名馬であれば馬のうち

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地獄にスノードームで勝算はあるのか? ーー『魔女の子供はやってこない』を読むための六夜(2)

良い地獄を待っているーー『魔女の子供はやってこない』を読むための六夜(1) - 名馬であれば馬のうち

のつづき

 

第二話「魔女家に来る」  

 第一話は夏子がぬりえちゃんちへやってくる話でした。第二話はぬりえちゃんが夏子のうちにやってくる話です。
二〇一五年に開かれた講演会(関西ミステリ連合OB会『BIRLSTONE GAMBIT』収録)によると第二話は「中耳炎」と題されたぬりえちゃん視点の話になる予定でした。が、「中耳炎」は結局編集部から没をくらいます。*1本編はその没原稿の代わりに書かれたものです。

 

 

シンギュラリティ・スカイ (ハヤカワ文庫SF)

シンギュラリティ・スカイ (ハヤカワ文庫SF)

 

 


*家、あるいは家族という名の地獄


 本書のタイトルである『魔女の子供はやってこない』をキーワード「地獄は来ない」とつきあわせると、どちらも「来ない」存在であると共通項が見出され、「魔女の子供(ぬりえちゃん)は地獄のメタファーである」とこの時点で短絡しえます。ところが第二話では魔女がやってくる。
 第一話でもともとの友人たちを無くした(無くした記憶を消してしまったので元々ぼっちだったということになっている)夏子は、学校の先生から「最近通り魔が出て危ないから友達とペアを組んで下校するように」と促されるものの、組む相手がいないので教室にぽつねんと残されてしまう。
 そこに、紙飛行機が窓から舞いこんできます。唯一の友人であるぬりえちゃんからのお誘いです。夏子はぬりえちゃんとの関係において、常に待つ側です。
 ふたりは一緒に外で遊びますが、内容は公園で本を読むだけ。他に遊び方がわからないので夏子はこういうことをやるのですが、ぬりえちゃんは「一人でできること、どうして二人でするんだろう」と疑問を呈し、夏子の家に遊びに行くことを提案します。このとき、とまどう夏子にぬりえが言う「友達でしょ?」は第一話で夏子の家に遊びに行きたがった小倉くんのセリフと呼応します。旧仲良し六人組は第二話以降姿を消しますが、このようにセリフを反復する形でふしぎとちょくちょく全編に顔を覗かせます。
 夏子は以前からあまり自分のうちに友達を招待しない子供だったようです。それは彼女自身の強い自意識に由来しています*2。彼女は精神を削りながら自室でぬりえちゃんを歓待しますが、内心では「二人でいる時何をすればいいか、せっかく外ではそれを見つけて決められたのに、どうして家で遊ぶんだろう、ずっと外で遊べたらいいのに、そう思」ってしまう。
 外で遊ぶときは外にあるものを使えばいい、しかし自分の家で遊ぶときは何を使っていても自分と関わりのあるものを使わざるをえない。つまり、自分の内面をさらけ出す必要がある。さらにやっかいなことには、さらけ出したもののになかに自分でも認識していない恥ずかしいサムシングを見いだされてしまうおそれがある。一方で規範を共有せずコントロールも効かないのになぜか他人からは自分の一部とみなされる「家族」という制度もあって、この人たちもなにかまずいことをしでかす恐れがある。
 夏子母の引き留めもあり、ぬりえちゃんはずるずる夕食を相伴し、ついにはお泊まりするのですが、この間に夏子は神経をすり減らしていく。はたから見れば些細なことでも、自分や家族の器の小ささを露見させてしまうのではと過剰に心配します。
 夏子の神経衰弱っぷりの他に夕食の様子から読み取られるのは、夏子と家族の断絶です。母親は子どもの客をあしらうのになれないせいか、やたらぬりえちゃんを引き留めてしまうし、傲慢な姉は割り切れない数のチーズ餃子の余分になんの断りもなく手を出してしまう。そして、父親は一応ふつうっぽく振る舞っているけれどいつ怒りっぽい地を覗かせるかわからない。
 どこの家庭にでもあるような他者としての家族の不可解さや理不尽さが夏子の心に負荷を加えていき、母親からぬりえちゃんと一緒に風呂に入ればと薦められたところで沸点に達します。夏子は「絶対嫌だ! 一人で入る!」と泣き叫んでトイレにひきこもります。まさに地獄。

 

「あまり家には呼びたくなかった?」
「怖い」月が眩しく私は俯きました。布団の姉の膨らみが見えました。「嫌われそうで怖い。やなとこいっぱい知られそうで怖い」
「そうなの」
「もっと仲良くしたくてと、ぬりえちゃんはいっていたけれど」垂れる髪の毛の中に私は隠れました。「私にはもう親友だから、これ以上には仲良くしないで欲しい……」
「どうだろう」魔女の声がしました。「安藤さんはさ、人の目が怖いのかもしれないね」

 

*眼球奇譚


 人の目。
 第三話で複数回反復されるモチーフはいくつかありますが、とりわけ重要なのはこの「目」でしょう。たとえばこんなパラグラフがあります。

 

