名馬であれば馬のうち

読書、映画、ゲーム、その他。


読書、映画、その他。


「なぜあなたはFGOのガチャを回すのですか」

 
 不自然な弁明ではなく、解明すること。これが与えられた使命である。


   ――シュテファン・ツヴァイク、『マリー・アントワネット』(下巻、角川文庫、中野京子・訳)



 一度羽生に訊ねたことがある。


 なぜFGOをやるんですか、と。


 羽生がなかなか答えないので、きまずくなって質問をつけ足した。「マロリーとおなじ理由ですか」


 二十世紀初頭の偉大なソシャゲーマー、ジョージ・マロリー(1886〜1924)。ヴィクトリア朝課金スタイル最後の継承者と謳われた彼は「なぜFGOをやるのか」と訊かれ、こう答えたという。〈そこに物語があるからだ〉。
 FGOのシナリオを褒め称える人は数多い。たしかな構成と想像力に支えられた物語こそが凡百のソシャゲと一線を画し、iTunes のランキングで五指に入った原動力である、そんなふうに誰もが認めている。
 だから、漠然と羽生もそうなのだと考えていた。彼もシナリオがあるから、FGOをやるのだろう、と。

 だが、羽生は首を横に振った。
「違うよ。そこに物語があるからじゃない。そもそも〈そこ〉に物語なんてない。あるのはシナリオだけだ」
 素朴な疑問が湧いた。物語とはシナリオのことではないのか? だから問うた。
「じゃあ、なぜ」
 そこで初めて羽生の双眸がわたしをまっすぐに見据えた。自他両方に対する冷厳さに満ちた、ベテランソシャゲーマー特有の眼のかがやき。うっすらと開いたくちびるのあいだから、水着イベントのザリガニを思わせる、硬く、重い響きが漏れた。
「おれがガチャを回すからだ」


 羽生はその一週間後、十八体目の星五サーヴァント宝具五にアタックをかけ、行方知れずとなった。
 生きた人間は星五サーヴァントをどれだけ宝具五にしても伝説にはなれない。死んではじめて伝説となり、英雄となる。

 英雄になることとは、つまり物語そのものになることだ。他人の口から物語られるエピソード、それが伝説の定義なのだとわたしは定義したい。
 今や伝説になった彼の物語は日を追うごとに膨れ上がっていく。行方不明になる直前、前人未到と言われた宝具五サーヴァント宝具五の十八体目を達成していたらしい。どころか十九体目も達成していたらしい。無記名霊基を百基あつめたらしい。1・5章の第七部をクリアしたらしい。
 わたしは、根も葉もない噂には興味がなかった。羽生がやったかやらなかったかわからない事蹟よりも、羽生がたしかに言ったことのほうが気になった。「おれがガチャを回すからだ」。


 わたしたちは最初の十連をおぼえているだろうか。
 アプリをダウンロードし、チュートリアルをこなし、☓☓を死なせ(わたしはあの悲劇を思い出すたびに胸が切なくなり、死者をもてあそぶリヨをにくむ)、序章をクリアし、かならず特定の星4サーヴァントの含まれた十連を、最初のガチャを回す。
 その十連は、わたしたちにとって想起することのできる最初の誕生の記憶だ。羊水から浮上して産道を通り、人生で最初の賭けを張る行為をわたしたちはヴァーチャルに再演する。
 だが、そうやって生を得たあたらしいわたしたちは哺乳類ではない。鳥類だ。目が開き、世界が暗闇から光へとうつろって、そこで最初に見た人物を「親」だと認識する。その人物をわたしたちは「初期星4」と言い換えてもいい。呼び方は自由だ。わたしとしては「運命」と呼びたい。

 そう、運命だ。

 わたしにとっての「運命」はマリー・アントワネット[ライダー]のすがたをとって現れた。人生における諸々の致命的なイベントと同様に、マリー・アントワネットが現れたときにはそれが「初めて見たきんぴかのカード」以上の何かを意味しているとは思われなかった。あまりにも、なんでもなかった。

 そのなんでもなさに、わたしは愕然としてしまった。最初のきんぴかカードは、もっと特別な存在だとどこかで思い込んでしまったいた。
 ギンカの筆によって描かれたマリーはなるほどかわいい女の子ではある。戦力的な観点から言えば、クセの強いサーヴァントではあるが、育てれれば随一のねばりを発揮する。だから? それが? わたしは絵や暴力を求めてFGOをダウンロードしたわけではなかった。物語が欲しくてゲームをはじめたのだ。

