名馬であれば馬のうち

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ミステリについて書かれた評論はミステリのように読まれると良い――門井慶喜『マジカル・ヒストリー・ツアー』

 精緻化されていないものについて好き勝手言うのが好きなので、基本的に評論や批評について語る言葉を持っていません。つけくわえておくと、基本を疎かにしがちな人間でもある。困ったものです。



マジヒスとは何か

 門井慶喜『マジカル・ヒストリー・ツアー』は、小説家門井慶喜が彼のフィールドである歴史ミステリについて真摯に考察を行った長編評論です。
 歴史ミステリについて書かれた書物なのだから、歴史ミステリに興味を抱いている人が読めばよい。
 もちろん本とは多様なチャンネルが開かれているもので、門井慶喜が好きだからだとか、ミステリ評論に興味があるからとか、『薔薇の名前』とかパムクとか読む気しねえけどいっちょ前に読んだフリをしたいだとか、まあそういうだらしない理由でもいいんじゃないんですか。読んだ後はたぶんパムクもエーコにも手を伸ばしたくなっているでしょうから。
 それと、この手の本としては稀なことに、扱う作品に重要なネタバレはされていません。それでいて未読であっても楽しめるよう意識されたつくりになっています。
 とは言い条、せめて『時の娘』くらいは経ていたほうが読み易いのかな、とはおもいます。


あなたよりもかわいい娘

 『時の娘』はなぜ、ミステリなのか?

               p. 282


 講義形式の評論といえば、しぜん一コマにつき一作品一テーマを期待してしまうのが生徒であるわたしたちの常ではありますが、門井慶喜教授はそういう型式をとりません。
 目次は以下のごとく。

 第一講 『時の娘』は絵からはじまる
 第二講 『緋色の研究』となりは何をするヒトぞ
 第三講 イギリス人にはかけない「アッシャー家の崩壊」
 第四講 『荒野のホームズ』あこがれのピラミッド
 第五講 『薔薇の名前』の登場人物たちの名前
 第六講 『薔薇の名前』宗教裁判に勝つ方法
 第七講 『わたしの名は赤』偶像崇拝厳禁の国の偶像
 第八講 『わたしの名は赤』歴史ミステリの成分分離
 第九講 『緋色の研究』ホームズのワトソン君が交わす視線
 第十講 『時の娘』で絵は終わる


 歴史ミステリのマスターピース、ジョセフィン・テイ『時の娘』を讃えるチャプターからはじまり、『緋色の研究』、さらに「アッシャー家」となぜか『荒野のホームズ』と進んでいき、上下巻だから、という理由でもないのでしょうが『薔薇の名前』と『わたしの名は赤』で連続講義。そこから折り返して『緋色の研究』、そして『時の娘』で締めます。
 冒頭で提示されたモチーフがラストで絵解きされるスタイルは評論というよりは小説のような構成で、実際読んでみても問題提起のスタイルと解決の流れはミステリじみています。


 それではここで提起される問題とは何か、といえば、要するに「歴史ミステリとは何か」です。


 「歴史ミステリ」は何からできているのか?
 「歴史ミステリ」を何からできていないのか?
 そもそも「歴史ミステリ」とは化学的*1に成立しうるジャンルなのか?


 辞書的な定義を考察しよう、という呑気で実効性のない議論をしようというのではありません。そもそも冒頭の時点では著者は*2「「歴史ミステリ」の定義も厳密に行わずに」「姿勢を楽にして、リラックスして旅に出」たはずでした。読者も著者といっしょになって『時の娘』の名作っぷりに一ミステリ読者として素直に喜んでいればよかった。
 ところが、『時の娘』を読み、『緋色の研究』を読み、「アッシャー家」を読み、絵を考え、宗教を考え、歴史を考えていくうちにどうも「歴史ミステリとは何か」が切実な重みを帯び出してくる。もはやそれを考えること抜きには前へ進めなくなってくる。
 なぜか。
 著者が小説家だからです。歴史もミステリも大好きな人だからです。
 歴史ミステリラヴァーだからこそ書き手だからこそ歴史ミステリというサブジャンルに孕んでいる矛盾に誰より自覚的にならざるをえない。
 なので『わたしの名は赤』と視点人称の分析を通じて「歴史小説歴史小説たらしめる要素」と「ミステリをミステリたらしめる要素」を分離させてなんだかネガティブになったりもする。

 ……『わたしの名は赤』は歴史ミステリから歴史小説とミステリという二大要素をきれいに分離してみせた。その結果わかったのは両者が相反する性格を持つということであり、きびしい緊張関係にあるということであり、したがって歴史ミステリという化合物そのものが本来極めて不安定なものだということだった。何なら脆弱と言ってもいい。これまで私がそこにどっしり建っていると思いこんでいた、そうして、熱烈に愛を捧げていた天守閣は、じつはマッチ棒の城にほかならなかったのだ。
 もちろん私は、それまでも気づいていた。
 歴史小説とミステリが相反する性格を持つということは経験上わかっていた。たとえば歴史小説では読者からはじめから話の結末を知っているが(織田信長が本能寺に入ったらどうなるか、ナポレオンはワーテルローの戦いに勝てるかどうか)、ミステリでは知らない、というか作者がぜったい知らせないとか。あるいは歴史小説はふつう主人公の幼少時から書き起こすため未来志向型の物語になりやすいが、ミステリは事件が「起こってしまった」ことで話がはじまるので過去探求型のストーリーになりやすいとか。*3

                  p.226-7


 そうして、『時の娘』に対する『わたしの名は赤』の優位性――歴史小説たるとミステリたるを兼ね備えた完璧な歴史ミステリ――に懊悩し、「『時の娘』はもういらないのだろうか」とひとり絶望に暮れます。もはや『時の娘』は賞味期限切れなのでしょうか? かつてミステリというジャンルに革新をもたらし、ひいては現実へ作用し歴史認識すら変革した偉大な『娘』は六十年を経てよぼよぼのおばあさんとなり、寿命を使い果たしてしまったのでしょうか?

 いや、違う。
 『時の娘』は死んでいない。
 ……(中略)歴史叙述とミステリの双方の魅力を備えているという点では『時の娘』は依然世間に冠たる歴史ミステリにほかならないのだ。

              p.230


 ここからの残り七十ページ強を、門井先生は『時の娘』の生存証明と歴史ミステリの価値証明に投じます。その熱情はほとんど探偵的と言ってもいい。こっちはミステリについての本を読む心づもりでいたのが、いつのまにかミステリ以外なにものでもない作品を読んでしまっている。面白いミステリ評論にありがちな幸福な罠ですね。


時の娘 (ハヤカワ・ミステリ文庫 51-1)

時の娘 (ハヤカワ・ミステリ文庫 51-1)

*1:なんだか知らないけど、門井先生は歴史ミステリにおける「歴史」と「ミステリ」の結合を化学に例える

*2:p.17

*3:このあと「まあでもあくまで傾向にすぎないけどね」という留意が入る