名馬であれば馬のうち

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じゃあ、『聲の形』の原作者と監督はなんと言っているのか。:原作者・大今良時編

togetter.com

 『聲の形』が晒されている倫理的な批判はだいたい以下の二点に切り分けられます。:「いじめ被害者がいじめ加害者を好きになる、というプロットが加害者側にとって都合良すぎる」「聴覚障害を題材にした映画であるのに、十分な量の字幕上映がなされていない」

 前者は作品の内容面での問題、後者は作品外部の問題、と色分けされると思います。で、今回は前者、つまり、作品内容の倫理について触れます。
 具体的には「漫画作者(大今良時)と監督(山田尚子)は『どういうつもり』で『聲の形』に取り組んだ」かです。インタビューを中心に二人の発言を拾っていき、私なりの脚本にそって並べていこうと思います。

 もちろん、「作者がこう意図している、と言ってる」からといって、それがそのまま百パーセント読解として受け取られるべきとも思われません。作者がそのつもりで何らかの理由でも作品自体にうまく反映されていない場合もあるし、意図を完璧に再現したものであっても受け手によって解釈が異なる場合もあるし、ともすれば作者がインタビューで嘘やごまかしを言ってる可能性もないわけではない。発言を「編集」している私に対する信頼性の問題もある。
 それでも作者の作品に対する態度について耳を傾けることは、作品を理解するうえで何がしかの材料になるでしょう。「作者なんて一から十まで関係ぇねえ! 作品がすべてで、すべてが作品だ」と考えている極左テクスト論者でもないかぎり。

 映画も漫画も、不親切で一方的なメディアです。ターン制バトルのメディアです。週刊連載の漫画ならまた違うでしょうが、基本的にはただ作品をポンと出されて読者はそれを黙って受け取るしかない。そして作者の側も、それを読んだ読者が垂れ流す意見や感想に対して反応できない。
 なぜなら作者と読者で「どういうつもりでそんなことを言ったのか」「どういうつもりであんなことをやったのか」と相互的に対話できるプラットフォームが存在しないからです。*1

 そのような中にあって、作者インタビューという代物は作者-読者の殺伐とした関係に、擬似的なコミュニケーションの場を拓いてくれます。
 それを読んだ上で『聲の形』をどうジャッジするかは、あなた次第です。

漫画版作者・大今良時

 まずは漫画版作者・大今良時の証言から見ていきましょう。
 漫画『聲の形』を描くにあたって大今がどこで何をどう考え、どういうつもりでそうしたのか、については、講談社から発売されている『聲の形 公式ファンブック』に詳しく載っています。ここまで説明していいのかってレベルで載ってます。ぶっちゃけ、公式ファンブックさえ買えばこの記事はたぶん読む必要ないです。


『聲の形』のタイムライン

 原作者・大今良時が『聲の形』の原型となる第80回(2008年)週刊少年マガジン新人漫画賞受賞作を描いたのは十八才、高校卒業後すぐ(2007年?)のことでした。*2センセーショナルな内容に尻込みした編集部は異例の「入選作掲載見送り」を決定。*3
 その後、大今は2009年*4冲方丁SF小説マルドゥック・スクランブル』(『別冊少年マガジン』)のコミカライズでデビューします。*5
 『聲の形』がようやく世に出たのは、2011年になってからのことです。このときは『別冊少年マガジン』での掲載でしたが、2013年に全面的な改稿を施された読み切り『週刊少年マガジン』に載り、その年のうちに連載が始まりました。つまり、都合『聲の形』の小学校時代編は三ヴァージョンあるわけです。そのうち二つ(入選したときのヴァージョンと、『週刊少年マガジン』掲載時のヴァージョン)は現在発売されている『聲の形 公式ファンブック』で読めます。
 連載が完結したのは2014年の暮。大今良時は足掛け約七年かかって『聲の形』の物語を完成させたわけです。

『聲の形』のテーマと文体

 さて、大今はこれまでも繰り返し「『聲の形』のテーマは『人と人との関わりの難しさ』、『コミュニケーション』である」と主張してきました。

大今:私が大事にしていた『ことばだけでは伝わらないものがある。そういうものにこそ価値がある』という思いや、主人公の石田のテーマである『相手の気持ちに気づく』という課題を、アニメでも大事にしてほしいとお伝えしました。
……(中略)『聲の形』というタイトルが象徴している、『しゃべってること、手話、文字、そういう"ことば"だけじゃない、隠れたメッセージも感じ取ろう』ということが、私がこの作品に込めた思いです。そして、どれだけ読者に伝わってるかはわからないけど、コミュニケーションの多様性に気づいてもらえればと。


NEWTYPE』2016年10月号


大今 この作品は「人が人を知ろうとすること、関わろうとすることの尊さ」がテーマでした。その行為はたとえ成功しなくても、尊い。バラバラに、それぞれの事情を抱えて、勝手に生きている人たち。それがテーマだからこそ、多面的なキャラクター描写、わからない部分も作るようなかき方はやらないと意味がないと思ってました。


聲の形このマンガがすごい!2015WEB版8Pインタビュー大今良時<漫画6巻ネタバレ画像注意>: アイテム宝庫777


大今 最初は、「嫌いあっている者同士の繋がり」を描こうとしていただけなんです。そのふたりの間を思い浮かべると、たまたまいじめが挟まっていた。だから描いた。いじめを「売り」にしようとしていたわけではありません。描きたかったものを描くためには、いじめという行動が、発言が、その時の気持ちが、必要だったんです。


和解だけが救いの形ではない――『聲の形』作者・大今良時氏の目指すもの - 大今良時×荻上チキ (1/3)



 しかし、あまりに「いじめ」「聴覚障害」がフィーチャーされることへの反発からか、『公式ファンブック』では危うい感じのことばが出てしまいます。

大今:「いじめがテーマ」とシンプルに語られることに、少し違和感を抱いているところはあります。自分としては「いじめ」や「聴覚障害」を主題にしたつもりはなくて、「人と人とが互いに気持ちを伝えることの難しさ」を描こうとした作品です。だから、『聲の形』というタイトルにしても、「コミュニケーションそのものを描いた話」なんだよ、という想いを込めています。硝子の耳が聞こえないのは、あくまでも彼女を構成するもののひとつでしかないですし、この作品でのいじめはコミュニケーションが引き起こした結果のひとつなんです。


p.170, 『聲の形 公式ファンブック』



「硝子の耳が聞こえないのは、あくまでも彼女を構成するもののひとつでしかない」し、「いじめはコミュニケーションが引き起こした結果のひとつ」だと強調するのは、信念としてそう考えているのもあるでしょうが、あまりに「いじめ」や「聴覚障害」といったわかったようなワード(とそれに付随する「感動物語」)で語られがちになっている自作の現状に対するいらだちもあったのではないかと推察します。


 というのは、インタビューを管見するかぎりにおいて、大今良時は非常にことばに対してコンシャスな作家だからです。
 そもそも作中で使われる「いじめ」という言葉からして、彼女はかなりテクニカルな意味を持たせています。主人公の石田は自分が硝子に対して行ったことをけして「いじめ」だとは言わない。『公式ファンブック』のインタビューによると、それは自ら行った行為から目をそむける無意識の防衛機制であり、逆に石田を「いじめっ子」と呼ぶ当時のクラスメイトたちは彼をそう呼ぶことで自らの責任から逃れようとしているのです。
 こうした紋切り型を峻拒する態度は作品の端々にまで及んでいます。

大今:私としては「因果応報」を大事な要素としてはとらえていません。「因果応報」という言葉が取り立てて重要視されるのは、この言葉を使うことで、読者も「すっきりする」からかもしれません。「因果応報」とか「罪と罰」「勧善懲悪」といった言葉や構図はストーリーにとてもよく馴染みますし、「何か悪いことをしてしまった登場人物は、罰せられるべきである」と期待されている読者もいらっしゃるとは思うのですが、そこはあまり意識しないようにしていました。


p.172『聲の形 公式ファンブック』


大今 そうなんですよー。恋愛漫画として描いたら捗ると思います(笑)。やっぱりわかりやすいものが求められてもいるとは思うので。誰と誰がくっつくか考えながら読むのは、面白いに決まっていますよね。ただそういう話じゃないと示しているつもりです。読者サービスもいれたりはしますが……。


和解だけが救いの形ではない――『聲の形』作者・大今良時氏の目指すもの - 大今良時×荻上チキ (1/3)


大今:ただ、これははっきり言っておきたいのですが、川井だけではなく、竹内(小学校時代の担任)や硝子の父親家族(映画には未出演)にしても、決して「悪者」として描いているつもりはありません。……(中略)各キャラクターにはそれぞれの言い分があって、出てくるセリフや態度はそれらのキャラクターの偽らざる気持ちの現れだし、現に私だって身体障害者の方についてまったく理解できていなかったら、同じような言葉を口にしていたかもしれない。深刻な問題をつきつけられて選択を迫られたときに、「これはタブーかもしれないけど、それでも本音を言うよ?」と。


p.173 『聲の形 公式ファンブック』



 ことばひとつひとつの用法に、キャラひとりひとりの内面に、ひとつひとつの表現に根本から向きあう。世界を割り切れないものとして扱う。そんな大今が『聲の形』を描くにあたって選んだのは「将也の一人称」という視点でした。

大今良時: 主人公の将也が知りえないことは読者には知らせない、将也が気づいていないことは取りあげない、つもりでした。


――物語の途中で「こういう人だ」と断定されるのは怖くありませんでした?


