名馬であれば馬のうち

読書、映画、ゲーム、その他。


読書、映画、その他。


シマリスを実装する――チップとデールの変遷を読む

前書き

みなさんはチップとデールをご存知ですか?

もちろん、ご存知ですね。

では、チップとデールがいつどうやって誕生し、ディズニー作品においてどのような地位を占めていたかはご存知ですか?

ご存じない!

ああ、ああ、なんということでしょう。いけませんよ。そんなことではいけません。
ちかごろ不安定なこの宇宙では、いつアニメ星人が侵略しにやってくるかもわからないのです。
あなたは歴代プリキュアの名をすべて暗唱できたり、宮崎駿作品に対する岡田斗司夫の解釈を逐一再現できたりするからアニメ宇宙戦争が起こっても安泰だとおもわれているかもしれませんが、アニメの大海はあなたの想像よりずっと広い。
もし、もしですよ?
アニメ星人があなたに銃口をつきつけて、「チップとデールの存在意義について五秒以内に述べよ」と言い出したら? ウェルフィンみたいな奇跡的な天啓は誰にでも訪れるものではありません。

そこで、あなたの未来を救うのが以下のテキストです。
チップとデールのすべてがわかる!……わけではないですが、輪郭はわかるようになる。たぶん。おそらく。あるいは。

*本稿は2023年に評論誌『Philosofur』の第4号に掲載されたものです。編集と校正に尽力していただいたPhilosofur編集部・豅リリョウ氏に感謝します。


本編:シマリス実装アニメイトする――チップとデールの変遷を読む


1.なんかちいさくてかわいいやつら。






なんとなく、場違いなやつらがいます。ちいさくて、不遜で、おちゃめなふたりです。

ディズニーには「ミッキー&フレンズ(Mickey Mouse and Friends)」*1(「ミッキーと仲間たち」とも。以下「フレンズ」)というくくりが存在します。ミッキーマウスを中心とした、ディズニーの人気キャラクターのグループです。

透明なフレーズすぎてファンにもあまり認知されていないかもしれませんが、公式サイトでも特設の紹介ページが公開されており、そこで構成メンバーを確認できます。

名指しましょう。ミッキーマウス、ミニーマウス、ドナルドダック、デイジーダック、グーフィー、プルート……ここまではよく見かけるミッキーファミリーの中核をなす六名ですね。ところが、ページにはもうひとり(ふたり?)、紹介されているキャラクターがいるのです。





それがチップとデール。かれらはドナルド短編からの昇格組でありながら、ミッキーの好敵手であるヤマネコのピートをはじめ、ウシのクララベル・カウなどといった白黒短編時代からの古参組をさしおき*2、コアメンバー六名に次ぐ地位を与えられています。

とはいえ、このポジションに違和感をおぼえる向きは少ないでしょう。かれらは高い知名度や人気を誇っていますし、とりわけ日本での愛されようは熱烈です。

アメリカ本国でも例外的な扱いをされてきたといってもよいかとおもわれます。一九六〇年代以前のディズニー短編ではミッキー、ドナルド、グーフィー、プルートといったスターたちはそれぞれ主演シリーズのラインを持っていましたが、チップとデールにもまたこの特権が(わずか三本ながら)与えられていました。チップとデール以外に主演シリーズを持っていたのは同じくドナルド短編からの昇格組であるクマのハンフリーと、『ピノキオ(Pinocchio)』(一九四〇年)の脇役からミニーの飼いネコへとのしあがったフィガロだけです。

(主演級キャラの証、短編上映時のアイキャッチ。これはフィガロのもの)



ところが、よくよく考えてみると、チップとデールは「フレンズ」のなかでも奇妙な立ち位置にいる。

ミッキーやドナルドは見た目こそ動物っぽい。しかし、その立ち居振る舞いは人に寄っていて、二足で歩行し、服も着ればことばも喋ります。サイズ感もディズニー作品で描かれる他のネズミやアヒルよりよほど大きい。要するに人間なわけです。*3


例外的に、ミッキーの飼いイヌたるプルートは、四つ足で歩き、裸で、ことばを発しません。もちろん、実際のアニメーション作品におけるプルートの行動はかなり擬人化されている部分も大きいわけですが、「フレンズ」というミッキーを中心にしたファミリーにおいては動物に位置づけられます。*4


翻って、チップとデールはどうか。


現在のかれらは、ことばを自由にあやつります。昔はかれらのことばがミッキーやドナルドに通じているかあやしいものでしたが、二〇一七年の3DCG短編シリーズ『チップとデールのおかしなはなし(Chip ’N Dale’s Nutty Tales)』では、「フレンズ」らと対等なコミュニケーションを行っている様子が観察できます。そうした面においては、かれらは人間側に属するといえるでしょう。

ところが、外見の面ではディズニー的な人間の要件から外れている。

まず服を着ていないチップとデールだって「リスの音楽合戦」や『レスキュー・レンジャーズ』では着ていただろう、とおもわれるファンもいるでしょうが、その話はあとでします。ともかく一部の例外を除き、かれらは誕生のときから裸一貫*5で生きています。*6 木の実を運ぶときこそ二足歩行になるものの、走るときは前脚も使って本物のリスのように移動します。

(ザ・全裸)



そして、なにより、かれらは本物のリスのサイズ感で描写されています。大きさだけでなく、姿かたちもミッキーたちのようなカリカチュアが抑え気味で、よりリスに近い。プルートでさえ、本物のイヌに比べれば脚が異常に長くて柔らかく、よくよく眺めると奇妙なのに。

なぜ、チップとデールはこのようなズレを示しているのでしょうか?

そもそも、チップとデールとは「何」なのでしょう?

