名馬であれば馬のうち

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かわいいゾウさんを撃つーー『It Takes Two』について

*本記事には『IT Takes Two』についてのネタバレが含まれています。*1


しかし私はその象を撃ちたくなかった。草の束を膝に叩きつける象を私は見つめた。象は何かに没頭している老婦人を思わせる雰囲気を持っていた。象を撃つことは謀殺のように思われた。


   ーージョージ・オーウェル「象を撃つ」(Haruka Tsubota 訳)



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ゾウは忘れられない


 2021年度の The Game Awards でゲーム・オブ・ザ・イヤー(作品賞)に選ばれた It Takes Two は、ゲーム史に残る邪悪なトラウマをプレイヤーに刻んだゲームでもあった。
 ゾウを殺すのである。
 ただのゾウではない。
 この世の純粋無垢を具現したような愛らしい、思いやりのある、かわいいゾウ、しかもぬいぐるみのゾウをプレイヤーは手にかけなければならない。
 プレイヤーに拒否権は事実上ない。ストーリー進行の要請としてゾウさんをひどいめに合わせねばならず、どうしてもやりたくないならゲームをそこでストップする以外の方法はない。
 一連のイベントシーンを乗り越えたプレイヤーたちは誰もが頭を抱えて、あるいは天を仰いで、こうつぶやく。
 ーーどうしてこんなことに。


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どうして……?


 It Takes Two は世にも珍しい二人プレイ専用のタイトルだ。
 仲が冷え切ったすえに離婚を決断した夫婦が離婚を悲しむ娘の涙の力によって、魂を人形に囚われてしまい、元の肉体へ戻るために協働して奮闘する、という内容。プレイヤーは夫婦のうち、どちらのキャラを操作するかそれぞれ選んでプレイする。
 基本的には3Dのフィールドでパズルをときながら進んでいくプラットフォーマー・アクションだが、途中で多彩なミニゲーム(だいたいは明確な元ネタあり)をこなしていったりもする。
 相棒となるプレイヤーと、ときに励ましあい、ときに罵りあい、ときに煽りあって進行していくプレイはゲーム内の物語そのものともシンクロしており、豊かなゲームデザインとあいまって、約12時間前後の共同作業がまったく苦にならない。たしかにゲームオブザイヤーの名に恥じない、2021年の新作タイトルでもマストな一本といえるだろう。


 だが、ゾウを殺さなくてはならない。


 問題となるのは Cutie という名前のゾウさんと対峙するシークエンス。
 自分の身体を取り戻すにはもう一度娘に涙を流させればいいのではないか、と考えた主人公夫婦は、彼女のお気入りだったぬいぐるみを壊すことで娘に悲しみに追いこうとする。そのターゲットとなるぬいぐるみが Cutie だ。
 そんな企みを露も知らない Cutie はアポもなく現れた夫婦を歓迎し、ハグをしたり、クッキーを薦めたりする。夫婦が自分を殺そうとしていると知ったあとでさえ、穏やかに説得してやめさせようと試みる。
 Cutie は本編でプレイヤーたちの言い訳になるような悪事を一切働いていない。ひたすら、いい子だ。
 プレイヤーたちは命乞いをしながら逃げ惑う Cutie を追い回さなければならない。傷つけなければならない。殺さねばならない。
 その殺害過程は凄惨のひとことに尽きる。とても文字では描写できない。詳細を知りたい場合は本編をプレイするか、あるいは youtube にアップされた動画を観てほしい。


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 上の動画のコメント欄には嘆きと後悔が渦巻いている。「Cutie にこんなことはしたくなかった」「インディーゲームでここまでの罪悪感と絶望と悲しみを抱いたことはかつてなかった」「このシーンを見た後、セラピストへ会いに行きました」「泣いた」「あらゆるゲーム・映画を通じて最も心打ち砕かれるシーンだ」……
 実際にこのパートでプレイを止めたと告白するものさえいる。 
 Steam の不評レビューでもっとも評価を集めているのも「ゾウさんがかわいそう」*2と書かれたものだ。ちなみに二番目に人気を集めている不評レビューは「クリアするより前に彼女からフラれたので(オススメしません)」だ。
 