 道端に不審者注意の立て看板があって、黒地に目玉のイラストが描かれていました。その目が苦手と私が言うと、ぬりえちゃんが腹からマジックを取り出して、さっと塗り潰してしまいました。「憂いは断ったね。さあ行こう」

 

   なぜ目なのでしょうか。なぜ夏子は視線を恐れるのでしょう。

 見る-見られるの関係は映画であれば直感的に「スクリーンと観客との緊張関係」という当たり障りのない一言に要約して了解を得られるところですが、小説ではメタフィジカルな言及なしに登場人物が読者を見返すことはまずありえず、よって作品ごとに個別具体的な視線論をでっちあげる必要があります。
 夏子は観察者としての自分にはわりと無頓着です。姉のプライベートが書いてある日記を平気でぬりえに晒したりします。また、ぬりえの応対にあたる家族の一挙手一投足をパラノイアックな視線と解釈を注いでいます。
 そんな彼女が観察されることを過剰に忌避する。見られることで、「嫌われることが怖い。知られるのが怖い」と言う。自己評価の低い彼女は深く立ち入られると自分の醜い部分がバレてしまうと思いこんでいる。だから、自然と浅いつきあいを志向してしまいます。
 つまり、評価されること、判断されることを恐れているのです。後藤明生ふうに言えば「他者の解釈を拒絶」している。
 

 他者を拒絶するということは、他者の目を拒絶することだ。他者の解釈を拒絶することだ。つまり、他者から見られることを拒絶することであり、他者から解釈されることを拒絶することである。
(中略)
 つまり、そこには「見る←→見られる」という、他者との関係が成立しない。その成立を許さない。「見る←→見られる」という他者との関係を拒絶するのが、志賀直哉の「直写」ということなのである。
(「第二章 裸眼による「直写」 志賀直哉『網走まで』『城の崎にて』」『小説ーーいかに読み、いかに書くか』)

 

 見て見られる。判断して判断される。それらは関係の基盤です。コミュニケーション以前の問題です。
 観察がなければ解釈もなく、解釈がなければ言語化もない。そして、言語化しないのなら願いもない。他人に観察されることで再帰的に自己を識るのは、ねがいにパースをひくための初歩です。『魔女子供』において「ねがい」というテーマがなぜディスコミュニケーションや友人といった人間関係の話の上に描かれてるのかといえば、自分を見てくれる他者がいなければ自分のねがいも描けないからです。文字にならないからです。

 

「文字のない町は綺麗だけれど、景色は変わってしまうから。言葉にしないと伝わらないから、言葉で願うことを書いてるんだよ」(第六話)

 

 ぬりえは夏子に視線を恐れるなと諭します。「人の目が怖いのはさ、慣れれば平気になるんじゃないかな。訓練しようよ」と言います。他者に解釈されることを恐れるな、ということです。そして、安藤家を辞去するとき、夏子に人間の目玉の入ったスノードームを渡します。このスノードームもまた第二話で印象的に反復されるアイテムです。

 これは元々餡子が夏子に旅行のおみやげにプレゼントしたもので、夏子の机にかざってありました。最初もちろん目玉など入っておらず、サンタと橇が封入されていただけです。
 ぬりえは夏子の部屋で生まれて初めて見たスノードームに興味を示し、お風呂にもスノードームがあったと主張します。それは中に水の入った輪投げのおもちゃで、スノードームを「中に水が入ったまるっこい物体」としか認知していなかった彼女にはどちらも同じものに見えたのです。「文字のない町」では機能さえ同一なら区別もないのかもしれませんね。
 夜、眠れないふたりはベッドを船に見立てて航海ごっこを始めます。そのとき、夏子は島に見立てた机からスノードームを取ってきて「宝にしよう」とぬりえに渡します。それをぬりえをふたつに割ると、中から大量の液体が流れ出し、やがて部屋を覆い尽くします。のみならず、町全体も海原に変えてしまいました。ふたりはベッドの船で外にこぎ出し、寝と水にしずまった町の様子を「スノードームのよう」に眺めます。『ドラえもん』の「ブルートレインにのろう」*3を思わせるノスタルジックな幻想です。
 そうして、翌朝にぬりえはスノードームを夏子に返却、というか再プレゼントします。追加された目玉の意味は明白ですね。夏子たちがスノードームの中で町の住民を一方的に眺めていたように、町に住む夏子もまた見られる客体である、ということです。ぬりえを見送るために外に出た彼女はもはや他者の視線を恐れなくなっていました。それもこれもぬりえちゃんという他者が夏子の領域に「やってきた」からこその達成なのです。

 


*目玉の正体


 スノードームに追加された目玉は基本的には他の人々からの視線の象徴なのですが、別の可能性としては神などもありえます。
 劇中、何度か監視者のような飛行体が登場します。第一話の二章目の終わりで、村雨くんが魔女の住むマンションを教えてくれたときに「来るのと彼が訊くのにかぶり、教室の飛行機の音が通り過ぎていきました」。第三話で死者蘇生を迂遠に断るぬりえちゃんと気まずくなったときに「窓の方をヘリコプターの音が通り過ぎていきました」。第六話で子供のときの世界を訪れたふたりがげろアパートで夏子と出会う前のぬりえを見つけたときに「遠くでヘリコプターが飛ぶのが聞こえました」。どれも音だけで姿はありません。第三話で夏子は授業終わりに窓から空を見上げて「雲の少ない澄んだ高い空で、神様がいるのならよく見えそうでした」と述べますが、見られる側からは見えない存在です。

