その90分間、ずっと原作つきの映画について考えていた。
- 『たべっ子どうぶつ The Movie』(監督:竹清仁)
- 『映画ドラえもん のび太の絵世界物語』(監督:寺本幸代)
- 『白雪姫』(監督:マーク・ウェブ)
- 『ノスフェラトゥ』(監督:ロバート・エガース)
- 『パディントン 消えた黄金郷の秘密』(監督:ドゥーガル・ウィルソン)
『たべっ子どうぶつ The Movie』(監督:竹清仁)

『たべっ子どうぶつ THE MOVIE』は、『トイ・ストーリー』になれなかった。『モンスターズ・インク』にも『LEGOムービー』にも『バービー』にも、そしてもちろん、『マインクラフト/ザ・ムービー』にさえも。あるいは、これらのどれにでもなれたのかもしれなかったのに。
ああなってしまった理由はいくらでも挙げられる。でも、ここではひとつに絞ろう。「問いを突き詰められなかった」という事実だけを見つめるべきだ。なぜお菓子だったのか。なぜたべっ子どうぶつだったのか。映画『たべっ子どうぶつ』は自ら立てたその問いに、十全に応えられなかった。
なにかしらのIPを映画化するときには、つねに「なぜ、その題材なのか?」と自問される。もともとのIPにたいした物語やキャラ性がそなわっていない場合はなおさらそうだ。題材の存在意義を問わねば、映画そのものの存在意義も正当化できない。誰に頼まれたわけでもなきのに、そういう強迫観念がそなわっている。
そして、それは「答え」を出すだけでは、セリフとして口に出すだけでは足りない。物語として現に語られる必要がある。なぜがそれが存在するのか。神話とは存在意義を*1創出する物語のことだ。その意味において、IP映画は神話を創り出す必要がある。もしくは、神話を破壊する必要がある。
『LEGOムービー』は語りの次元において神話の創出に成功した希少な例だった。『バービー』は、まあ、がんばってはいた。『マインクラフト/ザ・ムービー』は問いのヌルさにおいては『たべっ子どうぶつ』とさして変わりはなかったが、すくなくとも観客を楽しませようとする努力は見られた。
今から振り返れば、『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』の「映画が存在すること」に対する自省や疑問のなさは清々しくさえあった。

映画『たべっ子どうぶつ』におけるお菓子の存在意義とはなにか、といえば、「ひとびとを笑顔にすること」*2。このことは悪役のある人物を通して対比的に際立たせられる。厳格な両親に育てられ、幼少時にお菓子を禁じられていた彼は、周囲の子どもたちがお菓子を食べて笑顔になっていることに昏い嫉妬を燃やし、やがて笑顔の廃絶を目指していく。
ここでの「お菓子」とは「たべっ子どうぶつ」に代表される低年齢層向けのスナック・駄菓子類*3を主に指す。基本的に大人になればあまり選好されなくなり(わたしは今でもたべっ子どうぶつを食べまくっているが)、その思い出は幼少時代と深く関連づけられる。おもちゃなどといっしょで、こうしたお菓子類とは成長とともに擬似的な別れを経験することになる*4。
そんな通時的な付き合い、成長段階における関係の変化、つまりは人生における位置づけはこうして決まってくる。『トイ・ストーリー』や『LEGOムービー』で描かれていたのはまさにこうした変化だった。あるモノの存在意義を描きたいなら、その対象に接する人間(=わたしたち)の人生を通して語る必要が出てくる。
映画『たべっ子どうぶつ』の「笑顔」はあくまで刹那的な感情だ。悪役は笑顔の無価値を証明するために逆にずっと笑顔に執着しつづけるという、子ども時代からずっと変化しない人間として現れる。たべっ子どうぶつたちを含めた他のキャラクターたち(ひとりを除いてほぼ大人)もそうした視点からついに脱し得ない。お菓子はひとを笑顔にする。では、そのあとは? 人生は? 人間は? 神話は?
子どもにどこまでも寄り添い、子どものためだけの映画を作ることもできただろう。でも、本作はそういうふうにも見えない。公開初日の劇場は観客席から笑いどころか、なんのリアクションも起こらなかった*5。『マインクラフト/ザ・ムービー』が何度も泥臭く笑いを取りにいき、そのうち何度かは成功していたのとは対照的だ。
映画『たべっ子どうぶつ』固有の蹉跌ではない。日本だろうがアメリカだろうがいまだに広く見られる。結局のところ、『ザ・スタジオ』のパティ・スミスがいったように、スタローンがどんなに信じぬいたところで『デモリッション・マン』は「150分間のタコベルのCM」だった。愛すべきギンビスが90分のなにか(少なくとも、CMではないだろう、これは)を謳い上げようとしたところで、だれに責められるだろうか?

