名馬であれば馬のうち

読書、映画、ゲーム、その他。


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2022年1月の新作まんがベスト10+5

 あけましておめでとうございます。
 以下は、2022年の一月に第一巻が発売された新作まんが10選と、同じく2022年に発売された単発長編・短編集5選です。
 基本的にはおもしろいと感じた順にならんでいるものと思し召しあそばせ。


 よくある質問:
 Q.来月もやるの? マンスリーでやるの?
 A.わからない。これまでの経験からいえば今月っきりになる可能性が高い。

【2022年1月に第一巻が発売された連載もの】

1.『とくにある日々』(なか憲人)

 今月のベスト。なかよしの高校生ふたりを中心に展開されるオフビートな学園コメディ。単純に奇想コメディとしてめちゃめちゃ笑えるんですけど、画的としてエモーショナルな瞬間が何度もあって謎の感動を呼びます。panpanyaテレンス・マリックに撮らせたみたいな。


2.『桔香ちゃんは悪役令嬢になりたい!』(原作・相馬康平、作画・日下氏)

 アニメの影響で悪役令嬢を目指すイタい小学生桔香ちゃんとそれぞれの思惑と成り行きから彼女の下僕として侍ることになった仲良しグループの四コマギャグ。要するにまあみんな大好きな「本物になりたいニセモノ」の話であって、それは”悪役令嬢”に憧れるけれど空回りすることでもあるし、彼女よりもキャラの濃いメンツに囲まれているということでもある。姉フィクとしても優秀。


3.『百合の園にも蟲はいる』(原作・羽流木はない、作画・はせべso鬱)

 名門女子校に赴任してきた男性教諭・円谷。なんとなく馴染めなさを感じていたところにクラスでいじめ疑惑が浮上し、彼はそれを解決しようと乗り出すが……という教師ものの学園コメディドラマ。『女の園の星』とは異なり、生徒たちのダークでラジカルな面を見せる……というとよくあるまんがのようだけれど、主人公もなかなかキレているところがおもしろい。イカれたキャラしか出てこないまんがはよいまんが。キレどころのタイミングもよい。

 

4.『艦隊のシェフ』(原作・池田邦彦、作画・萩原玲二

 池田邦彦に対する認識が変わったのは『国境のエミーリャ』を読んだくらいからでしょうか。連作短編をまとめる技量が抜群にすごい。第二次世界大戦中の日本海軍の駆逐艦で烹炊兵と呼ばれた料理係たちの奮闘を描くお料理グルメ×戦争まんがである本作でも、綿密な取材に裏打ちされた人情ありスリルありの人間ドラマが分厚く発揮されています。っていうか、スパイものが好きなんだなあ、池田先生。

5.『おいしい煩悩』(頬めぐみ)

 グチャグチャに泣きはらしてる人間の顔は好きですか。大好きなあなたには、コレ。『おいしい煩悩』。一話に一ページぶちぬきでグッチャグチャに泣いて許しを乞うている主人公が見られます。ノリとしては黒崎冬子から品の良さを抜いたような印象でしょうか。引き出しがあまりなさそうなのが今後の不安。
 

6.『夜嵐にわらう』(筒井いつき)

 私たちの筒井いつき先生はいまも世界のどこかで暗黒百合を描き続けている。そう思うだけで勇気がもらえる気がするんです。このまんがでは生徒たちから陰湿ないじめを受けている教師が、突然登校してきたやべー不登校児に執着されたことから、クラスがめちゃくちゃな暴力教室になっていきます。そう、いつもの100パーセントの筒井先生です。

7.『ミューズの真髄』(文野紋)

 ドアマットみたいな人生を送ってきた主人公が一念発起してやりなおす、という物語は類型としてさして珍しいものではなく、そういうもののなかではシチュエーションがあまりにも『凪のお暇』と被りすぎだろう(女性向けまんがのフォーマットの範疇かもですが)とは思います。しかし、ディティールに乗っている情念というかパッションみたいなものはオリジナルで迫力がある。


8.『天使だったらよかった』(中河友里)

 ずっと仲良しでやってきた夏瑚(女)、泰星(男)、憂奈(女)の高校生幼馴染三人組。しかし、ある日、泰星と憂奈がつきあいはじめて、主人公・夏瑚は疎外感をおぼえだす。複雑な気持ちを抱えていた夏瑚だったが、ある時、憂奈が想像を絶するサイコパス野郎と判明し……という三角関係BSSNTR返しメフィストフェレスまんが。キャラや展開はめちゃくちゃ濃いのだが、まんがとしてはするりと飲める喉越しのよさが匠の業前。


9.『目つきの悪いかわいい子』(ハミタ)

 属性一点賭けシチュエーションラブコメ(俗に言う高木さん系)と見せかけておいてシリアスな話をやる、というのは、特段珍奇というわけでもないんですが、これはそのなかでも手続きが誠実な印象。
 

10.『花は咲く、修羅の如く』(原作・武田綾乃、作画・むっしゅ)

 京都の高校で放送部やるやつ。『響け!ユーフォニアム』の放送部バージョンと理解すれば早い。第一巻ではキャラや設定紹介止まりといった印象ですが、その時点ですでに厚みがあり、今後の地獄が楽しみです。
 

【2022年1月に発売された単発長編・短編集】

1.『苦楽外』(宮澤ひしを)

 エグみを抜いた前期五十嵐大介といった印象の海棲怪奇譚。奇譚という表現がしっくりくる温度感。


2.『リボンと棘 高江洲弥作品集』(高江洲弥)

 『先生、今月どうですか?』でプロップスを高めつつある高江洲弥の天才性と全方位に満遍ない嗜好が遺憾なく発揮されている短編集。死体を埋める百合ならぬ埋められた死体百合の「ある日森の中」と、小学生が人喰い植物人外の力に溺れる「誘い花」が特にマーベラス。読んでいると、人はハルタ作家として生まれるのではなく、ハルタ作家になっていくのだなあ、とおもいます。


3.『黄色い耳(((胎教)))』(黄島点心)