 この神はただ見るだけの存在ですから、たとえば人を罰したりはしません。航海ごっこ中にふたりは通り魔の犯行現場を目撃します。夏子は通報したほうがいいのか迷いますが、ぬりえは「(通り魔を)捕まえるためにしたことじやないし」といってスルーしてしまいます。夏子が「このまま二度と捕まらないかも」と言っても、人の法とは別の世界で生きるぬりえは無関心です。
 すべての魔女は地獄へ行きますが、地獄とは行ったり落ちたりやってきたりする人間的な業の生み出す場所なのであって、神とは関係がない。第三話で夏子の先生が「神様しかしちゃいけないことってあるんだと思うよ」と話したのを受けて、ぬりえが「神様とか聞くとちょっと笑っちゃうね。偉けりゃやってもいいんだったら、私は黙ってやっちゃうけどな」と言い放つのは彼女が神的な上位存在とはまた異なる存在だからでしょう。

 地獄行きを決めるのが魔女であり、神様がいるなら見えるはずの空に神様を見いだせないのならば、やはり彼女たちの住む町の空に神はいないのかもしれません。地上の神のほうは五話に出てきます。

 

**追記

 読書会中に指摘されて初めて気づいたのですが、目玉は通り魔からぬりえちゃんが奪い取ったものですね。劇中で通り魔の役割がいまいちわかっていなかったんですが、他人の視線に対する恐怖を具現化した存在であるのかもしれません。

*1:「中耳炎」はのちに矢部嵩twitter にアップされ読めるようになりました

*2:彼女の姉も家に友達をあげるタイプではないと書かれているので、家風でもあるのでしょう

*3:てんとう虫コミックス25巻所収

良い地獄を待っているーー『魔女の子供はやってこない』を読むための六夜(1)

 

 フィクションを読む、とは、こうした記述の運動を把握し、固有の色彩とマチエールを味わい、複数の動きがあるなら相互の関係を見出し、あるロジックを持つ総体に組み上げ、評価することだ、と、取り敢えずはしておきましょう。
佐藤亜紀『小説のストラテジー』ちくま文庫

 

 イメージこそ事件なんだというのが、ぼくの主張です。
フロベールからルイーズ・コレーへの手紙、ナボコフナボコフの文学講義 上』河出文庫

 

 

 


 矢部嵩による魔法少女文学の最高峰『魔女の子供はやってこない』(角川ホラー文庫)で読書会を主催することになってしまいました。
 つきましては覚え書き的なものが欲しい。物覚えが悪いので、そういうものがないと話したかった細部を忘れてしまいます。*1

 矢部嵩はエモーションの作家である、と概してみなされがちで、かくいうわたしも文体のエモさにやられてファンになったクチです。
 しかし、小説は「なんとなくエモそうな文」を並べれば、そのまま「エモい小説」になるわけではありません。エモい物語におけるエモさとは感情誘導技術の結晶です。
 矢部嵩作品も実は緻密な技術の粋でできています。それを成り立たせているのは特定のイメージの反復と接続です。それらの記述の軌跡を「運動」と呼んでもいいかもしれない。かつて佐藤亜紀は「物語だと我々が思い込んで読んでいるのは、しばしば、「運動」のことである」と宣しました。その運動をこれから一緒にたどっていきましょう。基本的には各話の筋をあたまからけつまで割る方向なので、ネタバレに注意してください。

 

第一話「魔女マンション、新しい友達」

第一章「帰り道で」

『魔女の子供はやってこない』は世界の解像度、あるいは視力についての記述からはじまります。
 

 奥から空が暮れ始めていました。

 


 この簡潔な書き出しはこれから語られる物語が「夜」に属する系統の話であることを宣言しています。が、コンセプト説明の役割を託された第一話に関するかぎりでは、二行のちに続く段落がより重要だとおもわれます。

 

 レンズの端の汚れに気付いて、かけていた眼鏡を外すと町はかすんで、文字のない国にいるみたいでした。眼鏡を拭いてまたかけ直し、暗くなった通学路を私は再び歩き出しました。


 このパラグラフは終盤にエモい形でパラフレーズされます。要素としては眼鏡も「文字のない国」というフレーズも以後の五話にわたって繰り返し反復されていくことになります。ここでは、さしあたって、主人公・安藤夏子が視力に劣った人物であるという属性が示されます。夏子は優柔不断で、ぼんやりした人物です。そのキャラクター設定は物語全体のテーマと深く結びついています。
 そもそもの事件のきっかけも彼女の視力の悪さ、迂闊さからもたらされます。下校途中に家の合鍵をなくして探すうち、ふしぎなステッキを発見する。そこで日常が分岐し、非日常的な物語へと発展していくわけです。
 ステッキを発見する場面はなにげないながらも、第一話の根幹を問う上できわめて興味深い。

