名馬であれば馬のうち

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まるで天使のようなサム・ロックウェルーー『リチャード・ジュエル』について。

(本記事は『リチャード・ジュエル』の重大なネタバレを含みます)

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ーーイーストウッドさん、最近のあなたは実際にあったヒーロー的な出来事に惹かれているようですね。なぜこうした物語があなたに芸術的なインスピレーションを与えるのでしょうか?

イーストウッド:ある人の人生がどのようにぶち壊されたのか。そういうことは実際に沢山起こっていますが、どれもとても奇妙です。ある日、世界の頂点に立ったと思ったら、次の日にはどん底に突き落とされている。本作はその格好の例ですね。
https://torontosun.com/entertainment/movies/clint-eastwood-on-richard-jewell-hes-a-real-life-hero-who-got-completely-screwed-over

 英雄になれ、とアメリカは言う。
 その「英雄」とはもちろんジョセフ・キャンベル的な意味での英雄を指してはいない。他者に優越すること、ずば抜けた勝者であることの言い換えだ。
 要は、存在するに値する人間であることを証明しろ、と言っている。取るに足らない人間はアメリカ人ではない。


 いつ映画館に来てもヒーロー映画ばかりだ。
 クリント・イーストウッドも最近はヒーロー映画ばかり撮っている。ただし、彼のヒーロー映画には空跳ぶ鎧を着た大富豪もいなければ、神のような超能力を持つ超人も出てこない。
 運命的なその瞬間に、英雄的な行動を取り、英雄として讃えらることになった、市井の英雄たち、それがイーストウッド映画に出てくるヒーローだ。
 しかも愛すべきピーター・バーグ作品に出てくるような、なんのひっかかりもなしに素直に感動を与えてくれるようなヒーローたちではない。
 何かが狂っている。『アメリカン・スナイパー』のクリス・カイル(ブラッドリー・クーパー)ははっきりとPTSDを患っていたし、『ハドソン川の奇跡』のサリー機長(トム・ハンクス)は完璧なはずだった自らの判断を疑い自家中毒に陥っていく。*1


『リチャード・ジュエル』のリチャード・ジュエル(ポール・ウォルター・ハウザー)も何かがおかしい。
 彼は一見鈍臭そうではあるが、実はよく気がつく備品補充係の青年としてスクリーンに現れる。ジュエルは上司であるワトソン(サム・ロックウェル)と交流を深めるうち、「将来は法執行機関に務めたい」と漏らす。「人々を守りたいんです」と。
 やがてジュエルは省庁の備品補充係を辞め、大学で警備員の仕事に就く。そこで職務熱心のあまり、大学の敷地外でも学生に対して秩序と規律を強く要求しすぎ、問題を避けたい大学から解雇されてしまう。そのときに学長に対してジュエルは「『ミッキーマウス映画みたいな騒ぎ(mickey-mousing)はごめん』だっておっしゃってたじゃないですか」と詰め寄る。「重要だと思ったこと」をびっしり書き留めたメモ帳を開き、何度も学長の「ミッキーマウス」発言を繰り返す。
 大学をクビになったあと、ジュエルは友人と射撃場でライフルを撃ちながら「昇進の知らせかと思ったら解雇の知らせだった」とぼやく。
 ズレている。観客はジュエルの異様さを嗅ぎ取りだす。その言動、振る舞い、特に法秩序をやたら重視する傾向から、単なるボンクラっぽい哀れな青年、という以上のなにか強迫観念を抱えていることを察しだす。


 折しも1996年。ジョージア州ではアトランタ・オリンピックが催されていた。彼はオリンピック会場の警備員の職にありつく。オリンピック会場、といっても、コンサートの会場だが。とにかく人は集まる。テロのターゲットにされる可能性はあるだろう。
 けれど、実際に不審者や不審物に気を配ろうとするのはジュエルだけだ。
 同僚の警備員や警察官たちはジュースを飲みながら、益体のない雑談に興じている。ジュエルも自分もセキュリティの一員であると誇示するかのように会話の輪に加わる。ひとりが地元交通局の手際の悪さをあざける。あくまでの内輪の会話の、その場限りのジョークとして。だが、ジュエルは交通局を擁護する。目の前の同僚より、秩序を保つために動いてる交通局の側に立つ。
 彼は空気が読めない。
 だからこそ、弛緩したコンサート会場の雰囲気に流されず、爆弾を見つけだす。
 
