名馬であれば馬のうち

読書、映画、その他。


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「上」か「下」かで生き直す、映画『聲の形』

 『聲の形』の話をするのは二回目ですね。
 本編のあらすじは各種サイトで確認していただけると幸いです。

 以下、かなりヘビーな映画『聲の形』のネタバレを含みます。



 映画『聲の形』についてはつい先日、
 
proxia.hateblo.jp

 で書いたけど、しかしそもそも「原作は『贖罪』が基調で、映画は『コミュニケーション』がメイン」という立て方自体が間違っていた。もとからこの二つの要素は択一ではなくて、割合の問題だったんだけれども、公式インタビューを読んで大今が「主題はコミュニケーション」と言っていて、山尚が「どう許しあうことを書きたい」とそれぞれ言っていて、さすがに無視できない。*1
 見た感じでは「『コミュニケーションを描く』という共通了解のもと、脚色するにあたって山尚個人の「石田が周囲との関係をどう取り戻すか」*2という問題意識を橋渡しの材料として持ち込んだ、と見るのが正しいか。
 前の記事はあとからちょっと直したけど、結果的に大筋としては支離滅裂になってしまった。
 だから、やりなおします。


 感想というのは、極言すれば、すべて私的な復讐戦です。それは必ずしもイヌが出てきて哀れに死んだから悲しく思いました、などといった単純な機構をとらない。作品外の情報や条件が関わってくる場合もある。人にはその立場なりの視点があり、視点の数だけ復讐の火元がある。
 こちらとしては映画版の『聲の形』が私の皮膚にどういう形状の火傷痕を残したのか、その輪郭を知りたい。
 映画『聲の形』のだいたいは、上昇と落下(下降)、見上げと見下ろし、水と橋、声(音)と眼(光)で出来ている。他にも反復されるエレメントやアイテムは数限りないのだけれども、とりあえず今回は置いておこう。

小学生編――見上げる石田、見降ろす硝子


The Who - My Generation

 オープニングからザ・フーの『My Generation』が鳴って小学校編へと切り替わり、そこから西宮登場まではほぼカメラは水平に置かれる。後に何度も出てくる「川への飛び込み」も引いたカメラで横から捉えている。仲良し三人組(石田、島田、映画版では名前出ないけど広瀬)が並んで歩く姿も平面的に描かれる。

 文字通り世界が揺らぐのは、西宮硝子の転向当日だ。予告編にもあったシーンだが、石田が教卓の横に立つ硝子を初めて認識した瞬間、世界が少し傾ぐ。*3シャープペンの芯を必要もなくカチカチと出している様子から、小学生の石田が暇を持て余した落ち着きのない子どもであることが伺える。


 小学校編で目につくのは、石田と硝子の位置関係。関係性でいえば、抑圧者であるいじめる側が被抑圧者であるいじめられる側を見下げる画になるのが自然だと思う。しかし、印象的なシーンではいじめる側である石田がいじめられる側の硝子を見上げることが多い。

 さきほどの転入初日のシーンでも、はっきりと見上げているわけではないものの、机に頬杖をついた状態でふしめがちにシャーペンをカチカチ鳴らしている石田が、立って自己紹介をしている硝子をみやる。

 その後で、川井らが硝子とコンタクトをとっていると、教室の後方でプロレスごっこをしていた石田が机の上にギリギリ目が覗くぐらいの位置にひょっこり頭を出し、硝子を窃視する(この挙措は後に高校生編で長束と一緒に手話教室を訪問したときに再演される)。

 より明確になるのが校庭で「友達になろう」と手話で話しかけてきた硝子に対し、石田は「キモいんだよ」と砂をぶつけるところ。*4このときも石田はしゃがんでいて、直立する硝子を見上げる形になっている。

 数少ない石田が硝子を見下げる構図となる黒板のいたずら書きのシーンでも、途中まで石田が教壇に腰掛けていたのが、硝子が現れるや降りてまた同じくらいの視線の位置に戻る。*5

 石田が本格的に硝子をいじめ出すと、位置関係的にわりとフラットな構図が中心になる。しかし、石田を糾弾する学級裁判を経て、石田へのいじめがはじまった直後、机に書かれた落書きを消そうとしていた硝子の行動を誤解して彼が硝子をど突くも逆にやりかえされ、「わたしだって頑張ってるんだ!」とマウントをとられる。弱い、弱いぞ、石田。ここではもはや言い訳のきかないくらいに石田は硝子を見上げる存在であることが決定的となる。*6


