名馬であれば馬のうち

読書、映画、ゲーム、その他。


読書、映画、その他。


死にたくもないし生きたくもないし歩きたくもない――『信長の野望・出陣』について



数えた足跡など 気づけば数字でしかない


BUMP OF CHICKEN「カルマ」


走る街を見下ろして のんびり雲が泳いでく






 毎日、歩いている。
 そりゃ、歩くだろう、とおもわれるかもしれない。動物なんだから。そこそこ健やかな人間は一生のうちにおよそ一億五千万歩を歩く*1。よほどの事情でもないかぎり、歩かない日はない。歌にも歌われているように、幸せは歩いてはこず、むしろ音速に近いスピードでわれわれの前をかすめて置いてけぼりにしていく。不運な人間としては肩をすくめてとぼとぼと歩いていくしかない。
 しかし、「あなたはほんとうに生きているのか?」と指をさされて問われれば誰もがたじろいで即答しかねるように、「歩いているのか?」という問いには何か単純な動作のあれこれと異なる別な疑問がはらまれている気がする。
 たとえば、幸田文は「歩く」*2というエッセイでこう自問している。



「歩く」とはいったい何だろう。左右の足を代わり代わりに動かして前へ進むことで、なんでもなく始終やっていることだ。でも、歩いたかと云われると、五十年をふりかえって見て、「歩いた」と返辞のできるのは二度しかないようである。あとは、「ような気」ばかりする空しさである。



 こういうほんものの明晰さに通して我が身を省みれば、頭に書いた「毎日、歩いている」という一文がまるでうそっぱちに見えてくる。
 というのもわたしの歩行は、純粋な散策ではなく、卑しい野望に満ちているからだ。
 その野望は信長に突き動かされている。

煩悩 二本足 walk to walk

信長の野望・出陣』(以下『出陣』)はいわゆる位置情報ゲームだ。
「位置情報ゲーム」とは、『ポケモンGO』や『イングレス』ようなたぐいのスマホゲームだといえばわかりやすい。『ポケモンGO』や『イングレス』なんて知らないのでぜんぜんわかりやすくないよ、とおっしゃる向きに関しては社会性がかなりヤバい状態にあると推測される。個別のゲームタイトルについてここでわたしの講釈を聞くよりも、とりあえずまずは外に出て人に話しかけ、情報の格差を均したほうがよい。もしかしたら、自分が1999年からタイムリープしてきた前世紀人である事実が判明するかもしれない。
信長の野望』という戦国時代を舞台にした戦略シミュレーション、つまり織田信長武田信玄といったFGOなどでおなじみの戦国武将たちを操って天下統一を目指す、そういったようなゲームのシリーズがあり、『出陣』はそのひとつというか、まあスピンオフみたいなやつだ。
 そうした出自なので、当然『出陣』も領地を奪る奪られるといったデザインになっている。市町村を更に細切れにした単位の区画を渡り歩き、島津豊久森可成といった暴力武将たちを編成した軍隊を送りこんでノシていく。歩けば歩くだけ領土は広がっていき、なんとなくいい感じのムードになる。
 最初は近所をとりあえずヨンボリ歩きまわり、ゲーム画面上で表示される地図とにらめっこしながら、まだ占領していない区域を求めてさまようことになるだろう。征服の進行度合いは小さいグループから順に市町村→県→地域→全国といった単位でレイヤー分けされており、それぞれの単位ごとに征服の進行度が10%とか20%とかの割合で示される。この町はもう半分制圧したわ。でも、隣のこの市はまだ10%しか占領していないな。ようし、いままで寄ったことのない街だけれど、ちょっと今度でかけてみよう。
 そうやって、地図をちまちま埋めていく。
 そんなゲームである。
 ワクワクするでしょう? するよね?
 プレイヤーの行動原理は当然、「まだ未占領=未知の土地へ行くこと」になり、近所であってもいままで通ったことのない路地を歩き、いままで見たことのない景色に出会う。なんていうと、すてきな旅のように聴こえるけれど、仮にうつくしいなにかに遭遇したところで、自分の眼はスマートフォン画面上を凝視していて、気付かないままに過ぎていく。いや、実際に見たとしても、気にもとめない。それは『出陣』というゲームには関係ない、余計な要素だ。切り捨て御免の思い出である。


カントリーロード この道

『出陣』の空間は、城と野盗と農民と商人と浪人と軍勢と馬でできている。あと、たまに史跡。城とは領地のことで、農民は米、商人はカネの象徴だ。マップ上に点在する民草をタップしてゲーム内通貨となるそれらを回収する。徴税である。年貢である。自分の領土以外でもこれらのキャラは現れるので、そのときに遭遇した場合は略奪ということになるが、奪われるほうからすれば領主であろうがよそもんだろうが同じ理不尽だ。
 なんにせよ、城と野盗と農民と商人と浪人と軍勢と馬の取り合わせは、日本全国どこへ行っても変わらない。わたしたちは九州で民を強請り、東京で民を強請る。暴力は時代や土地が変わってもレートの変動しない世界屈指の安定通貨だ。誰もが喜んでエクスチェンジしてくれる。その営為は津々浦々で変わらないわけで、そのことが『出陣』の体験を、信長とともに歩くことを平らかに均していく。
 それでもあなたが「歩くこと」のできるひとならば、個別の歩行に固有の思い出を築き上げられるのかもしれない。眼を持ったひとはそうこうことが可能だ。ただぶらつくだけでも細部のみずみずしく語る。たとえば、韓国の詩人である李箱は東京で新宿やら銀座やらをぶらついただけでめっぽうおもしろい随筆を書きあげた*3。銀座でモガを発見し、救世軍の社会鍋をひやかし、公衆便所でうんこを垂れる。網膜で蒸発しそうな頼りない細部を留めておけるのは、才能だ。



 眼を持たないわたしの内面の世界は、『出陣』のマップとほぼ一致している。ある調査によると、GPS画面に頼って移動するひとは地図を持って移動するひとに比べ、途中の情景や道順を記憶しにくいそうだ。この調査を紹介したダヴィッド・ル・ブルトンは「GPSは道をルートに変え、道そのものよりも目的地を優先させ、道を解体して単なる味気ない通路に変えてしまう」*4と嘆いた。その道なき通路の世界をわたしは歩いている。
 次の空白から次の空白へと、地図を自分の国の色に塗っていく。19世紀のオクラホマみたいだ。入植者たちは、未割当の(もとはチェロキー族などが住んでいた)土地に早い者勝ちで殺到し、自分たちのものにした。過去を鑑みるならば、移動することは侵略する*5ことでもある。ならば、『出陣』は『信長の野望』シリーズのどの作品よりも、歴史の本質を射抜いている。わたしたちプレイヤーは、スマホ上に平面化された原野を帝国主義者の歩法で歩く。これこそが野望というものだ。

正しく僕を揺らす 正しい君のあの話

 いいわすれたが、わたしは歩くのがきらいだ。
 歩くことに関するエッセイや本などを読むと、たいていは歩くことが大好きな著者が歩くことを無条件で善きこととして肯定し、序文で歩行の快楽を讃える。歩く系のエッセイ本のなかでも最近に出た島田雅彦の『散歩哲学 よく歩き、よく考える (ハヤカワ新書)』でも、「よく歩く者はよく考える。よく考えるものは自由だ。自由は知性の権利だ」といった言い回しでセルフをボーストしていた。
 どうやら、歩くことについて書く人間は歩くことを好む傾向にあるらしい。わたしのようなアンチ歩行派が歩くのめんどい、などと漏らした日には、ネットイナゴたちから「じゃあ一生歩くな」「ホヤに戻れ」「木という木に『龐涓死於此樹之下』って書いてそう」などといった罵倒を浴びるはめになる。
 そうしたトータリスティックな非道に抗うために今日も今日とてみじんも動きたくない*6のだが、そうはいっても人間歩かなければ死んでしまう。肉体的にも社会的にも経済的にも。だからいやいや歩く。歩いているあいだは脳をぼんやりさせて自分が歩いているという不愉快な現実をあまり直視しないようにつとめる(スマホのなかの信長に意識を預けるのは有効なテクニックだ)のだけれど、歩行フェチ派は歩くことをあえて意識することでわたしの神経を逆撫でする。
 意識を凝すると生まれるのが意味だ。かれらは歩くこととは何かについてよく語る。
 たとえば、ルソーにとって歩くことは自由を味わうことだった。アリストテレスと鴉城蒼也にとって歩くことは考えることだった。ボードレールにとっては一種のオブセッションで(歩きすぎて足を壊したほどだ)、チャトウィンには逃避、ベルナール・オリヴィエには「肉体の絶頂」*7、そして、ロバート・ルイス・スティーブンスンに言わせれば「あの素晴らしい酩酊」*8
「歩行とは徳行である」、そういったのはたしかヴェルナー・ヘルツォークだ。彼はこうも言った。「そして観光とは死に値する大罪だ」*9
 彼らは目的のない旅、そぞろ歩く散歩を至上に戴く。指向性のある野心など抱いてはいけない。偶然に身を委ね、進んで迷子になり、未知との交歓に心震わせねばならない。
 常軌を逸している。
 そもそも、二足歩行自体が常軌を逸しているのだ。人間以外に日常的に二足歩行する動物はクマくらいのものだ。そのクマも自分たち以外に二足歩行を許さない人間たちによって射殺された。*10研究者によれば、歩行とは故意に転倒寸前の状態を作り出し、それを制御することで前に進む運動なのだという。どうりで不安定で危険な動作だ。わたしたちはもっと安定的な視線をとるべきだ。仰向けに寝そべるとか。うつ伏せに寝そべるとか。あるいは自分が自分のことを人間だとおもいこんでいるクマだという可能性も否めないのだし、そうだとすると二足歩行で外を出歩くのはますます危険だ。
 それでも歩け、と命じる声が聴こえる。
 命じているのは国だ。
 一日一万歩歩くべきだ、と厚生労働省はいう。精確には、「国民の健康の増進の総合的な推進を図るための基本的な方針」を謳ったガイドライン*11に則ると、一日6000歩〜9000歩*12だ。WHOによれば運動不足は全世界における死亡に対する危険因子として、高血圧、喫煙、高血糖に次いで、 第4位*13であり、万病のもと。高齢化社会にともなって増大していく医療保険費が国庫を圧迫する昨今において、自らを健康に保つのはもはや国民の義務だ。*14国民であるあなたがたが肉体的に病むと、国家もまた財政的に病む。そういうアナロジーがあなたに健全な生を強いる。昔は歩くだけで政府に反抗できた時代もあったというのにね。*15

