探偵のほうのエラリー・クイーンの生年は『最後の一撃』に「一九〇五年」とはっきり記述されていて、斯界の議論もおおむねこれに沿っている。かたや、「一九〇五年」説に疑義を呈して新説を築きあげたすごいヒトもネットには存在するわけだけれど、とりあえずここでは『ギリシャ棺』事件の発生年だけを問題にしたい。
When
『ギリシャ棺』の事件はいつ起こったか。
1) 作中内作者であるJJマックの序文によれば、『ギリシャ棺』が発表されたのは一九三二年二月(かそれ以前)。つまり、事件は三十二年以前。
2) 作中に出てくる、ある人物の日記の日付に「一九二――年*1」とある。つまり、事件は二〇年以降。
ここまでで一九二〇年〜一九三二年のあいだであることがわかる。さらに、
3) 作中で何度も明示される曜日と日付の対応関係
から、a) 一九二〇年 と、b) 一九二六年 のいずれかに候補が絞られる。
ここまでは(たぶん)エラリアンには常識の範疇だろう。ぼかあ再読して調べてはじめて知りましたけど。
さて、二〇年説と二六年説、どちらをとるかとなった場合、ファンの多くは『最後の一撃』一九〇五年説とのかねあいから後者をとるだろう。
その判断において一つ重要な指標となるのが「クイーンは大学卒業してすぐ」という記述で、いかに飛び級の国アメリカ、いかに天才の人エラリーといえど十五歳*2で大学を修了したというのはあまり現実的じゃない。ちなみに十五歳だったら十五歳で、お手伝いのジューナ少年*3との絡みが文字通りボーイズがラブリーですねって事態になるのでマア佳きことだとは存じます。
Whether
『最後の一撃』前提というのはなんだか気持ちわるい。
なにかほかに、作中から採取可能な情報だけで判断できやしないか。
しかし『ギリシャ棺』はとことん外部のイベントごとや政治的風物詩などとは切り離されているため、なかなか使えそうな情報が掘りだせない。
そんな絶望的な状況下で、ひとつ材料として芽がありそうなのはお天気情報です。
といってもエラリーやリチャードがそんな毎日毎夜四六時中空をみあげてウェザーリポートしてくれていたわけではなく、してくれてたら大いに助かったのだが、作中で言明される天候は十三章の書き出し「一夜明けた土曜日の朝――まばゆい十月の太陽の輝く日――クイーン警視の消沈した心は著しい回復を見せた」*4のみ。
この「土曜日の朝」とは十月九日土曜日の朝を指している。つまり、過去の天気を調べて一九二〇年の十月九日か、一九二六年の十月九日のどちらかにニューヨーク・シティで降雨のあった事実をさえ確認できれば、そうでないほうが『ギリシャ棺』であると立証できるわけだ。
「待てよ。百年前のお天気情報なんて残ってるわけないし、あまつさえネットで調べられるわけねえじゃん」とおおもいならば、まだまだあなたはアメリカ人の狂気を理解しているとはいえない。アメリカは可視化とデータのパラノイアに支配された国だ。あいつらは何でも記録するし、何でもネットにアップする。ありがとう USA 。 We ♥ NY.
当然、一九二〇年十月九日と一九二六年十月九日の天気の記録にもアクセスできる。
http://www.weatherdb.com*5
で、調べてみる。結果から言えば、どちらの日にも雨は降っていなかった。せめて雲模様も調べられればよかったけれど、アメリカ人は重要なとこで雑さ極まっていて、そのせいでイラクやベトナムや『ジュラシック・パーク』シリーズでひどいめにあってきたような奴らなので、そこのところは抜け落ちている。
ちなみに、十月中で激しい降雨のあった日を調べて、それらを登場人物が外に出たシーンとつきあわせてどうにかするみたいな方法もあり得たかもしれないけれど、秋のNYはえらく降雨量が少ないらしく、降雨量が最高の日でも 0.6 インチ。センチに直すと 1.5 センチ。
この程度の小雨なら、降ったところで特に誰も言及しやしないだろう。
つかえねえ。
Wicked
結論: 『ギリシャ棺』の作中情報だけで事件の発生年を確定させるのは現時点では不可能である。
World Series
逆をいえば、『ギリシャ棺』外から適当な情報をとってくれば発生年を割り出せる、ってこと。
じゃあ、『最後の一撃』一九〇五年説でいいじゃんって話にもなるかもしれないが、ちょっとまってほしい。
『最後の一撃』が保証してくれるのはエラリーが生まれた年だけだ。直接『ギリシャ棺』の起こった年代について述べているわけではない。
じゃあ他に参照できる情報は、項目はないのか。
ある。存在する。
「野球」だ。
探偵エラリー・クイーンの短編に「人間が犬を噛む」(Man Bites Dog)という作品がある。
