名馬であれば馬のうち

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まぼろしの糸による意図のまぼろし:『ファントム・スレッド』について

Phantom Threadポール・トーマス・アンダーソン監督、2017年、米)
(本記事はあらすじをほぼすべて割っています)

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 神へと捧げられた七つの編み込みのある、金髪と赤毛の重い髪の房が彼女の左手に握られているが、その髪にはそれまで一度もかみそりが当てられたことがなく、そこには今まで誰も抗えなかった英雄の男性的な力が潜んでいた。
 両刃を開いたままの鋏がデリラの右手で光っている。

――パスカルキニャール「デリラ」


「ファントム・スレッド」90秒予告編



 はじまりは、暖炉からの熾火にほのかに照らされる女性の顔。その表情は穏やかでありつつも自信に満ちている。アルマという名のその女性は、画面外で耳をそばだてているのであろう「観客」に向かってこう語る。

「レイノルズは私の夢を叶えてくれた。そして、私も彼が欲しがっていたものを与えてあげたの」

「欲しがっていたもの?」

「私のすべて(Every piece of me.)」


 断片化された人間のあらゆる部分をついばむのが『リズと青い鳥』の愛だとすれば、『ファントム・スレッド』はすべてを与えることこそ愛だと宣言する。すべてとは何か。生だ。


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 観客の前に初めて姿をあらわすとき、主役の一流デザイナー、レイノルズ・ウッドコックは文字通り顔をさらしている。

 シェービングクリームをたっぷりつけてひげを剃る姿はあからさまな男性性のアピールであると同時に、レイノルズという人間が身だしなみに気を使う「ファッションの人」であること、そして寝起きの時間をひげ剃り、髪のセット、靴磨きなどの自分自身のことにしか使わない自己中心的な人物であることも示す。姉のシリルは、弟が身なりをととのえているあいだ、姉弟の城である「ハウス・オブ・ウッドコック」をオープンするための手続き(窓を開けたり、お針子や客を出迎えたり)の一切を仕切っている。

 姉が空間を仕切り、弟が服を作る。いちおう愛人のような形で専属のモデルが同居しているけれども、彼女は名もなきお針子たち同様に服を支配するレイノルズの年季奴隷にすぎない。そうやって彼らの家(ハウス)は調和している。

 専属モデルは定期的に入れ替わる。まるでモードに合わなくなった古い服が無造作に脱ぎ捨てられるようして。
 ディナーに訪れた行きつけのレストランで姉は弟を諭す。「ジョアンナのことはどうしましょうか。私はかわいい娘だけれど、ちかごろちょっと肥ってきたし、あなたとよりを戻せるのを座って待っているだけだわ」
 そうして、ジョアンナと呼ばれる専属モデルはハウスから追い出されることが決定される。レイノルズにはどうでもいいことのようで、うわのそらだ。ジョアンナは一切に言及せず、唐突に母との思い出を語りだす。

「最近、ママのことばかり思い出すんだ……よく夢に見る……彼女の匂いがして……私たちの近くにいるんだと強く感じる」

 母。匂い。どちらも重要なキーワードだ。だが、とりあえずシリルは弟に田舎のカントリーハウスでの休暇を勧め、弟は単身車で出かける。そこでヒロインと出会う。


 レイノルズが朝食をとりにきたベッド&ブレックファストに、アルマはウェイトレスとして勤めていた。彼女はテーブルにぶつかっては騒がしい音を鳴らし、注文を取るためにテーブルからテーブルへとせわしなく動く。後にその騒々しさと too much movent を責めるにもかかわらず、このときのレイノルズは彼女のたたずまいに惹かれる。ジョアンナとの最後の朝食で「朝は胃にもたれるものは食べたくない」と刺々しく言い放ったくせに、平日の朝食とイングリッシュブレックファストの違いはあるにしても、アルマにはベーコンやソーセージ、クリームやバターの乗ったスコーンといったこってりした料理を注文する。


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 レイノルズはその場でアルマをディナーに誘う。アルマはレイノルズに一枚の紙切れを手渡す。そこにはこう書かれてある。「はらべこぼうや(Hungry boy)へ。私の名前はアルマよ」。*1彼女が「はらべこぼうやに食事を与える存在」として登場したことを覚えておきたい。すくなくとも舞台となった五十年代、ぼうやに料理を作ってあげるのは母親の役目であったことも。
 
 夜、初デートのディナーでレイノルズは赤いドレスに身を包んだアルマに「君は君のお母さんに似ているか」と尋ね*2、母親の写真を持っているなら常に肌身離さず持ち歩け、と奇妙な助言を行う。意味深なことばだけれども、アルマから「あなたのお母様は今どちらに?」と聞き返されて彼はもっと奇妙なことを言い出す。

「彼女はここに――いま着ているコートの芯地*3にいる」

 芯地にはコインやささやかなメッセージ*4といった「秘密」を編み込むことができ、レイノルズの場合は母親の遺髪をコートに織り込んでいるという。
 母親を常に身につけているのだという。「彼女が私に商売を教えてくれた。だから、いつも離さないようにしているんだよ」

 この母親こそレイノルズにとっての「ファントム・スレッド」、まぼろしの糸だ。もともとは徹夜続きで働くお針子が疲労のあまりに糸の幻覚を見てしまうことを指しての慣用表現*5で、プロダクション作業でも割合後半になってつけられたこのタイトルは多様な解釈をさそう。*6ここでは母親(の亡霊、すなわちファントム)ということにしておこう。
 

 序盤におけるレイノルズのセリフは、かなりの部分、母親にまつわる事柄でしめられている。ワインスタイン騒動を経たわたしたちにとって*7、レイノルズの独善的で女性蔑視的な態度は嫌悪感をもよおさせる。しかし彼の「男性的」な唯我独尊、あるいは支配欲はアメリカ映画でよく描かれる家父長的なパターナリズムとは若干異なる。子供っぽさの裏返しというよりも、ストレートに子供っぽい。母親に庇護されたわがままな子どもの気難しさに似ている。*8
 レイノルズと亡き母親との関係について、ポール・トーマス・アンダーソン監督は『タイムアウト』誌でのインタビューでこんな風に言及している。


――本作におけるレイノルズを「病んだ男性性(toxic masculinity*9)」と形容する向きもありますが*10


PTA:「病んだ男性性」とは現代的な言いまわしだね。そう呼んでもいいとは思う。しかし、むしろ「子供のまま身体だけ大きくなってしまった大人」*11と言ったほうがよりふさわしいかな。母親に溺愛されて育った息子が、大人になっても子どもっぽいふるまいを続けていたらどうなるか? という話だ。


https://www.timeout.com/london/film/does-daniel-use-emojis-no-hes-got-a-flip-phone-paul-thomas-anderson-on-phantom-thread

 アルマをカントリーハウスに連れ込んだレイノルズはアルマに母親*12の写真を見せる。ウエディングドレスを着た肖像だ。十六歳だったレイノルズは再婚する母親のために自らの手で白無垢のドレスを誂えたという。アルマは尋ねる。「そのドレスは今どこに?」「さあ……どこだろうね。灰になってしまったのかも。散り散り(pieces)になってしまったのかも」


