名馬であれば馬のうち

読書、映画、ゲーム、その他。


読書、映画、その他。


ゲームの夢、映画の魔――『IMMORTALITY』について

(本記事は本ブログに珍しく、あまりネタバレが含まれていない。ちょっとはあります)




 君という光が私を見つける 真夜中に



 宇多田ヒカル「光」


(本編より)



視覚芸術分野において「見ることと見られることについての作品」というフレーズで評することは若干の気恥ずかしさを伴う。使い古された表現であるという以上に、映像の本性がそういうもので、いってみれば(特に映画は)すべてに見る見られる関係を見出せるからだ。論の起点としてはよいのだが、それだけではなにも射抜いてないにひとしい。


とはいえ、「これは見ることと見られることについての作品だ!」と騒ぎたくなる作品はある。そうしたテーマが意識されているものを立て続けに観ていると特に。わたしは最近『NOPE』を観た。『心霊マスターテープ EYE』を観た。『隣のお姉さんが好き』を読んだ。『ブロンド』を観た。『アフター・ヤン』を観た。どれもがそのようにあった。
いずれも映画であり、連続ドラマだ。ゲームではない。ゲームにはふつう「カメラ」があるから。ビデオゲームにおける原罪とは「操作することと操作されること」であり、メタ要素もその局面に顕れる。
つまりは、生命の存在を撮ってしまうことによる罪悪と、非生命に取ることで命を吹き込んでしまうことによる罪悪の違いだ。窃視か、創造か。あなたはどちらで罰せられたいのか。
ゲームがいかに映画を夢見て映画に近づき、映画的な演出が可能なほどのグラフィックと容量を持ち得たとしても、究極的には映画そのものになれない(というか、なる必要がない)理由もそこにある。*1
逆もまた然りだ。映画がどれほどプレイヤーとゲームとの密接な距離に嫉妬したとしても、ゲームにはなれない。

(『ブラック・ミラー:バンダスナッチ』より。朝食のシリアルも選べる)



Netflix の実写インタラクティブドラマ『バンダスナッチ*2は、映画を夢見たゲーム、あるいはゲームを夢見た映画としての失敗のよい見本だ。
ゲームブック的な選択を愚直なまでに貫いて、膨大な数の分岐すべてに映像を用意する。二億人を超えるネトフリの契約者たちがいまだに一人として見たことのない分岐もあるという。狂っている。しかしその狂気じみた物量がなければ、「映画でゲームをやる」夢は見られなかった。*3そして、その夢は現実にはならなかった。あなたがネトフリと契約しているなら実際に観てみるといい。失望が味わえる。それはゲームのできそこないであり、ドラマのできそこないだ。「コントロール」できることがゲームの醍醐味であるはずなのに、選択分岐式のフルモーションビデオゲームではプレイヤーにはあれかこれかという限定的な支配権しか与えられない。その感覚はゲームと映画に共通する美点である没入感を蒸散させる。しかし、歴史の一部を目撃できているのかもしれないという感覚を持てるという点では、体験に値する失望ではある。
実写FMVゲームの理想といえば、テキスト的な選択肢に限らないプレイヤー=キャラの行動や決断がゲームの筋に影響を与えていくような形だろうが、それは実写でなければすでにクアンティック・ドリーム社のデイヴィッド・ケージが『Detroit: Become Human』で完成しており、そして現在のシネマティック3Dゲームは実写に嫉妬しないでいられるほどには実在感を獲得できている。このまま技術が発展していけば、やがては実写と見紛うルックに達するかもしれない。そのとき、真にインタラクティブなFMVゲームが完成するだろう。そのころのわたしたちがそうした種のエンターテインメントを求めているかは別にして。
 

では、映画とゲームはその未来まで幸福な結婚を成就できないのか。
そのとおり、とわたしは答えていた。そもそも映画は映画によって語られるものであり、ゲームはゲームによって語られるものだ。交雑させる必要もない。そう考えていた。



そこに『IMMORTALITY』が現れた。


『IMMORTALITY』は『Her Story』や『Telling Lies』、そして『#WARGEMES 』*4などを制作したサム・バーロウの最新作*5である。
とだけいえば、インディーゲームファンならだいたいどういうゲームか想像できるだろう。わたしもできるならばあなたの知識と想像力にフリーライドして楽をしたいのだが、いちおうワールドワイドウェブは万人に開かれた公共空間であり、この記事もまた万人に開かれた文書であるので、いちおうゲームの概要を説明したい。


『IMMORTALITY』は200を超える実写の映像クリップから成る。三本の未公開映画(『アンブロシオ』*6、『ミンスキー』、『トゥー・オブ・エブリシング』)の撮影カットとそのリハーサルシーン、ホームビデオ、TV番組の録画映像などだ。プレイ開始時点ではほとんど映像クリップは表示されていない。プレイヤーは映像中に映されている人物やアイテムを選択すると、そこからハイパーテキスト的な要領で共通する要素を保つ別の映像へとジャンプすることができる。そうやって未発見のクリップを探し出していくわけだ。
三本の長編映画には共通してある女優が出演している。マリッサ・マーセルという名の人物だ。将来を嘱望されたスター候補だった彼女は三本の作品がそれぞれの理由で不幸なお蔵入りとなったのち、現在は行方知れずとなっている。プレイヤーの目的は失われたフィルムの再構成を通じて彼女の人生の物語を追うことだ。
ただし、本作には(サム・バーロウの過去二作同様)「正解」を示してくれる明快なエンディングもなければ、途中途中であなたの理解を確認してくれるような採点システムもない。選択肢だって一度も表示されない。
アイテムや人物をたどりながら、ただ映像を観ていくこと。それだけが本作におけるゲームプレイだ。あまりおもしろくなさそうに見えるでしょう?

