名馬であれば馬のうち

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より深い『シュガー・ラッシュ:オンライン』理解のためのインターネット

 あなたはより深い『シュガー・ラッシュ:オンライン』理解に至りたいと思ったことはありませんか? 
 わたしはあります。
 わたしはより深い『シュガー・ラッシュ:オンライン』理解に至りたいと思ったので至るための文章を書こうとしました。それを読んであなたがより深い『シュガー・ラッシュ:オンライン』理解に至れるかどうかはまた別の話ですが、しかしあなた自身が何を願うかにかかわらず、わたしがより深い『シュガー・ラッシュ:オンライン』理解に至れるように祈ってほしい。

 基本的には観た人用です。とくにまとまりはない。ネタバレ注意。


インターネットが分かつもの

リッチ・ムーア監督
 インターネットの世界に来たラルフとヴァネロペは、自分たちがそれぞれ異なるものを欲していることに気づきます。そして、彼らの出会った新しい世界は二人の違いを際立たせていくのです。
 ここにインターネットの大いなる真実があります。すばらしい架け橋である一方で、分断を生じさせもするのです。

『The Art of Ralph Break The Internet』


 第一作目の『シュガー・ラッシュ』でハッピーエンドを迎え、それぞれ「居場所」を見つけたラルフとヴァネロペ。ふたりは親友として強い絆で結ばれていた。
 続編である『シュガー・ラッシュ:オンライン』の冒頭では、仲良しなふたりの他愛もない日常が映し出される。ゲームセンターの閉店後にクイズを出し合ったり、ルートビアを飲んだり、誰も居ないアメフトのスタジアムで星空を見上げて語らったり……。
 一見すると幸福な風景に見えるかもしれない。しかし、そこには微妙な不一致が見え隠れする。

 『1』でゲームを乗っ取っていたヴィランを倒してプリンセスに返り咲き、トップレーサーとして輝いているヴァネロペだが本人はどこか倦んでいた。毎日同じコースを走り、新しい刺激もない。
 『1』のラストでお姫様であることよりもバグった(Glitch)アウトサイダーであることを選択するような彼女だ。同じことの繰り返しは停滞と感じられる。

 その不満を口にするとラルフは「俺はこのままのほうがいいけどな」と言う。
 悪役としての業務を「仕事」と割り切り、職場での人間関係も良好でゲームセンターに友達も多く持ち、なによりヴァネロペという最高の親友と毎日遊んで暮らせる。彼における自尊心の問題は『1』で大方解決されたのだから、彼が満たされているのは当然だ。「強いていえば、働かずにすめばいいかな」。

 このふたりの違いはなんなのか。
 もちろん性格の違いもあるだろうけれど、そもそも置かれた立場が異なるという点も見逃せない。
 ラルフは『フィックス・イット・フィリックス』の悪役だ。彼自身はその立場にうんざりしていたけれども、裏を返せば彼抜きではゲーム全体が成り立たないということでもある。それは『1』でラルフが「ターボ(自分の所属しているゲームから別のゲームへと違法に移る)」したさいに『フィックス・イット・フィリックス』の進行が止まって筐体ごと故障扱いになった事実からも明らかだ。もし「ターボ」に走ったのがモブキャラであるマンションの住民たちの一人だったなら、あんな大混乱を招いてはいなかっただろう。
 ラルフは『フィックス・イット・フィリックス』の重要人物なのだ。

 ひるがえって、ヴァネロペはどうか?
 なるほど、彼女はゲームの筐体にイラストを描かれているし、すくなくとも設定上では(ゲームとしての)『シュガー・ラッシュ』世界のお姫様ということにはなっている。
 しかし一個のキャラとしての重要性は実は薄い。『シュガー・ラッシュ』は用意された十六名のレーサーから毎日九名のみが選抜され、その日のプレイアブルキャラになるというシステムだ。『1』の方式を引き継いでるとしたら選抜はランダムではなく実力によって決定されるので、群を抜いて優秀なレーサーであるヴァネロペが九人の枠から漏れることはないかもしれない。けれど、交換可能な存在であるという事実、抜けたところでゲームは動き続けるという事実は依然変わらない。
 さらにいえば、彼女はバグキャラ(Glitch)だ。まともに動作しているラルフとは異なる次元でアウトサイダーとしての自意識を育んでいる。スウィートでウェルメイドな『シュガー・ラッシュ』の世界に違和感とはいわないまでも、どこかしっくりこなさを感じていたとしても不思議ではない。
 『1』ではバグキャラであることによってゲームの外へ出られず、他のゲームキャラや世界を知らないこともある。

 要するに、ラルフは確立された世界に安住していて、ヴァネロペの世界はまだ未確定で狭い。
 この違いがインターネットの世界へ飛び出したときのふたりのリアクションに違いを引き起こす。


なぜアリエルに頼まなかったのか?

