名馬であれば馬のうち

読書、映画、ゲーム、その他。


読書、映画、その他。


アメリカのピカレスクで多弁な娘たちの映画についてのメモ:『アイ、トーニャ』、『モリーズ・ゲーム』、『レイチェル:黒人と名乗った女性』

 とりあえず、「この三作って似てるよね」という思いつきからはじまったものの、おもいついてから二週間経っても、あんまりうまく膨らみませんでした。後々のためのメモとしての残しておきます。


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 このところ、アメリカを騒がせたバッドアスな実在女性たちについての伝記映画やドキュメンタリーの公開が相次いでいます。
 ライバルである五輪代表候補選手を襲撃した疑いでスキャンダルとなったフィギュア・スケーター、トーニャ・ハーディングを描いた『アイ、トーニャ(I, Tonya)』。


『アイ、トーニャ 史上最大のスキャンダル』予告編/シネマトクラス



 同じく冬季五輪でスキー競技の代表選手一歩手前まで行きながらも、不慮の事故により文字通り代表の座から滑り落ちて引退。その後なんと違法カジノ経営者に転身し、「ポーカーの女王」としてロシアン・マフィアを巻き込んだ裁判にかけられたモリー・ブルームを描いた『モリーズ・ゲーム(Molly's Game)』


『モリーズ・ゲーム』ショート予告 5.11



 そして、全米黒人地位向上協会(NAACP)の支部長としてブラック・リブス・マター運動などで名を馳せるも実際は白人の生まれであったことが露見し、「黒人を詐称した白人」であると国中からバッシングを受けたレイチェル・ドレザルのドキュメンタリー『レイチェル:黒人を名乗った女性』。


The Rachel Divide | Clip [HD] | Netflix



 三者それぞれに生まれた地域、クラス、時代、細かい家族・友人関係、オチのトーン、あるいはドキュメンタリーや劇映画といった違いはあれど、いくつか共通点が見出されます。


 1.前代未聞の事件を起こし、「悪役」として全米から憎まれるはめになった女性が主人公であること。
 2.物語の山場を乗り越えても、彼女たちの人生がまだまだ前途多難であると示唆されること。
 3.一方で、彼女たちは逆風にあっても自分の意地を貫く頑固なキャラクターであること。
 4.彼女たちが人生につまづいた大きな要因が実親による抑圧であること。


 要するに、親との確執を抱えて育った女性が、自主的に発見した才覚と技能によってその親から離れて自立し、栄光をつかみかけるも自分自身に由来するゆがみが遠因となって挫折し、また一念発起して立ち上がろうとする話です。問題の発端である親とは和解したり、しなかったりします。
 まあ、それはいいんですが、共通点がもう一つ。

 彼女たちがものすごく雄弁だということ。

 それぞれ、「スタイルの源流が『グッドフェローズ』だから」だとか「監督脚本がアーロン・ソーキンだから」だとか「インタビュー形式のドキュメンタリーだから」だとか固有の事情を抱えているにせよ、トーニャもモリーもレイチェルもとにかく喋りまくる。
『アイ、トーニャ』のトーニャに至っては他者の証言と真っ向から矛盾する発言をするので作品自体『藪の中』(映画的に言えば『羅生門』)スタイルになっているのですが、ともかく三作品とも「彼女たちのなかにある声」を引き出そうとしています。
 その声は真実を証言しているのかもしれないし、そうではないのかもしれない。いずれにせよ、彼女たち自身による彼女たちの物語であることには変わりありません。
 もともとバイオグラフィカルな映画というのは、世間的には間違っているとされたり無視されたりしている人々の内情や人生を汲み取りやすくしてくれるものです。
 オリンピックのライバルを襲撃した。違法カジノを開いた。人種を偽った。
 ニュースで伝えられるのは、わかりやすく要約された情報だけです。そういうもので、私たちはなんとなく人一人の人生をわかったような感じになってしまう。ほとんどが本人以外の口から語られたものであるにもかかわらず。
 まあ、本人自身が語っているからいって、それが正しいとかぎらないのですけれども、しかし語る権利くらいはある。ワンフレーズでラベリングされがちな人々の声を聞き、世界に一定の複雑性を与える。映画とはそのための装置だったりもするわけです。


