名馬であれば馬のうち

読書、映画、ゲーム、その他。


読書、映画、その他。


第94回アカデミー作品賞候補作の(ほぼ)全所感。

 今年に入ってから映画の感想をブログに残していないことに気づいたのでよくないなーとおもったので、時期も時期もだし、アカデミー賞の作品賞候補になっている十作品のうち、日本で公開済みの九作品についての感想を書いておきます。正直、そこまで興味持てなくて関連情報も掘ってない作品ばかりなので、表層的なことしか言えませんが。以下、好きな順。

『ナイトメア・アリー』(ギレルモ・デル・トロ

 フリークショー(見世物小屋)映画とペテン師映画のハイブリッド。デルトロ作品のなかではベストではないだろうけど、いちばん好きかも。
 とにかく前半の見世物小屋描写が最高で、カーニバルの夜の陰気ないかがわしさも昼の陽気な愉しさも両方ともたっぷり描いてくれます。これはリメイク元である『悪魔の往く町』にはなかったところ。*1ウィレム・デフォーウィレム・デフォーしているのも見所。
 ただまあ、これは主演のブラッドリー・クーパーの映画ですよね。最初は寡黙でひょろりとした正体不明のあんちゃんとして現れたクーパーがマジシャンの弟子になり、やがて口先という天分を見つけて都会でペテン師として成り上がっていく。その過程が「ギーク*2というカーニバルの見世物*3に重ねられているのが痺れるといいますか、わたしの好きなタイプのプロットです。これがクーパーによく合うんです。
 ラストのある場面でクーパーは「Mister, I was born for it.(そのために生まれてきたんです。)」と言います。このセリフは原作には存在せず、『悪魔の往く町』では「I was made for it.」でした。 made ではなく born 。どちらも意味的には代わりません。*4
 しかし、どこまで行っても身ぎれいで、顔立ちや瞳に強さを宿したタイロン・パワーはたしかに「作られて」そこに在るのかもしれないけれど、どんなに男らしく強権的に振る舞っていても眼からフラジャイルさが消えないクーパーの場合は「生まれた」ときの運命から抜け出せない。ささやかでありつつも、極めて重要な変更点です。まだあんまりうまく言語化できないのでこれから考えていきたい。
 こういう生まれ持った宿命に呪われて抜け出せない系の物語によわいな……。クリント・イーストウッドの言うところの「運命に後ろから追いつかれる」的な。
 

『ウエスト・サイド・ストーリー』(スティーブン・スピルバーグ

 同名のミュージカル映画(1961年、ロバート・ワイズ監督)のリメイク。
 ミュージカルっていうよりは映画なんだけど、やっぱりミュージカルでもある。ふしぎな作品です。映画的な制約の要請としてミュージカルを映画的に撮らざるをえない窮屈な作品は多いというか、実写のミュージカル作品ってそういうものばかりなんですけれど、これはスピルバーグが映画的に撮りたいからそう撮っているという感じがする。
 たとえば、終盤のレイチェル・セグナーとアリアナ・デボーズが言い争う場面で、ふたりとも歌いながらなのに普通のドラマのような顔どアップの切り返しでカットを割っていて、これが成立するのスピルバーグくらいでしょう。
 主役二人が恋に落ちる体育館での集団ダンスシーンもバッキバキに決まっていて最高で、ある映画評論家が「歌だけじゃなくてコレオグラフも含めてのミュージカル」って言っていたけれど、まさにそれが体現された快楽的なシーンだとおもいます。
 今年去年とミュージカル映画がやたら多いですけれど、この調子でどんどん増えていってほしいですね。好きなジャンルなので。といっても、新作で自分に完全にフィットするものは少ないのですけれど。『シラノ』(ジョー・ライト監督)なんかも曲はよかったんだけど……。


『パワー・オブ・ザ・ドッグ』(ジェーン・カンピオン

 アートハウス~~~~~ってかんじ。
 最初、カンヌのコンペにノミネートされたときは「えっ!? まさか、ドン・ウィンズロウの映画化!?」と興奮しましたけれど、違いました。いちおう、ウィンズロウのカルテル三部作もFXでのドラマ化が進んでいるらしいです。最初はリドリー・スコットで撮る予定だったらしいけど、どうなるのやら。
 それはさておきつ、ジェーン・カンピオンのほうの『パワー・オブ・ザ・ドッグ』。弟を子持ちの女にとられて嫉妬で狂うカンバーバッチがいいですよね。弟役のジェシー・プレモンスもあいかわらずいい。カンバーバッチと比べてどっちがインテリ感あるかっていうとカンバーバッチのほうなんですが、モンタナにいそうな男感はプレモンス。っていうか、カンバーバッチは英国人だしね。コディ・スミット=マクフィーもオスカーの助演男優賞ノミニーに値する存在感。
 こうして見るとなんかウジウジした男ばかりで、『パワー・オブ・ザ・ドッグ』とはアメリカの田舎のウジウジした男たち映画だったのかもしれません。アメリカ人はアメリカのうじうじした男映画が大好きなので毎年ひとつはその風味のある映画が作品賞候補に入っているものですが、受賞となると『ムーンライト』以来?

