名馬であれば馬のうち

読書、映画、ゲーム、その他。


読書、映画、その他。


同じ人が書いたSFを読む。――『圏外通信 2021裏』『〈未来の文学〉完結記念号 カモガワGブックス vol.3』



「本の話をしよう。お前の書いた小説を読もう。」


 江波光則『密葬 -わたしを離さないで-』



「まず、おたがいに本音で話しあおう」とホロ映像がいった。「だれだって本を読むのは好きじゃない。そうだろう?」


 トマス・M・ディッシュ浅倉久志・訳「本を読んだ男」




”まえがきや序文というのは誰も読まないらしい。”

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高江洲弥『先生、今月どうですか』

 知らない他人の話を聞くのがあまり得意ではない。おそらく同じ理由で同人誌を読むのも苦手である。そもそもプロの作家がプロの編集者と組んで出した小説でさえ七割がた何いってるのかよくわからないのに、これが同人になるとわからなさが平均九割に跳ねあがり、それがSFだと二倍になる。十八割わからないのはたいへんだ。わたしも人間それ自体や物語は好きなのであるし、わかりが可能ならわかりたいのであるが、近年のわたしはモチのベーションがモチモチしている上に、死んでいるテキストはリアルタイムでの応答が不可能でここがよくわからないからといって問いただしても何も答えてくれない。自分でどうにかするしかなく、自分でどうにかした結果、作者の意図とかけ離れた解釈なりあらすじ理解をひねりだしてしまう。バカなのか?
 モデル読者には一定の知性と精神的安定が求められる。作者にも質の良い読者を求める権利はある。だが現実は瀬名秀明の某短編でいうと読解力最低ランクの小説しか与えられないような読者ばかりで、何を隠そうわたしもその一員だったりする。
 読まれない小説は不幸だが、読みきれない読者を得た小説もまた不幸だ。だが小説と読者は本来関係ないもの同士なのであって、互いに互いが不幸であるか幸福であるかなどノンオブマイビジネス(闇夜に影を探すようなもの)だ。小説に読者を幸福にする義務がないように、読者もまた小説を幸福にする義務はない。
 そう考えるとすこしは他人の小説を読むのが楽になる。
 だが、所詮は屁理屈であり、現実に雑に読まれたら作者は傷つく。でも人間は雑な生き物なので傷つくことは防げない。人の心はインヒアレント・ヴァイス、傷ついた人の心は傷ついた人のほうの問題として、傷つけてしまうことで傷つくわたしの心はどうケアするべきなのか。
 さいわいにも歴史は人類創世以来のあらゆる欺瞞と悪徳に通暁している。罪悪感を和らげる方法は、虐殺と屠殺に学べばよろしい。
 距離をとろう。場所を不可視化し、自分たちが殺しているという直接の感覚さえ避けられれば、わたしたちは自分が善き存在と信じたまま死ぬことができる。
 つまり?
 twitter をやめろ。
 twitter をやめろ。
 二度も言ってわからないなら、あなたは永遠にあなたのままだ。

『圏外通信 2021裏』(反重力連盟)

hanjuren.booth.pm



 私はSFにおけるFuckの部分には興味があるが、Shitの部分には一切興味がない。ーエイブラハム・リンカーン



・反重力連盟の二冊目。執筆陣を見るに、京都大学SF・幻想文学研究会のメンバーが大半を占めている。これ以上の事情はよく知らない。これの前に裏じゃないほうが創刊号として出ていて、そちらも愉しい。

「巻頭言」庭幸千

君の銀の庭
ヴァージニア・ウルフは女性が小説を書くのに必要な場所として「自分一人の部屋」*1を挙げたが、この巻頭言も「私が守る、私だけの領域、"庭"」を名指している。種を蒔き、やがて重力に抗って樹が伸びる庭を作ろうとする密やかな試み、それこそが本書であると謳っている。そして、そうした試みが常に失敗含みであることも示唆されており、その上で失敗にすら意味があるのだというようなことが書かれている。基本的に小説は不毛の媒体であり、物語は不稔の運命を課せられている。だが、種を絶えず播き、守り育てていくのなら、いつか芽生える光もあるのだろう。
・p.2 五段落目と六段落目の一字下げ。