(本編のメニューより)



どこまでを明かすべきか迷う。
あなたが「それ」に出逢う瞬間の驚き、歓び、そして怖れに一点の曇りもあってほしくない。本作は他のあらゆるゲームと同様に、なんの前情報も与えられずにプレイすべきだ。疑いなく人を選ぶゲームではある。しかし、選ばれなかったことすらも代えがたい経験にしてくれる作品というのはある。



そのものではなく、その影ををなぞっていこう。そうすることが本作にとってもふさわしいはずだから。


映画のメタ性についての話まで戻ろう。映画は「誰がこの映像を撮っている/見ているのか」という問いに行き着いた瞬間に虚構性を暴かれて立ちいかなくなる。だから、たいていの作品では作り手も観客もわざとそこを無視する相互的な了解を交わしているわけで、いってみれば甘い犯罪のようなものであり、そこをグダグダいうとるようでは一生映画なんて観られない。
『IMMORTALITY』の作者であるサム・バーロウは、やはり断片的な実写映像によるアドベンチャーを試みた過去二作品において「誰がこの映像(=画面)を見ているのか」について自覚的だった。
『Her Story』でも『Telling Lies』でも「誰」がそのビデオを観ているのかは作中で設定されていて、ときおりホラーのような演出で画面に「観ている顔」が反射する。
その顔はプレイヤーの顔ではない。なぜなら記録映像とその映像を観ることはプレイヤーの人生に関係ない。
バーロウ作品における映像の大半はプライベートなものだ。『IMMORTALITY』の核心をなす映画群ですらどれも未完成かお蔵入りの作品だ。
そうした映像を観る主体は匿名で大勢で交換可能なプレイヤーである「あなた」ではありえない。実際、『Her Story』や『Telling Lies』ではあなたと映像のあいだに第三者を媒介にしている。ところが『IMMORTALITY』ではその隔壁が取っ払われ、あなたと映像が直につながった作品となっている。まさしく、「あなた」がその画面を見ているのだ。物語レベルでそのような作りにするのはいかにも容易なことだけれど、ここで注目されるべきはジャンル的な安易なツイストではない。そのように語られるためにどんな道具立てが用意されたのかだ。


(本編より)


加藤幹郎の『映画館と観客の文化史』によると、80年代にVCR(ビデオ・カセット・レコーダー)の普及により、ノンリニアで反復的な能動的見方をすることが可能になり、「映画を見る」ことから「映画を読む」ことが(映画業界に直接関わらない個人でも)できるようになったという。ここからシーンにおけるコマ数の比較やコマ単位でのカットの変化などを分析する計量映画学*7が産み出されたわけだけれど*8、『IMMORTALITY』においてあなたはまさしくコマ送りやスローモーションや一時停止を駆使して映像を「観る」というより「読む」ことになる。
映画あるいは映画であることの定義は百家争鳴の有様*9だけれど、家庭用映像ソフト登場以前は時間的な不可逆性もおそらく要件の一つだった。
映画の時間は、映画の物語内部ではもちろんさまざまな時間操作が行われていたによせ、現実と同じ流れのなかにあった。その時間の流れはわたしたちには介入不可能で、不可触で、堅固だった。
見ているものしか見えない。それがかつての映画の特性だった。
レーザーディスクやビデオの普及によって巻き戻したり停止することが可能となり、どうなったか。
見えないものが見えるようになった。*10



それはたとえば、幽霊。



心霊映像の多くは一時停止と画像的な引き伸ばしによって霊の存在を指摘する。それらは、その映像をふつうに視聴していた場合には見逃してしまう細部として語られる。厚みを持った映像を薄い一枚の画像にスライスすることで、ようやくわたしたちは霊を視ることが可能になる。
かれらはどこから来たのか。
ベンヤミンは言う。スローモーションには既知の運動のなかに未知の要素を見いださせる機能がある。
そのベンヤミンの言う視覚的無意識を霊へと敷衍した木澤佐登志は言う。「霊がいるからビデオを撮影するのでない。逆である。ビデオを撮影するからそこに(不可避的に)霊が取り憑いてしまうのだ」*11


写真が誕生当初からオカルトやスピリチュアリズムの温床だったことをあなたはどこかで聞いた覚えがあるかもしれない。考えてみれば不思議なことで、ふつうなら現実をありのまま精確に切り取る写真に「ありのまま」以上の要素など見出せないはずだ。ところが初期の写真技術はむしろその精確さと錬金術めいた光化学プロセスゆえに人の眼には見えないもの*12まで”精確に”観測することができるものと期待された。*13
そして、心霊写真家が多数出現することとなる。

(ユジェーヌ・ティエボーの心霊写真。おっさんのオーバーなポーズが愛らしい)



当時のインチキ心霊写真では同じプレート*14で二度撮影する二重露光がよく用いられたという。二重露光(二重露出)は心霊写真の基本技術であり、ダゲレオタイプから百数十年経った時代の日本のホラー映像作品でも二重露出による幽霊表現が使われていた。*15そのことを述べた『ホラーの作法 ホラー映画の技術』で小中千昭は写真・映像のなかの霊についてクリティカルな指摘をしている。「霊魂の顔は、いずれもボケた感じがしている。ボケとは何か。レンズの焦点距離から外れた像だ」。


本来フォーカスしていない対象を過剰に視ること。それこそ映像のなかの霊に出会うための手段だ。映像の媒体も霊媒もどちらもメディウムと呼ばれる。そう、わたしは今『IMMORTALITY』の話をしている。サム・バーロウが本作において最も意識したと公言する*16二作品のひとつ、『CURE』*17の監督である黒沢清はこう言った。「「存在していること」が「見ること」によって保障され、同時に「見ること」の可能性が「存在そのもの」によって極限まで高められる、これが作る側と見る側とが共に経験する映画というプロセスなのではないでしょうか。そして、見るためには当然光が必要です。光があれば、突然反対側に闇ができます。これが映画というものです」。*18この言葉を額面通りに取るならば、『IMMMORTALITY』は映画だ。いかに内部の収められた三作品*19が映画としてぎこちなく、物語としてそそられないものであったとしても、態度においてそうある。

(本編より。クリップには台本の読み合わせやリハーサル、日常風景の場面も含まれている)



『IMMMORTALITY』において、あなたは観客でもあると同時に編集者でもある。あなたがプレイの過程において、クリップを再生したりコマ送りしたりする作業は「本来この映像の編集に使われいたと思われる機器」*20であるムヴィオラを再現したコンピュータソフトを通じて行われているという設定だ。ムヴィオラはアナログな編集機材で、70年代くらいまでハリウッドのスタジオではこの機械で編集作業を行っていた。*21
ゲームプレイにおいてあまりにも些末なこの設定は、しかし本作の本性に迫る上で重要な要素でもある。
あなたは編集作業を行っているのだ。三本の映画にもなっていない映画をランダムに行き来して、バラバラで空白だらけのクリップを頭のなかで補完し、その語りと物語をひとつらなりにつないでいく。自分だけの解釈を作っていく。それは『Her Story』や『Telling Lies』でも試みられてはいたが、映画というメディアを背景にした本作ではより核心的なものとなる。
映画以外のメディアで映画について語ろうとした作品はいくつかあり、なかにはスティーヴ・エリクソンの『ゼロヴィル』のような傑作も存在するのだが、しかし作品受容体験を映画そのものと一致させようとしたものはあっただろうか。映画自身でさえ、そんな芸当は不可能だった。それはクリエイションの体験を受け手と共有するには、フラグメンタルでノンリニアな語りだけでなく、能動的な再構成への挑戦も促さなければならないからで*22、(その受容形態の変化にも関わらず)受け手が直接に触れることを想定していない*23映画には『IMMORTALITY』のような語りは可能なようでいて不可能だ。*24



