長いよ。今回は。
アメリカを訪れるたびにわたしは、本当の「アメリカ」はマンハッタンやシカゴの街路にも中西部の農場町にもなく、ハリウッドランドスケープやメディアの景観によって創り出された幻想のアメリカのなかにこそあると、よく感じる。
そして、読みとおしたとしても、あなたが今の情勢についてなにか気の利いたことをいう助けにはならない。
狂気とは一体何なのだろう? そもそもいろいろな意味で、狂っていない人なんているのだろうか? パッと見てわからなくても、みんなおかしな勘違いをしていたり、どこかしら狂っている。まあ俺以外はね。
ーーリン・ディン、小澤身和子訳『アメリカ死にかけ物語』
そうね、だから⋯⋯はじめましょう。
11月5日午前9時 ベルビュー
エリオット・ベイに蒸気船で上陸して数日が経った。ホテルのテレビはCNNもFOXもMSNBCもABCもNETFLIXもYoutubeも平等に映す。なにかについて話しているようだけれど、なんなのか、まるでわからない。外に出る。徒歩三分で芝生の広がる公園へたどりつく。みなランニングしているか、デカいイヌを連れているか、デカいイヌといっしょにランニングしている。ほんとうに、この三パターンしかない。信じてくれ。
遊具には子どもたちが群がり、人工の川ではカモたちがぐわぐわと遊び、高級というよりは小綺麗という意味で身なりの良い親たちがおだやかに談笑している。実に心地よい。実に正気だ。青空の州(ブルー・ステイト)ワシントン。シアトル近郊のベルビューは、その日も平穏だった。
わたしは公園のベンチに座って朝食をとっていた。コーヒーチェーンで買ったクロワッサン・アマンドとロンドンフォグ、そしてメイシーズの洒落た店舗で買ったタロイモウベ味のココナッツプリン。計32ドル。約5000円。はっきりいって5000円の味じゃない。クロワッサン・アマンドは、烏丸の文博横のPAULで買ったほうが断然うまいし安い。ロンドンフォグは歯を溶かすほどに甘く、ココナッツプリンにいたっては、なんというか、ココナッツプリンだ。
哲学者の三浦哲哉は『LAフードダイアリー』で訪米当初アメリカの食べ物に期待していた要素として伝統から断絶した「不自然さ」と人工的な「実験性」を挙げていたけれど、このクロワッサンとココナッツプリンにはそのどちらもなくて、ただ自然で保守的な、味わいのなさだけがある。*1
でも、高価いとはおもわない。実際に日常的に買えるかどうかは別にして、この街ではおそらくだれもがこれを妥当な値付けとおもっているのだろう。食べ物の値段に反映されるのは原材料費と人件費だけとはかぎらない。安全、安心、健康、正気、この街をたいらかに保つあらゆる魔法の値段も含まれている。
しばらくぼんやりイヌやカモを眺めたのち、西側から吹く潮風にさそわれて、散歩へ出かける。すぐ背の高い街路樹に抱かれた瀟洒な住宅街に入る。どの家もデカい。そして造りがいい。わたしは京都市水族館の水槽のなかにしか住んだことがないので高級な家というのがどういうものかわからない(わたしみたいなものが京都の東山に侵入しようとすると棒でつつかれて追い出される)けれど、まあ、なんか高価な家なんだとおもう。どれもひらべったい。敷地がじゅうぶんに広くて、屋を重ねる必要がないのだ。
これまで見た住宅街のなかでも、もっとも美しい景観だ。ベルビュー(「美しい眺め」)という地名に恥じない。実際ここはアメリカでも四番目に住宅価格の高価い一帯として知られている。名だたるテック系の大企業が本社を置く街としても知られる。
空気もいい。アメリカの街としてはびっくりするくらい車が通っておらず、植物も多いので酸素が濃くすずやかだ。湿っぽすぎず、乾きすぎてもいない。「呼吸ができる」というのは、こういう場所でこそいうのだろう。開放感もすごい。ここに比べたら、東京は海の底にひとしい。わたしなんか、潰れてしまうよ。
そして、もちろん、みなイヌを連れている。デカいイヌを。林立するビル群のふもとに広がる芝生のうえや、整然とした石畳の歩道で、イヌたちをのびのび遊ばせている。道端にはイヌ用のエチケット袋を無料で配布するポストが建てられていて、街そのものがイヌを飼うことを奨励しているようだった。
イヌの街、とでも呼ぶべき場所があるのだとおもう。イヌは、特にデカいイヌは、地域の治安のよさと住環境のよさを表す。幸福度の指標にもなる。リードにつながれた善いイヌたちが暮らす地上の楽園。それがここだ。こういうのが「イヌを飼う」ということであるなら、狭苦しい日本の都市部でイヌを飼うのはもれなく虐待なのかもしれないとすらおもわされる。