 だから、彼女にむりやりに物語を見出そうとした。マリー・アントワネットをフィーチャーした第一章が、コンビニで売っている安物のテーブルワインのように薄いお話であると判明し、幕間の物語もそれ以上ではないと知るや、史実に、シュテファン・ツヴァイクに、遠藤周作に、ソフィア・コッポラに、惣領冬実に、たすけを求めた。文字で書かれたものにこそ物語がやどるのだ。そんな無垢な信仰があった。
 だが、そうしたものにマリー・アントワネットの物語は含まれていなかった。いや、精確に言えば、小説や映画や伝記に描かれたマリー・アントワネットは1793年にフランス革命で処刑された現実のひととしてのマリー・アントワネットなのであって、FGOのマリー・アントワネットではなかったのだった。
 FGOの延長線上のマリー・アントワネットを求めるならば、二次創作などを漁るという手もあっただろう。でも、それはそれで「わたしの」マリー・アントワネットではない。わたしの運命ではない。わたしの運命でなければ、わたしの物語ではない。



 ゲームを進めるにつれ、扱いにくいマリー・アントワネットは主力パーティから外れるようになった。高レベルな敵を打倒するには、お姫様の攻撃力はあまり心もとない。わたしの手札には雷神の化身ニコラ・テスラがおり、殺す意志をもった打ち上げ花火アーシュラがおり、ゲーム中でも一二を争う破壊衝動クー・フーリン[オルタ]がいた。攻撃力がすべてだった。暴落する株価、堕落する議会政治、混迷を極める日本社会、暴力が世界を支配していた。地面から生えた手が金色の種火を落とすたび、わたしのこころは荒んでいった。フレポガチャを回さなくなった。シナリオを読み飛ばすようになった。運命や物語を信じなくなった。親愛度が七で止まったまま、マリーを忘れた。



 そんな時期に羽生と出会い、別れた。
 羽生との短い友人生活を送るあいだに、わたしは諸葛亮孔明[ロード・エルメロイIII世]を引き、エレナ・ブラヴァツキーを引き、ナーセリーライムを引いた。クラス別のきんぴかカードでは、キャスターが最多となった。
 第一部をクリアした。羽生は帰ってこなかった。
 新宿を終え、CCCコラボイベントを終え、アガルタを終えるころになっても羽生は消えたままだった。


 そうして、二〇一七年七月三十日だ。
 わたしはおぼえている。
 よく晴れた日曜日だった。ほどほどに暑く、ほどほどに湿気ていて、なんにせよ合唱するセミを殺してまわりたくなる憎悪はわかない休日だった。

 福袋ガチャの日だった。

 細かい部分を省いて説明すると、福袋ガチャでは四千円払えばタダで星5のサーヴァントが手に入る。ふだんの星5サーヴァントがたった一枚のきんぴかと引き換えに魂や人としての尊厳を要求してくることを考えれば、実に良心的なおねだんだ。なにせ、タダなのだから。

 わたしは特になにも願わずに、回した。
 欲しかったサーヴァントがいなかったわけではない。ただ、五十分の一の確率に願を掛けるほどのピュアさを保てていなかっただけだ。
 倦怠期のカップルが義務で行うセックスみたくけだるい虹色につつまれて、星5確定演出がはじまる。きんぴかのカードの背面はそれがキャスターであることを示していた。

 またキャスターだ。

 かすかな失望でこころが濁る。

 星5キャスターに強力なサーヴァントが多いのは事実だけれど、暴力性の点においては他クラスに劣る。わたしが欲しいのは暴力だった。
 しかしそれもまた人生だ。回ってしまったものは変えようがない。気持ちを切り替える。はたしてどれが来るのだろう。どれが来てもいい。
 二枚目の孔明? 不夜城? 三蔵? 玉藻? それともダ・ヴィンチちゃん? 
 マーリンが当たるとは思っていなかった。それはあまりに都合がよすぎる。ことソシャゲに関して、夢を見る趣味はない。


 だが、マーリンだった。


 マーリンか、と思った。
 ありがたくはある。トップクラスに便利な魔術師だ。声も櫻井孝宏だし。櫻井孝宏だし? でも、特別な感慨は浮かばない。わたしのなかに、マーリンにまつわる物語は用意されていない。
 彼は単なるNPと毎ターン回復を生む道具だ。


 育成用の種火と集めないといけない。
 あと輝石も。
 ああもう。どうしてこんなに術の輝石が不足してるんだ。うちには魔術師がおおすぎる。こんなにキャスターだけ多くてもどうしようもないのに。
 ええい、せっかくだから全員キャスターのパーティでも組むか?


