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尻のウサギが僕を呼んで:『ピーターラビット』の感想

Peter Rabbit, ウィル・グラック監督、米、2018)
(わりとネタバレを含みます)




映画『ピーターラビット』予告


野うさぎのふたつの身体

 さあ、ご紹介しましょう。彼こそがピーターラビット。わたしたちの物語のヒーローです。
 青いコートに身を包んだ若いウサギ……しかも、ノーパンのね。

映画『ピーターラビット』OPより

ズートピア』になくて『ピーターラビット』にあるものとは何でしょう?


 ずばり、お尻です。

 
 お尻なら最良のが『ズートピア』にもあったじゃないか。心あるひとならジュディがズートピア警察署に初出勤するシーンを想起しつつ、そう反駁なさるかもしれません。
 たしかにスパッツでかたどられたウサギ独特の官能的なヒップラインは、なるほど『ズートピア』における達成かもしれません。しかし、あなたがたは大事なことを忘れていらっしゃる。
 ジュディにしろ、その家族にしろ、みんなズボンを履いているのです。
 どういうことか。
 どういうことだ?

 つまり、生尻ではない、ということです。


ズートピア』世界のウサギたちは、シヴィライズドされた人間の現し身であり、彼ら彼女らは種族の長所である跳躍力を支える尻*1をみずから縛ることによって、文明社会の一員たりえています。社会で生きるということは社会の型にあわせてある程度自分たちの形を削ることなので、肉食動物たちが肉食を封じる一方で、草食動物も自らの「野生」を抑えているわけです。それがウサギたちのズボンに象徴されているのですね。

 かたや、イングランドが生んだ我らが愛されノーパン野郎、ピーターラビットはどうか。
 映画にも原作にも共通することですが、ピーターラビットは基本的にマクレガーさんの農園に押し入って栽培物を強奪する野菜泥棒です。といいますか、害獣です。
 重要なのは速度。ピーターたちは生尻をあらわにして飛び跳ねます。高度に知性化された上半身と野蛮な下半身。相反する傾向がひとつの肉体に宿っていることが、「上だけ衣服を羽織って下半身まるだし」という考えてみれば不思議なピーター一家のファッションに表出しているのでしょう。ただの露出狂ではないのです。
 
 映画序盤、老マクレガーの農園を襲撃(そう、まさに”襲撃”です)するピーター一家のシーンではお尻が強調されます。
 農園へ向かって四ツ足で駈けていくピーターたちを背後からとらえる画面は自然ウサギのお尻づくしになりますし、マクレガー家の柵もウサギたちの尻をちょくちょくひっかけます。
 極めつきは老マクレガーに対して攻勢をかける場面で、ピーターは露出した老マクレガーの半ケツにセイヨウニンジンをつっこむことで、一時的な「勝利」を得ます。ズボンに身を包んだ人間を「野生」のフィールドに引き込むことで勝つ。それが彼等のドクトリンです。*2
 

 ところが映画中盤から、今度は尻と正反対の部位が重要な意味を帯びてきます。頭です。


動物を追う、ゆえにわたしは(動物)である。

 
 ウサギがひたいをくっつけ合う行為は、劇中では「謝罪」と説明されます。
 ピーターたちにとって頭は相手と和解するための器官であり、ここでも野蛮なお尻と対比がなされているのですね。
 もっとも老マクレガーに変わってピーターと対峙することになった新マクレガー(ドーナル・グリーソン)とは、この「謝罪」がうまくいきません。
 というのも、マクレガーがピーターの敬慕するビア(ローズ・バーン)と恋仲になってしまうためで、恋とは縁遠いティーンウサギであるピーター*3も「やさしいお隣のおねえさん」であるビアを取られてしまうことに焦りと怒りをおぼえているのです。*4
 ピーターはマクレガーの寝起きするベッドにトラバサミをしかけ、やはりお尻を攻撃します。ですが、一方で、中盤以降からピーターたちのお尻はあまりフィーチャーされなくなる(ように見える)*5。ピーターはだんだん「野蛮」ではなくなっていくのです。
 その後、詳細は省きますが、なんやかんのあって、ピーターは情緒面でティーンエイジャー的な成長を見せ、マクレガーとも仲直りします。

 そうした点で、本作は知性ある野蛮人だったピーターが(父を殺し土地を奪った)文明と和解し、「人間的に」洗練されるまでの成長物語ともいえるわけです。
「動物を文明化して争いをなくす」という意味では『ズートピア』とほんのり似てるといえなくもない。


 劇中で最も印象的な「頭」の使用シーンは、ピーター、ビア、マクレガーの三者が決裂してしまったのち、ハロッズに復職したマクレガーをピーターが説得してビアのもとに連れ帰ろうとするくだりでしょう。
 ピーターたちを始めとした物語世界の動物たちは喋ることができるのですが、それは基本的に人間には通じないという設定です。マクレガーが農園にきたばかりのときも、袋に捕らえたピーターの従兄弟を掲げて周囲の野生動物たちに「おまえたちもこうなるぞ!」と脅迫するのですが、直後に「なんで俺は野生動物と話そうとしているんだ!」とセルフツッコミをします。
 では、人間と動物との言葉は通じないのか、といえばそういうわけでもなく、ハロッズを舞台にピーターたちが騒ぎを起こすシーンで、子どもにぬいぐるみと勘違いされたピーターの従兄弟が喋るウサギ人形のふりをします。

 つまり、劇中世界において、人間と動物は「コミュニケーションが通じるはずなのに互いに通じようとしない」関係なのです。

 ハロッズの再会シーンで、ピーターとの会話が成立すると気づいたマクレガーは「そりゃ喋れるだろうさ!(I knew you could talk!)」とうめきます。
 そして、これまでの悪事についてのピーターの全面謝罪を聞き、いっしょにビアのもとへ向います。そしてビアとも(やはり上半身を介した)コミュニケーションを通じて和解する。
 それまでピーターたちは暴力やいかにも動物っぽい媚態を通じてしかマクレガーがビアとコミュニケートしてこなかったわけですが、ラストに至ってようやく「対等な相手」として互いをリスペクトしあえる関係になるのです。
 外見で話が一切通じないと判断していた相手が実は対話可能な「人間」だった――一見おバカスラップスティックムービーに見える本作ですが、実は今日的なトピックを奥底に秘めたイイ話なんですね。


ピーターラビットのおはなし (ピーターラビットの絵本 1)

ピーターラビットのおはなし (ピーターラビットの絵本 1)

*1:兎肉ではもっとも美味な部位とされます

*2:ちなみに劇中でピーターたちが「先に僕たちがここに住んでいたのに、あとから人間が来てかってに占領した」という趣旨の発言および再現シーンが映ります。原作にはたしかなかったと思うのですが、「アングロサクソンが先住民を追い出してエンクロージャーする」構図は監督のウィル・グラックの出身国であるアメリカ合衆国の成り立ちを想起させます。ここにも(政治的にやや安直であるものの)「野生VS文明」の構図が仕込まれているのですね。

*3:監督のウィル・グラックのインタビューによると「ピーターはティーンエイジャーのイメージで、妹たちはトウィーン(八〜十二歳)くらいのイメージ」とのこと

*4:このあたりの感情の機微は劇中でピーターの口からすべてセリフでギャグっぽく説明される。親切設計です

*5:一度観ただけなのでもしかしたら勘違いかもしれない