 

 何かいいことがないかなと思いながら歩いていると、前方に奇妙なものを見つけました。


 鍵をなくして落ち込んでいる夏子が「なにかいいことがないかな」と「ねがいごと」をして、ステッキがもたらされたように読めます。このステッキは周り回って、最高の親友という夏子が(望んでいると自覚していない)ほしがっていたものに交換されるわけですから、なんとなれば魔女に出会う以前、ステッキを拾う以前から夏子をねがいごとをして、それをかなえてもらっていたのです。
 ラストの構造的仕掛けを考慮するならば、ねがいごとは最初からただしく理解され叶えられる予定であったわけで、それを一般的なことばで表現するとなると、運命と呼ぶにふさわしいでしょう。

 ステッキには魔女の住所が記されています。それで持ち主であるらしい魔女が「自由町」に住んでいることが知れる。「自由町」は「自由帳」に通じることばで、第一話を通してちりばめられている絵画のイメージはここに端を発します。


第二章「拾ったステッキ」

 第二章は第一章の出来事を語った夏子に対する友人たちの反応ではじまります。小学校の教室における夏子とその友人たちの描写は一見なんの変哲もない仲良しグループといった趣ですが、実はすでに破滅へと至る種子がそこかしこに蒔かれています。
 まず、友人五人の名前をみてみましょう。餡子、小倉、ずん田、村雨、そして厳密には三章からの登場になりますが、うぐいす。
 いずれもアンコ由来(餡、小倉餡、ずんだ餡、村雨餡、うぐいす餡)のネーミングです。ここに加わる安藤夏子の「あんドーナツ」は相性が良いに思われます。ところが、よくよく考え視てみると、他が純和製の菓子であるのに対して、あんドーナツだけはドーナツという洋菓子を使用しています。一人だけ、立ち位置が曖昧な名前なのです。この曖昧さはそのまま夏子の性格のどっちつかなさにつながっていて、同時に夏子がなんとなく彼らとのコミュニケーションが不全をきたすであろうことも予言しています。

 仲良し六人組の関係の不穏さは、テスト返却の場面にも漂っています。小学生における強さの指標のひとつである「成績の良さ」がグループ内で均質ではない。小倉くんや餡子が優秀な生徒である一方で、ずん田くんは一度も百点を取ったことのない劣等生なのです。
 また、ずん田くんは初登場時に「痛そうに頭をおさえてい」ますが、なぜ痛がっているのかは特に現時点で読者に説明されません。実は村雨くんがずん田くんをいじめているのですが、視点人物である夏子はその事実を知らず、また気にもしません。

 


第三章「私の友達」
 
 村雨くんから魔女の住所について情報を得て、一行は魔女の住むアパートへと向かいます。この章の第二段落で村雨君と初登場のうぐいすさんがテスト結果を見せ合って賭を精算するシーンが描かれます。テストを通じてキャラ同士の仲の良さを表現するのは第二章でも餡子と小倉くんでやっていたテクニックで、夏子以外の五人のうち、ずん田くんだけがそうした関係の意図から巧妙に外されているのが見え隠れしています。
 また、前章のテストで百点を穫ったずん田くんの「奇跡」がもしかしたらステッキによる「魔法」の効果なのかもしれない、という仮説が小倉くんの口から唱えられます。
 ところでこのステッキ*2。本書が魔女と魔法についての話であるとわかって読んでいるとなんとなく「このステッキには魔術が宿っていて、ずん田の百点もその効果なんだな」と無条件に納得してしまいますが、実は劇中ではステッキ自体になんらかの機能があると説明されていない。夏子がステッキに願ってずん田に百点をとらせてしまったのなら、魔女の存在ぬきで魔法が使えることになってしまいます。それは変です。ステッキは単なるプロップにすぎず、ずん田の百点も偶然だったのでしょう。このステッキは最終話である感動的なエピファニーを媒介することになりますが、あれもステッキがただのブツであるこその奇跡なのだとおもいます。
 してみると、ずん田くんはすくなくとも実力で百点を取ったわけで、小倉くんの物言いはあきらかにずん田くんをバカにしています。なのに村雨くんも「ずん田が自分で取るよかはありうるとおれも思う」と真剣に同意する。魔法のステッキが実在する確率よりも実力で百点を取るほうがありえない、とふたりは考えているのです。当事者であるずん田くんは二人の議論に口をはさみません。
 

 ここでグループのリーダー格である小倉くんの提案により、みんなで魔女のところへステッキを返却しに行く流れになります。ついでに夏子が彼に恋心を抱いていると判明します。
 小倉くんはクラスの人気者ですが「誰を好きなのか知る女子はおらず」、夏子も自分の気持ちを押し込めて友人としての距離を保ったまま曖昧なしあわせに安住します。彼の好きな女子はおそらく自分ではないだろうとわかってはいます。それでも彼のしぐさひとつひとつにかすかな希望を寄せてしまうのが女心。
 片思いとは想像上の相手に過度な妄想や期待を重ねるディスコミュニケーションの一形態です。その一方的な期待が崩れてしまうことを失恋と呼ぶわけですが、この終局は夏子にもやがて訪れます。