この安寧はなんだろう。外国に行くと、いつも「ここは日本じゃないな」と感じるはずなのに。ひとびとが異国語をしゃべっているからではない。通貨や食べ物が違うからでもない。安全を実感できないからだ。治安の話じゃない。治安はもちろん含まれるが、そういうことじゃない。「自分の日常的にいる場所」ではない、という感覚だ。たとえ車に轢かれようと、近くの弁当屋がにぎりめしの代わりに大麻を売っていようと、闇バイトで雇われた若者が強盗に押し入ろうと、自分にとっての「ふつう」であるかぎりは、自分が排除される異物でないと確信できるかぎりはそれは安心と安全の境地へとむすびつく。その感覚は、外務省の危険安全レベルにはあらわれない。というか、なんなら東京ですら「日本じゃない」。あんなに自分が異物でしかない街もない。
ところがベルビューはなんというか、日本だ。日本にこんな整った住宅地はおそらく存在しないけれど、日本だ。言語も気候も違うけれど、日本だ。こんな場所で育った記憶は一切ないけれど、曇りなく穏やかに過ごせる。それは自分とベルビューがおなじだからではない。自分は攻撃されたりや排除されたりしないだろうという絶対的な確信が持てるからだ。
根拠はない。でも、そう感じる。だれもが銃を持っている可能性のあるこの国で「そう感じ」られるのは、とてつもないことだ。
歩きつづけて、ワシントン湖沿いの別の公園にたどり着く。ここもまた良い公園だ。真新しい遊具が設置してあり(ベルビューの公園はどこでもたっぷりと小綺麗な遊具がある)、歩道も歩きやすく均されている。当然のように景色もよい。この街には雑で見苦しいところはひとつもないのか?
公園の歩道をさらに行くと、だんだん傾斜がかっていき、やがて山道めいた坂の入口にさしかかる。鬱蒼とした木々がそれまでのほがらかな陽光を遮り、やや異質な薄闇でみずからの内を閉ざしている。
どうしよう⋯⋯と迷っていると、魚が話しかけてきた。そう、魚、いまにも死にそうな、陸の魚だよ。その魚はゼエゼエと喘鳴しながら、かすれた声で、いう。
「つれてってくれ」
どこに?
墓に。
「あの方はもう一度アメリカを偉大な国にしたがっておられます」
「それはきみもじゃね、ウェイン。わしもそうじゃ。もっとも、最終目標についてはだれの意見も一致しているが、手段についてはもっと議論を重ねる余地がある……いや、それをいうなら、いったい、"アメリカ”という言葉が厳密には何を意味するのか、じゃ。これは情緒的なシンボルでな、ウェイン、一九八〇年、九〇年代に流行遅れになって、だれにもアピールしなくなったもので……」
ーーJ・G・バラード、南山宏訳『ハロー、アメリカ』
11月5日午後1時 シアトル・キャピトルヒル地区
もちろん、ここにもイヌはそこいらじゅうにいる。
魚を脇に抱えてUberを降りると、赤いジャケットにバッヂをジャラジャラつけた髣髪髭面の男性に呼び止められる。
「気をつけたほうがいい」
気をつける?
「この街は変わっちまったよ。いつもは善き隣人たちの街なんだ。今日は違う。気をつけなよ」
男はそう警告を発して、乱杭歯を剥いてニッと笑い、ひたすら困惑するわたしたちを残して去っていく。
信じてくれ。
ほんとうに、そんな男と会ったんだ。
わたしたちは警戒しながらキャピトルヒルを歩いた。この街のカラーを知るのにさして時間は要さない。五十メートルごとに虹色と遭遇する。レインボーフラッグをかかげた店、レインボーカラーに塗られた横断歩道、レインボーカラーのユニコーン⋯⋯。真っ黒な服装に身を包んだ、どう見ても中高生ぐらいの子どもたちが、やはり真っ黒な小さなライブハウスの前で列をつくっていた。その斜向かいにはポップアート志向のサブカルファッション・グッズショップがあった。アートと若者の街にありがちなヒリツイた空気はあるものの*2、髭バッヂ男の警告に反して、身の危険らしい危険は感じられない。
シアトルはグランジの発祥の地だという。マーク・フィッシャーによると、カート・コバーンは資本主義リアリズムの絶望をもっとも能く体現したミュージシャンなのだそうだ。ジェイムソンのいうところの『もはやスタイルの革新が不可能で、想像の博物館の中で死んだスタイルを模倣することしかできない世界』の中に自分がいることを見出し、反抗することそれ自体が産業にあらかじめ取り込まれた見世物だと了解しながらも、それが耐え難いほどに陳腐だと知りながらも、反抗の態度を貫かざるを得なかった男。
「既に確立された『オルタナティブ』や『インディペンデント』という文化圏を見てみよう。そこでは、まるで初めてであるかのように、古い反抗や異議申し立ての身振りが延々と繰り返されている。『オルタナティブ』や『インディペンデント』は、主流文化の外側にあるものを指し示すのではない。むしろ、それらは主流の中でのスタイル、実際には支配的な様式なのである。」( Mark Fisher," Capitalist Realism: Is There No Alternative?")