大今良時>怖いです。読者の方や、私の周囲の人が「こいつはこういうヤツだ」と言ってくれるんです。
 それはありがたいことなのですが、そのキャラクターの印象もまた、その読者のフィルターを通した人物像でしかないんで。


聲の形このマンガがすごい!2015WEB版8Pインタビュー大今良時<漫画6巻ネタバレ画像注意>: アイテム宝庫777



 このダシール・ハメットばりの「主人公の将也の知り得ないことは読者には知らせない、将也が気づいていないことは取り上げない」文体が一部で「硝子には内面がない」と捉えられる最大の要因となります。

 特に「なぜ、いつ、どのようにして硝子が将也のことを好きになったのか」というあたりは漫画を読んでいてかなりわかりにくい部分です。『公式ファンブック』のインタビューで大今はそれを「◯◯巻◯ページ◯コマ目で好きになった」と恐るべき緻密さで言い抜いたりするわけですが、そこまで言ってしまうとアレなので、知りたい人は『公式ファンブック』を買ってください。

 ここでは、硝子のキャラクターと、内面の機微について見ていきましょう。

西宮硝子という女

 大今良時の描く西宮硝子に徹底しているのは自己評価の低さです。

――では、いじめにあっていた硝子はどう感じていたんでしょう。


大今:硝子は被害者ではありますが、自分に対する周囲の振る舞いは、自分がクラスメイトに迷惑をかけているからこそ、つまり硝子自身に原因があるというひどい自己嫌悪があります。硝子がなにされても起こらないのは、「自分が悪いんだから仕方ない」と思っているからです。将也だけでなく、硝子もまた加害者意識が強いんです。
 硝子を「可哀想な子」だと思うのは、彼女を外から見る基準に照らした話でしかありません。彼女にとっては、からかわれたり、疎外感を味わったり、一人でいることはあたりまえ。マイナスでもなくプラスの状態でもなくゼロの状態です。


p.179『聲の形 公式ファンブック』



 将也たちの水門小学校に転入してきた硝子は筆談ノートを通じて周囲と健全な関係を築こうと試みます。
 そうした中で、将也が最初から目立つ存在だったわけではありません。

Q. 硝子は最初から将也と仲良くなりたかったの?


大今:そういうことはありませんね。将也の目線で物語が描かれているので、将也とのやり取りが目立っていますが、硝子は将也以外のみんなともおんなじように仲良くなろうと話しかけています。最終的に取っ組み合いの喧嘩をすることで、硝子にとって将也は水門小学校でいちばん嫌いな相手として記憶されることになります。


p.130, 『聲の形 公式ファンブック』



 映画の宣伝でも「一番嫌いだった相手が会いに来た〜」的な文句が打たれていましたが、まさに印象最悪な状態で硝子は将也と別れたのです。
 硝子にとって、筆談ノートは、他者と繋がれる希望を象徴したアイテムです。*6そのため、ノートの喪失がコミュニケーションに対して期待を抱くことへの諦めそのものを引き起こしてしまいます。*7自分がいると、自分も周囲のみんなも不幸になってしまう。傷つけてしまう。そう考えたのです。コミュニケーションを諦めることが、結局は自分自身を守ることになる、と。

 硝子は生まれてから「自らの壊したものをずっとカウントして」いました。*8水門小学校で筆談ノートを失うと同時に、コミュニケーションへの期待を手放し、同時にカウントも停止します。
 しかし、時を経て、高校生になった将也が筆談ノートを伴って現れたときに「カウント」が再びはじまります。

Q.自分をもっとも嫌いだったはずの将也が会いに来た時、硝子は何を思ったの?


大今:自分が健聴者とのコミュニケーションへの期待を込めていた筆談ノート。それを将也が持って会いに来たのは、硝子とって驚くべき出来事でした。硝子は将也のことを、自分を叩く「アンチ」みたいな存在だと思っていたので、びっくりしてどんな顔していいかわからない。それで「そんな将也がなんで自分にそこまでこだわるの?」と知りたくなったんでしょうね。まさに「どうして?」と。将也を敵だと思っているからこそ、逆に彼の心情を知りたいという防衛本能が働いたゆえの反応であったかと思います。


p.134, 『聲の形 公式ファンブック』


――筆談ノートを失っていた間は、カウントは止まっていた?


大今:はい、止まっていました。将也は筆談ノートと一緒に硝子に希望を持ってきてくれましたが、同時に「周りを不幸にする自分」を思い出してまた苦しい思いをする。硝子と将也の二人は、近づけば近づくほど傷つき、死にたくなるのです。


p.176『聲の形 公式ファンブック』



 読んだ人ならわかるかと思いますが、『聲の形』は、いじめてた人間といじめられてた人間が再会即和解し、恋愛モードへ突入する*9、というような単純な構造をとりません。

 それは硝子から見た石田との関係も同様です。
 石田はたしかに硝子が諦めた他人とつながる希望をもう一度開いてくれるかもしれない人物です。しかし一方で、同時に小学校時代のような破綻を招いて「自分のせいで」関係してくれた人たちを不幸にしてしまうかもしれない危険も孕んでいる。
 石田は両極端な結果をもたらす、アンビバレントな可能性の象徴として現れました。コミュニケーションという知恵の実を齧ってしまったせいで有限の命を背負ってしまう、失楽園的なジレンマを最初から抱えていたのです。そういうものを私たちは「原罪」と呼んでいます。

当事者性について。

 漫画『聲の形』を読んだ人なら誰もが「この作者は実際にいじめを経験したんだろうか?」という疑問、あるいは興味が湧きます。『聲の形』のいじめを「リアリティがある」と評する人もいれば、その逆のことを言う人もいる。
 連載が半分終わったくらいの段階で受けたインタビューで、大今はこんなことを言っています。

荻上 大今さんがこの漫画を描くと決めたときから、そういった(注:障害者を題材として扱うことについての反発的な)反響があるとは、想定はしていましたか?


大今 いえ、なにがそんなにヤバいのかまだよくわかっていないです。


和解だけが救いの形ではない――『聲の形』作者・大今良時氏の目指すもの - 大今良時×荻上チキ (1/3)


荻上 ちなみに、ご自身はいじめの経験はありますか?


大今 見聞きするほどのひどいことは経験していないですね。悪口くらいなら言われていましたしイヤでしたけど、自分に原因があると思っていたのでしょうがないというか……。心の中で文章にできない感情を残したまま成長して、卒業して、とくに和解のやりとりもなく、その子たちといつもの関係に戻る。仲の良い子たちだったので、言ったり言われたりすること自体がありふれていて特別なイベントだとは思わなかったです。そんなことより、イヤなやつとか敵に意識が向いていました。


和解だけが救いの形ではない――『聲の形』作者・大今良時氏の目指すもの - 大今良時×荻上チキ (1/3)



 先述したように大今にとって「いじめ」は主題ではない。それは彼女が当事者性を欠いていることを示しているのでしょうか?
 ここで留意しておきたいのは、大今はむしろ「実体験」に意識的な作家だということです。そもそも舞台が大垣市なのも、彼女が上京するにあたって「今しか描けないもの」をということで、それまで中世ヨーロッパが舞台にしていた投稿作から打って変わって地元を描いた結果です。*10メイン二人を含めた登場人物のキャラの名前や性格には、中高時代の知人友人のそれが反映されています。*11
 「聴覚障害」についても、母親が手話通訳者だったため彼女にとって身近なテーマでした。*12
 肌で感じられる距離に問題が存在したからこそ「いじめ」や「聴覚障害」を作品に取り入れたのではないでしょうか。

大今:『聲の形』は、実体験に基づく要素がとても大きく影響しています。あの子の声をちゃんと聞けなかった、気づけなかった後悔が、「ちゃんと見る」、「ちゃんと聞く」という石田が抱える課題に影響を与えています。きっかけとなったその友達の耳が聞こえなかったわけではありませんし、自分にとっては、硝子の聴覚障害は作品のテーマを読者に気づかせるためのモチーフのひとつであって、描くべき『本題』ではなかったんです。


p.171、『聲の形 公式ファンブック』



 彼女が声を聞けなかったという「あの子」とその出来事について、詳しいことはわかりません。ただ、直接的に大今の身にふりかかったのではないにしろ、その周辺で「何か」はあった。そして、その「何か」は大今に後悔を背負わせる結果に終わった。
 その出来事が、『聲の形』を彼女に描かせるモチベーションの一つになったであろうことに疑いはありません。「いじめ」そのものが主題でないと話すのは、実体験を、後悔を経たからこそ、個人的な問題意識――「ちゃんと見る」「ちゃんと聞く」が立ち上がったからなのです。*13


 ちなみに大今自身も不登校を経験しています。

――大今さんは中学生のころ不登校だった時期があるそうですが、どんな理由があったんですか?