 水着イベ終了で不要になったパーティセットを解散させ、空白となった枠にあたらしいサーヴァントを配置しようとする。
 手持ちのサーヴァント一覧画面を開く。
 サーヴァントはレベルの高い順に並んでいて……孔明、ジャンヌ[ルーラー]、マシュ、アンデルセェン……。
 ふと、ひらめく。

 
 これなら自前でアーツ耐久パを組めるんじゃないか?
 

 わたしは、いわゆる耐久パーティをきらっていた。耐久パを勧める人間もきらっていた。
 100ターン200ターンかけてちまちまと敵の体力ケージを削ることに快楽をおぼえるような人間には、きっとなにかしら欠陥があるに違いない、と思ってもいた。おはしをちゃんと持てないとか。twitter で会話するときはいつもポプテピピックの画像で返すクセがあるとか。かわいそうな人たちだ。


 だが、気がつけば、わたしのカルデアには耐久パに最も適したメンツがそろっていた。意識しないうちに、耐久パ用のメンツを鍛えあげてもいた。
 それなりに育ったマシュと、それなりに育ったジャンヌ。その二枚にそれなりに育てたマーリンを加えて前線に並べれば、FGO一退屈で頑丈な耐久パーティができあがる。どんな敵であろうとボスであろうと寄り切れる無敵パーティだ。最強だ。
 できあがってしまった。
 なんの予告もなく、唐突に、わたしのカルデアはここで戦力的に完成してしまった。
 ガチャを回してしまったがために。
 だが、やはりそこに物語など――。


 そのとき、わたしはまだ手持ちサーヴァント一覧画面を見つめていた。
 視界の焦点が吸い込まれるようにマリーへ合った。
 羽生のことばを思い出した。「物語はシナリオにはない」。
 最初に回した十連を思い出した。
 運命を思い出した。

 史実でも小説でもなく、FGOにおけるマリー・アントワネットとはどういった運命であるのか。
 戦闘中に発揮できる彼女のスキルは三つ。一つ目は敵を〈魅了〉状態にして一ターンのあいだ行動させない能力。二つ目は、自身に敵の攻撃を三回も無効化できる〈無敵〉状態を付加し、かつ毎ターンHP回復状態にする能力。三つ目はHPを大回復させる能力。
 いずれも生き延びることに特化したスキルだ。先述したように、こと生存能力に関して彼女はゲーム中でもずば抜けている。耐久することに長けたキャラである。


 マリー・アントワネットとはどういった運命であるのか。


 わたしが最初の十連を引いたときから、彼女は予言していたのだ。
 いずれわたしが彼女のようなパーティに終着するであろうことを。
 彼女のようにしぶとく、彼女のようにやさしく、彼女のようにしたたかな六枚。それを組むことこそがわたしのFGOにおける運命なのだと。
 そして、そのパーティにマリー・アントワネット自身のすがたはおそらく、ない。魔術師たちと聖女によるアーツカードのチェインをつなげるには、クイック偏重の彼女のカード構成は邪魔になる。でも、かなしくはない。そうだろう? わたしたちは? だからこそ、だろう? だからこそ、なのだろう? それは?


「それ」はわたしの物語だ。運営の書いたシナリオでも、他人の描いた二次創作でもない。最初の十連を、さっきの十連を、ガチャを回したからこそ生じたわたしだけの物語だ。
 もう暴力は必要はない。これからもテスラやアーシュラを使いつづけるだろうが、彼らが何本手を焼いたとてわたしの魂が落ちぶれることはない。
 わたしのFGOは既に完成したのだ。


 そして完成はかならずしも終わりを意味しない。

 わたしたちは常につぎのガチャを回すことができる。つぎのつぎのガチャを回すことができる。無限にガチャを回しつづけ、無限に物語を生成できる。もちろん、金さえ払えばなにもかもタダだ。自由だ。


 つぎはどんな運命が回るのかな。
 そんなことを考えながら、わたしたちは今日もガチャを回す。
 わたしのマイルームで、レベル100の新宿の犬が、うおんとちからづよく鳴いた。
 羽生もどこかで、聴いているだろうか。



神々の山嶺(上) (集英社文庫)

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