 異才・黄島点心の黄色シリーズ?第三作(だったとおもう)。中編が二篇載っており、前半の方では黒ギャルが友達とDV彼氏を山に埋めてもう一回その山に行ったら謎の耳キノコの化け物と出会ってセックスして恋仲となり耳たぶに耳キノコの子を孕む、といういつもの文章にしたら気が狂っているのかな? という勢いのあるストーリーでまあこういうのに関しては読んでくださいとしか言いようがない。
 

4.『絶滅動物物語』(うすくらふみ、今泉忠明・監修)

 主に人間の手によって絶滅した動物(正確にはアメリカバイソンなどギリギリ絶滅しなかったものも含む)にまつわる物語。動物関連書籍でよく名をみかける今泉忠明監修。リョコウバトやステラーカイギュウ、ドードーといったわりと有名どころを扱いつつ、人間の業をえぐります。現存しない動物たちの生きていたころの姿を再生する、という地味に難業をクリアした力作。


5.『SUBURBAN HELL 郊外地獄』(金風呂タロウ)


 郊外で気の狂ってしまった現代人の姿を描くサイコホラー短編集。きちんと「土地と人間」の呪いに落とすところがホラーとして端正。

かわいいゾウさんを撃つーー『It Takes Two』について

*本記事には『IT Takes Two』についてのネタバレが含まれています。*1


しかし私はその象を撃ちたくなかった。草の束を膝に叩きつける象を私は見つめた。象は何かに没頭している老婦人を思わせる雰囲気を持っていた。象を撃つことは謀殺のように思われた。


   ーージョージ・オーウェル「象を撃つ」(Haruka Tsubota 訳)



store.steampowered.com


ゾウは忘れられない


 2021年度の The Game Awards でゲーム・オブ・ザ・イヤー(作品賞)に選ばれた It Takes Two は、ゲーム史に残る邪悪なトラウマをプレイヤーに刻んだゲームでもあった。
 ゾウを殺すのである。
 ただのゾウではない。
 この世の純粋無垢を具現したような愛らしい、思いやりのある、かわいいゾウ、しかもぬいぐるみのゾウをプレイヤーは手にかけなければならない。
 プレイヤーに拒否権は事実上ない。ストーリー進行の要請としてゾウさんをひどいめに合わせねばならず、どうしてもやりたくないならゲームをそこでストップする以外の方法はない。
 一連のイベントシーンを乗り越えたプレイヤーたちは誰もが頭を抱えて、あるいは天を仰いで、こうつぶやく。
 ーーどうしてこんなことに。


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どうして……?


 It Takes Two は世にも珍しい二人プレイ専用のタイトルだ。
 仲が冷え切ったすえに離婚を決断した夫婦が離婚を悲しむ娘の涙の力によって、魂を人形に囚われてしまい、元の肉体へ戻るために協働して奮闘する、という内容。プレイヤーは夫婦のうち、どちらのキャラを操作するかそれぞれ選んでプレイする。
 基本的には3Dのフィールドでパズルをときながら進んでいくプラットフォーマー・アクションだが、途中で多彩なミニゲーム(だいたいは明確な元ネタあり)をこなしていったりもする。
 相棒となるプレイヤーと、ときに励ましあい、ときに罵りあい、ときに煽りあって進行していくプレイはゲーム内の物語そのものともシンクロしており、豊かなゲームデザインとあいまって、約12時間前後の共同作業がまったく苦にならない。たしかにゲームオブザイヤーの名に恥じない、2021年の新作タイトルでもマストな一本といえるだろう。


 だが、ゾウを殺さなくてはならない。


 問題となるのは Cutie という名前のゾウさんと対峙するシークエンス。
 自分の身体を取り戻すにはもう一度娘に涙を流させればいいのではないか、と考えた主人公夫婦は、彼女のお気入りだったぬいぐるみを壊すことで娘に悲しみに追いこうとする。そのターゲットとなるぬいぐるみが Cutie だ。
 そんな企みを露も知らない Cutie はアポもなく現れた夫婦を歓迎し、ハグをしたり、クッキーを薦めたりする。夫婦が自分を殺そうとしていると知ったあとでさえ、穏やかに説得してやめさせようと試みる。
 Cutie は本編でプレイヤーたちの言い訳になるような悪事を一切働いていない。ひたすら、いい子だ。
 プレイヤーたちは命乞いをしながら逃げ惑う Cutie を追い回さなければならない。傷つけなければならない。殺さねばならない。
 その殺害過程は凄惨のひとことに尽きる。とても文字では描写できない。詳細を知りたい場合は本編をプレイするか、あるいは youtube にアップされた動画を観てほしい。


www.youtube.com


 上の動画のコメント欄には嘆きと後悔が渦巻いている。「Cutie にこんなことはしたくなかった」「インディーゲームでここまでの罪悪感と絶望と悲しみを抱いたことはかつてなかった」「このシーンを見た後、セラピストへ会いに行きました」「泣いた」「あらゆるゲーム・映画を通じて最も心打ち砕かれるシーンだ」……
 実際にこのパートでプレイを止めたと告白するものさえいる。 
 Steam の不評レビューでもっとも評価を集めているのも「ゾウさんがかわいそう」*2と書かれたものだ。ちなみに二番目に人気を集めている不評レビューは「クリアするより前に彼女からフラれたので(オススメしません)」だ。
 

 Reddit のある投稿者*3は「俺はこれまでゲームを通して色んな存在を殺してきた。悪魔から空港の一般人まで、あらゆるものを。そういうことについて、あまり深く考えてこなかったといえる。だが、慈悲を請うなにかを苛み殺す経験は、俺と俺のガールフレンドをすさまじく不快にさせた」。


 この投稿で言及されている「空港の一般人」とは一人称視点シューティング戦争ゲーム『Call of Duty』シリーズ6作目『Modern Warfare 2』(2016年)に出てくるあるステージを指す。そのステージではプレイヤーはテロリスト*4に扮し、ロシアの空港で丸腰の市民を虐殺することになる。*5
 ビデオゲームの歴史において最も論議を呼んだ場面のひとつだ。*6
 

www.youtube.com


 そんな悪趣味の極致とされるゲームよりも Cutie 惨殺はむごい体験だった、と彼はいう。

 このようにゲーム中に道徳やタブー、法律、そして個々の感性の境界を踏み越える体験をビデオゲーム研究者のモーテンセンヨルゲンセンは〈逸脱 transgression 〉と呼んだ。*7
 逸脱的な体験はときに殺人のような社会規範にもプレイヤーの道徳理念にも反する行動を強いるけれども、基底現実でそのような行動を取るよりはプレイヤーに耐え難さを催させない。なぜなら、プレイヤーは、実際の行動と結果が生じているゲーム内世界から身体的に切り離された空間におり、文脈的にも隔絶している。要するに、画面のこちら側でボタンを押すことと画面の向こう側で銃を撃って人を殺すこととのあいだには、地続きの感覚として認識するにはかなりの距離がある、というわけだ。*8
 