 

『コーダ あいのうた』(シアン・ヘダー)

 毎年オスカー候補に一作は入ってる系のふつーにいい話だなあ、っていいますか。ふつーにいい話だなあ映画ってそんなきらいじゃないですよ、わたしは。『ニュー・シネマ・パラダイス』に感動するタイプの人間なので。
 他人に感想を述べるなら以上でおしまいなんですが、それだけだと他に比べてバランスがわるいか、そうですね……。
 主人公は、耳が聴こない家族のなかで唯一の健聴者で、ある種の通訳者として家族と地域社会との橋渡しを担っている。タイトルにもなっている「コーダ(CODA)」とはこうしたひとのことです。両親が仕事を行う上でも彼女の存在は欠かせないわけで、家族としては高校生の娘に依存して生活しなければならない、といういびつな状況に陥ってしまっています。しかし大学進学を控えた主人公にも将来の夢ややりたいことはあるわけで……という、このジレンマの作り方がうまい。「親も子も互いのことを大事に思っているし好きなんだけれど、関係としてはトキシックになってしまっている」という悪人のいない悲劇的なシチュエーションは最近だとピクサーの新作『私ときどきレッサーパンダ』もそうでしたね。毒親ものが増えてきた今だからこそのバランスというのもあるのかな。
 

ベルファスト』(ケネス・ブラナー

 北アイルランドベルファストのある通りに住む少年と家族を描いた、ブラナーの自伝的作品。
 冒頭からその通りに対して覆面の集団が襲撃をしかけてきて、なんだと思ったらマジョリティであるプロテスタントがマイノリティであるカソリックを追い出そうとしているんですね。そんな地域で主人公である少年家族はプロテスタント、という少々呑み込みづらい設定。しかし複雑な設定であるからこそ、差別的な対立の恣意性や不毛さが際だつのかもしれません。主人公と近所のお姉さんが「プロテスタントっぽい名前とカソリックっぽい名前の違い」を並べあうシーンは皮肉かつ象徴的です。
 俳優は全員がんばっていて魅力的。
 ただ正直、この題材ならもっとおもしろく撮れたんじゃないかな。そうならないのがブラナー的というかなんというか。モノクロで撮っているところなんかさしづめアルフォンソ・キュアロンの『ローマ』で、無垢な少年が差別的な社会のまっただ中に放り込まれるさまは、タイカ・ワイティティの『ジョジョ・ラビット』なんですけれど、キュアロンほどの格もワイティティほどの愛嬌もブラナーにはないんですよね。そこが最近は好ましくも感じられるんですけれど。
 作品としてはともかく(今やってる『ナイル殺人事件』のほうが好き)、ブラナーの個人史としてはなかなか興味深い。というのも、後年ブラナーが映画として撮ることになる「ケネス・ブラナー少年が大好きだったもの」がちょくちょく映り込んでくるからです。観ていると、ああ『オリエント急行』をああいうオープニングにしたのは少年時代にこういう状況を体験したからなのだなあ、とか、請負仕事でやっていたとばかり思っていたけど意外と『マイティ・ソー』に思い入れがあったんだなあ、とか、微笑ましい気持ちになれます。 

 

『ドライブ・マイ・カー』(濱口竜介

 去年の映画鑑賞まとめにも書いたんですけど、『偶然と想像』のほうが好きなんですよね。わかりやすくおもしろいから。むつかしい映画はわからん。
 まあしかし、いくらいけすかねえな~とおもってても濱口作品を観られてしまうのは、そのキッチュな部分、つまり人間のどうしようもなさ(主に痴情のもつれ)とそのヤバさを確実に見せてくれるからです。*5
 特に西島秀俊岡田将生演じる東出昌大東出昌大ではない)とある共演者が一緒にいるところに出くわしてしまう場面のアチャ~感はすごい。「通りすがってしまい、そのまま通り過ぎざるをえない」という点で、車の特性を他のシーンよりもよほどうまく利用していたのではないでしょうか。
 基本的にはコメディの人なんだとおもいますが、シリアスであればあるほどコメディ部分が際立つので、塩梅がむつかしいですね。また『寝ても覚めても』みたいなのを撮ってほしいですが、ここまでのクラスになってしまうと無理なのかな。
 

『DUNE 砂の惑星』(ドゥニ・ヴィルヌーヴ

 デュ~~~~~ン、ってかんじの映画でした。
 ヴィルヌーヴのSFに感心したことってあんまりないかもしれない。重いもん。でもまあ、『メッセージ』なんかと比べるとその重たさに向いた原作だったかもしれません。


 

『ドリームプラン』(レイナルド・マーカス・グリーン)

 女子プロテニスのレジェンド、ウィリアムズ姉妹を育て上げた父親を主人公にした映画。
 アメリカンドリームを追い求めるゆがんだ狂人を題材にした映画は好きです。なのですが、本作に関しては無理にホームドラマ的な側面も盛り込もうとしたからか、どっちつかずになってしまった印象。あれはもうたまたまうまくいっただけの毒親だろ。
 姉妹たちに『シンデレラ』を観せ、ひとりずつ学んだ教訓を真剣に訊ねていく場面は狂いっぷりという点で好きです。


『ドント・ルック・アップ』(アダム・マッケイ)

 好ましい部分は多々あるものの、他者を見下して徹底的にバカにせずにはおられないアメリカンリベラルの悪癖が悪い形で作用していて(『バイス』とかはまだ調和が取れていたと思う)なんだかな~~~という気持ちになる。
 ティモシー・シャラメティモシー・シャラメ役と以外形容しようがない天使みたいな役回り(お祈りするシーンで中心になるし)で出ているのはウケた。あの最後の晩餐のシーン、シャマランの『サイン』っぽくありません? ない?