2.チップとデールを実装する


(デビュー作「Private Pluto」でのチプデ)



チップとデールは、一九四三年四月にプルートの短編シリーズのひとつである『プルートの二等兵(Private Pluto)』​​(クライド・ジェロニミ監督)でデビューしました。一九二〇年代〜三〇年代にかけてのデビューがほとんどを占める短編出身の「フレンズ」としては遅い時期での登場です。
戦時色の濃い短編である本作は、二等兵として軍に配属されたプルートが見張りを任されていたトーチカに巣食っていた二匹のシマリスを発見し、かれらに翻弄されるという内容です。

本作でのチップとデールは、外見的には『白雪姫(Snow White and the Seven Dwarfs)』(一九三七年)に出てきた無名のシマリスに近く*7、二匹のあいだに相違がほとんど見られません。名前もなしです。のちの作品でも見られるように、セリフには早送り再生された音声が用いられていましたが、このときは早すぎてごく簡単な単語以外はほとんど聞き取り不可能でした。

(『白雪姫』でのシマリス



二匹のシマリスたちのキャラクターデザインを手がけたのは、ビル・ジャスティス。*8
この後もアニメーターとして、ごく初期のものを除いたほとんどのチップとデール出演短編に携わることになります。本来ならば彼が「チップとデールの父」と言われそうなものです。実際よくそう呼ばれていたらしいのですが、ジャスティス本人はその名誉を他の人物に譲ります。*9

その「育ての親」こそがジャック・ハンナです。
初期のドナルド短編を多く手がけたジャック・キングからシリーズメイン監督のポジションを受け継ぎ、一九四〇年代末から五〇年代中盤までのドナルド短編のほとんどで監督を務め、相棒のカール・バークスとならんで「ダックマン」と呼ばれることになる伝説的なアニメーターです。*10

(ディズニー・レジェンズのひとり、ジャック・ハンナ[写真左の人物]https://d23.com/walt-disney-legend/jack-hannah/



一九四四年にストーリー部門*11から監督へと昇進し、ミッキー主演短編を任されたハンナは、前年に観たプルート短編のやんちゃなシマリスたちを思い出し、起用を決めます。
こうして制作が開始され、一九四六年六月に公開されたのがチップとデール出演第二作『リスの山小屋合戦(Squatter’s Rights)』です。『プルートの二等兵』と同様に相手役はプルートで、ミッキーの休暇用の山小屋に棲み着いていたシマリスたちとドタバタ劇を繰り広げます。この時点でもなおシマリスたちは名無しでありつづけ、それぞれの個性は差別化されていませんでした。ハンナ自身がのちに述懐したように、ここまでの二作のシマリスたちはチップとデール自身というより、その「先祖(forerunner)」ともいうべきプロトタイプ的存在でしょう。

(「Squatter's Right」)



『リスの山小屋合戦』でハンナに監督として初めてとなるアカデミー賞アニメーション短編賞のノミネーションをもたらします。手応えを感じた彼は、シマリスたちとドナルドとの相性の良さを見抜き、キャラクターとしての肉付けを進めていきました。

たとえば、声。デビュー作での早送りのセリフはほとんど意味のないおしゃべりだったそうですが、それを意味のある会話に整え、ギリギリ聞き取れそうな早さまで再生速度を落としました。

当初はデビュー作と同様、ふたりのパーソナリティに差をつけないつもりだったといいます。しかし、ハンナはどこか物足りなさをおぼえていました。そこに脚本家として知られる盟友ビル・ピートから「片方をおとぼけキャラ(goof ball)にしてはどうか」という提案を受け、ツッコミ役のチップとボケのデールという色分けをつけました。見た目の面でも、以前のデザインをおよそ引き継いだチップに対し、デールはとろんとした目つきに乱杭歯とぼさぼさの頭毛という差別化が試みられました。

そうして、名前も与えられます。インスピレーションのもとになったのは、ハンナのアシスタントだったビー・セルケとの何気ない雑談でした。当時新婚だったセルケは、結婚祝いとして知人から立派なアンティーク家具をプレゼントされました。それはロココと東洋趣味などをミックスしたイギリス生まれのデザイン様式で、考案者であるトーマス・チッペンデールの名を取ってチッペンデール様式と呼ばれていました。

チッペンデール(Chippendale)。ハンナは即座に、それがシマリスたちの名前にふさわしいと直感します。*12 chipmunk(=シマリス)のchipをChippendaleにひっかけたダジャレです。enはandの短縮形である’n’に通じますから、「チッペンデール」という響き自体が「チップ・アンド・デール」というコンビ名へと導くわけです。*13 その語源にちなめば、チップがシマリスとしての基本形を保ち、デールがその変形としてデザインされたのも、たまたまではないのかもしれません。

ともあれ、シマリスはanimated(=実装アニメイト)されました。一九四八年十二月にリリースされたドナルド主演短編作、その名も『Chip an’ Dale(邦題「リスの住宅難」)』。この作品で現在のわれわれの知るチップとデールのディテールがほぼ完成(唯一、デールの赤い鼻は次の短編から)し、ドナルドの好敵手としての立場も確立しました。

(「Chip 'an' Dale」。デールの鼻はこの時点ではまだ黒かった。)



以降、一九五六年の出演第二十三作目『リスの船長(Chip Ahoy)』(ジャック・キニー監督)まで、チップとデールは「フレンズ」の有力なプレイヤーとしてディズニーのスラップスティック・コメディを担っていきます。

ディズニーが劇場用短編アニメーション制作から撤退した一九五〇年代中盤からはコミック、ディズニー制作のテレビ番組、そしてディズニーランドへと活躍の場を広げていき、一九八九年からは主演テレビシリーズ『チップとデールの大作戦 レスキュー・レンジャーズ(Chip ’n Dale: Rescue Rangers)』が放映開始。二〇一〇年代以降も『チップとデールのおかしなはなし』や『チップとデールパークライフ(Chip ’n’ Dale: Park Life)』(二〇二一〜)などの主演シリーズが作られていき、二〇二二年には初の主演映画(もっとも『レスキュー・レンジャーズ』のメタ的なスピンオフという特殊な形でしたが)である『チップとデールの大作戦 レスキュー・レンジャーズ(Chip ’n Dale: Rescue Rangers​​)』が公開されました。

気づけば、二〇二三年でデビュー八十周年を迎えたチップとデール。もはや〝「フレンズ」の七番目〟として不動の地位を築き上げたといってもよいでしょう。

3.動物として登場したシマリスたち

ここではじめの問いに立ち返りましょう。

チップとデールとは『何』であるのか?」

デビュー作の『プルートの二等兵』で、かれらは動物として登場しました。

動物かどうか、という区別はディズニー・アニメーションの歴史的文脈にもからみます。

ミッキーマウスがデビューした一九二〇年代のアニメーション・キャラクターたちは、ゴムホース(rubber hose)とも称される、ぐにゃぐにゃと柔らかい素材でできているような変幻自在のボディを有していました。それは家畜として登場した初期のクララベル(一九二七年デビュー)や、一貫してイヌとして扱われつづけているプルート(一九三〇年デビュー)でも変わりません。

(最初は家畜として登場し、のちに服を着るようになったクララベル・カウ[左]/「The Birthday Party」1931)