分類でいえば「ハリウッド」ものに属する一編で、エラリーがポーラ・パリスに誘われて、ニューヨーク*6・ジャイアンツとニューヨーク・ヤンキースのワールドシリーズ最終戦を観戦しにいく、といった内容だ。
ちなみに作中に出てくるグーフィ・ゴメスやジョー・ディマジオなどといったメンツから一九三六年(ディマジオのルーキーイヤー)から一九四二年(ゴメスのNYY所属最終年)までのあいだの出来事と推測され、その七年間にヤンキースとジャイアンツはワールドシリーズで三六年と三七年の二度対戦しているものの、どちらも第七戦までもつれこんだ事実はない。
ともかくもここで注目すべきは、リチャードの部下であるヴェリー部長刑事が大の野球ファンであるということだ。ヴェリーは「ヤンキースの筋金入りの崇拝者」*7、いっぽうのエラリーはジャイアンツファンとして描かれている。
こうした背景を踏まえて、さらにワールドシリーズの歴史を遡っていくと、一九二六年にはヴェリーにとってビッグイヤーだったことがわかる。
二六年のワールドシリーズはヤンキースとセントルイス・カージナルスのあいだで戦われたのだ。
全七試合、期間は十月二日から十日まで。最後の二戦は九日と十日にニューヨークのヤンキー・スタジアムで行われた。
そう、上でわれわれが天気を調べたあの十月九日の土曜日に、だ。
ヴェリーはその日の朝、捜査会議に出席している。ぶっちゃけ屁理屈小僧の戯れ言などうっちゃって、とっととスタジアムに駆けつけベーブ・ルースの勇姿に喝采を送りたかったはずだ。
そういう目で十三章を読むと、正義を果たすべくクイーン父子の手足となり、自らの情熱を抑えつつも淡々と大量の参考人を捌く有能なヴェリーのプロ意識に感動をおぼえずにいられないではないか。*8
……と、一九二六年説を前提にここまで話を進めてきたけれど、果たしてヤンキース信者のヴェリーがこの年のワールドシリーズに一切言及しないなんてありうるだろうか。
特に三勝三敗で迎えた最終はルースがホームランを放ったものの、カージナルスに逆転を喰らい、一点差で惜敗した試合だ。もっといえば、ヤンキースは三勝二敗で優勝に王手をかけた状態でニューヨークへ戻ってきてヤンキー・スタジアムでの二連戦にのぞんでいる。
あと一歩、というところで二連敗し、しかも最終戦は一点差負け。
ファンとしてヴェリーの無念は想像に絶するものがある。
にもかかわらず、舞台が二六年だったとして、ヴェリーは最終戦翌日の十一日は逃亡した関係者を取り調べたり、また別の関係者を事情聴取のため捕まえてきたりとせっせと忠実に職務を果たし、ヤンキースのヤの字も出さない。
これがほんとうに「人間が犬を噛む」で熱心にヤンキースを讃えていたファンの姿だろうか?
たかが野球、と侮ってはいけない。ニューヨーク・ヤンキースをそんじょそこらの球団とおなじとみなしてはならない。
一世紀以上の伝統をもち、ジャイアンツやロジャースなどと違ってその間ずっとニューヨークにあり続けた、ニューヨーカーの心の故郷、ニューヨーカーの魂なのである。ニューヨークの誇りなのである。雨の日も風の日も同時多発テロの日もそこにありつづけた、アメリカのシンボルなのである。
ヴェリーの父親もヤンキースを見守っていたはずであるし、ヴェリーの子も連れ立って球場で観戦したであろうし、ヴェリーの孫も、そのまた孫もおそらく白黒ストライプのユニフォームに熱狂してきたはずだ。ヴェリーの一族はヤンキースと常に在ってきたはずだ。
それなのに、だ。仕事は仕事だったにせよ、あまりにヴェリーの態度はそっけなさすぎる。歴史的敗戦の翌日である。このさき五十年は癒えることのない心の傷を負った翌朝である。雑談のどこかに「昨日は残念でしたね」とか「見に行きたかったなあ」くらいは挟まれてしかるべきだったのではないか?
われわれの知っているヴェリー部長刑事はそんなに薄情な男だったか? 国民の魂よりも仕事を優先するような人間だったか? ニューヨーカーとして誇りはどこに?
いや違う。やはり、一九二六年ではなかったのだ。
愛すべきヴェリーを裏切り者にしてはならない。
一九二〇年だったと考えるほうが理と人間としての情にかなっている。
ちなみに二〇年のワールドシリーズもニューヨークがらみであるけれど、出場したのはブルックリン・ロビンス*9。ジャイアンツファンのエラリーもヤンキースファンのヴェリーもそっぽを向いて当然だ。
以上の理由から、われわれは一個の野球ファンの純真を救うためにも『ギリシャ棺』の設定年を一九二〇年とする説をとるのです。
やったぞ。われわれはついにショタ執事を使役するショタ名探偵を手に入れたのだ。
- 作者: エラリー・クイーン,越前敏弥,北田絵里子
- 出版社/メーカー: 角川書店
- 発売日: 2013/06/21
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