 こうしてみたら十作品中四作品がリメイクというか映画化済作品なんですね。こんな年はあんまりない気がする。単にスピルバーグ、デルトロ、ヴィルヌーヴといった巨匠たちが懐古趣味に走っているだけといえばそうなので、映画界全体の潮流とむすびつけるのはどうなのかな。
 そうして、ずばぬけて面白い作品も、どうしようもないほどつまらない作品もない。ようするにいつものアカデミー賞候補作って印象。ここに並んだ作品よりはいまやってるマイケル・ベイの『アンビュランス』のほうが好きです。あれはいいですよ。自分はもしかしたら銀行強盗ものにかんしてはあんまりあたまよくないほうが好きかもしんない*6
 予想ですか。オスカーは『コーダ』が獲るんじゃないんでしょうか。そんなことはどうでもいいから、『リコリス・ピザ』を今すぐ公開してほしい。

*1:1947年版との比較はここに詳しい。 Nightmare Alley (2021) vs. Nightmare Alley (1947): What Are the Differences? | Den of Geek

*2:字幕では Geek という語に「獣」という字が当てられています。辞書的にはただしくありませんが、この映画に関してはフィットしていると思います

*3:特にアメリカでは本来「ギーク」といったらこのカーニバルのギークのことで、「おたく」などの意味はあとからつけられた

*4:まさかブラッドリー・クーパーが監督主演した『アリー スター誕生』(A Star is born)にかけたわけでもなかろうが

*5:おなじキッチュさでもクラシック音楽づかいのダサさは『偶然と想像』でもどうかとおもいましたが……。

*6:ここでいう「頭のいい」はマイケル・マンとか『ザ・タウン』とかであり、「頭がわるい」には『キャッシュ・トラック』とか『アンビュランス』が入ります

2022年1月の新作まんがベスト10+5

 あけましておめでとうございます。
 以下は、2022年の一月に第一巻が発売された新作まんが10選と、同じく2022年に発売された単発長編・短編集5選です。
 基本的にはおもしろいと感じた順にならんでいるものと思し召しあそばせ。


 よくある質問:
 Q.来月もやるの? マンスリーでやるの?
 A.わからない。これまでの経験からいえば今月っきりになる可能性が高い。

【2022年1月に第一巻が発売された連載もの】

1.『とくにある日々』(なか憲人)

 今月のベスト。なかよしの高校生ふたりを中心に展開されるオフビートな学園コメディ。単純に奇想コメディとしてめちゃめちゃ笑えるんですけど、画的としてエモーショナルな瞬間が何度もあって謎の感動を呼びます。panpanyaテレンス・マリックに撮らせたみたいな。


2.『桔香ちゃんは悪役令嬢になりたい!』(原作・相馬康平、作画・日下氏)

 アニメの影響で悪役令嬢を目指すイタい小学生桔香ちゃんとそれぞれの思惑と成り行きから彼女の下僕として侍ることになった仲良しグループの四コマギャグ。要するにまあみんな大好きな「本物になりたいニセモノ」の話であって、それは”悪役令嬢”に憧れるけれど空回りすることでもあるし、彼女よりもキャラの濃いメンツに囲まれているということでもある。姉フィクとしても優秀。


3.『百合の園にも蟲はいる』(原作・羽流木はない、作画・はせべso鬱)

 名門女子校に赴任してきた男性教諭・円谷。なんとなく馴染めなさを感じていたところにクラスでいじめ疑惑が浮上し、彼はそれを解決しようと乗り出すが……という教師ものの学園コメディドラマ。『女の園の星』とは異なり、生徒たちのダークでラジカルな面を見せる……というとよくあるまんがのようだけれど、主人公もなかなかキレているところがおもしろい。イカれたキャラしか出てこないまんがはよいまんが。キレどころのタイミングもよい。

 

4.『艦隊のシェフ』(原作・池田邦彦、作画・萩原玲二

 池田邦彦に対する認識が変わったのは『国境のエミーリャ』を読んだくらいからでしょうか。連作短編をまとめる技量が抜群にすごい。第二次世界大戦中の日本海軍の駆逐艦で烹炊兵と呼ばれた料理係たちの奮闘を描くお料理グルメ×戦争まんがである本作でも、綿密な取材に裏打ちされた人情ありスリルありの人間ドラマが分厚く発揮されています。っていうか、スパイものが好きなんだなあ、池田先生。

5.『おいしい煩悩』(頬めぐみ)

 グチャグチャに泣きはらしてる人間の顔は好きですか。大好きなあなたには、コレ。『おいしい煩悩』。一話に一ページぶちぬきでグッチャグチャに泣いて許しを乞うている主人公が見られます。ノリとしては黒崎冬子から品の良さを抜いたような印象でしょうか。引き出しがあまりなさそうなのが今後の不安。
 

6.『夜嵐にわらう』(筒井いつき)

 私たちの筒井いつき先生はいまも世界のどこかで暗黒百合を描き続けている。そう思うだけで勇気がもらえる気がするんです。このまんがでは生徒たちから陰湿ないじめを受けている教師が、突然登校してきたやべー不登校児に執着されたことから、クラスがめちゃくちゃな暴力教室になっていきます。そう、いつもの100パーセントの筒井先生です。

7.『ミューズの真髄』(文野紋)

 ドアマットみたいな人生を送ってきた主人公が一念発起してやりなおす、という物語は類型としてさして珍しいものではなく、そういうもののなかではシチュエーションがあまりにも『凪のお暇』と被りすぎだろう(女性向けまんがのフォーマットの範疇かもですが)とは思います。しかし、ディティールに乗っている情念というかパッションみたいなものはオリジナルで迫力がある。


8.『天使だったらよかった』(中河友里)

 ずっと仲良しでやってきた夏瑚(女)、泰星(男)、憂奈(女)の高校生幼馴染三人組。しかし、ある日、泰星と憂奈がつきあいはじめて、主人公・夏瑚は疎外感をおぼえだす。複雑な気持ちを抱えていた夏瑚だったが、ある時、憂奈が想像を絶するサイコパス野郎と判明し……という三角関係BSSNTR返しメフィストフェレスまんが。キャラや展開はめちゃくちゃ濃いのだが、まんがとしてはするりと飲める喉越しのよさが匠の業前。


