名馬であれば馬のうち

読書、映画、ゲーム、その他。


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2023年に遊んでおもしろかったゲーム20選+α

前説

HADESやHollow Knightなどをやりなおしているあいだに2023年が終わってしまいました。この一年はほんとうに一年だったのでしょうか。365日のうち20日ぐらいちょろまかされたりされていないか。だれに? そりゃあ、あんた……任天堂


オマエーッ!


Steamの年間まとめによれば、わたしは2023年に新作旧作ひっくるめて56本のレビューを書いていたそうです。基本的にエンドクレジットまでたどりついた作品にしかレビューを書かない主義であるのをふまえると、あたかもたいそうな廃人のようでありますが、それらのほとんどは2時間か3時間で終わる作品ばかりです。わたしが廃人なのはライフスタイルとは関係なく、心が廃れているからです。その心が2時間か3時間かくらいのプレイにしか耐えられないのです。2,3時間で完結しない場合は飽きて別のゲームへふらふら移ります。それがわたしの性なのです。にもかかわらず。
なぜ、現代のAAAタイトルはプレイヤーに無条件に100時間の投資を要求するのでしょうか。その100時間に実りある体験が詰まっているならまだしも、100時間のうちの80時間くらいは(なんのゲームとは申しませんが)無駄に細かく分類されている銃弾をやりくりするためにインベントリを整理したり、(なんのゲームとは申しませんが)FF8のリノアキャッチみたいなクソダルイベントを2時間ごとに1回のペースで繰り返させるのです。どのような論理と権利があって、そのような虚無を1万数千円で売りつけてくるのでしょうか。[サラ・モーガンは悪く思っている……]
制作費に5億ドルかけているからでしょうか。広告費に10億ドルかけているからでしょうか。あるいは、単純接触時間の長さだけがプレイヤーに感動をもたらすための唯一のゲームデザインの黄金則だからでしょうか。むしろそうした細やかな雑作にこそプレイヤーのユニークな体験が宿り、自分だけの思い出になっていくからでしょうか。
おそらく、どれも正解ではないのでしょう。
その100時間は必要な100時間なのか、あるいはそうでないのか、という問いが存在するとして、それにただしく答えられるひとは地球上のどこにもいません。
わたしたちはかつてない時代にいます。単体のパッケージについて100時間でひとつらなりの体験を、どう語り、どう受容すればいいのか。誰も知らないのです。
でも、そういうものが現に生み出され、現に嗜まれている。
探索可能な1000以上の無の惑星で、無のミネラルを採掘する体験が、最終的には正当化されてしまうなにかがあのおぼろげな100時間のどこかにある。
途方もないことです。
途方もない時代です。

2023年のゲームトップ20

基本的には2023年にリリースあるいは翻訳された新作ですが、一部旧作が混じります

1.The Cosmic Wheel Sisterhood

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魔女宇宙タロット制作&占いADV。ADVの歴史は手入力式だったプレイヤーの行動を開き直って選択式にしたときから、有限も有限すぎるゲーム内での未来の帰結がいかに未知で無限であるかと錯覚させるかの詐術の歴史でもあったとおもうのですが、本作はプレイヤーと主人公に(メタ的な手法に依らず)ある程度の距離を作った上で「プレイヤー自身が未来を作っている」という錯覚を作り上げてくれます。そして、その錯覚を錯覚と作り手自身も知悉した上で、物語として肯定してくれるのが強い。*1
まあ、しかし、なによりキャラがいい。絵がいい。てざわりがいい。窮極的には、ビデオゲームとはルックなのではないかとおもいます。

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2.Kentucky Route Zero

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届け物を届けるためにトラック運転手が麦わら帽子をかぶったイヌやゆかいな仲間たちとともにケンタッキーを彷徨うADV。
マーク・トウェインに曰く、「ユーモラスな物語はアメリカのものであり」、その良し悪しは「話の中身(マター)」ではなく「語りのやりかた(マナー)」にかかっている。「ユーモラスな物語は重々しく語られ」、「何か面白いことがあるなんてことを少しでも勘づいているそぶり」など見せず、「好きなだけあちこちさまよい、特にどこにもたどり着かなくても構わない」。*22024年のいま、この条件に当てはまるアメリカ産のゲームをわたしはいまやひとつ知っている。
KRZはアメリカのお話であると同時に、演劇や現代美術、そしてビデオゲームのアドベンチャージャンルの歴史も踏まえています。それはビデオゲームアメリカの歴史を語る上で欠かせないものになったという本作なりのステイトメントであり、リスペクトやオマージュやノスタルジーを超え、ひとつのおおきな流れのなかに自らを位置づけようとする誇大妄想の叫びでもある。そうした狂いこそが、もっとも本作を特別なものにしているのでしょう。




3.Cyberpunk 2077: Phantom Liberty

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あのときの未来の続編。

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サイバーパンクとはノワールである、と看破した開発陣の慧眼はいくら称えても足らないくらいなのですが、ではノワールに徹しきれる物語がどれだけあるのか。宣伝広告の中に存在しない自由を素朴に信じ、その憧れのためにどこまでも都合よく使われるチンピラでしかない主人公とは、無限にクエストを課されるオープンワールドRPGのプレイヤー自身の似姿でもあったわけですが、今回は立場を同じくする仲間たち(と呼ぶにはあまりに複雑な利害と友情とつながった間柄)がいて、かれらに勇気づけられるときもあれば絡め取られるときもある。
ネトフリの『サイバーパンク2077:エッジランナーズ』の功績は大きいですよね。『エッジランナーズ』は本DLC配信前後のメジャーアップデートでもかなり優遇されていたわけ*3ですが、あのアニメこそが Cyberpunk 2077 におけるノワールを定義づけてくれました。つまりは、夜空に大きく輝いて見えるのに、手を伸ばしてもけっして届くことのない月。あるミステリ書評家がかつて「人間の魂の暗部を描く――これはノワールの芯である」*4と述べていたのにはおおむね同感で、その昏さのみを見つめる作品も数多いのですが、一方でそのすり潰されそうなほどに稠密な暗闇のなかで、わずかに射し込む光明をつかもうともがく姿を描くのもまたノワールであるとおもうのです。
Phantom Liberty はそれをほぼ理想的に達成してくれました。
引用されるのがジョン・カーペンターの『ニューヨーク1997』であるというのがまたニクい。『ニューヨーク1997』から生まれたもうひとつのゲーム史的傑作がなんであったかを思い出すのなら、本DLCで課される内容と語られる内容がこれまでのビデオゲームが積み上げてきた歴史の上で成り立っているのだと感得されることでしょう。

4.Chicory: A Colorful Tale(チコリー:いろとりどりの物語)

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世界一のアーティスト=その世界を保っている大魔法使い、みたいな世界で、その大魔法使いから唐突に大魔法使いたる役目を押し付けられたお調子者の弟子のイヌ、チコリーの冒険を描くお絵かきADV.
特にインディーゲームにおいては創作者の苦しみを表現しようとしたものは無数に存在するわけですが、Chicory ほど繊細かつ開かれた形で描いたものはかつてあったかどうか。
本作では難しさを抱えているさまざまなひとびと(獣人ですが)に出会います。成功したアーティストであるがゆえに、他人と自分自身から過大な期待を負わされて精神的につぶれてしまう師匠。表面上はへらへらとポジティブにふるまいながらも、心のどこかでは突然ふってわいた地位に自分の実力が見合ってないんじゃないかというインポスター症候群めいた不安をおぼえる主人公。その主人公に対して嫉妬し「業界はやはりコネなんだ!」と怒りをおぼえる絵師志望のハリネズミ。明日の面接が不安で朝からずっと浜辺で砂のお城をつくりつづけているイタチ。たいした理由はないのに「無性に”ツラいな〜”という日」がつづいて心が落ち着かないオポッサム……。だれもがとりたてて表には出さないけれど、どこかで大なり小なり不安定な感情を抱えています。
では陰鬱に塗りつぶされた世界かといえば、さにあらず。本作の世界にはそうした不安によりそい、共感し、元気づけてくれるひとびと(だから獣人なんだけど)もたくさんおります。かれら自身もまたなにがしかの苦しさを持っていて、そこがまたよい。思いやられながら思いやる。朗らかだけど憂鬱で、ダウナーだけどハッピー。そうした互恵といえるほど立派でも余裕のあるわけでもない関係こそが、人間同士のいとなみなのだと確認させてくれる貴重な作品です。