 逸脱にはある種の美的経験をもたらす効果がある。*9 戦争ゲームをメタ的に解釈した Spec Ops: The LIne (2016年)に代表されるように逸脱を明示的に批評的な文脈で用いるゲームも多く存在する。しかし、CoD:MW2や純粋な無差別殺戮を追求したと謳ったポーランドの Hatred(2015)などは多くの人々に火遊びの快楽を超えて嫌悪を催させた。*10
 そして、It Takes Two はそれ以上の拒否反応を招いた。
 現実世界において、ゾウのぬいぐるみをめちゃくちゃにすることは、無抵抗の市民を虐殺するより残酷な行いだとはまずみなされない。ここに顛倒がある。なぜだろう。
 
 
 ひとつには、Cutie が顔を持ったキャラクターとしてよくデザインされていることだ。Cutie が劇中で登場してから退場するまでは数分程度しかないものの、そのあいだに彼女のやさしさ、愛らしさ、無垢さがわずかな会話や行動で十全に提示されている。
 感情移入するにあたり、対象を一個の存在として認識することは重要だ。たとえば、ひとは「○○という国の子どもたちが飢えて苦しんでます。あなたの寄付で救えます」という情報を見せられても、なかなか簡単にそうした子どもたちの窮状に対してアクションを起こそうとはしない。ところが、「○○という国にすむ△△ちゃんは今晩食べるパンすらありません。彼女は毎朝家族のために10キロ離れた井戸まで水を汲みに……」などと具体的なストーリーを提示されると急に寄付へとつながりやすくなる。*11
 創作の分野においてキャラクターの重要性が説かれるのもつまりはそういうこと。どうでもいいキャラが死んでも読者にとってはどうでもいい。
 そして、Cutie のキャラは声といい振る舞いといい、かなり幼く設定されている。ここが特に制作者の悪辣なところだ。まるで何もわからない子どもを手にかけているような感覚に陥ってしまう。 外見も幼児向けのぬいぐるみであり、実際主人公の娘の大事なおもちゃという設定もあるため、容易に「=子ども」という連想が働いてしまう。
 子ども殺しの描写は全世界的にエンタメコンテンツで忌避されている。『Skyrim』のようにNPCを無造作に殺害できるようなゲームでも、子どもだけはその対象から外されていることが多い。前述の CoD:MW2 でさえ、空港の虐殺シーンに子どもは出していないのだ。
 そうした点において、It Takes Two はタブーに踏み込んでいるといえる。逸脱の度合いが高い。
 
 
 もうひとつには、主人公夫婦の行動原理に共感できないこと。
 すでに書いたように主人公夫婦は「娘の涙のせいで自分たちが人形になってしまったのだから、もう一度娘を泣かせばきっと元に戻れる」というロジックで動いている。いかなる理由があれ、自分たちの娘を泣かせるつもりで行動する親がいるだろうか。*12
 実際、このあたりの物語運びに強い拒否感を抱いたプレイヤーは少なくようだ。ある Steam ユーザーは「こいつらに子供を育てる資格はない」*13と断言し、英語圏のあるユーザーは「『こいつらはサイコパスだ』と感じてプレイを止めた」という。
 もちろん、主人公夫婦はこのあと娘に対するおもいやりを取り戻すわけだが、それにしてもいくら切羽詰まった状況で多少のためらいはあるとはいえ、「自分の子どもを傷つけようとする親」が描かれるというのも考えてみれば、いくらギャグであるとはいえ、異質だ。
 

 さらにもうひとつ。以上このイベントが作品の見てくれから期待されていなかったことだ。
 物語はおとぎ話みたいで実際、物語全体通して見ればハートフルといえるし、キャラクターデザインもかわらしく仕上げられている。まさに子どもといっしょにプレイするにふさわしい感触だ。
 そのゲームの外見や事前情報から想定される期待のフレームを外れたとき、プレイヤーは衝撃を受ける。それは「裏切られた」という感情へ、ときにいい意味で、ときに悪い意味でつながる。
バイオハザード』を購入して遊んだプレイヤーが「まさかゾンビになった人間を銃で撃つハメになるとは……」とショックを受けることはまずない(「まさか、あんな屋敷のなかであんな謎パズル解かされるだなんて……」とショックを受けることはあるかもしれない)。戦争ゲームであるCoDで一般市民を虐殺することは予想しないかもしれないが、しかし兵士やテロリストを射殺することは期待するわけであるし、そこにおいて一般市民を巻き込むことをまったく想定しないかといえばそうではないだろう。
 だが、It Takes Two においてかわいいゾウさんをさんざん追いかけ回して追い詰めたすえに殺すことは誰も希望しないし、想像もしない。ゲームジャンルと地続きになっている展開でもない。
 わたしたちはまったく無防備な状態で、強烈な一撃を喰らう。


 わたしたちはゲームで体験したことを語りたがる。なかでも衝撃的だった体験を語ろうとする。Cutie the elephant のくだりが It Takes Two のネタバレにおいて最も語られるシークエンスであるのは、そういうことだ。
 開発者のジョセフ・ファレスはインタビューで「あれは美しいシーンだった。自分は大好きだ」と述べたうえでこう続けている。「ゲームはプレイを通してプレイヤーの感情を惹起します。みんなよく取り違えるけれども、いい気分が引き起こされたのであればもちろんそれはよいことですし、悪い感情が引き起こされた場合でもそれはゲームのストーリーテリングにとってはよいことなのです。」*14
 

【おまけその1・ボリート*15としてのヴィデオゲーム】


 ヴィデオゲームにおける強制力について書きたい。あるいは、steam や YoutubeReddit でかれらがそうしているように、自分の体験についてわたしは語りたい。