『レイチェル』には言葉にまつわるこんなシーンがあります。主人公(取材対象)であるレイチェルは白人であったことが露見して以降、SNSに何か書き込めば見知らぬ人間たちから嵐のように叩かれる状況に陥ります。たとえば、「車にいたずらをされた」と写真付きで発言をアップすれば、即座に「どうせ自作自演でしょう?」「またウソをついてるな」といった否定的なレスでツリーが埋まるのです。経歴を詐称したことで友人たちからも見放されたレイチェルを擁護する人間はいません。
 極めつきは彼女の息子がロースクールに入学するためにある大学を見学訪問したとき。大学の前でポーズをとる息子の写真をアップすると、「あんな女の息子には入学してほしくない」などと本来事件とは関係ない息子を中傷するコメントで溢れます。そのせいで、彼女に残された数少ない味方だった息子との関係が悪化してしまうのです。
 
 ふつうなら、とっくにアカウントを削除していることでしょう。なのに、レイチェルはSNSへの投稿をやめようとはしません。
 監督が「なぜネットリンチを受けるとわかっていてSNSをやめないの?」とレイチェルに訊ねます。
 彼女はこう応えます。
「何もかもコントロールできない状況で、これが唯一コントロール可能なものだからよ。言葉だけは私のものだから」


 受け手のレスポンスがどうあれ、声だけは奪えない。
 それをインフラとしてのインターネットの発展だったり、昨今の映画界をとりまくmetoo運動などと結びつけてもいいのかもしれませんが、とりあえずここでは「そういう時代である」とだけ留保しておきましょうか。

尻のウサギが僕を呼んで:『ピーターラビット』の感想

Peter Rabbit, ウィル・グラック監督、米、2018)
(わりとネタバレを含みます)




映画『ピーターラビット』予告


野うさぎのふたつの身体

 さあ、ご紹介しましょう。彼こそがピーターラビット。わたしたちの物語のヒーローです。
 青いコートに身を包んだ若いウサギ……しかも、ノーパンのね。

映画『ピーターラビット』OPより

ズートピア』になくて『ピーターラビット』にあるものとは何でしょう?


 ずばり、お尻です。

 
 お尻なら最良のが『ズートピア』にもあったじゃないか。心あるひとならジュディがズートピア警察署に初出勤するシーンを想起しつつ、そう反駁なさるかもしれません。
 たしかにスパッツでかたどられたウサギ独特の官能的なヒップラインは、なるほど『ズートピア』における達成かもしれません。しかし、あなたがたは大事なことを忘れていらっしゃる。
 ジュディにしろ、その家族にしろ、みんなズボンを履いているのです。
 どういうことか。
 どういうことだ?

 つまり、生尻ではない、ということです。


ズートピア』世界のウサギたちは、シヴィライズドされた人間の現し身であり、彼ら彼女らは種族の長所である跳躍力を支える尻*1をみずから縛ることによって、文明社会の一員たりえています。社会で生きるということは社会の型にあわせてある程度自分たちの形を削ることなので、肉食動物たちが肉食を封じる一方で、草食動物も自らの「野生」を抑えているわけです。それがウサギたちのズボンに象徴されているのですね。

 かたや、イングランドが生んだ我らが愛されノーパン野郎、ピーターラビットはどうか。
 映画にも原作にも共通することですが、ピーターラビットは基本的にマクレガーさんの農園に押し入って栽培物を強奪する野菜泥棒です。といいますか、害獣です。
 重要なのは速度。ピーターたちは生尻をあらわにして飛び跳ねます。高度に知性化された上半身と野蛮な下半身。相反する傾向がひとつの肉体に宿っていることが、「上だけ衣服を羽織って下半身まるだし」という考えてみれば不思議なピーター一家のファッションに表出しているのでしょう。ただの露出狂ではないのです。
 