たとえば、ミッキーマウス最初期の短編である『プレーン・クレイジー(Plane Crazy)』(試写:一九二八年、公開:一九二九年)では、本来硬質な素材でできているはずの単葉機がトコロテンのようにしなやかに変形しながら飛び回り、ミッキーの仲間であるダックスフントがミッキーを単葉機に乗せるために細長い体を階段状に折り曲げタラップに変化します。

単葉機を暴走させてしまったミッキーは、草を食んでいた雌ウシを図らずも追いかけ回してしまいます。この雌ウシは、「フレンズ」のひとりであるクララベルの「手ぶくろをはめる」前の原型のような存在なのですが、この時点では二足歩行で喃語めいた声を発するミッキー&ミニーと対比させる形で、四つ足の物言わぬ動物として描かれています。

ところが彼女をウシとみなした場合、むしろウシとの相違点が際立ってくる。

肉体そのものは実はミッキーとそんなに変わりません。寸胴のボディに対して不釣り合いに細長い手足がホースのように生えています。そして、飛行機から逃れる段になると、なぜか両前脚と両後脚を揃えて交互に突き出すというカエルめいた奇妙な走り方をします。

(「Plane Crazy」のウシ)



エドワード・マイブリッジのいわゆる「動く馬」の連続写真(一八七八年撮影)から約半世紀が経とうとしていた時世*14もあってか、この数十秒後のシーンではウシの歩様がウマのギャロップに近いもので描写されるのですが、あえてなのか、続く『ギャロッピン・ガウチョ(The Gallopin’ Gaucho)』(一九二八年)でもロバにまたカエル走りをさせています。

ディズニー作品に限らず、この時期のアニメーションの動物たちは、カートゥーン的としかいいようがない動きや体つきを示しています。非人間でもあり非動物でもあったのです。​​

しかし、一九三〇年代からは徐々に人間でもなければ動物でもない身体性は失われていき、一九三七年公開のディズニー初長編『白雪姫』において写実的なリアリズムを極めます。このあたりの経緯に関する考察やゴムホース的なキャラクターの非人間性/非動物性については清水知子の『ディズニーと動物――王国の魔法をとく』(筑摩選書、二〇二一年)にくわしいですが、ここでひとつ言えることがあるとすれば、ウォルト・ディズニー(以下、ウォルト)がこの時期、あきらかに「写実性」に寄っていったということです。

ウォルトはアニメーションにカートゥーン的でありつつも「生きている」感覚を取り入れたいと願っていました。そうした感覚を通じて、作品と観客とのあいだに感情面での絆を取り結べると考えたのです。そのために導入されたのが、リアリズムに基づく細部の描写です。*15

一九二九年、ウォルトはアニメーターの技術向上のため、近隣のシュイナード美術学校の校舎を借りて夜間クラスを始めます。この「アートクラス」は年を追うごとに拡大していったため、やがてスタジオ内へ移されると、そのさいにフルタイムの運営責任者としてシュイナードの講師だったドン・グラハムを招聘します。

スタンフォード大学工学部卒の現代美術家だったグラハムはアニメーターとしての素養やキャリアとは無縁だったものの、美術の講師としてディズニーのアニメーターたちに多大な影響をおよぼしました。グラハムはアニメーターたちに細部を観察することの重要さを説き、重力の影響や筋肉の動きについてレクチャーしました。*16

また、アートクラスでは積極的に外部からアニメーション以外の専門家を招きました。近代建築の巨匠フランク・ロイド・ライトを筆頭に、色彩の専門家フェイバー・ビレン、動物解剖学のリコ・ルブランなどです。特にリコ・ルブランのクラスはレギュラー化し、『バンビ(Bambi)』(一九四二年)における貢献で今日も知られています。

(『バンビ』のときに実物のシカをスタジオにつれててきて、アニメーターたちに写生させたのは有名)



教師陣の導きに感化され、ディズニーのアニメーションはゴムホースからより「life-like(=現実的)」なアニメーションへと変化していきます。〈シリー・シンフォニーズ(Silly Symphony)〉シリーズのひとつで、最後の監督短編である『黄金の王様(The Golden Touch)』(一九三五年)を撮り終えたウォルトはグラハムにこんなメモを送りました。

アニメーションの第一義は、現実の動きを描いたり複製することではありません​​……(中略)……(しかし、)夢のようなファンタジーや空想的なファンタジーに生命を吹き込むには……現実(actual)を研究せねばなりません。現実に到達するためではなく、ファンタジーに向かう基礎とするためです。事実(real)を知ることなしに、現実的な世界の上にファンタジーを築くことはできないのです。*17



後年には雑誌のインタビューにこうも述べています。

部下にはいつもこう言っている。「創意を発揮しすぎるな。動物をよく観察するんだ。かれらの行動を記録しろ」とね。これは言うほど簡単じゃない。*18



コミック研究者で美術史家のデイヴィッド・クンツルに「彼は浄化し、操作し、馴致するための自然にしか興味がなかった……動物や非人間的存在に共感を持っているわけではなく、その興味は自然の擬人化にこそあった*19 と手厳しく批判されたウォルト*20 ですが、クンツルの指摘は一面では当たっていて、現実にファンタジー(あるいはウォルトなりのリアル)を上書きするためにこそlife-likeなリアリティを必要としていました。

その欲望はやがて長編アニメーションからネイチャー・ドキュメンタリー、そしてディズニーランド建設へと向かいます。

それはさておき、一九三〇年代中盤はディズニー・アニメーションの動物たちにとって重要な転換点です。一九三四年に長編アニメーション制作を決意したウォルトは一九三七年の『白雪姫』へと邁進していきます。

チップとデールは写実的な自然描写を是とする初期ディズニー長編アニメーション期の動物たちを背景としており、ゆえにミッキーやプルートらとは決定的に出自を異にします。かれらが動物である、というのは、そういうことです。

さて、チップとデールが「動物」であるから、なんなのか?