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 話題はレイノルズの結婚観へと移る。
「言い切ってもいいが、私は一生結婚しないよ。断固として独身を貫く。結婚は私を惑わすだろう。心を乱されるのはきらいだ」
 アルマはレイノルズの強がりを見抜く。「あなたは強がっているだけね」
 レイノルズは意地を張る。「強がってはいないさ。ほんとうに強いんだ……他人の期待や憶測など頭痛のタネにしかならない」

 ポール・トーマス・アンダーソンの言う「この映画の最も重要なポイント」――「自分中心で愛には興味のない男が、究極的に愛で満たされ、誰かを必要とし、頼ることを知る」*13に至るまでの予兆が示される。アルマはレイノルズに欠けている「何か」を知っている。ジョアンナのようなレイノルズの愛を「待っているだけ」だったこれまでの専属モデルたちとは一線を画している。


 だが、最初はレイノルズに支配権がある。レイノルズはアルマを仕事部屋に連れ込んで肌着一枚に剥く。シリルが遅れてやってきて、初対面のアルマに近づいて匂いを嗅ぐ。「サンダルウッド、ローズウォーター、シェリー……それにレモンジュース?」「ディナーに魚料理を食べたので……」

 彼女はにおいをまとっている。


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 姉弟はアルマの採寸を始める。
 一個の人間における身体の支配権が剥奪されていく、実にエキサイティングなシーンだ。
 ポーズを指定し、身体をバラバラの pieces に切り分け、その長さを数字に変換する。モノとなってしまったアルマの身体はもはやアルマのものではない。それを再構築する権限はデザイナーであるレイノルズにのみ与えられてしまった。
「ちゃんと普通に立って」レイノルズはアルマに命じる。
「普通に立ってますけど……」「さっきみたいに」「さっきみたいって言われても」「まっすぐ立って」「まっすぐ?」「そう、そういうふうに」「はあ、なら初めからそう言ってください」

 レイノルズは姿勢を掌握するだけは飽き足らない。

「君は胸がないね」
「ええ、知ってます」
 自分の胸囲の不足について謝るアルマにレイノルズは、 
「いやいや、君は完璧だよ。私の仕事は君の胸をふくらませることだ――私が望んだ場合には」

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 身体の動作のみならず、身体そのものの改造権まで握ってしまう。機械的に告げられた数字をノートに書き記していくシリル*14の不気味さもあいまって、ほとんど暴力的な光景だ。とはいえ、採寸のあいだ中アルマが見せている不遜な物言いや表情は、彼女が単に唯々諾々と姉弟の「ハウス」に飲み込まれていかないことを予告してもいる。


 アルマの身体を奪ったレイノルズは、「ハウス」(シリルの支配領域だ)の一室を与えることで空間をも制限し、そして時間をも奪う。
「おやすみなさい。明日は早めに仕事を始めるよ」
「何時ごろに?」
「私が起こしてあげる」

 そうして、彼女たびたび夜も明けきらない早朝に叩きおこされるはめになる。
 
 身体、空間、時間を取られてしまったアルマはしかし不思議と気高く在る。
 あまつさえ、レイノルズの服に「わたしはあんまり好きじゃない。布地が主張しすぎる」とケチをつけたりもする。レイノルズは「これは正しいから正しいんだ」とアルマの意見を聞き入れない。「たぶん、きみの趣味(taste)もいつかは変わるさ」
 アルマも口ごたえする。「たぶん、変わらないかも」
 レイノルズはふきげんそうに「たぶん、君は趣味が悪いんだね」
 アルマは反駁する。「たぶん、わたしにはわたしの趣味があるのかも」

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 味覚(taste)が最終的に変わるのはどちらかを知っていれば、実に興味深い会話だ。彼女の好み(taste)を奪うことだけはレイノルズにもできない。


 次にアルマの taste が色濃く出るのは、朝食のシーンだ。ジョアンナがいたときの冒頭のように、窓を背にして正面にレイノルズ、左手にシリル、右手にアルマが座る。三角の構図の三角関係。
 レイノルズがなにより静穏を求めるこのテーブルで、アルマはざりざりと妙に大きな音を立ててトーストにバターを塗る。手元に集中したいレイノルズの耳に障る。「おねがいだから、そんなに動かないでくれるか(Please, don’t move so much)」
 そんなに動いてない、と反論するアルマをさえぎって「It's too much movement. It's entirely too much
movement at breakfast.」と繰り返す。*15元はと言えばアルマが move too much だったからこそ、レイノルズは彼女を発見できたというのにこのときはその動きの多さが気に入らない。
 シリルは着付けのときに弟を擁護したときのように、「朝食は別々に取るべきかもしれないわね。彼はルーティンを乱されるのがきらいなの」とアルマに手厳しくあたる。


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 狂騒じみた新作お披露目ショーを終え、レイノルズはアルマとカントリーハウスでの休暇に向かおうと車に乗りこむ。しかし、精根尽き果ててしまった彼は運転ができない。じりじりとズームでアルマの顔ににじり寄っていくカメラが何かを予感を孕みつつ、アルマは「運転、代わらせて」と申し出る。
 ボイスオーバーでアルマはショーを終えた直後のレイノルズの状態をこう表する。「まるで……まるで子どもみたいなの。甘やかされてダメになった赤ちゃんみたい。こういうときの彼はとてもやさしくて、素直なの。数日そんな状態が続いて、また彼は元気を取り戻す」


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 元気な彼とは、不遜な彼であるということだ。復調したレイノルズは初めてアルマを採寸した部屋で仕事を再開する。アルマは彼にお茶を持っていくが、不機嫌に拒絶される。*16
カントリーハウスでアルマはキノコ採りにでかけ、お手伝さんと調理する。
「ヒダがついたキノコには毒がありますよ」とお手伝さんは言う。それと、キノコを料理するときにバターを入れすぎないことも。「ミスター・ウッドコックはバターを入れすぎるのが大きらいですからね」

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 レイノルズの taste を熟知したアルマは、もう動きすぎない。微かな音すら立てずに朝食のトーストにバターを塗る姿に、シリルは目を瞠る。

 レイノルズは富豪であるバーバラの服を仕立てる。ドミニカのあやしげな美男子と再婚する彼女の結婚式に招待を受けるが、あまり気乗りがしない。
 服を仕立てたのち、バーバラは再婚を告知する記者会見に出る。記者から、夫はバーバラの財産目当てで結婚したのではないか、という質問が飛ぶが夫は否定する。「では、バーバラさん、あなたは新しい夫の人生に何をもたらしたのですか?」
 彼女は答える。「誠実さよ」
 自分がレイノルズのドレスにふさわしくないことを知っている彼女は、自分がウソをついていることも知っている。しかし、それでもレイノルズのドレスを着てパーティに出ることをやめられない。