不登校というか、単にサボっていただけなんです。*14途中で学校が楽しくなくなってしまったので。それで天秤にかけたんです。学校に行って頭に入らない授業を聞くのがいいのか、家で好きな絵を描くのがいいのかって。


【独占インタビュー】作者・大今良時氏に聞く。FC岐阜とコラボ、異色の作品『聲の形』はどのように生まれたのか?(フットボールチャンネル) - goo ニュース



 この時期に、大今は作品テーマや硝子の抱える悩みの根幹に関わる、ある体験を経るのですが、それはまあ、実際に『聲の形 公式ファンブック』(p.180)を読んでのお楽しみとしておきましょう。作者・大今良時の叫びが『聲の形』ともっともよく共鳴する重要で物語性溢れるポイントです。

次回予告

 長くなりました。なるべく『公式ファンブック』をスポイルしないように、記事の趣旨に関わる部分だけを引用したつもりですが、それでもあんまり大丈夫な気がしません。
 ……みんな!!! 『聲の形 公式ファンブック』買ってね!!!!! 絶対おもしろいから!!!!!


 次回は映画版の監督・山田尚子の証言を見ていきましょう。

 
 追記:できまんた。
proxia.hateblo.jp

 

*1:そして、「作意」の伝達精度の曖昧さこそ、芸術のある種の美点でもあるのでしょう

*2:【独占インタビュー】作者・大今良時氏に聞く。FC岐阜とコラボ、異色の作品『聲の形』はどのように生まれたのか?(フットボールチャンネル) - goo ニュース

*3:この決定に大今良時がどう感じたかについては、大今 良時さん インタビュー「コンテンツの冒険」|一般社団法人 全日本シーエム放送連盟(ACC)

*4:wikipediaでは「2010年に創刊された『別冊少年マガジン』」とあるが精確には2009年

*5:硝子が自殺する行動に出たのは『マルドゥック・スクランブル』のバロットの影響、と『聲の形 公式ファンブック』では語られています

*6:p.174

*7:p132, 公式ファンブック。

*8:p.176、『公式ファンブック』

*9:そもそも石田は恋愛感情を抱いていない、と大今は断言しています。

*10:NEWTYPE』2016年10月号より

*11:『公式ファンブック』のキャラ紹介ページより

*12:合唱で硝子がハブられるエピソードも母から聴いた実話を取り入れたそうです。http://www.excite.co.jp/News/reviewbook/20130806/E1375724255410.html

*13:もちろん、当事者だからえらい、ある種の問題は当事者にしか描けないということではありません

*14:『公式ファンブック』によれば、p.80「クラスメイトが嫌で学校に行かなかった」

「上」か「下」かで生き直す、映画『聲の形』

 『聲の形』の話をするのは二回目ですね。
 本編のあらすじは各種サイトで確認していただけると幸いです。

 以下、かなりヘビーな映画『聲の形』のネタバレを含みます。



 映画『聲の形』についてはつい先日、
 
proxia.hateblo.jp

 で書いたけど、しかしそもそも「原作は『贖罪』が基調で、映画は『コミュニケーション』がメイン」という立て方自体が間違っていた。もとからこの二つの要素は択一ではなくて、割合の問題だったんだけれども、公式インタビューを読んで大今が「主題はコミュニケーション」と言っていて、山尚が「どう許しあうことを書きたい」とそれぞれ言っていて、さすがに無視できない。*1
 見た感じでは「『コミュニケーションを描く』という共通了解のもと、脚色するにあたって山尚個人の「石田が周囲との関係をどう取り戻すか」*2という問題意識を橋渡しの材料として持ち込んだ、と見るのが正しいか。
 前の記事はあとからちょっと直したけど、結果的に大筋としては支離滅裂になってしまった。
 だから、やりなおします。


 感想というのは、極言すれば、すべて私的な復讐戦です。それは必ずしもイヌが出てきて哀れに死んだから悲しく思いました、などといった単純な機構をとらない。作品外の情報や条件が関わってくる場合もある。人にはその立場なりの視点があり、視点の数だけ復讐の火元がある。
 こちらとしては映画版の『聲の形』が私の皮膚にどういう形状の火傷痕を残したのか、その輪郭を知りたい。
 映画『聲の形』のだいたいは、上昇と落下(下降)、見上げと見下ろし、水と橋、声(音)と眼(光)で出来ている。他にも反復されるエレメントやアイテムは数限りないのだけれども、とりあえず今回は置いておこう。

小学生編――見上げる石田、見降ろす硝子


The Who - My Generation

 オープニングからザ・フーの『My Generation』が鳴って小学校編へと切り替わり、そこから西宮登場まではほぼカメラは水平に置かれる。後に何度も出てくる「川への飛び込み」も引いたカメラで横から捉えている。仲良し三人組(石田、島田、映画版では名前出ないけど広瀬)が並んで歩く姿も平面的に描かれる。

 文字通り世界が揺らぐのは、西宮硝子の転向当日だ。予告編にもあったシーンだが、石田が教卓の横に立つ硝子を初めて認識した瞬間、世界が少し傾ぐ。*3シャープペンの芯を必要もなくカチカチと出している様子から、小学生の石田が暇を持て余した落ち着きのない子どもであることが伺える。


 小学校編で目につくのは、石田と硝子の位置関係。関係性でいえば、抑圧者であるいじめる側が被抑圧者であるいじめられる側を見下げる画になるのが自然だと思う。しかし、印象的なシーンではいじめる側である石田がいじめられる側の硝子を見上げることが多い。

 さきほどの転入初日のシーンでも、はっきりと見上げているわけではないものの、机に頬杖をついた状態でふしめがちにシャーペンをカチカチ鳴らしている石田が、立って自己紹介をしている硝子をみやる。

 その後で、川井らが硝子とコンタクトをとっていると、教室の後方でプロレスごっこをしていた石田が机の上にギリギリ目が覗くぐらいの位置にひょっこり頭を出し、硝子を窃視する(この挙措は後に高校生編で長束と一緒に手話教室を訪問したときに再演される)。

 より明確になるのが校庭で「友達になろう」と手話で話しかけてきた硝子に対し、石田は「キモいんだよ」と砂をぶつけるところ。*4このときも石田はしゃがんでいて、直立する硝子を見上げる形になっている。

 数少ない石田が硝子を見下げる構図となる黒板のいたずら書きのシーンでも、途中まで石田が教壇に腰掛けていたのが、硝子が現れるや降りてまた同じくらいの視線の位置に戻る。*5

 石田が本格的に硝子をいじめ出すと、位置関係的にわりとフラットな構図が中心になる。しかし、石田を糾弾する学級裁判を経て、石田へのいじめがはじまった直後、机に書かれた落書きを消そうとしていた硝子の行動を誤解して彼が硝子をど突くも逆にやりかえされ、「わたしだって頑張ってるんだ!」とマウントをとられる。弱い、弱いぞ、石田。ここではもはや言い訳のきかないくらいに石田は硝子を見上げる存在であることが決定的となる。*6


 段階的に視点が下がっていって、最終的に尻もちをつくはめになる石田。

 これが小学校編のクライマックス、島田たちに(かつて石田が硝子のノートを投げ入れた)池へ突き飛ばされるシーンへと集約される。時系列的には硝子にマウントポジションを取られる前だが、石田が地べたに這いつくばって「落ちる」男であることを示す象徴的なシーンだ。

 同時にここはいじめられっ子として硝子と石田の立場と感覚がシンクロする場面でもある。しかし思い出してもらいたい。池に入った硝子はあくまで腰をかがめてノートを探すだけだったけれども、石田は完全に転倒していた。体験的には似ているようでいて、やはりここに至っても格差がある。*7彼がもはやどん底まで行ってしまった人間であることがこうした位置関係のゆるやかな変化からも示されているわけだ。


 再転校直前、石田が母親とともに西宮母娘に公園へ謝罪に行くシーンで、人工滝の裏に設置されたベンチで硝子はハトに餌をまいている。そこでようやく石田が硝子を見下ろす形になる。だがおそらくはそれが小学生時代の石田が硝子に会う最後の機会だ。

高校生編――見下ろす石田、見上げる硝子

 小学生時代の二重の意味で苦い経験から、高校生になった石田は社会との接点を切り*8うつむきがちなぼっちライフを送る。

 自然、視線も下方へ向く。クラスメイトである川井がグループ課題の相談にきても(立っている川井を座っている石田が見上げる主観視点だ)、顔を直視できない。彼は別の友人と会話する川井のセリフを心のなかで忖度し、ヴォイス・オーヴァーで自分が否定されていると思い込む。

