ネメシュ・ラーズロー『サウルの息子』
絶滅収容所は、親衛隊が中心となって運営されていたが、その末端で働かされたのは、収容されたユダヤ人のなかから選ばれたユダヤ人特別労務班員であった。このユダヤ人特別労務班員(「ゾンダーコマンド」。行動部隊の下部単位の「特別行動隊」と同じドイツ語)は、ユダヤ人のガス殺が円滑に行われるよう巧みに誘導し、ガス殺後の遺体の片づけ処理を迅速に行うことを強制されていた。彼らもまた不必要となれば抹殺された。戦後、生き延びたとしても、ナチ親衛隊側の協力者としての烙印を捺され、隠れるように暮らすことになる。
(中略)
だが、こうした優遇を受けても、人体実験を含む「医療」に従事させられたユダヤ人医師ミクロス・ニスリは、「ユダヤ人特別労務班員が担わされた恐るべき任務は、自らの人格の放棄と想像を絶する絶望感によってはじめて行うことができた」と語っている。
多少の期間、生命を保障されたとはいえ、つねに仲間たちが死に追いやられるのを見るのは耐えられない重圧があった。奇跡的に生き残った後も、自殺に駆られたり廃人になった者も多かった。
はじまるとこれ以上ないくらいに死んだサウルの双眸と、彼のジャケットに大きく描かれた×マークが観客の目にとびこんでくる。そして、それから百二十分のあいだ、ずっとこの二つにつきあわされつづけることになる。死んだ目で見つめ続けられるうちに、観ているほうの心も死んでくる。いい意味で。
アウシュヴィッツ=ビルケナウ絶滅収容所。約一千百万名のヨーロッパ・ユダヤ人の「最終解決」を目指して建設されたこのナチ最大の絶滅収容所で、主人公のサウルはゾンダーコマンドとしての労務に従事している。
各地から送られてきた自分の同胞を、シャワー室と偽って毒ガス室へと導き、閉じこめ、待ち、ガス室を掃除し、回収した金品を選り分け、死体を運び出し、焼き、大量の骨灰をスコップで河へ捨てる。それを三ヶ月か四ヶ月ほど繰り返したのち、自分も殺される。
それは労働だろうか。黒田硫黄の『茄子』に「生きるために働くのであって、働くために生きるのではないだろ」という台詞があるけれど、順序がどうあれ働くことは生きることと結ばれる関係にある。死ぬために働く人間などいない。死ぬために働くのなら、それはもう人間ではない。
だが、1942年には、第二次大戦下の世界にはそういう式がありえた。人間でない人間が多く存在した。それは殺すほうも殺されるほうもおなじだった。ガス室とは、そもそもが虐殺の執行にあたる兵士たちの精神的な不安を軽減するために考案されたものだ。それまでは裸にひん剥いて、埋めるための穴の前に立たせて、ふたりがかりで後頭部と心臓を一発ずつ撃つ。それを何千人分も繰り返す。そんなんで、どうにかならない方がおかしい。
だから、虐殺対象であるユダヤ人たちを「部品」と呼び、人間でないように装った。サウルたちゾンダーコマンドのジャケットに書かれた×印もまた、非人間化処置のひとつだ。パンフレットによるとそれは脱走されたときのために狙う用の的、ということになっているのだが、映像としてこのマークが突きつけてくるメッセージはもっとシンプルかつ直截的。サウルは人間でないのだ。
そのサウルの死んだ目が、にわかに見開き輝く瞬間がいくつか訪れる。「息子」の死体に近づいたときだ。「息子」、とかぎかっこつきなのは、それが本当に息子であるかわからないからで、しかしサウルだけは固くそうだと信じている。無数の屍の山から息子のものと信じる死体を見出したそのとき、それまで予定された死の短い猶予期間でしかなかった生が意味をおびはじめる。この死体を、息子の死体をただしくユダヤ式に埋葬さえできれば、そうすれば――。結局のところ、そうしたところでなにがあるはずわけでもないのだが、サウルは囚人仲間が企てていた蜂起計画など脇目もふらず、ただ「息子を正しく埋葬する」という目的一点に向けてつきすすんでいく。
映画の感想サイトには「サウルは自分勝手なやつだ。自分の仲間の邪魔すらしている」と彼を非難する論調がすくなくない。道理だと思う。途中、どっからどうみてもサウルの自分勝手のせいで計画の重要な一部分が頓挫してしまう。
しかし、サウルは蜂起など、脱走などには興味はない。そこに彼の人間としての生はない。奪われた人間性を取り戻す、与えられた死への労働を生への冒険に塗り替える、そういう古典的なダイナミズムが内包されているからこそ、『サウルの息子』はエンターテイメントとして確実に面白い映画でもある。