9.『目つきの悪いかわいい子』(ハミタ)

 属性一点賭けシチュエーションラブコメ(俗に言う高木さん系)と見せかけておいてシリアスな話をやる、というのは、特段珍奇というわけでもないんですが、これはそのなかでも手続きが誠実な印象。
 

10.『花は咲く、修羅の如く』(原作・武田綾乃、作画・むっしゅ)

 京都の高校で放送部やるやつ。『響け!ユーフォニアム』の放送部バージョンと理解すれば早い。第一巻ではキャラや設定紹介止まりといった印象ですが、その時点ですでに厚みがあり、今後の地獄が楽しみです。
 

【2022年1月に発売された単発長編・短編集】

1.『苦楽外』(宮澤ひしを)

 エグみを抜いた前期五十嵐大介といった印象の海棲怪奇譚。奇譚という表現がしっくりくる温度感。


2.『リボンと棘 高江洲弥作品集』(高江洲弥)

 『先生、今月どうですか?』でプロップスを高めつつある高江洲弥の天才性と全方位に満遍ない嗜好が遺憾なく発揮されている短編集。死体を埋める百合ならぬ埋められた死体百合の「ある日森の中」と、小学生が人喰い植物人外の力に溺れる「誘い花」が特にマーベラス。読んでいると、人はハルタ作家として生まれるのではなく、ハルタ作家になっていくのだなあ、とおもいます。


3.『黄色い耳(((胎教)))』(黄島点心)

 異才・黄島点心の黄色シリーズ?第三作(だったとおもう)。中編が二篇載っており、前半の方では黒ギャルが友達とDV彼氏を山に埋めてもう一回その山に行ったら謎の耳キノコの化け物と出会ってセックスして恋仲となり耳たぶに耳キノコの子を孕む、といういつもの文章にしたら気が狂っているのかな? という勢いのあるストーリーでまあこういうのに関しては読んでくださいとしか言いようがない。
 

4.『絶滅動物物語』(うすくらふみ、今泉忠明・監修)

 主に人間の手によって絶滅した動物(正確にはアメリカバイソンなどギリギリ絶滅しなかったものも含む)にまつわる物語。動物関連書籍でよく名をみかける今泉忠明監修。リョコウバトやステラーカイギュウ、ドードーといったわりと有名どころを扱いつつ、人間の業をえぐります。現存しない動物たちの生きていたころの姿を再生する、という地味に難業をクリアした力作。


5.『SUBURBAN HELL 郊外地獄』(金風呂タロウ)


 郊外で気の狂ってしまった現代人の姿を描くサイコホラー短編集。きちんと「土地と人間」の呪いに落とすところがホラーとして端正。

かわいいゾウさんを撃つーー『It Takes Two』について

*本記事には『IT Takes Two』についてのネタバレが含まれています。*1


しかし私はその象を撃ちたくなかった。草の束を膝に叩きつける象を私は見つめた。象は何かに没頭している老婦人を思わせる雰囲気を持っていた。象を撃つことは謀殺のように思われた。


   ーージョージ・オーウェル「象を撃つ」(Haruka Tsubota 訳)



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ゾウは忘れられない


 2021年度の The Game Awards でゲーム・オブ・ザ・イヤー(作品賞)に選ばれた It Takes Two は、ゲーム史に残る邪悪なトラウマをプレイヤーに刻んだゲームでもあった。
 ゾウを殺すのである。
 ただのゾウではない。
 この世の純粋無垢を具現したような愛らしい、思いやりのある、かわいいゾウ、しかもぬいぐるみのゾウをプレイヤーは手にかけなければならない。
 プレイヤーに拒否権は事実上ない。ストーリー進行の要請としてゾウさんをひどいめに合わせねばならず、どうしてもやりたくないならゲームをそこでストップする以外の方法はない。
 一連のイベントシーンを乗り越えたプレイヤーたちは誰もが頭を抱えて、あるいは天を仰いで、こうつぶやく。
 ーーどうしてこんなことに。


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どうして……?


 It Takes Two は世にも珍しい二人プレイ専用のタイトルだ。
 仲が冷え切ったすえに離婚を決断した夫婦が離婚を悲しむ娘の涙の力によって、魂を人形に囚われてしまい、元の肉体へ戻るために協働して奮闘する、という内容。プレイヤーは夫婦のうち、どちらのキャラを操作するかそれぞれ選んでプレイする。
 基本的には3Dのフィールドでパズルをときながら進んでいくプラットフォーマー・アクションだが、途中で多彩なミニゲーム(だいたいは明確な元ネタあり)をこなしていったりもする。
 相棒となるプレイヤーと、ときに励ましあい、ときに罵りあい、ときに煽りあって進行していくプレイはゲーム内の物語そのものともシンクロしており、豊かなゲームデザインとあいまって、約12時間前後の共同作業がまったく苦にならない。たしかにゲームオブザイヤーの名に恥じない、2021年の新作タイトルでもマストな一本といえるだろう。


 だが、ゾウを殺さなくてはならない。


 問題となるのは Cutie という名前のゾウさんと対峙するシークエンス。
 自分の身体を取り戻すにはもう一度娘に涙を流させればいいのではないか、と考えた主人公夫婦は、彼女のお気入りだったぬいぐるみを壊すことで娘に悲しみに追いこうとする。そのターゲットとなるぬいぐるみが Cutie だ。
 そんな企みを露も知らない Cutie はアポもなく現れた夫婦を歓迎し、ハグをしたり、クッキーを薦めたりする。夫婦が自分を殺そうとしていると知ったあとでさえ、穏やかに説得してやめさせようと試みる。
 Cutie は本編でプレイヤーたちの言い訳になるような悪事を一切働いていない。ひたすら、いい子だ。
 プレイヤーたちは命乞いをしながら逃げ惑う Cutie を追い回さなければならない。傷つけなければならない。殺さねばならない。
 その殺害過程は凄惨のひとことに尽きる。とても文字では描写できない。詳細を知りたい場合は本編をプレイするか、あるいは youtube にアップされた動画を観てほしい。