 Reddit のある投稿者*3は「俺はこれまでゲームを通して色んな存在を殺してきた。悪魔から空港の一般人まで、あらゆるものを。そういうことについて、あまり深く考えてこなかったといえる。だが、慈悲を請うなにかを苛み殺す経験は、俺と俺のガールフレンドをすさまじく不快にさせた」。


 この投稿で言及されている「空港の一般人」とは一人称視点シューティング戦争ゲーム『Call of Duty』シリーズ6作目『Modern Warfare 2』(2016年)に出てくるあるステージを指す。そのステージではプレイヤーはテロリスト*4に扮し、ロシアの空港で丸腰の市民を虐殺することになる。*5
 ビデオゲームの歴史において最も論議を呼んだ場面のひとつだ。*6
 

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 そんな悪趣味の極致とされるゲームよりも Cutie 惨殺はむごい体験だった、と彼はいう。

 このようにゲーム中に道徳やタブー、法律、そして個々の感性の境界を踏み越える体験をビデオゲーム研究者のモーテンセンヨルゲンセンは〈逸脱 transgression 〉と呼んだ。*7
 逸脱的な体験はときに殺人のような社会規範にもプレイヤーの道徳理念にも反する行動を強いるけれども、基底現実でそのような行動を取るよりはプレイヤーに耐え難さを催させない。なぜなら、プレイヤーは、実際の行動と結果が生じているゲーム内世界から身体的に切り離された空間におり、文脈的にも隔絶している。要するに、画面のこちら側でボタンを押すことと画面の向こう側で銃を撃って人を殺すこととのあいだには、地続きの感覚として認識するにはかなりの距離がある、というわけだ。*8
 

 逸脱にはある種の美的経験をもたらす効果がある。*9 戦争ゲームをメタ的に解釈した Spec Ops: The LIne (2016年)に代表されるように逸脱を明示的に批評的な文脈で用いるゲームも多く存在する。しかし、CoD:MW2や純粋な無差別殺戮を追求したと謳ったポーランドの Hatred(2015)などは多くの人々に火遊びの快楽を超えて嫌悪を催させた。*10
 そして、It Takes Two はそれ以上の拒否反応を招いた。
 現実世界において、ゾウのぬいぐるみをめちゃくちゃにすることは、無抵抗の市民を虐殺するより残酷な行いだとはまずみなされない。ここに顛倒がある。なぜだろう。
 
 
 ひとつには、Cutie が顔を持ったキャラクターとしてよくデザインされていることだ。Cutie が劇中で登場してから退場するまでは数分程度しかないものの、そのあいだに彼女のやさしさ、愛らしさ、無垢さがわずかな会話や行動で十全に提示されている。
 感情移入するにあたり、対象を一個の存在として認識することは重要だ。たとえば、ひとは「○○という国の子どもたちが飢えて苦しんでます。あなたの寄付で救えます」という情報を見せられても、なかなか簡単にそうした子どもたちの窮状に対してアクションを起こそうとはしない。ところが、「○○という国にすむ△△ちゃんは今晩食べるパンすらありません。彼女は毎朝家族のために10キロ離れた井戸まで水を汲みに……」などと具体的なストーリーを提示されると急に寄付へとつながりやすくなる。*11
 創作の分野においてキャラクターの重要性が説かれるのもつまりはそういうこと。どうでもいいキャラが死んでも読者にとってはどうでもいい。
 そして、Cutie のキャラは声といい振る舞いといい、かなり幼く設定されている。ここが特に制作者の悪辣なところだ。まるで何もわからない子どもを手にかけているような感覚に陥ってしまう。 外見も幼児向けのぬいぐるみであり、実際主人公の娘の大事なおもちゃという設定もあるため、容易に「=子ども」という連想が働いてしまう。
 子ども殺しの描写は全世界的にエンタメコンテンツで忌避されている。『Skyrim』のようにNPCを無造作に殺害できるようなゲームでも、子どもだけはその対象から外されていることが多い。前述の CoD:MW2 でさえ、空港の虐殺シーンに子どもは出していないのだ。
 そうした点において、It Takes Two はタブーに踏み込んでいるといえる。逸脱の度合いが高い。
 