劇中、ストーリーレベルで観客に""""圧"""""をかけつつ、初めからずーっとむっつりしてたおっさんが最後にカメラに向かってニコッと微笑むとそれだけでハッピーエンドに見える現象を『セッション』効果と名付けよう。
— nemanoc (@nemanoc) February 17, 2016
カレン・ラッセル『レモン畑の吸血鬼』
- 作者: カレン・ラッセル,松田青子
- 出版社/メーカー: 河出書房新社
- 発売日: 2016/01/26
- メディア: 単行本
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「お国のための糸繰り」でいきなり社会派なテーマを語りだしたな、と思ったら、「帰還兵」では物語をマニピュレートすることの罪悪に焦点をあてた、ちょっとした物語論小説みたいなものも展開される。見どころも文彩も非常に豊かな短編集です。
カレン・ラッセルの『レモン畑の吸血鬼』、ひとつだけ堀骨砕三みたいな設定の話があった。
— nemanoc (@nemanoc) 2016, 2月 21
@nemanoc 「お国のための糸繰り」という題名。明治初期に貧しい農家から製糸工場に売られてきた女工の話なんですが、その労働内容がエグい。連れてこられるとまず、変な茶を飲まされる。その茶には不思議な力があって、飲んだ人間は腸内で生糸を製造する蚕人間に変化する。
— nemanoc (@nemanoc) February 21, 2016
@nemanoc 蚕人間となった少女たちの体からは高品質な生糸が吹き出してくる。それを工場は搾取していくわけです。で、そんなキチガイじみた生活に耐えきれなくなった少女のひとりが、ある日キレてストライキを始めるんですね。
— nemanoc (@nemanoc) February 21, 2016
@nemanoc ところが、ハンストで腸内に溜まった糸を吐き出さないもんだから、お腹がパンパンになって衰弱死しちゃう。死んだ少女を見て、工場の人は「うちの糸を盗みやがって」と吐き捨てる。で、彼女の抵抗と死を垣間見ることで自由の価値を知った主人公はある凄まじい決意をする……という話
— nemanoc (@nemanoc) February 21, 2016
@nemanoc 設定だけ聞くと悪趣味なゲテモノに思われそうだけど、この蚕人間たちの日々が米国屈指の作家による透明な美しい文体でつづられていきます。なにより恐るべきは富岡製糸場で実際に起こったある事件をベースにしていることで、ちゃんとそのテーマにも訴えている。非常に山風力が高い。
— nemanoc (@nemanoc) February 21, 2016
ダニー・ボイル『スティーブ・ジョブス』
オープンか、クローズドか。
途中の回想シーンで、ジョブズとウォズニアックがアップル社最初の製品である Apple II の仕様について言い争う有名なエピソードが挿入されている。
根っからのギークであるウォズニアックはオープンシステム、つまり拡張性を高めるために拡張スロットをたくさん用意したほうがいい、その方が売上にも繋がると主張する。だが、ジョブズは独自の美的観点から「二つしかいらない」と言い張ってきかない。
ジョブス曰く「顧客の要望なんて知るか。脚本家が上演の最中に脚本を書き換えるか? ディランは曲を作る前に客の意見を聞くか?」。対してウォズニアックは「コンピュータは芸術品じゃないんだよ……」と呆れる。
ジョブスは結局ウォズニアックをチームから外して初代マッキントッシュを作る。マックは閉ざされたブラックボックスだった。筐体は芸術品として完成されたものであるから、「オタクどもが勝手に中身を開けていじれないように」特殊な工具がないと開けないようにさえした。
で、その箱を自分らでも開けなくなって、右往左往するはめに陥る。『スティーブ・ジョブス』はそういうふうにはじまる。
1984年の初代マッキントッシュ、1989年のNeXT*1、1998年の iMac、この三つのプロダクトの発表会の舞台裏を描いただけあって、全編がほぼ密室劇といってもいい狭苦しさで展開される。
鏡の並ぶ控室で神経質に発表会のリハーサルを繰り返しながら常に何事についてキレまくるジョブス。その部屋に、認知を拒否しつづけた娘を含む、彼の関係者が間断なく尋ねてくる。