4.棲みかと食料をめぐる戦争


(「Squatter's Rights」より。ミッキーの山小屋を押領している)



チップ、デールと同時期にデビューし、アカデミー賞レースでは有力なライヴァルだったハンナ゠バーベラ*21トムとジェリー(一九四〇年デビュー)は、そのドタバタ追いかけっこぶりからよく比較の対象にされます。*22

しかしおなじげっ歯類でも、チップとデールがドナルドやプルートと争うときと、トムがジェリーと争うときでは、その争点となっているものが違います。トムとジェリーではそのときどきで争いの種となるものは異なるものの、究極的にはふたりの肉体に宿る存在そのものが賭けられます。一方、チップとデールの短編で問題になるのは――住居と食料です。

デビュー作である『プルート二等兵』のチップとデールは、軍の施設を不法に占拠するアウトローであり、体制側の兵士であるプルートと対立します。ジャック・ハンナの手に渡った第二作では不法占拠者としての側面がさらに強調され、ミッキーというディズニーを象徴する大スターの別荘を占拠します。
注目すべきはその第二作のタイトルです。チップとデール短編のタイトルでよく重要視されるのはタイトルロールとなった第三作の原題『Chip an’ Dale』ですが、第二作の原題こそかれらの本性を表わしています。すなわち、『Squatter’s Rights』。

Squatterとは、その土地や建物に対する権利がないのにそこに居住しているひとびとのこと。もちろん、一般には違法ですが、各国の民法ではその占拠を一定期間継続すると、占拠者が居住権を主張できるようになります(長期取得時効)*23。これがSquatter’s Rights。

この語を踏まえると、ホリデーシーズン以外は放置されているミッキーの山小屋を、チップとデールが「不法占拠」しているとみなしうる。かれらはすでに安住していたミッキーやプルートの生活をかきみだす存在なのです。

棲みかをめぐる対立の構図は、出演三作目以降でメインの相手役となるドナルドにもある程度引き継がれていきますが、やや変化も見せます。

第三作『リスの住宅難』での争いのきっかけは、ドナルドが暖炉の薪に使うためにチップとデールの住居(兼食料貯蔵庫)であった木を切ってしまったことです。ここではむしろチップとデールは不当に占有権を奪われる側として描かれます。

以降の初期チップとデール対ドナルド短編では、食料のほうにフォーカスがあてられていきます。*24 第四作『リスの朝ごはん(Three for breakfast)』(一九四八年)では、チップとデールがドナルドのパンケーキを強奪し、第五作『リスの冬支度(Winter Storage)』(一九四九年)では、越冬のための十分なナッツを確保していないことに危機感をおぼえたふたりが、植樹用にドナルドが用意した大量のナッツを狙います。第六作『リスの食糧難(All in a Nutshell)』(一九四九年)では、経営していたナッツバター工場で起こった材料不足をしのぐため、ドナルドがチップとデールの溜め込んでいたナッツをねこそぎ盗みだします。クリスマス短編である第七作『リスのおもちゃ合戦(Toy Tinkers)』(一九四九年)では、クリスマス支度をするドナルドの家で大量のくるみを目撃したふたりが、おもちゃを通じて文字通りの「戦争」をドナルドにしかけていきます。

「Toy Tinkers」。ドナルドダックに対して砲撃をぶちかますふたり。



第八作『ドナルドはデイジーに首ったけ(Crazy Over Daisy)』(一九五〇年)以降は生存にかかわる命がけの面よりもチップとデールによるドナルドへのからかいのテイストが強くなりますが、それでも住居と食料の問題はついて回ります。チップとデールが住居である木にいるところやナッツを運んでいるところをドナルドに発見されるか、逆にかれらがドナルドを発見するところから展開されていく話がよく見出されます。
ここで焦点を当てたいのは短編ごとの、チップとデールの住んでいる木の場所です。その時々によってチップとデールは深い森のなか、都市のど真ん中に設けられた公園、郊外の家の煙突、とさまざまな場所に住んでいますが、おおむねは共通して人間と動物が交わる境界にあります。

(「Threes for Breakfast」より。このエピソードではドナルドダックの家の煙突に住んでいる)



アリエル・ドルフマンとアルマン・マトゥラールが指摘しているように、ミッキーとその「フレンズ」は都市居住者である一方で、ひっきりなしに自然や辺境への小旅行にでかけます。*25 チップとデールが森に住んでいればドナルドがそこにやってきて木を切り倒す。逆にドナルドが都市や郊外*26に住んでいればチップとデールがいつのまにか巣食っていて、ドナルドに対して略奪やからかいをしかける。*27

互いに境界を侵犯し合う関係、これこそがチップとデール対ドナルド短編に見られる特徴といえます。

ストレートな見方としては、この対立の構図がヒトと自然との対立の構図でもある、というのがひとつあります。そうした性格がもっともよく出ている短編が、第二十一作『リスの怪獣退治(Dragon Around)』(一九五四年)です。僻地に住むチップとデールの家に、ドナルドが操縦するショベルカーが襲いかかります。ドナルドは道路建設のために、その予定地に立つ大木を排除しようとしていたのでした。興味深いことに、チップとデールはこのショベルカーをデールがおとぎばなしの本で読んだドラゴンと勘違いします。そして、自らもおとぎばなしの騎士のように着飾って「ドラゴン退治」に向かうのです。

(「Dragon Around」の有名なシーン)



ここでは、アナクロニズムとファンタジー的な想像力でドン・キホーテたるチップとデールが文明によって蚕食されていく自然の守護者となっていきます。

また、第十六作『ドナルドのリンゴ農園(Donald Applecore)』(一九五二年)でリンゴ農園の農家に扮したドナルドは、作物を食い荒らす害獣であるチップとデールを駆除するために殺虫剤を始めとして最後には原子爆弾*28 まで持ち出します。牧歌的な農園をバックに農薬散布用のヘリコプターで執拗に〝爆撃〟を加えるさまは、二年後に始まるベトナム戦争を予見しているかのようです。

ドナルドが森や山に赴くとき、自然に手を加えようとしてそこに棲まうチップとデールからしっぺ返しを食らいます。それは、自然を飼いならそうとするディズニー・アニメーションへの反抗だったのかもしれません。


もうひとつの見方はチップとデール対ドナルドの闘いこそアメリカ史そのものを表わしているのではないか、というものです。

まず、チップとデールシマリス(Chipmunk)であることに留意しましょう。齧歯(げっし)目リス形亜目リス科ジリス亜科マーモット族アメリシマリス属ならびにトウブシマリス属。*29 よく混同されるリス(Squirrel)との違いは背中の黒い縞模様の有無ですね。

シマリス



日本においてペットとして見られるシマリスは東アジア原産*30のシベリアシマリス(タイリクシマリス属)であり、このシベリアシマリス以外に二十四種いるシマリスはすべてカナダからメキシコにかけてのアメリカ大陸に分布しています。​​