 さて、第三章で注目したい表現は他にもあります。魔女のすまう「げろマンション」をはじめて夏子が目にしたときの描写です。

 

 十階建てのげろマンションは壁に当たる夕日が眩しく、書き忘れたみたいに輪郭線が飛んでいました。見上げると壁は傾いて見えて、角度のきつい遠近法でした。

 

「輪郭線」も「遠近法」も絵画の技術的な用語であり、小説ではまず用いられません。ここで矢部嵩本人が絵もたしなむ事実を思い出すのも乙でしょう。
 本編における「絵」のイメージは「魔女」を表しています。そのことを鑑みるに、彼女が住むマンションのファーストインプレッションが絵画的に述べられるのは一貫性の点で当然です。
 げろマンションは同時に夏子のすむマンションと同じ丘の反対側に立地しているので、「この世」に相対する「あの世」でもあるのでしょう。げろマンションがホーンテッドな建築として夏子の目におぞましく映るのはそのためです。

  

第四章「魔女のいるマンション」

 第一話全体の約四分の三を占める最重要パートです。
 一行はマンションに潜入します。ここで餡子が夏子に対して不満めいた忠告を与えます。彼女は小倉くんの提案に唯一反対していました。

 

「夏子さ」餡子がいいました。「みんなで一緒に遊ぶのいいけど、一人でまじめに鍵探したの。一人じゃ何も出来ないんなら、そんなのはよくないと私は思うよ」「怒ってるの」「なんだかなとは思ってるよ。こんな届けものより先に鍵探さなきゃじゃん。学校にもなかったのに」「うん・・」「私あんたのそういうとこやだ。しなきゃいけないことは一人でもちゃんとしなよ。手伝うくらいは別にいいけど、いつも助けてるじゃん私」「うん・・」「別にいいけど、それで一人じゃ何も出来なくなるなら、私のせいみたいじゃん」

 

 夏子はどうやら一人では何もできないタイプのようです。餡子は筋をきちんと通さない夏子にご不満なのですが、夏子はそもそも自分のねがいをよくわかっていない曖昧な人間なので、つい流されてしまう。 

 このセリフからうかがえる餡子と夏子との関係は、助け助けられの友人のようでいて実際には夏子の「すべきこと」を餡子が決めて手を引いている、といったところでしょうか。
 続く餡子と夏子との仲良さげな会話から、ふたりが親友であることが看取できます。が、好きな人についての話になると、餡子の側が夏子の好きな人を小倉であると把握している一方で、

 

「ねえ餡子ちゃんは好きな子いないの」
「何急に。いないっつったじゃん前も」


 とツッパります。うそをついています。餡子ちゃんは小倉くんに好意を寄せているのですが、夏子をおもんぱかってなのかどうか、言おうとしない。この態度がのちに餡子に対する幻想の崩壊をひきおこします。
 
 このガールズトークの直後、夏子は謎の老婆に遭遇します。老婆は合い言葉「地獄は来ない」を教えてもらいます。今後幾度となく反復されるフレーズであり、わかりやすく重要な伏線です。「地獄」が何を指すのかについてはとりあえず措いておきましょう。

 魔女の住まいに到着します。あからさまにあやしい部屋の雰囲気にみなチャイムを押すのをためらい、一番立場の弱いずん田くんにその役目を押しつけます。
 ここで夏子はまたほんのりとねがいごとを発します。

 

 応答を待ちながら私は魔女の部屋というのはどういう感じか想像してみました。家具が菓子かも知れないし、窯や鍋などある気もしました。魔女も年寄りか、あるいは若いのか、怖い系よりは、綺麗な女の子がいいなと思いました。

 