 あるいはそれは、死ぬために歩け、と命じる権力よりはマシなのかもしれない。軍隊がそうだ。ナポレオンが大陸を制覇できたのもひとえにその驚異的な機動力のためといわれる。羽柴秀吉が信長死後に天下人になったのも、備中や美濃から大返しできたからだ。*16
 わたし自身はといえば、ジョン・ランボー以来のたった一人の軍隊なので、天下を平定をするためには独力をもってしなければいけない。ナポレオンが言ったとされているが実際にはどうか疑わしい箴言のひとつに、「歩くことを望むのなら、孤独をゆかねばねならない」というのがある。であるならば、わたしはひとりでグラン・ダルメの心意気というところだけれども、残念なことに、『ランペルール』(1990年)以来、コーエーナポレオン戦争を題材にしたゲームを出していない。
 しかし、孤独を吸い吐きするのに大陸のさびしさは必要ない。『出陣』に広がるローポリ*17な列島だけで十分だ。クランにも入らず、日本以外*18の外部が存在しない世界で、領土を脅かす敵もおらず、一揆を企む窮民もいない。
 紀行や歩行を描いた大半の文学で、描写の中核をなしているのは実は建物や風景ではない。ひとだ。他者との出会いと交わりが歩行者たちの記憶を呼び覚ます。『出陣』の日本で、新しい誰かに出会いたいのならば、ガチャを回すしかない。毛利元就斎藤道三といった金ピカの大名たちが、金ピカの演出で舞い降りてくる。
 対人戦?
 ああ、あるね。たしかにある。自分で編成した軍団で攻めたり守ったりしながら城を奪い合うやつ。だが、その城はわたしの保有する領地の請求権となんら関係がない。負けても勝っても版図は増減しない。なんの愛憎ももよおさない。いてもいなくてもいい、無個性な他人だ。 
 そしてだからつまり、『出陣』では歩くしかない。漫然と、あいまいに、薄味の、「ような気がする」一歩一歩を積み重ね、歩数を数字に還元し、その数字をガチャ用の札と交換していく。

(湯布院にいた人、今川家でよく見かける人兼今川家でよく見かける人の父親、よく知らん人、センゴク、難癖力ナンバーワン芸人、龍造寺四天王、有名じゃない方の直江、といった超豪華メンバーの排出されるガチャ)


 ゆるやかな歩行のリズムをときどき乱暴に断ち切って立ち止まり、スマホ画面をいじってプレゼントボックスやイベントミッションや確認し、二分の前にわかりかけていたなにか、レスリー・スティーヴンスが「真の歩行者」に宿るとした「静謐で朦朧とした精神の豊かな流れ」*19の芽生えのようなものも完全に忘れ去って、また次の空虚へと移動していく。移動の間の記憶はいまや一切思い出せない。紀行なき彷徨、進軍なき征服。「歩いた」という返辞が不可能な謎めいた運動。
 健康、自由、思索、記憶。歩行に付随するすべてが憎い。なぜだか憎くてしょうがない。それらは左右の足を代わり代わりに動かして前へ進むことで、なんでもなく始終やっているあの運動を、なんの臆面もなく晴れがましく「歩いた」と断言できるあなたがたのものだからだ。よちよち歩きを初めた昔から、わたしの歩行とは無縁なものだ。わたしの一億五千万歩の足跡はすべて洗い流されて、なにひとつ思い出せない。書くべき記憶がない。なにもない。
 だから、頼む、弾正忠信長。
 おまえの野望をくれ。
 わたしに歩けと命じてくれ。
 ガチャの回転にしか還元できない数字を与えてくれ。
 歩くことの価値をすり減らしてくれ。



*1:ジェレミー・デシルヴァ:直立二足歩行の人類史 人間を生き残らせた出来の悪い足 (文春e-book)

*2:包む (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ)

*3:翼~李箱作品集~ (光文社古典新訳文庫)

*4:歩き旅の愉しみ: 風景との対話、自己との対話

*5:いわゆるランドラン(ランドラッシュ)

*6:梅崎春生は加藤哲太郎の遺書(「わたしは貝になりたい」)を引用して、「わたしは滝になりたい」と戯れていた。

*7:『ロング・マルシュ 長く歩く――アナトリア横断』

*8:「徒歩旅行」

*9:管啓次郎狼が連れだって走る月 (河出文庫)

*10:https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/16/101900394/

*11:https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/kenkou_iryou/kenkou/kenkounippon21.html

*12:20-50代男性が9000歩、60代以上で7000歩、20-50代女性で8500歩、60代以上で6000歩

*13:https://www.mhlw.go.jp/content/10904750/001171393.pdf

*14:国土交通省のまとめでは、一日一歩当たり、0.0015円〜0.061円の医療費抑制効果があると算出されている。https://www.mlit.go.jp/common/001186372.pdf

*15:「歩くことは、放浪や犯罪、社会的困難や貧困と結びつけて考えられていた。みすぼらしい道は、物乞いや放浪者、貧民や失業者、音楽家、行商人、ホームレスの歩くもの」だった。/トマス・エスペダル:歩くこと、または飼いならされずに詩的な人生を生きる術

*16:そういえば、ビデオゲームの世界では、「FPSから銃を抜いたらどうなるか」という実験から生まれたウォーキング・シミュレーターというジャンルについて、その反戦性を評価する識者もいた。https://www.salon.com/2017/11/11/a-brief-history-of-the-walking-simulator-gamings-most-detested-genre/

*17:ローポリなのはわたしの設定のせいだけれど

*18:それも南は八重山、北は稚内まで。どちらも安土桃山期には「天下」に勘定されていなかった。

*19:in praise of walking https://en.m.wikisource.org/wiki/Studies_of_a_Biographer/In_Praise_of_Walking

2023年読んだ新刊まんがベスト(短編集・単発長編/五巻以内完結篇)

proxia.hateblo.jp
↑出した時点で「もう今年は短編集とかのほうのランキングはいいかな〜」みたいなムードだったんですが、村長から「マンガを怠けるな」とお叱りを受けたのでなんとかない気力を奮って作りました。

【レギュレーション】

・1.2023年内に発売された日本語(翻訳含)作品の、短編集・単発長編(上下巻など第一巻発売時点で完結巻が明示されている作品。連作含む)。
・2.2023年内に最終巻が発売された日本語(翻訳含)作品で、五巻以内で完結したもの。
・基本的に電子版の出ている本のみ。
・同人誌・自費出版は含まない。


【短編集/単発長編】

1.ほそやゆきの『夏・ユートピアノ』

若き調律師と弱視のピアニストの交錯を描いた連作である表題作と、宝塚歌劇団受験をめぐるふたりの女性の交流を描いたアフタヌーン四季大賞受賞作「あさがくる」の二作を収録した短編集。
ほそやゆきのとは、ストーリー面では挫折と蹉跌を描き、セリフを含めた技巧面では(丹念に取材された)細部を描き、舞台としては北海道を描く作家であるといちおう今のところ定義できはする。
しかし、はたしてそれだけでしょうか?
カメラワークとコマ間の動作によってつけられた緩急、身体部位のクローズアップ、やわらかいタッチ、すずやかで乾いた陰影、冬の白、アフタヌーンとしかいいようのない縦長コマ、何か未満(「夏・ユートピアノ」の場合は友人、「あさがくる」の場合は師弟)の関係、人間と人間のあわいつながり。
しかし、はたしてそれだけでしょうか?
ピアノを題材にした作品としては異例なことに、ピアノを弾くシーンを漫符などで表現しないんですよね。劇中何度か描かれるピアノ演奏のシーンではすべてリアクション(拍手や演奏者自身の涙)でその出来や意味合いを読者へと伝えます。そして、その極みがラストのラストで来る。音楽まんがは「いかに音を伝えられないメディアで音を表現するか」の歴史だとおもうのですが、そこにこうしたアンサーもあったのかと感心させられます。おなじくピアノ×雪国×女二人を描いた『最果てのセレナード』(ひの宙子)と比較してみるのもおもしろいかもしれません。鍵盤の見立てで構図を作る部分とか似てますし。
いやしかし、はたしてそれだけなのでしょうか?
それらをすべてひっくるめたても、ほそやゆきの作品の総和に等しくない気がします。そこにまんがの秘術が隠されている気がする。わたしは存在自体が神秘のようなまんがが好きです。まんがを奇跡だと信じているからでしょう。そして、その奇跡を証明する奇跡がここには顕れている。


comic-days.com
(2018年の新人賞奨励賞読切。ところどころ歪だがこの時点でだいたいは完成されている)

2.heisoku『春あかね高校定時制夜間部』

名門・春茜高校の定時制夜間部に集まる面々を描いた夜の青春群像劇。十六歳から四十歳まで、元ホスト、元精神病院入院患者、複数人でのコミュニケーションが極端にニガテなひと、一見ひとあたりはいいが約束ごととなる途端に仮病を使ってドタキャンしまくる人等々、さまざまな事情や個性を抱えた生徒たちが出てきて、いずれも生きるのが大変そうなのですが、ふしぎとどこか明るさがある。
それは、それまで生きづらさを自分のなかで抱えるしかなかったひとびとが、学校空間という他者だらけの空間でゆるやかに共にあることで小さな救いを見出しつづけるからです。そんなスウィートすぎない、ちいさな救済が本作を特別な作品にしています。
高校とは基本的に「これから人生が始まるひと」の場ですが、事実上人生が終わってしまったひとの人生を始めさせる場として学校空間を作り出したのは『ご飯は私を裏切らない』の heisoku 先生の面目躍如たるところ。