 段階的に視点が下がっていって、最終的に尻もちをつくはめになる石田。

 これが小学校編のクライマックス、島田たちに(かつて石田が硝子のノートを投げ入れた)池へ突き飛ばされるシーンへと集約される。時系列的には硝子にマウントポジションを取られる前だが、石田が地べたに這いつくばって「落ちる」男であることを示す象徴的なシーンだ。

 同時にここはいじめられっ子として硝子と石田の立場と感覚がシンクロする場面でもある。しかし思い出してもらいたい。池に入った硝子はあくまで腰をかがめてノートを探すだけだったけれども、石田は完全に転倒していた。体験的には似ているようでいて、やはりここに至っても格差がある。*7彼がもはやどん底まで行ってしまった人間であることがこうした位置関係のゆるやかな変化からも示されているわけだ。


 再転校直前、石田が母親とともに西宮母娘に公園へ謝罪に行くシーンで、人工滝の裏に設置されたベンチで硝子はハトに餌をまいている。そこでようやく石田が硝子を見下ろす形になる。だがおそらくはそれが小学生時代の石田が硝子に会う最後の機会だ。

高校生編――見下ろす石田、見上げる硝子

 小学生時代の二重の意味で苦い経験から、高校生になった石田は社会との接点を切り*8うつむきがちなぼっちライフを送る。

 自然、視線も下方へ向く。クラスメイトである川井がグループ課題の相談にきても(立っている川井を座っている石田が見上げる主観視点だ)、顔を直視できない。彼は別の友人と会話する川井のセリフを心のなかで忖度し、ヴォイス・オーヴァーで自分が否定されていると思い込む。

 自分は生きるに値しない人間だと思い込む。というか死ぬべきだと。そのためにバイトをはじめ、かつて自分の母親が硝子をいじめた賠償として硝子の母に支払った慰謝料*9を母親へ返済するためにしゃかりきでバイトをやり、持ち物を売り払う。そうして溜めた大金を母親の枕許に置く。文字通り、「精算」だ*10。死ぬ前に、もうひとつの精算を済ますために、手話教室にいる硝子へ会いに行く。


 そこで彼は硝子と再会する。が、自己紹介もままならないうちに硝子は逃げ出し、階段を下る。このときカメラは駆け降りる硝子を石田の肩からナメている*11。その彼女を追いかけて、もう一度捕まえて、手話で「友達になれるかな」と話しかける。
 下方へ降った硝子を、石田が上から追いかけて捕まえる。これは小学校時代の位置関係と逆転している。なぜこの逆転は起こったのか。


 監督・山田尚子が映画化にあたってどこに軸を置いたか。インタビューからひいてみよう。

山田 何を削って何を残すかのバランスが難しくて、時間がかかってしまいました。でも、その中でも、最初に固めた芯はブレないように気をつけました。


──芯というのは?
山田 やっぱり将也ですね。将也がちゃんと生きていくための産声を上げられることです。


──小学生の時の行為をすごく後悔したまま止まっている将也が、自分を認めて、もう一度生まれ変わる?
山田 そう。将也さえ、ちゃんと生まれることができたら、周りの人のこともどんどん見えてくると思っていたので。それが一番コアなところでした。


映画「聲の形」監督に聞く「開けたくない扉を開けてしまった感じでした」 - エキレビ!(1/4)



 要するに、「石田の生まれ直し」が監督の考える映画『聲の形』の「コア」だ。

 生まれ直すには、一度死ななければならない。

 漫画『聲の形』は西宮硝子という中心を取り巻く人々の人生模様を描く群像劇的な側面が強かった。それを映画では「石田の物語」*12へ焦点を絞ったわけだ。単に原作をそのままやったら尺が足りなくなるという消極的な理由ではなく、削るにあたって物語のテーマ自体を再編するという合理性のもと、脚色がなされたわけだ。ここを見落とすと原作と映画を両方通過した観客は映画そのものを見誤る。