ジークアクスの話をしようか。いや、やっぱりやめよう。あなたがたがすでに知っている話をすることほど価値のない行為はない。
『映画ドラえもん のび太の絵世界物語』(監督:寺本幸代)

もぎりの人が小冊子をくれた。その冊子には原作から抜粋されたエピソードが何話か載っている。上映前の退屈な時間を、不朽の名作を読みよみ凌げという東宝からの計らい……
というだけでは、もちろん、ない。
映画本編を観ていると、冊子に収録された回のひみつ道具が出てくる。原作どおりの使われ方をされつつ、その延長線上でちょっとしたひねりを加えて、映画内でのクエストを解決していく。
小粋である。原作を尊重し、そのうえで創意を加え、かつての原作ファン(おとな)も現役ファン(こども)もみんな楽しめるように作っている……。
のだけれど、なんだかそれが窮屈でもある。
そこまで配慮、というか、接待してもらわなくても、とおもう。
これは『ドラえもん』というIPならではの窮屈さだろう。作る側も観る側も「藤子F不二雄のドラえもん」から逸脱してはならない、という暗黙の了解がある。旧劇場版リメイク時はもちろん、隔年でのオリジナル脚本もそうした了解のもとに書かれている。
それはいい。だって、みんな「ドラえもん」を観に来ているのだもの。そして、だれもが藤子Fを超えるものを観たいだなんておもっていないし、なんとなれば超えてはならないとさえ考えている。藤子Fのドラえもんを超えるということは、『ドラえもん』を破壊することにほかならないのだから。よい映画ではあるとおもう。心底、そう感じる。
それにしたって。
線の引き方がえげつないというか、開き直っているというか。
入場者特典で予習用の冊子を配る。たまにジャンプ映画とかでも見る手法だけれど、『ドラえもん』の場合は親切や習慣上の惰性というより、もっと攻撃的なトゲトゲしさを感じる。
「ほら、原作どおりですよ。だから、文句つけないでね?」とでも言いたげだ。そして、映画もそのとおりに展開する。現代において『ドラえもん』的であるプロットとは、ひみつ道具を知的にメカニカルに運用することだ。それで、なぜかドラえもんとしての正統性を付与されることになっている。もちろん、スモールライトやタケコプターなどのおなじみのひみつ道具を使うことも好ましいけれど、ちょっとマニアックなあたりを攻めてファンをくすぐるのも大事です。
『ドラえもん』としての正統性を担保する手続きとしての二時間。
この息苦しさは制作者の罪ではない。観客の罪だ。わたしたちは原作から逸脱について、あまりに厳しすぎる。いつからだろう? とにかく、そんな状態があまりに長く続いてしまったために、作る側がその厳格さを内面化し、窮屈だと感じなくなるほど長いあいだ。

原作への忠実さを要求することには問題はない。いや、ほんとはあるのだけれど、それをいうとあなたがたがキレるので、ない、ということにしておく。
それよりも問題は、わたしたちが「忠実さ」の線引きを具体的に合意できていないことにある。
あらゆる線は、恣意的に引かれる。わたしたちは、自分たちがなにを気に入ってなにを気に入らないのかさえよくわかっていない。ガンダムでアイドルネタを引用したとして、それが自分にとって、作品にとって、ファンダムにとって、なにを意味するのか。諾うにしろ否むにしろ、ぜんぜんわかっていないのだ。なにしろ、それは感情だから。
先立つ感情はあとでいくらでも説明づけできるかもしれないが、つけている本人ですらそんなロジックなど信じてはいない。気に入らない。気持ち悪い。許せない。あるべきではない。なのに、ある。
作品とは、在ってしまうものだ。殺そうとしたときにはもう遅い。なので、許すべきでないものは存在する前に抹消するしかない。作らないように、意識させるしかない。
今回の『映画ドラえもん』にもあり得た他のバージョンが無数にあった。それらがどんなものかはわからない。生まれなかったものは想像できない。ただ、こうしてできあがったものが、想像できる範囲であったことには疑いない。