 自分は生きるに値しない人間だと思い込む。というか死ぬべきだと。そのためにバイトをはじめ、かつて自分の母親が硝子をいじめた賠償として硝子の母に支払った慰謝料*9を母親へ返済するためにしゃかりきでバイトをやり、持ち物を売り払う。そうして溜めた大金を母親の枕許に置く。文字通り、「精算」だ*10。死ぬ前に、もうひとつの精算を済ますために、手話教室にいる硝子へ会いに行く。


 そこで彼は硝子と再会する。が、自己紹介もままならないうちに硝子は逃げ出し、階段を下る。このときカメラは駆け降りる硝子を石田の肩からナメている*11。その彼女を追いかけて、もう一度捕まえて、手話で「友達になれるかな」と話しかける。
 下方へ降った硝子を、石田が上から追いかけて捕まえる。これは小学校時代の位置関係と逆転している。なぜこの逆転は起こったのか。


 監督・山田尚子が映画化にあたってどこに軸を置いたか。インタビューからひいてみよう。

山田 何を削って何を残すかのバランスが難しくて、時間がかかってしまいました。でも、その中でも、最初に固めた芯はブレないように気をつけました。


──芯というのは?
山田 やっぱり将也ですね。将也がちゃんと生きていくための産声を上げられることです。


──小学生の時の行為をすごく後悔したまま止まっている将也が、自分を認めて、もう一度生まれ変わる?
山田 そう。将也さえ、ちゃんと生まれることができたら、周りの人のこともどんどん見えてくると思っていたので。それが一番コアなところでした。


映画「聲の形」監督に聞く「開けたくない扉を開けてしまった感じでした」 - エキレビ!(1/4)



 要するに、「石田の生まれ直し」が監督の考える映画『聲の形』の「コア」だ。

 生まれ直すには、一度死ななければならない。

 漫画『聲の形』は西宮硝子という中心を取り巻く人々の人生模様を描く群像劇的な側面が強かった。それを映画では「石田の物語」*12へ焦点を絞ったわけだ。単に原作をそのままやったら尺が足りなくなるという消極的な理由ではなく、削るにあたって物語のテーマ自体を再編するという合理性のもと、脚色がなされたわけだ。ここを見落とすと原作と映画を両方通過した観客は映画そのものを見誤る。


 ともかく、「生まれ直し」の面からもこの後の展開に描写レベルでも死がついてまわることになる。終盤で硝子を自殺から救うときに、単に救助するだけで代わりに仮死状態に陥ってしまうのも、「生まれ直し」のためだ。

 そうした観点で言えば、執拗に繰り返される上・下/上昇・下降の構図及び運動も、人間の生死と結びつく。つまり、「下」とはかくりよ、冥界のことだ。そこへ降った硝子を石田が追いかけるということは、イザナギイザナミの黄泉比良坂であり、オルフェウスの冥府くだりだったんだよ!ナンダッテーと短絡的に俗流神話解釈へ走りたくなる*13が、この映画はそう真正直な一対一対応の判じ物の形式をとらない。

 とりあえず高校生編では、「下=硝子の住む世界」、「上=一般の人々が生きている世界」と名指すに留めておこう。


 再会後、二人はある橋の上で小川の鯉に餌を与える。劇中で最も反復される意味深い場所である。「鯉にエサを橋から投げ落として『鯉に落ちる』ってかガハハ」というオヤジギャグがどこかから聞こえるが、無視しておこう。後に「床に落としたパンを鯉にやる」というシーンが出てきて「『鯉に落ちた』パンをやる」というより精度の高いダジャレが出てくるけれども、やはり目をそらしておこう。(((石田が恋愛感情を持っていることは劇中では描かれない。ベランダから落下する直前に「まだ気持ちを伝えていなかったな」と九割がたそれらしいことを言いかけるのだが。ちなみに原作者の大今良時は『聲の形 公式ガイドブック』のインタビューで「将也に恋愛感情は絡んでいない」と明言している。山田尚子がそのあたりどう考えていたのかは気になるところではある。))

 ストーリーのレベルでは、硝子もまだ恋に落ちているとは描写されない。


 石田は定期的に硝子と会う口実を欲していた。そのきっかけ探しに悩んでいる彼の足元に、どこからかパン屋のクーポンが舞いおちてくる。このクーポンを使えば、パンが手に入る。パンが手に入れば、鯉のエサとして使える。口実になる。そう考えた彼は腰をかがめて、クーポンを掴み取ろうとする。原作でもクーポンは出てくるが、石田が得るのは街頭で配布されているものだった。

 漫画ではわざわざ「下に落ちているものを拾う」シーンに書き換えたのだ。しかも、その拾おうとするとひらひらと風に乗って石田の手元からすり抜けていく。彼は数秒の奮闘ののち、苦労してクーポンをつかむ。


 硝子の妹である結絃に妨害されたのち、友人となったクラスメイトの永束が結弦の妨害を排除してくれてようやく硝子と再会する。*14

 ここで視点が石田から永束・結絃へと移り、この二人が手話教室の入っているビルのベランダから例の橋の上で話し合っている石田と硝子を見降ろすシーンになる。下の世界で通じ合っている二人に、上の世界にいる二人はまじれない。

 ただ結絃は姉の門番であり、その名前が示す通り姉と外部(主に石田)の関係性の糸を結える*15存在だ。彼女は趣味であるカメラのファインダーごしに二人の会話(手話)を覗き見し、それを永束や観客と共有する。*16

 結絃がカメラで見降ろすものといえば、動物のロードキル(路上の死体)だ。彼女は道端に転がる「死」を撮りまくって、家の壁に貼ることで、姉が抱いている希死念慮を打ち消せると信仰する。ここでも見降ろすものと死の世界の結びつきがちらつく。

 ともあれ、このシーンでは「下」の世界を共有する関係になった石田と硝子(とそこから切り端された外部としての「上」)が描かれるわけだ。


 そして二人は川に落ちる。落下というモチーフを見る上で、水は重要な要素だ。というのも、石田が落下する先には小学生のころから常に水がある。ここでも、川に落ちたノートを拾いにいった硝子を追いかけて、石田は川に飛び込む。鯉の住む川に落ちて、「恋に落ちる」ってかガハハ。

 ここで二人の何かが決定的になる。


 当初、結絃は石田を忌み嫌っていた。姉から遠ざけようとした。

 そのために「ネズミ」を陥れようとして、ノートを拾いに川に飛びこんだ石田の姿をネットで晒し、停学に追い込んだ。が、その奸計がバレて姉から叱られ、家出することになる。*17

 結絃はいったんは石田の家に保護されるものの、夜、雨の降りしきるなかを傘もささず裸足でまた出奔する。先述の「路上で頓死したカエルを見下ろしてカメラに捉える」シーンはここに挿入される。

 すぐに石田が追いかけてきて、靴を履かせ、持ってきた傘に彼女を入れてやろうとする。ここから「傘に入る/入らない」のプロセスがそのまま石田と結絃の距離感(結絃からみた)の変化として描写される。*18


 この傘と靴は原作にはないアイテムだ。原作では雨下を石田と結絃が飛び出すのは、家出した硝子を探すためなのであって、ふたりとも最初から傘をさしていないし、靴はちゃんと履いている。

 傘はまだわかるが、なぜ結絃が靴を忘れ、それを石田が履かせるというプロセスまで追加したのか。それはやはり、石田が「下」に気づきやすいからだろう。自分のお下がりの靴*19を履かせることで、結絃との距離感が若干ながら縮まる。

 それでも結絃は同じ傘に入ることを拒否しようとする。俺は姉のように安易におまえと同じ世界に入る気はしない、というか、そもそもおまえは姉の世界から出ていくべきだ、という態度だ。

 彼女は石田が小学校時代に硝子をいじめていたことを知悉していて、石田にたいして不信感を抱いている。しかし、石田が正直な気持ちを語ったことで、結絃は心を開き、同じ傘に入る。そして最終的に「一本しかない傘」は結絃に譲られる。石田は硝子とだけでなく、結絃とも地平を共有する関係を築いたわけだ(これが後の観覧車盗撮動画鑑賞会につながる)。ちなみに、この傘の構図はそのまま石田が昏睡状態に陥ったときの硝子の関係者行脚で、植野と硝子の間で反復される。


 硝子が司る「下」の世界にいきなり加入できた人物が、石田の他にもう一人存在する。

 小学生時代に硝子へ歩み寄って手話を習い、そのせいでクラスからハブられて不登校になった佐原だ。

 彼女もまた小学校卒業後は硝子や石田と疎遠になっていたが、硝子が小学校時代のクラスメイトでまっさきに会いたい友人として名前をあげ、川井の仲介で再会することとなる。*20

 原作では佐原とは電車内で再会するわけだが、ここでも映画は上下の構図にこだわる。佐原の通う学校の最寄り駅に降りた石田と硝子はいったんタラップに降りて、改札口へつながる降りエスカレータに乗る。その途中で、昇りエスカレータに乗っていた佐原とすれちがい、硝子に気づいた佐原がいったん昇りきったあと、慌てて降りエスカレータに乗り換えて「下」にいる二人のもとへ駆け寄る、という手順をとる。