わたしたちは『インディペンデント』や『オルタナティブ』だったものが主流文化に取り込まれているさまを実際に目の当たりにすることができる。「想像の博物館」などではなく、現実の博物館で。シアトルには〈ポップカルチャー博物館〉という音楽・映画・ゲームなどのサブカルチャーを扱った施設*3があり、そこではニルヴァーナを特集した展示も設けられている*4。かれらの愛用した楽器、レコードのジャケット、ポートレイト、ライブのフライヤー、そして生涯がガラスケースの向こうで陳列され、かつて蔑まれていた文化に正統性を与えている。尊いことだ。入場料は30ドルほど。ウェブサイトから予約する場合は曜日とタイミングによって価格が変動するらしい。株価のように。
ちなみにこのポップカルチャー博物館でのニルヴァーナの展示は、つい最近、ある物議をかもした。カート・コバーンについての解説板に「彼は27歳で"un-alived himself"した」と書いたのだ。
un-alive とはインターネットのスラングで「自殺」を指す。
2020年以降、コロナ禍で病みやすくなったユーザーの精神を救うために、プラットフォームの側が検索において特定のネガティブな単語を検閲するようになった。「自殺」もそのひとつだったのだけれど、まあしかし、インターネットで自殺について語らないなんて不可能だ。ユーザーは禁止された単語を別にワードに置き換えるようになった。それが、un-live 。
こうしたネットにおける検閲逃れのテクニックを英語圏では、アルゴリズムによるフィルタリングに適応した言語という意味でアルゴスピーク(Algospeak)と呼ぶ。そうしたものをポップカルチャー博物館のキュレーターは「メンタルヘルスとの闘争のために悲しくも命を落とした人々への敬意のしるしとして」使ったらしい。奇妙ではあるが、文脈としては通らなくもない。
ところが、一部のひとびとがその言い換えに反発した。かれらが引き合いに出したのはジョージ・オーウェルの『1984年』だった。『1984年』で描かれる管理ディストピア社会では、市民を馴致するためにアルゴスピークならぬニュースピークなる語法が幅を利かせている。要するに語彙をシンプルに変えていくことで市民の思考の幅を絞ろうとするのだけれど、そのうちのテクニックのひとつとして、接頭辞にun-をつけることで(主に政府批判に使えそうなネガティブな)反対語を大幅に削減するというものがあり、un-liveはそれを想起させる⋯⋯というのが博物館批判派の主張だ。
結局、博物館側が折れて「died by suicide」という一般的な表現に修正されたらしい。
皮肉な騒動だ。アルゴリズムによる統制に抗って生まれたアルゴスピークが博物館という権威に回収され、自殺という悲劇を無痛化するために用いられた。おそらく、キュレーターにはコバーンの死を消費したくない、という個人的な願いがあったのかもしれない。しかし、インターネット上での力なきひとびとの抵抗手段を博物館のキュレーターという立場から振るった結果、インターネット文化からのディストピア的悪夢めいた収奪と化してしまった。フィッシャーにいわせれば、これこそニルヴァーナ的な現象だろう。
オルタナティブでありたい、自由でありたいと願うわたしたちの精神はすきあらば盗まれ、無害化され、取り込まれ、換金されていく。そこから逃れることはできない。
I’m out for Presidents to represent me. (Say What?)
I’m out for Presidents to represent me. (Say What?)
