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あこがれを吸い寄せる虚空――『虚空の人 清原和博をめぐる旅』について

 長島は英雄だった。難しい理由は必要なかった。子供にも即座に理解できる英雄だった。長島になりたかった。野球選手になって長島になりたかった。たとえ野球選手にならなくても長島になりたかった。
 少しずつ自分は長島でなく、長島になれないのだということがわかってくる。しかし、高校生になり、大学生になっても、心のどこかに長島になることができたらと思いつづけてきにちがいない。もし長島になれたら……。
     沢木耕太郎「三人の三塁手」(『敗れざる者たち』文春文庫)



『虚空の人』は、覚醒剤取締法違反で逮捕された元プロ野球選手、清原和博の釈放後の人生を追ったルポルタージュだ。
 清原はPL学園時代に甲子園で活躍して大スターとなり、プロになってからも西武ライオンズ読売ジャイアンツの主力バッターとして君臨した。タイトル獲得歴こそないものの、高校時代から常に球界の話題の中心にいた選手であり、それは引退後も変わらなかった。
 2016年2月、清原が覚醒剤で逮捕された。釈放後、スポーツライターの鈴木忠平は清原ファンである『Number』編集長と組んで、甲子園時代の清原に関する特集を組む。その記事を読んだ清原からかかってきた電話をきっかけに、清原と鈴木の交流が始まる。
 絶望の底にあり、自分からはほとんど何も話さない清原だったが、取材中、鈴木がふと口にした「今年の夏の甲子園第百回記念大会を観戦しにいってはどうか」というアイディアに興味を示す。そこから現役時代からの友人であるスポーツ用具会社の社長・宮地やステーキハウスの店長・サカイらとチームを組み、甲子園観戦に向けてたるんだ身体を鍛え直そうとしはじめる。
 ところが、清原はトレーニングを始めてすぐに気力を喪失してしまう。ジムに行きたくないと駄々をこねたり、宮地たちの呼び寄せたインストラクターをクビにしようとしたり。典型的なうつの症状なのだが、わかっていても支援している仲間たちは果てしない徒労感をおぼえてしまう。
 だが、彼らは清原を見捨てない。本業であるスポーツ用具業やステーキハウス業をなかば投げ出してまで廃人同然の清原を助けようとする。世間的には「終わった人」である清原を。
 なぜか。
 著者がそのことについて宮地に直接尋ねるシーンがある。宮地は返答に窮し、「ちょっと考えさせてください」といって電話を切る。その問いは清原を追う著者本人にも返ってくる。
 なぜ清原でなくてはいけないのか。


 本の終盤、野々垣という清原の元秘書兼運転手が出てくる。野々垣は元プロ野球選手。甲子園でPL学園の敵チームの応援として初めて清原を目撃し、PL学園時代は清原の後輩、そしてプロ入り後の西武時代はチームメイトでもあった。
 現役引退後は安定した会社員生活を送っていたが、ある日、巨人に移籍した清原からかかってきた一本の電話で彼は清原の付き人に転職する。清原が引退し、離婚のストレスから球界外のあやしげな人間たちと付き合い出すと野々垣は違和感をおぼえて清原のもとから離れる。そしてなんと清原の因縁の相手である桑田真澄の経営する少年野球チームのコーチに就く。
 それでも心は清原から離れられない。清原の逮捕時には、鈴木と接触し、「自分が清原さんについての本を書くから、その売り上げを全部清原さんにあげられないか」と申しでる(当然無理だった)。
 人生を通じ、野々垣は清原とくっついては離れていく。それであまり報われているようには見えない。むしろ、清原のいないほうが少なくとも社会的には安定した人生を送られたのではないか。彼はいう。
「清原さんといっしょにいるのが一番しっくりくるんです」
 こうもいう。
「僕は清原和博になりたかったんですよ」


 そのセリフで別のルポを思い出す。
 沢木耕太郎の「三人の三塁者」だ。
 レギュラークラスの実力を持ちながらも、長島茂雄の巨人入団によって野球人生を狂わせてしまった二人の三塁手、難波と土屋のその後を沢木が追う話だ。
 長島は沢木にはあこがれのヒーローだった。しかし同時に決してつかむことのできない幻影でもあった。
 その感情を沢木は団塊世代の「ぼくら」共通の敗北として描いた。子ども時代にだれもがぼんやり恋い焦がれる将来のイデアとしての長島。だが、成長の過程で可能性は剪定されていき、大多数はどこかの段階で長島にはなりえないのだと悟る。
 だからこそ、沢木は「長島になれる可能性があった長島のライバルたち」を感情移入として見いだす。