 レイノルズはアルマとともにバーバラのパーティに出席する。晴れの席で狂態を見せるバーバラを見かねたアルマは憤然として「彼女は『ハウス・オブ・ウッドコック』のドレスにふさわしくない」と、酔いつぶれて眠るバーバラからドレスを剥ぎ取りに向かう。
 バーバラから剥いだ緑色のドレスをかついで、ふたりは夜の街をはしゃぎながら駆ける。
「ありがとう、愛してる」とレイノルズはアルマに言う。

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 完璧にレイノルズと通じ合ったかに思われたアルマに、またもや危機が訪れる。ベルギーの王女が結婚式のためにウエディングドレスを仕立てにやってきたのだ。レイノルズの母のときのような白無垢のドレスを。レイノルズと親しげに振る舞う王女に、アルマは何とはなしに心を乱される。彼女の知らない彼はいったいどれだけいるのだろう。

 王女が帰った後、アルマはシリルのオフィスを訪れ、「レイノルズのためにサプライズパーティーがしたい」と申し出る。
 レイノルズの性格を知り抜いた姉は強硬に反対する。だが、アルマも強硬に決行を宣言する。ここまで生活を共にしてきて、アルマも彼の taste を知らないはずはない。レイノルズがサプライズを嫌うと知った上で、「自分のやりかたで彼を愛したい」と言う。「わたしは自分のやりかたで彼を知る必要があるんです」


 アルマはひとり「ハウス」に残ってレイノルズを待ち構える。レイノルズとの最初のデートを彷彿とさせる赤いドレスを身に着け、本来は彼のポジションであるはずの階段の上から彼を見下ろして出迎える。
 サプライズにレイノルズは戸惑うものの、しぶしぶ付き合って彼女の手作りのディナーを一緒に囲む。ワイングラスにそそいだ飲み物(炭酸水?)にはレモンの輪切りが浮かべてある。初デートのおもいでのにおい。アルマは出会いを再演しようとしている。
 前菜はアスパラガスのバターソース。レイノルズはこれみよがしに卓上の塩をふりかけて齧る。アルマは尋ねる。「おいしい?」。レイノルズはぶっきらぼうに「そうだな」と答える。
 アルマは「いえ、嘘だわ。あなたはちっともおいしいとは思っていない。いつもなら感想をつけくわえるはず」と言う。
 レイノルズも負けてはいない。「私がアスパラガスをオイルと塩で食べるってことは知ってただろ」
 味付け(taste)の主導権争いをめぐる衝突は取り返しのつかないところまでいく。
「何が望みだっていうんだ、アルマ」
「私はあなたとの時間が欲しいだけなの。私だけのあなたとの時間を。私とあなたの間には何かが……距離があるわ」
 レイノルズにはわからない。
「こんなくだらないことよりもっと他のことに私の時間を使いたいんだ。私の時間、私の時間だ!」
 アルマもキレる。「あなたの時間に私は何をやっているんでしょうね? いったいここで何を? ただ立って、馬鹿みたいに待つだけ」
「待つ、って何をだ?」
「あなたがここから私を追い出すのを待っている。だから、そう言って。出て行けと言ってれれば、バカみたいに立ち尽くさなくてすむ。なんでそんなに私に冷たいの。なんでそんなひどいことを私に言うの」
「ここは私の家か? 私の家だよな? まるで知らない外国に放り込まれた気分だ。敵の国境を越えた場所に」

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 こうした時間と空間と食を巡る激しい応酬の後、アルマはナプキンをレイノルズに投げつけて去っていく。


 翌朝、彼女は「ヒダのついた」キノコを潰して、レイノルズ専用の急須に混入させる。毒はじわじわと効いていき、完成したベルギーの王女のウエディングドレスを検分するころには立っていられなくなる。
 自室で昏倒していたレイノルズをアルマはベッドに横たえる。レイノルズやシリルに部屋から出るように言われても、彼女は断固として居座ろうとする。レイノルズが倒れているあいだ、一時的にアルマが空間を支配する。
 どうも病気の原因に勘付いているようすのシリルはアルマの反対を押し切って医師ハーディを呼ぶものの、レイノルズは診察を拒否して追い出してしまう。
 二階のベッドでねむるレイノルズの真下では、シリルやお針子たちがレイノルズが昏倒としたときに台無しにしてしまったウエディングドレスを大急ぎで直している。アルマはお針子のひとりに「何かわたしにできることは?」と尋ね、ドレスのすそをピンでとめておく作業をたのまれる。ハウスで「待っているだけ」だった彼女は本来レイノルズの領域である服に自分もかかわれてうれしそうだ。

 一方熱にうなされるレイノルズは部屋の片隅に母親の幻影を見る。
「ここにいるのかい? いつもここにいたのかい? 母さんがいなくてさみしいよ。いつも母さんのことばかり考えていた。ぼくの名前を呼ぶ母さんの声を夢に聴くんだ。目覚めると、涙が頬にこぼれている。さみしいよ。ただそれだけなんだ。なんて言ってるの、聞こえないよ……」

 開いた扉が母親の幻影を遮るようにして、アルマが現れる。このとき、レイノルズは彼女こそ母親の代わりにさみしさを埋めてくれる存在だと確信する。
 アルマはレイノルズに慈母のように語りかける。
「熱は下がったみたいね」
「愛してるよ、アルマ。君なしではもう生きられない。愛してる」

 全快した翌朝、修復されたウエディングドレスの横でアルマは眠り込んでいる。レイノルズは彼女の足に口づけをしてやさしく起こす。*17

「やりたいことがたくさんある。自分の歳月は無限だと考えていたけれど、そうじゃないと気づいた……。変化のない家は死の家だ。アルマ、私と結婚してくれるかい?」

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 こうして、「ハウス」は変化する。亡霊に支配されたレイノルズの支配するハウスはたしかに「死の家」だったのかもしれない。毎日毎日常に同じルーチーンを繰り返すレイノルズは静かに腐敗していっていた。この後、レイノルズは客離れを結婚のせいにするけれども、彼のデザイナーとしての創造力の衰えは実は結婚前から兆していた。彼は、王女に捧げるドレスを前にして彼はお針子たちの縫製を讃えながらも、「でもこれはダメだ……醜い……」とつぶやいて倒れたのではなかったか。
 病の床に伏せったことで、レイノルズは無限に続くと思っていた日々にも終わりが来ると悟った。死を意識した。肉体的な、あるいはデザイナーとしての精神的な死を回避するために彼にとっての永遠の象徴である母親の写し身であるアルマと結婚しようと決めたのだった。

 しかし、結婚するとやはりアルマは「ハウス」からはみ出すふるまいを見せる。
 新婚旅行先のアルプスで、アルマはレイノルズを置いて一人でスキーツアーに出かけ、一度は収まっていたバター塗りの悪癖も再発して、スープもズーズーとやかましく飲む。二人で訪れたパーティでは、アルマはドクター・ハーディとイチャついてレイノルズを不愉快にさせ、食後のバックギャモンでは逆にレイノルズに負かされたアルマが機嫌をそこねて会場を飛び出す。

