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新潮クレスト・ブックス全レビュー〈5〉:『終わりの感覚』ジュリアン・バーンズ

『終わりの感覚』(The Sense of an Ending) 原・2011 訳・2012年12月 訳者・土屋政雄


終わりの感覚 (新潮クレスト・ブックス)

終わりの感覚 (新潮クレスト・ブックス)


 これまでの人生で二度だけジュリアン・バーンズの名を他人の口から聞いた経験があり、そのうちの一回は法月綸太郎だった。
 ある講演会*1で法月が『終わりの感覚』を「海外文学における本格マインドを持った作品」というふうに評していた、ように記憶している。法月なのでもう少し明晰なことばで語っていたのはずだけれど、記憶のみを頼りにしなければならない場合の引用の正確さにあまり自信がない。でも、それに続いたセリフのほうはよく覚えている。「ま、日本だと先に泡坂妻夫がやっていたんですけどね」
 泡坂妻夫ジュリアン・バーンズを同じ皿の上に乗せて語る贅沢をできる国は少ない。『終わりの感覚』が多少ミステリの側に「歩み寄った」作品*2であることや、法月がジョン・バースなどに強烈な影響を受けた作家であることを抜きにしても、だ。

 私たちは自分の人生を頻繁に語る。語るたび、あそこを手直しし、ここを飾り、そこをこっそり端折る。人生が長引くにつれ、私が語る「人生」に難癖をつける人は周囲に減り、「人生」が実は人生でなく、単に人生についての私の物語にすぎないことが忘れられていく。それは他人にも語るが、主として自分自身に語る物語だ。(p.117)
 


 本作は記憶と時間と物語についての物語に貫かれたホワイダニットの話だ。
 語り手のトニー(アントニー)・ウェブスターは人生も終わりにさしかかった老人で、おそらくは著者のバーンズとおなじ一九四六年生まれ。
 平凡な人生を過ぎ、平凡な余生を送るようになった彼のもとに、あるとき弁護士から妙な報せが届く。四十年も前に別れた昔の恋人ベロニカの母親が亡くなり、その彼女の遺言に「トニーに遺産を贈りたい」とあったのだ。
 別れたあとはほぼ一切連絡も取ってなかった昔の恋人の、しかも一度しか会っていない母親から? ますます妙なことにその遺産とは些少のお金、それとトニーの死んだ旧友エイドリアンの日記だという。
 トニーとエイドリアンは中学時代からの親友だったのだが、大学時代にトニーと別れたあとでベロニカの恋人となったのが原因で彼とも絶縁状態にあった。そして、その後間もなくしてエイドリアンは不可解な自殺を遂げていた。
 思慮深く誰もよりも知的だったエイドリアンを敬愛していたトニーは自殺の謎が隠されているかもしれない日記を読みたがる。ところが、ベロニカはなかなか日記を引き渡そうとはしない。往年の恋人とギクシャクした折衝を繰り返すうち、トニーはエイドリアン、ベロニカ、そして自分自身についての「真相」に触れる。


 トニーはいわゆる「信用できない語り手」という技法に当てはめられる主人公ではある。しかし、彼はある種のミステリ*3に見られる語り手のように、明確な意図をもって騙ろうとしているわけでも、認知が病的に歪んでいるためにそうなってしまうわけでもない。
 自分自身でいうようにあらゆる面において「平均的な」人物である彼は、凡庸であるがゆえに「信用できない」のだ。
 彼は継ぎ接ぎだらけの記憶から過去を再構成し、その過程においてある人物や瞬間については美化し、別の人物や瞬間については無意識の悪意でもって貶める。記憶が完全でないことを自覚しつつも、自分は自分の人生についてなんでも知っているのだとわかった気になっている。何も特別なことではなくて、誰しもにとっても日常的な営為だ。
 
 信用できるにしろできないにしろ、語り手に求められる資質とはなんだろう。おそらくそれは、雑多で間歇的な情報の山を整理し、空白を埋め、ひとつらなりの絵として語ることのできる能力なのだとおもう。物語化の才能、それと、その原動力となるわかりたがりの欲求
 自らの平凡さをくどいまでに自嘲するトニーは、実は探偵の才能というこの一点において卓抜している。たいして話したこともない他人をキャラクタナイズし、不確かな記憶をもとに自分の人生のイベントに意味付けを行い、伏線を回収し、自らの人格や人生を明瞭に定義できる。彼の才能は百八十ページ足らずの本作の緊密な構成にそのまま反映されてもいる。あらゆる要素が意味をもち、物語へ奉仕する。小説だ。
 そして、その小説家的唯才がトニーの陥穽となる。物語終盤、彼はベロニカからこんなことばをつきつけられる。「あなたはまだわかっていない。わかったためしがないし、これからもそう。わかろうとするのをもうやめて」
 輪郭のはっきりしないものをきちんと描こうとすると、どこかでウソをつくことにする。そこに探偵の失敗が生じ、後悔のタネになる。
 ミステリの解決編は事件が起こってしまった後にもたらされるものだ。事件発生以前には(すくなくとも読者は)盲人に等しく、名探偵は訳知り顔の奇人でしかない。悲劇は事件が出来した時点ではなくて、事件の真相が暴かれたときに起こる。隠されていた物語、犯人と被害者との関係が開示されて、だからこんなことになったのだ、と探偵は言う。結果が先に来てしまっているのだから、そこで「あのときあの人がああしておけばこんなことには」と悔やんでも意味がない。 
「悔恨の主たる特徴はもう何もできないことだ」とトニーは言う。彼自身はその言に抗おうとするけれども、事件は既に起こってしまった。やっとわかってみたところで、もう遅い。



The Sense of an Ending Official Trailer 1 (2017) - Michelle Dockery Movie
ちなみに今年映画化もされた。

*1:たぶん2013年12月の大谷大学での講演会

*2:バーンズはダン・カヴァナという別名義でミステリを書いてもいる

*3:ネタバレにつき