「窓の時代」巨大建造

・川に棲みながら水棲生物を貪食している主人公がひさしぶりに勤めている会社へ出社するとデスク三つ分を占拠する頭だけの同僚マヌ岡から「窓の時代がやってくる」と告げられる。
 マヌ岡は「巨頭者」と呼ばれる種族だか役割だからしく、その言葉には予言的な力があるらしい。しかし、「窓の時代」とはなんなのか。
 主人公は水中駄菓子屋を営む夢を見て、これが「窓の時代」ではないかと考える。そうして最後に川の時代がくればよいと。
 だが、マヌ岡は否定し、「今日この日から窓の時代なんだ」といって、開くそばから死滅していく窓の映った画面を見せる。
 そうして世界が崩壊していく。どうやら崩壊していくっぽい。

 巨大建造の作品は常に象徴に満ちており、抽象度が高い。昇天や滅びのイメージを好んで用いる傾向にあるように見受けられ、そこにある種のノスタルジーや詩情を見出すことができる。本作もその例にもれない。
 二段組二ページ半ほどの掌編であり、筋らしい筋もないため読者としては散りばめられたイメージを拾い集めるほかはない。
 主人公が住まう川(水)のイメージとそれに呼応するかのように終盤描かれる虚空のイメージ。なにかが朽ちて失われていく感触。なぜか散発的に登場するイヌ。ラストは「黒い大きなイヌが飼い主を呼んで鳴いた。それからの二千年間は夜が続く。わたしは悲しい。」とメランコリックに締めくくられている。黒いイヌといえば憂鬱症のメタファーとして用いられることが多いけれど、本作も憂鬱の心象風景といえばそんな感じもする。

「老い縋る未来」庭幸千

 ・幼熟児(ネオテニアン)。成熟とともに失われる人体の神経生物学的性質をうまいこといじって幼児期の知的成長をブーストした結果、子どもたちは大人よりも遥かに賢くなり、ついには法的社会的な面でも成人を凌駕するようになった。大人は子どもを「持つもの」ではなく、子どもに「持たれる」存在となり、成人を映したポルノ画像は子どもを映したものよりも卑猥で反倫理的なものとされるようになった。
 そんな世界で30を越えたセキは、健康診断の帰りに、かつてクリプキ型生物研究所という施設で同僚だったアスカという女性に再会する。かつて誇り高かったアスカがすっかり”被保護者”として落ち着いていることをセキはショックを受けつつも、その出来事を呼び水として研究所の創設者で稀代の天才だったマキのことを追憶する。
 他のネオテニアンすら圧倒する知性によって研究所を円滑に(かつマニピュレイティブに)運営していたマキのもと、子どものころのセキは人間の認知を高次元のレベルへと拡張する研究に従事していた。
 ”卒業”間近であることを認識しながら意識拡張研究に追われるセキだったが、知らず、天才マキのとある発明に触れることとなり……といった話。

 本書中随一に魅力ある設定。子どもが特殊な条件下で大人の模倣のような権力や組織を持つという物語はヴェルヌの『十五少年漂流記』をゆるい原型としていくつか存在し*2が、「老い縋る未来」は大人と子どもの権力関係が完全に逆転した社会を描く点でフレッシュだ。
 そうなるとよくあるミラーリング的な社会風刺の寓話が展開されるのか、と思いきや、舞台は研究所内にほぼ限定され、マキというミステリアスな中心についてのミステリーへと絞られていく。*3
 また、アドレッセンスの喪失ものとしての側面も見逃せない。この世界では18歳ごろを境に知能が急激に低下し*4、失職して二度とまともに働かなくなる*5のだが、このタイムリミットが本作での「今しかない」感を演出している。
「大人になって何かが失われてしまう」という感覚は学園ものや青春ものと共通しているわけで、ピーキーな設定で専門的な術語にあふれていながらも、そこのあたりで意外に口当たりがよく読みやすい。そうした下地に人に対する人への感情がうすく乗ったりする。
 ハイブラウな神経医学SFと、それによって引き起こされる社会的変化についての描写、そしてマキを軸にした人間模様と要素的にはかなり欲張りに詰めこんだ一本であり、14、5ページという枚数に対してカロリーが高い。その分やや終盤は感情面で急ぎすぎた印象もあるけれど、シンプルな奇想を科学的に理屈づけるゴテっとしたまさにSF!な力技を見られるというので満足が得られる。