あなたは「それでいいの?」と疑義を呈するかもしれない。でも、2025年の現在においては、この世の中においては、さしあたって現実に人が死ななかったことをもって「よかった」とするほかない。それ以外の判断基準は、すべて失効してしまったのだから。
ジークアクスの話をしている? そうかもしれないし、そうでないかもしれない。
『白雪姫』(監督:マーク・ウェブ)

あるいは今回の『白雪姫』では人がひとりやふたり死んだかもしれない。なにせ、数億ドルかかっている。
いまさらウォルト・ディズニーがいかに民話としての「白雪姫」をディズニフィケイション(というより、ウォルタイズ)したのかは語らない。本なりネットなりにいくらでも書かれてある。
そもそも民話というものが国や時代によってさまざまに変化していくもので、そうしたバリエーションの奔放さに比べれば*6、ディズニー版『白雪姫』などM・トーマス・インゲの指摘するように「白雪姫物語群における正統な変種の一つ」にすぎない。*7
ところで、そのインゲが、マリア・タタールによる『白雪姫』エピソードに必須の9つの構成要素:「主人公の誕生、嫉妬、追放、保護、再度の嫉妬、死、(遺体の)展示、蘇生、解決」を引いて、ディズニー版に欠けていたのは唯一「主人公のオリジン」であったと指摘していたのは今となっては興味深い。なぜなら、ディズニー実写リメイク版『白雪姫』はまさにアニメ版に欠けていた白雪姫の誕生エピソードからはじまるからだ。実は構造において、実写リメイク版はアニメ版よりも「原典」に近づこうとしたといえなくもない。
実写リメイク版独自では白雪姫は雪の降り積もる日に生まれたから、白雪姫、ということにっている。
白水社の『初版グリム童話』に収録されたバージョンでもやはり雪深い日に実母である王妃(にしてのちに白雪姫を抹殺しようとする悪役)が、雪を見上げて、「この雪のように白い子どもがほしい」と願い、そしてそのとおりの子どもを産む。
ちなみに精確にはこの時、王妃は「この雪のように白く、この血のように赤く、そしてこの黒檀のように黒い子どもがほしい」と願っており、『初版』中では成長した白雪姫について「赤い頬」と「黒檀のような瞳」と述べられているものの、肌の色に関する言及はない。*8すなおに考えれば、残ったパーツ(かつ赤い頬が映えるの)は肌しかないわけだが、可能性としてなら「白雪姫は浅黒い肌であったかもしれない」と主張はできる。*9
アニメ版のときとおなじように「本」ではじめておきながらも、そこから展開される出だしはグリム童話に近い。それが制作側のなんらかの意志表示だとすれば、なにかが期待できるような気もする。
ところが、実写版『白雪姫』は最終的にとんでもないところに着地する。排外主義だ。
終盤、白雪姫は女王に抑圧された民衆を率い、女王と対峙する。身一つの白雪姫に対し、女王は精強な軍隊という武力を有している。しかし、白雪姫は女王側に立つその兵士たちひとりひとり語りかけていく。あなたは女王が来る前はパン屋さんで、いつも私に焼きたてのパンをくれましたね。あなたは農家で、みずみずしいリンゴをくれましたね……。
女王に徴兵される以前の、幼少時の白雪姫と交流のあったころのあたたかい記憶を思い出させていく。感極まった兵士たちは武器を捨て、女王の側から白雪姫の側へと乗り換える。そうだ、みんな、地元で育った仲間じゃないか、と。そして、優位を崩されて狼狽する女王を、白雪姫はこう指弾するのだ。「でも、あいつはよそものよ!」
このあと、追いつめられた女王は非常におもしろい退場の仕方をするのだけれど、どういう退場であるかは実際に観てみてほしい。すべての情報が無料で手に入るとはおもわないことだ。
そうして、王国を取り戻した。その次のシーンで、白雪姫(幼少時から心優しい父から「国の基盤は民である」というリベラルな薫陶を受けている)は、祝いのしるしとしてかわからないが、国中をうつくしい純白の布で覆い尽くし、民も白い衣服で白雪姫の帰還を祝う……。
なんだろう、これは。
由緒正しき血筋の「白い姫」が「黒いよそ者」を追い出し、国全体を「白く」染め上げる。KKKが考えた物語か? 『國民の創生』か?
なんなんだ、このラストは???