I’m out for dead Presidents to represent me.(俺を代表してくれる大統領なんていない
俺を代表してくれる大統領なんていない
俺が求めている大統領は 札束に印刷された死んだ大統領だよ)
ーーNas、池城美菜子訳「The World is Yours」
11月5日午後3時 エリオット・ベイ・ブック・カンパニー
魚があいかわらず墓場に行きたいとだだをこねるので、書店に入る。書店は墓場以外でもっとも墓場に近い場所だ。いまは亡い人間が死んだ紙に失われてしまったことばを綴るのが本であり、書店ではそうした墓碑を粛然と並べている。
書店はエリオット・ベイ・ブック・カンパニーと名乗っていた。公式サイトにはこうある。
「エリオット・ベイ・ブック・カンパニーは、キャピトル・ヒル地区の心臓部に位置する総合書店です。地域最高レベルの15万冊以上の新刊書コレクションに加え、大量の既刊本も取り揃えています。さらに、年間を通してすばらしい著者たちによる朗読会やイベントを実施しています。
1973年にウォルター・カー氏によって創業された当店は、パイオニア・スクエアのメイン・ストリート109番地にインディペンデント系書店として設立されました。その後、著者朗読会用のイベントスペースやシアトル初の書店併設カフェを加えながら、店舗の拡大と変遷を重ね、2010年にシアトルのダウンタウンに隣接するキャピトル・ヒル地区に移転しました。私たちは独自の書籍セレクション、杉材を用いたオリジナルの本棚、そして知識豊富なスタッフと共に移転し、これまでと変わらない温かい雰囲気、カスタマーサービス、品揃えを維持しています⋯⋯」
そして、「Thank you for supporting this woman and queer owned business.」という一文で締めくくられている。
二階建ての、すばらしく雰囲気のいい本屋だ。質量ともに充実していつつも、インディペンデント系らしく店としての趣味や政治性*5を反映したセレクトも並ぶ。YA、絵本、マンガといった子どもたちのためのスペースも贅沢に取っていて、そういうのを見るだけでも豊かな心地になれる。
誘われるようにSF&ファンタジーのコーナーに行くと、新刊棚にパオロ・バチガルピの新作『Navola』(内容はまだ知らない)やレヴ・グロスマンの『The Bright Sword』(内容はまだ知らない)、20世紀初頭の満州を舞台にしているらしいヤンシィー・チュウの『The Fox Wife』(やっぱり内容はまだ知らない)などが面陳されている。その裏に回ると、慣れ親しんだ、死んだ作家たちがたくさんいた。
そのなかにJ・G・バラードの『ハロー、アメリカ』があった。
コンラッドの『闇の奥』を下敷きにエネルギー枯渇と財政破綻と劇的な環境変動によって滅んだあとのアメリカ合衆国*6を舞台にしたSFだ。滅亡から一世紀ほど経ったところで、ヨーロッパに離散していたアメリカ人の子孫*7が蒸気船アポロ号に乗ってマンハッタン島へ上陸し、その船にこっそり潜んで「密航した21歳の青年(もっとも偉大な西部劇俳優と同じ名前の「ウェイン」)は、自分がこの国の新しい支配者、第45代大統領となることを夢見るが⋯⋯」*8。かつて合衆国を覆っていた資本主義と車とパラノイアが幻想的かつ鮮烈なイメージとして矢継ぎ早に展開されていく、いつもどおり美しくどうかしているバラード作品だ。「優れたアメリカ論フィクションは往々にしてアメリカ人以外の手で描かれる」という法則*9に、この本もまたのっとっている。
「第45代大統領?」
と、魚は、ない首をかしげる。
「今は第何代だっけ⋯⋯?」
『ハロー、アメリカ』が出版されたのは、1981年のことだ。古いSFの描く近未来は、わたしたちの生きる現在に追い越されることがある。それが昔はいやだった。今は、ちょっと、いいかもしれない。
ググると一発で出る。1789年ジョージ・ワシントンから数えて45代目(58期目)のアメリカ合衆国大統領は、2017年に誕生した。見たことのある顔だった。ホテルのテレビが絶えずその顔を映していた。
『ハロー、アメリカ』に出てくる”もうひとりの第45代大統領”がどんな名を名乗っていたか。おもいだすべきではないのか。
レーガンの個性(パーソナリティ)。この大統領選候補者の深遠な肛門性は、将来において合衆国を支配すると予想されよう。⋯⋯(中略)⋯⋯サディズム傾向をもつ精神病質者たちにレーガンをともなう性的妄想を生みだすよう求める実験がさらにおこなわれて、大統領職にある人物たちはもっぱら生殖器の観点から認識されているという見込を裏づける結果となった。
11月5日午後5時 シアトル・ボランティアパーク
書店で手に入れた『Nintendo Power』誌*10に載っていた地図をたよりに、墓へ向かう。シアトルのレイクビュー墓地には、ある偉大なスター俳優が葬られている。