 
 大量殺戮を防いだジュエルは一夜にして英雄になる。
「私はヒーローではありませんよ。本当の英雄は、あの場にいて避難誘導に尽力した警察官や警備員です」と一応はテレビのインタビューに答える。だが、内心では英雄扱いにまんざらでもない。
 出版社からは自伝の出版まで打診される。
 出版契約について右も左も分からないジュエルは、唯一知る法律の専門家を頼る。電話を受けたワトソンは以前の省庁を辞め、独立して不動産関係の弁護士事務所を開いていた。彼はジュエルに助言する。以前、同じ職場だったときと同じように、頼れる先輩として、兄貴分としてジュエルに接する。「どんな契約書であれ、俺が読むまで絶対にサインはするな」

 
 FBIがジュエルを捜査対象としていることがマスコミ*2に漏れ、彼はやはり一夜にして英雄の座から疑惑の人へと転落する。
 FBIやテレビは犯人像をプロファイリングする。英雄になりたがる孤独な人間。類型。イメージ。そうした型がジュエルに容疑者の烙印を押す。

 
 FBIの捜査官たちは彼を支局の一室に閉じ込める。講習用ビデオの撮影だ、と言葉巧みに騙して、調書にサインさせようとする。あくまでレプリカにサインするだけだと嘘をついて。
「俺が読むまで絶対にサインはするな」
 ジュエルは頑なに拒む。ワトソンに電話する。
 ワトソンがジュエルの担当弁護士になる。
 

 奇妙なことにジュエルは容疑者として報道されるようになってからも、オリンピック警備員用のシャツを着て生活する。
 背中には大きく Security の文字。保護するもの。その使命を果たしたからこそ、彼はいったんは英雄になれた。英雄とは、人々を守る存在だから。
 だが、劇中で最もか弱く、不安定(insecure)な人間は誰か。ジュエル自身だ。一度持ち上げられた自尊心を粉々に破壊され、英雄としての自分を傷つけられ、四六時中泣いてばかりの母親よりも不安に陥っている。
 そのジュエルを守る存在は誰か。
 ワトソンはジュエルに何度も言い含める。「俺以外の誰とも喋るな。FBIの人間とは絶対会話するな」
 ジュエルはしかし、「僕にだって言いたいことはある」。
「でも喋るな」
 FBIが家宅捜索にやってくる。
 ジュエルはワトソンのいいつけに何度もそむき、自分は捜査に協力的だとFBIに対してアピールする。そして、あまつさえ重要な録音まで捜査官に渡してしまう。
 ワトソンは怒る。なぜ権威を相手にするとそんなに従順になるんだ。ドアマットみたいに踏みつけにされてるんだぞ。怒りはないのか。俺の弁護が必要ないのか? だったらなんでそもそも俺に助けを求めた?
 それまであまり激情を見せることのなかったジュエルは顔を赤らめ叫ぶ。「怒ってるさ。怒ってるとも。あいつらにバカにされてることもほんとはわかっている。あんたに弁護を依頼したのは、僕の人生で唯一『デブ』とか『のろま』とかでコケにせず、人間扱いしてくれた人だからだ」


 ジュエルは死ぬほど法執行機関に入りたがっていた。副保安官の地位をクビになったり、警官を偽って逮捕された前歴すらあった。なぜそこまでこだわるのか。
 「人々を守る」ためなどではない。他人を守ることで、法の一部となることで、社会の成員として認められたかった。
 劇中でジュエルが直接面と向かってバカにされる場面はせいぜい、コンサート会場で若者グループを注意したときくらいだろう。だが、彼が暗に軽んじられていることは全編通じて伝わってくる。
 昼休みに一人でゲームセンターでシューティングゲームに興じていること、大学警備員時代に学生から「本当の警官でもないくせに」と言われたこと、コンサート会場での警官たちや警備員仲間たちのなんとなしのよそよそしさ、母親以外に出てくる親しい人間がやせこけた青年一人だけであること、古い知人がFBIから頼まれた盗聴器をつけて探りを入れてきたこと、FBIの強引な手口、ジュエルの顔にはりついた自信のない硬い表情*3……。
 彼はテロ事件で英雄になることでようやく人間になれた。まともに扱われるようになった。
 けれど、彼生来のイメージは人間としての彼を認めなかった。*4 