 もしも長島になれたら! しかし、ぼくらはついに長島たりえなかった。だからだろうか、やはりついに長島になりえなかった二人の男に、強く心を惹かれるのは……。
    沢木耕太郎「三人の三塁手



「三人の三塁手」の長島像と『虚空の人』の清原像は似ている。どちらも天真爛漫で裏表がなく、人なつこい。レギュラー争いで蹴落とされたり、試合で敗北したライバルたちからも愛されてしまう。*1
 私はスターであったころの長島も清原も知らない。一般論で話すと、「スターとは観客の欲望を受け止めるからっぽの器である」という説をよく聞く。長島や清原もそうした意味でただしくスターだったのだろう。なれるはずのないことはわかっていてもなりたいという憧れを止めることのできない欲望の対象。「その人になりたい」という同一化への強烈な感情は外から見れば愛として観測される。
 宮地にとっても野々垣にとっても、そしておそらく著者にとっても、清原は他者であると同時に自分でもある。
 『虚空の人』でのなかの清原はどこまで閉じた人間だ。状況が状況なのでしょうがないのだが、あまり多くを語らないし、自分の行動に説明をつけない(というか、つけられない)。
 説明されずに閉じている、というのは同時に解釈にあたっては開かれているということでもある。 著者は徹底的に清原を調べようとする。PL学園時代の監督や同級生を取材し、そのキャラクターに迫っていく。
 だが、あるとき、PL学園時代の監督からこんな非難を受ける。
「あなたは結局、清原を食い物にしようとしているだけではないのか」
 そのことばにショックを受けて自分の中にあったある欲望に気づいた著者は、清原についての取材を中断し、清原とのつながりそのものを絶とうとする。
 実は「三人の三塁手」にも似たような流れがある。長島の先輩で、長島入団と同時にレギュラーの座を奪われてしまった土屋という選手がいた。沢木耕太郎は土屋本人に会うために、彼の親族や関係者との接触を試みるのだが、「ほうっておいてあげてください」などと言われてなかなかうまくいかない。それでもどうにか渡りのつけられそうな人物を発見するのだが、そこで疑問が芽生えてしまう。

 彼と会ってどうしようというのか。なにをきこうというのだろう? 重いものが、ぼくのなかに溜りはじめていた。
(中略)
 土屋と動機の友人に連絡の橋渡しを頼み、ひたすら彼からの連絡を待った。ついに彼からの連絡はこなかった……と、本来ならば書くところであろう。この文章の首尾を一貫させるためには、そうでなくてはならない。しかし、事実を記しておこう。ぼくは土屋をおいかけることをやめてしまった。彼に会って、どうしたらよいのか? もう訊ねるべきことはなかった。
    沢木耕太郎「三人の三塁手



「三人の三塁手」において、沢木が取材を途絶した具体的な理由は描かれない。
 ただ、彼は気づいてしまったのではないかと思う。ルポルタージュにおいて、取材対象が実は自分自身の欲望の映し鏡であることに。
 土屋と会って話したところで、そこにいるのは自分の欲望した「長島になれなかった自分」の似姿でしかない。
 土屋が長島とのポジション争いや野球人生を通じて実際に何を考えどう感じたのかとは、なんの関係もない。一流のストーリーテラーである沢木は予感していたのではないだろうか。土屋と出会ったら「物語」が崩れてしまうことに。*2
 翻って、『虚空の人』の鈴木は沢木ほどには作家的な才覚(詐術、と言い換えてもいい)に恵まれてはいない。そのことが、『虚空の人』の語りをぎこちなくもするし、誠実にしもする。
 本書を読んでも清原和博という人間がどうして薬物に手を出したのか、逮捕後に何を考えてどう過ごしていたのか、深いレベルではわからない。ただ、清原という誘蛾灯に引き寄せられ、その身を焦がすひとびとの昏い輝きを目にすることはできる。
 うつくしいと思うべきか、かなしいと感じるべきか、どちらなのかは知らない。

*1:実際の人物がどうであったかは私はビタイチ興味がない

*2:そんな彼の作家的資質が最も露骨かつ上質な形で出たのが『人の砂漠』に収められている「おばあさんが死んだ」だ