 Cutie 殺害がショッキングなのは、プレイヤーたちが一挙手一投足をもってその行為に加担しなければならないからでもある。本作のストーリーは一本道であり、繰り返しになるが、Cutie を殺さないという選択肢はゲームの停止以外ありえない。
 しかし、本当に自らの道徳規範や嫌悪の感情に忠実ならば、ためらいなくそこでゲームを中断できるはずだ。*16


 でも、わたしはしなかった。わたしたちは、そうしなかった。


 ジョージ・オーウェルのエッセイ「象を撃つ」をおもいだす。当時英領だったインドに駐在していたオーウェルが、地元民を殺害したゾウを射殺するように依頼される話だ。オーウェルとしては気が進まない業務だったのが、ふと気がつくと地元民の注目が自分に注がれており、宗主国民としての責務を果たすようにみえない力で強制されているかのような心地になる。そして、彼は象を撃ってしまう。
 ヴィデオゲームは自由なあそびであるけれども、不自由なあそびでもある。ゲームはときどき無意味なようにおもわれたり、プレイヤーの意に沿わないようなことも強いてくる。強制は明確な指示として文字や声で命じられる場合もあるし、
そうするしかない流れになる場合もある。それはゲームの作品世界がひとつの系であるからだし、独自の法則によって形作られているからだ。
 しかし、RPGで経験値を得るためにザコ敵を狩ったり、しょうもないミニゲームをやらされたりするならともかく、あきらかに間違っている感覚をおぼえるものを間違っていると断定できないままにやらされる体験は希少だ。これはわたしたちたちの倫理、すなわち現実がフィクションの世界に優越しているという事実のひとつの証左なのだろうか?


 この前遊んだ Spec Ops: The Line では「吊るされた民間人か兵士かのどちらかを撃たねばらない」という選択を突きつけられた。うんこ味のカレーか、カレー味のうんこか、みたいな二者択一だ。それはゲームにおける選択の無意味さについての批評のようでもあったけれど、プレイヤーとしてはどっちに転んでも最悪な分、むしろ撃つのが気持ち楽だった。
 だが、たいていのゲームのたいていの場面は選択肢を提示しはしない。ゲームには目的があり、(ものにもよるが)ストーリーやプロットが設定されている。その終端に達することで、わたしたちはようやく「ゲームを遊んだ」といえるようになる。
 ゲームのメディアとしての特性は受け手の関りかたの能動性にある。もちろん、小説にだってページをめくるという行為に能動性は宿り、それを利用して「物語を読みすすめる読者と物語内で起こる悲劇の共犯関係」をメタ的に描いたミステリだってあるけれども、かなり抽象的だ。「おまえがページをめくったせいで作中の人物がひどいめにあいました」と言われても、ハア、そうッスか、という気分にしかならない。
 ビデオゲームの操作系とインタラクションの機序も現実に比べれば抽象的にすぎる。とはいえ、選択や行動について覚える能動性はそれでも他メディアと比較にならない。
 自分の意志がそこにあるような気がするし、実際プレイヤーの意志を反映してプレイヤーキャラは動く。
 だが、実際には物語に、ジャンルに、作品ごとのシステムに、ゲーム機の性能に、コントローラのボタンの形状や数に、あるいは数々のなんとなしな了解によってわたしたちは縛られていて、その範囲内でしか意志することはできない。


 ゲーム研究者のイェスパー・ユールは『The Art of Failure: An essay on the pain of playing video games』*17プレイヤーが回避しえない意図せざるゲーム中の悲劇の例として、『レッド・デッド・リデンプション』とボードゲームの『Train』*18をとりあげている。
レッド・デッド・リデンプション』の終盤では(ネタバレになるので詳細は伏せるが)とあるプレイヤーの意志に反するであろうあるキャラについての悲劇を強制的にあじわわされる。しかし、一方でその時点では当該キャラは「プレイヤーの代理」としての役割から解放されているので、プレイヤーの感じる負担は少なくなる。人形夫婦が「プレイヤーの代理」としての役割を負わされたまま Cutie の殺害に加担する It Takes Two とは対照的だ。
 どちらかといえば It Takes Two のフィーリングに近いのは『Train』のほうかもしれない。

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Train


 このゲームは人間の形をしたフィギュアを貨物列車に詰め込んで輸送するゲームだ。プレイヤーはできるだけ貨物列車にフィギュアを満載しようとする。そうして、列車がマップの端に到達すると、プレイヤーは伏せられたカードの山からカードを一枚引く。そのカードには目的地の地名が記されている。なぜか、どういった地名なのかはプレイヤーに事前に明かされていない。


 一番乗りで山札から引いたあなたのカードにはこうあるーー「アウシュビッツ」と。


 その他のカードにはこうだ。「ヘルムノ」「ダッハウ」「トレブリンカ」……。
 いずれもナチスドイツの建設したユダヤ絶滅収容所の代名詞となっている地名だ。


 プレイヤーはゲームに勝つために進んで”ポイント”を輸送していたつもりが、知らずして虐殺に加担するはめになっていた、というわけだ。「Train」がウォール・ストリート・ジャーナル紙で二度とプレイしたくないゲームとして取り上げられたのは当然だったろう。最も一点ものとして開発され市場に流通しなかったので、一般のゲーマーには触れる機会もなかっただろうけれど。*19
 しかし、「Train」の全体像が明かされたあとも積極的にプレイを続ける向きは少数だろう(「いったん始めた以上は他のプレイヤーもいることだし仕方ない」としぶしぶ続けるか、最初からそういうゲームとして悪趣味に楽しむかする人たちは別にして)。
 かたや、It Takes Two には奇妙な魔力がある。わたしたちは不快な行為をやらされると判明したあとでも、罪悪感に苛まされながらネチネチとゾウさんを追い回す。その罪悪感には拒絶の感情だけでないなにか別のものが宿っているのだろうか? だとすれば「それ」はなんだろう? ユールはその問いには明確な答えを与えてはくれない。代わりにこう述べる。
「これらはすべて、ゲームが悲劇と責任の探求という意味で最も今日陸なアートフォームであることを示しています。私たちは、どのように犯罪を犯すか、またどのようにそれを隠すかを実際に考えさせられました。ゲームは隠れる場所を与えてはくれません」*20