 ワトソンはジムニークリケットだ。ジュエルの言動を逐一指導して彼を守ろうとするけれども、「人間になりたい」ピノキオであるジュエルはつい言葉に頼ってしまう。伸びた鼻先を掴まれてしまう。まだおまえは人間ではない、と。

 ワトソンはジュエルを守るために尽力する。他人を守ることが英雄の条件であるならば、ワトソンこそが英雄だ。弱きものを見守る番人として、そのひとを守ることのできる唯一の存在として際立つ。*5

 
 最終盤。
 ジュエルはFBIの取調室で捜査官たちに対して啖呵を切る。
「次に爆弾を見つけた警備員はどうすると思う? きっと黙って逃げ出すよ。どうせ通報しても犯人扱いされる。ジュエルの二の舞はごめんだってね」
 知ってか知らずか、このときジュエルは自分がヒーローでないことを認めている。自分と同じ能力を持つ、自分と同じような人間を想定し、そういう人が自分と同じような行動を取れるようにと訴えている。自分が「特別」でないほうがいいのだと。
 同時に、法執行という権威への憧れも捨てている。彼はFBIのオフィスで働く備品補充係の姿を見て、自分を英雄にしたのは射撃の腕などではなく、備品補充係としての注意力だったのだと思い出す。
 自分が交換可能な存在だと認め、手に入らないものを不必要だったと知る。
 ジュエルは与えられかけた虚像を手放すことで、ようやく「人間」としての自分を獲得する。*6
 そうして、ジュエルはアメリカの神話から解放される。*7
 そのかたわらに、彼の弁護士が守護天使のようによりそう。
 彼は孤独ではない。


ハドソン川の奇跡(字幕版)

ハドソン川の奇跡(字幕版)

  • 発売日: 2016/12/22
  • メディア: Prime Video

*1:個人的にここ四、五年のイーストウッド作品は大して好きでもないが、嫌いでもない、くらいの感触です。『ハドソン川の奇跡』が一番楽しめたかな。かなり変な映画を撮る人であることは疑いがない

*2:オリヴィア・ワイルド演じるこの女性記者の描写がアメリカ本国で問題になっている。彼女はFBIから容疑者の情報を手に入れるため、FBIの捜査官を性的に誘惑し、情報をリークさせるという手段を取る……と劇中では描写されています。しかし、実際にその記者がそうした行動に走ったという証拠はどこにもありません。イーストウッドは「彼女のことを調べると、そういうことをするキャラクターだったように思われた。だから、そういうシーンをいれてもおかしくないと考えた」というようなことを各所のインタビューで語っています。しかし、これは映画全体からするとちょっと変ですね。本作はもととなった新聞記事に描かれた出来事をかなり忠実に、伝記映画としても高いレベルの精度でなぞっています。それなのになぜネタ取りの場面だけ「想像」に任せたのでしょう? もうひとつ奇妙なのは、枕で落ちるFBIの捜査官(ジョン・ハムが演じている)が偽名ないし架空の人物に設定されているのに対して、女性記者は完全に実名なことです。2001年に亡くなった彼女を大した証拠もなしにネガティブに描くことはFBI捜査官の失態を想像で描くのと同等にリスキーなはずですが、イーストウッドと脚本担当のビリー・レイはあえて両者ともに偽名にしなかった。実在の女性記者を、正面から「股ぐらでネタを取る最低なトップ屋」として書くことをあえて選んだのです。そう、意識的にそうなるようにした。これはもはやチェック漏れやリスク管理のミスなどではなく、イーストウッドからの明確な意思表示として受け取るのが適当であるように思われます。言葉の上では「作品に政治的メッセージはこめない」と繰り返しているけれど、彼個人の信条や時々の思いを込めない、とは言っていないのだし。

*3:アメリカン・スナイパー』も『ハドソン川の奇跡』も主人公の表情は硬かった。

*4:日本の一部で既に本作が「キモくて金のないおっさん」エンパワメント作品として、すなわち『ジョーカー』と同じような文脈で享受だしているのは憂慮すべき事態ではないでしょうか。個人がそういう喜びかたするならともかく、作品の地位や価値が争われる戦場が「そこ」に固定されてしまうのは損失だと思います

*5:rf. 映画版『インヒアレント・ヴァイス

*6:取調室におけるポール・ウォルター・ハウザーの演技がなによりの証明となるでしょう。

*7:エピローグで警官になった彼にはかつてのような独特の緊張がない