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 上の動画のコメント欄には嘆きと後悔が渦巻いている。「Cutie にこんなことはしたくなかった」「インディーゲームでここまでの罪悪感と絶望と悲しみを抱いたことはかつてなかった」「このシーンを見た後、セラピストへ会いに行きました」「泣いた」「あらゆるゲーム・映画を通じて最も心打ち砕かれるシーンだ」……
 実際にこのパートでプレイを止めたと告白するものさえいる。 
 Steam の不評レビューでもっとも評価を集めているのも「ゾウさんがかわいそう」*2と書かれたものだ。ちなみに二番目に人気を集めている不評レビューは「クリアするより前に彼女からフラれたので(オススメしません)」だ。
 

 Reddit のある投稿者*3は「俺はこれまでゲームを通して色んな存在を殺してきた。悪魔から空港の一般人まで、あらゆるものを。そういうことについて、あまり深く考えてこなかったといえる。だが、慈悲を請うなにかを苛み殺す経験は、俺と俺のガールフレンドをすさまじく不快にさせた」。


 この投稿で言及されている「空港の一般人」とは一人称視点シューティング戦争ゲーム『Call of Duty』シリーズ6作目『Modern Warfare 2』(2016年)に出てくるあるステージを指す。そのステージではプレイヤーはテロリスト*4に扮し、ロシアの空港で丸腰の市民を虐殺することになる。*5
 ビデオゲームの歴史において最も論議を呼んだ場面のひとつだ。*6
 

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 そんな悪趣味の極致とされるゲームよりも Cutie 惨殺はむごい体験だった、と彼はいう。

 このようにゲーム中に道徳やタブー、法律、そして個々の感性の境界を踏み越える体験をビデオゲーム研究者のモーテンセンヨルゲンセンは〈逸脱 transgression 〉と呼んだ。*7
 逸脱的な体験はときに殺人のような社会規範にもプレイヤーの道徳理念にも反する行動を強いるけれども、基底現実でそのような行動を取るよりはプレイヤーに耐え難さを催させない。なぜなら、プレイヤーは、実際の行動と結果が生じているゲーム内世界から身体的に切り離された空間におり、文脈的にも隔絶している。要するに、画面のこちら側でボタンを押すことと画面の向こう側で銃を撃って人を殺すこととのあいだには、地続きの感覚として認識するにはかなりの距離がある、というわけだ。*8
 

 逸脱にはある種の美的経験をもたらす効果がある。*9 戦争ゲームをメタ的に解釈した Spec Ops: The LIne (2016年)に代表されるように逸脱を明示的に批評的な文脈で用いるゲームも多く存在する。しかし、CoD:MW2や純粋な無差別殺戮を追求したと謳ったポーランドの Hatred(2015)などは多くの人々に火遊びの快楽を超えて嫌悪を催させた。*10
 そして、It Takes Two はそれ以上の拒否反応を招いた。
 現実世界において、ゾウのぬいぐるみをめちゃくちゃにすることは、無抵抗の市民を虐殺するより残酷な行いだとはまずみなされない。ここに顛倒がある。なぜだろう。
 
 
 ひとつには、Cutie が顔を持ったキャラクターとしてよくデザインされていることだ。Cutie が劇中で登場してから退場するまでは数分程度しかないものの、そのあいだに彼女のやさしさ、愛らしさ、無垢さがわずかな会話や行動で十全に提示されている。
 感情移入するにあたり、対象を一個の存在として認識することは重要だ。たとえば、ひとは「○○という国の子どもたちが飢えて苦しんでます。あなたの寄付で救えます」という情報を見せられても、なかなか簡単にそうした子どもたちの窮状に対してアクションを起こそうとはしない。ところが、「○○という国にすむ△△ちゃんは今晩食べるパンすらありません。彼女は毎朝家族のために10キロ離れた井戸まで水を汲みに……」などと具体的なストーリーを提示されると急に寄付へとつながりやすくなる。*11
 創作の分野においてキャラクターの重要性が説かれるのもつまりはそういうこと。どうでもいいキャラが死んでも読者にとってはどうでもいい。
 そして、Cutie のキャラは声といい振る舞いといい、かなり幼く設定されている。ここが特に制作者の悪辣なところだ。まるで何もわからない子どもを手にかけているような感覚に陥ってしまう。 外見も幼児向けのぬいぐるみであり、実際主人公の娘の大事なおもちゃという設定もあるため、容易に「=子ども」という連想が働いてしまう。
 子ども殺しの描写は全世界的にエンタメコンテンツで忌避されている。『Skyrim』のようにNPCを無造作に殺害できるようなゲームでも、子どもだけはその対象から外されていることが多い。前述の CoD:MW2 でさえ、空港の虐殺シーンに子どもは出していないのだ。
 そうした点において、It Takes Two はタブーに踏み込んでいるといえる。逸脱の度合いが高い。
 