 そう、わたしたちには逃げ場がない。
 窮極的には、わたしたちの行動はデザインされたものだ。クリボーを踏まないマリオはいないし、スライムを真っ二つにしない勇者はいない。わたしたちはほかのなにかを殺すようにコントロールされている。そしてそのことに呵責を覚えない。かつてなく自由な時代なはずなのに、アイヒマンみたいな毎日。
 ゲームで強制される逸脱的なシーンは、そんなわたしたちの不自由さを確認させてくれる。ゲームを遊ぶという行為とはいったいどういうことであるのか、その根源を問うてくる。
 だからこそ、わたしは It Takes Two のゾウさんの場面が心に残っているのかもしれない。オーウェルが象を撃つことによってコロニアリズムの奇妙な権力関係を発見したように、物事には顛倒や凝視によってしか届かない領域がある。
 ゲームであることの良い点は、わたしの行為によって現実のゾウさんが死ぬことはないし、Cutie もエンディングでは修復されて元気になっているということだ。


 

【おまけその2・ジョセフ・ファレスというひと】

開発者はレバノンスウェーデン人のジョセフ・ファレス(Hazelight Studios)。元は映画監督で、兄である俳優のファレス・ファレス*21を主演にした長編を撮ったこともあった。
 2010年代からゲーム業界へ転身し、『ブラザーズ:2人の息子の物語(Brothers: a Tale of Two Sons)』(2013)で成功を収める。同作はコントローラーの左右で主人公となる二人の兄弟を別々にあやつる、一人協力プレイともいうべき操作系のゲームだった*22
 二作目となる A Way Out(2018、日本語版未発売*23)では、さらに過激化して完全な二人協力プレイ専用ゲームとして発売。テレビゲームなど孤独な陰キャのオタクのやるもの、という偏見を覆し、発売二週間で100万本を売った。この A Way Out の発売前年にファレスは時の人となる。といえば、聞こえはいいが、つまりは炎上した。
 2017年の The Game Awards にゲストとして出演したファレスはパブリッシャーであるEAのゲームにおけるルートボックス要素(ものすごく噛み砕いていえば、ガチャ)を批判。のみにとどまらず、全世界へ向けての生放送の真っ最中に中指を立てて「Fuck the Oscar(アカデミー賞なんかくたばっちまえ)」などと発してしまう。

jp.ign.com


 日本なら出禁ものの大失態だ。だが、フィル・フィシュ*24や Notch*25といった札付きの問題児を見てきたゲーム業界はファレスの放言程度はかわいいものだと判断したのかもしれない。*26 A Way Out は翌年のTGAで部門賞にノミネートされ、さらに It Takes Two では最高賞となるゲーム・オブ・ザ・イヤーに輝いた。受賞のスピーチで、ファレスはこう述べた。「2017年にこのステージ上で『アカデミー賞なんかくたばれ』って言ったけれど、まあある意味で、くたばったよね。The Game Awards のほうが良くなってきているもの」。
「Fuck the Oscar」ミームIt Takes Two の作中でもイースターエッグとして仕込まれている。


*1:でも、あなたが本当はそんなの気にしないことをわたしは知っている。

*2:https://steamcommunity.com/id/Sirecia/recommended/1426210/

*3:https://www.reddit.com/r/Games/comments/mqp8zl/comment/h45jhkg/?utm_source=share&utm_medium=web2x&context=3

*4:正確にはテロリストの仲間を装ったスパイ

*5:ステージの前には警告が出され、ステージをスキップするかどうかを選べる。日本語版では市民を射殺するとゲームオーバーという仕様に変えられている。

*6:https://ja.wikipedia.org/wiki/No_Russian

*7:‘The paradox of transgression in games’

*8:ちなみにゲームを通じて発生する認知的不協和を説明するタームとしては Ludonarrative Dissonance という概念もある。こちらはプレイヤー自身の倫理観によって引き起こされる不協和というよりは、ゲーム全体としてのテーマと部分としてのシーンが齟齬をきたしたときに起こるものっぽい。http://www.fredericseraphine.com/index.php/2016/09/02/ludonarrative-dissonance-is-storytelling-about-reaching-harmony/   https://twitter.com/zmzizm/status/1169122687026978817?s=20

*9:モーテンセンヨルゲンセンはカントの「崇高さとは自分より大きいものに出会ったときの経験である」ということばを引き、逸脱にはそうした感覚と出会う可能性があると示唆している。

*10:もちろん、MW2の空港ステージを心から楽しんだプレイヤーもたくさんいただろう。それは犯罪ではない。

*11:たしか行動経済学でこういうのに名前がついていたはずだが忘れた

*12:ここにはプレイヤーがゲーム内の操作キャラクターを常に自らのアバターとして考える「アバター・バイアス」の問題も絡んでいる。プレイヤーにとってゲーム内の操作キャラクター(代理行為者)とはなんなのか、という問題については松永伸司の『ビデオゲームの美学』(慶應義塾大学出版会)の第六章と第十一章でもふれられているが、私は議論をよく理解できている自信はない。ある日いきなり『ビデオゲームの美学』をすべて理解したイケメンが白馬に乗って現れてわたしにわかりやすく解説してくれないかなあ、と願っているがその日はいまだに訪れない。だれか助けてくれ。

*13:https://steamcommunity.com/profiles/76561198850470927/recommended/1426210/

*14:https://www.pushsquare.com/news/2021/04/exclusive_josef_fares_discusses_the_infamous_elephant_scene_in_it_takes_two

*15:コーマック・マッカーシーの戯曲とそれに基づく映画『悪の法則』に出てくる自動処刑装置」

*16:カイヨワ曰く、自発的でないかたちでプレイされるゲームはゲームではない

*17:邦訳タイトルは『しかめっ面にさせるゲームは成功する 悔しさをモチベーションに変えるゲームデザイン』ボーンデジタル

*18:よくにた名前のボードゲーム、『Trains』とは別物

*19:本作をデザインしたブレンダ・ロメロはこの他にもプレイヤーが奴隷貿易業者に扮する The New World や強制移住を余儀なくされた19世紀のネイティヴ・アメリカンたちの「涙の道」と呼ばれる死の行進を題材にした One Falls for Each of Us などのシリアスゲームを制作したらしい。