 映画序盤、老マクレガーの農園を襲撃(そう、まさに”襲撃”です)するピーター一家のシーンではお尻が強調されます。
 農園へ向かって四ツ足で駈けていくピーターたちを背後からとらえる画面は自然ウサギのお尻づくしになりますし、マクレガー家の柵もウサギたちの尻をちょくちょくひっかけます。
 極めつきは老マクレガーに対して攻勢をかける場面で、ピーターは露出した老マクレガーの半ケツにセイヨウニンジンをつっこむことで、一時的な「勝利」を得ます。ズボンに身を包んだ人間を「野生」のフィールドに引き込むことで勝つ。それが彼等のドクトリンです。*2
 

 ところが映画中盤から、今度は尻と正反対の部位が重要な意味を帯びてきます。頭です。


動物を追う、ゆえにわたしは(動物)である。

 
 ウサギがひたいをくっつけ合う行為は、劇中では「謝罪」と説明されます。
 ピーターたちにとって頭は相手と和解するための器官であり、ここでも野蛮なお尻と対比がなされているのですね。
 もっとも老マクレガーに変わってピーターと対峙することになった新マクレガー(ドーナル・グリーソン)とは、この「謝罪」がうまくいきません。
 というのも、マクレガーがピーターの敬慕するビア(ローズ・バーン)と恋仲になってしまうためで、恋とは縁遠いティーンウサギであるピーター*3も「やさしいお隣のおねえさん」であるビアを取られてしまうことに焦りと怒りをおぼえているのです。*4
 ピーターはマクレガーの寝起きするベッドにトラバサミをしかけ、やはりお尻を攻撃します。ですが、一方で、中盤以降からピーターたちのお尻はあまりフィーチャーされなくなる(ように見える)*5。ピーターはだんだん「野蛮」ではなくなっていくのです。
 その後、詳細は省きますが、なんやかんのあって、ピーターは情緒面でティーンエイジャー的な成長を見せ、マクレガーとも仲直りします。

 そうした点で、本作は知性ある野蛮人だったピーターが(父を殺し土地を奪った)文明と和解し、「人間的に」洗練されるまでの成長物語ともいえるわけです。
「動物を文明化して争いをなくす」という意味では『ズートピア』とほんのり似てるといえなくもない。


 劇中で最も印象的な「頭」の使用シーンは、ピーター、ビア、マクレガーの三者が決裂してしまったのち、ハロッズに復職したマクレガーをピーターが説得してビアのもとに連れ帰ろうとするくだりでしょう。
 ピーターたちを始めとした物語世界の動物たちは喋ることができるのですが、それは基本的に人間には通じないという設定です。マクレガーが農園にきたばかりのときも、袋に捕らえたピーターの従兄弟を掲げて周囲の野生動物たちに「おまえたちもこうなるぞ!」と脅迫するのですが、直後に「なんで俺は野生動物と話そうとしているんだ!」とセルフツッコミをします。
 では、人間と動物との言葉は通じないのか、といえばそういうわけでもなく、ハロッズを舞台にピーターたちが騒ぎを起こすシーンで、子どもにぬいぐるみと勘違いされたピーターの従兄弟が喋るウサギ人形のふりをします。

 つまり、劇中世界において、人間と動物は「コミュニケーションが通じるはずなのに互いに通じようとしない」関係なのです。

 ハロッズの再会シーンで、ピーターとの会話が成立すると気づいたマクレガーは「そりゃ喋れるだろうさ!(I knew you could talk!)」とうめきます。
 そして、これまでの悪事についてのピーターの全面謝罪を聞き、いっしょにビアのもとへ向います。そしてビアとも(やはり上半身を介した)コミュニケーションを通じて和解する。
 それまでピーターたちは暴力やいかにも動物っぽい媚態を通じてしかマクレガーがビアとコミュニケートしてこなかったわけですが、ラストに至ってようやく「対等な相手」として互いをリスペクトしあえる関係になるのです。
 外見で話が一切通じないと判断していた相手が実は対話可能な「人間」だった――一見おバカスラップスティックムービーに見える本作ですが、実は今日的なトピックを奥底に秘めたイイ話なんですね。


ピーターラビットのおはなし (ピーターラビットの絵本 1)