 大晦日もレイノルズは家で過ごしたがるが、アルマは新年のパーティに出たいと言って一人で家を出る。残されたレイノルズは仕事が手につかなくなり、ドアの前でうろうろしながら彼女の帰りを待つ。親の帰りを待ち望む子どものように、今度は彼が「待つ側」になってしまう。
 もはや「ハウス」は彼にとっての安住の地ではない。アルマそのものがレイノルズの求める空間になってしまっている。母親の髪の毛は肌身離さずに持ち歩けるけれども、アルマはなぜかレイノルズの手元から離れていってしまう。安心するための結婚が、逆に彼を不安に陥れる。彼はアルマを追いかける。

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 数日後、シリルのオフィスを訪れたレイノルズはある常連客*18が「ファッショナブルでシックな服」を求めて、「ハウス」から離れたと聞かされ、キレる。
 情緒不安定な彼はシリルに「仕事にならないんだ。集中できない。自信をなくしてしまった。助けてくれ」と乞う。
「”彼女”はこの家にはふさわしく(fit)ない。私たちふたりで築き上げたこの「ハウス」を、今や彼女がしゃちゃかめっちゃかに乱してしまっている。彼女は私たちを仲違いさせようとしている。すべてを影で覆ってしまうんだ、シリル」
 自らの規律を重んじるレイノルズにとって労働者階級の移民*19でなにかにつけハウス・オブ・ウッドコックの型からはみ出してしまうアルマは、耐え難かった。そんな彼女に母親の面影を重ねて結婚してしまったことを「とんでもない間違いだった」と悔やむのだった。

 アルマはレイノルズの訴えを彼の背後で黙って聴いている。

「この家には静かな死の空気が漂っている。いやな臭い(smell)だ」

 シリルのオフィスを追い出されたアルマはふたたび毒キノコを摘みにいく。

 今度はレイノルズの眼の前で調理する。毒キノコをバラバラの pieces に切り刻んで、たっぷりのバターで炒める。溶き卵が茶色く濁るほどの量のバターだ。レイノルズの好まない量のバターだ。
 アルマの料理姿を覗き見るレイノルズは既に何かに気づいている。

 きのこ入りのオムレツが完成する。

「お水はいる?」

 アルマはこれみよがしにジョボジョボと音をたててコップに水をいれる。

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 オムレツを供されたレイノルズは最初に何をするか。皿を持ち上げて、たっぷりとにおいを嗅ぐ。
 そうしてアルマを見つめながら、あるいはアルマに睨めつけられながら、口に含んでゆっくりと咀嚼する。彼女の taste を愉しげに受け容れる。

 求婚のときに「変化がない家は死の家だ」と言ってアルマを迎え入れたレイノルズは、姉に対してはアルマこそ家に充満している死の臭いの発生源だと告発した。停滞が死なのか、変化が死なのか。どちらもだ。停滞と変化のあいだ、生と死のあいだを行き来することでレイノルズはやっと生きることができる。ファッションのモードが変化した瞬間に停滞を孕み、停滞が変化を呼ぶように。
 だから、アルマは小さなこどもに言い聞かせるように語りかける。

「あなたには倒れていてほしい。無力に。おだやかに。素直に。私にしか助けられないように。そしてまた力強く立ち上がってほしい。あなたは死なない。たとえ死を願おうと、あなたは死なない」

 レイノルズは笑みを浮かべる。「倒れる前に、キスをして」
 
 アルマは暖炉のそばで膝枕の態勢になってレイノルズの頭をやさしく撫でる。
「私はあなたのドレスを管理する。埃と亡霊と時からあなたのドレスを守ってあげる」
「そうだな、でも今のところは、僕たちはここにいる」
「そう、ここにいる」
「お腹がすいたよ」
 
 かつてレイノルズの所有物だったドレスは、アルマの管理下に置かれる。もうレイノルズは母親の亡霊を幻視することはないだろう。アルマが亡霊から守ってあげているから。二十年後には彼の肉体とともにオートクチュール業界もに朽ち果てるはずであるけれども、彼が死をおそれることはないだろう。アルマが時から守ってあげているから。彼が飢えて死ぬこともないだろう。アルマがいつでも食べさせてあげるから。
 もはや「ハウス」は姉弟の家ではない。母に「私が死んだら、弟の面倒を見るのよ」と言われて*20自分なりに母親の代理を演じてきたシリルには、夫婦の子ども*21のゆりかごを揺らす程度の役目しか与えられない。一方でかつては服を着せるマネキンの仕事くらいしかなかったアルマは活き活きと「ハウス」を駆け回って、彼女の taste でもって服を管理する。

 管理といえば、映画全体の語りを握っているのもまたアルマであることを思い出しておきたい。本作は物語本編における時間軸の外部に位置する語り手によって語られる、いわゆる「枠物語(frame story)」の形式をとる。「枠」を握っているのは最初から彼女だったのであり、いくらレイノルズが「彼女はここにフィットしない」と言い募ったところで見当違いだったのだ。


 出会ったときにはレイノルズの側が支配していたはずの空間・時間・身体が、いつのまにかアルマの手中に収まっている。ポール・トーマス・アンダーソン自身が述べているように、「これは自己中心的な男を解体するヒロインの物語」*22なのだろう。子どもっぽい男によっておもちゃのように pieces に分解された女が、男を解体仕返す。バラバラになったふたりは互いにしだれかかるようにして、織り糸を交錯させて、ふたりのドレスを仕立て上げる。


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 アルマはレイノルズに死を味合わせることで生を与えた。*23

 レイノルズと彼の芸術は永遠に死なない。アルマがそういうふうに語ることを望むかぎりは。

*1:『ザ・マスター』や『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』がそうであったように、ポール・トーマス・アンダーソン作品において主人公の名前はかなり直接的にテーマを物語る。アルマの役は、企画当初は「アグネス」という名前で進められていたらしい。(imdbトリビア欄より)処女性や夫婦の守護聖人である聖アグネスを意識したのだろうか。しかし、最終的にはアルマという名前になる。アルマという名は単独ではさしたる意味付けもないように思われるけれども、本作がヒッチコック・リスペクトに満ちた作品であることを踏まえればある関係性が導き出せる。アルマとは、アルマ・レヴィル――アルフレッド・ヒッチコックの妻であり脚本家だった女性の名だ。レイノルズの姓がヒッチコックと脚韻を踏む「ウッドコック」であることも考えると、この巨匠夫婦の関係性が『ファントム・スレッド』にも取り込まれていると見ても穿ち過ぎではないだろう。アルマとヒッチコックの関係は2012年に公開されたサーシャ・カヴァシ監督の伝記映画『ヒッチコック』にも描かれている。芸術家肌で自己中心的なヒッチコックの振舞いに、アルマがイライラさせられる、だいたいそんな内容だったはずで、いかにも『ファントム・スレッド』のアルマ-ウッドコックを想起させる。

*2:このとき交わされる「お母さんの目の色はきみみたいにブラウンだった?」「緑よ」というやりとりは、その後、緑色のドレスが劇中でどのような使われ方をするかに着目すれば興味深いものとなる

