ぐ必要があり、コロナ以降はなかなかこのハードルを(そもそも三作続けて配信スルーになったこともあり)越えられずにいたが、今回『インサイド・ヘッド2』が世界興収15億ドル越えというアニメーション史上最高のヒットを飛ばしたこともあり、ピクサーの「復活」を印象付けた。

*7:ファインディング・ドリー』パンフレット

*8:現在のピクサーのクリエイティブのトップ

*9:ストーリーを決めるための脚本会議のようなもの。のちにディズニーが模してストーリートラストを作った

*10:ちなみにクラシックスの実写での語り直しは14年の『マレフィセント』、実写リメイクそのものは96年に『101』でそれぞれすでにやっていた。

*11:ディズニーアニメの大半は原作つきであるけれども、ここではリメイク元映画の意

*12:スタントンは『トイ・ストーリー3』をあらためて練り直す際に、サークルセブンで書かれた脚本は「あえて見なかった」とさえいっている。よほど嫌っていたのだろう。https://web.archive.org/web/20070401075040/http://www.ew.com/ew/article/0,,1204709,00.html

*13:この悪習を一層したのがディズニー/ピクサー合併によってディズニーのCCOも兼任することになったジョン・ラセターで、こうした改革によりディズニーアニメは90年初頭以来の輝きを取り戻し第二次ルネサンス期を現出する

*14:https://www.cartoonbrew.com/feature-film/disney-and-pixar-will-lean-on-sequels-in-near-future-says-ceo-bob-iger-241096.html

*15:こうした方針にはもちろん近年高騰の一途をたどる映画製作費の問題も考慮する必要があるだろう。ピクサー映画ももはや制作費が2億や3億では効かなくなりつつある。3億ドルの制作費を回収するのは10億ドル規模の興収が必要だ

*16:https://screenrant.com/disney-sequel-strategy-studio-teamup-plan-scared/

*17:蒼天航路』にそんなかんじで描いてあった。

*18:https://k-punk.org/now-wait-for-last-year-again-or-how-king-kong-wiped-my-memory/

*19:ディズニーは取り込んだ他者をすべて「ディズニフィケート」していく。ディズニー/ピクサーの凋落の話題によく比較対象にされるソニーの『スパイダーマン:スパイダーバース』はこうした文脈においてこそ引き合いにすべきだ。異なるマルチバースからやってきた異なるテクスチャのスパイダーマンたちが不調和な形で併存する世界。もっとも、それはソニーが王国に足るだけの資本力を持っていないだけなのかもしれないけれど。

*20:アリエル・ドルフマン、アルマン・マトゥラール、山崎カヲル・訳『ドナルドダックを読む』昭文社

*21:『フュリオサ』の語りに鈍重さをおぼえるのは『マッド・マックス:怒りのデスロード』のあの昂奮を憶えているからだし、『クワイエット・プレイス:DAY1』のジャンプスケアを排した観念的な語り口を許容できるのもこれまでの二作でそういうものをしゃぶり尽くしたと知っているからだし、『怪盗グルーのミニオン超変身』になんの希望も抱かないで観に行けるのも『怪盗グルー』がなにかを期待できるようなシリーズでないと知っているからだ。

*22:キャラ増加による弊害はもうひとつある。一作目に愉快なビートを形作っていた、ライリー以外の人間キャラたちの脳内の感情たちによるやり取りがほとんど行われなくなった。おそらく、下手に出すと「え、でもこいつら前作にはいなかったじゃん。大人の脳内なら前作からいたはずだけど……」と前作と矛盾が起こしてしまう。もっともそこは制作陣も自覚しているようで、クレジットシーンのおまけでなんとか辻褄を合わせてはいる。しかしおおっぴらに使えなくなったのは痛かった。

*23:https://pocculture.com/interview-disney-and-pixars-inside-out-2-director-kelsey-mann-and-producer-mark-nielsen/

*24:もっといえば、どこの馬の骨ともしれない会社だからではなく「ピクサー」だからであり

*25:それでもピクサー全体の成績でいったら下位に属するが

2024年上半期の新作映画ベスト10


最近は映画に刺激を受けることもなくなったな……とおもっていたのですが、今日トッド・ヘインズの『メイ・ディセンバー』を観て、こんなギリギリのプロットを画の力だけでこれほどまでに押し通せるものなのかと感動し、少し前まで出す気もなかった上半期のベストを並べる気になりました。いい映画というのは、映画の原義について考えさせてくれるものですね。