密室内でのジョブスは彼の設計思想と同じくクローズドに凝り固まっている。まず他人の意見など聞かず、説得されるということを知らない。一度、自分で思い込んでしまったらそれが間違っているなどまず考えない。*2かつて愛した女性を侮辱し、娘を蔑ろにし、一番の親友だった人物を切り捨てる。彼は低迷期のアップル社を支えた Apple II のチームに献辞を言ってくれとせがむウォズニアックに度々言う。「これは新製品の発表会なんだ。未来を語らなきゃ。過去の製品の話なんて……」
古くからの知人は過去を思い出させる。娘でさえも例外ではない。娘がいるということは、自分が父親だということだから。自分もかつては息子だったということだから。「実の親から捨てられた」と思い込んでいるジョブスにとって向き合いたくない記憶だ。彼の完全に閉じられた世界には過去など入り込む余地はなく、よって初代マッキントッシュも人気作である Apple II を含めた旧機種との互換性を排した。彼は未来だけを向こうとした。
だが、友人たちに会う度にフラッシュバックする過去こそがジョブスの幸福な時代だったのではなかったか。
アップル社立ち上げ前夜、ガレージでウォズニアックと Apple II の仕様について議論を戦わせていた夜。
一度はジョブスの精神的な父親として全幅の信頼を得るも、のちにジョブス追放劇の立役者を演じてしまうジョン・スカリーを、洒落た地中海レストランに招きアップル社の社長就任を要請した夜。
そのどちらとも「開かれた」場所での出来事だった。そこにこそ未来があった。
ラストシーン手前で、ジョブスは建物の最上階へ、抜けるような蒼天の屋上へと登り、彼にとっての未来を手に入れる。彼は(おそるべきことに)初めてそこで、ユーザーのための製品開発を誓う。まあもちろんジョブスはジョブスなので、「そんな製品ダサいから、おれがもっといいもん作ってやるよ」というアレな審美性が入るのだけれど、それでも彼にとってはたいした進歩だ。ジョブス時代のアップル社が真にユーザーに支持される、偉大なアイディアを生み出し始めたのはまさにこのときだったのだ、と指摘してこの映画は終わる。
そういうわけで、マックユーザーは現在もクソありがたいことに大衆の都合などまるで考えないサドッ気溢れるクソプロダクツを享受できているのでした。めでたしめでたし。
ウルトラサイコパライノアクズ野郎としてのジョブス
高橋: 小津の映画の登場人物って、物語的にはごく当たり前のホームドラマの人たちのようなのに、モラルが完全に崩壊している、得体の知れない生物のように見えるんですよ。塩田さんが〈底〉という言葉を通して言っていることにも通じていると思う。「モラルの完全な崩壊」というのは、フッテージで出て来た『ハンナ・アーレント』(2012)で、アイヒマンやそれに追随したユダヤ人指導者に向けて言われる言葉ですけど、そこに編集で『マブゼ博士の遺言』(1932)の「犯罪の支配」のつぶやきを重ねたのは、ハンナ・アーレントの言葉を茶化したいからじゃなくて、モラルの完全な崩壊こそ、実は映画の本質を突いているんだと思ったからですね。
loc.789, 『映画の生体解剖×映画術 何かがそこに降りてくる』
「モラルの完全な崩壊」
そう、僕たち私たちは底の抜けた道徳倫理が見たくて映画を観ている。人間がどこまで非人間的になれるかということが観たくて映画を観ている。
『セッション』が好きだ。『最後まで行く』が好きだ。『ナイト・クローラー』が大好きだ。
ジョブスはクズさという観点において突出している。ナイト・クローラーさんやフレッチャー教授など所詮フィクションの産物で、実在にしても例えば『ウルフ・オブ・ウォールストリート』のジョーダン・ベルフォードなど単なる雑魚にすぎなかったのだと『スティーブ・ジョブス』のジョブスさんは教えてくれる。この怪物はほんとうにいて、しかも未だに理想の経営者、時代の革新者と讃えられているのだ。
映画『スティーブ・ジョブス』と同じ伝記をベースにしているヤマザキマリの漫画『スティーブ・ジョブス』には基本的にジョブス先輩のパない悪逆非道しか描かれていない。
技術面を丸々になっているウォズニアックを搾取し、さらには嫉妬から使い捨てるに至るまでは序の口として、ゼロックスに押しかけて初代マッキントッシュのたたき台となるデータを半ば強奪に近いかたちで盗む。捨てたはずの娘の名前をつけたプロジェクト(Lisa)を立ち上げて「こいつにも人の心があったんやなあ」とほんわかさせといて、人間関係のこじれ(主にジョブスの嫉妬)から初代マッキントッシュの開発に移籍するや娘の名前をつけたプロジェクトを全力で邪魔しにかかる。日夜粉骨砕身で開発に勤しむ社員の前にふらっと現れては「くだらねえことやってんな」と一言罵声をあびつけて去っていく。アップル社設立の功臣で、大学時代からの友達であるダニエル・コトケ*3に株式を一株もやらない。エトセトラエトセトラ。*4