「原始創造性喪失:車輪の発明の困難性について」xcloche

・論文……というか、科学エッセイ形式で綴られている。
 古代の世界ではいたるところで「ころ」(複数の丸太を下にしいて重いものを運搬するアレ)の技術が発生したが、車輪を発明したのはメソポタミア文明ただひとつであった。
 なぜ他の場所で「ころ」が車輪に発展しなかったかといえば、ふつうに思われるよりこれらはかなり構造の隔たった代物であり、連想的に生み出すには飛躍が必要とされ、かつ十分に発展した「ころ」は十分に運送の役目を果たしていてそれ以上の技術が求められなかったからである。
 ”このように、原始創造性喪失とは「既存技術が十分に発達してしまうと、代替技術はどんなに効率的で構造が単純であっても、発明が困難になる」という現象である。”(p.24)
 こうした現象は輸送技術のみならず文明の至るところ、そして生物の構造にさえ発見される。
 どこかでなにかがボトルネックになって文明の発展を阻害しているかもしれない。「ころ」より効率的な車輪をメソポタミアに至るまで誰も発明できなかったように、車輪より単純で効率的な何かをわれわれが発見できないでいる可能性は大いにある。
 そこで世界シミュレーションの分野において考案されたのが「文明焼きなまし法」だ。天災や気候などのパラメータをいじることで、「より車輪が発明されやすい」環境を作り出す。
 さらに複数の世界をシミュレートしたときにどの世界でも発生する「普遍発明」と、特定の世界にしか発生しない「特殊発明」を観測比較するアプローチなどもあり、まあそんな感じでお茶目な事が書かれています。

・ハヤカワの『異常論文』の一篇として紛れ込んでいても違和感がない。
 最初に「なぜ車輪はメソポタミアでしか生まれなかったのか」という大見得をカマすのが痛快だ。その後も説得的で愉しい論考が続いていく。論文や論考に見えて実はびっくりどっきりな仕掛けを持っていた、というのはこの手のものによくあって、本作もその例に漏れない。しかし、それがあまりにシレッと書かれているのが憎らしいとううか、オタクの好きなやつである*6
 ホラ話はデッドパンにて語るべきだとおもう。語り手がすくなくとも当然視している状態を装っていないと、話されるほうも信じない。要するに詐欺師に倣えということで、本作はまごうことなく詐欺を完遂している。
・ラストは(作品世界内の)現状を前向きに肯定するみたいなノリで、このとってつけた感もそれっぽいというか、もしかして(作品世界内での)予算を分捕ってくるために書かれた文章なのか???と勘ぐってしまう。
・あと図がいっぱいあってうれしい。

 
 

「黎明」脊戸融

・ある惑星に入植した地球人たち、しかしそこはカエルラという歩行する森に支配されていた。あらゆるものを貪欲に飲み込むカエルラの影響で地球由来の植物は大地に根付かず、植民は難航。技術局に勤める「私」は上司である九谷主任設計官と共に不毛の惑星に立ち向かう。一方で、その記憶と並行する形で「私」と翠という謎めいた少女との交流が描かれる。果たして「私」と移民たちを待ち受ける運命とは。
・テーマは百合です。
・カエルラというギミック生物を中心とした生態系が緻密に描かれる。カエルラは仮足で移動したり、触れた生き物を片っ端から捕食したりする巨大なアメーバみたいなやつなのだが、九谷によって遺伝資源として移民たちの糧として利用されるようになった。この敵であり共生相手でもあるカエルラと人類とのギリギリの関係が魅力的だ。
・人間の話としては最初にも言ったように、百合です。
・p.34 上段 "私はカエルラ採れた原料で作ったパスタを〜"→"私はカエルラで採れた〜"?
・同ページ 下段 "そのことなんだけど〜"→一字下げ