*20:p.88, 『しかめっ面にさせるゲームは成功する 悔しさをモチベーションに変えるゲームデザイン

*21:ベースはスウェーデンだが、アラブ系の役柄でアメリカの映画やドラマに出演することもたびたびある。有名どころだと『ローグ・ワン』や『ウエストワールド』にも出演。

*22:2020年にSwitchへ移植された際にはコントローラーを分割できるSwitchの特性に合わせてローカル二人プレイも実装された。しかしゲームの演出上には一人プレイのほうが想定されている

*23:現状英語版すら Steam だと日本では購入不可能となっているが、Electronic Arts の販売プラットフォーム Origin で購入できる

*24:Fez』で知られるゲームデザイナー。個性的な言動で炎上しまくったあげく(有名どころではあるゲーム開発者のカンファレンスで放った「今の日本のゲームはクソ」発言)、現在はゲーム開発から引退。

*25:Minecraft』の開発者。あらゆる方面への差別発言を繰り返したあげく、マイクロソフトに売った『Minecraft』のクレジットから名前を消されてしまった。あまりの素行の悪さにマイクラファンからも忌避され、「マインクラフトは初音ミクが作った」というミームが一時期流行った。https://knowyourmeme.com/memes/hatsune-miku-created-minecraft

*26:余談になるけれども、SF小説の界隈で起こったサッドパピーズ騒動で差別主義的団体ラビッド・パピーズを創設した Vox Day も90年代はPCゲームの開発者だった。フィル・フィッシュとかはまた違ってくるけれど、”問題児”を生んでしまう土壌みたいなものは界隈には確実あったようで、これが2010年代にゲーマーズゲートを引き起こし、現在立て続けに起こっているキャンセル騒動につながっているわけだけれど、今回は関係ないので省きます。

2021年の新作映画ベスト10+α

 昨年は一昨年に輪をかけて映画を観られなかった気がします。やっぱり映画館行かないと観ないひとなんですよ、あたし。
 そんな状態で出すトップリストって公益性はあんまりないわけですけれど、まあそもそもが全体的に公益性なんてないブログなのだし、備忘録としては結局必要になるのだし、結局は出さざるをえない。
 というわけで参りましょう。2021年に公開された新作映画マイベストです。


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画像はイメージです


新作映画ベスト10

1.『キャッシュトラック』(ガイ・リッチー監督、米英)


 なんかこう長らく映画館に行けなかった時期があって。そうなると映画の愉しみを忘れてしまうんです。もう映画ってなにがおもしろかったのかわからない。
 それでひさびさに映画館で観て、ああ映画っていいなあ、って気持ちが蘇ったのが『キャッシュトラック』でした。ガイ・リッチー映画ですよ。そんなガイ・リッチーって好きじゃなかったのにね。
 どこが「いいなあ」だったのかって、暴力が常に上位に来るわけですよ、この映画。
 いちおう、ジャンル的にはクライムだかノワールだかだったり、プロット的には割と凝った風の構成を取ったり、スパイ探しみたいな要素もあったり、でもそういうのが全部暴力の前に雑におざなりに吹き飛んでしまう。スパイ探しなんて、なんか唐突に犯人がおもむろに自白しだしますからね。あたかもミステリ要素なんてなんでもないかのように放り投げる。だってこれは暴力の映画だから。原題なんて Wrath of Man ですよ。いまどきスーパーヒーロー映画以外で Man なんてタイトルにつけないでしょう。しかも、Wrath ときている。アホなんじゃないの。
 とにかく銃弾が飛び交って、一瞬の差で人が簡単に雑に死んでいく。ほぼみんな死んじゃう。ステイサムだけが生き残る。理由なんてないんです。ステイサムだから生き残っている。

 特に感動した場面があります。
 ジョシュ・ハートネットの演じるイキリヘタレキャラが幸運にも修羅場から五体満足で脱出する。みんな死ぬような映画で生き残れるポジションに入りかけるんですよ。でも、向こうで鳴っている銃声に魅入られるようにして、フラフラとキリング・フィールドに舞い戻って、結局なにをするというわけでもないまま無様に死んでしまう。
 なんだかよくわからない高揚に当てられて、灯下の虫にようにふらふらと飛んでいって焼かれてしまう。そこにコンプレヘンシブな言語なんて介在する余地はなくって、ただ熱と光だけがある。映画を観るって、そういうことなんじゃないんでしょうか。

2.『偶然と想像』(濱口竜介監督、日)

 アクセルしか踏まないキャラしか出てこない。そしてそういうキャラクターのエンジンによってのみ物語が駆動しているところがすごい。

 基本的に濱口竜介はことばのひとです。ことばを発することそのものにアクションがある。そういうと非映画的な監督なのだとネガティブに受け取られそうだけれど、まあそういう勘違いはほうっておけばよいのです。
 で、そういうことばのバランスが稀に崩れてただアクションだけが先行する瞬間があり、たとえば『寝ても覚めても』のレストランで東出昌大と入れ替わって東出昌大が現れる場面は問答無用にエキサイティングでした。
寝ても覚めても』には『ハッピーアワー』にも『ドライブ・マイ・カー』にもない快楽がありました。それはなにかといわれるとなにかはよくわからなくて、起因するとしたらある種のジャンル映画っぽさなのかと推測したりはできるのだけれど、やっぱりよくわかんない。
ああいうのがまた観たいなあ、と願いながら『ドライブ・マイ・カー』を観にいき、ああ、こういう方向に洗練されていくのか、と映画自体の評価とは別に、失望のような諦めのような感情を抱いて映画館を出たのが夏のこと。もう二度と濱口竜介の撮る身体にゾクゾクさせれることはなくなった、そうおもいました。
 ところが『偶然と想像』で再会できたんですね。第三話。あれこそもう奇跡みたいなもんですね。

3.『ライトハウス』(デイヴ・エガーズ監督、米ブラジル)

「2人の男性が灯台のメタファーとしての巨大な男根像に残されたとき、良いことはなにも起こり得ません」という監督のことば以上に的確な評言もないとおもう。ちいかわみたいなもんです。