観てもいないのに実写版『白雪姫』を「ポリコレだからコケた」だのなんだの非難する向きがいるけれど、そういう人こそ観るべきだ。あなたたちの好む結末になっているから。
とはいえ、他の実写リメイク版(わたしはある種の義務感とマゾヒシズムから最近のディズニーの実写リメイクはほぼすべて観ている)と比べれば、まだ随所でおもしろくしよう、現代に合わせよう、とがんばっているほうではある。歌曲の要素を拡張し、ミュージカル映画としての方向に振ったのはミクロ的にはけして間違った選択ではなかった。間違っていたのはマクロな決定、つまり、実写に耐えうるだけのプロットを本来持たない80分のアニメーションを無理やり110分の映画にしよう、と決めたことだった。ディズニーアニメ版『白雪姫』の魅力は、なにより、(2025年現在の視点からいっても)その常軌を逸したアニメーションとしての豊かさにある。『白雪姫』と『バンビ』はとにかく異常な作画コストをかけて作られた映画で、そのせいで会社が傾きかけたために戦時の紙不足もあいまって『ダンボ』くらいから抑え気味になったのだけれど、ともかくそういうものだから、『白雪姫』に関しては「アニメ」でなくなった時点で文字通り魅力の核が失われてしまう作品だ。*10
そういう意味では、負け戦が最初から決まっている作品ではあった。基本的にはリメイクとは、経営陣にとってはある程度の勝算のみこめる安牌であるの対して、クリエイターにとっては負け戦だ。そこにあえて飛び込んでいったマーク・ウェブは勇敢な監督であるといえる。
『ノスフェラトゥ』(監督:ロバート・エガース)

勇気あるリメイクといえば、ロバート・エガースの『ノスフェラトゥ』だ。蛮勇ですらある。もととなった『吸血鬼ノスフェラトゥ』*11は、ディズニー版『白雪姫』よりよほど古いサイレント映画で、そのわりに要素も筋も詰め詰めでいまさら創意工夫を発揮する余地もないように見える。そこを78年にヴェルナー・ヘルツォークがペストの恐怖という要素を全面に出すことで再解釈と可能性の拡張に成功したのだけれど、エガースはよくもわるくもまじめというか几帳面なシネアストなので、あくまで芸術表現としての『ノスフェラトゥ』、ドイツ表現主義とゴシック・ホラーの現代的なやりなおしという枠組みをとにかく磨くことに腐心して、その域から出なかった。
そのやりかたは、はからずも、リメイクという行為に対する態度の批評にもなった。
『ノスフェラトゥ』はファンダム・カルチャーのよい戯画化だ。わたしたち信者(フォロワー)は、なんだかよくわからない異形の吸血鬼(マスター)を滅せない。滅ぼせるものがいるのだとしたら、適度にまともなニコラス・ホルトではなく、完璧にいかれてしまったリリー=ローズ・デップのほうだ。
そして、エガース自身もムルナウを、ヘルツォークを殺せなかった*12。まあ、『ノスフェラトゥ』を多少粗雑に扱ったとて、いまさらキレるようなシネフィルがいるようにもおもわれないのだけれど(そもそもシネフィルは年中キレている生き物なので、万一キレたとて特別な意味はない)、だとしてもなおプロファンダム的な律儀さをエガースはみずからに課した。エガース自身がファンだからだろうか。
そうした閉じた几帳面さがヘルツォーク版に具わっていた普遍性を失わせたともいえるし、記号としての「吸血鬼」をモダナイズして、純粋に楽しめるようにしたともいえる。四六時中ニヤついているムルナウ版の主人公より、終始不安そうなエガース版のニコラス・ホルトのほうが今の感性にそぐうのはたしかだ。それに、ウィレム・デフォーが知性ある狂人役で出ている映画に文句なんてつけられるだろうか?