 ともかく、「生まれ直し」の面からもこの後の展開に描写レベルでも死がついてまわることになる。終盤で硝子を自殺から救うときに、単に救助するだけで代わりに仮死状態に陥ってしまうのも、「生まれ直し」のためだ。

 そうした観点で言えば、執拗に繰り返される上・下/上昇・下降の構図及び運動も、人間の生死と結びつく。つまり、「下」とはかくりよ、冥界のことだ。そこへ降った硝子を石田が追いかけるということは、イザナギイザナミの黄泉比良坂であり、オルフェウスの冥府くだりだったんだよ!ナンダッテーと短絡的に俗流神話解釈へ走りたくなる*13が、この映画はそう真正直な一対一対応の判じ物の形式をとらない。

 とりあえず高校生編では、「下=硝子の住む世界」、「上=一般の人々が生きている世界」と名指すに留めておこう。


 再会後、二人はある橋の上で小川の鯉に餌を与える。劇中で最も反復される意味深い場所である。「鯉にエサを橋から投げ落として『鯉に落ちる』ってかガハハ」というオヤジギャグがどこかから聞こえるが、無視しておこう。後に「床に落としたパンを鯉にやる」というシーンが出てきて「『鯉に落ちた』パンをやる」というより精度の高いダジャレが出てくるけれども、やはり目をそらしておこう。(((石田が恋愛感情を持っていることは劇中では描かれない。ベランダから落下する直前に「まだ気持ちを伝えていなかったな」と九割がたそれらしいことを言いかけるのだが。ちなみに原作者の大今良時は『聲の形 公式ガイドブック』のインタビューで「将也に恋愛感情は絡んでいない」と明言している。山田尚子がそのあたりどう考えていたのかは気になるところではある。))

 ストーリーのレベルでは、硝子もまだ恋に落ちているとは描写されない。


 石田は定期的に硝子と会う口実を欲していた。そのきっかけ探しに悩んでいる彼の足元に、どこからかパン屋のクーポンが舞いおちてくる。このクーポンを使えば、パンが手に入る。パンが手に入れば、鯉のエサとして使える。口実になる。そう考えた彼は腰をかがめて、クーポンを掴み取ろうとする。原作でもクーポンは出てくるが、石田が得るのは街頭で配布されているものだった。

 漫画ではわざわざ「下に落ちているものを拾う」シーンに書き換えたのだ。しかも、その拾おうとするとひらひらと風に乗って石田の手元からすり抜けていく。彼は数秒の奮闘ののち、苦労してクーポンをつかむ。


 硝子の妹である結絃に妨害されたのち、友人となったクラスメイトの永束が結弦の妨害を排除してくれてようやく硝子と再会する。*14

 ここで視点が石田から永束・結絃へと移り、この二人が手話教室の入っているビルのベランダから例の橋の上で話し合っている石田と硝子を見降ろすシーンになる。下の世界で通じ合っている二人に、上の世界にいる二人はまじれない。

 ただ結絃は姉の門番であり、その名前が示す通り姉と外部(主に石田)の関係性の糸を結える*15存在だ。彼女は趣味であるカメラのファインダーごしに二人の会話(手話)を覗き見し、それを永束や観客と共有する。*16

 結絃がカメラで見降ろすものといえば、動物のロードキル(路上の死体)だ。彼女は道端に転がる「死」を撮りまくって、家の壁に貼ることで、姉が抱いている希死念慮を打ち消せると信仰する。ここでも見降ろすものと死の世界の結びつきがちらつく。

 ともあれ、このシーンでは「下」の世界を共有する関係になった石田と硝子(とそこから切り端された外部としての「上」)が描かれるわけだ。


 そして二人は川に落ちる。落下というモチーフを見る上で、水は重要な要素だ。というのも、石田が落下する先には小学生のころから常に水がある。ここでも、川に落ちたノートを拾いにいった硝子を追いかけて、石田は川に飛び込む。鯉の住む川に落ちて、「恋に落ちる」ってかガハハ。

 ここで二人の何かが決定的になる。


 当初、結絃は石田を忌み嫌っていた。姉から遠ざけようとした。

 そのために「ネズミ」を陥れようとして、ノートを拾いに川に飛びこんだ石田の姿をネットで晒し、停学に追い込んだ。が、その奸計がバレて姉から叱られ、家出することになる。*17