 監督のリッチ・ムーアはインタビューで本作の導入を「過去を守るために未来へ行く」と形容している*1。そもそもインターネットの世界へ飛び出すのも、YouTuber 活動で金を工面しようとするのも、失われてしまった『シュガー・ラッシュ』の筐体のハンドルを手に入れるためだ。*2
 だがその途中で『スローターレース』という魅力的なポストアポカリプティック・オンラインレースゲームに触れたことで「過去を守る」はずだったヴァネロペは脱線していく。
 彼女はおおむね「ハンドルを手に入れる」という当初の目的に沿って行動するものの、『スローターレース』に出会ったことで心にゆらぎが生じる。そのゆらぎは彼女自身にもなんなのかがよくわからない。
 マーベルなども含めたディズニーキャラが一堂に会する人気サイト「オーマイディズニー・ドットコム」で歴代ディズニープリンセスの揃う部屋にきたとき、ヴァネロペは「なりたい自分」を表現するための手段としてのミュージカルを教えられる。
 言ってしまえば、最近のディズニー作品によく見られる自己言及的なパロディだ。
 だが、本作における自己パロディは単なるウケ狙い(もちろんそれ自体おおいに笑えるものであるけれど)や現代の観客に対するエクスキューズとは一線を画している。
 たとえば、自己言及的パロディに関してムーア監督はこう語っている。


 インターネットのユーモアセンスは自己参照的です。ですから(過去のディズニー作品に対する自己パロディを行う場としては)私たちからするとセルフパロディのような類のギャグをやるにはふさわしい場に思われるのです。


INTERVIEW: "Wreck-It Ralph 2" directors Rich Moore and Phil Johnston discuss Disney Princesses, in-jokes, and the fate of that unlucky bunny


 ディズニーパロはインターネットの鉄板ネタだ。日本を含めた世界中で政治的な風刺やドギツいシモネタまで、さまざまな人の手によって改変され、わたしたちもそれを享受してきた。
 インターネットを舞台にするのなら、ある種批評的なメタネタを織り込むのはむしろ正当といえる。

 しかしなにより、プリンセス部屋には場の重力以上に物語的な必然が与えられていることを見逃してはならない。
 プリンセスたちは「水面に自分の顔を映すと自分のやりたいことが歌えるようになる」という。揺れているヴァネロペに対する「自分の心を見つめろ」との助言に他ならない。
 ヴァネロペはプリンセスたちに促されるままに「自分のやりたいこと」を歌い出すが、プリンセスたちのように光が射したり小鳥がさえずったりのミラクルは起きない。なぜなら彼女の歌っている歌詞は「ハンドルを取り返して元の世界に戻る」という内容で、すでに『スローターレース』に心惹かれている彼女の本心と呼応しないからだ。

 ここでミュージカルのお手本としてアリエル(『リトル・マーメイド』)が歌うのが『Part of Your World』であるのは興味深い。
『Part of Your World』は海の底で生きる人魚であるアリエルが、海中で拾った地上の品々を「自分だけの部屋」で愛でながら人間世界に対する憧れ*3を切々と歌い上げるナンバーだ。*4
 


「わたしは人間たちのいるところに行きたい。
 彼らの踊る姿を見たい。
 『足』というのだっけ? それで歩き回りたい。
 (中略)
 この海を出て、陸地を自由に歩き回れたらどんなに素敵だろう。
 あの世界の一部(Part of that world)になれたら……」


 ヴァネロペが出会ったのは王子ではなくシャンクというバッドアスな女性レーサーで、憧れたのは人間世界ではなく犯罪の横行するヤバい世界であるけれども、プリンセス部屋時点でのヴァネロペは『Part of Your World』を歌ったときのアリエルと照応する。