「魔女が女の子なら友達になれるだろうかと考え」もします。そうして、第一話のラストで実際に彼女は「綺麗な女の子」と「友達に」なるのです。 
 ずん田くんの百点は口に出された願いが叶えられたもので、夏子がぼんやりと願ったこのねがいや第一章の「何かいいこと」は彼女の内部で思われたものです。ねがいごとを口に出して画定するのは大変にむずかしい。その難しさが、夏子にはこのあとずっとついてまわります。
 チャイムに応じて出てきたのは、全裸の中年男性でした。夏子たちは男の言われるがままに入場料として八百円を差しだし、廊下の自動改札機をぬけ、電車の内部を模した部屋に入ります。部屋は実際に駆動しだして、一行を魔女のもとへと運びます。
 モチーフとしての鉄道は一般的に人の手にはどうすることもできない運命のメタファーとして特に映画などで使われます。古典小説なら『アンナ・カレーニナ*3、アニメだと『回るピングドラム』ですね。ピンドラでは「電車の乗り換え=運命の乗り換え」でしたが、夏子も不思議な電車に乗ってしまったがために不思議な運命へと変転していきます。電車には、また、往路と復路が存在します。夏子がのちにもう一度この電車に乗ることになるのはそういうわけです。
 電車は魔女の汚部屋に到着します。不審な子供たちに遭遇した魔女の老婆はパニックのあまり銃を乱射し、餡子を射殺してしまいます。このときのやりとりで夏子たちが「絵の具小学校の三年二組」であることがわかりますので、絵画のモチーフとして留意しておきましょう。
 魔女が完璧に異常な存在であるのは、彼女の言動と部屋の様子によってあますところなく描かれます。基本的には汚物描写です。
 誤解は解け、なんとか魔女と打ち解け(?)たものの、彼女はステッキを見せられても「知らない」と言います。ステッキはどこから来たのか、という疑問が生じますが、第一話ではすっとばされます。
 なんにせよ届けものをしてもらったのだからお礼をしたい、と魔女は「願い事を『ひとつだけ』なんでも叶えてあげるよ」と夏子に申し出ます。夏子はさきほど殺されてしまった餡子を生き返らせてくれるようにお願いします。本作における魔女の力は強大で、ねがえば文字通りなんでも叶うのです。
 ところが餡子の蘇生準備中、小倉くんは魔女に出された殺人ジュースを飲んでしまったのが原因で急死します。かなう願いはひとつだけ。餡子を生き返らせてしまえば、小倉くんの復活は不可能です。
 残された四人は餡子か小倉くんか、どちらを生き返らせるかで議論を戦わせます。ここでの取り交わされるロジックはそれ自体なかなか興味ぶかいです。多数決だと人気者の小倉くんに票が集まって公平ではないと懸念した村雨くんくんはくじで決めることを提案するのですが、うぐいすさんは「どうして気持ちを乗せちゃだめなの」と反駁します。どうせ自然の摂理に反した不公平な行為なのだから、論理や公平性を重視するのはおかしい。一理あります。
 この命の優先順位に関する村雨くんとうぐいすさんの議論が、ずん田くんの暗い思考に火をつけてしまいます。
 夏子が「二人とも生き返らせてという一つのお願いじゃいけないんですか」と魔女に問い合わせるとあっさりとOKをもらいます。ルール違反のようですが、魔女としては最初に提示したルールから一歩も外れてしません。
 しかし願う側の子供たちはこの後急速に混乱していきます。
 まず、ずん田くんが魔女の銃を手に取って夏子たちを脅迫し、死んだ自分の母親を生き返らせるように要求します。このとき銃を魔女にうけて撃つと暴発して射手を殺す仕組みであることが語られます。
 うぐいすさんは折れて餡子と小倉くんに加えてずん田くんの母親も生き返らせるようにねがいを変えようともちかけますが、ずん田は言下に拒否します。餡子も小倉くんも嫌いだというのです。彼はバカにされてきたことをずっと恨んでいたのでした。そして、ずん田くんを除こうと動きかけた村雨くんを撃ち殺し、いじめられてきたストレスを爆発させます。第二章でずん田くんが後頭部を押さえていた理由がここで判明します。
 ずん田くんはうぐいすさんによって椅子で殴られて昏倒しますが、今度はうぐいすさんが銃で夏子を脅し出します。「魔女のお婆さん十億円って出せますか」

 

「生き返すとかはいいの?」「あいいですそっちは。ずん田君見てたらそんなに拘らなくてもいいかなと思って」うぐいすさんはいいました。
「死んだばかり過ぎて囚われてたけど、やっぱり人より自分のことかなって」

 

  ずん田くんの凶行がうぐいすさんのエゴを呼び覚ましてしまった。なんでも願い事が叶う好機を得たならば、それは他人のためではなく自分のために使って当然なのではないか。
 うぐいすさん自身にはずん田くんのような今すぐ叶えたい特定のねがいごとはありません。なので、「十億あれば一生のライン引くのにとりあえず十分」と目的ではなく手段を要求します。
 窮した夏子は魔女に「お願いの回数を増やしてってお願い」をし、魔女に容れられます。うぐいすさんは融通のききすぎる魔女にキレます。

 

「だって村雨君死んじゃったじゃんっ。ずん田殴っちゃったじゃん私っ。いっとけば防げたじゃん、なんで後からいいよとかいうの?」
「それは後から願ったからだよ。願ってないことを私は決められないよ。どれも私の願いじゃないもの。私の基準であなたは願うの」
「知らないよ」「そうか。きっと願うのがへただったんだよ」

 