ブルース・リーだ。十八歳で香港からシアトルに渡った李小龍青年は六年のあいだ肉体*11と精神*12を磨き、それからカリフォルニアへ移ってジークンドーを創始した。ついでに映画スターにもなった。と、いうのが Wikipediaで語られるところのブルース・リーとシアトルの由縁で、しょうじきブルース・リー映画をロクに観たことのないわたしには、なぜ死んだカンフースターが魚にとってそこまで深甚な意味をもつのか、わからない。
あらゆる死への道がそうであるように、墓場までの道のりもまた遠い。ANTIFAが集会を計画しているともボンクラどもがLARPを開こうとしているとも噂されているボランティアパークを横目に、やたら人間に対してイキりたっているリスのガンつけに怯えつつ、住宅街を過ぎていく。よくアメリカの映画なんかで見るかんじの「郊外の一軒家」然とした家が多い。適度な広さの芝生に、トム・ソーヤーがペンキ塗りをしていそうな塀に、年老いた南部人が安楽椅子を漕ぎながらライフルの手入れをしてそうなポーチ。ハロウィンのかざりつけが残っている家も多い。そして、もちろん、路上にはリードで人間と並走しているイヌたち。
ベルビューより手ごろかもだけど、だとしても生活費がべらぼうなんだろうなあ、などと世知辛いことを考えながら、坂をのぼっていく。夕方の風が冷たい。冬に近づきつつある。あるいは死に。
住宅街を抜けると、また別の公園だ。なんかもう、シアトルの公園の多さと豊かさにはびっくりする。どこも歩くだけで心地よくて、たちまち土地に対する愛が芽生えてしまう。I ♡ Seatle。
「シアトルのつづりは、Seattle。tはふたつだ」
と、魚がテンションの下がることをいう。
「それは先住民の酋長の名だった。彼は入植者たちと交渉しつつ、彼のひとびとを守る方策を探った。平和主義者と、いまならいえるだろう。でも、その姿勢が妥協と見られて、彼のひとびとから反発もされ、その一部が入植者と戦争を起こした。結局、彼のやさしさは報われなかった。あの悪名高いポイント・エリオット条約が結ばれ、彼のひとびとは先祖代々の土地を失い、アメリカ各地へと散らばった。平和とはなんだろうね、オオサンショウウオ? 交渉とは? ひととひととが交わることとは? 英語でtがひとつだから、ふたつだから、それが英語でないことばを話していたひとびとにとってなんなんだ?」
魚は視点の定まらない眼を泳がせ、顎をパクパクさせながら、早口でそんなうわごとを口走る。息を吸い吐きするたびに、腹部の鱗に藍色の夕闇にきらめきの波を立たせる。いや、もう、夜だ。
魚は死にかけている。
どうしようかと、顔をあげると、視界に黒い穴がとびこんだ。よく見ると、表面がたゆたっている。貯水池だ。
魚を池に放さねば、と焦るのだけれど、池の周囲に網と有刺鉄線が張り巡らされており、侵入できない。
ふと、池のそばに目をやると、高い塔があった。あの塔の最上階から魚を池へ落とせば、有刺鉄線の壁を越えられる。これだ。わたしは塔に突撃した。
これだ、ではなかった。
死ぬほど死んだ。
塔のなかは強敵だらけで、『ダークソウル』の城下不死街みたいになっており、いや城下不死街より適切なたとえが『ダークソウル』にはあるのかもしれないがわたしはそこより先に進めておらず、ともかくも永遠に出られない死地なのだった。
篝火から篝火に移動しようとしては、休憩ごとに復活するスケルトン兵たちの襲撃に耐えきれず、もとの篝火へと撤退する。乾坤一擲で無理に突破をはかると、死ぬ。どうにもならない。
途中の踊り場で出会った商人の話によれば、塔のなかは全三十の階層に区切られており、フロアごとにボスが配置されている。屋上にたどりつくには最低でも30くらいまでレベルをあげておかないときびしいらしく、それもまともなプレイスキルがあっての話だった。わたしの腕なら50でもちょっと苦しい。
結局、塔の攻略は断念せざるを得なかった。わたしたちは塔を離れ、ふたたび墓地を目指した。寒風に逆らいつつ、ひいひいと坂をのぼる。魚は目に見えて衰弱していく。だんだんと、鱗の波が凪いでいく。
開けた丘のような地点に出た。なにやら立派な博物館が建っている。ウィング・ルーク博物館だ。アジア系移民の歴史に特化した展示を行う博物館らしい。すこし惹かれたが、とうに十七時を過ぎて閉館している。
その博物館の正面に展望台があった。ドーナツ型の謎のオブジェの向こうに、シアトル中心街の夜景が広がっている。きれいだね。疲れ果てた身体からはそんなシンプルなことばしか出ない。墓地はまだまだ遠いようだった。
ほら、きれいだよ、とよく夜景が見えるようにと抱えていた魚を上に持ちあげる。反応が薄い。なにもいわない。
魚をおろして、その呼吸をたしかめる。
息が絶えていた。
この土地では他人の同情心なんかをあてにしてはいけないのだ。カールはアメリカのことを本で読んでいたが、この点ではまったく正しかったわけだ。ここではただ幸福な人々だけが周囲の無関心な顔にはさまれながら、めいめいの幸福をほんとうに享楽しているように見えた。
11月5日午後7時 シアトル・某所