『IMMORTALITY』は映画を夢見て実際に映画になっているのかもしれない。一方で、ゲームにしかできない仕方で映画を語ってもいる。唯一であることはかならずしもおもしろさを保証しないけれど、無二の達成をしていることはたしかだ。
見返される視線は一方的な権力関係の転覆と双方向性を表す。
そうした視線がふさわしいゲームは現状『IMMORTALITY』以外には存在しない。



*1:そして、似たような理由でアニメーションは映画ではない。よく勘違いされがちだが、「映画ではあること」は優れたメディウムであることの証明ではない。

*2:精確にはドラマ・オムニバス・シリーズ『ブラック・ミラー』のスペシャル・エピソード

*3:ゲーム側からのアプローチ――フルモーションビデオゲーム作品で『バンダスナッチ』と似たようなADVをやろうとした作品はいくつかある。近年ではトビアス・ウェバー監督の『Late Shift』(2016年)、そのパブリッシャーだった Wales Interactive が Good Gate Media と組んだ『The Complex』(2020年)などの一連の作品群、日本では小高和剛の『デスカムトゥルー』などが知られる。興味深いことに『Night Trap』(1993年)などの黎明期のFMVゲーム作品はシンプルに選択肢によって分岐するインタラクティブ・ムービー的な形態をあまり取らなかった。「分岐する映画」を作るには容量と予算が足りず、パズルアドベンチャーにしたりポイントアンドクリック方式にしたりなどの工夫が求められたらからだろう。映画側からの「インタラクティブ」な物語分岐のアプローチとしてはまずギミック映画の巨匠ウィリアム・キャッスルの『Mr.Sardonicus』(1961年)が挙げられる。「二通りあるラストの結末が観客の投票によって選ばれる」という趣向だったが、現在では、実はキャッスルは「二通りのフィルム」など用意しておらず、ストーリーとナレーションによって観客を一意の投票行動に誘導していたとする説が有力(柳下毅一郎『興行師たちの映画史』)。そういうわけで、事実上のインタラクティブ・フィルム第一号はモントリオール万博のチェコスロバキア館で公開された『Kinoautomat』(1967)とされる。これは途中の九つの分岐ポイントで上映が中断され、司会が主人公の行動に関して観客に二者択一の投票を行わせて、それによって物語が分岐していくもの。万博でナンバーワンの人気を集め、そのアイデアに魅了されたハリウッドがメソッドの輸入を試みたがチェコスロバキア共産党によって阻まれたという伝説まである。選択分岐式実写FMVゲームの詳しい歴史については本記事の本題ではないので、またの機会に回す。またアニメーションによるFMVは巨匠ドン・ブルースによる『Dragon’s Lair』(1983年)からデイヴィッド・ケージ作品やDONTNODの『Life is Strange』シリーズ、スーパーマッシブゲームズの『Until Dawn』などに至るまでの長い別筋の歴史があるが、これも今は措く。

*4:日本ではほとんど知られていないが、映画『ウォーゲーム』を原作としてハッカー文化をフィーチャーしたインタラクティブウェブビデオ。無料で遊べる。https://eko.com/wargames-xboxcopy

*5:そして彼の開発会社である Half Mermaid のデビュー作

*6:マシュー・グレゴリー・ルイスの小説『マンク』 The Monk の脚色という設定

*7:シネメトリクス。アニメーションの場合は計量アニメーション学とも

*8:北村匡平『24フレームの映画学;映像表現を解体する』、加藤幹郎編『アニメーションの映画学』

*9:特に最近はネット配信がらみで「『複数人の観客がひとつの画面に視線を注ぐこと』を『映画』の要件に入れるかどうか」(たとえば、リュミエールこそ映画の始原と信じる人々はこの条件を「入れる」ほうの定義を取る)でビデオ時代以上にマニア的にも商業的にも論争が繰り広げられているのだけれど

*10:見ることは啓示であり奇跡であるけれど、読むことは祈りやまじないに近い。止まり留まり戻りを繰り返すことで行間から神秘の徴を掬い取る、あるいは幻視する。再読は精読のためではなく、誤読のためにこそ行われる。

*11:木澤佐登志「霊は細部に宿り給う、とでもいうのだろうかーー『ほんとにあった!呪いのビデオ』のクリティカル・ポイント」『霊障 vol.1』心霊ビデオ研究会

*12:たとえば、流体(fluid)。エーテルとか動物磁気などと呼ばれ、空気中や人体の周囲を取り巻いていると考えられていたそれらの物質を写真は捉えられるのではないか、そう考えられていた。

*13:『写真のボーダーランド X線・心霊写真・念写』浜野志

*14:フィルムに相当

*15:もっといえば、映画はその誕生以前から幽霊を弄んでいた。十八世紀末のイリュージョニスト、エティエンヌ=ガスパール・ロベールが幻燈機を利用して行ったファンタスゴマリアと呼ばれる幽霊ショーがそれだ

*16:https://www.washingtonpost.com/video-games/2022/09/16/immortality-sam-barlow-interview/

*17:もうひとつは『インランド・エンパイア

*18:黒沢清、21世紀の映画を語る』

*19:小説家でもあるアメリア・グレイ(バーロウの前作である『#WARGAMES 』が『Mr.Robot』とからんでいるので、その関係もあっただろうか)、『ワイルド・アット・ハート』の原作者にして『ロスト・ハイウェイ』の脚本家であるバリー・ギフォード(『IMMORTALITY』に限らずバーロウ作品はデイヴィッド・リンチの影響が絶大)、バーロウが本作の影響元のひとつに挙げている『赤い影』の脚本家アラン・スコットの三人がそれぞれ脚本を担当している事実は非常に重要。