 かくもたやすく「下」へ降りてこられる彼女は、もともと友人であった硝子とすぐに打ち解ける。

 佐原に関する上昇と下降の運動で印象的なのはもうひとつあって、遊園地でのジェットコースターで石田と相席になったときだ。彼女は「昔は怖くてジェットコースターに乗れなかったけど、考え方を変えてみた。怖いかどうかは乗ってから決める」と石田に語り、ジェットコースターのフォール時に両手をあげて全身で風を感じ、愉しむ。一方でこのときの石田はビビってうつむている。激しい上昇と下降を乗りこなす人物が佐原なのだ。彼女は、かつて自分をハブった植野という少女とも、デザイン学校に入ってからは良好な関係を築いている。*21


 その遊園地のくだり。もといじめっ子の植野、川井、川井の想い人である真柴、佐原、永束、結絃、硝子、石田の八人で集まって遊園地で遊ぶわけだが、そこで不倶戴天の二人である植野と硝子が観覧車に同乗するシーンがある。

 精確には遊園地で解散したあとに結絃が盗撮した観覧車内での映像を結絃と石田で観る。石田と硝子の再々会のときのように結絃はファインダーを介して姉と自分の知らない誰かとの会話を覗き見る。それを光景を彼女自身が他の誰かのために仲介する。

 硝子のくびにぶら下げたカメラのビデオ機能を利用した映像であるため、対面の植野の顔は映らず、終始彼女の半身だけが映る。これだけでも意味深だが、観覧車もジェットコースターほどの激しさを持たないにしても上昇と下降の乗物だ。その上、回転という属性もつく。輪転する運命の含意もあるだろう。

 そこで植野は小学校以来の敵意をあらいざらいぶちまける。おまえが嫌いであるとはっきり告げる。硝子もまた、自分のことが嫌いでたまらないと吐露する。そんな会話を見て、結絃は「どう思う?」と問いかける。石田は「俺は西宮には西宮のこと好きになってほしいよ」としか言えない。


 一見和気あいあいと過ごしたようでありつつも不穏なものを孕んで遊園地遊びは終わる。その不穏さが直後に爆発する。あることがきっかけで川井が真柴と永束(およびクラスメイト全員)に「石田がかつて硝子をいじめていた」事実を暴露し、それが延焼した末、八人グループのあいだで硝子へのいじめというトラウマをめぐる醜いいざこざが起こる。例の橋の上でだ。

 いざこざは、石田が植野、川井、永束、佐原、真柴を一人ずつdisって決裂するという幕切れに終着する。この連続disでずっと石田は一人うずくまって下を向いており、最後に真柴が話しかけてきたときだけ、顔をちょっとあげて「部外者のくせにでしゃばるな」と言う。

 その後、残った硝子を見上げ、「夏休みだし遊びに行こうか」と誘う。
 硝子を見上げる石田という位置関係は、小学校時代以来だ。そう、仲良し(になりかけた)グループが破綻してしまったことで、また石田は小学校時代の暗黒に戻ってしまった。


 そうした構図は、直後の美術館めぐりのシーンで強化される。

 美術館にはすり鉢状の場所が設置されていて、石田はそこで足をすべらせて転んでしまう。蟻地獄にはまったアリ状態の石田に対し、硝子は上から見上げて彼にある言葉をなげかける。「私がいると、みんなを不幸にしてしまう」。石田が見上げる硝子の顔は太陽の逆光を受けて、輪郭がぼけていく。死が予感されている。


 登場人物の心情に関して、映画では常に「おそらく」がつきまとうのだけれども、おそらく硝子は橋の上での瓦解とその後の石田の哀しい空元気を見て自殺を決意したのだろう。

 クライマックスとなる花火の夜の飛び降りの前に、西宮一家のおばあちゃんの葬儀が挟まる。

 この日、鯉にエサをやるためにいつもの橋の上へ石田が行くと、あるべきはずの硝子の姿が見当たらない。橋の上から硝子が消えるシーンはここだけだ。代わりに、川と橋の間にある人工滝の裏手(小学生時代に石田の母親が西宮母娘に謝罪に行くシーンで硝子がいた場所)*22に制服姿の結絃が立っている。それを石田は見下ろす形で視認する。

 結絃が川を見つめているところもそうなのだが、ここから徹底的に水のイメージが冥界と結びつく。葬儀場の館内には溜池のような水をたたえたオブジェがあり、そのオブジェを画面に手前に据えてその向こう側に佇む結絃、というショットがある。そこで結絃と硝子のあいだを蝶々が飛びまわるそのまんまといえばあまりにそのまんまな描写も出てくる。

 このあたりで一つ興味深い改変は、石田が結絃を葬儀場まで見送るところだ。

 原作の結絃は葬儀場の前まで来ると「ここまででいいよ」と石田から離れるのだが、映画ではいったん離れたあと、「やっぱ怖い」と石田に同行を求める。仲介者だった結絃が、仲介を求めるというのが切ない。


 そして、クライマックスとなる祭りのシーン。
 祭りを楽しみ、花火を二人して「見上げて」ひとしきり見物したあと、硝子は「勉強があるから」とはやめの辞去を同行の石田に申し出る。ここでも川べりに腰をおろした石田が硝子を「見上げる」イメージが継続されている。

 ここでも結絃が石田と硝子をつなぐ。石田は自宅にカメラを忘れた結絃に頼まれる形*23でいったん別れた硝子を追いかけるように西宮家へ行く。そこで、自殺しようとベランダのてすりに立つ硝子を目撃してしてしまう。

 空に咲く花火と川を眼下に縁に立つ自殺シーンは、冒頭での石田の自殺試しと完全な再現だ。

 飛び降りるギリギリで石田は硝子の腕をつかむ。この瞬間、梢子に対する石田の「見上げ」のイメージが再び反転し、また「下」へ落ちる梢子に追随する形となる。それは高校生編最初の再会の(彼が手話で「手を握って」いたことを思い出してもらいたい)、そして再々会でノートを取るために川へ飛び込んだシーンの再演でもある。さらにいえば、梢子が落ちたはずだった水辺に、石田が落ちるのは、小学生時代にノートが投げ入れられたシーンの反復だ。

 そう、反復という観点でいえば、それまで映画で石田と梢子の間で交わされてきたあらゆる動作(主に「手を握る」)と構図が一点に収斂するシークエンスである。このブログでは、『ズートピア』のときにも言ったと思うが、映画全編にまぶされた要素が最も集中する象徴的な場面をクライマックスと呼ぶ。しかし、本記事において反復は主題でない。別の機会に解説を回す。


 見るべきは、落下だ。石田は梢子を引きあげたのち、身代わりのようにして落下し、水面へ叩きつけられる。意識を手放しかけている彼を周囲を遠巻きに鯉が泳ぐ。母親の説得により取り下げた川への投身*24が、皮肉にもここで達成されてしまう。

 しかし、それは同時に英雄的な自己犠牲の行為でもある。*25彼はこれまで小学生時代に梢子につけた傷*26について謝罪もせず、過去と真正面から向き合わず、のらりくらりと「友達ごっこ」*27をつづけてきた卑怯な自分からここで脱する。そうしていったん仮死状態に陥ることで、山田尚子の言う「石田の生まれ直し」がはじまる。

『聲の形』と『光の形』

 この時点で位置関係の問題に関してはある種の解消を見る。石田の昏睡から橋の上での再会を通じて、二人の関係は完全に(この言い方が正しいかはわからないが)正常化される。

 終盤で重点がおかれるのは、音と光だ。冒頭で示される二つの英題(『The Shape of Voice』と『A Point of Light』)*28が提示しているようにこの二つは劇中を通じて同程度に重要な役割を果たしている。それをいちいち拾っていくと多分あと4万字費やしても足りないので、なんとなれば費やすべきなのだろうが、置いておくとして(これの一つ前の記事で断片的に説明している)、ここでは石田の「生まれ直し」に重要なものだけを拾おう。


 まず梢子の髪型に注目したい。彼女は初登場*29時から耳の隠れたボブカットで小学生時代を過ごし、高校生になってからはロングヘアーでほぼ通している。どちらも彼女のつけている補聴器を完全に隠す髪型だ。

 そんな彼女が劇中、三回、補聴器を晒したポニーテールになる。シンゴジでいえばビームを出す形態である。一回目は石田に告白するとき。二回目は夏祭り、三回目は石田が昏睡している最中に植田を始めとした関係者を行脚するとき。

 彼女にとって耳を露出することがどういうことなのかといえば、主に「自分の耳で聞きたい」「自分の声で伝えたい」ときなのだ。*30

 自分の「言語」である手話での対話を峻拒してまで、石田の「言語」である声で好意を伝えようとする。*31それが一回目のポニーテールなのだが、彼女は伝達に失敗する。石田は梢子の「言語」で喋っても過不足なく伝わるのに、梢子が石田の「言語」を用いたらコミュニケーションの齟齬をきたすという二人の関係の非対称性が浮き彫りとなる。あるいは、梢子の声が届かず、光=視覚のおぼつかない石田が月を錯覚する、という石田の不全を表しているのか。