死んだ魚を抱えて、Uberの運転手にてきとうなバーへ向かうように頼んだ。禿頭の運転手は自分のことをAmazonのCEOだと思い込んでいる狂人で、自分もこのあたりに住んでいるのだといった。
「このへんはいいところだよ。みな穏やかで、犯罪もない。隣人はみな親切だ」
と、運転手はいう。
わたしは昼間に遭遇した赤いジャケットの予言者からもらった警告について考えた。
運転手は一方的に喋る。
「バーに行きたいのか? こんな日に? へんな人だね。まあ、いいんじゃないか。この街ではなにかが起こっても、なにも起こらない」
バーは混んでいた。なにやらパーティのようなものが開かれているせいだった。色とりどりの風船が飛び、スーツを着た女性のパネルが設けられ、大きなプロジェクタ用スクリーンにMSNBCの特別ニュース番組が映し出されている。
スクリーン前に群がったひとびとは、「Harris/Walz」と書かれた帽子やバッヂをつけ、談笑しながら光をながめていた。
番組の画面が切り替わって、青背景をバックにパネルになっていた女性が映し出され、「ヴァージニアで勝った」と報じられる。バーの客たちから歓声があがる。直後、赤背景をバックに金髪の老人が映し出され、「サウスカロライナで勝った」と出る。ブーイングがあがる。
なにをやっているのか、と訊ねる勇気はなかった。たぶん、スポーツ観戦かなにかだろう。あるいは、ビンゴ大会。
わたしはバーの前に停まっていたフードトラックに死んだ魚を調理してくれるように頼んだ。すると、たいそう見栄えの良いフィッシュ&チップスをこしらえてくれる。フードトラックのシェフがこう訊ねる。
「友だちだったのかい?」
わたしは答える。
「たぶんね」
ほんとうは「そうだったらよかったね」といいたかったのだが、わたしは英語でどういえば起こり得なかった過去についての願望を表現できるのかわからない。
バーのなかから歓声が響いた。また青い女性が勝ったらしい。
チップスをつまみながらバーに戻ると、出入口横の空間にステージらしき台座がこしらえられていた。ギターやベースを持ったひとびとが音合わせをしている。マイクスタンドもできていた。ライブをやろうとしているらしい。でも、バーのひとたちの視線はスクリーンに注がれていて、だれもステージとバンドの出現に気づいていないようだった。
今度はブーイング。見ると、金髪の老人ではなく、壮年の別の男性が映っていた。テキサス州でSENATEというのを勝ち取ったらしい。ここでは赤ければ、みんな敵であるようだった。
バンドが演奏をはじめた。ボーカルが三人フロントに立ち、耳慣れたなつかしいサウンドに乗せてラップをはじめる。Rapper's Delight であるようだけれど、わたしの知っている歌詞とは違う。どういう歌詞かわかればよかったのだけれど、フィッシュ&チップスをたらふく食べてお腹があったまり、ねむくなっていたわたしには、マイクを通して撹拌されバーの喧騒に融けていく声をうまく聴きとれない。まどろみのすきまを縫って、となりに座っていた客が別の客にこうこぼしているのが聞こえる。「なんて混沌だ。恥だよ。なんとも、恥ずかしい⋯⋯」
そういえば、ベルビューのショッピングモールを散策しているときも、聴こえてくる音楽は絶妙にチージイで懐かしかった。トゥー・ドア・シネマ・クラブの「Undercover Martyn」、マルーン・ファイヴの「This Love」、ダニエル・パウターの「Bad Day」。”あのころ”のヒットナンバーばかり。やはり混沌としていたけれど、今よりはそうでなかった”あのころ”。ベルビューのメイシーズはそんな時代に留まっているかのようだった。なんたって、バーンズ&ノーブルとかいう大手書店チェーンが新規開業するモールなのだ。2024年なのに。本を、しかも紙の本を読む人間なんて地上のどこにも残っていないはずなのに。*13なのに⋯⋯なのに⋯⋯⋯⋯Zzzz....。
さいきん観た映画でシアトルが舞台だったものはあっただろうか? あった。リチャード・リンクレイターの『バーナデット ママは行方不明』だ。シアトルの郊外に住む裕福な家庭の主婦であるバーナデット(ケイト・ブランシェットが演じている)が近所付き合いや子育てに疲れはてて壊れ、建築家というかつての夢に逃避して南極へと向かう物語。彼女の夫はマイクロソフト社員で、マイクロソフトの本社はもちろんシアトル近郊のレドモントンにある。「資本主義の何が問題かというというと、誰にも好まれないものを供給するということです。資本主義と選択の話をすれば、「マイクロソフト」、そのひとことにすべてが凝縮されています。誰もほしいとおもっていないのに、みんな持っていないとダメなものです。チェーン店も同じです。チェーン店の大ファンなんているのでしょうか? ほとんどいないとおもいますが、わたしたちはみなそこに行く羽目になるのです」*14⋯⋯。
幸福であるように見えることも「誰もほしいとおもっていないのに、みんな持っていないとダメなもの」のひとつだ。幸せな家庭を築き、それを近所に福々しく見せなければならない。そうした見た目の幸福はマイクロソフト、Amazon、スターバックスから配られる。ここシアトルから輸出される。みなそこに行く羽目になる。