 
 もうひとつには、主人公夫婦の行動原理に共感できないこと。
 すでに書いたように主人公夫婦は「娘の涙のせいで自分たちが人形になってしまったのだから、もう一度娘を泣かせばきっと元に戻れる」というロジックで動いている。いかなる理由があれ、自分たちの娘を泣かせるつもりで行動する親がいるだろうか。*12
 実際、このあたりの物語運びに強い拒否感を抱いたプレイヤーは少なくようだ。ある Steam ユーザーは「こいつらに子供を育てる資格はない」*13と断言し、英語圏のあるユーザーは「『こいつらはサイコパスだ』と感じてプレイを止めた」という。
 もちろん、主人公夫婦はこのあと娘に対するおもいやりを取り戻すわけだが、それにしてもいくら切羽詰まった状況で多少のためらいはあるとはいえ、「自分の子どもを傷つけようとする親」が描かれるというのも考えてみれば、いくらギャグであるとはいえ、異質だ。
 

 さらにもうひとつ。以上このイベントが作品の見てくれから期待されていなかったことだ。
 物語はおとぎ話みたいで実際、物語全体通して見ればハートフルといえるし、キャラクターデザインもかわらしく仕上げられている。まさに子どもといっしょにプレイするにふさわしい感触だ。
 そのゲームの外見や事前情報から想定される期待のフレームを外れたとき、プレイヤーは衝撃を受ける。それは「裏切られた」という感情へ、ときにいい意味で、ときに悪い意味でつながる。
バイオハザード』を購入して遊んだプレイヤーが「まさかゾンビになった人間を銃で撃つハメになるとは……」とショックを受けることはまずない(「まさか、あんな屋敷のなかであんな謎パズル解かされるだなんて……」とショックを受けることはあるかもしれない)。戦争ゲームであるCoDで一般市民を虐殺することは予想しないかもしれないが、しかし兵士やテロリストを射殺することは期待するわけであるし、そこにおいて一般市民を巻き込むことをまったく想定しないかといえばそうではないだろう。
 だが、It Takes Two においてかわいいゾウさんをさんざん追いかけ回して追い詰めたすえに殺すことは誰も希望しないし、想像もしない。ゲームジャンルと地続きになっている展開でもない。
 わたしたちはまったく無防備な状態で、強烈な一撃を喰らう。


 わたしたちはゲームで体験したことを語りたがる。なかでも衝撃的だった体験を語ろうとする。Cutie the elephant のくだりが It Takes Two のネタバレにおいて最も語られるシークエンスであるのは、そういうことだ。
 開発者のジョセフ・ファレスはインタビューで「あれは美しいシーンだった。自分は大好きだ」と述べたうえでこう続けている。「ゲームはプレイを通してプレイヤーの感情を惹起します。みんなよく取り違えるけれども、いい気分が引き起こされたのであればもちろんそれはよいことですし、悪い感情が引き起こされた場合でもそれはゲームのストーリーテリングにとってはよいことなのです。」*14
 

【おまけその1・ボリート*15としてのヴィデオゲーム】


 ヴィデオゲームにおける強制力について書きたい。あるいは、steam や YoutubeReddit でかれらがそうしているように、自分の体験についてわたしは語りたい。


 Cutie 殺害がショッキングなのは、プレイヤーたちが一挙手一投足をもってその行為に加担しなければならないからでもある。本作のストーリーは一本道であり、繰り返しになるが、Cutie を殺さないという選択肢はゲームの停止以外ありえない。
 しかし、本当に自らの道徳規範や嫌悪の感情に忠実ならば、ためらいなくそこでゲームを中断できるはずだ。*16


 でも、わたしはしなかった。わたしたちは、そうしなかった。


 ジョージ・オーウェルのエッセイ「象を撃つ」をおもいだす。当時英領だったインドに駐在していたオーウェルが、地元民を殺害したゾウを射殺するように依頼される話だ。オーウェルとしては気が進まない業務だったのが、ふと気がつくと地元民の注目が自分に注がれており、宗主国民としての責務を果たすようにみえない力で強制されているかのような心地になる。そして、彼は象を撃ってしまう。
 ヴィデオゲームは自由なあそびであるけれども、不自由なあそびでもある。ゲームはときどき無意味なようにおもわれたり、プレイヤーの意に沿わないようなことも強いてくる。強制は明確な指示として文字や声で命じられる場合もあるし、
そうするしかない流れになる場合もある。それはゲームの作品世界がひとつの系であるからだし、独自の法則によって形作られているからだ。
 しかし、RPGで経験値を得るためにザコ敵を狩ったり、しょうもないミニゲームをやらされたりするならともかく、あきらかに間違っている感覚をおぼえるものを間違っていると断定できないままにやらされる体験は希少だ。これはわたしたちたちの倫理、すなわち現実がフィクションの世界に優越しているという事実のひとつの証左なのだろうか?