 ともかくも、この失敗により梢子の髪型はふたたび長髪に戻る。

 二度目は夏祭り。ここの梢子は特に声にこだわらない。花火の振動を全身で感じるための形態であると捉えるべきか。既に自殺を『Undertale』のジェノサイドルートなみに固く決意した梢子はほぼ一切声を出そうとしない。石田との別れ際に、ここまで劇中で繰り返されてきた「またね」の手話を返さず、「ありがとう」という意味の手話を返す。

 声を聴き、喋るためのポニーテール・フォームだからこそ、彼女の決意の悲劇性が際立っているのがこの二回目のポニーテールだ。


 三回目は、精確には二回目からの継続であるが、石田が昏睡状態に陥ったときに「石田くんが築いてきたものを壊してしまったこと」を謝りたいと、石田と決裂していた川井、植野、真柴、佐原らのもとへ面会に行くくだり。*32

 特に重要なのが佐原。彼女は梢子と話しながら「私は変われない」と弱音を吐きそうになる。が、こことで梢子は佐原の手話の手を握って止めて、自分の「声」で「そんなことはない」は伝える。

 相手は違うものの、今度は、梢子の「声」が通じる。

 彼女の「the shape of voice」はここで確定され、覚醒した石田との橋の上での再会に繋がった。

 西宮硝子個人の物語は映画が終わるまえに完結したと言ってもいい。


 が、何度も言ってきたように、映画『聲の形』は石田の生まれ直しの映画だ。

 彼は高校生編の冒頭で示されるように人の顔を直視できないし、周囲の雑音から耳を塞いでいる。『the shape of voice』と『a point of light』がどちらも完成していない状態なのだ。


 ビジュアル的意味での生まれ直しは覚醒後の橋の上での硝子との再会でいちおう成立するし、退院直後にも彼の母親は「将ちゃんはね、死んで生き返ったのよ」と言われる。だが、彼が硝子に「生きるのを手伝ってほしい」と言うように、真に解決されるべき問題はまだ解決されていない。
 
 本記事の最初に述べた通り、山田尚子は雑誌『NEWTYPE』2016年10月号のインタビューで「将也が犯してしまった最大の罪は周りを見なくなってしまったこと」だと言う。


 だからこその学園祭エンドなのだ。硝子の命を助けて復活してみたところで(彼自身が言うように)性根が変わったわけではない。彼は相変わらずクラスメイトとまともに視線を合わせられない。

 だが、そんな彼を硝子は先導してくれる。硝子だけではない。永束も助けてくれる。そうして、人の溢れる校庭に出たとき、石田はそれまで精神的に閉じてきた耳を澄ます。周囲の音を拾う。今までせき止めていた音の奔流に、石田は身を委ねる。

 そして見る。劇的な引きのロングショット。劇的にエモーショナルな音楽。

 映画に登場してきた主要キャラクターたちが彼と地続きの地平に立っていることが、連続したカットで示される。そのキャラクターたちと周囲の人々もまた同じ高さに立っているのだ。

 光と音を手に入れる。ここで石田は本当に世界とつながる。ここで本当に生まれる。

 彼が号泣するのは、そのためだ。

 人間は誰しも、産声をあげるときに泣くのだから。*33

後記

 とまあ、主に今回は落下(見下ろし)と上昇(見上げ)、あとちょっとだけ光と声とについて触れました。構図や要素の反復*34についてはまだ拾えてない部分が多いので、たぶんまた機会があれば。ないだろうけど。


小説 映画 聲の形(上) (KCデラックス ラノベ文庫)

小説 映画 聲の形(上) (KCデラックス ラノベ文庫)

追記・9/27

・勘違いしてた箇所(「周囲の雑音が終盤まで聞こえてなかった」と「終盤で夢を観ていたのは誰だったのか」)を削除。

*1:そもそも「映画にテーマが存在するという前提でそれを読み解くふうに振る舞うのはいかがなものか」という立場もあるが、しょうがねえじゃん、『聲の形』の場合は作った人らが「ある」っつってんだもの

*2:NEWTYPE』2016年10月号

*3:顎を手でついていることの表現でもある

*4:映画オリジナルのシーン

*5:このへん記憶が曖昧なので後で直すかも

*6:あと階段を降りてくる植野と川井をちらりと石田が見やるカットがある。このカットに硝子は映っていないが、まだいじめられる前なので、また前後のシーンの流れ的にも二人のあとにくっついてた可能性が高い。

*7:小学生時代の石田が唯一他人から見上げられる場面がある。池に押し倒されて帰宅し、階段で自分の部屋へあがろうとすると母親から呼び止められるシーンだ。

*8:これ文字通り「糸が切れる」ことで表される

*9:原作では石田が破壊した補聴器の賠償だが、映画でそこ明示するシーンなくなかった?

*10:原作では自殺を試みるシーン自体は描かれていない。映画の初めに映る橋の上に立つシーンはそこで自殺を試みようとしたとも受け取れるが、カレンダーの件を鑑みるに、おそらくはちょっとしたシミュレーションのつもりだったのだろう

*11:原作では階段を駆け降りる硝子を正面から描いている

*12:前の記事で僕は「メイン二人の物語」と言ったと思うけれど、実のところ硝子すらレンズの後景なのかもしれない。

*13:山田尚子と吉田玲子のコンビの映画には意識的に神話的なモチーフ(というより映画が好んで使う神話学というべきか。本作に出てくる水と橋もそうだ)が使われているおぼしき箇所が多々見られるが、それを証明するエビデンスを僕は持たない。友人が「どっかで山尚がそういうこと言っているのを見たような」と言っていたので、探せば見つかるのかもしれないが

*14:永束が結弦に食いかかって騒ぎを起こし、それを石田が止めようとするのだが、この時の石田と硝子の視線が会う構図は先述したとおり、小学校時代のあるジーンの再演だ

*15:小学校編から高校生編へ切り替わった直後に挿入されたモノローグの場面を思い出して欲しい。そこで石田と社会の関係が切れるメタファーとして「糸が切れる」様子が描かれている

*16:ここで永束が「落ちるなよ、少年」と結絃に声をかけるところが印象的だ

*17:映画において結絃の家出理由はかなり読み取りにくい。家出にいたる経緯はほぼすっとばされ、結絃の回想としてちらっと激怒する硝子の姿がフラッシュバックされるだけである。僕もある原作未読者と本作を観に行ったさい、家出の理由がわかったかどうかを問いただしてみたけれど、やはり「わからなかった」と言っていた。

*18:どうでもいいが、靴、傘、雨による相互理解を描くアニメ映画といえば新海誠の『言の葉の庭』を想起する。ただ、映画的なアイテム使いと身振りの力学により石田と結絃の和解を謳い上げた本作に比べて、『言の葉の庭』は逆に「ひとつ屋根の下でくっちゃべっただけで互いに分かり合えると思ってたら大間違いだ!」という皮肉を言葉によって告発する。要するに、山尚は映画的なエモーションが映画内の真理を規定すると信じるいわば表現主義的映画原理主義者なのであって、新海誠はそうではない、という作家性の違いなのだろう

*19:なぜ家にあったはずの結絃が履いてきた靴をもってこなかったのかは知らない

*20:石田が川井に佐原の連絡先を聞いたわけだが、このとき石田が最初みたいに川井を見上げる体勢ではなく、立ち上がって川井のほうへ近づいて対等な目線から話しかけている。

*21:原作ではデザイン学校に入って互いの才能をリスペクトする関係になったからであるが、映画ではそのへん一切説明されない

*22:実は橋の映るシーンでは常に背景で注いでいる

*23:考えてみれば、家出時に靴を忘れてもカメラだけは手放さなかった結絃がカメラを放置するというのは不思議だ

*24:言い忘れていたが、映画冒頭の投身自殺のイメージも映画オリジナルだ

*25:「(ヒロイズムの)倫理的な目的は、民衆を救うこと、またはだれかの命を救うこと、またはある思想を支えることです。英雄はなにかのために自分を犠牲にする――これがその倫理性です」 ジョーゼフ・キャンベル『神話の力』(ハヤカワ文庫NF)、no.3338

*26:物理的な傷跡であるが、精神的なものでもある

*27:原作での物言い

*28:「A Shape of Light」はサントラのタイトルでもある

*29:小学生時代編の転入初日、といいたいところだが、実はその前に石田の母親の美容室に髪を切りに来店している姿がちらっと映っている

*30:これは原作から受け継がれている演出だ。それは映画版でも受け継がれていて、山田尚子は『NEWTYPE』のインタビューでも「将也に対しての覚悟と、手話を使わずに喋る覚悟。」と言い表している。ちなみに、ポニーテールのときの常に靴下が白で、スタッフのあいだでは『覚悟の白』と呼ばれていたらしい。