5.ゼルダの伝説:ティアーズ・オブ・キングダム

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ブレワイといっしょでラストのエモさにごまかされている気がしないでもないのですが、ちゃんとラストでエモくなれるということはそこまでのデザインが緻密に組み立てられているということなのだろうし、なんだかんだパズルを楽しく解いた気もするし、クリアから半年以上経った今となっては「とても良かった」という感触が残ってて、その気持ちは本物だとおもいたい。
だって、もう、縦の軸のゲームでさ、縦の軸のアクションのクライマックスやられたら感動しちゃうでしょう。しない? あなたにはひとの心がないんですか。いや、ひとの心がないのはブレワイであんな目に合わせたゼルダ姫をティアキンで百倍増しにひどい目に合わせなおす任天堂でしょうよ。こんな倫理観のひとたちに世界中の子どもたちがあそぶゲームや観る映画をつくらせていいんですか? まあでも劇場アニメ版『マリオ』を共同で作ったイルミネーションのメインコンテンツって泥棒だしな……。
ベストの五指に入っている理由の七割くらいはミネルさまです。


6.The Case of the Golden Idol

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The Game Awards の配信を某動画サイトで観ていたのですが、その冒頭で流れた本作の新作続編CMに対するコメントが「なにこれ?」といったような戸惑いの反応ばかりだったのを見て去年イチ悲しくなりました。The Case of the Golden Idol をご存知ない? なにも失ったことがないなら、それでいいけど*5
ひとことでいえば、『Return of the Obra Dinn』を2Dにして歴史改変SFにしてユーモラスで気持ち悪いおじさんたちを大量に投入した推理パズルADV、といったかんじでしょうか。「大量のユーモラスで気持ち悪いおじさんどもって、それ、要るやつ??」という疑問をおもちの向きもあるかとはおもいますが、断言しましょう、必要です。
ストアページのスクショやムービーを見てわかるとおり、この独特の絵からみなぎってくる謎のパワー、それそのものが本作の世界を織りなしているのです。
推理パートは理不尽すぎず簡単すぎないほどよいバランスで、それを解き明かす過程自体も愉しいのですが、謎を埋めていくことによって物語がプレイヤーのなかで読み取られていく過程のほうもまたエキサイティング。ここのあたりが『Return of the Obra Dinn』フォロワーの面目躍如たる部分でもあるでしょう。RotOD作者のルーカス・ポープ御大(埼玉県在住)絶賛も納得です。ちなみにエンディングのあとに全ストーリー解説もついてくるという親切仕様。
翻訳は有志のMODですが、これも凝っていてすばらしい仕事です。




7.Terror of Hemasaurus

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なんかデカくてつよいやつになりたい? なら、これ。
愚かな人類にイライラしてる? なら、これ。
ビルをぶっこわしてスカッとしたい? なら、これ。
ゴジラみたいな怪獣になって愚かで無力な人類をビルごとひねる潰す横スクロールアクション。ベースとなっているのは、何年か前にドウェイン・ジョンソンで映画化されたことでおなじみ(?)の『Rampage』(1986)。とにかく爽快。怪獣になって愚かで無力な人類を滅ぼしたい人にオススメです。途中で挟まるストーリーも諷刺がラジカルに利いててなかなかおもしろい。


8.Birth

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骨や臓物や植物でビジュアルを作り上げることに異常な執着を持つ Madison Karrh によるポイント・アンド・クリック式パズルADV。公式のストア紹介文によれば、「街中で見つかる骨や臓器から、寂しさをいやす生き物を作り上げるパズルゲーム」です。おぞましそうでしょう?
しかし、実際プレイしてみると、思いがけない温かさに満ちたゲームです。この感触はあまり類を見ない。
二時間ほどで終わる個人開発のゲームにわたしが求めるのは、そうしたユニークなテイストであるのです。新鮮な驚きとは、ミックやゲームのシステムだけに宿るものとはかぎらない。




9.Astrea: Six Sided Oracles

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Slay the Spire 的なデッキビルド式ローグライトカードゲーム……のサイコロ版。サイコロでデッキビルドというとテリー・キャヴァナー(『VVVVVV』などの開発者)の『Dicey Dungeons』があるわけですが、DDがヤッツィーっぽかったのに対して Astrea はStSフォロワーであることに呵責がない。
運と技術のバランスをいかに配分するかというゲームデザインの根本がつねに問われるデッキビルドものですが、「賽は投げられた」というフレーズがあるように、サイコロといわれるとかなり運よりな印象を受けがちです。しかし、本作ではその出目をスキルなどで事前/事後にかなりの程度、操作できてしまう。ここは発明ですよね。自分ではどうにもならないはずの運をテクニカルに操作ことで、逆に「運を自分で支配している」というプレイングの快感を演出している。そういう運要素の人為的操作ってふつーのカードゲームのデザインの基盤にもかならず含まれていたり(もっともシンプルな例がカードの追加ドローやリドローができるカード)するんですが、そこが明示的になることで単なるStSフォロワーとも違った味わいを生んでいます。

まあ、本作の詳細に関してはわたしよりうまく説明しておられる方がいらっしゃるのでそちらをお読みください。
yobitz.hatenablog.com

ふだんはあんまりデッキビルド系って熱心にはフォローしてないんですが、去年だと他にはポーカーを破壊していくポーカーベースのデッキビルド『Aces & Adventures』がたのしかったですね。


10.The Excavation of Hob's Barrow

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その昔、アドベンチャーサブジャンルにポイント・アンド・クリックというのがありました。画面上に表示されているキャラクターを主にマウスで操り、調べたい対象や移動先などをクリックして導くタイプのアドベンチャーです。90年代にルーカスアーツ(『The Monkey Island』など)の隆興とともに拡がりを見せ、一時代を築きましたが、さまざまな要因により2000年代には滅んだ*6……とおもわれていましたが、なんか00年代なかばにしぶとく復活し、こんにちに至るまで一定のファン層と文化を形成してきました。
ところで、Wadjet Eye Games というインディー・ディベロッパー/パブリッシャーがあります。The ShivahGemini Rueといった昔ながらの硬派なポイント・アンド・クリック・アドベンチャーを出している、というか、それしか出さないウルトラ硬派な会社です。ポイント・アンド・クリックというのは、操作キャラクターの出ない(つまり三人称視点ではなく一人称主観視点の)ビジュアルノベル的なインタフェースを持ったものを指す場合もある*7のですが、ワジェット・アイのゲームは日和らねえ。常に昔ながらのポイント・アンド・クリック一筋で勝負します。
The Excavation of Hob’s Barrow はそのような文脈において生み出されたハードコア・ポイント・アンド・クリック・アドベンチャーのひとつ。
19世紀のイングランドで、片田舎の墳墓の発掘調査にやってきた若き女性考古学者が、姿を現さない調査の依頼主を探すうちに墳墓と自分の因縁、そして村にまつわるある謎に気づいていく……という内容のフォークホラーです。
ちょっとローファイめのグラフィックによって描き出される悪夢的カットシーン、それもまあ、嘔吐する中年男性、なにやら木の枝にしばりつけられた中年男性、酔って目のすわった中年男性、魔女めいた老婆のアップ、穴の中でミミズに囲まれたブサイクな手作り人形、といった見ていてご褒美感ゼロの禍々しいイメージが連発されます。たしかにこのスロウでぬめっとした不吉さの提示はこのジャンルでしか出来ないような気がする。
スタイルこそはオールドスクールですが、操作感やシステム周りは現代的で、プレイ自体も快適です。
問題は、ワジェット・アイズ、というよりテキスト量が膨大になりがちなわりに売れにくいこの手のポイント・アンド・クリック全般にありがちな問題なのですが、日本語訳がないこと。けっこう特殊な単語が出てきたりするので、TOEIC2点のわたしにはつまづきながらのプレイでした。