それでも経営者として才覚があったんだからいいんだろう……と思っていたら、むしろ若い頃の(劇中での)ジョブスは致命的なまでに経営者としてのセンスに欠けていた。技術者でもデザイナーでもないくせにやたら「芸術的」な細部に拘っては無駄にコストを上げていき、それが販売価格に跳ね返って初代マックの失敗を招く。*5にマックだけならまだしも、前述の Lisa や Aplle II といった自分の関わっていないプロジェクトを dis りまくって足をひっぱる。解雇されるのも当然の仕儀である。
映画版でもそうしたジョブスの人柄はあますところなく描かれている。特に自分を一度裏切った(ジョブス視点)人間は何が何でも許さない。というか、それはお前が許す話じゃなくて、相手が許すかどうかって話だろう、みたいなことでも自分が許す立場だと思い込んでいる。すごい。一度、敵となったら唯一の武器といってもいい鋭い舌鋒で相手を社会的に抹消しようとする。ヤバい。
映画のジョブスさんは一度会ったら二度と会いたくない人物なのだが、それでもなぜかウォズニアックが友人として何度も発表会に来たり、アップルをやめてもついてくる人間がいたり、幼い娘に求められたりしている。この不可思議さが、ジョブスのカリスマを納得させてくれる。確信させてくれる。こいつは幸せになる資格などないが、何かを手に入れられる才覚はあるのだ。そして、それは、積み上げてきたすべての悪行を振りきって、映画にハッピーエンドをもたらせるだけの何かだ。モラルの完全なる崩壊。
『SHERLOCK 呪われた花嫁』
そもそもからしてドラマ版のシャーロックがそこまで好きかと言われれば、そこまででもないんですけれども、なんだか見てしまう。飽きない。面白い。
観客が「こ、こんなアホな犯人が今時いてたまるかぁーッッ!」とキレかけた最高のタイミングで最高のキャラが「こんなアホな犯人いるわけねえー!」とセルフツッコミ入れてくるので作ってる人はホント視聴者心理の扱いに長けている。
— nemanoc (@nemanoc) February 21, 2016
ネタバレに類さないと思うので言ってしまいますが、ラストシーンは『幕末太陽傳』の実現しなかった幻の某バージョンみたく「19世紀のロンドンと21世紀のロンドンはつながっているんだよー」という感じのオチなんですね。
ただなんもなしにそれをやったら「なんのこっちゃ」と白けちゃいますけれど、『呪われた花嫁』ではくどいまでにちゃんと現在と過去を対比させまくるから、ラストが「時代を超えて愛されるシャーロック・ホームズは永遠の名作であり偉大なるキャラクターなのだ!」というある種のテーゼめいたものを発して立ち上がってくる。
くどすぎなのがたまに傷。
ウンベルト・エーコ死す。
絶滅してしまったのか……。[不謹慎]*6
よく考えたら、小説よりそれ以外の本(論文の書き方とか読書本とかもうすぐ絶滅するなんとかについての本とか)のほうが読んでる数多い気がする。
10年くらい前、たまたま手にとった TIME にエーコのインタビュー*7が掲載されていた。
そのなかに「ユーモアってなんで必要だと思いますか?」(うろおぼえ)という質問があり、エーコは「つらい現実に対抗しうる唯一の武器だから」(うろおぼえ。なんかもっと明確に鋭く良い感じのこと言ってた気もする)と答えていた。知らん人だけどいいこと言うなあ、と思いましたよ。
『オデッセイ』を観てて丁度そのセリフを思い出したところだった。
- 作者: ウンベルト・エーコ,和田忠彦
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2013/02/16
- メディア: 文庫
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アニメを全部観た人
foxnumber6.hatenablog.com
「量や数を誇るのは未熟な証拠」だとか「どのくらい観たかよりも何を読み取ったかが大事」だとかいう使い古された金言など、実際にすべてを覧じた人間の前にはカスにも等しい。それを思い知らされた。