名馬であれば馬のうち

読書、映画、ゲーム、その他。


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足場から足場へ。:『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』について



スーパーマリオやろうぜ」エリックがなだめるように言う。
 ぼくはかぶりを振る。
「あれはフェイクすぎる」
「裏にバスケのコートがあるじゃんか。ちょっとシュートでもしようぜ」
 ぼくはかぶりを振る。
 あれはリアルすぎる、とぼくは思う。


 ――マイケル・W・クルーン、武藤陽生・訳『ゲームライフ ぼくは黎明期のゲームに大事なことを教わった』みすず書房




 ぼくは今、いつ死んでしまうかわからないリアルなハーフライフです。


 ――いとうせいこうノーライフキング河出文庫





『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』。

日々、映画のリッチさへと接近しつつあるビデオゲームの画面*1に対し、映画の側が繰り出してきた一つの回答がここにはある。


Q. 映画がリッチなゲームに勝つにはどうすればよいか?
A. さらなるリッチな画面を出せばよい。


たしかに、先月で六歳(人間でいえば六十歳)を迎えた Nintendo Switch のスペックでは到底およびもつかないような精細で豊穣な世界がそこに描出されていた。
ヴィヴィッドな赤色のキノコが林立するキノコ王国は、60年代のヒッピーが見る幻覚のようなピースフルさに満ちている。大量に出演するモブ(ザコ敵)たちにはそれぞれおちゃめな個性が付与されていて、知り合うだけでも愉しい。*2

なによりマリオ自身のモデリングの精巧さ。

ゲームに忠実でありつつも、映画独自のたるっとした風味がさりげなくしかし効果的にブレンドされ、『シュガー・ラッシュ』のお菓子の世界にもまけないスウィートなゲーム世界に実にマッチした愛嬌に仕上がっている。
ご尊顔はもちろん、トレードマークである帽子にも気を配られていて、カメラが帽子に寄ると生地の質感まで伝わる。
セガとパラマウントが『ソニック・ザ・ムービー』でやらかして、後にディズニーに『チップとデールの大作戦 レスキュー・レンジャーズ』でコスられまくったあの大失態は、業界に深い教訓を残したようだ。そこは子供向けアニメ映画の太陽王、イルミネーション・スタジオの仕事、外さない。*3
奇妙なことに、かぎりなくCG的に既存の造形をブラッシュアップしたマリオはフィクションっぽさが突き抜けていっそリアルに感じられる。なんというか、「このマリオ」は本物な感じがするのだ。われわれはふつうフィクショナルな人物を「リアルだ」というときには、そのキャラに肉や炭素を与えられたような感覚でいうけれど、「このマリオ」はまったく別の原子や細胞で構築されているような感じがする。
そんな別次元にあるようなリアリティ。





だからこそ、というか。
映画を観れば観るほど、マリオの顔に視線をそそげばそそぐほど、ある問いが頭のなかにもたげてくる。それはマリオと初めて出会ったときからぼんやり抱いていて、いまだに解決されていないわたしの文化的ミレニアム懸賞問題だ。


Q. そもそも、このおっさんは……なんなの?


見た目は完全に小太りの中年だ。かわいくもかっこよくもない。すくなくとも、今現在の世間でかわいいとかかっこいいとかいわれる世界的キャラクターの規範からは外れている。
そんなおっさんが世界的なキャラクター、それもポパイやホーマー・シンプソンのようなバッドアス中年とは違ってミッキーマウスと並ぶ子ども向けの良心的なマスコットとして君臨している。

そうだ。つい最近、ユニバーサルスタジオ・ジャパンへ行った。ちょうど任天堂が一区画を占領している時期で、お土産やさんではハリポタの魔法の杖*4に向けられるものと同じ熱量で老若男女がマリオのグッズに群がっていた。
そのとなりにはスヌーピーのグッズがやまほどあった*5というのに、みな永遠の生意気クソメガネと赤いヒゲのおっさんに日本銀行券を惜しまなかった。

考えれば考えるほど奇妙だ。
こんな存在をなんと呼べばよいのか。
彼は地元ブルックリンの住民たちに溶け込むにはファッションがヤンチャすぎるし、ファンタスティックなキノコ王国に溶け込むには人間でありすぎる。
このおっさんはどこに属しているのか。


脳内にマリオの顔が飽和しすぎてゲシュタルト崩壊を起こしつつあるわたしの混乱をよそに、映画は軽快に進んでいく。ブルックリンからキノコ王国へ跳び、クッパに囚われたルイージを救けだすべくドンキーコングたちの棲むジャングルへ。脚本はRPG的なおつかいクエストの作法すら外れて、イースターエッグとファンサのための祭典と化し、特に脈絡なくアーケード版『ドンキーコング*6や『マリオカート*7が矢継ぎ早にぶち込まれていく。舞台が変わるたびに色彩が変わっていき、マリオ自身も装いを変えつつ派手なアクションを繰り広げる。

多動症的に目移りしていく、一見すると連続していない世界。
すでに多数出ている海外の映評でディスられまくっている部分だ。
まあ、怒られるのもわかる。一貫性と世界観の統一は映画の基本中の基本だ。それを無視してドラッギーなタマゴをばらまきまくるのはシネアストの信義に反するのだろう。
だが、それはあくまで古典的な映画の信義だ。





