名馬であれば馬のうち

読書、映画、ゲーム、その他。


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バーンズの十戒

 ジュリアン・バーンズに『フロベールの鸚鵡』という、まあフロベールの評伝なんだか小説論なんだかわからないけれどもこの愉快さはともかく小説だ、的な作品があります。べらぼうにおもしろい小説です。小説じゃないのかもわからないけれど、ともかくおもしろい小説です。
 主人公である語り部(元医者)が敬愛するフロベールの作中でモデルにされた鸚鵡の剥製を求めてフランスに渡り、そこで二体の「フロベールの鸚鵡」に出会う――果たして、どちらが本物なのか、とあらすじだけ抜くと本当に他愛がないんですけれど、全編執拗なまでのフロベール愛と小気味良いひねくれに富んでいる。もちろん、ちょっとした物語的な仕掛けもある。いやなんかむしろウェルメイド、といっていいほど意図に溢れています。メタフィクションなのかな? メタフィクションということにしておこう。小説を語り、小説に侵される現実を書いているんだから。しかし、そういうシンプルな括りも良し悪しよねえ。

 で、その作中で主人公である語り部(元医者)がちょくちょく文芸批評家批判に走り、ついには「文学の独裁者」たちの真似事をやりだすんですね。おれが気に入らんから、あの手の作品を出すのは禁止するぜよ、と。飽きたんだよ、と。

 まあ、ここまでいかないにしても、多くの批評家たちは文学の独裁者として過去を分類整理し、誰にも文句を言わせぬ権威をもって未来の芸術はこうなると御託宣を垂れたいと願っているものです。皆の者、今月は一同そろって話題にせねばならぬはこれこれだ。次の月には、一同、これこれのことを話題にすることはまかりならぬ。(中略)ともかく、一応、このやり口でゲーム開始といこうじゃありませんか、ぼくからはじめます。


 そういう揶揄や皮肉から生まれたわけなので作者としてどの程度本気なのかはともかく、出版当時(1980年代)における英国小説のトレンドの一旦が垣間見れて興味深い。あらかじめ、とするには遅すぎるけれどもともかく言っときますが、創作に役立つtipsとか、探偵小説をものにする上で破ってはいけない十ないし二十のルールとか、そんなんじゃないです。

 一、事情あって他から孤立した一群の人々が、人間の「自然状態」に逆戻りし、何も持たない裸のままの基本的な姿に立ち至る、と、こういう設定の小説は以後まかりならぬということにします。(中略)という具合に、この種のがいかに容易に書け、しかも面白おかしく仕上がるか、おわかりいただけるでしょう。だからこそ、こういう小説はもうまかりならぬということにしたいのです。


 二、近親相姦を主題にした小説というやつは今後禁止にしたい。露骨下品に仕立てたものも同断、これに含めます。


 三、屠殺場を舞台にした小説、これもだめ。確かに、今のところ、こういう小説がそれほどのさばっているというわけではありません。しかし、最近、どうも短篇で屠殺場が使われることが多くなってきたような気がします。こういう徴候は芽のうちにつぶしておくにかぎります。


 四、オックスフォードかケンブリッジを舞台にした小説は二十年間禁止、他の大学に繰り広げられる小説は十年間禁止ということにしたい。技術専門学校が舞台のものについては禁止しません(ただし、奨励すべく特に助成したりもしない)。小学校が舞台のものも禁止せず。中学高校小説は十年間の禁止。若者が大人になっていく過程を描く青春ものについては、部分的禁止(作家ひとりにつき、一編のみ許可)。過去のことを現在形で綴る歴史的現在使用の小説も、部分的禁止(これまた、作家ひとりにつき一編の許可)。主人公がジャーナリストまたはテレビ司会者の小説は全面禁止。