そういえば、昨日はスターバックスの一号店に行った。海辺のピアにある小さな店舗で、店内に飲食用のスペースはなく、半分はカウンター、もう半分はマーチャンダイズに割り振られていた。
「みんなここでしか手に入らない商品ですよ」と一号店の店員はほがらかにつげる。京都に帰ってからそれを■■■■に話すと、「京都のスターバックスでも京都限定のグッズが売られている」と教えてくれた。御当地ハローキティのように規格化された差異という、矛盾した商品がいともかんたんにわたしたちの現実に流通する。わたしたちはみなあらゆる場所へ行く羽目になる。
一号店のコーヒーには一号店限定の豆が使われていた。飲むと、たしかにおいしい。でも、ふだんスターバックスに行かないわたしには、その味が他店とどう異なるのかわからない。
椅子から転がり落ちかけたところで、目が覚める。よだれをふきふきあげた視線が、プロジェクタの画面に定まる。画面の両端からそれぞれ赤いバーと青いバーが表示されていて、赤いバーのほうが長い。来たときから、ずっとだ。
客の数が減っていた。残ったひとたちもEXITと掲げられたサブの出入り口から帰りはじめている。みな、憮然とした表情だ。怒りや悲しみといった激烈さはなく、ただただ無表情になにかを諦めているようすだった。
バンドはティアーズ・フォー・ティアーズの「Everybody Wants to Rule the World」を口ずさんでいる。本気か? 『Mr.Robot』じゃあるまいし。今年は『ネクスト・ゴール・ウィンズ』でも『怪盗グルー』の新作でも聴いた気がする。*15ウクライナでの戦争開始からこのかた、ずっと流れている曲な気がする。いや、2016年からだったか? それよりもっと前から? 「光の届かない部屋がある/壁が崩れ落ちる中で手を取り合って/その時が来たら、私はすぐ後ろにいる」⋯⋯。*16
だれも歌を聴いてはいなかった。ステージの前は不自然なまでにきまずい空白ができていた。みなプロジェクタを凝視するか、帰路につくかしている。ひとりを除いて。
赤いジャケットの髭バッヂ男だった。あの予言者がいた。
バンドの演奏にただひとり反応し、踊り狂っている。
ボーカルのひとりが「Recount!」と叫び、あたらしい曲がはじまる。
ますます髭バッヂ男のダンスがはげしくなる。
彼の存在に気づいた一部の客たちはなんともいえないかんじで彼をながめていた。
「あの男、おれは好きだな」とだれかがつぶやくのが聞こえた。
信じてくれ。
これはほんとうにあったことだ。
11月5日に、わたしが目撃したすべてだ。
「それで、どこへ?」トムはさけんだ。「ぜんたい、どこへ行くつもりなんだ?」
「わからない」と彼はいった。「いや、そうだ。アメリカへ行くんだ!」
「いや、やめろ」トムは煩悶しながら、さけんだ。「行くな。お願いだから行かないでくれ。もう一度、よくよく考えてみてくれ。そんな向こう見ずなことはしないでくれ。アメリカへは、行かないでくれ」ーーチャールズ・ディケンズ『マーティン・チャズルウィット』
11月6日午前8時 ベルビュー
朝の風景はおだやかだった。なにひとつ変わったようにはおもわれない。イヌはあいかわらずそこいらじゅうにいて、ヒトは走っている。安全がつづいている。
ふたたび、ワシントン湖沿いの公園に来ていた。あのとき、魚に呼び止められて入れなかった薄暗い坂道の前に立つ。
『Alan Wake 2』の冒頭に出てくる森のようで、かすかにいやな予感もよぎったけれど、いやここはベルビューなのだし、”日本”なのだし、と一歩を踏み出す。あしもとの枯れ葉がくしゃりと乾いた音をたてる。くしゃり、くしゃり、とそんな音を響かせながら、だれもいない茂みをゆく。
おもったとおり、ここもまた気持ちよくウォーキングが楽しめる道だ。傾斜はやや急だが、適度に脚に負担がかかるところがまた心地いい。入る前におぼえたいやな予感など、とっくに忘れてしまっていた。
静かだった。住宅街のど真ん中にあるはずなのに、どこかの山の中腹みたいに人気がない。こんな場所を街なかに造れるだなんて⋯⋯ベルビューでは驚かされっぱなしな気がする。
と。
背後に気配を感じた。その感覚に、低いエンジン音が追いついてくる。
振り返ると、うしろからシアトル市警のパトカーがのろのろと迫っていた。
2023年1月、と魚が昨日教えてくれた事件をおもいだす。
インド系の23歳の大学院生、ジャーナビ・カンドゥラが横断歩道を渡っている最中にパトカーに轢かれて死亡した。シアトル市警は最初その事実を隠蔽しようとしたという。その後、別の警官がカンドゥラの死を茶化している動画が公開された。録画されたその映像で、警官はこういっていた。
「彼女はなんでもない人間だったんだよ⋯⋯11000ドルだっけ? 小切手を切ればいい。どうせ26歳なんだし、そんな価値のある女じゃなかった⋯⋯」
パトカーはゆっくりとわたしを追い越し、十メートルほど先で停車する。
なんだ?
