名馬であれば馬のうち

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ポスト・トゥルース時代のミステリと高井忍の歴史ミステリと。

0. これまでのあらすじ

 昨晩に孔田多紀さんが、ある人の「ポスト-トゥルースな昨今、多重解決による真実の矮小化を倫理的に簡単に肯定できなくなったよね」的なオピニオンにからめて、歴史ミステリのアティチュードに関する連続ツイートを投稿なさっていた。

 僕個人としてはポスト-トゥルースやオルトファクトといった単語をミステリやフィクションにからめて語ることについてはあんまり興味がない感じなんだけれども*1、それはさておいて、
 歴史ミステリ、特に多紀さんが「資料型」と呼ぶタイプ*2サブジャンルのナイーヴさ*3については最近どこかで考えたな―と思ってたら、そういえば最近出した同人誌『BIRLSTONE GAMBIT』の高井忍特集で書いていたじゃありませんか。えっ、同人誌なのに amazon でも買えるの?*4

 

BIRLSTONE GAMBIT

BIRLSTONE GAMBIT

(最近まで売り切れ状態だったけど、また入荷したみたい)


 ミステリ作家・高井忍は基本的に歴史・時代ミステリを書く人物で、題材として偽史や歴史ミステリへのメタ的な批評をよく扱います。詳しい作歴は wikipedia で……といいたいところですが、よくわからない荒らしユーザーに粘着されているらしく、見るに耐えない感じのページになっちゃってる。
 で、そういう痛ましい現況をいくぶんかどうにかしたい意図もあって、『BIRLSTONE GAMBIT』で高井忍作品の全短編レビューを担当させていただきまして*5、そのための序として前説というか概説というか高井忍の作風紹介的な長文を載せたわけですが、実はこれの前に全没にした文章がありました。
 去年の10月ごろにだいたい出来上がったものなんですけれど、未読者向けのざらりとした作風紹介として書きすすめるうちについネタバレ全開になっちゃって、その後新刊が二冊も発売されたり*6御本人に直接インタビューする機会を持てたこともあり*7、なんとなく特集全体の内容にそぐわなくなったりした*8ので12月あたりに全編書き直しちゃったんですよね。一応、前のやつも新しいのに一部再利用してます。

 で、同人誌が出された文フリから三ヶ月? くらい経ってタイミングもよろしいことですし、ここに没原稿を供養したいと思います。
  
 どういった内容かともうしますと、「高井忍はみてくれこそ『新説』や『歴史の真実』を唱える系の歴史ミステリを書いてるように見えますけれど、実はむしろそういう系の作品を批判的な視点からするどく批評していて独特かつ面白い重要な作家なんだよ。現在の歴史ミステリシーンを理解するうえで欠かせない作家だよ」って感じです。本誌掲載版は「独特かつ面白い作家だよ。不可欠の作家だよ」の部分だけを抽出して紹介に徹したものに直したように記憶していますが、自分にそんなプロめいた根性があるとも思われないので、やっぱりそんなに変わっていないかもしれない。*9

 おおむね内容は没に決めたときからいじっていないですが、ブログに載せるにあたってネタバレにすぎる部分は削除してありますので、たぶん未読書にも既読者にも比較的やさしくなり、作品レビューとしてもそれなりに機能しているかと存じます。たぶん。
 

タイトル:「歴史ミステリの墓標にして道標――高井忍の歴史ミステリ作品群について」

1.略歴

 ミステリ作家、高井忍。
 一九七五年京都府生まれ。立命館大学卒。
 二〇〇五年に短篇「漂流巌流島」で第二回ミステリーズ!新人賞を受賞し、デビュー。
 以降、二〇一六年十二月までに『漂流巌流島』(二〇〇八年、東京創元社)、『柳生十兵衛秘剣考』(二〇一一年、創元推理文庫)、『本能寺遊戯』(二〇一三年、東京創元社)、『蜃気楼の王国』(二〇一四年、光文社)、『柳生十兵衛秘剣考 水月之抄』(二〇一五年、創元推理文庫)、『浮世絵師の遊戯 新説 東洲斎写楽』(二〇一六年、文芸社)、『名刀月影伝』(二〇一六年、角川文庫)と、文庫落ちを除いて七冊の単行本を著している。

2. 作風

 高井忍は一般に「歴史ミステリ」の書き手として認識されている。

 では歴史ミステリとは、具体的にどのように定義されるサブジャンルなのか。

 門井慶喜の歴史ミステリ評論本『マジカル・ヒストリー・ツアー』(幻戯書房)によれば、歴史ミステリは二種類に大別されるという。ひとつは「主人公が『当時の人』である小説」、そしてもうひとつは「主人公が『現代の人』である小説」。特にミステリの分野において峻別する場合、前者は時代ミステリとも呼ばれ、後者は歴史ミステリと呼ばれる、と個人的には定義したいところではあるが、「現代/過去」という二項の他にも「扱う事件が架空のものか/実際に起こったものか」というパラメータもあって色々ややこしい。

 そうでなくともミステリの人たちは基本的に雑なので、歴史要素があったら歴史ミステリだろ的な雑な認識でなんでもかんでも「歴史ミステリ」とくくられてしまう傾向にある。

 まあしかし、一般に「歴史ミステリ」と呼ぶ場合は、「現代の人たち(or 当時の人たち)が実在する『歴史の謎』を解く」ものを指すことが多い。

 ここではとりあえず、「現代人、あるいは当時の人物が歴史上に実在する事件の謎を解く」ものを歴史ミステリ、「当時の人物が(現代では)伝説や風説とされる事件の謎を解く」ものを時代ミステリと仮に定義しよう。なぜなら、高井忍の作品群がその二つに分類されるからだ。


 さて、門井が述べたように、時代ミステリが歴史的イベントをリアルタイムで追うことが可能で小説的に展開しやすいのに比べ、歴史ミステリはどうしても散文的な歴史議論に終始しがちで、小説というよりは評論的な体裁になる。

 そのためか歴史ミステリは、作者読者両方にとって敷居の高いサブジャンルとみなされる。歴史ミステリの元祖である『時の娘』は歴史の謎一本で勝負したが、現在の歴史ミステリではそうした作劇を選ぶ作品は稀である。北森鴻*10〈蓮丈那智〉シリーズや高田崇史の〈Q.E.D〉シリーズなどでは歴史の謎解きに並行する形で、題材に絡んだ殺人事件なども扱い、読者の興味の持続を図っている。

 付随的事件のない、純粋に歴史の謎解きに絞った歴史ミステリとなると、海外では前述のジョセフィン・テイ『時の娘』、国内ではテイに触発された高木彬光の『成吉思汗の秘密』や鯨統一郎の『邪馬台国はどこですか?』シリーズ程度にかぎられるだろう。*11

 
 高井忍の作品群は、この「時代ミステリ/歴史ミステリ」の区分で綺麗に二つのラインに分かれる。

 歴史ミステリのラインとしては、デビュー作『漂流巌流島』からはじまり、『本能寺遊戯』、『蜃気楼の王国』、『浮世絵師の遊戯』の四作品。

 時代ミステリのラインは、『柳生十兵衛秘剣考』、『柳生十兵衛秘剣考 水月之抄』、『名刀月影伝』の三作。来年度には『ジャーロ』で連載中の〈妖曲〉シリーズが加わるから、歴史ミステリと時代ミステリで半々になる。