3.シャオナオナオ『守娘』

台湾時代怪奇ミステリ。絵と画がとにかくよい。
このまんががすごくていいよ、という話は前にしたのでそちらを。

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4.大武政夫異世界発 東京行き』

大武政夫は異常なギミックをテコに状況をどんどん転がしてエスカレーションさせていき、最終的にあまりにもバカバカしい絵面へ行き着くギャグや、連作でこつこつ積み上げたキャラの性格やポジションから生じた位置エネルギーで暴力的な勢いをぶつける小噺を得意とする作家です。したがって、その本性は連作短編にあります。個人的には、そこまで一話完結短編の名手といった印象はありませんでした。
ところが本短編集の「俺たちの非日常はこれからだ!」を雑誌で読んだときはたまげました。単発の短編でめちゃめちゃおもしろれえ!
内容は、ある日突然、透明化や念力などの特殊能力にめざめた少年たちが時間のループにはまってしまったクラスメイトを助けるために奔走するクロスジャンルコメディです。
フィクションの分野では、特に短編においては「一つの話につきワンダーな設定は一つだけに留めとけ」と言われがちです。読者にとって「非日常」的な要素はそれだけでポケットがいっぱきになるほどのストレスであり、あんまり詰め込みすぎると読む方はパンクするし、味もまざってなんだかよくわからなくなってしまいます。
そこ本作ではワンダーが四つも五つも出てきて、それらがまったくごちゃごちゃした印象を与えず、きれいにひとつの物語として整然と処理されている。それは出てくる特殊設定がそれぞれ長年使い古されてある種の常識と化したジャンルであるから読者の認知ストレスも軽減されている面もあるでしょうが、それをなめらかに整理できるのはあきらかに作者固有の手腕です。もうあんたが日本SF大将(©️とり・みき)やね。
言ってみれば『ヒナまつり』や本短編集の後半に載っている魔法少年もの連作「魔法少年マモル始まらない!」でやっているようなキャラエピソードの積み上げを、クリシェと化したジャンルへアウトソーシングすることで省き、連作じゃないのに連作のような爆発的なパワーを生み出したのですね。一見ズルに見えますが、大武先生にしか不可能な曲芸です。驚くべきコントロール力です。
とはいえ、「素で描いた」と作者自身の語る「90 59 88」のピーキーさも、つきつめるとどこまで行くのか見てみたい気持ちもありますが……。

5.ティリー・ウォルデン『are you listening?』

とにかくコマの枠線というものを縦横無尽にいじりたおします。主人公たちの気持ちが動揺すれば枠線も歪み、水が満ちれば液体状に融解し、ときには境界である線そのものが消滅してしまう。愚直ですらあるそんな素朴さな外連味が、アートフォームとしてのコミックの可能性を信じ貫いているようで、読んでてうれしくなる作品です。さらりと、テキサスはマジックリアリズム的な土地なんだ、と言い放つところも南部ゴシック的なアメリカ文学の系譜に自らを位置づける図々しさがあって、物語やタッチの繊細に反してなかなかたくましい。

6.売野磯子『インターネット・ラヴ!』

インスタで見かけたら一般韓国人男性に岡惚れしてネトストしまくる一般日本人男性のラブストーリー。間違ってるとわかっていて間違ったことをやめられないひとの話はいいですね。ヤバい人の話ですが。
このごろはシャープなイメージのあった売野磯子ですが、本作は線も話もレトロでソフトでほんわかしてて、こういうのもよいですね。ヤバいひとの話ですが。*1

7.崇山祟『Gペンマジック のぞみとかなえ』

ホラーは本物の異形が生まれるジャンルです。『恐怖口が目女』を描いた崇山祟は本物の異形にして、真正の才物だったわけですが、去年若くして亡くなってしまいました。本作はその遺作。
ホラーではなく、スポコン少女漫画パロディ(ガラスの仮面とかエースを狙えとからへん)なマンガ部青春モノです。巻末の追悼対談で『ミステリーボニータ』の編集長が指摘しているように、「70年代の少女漫画の絵柄やノリをサンプリングしてギャグにするのってさんざんやり尽くされて」いて、さらにいえばマンガ部ものも昨年『これ描いて死ね』という大賞級の作品が誕生してしまった*2この2020年代において、「あえて」でさえこの領域に手を出すのは相応の覚悟を要します。そこに肝っ玉ひとつで乗り込み、見事、崇山崇にしか出せない作品を完成させてしまった。
シュールなノリと勢いだけのまんがのようにおもわれるかもしれませんがーー実際完全にノリだけでやっているだろ、みたいなところもときどき目につくのは事実ですがーーそれでもアクセントの利かせ方が際立っており読者を振り落としたり飽きさせたりはしません。不条理な乱暴さをふりまわしているように見えて、繊細な抑制も効いている。そこが崇山作品の美点でした。つくづく、惜しい作家です。

8.panpanya『商店街のあゆみ』

panpanya先生の短編集はひとつのベンチマークといいますか、ハードルといいますか、その年に出る短編集の総合的な質の指標になります。去年は『ユリイカ』でも特集が組まれたし、いまさら言うこともないでしょう。今回のお気に入りは「家の家」と「うるう町」。23年の奇想系短編集では河野別荘地『足が早いイワシと私』、小田扉『ぐるぐるゴロー』あたりも印象に残ったでしょうか。

9.月森吉音『ナイトメア・オブ・ドッグス』

イヌ獣人のカニスがバイクで単身旅しながら、さまざまな悪夢にうなされる他のイヌたちと出会ってその世界の謎に迫っていくロードコミック。人間の都合で虐待されたりひどい目にあったりするイヌの立場に共感的だったまんがというと21年に出た吉田真百合の『ライカの星』もありましたが、こちらは問題意識が直接的でより苛烈。動物福祉系のまんがは22年開始のカレー沢薫『いきものがすきだから』を筆頭に最近といいますか結構前からエッセイやルポの分野でちょくちょく観ますが、アニマルライツ的な問題意識から描かれたフィクションはそうなかったかも。23年に完結した『地球から来たエイリアン』といい、まんがの世界でもポスト人間主義というか、モラルサークルの拡大を感じます。
23年もイヌまんが(フィクション)は多かったですね。独裁政権の顛末をイヌ獣人に託して描いたロシア製コミック三部作『サバキスタン』、狂った女が転がりこんできた男をイヌとして飼い始める『生まれ変わるなら犬がいい』、そして先日紹介した『凍犬しらこ』。バリエーションも豊かです。

10.田沼朝『四十九日のお終いに 田沼朝作品集』

ちょうど切りの良い数字にするところでなにがいいかな、とおもって、路田行の『透明人間そとに出る』でもよかったんですが、路田作品は先日の記事で『すずめくんの声』を取り上げたのでいいかな、となり、じゃあ『いやはや熱海くん』について言及できなかった田沼朝で、ということになった。*3
短編の上手い作家というのは何通りかのタイプがいて、このひとはスケッチがうまくて質感がよいタイプ。

【五巻以内で完結した作品】

・だいたい過去のブログ記事で触れている作品ばかりなので、あらためて紹介するのがめんどい。

【比較的ソフトランディング】

冬虫カイコ『みなそこにて』(全3巻)

母親の再婚に伴い、人食い人魚伝説の伝わる村に住む祖母のもとに妹とともに移住してきた中学生の一花。彼女はそこで千年という不思議な雰囲気の少女と知り合い、”変わって”いく……という連作群像劇。
各話でそれぞれ視点人物となるキャラたちの心の隙間に千年という存在が入り込んでいき、三巻、ずうっと低温のホラーが続きます。
異質な存在の異質さの描き方がすばらしいんですよね。まんがメディアの立体性を巧みに利用しているんです。これについてはあとでもうちょっと考えておきたいなあ、とおもいます。

天野実樹『ことり文書』(全3巻)

鳳家の令嬢、小鳥は天真爛漫でアクティブなじゃじゃ馬中学生。箱入り娘にしようと枠に押し込めてもはみ出してしまう危なっかしい性分で、教育係兼執事の白石をいつもヤキモキさせます。
ハートフルなまんがです。ビッグな心があなたの胸をいっぱいに満たしてくれます。
主人公の小鳥の裏表ない善良さも、白石の律儀さも、屋敷のひとびとや小鳥の友人たちといった周囲の人間たちもすべてがあったかい。
それでいて、その温かみに上滑り感やうすっぺらさを感じないのは、一見ほのぼのとした物語の深奥に切実な願いが宿っているからです。
未熟な幼鳥は巣の外に出たがるけれど、世界は残酷さで満ちている。しかし、籠のなかで愛でるばかりが鳥の幸せでもない。無垢で、美しく、こわれやすい魂をどうしたら自由に幸福に生き延びさせてあげられるのか。
そのためにはただ一方的に保護するだけではなくて、たがいに手を差し伸べあって理解しなうのが思いやることが大事なのだと、本作はさりげなく、豊かに伝えてくれます。
ハルタ直系でありつつも、ややレトロな誇張の混じったキャラの輪郭や表情もすばらしい。まさにハルタという生態系以外では生まれなかったであろう珍禽です。

藤近小梅『隣のお姉さんが好き』(全4巻)

世に「気になるコと映画をいっしょに観る」系のシチュエーションラブコメはぎょうさんありますが、これは格が違う。映画を道具に恋を描くまんがではなく、映画のように恋を撮ったまんがです。
同時に、人間同士が対等に関係することについて非常に誠実な物語でもあります。それがまた視線のメディアである映画という題材と綿密に絡んでくるのがクレバー。

黒崎冬子『平家物語夜異聞』(全3巻)

一昨年の『鎌倉殿』ブームでにわかに平家物語モノも盛り上がりを見せましたけれど、『無敵の未来大作戦』の黒崎冬子先生が料理するとやはり一味違うものが出てきます。ギャグとシリアスを自在に行き来するというか、あたかもそんな境界など存在しないかのように遊べる作家は希少です。

ムネヘロ『ムシ・コミュニケーター』(全3巻)

虫の写真が聴こえる少女の日常連作短編。虫という存在をフィクションに使うにあたってここまで死生観まで寄り添った作品はなかなかありません。このクールさを失わないでいてほしい。

ばったん『けむたい姉とずるい妹』(全5巻)

ばったん先生の描く姉妹ものです。ハイ、この時点で最高。

【惜しかった】

有馬慎太郎『地球から来たエイリアン』(全3巻)

2220年、惑星開発局生物管理局に勤める朝野みどりは地球から160光年離れた日本領惑星「瑞穂」に赴任する。生物管理局は未来の移住に備えて原生生物を調査しておくのが仕事。異星の生物を愛するみどりは未知との出会いにワクワクしていたのだが、最初に命じられたのは”危険”な原生生物を絶滅させる業務だった……という第一話からはじまる異星生物お仕事SF。
個性的な異星生物やアクもビジュアルも強い(そして時にたちの悪い)同僚たちにふりまわされながら、まっすぐな主人公が仕事へぶつかっていき、その過程で思いだけではどうにもならない思い知り、懊悩しつつも成長していく王道の作りです。人類の利己によって都合よくいじられたり滅ぼされたりする異星生物の姿は、まさに今ここで生きている動物たちとも重なり、われわれへクリティカルな問いを投げかけてきます。惜しむらくはその問いを深化できるだけの尺が本作に与えられなかったこと。そして、こずるくてブルータルなキャラを描くときのハツラツとした有馬先生をもっと見られなかったこと。