 さらにディズニー作品史の観点を持ち込むなら、アリエルはディズニー・ルネサンスと呼ばれる90年代におけるディズニーアニメ復活期の嚆矢であったことも指摘できる。
 ルネサンス期の「改革」はさまざまな面から語られるうるけれども、ことプリンセス描写に関していえば、ディズニー伝統の「イノセント&アドレセント」路線をある程度まで継承しつつも自分から運命を切り開く主体性を有していたこと*5が挙げられる。
 プリンセス部屋を監修するために『シュガー・ラッシュ:オンライン』のスタッフに招聘されたマーク・ヘン(主に90年代に活躍したディズニーの大アニメーター)も「90年代に入るとプリンセスたちはより大胆でアグレッシブであけすけになっていきました」と語っている。*6
 この傾向はプリンセス部屋にいた14名のプリンセスたちをルネサンス(90年代)以前と以後で分けて比較してみればよくわかる。
 『白雪姫』(1937年)や『眠れる森の美女』(1959年)は基本的に王子様の真実のキスを待つ受け身なポジションであるし、『シンデレラ』(1949年)はがんばってドレスを自作するまではいいものの、舞踏会に行かれずオイオイ泣き伏しているところに都合よくフェアリー・ゴッド・マザーが現れてビビディ・バビディ・ブー。王子様に対しても基本「待ち」の姿勢だった。
 残りの11名はいずれもルネサンス以降。
 アリエルはむしろ王子様を救う側だったし、『美女と野獣』(1993年)のベルもそうだった。『ムーラン』(1998年)にいたってはなんと兵士。最初は花嫁候補だったのが、病身の父を助けるために男子と偽って軍に入隊する。
 時代が下るとともにプリンセスの主体性はどんどん強まっていく。ジョン・ラセターエド・キャットムル体制となって以降の『プリンセスと魔法のキス』(2009年)『塔の上のラプンツェル』(2010年)、『アナと雪の女王』(2013年)、『モアナ』(2016年)についてはもはや何も言う必要はないだろう。
 主体性が強まっていくにつれ、物語自体も恋愛の成就をゴールにしたウェルメイドなおとぎ話ではなく、感情ある個人のアイデンティティや夢についてのお話へと重点がシフトしていく。
 現代のディズニー・プリンセスものにおける最大の主題は「どうしたらなりたい自分になれるのか/なりたい自分とは何か」だろう。
 その意味において、ヴァネロペは紛れもなくディズニープリンセスなのだ。プリンセスたちがヴァネロペの友人になりえるのも道理だといえる。

 プリンセス部屋を経て、ヴァネロペはラルフから「ハンドルを取り戻すのに十分に金が溜まった」と聞かされる。しかし彼女はなぜか浮かない。
 すると眼の前にあった水たまりがきらきらと輝きだし、彼女を『スローターレース』の世界へといざない、シャンクたちと『スローターレース』のすばらしさについて歌うミュージカルシーン(「あたしの居場所」)が始まる。

 このミュージカル曲の作曲者がこれまた奮っている。
 アラン・メンケンである。先述したディズニー・ルネサンス期の立役者となった大作曲家で、『リトル・マーメイド』を始めとして*790年代のディズニー作品のほとんどに関わった。クライマックスのコーラス大盛り上りから余韻を残して終わる「あたしの居場所」の構成は、いかにもメンケン風味で、これ自体セルフパロディの感が強い。
 メンケンの参加もまた、ヴァネロペをディズニープリンセスとして、特にルネサンス以降のプリンセスとして位置づける重要な要素だ。


 このようにディズニーは単にプリンセスを茶化して笑いを取りに来ているだけではなく、より深いレベルのストーリーテリングで利用しつつ、なんとなれば保守的なイメージがもたれがちなディズニープリンセスを「なりたい自分を探求する女性」として再定義することを試みている。


ラララルフ

 まあおおむねそのようにしてヴァネロペの世界はインターネットによって拡張されていくわけだけれど、ラルフはむしろインターネットに対して閉じていく。
 冒頭で「できれば働きたくない」と言っていたラルフが動画配信者として「労働」を強いられるのは笑える皮肉だとしても、大親友のヴァネロペはシャンクという別の友人を見つけてしまうし、せっかくノリかけた動画配信でもコメント欄の心無いディスを見かけて落ち込んでしまう。
 こうしてラルフのインターネットに対する印象はどんどん悪化していき、同時にヴァネロペを失うのではないかという不安から彼女に対するパラノイアが増幅していく。信念やフラストレーション、あるは孤独がマシマシされるのもまたインターネットという場の特性だ。*8