ここはなにもない坂道だ。歩いているものも、わたし以外に存在しない。
わたしか? わたしに用があるのか?
心臓が高く強く打つ。脳の髄が焼けつく感覚をおぼえる。寒さにかじかんでいた指先が火照る。
ここはアメリカだ、とわたしは今まで忘れていた事実を思いだす。
だれかが銃を持っているかもしれない国だ、という事実を。
というか、確実に持っている。相手は警官なのだから。
入国審査官のねちっこい、疑わしげな視線をおもいだす。
あの赤いジャケットの髭バッヂ男をおもいだす。
「気をつけろ」
動揺を押し殺しながら、パトカーの横を通る。
呼び止められるか、とおもったが、パトカーのなかからの反応はない。警官が車内でなにをしているのか気になったが、こわすぎて運転席を一瞥すらできない。
ある程度パトカーに先行したところで、速歩きになる。歩道へはみ出した茂みがパトカーからの視線(「射線」だ、とそのときは捉えていた)をさえぎってくれるところまでくると、小走りに駆け出す。坂をあがりきり、住宅の並ぶ通りへ飛び出す。
パトカーが追ってくる様子はなかった。
だが、恐怖は止まらない。
わたしは走りつづけた。走って走って、道を下り、車道を横切り、ダウンタウンを越え、地下へと潜り、京都市営地下鉄の車両に飛びこんだ。
慣れた灯りに照らされて、ようやく一息をつくが、呼吸は荒れたまま落ち着かない。鼓動も全身を揺らしつづけていく。
扉が閉まり、車両がゆっくりと動き出す。そして、国際会館を経由して烏丸御池まで⋯⋯京都までわたしを運んでいく。
*1:ベルビューの名誉のためにいっておくと、ダウンタウンにあるRoyal Bakehouseのクロワッサン・アマンドは過剰な甘さでおいしかった。コーヒーチェーンのクロワッサンより安いにもかかわらず、大きさは3倍ほどあった
*2:キャピトルヒル地区はブラック・ライブス・マターの時期に抗議運動を過熱させた末、シアトル市警を追い出して自治を行ってもいた。Capitol Hill Occupied Protest - Wikipedia
*3:創設者はマイクロソフトの共同創業者でもあるポール・アレン
*4:Nirvana: Taking Punk to the Masses | Museum of Pop Culture
*5:とはいえ受けは広く、見間違えでなければバーニー・サンダースなどの本と並んでオルトライトの論客であるマイロ・ヤロプロスの本まであった。
*6:ついでになぜか日本も滅んでたはず
*7:そもそもアメリカ人自体がいろんな国からの移民で構成されているので、彼らは「故郷」に戻っていただけだったともいえるが
*8:創元SF文庫版表紙あらすじより
*9:ゲームだと『Death Stranding』もそうだし、『Life is Strange』もそうだ。そういえば、『Life is Strange 2』はシアトルから始まって米墨国境の「壁」に至るロードストーリーだっだ。それをわたしはあるプロラブコメディアンから指摘されて、はじめて気づいた。というか、調べてみると、シアトルはLISシリーズ通して出てくる定数であり、一部ファンのセオリーでは「”力”の発現に関係あるのでは」とささやかれている。らしい。
*13:これはわたしの物知らずだ。バーンズ&ノーブルは近年は店舗ごとに地域に合わせた品揃えを展開し、シアトルにかぎらず全国的に拡大傾向にあるらしい。https://www.honest-broker.com/p/what-can-we-learn-from-barnes-and
*14:マーク・フィッシャー、セバスチャン・ブロイ&河南瑠莉・訳「「未来を創造しなければならない」ーーマーク・フィッシャーとの未公開インタビュー(2012年)」