*20:ゲーム中のガイドより

*21:マイケル・カーンは05年に『ミュンヘン』でアカデミー賞最優秀編集賞にノミネートされたときまでムヴィオラを使用していたという。

*22:ミステリにおける「なぜ読者は読者への挑戦状を受け取らないのか?」という問題とも似ている

*23:触れ得ないことが映画の神聖さでもある

*24:そうしたものに接近した例としては本作でもリスペクトが捧げられているデイヴィッド・リンチがいて、というかリンチを観たせいでバーロウもこんなものを作ったのだとおもうのだけれど、観客はともかくリンチ自身は『IMMORTALITY』的な方向性に興味があるようには見えない

引用のためらい、パロディのあわい――岡田索雲『ようきなやつら』について

(本記事は岡田索雲『ようきなやつら』のネタバレが含まれています。といいますか、すでに読んでいる読者向けに書かれていてネタバレすらすっとばしているところがあります。ご注意ください。)
(ネタバレなしの紹介としては↓でV林田氏がこれ以上ないものをやっているのでそれ読んで)
manba.co.jp


 歴史を書くとは、歴史を引用することである。
   ――ヴァルター・ベンヤミン



 岡田索雲の『ようきなやつら』は大小さまざまな引用とパロディから成っています。それらをいちいち指摘していくのはこの記事の目的とするところではありません。ぜんぶ拾うのはそりゃ無理だろうしね。
 興味があるのは、それらがどのようなやりかたで行われているかということです。
 というわけで、わかりやすくデカいところからはじめましょう。ここらへんはだいたい言わなくてもわかるでしょうからすこし冗長かもしれません。


「忍耐サトリくん」のパロディ

「サトリくん」は、人の心の声が聴こえてしまう(=妖怪のサトリ)であるがゆえに他人に関わることを拒んで殻に閉じこもってしまう高校生サトリくんと、その心をなんとか開こうと試みる担任教師の対話を描いた物語です。
 本編で大きなウェイトを占めているパロディ元はふたつ。冨樫義博の『幽☆遊☆白書』と、和山やまの『女の園の星』です。前者は主にサトリくんのほうに、後者は教師のほうに割り振られています。
幽☆遊☆白書』には、〈仙水編〉と呼ばれるチャプターで室田というボクサー志望の男が出てくる。この室田に「人の心の声が聴こえる」という特殊能力があるんですね*1。「妖怪サトリ」という題材と幽白はこうした明白な共通項によって結び付けられたわけです*2
 パロディにはメディアによってさまざまな仕方がありますが、「サトリくん」ではコマ割り、ポーズ、セリフなどで表現されます。

(「忍耐サトリくん」より)
(『幽☆遊☆白書』より)
(『幽☆遊☆白書』より、室田)
(「忍耐サトリくん」より)


 ここで重要になってくるのが直接的な参照先の室田ではなく、参照先のチャプターのラスボスである仙水の存在です。仙水は最初は人を守るために活動していたはずだったのが、人類の醜悪な側面を目撃して闇堕ち、人類に敵対するようになったという人物。『幽白』の主人公である浦飯幽助の「ありえたかもしれない」裏面ですね。
 この仙水が『幽白』において「人類の醜悪さを目撃」した瞬間こそ、上で引用した「うわあああああ!!!」のシーンなのですが、「サトリくん」においてもちゃんと文脈が踏まえられている。単に変顔をパロってウケるよね、という以上の効用があるわけです。
 のみならず、担任教師の心の声を聴いてサトリくんが頭を抱えるシーン(=『幽白』で室田が仙水の心の声を聴くシーン)では、担任のほうに仙水のキャラが分配されています。すなわち、闇が深い、恐ろしいパブリック・エネミーであるというキャラづけです。 
 このように、かならずしも一対一対応でなくとも使いでを拡張できるのがパロディによるストーリーテリングの美点ですね。


「サトリくん」の担任教師は言葉の上では生徒と真正面から向き合う良い先生なのです。が、秘された心の奥の奥のほうではすさまじい悪を宿しています。そうしたキャラクターである担任教師のキャラデザに『女の園の星』の星先生を採用したのは、またなんというか、絶妙なチョイスですね。*3

(『女の園の星』より)
(「忍耐サトリくん」より)


 ほかの学園・教師モノとひと味違った『女の園の星』における教師と生徒の独特な距離感が「サトリくん」においても効いています。外見と口調と空気感をいただいた感じで、キャラの中身としてはそこまで寄せていません。
 ただネタを持ってくるのではなく、繊細にパラメータを調節して物語に奉仕させるのは実は結構難しい。パロディは元ネタそのものにインパクトがあるものが多いですから、うまくしないとその重力に引っ張られて「作者のまんが」ではなくなってしまいます。『ようきなやつら』単行本あとがきによると、岡田索雲は明確に書きたいメッセージを込めるタイプの作家であるようですが、それでいてパロディという一種他人に身を委ねる技法を効果的に使えるのは驚くべきことです。これは引用にもいえます。
 パロディのパンチ力を活かしつつも、ネタ元の文脈をきちんと織り込み*4、作者の作品としての芯も通っている。バランス感覚において出色の一本です。

「猫欠」のオマージュ

 四篇目に収められている「猫欠」の語り口は作品集中でもほんのり特異です。
 引きこもりになった化け猫の話で出演者は全員ネコ。視点キャラクターであるネコの語りによって進んで行くわけですが、丸フキダシや四角フキダシで括られたナレーションのほかに、語り手の内心の吐露として枠のないセリフも出てきます。
 フキダシなしのセリフ・ナレーション・内語自体は他のまんが*5でもよく見られる表現ですが、本短編集の他の作品ではほとんど用いられていません。唯一の例外はさきほど取り上げた「忍耐サトリくん」の先生の「本心」描写でしょうか。これだってパロディを背景にした特殊な例であり、つまり、「フキダシなしセリフ・モノローグ」はこの作者本来のスタイルではない。*6
 では、この「フキダシなしセリフ・モノローグ」はどこからきたのか。『幽白』のときと違って明白な証拠があるわけではないので推測が混じるのですが、おそらくやまだ紫の短編集『性悪猫』だとおもわれます。

やまだ紫『性悪猫』。あなたがたに読んでほしくないレベルのウルトラ超傑作)。)