 おなじく願いを無制限に叶える装置である『魔法少女まどか☆マギカ』のきゅうべえはヒト的な利己心ゆえから願いによる副作用を言い落とすという阿漕な真似をやりますけれど、この魔女の場合は逆です。すべて最初に言ったことの範囲内です。なんでも叶うということはなんでも叶うということ。第二話以降、魔女は願い事にルールを設けますが、それは願い事がねがう側とねがわれる側の関係性によって成立するものと彼女が理解したからです。
 しかし第一話の時点では、ねがう側もねがわれる側も漠然としすぎている。子供たちは「願い事のパース」をひけない。選択肢が事実上無限であるために何をねがえば自分のためになるのかがわからないのです。それを指して、魔女は「きっと願うのがへた」と言っているのです。
 最終的にうぐいすさんは「私の願い死ぬまで全部叶えてよ。他の人のは叶えないで」というやはり「手段」の究極に落ち着きますが、実は生きていたずん田くんや村雨くんとすったもんだを繰り広げたあげくにやはり死にます。『レザボア・ドッグス』じみた仲間内での凄惨な殺し合いの末、ねがいごとをする権利は結局夏子の手に戻ってきます。
 夏子は醜くいがみ合ったうぐいすさん、ずん田くん、村雨くんを生き返らせるとまた殺し合いになると危惧し、最初に死んだ餡子と小倉くんの二人を蘇生させます。
 このとき、魔女の儀式の様子が紹介されます。三十六色のクレヨンをとりだし、何もない空間にねがわれたこと(この場合は餡子の姿)を描くするのです。魔女が絵画的なイメージと結びついている、と言ったのはこういうわけです。ねがわれた内容にきちんと輪郭を与えることで、ねがいごとを十全に叶えることができるのです。
 また夏子が餡子のことを「誰と特別仲のいいわけではな」く、「みんなにちやほやされる小倉君に突っかかることさえあ」ると評価していることが明かされますが、それが夏子の観察不足であることは直後に判明します。
 生き返った餡子は小倉くんが毒で死んだと知るや、彼も蘇生中であることを聞かされる前に、すぐに自殺してしまったのです。まるで『ロミオとジュリエット』。夏子は初めて餡子が小倉くんを好きだったんだと理解します。「好きな人はいない」と夏子に明言していたにもかかわらず。
 つづいて小倉くんが蘇ります。が、友人たちのむごい死体を目の当たりにした小倉くんは彼らが魔女に虐殺されたものと早合点し、ろくに夏子の話もきかずに銃を魔女に向け発砲します。しかし、前述したように、その銃は魔女を撃つと暴発する仕様でした。小倉くんは死んでいたので説明を聞いていなかったのです。またもや情報の齟齬によって小倉くんは二度目の死を迎えます。
 ふたたび全滅です。そして、四人が魔女に殺されたと思いこんで義憤から復讐に出た小倉くんの行動から、いままで自分に向けられていたと信じていた小倉くんの優しさはたんなる親切であり、自分など小倉くんにとってなんでもない存在だと夏子は悟ります。
 内心では六人組のみんなを恨んでいたずん田、ずん田を陰でいじめていた村雨、みずからのエゴのために他人の命をふみにじるうぐいす、親友である夏子にぎりぎりで本心を打ち明けなかった餡子、夏子の淡い期待に反して彼女へ好意を寄せていなかった小倉。仲良しだと思っていた六人の幼なじみたちの誰とも夏子はつながっていなかったのです。
 ねがいごとを消費してしまった今となっては、もはや生き返らせることもできません。

 悲嘆にくれる夏子に魔女は「私と友達になろうよ」と提案します。老婆であると思われていた魔女の正体は実はかわいらしい金髪の女の子でした。血と反吐と夜で彩られてきたこれまでの作中世界とは一線を画したブライトで異質な色です。彼女と夏子はものすごい勢いで通じ合います。

 

「うん」よく判らぬまま私は頷いていました。「よろしく」
「こちらこそ」魔女の女の子は笑いました。「じゃあ早速だけど今日あったことは全部忘れてもらうね」「えっ何で」「口封じだけど」「魔法で記憶を消すってこと」「そうそう」「その後で友達になってくれるの」「えっすごい超伝わってんじゃん話」女の子はぱっと笑いました。「いいでしょ安藤さん、私と友達なってよ」「うんいいよありがとう」
 そういうわけで(何も覚えていませんが)私はその女の子と友達になりました。何があったかもう判りませんが、友達が出来るのは嬉しく思いました。

 

 このとき裸の中年男性から「箒の魔女と白いおばけが五匹、月夜を飛んでいる白黒の印刷絵がクレヨンで雑に塗られてい」る画を渡されます。五人の古くてわかりあえない友達が、以心伝心の新しい親友一人に交換されたのです。
 魔女は「塗絵」という名前であると自己紹介します。絵画のイメージのつなぎあわせがここに収斂します。その彼女が名乗ったそのときに、夏子は望みのものを手にするのです。

 

「私は塗絵」私が床に置いた絵を魔女が拾いました。
「合言葉は地獄は来ない。それで扉は開くから」
「地獄は来ない」合い鍵をもらったみたいだなと思いました。「またねぬりえちゃん」

 

 冒頭でなくしたはずの家の合い鍵。それが新しく得られた真の親友のことばと重ねられるのです。「鍵は鉄より言葉で出来ていた方がいいこともある」とは第四話でぬりえちゃんが語るセリフです。鉄の鍵は一人で開閉ができますが、言葉の鍵は二人以上いないと作動しません。人と人との関わりの物語がここから始まります。
 結末部では、始まりの「夜→眼鏡外し」のイメージの推移が逆回しにされます。

 

 吐息でレンズが曇り、私は眼鏡を外しました。何があったか覚えていませんが、すごくどきどきしていた気がし、こんなどきどきがまたあればいいなと思い、夜の空気を吸いこみました。(中略)起こる筈のないことが起きなくす筈のないものをなくし、持っているのは一枚の絵だけ、それでもその日私はどきどきしたまま、病院のベッドで眠りについたのでした。