 結絃はいったんは石田の家に保護されるものの、夜、雨の降りしきるなかを傘もささず裸足でまた出奔する。先述の「路上で頓死したカエルを見下ろしてカメラに捉える」シーンはここに挿入される。

 すぐに石田が追いかけてきて、靴を履かせ、持ってきた傘に彼女を入れてやろうとする。ここから「傘に入る/入らない」のプロセスがそのまま石田と結絃の距離感(結絃からみた)の変化として描写される。*18


 この傘と靴は原作にはないアイテムだ。原作では雨下を石田と結絃が飛び出すのは、家出した硝子を探すためなのであって、ふたりとも最初から傘をさしていないし、靴はちゃんと履いている。

 傘はまだわかるが、なぜ結絃が靴を忘れ、それを石田が履かせるというプロセスまで追加したのか。それはやはり、石田が「下」に気づきやすいからだろう。自分のお下がりの靴*19を履かせることで、結絃との距離感が若干ながら縮まる。

 それでも結絃は同じ傘に入ることを拒否しようとする。俺は姉のように安易におまえと同じ世界に入る気はしない、というか、そもそもおまえは姉の世界から出ていくべきだ、という態度だ。

 彼女は石田が小学校時代に硝子をいじめていたことを知悉していて、石田にたいして不信感を抱いている。しかし、石田が正直な気持ちを語ったことで、結絃は心を開き、同じ傘に入る。そして最終的に「一本しかない傘」は結絃に譲られる。石田は硝子とだけでなく、結絃とも地平を共有する関係を築いたわけだ(これが後の観覧車盗撮動画鑑賞会につながる)。ちなみに、この傘の構図はそのまま石田が昏睡状態に陥ったときの硝子の関係者行脚で、植野と硝子の間で反復される。


 硝子が司る「下」の世界にいきなり加入できた人物が、石田の他にもう一人存在する。

 小学生時代に硝子へ歩み寄って手話を習い、そのせいでクラスからハブられて不登校になった佐原だ。

 彼女もまた小学校卒業後は硝子や石田と疎遠になっていたが、硝子が小学校時代のクラスメイトでまっさきに会いたい友人として名前をあげ、川井の仲介で再会することとなる。*20

 原作では佐原とは電車内で再会するわけだが、ここでも映画は上下の構図にこだわる。佐原の通う学校の最寄り駅に降りた石田と硝子はいったんタラップに降りて、改札口へつながる降りエスカレータに乗る。その途中で、昇りエスカレータに乗っていた佐原とすれちがい、硝子に気づいた佐原がいったん昇りきったあと、慌てて降りエスカレータに乗り換えて「下」にいる二人のもとへ駆け寄る、という手順をとる。

 かくもたやすく「下」へ降りてこられる彼女は、もともと友人であった硝子とすぐに打ち解ける。

 佐原に関する上昇と下降の運動で印象的なのはもうひとつあって、遊園地でのジェットコースターで石田と相席になったときだ。彼女は「昔は怖くてジェットコースターに乗れなかったけど、考え方を変えてみた。怖いかどうかは乗ってから決める」と石田に語り、ジェットコースターのフォール時に両手をあげて全身で風を感じ、愉しむ。一方でこのときの石田はビビってうつむている。激しい上昇と下降を乗りこなす人物が佐原なのだ。彼女は、かつて自分をハブった植野という少女とも、デザイン学校に入ってからは良好な関係を築いている。*21


 その遊園地のくだり。もといじめっ子の植野、川井、川井の想い人である真柴、佐原、永束、結絃、硝子、石田の八人で集まって遊園地で遊ぶわけだが、そこで不倶戴天の二人である植野と硝子が観覧車に同乗するシーンがある。

 精確には遊園地で解散したあとに結絃が盗撮した観覧車内での映像を結絃と石田で観る。石田と硝子の再々会のときのように結絃はファインダーを介して姉と自分の知らない誰かとの会話を覗き見る。それを光景を彼女自身が他の誰かのために仲介する。

 硝子のくびにぶら下げたカメラのビデオ機能を利用した映像であるため、対面の植野の顔は映らず、終始彼女の半身だけが映る。これだけでも意味深だが、観覧車もジェットコースターほどの激しさを持たないにしても上昇と下降の乗物だ。その上、回転という属性もつく。輪転する運命の含意もあるだろう。