*3:the canvas

*4:後に出てくる not cursed という言葉が関連づけられる

*5:パンフレットより

*6:「男と女の力関係はとても不安定なもの。愛し合っていても細い糸にしがみつくようだ」『毎日新聞』インタビュー https://mainichi.jp/articles/20180529/dde/012/200/008000c

*7:ポール・トーマス・アンダーソンの前々作『ザ・マスター』はワインスタイン・カンパニーがプロデュースしていた。ちなみに、『ファントム・スレッド』のクランクインはドナルド・トランプの大統領就任宣誓式の当日だったという。

*8:余談だが、やはり天才肌の芸術家であるダーレン・アロノフスキーに散々振り回されて破局したジェニファー・ローレンスは本作を「三分と観ていられなかった」という。http://www.indiewire.com/2018/02/jennifer-lawrence-shut-phantom-thread-off-paul-thomas-anderson-1201932932/

*9:心理学およびジェンダー研究の概念。欧米における男性の「こうあるべき」という規範によるプレッシャーから誘発されるミソジニーホモフォビア、過度な貪欲さ、暴力的な支配などといった社会の害毒になる行動を指す。また、男性的な規範にそぐわない自分自身を害する場合もある。英語版ウィキペディアの説明をざっくりまとめるとそんなところ。

*10:『ニューヨーカー』誌に掲載されてプチ炎上を喚んだコラム、「なぜ『ファントム・スレッド』は病んだ男性性のプロパガンダなのか?」を念頭に置いた質問。https://www.newyorker.com/culture/culture-desk/why-phantom-thread-is-propaganda-for-toxic-masculinity

*11:arrested development 本来は医学用語で精神や肉体の発育が停止してしまった状態を指すことばであるが、この場合はもう少しやわらかい意味合いを持つ。関係ないけれど、おもしろコメディ・ドラマ『アレステッド・ディベロップメント』はネットフリックスで好評配信中

*12:ポール・トーマス・アンダーソン自身の母親は怒りっぽくて、気難しい性分だったといい、『ブギーナイツ』での主人公の母親にキャラクターが反映されている。:Jason Sperb『Bloosoms and Blood』より

*13:映画秘宝インタビュー

*14:彼女とて採寸の最中に微妙な感情の揺れをみせるのだが

*15:レイノルズは短い間に特定のフレーズを繰り返す癖があり、そこも神経質なキャラクタ表現に一役買っている

*16:この場面での「(お茶を持って出ていっても)邪魔されたという事実はこの部屋に残るんだ」というレイノルズのセリフはPTAのお気に入りの一節らしい

*17:このときもアルマは「緑色」の毛布をかぶっていることにも留意しておきたい

*18:冒頭で着付けに訪れていたヘンリエッタという女性

*19:アルマを演じたヴィッキー・クリープスのインタビューによると「(クリープス自身と同じく)アルマはルクセンブルク出身で、第二次大戦後にドイツから流浪してきて、一時は小さな漁村で恋人と暮らしていたこともあった」というバックストーリーがあったのだが、本編ではカットされたという。https://thefilmstage.com/features/vicky-krieps-phantom-thread-paul-thomas-anderson-interview/  また、衣装のマーク・ブリッジスは「アルマは、漁師の娘だから、最初の頃は、服は家で手作りしたものが多かった。そして上着は、誰かが着たもののおさがりだろうし、手袋は、姉妹から譲り受けたもの。レイノルズと出会った頃のアルマの衣装は、彼女の出自がわかるような衣装にしているんだ。」と証言している。https://madamefigaro.jp/culture/series/interview/180528-phantom-thread.html

*20:監督インタビューより http://www.moviecollection.jp/interview_new/detail.html?id=813

*21:ゆりかごの赤ん坊の顔は映されないものの、制作会社が公式 youtube チャンネルに公開した削除シーン集でははっきりと映っている。https://www.youtube.com/watch?v=lPwfENwnMlI

*22:AERA 2018年 6月4日号』インタビュー

*23:あるいは死んだ後に生きるということは、レイノルズが幽霊になってしまったことを示しているのかもしれない。ポール・トーマス・アンダーソンはインタビューで「幽霊は本来喜ぶべき存在なんだ。死後の世界があるということを約束してくれる存在だからね」と語っている。https://www.youtube.com/watch?v=I9aVSMeL3Ws

ウェス・アンダーソンにおける野生動物たち:『ファンタスティック Mr.FOX』(『犬ヶ島』について・その2)

proxia.hateblo.jp

 前回書いた記事がその翌々日発売の『ユリイカ』のウェス・アンダーソン特集号に載っていた一部原稿とかぶり、しかも予告した野生の話も論者のみなさんが結構触れてられていたので、そりゃそうだよなあ、などと思いつつ、やる気は減衰し、日々は無駄に過ぎていき、やがて人間はダメになっていきます。みなさん、いかがお過ごしでしょうか。


 ウェス・アンダーソンのふたつのストップモーションアニメ、すなわち『ファンタスティック Mr.Fox』と『犬ヶ島』をつなぐキーワード――野生。この単語の意味するところを、ウェス・アンダーソン監督の初ストップモーションアニメ、『ファンタスティック Mr. FOX』から読み解いていきましょう。それによっておのずと『犬ヶ島』もわかっていけるはずです。


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ファンタスティック Mr.FOX』のあらすじ

 まず『Mr.FOX』のあらすじから洗っていきましょう。


 家畜泥棒を生業としていた主人公のミスター・フォックスは、当時交際相手だったミセス・フォックスの懐妊を聞かされ、そのまま結婚。「家庭のためにもう危ないことはしない」と泥棒稼業から足を洗い、新聞のコラムニストとしていわばホワイトカラー的な正規の職に就きます。
 それから十二狐年後。優しい妻に多少偏屈ではあるけれど元気な息子の暖かい家庭を築いたミスター・フォックスでしたが、一方で単調で刺激のない貧しい生活に倦んでいます。ミセスは「貧しくても私達は幸せじゃない?」と慰めるものの、ミスターは「俺はもう七歳だ。俺の親父は七歳半で死んだ。もう穴ぐら暮らしはいやなんだ」

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 彼は新居探しの最中に、鶏農場に近接する大きな木を見つけます。「あの家にはリスクがある」という顧問弁護士の助言も聞かず、ミスターは家の購入を決断。新居に移るや、友人のオポッサム・カイリを巻き込み、妻には内緒で鶏泥棒をはじめます。


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 当初は上首尾だった家禽泥棒ですが、調子に乗って近隣の農場や牧場を荒らしまわるうち、農場主たちに目をつけられるように。そして農場主たちの親玉であるビーンの策略により、ある晩、逆襲を食らってミスターは尻尾を失ってしまいます。当然、妻にも泥棒の事実が露見します。「 十二狐年前に約束したわよね。もう二度と、鶏もガチョウもシチメンチョウもアヒルも……ヒナバトすら盗まないって。私はそれを信じたわ。なのに、なぜ? なぜわたしにウソをついたの?」「俺が野生動物(wild animal)だからだ」「でも夫でしょう、父親でしょう」



 さらにビーンたちの重機による追い討ちで、フォックス家の新居は破壊されてしまいます。一家は地中へと退避。見境ない破壊の手はフォックス家のみならず他の動物たちまでにも及び、やはり地中へと逃げ込んできた彼らからミスターは騒動の元凶として冷たい視線を浴びせられます。地上への出口をビーンらによって封鎖され、食料を得る手段もありません。全員、地中で飢えて全滅するしかないのでしょうか?