額縁あいこ『リトルホーン〜異世界勇者と村娘〜』(全2巻)

魔族の生き残りが潜んでいた村が残虐な転生勇者一行によって根切りにされてしまい、その生き残りである魔族姉妹の末妹と村娘が復讐を誓う暗黒異世界ファンタジー。万能チート勇者を悪者にするマンガは異世界転生に疎いわたしでさえそこまで斬新な趣向ではないだろうな、となんとなく察しはつきつつも、転生勇者一行のキャラ立ちがとにかく尖りまくっている。たとえば、最初に戦うことになるナイトは転生前は小学生の男の子だったんですが、年齢相応かつ彼固有の生まれつきの思い込みの激しさと残酷さによってすさまじく偏った性格になっていて、あんまり見たことないバランスの異常さを発揮しています。
このイキの良さで2巻打ち切りとは思いもよらなかった。

甲斐冬雪『変身人間ちえ』(全2巻)

突然、怪物に変身するようになってしまったヒロインを中心にした学園ラブコメ。これもザリっとした古風なタッチに奇妙なバランス(そこがよい)のまんがで、長続きはしないだろうという予感あったのですが、さすがに2巻で終わるのは酷すぎる。ラブコメというか学園群像劇で「おれたちの戦いはこれからだ」を見せられるのは……。
ヒロインを中心に造形から展開まで作者のヘキが詰め込まれたピーキーなまんがですが、是非読んで名前を覚えていただきたい作家です。

仲間只一『大東京鬼嫁伝』(全4巻)

キャラがいい。抜群にいい。ただ、それだけではジャンプという名のキリングフィールドでは生き残れない。でもキャラがね、ほんま、キャラがいいんですわ。


来年はとりあえず『下北沢バックヤードストーリー』(西尾雄太・全3巻・24年1月完結)が入るかなあ。



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ランキングといえば今年これのベストSFアンケートにお呼ばれしたので投票してます。

*1:しかし主人公のネトスト行為について彼の友人が「(自分は推しのアイドルがいるが)これはお金払って推しをネトストする権利があたえられているような状態なワケ」と忠告するシーンがありますが、ネトストされてもいい権利なんて誰も売ってないでしょ! まあ本作のネトスト行為=せいぜい常時インスタを覗く、程度という文脈の話ではありますが。

*2:かててくわえて、マンガ部ギャグとしては『いいよね!米澤先生』の高い壁が存在します

*3:あと『なぎと短編集』も入れるか迷ったんだけど、心臓に良いブログを志向しているので、みなさんをびっくりさせちゃいけないなとおもって泣く泣く外しました。

2023年に第一巻が発売された新作まんがのベスト20選+α


ランキング雑誌を信じてはいけない。
集合していると称しつつ少人数の博識に頼っているwikiの知性を信じてはいけない。不完全なアグリゲーションを信じてはいけない。metacritic を、Amazonレビューを、あなたの神を信じてはいけない。
自分自身に祈りなさい。
わたしはあなたに真理をシェアするでしょう。ハチワレが、そうなされたように。

[ちいかわ書:第八章:第二十四節〜第二十七節]

youtube.com


【レギュレーション】

・2023年内に第一巻が発売された日本語(翻訳含)作品。
・短編集、初めから短期での連載が決まっていた単発長編などは含まない(これらについては別個に記事を立てます)
・2023年内に第一巻が発売され年内に完結した作品については除外し、別の記事(【五巻以内に完結したマンガ】)に回す。
・基本的に電子版の出ている本のみ。
・同人誌・自費出版は含まない。


【20選】

まとめて眺めてみるに、うそつきの話が多くなりました。
好きなんですね、そういうの。秋津みたいに。




1.平井大橋『ダイヤモンドの功罪』(ヤングジャンプコミックス)

。いまさら説明はいらないでしょう。なんてったって、『このマンガがすごい! 2024』一位ですよ。ランキング雑誌ってやっぱ頼りになりますわ。

しかしまあ、冗談抜きに、これを褒めなかったらウソでしょう。

わたしは常日頃からワナビ(スポーツ選手含む)における才能格差を問題を扱った作品を十把一絡に「才能もの」*1と怠惰にくくっているのですが、光の才能ものの最高峰が『メダリスト』なら、闇の才能ものの最高峰はこちらといってもよいでしょう。
スポーツまんがにおける(特に初期値の時点での)天才は常人ならざる怪物として描かれがちです。天才がゆえに凡人とは異なるメンタルを持っているし、凡人とは異なるメンタルを持っているがゆえに天才なのだろう、と。それは読者にもわかりやすく、受け入れやすい造形です。たとえば、本作の主人公である綾瀬川の才能のスケール感(天才揃いのプロすらも大幅に超えた史上類のない天才)でいえば今一番近いのは将棋マンガ『龍と苺』の主人公・苺でしょうが、苺はモロにわかりやすく奇人です*2。『メダリスト』のライバル狼崎光もその名の通り、狼めいた少女として登場します。常識を超えた怪物であるからこそ、人は天才を仰ぎ見ることができる。天才の側もその特殊なメンタリティに守られている面がある。
本作は綾瀬川という天才に常人の、それもちょっと小心なまでのマインドを吹き込みました。*3「ふつうの人の心もわかる天才」というのは、通常の作劇であればいいヤツとして描かれるのでしょう。ですが才能が彼の善人性をはるかに凌駕してしまったとき、他人の人生や感情だけでなく、自分の人生や感情も狂わせてしまう。
世間一般的に、才能とは他人の気持ちを踏みにじってもよい権利と解される面もあります。すくなくとも、フィクションではそのように描かれがちです。ですが、仮に、踏みつける側にも憐れみの心があるとしたら? 大怪獣が足元の人間たちを踏みたくないと、傷つきながら前進しているとしたら?
そんな大怪獣がいたら、わたしたちはこう感じるはずです。この怪獣は狂っている、と。
つまるところ、天才が天才として振る舞うのは他人にとっても自分にとってもある種の安全装置なのです。天才と凡人の物語は「圧倒的に理解/到達不能な存在がいる」というその分断にあるのです。だからこそ、逆にその天才に届きうるかどうかのエピソードや天才にもちょっと人間味があるんですよみたいなエピソードが盛り上がる。天才の物語とは凡人を語るための道具でしかない。*4
『ダイヤモンドの功罪』はそれをひっくり返しました。もう安全地帯はどこにもありません。泣きわめきながら大怪獣が都市を破壊していくスペクタクル。そのあとに残る焼け野原。ああ、青春のストライク。ズバーンといかしたアイツだぜ。がんばれ がんばれ 綾瀬川 おまえは〜カ〜スや〜♪


2.ひの宙子『最果てのセレナード』(アフタヌーンコミックス)

共犯者。なんと甘犯、じゃなかった、甘美な響きでしょう。後ろ暗い秘密で結ばれたふたつの魂に、わたしたちは灯蛾のようについふらふらと惹かれてしまいます。『最果てのセレナード』はそんな愚かなわたしたちを食らってくれる救済の光です。
主人公の小田嶋律は若手雑誌編集者。彼女は中学卒業十周年を祝う同窓会の幹事から、無二の親友だった白石小夜の行方を訊ねられます。それをきっかけに甦る中学時代の小夜との記憶。いまや自分とも疎遠になってしまった小夜の名前をググると、ピアニストとして大成したという記事がヒットします。ちょうどそんな折、故郷の北海道で身元不明の白骨死体が発見されたというニュースが飛び込んできて……という話。

スリーピング・マーダーものであるため回想シーンが結構な割合を占めているのですけれど、これを利用したモチーフ遣いがすごい。本作ではピアノが重要なアイテムとして出てくるのですが、回想に入っていることを示すコマ外の黒塗り*5とあえて背景を省くコマの多用が白黒のコントラストをあざやかに際立たせていて、ああ、そういえばマンガもピアノも白と黒で構成されていたのだな、と発見を与えてくれます。途中で同一ページ内で、現代パートの間に回想パートが真ん中に一コマだけ挿入される、という箇所もあるのですが、これなんかもう完全に鍵盤のイメージ。そういう眼になると、もう黒塗りに細長いコマがいくつか乗っているだけでピアノに見えてしまう。おそろしいことです。北海道に積もる真っ白な雪も、そうした白黒の対比をいっそうヴィヴィッドに印象付けます。
ピアノそのものの描写もものすごくて、律が小夜のピアノを初めて聴かされるシーンでは、その音の感覚が白い泡のような、あるいは不定形の光の迸りのようなものとして描写されます。それが、次に小夜のピアノを聴く場面では、小夜は前回と違って「自由」でない状態で弾くのですが、非常に端正な楽譜の譜面として律には聴こえる。この違いが最初と二回目のふたりの心理状態の違いとその状況をめぐる異常さをえぐり出していて、しびれますね。
そうしたテクニカルなストーリーテリングがなんのためかといいますと、すべて律と小夜の濃密な関係に奉仕しているわけです。束縛の強い毒親と小夜との異常な関係、なんとか親友を解放したい律の想い、そのふたつが組み合わさった末のサスペンス。
たぶんドラマ化するするんじゃないかな。でも、実写じゃぜったいに不可能な表現がここにはあります。
ピアノといえば昨年はもうひとつ傑作があったのですが、それは短編集/単発長編を扱った別記事(予定)で。


3.大武政夫『女子高生除霊師アカネ』(ヤングジャンプコミックス)

大武政夫は去年三冊出ました。いずれも傑作です。読みましょう。とりわけ、『女子高生除霊師アカネ』は作家性の濃度においても傑出しています。
大武作品は「登場人物がウソや虚偽を強いられる状況に陥り、それを取り繕うためにウソを重ねていった結果最終的にとんでもない画にいきつく」といったエピソードが多いのですが、本作は設定からしてそれを突き詰めています。なんといっても、詐欺師の話ですからね。
インチキ除霊師である父親が有り金持持ち出してキャバ嬢と駆け落ちしてしまった高校生、アカネ。困り果てた彼女は窮余の策として除霊の仕事を継ぐことに。父親同様、当然、霊能力など持ち合わせていない彼女は時に口先三寸、時に友人らの助けを借り、綱渡りのインチキ除霊を敢行していきます。
除霊師とはいいながら、アカネの敵は例ではなく依頼者本人です。つまりは、「霊が出る」と思い込んでいる依頼者をどう納得させていくか、という、説得をめぐるミステリ劇であり、そこにはインチキなりのロジックがあります。場合によっては単に「霊は成仏した」と説明するだけではだめで、その霊が成仏に値する心境に至った、というシチュエーションを作り出さなければいけない。ここのあたりをクリシェに頼らず構築できるのが大武先生のセンスですね。
第一巻の白眉はなんといっても、テレビで人気のベテラン霊能力者(もちろんコイツもインチキ!)とのインチキ除霊バトル。上述した対人間の説得ゲームに加え、もうひとつ上のレイヤーでの説得ゲームも繰り広げられます。
昔から除霊師・霊媒師ものは多いですが、23年のインチキものとしてら『令和陰陽師』(吉田博嗣)もありました。こちらはややシリアス寄りでアカネとはまたテイストが異なります。