 
「猫欠」と『性悪猫』のスタイルはよく似ています。ネコたちがメインキャラであり、主として二匹のネコ同士の会話で物語が進むこと。ネコたちが人間のように考え、しゃべり、にもかかわらず作中で描かれるネコたちの姿態はまんが的にカリカチュアライズされたものでなくリアルなネコの日常的な動作を切り取ったようなものであること*7。独白がやわらかさ帯びた叙情的でどこかフェミニンなセリフ回しであること。「やさしい」というワード。そして、フキダシなしセリフ・モノローグと吹き出し会話が入り交じること。



(「猫欠」より)

(『性悪猫』より)

 
 一方で「サトリくん」と異なり、直接的なコマの引用・パロディはなされません。
 つまり、「猫欠」におけるオマージュ*8は語りのスタイルこそが重要なのです。
 やまだ紫は日常にある痛みや困難や喜びを人生という視野から詩的に拾い上げる作風*9で、『性悪猫』もそのうちなのですが、そういった要素にネコ同士の対話が絡んでくる。不可能を承知で、ひとことで言うとしたら「やさしさ」と「あたたかさ」*10*11のまんがです。おさまりのよい形に削れない心をそのままに抱え込む空気感を岡田索雲は「猫欠」に加えたかったのではないか――という気がします。*12完璧なトレース(インターネットであなたがたが使っているような意味ではない)に固執してようにおもわれないのも、あくまでテイスト程度に留めておきたかった計算があったのではないか。

(「猫欠」より)
(『性悪猫』より。このコマについてはパロディではなく偶然でないかと思う)


 そして、実は『性悪猫』的なスタイルは語り手となっているネコを通した世界観であることにも留意しておきたいです。
 というのも、化け猫を責めたりなだめたりするネコたちはあんまり『性悪猫』っぽくない*13やまだ紫的な包容力と広い(というか長い)視野を持ったネコは語り手だけであり、だからこそ化け猫を外へ連れ出すことができたのではないでしょうか。

「サトリくん」ではコマ単位での直截的なパロディを行いつつも、作品のテイストや空気感を作者のほうでコントロールすることでまとまりを出していたわけですが、「猫欠」ではテイストや空気感を作者の「外」に一度預けることでより作者のやりたいことを果たしたといえます。
 そう、パロディ・引用・オマージュは他者を取り込むことである部分を作者のコントロール下から切り離し、それによって作品の可能性を拡げるのです。
 そして、『ようきなやつら』ではより思い切った引用の試みがなされます。
「追燈」です。

「追燈」の引用

「追燈」は関東大震災直にみまわれた東京を、しゃべる提灯をぶらさげながらさまよい歩く少年の物語です。
 誰もが度肝を抜かれるのは終盤の十ページにもおよぶ引用文――関東大震災時の朝鮮人虐殺についての証言でしょう。
 黒地の背景に丸く切り抜かれた部分に引用文献(末尾に添えられた「引用文献」欄によると『【普及版】関東大震災 朝鮮人虐殺の記録――東京地区別1100の証言』、『風よ 鳳仙花の歌をはこべ』、『九月、東京の路上で』の三冊)から引いてきた当事者たちの肉声を並べ、その声がページを埋め尽くしていきます。

(「追燈」より)

 あとがきで触れられているように、本作が関東大震災朝鮮人虐殺を主題にした「初めての漫画」であることについて作者はかなり注意を払っていたようで、そういうものを「”妖怪もの”として描いてよいだろうかという葛藤」に悩まされて「今作に関しては妖怪の存在を極力、曖昧にして描きました」と述べています。
 もちろん、そのこまやかな慎重さが本作の語り口にまで及んでいることは改めて指摘するまでもないでしょう。
 というわけで、ここでは引用文パートの効用についてだけ考えます。
 引用とは前述したように、本来作者の主導下にある叙述を別の誰かへ一時的に明け渡すことです。そのことによってどのような効果、つまり読者にどういった印象を与えることができるのか。
 真実性です。


 歴史的事件を主題にした作品においては「これは真実を描いている」という印象(何度でも重ねて強調しておきたい部分ですが、あくまで”印象”です)が、読者にとって重要になってきます。特に本作は歴史のパロディとしての歴史フィクションなのではなく、歴史を伝えるための歴史フィクションなのですから。でなければ、「妖怪の存在を極力、曖昧にして描」く必要などありません。その誠実さゆえに作中でフィクションの領域とノンフィクションの領域を明確な線を引いた。*14
 引用は本来、没入感を阻害するものです。異物なのです。それまでの語りとまったく別の語りが挿入されて、読者はそこで立ち止まらざる得なくなる。フィクションであればそこで”現実”に一瞬立ち戻る。そこで展開されている文章もまた”現実”に属するものとして受け取られる。
 だから、事実を語りたいのであればその記述はある種の態度をまとっているほうがよい。
 たとえば、〈太陽王〉ルイ十四世の寵臣だったダンジョー侯フィリップ・ド・クルシヨンは三十六年間に渡って毎日日記をつけ、それは後に数多くの歴史書に引用される重要史料のひとつとなりました。ダンジョーの日記は「退屈な文体と洞察力の欠如」(嶋中博章)によって特徴づけられるとされ、歴史家のフランソワ・ブリュシュなどは「ダンジョ―には毎日書き、文学的効果をまったく狙っていないという唯一無二の価値がある」と評価しました。*15
 実際のダンジョ―の記述における客観性や信頼性はここでは措くとして、ブリュシュはいいことをいいました。「文学的効果をまったく狙っていない」ように見える、という態度はここでは信頼につながっています。裏返せば、”なめらか”で”巧い”文章には”嘘くささ”が、内実はどうあれ、つきまとう。
 ダンジョ―は歴史記述の話ですが、ことフィクションの表現にかぎるならばこう言い換えることもできるでしょう。「そのメディアにそぐわない記述は真実性(あるいはあらゆる意味においての”本物らしさ”)を担保しているように見える」。
 引用部は異質であればあるほど、つまづきがあればあるほど、読者に「響く」のです。


 もちろん圧倒的な物量、引用が十ページに渡っているという手法そのものも重要です。
 十ページに渡って作者自身の語りを手放したように見える*16のは大変なことです。なぜそこまで「自分」を投げ出せるのか、という畏怖。それもまた読者の印象に重みを与えます。*17
 そして、畏怖しているのはおそらく読者だけではない。なにより作者が死者たちの声を蘇らせることに対するおそれをアティテュードとして示しているのです。*18なんとなれば、作者はそのような引用の仕方をしなくとも関東大震災下における朝鮮人虐殺を描くことができます。実際、主人公が崩壊した東京をさまよう場面は多大なリサーチのもとに構築されているフシがあり、それこそ”なめらか”に”巧く”語っています。それでも最後には岡田索雲は十ページの引用を選んだ。自分のなかのためらいがある場合に、ためらっている事実自体をどう伝えるか、というのも創作者のアートのひとつだとおもいます。