 
 もうひとつには、主人公夫婦の行動原理に共感できないこと。
 すでに書いたように主人公夫婦は「娘の涙のせいで自分たちが人形になってしまったのだから、もう一度娘を泣かせばきっと元に戻れる」というロジックで動いている。いかなる理由があれ、自分たちの娘を泣かせるつもりで行動する親がいるだろうか。*12
 実際、このあたりの物語運びに強い拒否感を抱いたプレイヤーは少なくようだ。ある Steam ユーザーは「こいつらに子供を育てる資格はない」*13と断言し、英語圏のあるユーザーは「『こいつらはサイコパスだ』と感じてプレイを止めた」という。
 もちろん、主人公夫婦はこのあと娘に対するおもいやりを取り戻すわけだが、それにしてもいくら切羽詰まった状況で多少のためらいはあるとはいえ、「自分の子どもを傷つけようとする親」が描かれるというのも考えてみれば、いくらギャグであるとはいえ、異質だ。
 

 さらにもうひとつ。以上このイベントが作品の見てくれから期待されていなかったことだ。
 物語はおとぎ話みたいで実際、物語全体通して見ればハートフルといえるし、キャラクターデザインもかわらしく仕上げられている。まさに子どもといっしょにプレイするにふさわしい感触だ。
 そのゲームの外見や事前情報から想定される期待のフレームを外れたとき、プレイヤーは衝撃を受ける。それは「裏切られた」という感情へ、ときにいい意味で、ときに悪い意味でつながる。
バイオハザード』を購入して遊んだプレイヤーが「まさかゾンビになった人間を銃で撃つハメになるとは……」とショックを受けることはまずない(「まさか、あんな屋敷のなかであんな謎パズル解かされるだなんて……」とショックを受けることはあるかもしれない)。戦争ゲームであるCoDで一般市民を虐殺することは予想しないかもしれないが、しかし兵士やテロリストを射殺することは期待するわけであるし、そこにおいて一般市民を巻き込むことをまったく想定しないかといえばそうではないだろう。
 だが、It Takes Two においてかわいいゾウさんをさんざん追いかけ回して追い詰めたすえに殺すことは誰も希望しないし、想像もしない。ゲームジャンルと地続きになっている展開でもない。
 わたしたちはまったく無防備な状態で、強烈な一撃を喰らう。


 わたしたちはゲームで体験したことを語りたがる。なかでも衝撃的だった体験を語ろうとする。Cutie the elephant のくだりが It Takes Two のネタバレにおいて最も語られるシークエンスであるのは、そういうことだ。
 開発者のジョセフ・ファレスはインタビューで「あれは美しいシーンだった。自分は大好きだ」と述べたうえでこう続けている。「ゲームはプレイを通してプレイヤーの感情を惹起します。みんなよく取り違えるけれども、いい気分が引き起こされたのであればもちろんそれはよいことですし、悪い感情が引き起こされた場合でもそれはゲームのストーリーテリングにとってはよいことなのです。」*14
 

【おまけその1・ボリート*15としてのヴィデオゲーム】


 ヴィデオゲームにおける強制力について書きたい。あるいは、steam や YoutubeReddit でかれらがそうしているように、自分の体験についてわたしは語りたい。


 Cutie 殺害がショッキングなのは、プレイヤーたちが一挙手一投足をもってその行為に加担しなければならないからでもある。本作のストーリーは一本道であり、繰り返しになるが、Cutie を殺さないという選択肢はゲームの停止以外ありえない。
 しかし、本当に自らの道徳規範や嫌悪の感情に忠実ならば、ためらいなくそこでゲームを中断できるはずだ。*16


 でも、わたしはしなかった。わたしたちは、そうしなかった。


 ジョージ・オーウェルのエッセイ「象を撃つ」をおもいだす。当時英領だったインドに駐在していたオーウェルが、地元民を殺害したゾウを射殺するように依頼される話だ。オーウェルとしては気が進まない業務だったのが、ふと気がつくと地元民の注目が自分に注がれており、宗主国民としての責務を果たすようにみえない力で強制されているかのような心地になる。そして、彼は象を撃ってしまう。
 ヴィデオゲームは自由なあそびであるけれども、不自由なあそびでもある。ゲームはときどき無意味なようにおもわれたり、プレイヤーの意に沿わないようなことも強いてくる。強制は明確な指示として文字や声で命じられる場合もあるし、
そうするしかない流れになる場合もある。それはゲームの作品世界がひとつの系であるからだし、独自の法則によって形作られているからだ。
 しかし、RPGで経験値を得るためにザコ敵を狩ったり、しょうもないミニゲームをやらされたりするならともかく、あきらかに間違っている感覚をおぼえるものを間違っていると断定できないままにやらされる体験は希少だ。これはわたしたちたちの倫理、すなわち現実がフィクションの世界に優越しているという事実のひとつの証左なのだろうか?


 この前遊んだ Spec Ops: The Line では「吊るされた民間人か兵士かのどちらかを撃たねばらない」という選択を突きつけられた。うんこ味のカレーか、カレー味のうんこか、みたいな二者択一だ。それはゲームにおける選択の無意味さについての批評のようでもあったけれど、プレイヤーとしてはどっちに転んでも最悪な分、むしろ撃つのが気持ち楽だった。
 だが、たいていのゲームのたいていの場面は選択肢を提示しはしない。ゲームには目的があり、(ものにもよるが)ストーリーやプロットが設定されている。その終端に達することで、わたしたちはようやく「ゲームを遊んだ」といえるようになる。
 ゲームのメディアとしての特性は受け手の関りかたの能動性にある。もちろん、小説にだってページをめくるという行為に能動性は宿り、それを利用して「物語を読みすすめる読者と物語内で起こる悲劇の共犯関係」をメタ的に描いたミステリだってあるけれども、かなり抽象的だ。「おまえがページをめくったせいで作中の人物がひどいめにあいました」と言われても、ハア、そうッスか、という気分にしかならない。
 ビデオゲームの操作系とインタラクションの機序も現実に比べれば抽象的にすぎる。とはいえ、選択や行動について覚える能動性はそれでも他メディアと比較にならない。
 自分の意志がそこにあるような気がするし、実際プレイヤーの意志を反映してプレイヤーキャラは動く。
 だが、実際には物語に、ジャンルに、作品ごとのシステムに、ゲーム機の性能に、コントローラのボタンの形状や数に、あるいは数々のなんとなしな了解によってわたしたちは縛られていて、その範囲内でしか意志することはできない。