 そこで植野は小学校以来の敵意をあらいざらいぶちまける。おまえが嫌いであるとはっきり告げる。硝子もまた、自分のことが嫌いでたまらないと吐露する。そんな会話を見て、結絃は「どう思う?」と問いかける。石田は「俺は西宮には西宮のこと好きになってほしいよ」としか言えない。


 一見和気あいあいと過ごしたようでありつつも不穏なものを孕んで遊園地遊びは終わる。その不穏さが直後に爆発する。あることがきっかけで川井が真柴と永束(およびクラスメイト全員)に「石田がかつて硝子をいじめていた」事実を暴露し、それが延焼した末、八人グループのあいだで硝子へのいじめというトラウマをめぐる醜いいざこざが起こる。例の橋の上でだ。

 いざこざは、石田が植野、川井、永束、佐原、真柴を一人ずつdisって決裂するという幕切れに終着する。この連続disでずっと石田は一人うずくまって下を向いており、最後に真柴が話しかけてきたときだけ、顔をちょっとあげて「部外者のくせにでしゃばるな」と言う。

 その後、残った硝子を見上げ、「夏休みだし遊びに行こうか」と誘う。
 硝子を見上げる石田という位置関係は、小学校時代以来だ。そう、仲良し(になりかけた)グループが破綻してしまったことで、また石田は小学校時代の暗黒に戻ってしまった。


 そうした構図は、直後の美術館めぐりのシーンで強化される。

 美術館にはすり鉢状の場所が設置されていて、石田はそこで足をすべらせて転んでしまう。蟻地獄にはまったアリ状態の石田に対し、硝子は上から見上げて彼にある言葉をなげかける。「私がいると、みんなを不幸にしてしまう」。石田が見上げる硝子の顔は太陽の逆光を受けて、輪郭がぼけていく。死が予感されている。


 登場人物の心情に関して、映画では常に「おそらく」がつきまとうのだけれども、おそらく硝子は橋の上での瓦解とその後の石田の哀しい空元気を見て自殺を決意したのだろう。

 クライマックスとなる花火の夜の飛び降りの前に、西宮一家のおばあちゃんの葬儀が挟まる。

 この日、鯉にエサをやるためにいつもの橋の上へ石田が行くと、あるべきはずの硝子の姿が見当たらない。橋の上から硝子が消えるシーンはここだけだ。代わりに、川と橋の間にある人工滝の裏手(小学生時代に石田の母親が西宮母娘に謝罪に行くシーンで硝子がいた場所)*22に制服姿の結絃が立っている。それを石田は見下ろす形で視認する。

 結絃が川を見つめているところもそうなのだが、ここから徹底的に水のイメージが冥界と結びつく。葬儀場の館内には溜池のような水をたたえたオブジェがあり、そのオブジェを画面に手前に据えてその向こう側に佇む結絃、というショットがある。そこで結絃と硝子のあいだを蝶々が飛びまわるそのまんまといえばあまりにそのまんまな描写も出てくる。

 このあたりで一つ興味深い改変は、石田が結絃を葬儀場まで見送るところだ。

 原作の結絃は葬儀場の前まで来ると「ここまででいいよ」と石田から離れるのだが、映画ではいったん離れたあと、「やっぱ怖い」と石田に同行を求める。仲介者だった結絃が、仲介を求めるというのが切ない。


 そして、クライマックスとなる祭りのシーン。
 祭りを楽しみ、花火を二人して「見上げて」ひとしきり見物したあと、硝子は「勉強があるから」とはやめの辞去を同行の石田に申し出る。ここでも川べりに腰をおろした石田が硝子を「見上げる」イメージが継続されている。

 ここでも結絃が石田と硝子をつなぐ。石田は自宅にカメラを忘れた結絃に頼まれる形*23でいったん別れた硝子を追いかけるように西宮家へ行く。そこで、自殺しようとベランダのてすりに立つ硝子を目撃してしてしまう。