つまり、基本的にヨーロッパには存在しない動物です。*31

Chipmunkの語源もそもそもは北米先住民であるオタワ族の言葉で「赤いリス」を意味する jidmoonh とされており、北米では古くから神話の重要プレイヤーでした。ナバホ族やカルク族の神話ではコヨーテやクマといった複数の動物たちと協力して、原初の火を人間のもとへ運ぶ役割を果たしています。背中の黒い縞はそのさいに焦げてしまった、というおまけつき。*32

北米大陸や先住民と同様、シマリス大航海時代にヨーロッパに〝発見(discovery)〟されたもののひとつに数えられます。当時の〝発見〟とは、十五世紀から十六世紀にかけて出された教皇の勅令に基づく、キリスト教徒による非キリスト教徒の土地や権利の征服と同義でした。そうした土地はテラ・ヌリウス、すなわち無主の土地と呼ばれ、先住民に対する征服戦争においてはしばしば人工的な形で造られました。

現在のアメリカ合衆国にあたる地域にはかつて五百万人の先住民が住んでいたといわれますが、十九世紀末にウンデッド・ニーの虐殺が行われたころには二十五万人程度にまで減少しました。*33 残された先住民たちも一八三〇年のインディアン移住法に基づき、割り当てられた保留地へ強制移住させられました。植民地戦争を通じた土地の簒奪と排除の上に現在のアメリカ合衆国は存立しています。

虐殺の対象は人間だけではありませんでした。一八〇三年、当時のオハイオ州議会はオハイオ州に居住する納税者全員にリスの駆除を義務付ける法令を下します。リスは(ドナルドが相手にしているシマリスたち同様)作物を食い荒らす害獣であり、オハイオの主要産業であるトウモロコシ畑への被害は無視できないレベルに達していました。これを受け、フランクリン郡の名士であるクリスチャン・ヘイルは一八二二年にリスのハンティング大会を催し、二万匹近いリスを殺し、現在でも「一八二二年のリスの大虐殺」*34として知られています。アメリカ人にとって、動物たちは先住民同様、滅すべき競争相手でした。

(リス狩りを行うアメリカ人)



「exterminate(=根絶やしにする)」という英単語の語源は、境界線(terminus)の向こうに追放する(ex-)ことです。exterminateは、その究極の境界線を「死」に引きました。スウェーデンの作家、スヴェン・リンドクヴィストがジョゼフ・コンラッドの『闇の奥』の読解において、「すべての野蛮人を根絶やしにせよ(Exterminate all the brutes*35)」というフレーズに注目したことを思い出しましょう。

「根絶の対象として、人間があからさまに動物と同列のものとして語られている」*36。こうした動物と人間を同一とする視線は、ウォルト・ディズニー的な人獣同一性──「おもしろい動物寓話はすべて、人間についての話とパラレルになっている。普遍的な人間の経験や生態を容易に理解するための手段なんだ」​*37 という楽観的な在り方とは一線を画するようでいて、裏表でもあります。われわれが人を殺すとき、その対象を動物に見立てて語ることがあります。「あいつは豚だ」、「殺すのは人でなくて、カワウソだと思えばいい」。そうした非人間化のプロセスには、人種的なものと種的なものに関する二重の差別がある。​

ドナルドは行く先々で木を伐採します。しかし、そこには彼よりも先んじて住んでいるものがいて、その権利が無自覚(ほとんどの場合、ドナルドは物語開始時点ではチップとデールを認知しておらず、逆も然りです)に踏みにじられてしまう。そうして生じた確執にドナルドは逆襲されていきます。なんとなれば、アメリカの植民地主義を直接扱った初めてのディズニーアニメ長編である『ポカホンタス(Pocahontas)』(一九九五年)よりも深度のあるアメリカの歴史がここで語られているのではないでしょうか。

チップとデール出演第二十二作目にしてジャック・ハンナ最後のチップとデール監督作『リスの大逆襲(Up a Tree)』(一九五五年)は、居住をめぐる闘争が最も過激な形で描かれた短編です。ドナルドが森のなかで一番の大木(天を衝かんばかりの異常なサイズ)を切ろうとすると、案の定そこはチップとデールの棲みかでした。激しい攻防戦の末にドナルドはふたりを出し抜いて伐採に成功し、製材所へ丸太を運びこもうとします。しかし、チップとデールは抵抗を諦めず、やがては切られた丸太まで意思をもっているかのようにドナルドを追いかけ回します。数々の妨害工作の末、最後にはドナルドは住居となる家を完膚なきまでに破壊されてしまいます。そうして、落ち込んでいるドナルドにチップとデールは狂躁的なまでの嘲笑をなげつけ、物語は終わる。木の伐採をめぐる話が多いチップとデール出演短編ですが、木そのものの行方が中心となり、木そのものにドナルドが逆襲される話は珍しい。

(「Up a Tree」。すべて失い虚脱状態にあるドナルドと、それを慰めるふりして小馬鹿にするチプデ)



この短編のラストで響くチップとデールの高笑いは異様です。家を失ったドナルドに対する哄笑ではありますが、同時にかれらも前半で住むべき木を奪われている。ほとんど虚無的なテロリズムが、ここには描きだされています。

そこにいる動物が「場違い」であるかどうかはヒトの側によって決定されることです。ヒトの生存圏や行動範囲が拡がれば、そのぶん「場違い」になる動物は増えます。「動物たちは幽閉の場の空間的制約を破ることで『場違い』となり、かつ自然の環境と生を奪われた空間の中で『場違い』となる」*38。「場違い」となったリスたちがヒトの側であるドナルドと衝突するのが、チップとデール短編なのです。

5.シマリス、イヌを飼う。

動物として登場したチップとデールですが、ハンナらによって個性が付与され、短編シリーズ作品が積み上がっていくと、徐々にではありますが写実的な意味での動物性は薄れていきます。二本脚で歩くことも珍しくなくなりますし(それでも完全には二足歩行への移行まではしませんが)、早送りの言葉も聞き取りやすくなって、そのときどきで樹木のなかの「家」も文明化されていく。
最も文明的で人間的なチップとデールを見られるのは、チップとデール主演作としては二作目で、出演第十七作目の『リスの音楽合戦(Two Chips and a Miss)』(一九五二年)でしょう。ヒロインとして現在も高い人気を誇るシマリスの歌姫、クラリス*39が出てくることで有名な一作です。

