名馬であれば馬のうち

読書、映画、その他。


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あなたの人生を物語にする欲望――ミランダ・ジュライ『私を選んでくれるもの』(原2011→訳2015、岸本佐知子・訳)


 『ペニーセイバー』なる名前のロサンゼルス限定小冊子があって、そこに何なにを売ります買い手募集中的な広告を出すと欲しがる人から電話がかかってくる。今の時代インターネットですみそうなやりとりです。事実、アメリカにはその手の取引を一手に引き受ける『クレイグスリスト』*1という超大手ウェブサイトが存在していて、ちょっとでもキーボードを叩ける人間は『ペニーセイバー』のような前世紀の遺物をまず用いません。
 つまり、『ペニーセイバー』を利用する人間はネットを使えない人間、主にお年寄りにかぎられます。
 ミランダ・ジュライ、映画脚本の執筆に詰まるあまりインターネット中毒になりかけていた映画監督兼脚本家兼小説家兼パフォーマーはネタ探しも兼ねて『ペニーセイバー』の出品者たちにインタビューを試みます。

 同じくらいうっとうしいのを承知で、わたしは『ペニーセイバー』の売り手たちに「あなたはパソコンを使いますか?」としつこく質問しつづけた。ほとんどの場合答えはノーで、他については山ほど言うことのある売り手たちも、これについては、この不在については、語る言葉を持たなかった。もしかしたらわたしは、自分がいまいる場所ではパソコンは何の意味ももたないのだということを再確認したくて、そしてそのことのすばらしさを自分の中で補強したくて、その問いを発しているのかもしれなかった。もしかしたらわたしは、自分の感覚や想像力のおよぶ範囲が、世界の中のもう一つの世界、つまりインターネットによって知らず知らず狭められていくのを恐れていたのかもしれない。ネットの外にある物事は自分から遠くなり、かわりにネットの中のものすべてが痛いくらいに存在感を放っていた。顔も名前も知らない人たちのブログは毎日読まずにはいられないのに、すぐ近くにいる、でもネット上にはいない人たちは、立体感を失って、ペラペラのマンガみたいな存在になりかけていた。


p. 166-167


 新聞の投書欄にでも転がってそうな、陳腐なネット批判に見えます。が、ジュライのそれがヒッピー世代の子どもたちにありがちな素朴さに堕していないのは、彼女自身の狂的な作家としてのパラノイアがあるからです。バラバラに配置された事物や人間を物語として編集しようとする強烈なコントロール欲と類まれな感受性は、たいして個性的でも面白くもない移民や老人の人生をドラマティックに読み替えますし、どう見てもヤバい感じしかない人物の狂気*2をフラットに均して無害な老人たちの物語に組みこみます。
 自覚的に視野をトリミングしていく手管は『アフリカの日々』のときのディネセンにも似ていて、いやディネセンが見たいものしか書かなかったのに比べるとわりあいあけすけに見て書いているぶん、ジュライのほうが業が深い気もします。


 人生や事件そのものに意味や脈絡などなく、そこの解釈に筋を通すのは語り手や読み手の仕事です。ということは自然、ノンフィクショナルな物語にはどんなに客観的にあろうとしたところで語り手自身の物語が混入してしまうのは避けられません。
 で、あるのなら、最初から十二人分のインタビュー一冊分まるごと自分の物語としてひきうけてしまうジュライの態度のほうが誠実なのかもしれません。そうして、そういう誠実な業を背負った作家だけが、本書のクライマックスにあるような真にフィクションじみたドラマと出会えるのでしょう。
 あらゆる他者をおせっかいな共感性のもとに物語化してしまう人間とはあまりお友達になりたくないものですが、すくなくとも作家としては面白いに違いありません。

*1:ゴーン・ガール』にも出てきてたなそういえば

*2:足にGPSつけている犯罪者とかはまだわかりやすいほうで、たまたま記念写真を撮った映画女優とそっくりのマネキンを作り、自分の部屋に置いているマネキン配送業者などはジュライ自身明確な評価を下していませんが、どうみたってキモいし怖い