 この前遊んだ Spec Ops: The Line では「吊るされた民間人か兵士かのどちらかを撃たねばらない」という選択を突きつけられた。うんこ味のカレーか、カレー味のうんこか、みたいな二者択一だ。それはゲームにおける選択の無意味さについての批評のようでもあったけれど、プレイヤーとしてはどっちに転んでも最悪な分、むしろ撃つのが気持ち楽だった。
 だが、たいていのゲームのたいていの場面は選択肢を提示しはしない。ゲームには目的があり、(ものにもよるが)ストーリーやプロットが設定されている。その終端に達することで、わたしたちはようやく「ゲームを遊んだ」といえるようになる。
 ゲームのメディアとしての特性は受け手の関りかたの能動性にある。もちろん、小説にだってページをめくるという行為に能動性は宿り、それを利用して「物語を読みすすめる読者と物語内で起こる悲劇の共犯関係」をメタ的に描いたミステリだってあるけれども、かなり抽象的だ。「おまえがページをめくったせいで作中の人物がひどいめにあいました」と言われても、ハア、そうッスか、という気分にしかならない。
 ビデオゲームの操作系とインタラクションの機序も現実に比べれば抽象的にすぎる。とはいえ、選択や行動について覚える能動性はそれでも他メディアと比較にならない。
 自分の意志がそこにあるような気がするし、実際プレイヤーの意志を反映してプレイヤーキャラは動く。
 だが、実際には物語に、ジャンルに、作品ごとのシステムに、ゲーム機の性能に、コントローラのボタンの形状や数に、あるいは数々のなんとなしな了解によってわたしたちは縛られていて、その範囲内でしか意志することはできない。


 ゲーム研究者のイェスパー・ユールは『The Art of Failure: An essay on the pain of playing video games』*17プレイヤーが回避しえない意図せざるゲーム中の悲劇の例として、『レッド・デッド・リデンプション』とボードゲームの『Train』*18をとりあげている。
レッド・デッド・リデンプション』の終盤では(ネタバレになるので詳細は伏せるが)とあるプレイヤーの意志に反するであろうあるキャラについての悲劇を強制的にあじわわされる。しかし、一方でその時点では当該キャラは「プレイヤーの代理」としての役割から解放されているので、プレイヤーの感じる負担は少なくなる。人形夫婦が「プレイヤーの代理」としての役割を負わされたまま Cutie の殺害に加担する It Takes Two とは対照的だ。
 どちらかといえば It Takes Two のフィーリングに近いのは『Train』のほうかもしれない。

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Train


 このゲームは人間の形をしたフィギュアを貨物列車に詰め込んで輸送するゲームだ。プレイヤーはできるだけ貨物列車にフィギュアを満載しようとする。そうして、列車がマップの端に到達すると、プレイヤーは伏せられたカードの山からカードを一枚引く。そのカードには目的地の地名が記されている。なぜか、どういった地名なのかはプレイヤーに事前に明かされていない。


 一番乗りで山札から引いたあなたのカードにはこうあるーー「アウシュビッツ」と。


 その他のカードにはこうだ。「ヘルムノ」「ダッハウ」「トレブリンカ」……。
 いずれもナチスドイツの建設したユダヤ絶滅収容所の代名詞となっている地名だ。


 プレイヤーはゲームに勝つために進んで”ポイント”を輸送していたつもりが、知らずして虐殺に加担するはめになっていた、というわけだ。「Train」がウォール・ストリート・ジャーナル紙で二度とプレイしたくないゲームとして取り上げられたのは当然だったろう。最も一点ものとして開発され市場に流通しなかったので、一般のゲーマーには触れる機会もなかっただろうけれど。*19
 しかし、「Train」の全体像が明かされたあとも積極的にプレイを続ける向きは少数だろう(「いったん始めた以上は他のプレイヤーもいることだし仕方ない」としぶしぶ続けるか、最初からそういうゲームとして悪趣味に楽しむかする人たちは別にして)。
 かたや、It Takes Two には奇妙な魔力がある。わたしたちは不快な行為をやらされると判明したあとでも、罪悪感に苛まされながらネチネチとゾウさんを追い回す。その罪悪感には拒絶の感情だけでないなにか別のものが宿っているのだろうか? だとすれば「それ」はなんだろう? ユールはその問いには明確な答えを与えてはくれない。代わりにこう述べる。
「これらはすべて、ゲームが悲劇と責任の探求という意味で最も今日陸なアートフォームであることを示しています。私たちは、どのように犯罪を犯すか、またどのようにそれを隠すかを実際に考えさせられました。ゲームは隠れる場所を与えてはくれません」*20