「ペコとかまどのオカルトごはん! スカイフィッシュ・タコスと釜揚げスカイフィッシュ」赤草露瀬

・メキシコはアマゾン。さすらいの料理人・御厨かまどと神出鬼没のハンター・ペコは、コロ介みたいな語尾で喋る現地ガイドのアントニオをお供に今日も幻の食材を狙う。今回のターゲットはあの超高速UMAーースカイフィッシュ
・"「観光か(sightseeing)?」「ううん。ご飯だよ!(NO. Combat.)」"(p.38)
 コンバットだよ、ではないが、コンバットだよ、では。
・タイトルとセットアップでだいたいわかるとおもうけれど、主として描かれるのはスカイフィッシュハンティングとその調理。特に調理と食事シーンに比重が割かれており、グルメSFとしての興味が強い。漫画界では昨今の異世界ファンタジー流行りで、*7空想生物料理マンガも多いが、まあだいたいそんな感じ。
 スカイフィッシュの調理法は、タイトル通りタコスにしたり釜揚げにしたり刺身にしたりとバリエーション豊か。食感はボイルイカに近いらしい。
 収録作中でも最も語り口がライトで、アクションやギャグもふんだんに散りばめられていてするりと読める。オチもなんか「もうこりごりだよ〜」と叫んでぴょーんと跳びアイリスアウトする感じで終わる。跳んだりはしていなかったかもしれない。

「」巨大建造

・タイトルは入力忘れではなく、実際に空白になっている。空白になっているだけでついていないということではない。ネコの男性器のような言い草と思われそうだが、どういうわけかは読めばわかる。
・独特の用語と節回しに溢れていて筋はよくわからない。末土クレーターと呼ばれる半径一キロほどのクレーターの地権者であるサヴォ島トヲは二十三歳になるが、このほど大学を中退して無職である。手から砂を出せる魔法を使える。*8実家に帰ってからは義理の妹であるアメなどとつるむなどしていたが、あるとき市役所所属の騎士サー・漁人マルコ従六位の訪問を受け、「末土の危機」を防ぐためにの協力を要請される。たぶんそんな感じ?
キリスト教や神話のモチーフが豊富に投入され、それらをファニーな言語センスとオフビートな会話が彩る。50ページ弱は収録作中最長。長ければ長いほどカオス感が増していくので、そうした酩酊感を楽しむのが正しい用法かもしれない。


『〈未来の文学〉完結記念号 カモガワGブックス vol.3』カモガワ編集室

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 トリビュートより、鳥貴族。――サミュエル・ジョンソン



国書刊行会から出ていた〈未来の文学〉叢書がこの度『海の鎖』を持ってめでたく完結したことを受け、その全レビューを行うことを主目的とした同人誌。「絶対読んどけ!」な本と「別にこれは読まんでも…」な本の差がうちのイヌ(故犬)のテンションの上下より激しい叢書であるけれど、本書の全レビューを読んでいるとなんだか全部大傑作におもえてくるから不思議だ。エッセイの寄稿陣も豪華。
 それはともかくこの記事で扱うのは付属しているトリビュート創作コーナーの作品群。
 トリビュート小説は書く方も大変だろうが、読む方も大変である。なぜなら、書く方はまずトリビュート元を読んだものとして書く。だが、読む方はトリビュート元を読んでいるとは限らない。読んでいない状態で読むとどうなるかというと、読みながら常に目の前の展開や人物や語彙ひとつひとつに「これには元ネタがあるのではないか」という強迫観念をおぼえる。不安である。そうなるともう読むどころではない。じゃあ、〈未来の文学〉全巻読んでからおとといいらっしゃい、という話になるのだけれど、いや、だって、『ダール・グレン』とか完読するのダール・グレン*9じゃないですか……。というか読んだものすらだいたい忘れるのが読者であって、そうなるとトリビュート短編を読む直前にトリビュート元の本を読み、記憶が新鮮な状態で挑むというのががいちばん正しいことになるのだが、それができれば苦労はせず、このブログ記事も土曜日の朝9時のキマった精神状態でアップされることもない。朝イチでラストナイトインソーホーを観に行く予定がおじゃんで、これじゃあ、ラストナイトインソーホーじゃなくてラストナイトイントホホ〜だよ。