11.South Scrimshaw, Part one

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トップ10の紹介も終わったところで、それそろ本記事の締切である1月1日の終わりも迫ってきたので、ここからはなるべく簡単に行きたい。
あ〜〜〜でもな〜〜〜これも本来ならトップ10クラスだったんだよな〜〜〜。数時間で終わる無料のデモ版なのに、とにかくフレッシュだった。
地球とは別の星に住むクジラの子どもの追う自然ドキュメンタリー番組風のビジュアルノベルです。このクジラがまたおもしろくて、成長していくにつれて海中の植物や動物や岩石や骨などを取り込んで個体それぞれに独自の共生環境を自分の身体表面に作り上げていく。生きる鯨骨生物群集みたいなものですかね。仔クジラが旅の道中で出会っていく大人クジラたちの個体ごとの違いを眺めるだけでも非常に愉しい。
クジラたちを取り巻く世界もまた作り込まれていて、テキストボックス中の注釈みたいな感じでその星の動物たちの生態や、ドキュメンタリーを撮っている調査班の設定などが明かされていく。時には注釈のなかに注釈gああり、注釈の注釈の注釈までいき、おもってみなかった情報に出会うことも。
ビジュアルノベルとしては取り立てて珍奇な仕掛けなどはほどこされていないし、デモ版というのもあってストーリーらしいストーリーも今のところないのですが、ただ「世界がある」という手触りが得られる。主人公の仔クジラも超絶かわいい。
フルヴァージョンが楽しみな一作です。日本語はこれもなし。

今年も海のゲームいっぱいねえ、ありましたね……山にクジラがいたゲームも……


12.Suzerain

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出たのは2020年で、翻訳MODが紹介されたのは2022年ですが、わたしは23年に初めてプレイしました。とある小国の大統領となり、外交では対立する大国のあいだで板挟みになり、内政では庶民と企業のあいだで板挟みになり、議会では右翼と左翼のあいだえ板挟みになり、家庭では家族と仕事のあいだで板挟みになり、内閣では友情と政局のあいだで板挟みになる、と、とにかくあらゆるところにジレンマの潜む、胃の痛くなるリソース管理系アドベンチャーRPGです。とにかくテキストとキャラクターが豊富で魅力的。これが非公式とはいえ訳されてプレイできるというのは、ひとつの奇跡といえます。




13.Diablo 4

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こいつです、おまわりさん。こいつが犯人です。こいつがわたしの貴重な時間を盗み、わたしの生産性をいちじるしく損ないました。ぜったい、許せねえ。なんですか、この……ボタンぽちぽちしているだけでなんか大量の雑魚をつぎつぎと屠ってレベルアップしていき使えるのか使えないのかわかんないスキルをゲットし強化しつつ、落ちている武器や防具などを絶えず選りすぐっていくだけで気持ちよくなれるゲームデザインは? こんなのあったらワンセッション二時間とか三時間とか平気で飛ぶに決まってるじゃないですか? 
ええ? ハックアンドスラッシュ? 知らないですね。そんなジャンル、聞いたことも触ったこともないです。
ええはい。たしかにそれはわたしのライブラリです。Grimdawnは……やったことあったかな……ある気がします。でも、ちょびっとです。舐めただけです。勝手にひとのプレイ時間をチェックしないでください。そういうの、違法捜査でしょ。知り合いの議員にいいつけてやるからな。
なんかストーリーとか? ぜんぜんよくわかんないんですけど、善良なひとびとの人生が神出鬼没のSEXY DEVILによって狂わされていくさまは見ていてなんだかいい感じがします。何の話なのかはシリーズほとんどやってないのでマジでぜんぜんわかんないんですけど。
でも、ストーリーがあるのはいいことだと思います。だって、クリアすればもうやめられるってことでしょう。
え?
クリアしても、やめられない?
なんで??? なぜ……?

14.Slay the Princess

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「森の小屋の地下に閉じ込められた姫を殺害せよ」と命じられた勇者に扮して姫を討伐しにいくビジュアルノベル。これ以上のことはあまり多く語れないので、さっさとプレイしてほしいところですが、日本語版がまだありません。要望が多ければローカライズしてくれるそうなので、要望を出しましょう。
構造としてはそこまで新鮮味は(特に日本では)ないのかもしれませんが、それを成立させるための手数とトーンのチューニング、テキストの味付け、そして声優の演技が極まっています。
結局のところ、わたしたちはみなバッド・テイストなゲームが好きなのです。




15.Shogun Showdown

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横方向にに一マスずつしか進めないというデザインがシンプルながらも効いているローグライト。日本語訳も地味にがんばっているとおもいます。


16.VIEWFINDER

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意外にプラットフォーマー的なセンスが要求される騙し絵的写真パズル。このアイデアを成立させるの大変だったろうな……とおもわされますが、TGAでインディー部門にノミネートされていたので、報われましたね。


17.Peglin

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Peggleにローグライト要素を足した結果、全人類にある悟りを開かせた。そうか、パチンコってローグライトだったんだ!


18.パラノマサイト FILE23 本所七不思議

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2023年のこの時代にゲーム中で設定した名前ではなく、パソコンのユーザーネーム(Steamの登録名だったかな?)でプレイヤーに呼びかける懐かしいメタネタをしかけてくるADVがあるなんて、という感動。しかしそれはもちろんジャブ程度のもので、本作の最大の楽しみなアクの強いキャラたちが織りなす、どこかファニーな群像バトル劇にあります。


19.Mothlight

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なんだかよくわからないが、16歳の少年の「とにかく俺は Dark Soul が好き」という熱情が前のめり気味に伝わってくるツクール製RPG。この作者は今は転生して『Angel’s Gear』とかあいかわらず尖ったゲームを作っています。


20.ファミレスを享受せよ

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ユニークさとウェルメイドさをふせもった個人開発者はなかなかおめにかかれないものです。『イルカにうろこがないわけ』では意外にゲームデザインのバランスのセンスめいたものも持っているんだなと気付かされる。そうか、このひとはバランス感覚が武器なんだ。

トピック別

【余談1:ゲームの翻訳の2023年】

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なにはともあれ、もはや説明不要な領域に達しつつある伝説のADV、Kentucky Route Zeroが”良質な”日本語でも遊べるようになったことをまず寿ぐべきでしょう。ローカリゼーションと訳者の重要性がこれほどまでに真剣に受け止められた年があったでしょうか。
わたしたちは『Baldur’s Gate 3』を発売年内にあそべるようになりました。『Chicory』もリリースから数年で翻訳されました。『Where the Water Tastes Like Wine』も日本語でプレイ可能になりました(わたしはなんかセッティングがうまくいかずに未プレイ)。特に翻訳なくても十分遊べたのだけれど『VVVVVV』も十数年越しに公式訳が出ました。わたしは難しくて投げ出してしまったけど作者独特の世界観が魅力的な『Angel's Gear』、いいかげん『To the Moon』やらななあとおもってるうちに公式有志訳された『imposter factory』、ツクール製RPGパズルADVとしては圧倒的な賛辞を受けている(個人的には合いませんでしたが)『RAKUEN』の六年越しのローカライズ『ストレンジャーシングス』前後の80年代ジュブナイルシンセホラーリバイバルムーブメントの流れにありながらも日本では訳されてなかったせいでいまいち認知されてない『OXENFREE』と、23年になって出たその続編『OXENFREE 2』。いまや最重要インディーパブリッシャーの一翼にのしあがった New Blood Interactive が贈るぬるぬるエイトビット悪魔祓いADV『FAITH』の有志訳、あの歴史的メタウォーキングシムのデラックス版というか事実上の続編『The Stanley Parable: Ultra Deluxe』、『潮汐少女:現象』や『上に天井がある。』のようなヴィヴィッドな小品ADVにすばやく翻訳がついた例、ゲームボーイ用の開発環境で作られかなりセンシティヴなテーマを扱うADVをひらがなで繊細に訳した『彼は私の中の少女を犯し尽くした - HFTGOOM』、あるいはKRZのように不十分だった訳をファンの愛の力で改めた『Milky Way Prince – The Vampire Star』(そして同じ翻訳者が訳した新作『Mediterranea Inferno』)もあれば、翻訳不可能ではないかと囁かれた『Pentiment』は……まあ、たしかに、知識を要する翻訳というもののハードルの高さを思い知らされました。