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 しかし、ここでミスターは起死回生の策を編み出します。またも、家禽泥棒です。今度は地中からルートを掘り、キツネ狩りに追われて無防備になっている農場を突いたのです。


 鶏やシチメンチョウを根こそぎ強奪し、大量の食料を手に入れたミスター・フォックス一行。ビーンのりんごサイダー倉庫から盗んできた勝利の美酒で乾杯……しようとしていたところに、りんごサイダーの洪水に見舞われます。ビーンがありったけのりんごサイダーをミスターたちの立てこもる穴に放水したのです。


 薄汚い下水道に追いやられ、ふたたび一敗地に塗れるミスター。そのうえ、息子のアッシュがビーンに奪われたミスターのしっぽを奪還しようこころみて失敗し、一緒に居たいとこの(ミスターの甥)クリストファソンをビーンの狐質にとられてしまいます。

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 ミスターはミセスを下水が滝のように流れている場所*1へと連れ出し、「きみにウソをつくべきじゃなかった」と謝罪します。


「きみにウソをつくべきじゃなかった。誓いを破って*2、鶏を盗むことなんかしなきゃよかった。農場主たちに手をだすべきじゃなかったんだ。連中の裏をかいていい気になっていた。
 楽しかった。でもやるべきじゃなかった。
 残された道は一つだけだ。俺の身をやつらに差し出す。殺され、はく製にされ、暖炉の上に吊るされるしか……」
「ダメよ」
「それで、他のみんなは助かるかもしれないんだ」
「ああ、どうして私たちをこんな目に巻き込んでしまったの?」
「わからない。でも、もしかしたら、みんなにこう呼ばれたいからかもしれない。”ファンタスティック・ミスター・フォックス(すばらしき父さんギツネ)”とね。それで、みんなが俺の魅力に完全にヤられてしまうまでは……自分自身に満足できないんだ。
 火中の栗を拾いに行ったり、狩りをしたり、捕食者を出し抜くのがキツネの伝統なんだ。俺が得意なことでもある。
 俺たちは結局のところ……」
「わかってるわ。私たちは野生動物なの」
「たぶん、昔は野生でしかなかったんだろう。約束するよ。もう一度最初からやりなおせるとしたら、君にはもう隠し事はしない。ふたりで一緒にやったときのほうが、いつも楽しかっただろう。愛してるよ、フェリシティー*3
「わたしも愛してる。それでも……あなたと結婚すべきじゃなかった……」

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 ミスターはライバルであるドブネズミとの死闘を制して自信を取り戻したのち、ペシミスティックな自己犠牲的作戦を取りやめ、クリストファソン救出作戦に切り替えます。そこで仲間たちに再起を賭けた演説を行うのです。
  
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「さて、この豪華な晩餐のテーブルにならんだ顔ぶれを見てみようじゃないか。ふたりのすばらしい弁護士。優秀な小児科医。天才的なシェフ。辣腕の不動産屋。卓抜した仕立て屋。賢い会計士。天賦の才を持ったミュージシャン。……いい感じのヒメハヤ漁師。そして、おそらくは当代一の風景画家。
 俺のコラムを読んだことのある人はほとんどいないだろう。存在を知っている人さえいないかもしれん。

 だが、今ここに集っているのはみな野生動物でもある。
 特質と唯才を持った野生動物たち。
 DNAに織り込まれた何かに由来するラテン語の学名を持った野生動物だ。みんなそれぞれの種に固有の長所と短所をふせもっているんだ。
 ともかく、この美しい個性を結集すれば、俺の甥を救出する一縷の望みを得られるかもしれない」

 
 そうして、ミスターはその場に集った動物たちひとりひとりを学名で呼んで奮い立たせ、クリストファソン救出チームを組織します。


 地上に打って出たミスター一行は、ビーンらを見事出し抜くことに成功。クリストファソン(と取られたしっぽの)奪回に成功し、バイクで帰路につきます。
 その途中、野生の狼と遭遇し、その美に涙する一シーンを挟みつつ、下水道へ勝利の帰還を果たした一行。その後は、地中を通じて閉店後のスーパーマーケットという新たな狩場を発見し、ハッピーエンドを迎えます。ミスターは新たに妊娠が発覚したミセスを筆頭とした家族に向かい、こう演説します。


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「キツネはリノリウムの床にちょっとしたアレルギーを持ってると言われている。けれど、実は肉球がひんやりあたって気持ちいい。
 俺のしっぽは月に二度ドライクリーニングへ出さないといけない。けれど、自由に着脱可能だ。
 俺たちの木の家はもう二度と戻ってこないかもしれない。けれど、いつかは新しい芽が生えてくる。
 スーパーにあるスナック菓子はガチョウ風味だ。ハトのモツは合成物。リンゴでさえ見た目ニセモノっぽい……でも、星の模様がちりばめられている。
 それでも、今夜は食べよう。みんなで食べ明かそう。この頼りない灯りの下でもかまわない。
 きみたちは疑いなく、俺の人生で一番すてきな野生動物たちだ。
 さあ、みんな、ジュースのパックを掲げて。
 俺たちの生存(survival)に乾杯」


キツネと野生

 ご覧の通り、『Mr. Fox』は、中年の危機を迎えた男性が「野生=冒険心」を取り戻す話です。「みんなから尊敬されたかった」と漏らすミスターの言葉から察するに、男性的な名誉欲もつけくわえてもいいでしょう。作中でもオマージュが捧げられているディズニー映画『ロビンフッド*4、あるいはイギリス児童文学的な文脈で言えば『ピーターラビット』にも見られるように、盗賊生活は動物の「本性」である、という歴史的なイメージがあります。

 もっとも家庭を守りたい心と冒険を求めたい心のあいだで引き裂かれるアンビバレントさは、ロアルド・ダールの原作にはない要素です*5ウェス・アンダーソンのフィルモグラフィを見ればわかりますが、中年の危機的な部分は彼の作家的な資質に依るところが大きい。*6
 ともかくミスターの冒険への回帰が守るべき家族に災厄を招いてしまうわけですが、最終的には自身の野生と折り合うことで家庭と折り合います。農場主たちを撃退し、地中生活に戻ったミスター一家は結局泥棒で暮らしていくことになるものの、狩場は以前のようなハンティングの快楽に満ちた鶏農場ではなく、人工物であふれたスーパーマーケットです。冒険心の面はいくらか後退していても、より安全で安定した盗みにミスターもミセスも満足するのです。*7昔は危険な山に挑戦していた登山家が、結婚して子どもができるようになると家族で楽しめるレジャー登山に落ち着くようになる、といった感じでしょうか。配偶者からは「山なんか危険だからやめろ」と言われたけれど、妥協点としてそこに落ち着くみたいな。