「世界の穴は世界で」茂木英世



「でもその分私には角があるわ。それって胸に穴がなくて角がない人と何が違うのよ」(p.66)



「おまえはいったいどこからいろんなお話をこしらえてくるの、オーリャド?」


 ――浅倉久志・訳「ファニーフィンガーズ」



ラファティトリビュート
・頭にツノを生やし心臓あたりに穴の空いた十二歳の少女、マーガレット・タイニーデビル。町一番の噂の娘。彼女は街へ繰り出しておかしな住民たちの家々をめぐる。ヴァルハラに帰りたくて毎日めそめそ泣いている巨人、素数しか口にしない女ロボット、そのロボットを開発した街の発明おじさん、そのおじさんの次なる発明品である未完成の虎、魔法使いに科学を習ったと噂の医者もどき……なにかしらの欠落を抱えたかれらを少女は満たして世界の均衡を救えるのか?
ラファティほんとに好きなんだな、というかんじの詰め込みっぷり。
・で、わたしのほうはラファティは好きかといわれると微妙なところがあって。このまえ出たラファティの短編傑作選を読んでビックリしたのだけれど、昔読んだやつをほぼきれいさっぱり忘れていた。内容や印象や感触を忘れたならまだしも読んだという事実すら忘れてしまい、なんかこれおもしろかったな〜と感じた短篇の初出を見て初めてあれおれこれとっくに読んでたはずだが?? と愕然とする。まあそうした事象がラファティに特有かと言えば別にそんなことはなくジーン・ウルフやディッシュも平等に忘却しているわけなのだけれど、ふつうのSF作家に比べてラファティを忘れることについての罪悪感は小さい。ほら話だからだ。話は変わるが、ほら話と噂話が異なる生き物であることをご存知だろうか。ほら話には理屈があって脈絡がない。噂話には脈絡があって理屈がない。
「世界の穴は世界で」はいちおう噂話と規定されている。けれど、欠落とその解消という点では筋があり、ほら話的である。要するにはラファティ的。しかし、トリビュートもので漠然と「○○(元ネタ)っぽい」と述べるほど怠惰で責任回避的な物言いはないのであって、読者もどこかで虚空を踏んで落下するリスクを負わねばならない。
・マーガレットは軽やかである。胸の穴の心配を母親からされていても、代わりにツノが生えているんだから差し引きゼロだ、というようなことを強弁する。しかし穴は穴であり、ツノはツノだ。局地においてはそれらはどうみても欠落であり、余剰だったりする。けして平坦な地面とおなじ役割は果たさない。穴は呑み込み、ツノは穿つ。そうやって世界に波乱を起こして行くわけで、町に広がる噂もそうした波風にすぎないのかもしれない。
 信仰がある、というのは良いことだ。
・収録五篇中、この作者だけは初顔合わせ。また良い書き手が出たなあ、という印象。


「返却期限日」鷲羽巧



ディケンズは好きか?」(p.85)