 そう、わたしたちには逃げ場がない。
 窮極的には、わたしたちの行動はデザインされたものだ。クリボーを踏まないマリオはいないし、スライムを真っ二つにしない勇者はいない。わたしたちはほかのなにかを殺すようにコントロールされている。そしてそのことに呵責を覚えない。かつてなく自由な時代なはずなのに、アイヒマンみたいな毎日。
 ゲームで強制される逸脱的なシーンは、そんなわたしたちの不自由さを確認させてくれる。ゲームを遊ぶという行為とはいったいどういうことであるのか、その根源を問うてくる。
 だからこそ、わたしは It Takes Two のゾウさんの場面が心に残っているのかもしれない。オーウェルが象を撃つことによってコロニアリズムの奇妙な権力関係を発見したように、物事には顛倒や凝視によってしか届かない領域がある。
 ゲームであることの良い点は、わたしの行為によって現実のゾウさんが死ぬことはないし、Cutie もエンディングでは修復されて元気になっているということだ。


 

【おまけその2・ジョセフ・ファレスというひと】

開発者はレバノンスウェーデン人のジョセフ・ファレス(Hazelight Studios)。元は映画監督で、兄である俳優のファレス・ファレス*21を主演にした長編を撮ったこともあった。
 2010年代からゲーム業界へ転身し、『ブラザーズ:2人の息子の物語(Brothers: a Tale of Two Sons)』(2013)で成功を収める。同作はコントローラーの左右で主人公となる二人の兄弟を別々にあやつる、一人協力プレイともいうべき操作系のゲームだった*22
 二作目となる A Way Out(2018、日本語版未発売*23)では、さらに過激化して完全な二人協力プレイ専用ゲームとして発売。テレビゲームなど孤独な陰キャのオタクのやるもの、という偏見を覆し、発売二週間で100万本を売った。この A Way Out の発売前年にファレスは時の人となる。といえば、聞こえはいいが、つまりは炎上した。
 2017年の The Game Awards にゲストとして出演したファレスはパブリッシャーであるEAのゲームにおけるルートボックス要素(ものすごく噛み砕いていえば、ガチャ)を批判。のみにとどまらず、全世界へ向けての生放送の真っ最中に中指を立てて「Fuck the Oscar(アカデミー賞なんかくたばっちまえ)」などと発してしまう。

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 日本なら出禁ものの大失態だ。だが、フィル・フィシュ*24や Notch*25といった札付きの問題児を見てきたゲーム業界はファレスの放言程度はかわいいものだと判断したのかもしれない。*26 A Way Out は翌年のTGAで部門賞にノミネートされ、さらに It Takes Two では最高賞となるゲーム・オブ・ザ・イヤーに輝いた。受賞のスピーチで、ファレスはこう述べた。「2017年にこのステージ上で『アカデミー賞なんかくたばれ』って言ったけれど、まあある意味で、くたばったよね。The Game Awards のほうが良くなってきているもの」。
「Fuck the Oscar」ミームIt Takes Two の作中でもイースターエッグとして仕込まれている。


*1:でも、あなたが本当はそんなの気にしないことをわたしは知っている。

*2:https://steamcommunity.com/id/Sirecia/recommended/1426210/

*3:https://www.reddit.com/r/Games/comments/mqp8zl/comment/h45jhkg/?utm_source=share&utm_medium=web2x&context=3

*4:正確にはテロリストの仲間を装ったスパイ

*5:ステージの前には警告が出され、ステージをスキップするかどうかを選べる。日本語版では市民を射殺するとゲームオーバーという仕様に変えられている。

*6:https://ja.wikipedia.org/wiki/No_Russian

*7:‘The paradox of transgression in games’