A24ホラーを代表する二大監督がいるとすれば、アリ・アスターとロバート・エガースだろう。このふたりは盟友同士でもある。
しかし、アリ・アスターの暴君めいた冗長加減や放埒さより*13、野蛮を皮肉なく野蛮としてフレームに収めるエガースのまっすぐさのほうが好ましい気がする。
ほかにも『クィア』や『マインクラフト:ザ・ムービー』も観たな。前者については日本でいちばんバロウズについて詳しい二大巨頭の山形浩生先生じゃないほうが語っている動画がYoutubeにあるから、それを探せばよろしい。後者については、「ジャック・ブラックとジャレッド・ヘスの映画だった」といえば事足りる。それよりは……。
やはり、ジークアクスか? ジークアクスの話をしているのか? いいや、たぶん違う。ジークアクスといえば、難民の映画があった。
『パディントン 消えた黄金郷の秘密』(監督:ドゥーガル・ウィルソン)

『パディントン 消えた黄金郷の秘密』(以下『3』)の序盤で、パディントンが英国のパスポートを手に入れる。念願である「国籍」が付与されるわけだ。屋根裏*14の自室には、先に没したエリザベス女王(二世)との記念写真まで飾られてある。
いまさらいうのも野暮とは承知ながら、『パディントン』シリーズは移民の物語だ。パディントン事態の直接のインスピレーションもとは原作者のマイケル・ボンドが戦時中に駅で目撃した学童疎開やキンダートランスポート*15の光景(WWIIを扱った英国映画にはだいたい出てくる)だが、原作時点からパディントンが「外国からの移民」であることは意識されている。原作第一作の『くまのパディントン』(”A Bear Called Paddington”)では、序盤だけで何度も「移民(する)」というワードが出てくる。イングランド人のいやらしいアクを抜いて美点だけ残したような、ピュアで、礼儀正しく、思いやりのあるやさしいモデルマイノリティ*16
映画版では、そのテーマがさらに強化されている。どの点で、というと、あらゆる点において、としか答えるしかなく、そうした要素を掬っていくだけで別に記事をひとつたてなければならないのだけれど、七年前に『パディントン2』に『1』から反復された要素を逐一拾っていったような元気は今ない。
さしあたって、映画版で追加された「移民」テーマ強化要素をひとつ挙げよう。『1』でいきなり流暢な英語をあやつるパディントンに対して、ブラウン夫妻が「なぜそんなに英語が上手なの?」と訊ねる。原作では簡潔に「ペルーのルーシーおばさんが将来を見越して教育してくれた」とだけ述べられている。
映画版では、ここに新しい設定をつけたしている。そのルーシーおばさんがどこで英語を習ったかというと、大昔にペルーにやってきた英国の探検家モンゴメリーから習ったのだ。
この探検家は「暗黒の地ペルー」を征服に出向き、そこで出遭った知的なクマのつがいに言葉(英語)を教え、英国風の名を与え、食生活を変えた。いずれも植民地化において見られるプロセスだ。ペルーは『3』で描かれたようにもちろん、もとはスペインの植民地だったが、『1』のペルーで描かれているのは完全に「大英帝国」の姿だった*17。
そして、『1』の悪役となるのもその探検家の娘だ。彼女は比較的善人として描かれるモンゴメリーに鏡写しに、英国の歴史の影の部分を背負わされている。なにせ、自然史博物館の職員だ。多くの英国の(というか旧列強の)博物館がだいたいそうであるように、自然史博物館もまた旧植民地から収奪してきた標本で満たされている。そのコレクションにペルーからやってきたパディントンを加えようと企てる。
ある意味で、『3』は『1』で描かれた植民地主義の歴史の清算というテーマの再話といえる。そこで描かれる「旧宗主国」はいかにも現代的だ。かつては艶めかしい伊達男だったろうと想像されるものの今は尾羽打ち枯らして痩せたおっさんにしか見えないアントニオ・バンデラスが、進取の気質に富むZ世代の娘に認められたくて、先祖からの欲望と略奪という名の呪いを振り切ろうと悪戦苦闘する。旧植民地帝国の抱える自意識がそのまま擬人化すると、ミッドライフ・クライシスに陥った中年男性になるのは興味深い。
そういうのを「おれたちだって反省したんだから、おまえも反省しろよな!」でやってくるところは英国的というよりはハリウッド的だとはおもうけれど。
話はまったくかわるのだけれど、わたしはわたしなりに『パディントン』についての思い出がある。小さい頃の愛読書だった、わけではない。暗黒の地・日本からイングランドに単身送り出されていた十代のころ、帰省の時期、たぶんヒースロー空港だったとおもうのだけれど、ぼんやりフライトを待っているとロビーのテレビでパディントンの人形アニメが流れていた。

今となってはパディントンはTVシリーズとして映画版以前に三度映像化(映画版後はもうひとつ増えた)されていて、その人形はアニメは最初のTVシリーズである1976年BBC版の第一話だと、知識として知っているのだけれど、そのときは「パディントンだな……」としかおもわなかった。でもその数分のエピソードを繰り返し眺めるうち、なんだかそのクマが愛おしくなって、たまたま(いまにして思えばまったくたまたまではなく、マーケティングのたまもの)近くの店においてあったパディントンのぬいぐるみを買って帰った。帰省中はずっと自室にかざっていた。そのぬいぐるみは実家のどこかに今もいるはずで、おそらくは屋根裏の倉庫だろうか。あまりモノとしてのぬいぐるみに執着するほうではないので、どちらかといえば記憶としてのほうが強く残っている。物語としての『パディントン』を知ったのは2014年の映画版公開でのことだった。
わたしは『パディントン』を愛しているのだろうか?