「……ディケンズは好きか?」
 ――江波光則『密葬』



・ウルフトリビュート。「返却期限日」がどういう話か、というかどういう趣向であるかは『ジーン・ウルフの記念日の本』を読んでもらったほうが早いけれど、ひとついえるのは”ジーン・ウルフの「返却期限日」”とは「読まれないことを前提にして書かれた(フリをしている)」話であるということ。
・目の悪い伯父からこづかいをもらってSF小説を読み聞かせしていた少年ブーク氏。古本屋を営むその伯父から誕生日プレゼントとして好きな本を選べと言われた彼は余白に「さようなら、いままでありがとう」と書かれた短編集(『ジーン・ウルフの記念日の本』)を貰い受ける。彼は最後の収録作から逆順に一日一編短編を読み、最初の収録作である「返却期限日」まで進む。ところがページがくっついていて開けない。勝手に切り開くのは伯父の主義に反すると判断したブーク氏は伯父の意見を伺いに古本屋へ向かう。しかし到着するや質問をする前に「おまえがこの前もっていった本を読んでくれ」と頼まれ、仕方なく「返却期限日」の物語を捏造する。彼はその後、同じタイトルの別の話をいくつも創る。
 ブーク氏は成長していき、大学を中退したのち軍に入隊し、従軍、暗号解読の仕事に就く。そのあいだに伯父は亡くなっていた。やがて故郷に帰り、すっかり中年になった彼は亡き伯父の古本屋を継ぐ。あるとき、彼は自分の「返却期限日」を元に小説を書き始め……といった話。
後藤明生「なぜ小説を書くのか。小説を読んでしまったからだ」という有名な箴言がある。本作はまさにそういう話で、読書と創作と解読と翻訳がすべて同一の地平にある行為として捉えられており、さらに「読まなかった」という体験すら取り込んでいる。読んできたもの、読まなかったもの、読むはずだったもの、それらは本に生きる人間にとってニアリーイコールで人生であり、本作はそうしたビブリオフィリックな人々に捧げられた物語であるといえる。
 作者は本書における〈未来の文学〉全レビューコーナーで、『ケルベロス第五の首』と本作の直接のオマージュ先となった『ジーン・ウルフの記念日の本』のレビューを担当している。しかし、マインドとして本作にいちばん近いとおもわれる『デス博士の島その他の物語』のレビューからは外れている。実際のところは事情はわからないし、真実に興味はない。本当にない。ただ、本作が作者なりの『デス博士』論だとするとしっくりくる気がする。こんな妄想が芽生えるのも「読んでしまった」からかもしれない。

「イルカと老人」呉衣悠介



そこには「イルカがせめてきたぞっ」という文句とともに、火炎放射器のような装備を持ち、陸上にあがって尾びれで立ち上がったイルカが、後期高齢者を焼き殺す姿があった。「これに見覚えはあるか?」(p.104)