 ゲーム研究者のイェスパー・ユールは『The Art of Failure: An essay on the pain of playing video games』*17プレイヤーが回避しえない意図せざるゲーム中の悲劇の例として、『レッド・デッド・リデンプション』とボードゲームの『Train』*18をとりあげている。
レッド・デッド・リデンプション』の終盤では(ネタバレになるので詳細は伏せるが)とあるプレイヤーの意志に反するであろうあるキャラについての悲劇を強制的にあじわわされる。しかし、一方でその時点では当該キャラは「プレイヤーの代理」としての役割から解放されているので、プレイヤーの感じる負担は少なくなる。人形夫婦が「プレイヤーの代理」としての役割を負わされたまま Cutie の殺害に加担する It Takes Two とは対照的だ。
 どちらかといえば It Takes Two のフィーリングに近いのは『Train』のほうかもしれない。

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Train


 このゲームは人間の形をしたフィギュアを貨物列車に詰め込んで輸送するゲームだ。プレイヤーはできるだけ貨物列車にフィギュアを満載しようとする。そうして、列車がマップの端に到達すると、プレイヤーは伏せられたカードの山からカードを一枚引く。そのカードには目的地の地名が記されている。なぜか、どういった地名なのかはプレイヤーに事前に明かされていない。


 一番乗りで山札から引いたあなたのカードにはこうあるーー「アウシュビッツ」と。


 その他のカードにはこうだ。「ヘルムノ」「ダッハウ」「トレブリンカ」……。
 いずれもナチスドイツの建設したユダヤ絶滅収容所の代名詞となっている地名だ。


 プレイヤーはゲームに勝つために進んで”ポイント”を輸送していたつもりが、知らずして虐殺に加担するはめになっていた、というわけだ。「Train」がウォール・ストリート・ジャーナル紙で二度とプレイしたくないゲームとして取り上げられたのは当然だったろう。最も一点ものとして開発され市場に流通しなかったので、一般のゲーマーには触れる機会もなかっただろうけれど。*19
 しかし、「Train」の全体像が明かされたあとも積極的にプレイを続ける向きは少数だろう(「いったん始めた以上は他のプレイヤーもいることだし仕方ない」としぶしぶ続けるか、最初からそういうゲームとして悪趣味に楽しむかする人たちは別にして)。
 かたや、It Takes Two には奇妙な魔力がある。わたしたちは不快な行為をやらされると判明したあとでも、罪悪感に苛まされながらネチネチとゾウさんを追い回す。その罪悪感には拒絶の感情だけでないなにか別のものが宿っているのだろうか? だとすれば「それ」はなんだろう? ユールはその問いには明確な答えを与えてはくれない。代わりにこう述べる。
「これらはすべて、ゲームが悲劇と責任の探求という意味で最も今日陸なアートフォームであることを示しています。私たちは、どのように犯罪を犯すか、またどのようにそれを隠すかを実際に考えさせられました。ゲームは隠れる場所を与えてはくれません」*20


 そう、わたしたちには逃げ場がない。
 窮極的には、わたしたちの行動はデザインされたものだ。クリボーを踏まないマリオはいないし、スライムを真っ二つにしない勇者はいない。わたしたちはほかのなにかを殺すようにコントロールされている。そしてそのことに呵責を覚えない。かつてなく自由な時代なはずなのに、アイヒマンみたいな毎日。
 ゲームで強制される逸脱的なシーンは、そんなわたしたちの不自由さを確認させてくれる。ゲームを遊ぶという行為とはいったいどういうことであるのか、その根源を問うてくる。
 だからこそ、わたしは It Takes Two のゾウさんの場面が心に残っているのかもしれない。オーウェルが象を撃つことによってコロニアリズムの奇妙な権力関係を発見したように、物事には顛倒や凝視によってしか届かない領域がある。
 ゲームであることの良い点は、わたしの行為によって現実のゾウさんが死ぬことはないし、Cutie もエンディングでは修復されて元気になっているということだ。


 

【おまけその2・ジョセフ・ファレスというひと】

開発者はレバノンスウェーデン人のジョセフ・ファレス(Hazelight Studios)。元は映画監督で、兄である俳優のファレス・ファレス*21を主演にした長編を撮ったこともあった。
 2010年代からゲーム業界へ転身し、『ブラザーズ:2人の息子の物語(Brothers: a Tale of Two Sons)』(2013)で成功を収める。同作はコントローラーの左右で主人公となる二人の兄弟を別々にあやつる、一人協力プレイともいうべき操作系のゲームだった*22
 二作目となる A Way Out(2018、日本語版未発売*23)では、さらに過激化して完全な二人協力プレイ専用ゲームとして発売。テレビゲームなど孤独な陰キャのオタクのやるもの、という偏見を覆し、発売二週間で100万本を売った。この A Way Out の発売前年にファレスは時の人となる。といえば、聞こえはいいが、つまりは炎上した。
 2017年の The Game Awards にゲストとして出演したファレスはパブリッシャーであるEAのゲームにおけるルートボックス要素(ものすごく噛み砕いていえば、ガチャ)を批判。のみにとどまらず、全世界へ向けての生放送の真っ最中に中指を立てて「Fuck the Oscar(アカデミー賞なんかくたばっちまえ)」などと発してしまう。

jp.ign.com


 日本なら出禁ものの大失態だ。だが、フィル・フィシュ*24や Notch*25といった札付きの問題児を見てきたゲーム業界はファレスの放言程度はかわいいものだと判断したのかもしれない。*26 A Way Out は翌年のTGAで部門賞にノミネートされ、さらに It Takes Two では最高賞となるゲーム・オブ・ザ・イヤーに輝いた。受賞のスピーチで、ファレスはこう述べた。「2017年にこのステージ上で『アカデミー賞なんかくたばれ』って言ったけれど、まあある意味で、くたばったよね。The Game Awards のほうが良くなってきているもの」。
「Fuck the Oscar」ミームIt Takes Two の作中でもイースターエッグとして仕込まれている。