 ちなみに現在に至るまで発表された作品はすべて短篇であり、長編は一作も存在しない。『名刀月影伝』は表紙に「書き下ろし時代長編」と銘打たれてはいるものの、内実は連作短篇である。


 このように腑分してみると、高井忍という作家はいかにもオーソドックスな歴史/時代ミステリ作家であるように思われる。だが、作風の変化を通しで見ていくと、本質的に先鋭的というか、ジャンル破壊的な性格もかなり強いことが見えてくる。

 歴史ミステリの正統派でありつつもアンチ正統派でもある――一見矛盾した特性をふたつながらに具えているのが、高井忍作品の魅力といえる。


 以下本エッセイでは高井忍による歴史ミステリのライン――『漂流巌流島』、『本能寺遊戯』、『蜃気楼の王国』にスポットライトを当てて作風の発展を概観しつつ、高井忍のユニークさを紹介していきたい。


3. 作品個別紹介

3-1.『漂流巌流島』――Like a Virgin.

漂流巌流島 (創元推理文庫)

漂流巌流島 (創元推理文庫)

 高井忍は二〇〇五年、第二回ミステリーズ!新人賞を「漂流巌流島」で受賞した。同作が同年の『ミステリーズ! vol.13』に掲載され、デビューを果たす。ミステリーズ!新人賞は創元推理短篇賞を前身とする東京創元社の公募新人賞で、第一回は受賞者なしであったから、ミステリーズ!新人賞としては高井忍が初めての受賞者だった。

 その「漂流巌流島」は、宮本武蔵佐々木小次郎の対決で有名な「巌流島の決闘」を題材に据えた歴史ミステリである。

 本短編集は『時の娘』へのオマージュ要素が強い。第二話の「亡霊忠臣蔵」では『時の娘』のエピグラフが引かれているほどだ。第一話「漂流巌流島」でもまず、冒頭で「巌流島」のあらましが詳細に語られる。これは『時の娘』で同じく小説冒頭にて薔薇戦争の概要を述べられたのを彷彿とさせる。

 しかし、「漂流巌流島」で要約された「巌流島の決闘」のあらすじは、講談などで親しまれてきたテンプレからかけ離れた要約になっている。そう、巷間に流通している「巌流島」は史実ではないのだ。

 そもそも開始の一行からしてふるっている。「――巌流島というのは、俗説にあるようにこの島に命果てた剣士の名を採ったものではない。流儀の呼称を採ったものである。」(loc.22, 『漂流巌流島』) 

 なんとなれば、俗説や稗史に対する高井の姿勢は初めから明確に示されていたのである。


 ともあれ「漂流巌流島」の主眼は文献史料の信頼性をメタ評価しつつ、より史実に近い「巌流島の決闘」を導いていくことにある。その役割を担うのが主人公である若手シナリオライターと映画監督の三津木だ。前者は史料文献の調査や収集を行う役割で、後者は史料をもとに解釈を組みたてていく、いわば安楽椅子探偵である。これも『時の娘』のグラント警部と彼の部下を彷彿とさせるキャラ配置だ。

 彼らはテーブルを挟んで、史料の検討およびディスカッションを深めていく。これだけでも一般になんとなく認知されている宮本武蔵や「巌流島」の知られざるディティールがつぎつぎと提示されて意外性に富んでいるのだが、もちろんこれだけで読み物としてのミステリにはならない。

 
 需要の高さにもかかわらず、歴史ミステリが、特に歴史の謎解き一本に絞った歴史ミステリがメジャーになりきれない点もここにある。
 いってしまえば、歴史ミステリはみせものとして本質的に退屈なのだ。人物や場面がほとんど移動せず、ある一室内でのダイアローグだけで構成されがちだ。一般の時代劇小説ならチャンバラなどの活劇、時代ミステリなら聞き込み捜査などでメリハリをつけられる。だが、現代を舞台とする考証劇だとそう軽々に人物を動かせない。結果的に掛け合いと考証そのもの(つまりミステリにおける推理開陳パート)のおもしろさだけでしのぐことを要求される。

 さらに言えば、のちのちサプライズにつながる伏線をさりげなく忍びこませるのにも苦労する。歴史的事件である以上、その大部分は事実として確定していることが多く、作者の一存で都合よくねじまげられないし、劇中で新史料が手に入ったなら逐次オープンにされていかねばならない。伏線のために使用できる空白が限定されすぎている。*12


 さしあたって、高井は物語的構成を工夫した。史料レベルで読者の先入観にもとづいた俗説の転覆をいくらか繰り返したのち、より高いレイヤー、史料を検討しているキャラたちにもひねりを加えた。すなわち、それまで歴史に無知であると自称し、弁が立つもののどちらかといえば主人公の集めてきた史料と彼の推理に耳を傾ける立場だった三津木監督が、それまでの前提をひっくり返す意外な一言を発して主導権をさらっていく、という反転だ。昼行灯が実は、という講談のパターンである。
 以降、「冒頭で歴史的事件のあらすじ要約→史料を集めてディスカッション→三津木の意外な一言で反転→解決後、三津木が事件にまつわる有名な作品を引用して感慨を述べる」の組み立ては短編集を通じた黄金則となる。

 また本書には、以後の高井忍歴史ミステリを卜するにあたって見逃せないある傾向も潜んでいる。個別に詳述するとネタバレになるけれども、要は「歴史の大きな流れから独立していたように見えた事件が、実は藩や国レベルの政治的な動きを背景にしていた」という傾向だ。「漂流巌流島」でいえば、日本史でも最強レベルと認識される剣豪すらも、政治のレイヤーでは陰謀のための道具にすぎない、というように。こうした政治レベルに接続される真相は本短編集に限らず、『本能寺遊戯』や『蜃気楼の王国』といった歴史ミステリのライン、ひいては『柳生十兵衛秘剣考』シリーズでも頻出することとなる。


 歴史的事件の意外な真実をつきとめるのが、歴史ミステリのキモではある。だが、その快楽は本質的に次のようなジレンマをはらんでいる。: 本当に学術的に検討に値する新発見であるなら、小説などにせず、論文として発表するべきではないのか?

 この問に対する高井忍の態度は『本能寺遊戯』で明かされることになる。 


3-2.『本能寺遊戯』――Girls Just Want to Have Fun.