 ぼくをここに閉じこめている張本人は、人間に違いない。要するに、ふつうの人々だ。


 ――伊藤典夫・訳「リスの檻」



バドワイザーウイルス脳炎という感染症が蔓延する近未来の日本。この脳炎にかかるとモラル的な志向がゆるやかに変化していき、最終的に感染前とは正反対の政治的・思想的なグループへと属するようになる。たとえば、リベラルだったハリウッドもこの感染症の影響ですっかり右翼愛国的な映画に席巻されていた。
 転職のタイミングでおりあしく脳炎にかかってしまった主人公・平山は、就職のために"後遺症"が残っていないことを証明しようと病院で検査を受ける。脳炎の影響によってSNSなどでのトラブルが増えたため、雇う側も慎重になっていたのだ。
 ところが平山の結果はクロ。再就職に窮した末に平山は審査を要しないスーパーのアルバイトに就く。あるとき、そのバイト先の同僚に誘われて反ワクチン派のイベントに出る。そして、それをきっかけにさまざまな集まりに出席するようになる。レイシストの集会、反フェミニズムの集会、動物愛護、反出生主義、右から左でも何でも。
 特段、政治に積極的でなかった平山だったが次第に「見ているよりも参加する方が楽しい」と考えるようになり、自分がシンパシーを持てる相手にメンバーに固定して「政治的に自由な発言ができる」ような交流を持つ。ある夜、その集会で脳炎の影響で転職に失敗したことを告白し、同僚(最初に平山を集会に誘った人物)からスーパーの本部で法務部の枠が空いているのとを聞かされ、うまいこと本社勤務におさまる。
 コンプライアンスが重要視される本社では集会でのような政治的発言は抑制していた。その裏で、彼はとあるウェブアプリの開発にかかわるようになる。そのアプリの内容というのが……という話。
・コロナ禍と政治の分断というかなりアクチュアルなテーマを濃厚に反映した一篇。感染症の後遺症によって政治思想や人格が変化していくというギミックが仕込まれていて、主人公が最終的にどんな"思想"に帰着するかというところでもサスペンス・スリラー的な興味がある。
・映画や文学のリファレンスが多く登場する。特にラストにディッシュのある小説*10*11を小説を紹介していたのは誰か、というのは本作のトーン&マナーに通じていてエキサイティング。そこのあたりとは別にマクロな社会のたゆたいやすいイデオロギーに翻弄される個人を描くという点では小松左京っぽい*12し、まったく趣意の異なる集会を渡り歩いたり男たちでちょっとアンダーグラウンドな結社めいたものを作り上げたりするところはパラニュークっぽくもある。
SNSでは右左問わず、あるいは一般的な政治性そのものから離れていようがいまいが、ラジカルなものほど声が大きく響き、そのコミュニティもデカく見える。そういう場所に身を置いているといつのまにか自分も変質していく。そんな感覚(ボディホラーならずイデオロギーホラーとでもいうのか?)は現代的でリアルな恐怖といえばそうで、そこを意識的に掬い取ろうと挑むのはただしくホラー的な態度ではないだろうか。いや、これ自体はホラーじゃないんですけどね。
アメリカン・サイコは最初から狂った人間として現れているけれど、ジャパニーズ・サイコは朱に交わって赤くなった水の底から這い出してくるものなのかもしれないね。

「ピンチベック」巨大建造



「大丈夫、お前が心配することじゃない。
 おれは金輪際、ゴールデンなのだから」(p.136)



「宇宙の支配者になるのってさあ、そんなにカンタンじゃないんだよな〜〜」


 ――林田球『大ダーク』



ディレイニートリビュートと思われる。思われるというのはわたしが『ドラフトグラス』*13も「ベータ2のバラッド」も読んだことがないからだ。
・外銀河を旅する宇宙船の船員の三代目にしてルナ・リプロという星間企業の一員として働くカナエ・アガタ。以前、航宙中に宇宙生物に襲われた結果すさまじい負債を負う羽目になった彼は「先生」という老人に付き合いながらグズグズな生活を送っていた。さまざまな事情から太陽系出禁になっていた彼らだったが、あるときアガタは"郷帰り"をすることになり……という理解で正しいのかはわからない。
・はからずも短期間で同作者の作品を三作品も読む事態となったが、例に漏れず脳みそを掻き回したようなグルーヴ感である。基調はスラップスティックでしょーもないパロディを好き放題やっている。「天の光はすべて噴射炎だ」ではないんだよ。このしょーもなさが最終的には壮大なスケールにまで到達するのだから侮りがたい。

「衣装箪笥の果てへの短い旅」坂永雄一



 衣装箪笥を旅するもののあめの手引(ワードロープ・トラベラーズ・ガイド)より、一項。
 衣装箪笥のなかへ入るものは多いが、出るものはいない。(p.138)