ピーターラビットのおはなし (ピーターラビットの絵本 1)

*1:兎肉ではもっとも美味な部位とされます

*2:ちなみに劇中でピーターたちが「先に僕たちがここに住んでいたのに、あとから人間が来てかってに占領した」という趣旨の発言および再現シーンが映ります。原作にはたしかなかったと思うのですが、「アングロサクソンが先住民を追い出してエンクロージャーする」構図は監督のウィル・グラックの出身国であるアメリカ合衆国の成り立ちを想起させます。ここにも(政治的にやや安直であるものの)「野生VS文明」の構図が仕込まれているのですね。

*3:監督のウィル・グラックのインタビューによると「ピーターはティーンエイジャーのイメージで、妹たちはトウィーン(八〜十二歳)くらいのイメージ」とのこと

*4:このあたりの感情の機微は劇中でピーターの口からすべてセリフでギャグっぽく説明される。親切設計です

*5:一度観ただけなのでもしかしたら勘違いかもしれない

二つの身体をもった心:『君の名前で僕を呼んで』について



 もしだれかに、なぜ彼が好きだったのかと、しつこく聞かれても、「それは彼だったからだし、わたしだったから」と答える以外に、表現のしようがない気がしている。わたしの思惟を越えて、わたしが個別にいえることを越えて、そこには、なにかしら説明しがたい、運命的な力が働いており、この結びつきのなかだちをしてくれたのだ。 


(『エセー』、モンテーニュ宮下志朗・訳、白水社


 北イタリアの夏のやさしい夕暮れ*1がつくり出す影は、恋するふたりの距離を喪失させ、ほとんど一体化させる。ベッドまで連れ立つ影、夜の樹上での逢引、旅先でのホテルのバルコニー。
 

 融合のたくらみは映画の最初から仕掛けられていた。
 アメリカからやってきた大学院生オリヴァーは、主人公の少年エリオにとってまず侵入者として現れる。エリオの部屋の半分がホームステイするオリヴァーのためにあてがわれ、オリヴァーも部屋につくなりまだエリオの私物の残るベッドに倒れ込んですやりと眠る。


 その後も事あるごとにオリヴァーはエリオの領域を侵す。
 オリヴァーの自転車が倒れそうになって、エリオの身体に触れる。友人たちとバレーボールに興じる場で、エリオに渡されかけた水のボトルをオリヴァーが横取りしてがぶ飲みする。そのままエリオの肩をぶしつけに揉む。
 エリオの家族も友人も見知らぬ地元民でさえも、あっというまにオリヴァーに魅了される。
 しかし、もちろん誰よりもオリヴァーに惹かれているのはエリオだ。そのことを口に出せないあいだ、彼は一途にオリヴァーを窃視しつづける。視るだけだ。彼は自分の部屋の半分であったはずのオリヴァーの領域に踏みこめない。
 

 『君の名前で僕を呼んで』というタイトルのとおり、エリオの欲望は同化願望になって顕れる。彼が最初に目をつけたのは、オリヴァーのネックレスだ。




 金のネックレスと、金色のメズーザー(ユダヤ教で用いる、聖句を記した小片をおさめたケース)にダビデの星がついたペンダントだった。これが僕たちを結びつけていた。それ以外のすべてが僕たちを分け隔てるとしても、これだけはあらゆる違いを超越していた。僕がダビデの星を目にしたのは、彼が来てすぐだった。その瞬間、僕は悟った――僕を惑わせたもの、彼を嫌いになるどころか親しくなりたいと思わせたのは、お互いが相手に求めるどんなものよりも大きく、したがって彼の魂より、僕の体より、大地そのものより素晴らしいもの、つまり同じユダヤ人同士という同胞意識なんだと。


(『君の名前で僕を呼んで』、アンドレ・アシマン、高岡香・訳、マグノリアブックス)


  
 映画でもエリオはオリヴァーのペンダントを見て、「ぼくもそういうのを昔持っていた」と言い、どこからか見つけ出して身につけだす。オリヴァーとエリオ一家の他にユダヤ人のいない町において、同じ由来を持つこと示す民族的アイデンティティはふたりをつなぐ特別な共通点だ。