*31:再開時に石田が手話で梢子に話しかけていた、という前段階がある。交換である。

*32:原作での代償行為は「映画のつづきを作る」ことであるため、この謝罪行脚のシーンはない。

*33:このセンテンス書いたときにふと新生児って生まれてすぐ涙流すのか? と疑問に思って調べてみたけれど、涙は流したり流さなかったりするっぽい。

*34:アイテム単位で言えば、握る手、傘、空中に浮かぶ乗物、ノート、花火、クマの人形がささった棒、「またね」の手話、橋、川、水、花、他

映画『聲の形』と漫画『聲の形』、それぞれのカタチの違いについて。

追記

proxia.hateblo.jp
 ⇡は Ver. 2.0。といっても扱ってる部分がだいぶ違うけれども。


はじめり

 『たまこラブストーリー』のころから、山尚について何を語っても狂人の妄言めきやしないかという不安があります。
 ともあれ、以下は軽度から強度のネタバレを含みます。

 「では刃ヶ谷先生、永束君の映画の観想をお願いします」

  ――大今良時『聲の形』七巻


映画『聲の形』 ロングPV

贖罪の物語としての漫画版『聲の形』

 映画が始まる。ほとんど不意打ちに近い抽象的な開幕*1から、橋の欄干の上に立ち川へ飛び込もうとする制服姿の主人公、そして小気味の良いモンタージュによって小学生時代を活写したオープニング・シーケンスへ移り、その終わり、主人公たち三人組のなかよし小学生グループ(当時)が大空に向かってスローモーションで飛び上がる快楽的な躍動に満ちた画面に『聲の形』とタイトルが表示される。ここまでほとんどセリフはない。より精確に言えば、モノローグを欠いている。


 あらすじを説明する必要があるので、いちおうあらすじ立てておくと、『聲の形』は小学生時代に耳の聞こえない転校生をいじめて再転校に追い込んだ少年・将也が、聾の少女・梢子をいじめたことを咎められて今度は逆にクラス中からいじめの標的にされ、友人を無くし、少女に対する罪悪感に苛まされながらぼっちとして高校生になり、彼女と再会し、付き合いをふかめていく話。

 約めてしまえば、贖罪の話だ。原罪の話だ。少年は罪悪感から自殺を実行しようとし、少女と再会してからはもはや取り戻せない幸福なはずだった彼女の小学生時代の穴埋めをやろうとする。
 自分が存在することで世界をより悪い場所にしてしまっているのではないか。自分は生きるに値しないどころか、生きていてはいけない人間なのではないか。いますぐ死ぬべきではないのか。そう思い詰めているのは少年だけではなく、少女も同様で、というか、出てくるサブキャラクターも突き詰めればだいたいそんな悩みを抱えている。そんな彼ら彼女らがどうすれば「生きていい自分」を手に入れられるのか。おおかたそういう話であると理解される。大今良時の描いた原作は。*2

 山田尚子と吉田玲子の監督脚本家コンビが脚色した『聲の形』は、どうも様子が違う。
 冒頭の四分の一を占める小学生時代のパートの演出にまず面食らってしまう。躍動感あふれるオープニング・シーケンスの速度をそのまま殺さず、ピュアな悪意で彩られたいじめのシーンを手早くノリよく処理していく。いじめっ子だった主人公が、いじめられる側に立つと構図が反転するあたりなどは儀式的でありつつもどこか合理的だ。非常に映画的、言ってしまえば、オシャレでポップでさえある。
 原作を読んだ身であれば、そのポップさにとまどう。
 原作『聲の形』の一巻は全体のトーンとくらべても突出して重い。そもそも本作が巷間で認知を得たのは、のちに第一巻のもととなるパイロット版の読み切りが微に入り細を穿つ凄惨な「小学校でおこるいじめの現場」をモノローグを織り交ぜつつ実に実にエモく描ききったからだった。そして、以降はその重すぎるその一話で犯してしまったことをどう償っていくかでキャラクター個々の物語が展開していく。
 いわば、第一巻=小学生時代は贖罪の物語としての『聲の形』の大黒柱ともなるべき超重要シーンだ。映画化にあたっては当然あらゆる手管を駆使して漫画に負けないエモーションの魔術を見せるのであろうと、そう予想されていた。っていうか、原作未読者でも予告編程度のあらすじをあらかじめ聞いていれば、まあそうなるだろうな、と考えるとおもう。
 ところがそうはならない。セリフは必要最低限にとどまり、モノローグもほぼない。原作がいちいち描いていたエピソードを、かろやかにすっ飛ばす。主人公のいじめがクラス会議で告発される段にさしかかってようやく腰を据えて描かれるかと思いきや、やはりあっさり処理されてしまう。
 この淡白さはなんだろう。いや、ちゃんといじめのシーンを描いているといえばそう言えるし、あくまで尺の都合でカットしただけだと言われればなるほどそうなのかもしれない。
 担任の先生の傲慢な責任回避っぷりや学級委員長の川井の「どうしてみんななかよくでないのォ」といった、第一巻で印象的だった名シーン名ゼリフが悉くオミットされているのも、サブキャラのサブプロットを一律に削ぎ落とした結果であるのかもしれない。
 小学生時代にかぎらず、メインの二人以外のキャラの描写は軒並み削られている。筋だけ見れば、映画版『聲の形』とは「漫画『聲の形』のエッセンスを伝えるために精妙に限界まで肉抜きされたダイジェスト版」だ。

コミュニケーション縁起としての映画『聲の形』

 でも本当にそうなのか? 本当に映画版は「原作のダイジェスト版」、薄味『聲の形』にすぎないのか?
 違う、何かが違う。原作のプロットをほぼそのままに山田尚子お得意のマテリアルなモチーフ(というか水と橋と落下と花)の反復や反転、そして脚や手元といった身体の部位を極端なクローズアップとときどきロングショットで回していく演出。岐阜にある有名な美術館がモデルになっているシーンとか、オリジナルの場面がないではないけれども、このままいけば大今良時の器量内におさまりそうな――。

 と、終盤、ヒロインの少女に対して、彼女と終始対立関係にある*3元いじめっ子グループの女子があるアクションを行う。原作には描かれていないアクションだ。

 ヒロインへ「バカ」という意味の手話を行うのである。これにヒロインは喜んで? 応じる。おなじく「バカ」と手話で返して。

 映画版『聲の形』で描かれようとしてきたのは贖罪ではなかったのだ、とこの瞬間はじめてわかった。この映画が描こうとしてきたのは、コミュニケーション。

 最初から念頭にはあった。コミュニケーションは『たまこラブストーリー』でも『けいおん!』でも重要な位置を占めていたというか、それをどう視覚的に映画的に観客へ伝達するかといった意味ではテーマに等しかった。
 ただ、たまこにしろけいおんにしろ、インフラがある程度整備された状態でキャラたちはコミュニケーションを取っていた。一般的な意味での「コミュニケーションの欠落」は山尚世界にはありえず、『たまこラブストーリー』ではむしろ「情報量が多すぎてコミュニケーション回路がショートした」状態によってある種のディスコミュニケーション状態が出来した。

 ところが、『聲の形』ではそもそも伝達のための手段が器質的あるいは精神的に奪われた状態からスタートする。ヒロインは耳が聞こえず、うまくしゃべれない。主人公は小学生時代のパートが終わるあたりで、社会の関係が「切れた」ことを象徴するために挿入される糸の切断が表しているように、つねに俯きがちで人を顔のある人間として正常に認識できない。最初から糸電話でつながっていた『たまこラ』の二人とは対照的だ。


(注意:以下、映画版と漫画版の両方のラストに言及してます。)


 糸の切れた関係を結い直す物語、といえば『聲の形』はパッケージからして当然主人公とヒロインとのコミュニケーションの成立を主眼にするはずだろう。ところがle_grand_juran氏の指摘したとおり、そこは見逃せない一部ではあったとしても重点が置かれているようにはみえない。彼の言うように、(いくら尺の切り詰めに迫られていたとはいえ)「主役二人の関係の構築」をメインとするなら原作通り主人公がヒロインの手を引いて「あの扉の向こうに何が待っているのかはわからないが、二人ならきっと乗り越えられる!」的なラストに終着したほうがオチとして明確だったはずだ。

 にもかかわらず、映画ではラストを文化祭に置いた。周囲の人間の顔に「☓」印をつけて*4コミュニケーションを拒絶していた主人公が、初めて顔をあげ、耳を澄まし、周囲の人々を人間として直視する。それが映画版のラストシーンだ。それまで比較的感情面では抑え気味だった演出を思いっきりエモへ振り、「世界が拓ける」主人公の感覚を観客へ一瞬で伝播させた監督の手腕は賞賛に値するとおもう。
 あらゆるコミュニケーションは相手を人間として認識することからはじまる。換言すれば、これまでクラスでまともなコミュニケーションを一人だけとってこなかった主人公は人間ではなかったわけで、これはやはり最終的に「人間になる」話なんだろう。
 どうやったら生きていい人間になれるのか、という点では実は原作版との問いに違いはないのかもしれない。*5ただ、原作では各キャラクターが過去のトラウマや自分の人格のダメな部分に向き合って克服する、というサブストーリーが盛り込まれていた。映画版では尺の都合でカットされている部分だ。そうしたサブキャラのサブストーリーを排除することで、物語の焦点はメインの二人に絞られる。
 違和感のあった小学生時代の描写の相対的な薄さもいまならわかる。
 「贖罪」は映画版の主題ではない。*6