「あのう、森からぬけ出る道を教えてくださらないかしら?」


 ――ルイス・キャロル、河合 祥一郎・訳『不思議の国のアリス



・いきなりC・S・ルイスの『ナルニア国』の引用から始まる。ルイスって〈未来の文学〉おったっけ? などと思ったら、「ジーン・ウルフやラファティら、カトリック系SFF作家へのささやかなトリビュート」であるらしい。なるほど……あたしゃ『ナルニア国』を読んだことも映画を観たこともないけれど、キリスト教的なイメージが配置されているとどこかで聞きかじったな……などとおもいながら wikipedia を確認するルイスはイングランド国教会系の信徒であったとある。いやならカトリックじゃないじゃん、とおもって更に調べたら、河合祥一郎「『ナルニア国』に出てくるアレゴリーってカトリックっぽいねんで」と話してる記事が出てきてへえ〜〜〜〜となった。
・老境にさしかかりつつあるスーザン・ペベンシーがある夏の終わりの日、衣装箪笥からコートを取り出そうとして誰かの指に触れた。侵入者を捕まえようとして衣装箪笥に入り込むと、そこには広大な冬の世界が広がっていた。その世界には衣装箪笥に十二年間棲まう少年やつぎはぎのコートを羽織った大熊がいて、スーザンはかれらを頼りに衣装箪笥からの脱出の旅へ出る。だが、一行を影でつけねらう得体の知れない怪物がいた。はたしてスーザンの運命はいかに。
・スーザン・ペベンシーとは『ナルニア国物語』に登場する主人公きょうだいたちのうちの一人だ。そう、『ナルニア国』トリビュートなのである。そんなのアリ?  そのことが明示されるのは終盤になってから*14だが、そのとき彼女と彼女のきょうだいが辿った「末路」に、エッ!? あれってそんな展開になるの!? とビビってしまった。途中からどこまでナルニアでどこまでそうではないのかが気になりまくって注意が散ってしまった感があり、そのへんはナルニア履修後に改めて立ち戻りたい。
・スーザンの旅路の合間に「衣装箪笥を旅するもののための手引き」と称してエンサイクロンペディア的な語りが挿入される。それは衣装箪笥の世界の構造や神話や文化につての語りで、かなりホラ話感が強い。一方でスーザンの筋は「ページを開けばまた会えるんだよ」的なノスタルジーを予感させつつもちょっと悪夢っぽい。
・終盤に立ち上がってくる世界観と問題設定はもろにキリスト教的ではある。ここに至ってそういえばキリスト教徒であることとSF・ファンタジーの創作者であることとはどう両立するのだろうという素朴な疑問が立ち上がってくるのだけれど、あるいはそういうこと自体が問題意識に含まれているのかもしれない。
・諸々の元ネタがわからなくとも、不思議の国のアリス的なファンタジックで不条理な世界に迷い込んだ女の話として読めるので、あまり構える必要もないのかもしれない。いさましいちびの鼠とかかわいいですよ。

追伸

*『無花果の断面』は12月11日までに入手できなかったため、感想をつけられませんでした。各自で買って読め。
booth.pm

*1:と十分なお金

*2:最近だと藤田祥平の『すべてが繋がれた世界で』で病原体的ナノマシンによって人類が22歳までしか生きられず、政府を含めたあらゆる政治・社会機能を子どもたちが担うといった世界が描かれていた

*3:「外部」を描くのが結構大変な設定だとは思うので、そこは戦略的な側面を含んでいるのかもしれない

*4:といっても現在の標準的な大人の知能レベル

*5:それまでに形成した資産で暮らしていく

*6:そういえば、前に作者が書いた掌編に似たような趣向のものがあったような気がするけれど、記憶が曖昧。

*7:ダンジョン飯』を筆頭に

*8:五十嵐大介の「すなかけ」みたいに

*9:ミステリにおける「『樽』はタルい」に匹敵するおもしろギャグ

*10:読んだことはないけれど非SFに分類される作品であると思う

*11:ちなみに終盤には『人類皆殺し』も出てくるけどこれはちょっとしたイースターエッグだろうか

*12:私の小松左京観は貧弱なのであってるかは知らない

*13:あるいは『時は準宝石の螺旋のように』

*14:まあ最初からスーザン・ペベンシーといってるし、序盤でもさりげなくそれっぽいことは混ぜてあるので、ナルニア既読者はもちろん少々勘のいい未読者でも気づくだろう