翻訳といえば、22年の『7 days to end with you』みたいな翻訳ゲーム*8を23年の新作でやりたい向きにオススメなのが『Chants of Sennaar』。他人のしゃべっている言葉や店の名前などがまったくわからない状態で、会話や探索で拾った記号から単語を推測していくパズルADVです。『7 days~』と似たようなシステム(推測まわりのインターフェイスは『Return of the Obra Dinn』あたりを参考にしてるっぽい)ではある。このゲーム自体のローカリゼーションまわりで地味にがんばっているのは、単語単位で確定させていくと、やがて他人の話しているセリフもちゃんとなめらかな文章として均されるというとこ。たとえば、「イヌ」「ネコ」「吠える」という単語をそれぞれ確定させたとして、そのままだと他人のセリフも「『イヌ』、『吠える』、『ネコ』。」とぶつぎれでカタコトっぽい文になりそうですが、ちゃんと「『イヌがネコに吠えていますね。』」という自然な文章にコレクトしてくれる。ここらへんが「外国語を学習して上手くなっている」感を演出できていて、いいなあ、と感じました。


ちなみにわたしが今年もっとも期待している翻訳待機作は『Decarnation』と、『文字遊戯』です。特に『文字遊戯』はすべてが漢字で出来た世界を冒険するRPGなのですが、これを中国語から翻訳するという偉業。デモ版に触れてそのとんでもなさを体感してほしい。

【余談2:きみもやがては他人のノスタルジー

80年代にカナダへ移民した南インド系の家族を描いた『Venba』や、南フランスで過ごした子ども時代が反映された『Dordogne』など、昨年はなにかと他人の国のノスタルジーが話題でした。*9
そんな他人の国のノスタルジー系ゲームで昨年最大の話題作と言えば、インドネシア発の青春アドベンチャーA Space for the Unbound』だったでしょうかストーリー面ではともかく、ビジュアル面では約束どおりのものを出してくれましたね。ストーリー面はともかく。美麗なピクセルアートで活写された90年代後半のインドネシアの田舎町のディティールは唯一無二の豊穣さで、コントラストの利いた陽光と影とサモサの屋台が織りなす風景は、なぜか日本人の「懐かしさ」にもクリティカルヒットします。『ヤンヤン 夏の思い出』(エドワード・ヤン監督)を観て台湾の夏休みノスタルジーに共感するようなものかもしれない。他国でも日本の80-90年代ノスタルジーが消費されているというし、実のところ、わたしたちのノスタルジーはわたしたちに固有のようで、けっこう普遍的なのかもしれません。特にアジア圏は意外と日本とコンテンツが共通しているっぽいし。日本カルチャーって思ったより人気あったっぽいんですよ。もう過去形だけどね。そして、今や日本という場のそのものがノスタルジーの対象になりつつある気がする。
たとえば、中国の90年代のノスタルジーを描いたループものADV『完璧な一日』というのもあって、かなり日本カルチャーが出てきてビックリします。ミニ四駆(『爆走兄弟烈&豪』!)に、ファミコンに、『餓狼伝説』に、ゴジラに……作中では純正品として描かれてますけど、たとえばファミコンとかはパチモンのホビーパソコンが主流だったはずですがそれはまあ。



(これがあの伝説のネットミームか……と感動した瞬間)


逆に去年『Fading Afternoon』を発表したロシア人開発者の yeo はヤンキーとかヤクザ(それも任侠映画な)とか、終わりゆく日本のアウトローをそれこそ80年代90年代的な風景とともに哀感たっぷりに描いていて、なんというか、他人の国のノスタルジーにうれしくなるのは自分だけではないのだな、とおもったりもします。

ノスタルジーとはまた違ったところで他国を感じられるのはWWIIに実際にあった台湾の爆撃被害(と日本による植民地支配の悲劇)を扱った『台北大空襲』は、当時の日台の複雑な関係がゲームのそこかしこに仕込まれていて、つきなみな言い方ですが、歴史を学べます。

インドネシアシンガポールを中心とした伝奇的事物を織り込んだ「イーストパンク」を標榜するハクスラGhostlore』も去年はちょっと触っただけだったので、いずれちゃんとプレイしたいな……。

【余談3:ガッカリしたゲーム】

わたしは欲望に忠実なので、事前の期待との落差でゲームに対する評価を決めてるところあるんですけれど、それでいえば2023年では『Starfield』と『Sea of Stars』の赤字がひどかった。この記事を書く前はその恨み言を1万字くらいぶちまけようかという勢いだったのですが、なんかここまでノンストップで記事を書いてきて色々疲れたのでやめておきます。

【余談4:ループもので苦しみを描くことについて】

In Stars and TIme』をやったときにループものについて考えさせられました。映画とかアニメとかの映像作品のループものって、ループ毎に繰り返されるルーチンをカットしたり、あるいはそこまでしなくてテンポよく編集して視聴者をいらつかせないようにするじゃないですか。去年は『リバー、流れないでよ』という例外も出ましたけど。
ゲームもジャンルとしてループものをやる場合は、結構ルーチンをカットできたりもしますよね。
でも、ループもののクリシェとして「終わりのないループに苦しんで狂っていく主人公」的なやつがあって。そういうのって、主人公の主観ではまさに毎回お定まりのルーチンを省略できないからこそ病みが積みかさなっていくじゃないですか。
つまり、視聴者と主人公の感覚をシンクロさせるには視聴者にも主人公のループを余すところなくリアルタイムに味わわせておくべきで、まあふつうのループものはそんな情動に主眼置かないわけですけど、『In Stars and Time』ではおそらくエンディングから逆算した結果意図せずうっかり置いてしまって、その結果大変なことになってしまったんですよ。
ここのあたりの「ループをあえてリアルタイムで繰り返すこと」について、『minits』や『Twelve Minutes』や『リバー、流れないでよ』あたりと比較しつつ考えておきかったんですけれど、そろそろ1月2日の1時を超えそうなので、今回はやめておきます。

【余談5:良かったサントラ】

歌モノでは終末青春恐竜人類バンドもの『Goodbye Valcano High』はバンドものだけあって、よかったですね。いかにもアメリカのインディーロックっぽい透明感が前面に出ていて。
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あとさすがにジャンル的に向いてないかなっておもってプレイしてないんですが、『クラブ・スーサイド』の「ねえ、ねえ」がすばらしかった。
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サントラとしては『Celeste』などでおなじみの Lena Raine がコンポーザーを務めた『Chicory』、Mr.Saucemanの『Pizza Tower』、ローファイながらも耳残る『ファミレスを享受せよ』とか……アッ、1時だ。


といわけで、わたしはいまから後生大事に新年までとっておいた『Alan Wake 2』と『Baldur’s Gate 3』をプレイする旅に出ます。三ヶ月くらい探さないでください。サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ。

*1:そういえば、年末に murashit 先生とお話させていただいた(精確には murashit 先生は御簾の向こう側にやんごとなく御座し、その隣に侍っている御側衆の取次を介してやりとりした)ときに、ビデ美の話の流れで、プレイヤー個人の資質として「自己関与寄りにプレイしがちな性向/ミミクリ寄りにプレイしがちな性向」があるのではないか、といった話題になり、そのときにロールプレイもロールプレイとひとことでいっても、さまざまな態度がありそうだな、などとぼんやり考えたりもしたのですが、TCWSにはあまり関係ないのでここでは放っておきます。

*2:柴田元幸・訳「物語の語り方」

*3:電車乗れる機能とかもうエッジランナーズロールプレイのためでしかないだろ

*4:殊能将之 読書日記 2000〜2009』no.4683

*5:by 円城塔

*6:カットシーンをいちはやく導入するなどゲームの映画的な発展に寄与していたのですが、コンソールやPCの進化によってグラフィックが向上していくと、むしろポイント・アンド・クリックは映画的な演出や体験に不向きになってしまった。

*7:すくなくとも『Milk outside a bag of milk』ではそう言っていた

*8:「だからあれは翻訳ではないだろ」というお叱りは甘んじて受けましょう。

*9:ちなみにわたしはVenbaはクリアしましたけど、Dordogneは未プレイ

2023年の新作映画ベスト20選+α、その夢の年

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「自分の夢がなんなのか知りたかったら、それをつきとめる方法は、映画をたくさん見ることだよ」


コニー・ウィリス大森望・訳『リメイク』(ハヤカワSF文庫)