本能寺遊戯 (創元推理文庫)

本能寺遊戯 (創元推理文庫)

 『本能寺遊戯』(東京創元社、のち創元推理文庫)が単行本として出版されたは二〇一三年二月、二〇一一年の『柳生十兵衛秘剣考』を挟んで三作目、歴史ミステリとしては『漂流巌流島』以来五年ぶりとなる。

 コンセプトとしては右のようになる。蓮台野高校二年C組の仲良し歴史好き女子三人衆、扇ヶ谷姫之(通称ヒメ)、朝比奈亜沙日(通称アサ)、アナスタシア・ベズグラヤ(通称ナスチャ)は歴史エンタメ雑誌で懸賞論文を公募しているのを発見する。募集内容は各話ごとに「本能寺の変でなぜ明智光秀が裏切ったのか?」(第一話「本能寺遊戯」)、「ヤマトタケルの生涯と死の真相」(第二話「聖剣パズル」)、「春日局はなぜ江戸幕府において絶大な権力を手にできたのか?」(第三話「大奥番外編」)、「道鏡皇位簒奪計画は真実か? そしてその野望を阻止した宇佐八幡神託事件の真相とは?」(第四話「女帝大作戦」、第五話「『編集部日誌』より」)。高額賞金や歴史作家のサイン本につられた三人は、とっておきの仮説を考え出すべくディスカッションを開始する……といったもの。


 本作も机上で歴史的事件の真相を複数のキャラが議論しあう。その点では、『漂流巌流島』に似た趣向であるともいえる。が、本作が決定的に『漂流巌流島』と異なるのは議論におけるキャラの機能性だ。

 『漂流巌流島』におけるメインの二人、シナリオライターの主人公と映画監督の三津木はそれぞれ史料文献係兼助手と安楽椅子探偵という役割を分担していた。彼らは一致団結して一つの事件に取り組むチームであり、三津木が物語上の要請として意外な隠し玉を放つシーン以外においては思考様式等にさほど差はなく、対立もあまりなかった。

 かたや『本能寺遊戯』の三人組はそれぞれが独自の信条を持つ歴史マニアであり、その態度が探偵としての質的な相違として浮き上がってくる。

 特に、ヒメこと扇ヶ谷とアサこと朝比奈は(ライヴァルと呼ぶにはあまりに仲良しすぎるものの)二項対立的に描かれる。 

 扇ヶ谷は劇中の朝比奈が言うところの「実説至上主義」。歴史フィクションが嫌いなわけではないが、史実を面白おかしくねじまげる俗流解釈は一切許さないハードコア歴史オタクである。「偽史や俗説、裏づけの乏しい憶測のたぐいには冷淡、というより、あからさまに蔑んで」(loc.1378)おり、一話に一回は安易な歴史俗解や「新説」に飛びつく人々を苛烈ともいえる調子で非難する。

 たとえばこんな具合。

「史実通りに歴史を楽しめない、可哀想な人がたくさんいる。それだけの話。何でそんな人たちの好みに合わせて、現実の歴史をいじらなくちゃならないわけ? いっておくと多数決で決めていいなら、堅気の歴史家や真っ当な歴史ファンは、裏も表もない光秀の謀叛を支持する人が大多数よ。けれども、当たり前の話はいまさら話題にならない。犬が人に嚙みつくのは珍しくない、あべこべに人が犬に嚙みついたらちょっとした騒ぎになる。興味本位のろくでもない珍説ばかりが持て囃されるのも、分かりやすくいったらそんな理屈」*13

歴史に興味があるなら、謎とか、真相とか、この手のセンセーショナリズムに首を突っ込んだらいけないよ。面白いかつまらないかじゃなくて、地道な事実の積み重ねが大切なの。初めは史実を押さえるところから。それが楽しくないなら、楽しめるように心のスイッチを切り替えないとね*14


 いっぽう、朝比奈は「史実や考証に対してあまりこだわりがない」。俗説やフィクションを信じようが、空想は空想として楽しんだらよい。本気にするのは当人たちの自己責任である。「そんな考えの亜沙日だから、異説、奇説、トンデモ説に抵抗感はない*15

 この二人の歴史解釈に対する考え方の違いが、安楽椅子探偵あるいは歴史のストーリーテラーとしての思考法の違いとして出てくる。朝比奈は派手な結論(自分でも信じてない大きなウソ)をこしらえて、それを裏付ける証拠を探してくる陰謀論タイプ。扇ヶ谷は文献などの裏付けがある小さな材料をコツコツ積み重ねていき、やがて気宇壮大な結論をみちびきだす実証家タイプ。

 彼女たちの興じる懸賞ゲームでは史実ではなく、魅力的な物語を作り出すことが志向される。果たして歴史探偵として、創作者としてすぐれているのはどちらか――。

 本作は歴史の真実を探求するミステリというよりは、歴史ミステリなるサブジャンルについての一種創作論的な面を具えている。そうした点において第二話「聖剣パズル」は、優れた探偵像と優れた歴史解釈はイコールなのだとダイナミックかつロジカルに提示し、歴史と本格ミステリを理論的に合致させた他に類を見ない傑作であろう。*16


 彼女たちは作家なのである。史実にロマンなどない、最初からそんな冷めたスタンスで実利のためだけに論文を構想する。タイトル通り、新説解釈とは遊戯(ゲーム)なのだ。

 たとえば、第三話「大奥番外編」で扇ヶ谷はそもそも公募に設定された問い自体が成り立たないと言い出す。春日局が大奥を仕切り、幕政にまで容喙していたという俗説はあくまでフィクションのなかだけの話であって、現実には大奥総取締に応分の権力しか有しておらず、大奥内ではともかく男たちの支配する政治に関与する余地などなかった。
 したがって、問いに対する模範解答は「春日局は絶大な権力など握っていなかった」になる。

 それでは面白くない。面白くなければ、懸賞は獲れない。しかし受賞できるほど面白い解釈となれば――しぜん、史実から離れざるを得なくなる。

 それは、歴史ミステリというジャンルそのものにも当てはまる話だ。

 本作のあとがきで、高井忍の歴史ミステリ観があけすけに語られている。引用しよう。

 歴史ミステリというジャンルの小説は、実にへんてこな、喩えていえばヌエのような存在である……(中略)歴史の上の実際に起こった重大事件や実在した人物を採り上げて、謎解きを謳い、隠された真相の追求をかかげ、まことしやかに推理を展開してみせる。建前である。これらは視聴者や読者の興味を惹くことが初めから狙いで、何かしら話題になるような題材を選び、センセーショナルな結論を持ち出そうという企画なのである。何しろ謎解きや真相が大前提なのだから、建前とはあべこべに歴史の真実なんて本当はどうでよくて、むしろ歴史を否定し、引っくり返すというところから始まっている企画だとすらいえる。歴史を極めるだとか、歴史を再解釈するといいつつ不毛な空説が持て囃されるのはそれが話題になるからだ。


 だから、近年のミステリファンには、歴史ミステリとは『猫間地獄のわらべ歌』(幡大介著)や『虚構推理 鋼人七瀬』(城平京著)のようなものだと説明しておけば理解が容易だろう。『丸太町ルヴォワール』(円居挽著)もここに並べておこうか。ただ、これらの諸作が架空の事件を扱い、それぞれ何らかの要請で虚構の真相を捻出する事態に陥るのとは違い、歴史ミステリは現実の出来事を対象として、謎解き、真相を作ることが自体が目的になっている。*17


 ここで本格ミステリ作品である『虚構推理』や『丸太町ルヴォワール』が挙げられているのは、注目に値する。両作は共通して真相とは別の推理をでっち上げ、オーディエンスを説得するというコンセプトを有する。真実とやらが果たしてそんなに大層なものなのか、ともすれば名探偵がもっともらしく言いくるめれば、どうあれ真相になるのではないか。