二次創作やアダプテーションにおいて重要なのは、原作への愛だとひとはいう。
そりゃそうだ。けれど、愛とは定量化不可能なものでもある。みな、どうやって量っているのだろう? ツイートの数? 描いた同人誌のページ数? 排出した精液の量? 「熱量」とやら? そういえば、食品の熱量(カロリー)は実際に燃やして計測するらしい。してみるに、火をつけてみて炎上するかどうかで初めて愛の軽重がわかるのかもしれない。
というか、計量可能になったところで、どの程度の愛があれば十分で、どの程度の愛なら不足なのか。だれがその基準を決めるのか。だれに決める資格があるのか。
自分か? たしかにあなたはあなたにとって公平な判断者に見えるかもしれない。しかし、マーク・フィッシャーがいうように、「『(良識のない)ファン』とはつねに他人のことで、自分自身は適切なプロセスを経て、ほどほどにおさまった理性的な愛着の持ち主……という思い込み」*18しかないのだとしたら? もうどうしたらいいのか。
それでも、胸が痛むのもウソじゃないよね。苦しいよ。いいんだよ。苦しめ、そして、苦しむのだ。それが人間の当然な生活なのだから。然し、流血の惨は、どうかな? エグザベ君! あゝ、戦争は野蛮だ! 戦争犯罪人を検索しようよ。エグザベ君!
*1:多くの場合は国民や国家のを
*2:映画『たべっ子どうぶつ』の理念は「お菓子を通して世界平和に貢献する」「笑顔になってもらう」なのだという。https://lp.p.pia.jp/article/news/416702/index.html
*3:劇中で並列される他のお菓子はうまい棒、タラタラしてんじゃねーよ、ポリンキーなど
*4:くどいようだが、ここで問題にしているのはあくまで常識的なイメージであり、実際に大人がおもちゃや駄菓子を消費するかしないかは関係がない
*5:自分が子どもだったときの経験からいえば、視聴者としての子どもは映画のなかで泣きわめいてトラブルばかり招き寄せる迷惑な子どもを嫌う
*6:たとえば、ディズニー『白雪姫』の四年前に公開されたフライシャー兄弟版の「Betty Boop in Snow White」などもっとめちゃくちゃだ
*7:M. Thomas. Inge, "Walt Disney's Snow White: Art, adaptation, and ideology"
*8:ちなみにグリム兄弟による第二版から髪については「黒檀のような黒髪」と追加されている。肌の色については英訳される過程でいくつかのバージョンで追加されたようだ。https://de.m.wikisource.org/wiki/Schneewittchen
*9:昔、冬のさなかのことでした。雪が羽のように空からひらひらと降っている日、ひとりの美しい妃が黒い黒檀の窓辺にすわって縫い物をしていました。そうやって縫い物をしながら雪を見上げたとき、針で指を刺してしまい、血が三滴、雪の上に落ちました。そして雪の上の赤い血がとても美しく見えたので、妃はこう思いました。「この雪のように白く、この血のように赤く、そしてこの黒檀のように黒い子どもがほしい」そしてまもなく妃は娘を産みました。雪のように白く、血のように赤く、黒檀のように黒い娘でした。そこで娘は白雪姫と名付けられました。
*10:まあほぼCGでできているという点では「アニメ」であり続けているのかもしれないけれど、ここでいっているのはもちろんそういう意味ではない
*11:もちろん、もとはブラム・ストーカー
*12:それにしてもいつのまにアーロン・テイラー=ジョンソン 映画を気だるくするばかりの俳優になってしまったのだろう。『28年後の…』の懸念は唯一そこ。
*13:新作の『EDDINGTON』もまたダルくて長いらしい
*14:「屋根裏(Attic)は英文学の文脈において意味深な場所だ。https://en.wikipedia.org/wiki/The_Madwoman_in_the_Attic
*15:ナチスドイツの迫害から逃れたユダヤ人の子どもたちの国際疎開
*16:ここらへんの一見寛容なソフトな帝国主義は原作時点からさんざん批判されているところではある。((https://www.aaihs.org/paddington-bear-and-black-british-migration-politics/
*17:映画冒頭で紹介されるこの探検家の登場シーンはサイレント記録フィルム風に撮られており、「戦前の英国」であることが強調されている
*18:Fans, Vampires, Trolls, Masters