映画を鑑賞するときの視座の一貫性を失ってしまったような気がする。
みなさん、お元気ですか。
わたしはトムの怒れる暴走列車です。

2023年ベスト10

1.『オオカミの家』(クリストバル・レオン&ホアキン・コシーニャ監督、チリ)


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映画は夢でできている。年末に『ヘルレイザー』のリマスター版を観たときにもおもったのだけれど、なにかがある種の手続きに沿って生成されていく過程にはなにやら冒涜的なざわめきが宿る。自分が生成AIの絵について描出の完了したものよりはその過程で中断されたもののほうを、もっといえば、生成されていく過程そのものの動画のほうを好むのは、そうしたざわめきを興奮と錯覚しているからかもしれない。痒みだって痛みの錯覚なのだ。
『オオカミの家』はそうしたざめわき、網膜をとおして全身に大量のウジが這うような経験ができる数少ない映画だ。それは悪夢だ。昏い歴史にねざした昏いアニメーションだ。だが、すばらしい夢でもある。

2.『兎たちの暴走』(シェン・ユー監督、中国)


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ひさしぶりに帰ってきた母親がファム・ファタールとなって娘の人生を狂わせていく。
すべてのカットが夢のようで、あらゆる反復(特に火と開閉の行為)が陶酔的だ。だから……なにから思い出せばいいだろう?
再会のはずなのに、あたかも運命的に初めて出会ったかのような初々しさで娘にタバコの火をねだる(娘はまだ高校生だ)母、母と娘で異なる場所に置かれている寝椅子、『リズと青い鳥』ばりに誇示される学校空間の立体性、放送室で読み上げられる本心、間違えられていた誕生日、透明なiPhoneケース、しまわれた指輪、秘密のトランク、あらゆる視線のやりとり。ラストシーンが政治的検閲によって暴力的に中断される瞬間すら美しい。

3.『レッド・ロケット』(ショーン・ベイカー監督、アメリカ)


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バカなのに打算的で、利己的なのに愛されたがり。そういう最低な人間をチャーミングに描いてゆるされるのが映画の爽快さだと、そうした軽薄なレトリックを貼ってもよいのだけれど、その裏には作り手たちの繊細な仕事がある。イヌがいい。イヌの視線の効用をベイカーはわかっている。

4.『ベネデッタ』(ポール・ヴァーホーヴェン監督、フランス)


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幼い頃からキリストを幻視してきた少女ベネデッタは修道院に入って、やがて聖痕を受けた”イエスの花嫁”として修道院内で祭り上げられる。
このベネデッタに幻視されるキリストがいかにも気の抜けたイケメンで、信仰の対象としてどうなんだという感じなのだけれど、それが安っぽい撮り方で聖化され、ベネデッタ自身はほんとうに信じているのだと示される。人を感動させるイメージやイコンというのは、ヨハネの夢の昔から、キッチュで俗悪なものだ。昔読んだ矢部嵩の小説に主人公が「テレビみたいにきれい」と瞠目する場面があったのを思い出す。信仰はどこにでも宿る。宿らせる先はあなたが決められる。
聖者であることと背教者であることが同時に成立していたように、信じ貫くことと恣に自由であることは両立しうる。
そんなしなやかさがこの映画を痛快にしている。

5.『ミッション・インポッシブル:デッドレコニング PART ONE』(クリストファー・マッカリー監督、アメリカ)


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今年になって生まれて初めて、映画館で映画を観ている最中に事故で映中止になる事態に出くわした。それは音が途切れて映像のみ流れるという不具合だったのだけれど、他の観客たちと静かな困惑を共有しながら、急に細部や動きが強調されて鮮明になっていく映像を浴びながら、やはり映画は光と影なんだと感銘を受けた。残念ながらその事故った作品はわたしのベストに入る作品ではなかったのだけれど、『ミッション・インポッシブル:デッドレコニング PART ONE』を観たときに似たような感慨が蘇ったことを憶えている。まるでプロットの体をなしていないストーリー。アクションのために用意されたアクション。陰に隠されてもなければ狡く謀られてもいない陰謀。事前に何度も予告編で見せられて味のしなくなった断崖絶壁からの全力バイクフリーフォール。80年代から一ミリも進んでないAIの未来像。いやただだがしかし、そこには身体があって動きがあった。それが映画で、絶体絶命に見えるシーンも絶体絶命でないとわかっているはずなのに、危ない! トム・クルーズ! とハラハラする瞬間が何度もあり、あるいはそうした錯覚すらなくても、ただなにかこみあげてくる興奮があった。

6.『イニシェリン島の精霊』(マーティン・マクドナー監督、英国)


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さびしい田舎の島に男がふたりいて、なぜか喧嘩をする。それだけなのが、べらぼうにおもしろい。なぜならこれも貫かれているから。

7.『マイ・エレメント』(ピーター・ソーン監督、アメリカ)


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良いとか悪いとかではなく、いや、スタジオとしてははっきりマイナスなのだろうけれど、ピクサー/ディズニーのスタイルはもはや古い類型の物語(ディズニー的な類型の物語、という意味では必ずしもない)の語り直しにしか向いていない。今のかれらは根本的に新しい型を作り出すようには教育されていないではないか、とさえおもってしまう。カルアーツはなにを教えているのだろう。で、そこらへんを開き直った『マイ・エレメント』は鮮やかなロマンティック・コメディだった。見てよ、あのポンヌフみたいな橋!

8.『ファースト・カウ』(ケリー・ライカート監督、アメリカ)


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このところ一年にひとりはかつて苦手だった監督が好きになる、というイベントが発生する。去年はそれが原田眞人の『ヘルドッグス』で起こった(新作の『BAD LANDS』も良かった)。今年はケリー・ライカートだ。ライヒャルトと呼ばれていた時代になんかジェシー・アイゼンバーグがダムを爆破? しようとする映画を観て、観てというか、画面が超絶暗くてなにもわからない、へたくそかな? としか思わなかった。さすがに『ウェンディ&ルーシー』はイヌがよいのでなんとかおもしろく観られたけれど、これがアメリカインディペンデント映画界の希望の星とはずいぶん暗い未来だな、と内心考えていたものだ。いやあ、でもね、映画館で観たら、よかったんですよ。ライカート。映画館向きの暗さだったんですね。
本作も、セットアップは西部劇なのに主人公たちが成り上がっていく手段が撃ち合いでも黄金でも列車強盗でもなく、揚げ菓子だというのがいい。しかもその菓子を売るシーンがまあ暗色めいて汚らしくて菓子自体もそんな映えないのに、めちゃくちゃうまそうに見えるのがすごい。牛? ああ、牛はいいよ。最高ですね。イヌもいいですね。過去を掘り出す存在としてのイヌ。最新作と『ショーイング・アップ』をふせて観れば、ズレていたふたりが最後に並ぶようになる系映画のひとだとわかる。山田尚子もやっと来年新作ですね。

9.『北極百貨店のコンシェルジュさん』(板津匡覧監督、日本)


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デパートを舞台にしたあらゆる物語は『ラッキー嬢ちゃんのあたらしい仕事』に憧れる。その呪縛は原作のころから『北極百貨店のコンシェルジュさん』には現れていた。そして、映画にはその憧れがさらに濃く出ている。映画版の追加要素である、デパートについての歌から始まるオープニング、縦方向のアクション……なにより、どこまでも軽やかで朗らかな身振り。そして、タッチ。
西村ツチカは硬い作家である。その生真面目さが原作の良いところでもあり悪いところでもあった。映画版もまた映画版なりの良さと悪さがつきまとう。よく褒められる脚色も、90分の一連の体験としてはおさまりがよいはよいのだけれど、扱っているテーマからさらに離れてしまっている。
それでもこの作品がブレないのはアニメーションの最大の長所、すなわち現実の重力からの自由さがあらゆるレベルにおいて実現されているからだ。

10.『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』(ダニエルズ監督、アメリカ)