4.『プロミシング・ヤング・ウーマン』(エメラルド・フェネル監督、米)

 チャーリーXCXの Boys から始まる映画がおもしろくないわけない。
 ええっ!? マジでここで終わるの!? という突き放した感じがすさまじかった。これが世界なんだよ、と言われたような気がして、呆然とした。まあ、ここで終わんなかったわけですが。
 あとでインタビュー読んだら監督的にはあそこで終わらせたかったらしい。そうだろうよ。あそこで終わらせられなかったのは結局のところ映画が夢を語る装置としての役割を強いられているからだと思います。そこのあたりは実はハリウッドは黄金期のころから、もちろんニューシネマ時代にあってさえ、変わらなかったわけですけれど。

5.『恐怖のセンセイ』(ライリー・スターンズ監督、米)

 『ベスト・キッド』と『ファイトクラブ』をかけ合わせたような最高のトキシック・マスキュラリティ映画。
 ジェシー・アイゼンバーグAORを聞き、フランス語を習い、ダックスフントを飼っていることを聞いた空手のセンセイが「男の音楽はメタル! フランスの歴史は妥協の歴史、語学ならロシア語かドイツ語! イヌを飼うならジャーマンシェパードを飼え!」などと言ってくる。

6.『マリグナント』(ジェイムズ・ワン監督、米)

 マ〜〜〜〜〜ジでバカ。

7.『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』(古川知宏監督、日)

 テレビ版のときはああ清順とかイクニとか好きなのねってくらいでたいして面白いとおもわなかったんですけれど、映画はヤバかった。死ぬかとおもった。たぶん、演劇とおなじで密室での鑑賞体験だからこそなのだとおもいます。

8.『悪なき殺人』(ドミニク・モル監督、仏独)

悪なき殺人(字幕版)

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 チャプターごとに視点人物が切り替わる系のミステリ作品なんですが、切り替わるごとに謎が収束していくというより、エッ!? こんなとこ飛ぶの!? という驚きが連続してどんどん加速していく。なんか真面目っぽい顔して、そうとうアホで良い映画です。
 いや、まさかさ、フランスの片田舎で起こった主婦の行方不明事件がコートジボワールの黒魔術師へと行き着くなんて誰も想像しないでしょう。
 あとファーストカットが強烈でいい。映画ってファーストカットでヤギをおんぶした人を自転車で走らせてもいいんだ。

9.『ヴェノム:レット・ゼア・ビー・カーネイジ』(アンディ・サーキス監督、米)

 コロナを経てMCUのあらゆる面での過剰さにもう疲弊しきってしまったわけですが、そこに一服の清涼剤として現れたのがど根性ヴェノムさんの二作目。
 なにがいいって、雑なんですよ。話の展開とかカットとか割と「これでいいや」って感じで雑に切る。他のマーベル映画ならあとひと手間ふた手間かけているところをハイ次ってかんじでサクサク進行させていく。それで驚きのランタイム実質90分。
 内容もひたすら痴話喧嘩だし、なんならロマンティック・コメディのパロディみたいなシーンさえやる悪ノリっぷり。
 極めつけはラスト。
 あそこまでとってつけた感のあるラストはひさびさに観ました。とってつけた感しかないんですよ。ほんと。そこがすばらしい。
 MCUって全部意味じゃないですか。コメディよりのやつであったとしても、すべてつながっていてひとつの大きな流れのなかにある。でもヴェノムは孤高かつナンセンスなんです。なくてもいいんです。ストップ・メイキング・センスってかんじです。その軽さに救われる。
なんて思っていたら、ちゃんと『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』につながっていてびっくりした。やっぱり特に意味はなかったんですけど。

10.『PITY ある不幸な男』(バビス・マクリディス監督、ギリシャポーランド

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 不幸な状態に依存してしまうことって人間あるよな〜という点では『愛がなんだ』に通じているんですけれど、脚本がヨルゴス・ランティモスの長年のパートナーであるエフティミス・フィリップなので万倍ひどい。撮り方はまあなんというか……ランティモスってやっぱりギリシャのクレムデラクレムだったんだなって。
 イヌがすばらしくいいです。

他に言及したいもの

『ミラベルと魔法だらけの家』(バイロン・ハワード監督)

 ディズニーひさびさのミュージカル。アンチプリンセスものとしての意識がけっこう明確に出ていて、たとえば「動物と意思疎通ができる」というのは典型的なディズニープリンセスの権能であったのだけれど、それが目の前で別のいとこに”とられる”というシーンがあったり、他にもアナ雪のエルサを意識したキャラにクィア的なイメージ*1を暗に付与していたり。ミュージカルシーンの出来もわりかしよかった。『ズートピア』以降で一番好きなディズニー/ピクサー長編かもしれない。
 やっぱりアメリカ人はミュージカルのつくりかたがわかってるよね。それにしても最近のアメリカはミュージカル多いですね。半分くらいはリン・マニュエル・ミランダのせいでは。

『最後の決闘裁判』(リドリー・スコット監督)

 リドスコはSFとかより時代劇のほうが好き。あんまり顧みられてないけど『キングダム・オブ・ヘブン』とかそれこそ『ザ・デュエル』とか。クソ重そうな甲冑着てクソ重そうな剣を振り回すシーンを撮る時の気合の入れようは半端なくて、本作の決闘シーンはリドスコ史上でも抜きん出ているのじゃなかろうか。『グラディエーター』とかよりもずっと。*2
 あとイヌを中心に動物がいっぱい出てきて、それぞれのシーンでパッと見で寓意がわかるのもよい。

ピーターラビット2』(ウィル・グラック監督)

アメリカ人が作るイギリス映画」という奇妙なポジションが2では特に炸裂していて、ピーターがメンターを得てストリートでヘイストしたりする。

『クルエラ』(グレイグ・ギレスピー監督)