 人格的には未熟なラルフであるけれども、上でも述べたように生活的には完成されている。新世界へ移るモチベーションがない。『1』で悪役であることに悩むラルフに対し『パックマン』のゴーストは「役割は変えられない。それを受け入れたほうが人生も楽しくなる」と諭したけれど、あるべき役割を受け入れた時点で、つまり『1』のラストの時点でラルフの物語は完結している。

 ただ、彼の幸福にはヴァネロペというピースが欠かせない。
 『オンライン』でも重要なアイテムとして反復されるクッキーのメダルの由来を思い出してもらいたい。
 『1』においてラルフは悪役から脱するためにヒーローの証明となるメダルを手に入れようとしていた。だが彼はその旅の途中でヴァネロペと出会い、彼女のレーシングカーづくりと練習を手伝い、友情の証としてクッキーのメダルを渡される。
 そもそも彼が悪役から逃れたがっていたのも一個の人間(ゲームキャラだけど)として繋がれる相手を求めてのことだった。そういう意味ではフィリックスを含めて『2』では打ち解けた仲間がそれなりにいるのだし、ヴァネロペだけに依存しなくてもよさそうなものだけれど、やはりコインをくれる大親友は得難いものだ。
 インターネットの世界はヴァネロペのために用意された「未来」であるけれども、原題のタイトルに Ralph ついているように『シュガー・ラッシュ』の主人公はラルフだ。プロット上の要請として、主人公である以上はよりよい変化を勝ち取らねばならない。
 ならばその敵が「ヴァネロペに固執するラルフ自身」になるのは必定だろう。
 そして、クライマックスが『キングコング』(1933年)になるのも。

 なんやかんやあってヴァネロペに対するラルフの執着心は巨大モンスター化して、ヴァネロペを攫ってエンパイアステートビルならぬグーグルのビルへと登る。
キングコング』は身勝手な人間たちによって森深い孤島からむりやり大都会へと引きずり出されたコングが、惚れた美女を攫って逃走を図る話だった。
シュガー・ラッシュ:オンライン』の共同監督であるフィル・ジョンストンが『The Art of Ralph Break the Internet』で「これは小さな町から大都市へと出てきた親友同士のふたりが『外の世界』に気づく話なんだ」と証言していることを踏まえると、おなじく田舎から大都市へと図らずも出てきて拒絶と孤独を味わうコングとラルフの共通が見いだせる。
 ここでもパロディがストーリーテリングに寄与しているわけだ。


 本作でラルフがキングコング化したことに対して嫌悪感を抱く向きは「前作で『やりすぎ』て反省したことから成長が見受けられない」みたいに言う。
 たしかに『1』で自分の思い込みからヴァネロペの車を壊してしまったのはラルフにとって痛恨ごとだっただろう。
 だが、『1』の車破壊と『オンライン』のバグ拡散は大分事情が異なる。
 まず『1』でラルフが車を破壊しようと決意したのは敵役であるキング・キャンディの佞言に騙されてしまったからだし、騙されてしまったのも「レースに出すとヴァネロペが死んでしまうかもしれない」という恐れからだ。新しくできた友人を失いたくなかった利己的な面もあるだろうけれど、基本的には「ヴァネロペのための自己犠牲」である。ふたりで作った思い出のカートを壊すのが彼の望みであるわけがない。*9
 一方で、『2』のバグ拡散は擁護しようがない。「ヴァネロペを(彼女に意に反して)取り戻したい」と願う独占欲から「『スローターレース』の世界にバグを振りまく」という他者を害する行動に出る。完全に自己中心的に考えなしだ。
 言ってみれば、友達のAさんを別の人間であるBさんに取られたからといって、Aさんに対してBさんの悪口を吹き込むのに近い。そんなのでAさんが良い気分になるはずもない。
 
 ラルフは『1』で成長したはずなのに、なぜこんな愚かなのだろう?
 そもそも彼は『1』で全面的にアップグレードされたわけではない。繰り返すが『1』のラストで完成したのはあくまで彼の生活であって、人格ではなかった。
 「悪役だけど悪いやつじゃない」ふうに生きられるようになったのは成長かもしれないが、それは変えられない人生に対する折り合いのつけかたの話であった、「友人に対するふるまい」を学んだわけでない。
 「友人の尊重」。外部にさらされてヴァネロペに新しい交友関係が生じたときに初めて向き合わねばならなくなった問題だ。
 言うなれば『オンライン』は『1』で治ったはずの病の再発ではなくて、『1』を原因にして発症した病気のセラピーにあたる。
 彼が精神的に安定した生活を送れているのもヴァネロペという依存先のおかげであり、それを失いかけたら不安定になる。
 そうして不安定になれば、ゲームキャラとして設定されていた彼の地が出る。なにごとも感情のままにオーバーキルしてしまう「壊し屋ラルフ」の地が。
「設定された役割」と対峙しなければならないのはヴァネロペもラルフも一緒だ。*10