 引用・パロディ・オマージュ。いずれも自分とは異なる外部を呼び出し、ともにならびたっていく技術です。*19その意図や目的や効用はときどきによって違いますが、その「ときどき」をこれからも考えていきたいですね。つかれた。おしまい。アッ、「川血」と岡田索雲の作家的テーマの話するの忘れたな。今度でいい? いいよね。さよなら、さよなら、さよなら。

*1:『幽白』における室田は数ページ程度しか出演しない上に本筋にさほどからまないチョイ役ですが、かなり印象に残る名物キャラのひとりです。錦ソクラの麻雀パロディの金字塔『3年B組一八先生』の幽白パロディ回でもこの室田が採用されています。心の声が聴こえるって汎用性ありますしね。『うしおととら』パロディ回ではサトリだったし

*2:わたしたちはもちろんここで佐藤マコトの『サトラレ』も思い出さねばならないわけですが

*3:アランが言うように、パロディには涜聖の喜びがあります。パロディ元が清浄で無垢であればあるほど”喜び”が増すのです

*4:ところで、こうした技術の巧拙をもってパロディを「リスペクトがある/ない」の判断をくだすやりかたは個人的には同意できません。表現は表現でしかなくて、それこそ作者の内心は誰にもわからないわけですから。オマージュのやりかたがそっけなくて下手くそでもその作品を愛している人はたくさんいるでしょう。

*5:たしか歴史的には少女まんがの文脈から発展してきたものと記憶していますが、間違ってるかも

*6:ちなみに岡田索雲は長編連載デビューである『鬼死ね』時点では四角フキダシでの内語表現をそれなりに使用していましたが、『アクション』へ移籍してからの長編第二作『マザリアン』のころからほぼ使用なくなりました。それはつまりモノローグが入らない方向性に作風が変化していていったことを示しています

*7:線も似せてきたのかと一瞬思いましたが、岡田索雲の過去作に出てきたネコとそんなに変わらない。

*8:オマージュとパロディの違いについて。パロディとは喜劇としての捉え直しによって世界の新たな側面を批評的に暴き出すもの、というバフチン的な定義を据えて、オマージュとはかならずしもそうした再機能を目的としないもの、ととりあえずおいてもよいのですが、まあ別に深く考えなくてもいいです。

*9:好きな作家だけれど、あんまり自分のなかでも確固たる作家像を把握できていない

*10:ふたことあるじゃん

*11:↑「不可能を承知で」っていったじゃん、だから。

*12:まあ、「違います。オマージュではありません」と言われたらそれまでで、その可能性は大いにある。普通の感想や批評と違ってオマージュを前提にしてアレコレいうのはそこが弱点。

*13:ここらへんは他のネコまんがのオマージュが混ざっているのかもしれないが、自分は浅学にして存じあげない。

*14:ベンヤミン的な文脈でいうならば「引用によって歴史を語るとは、神話的な物語を「逆なで」し、破局の犠牲になった者たちの記憶を、歴史主義的に物語られる因果の連鎖から解放して救い出すことである。そうして初めて、死者の一人ひとりが何を体験したかが言葉になる。歴史を書くとは、神話としての歴史に抗して、それが抹殺した死者と、この死者が巻き込まれた出来事をその名で呼び出し、死者の記憶を証言することである。」(『ヴァルター・ベンヤミン 闇を歩く批評』柿木伸之)

*15:嶋中博章「歴史記述における史料の引用――瀕死の太陽王をめぐるダンジョ―侯の証言」

*16:見えるというのは引用の取捨や配置という形で作者という権力は依然存在しているからでもあります

*17:当たり前ですが、長々とした引用が読者へ与える印象・効用というのはメディアや作品によって異なります。大田洋子の「屍の街」とかね

*18:「敬意」といってもよいのですが、前述の「リスペクト」と同様あまり使いたくないことばです

*19:フィリップ・ソレルスのように引用それ自体をケンカのための道具に使うひともおりますが

文字と声と亡霊たちの天国――『ディスコ・エリジウム ザ・ファイナル・カット』について


「けど、”ディスコ”・エリジウムでしょ……。おかしくないかしら? ディスコは過去のもの、忘れられたものでしょう?」
「過去は未来だが、未来は死んでいる!」


 ――『ディスコ・エリジウム




 『ベイビー、あんたが探してんのは結局あんた自身なのよ』


 ――舞城王太郎ディスコ探偵水曜日』(新潮文庫


 Disco Elysium の感想を書くなんてことは不可能だ。なぜなら、それは概観して全貌を捉えようにも分裂しすぎていて、要素へ分解しようにも継ぎ目がなさすぎる。*1そもそも世界の感触をことばで伝えるなんて人間の技量を超えているのでは?
 なので、ここに書かれているのはプレイ中に発された声の残響だ。あなたのために用意された25番目のスキル。それがわたし。


知覚(聴覚)[中:成功]
   遠くでラジオが聴こえる。世界のラジオが。音が流れてくる。おはよう、エリジウム。もうすぐ世界に戻る時間だ。


 大脳辺縁系*2と古代爬虫類脳に苛まされる常闇から抜け出すと、あなたはホテルの一室ですっぱだかになって昏倒している四十代の髭面の中年男性だ。自分の名前もわからない。なぜそこにいるのかもわからない。今が何年の何月何日かもわからない。なにもわからない。自分がみじめであること以外は、なにひとつ。

これがあなた。どんなに泣いて拒もうが、暴れて嫌がろうが、これがあなた。


 あなたは部屋中に散らばった衣服をかきあつめ(なぜ窓が割れているのだろう?)、のろのろと部屋の外へ出る。その瞬間から三十時間に渡る洪水に見舞われる。文字と声の氾濫だ。
 もちろん人が喋る。あなたが話しかけたキャラクターは(あなたを嫌っている人物でさえ)みな饒舌に自分のことを語ってくれる。物も喋る。街中に散りばめられたオブジェクトは土地を語り、歴史を語っている。ときに比喩ではなく物が”喋り”、こちらへ語りかけてくることさえある。コンテナや郵便ボックスやネクタイとは仲良くしたほうがいい。

もちろん死体も喋る。「物言わぬ死体」なんて誰がいった?