 高井忍作品の恐るべきは、そうした相対主義的な*18ニヒリズムの機構が歴史ミステリというジャンルそのものにビルドインされていたことを看破した点にある。実証過程における精緻さや証拠の信頼性や議論の積み重ねではなく、結論の突拍子のなさがなにより重視されるエンターテイメントとしての偽史を、どう誠実に物語化していくかという試み。特に歴史ミステリには本格ミステリと違い、明確な敵役としての犯人が存在しない。探偵が真相をつきとめて滾々と推理を披露したところで、膝を屈して追認してくれる人間がいないのだ。*19

 したがって、真相の信頼性の判断はほぼ全面的に読者へと委ねられる。しかし、先述したように歴史の真実を本気で知りたいのであれば、小説などではなく、その筋の研究書に手を伸ばすはずだ。歴史ミステリに求められているのは、あくまで物語としての面白さである。脇を固める証拠類は壮大な新説に「もっともらしさ」をあじつけするための調味料にすぎない。歴史ミステリを読むのは、端から歴史に対して怠惰で不誠実な行為なのである。

 読者にとって歴史ミステリのもっともらしさは、それこそ「らしさ」程度で十分だ。「現代においてはむしろ、歴史は消費者の期待に応えてメディアが提供するものである、と定義するほうが正しいように筆者には思えてならない」と語るあとがきの結びは歴史ミステリと、新解釈を謳う諸種の歴史本に対する極めて的確で苛烈な批評となっている。

 このような視点から再読したならば、『漂流巌流島』で主人公コンビが歴史エンタメ映画の監督と脚本家という「メディア」に属する人間たちだったのも相応の必然性を帯びてくることだろう。


 高井忍の歴史ミステリ作家としての認識(それが諦観なのか、矜持なのか、当人の内心でどちらに属するのかはわからない)は、『本能寺遊戯』の最終話「『編集部日誌』より」で文字通り大人である歴史エンタメ雑誌の編集者の視点を導入することによって描かれる。

 この編集者は「歴史の謎を解くことと、歴史の謎解きは違う」と主張したうえで、高校生三人組に現実を説く。

「それではお訊ねしますが、比留間さんは興味がありますか? 噓偽りなしに歴史上のミステリーといっていい、姉小路公知広沢真臣の暗殺事件の真相に」
 私が訊ねると、真昼嬢は両腕を組み、うーんと唸った。
「正直な話、よく知らないんですよね。ちらっと聞いた覚えがある程度で。それとも読んだ覚えだったかな」
「比留間さんでその程度でしたら、歴史の話題に熱心なわけでもない、平均的な視聴者、読者の反応がどんなものか、おおよその見当はつきますね。歴史の謎解きや真相を売り物にするなら、世間の注目を集めることができる題材というのが条件の第一になるんです。そうでないなら本が売れない。だから、時々、史実のままでおかしなところもないような事件が抜け抜けと謎解きのテーマに選ばれることがあるでしょう? それどころか、とても史実とは認められない、噓臭い巷説のイメージでそのまま出題されたり……」
「分かっててやってたんだ!」
「どうして坂本龍馬の暗殺事件が歴史の謎として盛んに採り上げられ、いろいろな真相が飛び交うのか、おおよその事情はこれでお分かりですね?」
 確認の口吻で私は訊いた。
「世間のニーズですか、ひと言でいって」*20

 真昼嬢は何度も頷いた。
「目的は謎を解くことじゃなくて、謎解きそのもの。世間さまの興味を惹くような、センセーショナルな真相を作ること。どこが謎なのかはわりとどうでもいい。ちゃんとした検証なんてものは世間のニーズと一致する場合にだけ採用してもらえる――」*21

 こうして気ままにおもしろおかしく歴史や偽史と戯れてきた子どもたちは、人々を楽しませる、エンタメとしての歴史ミステリ作家の態度を手に入れる。本作は歴史ミステリ論ミステリであるのと同時に、アマチュアがプロへと羽化する青春成長譚でもあるのだ。
 

 ところで、本節では朝比奈の「先にセンセーショナルな結論をぶちあげて、あとづけで証拠を探していく」スタイルを陰謀論的と呼んだ。じっさい、『本能寺遊戯』で提示される主人公たちの解釈は『漂流巌流島』同様、政治レベルを巻き込んだ(『漂流巌流島』と違って題材そのものが政治性が高いというもあるが)陰謀論が多い。

 元々陰謀論的だった『漂流巌流島』から何がアップグレードされているか、といえば、そのスケールである。陰謀論はその規模が大きければ大きいほどウケやすい。『漂流巌流島』や本作の前半では政治といってもせいぜい国内政治の範疇であったが、第四話「女帝大作戦」に至っては日本を越えた国際的陰謀を俎上に載せる。

 そして、このエスカーレーションが『蜃気楼の王国』で炸裂する。


3-3.『蜃気楼の王国』――Everybody Wants To Rule the World.

 『蜃気楼の王国』(光文社)は『本能寺遊戯』につづく、高井忍にとって第四作目の短編集である。発売は二〇一四年二月。これまでの三作はデビュー元である東京創元社から出ていたが、本作は光文社から出版された。そのためか、『漂流巌流島』や『本能寺遊戯』のように現代を舞台に固定された面子で歴史的事件をディスカッションする連作短編形式からも離れ、それぞれ異なる時代に生きる人々が同時代あるいはその時代より前の歴史的事件の真相についてディスカッションするオムニバス形式をとっている。

 本稿の冒頭で掲げた定義に沿うならば時代ミステリの範疇に入るし、見方によっては『柳生十兵衛秘剣考』シリーズのほうへ近いのだが、やはり有名な歴史的事件についてのディスカッションが主としているためこちらのラインへ入れさせてもらった。

 本作のコンセプトを一言で説明するならば、「歴史上の有名人が探偵役の歴史ミステリ」であろうか。東郷平八郎秋山真之からはじまり、シーボルト、加藤宇万伎(美樹)、遠山左衛門尉(金四郎)、ベッテルハイムと錚々たる面々が各短篇の探偵役として名を連ねる。

 本作におさめられた五篇はいずれも歴史ミステリではあるものの、歴史ミステリとはかぎらない。おおまかに、歴史的事件の真相を扱う短篇と、架空の事件を扱う短篇に分かれている。前者に属するのが「琉球王の陵(レキオのみささぎ)」(源為朝琉球王説)、「蒙古帝の碑(モンゴリアのいしぶみ)」(源義経清朝皇帝元祖/ジンギス・カン説)、「槐説弓張月」(源為朝琉球王説アゲイン)の三つで、後者に属するのが「雨月物語だみことば」と「蜃気楼の王国」だ。

 さらに劇中年代もバリエーションに富んでいる。「雨月物語だみことば」(一七七六年)、「槐説弓張月」(一八一一年)、「蒙古帝の碑」(一八二六年)と「蜃気楼の王国」(一八五四年)は江戸時代、「琉球王の陵」(一九〇五年)はぐっと下がって明治時代を舞台とする。一冊で百三十年を実地にひとまたぎするのは独立短編集ならではというか、これまでの連作短編集路線からは考えられないスケールである。