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いやしくも多少なりとも映画を観ている人間であれば、『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』などいうキッチュで美意識にも政治意識にも欠ける(にもかかわらずそのどちらも具えているかのようにふるまう)作品を全面的に称賛するなどあってはならない、という風潮がある、という妄想がわたしを支配していて、だからこの作品は今年のベスト5なら5位に、ベスト10なら10位に、ベスト15なら15位にかならずランクインする。正義は果たされなければならない。『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』は薄暗い映画館内での2時間の約束を遂げてくれた。わたしたちも義務を履行しなければいけない。
なので、この作品が2023年に日本で公開された事実を残しておかねばならない。

裏ベスト10

11.『Pearl/パール』(タイ・ウエスト監督)

アメリカンドリームが崩壊していくさまを描いた作品は例外なく良いものだ。これもまたキッチュな信仰をもってしまった人の話で、しかしベネデッタとは違ってパールは、前作を観ているひとなら最初からわかってるように、オーディションに合格することはない。彼女は映画が始まったときから怪物だった。だから、夢を持ったこと自体がはじめから間違いだった。それでも夢は見てしまう。凡人から怪物にまで平等に配布される夢見る権利、それがアメリカンドリームの残酷さだ。破られ折られ壊されつくしてもなお、夢を貫こうとした人間はどうなるのか。それがこの映画と前作の『X』では描かれる。

11.『スパイダーマン:アクロス・ザ・スパイダーバース』(ホアキンドス・サントス&ケンプ・パワーズジャスティン・K・トンプソン監督、アメリカ)

ひたすら目にやさしくない。『オオカミの家』とは別の形態の夢。

12.『イノセンツ』(エスキル・フォクト監督、ノルウェースウェーデンデンマークフィンランド

これとか『怪物』とか、あまりに子役の扱いがうますぎる映画ばかり摂取していると、たとえばある映画の序盤などを観せられたときに、「子役だなあ」と当たり前の事実に白けてしまうようになってしまう。よくないね。

13.『ボーンズ・アンド・オール』(ルカ・グァダニーノ監督、アメリカ)

両足の脛の部分が破れたジーンズ(超絶ダサい)から骸骨のように覗いたティモシー・シャラメの脚。

14.『ザ・キラー』(デイヴィッド・フィンチャー監督、アメリカ)

どこかポンコツマイケル・ファスベンダーがひたすらカッコつけているだけ、という週刊少年サンデーにでも連載されてそうなギャグまんが風味を楽しむシットコム映画。もちろん、ハーゲンダッツを食べたがるティルダ・スウィントンも抜群に良い。

15.『エリザベート1878』(マリー・クロイツァー監督、オーストリア

今年は特に邦画で水の話なのに水の扱いが非常に雑な作品が多くてイライラさせられたのだけれど、その点『エリザベート
1878』はなぜそこに水があるのか、なぜその人に水を重ねるのか、を惰性ではなく常に自問して考え抜いた上で水を用いていて良かった。

16.『フェイブルマンズ』(スティーブン・スピルバーグ監督、アメリカ)

映画論映画としては最上級なのだけれど、スピルバーグに期待される快楽がやや削がれている。

17.『EO』(イェジー・スコリモフスキ監督、ポーランド・イタリア)

動物映画枠。

18.『ジョン・ウィック:コンセクエンス』(チャド・スタエルスキ監督、アメリカ)

象徴的なキャラクターを中心に据えたシリーズものというのは、再演されるたびに壊れていくカラクリ人形劇のようなもので、4を超えるとあとはどう壊れていくかの仕方の問題になってくる。ジョン・ウィックの壊れ方は理想的だ。

19.『BAD LANDS』(原田眞人監督、日本)

とにかく、冒頭のオレオレ詐欺の受け渡しをめぐる攻防につきる。

20.『ロー・タイド』(ケビン・マクマリン監督、アメリカ)

サイズ感と予算感に対して無理しない範囲ですべてを詰め込んで丁寧にしあげた青春クライムドラマの佳品。こういう端正さに出会うと、嬉しくなってしまう。ちなみにマクマリン監督は『メイド・イン・アビス』の脚色を担当しているらしい。悪くない人選では?


あとは『ロスト・フライト』、『SEARCH 2』、『クライムズ・オブ・ザ・フューチャー』、『マッドゴッド』、『ヒトラーのための虐殺会議』、『アステロイド・シティ』、『ナチスが仕掛けたチェスゲーム』、『聖なる証』、『HUNT』、『PERFECT DAYS』、『HUNT』、『ミュータント・タートルズ:ミュータント・パニック!』、『ファルコン・レイク』あたりもおもしろかったです。

アニメーションのトップ10

『オオカミの家』
『マイ・エレメント』
スパイダーマン:アクロス・ザ・スパイダーバース』
長ぐつをはいたネコと9つの命』
『マッド・ゴッド』
「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・スタジオ」
『窓際のトットちゃん』
ミュータント・タートルズ ミュータント・パニック!』
『駒田蒸留所へようこそ』
『マルセル 靴をはいたちいさな貝』


イヌ映画オブジイヤー

★『ジョン・ウィック:コンセクエンス』
 『レッド・ロケット』
 『ザ・キラー』
 『エリザベート1878』
 『ノースマン 導かれし復讐者』
 『窓際のトットちゃん』
 『ファースト・カウ』
 『長ぐつをはいたネコと9つの命』
 『スラム・ドッグス』
 『イニシェリン島の精霊』
特別賞:『ガンサーの相続金』

ドラマ

『サクセッション』と『BARRY』の年

きっと、星のせいじゃない。――映画『ウィッシュ』について



星に願いをかけるときは
あなたが誰でも関係ない
心に浮かんだ望みはなんだって
きっといつか叶うでしょう


――When You wish upon a Star



 とすれば、ブルータス、罪は星にあるのではない、われわれ自身にあるのだ。


 シェイクスピア福田恆存・訳『ジュリアス・シーザー新潮文庫


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星に願いを

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ヒトラーも口笛を吹くのが好きだった。
なかでも「星に願いを」はディズニーアニメのファンでもあった彼の十八番でもあり、パリを征服したさいにはシャイヨー宮で市街を見下ろしながらこの曲を吹いたという。*1
一方でもう一人の独裁者であるところのウォルト・ディズニーは当初この曲にやや懐疑的だったらしい。が、1940年にリリースされて世界的なヒットナンバーになるや『ピノキオ』の枠を飛び出してディズニーコンテンツのいたるところで使用されるようになり、いまや映画鑑賞前に流れるディズニーのロゴアニメでもBGMとしてもおなじみだ。もはやディズニー全体のテーマソングといっても過言ではない。


それはつまり、「願い Wish」がディズニー長編アニメ―ション全体を貫くテーマだったからだ。それは同時にディズニーを最もアメリカ的にしている要素でもある。願い、叶えること。アメリカン・ドリームという名の宗教の骨子だ。


思い起こせば、ディズニー長編の第一作である『白雪姫』でも白雪姫の登場は「願い」を掛ける歌から始まっていた。
白雪姫が森の動物たちに話しかけながら、「私の秘密よ。誰にも言わないと約束してね」といって、井戸の底に向かって「I’m wishing…」と歌い出す。以降、ゼペットじいさんは木の人形であるピノキオに「本物の人間になってほしい」と願い、ダンボの母親は子どもがほしいと願い、シンデレラは舞踏会に出ることを願った。時代を経ても欲望(desire)することはなお肯定されつづけ、アリエルは脚を得て王子様に再会したいと願い、ラプンツェルは魔女によって閉じ込められた塔から脱出することを願い、ラルフはもう悪役でいたくないと願い、エルサは……エルサがなにを願ったのかはみんな知ってるし、みんな歌えるはずだ。

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そんなディズニーが百周年記念作として、そのものズバリ『ウィッシュ』というタイトルの映画を作る。
期待しないほうがどうかしている。
ディズニーの総決算的な内容になるのは間違いなく、クラシックでいて、それでいて新しいなにかを提示してくれるに違いない。そう思っていた。いや、願っていた。
その願いは予告編を見ても変わらなかった。
まるで『Borderlands』の(それも1くらいの)ようなトゥーン風のチープなルックを見せられて、それを「『白雪姫』などに立ち戻った水彩画風のタッチだ」などと主張されても、変わらなかった。
先に公開された海外の方から悪評が漏れ聞こえてきても変わらなかった。結局のところ、Rotten Tomatoes などの支持率にしたって主に英米映画批評家たちに好まれる割合を示しているにすぎず、個別のレビュー本文を読めばその英米の批評家たちがいかに信用ならない存在かはすぐにわかる。しょせんは『ロビン・フッド』も『ブラザー・ベア』も『グーフィー・ムービー』もろくに評価できなかったやつらなんですよ。
私はことディズニーアニメに関しては自分で観たものしか信じない。
12月15日の金曜日、私はそれを自分の眼で観た。
そうして、私たちの生まれたこの星の下では、祈りも願いも叶わないのだと思い知った。