 空に咲く花火と川を眼下に縁に立つ自殺シーンは、冒頭での石田の自殺試しと完全な再現だ。

 飛び降りるギリギリで石田は硝子の腕をつかむ。この瞬間、梢子に対する石田の「見上げ」のイメージが再び反転し、また「下」へ落ちる梢子に追随する形となる。それは高校生編最初の再会の(彼が手話で「手を握って」いたことを思い出してもらいたい)、そして再々会でノートを取るために川へ飛び込んだシーンの再演でもある。さらにいえば、梢子が落ちたはずだった水辺に、石田が落ちるのは、小学生時代にノートが投げ入れられたシーンの反復だ。

 そう、反復という観点でいえば、それまで映画で石田と梢子の間で交わされてきたあらゆる動作(主に「手を握る」)と構図が一点に収斂するシークエンスである。このブログでは、『ズートピア』のときにも言ったと思うが、映画全編にまぶされた要素が最も集中する象徴的な場面をクライマックスと呼ぶ。しかし、本記事において反復は主題でない。別の機会に解説を回す。


 見るべきは、落下だ。石田は梢子を引きあげたのち、身代わりのようにして落下し、水面へ叩きつけられる。意識を手放しかけている彼を周囲を遠巻きに鯉が泳ぐ。母親の説得により取り下げた川への投身*24が、皮肉にもここで達成されてしまう。

 しかし、それは同時に英雄的な自己犠牲の行為でもある。*25彼はこれまで小学生時代に梢子につけた傷*26について謝罪もせず、過去と真正面から向き合わず、のらりくらりと「友達ごっこ」*27をつづけてきた卑怯な自分からここで脱する。そうしていったん仮死状態に陥ることで、山田尚子の言う「石田の生まれ直し」がはじまる。

『聲の形』と『光の形』

 この時点で位置関係の問題に関してはある種の解消を見る。石田の昏睡から橋の上での再会を通じて、二人の関係は完全に(この言い方が正しいかはわからないが)正常化される。

 終盤で重点がおかれるのは、音と光だ。冒頭で示される二つの英題(『The Shape of Voice』と『A Point of Light』)*28が提示しているようにこの二つは劇中を通じて同程度に重要な役割を果たしている。それをいちいち拾っていくと多分あと4万字費やしても足りないので、なんとなれば費やすべきなのだろうが、置いておくとして(これの一つ前の記事で断片的に説明している)、ここでは石田の「生まれ直し」に重要なものだけを拾おう。


 まず梢子の髪型に注目したい。彼女は初登場*29時から耳の隠れたボブカットで小学生時代を過ごし、高校生になってからはロングヘアーでほぼ通している。どちらも彼女のつけている補聴器を完全に隠す髪型だ。

 そんな彼女が劇中、三回、補聴器を晒したポニーテールになる。シンゴジでいえばビームを出す形態である。一回目は石田に告白するとき。二回目は夏祭り、三回目は石田が昏睡している最中に植田を始めとした関係者を行脚するとき。

 彼女にとって耳を露出することがどういうことなのかといえば、主に「自分の耳で聞きたい」「自分の声で伝えたい」ときなのだ。*30

 自分の「言語」である手話での対話を峻拒してまで、石田の「言語」である声で好意を伝えようとする。*31それが一回目のポニーテールなのだが、彼女は伝達に失敗する。石田は梢子の「言語」で喋っても過不足なく伝わるのに、梢子が石田の「言語」を用いたらコミュニケーションの齟齬をきたすという二人の関係の非対称性が浮き彫りとなる。あるいは、梢子の声が届かず、光=視覚のおぼつかない石田が月を錯覚する、という石田の不全を表しているのか。


 ともかくも、この失敗により梢子の髪型はふたたび長髪に戻る。

 二度目は夏祭り。ここの梢子は特に声にこだわらない。花火の振動を全身で感じるための形態であると捉えるべきか。既に自殺を『Undertale』のジェノサイドルートなみに固く決意した梢子はほぼ一切声を出そうとしない。石田との別れ際に、ここまで劇中で繰り返されてきた「またね」の手話を返さず、「ありがとう」という意味の手話を返す。

 声を聴き、喋るためのポニーテール・フォームだからこそ、彼女の決意の悲劇性が際立っているのがこの二回目のポニーテールだ。


 三回目は、精確には二回目からの継続であるが、石田が昏睡状態に陥ったときに「石田くんが築いてきたものを壊してしまったこと」を謝りたいと、石田と決裂していた川井、植野、真柴、佐原らのもとへ面会に行くくだり。*32