 ことほどさように前二作のフレームで捉えようとすると一筋縄ではいかないのが『蜃気楼の王国』であるのだが、一篇一篇はつながっていなくとも、核となるモチーフは存在する。琉球(沖縄)だ。「琉球王の陵」、「蜃気楼の王国」では沖縄を舞台にし、「槐説弓張月」では源為朝琉球王朝開祖説を扱う。

 だが、琉球はあくまでモチーフであり、モチーフとはテーマを語る道具にすぎない。

 『蜃気楼の王国』の主題とはなにか。

 「偽史は”なぜ”作られるのか」という問いかけである。


 このホワイダニットの問いにおいて、『漂流巌流島』や『本能寺遊戯』で扱ってきた陰謀論的な真相やエンターテイメントとしての歴史解釈論が一つ上の小説的ステージへと昇る。ネタバレにならないギリギリの範囲で具体的に言えば、国際政治の力学が偽史作者たちに偽史をつくることを要求するのだ。しかし『蜃気楼の王国』における偽史作者たちは、それこそ陰謀論に出てくるような全能の黒幕などではない。姿すら定かではない敵におびえ、何かを積極的に動かすためというよりは、それまでの安寧を墨守するために、とにかく事なかれ主義をつらぬこうとしているだけの小人たちだ。

 なので偽史の内容の壮大さや突飛さとは対照的に、彼ら自身の固陋さや矮小さがなおさら哀しく浮きたつ。自分の身の丈のうちでしか物事を考えられない想像力の偏狭さが歴史をねじまげてしまう。うそをつける小説だからこその痛烈な偽史批判だ。


 近代のあけぼのを迎えて、どうしても世界を意識せざるを得なかった日本と、その近代以前から日本と中国のはざまに挟まれて外交的な綱渡りを強いられてきた琉球。これら大小二つの王国が自らに向ける自意識に、グローバルな西洋人からの、あるいは開化的な同時代人からの批評的なまなざしが重ねられていく。

 特に「蒙古帝の碑」では「その歴史的事件の『真相』は真実か?」という検証の話を進行させるとみせかけておきながら、探偵役がその真相が偽物であると看破したうえで「稚拙な偽史に対してより精巧で利用価値の高い偽史を提案する」というかなりトリッキーな構成を取る。これもまた『本能寺遊戯』からの発展系であり、オッカムの剃刀理論にもとづく最短経路での合理的解決を理想とする、探偵小説な物語理論とはパラレルな価値体系でゲームが行われていることを示唆している。

 真実の価値が失効してしまった反探偵小説的な世界観において、真実を追求する行為はどんな意味を持ち、真実を手にしてしまった人間はどうすればいいのか。歴史ミステリの極北まで行き着いてしまった高井忍があえてそうした世界観を保持したまま、本格探偵小説的なる事件を持ち込み、フィードバック実験を試みたのが最終話にして表題作「蜃気楼の王国」だ。

 ペリー艦隊が停泊する那覇で起きた米国人水兵殺害事件。あるいは事故かもしれない一見単純なこの事件の「犯人」が白日のもとへ引きずり出されたとき、探偵たるベッテルハイム医師は「犯人」からある選択を託される。司法の枠をとびこえて、犯罪者を裁くべきか裁かざるべきの選択を委ねられた探偵はミステリの歴史にも数多い。だが、ベッテルハイム医師の場合は善悪ではなく政治や歴史といった、一個人が背負うにはあまりに重すぎる事柄について選択させられる。

 本来のプレイグラウンドではない場でのゲームを強いられた場違いな本格探偵、それが「蜃気楼の王国」のベッテルハイムなのである。


4. まとめ

 かくして、一見素朴なディスカッション歴史ミステリ『漂流巌流島』にはじまった高井忍の歴史ミステリのラインは、『本能寺遊戯』での歴史ミステリというサブジャンルに対する内省的な自問自答を経て、『蜃気楼の王国』で歴史ミステリどころか本格探偵小説という大枠すら揺るがしかねない自己破壊的な彼岸に行き着いた。

 この発展の過程で重要なのは、歴史の謎解きの対象となる「物語」の変化だ。

 デビュー作『漂流巌流島』は素朴な意味での歴史ミステリに近かった。文献を突き合わせて真摯に考察すれば、歴史に隠された史実を垣間見ることができるかもしれないというプリミティブな希望が読者の側に与えられていた。 

 しかしそうした文献学的な態度は『本能寺遊戯』においては物語化・娯楽化された歴史に対しての徹底した懐疑と分析へと変容し、エンターテイメントとして消費される歴史とアカデミズムで日々蓄積されていく歴史との摩擦を浮き彫りにした。楽しみのために歴史を無邪気に物語として消費してよいものなのか?

 レトリックをこねるなら、歴史もまた物語の範疇である。だが、ファクトを説明するために物語があるのであって、物語のためにファクトを用意するのは歴史ではない。ファクトをあと付けした物語とは、偽史だ。ならば、「面白さ」という大義のために物語先行でファクトを集める歴史ミステリというジャンルはそもそも歴史に対する大罪を背負っているのではないのか。 

 そうした自省が『蜃気楼の王国』では偽史形成のホワイダニットという、相当程度メタかつテクニカルな形での批評的視座に繋がる。人はなぜ物語を事実として信じたがるのか、そもそもなぜ歴史を、物語を必要とするのか。

 高井忍の一連の歴史ミステリは、偽史陰謀論、歴史エンタメ、あるいは自分たちが歴史と信じこんでいる何かに淫する我々に対しての皮肉な文明批評でもある。果たして、このユニークな作家が「漂流」の果てにたどりつくのはどこか――今後も注視していきたい。*22



浮世絵師の遊戯 新説 東洲斎写楽

浮世絵師の遊戯 新説 東洲斎写楽

(歴史ミステリのラインの最新作。写楽の謎に迫るというか、写楽の謎の迫りたい人たちの謎に迫る連作短編集。偽史好きな人に特におすすめ。小谷部全一郎とか出てきてスーパー偽史作家大戦をやるぞ。FGOだ。)


柳生十兵衛秘剣考

柳生十兵衛秘剣考

(とはいうものの各読書サイトの評判をつら眺めるに、『漂流巌流島』以降の高井忍の歴史ミステリは一般読者にウケが悪い。歴史ミステリや歴史探偵のパロディであると知らずに歴史ミステリだと思って読むから当然の有様*23なのだけれど、読者にそこまでのリテラシーを求めるのは酷だろう。
 というわけで、高井忍初心者におすすめなのがこちらのちゃんばら時代本格ミステリ。高井忍が本格ミステリ作家として「ふつうに腕がいい」ことがわかる作品だ)

*1:実際にイデオロギーによって指向される真実というのは非常に多重解決、あるいは討論型ミステリによくマッチしているので、こうしたワードでもって作品を語ること自体が間違っているとは思わない。自分個人がミステリと現実空間それぞれにおけるオピニオンの複数性を分析することに情熱を持てないだけです