 親殺し映画としては最高なのだけれど、『101匹わんちゃん』の前日譚としては最悪というなんともアンビバレンツな気持ちに苛まされる。まあ『マレフィセント』のラインだろうし、ベースになってるアニメから外れてなんぼのもんってノリなんだろうけど。
 でも、いちばん許せなかったのはクルエラが擬似家族を作ってたところだったかな。
 クルエラってそもそも「家庭」とか「家族」的なるもののアンチとして出てきたキャラなんですよ。原作小説では毛皮商の妻ってことになっているんだけどかなり好き勝手やって「わたしの一族はわたしが最後だから、夫をわたしの姓に変えてやったわ」なんて言い放ったりする。”良妻賢母”であるパディタと対置されているわけです。
 これが『101匹わんちゃん』ではもはや何やってるかわかんない無から生まれた女*3みたいになっていて、ただ純粋にダルメシアンの子どもを盗んで毛皮にしようとするヤバいひとになっている。
『101匹わんちゃん』は飼い犬同士が縁を結んで飼い主同士も結婚して、幸福なご家庭を作ることが核になっている映画で、狂った孤独な女であるクルエラは子どもを奪って家庭を崩壊させる悪の象徴なんですね。
 これが実写版の『101』になるとさらに加速して、ヒト(飼い主夫妻)とイヌ(ダルメシアン夫婦)の妊娠と出産が完全にシンクロするというグロテスクなプロットになる。一方でクルエラにはファッションデザイナーという地位が与えられる*4。自分の会社でデザイナーとしてのセンスを開花させた部下のパディタに惚れ込んでいるんだけれど、あるとき「結婚するからデザイナーやめます」と告げられて激怒する。90年代の映画なんですけど、「いくら才能があっても結婚すれば家庭におさまるのが女のしあわせ」という価値観がアメリカでもふつうにまかり通っていたんですね。で、パディタを取り戻そうとする仕事人間であり成功者であるクルエラが”悪”とされてしまう。
 クルエラがパンクなのだとしたら、それはファッションや後ろで流れるBGMがパンクなのではなく、そのあり方や生き様がパンクなんです。だって、ディズニーの女性ヴィランってだいたい魔女か女王かその両方なのに、『101匹わんちゃん』のクルエラってただただイカれてる一般人(主人公の元同級生)なわけですよ。すごくないですか?
 わたしはクルエラにその狂気をつらぬいてもらいたかった。パンクでありつづけてほしかった。キャラの福祉を考えたら、そら擬似家族的なコミュニティを形成できたほうが幸せだよね、って話なんですけれど、クルエラにはそういうものを超越してただ突っ走ってほしかった。
『クルエラ』には”悪役であること”を引き受けるくだりがあって、そこはクルエラマインドがあったんですけどね。まあ単体の映画としては好きです。

 

『セイント・モード』(ローズ・グラス監督)

セイント・モード/狂信

セイント・モード/狂信

  • モーフィッド・クラーク
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 たまにホラーでキリスト教テーマというかイカれた狂信者ものなのがあって、あーこれ書いてて今フラナガンの『真夜中のミサ』の続き観なあかんなー、と考えているわけですけど、『セイント・モード』はかなりそのへんソリッドといいますか、必要なことしか詰まってない。ファナティシズムとナーブスリラーみたいな要素がうまいこと絡まっていい出汁が出ております。プロットは百合。ラストはかな〜りいじわる。

『パッシング 白い黒人』(レベッカ・ホール監督)

(ネトフリ映画)

 俳優が監督業に手を出すのは太古の昔からあるわけですけれど、近頃は映画技術の向上のせいか打率が上がっている気がする。『パッシング』はかなりルックが練られた作品で、主題となっているのはタイトルにもある人種的パッシング、つまり、肌の色が薄い黒人が白人を装って社会に溶け込むという昔の黒人の生き方で、主人公もそういうひとなんですけれども、これをモノクロで撮る。しかも、やや昔っぽいライティングで撮る。するとどういうことになるかといえば、主演の黒人俳優の肌がやや薄くなって、いかにもブラックって感じじゃなくなる。この手法がかなりスリリング。
 そして、主人公が自宅のあるハーレム(黒人地区)に戻るとそれまで白が基調だった画がガラリとかわって黒が基調となる。
 あざといといえばあざとい演出なんですけれど、うまいなあ、とおもうわけです。

サウンド・オブ・メタル』(ダリウス・マーダー監督)

 めちゃめちゃがんばっているわりに報われている感の少ないリズ・アーメッドですが、今回もめちゃめちゃがんばりました。音を通じて世界を覗く映画っていくつかありますけれど、これは手堅くできていますね。原案がデレク・シアンフランスですが、っぽいといえばっぽい気がする。

孤狼の血 LEVEL2』(白石和彌監督)

 イヌが人間になる映画。

『サイダーのように言葉が湧き上がる』(イシグロキョウヘイ監督)

 わたせせいぞうみたいな画面もよいんですが、なんといってもSNS描写。「インターネットをポジティブに描写する」っていうのはこういうことなんですよ、誰にとは言わないけど。

『花束みたいな恋をした』(土井裕泰監督)

 あれだけコスっといてこういうところで言及しないのも不実だなあって。
 

『ユダ&ブラック・メシア 裏切りの代償』(シャカ・キング監督)

 潜入スパイものってそれだけでおもしろい。映画の最後に、エッ、このひと21歳だったの!? ってビビったけれど。

『ファーザー』(フロリアン・ゼレール監督)

 演劇的な手法がよく効いていておもしろい。わたしも忘れっぽいのでアンソニー・ホプキンスに全力で感情移入しました。

ダヴィンチは誰に微笑む』(アントワーヌ・ビトキーヌ監督)

 アート業界はまじで魑魅魍魎の巣窟なんだな……とおもわせられる山師ばかり出てくるドキュメンタリー。再現映像を本人にやらせるのがしょーもなくてよい。ドキュメンタリーだと他にも『コレクティブ』とかよかったな。ドラマシリーズだと『殺戮の星に生まれて』。

犬映画オブ・ザ・イヤー

☆『犬は歌わない』
 『最後の決闘裁判』
 『恐怖のセンセイ』
 『PITY ある不幸な男』
 『カラミティ』
 『孤狼の血 LEVEL2』



今年はPTAとウェス・アンダーソンの新作を愉しみに生きていきます。

*1:虹色がキーカラーとなる

*2:最近ジョエル・コーエン版の『マクベス』も観ましたが、やっぱりリドスコとは気合が違う

*3:いちおうパディタの元同級生という原作からの設定は継承している

*4:この設定が『クルエラ』では引き継がれる