 特に重要なのが佐原。彼女は梢子と話しながら「私は変われない」と弱音を吐きそうになる。が、こことで梢子は佐原の手話の手を握って止めて、自分の「声」で「そんなことはない」は伝える。

 相手は違うものの、今度は、梢子の「声」が通じる。

 彼女の「the shape of voice」はここで確定され、覚醒した石田との橋の上での再会に繋がった。

 西宮硝子個人の物語は映画が終わるまえに完結したと言ってもいい。


 が、何度も言ってきたように、映画『聲の形』は石田の生まれ直しの映画だ。

 彼は高校生編の冒頭で示されるように人の顔を直視できないし、周囲の雑音から耳を塞いでいる。『the shape of voice』と『a point of light』がどちらも完成していない状態なのだ。


 ビジュアル的意味での生まれ直しは覚醒後の橋の上での硝子との再会でいちおう成立するし、退院直後にも彼の母親は「将ちゃんはね、死んで生き返ったのよ」と言われる。だが、彼が硝子に「生きるのを手伝ってほしい」と言うように、真に解決されるべき問題はまだ解決されていない。
 
 本記事の最初に述べた通り、山田尚子は雑誌『NEWTYPE』2016年10月号のインタビューで「将也が犯してしまった最大の罪は周りを見なくなってしまったこと」だと言う。


 だからこその学園祭エンドなのだ。硝子の命を助けて復活してみたところで(彼自身が言うように)性根が変わったわけではない。彼は相変わらずクラスメイトとまともに視線を合わせられない。

 だが、そんな彼を硝子は先導してくれる。硝子だけではない。永束も助けてくれる。そうして、人の溢れる校庭に出たとき、石田はそれまで精神的に閉じてきた耳を澄ます。周囲の音を拾う。今までせき止めていた音の奔流に、石田は身を委ねる。

 そして見る。劇的な引きのロングショット。劇的にエモーショナルな音楽。

 映画に登場してきた主要キャラクターたちが彼と地続きの地平に立っていることが、連続したカットで示される。そのキャラクターたちと周囲の人々もまた同じ高さに立っているのだ。

 光と音を手に入れる。ここで石田は本当に世界とつながる。ここで本当に生まれる。

 彼が号泣するのは、そのためだ。

 人間は誰しも、産声をあげるときに泣くのだから。*33

後記

 とまあ、主に今回は落下(見下ろし)と上昇(見上げ)、あとちょっとだけ光と声とについて触れました。構図や要素の反復*34についてはまだ拾えてない部分が多いので、たぶんまた機会があれば。ないだろうけど。


小説 映画 聲の形(上) (KCデラックス ラノベ文庫)

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追記・9/27

・勘違いしてた箇所(「周囲の雑音が終盤まで聞こえてなかった」と「終盤で夢を観ていたのは誰だったのか」)を削除。

*1:そもそも「映画にテーマが存在するという前提でそれを読み解くふうに振る舞うのはいかがなものか」という立場もあるが、しょうがねえじゃん、『聲の形』の場合は作った人らが「ある」っつってんだもの

*2:NEWTYPE』2016年10月号

*3:顎を手でついていることの表現でもある

*4:映画オリジナルのシーン

*5:このへん記憶が曖昧なので後で直すかも

*6:あと階段を降りてくる植野と川井をちらりと石田が見やるカットがある。このカットに硝子は映っていないが、まだいじめられる前なので、また前後のシーンの流れ的にも二人のあとにくっついてた可能性が高い。

*7:小学生時代の石田が唯一他人から見上げられる場面がある。池に押し倒されて帰宅し、階段で自分の部屋へあがろうとすると母親から呼び止められるシーンだ。

*8:これ文字通り「糸が切れる」ことで表される

*9:原作では石田が破壊した補聴器の賠償だが、映画でそこ明示するシーンなくなかった?