4.羽流木はない、篠月しのぶ『フツーと化け物』(ビームコミックス)

高校生の伊藤は他人との距離感がいまいちわからずクラスから浮いているぼっちちゃん。彼女は同じクラスメイトで、そんなに目立ちもせずにみんなとそこそこうまくやっている「ふつう」なポジションの高橋さんを羨んでいました。ところが、ある日、その高橋さんが異形の怪物と化してクラス担任を捕食している場面に遭遇してしまいます。興奮した伊藤さんはつい高橋さんに「友達になろう」と申し出ますが……というコメディ。
薄汚くした『女の園の星』こと『百合の園にも蠱はいる』で学園コメディの才覚を世に知らしめていた羽流木はないが、ついにハネました。
「ふつうの人間」に溶け込めない人間と、「ふつうの人間」を装える怪物とによる人間性ディスカッション。人間のフリをしている怪物というとそれ自体「『ふつう』の人間なんか実はいなくてみんなそのフリをしているだけ」というメタファーのようですが、フィクションの強みは寓意がそのまま現実の質量を持つことで、人食いの怪物はやはり人食いの怪物なんですね。長いこと浮世で暮らしてきたので人間味はそこそこあるのですが、ギリギリの部分でヒトとは決定的に違うところがある。この塩梅が第一巻時点では絶妙で、このあとどう転がっていくのか。楽しみです。
ところで、最近は「クラスメイトが実は人間じゃなかった(or 人間じゃなくなった)」系が多い気がしますね。二巻で終わってしまいましたがこちらもパワフルなまんがだった(別記事で扱います)『変身人間ちえ』、四季賞読切から連載にのしあがった異星人同士もの『ワレワレハ』(松枝穂積、未単行化)なんてのもありました。いま、去年コミックDaysにアップされた講談社系の新人賞系読切全部読むやつを1/3くらいまでやったんですが、その時点で読切版「ワレワレハ」を含めて二三作ある。*6以前からある類型とはいえ、近年はギャグのフックというよりはティーンの生きづらさや多様性*7を描くための土台として使われている印象です。ハートフル学園群像劇ものとともに、静かなブームとなりつつあるのでしょうか。


5.路田行『すずめくんの声』(MeDu Comics)

会社員の綿野ほのかは恋人のすずめくんと別れてからというもの、携帯に録音した彼の声を四六時中イヤフォンを通して聴いていた。そんなある日、会社ですずめくんに激似の声を持つ新入社員・高梨史に出会い、しかもその教育係を任されることに。性格などはすずめくんと全く似ても似つかない高梨だが、その声を聴いてどうしようもなくなったほのかは「付き合ってください」と土下座してしまう…という恋愛漫画
比較的シンプルめの絵柄ながら、とにかく表情の捉え方が豊かですばらしい。路田先生は、ある女性が飼っていた愛犬の魂の憑依した若い男と同棲する怪作ラブコメワンコそばにいる』や去年出た短編集『透明人間そとに出る』のようにわりとスーパーナチュラル要素強めの作風という印象だったのですが、本作ではそこらへんは抑えめ、わりとノーマル、でもキャラのどこかネジの外れたおかしさはそのままといったバランスでしょうか。
「別れた恋人とよく似た風貌の人間が〜」というシチュエーション自体は恋愛ものよくあるものですけれど*8、似ているのが声だけ、というのがまた絶妙で、ほのかは高梨が話しているだけで聞きほれてしまうんですよね。この高梨の声に耽溺するシーンがまたいい。高梨くん自体はいいひとなんですが、ほのかの執着は声にある。一方で、高梨とすずめくんは違うひとで、別人格として扱うべきだと重々わかっている。だから罪悪感に押し潰れさそうになって、どうしようもなくなる。いやそれでもしかし、もういい大人なのだからそこに割り切りをつけられる理性も働かせることができて、ほのかは泥沼をなんとか脱そうとして、成功しかける。成功しかけるのだが、そこは恋愛漫画なのだから当然障害が現れて……いやああ、すばらしい。恋愛漫画のなにがおもしろいって、人間が狂うからおもしろいんですよ。ほのかのほかにも高梨を始めとして出てくるキャラもみんなほどほどにどこかヘン*9で、ここらへんも作家の美点という気がします。


6.紫のあ『この恋を星には願わない』(it Comics)

昨年は強烈な迫力を有した百合まんがが世に多く出ました。『破滅の恋人』(郷本)、『アウトサイダーパラダイス』(涼川りん)、そしてこの『この恋を星には願わない』。
冬葵(ふゆき)と瑛莉(えり)は幼いころから大の仲良し。なにをするにもいっしょでした。冬葵のほうはひそかに瑛莉に対して恋心を抱いていたのですが、ある事情からそれをずっと胸に秘めて過ごしていました。ところが、冬葵の弟の京平が瑛莉に告白し、ふたりが付き合いはじめたことから睦まじかった冬葵と瑛莉の関係が歪みはじめていきます。
この歪ませかたが周到かつ緻密ですね。些細なすれ違いと躊躇いと臆病さがこまごまと焚べられていくうちに執着の炎を静かに強めていき、気がついたら相手も自分も火だるまになっている。なぜお互いのことを大事に思ってそのように行動しているはずなのに、結果的にふたりとも傷だらけになってしまっているのか。なぜ、言葉というのはあんなにも刺さったまま残り続けるのか。
線の細いフラジャイルな絵柄がこの話の重みに果たして耐えられるのか、読んでいてドキドキさせられます。キャラの笑顔ひとつが苛烈なまでにスリリングでサスペンスフル。
読者の心臓のどこをひっかけば良い悲鳴が出るか、本作ほど熟知している漫画もないでしょう。
百合というのは、つくづく、心臓の弱い読者には向かないジャンルです。


7.秦三子『だんドーン!』(モーニングコミックス)

ハコヅメ』連載開始当初、誰もが秦三子を見誤っていました。自身が職業警官であった経験をベースに、ちょっとキレのいいお仕事コメディを描ける、たしかに貴重ではあるけれどもよく『モーニング』が拾いそしてロクにめんどうもみないまま放り出していく、そんなスケッチ作家だとおもわれていました。『ハコヅメ』が完結*10したとき、もはやこの作家の本性を取り違える読者はいなくなりました。
芯まで凍りついたような冷たい人間観と驚くほど周到なプロットをギャグでくるんで人情に落とせる、そんな尋常でない技芸をこなせるナチュラルボーンストーリーテラーであることを秦先生は証明したのです。
さて、その資質がもっともよく輝くのはいかなるジャンルか。『モーニング』もまた先生の資質を見誤りませんでした。そう、陰謀劇です。
時はペリー来航で揺れる幕末、薩摩藩の藩主・島津斉彬の寵愛を受ける下っ端藩士川路利良は上意を受け、同僚の西郷隆盛とともに世継ぎ問題でバチバチにやりあっている幕府の政争の渦中へ放り込まれる……というお話。
主人公が川路利良というだけで山田風太郎ファンの血が騒ぎますが、それはさておき、スパイものとしての切れ味はすでにして超一級。
特に川路が敵方のスパイを二重スパイへと"籠絡"していく顛末はどんなエスピオナージュでも見たことのなかった微温的なイヤさに溢れており、まさに秦先生の真骨頂。
快活な好青年がたまたま人たらしの才能を具えていたがために他人を、ひいては時代をまるごと(しかも自覚しながら)狂わせていくさまはピカレスクロマンの風格さえ感じます。


8.田島列島『みちかとまり』(モーニングコミックス)

白状しましょう。わたしは田島列島の『水は海に向かって流れる』も『子どもはわかってあげない』もそこまで好きではありません。佳いまんがだとはおもいます。おもしろくは感じます。名作と評価を得ていることに関して不満はありません。しかし、どうしても「自分のまんが」のカゴにはいれられない。他人にとっては死ぬほどどうでもいい線引きでしょうが、ポジティブなものであれ、ネガティブなものであれ、その境界を踏みにじったらわたしはわたしでなくなってしまう。
しかし、作家は、ときにわたしをわたしでなくしてしまう力を持ちます。
『みちかとまり』。ジュブナイル日常怪奇ホラー、とくくってよいでしょうか。
8歳の少女まりは、ある日、たけやぶで寝転がっていたみちかという同い年くらいの女の子と出会います。近所のおばちゃんに引き取られたみちかはなんだか存在がふんわりとしていて学校にいかず、まりからすれば羨ましい自由を得ています。自分も学校に行きたくない……そんなまりのぼやきを聞いたみちかは「じゃあ、かわってみる?」と手を差し出してきます。その手をまりが握った途端、ふたりは入れ替わり……といった話。
現実とファンタジーの境を継ぎ目なく行き来する独特の浮遊感は、8歳である主人公の主観的な日常感覚と直結していて、そのあやうさ含めて特別で愛おしい。作者特有の柔らかい線も、作中のリアリティラインのゆらぎをうま〜く曖昧にふやけさせていて、描かれている空間そのものが独自の法則を具えたひとつの世界になっています。
田島先生がここまで常ならざるものどもをシャープに描けるひとだとはあまりおもってきませんでした。びっくりした。自分の眼の節穴さを痛感させられる今日このごろですが、まあ、そんなことばかりですよ、まんがを読んでいると。

9.飴石『開化アパートメント』(ハルタコミックス)