 アニメーション研究家の土居伸彰は、同じくアニメーション研究家である細馬宏通との対談でウェス・アンダーソン作品における「野生」について、端的にこうまとめています。

土居:『Mr. FOX』や『犬ヶ島』を観ると、ウェス・アンダーソンにとっての「人間」がどういうものかというのが象徴的にわかってくる。『Mr. FOX』では、最終的に自分自身の野生を取り戻すことによってすべての危機を回避するという結末でしたが、ウェス・アンダーソンの映画には、その人その人にある種の「野生」「本性」みたいなものが眠っていて、それに基づいた「役割」のようなものを全うすることしかできないという人間観がある。
 (中略)その人の持っている性質、その人独自の役割――本能に従うことが、ウェス・アンダーソン作品においてはすごく重要なものとして考えられているような気がします。


「アニメーションという旅路の途中で」『ユリイカ 総特集=〈決定版〉ウェス・アンダーソンの世界」


 『Mr. FOX』や『犬ヶ島』における「野生」は、それこそ「本性」的にアンコトローラブルな衝動として描かれます。ミスターがスリルをやめられないのと同様、『犬ヶ島』のチーフは噛みつくことをやめられません。
 二〇一六年のディズニー映画『ズートピア』では、動物たちに課せられている「本能」が理性によって完璧に制御されうる幻想として描かれていました。また、「キツネはずる賢い」や「ウサギに警察の仕事は無理」といった世間によるべき論の先入観の押しつけを峻拒する作品でもありました。対照的に、『Mr. FOX』では「本能」や本来あるべき姿といったものが抗えない運命として描かれているのは興味深いところです。


 が、百パーセント野生に身を委ねてしまうのが幸福なのか、といえばウェス・アンダーソンはそうは描きません。
 ミスターは終盤に野生のオオカミと遭遇します。このオオカミは、私たちの世界で見かける四ツ足の獣であり、スーツを着込んで二足歩行するミスターたちは根本的に異なる存在です。本来的な意味での野生動物を体現した存在です。*8
 ミスターはオオカミとコミュニケーションをとるために、英語で「どこから来た? なにをしている?」と問いかけます。

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 オオカミから反応がないとみるや、ラテン語で自分の学名を名乗り、相手の学名も伝えます。「学名を呼ぶ」のはクリストファソン救出作戦時に「学名には動物本来の役割が宿っている」という思想のもと、仲間の動物たちの野生を呼び起こすために使われた手法ですが、このときのオオカミには通じません。
 ラテン語の学名=動物本来の役割=野生の公式はミスター独自の幻想であり、本物の野生動物とはもっと彼の想像とは違う生き物なのだということが示唆されます。
「どうやら英語もラテン語も通じないようだ」と悟ったミスターはフランス語にも挑戦しますが、やはり反応はありません。
 オオカミには、本物の野生には、言語は通じないのです。
 ミスターは崖の上に佇むオオカミの姿に涙します。そして、無言で左手を高く天につきあげます。すると、オオカミも左脚をビッと伸ばして応え、そのまま去っていきます。「なんて美しい生き物なんだろう」。ミスターはためいきをつきます。

 ここで本物の野生動物を知り、自らがどうあがいても文明以前には戻れない存在であると知ったからこそ、ミスターはラストシーンの演説にあるような、人工物に囲まれた世界での妥協した「野生」生活をよしとするのです。
 人間は完全な野生動物にはなれない、しかし、完全に文明にも染まれない。たとえその欲求が自己破壊につながるとしても、誰にも飼いならしえない何かが内に宿っている。そのことを象徴する生き物として、古来から文明と野蛮の境界線上の生き物とされたキツネが主人公として選ばれたのは、ある種必然だったのでしょう。
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 そうして、私たちは内なる野生を抱えて生きていかねばいかない。なぜそれに抗えないのかはわからない。しかし、そういうものであるからしようがない。
 実のところ、『犬ヶ島』もまさに『Mr. FOX』とおなじような結論で終わります。
 主人公犬・チーフは大した理由もないのに人を噛んでしまう癖を持っています。そのことについて、ラストシーンでヒロイン犬・ナツメグと語り合います。



チーフ:友だちは俺を喧嘩好きだとおもっている。でも、ほんとうは違うんだ。ときどきカッとなって自分を見失ってしまうことはあるけれど、それを楽しんだことはない。俺は暴力的な犬じゃない。なぜ噛みついてしまうのかわからないんだ。


ナツメグ:飼いならされた動物は好きじゃないわ。


チーフ:ありがとう。


 決して飼いならしえない何かを持った男たちの物語――それはウェス・アンダーソン映画に共通する彼自身の「本能」でもあるのです。


 次は『犬ヶ島』に戻って「半孤児」の話をすると思います。余力があったら。


*1:ラスト・オブ・モヒカン』のオマージュか

*2:fall off the wagon 自らに課していた禁を破ってしまう、という意味。もとは「禁酒をやぶる」ことを指し、ビーンの農場からりんごサイダーを盗んだことにもかかっている。

*3:ミセス・フォックスの本名

*4:ロビンフッドの劇中歌「LOVE」がラジオから流れます

*5:ダールの原作では終始ミスター・フォックスは泥棒であり、妻子もそれを疑いなく受け入れています

*6:「中年の危機」まわりに着目してWAを論じる代表的な評論家は町山智浩でしょう。 https://www.youtube.com/watch?v=a7JwA5ZXg6w

*7:ラストで新しい家族としてリスタートをきる、という構図は冒頭のミセスの台詞「妊娠したの」が反復されることで明瞭となります

*8:ユリイカ』のウェス・アンダーソン特集号に寄せられた蓮實重彦のエッセイによると、フランスの『カイエ・デュ・シネマ』誌のインタビューで「『ファンタスティック Mr.Fox』での狐のパペットが被写体として最高だったのは、それが犬に似ていたからだと監督のウェス・アンダーソンは述べ、「最後には狼が姿を見せ、それがインスピレーションのみなもとだった」ともつけてい」たそうです

なぜ『犬ヶ島』はつまらないのか。:『犬ヶ島』について・その1


野田洋次郎も参加!ウェス・アンダーソン最新作『犬ヶ島』日本オリジナル版予告



困ってしまってワンワンワワン、ワンワンワワン



――プロジェクトは犬ものをやろうという着想だったのですか? それとも最初からサムライ犬でやろうと?
ウェス・アンダーソン最初は犬ものってだけだったね。日本要素はあとからついてきた。


(脚本版)『Isle of dogs』、イントロダクションの脚本陣インタビューより


 あなたは、とは書きますが、別に特定の個人を想定したものではありません。
 こういう書き方をすることで時に拾える綾もあるでしょう。

 そのことを飲み込んでもらったうえで言いますが、

 なぜあなたは『犬ヶ島』をつまらないと感じてしまったのか。



 理由は簡単です。




 あなたが犬になれなかったから




 です。



犬ヶ島』は、観客が犬になることを前提に作られた映画です。

 人間側(㍋崎市パート)の物語がナレーションやニュースキャスターの音声などを介して三人称的に語られがちなのに対して、犬(犬ヶ島パート)側のストーリーはセリフメインで組み立てられキャラの成長なども描かれます。犬たちのほうが、人間よりもよほどヒューマニスティックです。どちらかといえば、人間側の話が従、犬側の話が主ということになります。