*8:ちなみにゲームを通じて発生する認知的不協和を説明するタームとしては Ludonarrative Dissonance という概念もある。こちらはプレイヤー自身の倫理観によって引き起こされる不協和というよりは、ゲーム全体としてのテーマと部分としてのシーンが齟齬をきたしたときに起こるものっぽい。http://www.fredericseraphine.com/index.php/2016/09/02/ludonarrative-dissonance-is-storytelling-about-reaching-harmony/   https://twitter.com/zmzizm/status/1169122687026978817?s=20

*9:モーテンセンヨルゲンセンはカントの「崇高さとは自分より大きいものに出会ったときの経験である」ということばを引き、逸脱にはそうした感覚と出会う可能性があると示唆している。

*10:もちろん、MW2の空港ステージを心から楽しんだプレイヤーもたくさんいただろう。それは犯罪ではない。

*11:たしか行動経済学でこういうのに名前がついていたはずだが忘れた

*12:ここにはプレイヤーがゲーム内の操作キャラクターを常に自らのアバターとして考える「アバター・バイアス」の問題も絡んでいる。プレイヤーにとってゲーム内の操作キャラクター(代理行為者)とはなんなのか、という問題については松永伸司の『ビデオゲームの美学』(慶應義塾大学出版会)の第六章と第十一章でもふれられているが、私は議論をよく理解できている自信はない。ある日いきなり『ビデオゲームの美学』をすべて理解したイケメンが白馬に乗って現れてわたしにわかりやすく解説してくれないかなあ、と願っているがその日はいまだに訪れない。だれか助けてくれ。

*13:https://steamcommunity.com/profiles/76561198850470927/recommended/1426210/

*14:https://www.pushsquare.com/news/2021/04/exclusive_josef_fares_discusses_the_infamous_elephant_scene_in_it_takes_two

*15:コーマック・マッカーシーの戯曲とそれに基づく映画『悪の法則』に出てくる自動処刑装置」

*16:カイヨワ曰く、自発的でないかたちでプレイされるゲームはゲームではない

*17:邦訳タイトルは『しかめっ面にさせるゲームは成功する 悔しさをモチベーションに変えるゲームデザイン』ボーンデジタル

*18:よくにた名前のボードゲーム、『Trains』とは別物

*19:本作をデザインしたブレンダ・ロメロはこの他にもプレイヤーが奴隷貿易業者に扮する The New World や強制移住を余儀なくされた19世紀のネイティヴ・アメリカンたちの「涙の道」と呼ばれる死の行進を題材にした One Falls for Each of Us などのシリアスゲームを制作したらしい。

*20:p.88, 『しかめっ面にさせるゲームは成功する 悔しさをモチベーションに変えるゲームデザイン

*21:ベースはスウェーデンだが、アラブ系の役柄でアメリカの映画やドラマに出演することもたびたびある。有名どころだと『ローグ・ワン』や『ウエストワールド』にも出演。

*22:2020年にSwitchへ移植された際にはコントローラーを分割できるSwitchの特性に合わせてローカル二人プレイも実装された。しかしゲームの演出上には一人プレイのほうが想定されている

*23:現状英語版すら Steam だと日本では購入不可能となっているが、Electronic Arts の販売プラットフォーム Origin で購入できる

*24:Fez』で知られるゲームデザイナー。個性的な言動で炎上しまくったあげく(有名どころではあるゲーム開発者のカンファレンスで放った「今の日本のゲームはクソ」発言)、現在はゲーム開発から引退。

*25:Minecraft』の開発者。あらゆる方面への差別発言を繰り返したあげく、マイクロソフトに売った『Minecraft』のクレジットから名前を消されてしまった。あまりの素行の悪さにマイクラファンからも忌避され、「マインクラフトは初音ミクが作った」というミームが一時期流行った。https://knowyourmeme.com/memes/hatsune-miku-created-minecraft

*26:余談になるけれども、SF小説の界隈で起こったサッドパピーズ騒動で差別主義的団体ラビッド・パピーズを創設した Vox Day も90年代はPCゲームの開発者だった。フィル・フィッシュとかはまた違ってくるけれど、”問題児”を生んでしまう土壌みたいなものは界隈には確実あったようで、これが2010年代にゲーマーズゲートを引き起こし、現在立て続けに起こっているキャンセル騒動につながっているわけだけれど、今回は関係ないので省きます。