今年の新人王は投票制にしたらば満場一致で平井大橋でしょうが、しかし個人的にはこちらも捨てがたい。
時は大正末期。モダーンなスパニッシュ・ミッション方式にデザインされた共同集合住宅「開化アパートメント」に集う住人たちはひとくせふたくせあるものばかり。そんなかれらの秘された物語が、探偵・東条を狂言回しに語られていく。そんな連作短編形式のお話です。
大正ロマンはいつでもどこでも人気のモチーフです。ハルタコミックス系列では特に最近レトロモダンづいているのか、同じく大正時代が舞台である『煙と蜜』(長蔵ヒロコ)を筆頭に、明治舞台の『八百万黒猫速報』(浅井海奈)、昭和初期舞台の『贋―まがいもの―』(黒川裕美)、ファンタジー入っていますが昨年完結の『帝都影物語』(比嘉史果)と、まあ、なんかそのへんの年代が多い。Fellows! のころはおなじレトロでもアメリカかぶれだったくせに……。
それはともかく、『開化アパートメント』です。大正ロマン趣味をここまで研ぎ澄まして洗練した作品もよう見ません。とにかく洒脱。とにかく耽美。ハルタ直系のいい意味でバタくさく細密な画風に、見せ場ではさらにフキダシに至るまでデザインを凝らしてきます。時には実験的ですらあります。
作品世界のトーンをすみずみまでコントロールしようという欲求に漲っているわけですが、かとおもえば、探偵の助手として学ラン学帽三白眼のヘキむき出しの少年をお出ししてくる。この「全部やってやる」という野心の壮大さがデビュー作として好ましい。
話ものんびりした風土のハルタにはめずらしく、シュッと切れるような収まりのよいものでありつつ、師弟あり百合ありBLあり双子ありとすでに関係性のベースブレッドのようなまんべんなさ、その上で連作としてのコンティニュイティが意識されたものばかりで、この欲張りな器がどこまで大きくなるのか、楽しみです。


10.安原萌『凍犬しらこ』(青騎士コミックス)

デカい犬が出てくる極寒北海道ポストアポカリプス。
とにかく、犬がデカい。
それだけで人間は幸せになってしまいますね。犬がデカい、というだけでマンガを褒める理由があるのか? とおもわれる方もおられるかもしれません。なります。なぜなら、犬がデカいから。
この犬はしかもしゃべります。まあ人語を解するとかではなくて、どうも飼い主である主人公が犬と会話できる特殊能力の持ち主だからっぽいんですけど。
この犬はしかも雪でできています。理屈はよくわかんないですけど、雪でできているので人肌程度の温度でも溶けちゃうらしいです。こういうフラジャイルなボディをもっている生き物がどういう目にあうか、いや、あわせたいのか、わたしたちはとうに知っている
話としては止まぬ豪雪で閉ざされて滅びかけている北海道を、主人公とデカい凍犬しらこがあるものを求めてさまようロードノベルで、札幌だとか釧路だとか苫小牧だとかいう地名が出てきますが、いかんせん雪で滅びかけているので観光的な要素はあまりなく、『ザ・ロード』とかみたいにひたすらさびしい世界がつづきます。意外に地域レベルのコミュニティは荒廃しておらず、北海道人の理性への信頼が伺えますね。
まあそういう物語はあるんですが、このマンガはやはり犬ですよ。デカい犬ですよ。デカい犬がはしゃぐ。デカい犬が走る。デカい犬が闘う。デカい犬が溶ける。スケラッコのデカい犬マンガの金字塔『大きい犬』の大きい犬さんに比べるとやや小さめで、そのぶん奇想も薄めですが、それでもデカい犬の歓びにあふれている。


11.おぐりイコ『触レ愛』(ヤングキングコミックス)

俗に「百合に挟まる男は死ね」というミームがございます。それはそのまま「百合に挟まる男」という存在の否定であり、あるひとにとっては一種のジョーク、別のひとにとっては本気の思想であったりします。どちらの了簡にせよ、つまりはクリシェです。陳腐化したクリシェは真剣に考えるに値しないものと議論のまな板の上から棄却され、ジャンルのゴミ箱で朽ち果てていきます。
ですが、われわれはクリシェクリシェであることに甘えすぎてはいなかったか。腐った豆から納豆ができるように、有り得た可能性の発展を阻害してはいなかったか。
『触レ愛』は、そんなインターネット的な腐敗とは別の次元からやってきた、「百合に挟まる男」のオルタナティヴな未来です。ええ。自分でいっておいて、なんて未来だな、とおもいます。
クラスの一軍グループに属する小木かぶらと、陰キャぼっちの大和田和音は高校では一言も口をきかない仲。しかし、放課後になるとカフェに集って憧れの大学生店員、錦さんを仲良く愛でておりました。ところがふとした拍子から和音は錦さんと付き合うこととなってしまいます。しかも初デートでキスまで交わしてしまう。ふたりの友情は破綻してしまうのか、とおもいきや、かぶらは和音に「錦さんのキスの再現」を要求して……というお話。
まあ、いってしまうと、かぶらは和音に錦さん役を演じさせながら、ふたりがデートでの行為を、友情の名のもとに共有していくわけです。会話から、キスまで。すさまじいのはかぶらと和音の再現への執着がマンガの技法にまで伝播しているところで、たとえば(1)錦さんがこっそり和音の耳元でささやいた言葉を、(2)和音がかぶらに伝えるシーンがあるのですが、そこでは(1)のときの構図が(2)でもそっくりそのまま反復されている。(1)では囁かれる側だった和音が(2)では囁く側になる。この倒錯。しびれますね。こうした脳に良い技巧がそこかしこで咲き乱れている作品です。
恋愛の構図としては主人公ふたりが共通したひとりの男を好いているはずなのに、片方が直接男とつながり、そしてもう片方が男とつながっている方を介して男とつながっているわけで、三角関係というよりは神聖モテモテ王国よりシンプルな直線的。いや、でも想いの矢印としてはやはり三角なのか……? その上ややこしいことにもう片方のほうには名目上の彼氏がいて、なんでつきあっているのかよくわからないんですが、彼氏のほうがもう片方のことが大好きなんでなんとか男と付き合ってる方を利用して自分の彼女と男の関係も破綻させようと策動しはじめ……ふつうなら四角関係なんでしょうけど、もうここまできたらどういう形状をしているのかわかりません。おそらくカラビ=ヤウ多様体みたいな形なのでしょう。
一巻後半でややキツイシーンがあるので、そこは警告しておきます。



12.大武政夫『J⇔M』(ハルタコミックス)

大武政夫は去年三冊出ました。いずれも傑作です。読みましょう。(2)
『J⇔M』はいわゆる入れ替わりもの。中年の凄腕殺し屋Jが小学生の女の子・恵と入れ替わってしまうお話です。基本的には『アカネ』で説明した大武先生のギャグの転がし方がこれにも当てはまっていて、殺し屋J(身体は小学生)は入れ替わった事実を覆い隠すために殺しの仕事から学業まで奮闘し、その無理の過程でおもしろみが出てきます。一方で中年男性の身体になって恵のほうは一人暮らしの家で好きなだけブラブラできるから特に元の身体に戻りたくなく……というモチベーションの相反がいい味付けになっています。
いやあ、Jが殺し屋としては凄腕なんですが、私生活ではハードボイルドに憧れてやたら自分をハードボイルドに演出しようとするバカで、そのバランスがいいんですよね。でも本棚は結構ガチで、チャンドラーや大藪春彦のほかにも樋口有介とかビル・プロンジーニとか並んでる。ちゃんと読んでる人だ。
ガチといえば、大武作品としての本作の特色を挙げるなら、暗殺業務におけるアクション描写のガチさでしょう。『ヒナまつり』でもときどき片鱗を見せていたアクションセンス*11が、本作では前面に押し出されています。映画の引用ネタもけっこうあるようで、Jと恵の初邂逅はあきらかに『レオン』だし……。

13.秋ヨシカ『ミドリの台所』(FUZコミックス)

花粉を通じてあらゆる動物に寄生し身体を乗っ取るヤバい植物の蔓延した終末世界。Amazon*12の倉庫で暮らす十五歳の種田みどりは、九歳の異父妹さくらのために日々料理に家庭菜園と料理に勤しんでおりました。動物性由来の食材が払底してしまったこの世界では、強制的にヴィーガン食を強いられます。しかし食いしんぼのさくらのため、みどりは大豆を軸に創意工夫で数々のレシピを考案し明日をサバイブする活力へと繋げていく、というお話。ヴィーガンパンクというかソイパンクというか。もちろん、実質ゾンビものでもあります*13
まず本作は、大豆料理マンガ? として充実しておりまして、出てくる料理がかなりおいしそう。しかも材料はもちろんわれわれの世界にもあるものばかりだから、再現性も備わっています。自分もなんか一品作りたくなってしまうことうけあいです。
そしてその料理を軸に展開される物語がユニークですばらしい。そもそも大豆料理だけを強制的に作りつづけるシチュエーションにゾンビものを取り入れたところが発想の勝利で、まあ、先述のように食料の種類に乏しいため、並の人間だとあんまり凝った美味しい食事を作られないわけです。
そこで、サイエンスに長じた主人公のみどりが持ち前の料理の腕と知識をいかして、大豆でハンバーガーやとんかつやたまごサンドを再現していく。これが本作の終末世界ではかなりの強み。ひいては他者との交渉や交流の糸口となっていきます。もっとも、ただ料理を出してノックアウト、ではなく、そこに至るまでのキャラクターや人間関係の描写も地に足をつけて丹念に描いていきます。
ちなみに本作はかなり控えめというか、世界観でコーティングした形ではありますが、ヴィーガニズム寄り*14の態度を見せている部分もそういう点でも結構めずらしい。まあ、ほんのちょみっとではあるんですけど。


14.古部亮『スカベンジャーズアナザースカイ』(ヤングチャンピオン・コミックス)

異常な少女たちの特殊部隊が異常な世界へ飛ばされ異常な異形たちを狩りつつ超常的なアイテムを回収(スカベンジ)していく怪異ミリタリーコンバットまんが。
Amazonレビュー欄で猛り狂っているファンは口々にこんな言葉を吐き出しております。「SCP」「タルコフ」「S.T.A.L.K.E.R.」。パラノーマルな領域(ゾーン)でアノマリーをぶちのめしたり、逆にぶちのめされたりしていく絶望がお好きな向きにはなにはさておきオススメです。まあ、わたしはタルコフもS.T.A.L.K.E.R.もやったことはないんですが……。*15
とはいえ、こうしたノリや固有名詞を知らないかたがたでも、個性豊かでいたいけな少女たちが修羅場に放り込まれてどうみてもオタクの作画としか思えない銃器をぶんまわして血反吐を吐きながらタフに異形たちと撃ち合っていくマンガが好きなら好きになれます。
かつてすさまじいハンティングバトルものを世に問いながらも、俗界の無理解によって三巻で打ち切られた『狩猟のユメカ』のリベンジがここに成就するか。


15.にゃんにゃんファクトリー『ヤニねこ』(ヤングマガジンコミックス)

Twitter から生まれたバズマンガ。タイトル通り、ニコチン中毒の猫獣人ヤニねこがただひたすらニコチン中毒者としてダメな生活を送っていくギャグまんが。ときおりちらりと垣間見えるハードな世界設定も見どころ。
こんなファッキンな世の中、いかなるドラッグもVtuberもわたしを脳に効かなくなってしまいました。ほんとうにどうしようもないクズがふにゃふにゃずぶとく健気に生きているマンガだけが、わたしに生きる力を与えてくれます。末法を迎えつつあるのはこの世ではなく、わたしなのかもしれない。
あなたは?