 そして、なにより、あなたの脳の中の24のスキルたちがささやきかけてくる。「論理」が指針を構築し、「百科事典」が用語を解説し、「修辞学」が会話を助け、「演劇」が相手の嘘を見抜き、「概念化」が芸術を称揚し、「視覚計算」が捜査し、「意志力」が正気を保ち、「内陸帝国」が狂気へ突き落とし、「共感」がやさしくさせ、「権威」が脅し、「団結心」が拠り所となり、「暗示」が皮肉を効かせ、「耐久力」によって耐え、「痛覚閾値」が痛みを求め、「肉体装置」が暴力を求め、「電気化学」が快楽を求め、「悪寒」があらゆる情景を描き出し、「薄明」があらゆる不安をほじくりだし、「手と眼の協調」が工作し、「知覚」が読み取り、「反応速度」は即応し、「才覚」が自由市場原理を唱え、「手さばき」が盗み、「平静」は二十四時間いつでも平静だ。これらの声は単にTRPG的なダイスロールによる成功判定に用いられるだけでなく、あなたの頭のなかで常時がなりたてたりケンカしたり議論したり一致団結したりする。
 頭のなかに24の人格がいる状態、と聞いて、あなたはもしかして自分が狂ってしまったのかと心配するのかもしれない。安心してほしい。その懸念は当たっている。
 ありとあらゆる声が文字となり、一つの小さな区画に閉じ込められている。Disco Elysium とはそういうゲームだ。


概念化 -
   ゲームだと? ゲーム? これが? ゲームというのはもっと……


 そう、あなたは(FGOを抜きにすれば)2020年代ビデオゲームとしては考えられないほどのテキスト量に呑み込まれる。ようこそ、エリジウムへ。ひとつのゲームとしてはもちろん、あるいは小説としてさえ異常な文字数だ。英語にして120万ワード弱*3。量だけでいえば、これを超える文学作品はマルセル・プルーストの『失われた時を求めて*4くらいしか存在しない。ピンチョンもトルストイもギャディスもトールキンドストエフスキーもスターンもGRRマーティン(電気化学:「早く続きを出せ!」)も、Disco Elysium に比べたらどんなに長い作品でも半分ほどの量しかない。
 あなたは目覚めたばかりのねぼけた頭でこう反発するだろう。
 量が問題なのか? 物語の質とは量なのか?
 そうだ。少なくともこの場合は、量だ。
 今話しているのはひとつの物語についてではない。必要最小限の手数で最大限の快楽を得られるようなハンディなドラッグについて話しているのではない。世界を作るために、あなたに世界がここに在るのだと錯覚させるために必要な物量について話している。

踊る大捜査線


 文字を読むこと。とにかく膨大な記述を眼で追うこと。それは書物時代の儀式であり、リュミエール以降には避けるべきとされる忌まわしい行為だった。21世紀のひとびとはアクションにしか興味をもたない。なるべく喋るな、なるべく書くな、語るな、見せろ、猫を守れ。
 そうしてメガノヴェル的なパラノイアは前世紀へと駆逐され*5、わたしたちは聖堂のように静かなスクリーンを慎み深く眺める禁欲的な消費者になった。
 Disco Elysium はその逆をいく。世界を文字で溢れさせている。そして、決定版となる現行の Final Cut バージョンではその文字に(声として発されるべきものについては)すべてボイスが吹き込まれている。
 文字も声も語るためのツールだ。それらは何を語っているのだろう。物語? 半分は正解だ。しかし人は物語には感動はしても崇めはしない。わたしたちが畏敬を抱く対象は世界そのものだけだ。そして、わたしたちは世界を広大さによって知覚する。果てのない感覚。果てにはまだその先の果ての果てへの期待。未視感。驚異。憧れ。
 それはしかし本来は”画”に媒介される感覚だ。文字に表現できる範囲は、非合理なまでに狭い。だが、文字という不便で不器用な方法の積み重ねによってでしか表現しえない領域がある。記憶と過去がそれだ。


百科事典
   ボルヘスはかつてこう言った。書物は記憶と想像力が拡大延長されたものだ、と……。*6 ついでに、こうも言った。書物は残されているが、死んでいる、と。


平静[失敗:やや難しい]
   それは言っていない。


 Disco Elysium の舞台となるのはレヴァショール*7という架空の都市の一区画であるマルティネ―ズだ。フランス革命ロシア革命が同時に起こったような騒乱で一度は共産主義政権が樹立されたものの、《連合》と呼ばれる資本主義者の外圧によって粉砕された。以降はどの警察の管区にも属さない、政治的社会的空隙のような一劃になっている。1910年代と30年代と70年代と2020年代のそれぞれの挫折をミックスしてかき回したような終末の感覚。夢見られていた理想は王政時代の立像の下に埋葬されてしまった。
 革命も熱狂もとうに冷えている。そこに住むのは打ち捨てられた人々だ。誰もかれも貧しく、絶望している。12歳の少年はヤク中の父親に虐待されて家を飛び出し、連日木から吊るされた死体に石を投げている。公的機関に替わって街を取り仕切る労働組合は腐敗しきっており、過激な人種主義グループと結託してさえいる。時代に取り残され、誰からも必要とされなくなった老人ふたりは肩を寄せ合うようにして毎日街の片隅でペタンクに明け暮れる。
 街自体も寂れきっている。鈍色の建物や銅像が雪に埋もれ、なにかが芽吹く気配を微塵も感じさせない。その中心にあるのが呪われた集合商業施設で、そこに入ったテナントはたちまちに潰れてしまうと噂される。
 ゲームを開始して三十分であなたは理解する。壊れてしまっているのはあなただけではない。この街もだ。