*1:でも、あなたが本当はそんなの気にしないことをわたしは知っている。

*2:https://steamcommunity.com/id/Sirecia/recommended/1426210/

*3:https://www.reddit.com/r/Games/comments/mqp8zl/comment/h45jhkg/?utm_source=share&utm_medium=web2x&context=3

*4:正確にはテロリストの仲間を装ったスパイ

*5:ステージの前には警告が出され、ステージをスキップするかどうかを選べる。日本語版では市民を射殺するとゲームオーバーという仕様に変えられている。

*6:https://ja.wikipedia.org/wiki/No_Russian

*7:‘The paradox of transgression in games’

*8:ちなみにゲームを通じて発生する認知的不協和を説明するタームとしては Ludonarrative Dissonance という概念もある。こちらはプレイヤー自身の倫理観によって引き起こされる不協和というよりは、ゲーム全体としてのテーマと部分としてのシーンが齟齬をきたしたときに起こるものっぽい。http://www.fredericseraphine.com/index.php/2016/09/02/ludonarrative-dissonance-is-storytelling-about-reaching-harmony/   https://twitter.com/zmzizm/status/1169122687026978817?s=20

*9:モーテンセンヨルゲンセンはカントの「崇高さとは自分より大きいものに出会ったときの経験である」ということばを引き、逸脱にはそうした感覚と出会う可能性があると示唆している。

*10:もちろん、MW2の空港ステージを心から楽しんだプレイヤーもたくさんいただろう。それは犯罪ではない。

*11:たしか行動経済学でこういうのに名前がついていたはずだが忘れた

*12:ここにはプレイヤーがゲーム内の操作キャラクターを常に自らのアバターとして考える「アバター・バイアス」の問題も絡んでいる。プレイヤーにとってゲーム内の操作キャラクター(代理行為者)とはなんなのか、という問題については松永伸司の『ビデオゲームの美学』(慶應義塾大学出版会)の第六章と第十一章でもふれられているが、私は議論をよく理解できている自信はない。ある日いきなり『ビデオゲームの美学』をすべて理解したイケメンが白馬に乗って現れてわたしにわかりやすく解説してくれないかなあ、と願っているがその日はいまだに訪れない。だれか助けてくれ。

*13:https://steamcommunity.com/profiles/76561198850470927/recommended/1426210/

*14:https://www.pushsquare.com/news/2021/04/exclusive_josef_fares_discusses_the_infamous_elephant_scene_in_it_takes_two

*15:コーマック・マッカーシーの戯曲とそれに基づく映画『悪の法則』に出てくる自動処刑装置」

*16:カイヨワ曰く、自発的でないかたちでプレイされるゲームはゲームではない

*17:邦訳タイトルは『しかめっ面にさせるゲームは成功する 悔しさをモチベーションに変えるゲームデザイン』ボーンデジタル

*18:よくにた名前のボードゲーム、『Trains』とは別物

*19:本作をデザインしたブレンダ・ロメロはこの他にもプレイヤーが奴隷貿易業者に扮する The New World や強制移住を余儀なくされた19世紀のネイティヴ・アメリカンたちの「涙の道」と呼ばれる死の行進を題材にした One Falls for Each of Us などのシリアスゲームを制作したらしい。

*20:p.88, 『しかめっ面にさせるゲームは成功する 悔しさをモチベーションに変えるゲームデザイン

*21:ベースはスウェーデンだが、アラブ系の役柄でアメリカの映画やドラマに出演することもたびたびある。有名どころだと『ローグ・ワン』や『ウエストワールド』にも出演。

*22:2020年にSwitchへ移植された際にはコントローラーを分割できるSwitchの特性に合わせてローカル二人プレイも実装された。しかしゲームの演出上には一人プレイのほうが想定されている

*23:現状英語版すら Steam だと日本では購入不可能となっているが、Electronic Arts の販売プラットフォーム Origin で購入できる

*24:Fez』で知られるゲームデザイナー。個性的な言動で炎上しまくったあげく(有名どころではあるゲーム開発者のカンファレンスで放った「今の日本のゲームはクソ」発言)、現在はゲーム開発から引退。

*25:Minecraft』の開発者。あらゆる方面への差別発言を繰り返したあげく、マイクロソフトに売った『Minecraft』のクレジットから名前を消されてしまった。あまりの素行の悪さにマイクラファンからも忌避され、「マインクラフトは初音ミクが作った」というミームが一時期流行った。https://knowyourmeme.com/memes/hatsune-miku-created-minecraft

*26:余談になるけれども、SF小説の界隈で起こったサッドパピーズ騒動で差別主義的団体ラビッド・パピーズを創設した Vox Day も90年代はPCゲームの開発者だった。フィル・フィッシュとかはまた違ってくるけれど、”問題児”を生んでしまう土壌みたいなものは界隈には確実あったようで、これが2010年代にゲーマーズゲートを引き起こし、現在立て続けに起こっているキャンセル騒動につながっているわけだけれど、今回は関係ないので省きます。