マリオの原義とはなにか。

それは感動と驚きを誘うストーリー(いつものクッパとのドンパチ)でも、社会や人生について考えさせられる深遠なテーマ(とってつけたような父子テーマ*8)でも、ファン心をくすぐるイースターエッグの数々(胸焼けがする量)でも、繊細な音楽使い(使いどころが最悪なメジャーソング*9の連打)でもない。

『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』のタイトルのもとになった『スーパーマリオブラザーズ』は、プラットフォーム・アクション*10として生まれた。
プラットフォームとは足場を意味し、プラットフォーム・アクションのジャンルでは跳んだり跳ねたりのアクションを中心に足場から足場へと移っていく。

想像しづらいだろうか?
プラットフォーム・アクション・ゲームとはなにか? と問われた場合、こう説明すれば一発でわかってもらえる。:「『スーパーマリオ』みたいなゲームのことだよ」

スーパーマリオ』は最初のプラットフォーム・アクションでも最初のマリオのゲームでもなかったが、マリオとプラットフォーム・アクションの世間一般でのイメージを定義づけた。一時期には、それが「ビデオゲーム」そのもののイメージですらあった。
マリオはビデオゲームグルーチョ・マルクスであり、バスター・キートンであり*11チャップリンであり、そしてみなさん御存知の通り、ミッキーマウスだった。
まあそんな強引なアナロジーはともかく。


この足場から、あの足場へ飛び移れるか。
この点に注目すると、『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』は意外なほど「足場」の話をしている。
冒頭のブルックリンのマリオとルイージは転職&起業したてで自分たちの生活基盤に不安を覚えているし、最も安定的な足場と考えられている自らの家庭での居場所もグラついている。
そんな彼らが、現実世界のブルックリンからファンタジー異世界であるキノコ王国へ”ジャンプ”する。しかし、マリオが平穏なキノコ王国へ跳んでうるわしのピーチ姫と出会えた一方で、不運なルイージクッパの支配する暗黒地域に跳んでしまい牢獄にぶちこまれる。一歩間違うだけで、天国と地獄。これもまたプラットフォーム・ゲームの暗喩だ。
そして、マリオ自身の運命を占う重要な場面になると、「足場」はメタファーではなくそのものとして現れてくる。ドンキーコングとの決闘の場面は不安定な細い足場上での戦いであるし、その後にふたりが巻き込まれる災難も「足場」の崩壊から始まる。
さらにいえば、ルイージたちが囚われているマグマの監獄が象徴しているように、マリオの世界では「足場」を失うことはイコール死なのだ。
そして、彼らは劇中で何度も死んでいるはずなのに、死なない。

どんどん装いを変えていく景色とマリオの姿は、わたしたちが遊んできたマリオのゲーム体験そのものでもある。マリオがステージからステージへ、エリアからエリアへ跳ぶたびに世界は顔を変え、マリオも大きくなったり縮んだり、タヌキになったり、ネコになったりする。世界と彼の変化に論理的な脈絡などないが、それでもつながっている。
プラットフォーム・アクションにおける「足場」はそれぞれ切断されているのだ。世界もまたそうであるほうが理にかなってはいないか?

マリオというフランチャイズ自体も脈絡がない。
任天堂の公式設定では配管工ということになっている。
映画版ではブルックリン在住のイタリア系アメリカ人の配管工ということにもなっている。
ところが彼は作品によって医者になったりゴルファーになったりテニス選手になったりサッカー選手になったりレーサーになったりボクシングの審判になったりする。しかしマリオであることだけは揺るがない。


絶えず姿を変化させながら足場から足場へ、世界から世界へと飛び跳ねていく男、それこそがマリオだ。
どんな場所で、どんな姿で、どんなことをやっていても彼はこう叫ぶ。

「it's me, Mario」

これがマリオなのだ、と瞬間ごとに自らを定義する。

そんな存在を映画の世界でどう呼ぶか。

そうか。

やっとわかった。

マリオとは、スタァだ。





*1:ことここに至ってもゲームが映画の真似をしたってろくなことにならないとわたしの信仰は固まりつつある。『ラスト・オブ・アス』の達成よりも、『デス・ストランディング』の終盤の大惨事のほうをより深刻に捉えてしまう。

*2:結婚式のくだりは本作でも最良の部分だ

*3:そして、大抵の場合、イルミネーションの映画はど真ん中を捉えもしない。イルミネーションはいつもそうだ。『怪盗グルー』のフランチャイズは特にそうだ。時に興味深い方向に転がりそうなテーマに触れるのに、掘り下げない。踏み込まない。前回の『ミニオンズ』もそうだった。50点以下は出さないが、70点以上も出さない、そんな印象のスタジオだ。ああ? 『SING 2』のポーシャ? 彼女は女神だよ。

*4:5000円くらいするプラスチックの棒。赤外線機能がついているが、それを何に使うかについてはわたしに説明する気力はない。金で買える魔法もあるのだ、とだけいっておく。

*5:わたしには、ユニバーサルスタジオに行く度にスヌーピーのお菓子缶を買い、缶詰を集める習性がある。なぜそういった行動をとるのかは、残念ながら、現在の動物学ではわかっていない

*6:雰囲気はスマブラっぽい

*7:『マッド・マックス:怒りのデスロード』をやりたかった節が見受けられる

*8:誰がマリオに父親との相克を期待するだろうか。そもそもマリオに対して父親の存在すら期待していないのに。

*9:Take on Me が流れ出したときは「マジか……」という気持ちになった。

*10:ところでわたしは「プラットフォーマー」と呼ぶほうが好きだ

*11:バスター・キートンにヒゲはないが、マリオは常に彼のようなデッドパンに徹している。