薄明
   ここもだ。

金持ちすぎて光(空間)を捻じ曲げるおとこ。大好き。来賀友志がSF作家だったらこういうキャラを考えていたかもしれない。


 そうした壊れ果てた街と人々からあなたは世界と人々についての過去を掘り返す。あるいは思い出す。忘れないでほしい、意味不明な単語や歴史を教えてくれる「百科事典」スキルも元はあなたの脳に宿っている。
 そうしてあなたの人格も思い出されていく。しかし注意してほしいのだけれど、思い出されていく自分自身の人格とは、ゲームプレイ上では作り出されるものでもある。あなたは社会主義理論の信奉者だったかもしれない。ハードコア美学の理解者だったのかもしれない。ネオリベも裸足で逃げ出すウルトラリベラリストだったのかもしれない。極めて複雑で奇々怪々な人種差別理論をインプットしたファシストだったのかもしれない。自身のセクシュアリティから”解放”された人だったのかもしれない。すばらしい量のクソを勢いよくぶちまける肛門の持ち主だったのかもしれない。あらゆる物質を変形破壊することで次の創造の形を導く対オブジェクト部隊員だったのかもしれない。コル・ド・ド・ダクアの声を聞くために全身の皮膚を聴覚器官と化した黄金の耳の持ち主だったのかもしれない。共産主義の0.000%を実現して”真実”の学位を取得し今、共産主義を立ち上げるのではなく、二枚舌のグロテスクなこの世界の正確なモデルを確立しようとしている本物の共産主義者だったかもしれない。これらすべてであった可能性もある。どれでもなかった可能性もある。

ここでのあなたは熱烈な共産主義者であり、レイシストであり、ほとんど浮浪者であり、黙示録の到来を予感させるスーパースター刑事だ


 あなたはゲームプレイを通じてあなたという人格を作り出していく/思い出していく。*8注意してほしい。あなたが取り戻していくのは、自分が「どういうふうに壊れていた」のかということだ。そう、「壊れていた」という事実だけは動かしがたい。マルティネ―ズという街がそうであるように。
 なんでも言おう。大量のテキストが要るのだ。それは自動的にあなたの網膜に流し込まれていく文章ではない。あなたが自分で選び、鯨飲せねばらない。破滅的な飲酒を行うようにして、あなたは進んでテキストに酔い、テキストに呑まれていく。*9
 そう、望むのなら、あなたは自分がアルコール中毒者だったということにもできる。


内陸帝国
   あなたさまはここで、是が非でもカラオケをしなければなりません。このような機会は滅多にないのですから。内に秘めたその感情を表現なさるべきです。あなたの海にように広大なお心を、皆に広く知らしめるべきです。


 だからこそ、*10Disco Elysium はハードボイルド刑事小説のとらねばらなかった。昏倒から始まり、歩行と聞き取りによって街と人の(忌まわしい)記憶を呼び起こすには、これ以上ふさわしいジャンルはない。
 単にメインのストーリーとその道具立てだけをなぞるなら、本作はシンプルで古典的で明快だ。名も無き死体、ファム・ファタル労働組合と企業の対立、スト破り、酔いどれ刑事、戦争の記憶、みなしごたち、人種差別、スラムの再開発、陰謀、地下の同性愛者たち、素手の殴り合い、男たちの友愛、消えた銃、共産主義、行方不明者たち……そういうものがハメットの『血の収穫』風の勢力間衝突とチャンドラー好みの”男と女の物語”を通して*11語られていく。懐かしさすらおぼえるかもしれない。
 そのシンプルな物語が、それまで呑んできた(一見本筋とは関係ない)テキストと記憶によってたまらなくオリジナルな体験になる。
 つまるところ、Disco Elysium は難解なゲームではない。たしかに複雑な歴史が描かれているし、現実とは異なるテクノロジー(ラジオ通信によるインターネット!)や明らかにSF的な設定(〈識域〉と呼ばれる謎の空間物質)に満ちている。しかし、それらは全く未知というわけでもないし、理解不能というわけでもない。ただ、膨大なのだ。そして、広大なのだ。世界のように。世界そのもののように。わたしたちの脳みそが処理しきれないレベルで。
 もちろん、「広い」ゲームはいくらでもある。「豊かな」ゲームも無数にある。世界を語るために散りばめられたロアにしたって、最近の大作オープンワールドRPGなら当然のように具わっている。*12しかしそうしたゲームにおいて世界は視られ、触れられるべきものだ。Disco Elysium での世界とは、読まれ、聴かれるべきものだ。


柳田國男
   つまり、セックスってことやね。

折口信夫
   今回は違うと思います。


 だから、あなたも聴くだろう。読むだろう。思い出すだろう。
 過去からやってきた未来の天国。
 グルーヴィでディスコなエリジウム







*1:本作の世界観、ゲームプレイ、設定、人物、背景知識、レファレンス元などを知りたければ、ゲームメディアの doope! の特集連載を読めば大体足りる。プレイ前に概要を掴みたいならここを読もう。https://doope.jp/2022/06127832.html

*2:「記憶は海馬でコード化され、大脳真皮質に貯蔵され、前頭―辺緑系のメカニズムによって取り出される」『意識はどこから生まれてくるのか』マーク・ソームズ、岸本寛史&佐渡忠洋・訳

*3:https://doope.jp/2022/07128131.html

*4:英訳版は約126万ワードとされる

*5:メガノヴェル自体は前世紀的ではないやりかたで今も生まれ続けている。https://www.esquire.com/entertainment/books/a40828532/adam-levin-mount-chicago-maximalist-novel/?fbclid=IwAR2xowm6yCab6cV-9hTGRKdzWmXAaUhhi8GF8rbNHTV7eQSRmhuEaLmuaeM

*6:『語るボルヘス 書物・不死性・時間ほか』ホルヘ・ルイス・ボルヘス木村榮一・訳

*7:Ravachol 間違いなく19世紀にレストランを爆破してギロチンにかけられた元墓泥棒のアナキスト、フランシス・ラヴァショルに由来している

*8:もしかしたらあらゆる”ロールプレイ”をしつつもどの”ロールプレイ”にもならないことがこのロールプレイングゲームの核心なのかもしれない

*9:公平を期すなら Disco Elysium こそ要所要所でのビジュアライズが卓越した作品であることは言明しておかねばならない。それを認めることがこの記事の記述の大半に反することになってもだ。特にブランコのシーンやあの”虫”が登場する瞬間の美しさといったら……

*10:「歩くことは読むことである」というクリシェと化したレベッカ・ソルニットの名言を引くまでもなく

*11:そして驚嘆すべきことに、2020年代的なバランス感覚で

*12:直接の参照元となった Planescape 以外にも本作に多大な影響を与えたcRPGの伝統も見逃していけないだろう。その伝統が他国より強大だったエストニアのゲーム文化という背景も。そこのあたりは前述の doope! の特集記事に詳しい。