*2:僕は基本的に「時代ミステリ」との区別で「歴史ミステリ」、特に強調したい場合には「考証劇ミステリ」と呼んでいる

*3:誤用。

*4:あたかも多紀さんのおかげでたまたま思い出したとでもいうふうにふるまっているが、実は宣伝の機会を虎視眈々と狙っていた私の深謀遠慮が冴えている

*5:楽しかったけど本当にキツかった。もう短編ごとの全レビューなんて二度とやらぬ決心である

*6:『浮世絵師の遊戯』と『名刀月影伝』。特に『本能寺遊戯』の後継であり「歴史ミステリ」のラインに属する『浮世絵師の遊戯』が致命的だった

*7:インタビューも『BIRLSOTNE GAMBIT』で読めます

*8:あとわりと既存の文献をあまり参照せずにざっくりしたテーマでざっくりしたことを語っているので、エッセイといえどこのまま金取る本に載せるのは憚られるなー、とも思い

*9:手元に本誌がないので最終稿が確認できない

*10:民俗学ではあるが

*11:「現代の人物たちが歴史の謎に迫る」という条件を緩めて、「当時の人物たちが〜」も含めるようにしてもジョン・ディクスン・カーの『エドマンド・ゴドフリー卿事件』などがある程度。

*12:そこで高井はミステリに必須である「意外な伏線」を仕込むためにあるトリッキーな術策をあみだす。Birlstone Gambit 掲載の全レビュー参照のこと

*13:loc.166、「本能寺遊戯」

*14:loc.188、同上

*15:loc.1378

*16:傑作である理由については、特にここでは解説をはさまない。詳しくは実際に読むか『BIRLSTONE GAMBIT』のレビューを読んでくれ

*17:loc.4878

*18:本エッセイの初稿では「後期クイーン問題的な」と形容していたように覚えている

*19:陰謀論や歴史の新説本に対する高井忍の懐疑的な態度は『BIRLSTONE GAMBIT』掲載のインタビューで詳しく語られているぞい

*20:loc.4536、「『編集部日誌』より」

*21:loc.4574、同上

*22:とくにまとめきれなかった場合になんとなくいい感じで終わらせたいときに使うフレーズ

*23:俗説を史実で潰す高井忍式歴史ミステリのスタイルは、必然的に文献の引用が多くなる。それが読者には退屈に映るのだ

映画『夜は短し歩けよ乙女』の感想というか体験談

夜は短し歩けよ乙女』(湯浅政明監督、日本、2017年)

『夜は短し歩けよ乙女』 90秒予告


わたしたちは森見登美彦被害者友の会である。

 だれもが森見小説を愛していた。『四畳半神話大系』や『夜は短し歩けよ乙女』にあこがれて京都へやってきた。京都には夢があるのだとおもっていた。魔法が息づいているのだと信じていた。

 そして、裏切られた。

 実際の京都には夢も魔法も存在しない。あるのは二通りの現実だけで、つまり魔法めいた現実か現実めいた現実のどちらかだ。下鴨神社の古本祭りを徘徊するのは野獣のような眼光を湛えた古本極道たちと森見登美彦を読んでやってきたサブカルクソ野郎ども、木屋町をうろつくのはポン引きと川に吐瀉物をぶちまけるスーツ姿のおっさんたち。金閣寺、御所、寺町、伏見稲荷、名前のついている名所史跡はいつでも三百六十五日、クラッシャー帽をかぶった観光客たちで埋めつくされている。どうしようもなく世間だ。*1
 そんな惨状を目の当たりにしても、意外に失望は湧かなかった。最初からうすうす勘付いていたのだ。「そんなもの」は最初からないのだと。
 やがて、わたしたちは森見登美彦を信仰しなくなった。あるいは最初から信仰などしていなかったのだろうか?
 書店には森見登美彦万城目学のフォロワーとしての京都小説が積まれるようになり、いつのまにかストロングホールドな一大エクスプロイテーション・ジャンルが築かれた。森見と違って魔術師の才能に恵まれたものは多くなかったようだったが、それでも商業的には成功を収めた。
 京都は売れた。京都は金になった。京都はそうやって、いつからか夢も魔法も内在させていないことを隠さなくなった。
 それから、七百年がすぎた。

湯浅政明が『夜は短し歩けよ乙女』をアニメ映画化する

 という真偽定かならぬ噂を聞き、わたしたちは二条のTOHOへ、三条のMOVIXへ、京都駅前のTジョイへと向かった。このうちMOVIXへ行ったものは現地で『夜は短し』の上映が行われていない事実を知り、寺町のアニメイトをひやかして帰った。
 幸運にもチケットを購入しえたものはもぎりのお姉さんの脇を抜け、重くてたいそうな扉を開き、映画館の暗闇へと身を沈める。


 Tジョイではシアター9だ。
 TOHOではスクリーン1だ。


 席を埋めている人々はみなわたしたちだ。学校帰りの高校生も、早くも講義もサボってやってきた大学生も、若いカップルも、見た目から仕草から型どおりに典型的なオタクも、父親がIT企業で働いてそうな見た目の親子連れも、よく映画館で見かける孤独そうな老人も、誰もが森見登美彦を信仰し、裏切られた末にここにやってきた。
 半券に指定された席に座ると周囲の闇からささやく声が聞こえる。
 ”おまえは森見登美彦を読んだことがあるか。『夜は短し歩けよ乙女』を知っているか。”
 知っている。『四畳半神話大系』も『太陽の塔』も『ペンギン・ハイウェイ』も、思い出の彼方、胸の奥に眠っている。だが、あれからもう七百年も経ってしまって、眠ったままだよ。たぶん、もう二度と目覚めないかもしれない……。

 苦笑いで吐いたそんな予言が上映開始三分で覆される。
 おそろしいほど甘美なテンポ。
 かぐわしいほどにキュートなアニメーション。
 すさまじい勢いで発動していく湯浅政明一流の魔術で、わたしたちの知っている京都の景色が塗り替えられていく。いや、すり替えられていく。
 目が覚めてしまう。
 信じてしまう。
 今、この瞬間、この眼に映っている京都こそがほんものの京都なのだと、信じ込まされてしまう。
 わたしたちはこの感動的な詐術に既視感を持つ。森見の、原作小説を読んだときにも味わった感覚と同質の酩酊をひきおこしていることに気づいてしまう。あの饒舌な原作が大幅にカットされて純粋に湯浅政明のアニメーションになっているにも関わらず。なぜ同じなのか?