 そして、同化願望といえば、もちろん衣服。初めて肉体的に結ばれ(エリオが最も望んだ「同化」の形だ)「君の名前で僕を呼ん」だ直後、エリオはオリヴァーにこんなことを言う。


その(青い)シャツ、最初うちに来た日にも着ていたね。お別れするときが来たら、ぼくに呉れない?」


 もちろん、その前にエリオがオリヴァーの下着を頭からかぶってオナニーにふけっていたことを観客は忘れてはいない。
 エリオの父親の友人である老ゲイカップル(片方を原作者のアンドレ・アシマンが演じている)を別荘に迎えたとき、父親から「彼らがプレゼントしてくれたシャツを着ろ」と強要されてもエリオが強く拒絶したことも忘れてはいない。


 かくして、エリオはオリヴァーのシャツの手に入れ、そのシャツに身を包むことで画的にも同化を完了する。


 では、なぜそこまで本作は「一体化」を強調するのだろうか。


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モンテーニュとエチエンヌ・ド・ラ・ボエシー


 重要なヒントは最終盤に提示される。エリオが父親と対話するシーンで、父親はエリオとオリヴァーの関係を「それは彼だったからだし、わたしだったから」というモンテーニュのことばを引用して評する。
 これはモンテーニュが親友エチエンヌ・ド・ラ・ボエシーとの間の結びつきについて語ったことばだ。なんとなれば、引用元である『エセー(随想録)』の「友情について」という章はまるまる『君の名前で僕を呼んで』についての注釈であるとも言ってもいい。*2「友情について」は亡友ラ・ボエシーとの思い出を介して男同士の友情や友愛について思弁する、とみせかけて、実際にはラ・ボエシーへの強烈な想いが綴られた章だ。
白水社版の『エセー』訳者である宮下志朗モンテーニュとラ・ボエシーの関係について、白水社ウェブサイトでの連載の一回を割いてよくまとめている。25歳のモンテーニュが共にボルドーの高等法院で同僚として働くことになる28歳のラ・ボエシーと出会うシーンをひこう。




モンテーニュは3歳年長のラ・ボエシーという存在を知っていた。ラ・ボエシーもまた、モンテーニュの噂を聞いていたらしい。なにせラテン語母語として育って、6歳だかで、地元の名門コレージュ・ド・ギュイエンヌに入学し、ずっと年上の連中と張り合った神童なのだから。そして二人は、「人出でにぎわう、町の大きな祭りのときに、初めて偶然に出会ったのだが、たがいにとりことなり、すっかり意気投合して、結びついた」(1・27「友情について」)。モンテーニュによれば、「そこには、なにかしら説明しがたい、運命的な力が働いており、この結びつきのなかだちをしてくれた」のだった。それは、そんじょそこらの友情ではなかった。「世間のありふれた友情を、われわれの友情と同列になど置かないでほしい。わたしだって、そうした友情のことは、人並みに知っているし、そのなかでもっとも完全なものだって知らなくはない。でも[…]、通常の友情の場合は、手綱をしっかり持って、慎重に、注意深く進んでいく必要がある。それは、うっかりしているとほどけてしまうほどの結びつきなのだから」(1・27)。


第8回 友情について - 白水社

 


 まるで映画のようにドラマチックな出会いと情熱的な友情。
 ラ・ボエシーは十代にして『自発的隷従論』という現代にも参照される名著を書き上げた早熟の天才だったことも、音楽に文学に多彩な才能を見せるエリオに通じる。また早逝したラ・ボエシーをひたすら惜しんで嘆くモンテーニュの筆は、オリヴァーが去ったあとのエリオの愁嘆を想起させる。ラ・ボエシーが亡くなったのも、モンテーニュとの出会いからわすが四年後のことだった。「あの人との甘美なる交わりや付き合いを享受すべく与えられた、あの四年間と比較するならば、それはもう、はかない煙にすぎず、暗くて、やりきれない夜でしかないのだ。」というモンテーニュの詩的な悲嘆はそのまま小説版『君の名前で僕を呼んで』に書かれていてもおかしくない。