16.スタニング沢村『佐々田は友達』(文藝春秋

16歳の大人しくて至極地味な高校生、佐々田絵美はひょんなことからこれまで接点のなかったクラスの人気女子、高橋とすこしずつ交流を深めていきます。高橋独特の距離感に戸惑いながらも、なんとか間合いを測り合っていくふたり。一方で、クラスを飛び交う色恋のドラマに佐々田はどことなく戸惑いを覚えていく……という日常学園ドラマ。
今のアフタヌーン風の(最近の阿部共実的ともいっていいかもしれない)やわらかい陰影で切り取られた、高校生活のなんでもない、しかし輝かしく美しい瞬間を連発してくる、非常に雰囲気に満ちたまんがです。いっそ格調高さすら放っているかもしれない。
一見ノーテンキに見えるクラスメイトたちにもそれぞれの悩みがあり、クラス内カーストの線引と政治があり、人間関係の駆け引きがあり、おもいやりがあり、とそういういかにも最近の学園群像劇のようですが、うるせえ、わるいか、いかにも最近の学園群像劇が好きで。ディティールはいくらあってもよいものなのです。
しかし、そんななかにあって、カメラがずっと寄り添っている主人公であるはずの佐々田の内面だけがやや見えにくい。引っ込み思案で口下手なようだけれど、けして人嫌いではないのに、その口を重くしているのはなんなのか。高橋から親しげに下の名前で呼ばれてもそれを拒もうとするのはなぜなのか……。疑問と呼ぶには些末な違和感が読者のなかで積み上がっていき、佐々田という人物に対する興味を惹きます。
学園群像劇がある種の野次馬根性で成り立っているのは否めないところですね。
ところで作者のスタニング沢村とは聞き慣れない名ですね。これは実は『実録 泣くまでボコられてはじめて恋に落ちました』や『女の体をゆるすまで』といった一連の壮絶なエッセイコミックでおなじみのペス山ポピーの変名というか、改名です。そういえば、もともとストーリー漫画志望でエッセイでも最後のほうに創作を載せて「これからはフィクションでやっていく」と決意表明をしていたような。
もともとエッセイまんがとしては正道のフィクションまんが(へんないいかただ)の技巧をかなり取り入れていた(しかもそれが巧かった)人だったので*16、フィクションを描くこと自体に意外性はありません。しかし、ここまでテクニカルなものを描ける作家だったとは、という嬉しく新鮮な驚きがあります。エッセイ出身でフィクション方面で活躍するようになった作家というと最近は『ブスなんて言わないで』のとあるアラ子が挙がりますが、ひとつルートとして確立されつつあるのかもしれません。
ともかく、『泣くボコ』と『女の体』の二作を読んでいれば『佐々田』についての読み方もややクリアになるとはおもいますが、本作については先入観を持たずに味わってほしい面もあるので、ややむつかしいところ。


17.つのさめ『一二三四キョンシーちゃん』

ひとり暮らしの小学生、おさなのもとに中国へ赴任しているパパから誕生日プレゼントとして先端科学的キョンシー・山田が贈られてくる。たしかに高機能ではあるのだけれど、どこか抜けている山田におさなは戸惑いつつも、ふたりで愉快な日常を築き上げていく。日常系キョンシーギャグ。
いやあ、いいですね。わりとシンプルな線で描かれて、キャラの眼なんかも楕円形の黒色塗りつぶしといった感じでかなり記号化されているんですが、このゆるいノリがオフビートなテイストとよくマッチしています。手足がゴムホースっぽく細長くてぐにゃぐにゃしていて、昔のアニメーション、もとい『アドベンチャー・タイム』っぽいんですよ。あれは少年とイヌのアニメでしたが、これは少女とキョンシー。だからなんだといわれれば、いまのところなんでもありません。
全体的にコミティア的な風味を残しつつも、たしかな巧さで読ませていくよいマンガです。こういうのが年に一作出てきたら嬉しくなってしまいます。まあ、ゆるかったり、オフビートなだけの作品はいくらでもあって……いやこれは空気わるくのでやめときましょう。
とにかく、もしかしたら、明日の『フイチンさん』になれるかもしれない。なれないかもしれない。どうかな。わかんない。オススメです。キョンシーちゃん。お子様の情操教育にもピッタリ。ご家庭にかならず一冊。文部科学省文化庁もオススメしなさい。


18.坂上暁仁『神田ごくら町職人ばなし』(トーチコミックス)

江戸を生きる職人たちの生き様を描いた職人時代物連作短篇。
とにかく、桶とか刀とか蔵とか、いろんなもん作ってます。それらの現場での作業の描写がちょっとびっくりするくらい豊かで細かくて艶めいています。江戸の時代の話なのに、どうやって取材したんだろう。現役の職人さんたちにあたったのかな。
とにかくこの手仕事の官能だけでも木戸賃は取れます。話もいいよ。時代物はたまにこういうごっついのが出てくるんですよねえ。


19.向浦宏和『CHILDEATH』(ヤングアニマルコミックス)

地球が自らの意志?で生み出した「魔女の森」から発生する「魔女」なる怪物たちによって人類は虐殺され、さらには「時の魔女」によって大人になったら死ぬ呪いがかけられた世界。人類は自然、12歳以下しか生き残れなくなり、子どもたちはいくつかの小グループにわかれてそれぞれの仕方で「魔女」の襲撃に抗っていた。「みんなと生き延びて大人になりたい」と強く願う主人公の鈴本モモの属するコミュニティでは子どもたちが魔女の肉を燃料として駆動する機械で飛び、襲いかかってくる魔女を討伐していた。が、あるとき、ついにコミュニティは全滅。唯一生き残ったモモはそのときに「自分は魔女の呪いで永遠に大人になれない(=この世界では死を運命づけられてはいない)」と知り、子どもたちみんなと自分自身が大人になるために魔女をすべてぶっ殺すと決意する……というポストアポカリプスジュブナイルダークファンタジー
ゴッツいです。てざわりがゴッツゴツしています。ひとことでいえば、北極かどこかで冷凍保存されていた80-90年代っぽい絵やノリや設定(鬼頭莫宏とか大友克洋とか大塚英志とか岩明均とか、あとそうそう、富沢ひとしらへん)を2020年代のテイスト(まどマギとかチェンソーマンとか)とブリーディングして誕生した謎の生命体、といった感じでしょうか。このまんがが過去に属しているのか未来に属しているのかはちょっと測りかねますが、本来2023年に存在しないはずの作品であることだけはわかる。
なんか子どもたちがいっぱい死ぬんですよ。生き残ってる子どもたちも「頭がよいと魔女に襲われる」という理由でロボトミー的な手術をみずからに施して知能を下げているんですよ*17。なんか、え、そこ切っていいの? みたいなすごい勢いで展開トバしたりもするんですよ。でもなんか伝わる気がしたりするんですよ。もうなんていいますか、ひたすらほとばしっているマンガです。作者の燃料が尽きるまでほとばしりつづけていてほしい。
それにしても、最近大友克洋に意識的に先祖返りするようなマンガが増えてきている気がするのは気のせいでしょうか。


20.福島鉄平『放課後ひみつクラブ』(ジャンプコミックス

ふしぎ学園ギャグ。コメだけど、ラブをつけるかは各自の判断によります。『ボクらは魔法少年』であんな笑っちゃうくらいにヘキを丸出しにしてなおまんがを成立させていた、福島鉄平が、またこんな笑っちゃうくらいピーキーな表現を出してきて、それでもなおなんの変哲もないまんがづらできている(できているのか?)のがすごい。まんがという枠組みの耐久テストの項目のひとつみたいな作品です。


そのほかで良かった30作

いつもはオナブルメンション枠をこんなに多く取らないような気もしますが、今年は第一巻開始まんがで単独の記事を立てたので、ついあれもこれも入れたくなりました。その途中で、以前に70作くらいあげたとき「多すぎるぞバカ」みたいなお叱りをネットのみなさまから受けたのを思い出したので半分削りました。
ゆえに、あるべきものがなにか漏れてるかもですが、そこにないものはないですね。


雪永ちっち、なだいにし『サツドウ』

サツドウ(1) (ヤングマガジンコミックス)

殺し屋よりの格闘バトルロワイヤルまんが。ギャグとシリアスの塩梅が良い。『ファブル』みたいな凄腕のファイターがふだんは常人を装っているみたいなギャップギャグもある。暗殺者たちで世界ができあがっているところがジョン・ウィックっぽいですね。


鬼山瑞樹『ぼくとミモザの75日』

ぼくとミモザの75日 1巻 (デジタル版ガンガンコミックスJOKER)

ヤクザのオヤジを殺して世話係の高身長でアバラの透けたタレ目の凄腕殺し屋お姉さんと逃避行するお話。あらゆる点でプリミティブにむき出しな作品で、作中にも作者自身にも走り切ってくれ、と願わずにはいられません。


小野寺こころ『スクールバック』

スクールバック(1) (サンデーうぇぶりコミックス)

友達にも大人にも言えないような高校生たちの悩みを、糸目で関西弁の学校の用務員さんが聞いてくれる学園カウンセリング系ドラマ。とにかく第一話の完成度がストーリー的にもまんが的にも高い。ただ、この類型の物語であのレベルを出し続けるのはやはり難しいのかな、という印象です。しかし、安定しておもしろくかつ誠実ではありつづけており、こうした「イイ話のために作りだされたマジカルな人物」が苦手な向きにもオススメ。


涼川りんアウトサイダーパラダイス』

アウトサイダーパラダイス : 1 (アクションコミックス)

あそびあそばせ』のスピンオフ……といったらフツーなんですが、中身はぜんぜん普通ではない。分類としては『劇光仮面』と同じ棚に入れていいとおもう。エンタメのために造られたものではない作者の”想い”から出てきた本物の異形たちの話という意味で。涼川先生を野放しにしたらこうなるのか……という恐ろしさを垣間見てしまい、そっと蓋をしたくなりました。こういう凄まじいのだけれど、どう受け止めていいのかわからない作品に出くわしたときに素直にベストに入れられなくなったとき、自分は老いたのだな、と感じます。