速度。

 そう、速度だ。あの原作小説の声の速さがそのまま映画のBPMに変換されている。だからこんなにも心地が良い。すべてが愛らしく、その愛さしさが減衰されないまま、ただひたすら愛しいままに90数分間をつっきってしまう。
 この速度の前では絵面と星野源の声のマッチしなさ*2など顧みられない。現実の京都の空の曇り模様など消し飛ぶ。憂いなど、まるでこの世界のどこにも存在しないかのようだ。
 花澤香菜演じる乙女が酒を一杯飲み干すたびに、わたしたちはこれまでの七百年を思い起こす。そういえば、アニメなら『四畳半神話大系』もあった。『有頂天家族』もあった。どちらもすばらしいアニメシリーズだったじゃないか? っていうか、『四畳半』のキャラが本作にも出てるんだけど。
 だが、映画版『夜は短し歩けよ乙女』はスウィートさで言うのなら、その二作を圧倒する。理由は単純で、尺が短いからだ。何度も言うように、必要なら何度でも言うけれど、速いからだ。
 

 映画『夜は短し歩けよ乙女』は一年のできごとを一晩の夢酔に圧縮した物語である。そういうフレームで捉えると、本作が『四畳半』のようなアニメシリーズではなく一本の映画になったのは必然であるように思われる。ゆっくり長大に語るのではなく、遠大でありつつも迅速に語る。そのスタイルにこそマジックが宿る。
 夢には夢の職人がいるもので、世界一の夢職人である湯浅政明はその点において最も本作に人材だ。こういう請負仕事に*3「『マインドゲーム』以来のマスターピース」と言ってしまうのはさすがに湯浅ファンの怒りを買いそうだけれど、でも事実そうなんだからしかたがない。

 劇中、「時計」がモチーフとして繰り返し用いられる。年齢によって経つ時間の速さが異なる時計だ。若ければ分刻み、老人は年刻みで光陰が過ぎ去っていく。
 時間の体感速度が違えば体験の質もまた違う。そのせいで老人たちは人生を味気ないものと感じて日々を過ごしていくが、黒髪の乙女という強力な地場が経過する時間と体験の質を等質化してしまう。 
 そうして、観客にとっても映画の登場人物たちにとっても、ほんとうの意味で夢のような一時間半が過ぎていく。そのあいだだけは、この京都はあの日夢見たはずの京都だ。

*1:よく言われるように鴨川の向こう側とこちら側では流れる時間と世界が違う。

*2:念の為に言うが星野源の演技が下手なのではない

*3:ただ一点、学園祭のミュージカルパートは湯浅本人も「気が進まなかった」(公式パンフより)せいもあってか全体のテンポを削いでしまっているのが残念。

『ルポ ネットリンチで人生を壊された人たち』(ジョン・ロンソン、光文社新書)

 ツイッターは、かつては何気なく、深く考えずに自分の考えをつぶやくことのできる場だった。ところが今では、常に不安を感じながら、慎重に物を言わねばならない場に変わってしまった。*1


www.ted.com

(本書に関連したロンソンのTEDトーク。ウィンドウ右下のタブから日本語字幕が選べます。)

あらすじ

 ノンフィクション作家のジョン・ロンソンはある日 twitter で自分を騙る bot アカウントに遭遇する。彼は、削除に応じようとしない bot 制作者に対してネットでいわゆる「晒し」行為を行いアカウントを取り下げさせるのだが、この件の成功に酔いしれ、「悪と闘うために、悪人を晒し者にするという手段」に興味を抱く。

 まもなく、ポピュラー・サイエンスの人気ライターであるジョナ・レーラー(日本でも『一流のプロは「感情脳」で決断する』と『プルーストの記憶、セザンヌの眼』の二冊が訳出されている)が自著のなかで引用していたボブ・ディランの引用の捏造が発覚し、大スキャンダルに。ロンソンは捏造を暴いたジャーナリスト、そして炎上当事者であるレーラー本人に取材を敢行する。

 若くして名声を得ていたレーラーだったが、この事件をきっかけにてがけた記事の不正がつぎつぎと発覚し、ほとんど一夜にしてポピュラー・サイエンス界の寵児からパブリック・エネミー・ナンバーワンへと転落してしまう。職を失い、ジャーナリストとしての未来も断たれた。このあたりの経緯が映画『ニュースの天才』(ビリー・レイ監督、二〇〇三年)の題材になったスティーブン・グラス事件*2と重ねられるのは興味深い。ただ、一から記事を捏造したグラスに較べて、レーラーの「捏造」はディランの言い回しにちょっとしたつけたしを行ってせいぜいニュアンスを変えた程度だ。なのにグラスと同等か、それ以上の恥辱がSNS社会から与えられていることにロンソンは違和感を持つ。

 なにもかも失ったレーラーは、起死回生のためにあるカンファレンスでの講演の依頼をひきうける。彼は公の場で謝罪することで反省の意を世間に示し、ジャーナリストとしてのキャリアを復活させる緒をつかもうと考えた。
 はたして、カンファレンス当日。謝罪公演の模様はインターネットでストリーミング中継され、壇上の彼の背後にはリアルタイムに twitter での反応を表示するスクリーンまで用意された。打ちひしがれた様子で頼りなく反省のことばを吐くレーラーに、最初はネットの住民たちも好意的な反応を示し、講演は成功するかと思われたが――。

 レーラーへの取材後、ロンソンはネットで炎上した一般人たちにインタビューを試み、炎上の本質やその対処法を探っていく。

著者とそのスタイル

 ジョン・ロンソン*3ウェールズ出身のノンフィクション/ドキュメンタリー作家。既訳書には『サイコパスを探せ!』などがある。映画ファンにはドキュメンタリー『キューブリックの秘密の箱』(ジョン・ロンソン監督、二〇〇八年)、ジョージ・クルーニー主演の『ヤギと男と男と壁と』(グラント・ヘスロヴ監督、二〇〇九年)の原作、およびドーナル・グリーソン&マイケル・ファスベンダー主演の『FRANK』(レニー・アブラハムソン監督、二〇一四年)の原作脚本でなじみがあるかもしれない。ちなみに次の脚本作はなんとポン・ジュノ監督の韓国-アメリカ映画『Okja』。
 英語版 wikipedia によるといわゆるゴンゾ・ジャーナリストを自称しているようで、著書の視点も俯瞰して物事を観察する、というより、現場や当事者に直接突撃してその目線からみずからの思考をぶつけていく、というのが中心のスタイルをとる。 

 そういうわけで、本書の大部分は著者が行ったインタビューのやりとりで占められ、その様子が克明に記録されている。この対話というか、著者のキャラクターがおもしろい。
 彼の書きっぷりはアイロニカルかつ明け透けだ。地の文では場面ごとに自分の感じたこと、思ったことが事細かに書かれており、時にふてぶてしい。イングランド人の皮肉な笑いがウェールズ人の血にも宿っているのだろうか。たとえば、こんなやりとり。
 

 彼(注・レーラー)は何度もこう言った。 「僕のことは本に書かないでください。僕は、あなたの書く本にはふさわしくない」  私の方も何度も同じことを言った。
「いえ、ふさわしいと思うので書かせてください」  
 彼が何を言っているのか、よく理解できなかった。私はまさに彼のような人について書こうとしていたからだ。レーラーは虚偽の文章を書くという罪を犯し、公の場で恥をかかされるという罰を受けた。まさに私の本のテーマにふさわしい人だと思っていた。*4


 取材でも思ったことをすぐに口するタイプなため、たびたび取材対象に対して苦言を呈したりするが、それでもインタビュイーから敬遠されないのは人徳だろうか。
 一方で人への取材だけに頼らず、炎上・ネットリンチ現象の根源を調べるために多くの国で近代まで存在した羞恥刑の歴史をひもといたりもすることも忘れない。題材が題材だけあって、巻末の参考文献リストは細心の注意が払われ、充実している。