 五、南米を舞台にした小説については、数量限定の割り当て制を設ける必要がありそうです。その意図するところは、パック旅行式にお膳立てされたバロック趣向とどぎついアイロニーの大盤振舞いを抑制することにあります。驚くべし、彼地では、安くあがる生活と高くつく信念が同居し、宗教が深く浸透している反面で強盗が跳梁し、極端に名誉が重んじられるかと思えば手当たりしだいに残忍さが発揮される。驚くべし、ダイキリの鳥は翼のうえで卵をかえす。驚くべし、フリドナの樹は根っこが枝の先に伸び拡がり、この樹の繊維を使えば、なんと傴僂男が離れた場所にいて高慢な大農場主の細君を妊娠させることだってできる。驚くべし、繁った密林のなかに華麗なオペラが繰り広げられる。こうなってくると、失礼つかまつってぴしゃりとテーブルを叩き、「いい加減にしてくれ!」とぼやきたくなるというものです。北極や南極が舞台の小説なら、これは奨励助成金付きにしてもよろしい。


 六a、人間と動物が肉体関係を結ぶ場面は不可。たとえば、女とイルカが恋で結ばれ、さらにはこの恋が、昔々、世界の生きとし生けるものすべてを蜘蛛の巣状に結びつけていた絆の復元を象徴するなどというたぐいの話。こういうのはいっさい御法度。


 b、男と女がシャワーを浴びながら(いわばイルカさながらに)肉体関係を結ぶなどという場面もだめ。だめな理由は主に美学的見地によるものですが、医学的見地からもこれはいただけません。


 七、大英帝国のどこか遠く離れた地域に起こった小さい戦争、つまりは忘れられた戦争をめぐる小説も不可です。事細かな一部始終が営々として語られ、そのなかで告げ知らされることが何かといえば、第一に大体が英国人は悪人である、第二に戦争はまこともっていやなものだというたぐいの小説。


 八、語り手ないしは登場人物のうちの誰かの名前が頭文字の小説、これも願い下げにしたい。この手の小説を性懲りもなく書く連中がいる!


 九、他の小説を題材にした小説もやめにしてもらいたい。「現代版・何々」、「異文何々」、「続・何々」、「前編・何々」といった小説。作者が死んで未完に終わった作品を取りあげ、勝手な想像で残りの結末をつけるなんていうのも、いい加減にしてもらいましょう。そのかわり、暖炉のうえに飾ってもらうべく色あざやかな毛糸で編んだ壁掛けを作家全員に支給します。それには、こういう文字が編みこんであります。「汝自身で自らの布を編むべし。」


 十、神については二十年間の禁止。というより、寓意的に、比喩的に、暗示的に、はたまた舞台裏の存在として、それとなく曖昧に神を引きあいに出すことは不可とします。いつも林檎の樹の世話にいそしんでいる顎髭にある庭師、決してあわてて判断を下さぬ思慮深い老船長、どういう人なのかはっきり知らされないまま第四章に至って慄然たる言動に出る人物……、こういうのはすべてひとまとめにしてお蔵入りです。神を引きあいに出すことが許されるのは、道にはずれた人間の行いに対して怒り狂う神、はっきりそれとわかる神だけです。


要約すると、
一、サバイバル及びヒューマニズム的冒険小説の禁止
二、近親相姦小説の禁止
三、屠殺場小説の禁止
四、学園小説、青春小説、ジャーナリスト小説の禁止
五、南米(的マジックリアリズム及びバロック趣味)テーマの禁止
六、隠喩を含んだ獣姦描写とシャワーセックス描写の禁止
七、(英国の)植民地戦争小説の禁止
八、星新一の禁止
九、別作者の名作の続編、未完作品の「完結編」の禁止
十、暗喩としての神、あるいは神話的なモチーフの禁止。


ってところでしょうか。なるほど、当時の世界文学シーンが……ヨミトレルカナー?
ほとんどは舞台やテーマが対象ですけれど、描写や技法の制限も混じっていてあんまり均質的じゃない。「ノックスの十戒」みたいな一応のルールとしての体裁すら見えないというか、本当に「おれが気に入らない」って感じ。いかにも酔っぱらいが呑んだくれながらバーのカウンターで即興的にぶちまけてみたような、そんな愛すべき適当さ加減がいい*1
なんと申しますか、全編通じてだいたいこういう感じの小説です。
困っちゃいますよね。

フロベールの鸚鵡 (白水Uブックス―海外小説の誘惑)

フロベールの鸚鵡 (白水Uブックス―海外小説の誘惑)

*1:もちろん根っこにはそれなりにシビアな情熱が宿っているわけですが