(「Two Chips and a Miss」より。歌姫、クラリス



『リスの音楽合戦』ではクラリスをめぐってチップとデールの恋の鞘当てが繰り広げられるのですが、なんとこの作品ではふたりが服を着る。クラリスへのアプローチのためにタキシードを着用するのですね。舞台となるクラブも人間のそれですし、ふたりがもっとも"人間らしく"ふるまっている短編だといってもよいでしょう。*40

その次となる出演第十八作目の『プルートのクリスマスツリー(Pluto’s Christmas Tree)』(一九五二年)において、ついにチップとデールはミッキーに認知される存在となり、その家族=「フレンズ」の一員として迎え入れられます。この短編のエンディングは象徴的です。ミッキーといっしょにほの明るい窓際に立って、雪の舞う庭を眺める。ディズニーの偉大な父であり神であるミッキーの我が家に招き入れられた瞬間です。

一九五〇年代から「七分のアニメをひとつ作るごとに九万ドルから十万ドル*41かかった」*42 ともいうコスト高の劇場用短編アニメはテレビ時代の到来と相まって衰退していき、それと軌を一にしてチップとデールも映像での活躍の場を失っていきました。以降、テレビなどではミッキーたちの添え物としてのポジションが色濃くなっていきます。一方で、コミックの世界では人気を博し、存在感を示し続けます。

(50年代から60年代にかけて出版されたDell社のコミックシリーズ。このあと移籍を繰り返しながら80年代まで継続。)



かれらが映像の世界に正式にカムバックするのは、一九八九年に始まったテレビシリーズ『レスキュー・レンジャーズ』からです。本作はドナルドの甥であるヒューイ、デューイ、ルーイの三匹が活躍するシリーズ『ダックテイル(DuckTales)』(一九八七〜九〇年)の成功を受けて開発された企画で、もともとはチップとデールありきで考えられたものではありませんでした。

企画段階では革ジャンの「インディー・ジョーンズ」スタイルのネズミ、キット・コルビーが主役の『Metro Mice』*43が構想されていた*44 のですが、ディズニーのエグゼクティブだったマイケル・アイズナーがオリジナルキャラより『ダックテイル』同様に既存のディズニーキャラのほうが受けると判断し、チップとデールに差し替えられたのです。キットの仲間たちも他のげっ歯類に置き換えられ、発明家のガジェット、オーストラリア生まれの冒険家であるモンティ、イエバエのジッパーが生まれます。

こうした経緯もあってか、『レスキュー・レンジャーズ』のチップとデールは、実は短編シリーズの様相とかなり異なります。かれらは都市のど真ん中、公園に立つ大木に巣食い*45、その内部に立派な住居を構え、そこに仲間たちと暮らしています。内装も短編時代とは比べ物にならないほどにモダンで文明化されています。テレビまで置いてあるのですから。

チップは前身であるキットから引き継いだ「インディー・ジョーンズ」風の革ジャン、デールは八〇年代の人気ドラマ『私立探偵マグナム』(一九八〇~八八年)の主人公を意識したアロハシャツスタイルです。

(オタクに見せると泣きだす画像)



なにより生活も都市的です。第一シーズンの第一話の出だしを見てみましょう。だらしないデールの溜めこんだゴミに業を煮やしたチップが、ゴミ出しをするように命じます。しぶしぶ公園のゴミ箱にゴミ出しへ行ったデールでしたが、そこでゴミ回収車に巻きこまれてしまいます。慌ててチップと仲間たちはその車を追いかけて、ガジェットの作った車で街のど真ん中でカーチェイスを繰り広げ、ゴミ処理場に行き着きます。

これでもか、というほど都市のモチーフが詰めこまれたオープニングです。『レスキュー・レンジャーズ』を特徴づけるのはこうした都会っぽさです。敵対する犯罪組織のボス(ネコ)はマフィアですし、行方不明者を追う過程でチップとデールは裏路地でダンスパーティを開いているドブネズミたちに聞き込みを行います。

これは本作が探偵物のスタイルを採用したこととも関係しています。基本的に探偵物は都市を舞台に、都市に住むひとびとと出会いながら、都市的な悪と対峙するものです。この『レスキュー・レンジャーズ』において、チップとデールは都市生活者となっています。人間には人間の社会がある一方で、都市の動物たちには動物たちのコミュニティがあり、ふたりはその間を自由に行き来している。これを人間化とみるか、あるいは都市生物学の視点に基づいてかれらが自然としての都市に適応したと見るかは判断の分かれるところでしょう。

興味深いのはこのシリーズが開始から約三十年後に映画化されていることです。テレビシリーズと同題の『チップとデールの大作戦 レスキュー・レンジャーズ​​(Chip ’n Dale: Rescue Rangers)』(二〇二二年、アキヴァ・シェイファー監督)です。


www.youtube.com
(映画の予告)


映画版ではチップとデールが実はアニメキャラと人間の共存する世界での俳優(一九八八年の『ロジャー・ラビット』を下敷きにした世界観です)であり、テレビ版『レスキュー・レンジャーズ』はそんなかれらの出世作、という楽屋もの、いわばメタ的な構造になっています。

テレビシリーズ終了後にふたりは落ち目になり、現在のチップは保険のセールスマンをやっているのですが、彼は郊外に家を構え、そこでイヌを飼っています。

そう、郊外に住み、イヌを飼う。かれらが「動物」であった時代に、ミッキーマウスがやっていたことです。

まさにディズニーにおける人間化の頂点をチップは極めているわけです。皮肉にも、彼はそんな生活にまったく幸せを感じていませんが。

一方、デールは業界で生き残りを図るためにもともと2Dだった自分の身体を3Dに改造しています。
社会、それも極めて人間的な社会に適応すること。それがかつて反逆者だったふたりの優先事項になってしまっているわけです。

ところで、日米ともに特定の世代のチップとデール観に多大な影響を与えたテレビ版『レスキュー・レンジャーズ』ですが、これをチップとデールの「正史」として扱うかは映画版のおかげでやや難しくなったところがあります。映画版におけるチップとデールは一九八二年に小学校で出会ったという設定であり、これを短編やディズニーランドのチップとデールに当てはめようとすると無理が生じるのです。

映画版を無視したとしても、テレビ版『レスキュー・レンジャーズ』後も他の活動場所でのチップとデールは裸のままだったわけで、二〇二一年には事実上のリブート作品である『チップとデールパークライフ』も始まっています。こちらのチップとデールはやはり公園住まいなのですが、言葉を喋らなくなり、より動物としての側面が強調されています。