*10:原作では自殺を試みるシーン自体は描かれていない。映画の初めに映る橋の上に立つシーンはそこで自殺を試みようとしたとも受け取れるが、カレンダーの件を鑑みるに、おそらくはちょっとしたシミュレーションのつもりだったのだろう

*11:原作では階段を駆け降りる硝子を正面から描いている

*12:前の記事で僕は「メイン二人の物語」と言ったと思うけれど、実のところ硝子すらレンズの後景なのかもしれない。

*13:山田尚子と吉田玲子のコンビの映画には意識的に神話的なモチーフ(というより映画が好んで使う神話学というべきか。本作に出てくる水と橋もそうだ)が使われているおぼしき箇所が多々見られるが、それを証明するエビデンスを僕は持たない。友人が「どっかで山尚がそういうこと言っているのを見たような」と言っていたので、探せば見つかるのかもしれないが

*14:永束が結弦に食いかかって騒ぎを起こし、それを石田が止めようとするのだが、この時の石田と硝子の視線が会う構図は先述したとおり、小学校時代のあるジーンの再演だ

*15:小学校編から高校生編へ切り替わった直後に挿入されたモノローグの場面を思い出して欲しい。そこで石田と社会の関係が切れるメタファーとして「糸が切れる」様子が描かれている

*16:ここで永束が「落ちるなよ、少年」と結絃に声をかけるところが印象的だ

*17:映画において結絃の家出理由はかなり読み取りにくい。家出にいたる経緯はほぼすっとばされ、結絃の回想としてちらっと激怒する硝子の姿がフラッシュバックされるだけである。僕もある原作未読者と本作を観に行ったさい、家出の理由がわかったかどうかを問いただしてみたけれど、やはり「わからなかった」と言っていた。

*18:どうでもいいが、靴、傘、雨による相互理解を描くアニメ映画といえば新海誠の『言の葉の庭』を想起する。ただ、映画的なアイテム使いと身振りの力学により石田と結絃の和解を謳い上げた本作に比べて、『言の葉の庭』は逆に「ひとつ屋根の下でくっちゃべっただけで互いに分かり合えると思ってたら大間違いだ!」という皮肉を言葉によって告発する。要するに、山尚は映画的なエモーションが映画内の真理を規定すると信じるいわば表現主義的映画原理主義者なのであって、新海誠はそうではない、という作家性の違いなのだろう

*19:なぜ家にあったはずの結絃が履いてきた靴をもってこなかったのかは知らない

*20:石田が川井に佐原の連絡先を聞いたわけだが、このとき石田が最初みたいに川井を見上げる体勢ではなく、立ち上がって川井のほうへ近づいて対等な目線から話しかけている。

*21:原作ではデザイン学校に入って互いの才能をリスペクトする関係になったからであるが、映画ではそのへん一切説明されない

*22:実は橋の映るシーンでは常に背景で注いでいる

*23:考えてみれば、家出時に靴を忘れてもカメラだけは手放さなかった結絃がカメラを放置するというのは不思議だ

*24:言い忘れていたが、映画冒頭の投身自殺のイメージも映画オリジナルだ

*25:「(ヒロイズムの)倫理的な目的は、民衆を救うこと、またはだれかの命を救うこと、またはある思想を支えることです。英雄はなにかのために自分を犠牲にする――これがその倫理性です」 ジョーゼフ・キャンベル『神話の力』(ハヤカワ文庫NF)、no.3338

*26:物理的な傷跡であるが、精神的なものでもある

*27:原作での物言い

*28:「A Shape of Light」はサントラのタイトルでもある

*29:小学生時代編の転入初日、といいたいところだが、実はその前に石田の母親の美容室に髪を切りに来店している姿がちらっと映っている

*30:これは原作から受け継がれている演出だ。それは映画版でも受け継がれていて、山田尚子は『NEWTYPE』のインタビューでも「将也に対しての覚悟と、手話を使わずに喋る覚悟。」と言い表している。ちなみに、ポニーテールのときの常に靴下が白で、スタッフのあいだでは『覚悟の白』と呼ばれていたらしい。

*31:再開時に石田が手話で梢子に話しかけていた、という前段階がある。交換である。

*32:原作での代償行為は「映画のつづきを作る」ことであるため、この謝罪行脚のシーンはない。

*33:このセンテンス書いたときにふと新生児って生まれてすぐ涙流すのか? と疑問に思って調べてみたけれど、涙は流したり流さなかったりするっぽい。

*34:アイテム単位で言えば、握る手、傘、空中に浮かぶ乗物、ノート、花火、クマの人形がささった棒、「またね」の手話、橋、川、水、花、他