 しかし、なにより『君の名前で僕を呼んで』を思わせるのは次の一節、いや二節だ。




 われわれがふつう友人とか、友情とか呼んでいるのは、つまるところ、それによっておたがいの魂が支え合うような、なにか偶然ないし便宜によって取り結ばれた親密さや交際にほかならない。そして、わたしがお話ししている友情の場合、ふたつの魂は混じり合い、完全に渾然一体となって、もはや両者の縫い目がわからないほどなのである



この高貴な交わりにおいては、ほかの友情をはぐくむような、奉仕だとか、恩恵は考慮にもあたいしない。なにしろ、われわれの意志は、完全に融合しているのである。……(中略)……事実、両者のあいだでは、意志、思考法、判断、財産、妻子、名誉、生命など、すべてが共通であって、その和合は、アリストテレスの実に的確な定義にしたがうならば、「体がふたつある心」にほかならず、ふたりはたがいに、なにを貸し与えることもできないのだ。


(両節とも宮下志朗・訳『エセー』「友情について」より)

 『エセー』の訳者・宮下志朗によると「これは友情であって、肉体的な同性愛ではない」そう。が、『君の名前で僕を呼んで』の原作者アンドレ・アシマンはその見解におそらく同意しない。
 



――あなたは長年に渡ってプルーストを研究し、教えてきました。プルーストは回想録と小説の境界を綱渡りする人ですよね。


アシマン:まったくそのとおりです。ルソーもそういう人ですね。彼は自分の人生についてウソを書いてきた。



――とても巧妙に、ですね。


アシマン:とても巧妙に、だよ! モンテーニュもそうでした。


Interview with André Aciman | Features

「回想録と小説のあいだに明確な違いなどありはしない」と公言するアシマンは、成程、自伝的小説である『君の名前で僕を呼んで』を執筆するにあたり、(彼の考える)モンテーニュに倣うことで『エセー』に秘められたモンテーニュの思慕を汲み取ろうとしたのではなかったか。


 原作小説では、タイトルの意味、エリオとは「誰」なのか、オリヴァーとは、エリオの父親とは「誰」なのかがより明確なかたちで読者に示される。*3
 小説からアダプテーションされ映像となった本作でも、主人公が「縫い目のない」「身体のふたつある心」たるを追い求める点は変わらない。*4オリヴァーはエリオのベッドを奪うことでエリオの心に侵入し、エリオはオリヴァーの衣服に袖をとおすことでオリヴァーとひとつになる。それらはあくまで映画的な演出・象徴であって、現実には決して実現しないだろう愛情の究極形態なのだろう。だからこそ、燃え盛るさまがうつくしい。*5




 そしてあの頃みたいに僕の顔をまっすぐに見て、視線をとらえ、そして、僕を君の名前で呼んで。


(『君の名前で僕を呼んで』、アンドレ・アシマン、高岡香・訳)

 
 

君の名前で僕を呼んで (マグノリアブックス)

君の名前で僕を呼んで (マグノリアブックス)


エセー〈2〉

エセー〈2〉


 

 

*1:誰もが眼を奪われる本作のライティングであるけれども、実は撮影時はほとんど雨天で、ほとんどが人為的につくり出した光源で太陽光を再現していたらしい。この功をグァダニーノはタイ人撮影監督のサヨムプー・ムックディプロームに帰している。幻想的な画作りで話題となったアピチャートポン・ウィーラセータクンの『ブンミおじさんの森』でも撮影監督を勤めた人物だ。

*2:実際の原作はあまりに多様な文学的レファレンスで構築されているので、ネタ元をひとつに絞ることは無意味だろう

*3:特に映画版ではオミットされた第三部「クレメンテ症候群」

*4:まるで『饗宴』で喜劇作者アリストパネスが語った愛の起源ーーゼウスによって分かたれた男の半身がもうひとりの男の半身を探すように

*5:もっといえば『リズと青い鳥』もモンテーニュ「友情について」なんですが、それはまあ別の機会に