 世界との関係修繕、そしてメイン二人間のコミュニケーションを、映画版では徹底してアクションによって彫琢する。
 小学生時代、主人公がヒロインのノートを溜池へ投げ捨て、それを彼女が拾いに行く。びしょ濡れになった彼女に言い表しきれない感情*7をおぼえながら、主人公はその濡鼠姿に魅入られる。そして次の瞬間には溜池でびしょ濡れになってノートをぶちまけられているのは自分自身になっている。観客すらも気づかぬ間に「ヒロインのいじめっ子時代」から「主人公のいじられっ子」へと飛んでいる。
 構図の反転による重ね合わせ、それも水=鏡による反射といういかにもアレですが、これがひいては冒頭の「自殺を試みる主人公」と花火の日での「自殺を試みるヒロイン」につながってくる。あのシーンでベランダから飛び降りようとしているのは、ヒロインであると同時に主人公自身であって、それを救うことが自分を見殺しにしないことでもある。
 図像的にしろ物理的にしろ肉体の合一は最強のコミュニケーションです。わからない? 『君の名は。』は見ましょう。ひとつの肉体を共有することは、それだけでコミュニケーションであり、恋愛なんです。セックスという見方もありますね。

 そうした類はまあ、あくまで図式的なものにすぎない。もっと直截的な交換描写もある。たとえば、主人公がヒロインと意思疎通するために手話を覚える。手話で話しかける。これは原作の方に明示的に描かれているけれども、他者のことばを半分以下の精度でしか聞き取れないヒロインにとって、ヴァーバルなことばよりも手話のほうがなめらかであたたかい「ことば」として感受される。自分の領域である目(光)をつうじて手話で話しかけてくる健聴者は彼女へ寄り添ってくれる存在だ。
 コミュニケーションは他者理解の基本であり、会話とはコミュニケーションの基礎だ。だが、会話は両者が共通する言語で喋らないとつうじない。相手の言語を学んで話しかけてくる人、というのはそれだけでコミュニケーションを取りたいという態度を示していることになる。だからヒロインは嬉しい。だからヒロインは「好き」といういちばん大事なことばを、相手の領域である言葉(音)によって伝えようとする。
 道具である言語の交換、これもまた同一化の一つのかたちだ。*8メイン二人の間では、コミュニケーションを取ろうとする態度そのものがコミュニケーションとなり得ている。

いろんな形

 この領域侵犯的なコミュニケーションはメイン二人以外の間でも見られる。
 先述した元いじめっ子女子による手話の「バカ」もそうだ。彼女は「ヒロインのことが嫌いだし、たぶんそれは直らないだろう」という旨を宣言している。だから、(ある程度照れ隠しや本人が意識していない好意が混っているにしても)彼女の「バカ」は、字義通りの意味での悪口だ。
 でも、それがヒロインにはちょっと嬉しい。
 元いじめっ子とヒロインはその前に観覧車での決闘じみた対決があった。そこで元いじめっ子は筆談のために差し出されたノートを拒絶して「私はちゃんとゆっくり話してあんたに伝える」と言う。あくまでの自分の領域である声(音)に留まる。さらにいえば、小学生時代にクラス会でヒロインのためにみんなで手話を習いましょう、という運びになったときに一人立ち上がって「あの子は手話のほうが楽かもしれないけど、私は筆談のほうがいい」と敢然と主張した過去もある。彼女は、ヒロインには消して聞こえない声でさんざん悪意をぶつけてきた。
 その彼女が、手話でヒロインに話しかけた。ヒロインの言葉で話した。相手の言語で悪口をぶつける、というのは、現実世界にはなかなか還元しづらいだろうが、しかし『聲の形』ではポジティブな行為として受け止められる。すくなくともヒロインはポジティブなものとして受け止めた。コミュニケーションである、と。
 こうしたシーンをオリジナル描写として挟んでくるところに、今回の映画版スタッフのアティテュードがうかがえる。

 もう一つの例。漫画版と映画版に共通するサブストーリーの一つに「主人公の母親とヒロインの母親との和解」がある。ヒロインの親は娘の人生を破壊した主人公を、ひいては主人公の親をも憎んでいた。原作ではなんやかんのあった末に、母親同士で酒を飲み交わして打ち解けるという梁山泊三国志みたいな描かれ方をしたのだが、映画版ではより「アクションによるコミュニケーション」に拘った。
 主人公の母親は美容師である。彼女の言語はハサミだ。だから、美容師である主人公の母親が客であるヒロインの母親の髪にハサミを入れているシーンをさりげなく挿入した。信頼していない相手には、髪という身体の一部を切らせないだろう、というわけだ。これまでは一方的に誰かを殴りまくるだけだったヒロインの母親の縄張りに、主人公の母親は進出する許可をもらったのだ。
 特に何かわかりやすい和解の描写があったわけではない*9。それを一発で「あ、こいつら仲良くなったんだな」とビジュアルで嫌味なく了解させる。山尚マジック。
 状況説明・心情説明的なモノローグを徹底的に排した映画版だからこその演出だろう。ここまで徹底的されると逆に無声映画というか、アート映画の領域に達しているとおもわんでもないけど。


『聲の形』=『たまこラブストーリー』前日譚説

 こうしたゴッデス山尚のなみなみならぬ深謀遠慮によって「ちゃんと目を見て、話せる」コミュニケーション能力を手に入れた主人公の石田くん。彼とヒロインである梢子がどうなっていくかといえば、これはもう『たまこラブストーリー』ですね。まちがいない。
 原作『聲の形』で終盤に入ってたヒロインの東京行きのエピソードを映画では(主に尺の都合で)カットしました。(主に尺の都合だったんでしょうが)このカットにはある作為が見られます。入院騒動が起こったあとの東京行きといえば? そう、『たまこラブストーリー』です。
 『聲の形』で本来あったはずの「東京行き」エピソードを削るということは、つまり「私たちの『聲の形』は『たまこラブストーリー』へ続きますよ」という映画製作陣からのアツいメッセージだったのではないでしょうか。
 要するに、『聲の形』は『たまこラブストーリー』のプリクエルなのです。この二作は合わせて三時間半の前後編なのです。
 切れた糸は繋がって、輝く糸電話での会話が可能になった。
 完全なコミュニケーションの世界。超電導なコミュニケーションの世界。私達のハーモニー。
 ありがとう山尚、ありがとう吉田玲子。山尚をヤマショーって読むと、山風っぽくてステキですよね。
 えらいよねスタッフ。まともに『聲の形』映画化しようとしたら確実に大今良時の器に飲み込まれてしまっていたと思う。それを骨組みはそのままに、自分たちの映画にしてしまった。脚色とは、本来こういう仕事のことを指すのではないでしょうか。
 そのあたりとか、もっと話したいことは尽きません*10が、映画を観終わった興奮をそのままに妄想をつらねるのもなんなので、パンフやインタビューを読んでからにします。

*1:ラストで反復される。「音」と「光」、メイン二人を表象する領域

*2:この読みは間違っている。『聲の形 公式ガイドブック』のロングインタビューによると、「『いじめ』がテーマであるとシンプルに語られることに対して少し違和感がある」と大今は言う。「『人と人が互いに気持ちを伝えることの難しさ』」「コミュニケーションそのものを描いた話」だと。

*3:原作では主人公に好意を描いている設定になっているが、映画では明示的に描かれていないためわかりづらいかもしれない。こういうの、たまこマーケットとたまこラのときにもあったよなあ。もしかして、意識的に摘んでいるのかなあ

*4:これは漫画でも映画でも視覚的に字義通りに表現されている

*5:というかそもそも原作の時点でコミュニケーションを軽視していたかといえばそんなことはなくて、重要な主題のひとつとして組み込まれているとは思う。アプローチの違いなのかもしれない

*6:まあパンフのインタビュー読んだら思いっきり「観た人が許される映画にしたい」って言ってるんですけどね、監督。とはいえ、重要な要素ではない。「コミュニケーションが主題」と言った原作者のテーマをそのまま踏襲している。

*7:劇中でキャラたちが催す様々な感情が、まず彼ら自身の口で説明されることはない

*8:同じ言語を喋る人間同士にもこうした交換は起こりうる。「Aが発したあるセリフを、Bが別の場面でそのまま繰り返す」という方法だ。

*9:土下座はしていたけれど、あれはむしろ距離をとらせるタイプのものだろう

*10:特に石田くんのキャラ造形とか、水と落下の反復とか。