『白雪姫』(1937年)より

『ウィッシュ』のオープニングは美麗に装丁された写本が開かれ、物語のあらましが語られるところから始まる。
これは『白雪姫』から始まって長いあいだ、特にプリンセスもので使われていたディズニーアニメの導入の作法である*2。一種の決意表明と見ていい。「これから始まるのはクラシックオマージュの映画ですよ」という。
だが、実際に展開されるのはテイストもソウルもないアニメーションと、100以上にも及ぶ(と制作者は語っている)オマージュという名のただのイースターエッグの乱発だ。
ダメなところは、そうですね、つらつら挙げれば仕込まれたイースターエッグの数以上に出てくるけれど、とりあえずはテーマである「願い」にフォーカスしよう。


舞台となるロサス王国は地中海のどこかに位置する島。そこを治めるマグニフィコ王はあらゆる魔術を修得した偉大なる魔法使いで、18歳以上の国民全員の「願い」を預かり、月に一度、儀式を開いてその願いを叶えてあげていた。
母親と100歳になる祖父*3と同居する少女アーシャは、老い先短い祖父の願いが叶うように祈りつつ、敬愛するマグニフィコ王の弟子となるべく、王城で働く七人の個性的な友人*4の力を借りて面接の準備を進めていた。
ところが実際に王と面会したアーシャは、そこでひとびとの「願い」がどのように扱われているかを知る。マグニフィコは国を平和に治めるためという建前で叶えるべき願いを恣意的に選別しており、「音楽の力でみんなで良い関わりをもちたい」というアーシャの祖父の願いを「反乱の種」とみなして永遠に叶えるつもりはないと断言する。アーシャは叶えるつもりがないのなら、せめてその「願い」をひとびとのもとに返すように説得する。「願い」を抜き取られたひとびとは自分の「願い」を忘れてしまうのだ。それを思い出させてあげてほしい、とアーシャは王に懇願するが、王はにべにもなく拒絶。面接も大失敗に終わる。
「願い」の真実にショックを受けたアーシャは「みなの願いを叶えたい」という願いに目覚め、夜空にそれを祈る。
すると、星のカービィ……じゃなかった、伝説のスタフィー……でもなかった、星の形をした精霊? スターが落ちてきて、その不思議な力で動物を喋らせるようにしたり*5、ニワトリを巨大化させたりする。その魔法を王からみんなの「願い」を取り戻すのに使えるかも、と思いついたアーシャはスターをつれて王城に潜入しようとするが……というのが最初の三十分からそこらくらいまでのお話。


願いという観点から眺めた場合、主人公であるアーシャの願いの在りかたは、ディズニー長編アニメのなかではわりと異質だ。
物語開始時点では、特段なにか強い願いを抱いているわけではない。おじいちゃんの夢が叶うといいなあ、とか、マグニフィコ王の弟子になれたらいいなあ、とか(傍から見てると)漠然と考えているだけ。
ディズニー長編、特にプリンセスものはだいたい主人公に強烈な欠如感とそれに基づく願望があって、それが物語を推進していく原動力となるのだけれど、アーシャにはそうした差し迫った欠如がない。だから、願望もない。
代わりにあるのは他者に対するいたわりの心だ。彼女は、さきほど言ったとおり漠然としているとはいえ、祖父の「願い」が叶ってほしいと真摯に考えているし、「願い」の真実を知ったあとも王城で触れたひとびとの「願い」に感銘を受けてそれらの願いが叶ってほしいと強く祈るようになる。そして、それがスターという魔法を呼び寄せる。
それがやがて、他者との連帯につながり、革命の物語へと発展していくわけなのだけれど、ひとまずは措いておこう。

ミュージカルとしての『ウィッシュ』

ところで、『ウィッシュ』はミュージカル作品でもある。前に述べたように『白雪姫』が歌から始まっていた歴史を踏まえると、オーセンティックさ(いやなことばだ)をアピールするためにこのジャンルを選んだのは必然であったように思われる。
そう、ディズニーにおける「願い」は歌とともにあった。
特にディズニー・ルネサンス期と呼ばれる『リトル・マーメイド』以降の作品群では、ハワード・アッシュマンらの取り入れたブロードウェイ・ミュージカルの手法、すなわち主人公に秘められた欲望を歌を通じて観客に吐露することでそのキャラクターと物語の目的を鮮烈に示した。*6
このようなミュージカルのストーリーテリングにはある前提が必要となってくる。
つまり、歌い上げられるべき「願い」は秘められたものではなくてはいけない、という前提だ。
オペラなどとは異なり、ミュージカルではセリフと歌は分離されている。よく批判的な文脈で言われる*7「ミュージカルって突然歌い出すから苦手」というのも、普通に喋るセリフから突然会話としてはふさわしくない歌の世界へ移行するからで、ここでは現実的なレイヤーから空想的なレイヤーのジャンプが生じる。この飛躍をミュージカル苦手勢は違和感として捉え、ミュージカル好きな人はファンタスティックな感覚として好ましく感じる。*8


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抑圧されているからこそ「願い」は歌のレイヤー(=ここではない世界)で高らかに響くものであり、むしろそのような飛躍がないならミュージカルにする意味がない。
してみると、アーシャはどうだろう。彼女は特に秘密の願望を持っていない。強いていえば途中から王に隠れてレジスタンスとして活動することが秘密といえば秘密であるのだけれど、地下活動はあくまで手段にすぎず、その背後には「みんなの願いを叶えてあげたい」という目的がある。そして、その目的は特に秘されていない。
アーシャが星空に歌い上げる本作の主題歌「This Wish」は、曲単体では比較的良いほうなのだけれども、歌詞の内容的には「みんなの願いを叶えてあげたい」とついさっき持ったばかりの決意を*9特にひねりもなく歌い上げているにすぎない。そこには蓋されてきた感情が噴き上げる勢いがない。彼女は「願い」を歌うには、あまりにもキャラクターに内蔵されたバネが足りない。*10


とはいえ、ミュージカル映画のすばらしさは、時に「主人公は抑圧されていなければならない」というそれ自体理屈っぽい抑圧*11さえ歌声と映像のパワーで吹き飛ばせるところだ。しかしまあこの点でもなんというか、弱い。
ルネサンス期のディズニーのミュージカルではただブロードウェイ直輸入に徹するのではなく、映画的な手法やアニメーション的な誇張も多分に用いられていた。先日、テレビ放送で話題を呼んだ『ノートルダムの鐘』のオープニングでは、語り部である人形遣いの語りがそのまま過去のキャラクターの声へスライドしていくという手法が使われているし、厳密にはミュージカルではないのだが『ターザン』のオープニングではフィル・コリンズの「Two Worlds」に乗せて人間の家族とゴリラの家族をクロスカット見せていって最後にそのふたつが合流する、という演出で盛り上げてくれる。


キャラクターたち3Dの身体を持ってややアニメーション的な誇張が使いづらくなって以降も、ラプンツェルやエルサは彼女たち自身の躍動感と(時には文字通りの意味での)魔法によって、耳だけではなく眼も愉しませてくれた。
ところが『ウィッシュ』では映画的な、あるいはアニメーション的な映像のマジックがさほど信じられていないように思われる。
劇中歌のそれぞれの曲調や場面ごとのトーンはあるにしても、基本的には暗めの画面でキャラがうろうろしているだけだ*12。喋れるようになった動物たちが乱れ狂う「I’m A Star」や、地下レジスタンスたちが団結する「Knowing what I know now」がわずかにグルーヴを感じられる程度だろうか。
どの曲もそれなりに良くはあるのだけれど、既視感も強いし、どこかで突き抜けるものがない。まあ個人の感想です。