いずれにせよ、テレビ版『レスキュー・レンジャーズ』後のチップとデールにおいては短編時代のような居住の問題は消え失せ、食料の問題もさほど切実なものではなくなりました。ドナルドの対立も過去のこと。
ミッキーの領土を不遜に占拠する他者として登場したチップとデールは、「フレンズ」の一員として、夢と魔法の王国へ同化したのでした。

ともすれば、裸のままで。




【主要参考文献】

[書籍]

Reid Mitenbuler, “WILD MINDS: The ARTISTS and RIVALRIES that INSPIRED the GOLDEN AGE of ANIMATION”, Atlantic Monthly Press, 2020
Bob McLain, “From Donald Duck’s Daddy to Disney Legend”, Theme Park Press, 2017
小野耕世ドナルド・ダックの世界像 ディズニーにみるアメリカの夢』、中公新書、一九八三
大野瑞絵(著)、三輪恭嗣(監修)『シマリス完全飼育 飼育管理の基本、生態・接し方・病気がよくわかる』 、誠文堂新光社​​、二〇二二

[動画]

Dave Lee Down Under, ‘Evolution of CHIP 'N DALE - 76 Years Explained | CARTOON EVOLUTION’, EXPLAINING DISNEY #17, “YouTube”, Apr. 6, 2019, https://www.youtube.com/watch?v=g8ciBH2zo_E, Retrieved on Jul. 17, 2023

あとがきというか宣伝

この論考の載ったケモノ系評論同人誌『Philosofur』の新刊である第6号が9月21日のけもケット(於TRC東京流通センター)で頒布されます。L-25にて。

今回はわたしはアニメ映画『北極百貨店のコンシェルジュさん』について、デパートの成立過程とスペクタクルの関係から読み解く文章を寄せました。映画や原作マンガを観ていて「北極百貨店の設定ってヘンじゃないか?」とおもわれたヒト向けです。よろしくね。

*1:「ミッキー&フレンズ」、ディズニー公式、https://www.disney.co.jp/fc/mickey-friends(二〇二三年七月十六日参照)

*2:公式ファンブックである『ミッキーマウス クロニクル90年史』(講談社、二〇一八)には、「ミッキーと仲間たち」としてピートやクララベルも数えられていますが、紹介順に見るかれらの序列はやはり「七番目の『フレンズ』」であるチップとデールの下に置かれています。

*3:映画・コミック評論家の小野耕世は『ドナルド・ダックの世界像 ディズニーにみるアメリカの夢』(中公新書、一九八三)のなかで、ディズニーの「動物が昇格して人間化する」条件として手ぶくろの有無をあげています。「白い手ぶくろは単なる手ぶくろではなく、もはやけっしてはずすことのできない新しい皮膚」。その意味でいえばドナルドは非手ぶくろ派=動物側に振り分けられ、本の趣旨からいってもドナルド特殊論にいってもいいはずなのですが、おもしろいことに小野はドナルドが素手手羽)であることについてはもともと「色が白く、清潔」だからなのだろうという方向に持っていく。逆にミッキーやグーフィーといった地黒のキャラの「不潔さ」を覆い隠して社会化するための装置としての手ぶくろを照射するのです。本文では直接言及されていませんが、白人のように振る舞わないと社会に参加できないアメリカにおけるマイノリティの生存術も暗に示唆されているのではないでしょうか。著述家のサラット・コリングの「白人性も境界線の働きを持つ」というフレーズを露骨に体現したパーツであるといえます。

*4:短編『プルートのなやみ(Lend A Paw)』(一九四一年)などを観ると、「ネズミであるミッキーが仔ネコを飼い始めてそれにイヌのプルートが嫉妬する」という、冷静に考えると関係がハレーションを起こしているので愉しいです。ミニーもフィガロ(もとは『ピノキオ』に出てくるネコ)を飼っていますしね。

*5:注3の小野耕世的な文脈でいえば、かれらは肌白ではないにも関わらず、手ぶくろもしていません。

*6:ディズニーランドにおけるパレードやショウといった「晴れの場」では、プルートが裸体であるいっぽう、チップとデールは衣装を着ていることが多いです。

*7:ビル・ジャスティスは『バンビ』にも携わっていますから、もしかしたらそっちかもしれません。もっとも『バンビ』のシマリスは初期のチップとデールとかなり違いますが。

*8:ところで本稿は主にジャック・ハンナの証言を中心にしたハンナの伝記である『From Donald Duck’s Daddy to Disney Legend』(Theme Park Press、二〇一七年)を種本にしているわけですが、ビル・ジャスティスも自伝を物しています。『Justice for Disney』(Tomart、一九九二年)という本なのですが、調べてみるとどうも自費出版かなにかで限定された部数しか出されておらず、入手難。今回は参照できませんでした。

*9:Bob McLain “From Donald Duck’s Daddy to Disney Legend”, Theme Park Press, 2017, p. 6

*10:ジャスティスやキングを含めた黄金時代ディズニーのアニメーターはほぼ全員が伝説みたいなものですが。

*11:いくつかの短編でキーアニメーターを務めたジャック・ハンナでしたが、ディズニーが一九三〇年代中盤から長編制作に舵を切ると、「自分のような二流アニメーターは隅に追いやられ」、ストーリー部門に左遷されたと自嘲しています。ハンナは自らを短編アニメの職人と定義した人物ですが、長編ぎらいはそうした彼の経験も関係しているのかもしれません。

*12:McLain, 2017, p. 71

*13:今でこそアメリカのお笑いといえばピン漫談であるスタンドアップが主流ですが、当時は(アニメーションが生まれた場所でもある)ヴォードヴィルの流れをくむペア漫才(デュオ)が人気でした。漫才のコンビ名はLaurel and Hardy、Abbott and Costello、Martin and Lewisといったようにふたりの名前をandでつなげたシンプルなものが多く、Chip ’n’ Daleもそうした文脈が意識されています。同じく一九四〇年代に登場した『トムとジェリー』などもそのノリです。

*14:若い頃のウォルトはアニメーション用の教科書のほかに、マイブリッジの連続写真の載った本を図書館でむさぼるように読んだと伝えられています。

*15:Neal Gabler, “Walt Disney: The Triumph of The American Imagination”, Vintage, p. 293

*16:Ibid.