 ところが、字幕版でも吹替版でもいいのですが、日本の劇場で観ると人間側の物語も犬側の物語も並列して語られているように見える。そのせいでいまいち物語が焦点を結ばないというか、なんというかエモくない。

 なぜか。ウェス・アンダーソンディレクションが下手なのか。彼の仲良し映画人を集めた脚本チームが無能なのか。

 違います。ある構造上の問題から、ウェス・アンダーソンは日本の観客だけを犬にできなかったのです。


犬よ犬よ犬たちよ



ウェス・アンダーソン私は映画で描かれる犬たちが大好きです。わたしにとって、わたしたちの作品中で描かれる犬は人間なのです。


Wes Anderson Interview | The Director On His New Film 'Isle Of Dogs'


 そう、観客は犬になるべきだった。

 ウェス・アンダーソンのインタビューによると、本作では「フランス語版やイタリア語版でも、日本語の部分だけ残して英語の部分だけ現地の言葉に置き換える」*1のだそうで、つまり本作では「英語の部分=観客の言語=感情移入の対象」として措かれているわけです。裏を返せば、「字幕なしで垂れ流される日本語の部分=観客の理解できない言語=他者」となるわけです。 
 劇中で犬たちが人間たちの言語を理解できず、人間たちもまた犬たちの言語を解しないことを思い出しましょう。出版済みの脚本でも人間たちのセリフはト書きで「日本語でなんか喋る」か、あるいは通訳のセリフとして指定されているだけで、日本語部分について具体的なセンテンスはほとんど与えられていません。*2
 犬たちこそがわれわれであり、人間たちは彼らである。それが本作の体験を支える骨子なのです。


 もうおわかりでしょう。
 上記の式が通用しない言語圏がひとつだけあります。日本語圏です。
 吹替版において犬たちの言語は日本語になり、人間たちと言語的に均質化される。犬も人間もわれわれの側になってしまう。人間側のストーリーも犬側のストーリーも真正面から受け止めなければならなくなるわけで、しかも下手に看板やポスターなんかの字もわかってしまうぶん視覚的な情報量もダンチになってしまうわけで、意味の洪水にプロットの焦点がぼやけてただ見るだけで途方もなく疲れてしまいます。ただでさえウェス・アンダーソン映画は鑑賞後の疲労感がすごいのに、いつもの十倍疲れるかんじがする。

 字幕版にいたってはもっと複雑です。犬たちの英語は字幕で日本語に翻訳されるので、表面上、吹替版と同じ効果をおよぼしそうなものなのですが、しかし声的には犬たちの言語は日本語話者にとってあきらかに「他者」のもの。
 だからといって、人間側の話にノるのも難しい。先述のように三人称的に突き放した語りをしているせいもあるのですが、(人間役のキャストがほぼ日本語ネイティブで固められているにもかかわらず)本作で発せられる日本語はどこかわれわれが日常的に耳にしている日本語のBPMとズレている。ウェス・アンダーソン映画の速度でみんな話している。その違和感が劇中の日本人たちを「他者」に見せてしまいます。
 犬と人間の両方を他者の側におきつつ、スクリーン上で出来する事態をすべて把握できてしまうというかなりねじれた体験をしてしまうわけで、この障壁を突破して犬になれる人間はかなり少ないはずです。


おねがい私の知らないことばで喋らないで、おねがい私の知らないことばで喋らないで



「聞こえるよ、アタリさん! 聞こえるよ、聞こえるよ、聞こえるよ……」


(本編より)

 言語で犬と人間を切り分けられないことは、キャラクターの関係性を呑み込む上でも障りとなります。
 先ほど「劇中で犬たちが人間たちの言語を理解できず、人間たちもまた犬たちの言語を解しない」と書きましたが、ひとつだけ例外的な関係があります。犬ヶ島に捨てられた犬スポットと、そのスポットをさがしにやってきた飼い主の少年アタリです。ふたりはシークレット・サービスが使うようなイヤフォンを通じてほとんど完璧にコミュニケーションを果たします。とはいえ、互いに言ってることを百パーセント理解しあってる様子でもない。おそらく、魂で通じ合っている。

 異言語コミュニケーションの話題において、「相手が何をいってるかよくわからないけれども、何を言おうとしているかはクリアに了解できる瞬間」がよく取りざたされるものですが、そうした奇跡のようなコミュニケーション、奇跡のような信頼がアタリ少年とスポットとの間には結ばれているわけです。異なる言語を混ぜたからこそ成り立つ関係性といえましょう。

 ところが日本語圏の観客はアタリ・スポットのどちらのセリフも理解してしまいます。奇跡が死んでしまっている。いや、実はふたりが初めてイヤフォンをつけて会話する場面は字幕版でも音と画面の力で非常に感動的に仕上がっているので奇跡は奇跡なのですが、しかしその他の場面ではどうでしょう?


 あなたは犬になれましたか?


 ウェス・アンダーソンは、映画の魔法はあなたを犬にしてくれましたか?


 スポットやチーフがアタリに語りかける場面で、すこしでも胸にうずきおぼえたのなら、
 実はもうほとんど犬になりかけているのですが。



 こうした根っこの部分でどうしようもならない上に誰も悪くない問題に悩まされるのは、かなしいものです。
 ですが、だからといって作品の価値が損なわれるわけではありません。といいますか、別に日本語しかわからなくても全然たのしめないわけでもありません。そもそも人間が完全に犬になるとか無理なのです。人間として映画館に行ってもなんら恥じることはない*3。言い忘れていましたが、字幕翻訳も吹替陣も仕事自体はすばらしい出来です。あと、各映画サイトの一般視聴者による採点平均はいまのところ結構良さげっぽいですし……。


 いや、むしろ?


 つい勢いでわら人形論法から記事をスタートしてしまったが、
 ウェス・アンダーソンが人間でも楽しめるように『犬ヶ島』を作ったのだとしたら?


 日本限定のプレゼントとしてユニークな体験をプレゼントしてくれたのだとしたら????


 むしろ日本人こそ『犬ヶ島』を観るべきなのでは???????????????



 というわけで、次は『犬ヶ島』本編の話をします。『ファンタスティック Mr. Fox』から継承している「野生」についての話です。たぶん。

 
 

*1:実際の英語版ではニュース映像や小林市長の演説などのほとんどに英語のボイスオーバーがかかっていたことを考えると、事実上「犬を言葉を現地語にする」という理解でよさそうです

*2:特にアタリは指定があったとしてもせいぜい単語レベル

*3:いちいち通訳が挟まれるので全体的に話運びがトロくなるなあ、とか、ウェス・アンダーソン作品独特のカメラとアクションの一体感にちょっと乏しいなあ、とか、昔の日本映画意識してるのかなんだか知らんがくすんだ画面の色合いがなんかなあ、という演出レベルでの不満もまあ絶無といえばウソになるわけですけれど