「願い」を独占している悪とは誰か

そもそも、人々固有の「願い」を吸い上げて独占するヴィラン、というのもなんのつもりなのか。
一代で王国を築き上げたマグニフィコは、伝統的な王族というよりも大企業のエグゼクティブ的にふるまう。見た目はスマートだが、その裏に隠された本性は傲慢で、気ままで独善的。道徳心も薄く、自分の思いついたことは誰のいうことも聞き入れず実行しようとする。妻である王妃のことも軽んじる。昔とは形を変えた家父長制のメタファーのようでもあり、そういう意味では現代的な悪役なのだろう。「愚民どもはいつも努力もせず、他人に自分の夢を託して怠けようとする」とはいかにもこの時代の成功者がとりそうな態度だ。そうだね、イーロン、あんたのことだ*13。月イチで行われる「願い」を叶える儀式がIT企業の製品お披露目会みたいなのも印象的だ。*14
そんな彼がひとびとの「願い」を吸い上げて王城でほぼ飼い殺しにしている。この「願い」をマグニフィコは何度も My Wish と呼び、所有権を主張する。なぜ管理しているかは説明ゼリフが多い本作のわりになんだかぼんやりしているのだが、どうもひとびとの「願い」が自分にはアンコントローラブルなのに耐えられず、どこかで支配からの逸脱を目論んでいるのではないかと不安になっているらしい。彼が叶えてあげる「願い」は「王様に尽くす騎士になりたい」とか「王国のために美しいドレスを織りたい」とか、王国=自分の利益になるものばかり。


他人の頭から生まれた「願い」を搾取してその権利を強硬に主張する悪人。
どこかで聞いた話だ。どこか。
ディズニーである。
slash filmの記事で指摘されているように、ディズニーは「マーベル・スタジオからルーカス・フィルム、ナショナル・ジオグラフィック、FOX、ESPN*15まで買い上げ」、文字通りの王国を作り上げた。そして、マーベルやスター・ウォーズといった他人の夢を自分の物として無尽蔵にコンテンツに作り続けている。
一方で、自らの所有する知的財産権については異常なまでに過保護*16で、特に著作権の保護期間を延長する法律は「ミッキーマウス保護法」として悪名高い。
なにより、ディズニー長編アニメーション自体の他人の夢で出来ている。
『白雪姫』や『眠れる森の美女』はおとぎ話の再話であるし、『ピノキオ』や『バンビ』や『くまのプーさん』などは明確に、しかも制作年からわりと近い時代に原作がある。ディズニーはそうした原作たちをそのときなりの思想に合わせて改変し、たいがいの場合は原作ファンから顰蹙を買った*17
しかし、われわれが今プーさんといわれて思い浮かべるのはフランク・トーマスの描いたプーさんであって、原作の挿絵担当であるE・H・シェパードのあの人形感のつよいプーさんではない。同様に『不思議の国のアリス』といえば青と白のエプロンドレスに身を包んだ金髪碧眼の少女であり、『美女と野獣』といえば黄金のドレスと水牛のような野獣の顔だ。
2000年代以降にオリジナル色が強くなってからも、過去に築き上げたIPは存分に利用してきた。
そんなディズニーがなんと呼ばれてきたか。「魔法の王国(Magic Kingdom)」だ。


本作はひとびとの「願い」を占有する「魔法の王国」を悪だと断罪する。
いってみれば、自己批判的な映画に見えるわけだ。
もちろん、アニメ映画というのは長期間にわたって非常に多くの人間の意図や意志が混じるので、その物語がどういった方向性のもとで書かれたのかを言い表すことは難しい。ただ、出力されたものを見れば、これはディズニーによるディズニー批判の映画に見える。
これを、普段は経営に口を出せずに労働力を搾取されつづけているディズニーの現場のアニメーターたち(の、あるいは集合的無意識)による勇気ある告発と称賛しようとおもえばできる。
できはするのだが、仮にそうだったところで、なんなのか。
ディズニーは依然として他人の「願い」や夢から富を生み出し続けているし、これからもそうしていくだろう。
なんとなれば、これまでのディズニーは富と共に夢や喜びも観客に与えてきた。
それは下敷きになるなにかがあったにしろ、たしかに確固たる世界を構築しつづけてきたからだ。
『ウィッシュ』は原作ものではなく、近年強まってきた異国文化フィーチャー感(悪く言えば”文化盗用”)も比較的弱い*18。そのせいなのかどうか、自分たちで美術の良さを謳うわりにはビジュアル的にも物語的にもスカスカで、クライマックスのそれ自体は正しく感動的なメッセージがうつろに響く。
ディズニー百年の歴史に対するオマージュとして作られたこの映画には、メタ的な寓意しかない。
ファンタジーを軽んじるものは、ファンタジーは寓意さえあれば成立すると考えがちだ。
違う。
たとえ寓意を重要視するとしても、ファンタジーであるなら、いや、物語であるならばそれを支える真剣さや一貫性や社会性や秩序や細部や人間性やルールや複雑さを欠いてはならない。つまりは世界がなくてはいけない。アーシュラ・K・ル・グィンで「真のファンタジーは寓意物語ではない。アレゴリ―とファンタジーは重なり合う場合がある」*19と述べたように。
「願い」や祈りが大事というのなら、信じるに値する世界を描き出そうとする努力、それ自体が重要な「願い」であるはずだった。
だが、そうした「願い」の代わりに本作にあるものは?
この十年、ディズニーがアニメにかぎらず超大作でやってきたことと同じ、100を超える大量のイースターエッグだ。ただ甘いだけで、何の栄養にもならない卵。
この卵を割っても未来は出てこない。
なぜなら、一つ残らず、腐りきっているから。

*1:Michael Spitzer, ‘The Musical Human: A History of Life on Earth’, 2021 →『音楽の人類史―発展と伝播の8億年の物語』原書房

*2:この手のオープニングが作品での私のお気に入りは『眠れる森の美女』。メアリー・ブレアの配色センスが炸裂しまくっているのがよい。例外的だが『ロビン・フッド』もすばらしい

*3:これが百周年を迎えるディズニーと重ね合わされているとするなら……最悪だ。

*4:明確に『白雪姫』の七人のこびとのオマージュ

*5:もちろん「プリンセスは動物と通じあえる」というディズニー八十年の伝統に則っている

*6:谷口昭弘『ディズニー・ミュージック 〜ディズニー映画 音楽の秘密』スタイルノー

*7:元はタモリだとか

*8:ミュージカルがなぜ「突然歌い出す」ようになったかについては宮本直美の『ミュージカルの歴史』(中公新書)がお手軽で詳しい

*9:家族から拒まれ、社会的にも抹殺されそうという抑圧はあるにしても

*10:いちおう悪役であるマグニフィコにも歌が用意されていて、そちらはたしかに国民には見せない彼の欲深さをナルシシズムを吐露しているのだが、こちらもなんというか、『リトル・マーメイド』のアーシュラや『ライオンキング』のスカーほどに良くはない。共犯者や部下がおらず、孤独なせいだろうか。

*11:ディズニープリンセスたちが抑圧的な状況下に押し込められる事の必要性の是非は何度でも問い直されるべきだろう

*12:いちおう歩くだけにしても演出の意図は見えていて、たとえば This Wish ではどんぞこな気分を味わっているアーシャが自分の願いと決意に気づき始めるにつれ、階段を登ったりして「アガって」いき、最後には空を見上げる。キャラの気持ちと歌と映画をシンクロさせようとはしている。

*13:見た目がスマートかはおいといて。むしろ『サクセッション』の終盤に出てきたアレクサンダー・スカルスガルドに近いのかも

*14:そういえば、一時期の海外アニメSF映画ではジョブスみたいな悪役が多かった

*15:スポーツ報道専門チャンネル

*16:もっともよくネットで本気半分でネタにされているように、ちょっとミッキーマウスを小馬鹿にするミーム画像を作るくらいではディズニーは怒らない。それで火遊びしているつもりのひとびとを見るたび、私はネットの卑しさを思わずにはいられない。

*17:たとえば、『バンビ』についてはルグィンの『ファンタジーにできること』河出文庫などに目を通すとよい

*18:地中海っぽさでいえば実写版『リトル・マーメイド』のほうが強く匂う

*19:「批評家たち、怪物たち、ファンタジーの紡ぎ手たち」谷垣暁美・訳