*17:Reid Mitenbuler, “WILD MINDS: The ARTISTS and RIVALRIES that INSPIRED the GOLDEN AGE of ANIMATION”, Atlantic Monthly Press, 2020, p. 169

*18:J. P. McEvoy, ‘McEvoy in Disneyland’, “The Reader’s Digest” 394, Reader’s Digest Association, Feb., 1955

*19:Ariel Dorfman & Armand Mattelart, “How to Read Donald Duck: Imperialist Ideology in the Disney Comic”, Pluto Press, 1971:2020, loc. 509 (Kindle

*20:皮肉なことにウォルト自身はこう語っています。「動物は人間より優れているといえる。人間には自らの奇妙な信念に従って、自然に手を加えてとてなづけようと試みるものもいる。動物はそんなことしない。ただ自然に自分自身を順応させるだけだ。動物が自然をダメにしたためしがあるかね?」(「The Coca-Cola Show」、ラジオ放送、一九四二年十二月十二日)​

*21:MGMでトムとジェリーを生み出したウィリアム・ハンナジョセフ・バーベラによって一九五七年に設立されたアニメーション・スタジオ。『原始家族フリントストーン』(一九六〇年)や『チキチキマシン猛レース』(一九六八年)などのテレビシリーズで有名。ちなみにジャック・ハンナ(Hannah)とウィリアム・ハンナ(Hanna)に縁戚関係はない。

*22:映画評論家のおかだえみこは『歴史をつくったアニメ・キャラクターたち ディズニー、手塚からジブリピクサーへ』​​(キネマ旬報社、二〇〇六)で、ドナルドがチップとデールを相手にドタバタ劇をやるようになったのはトムとジェリーの影響ではないかと指摘しています。

*23:アメリカでは州によって三年〜四十年。日本では二十年。

*24:実際のシマリスの生態も、採食行動に活動時間を費やすと云われています。

*25:Dorfman & Mattelart, 1971:2000, loc. 964 (Kindle

*26:ミッキーをはじめとした「フレンズ」は戦後直後から郊外へ居住しはじめます。それは中流アメリカ白人、そしてウォルト自身と同期した行動でもありました。

*27:カート・アンダーセンが『ファンタジーランド 狂気と幻想のアメリカ500年史』(山田美明、山田文訳、東洋経済新報社、二〇一九[上・下巻])で指摘しているように、郊外そのものが外国人や黒人に対する差別的な排除意識から成り立っている歴史も見逃すべきではありません。

*28:作中ではAtomic Pillという不吉な爆薬。

*29:川田伸一郎、岩佐真宏、福井大、新宅勇太、天野雅男、下稲葉さやか、樽創、姉崎智子、鈴木聡、押田龍夫、横畑泰志『世界哺乳類標準和名リスト』、2021年度版、https://www.mammalogy.jp/list/index.html、二〇二一、二〇二三年七月十七日参照​​

*30:自然分布では西は西部ロシアを除いたロシア全域から東は名前通りシベリア、北方四島、北海道まで。

*31:一九七〇年以降はペットとして輸入されたものがイギリス、ドイツ、フランス、スイスといったヨーロッパ各国で小規模ながらも野生化している。

*32:A. F. Chamberlain, ‘American Indian Legends and Beliefs about the Squirrel and the Chipmunk’, “The Journal of American Folklore” 9 (32), American Folklore Society, Jan. - Mar., 1896, pp. 48-49

*33:「現在広く流布している説によれば、コロンブス到着時点で(北南合わせた)アメリカ大陸の人口はヨーロッパと同程度、つまり七千万人を超えていた。それからの三百年で、世界の人口は二百五十パーセント増加した。……ところがアメリカ先住民は九十〜九十五パーセント減っている」(スヴェン・リンドクヴィスト著、 ヘレンハルメ美穂訳『「すべての野蛮人を根絶やしにせよ」 『闇の奥』とヨーロッパの大量虐殺』青土社、一九九二:二〇二三、p. 167)

*34:John M. Clark, ‘Columbus Uncovered: The Great Squirrel Massacre of 1822’, “614NOW”, Nov. 4, 2022, https://614now.com/2022/explore-columbus/columbus-uncovered-the-great-squirrel-massacre-of-1822, Retrieved on Jul. 17, 2023​​

*35:bruteという英単語は「野獣」という意味も含意される。

*36:リンドクヴィスト(ヘレンハルメ訳)、一九九二:二〇二三、p. 17

*37: ‘All the interesting animal anecdotes have human parallels. They are easily understood out of common human experience and observation’; Walt Disney, ‘The Lurking Camera’, “The Atlantic”, Aug., 1954

*38:サラット・コリング著、井上太一訳『抵抗する動物たち:グローバル資本主義時代の種を超えた連帯』青土社、二〇二〇:二〇二三、p. 171

*39:アニメではこの一作にしか出演していませんでしたが、東京ディズニーランドでは二〇〇五年あたりから出没するようになり、パレードでもチップとデールと共演。二〇二一年の『パークライフ』ではついにアニメ復帰を果たします。

*40:後期チップとデール短編における重要なモチーフに「模倣」があります。これはほかの「フレンズ」とは異なるチップとデールのサイズ感ならではのモチーフなのですが、本稿では注目して語る余分がないのでいつかまた別の機会に。

*41:一九五〇年の大手スタジオの作る映画の制作費平均は百五十万ドルほどでした。独立系の低予算映画なら数十万ドル規模も珍しくはありません。ちなみに一九五〇年公開の『シンデレラ(Cinderella)』は予算二百二十万ドルに対して一億八百万ドル以上の興行収入を記録しました。そんな時代に、それ自体は収入を産まない「七分のおまけ」に十万ドルを費やすというのはいかにも見合わない行為だったのでしょう。

*42:McLain, 2017, p. 79

*43:当時人気だったドラマ版『マイアミ・バイス』(一九八四~八九年)のもじり。

*44:‘...took the core premise of small animals as heroes in the world of humans and came up with a program titled Metro Mice, a take-off on the title of the detective television series, Miami Vice. The main characters would have been Kit Colby (a mouse wearing an Indiana Jones jacket and hat who was the adventurous leader of the team)’; Wade Sampson, ‘Remembering Rescue Rangers’, “MousePlanet”, Jul. 22, 2009, https://www.mouseplanet.com/8866/Remembering_Rescue_Rangers, Retrieved on Jul. 17, 2023

*45:ちなみに短編時代に同様のロケーションだったのは二篇、『ドナルドはデイジーに首ったけ(Crazy Over Daisy)』と『リスのテストパイロット(Test Pilot Donald)』(一九五一年)くらいでしょうか。