 第一話に出てきたフレーズ、モチーフ、アイテムといった各要素は今後展開される五篇において頻繁に反復されます。見落としがちなところで留意しておきたいのは、死んだ夏子の五人の友人たちでしょうか。生きたキャラクターとしては今後一切出番はありませんが、彼らが第一話で残したセリフや行動、問題提起などはちゃんと覚えておきましょう。意外なまでに物語に深く関わってくることになります。(第二話へ続く)

*1:念のために言っておきますが、読書会参加者のために用意したものでももちろんありません。

*2:劇中では「棒」とされたり「杖」とされたりも

*3:「汽車や馬車はこの小説において重要な役割を果たしている(中略)いわばこの物語のなかの旅行業者であり、読者をトルストイの望み通りの場所へ連れて行く」「トルストイの長編では、騒音を発し、蒸気を吐き出す汽車が、作中人物を運んだり殺したりするために用いられ」『ナボコフロシア文学講義 下』河出文庫

ビル・コンドン版『美女と野獣』の感想


 聞くところによればディズニーは長編アニメから十数作ほどを対象に実写リメイクする予定であるらしい。九十年代のいわゆるディズニー・ルネッサンス期の名作群からも『リトル・マーメイド』や『ライオン・キング』、『アラジン』といった顔ぶれが待機作として控えている。
 アラン・メンケンが音楽を、ハワード・アッシュマンが作詞を担当したルネッサンス期のミュージカル群はどれも完璧な魔法に満ちていて、幼少期に体験したならばもはや何者にも代え難いほどの奇跡として私たちの記憶に固着している。
 そもそもアニメーションの原義は命なき者に命を吹き込むことであるはずで、そうした魔術を生身の人間でやり直すこと自体反呪術的というか、無粋であることは決まりきっている。『スターウォーズ』やマーベルが百年帝国を築きつつあるような現代映画界において例えビジネス上の要請で生まれ出た映画であって映画であることには変わりなく、映画である以上は観なければならない。製作側に求められる品性と観客の側に求められる品性はそれぞれ別種のものなのですから。

 で、『美女と野獣』。
 ポール・ウェルズに指摘されるまでもなく、村のファニーガールであるベルは91年版の時点から明白に「男尊女卑と家父長主義文化の犠牲者」*1として描かれているのであって、それでもまだ旧来的なプリンセス・ストーリーの重力に回収されていた91年版を、ビル・コンドンとディズニーはリメイクにあたってより「現代的」な方向へと改変した。
 伊達男ガストンはベルに求婚するさいに村で物乞いに身をやつしている独身女を示し「結婚しない女の末路はあれだ」と脅す。当時のフランスの田舎では、ベルみたいにシェイクスピアを好む読書家の女性が自立して生きる余地など絶無だった。
 この独身女は折々に印象的な活躍をするのだけれど、村におけるマイノリティはベルや彼女だけではない。ガストンの側近ル・フゥもその一人だ。彼のセクシャリティがゲイに変更されたことは大きな話題を呼び、コードが厳格な一部地域では本作の上映自体が禁じられる騒ぎとなった。と、いっても話題の大きさに反して彼のガストンに対するあこがれはあこがれ程度にとどまり、直接的に彼の想いを爆発させる場面はほとんどない。むしろ原作ファンが驚くのは終盤における彼の転身ではないか。
 こうしたわかりやすいキャラ配置だけでなく、メインとなるベルと野獣の恋愛劇にも実は繊細な配慮がほどこされている。もとから四十分も追加されているので当たり前といえば当たり前なのだけれど、二人が恋愛に陥る課程がより丁寧に、より説得的に描かれるのだ。
 追加描写によって強調されるのはふたりの共通点だ。ふたりとも母親を早くに失い、本を友とし、属するコミュニティで外れものとして生きてきた。だからこそ互いの孤独を理解し、寄り添うことができる。
 そう、孤立の解消こそ本作の裏テーマとみるべきだろう。ベルと父親との関係も不在の母親を介して更に掘り下げられている*2し、村人たちと城の住人たちの意外なつながりもおまけ程度であるけれども断絶していた城と村の再結合、一度は憎しみあったはずの人々の和解に一役買っている。

 なのに、だ。肝心要のミュージカル部分で一番輝きを見せるのは、一人だけ孤立したまま結末を迎えてしまうガストン(ルーク・エヴァンス)なのはどういうわけだろう。コンドン(に代表される制作陣)はミュージカルパートでいちいち役者の動きを止めたり、原曲を細切れにして間延びさせたりして力強いテンポを殺してしまっているわけだけれど、ガストンはその肉体的な説得力ひとつでミュージカルのキャラであることを成立させている。ル・フゥのアシストも貢献大だけど、彼の「強いぞガストン」の躍動は原作以上に力強く、逆に原作の醜悪なパロディに墜してしまった「Be Our Guest」と対照的だ。
 原作以上に怪物化し、ある外的な要因のせいでより惨めな最期を遂げてしまう彼だが、キャラクターとしては報われている。

*1:Paul Wells, "Animation and America"

*2:本作で追加されたパートでも最も印象的な、ある「魔法」によってベルが思い出の場所へ誘われるシーンは白眉だろう