くわばらたもつ『ぜんぶ壊して地獄で愛して』

ぜんぶ壊して地獄で愛して: 1【イラスト特典付】 (百合姫コミックス)

階段の高低差を活かした詰め方(その後の視線の逆転とラストのさらに大逆転)とか、万引きしてる場面を盗撮することの二重性とか、構図がめちゃくちゃエキサイティング。くわばら先生は筒井いつきに続く暗黒百合の一等星になれるとおもいます。


はせべso鬱『俺の男魂 サクリファイス

俺の男魂 サクリファイス(1)

男子高校生が女装して女子校に入るという手垢のつきまくった設定をおもしろく料理して見せられるのは作者の力量の証。


薄場圭『スーパースターを唄って』

スーパースターを唄って。(1) (ビッグコミックス)

最近ジャンルとして目立つようなそうでもないようなな現代日本の貧困を反映したストリート系アングラ半グレもの×ラップミュージック。一巻が百点。これはすでに話題作ですね。


朝田ねむい『まだら模様のヨイ』

まだら模様のヨイ(1) (裏サンデー女子部)

朝田ねむいの非BL。遺伝子改良超人ものを日常からぬめっとスライドさせていくところが作家性というか巧さ。


みそくろ『思春期姉弟

思春期姉弟 1巻 <電子版限定特典付き> (クランチコミックス)

男女の双子の中学生がそれぞれに思春期というか性の目覚めを迎えるカミングエイジコメディ。トピックは生々しいのだが、絵のチャーミングさで巧妙に中和されている。


ニャロメロン『ドラゴン娘のどこでもないゾーン』

ドラゴン娘のどこでもないゾーン(1) (てんとう虫コミックススペシャル)

ちおうコロコロコミック連載のギャグ4コマ。ポプテピスクール(別にニャロメロン先生はポプテプフォロワーではないのだけれど)ではもっとも芸術の域に近づいている。


東村アキコ『まるさんかくしかく』

まるさんかくしかく(1) (ビッグコミックス)

東村先生が小学生時代を過ごした宮崎での回想実録エッセイ。やはりこのひとは話を盛る才能がありすぎる。お父さんのキャラが卑怯。


KENT『大怪獣ゲァーチマ』

大怪獣ゲァーチマ(1) (ヤングマガジンコミックス)

怪獣もの。怪獣ものとしてもオーソドックスさとユニークさのバランスが絶妙。怪獣にそんな思い入れとかないんですが、これは楽しく読めています。サンデーうぇぶりではじまった『Kaiju on the Earth ボルカルス』といい、最近怪獣が勢いづいてますね。


ヨシアキ『雷雷雷』

雷雷雷(1) (裏少年サンデーコミックス)

怪物異能アクション。タツキフォロワー色が濃いのですが、ポップなタッチで救われており、独自の味わいも深い。線がいいですね。


Peppe『ENDO』

ENDO(1) (裏少年サンデーコミックス)

WWII末期の日本のイタリア人収容所の話。緊迫感あるディティールが読ませます。あまり日本では注目されてなかった題材ですが、参考文献リスト見るかぎりイタリアではけっこう語られてきたらしい。


速水螺旋人スターリングラードの凶賊』

スターリングラードの凶賊 1 (楽園コミックス)

安定しておもしろい螺旋人先生の共産圏エスピオナージュ。この無常感ある戦争こそがここでしか摂取できない味なんですよねえ。


亀『バットゥータ先生のグルメアンナイト』

バットゥータ先生のグルメアンナイト 1 (ボニータ・コミックス)

ボニータが『ジャードゥーガル』の二匹目のドジョウを狙ったと思しきマイナー地域(中東)骨太コメディ。単に知識の出し入れだけじゃなくて、まんがとしても意外によくできている。それにしてもイブン・バットゥータとは、またシブい。


BLZ『電網呪相ノロイさん』

電網呪相ノロイさん 1 (アライブ+)

現代怪異バトルもの。時代に取り残されたガラケーの呪いのサイトに優位性を与えたり、バトロワデスゲームを怪異化したり、発想はユニークでおもしろい。意外に会話でギャグを組み立てるセンスがある。ワンテンポで性急なのがややもったいない。


武田スーパー『だれでも抱けるキミが好き』

だれでも抱けるキミが好き(1) (ヤングマガジンコミックス)

『友だちとして大好き。』亡き今、性欲と性愛の境についていちばん真摯に考えているまんが。しょうがないんですよ。連載先がアフタヌーンじゃなくてヤンマガなので。


堤葎子『生まれ変わるなら犬がいい』

生まれ変わるなら犬がいい(1)【電子限定特典ペーパー付き】 (RYU COMICS)

クズ男が死んだ飼い犬に見えるようになってしまったお嬢様が男を飼う。これも絵がいい。 奇妙ですが、切実ですよ。こういうのに弱い。


うごほりさん、okama『無冠の棋士、幼女に転生する』

無冠の棋士、幼女に転生する【電子単行本】 1 (ヤングチャンピオン・コミックス)

うだつのあがらない中年プロ棋士が幼い子どもに転生して今度は羽生に勝とうとする話。才能と子どもの話なのでOkama先生がいきいきしてはります。転生もののわりには俺TUEEE要員がいろいろ意図的に排されている(転生先で将棋の知識が曖昧、双子の妹の方が才能があるなど)のが興味深い。


うぐいす祥子『僕に殺されろ』

僕に殺されろ(1) (月刊少年マガジンコミックス)

スプラッタホラーコメディ。名前だけで買っていい作家のひとりです。 一発でしょーもなくするオフビートさが今回も活きている。


松本ひで吉『いきものがたり』

いきものがたり(1) (モーニングコミックス)

動物おもしろ生態紹介エッセーとしては目の付け所が抜群にキャッチーでおもしろい。


見ル野栄司『デスクリエイト』

デスクリエイト(1)

デスゲーム管理・制作もの。前例がないわけではないではないのだが、それ自体をデスゲームにした上に原作者の専門知識が活かされているのはフレッシュ。設定はかなり無理があるけどまあいいだしたらデスゲームものみんなそうなので。


飯野俊祐『偏愛ハートビート』

偏愛ハートビート 1 (ジャンプコミックスDIGITAL)

出合頭のインパクトがとにかく強烈。


冬野梅子『スルーロマンス』

スルーロマンス(2) (コミックDAYSコミックス)

最初は向いてないんじゃとおもったけど読み進めてみると存外にスクリューボールコメディとして上質。


諏訪符馬『逢いたくて、島耕作

逢いたくて、島耕作(1) (モーニングコミックス)

島耕作世界で島耕作オタクがループする話。島耕作スピンオフでは出色の出来。島耕作読んどいてよかったと思わせられる。そんなことって人生であんまりないじゃない?


玉置勉強『突発的クリエイトファミリー』

突発的クリエイトファミリー 1 (MeDu COMICS)

45歳の落ち目のライトノベル作家がひょんなことからまるで関係のない行きずりの女の息子を引き取って共同生活することになるコメディ。子どものほうもイラストの上手いオタク少年で、互いにクリエイターとして論を戦わせ?る。そこそこ年を食った作家の感覚がおそらく作者と直結していてリアル。玉置勉強版の『秋津』。


郷本『破滅の恋人』

破滅の恋人 1 (楽園コミックス)

贅沢過ぎる狂気。これは読んどくといいですよ。好む好まないはともかく。


森高夕次『四軍くん(仮)』

4軍くん(仮) 1 (ヤングジャンプコミックスDIGITAL)

都立で都大会ベスト4までいって調子こいてた球児がロクダイに入ったら四軍スタートで絶望するところからはじまる大学野球まんが。二巻でサブキャラたちのバックストーリーが描かれる。準野球エリートたちの質感のよさが際立っています。森高夕次はここくらいのポジションを書かせるとやはり抜群です。


川田『アスミカケル』

アスミカケル 1 (ジャンプコミックスDIGITAL)

高校生格闘マンガ。こんなレッドオーシャンのジャンルをまっすぐに描いておもしろくできるのはやはり横綱の風格。


これまでの新作連載年間ベスト

proxia.hateblo.jp
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*1:ほんとうはもっと意地汚い用語をつかっているのですが、内輪ネタなのでやめておきましょう

*2:テクニカルな戦略というより、作者の柳本先生のヘキなのだとおもわれますが

*3:主人公が強くなり続けた結果、読者が遡及的に「あいつもどうかしてる天才だったんじゃん」と気づく作品はままある。

*4:そこを突き詰めたのがまさに『龍と苺』の達成といえるでしょう。

*5:回想の表現としてはよく見られるやつ

*6:オススメは間宮ミヤ「アカネの自由帳」https://comic-days.com/episode/4855956445053723654

*7:人外ものをダイバーシティのメタファーとして扱うまんがが『BEASTERS』以降はとみに増えました

*8:寝ても覚めても』とか

*9:高梨は「好きな人が自分を好いてくれるならあまり形には拘らない」(でもだんだんそのことで傷ついていく)というメンタリティで、ここは『ワンコそばにいる』と似ています

*10:第一部完みたいな感じでしたが

*11:たとえば、15日まで公開されている第八話 https://comic-walker.com/viewer/?cid=KDCW_EB06204023010008_68&dlcl=ja&tw=2 では「換装時の射出のいきおいで銃のマガジンを飛ばして敵に当ててひるませ、そのすきにマガジンを交換し、態勢を立て直しかけた敵の腕をまず撃ち抜いて、直後に仕留める」というジョン・ウィックみたいなくだりが出てきます。

*12:特定の企業名は作中で挙げられていないがどう見てもAmazon

*13:キノコの胞子を媒介にしてゾンビになる話は『The Last of Us』や『マタンゴ』などちょいちょい見かけますが、植物の花粉でゾンビになる設定はゾンビものとしてめずらしい気がする

*14:一部アニマルウォルフェア的

*15:FPSニガテアルからね。『CONTROL』は好きヨ。

*16:余談ですが、エッセイまんがにおいてはフィクションまんがの技巧がうまければうまいほどなんかエッセイまんがしての強度は弱まる、という仮説を立てたことがあります。その話はいつかしたいな、とおもっていますが、まああんまりできる機会はなさそう。

*17:ラニュークの「ZOMBIES」みたいだ