1.『ゴッドランド/GODLAND』(フリーヌル・パルマソン監督、アイスランド

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上司から「アイスランドに教会建てろ」って言われたデンマーク人の牧師が、湿板写真の機材をえっちらおっちらかつぎながらマジでなんもない大地に教会を作ろうとする。『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』や『フィツカラルド』の風格を具えていますが、もうすこし世知辛い。この世知辛さがいいんですね。画面も当時の写真の規格に合わせたような窮屈な画角になっていて、そんな世界で馬や人が不毛の地に呑まれて死んでいく。特定のだれかやなにかの悪意に苛まされるわけではなく、強いて言えばアイスランドという途方もない空白が人間を叩きのめしていく。牧師はずっと「デンマークに帰りたい帰りたい」としかぼやかない。
世にも最悪な「走る馬(マイブリッジの)」オマージュが出てくるんですよね。*1写真の映画(なにせ「この映画はアイスランドで発見された七葉の写真を着想とした」というウソ字幕が出る)でもあるし、アンチシネマでもある。信仰も科学も生命も文化も、すべてここでは無力なんだ。

2.『アイアンクロー』(ショーン・ダーキン監督、米)

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プロレス一家もの。といっても『ファイティング・ファミリー』みたいにハッピーな感じではぜんぜんなくて、ほとんどホラーじみた陰惨な悲劇を淡々と描いていく実録バイオピック。
あまり撮り方の巧い映画ではないんだけれど、題材がどストライクです。強権的な父親の下でプロレスエリートとして育てられる三人の兄弟たち。幼い頃は無邪気に戯れていたかれらが成長するにつれて才能の格差や父親からの期待の差なんかでボロボロになっていく。ブラザーフッドの崩壊はつねにうつくしい。この映画もまた例外ではありません。

3.『TALK TO ME トーク・トゥ・ミー』(フィリッポウ兄弟監督、オーストラリア)


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去年公開だけど今年観たので。
ジェイムズ・ワン以降といっていいのか、「異界」としてのあの世とつながる映画はいくらも出てきたけれど、この映画はそのつながり方の描写が群を抜いている。

4.『夜明けのすべて』(三宅唱監督、日本)

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フラジャイルな主人公のモノローグで映画がはじまったときは逃げ出したくなったんですけれど、そこで見切らなくてよかった。モノとことばの往復がていねいな映画。救われる気概のあるひとたちが救われていく。映画にしかつけないうつくしいうそです。

5.『ゴジラ×コング 新たなる帝国』(アダム・ヴィンガード監督、米)


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近年ではマイケル・ベイの『アンビュランス』なんかもそうだけれど、「映画ってこれでいいんだ」と開き直らせてくれる作品に弱い。ひたすら前に向かって疾走しつづける映画は、停止ボタンのない映画館でしか存在できない。それってすごいことですよ。

6.『美しき仕事』(クレール・ドゥニ監督、仏)


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1999年の作品の日本初上映。初めてドゥニ作品を観たのは『ハイ・ライフ』で、こんな退屈極まる映画を撮る監督なら今後二度と観なくてもいいかとおもっていたのですけれども、予告編がたまらなく魅力的だったので本作を観に行きました。大正解。フランス外国人部隊の男たちがひたすら肉体と醜い嫉妬心をぶつけあう(ときにはマッパで)映画です。
太陽と肌を佳く撮る作品も少なくなりつつあります。

7.『恋するプリテンダー』(ウィル・グラック監督、米)


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『マイ・エレメント』もそうだったけれど、最近はクラシックモダンなロマコメの波が来ている。自分のなかだけで。世間的にはクラシカルなロマコメはあんまり求められてない風向きなので、出たときに貪るのが吉かも。あとエンドロールが最高。マジで。

8.『チャレンジャーズ』(ルカ・グァダニーノ監督、米)


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ときおり正気じゃないカットの挟まる感情と時間のラリー。あんまりノッてないときのグァダニーノに近いんだけど、役者のパワフルさでどうにかしている。

9.『システム・クラッシャー』(ノラ・フィングシャイト監督、ドイツ)


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救いたくてもけっして救えないハズレものを救うにはどうすればよいのか→どうにもなんねえよね、というあられもない現実をなお希望があるかのように見せかけられるのが映画の美点。

10.『落下の解剖学』(ジュスティーヌ・トリエ監督、仏)


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最後のひと枠は『リンダはチキンが食べたい!』でもよかったんですが、イヌがよかったので『落下の解剖学』に軍配があがりました。適度なコンシャスさと適度なアートハウスっぽさに少々のポップさを加えた仕上がりはいかにもカンヌ好みだけど、そのバランスであまりいやらしくはないところもいい。去年のアカデミー作品賞ノミニーのなかではいちばんかな、とおもっていたんですが、最近観た『ホールドオーバーズ』に鞍替えしました。
proxia.hateblo.jp

*1:「走る馬」といえば、劇場版ウマ娘ジャングルポケットのやつでも冒頭のシーンでウマ娘版「走る馬」が出てきますね。