さまよえるウェールズ

 『サイコパスを探せ!』でサイコパスへの理解が深まるにつれて「自分もサイコパスではないか?」という不安に陥っていったロンソンだが、本書でも炎上当事者と似たような言動をしていた自分の迂闊さを思い出して冷や汗をかき、逆に「晒し」行為に加担していた過去を悔やむ場面が出てくる。
 彼は悲惨な炎上事例に触れるたびに、正義感から煽動していた twitter での晒し上げに思いを馳せるものの、個別の被害者については「数が多すぎて名前を思い出せない」と言及を避ける。だが、中盤になってついに「どうしても忘れられない相手がいる」と具体的な名前を白状する。ほんとうは憶えていたのだ。
 その人の名はA・A・ギル。コラムニストの彼は、ある日「見知らぬ何者かを撃つのというのはどういうことか、体験してみたくてサルを撃ってみた」と雑誌のコラムに書いた。この記事をロンソンが twitter で告発すると、たちまち「霊長類殺し」ギルに対する非難の声が拡散し、新聞なども便乗してちょっとした騒ぎになった。人道の勝利である。
 ところが、ロンソンには自分の動機が真に正義感から発したものではなかったことを知っていた。「A・A・ギルの動向に私が注目していたのは、彼がいつも私の手がけたテレビ・ドキュメンタリーをけなしていたからだ。何か言い返したくて、そのきっかけを待っていたようなところもある。」*5

 ジョン・ロンソンというおもしろおじさんを主眼に読むならスリリングな一瞬だが、もちろんこれは特殊な事例だ。彼が晒してきた他の人たちは、おそらく、ロンソン自身とは直接なんのかかわりもなかった人ばかりだっただろう。

 私(注・ロンソン)はこれまで何人もの人を公開羞恥刑にした。うっかり本音を言ってしまった人、普段かぶっている仮面をほんの一瞬、うっかり脱いでしまった人、そんな人をめざとく見つけては、多くの人達に知らせる。そういうことを何度も繰り返してきたのだ。今はその相手のことをほとんど思い出せない。確かに怒っていたはずなのに、怒りのほとんどを忘れてしまっている。*6


 そして、大抵の炎上はロンソンのような善意の人たちによって起こる。

 本書に出てくる炎上当事者たちはみな程度の差はあれ、「愚か」とレッテルに貼られてもしかたないの言動を犯したかもしれない。「自分は白人だからエイズにかからない」という自分では自虐的なジョークのつもりなことをつぶやいた人、米軍墓地の「静かに、そして敬意をもって」と表示された標識の前で中指を立てた写真を撮り Facebook にアップした人、ITカンファレンスの聴衆席で女性蔑視的な卑猥なジョークを友人と囁きあっていた人、そのジョークを飛ばしてた二人を写真に撮り twitter に「女性の敵」として晒し上げた人。
 これら全員が、何百何千という見知らぬ人たちからともすればひどい暴言(ともすれば炎上者の発したものより差別的な)を投げつけられ*7、人格を否定され、個人情報を暴かれ、職を失った。
 彼らの名前でグーグルを検索すると炎上事件関連がヒットするようになり、そのせいで次の職にもなかなかありつけない。人生を徹底的に破壊されたのだ。すくなくとも、誰一人として法を犯さなかったにもかかわらず。
 それは世間による私刑だ。罪を犯した人物を、名も無き個人たちが執拗に追跡し、実況し、追い詰め、滅ぼし、消費する、デイヴ・エガーズの小説『ザ・サークル』みたいな監視ディストピア社会。

 ロンソンは疲労困憊し、人生に倦み疲れた炎上当事者たちの姿を直接かいま見ることで感化される。
 直接に利害や怨恨があるにせよないにせよ、人間のうっかりした瑕疵や失言を責めてその人の人生を破壊する権利などあるのだろうか? 人間だれしも弱みの一つや二つを隠しているものだ。その弱みが何かの拍子で引きずり出されて、世界じゅうから非難の的にならないなんて、誰が断言できるだろう?
 彼は、終盤、「炎上しても立ち直る方法」を探す旅に出る。それはやがて「恥とは何か」の探究へと発展していく。
 
  

たったひとつの冴えた炎上回避策

 基本的に文章を書いて公共の眼に晒す行為は常に賭けをともなうわけだけれども、現在のSNSで行われるそれはほとんど『カイジ』の鉄骨渡りに近い。自分でもなんでもなく思っているような発言がどこぞの誰ぞに拡散されて炎上し、リンチを受けないのは奇跡のたまものだ。
 本書に出てくる炎上した一般人はある共通項を有していた。それは「自分の周囲でこういう行為(わるふざけ)は容認されていた」という油断だ。気心の知れた知り合いなら、多少不愉快で品の悪い冗談で気分を害しても「まあそういう人間だしな」程度で済む。ところがそれが第三者によって拡散され、世間という異なる文脈に乗せられたとたん、発言者は生まれてきたこと自体呪われるような鬼や悪魔のあつかいを受けてしまう。
 
 この文脈の越境がやっかいだ。SNSで発言するとき、私たちは多かれ少なかれ読者を意識する。その読者とは、友人であり、理解者であり、私たちに対して寛容でやさしい人たちだ。趣味や志向や倫理基準も似通っており、TLという実体を伴った空気を共有している。
 ところがSNSは閉じたコミュニケーション空間の構築を強要する一方で、リツイートだのシェアだのでかんたんに文脈の越境を生じさせてしまいもする。一見、誰の眼から見ても同じような意味にしかとれないように思われることばでも、シマが移れば空気の組成も変わり、笑いや共感とは別の感情を誘爆してしまう。たまにそういう誤配の現場を実見すると胸がざわつきますね。

 だったら、いつも常識に注意を払い、気をつければいい。そうかもしれない。世間で共有されているらしい倫理の最低限のラインさえ守れば、たまに異なる文脈を持つ他人を傷つけることはあっても、一万人が憤怒する大炎上にまで至ることはないかもしれない。
 しかし二十四時間三百六十五日常に注意深くいられないのが人間という生き物で、そのせいで今日もどこかで誰かが車に轢かれている。人間の認知もまた完璧でなく、もしかしたら、自分では交通法規を守っていたはずなのに通行人を轢いていた、なんてことも起こりうるかもしれない。
 
 結局のところリアルな個人情報と細い糸一本でもひもづけた状態で発言するかぎり、「気をつけた」ことにはならない。
 もっとも確実かつ安全な炎上自衛策とは、ロンソンの友人であるステケルマンが実践した方法だろう。

 ステケルマンはもうツイッター上にはいない。彼の最後のツイートは、二〇一二年五月十日のものだ。「ツイッターは人間がいられるような場所ではない」と書いていた。*8


ルポ ネットリンチで人生を壊された人たち (光文社新書)

ルポ ネットリンチで人生を壊された人たち (光文社新書)

ザ・サークル

ザ・サークル

*1:loc. 5477

*2:九十年代にIT関連の報道で人気を博していた若手記者スティーブン・グラスによる記事捏造スキャンダル

*3:ロンスンとも

*4:loc.608

*5:loc.2669

*6:loc. 2658

*7:余談だが男性の炎上者には見られず、女性の炎上者だけに見られる現象として、「レイプ予告で脅迫すること」が指摘されているのは興味深い。

*8:loc.5477