ベンチとインターネット

 本作においてラルフとヴァネロペの親密さと関係性の変化はベンチの反復によって示される。
 まず最初は冒頭のエントランスでクイズを出し合うシーン。ふたりともリラックスした様子で二人がけのベンチに腰掛けている。周囲のキャラたちはだいたい歩いて往来しており、彼らだけが「止まっている」こともまた親密さを観客に印象づける。

 その次はかなり飛んで、「ラスボス」を倒したあと、ヴァネロペが『スローターレース』の世界へ移籍するシーン。別れのことばと抱擁を交わし、ヴァネロペは『スローターレース』への階段を登っていく。それをベンチに残されたラルフは名残惜しく見送る。
 
 三回目はエピローグとなるラストのシーン。エントランスのベンチに座ったラルフの傍は虚しい空間が占めている。だが、ラルフは嬉しそうだ。携帯型通信機器(インターネット世界で新キャラのイエスからもらったもの)を通じてネットの世界にいるヴァネロペとホログラム・ビデオチャットを行っているからだ。
 このシーンがうまいのは「ここにいるのは自分ひとりだけれど、でもネットを介して大切な人と繋がれる」というネットの良き側面についての讃歌になっているところだろう。
 ふたりはインターネットの世界へ行くことによって分断されたかもしれないけれど、インターネットのおかげでつながりつづけることもできる。新しい時代の友情のありかたがそこにはある。

 インターネットという舞台をただ場として利用するだけでなく、ストーリーテリングや思想にあますところなく使い尽くす。
 その徹底がやはり最近のディズニーのおそろしさなのだとおもいます。


The Art of Ralph Breaks the Internet: Wreck-It Ralph 2

The Art of Ralph Breaks the Internet: Wreck-It Ralph 2

*1:https://insidethemagic.net/2018/02/interview-wreck-ralph-2-directors-rich-moore-phil-johnston-discuss-disney-princesses-jokes-fate-unlucky-bunny/

*2:ハンドルが失われるきっかけとなった「ラルフの自作コース」は注目に値する。『1』にもラルフは素手でヴァネロペのためにコースを作るシーンがあった。洞窟にひきこもってカートを運転した経験がないヴァネロペにレースの練習を積ませるためだ。つまり『1』ではヴァネロペを「外」に出すために自作コースを造ったわけで、ニュアンスが異なるとはいえ結果的に『2』でもヴァネロペのための自作コースで似たような事態を招いたのはおもしろい。

*3:もっと言えばこの直前に出会った「王子」への憧れ

*4:『リトル・マーメイド』自体とディズニー映画史におけるこの曲の重要性は谷口昭弘『ディズニー・ミュージック〜ディズニー映画音楽の秘密』をお読みください

*5:もちろん彼女たちのあいだで差異はある

*6:https://scroll.in/reel/902439/interview-animator-mark-henn-on-bringing-disney-princesses-together-for-ralph-breaks-the-internet

*7:『リトル・マーメイド』自体は89年だが

*8:スタッフがインターネットという場がラルフたちに及ぼす影響を語るときに reinforce (補強する、促進する)という動詞を使っているのが興味深い。リッチ・ムーアは「インターネットは彼らの違いを強化する」といい、ストーリー・ディレクターのジム・リアードンは「ふたりがインターネットで出会うキャラクターたちはみんなふたりの抱いている感情を増幅させます」と言っている。:『The Art of Ralph Breaks the Internet』

*9:もうひとつ彼の起こした「災害」であるサイバグは劇中ではほとんど天災扱いされ、彼がクライマックスでダイエットコーク火山に飛び込む後押しくらいにはなったかもしれないが、はっきりとラルフが責任を感じるシーンはない

*10:「与えられた設定から脱却」はこのところのディズニー作品のテーマであり、ムーア監督の関わった『ズートピア』でも掘り下げられた問題でもある。