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名馬であれば馬のうち

読書、映画、その他。


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今週のトップ5

1.ジェームズ・ポンソルト監督『人生はローリングストーン


DVD『人生はローリングストーン』1月27日発売!


 アメリカにデイヴィッド・フォスター・ウォレスという小説家がいた。一九六二年生まれだから、町田康チャック・パラニュークなどと同い年で、パラニュークに至っては月日(二月二十一日)まで一緒だ。
 一九九六年出版のディストピア大作『Infinite Jest』*1で一躍名声を博し、ピンチョンなどの流れを汲む米ポストモダン文学の寵児として文壇に迎えられた男である。彼はその後もノンフィクションや短編を中心にコンスタントに作品を発表をしつづけ、十数年ぶりとなる長編『The Pale King』を準備している最中の二〇〇八年に唐突な自死を遂げた。その三年後、『The Pale King』は未完ながら出版され、翌二〇一二年のピューリッツァー賞の最終候補にノミネートされた*2
 日本人好きする劇的な人生を送ったわりに本邦じゃマイナー以下の存在で、せいぜい初期作が数冊訳された程度。おそらくはピンチョン並に重厚かつ難解なのに、ピンチョンほどいろんな面でペイしないせいだろう。それでも英語圏では今でもリスペクトされている。彼の死に際して弔辞を寄せた面々を眺めると、その偉大さと文学的重要性を察せるかもしれない。: ドン・デリーロ、ゼイディー・スミス、ジョージ・サウンダース、そしてジョナサン・フランゼン……
 
 映画は二〇〇八年、作家のデイヴィッド・リプスキー(ジェシー・アイゼンバーグ)のもとに「ウォレス(ジェイソン・シーゲル)が自殺した」という電話がかかっているところから始まる。リプスキーは、一九九六年に『Infinite Jest』の出版ツアー*3で『ローリング・ストーン』誌の記者としてウォレスに五日間ほど密着取材を行った経験があった。リプスキーはその時の奇妙な、しかし得難い体験をつらつら思い出す……と書くと「なぜウォレスは自殺したのか?」というホワイダニット的な謎解き話に傾くのかな、と最初は疑われるかもしれない。しかし、本作はそれはあくまで刺し身のつま程度の扱いというか、言ってしまえば観終わったところで稀代の文人の自殺理由など判明しない。そこではない、この映画はそこではないのだ。 
 では、本作の主眼といいますか楽しみどころは、といいますと、「才能はあるけど、自意識過剰でめんどくさい文学青年」と「才能はあんまりないけど、やっぱり自意識過剰でめんどくさい文学青年」、彼ら二人のめんどくさい自意識のぶつかり合いと交流にある。
 
 インタビュアーとインタビュイー、傍目から見たら彼らの関係はそれだけでしかない。しかし重要なのはインダビューする側であるリプスキーもまた数年前に小説を発表した駆け出しの小説家であることで、当初はなんでもないように振る舞ってはいたものの、四つほど年上の成り上がり者に対して常に嫉妬と尊敬が入り混じっている。そう。リプスキーの感情に尊敬が含まれている、というのが事をやっかいにしていて、彼はウォレスの大ファンで、『Infinite Jest』を不世出の大傑作だと思っている。
 だから、「こんな偉大な作品を書けるやつは何か人として偉大な部分があるに違いない」と考えてしまう。
 ところが、実際に会ってみるとウォレスは孤独で偏屈な田舎者だ。友達といえば大学時代の知人以外には一緒に暮らす犬くらい*4。かかってくる電話にいらついて電話線を切り、しかし人並みに虚栄心はあり、女好きで、なぜか部屋には九十年代のアイドル・ロック歌手アラニス・モリセットのポスターが貼ってある。「なぜアラニス?」とリプスキーが尋ねると、「うーん、影響を受けたからかな」と言う。
「アラニスが好きなの?」
「うん、一番好きな歌手だ。テレビの向こうの人間って日常があんまり想像できないでしょ。うんこしてるとことか、飯食ってるとことか。でもアラニスに関してだけではそういうとこも一挙手一投足想像できるんだ」
 フツーにアイドルファンみたいなことを言う。
「『ローリング・ストーン』に記事に『ウォレスがアラニスに会いたいって言ってる』って書けば、会談をセッティングしてもらえるかもよ?」
「マジで!!!?? やろうやろう」
 うーん、俗っぽい。
 
 極めつけはテレビ中毒。ウォレスの家にはテレビが置いていないのだが、それは「テレビがあると何もなくても無際限に観ちゃうから」。
 そして、彼は実際にツアー先でどうでもいい三文ドラマばかりを視聴しまくる。カウチにねそべって、知人に「この俳優、大学時代の知り合いでねえ」などと話す姿はどうしようもなくおっさん丸出しだ。連れ立って映画に行こうとするとチョイスはジョン・ウー監督のアクション大作『ブロークン・アロー』。観終わった後に女性陣が口々に内容を dis るのだけれど、ウォレスだけは「いや、トラボルタは世界を救ったんだよ!」と徹底的に擁護する。とても九十年代以降で最も重要な作家の一人に数えられる人物とは思えない親しみやすいボンクラっぷりだ。
 そして、器も小さい。
 リプスキーの彼女がウォレスの作品のファンだと知るや、リプスキーにかかってきた電話をなかば横取りして三十分も話し続ける。リプスキーは当然イラつくが、ウォレスに対しては文句を言わない。ところが、リプスキーの方がウォレスの元カノと話すと、「おれに隠れてメアド交換しやがっただろ! もう彼女に話しかけるな!」とぶちキレてしまう。
 

 変人といえば変人だけれど、ウィリアム・バロウズほどに振りきれたクレイジーさもなく、ブコウスキーほどのすがすがしさもなく、どちらかといえばセコい欲望と見栄に忠実なアメリカの小市民だ。
 こんな人間があの『Infinite Jest』を書いたのか? あの1000ページ超えの大作を? あのディストピアポストモダン文学の最高峰を?  
 リプスキーはそんなはずはないと考え、はぐらかれされつづけたインタビューで溜め込んだフラストレーションとともに「おまえ俺のことバカにしてんだろ!」とウォレスに思いのたけをぶつける。曰く、ウォレスは自分より年下で頭の悪い(で、もちろん売れない小説家でもある)リプスキーのことを低く見ていて、わざと凡人のように韜晦しているのだ、と。
 対してウォレスは「いや、僕は平凡な人間だよ。他の人とあまり変わらない」と反駁する。
 リプスキーは認めない。「平凡な人間は1079ページの偉大な文学作品を生み出せなどしない! おまえはどこか他人と違ってるはずだ! それを教えろよ!」と叫ぶ。*5
 商業的にも批評的にも認められていない「平凡な作家」であったリプスキー*6のはがゆさが伝わってくる名シークエンスだ。
 かたや、ウォレスも寂しさや不安を抱えている。彼には翳が多い。薬物中毒の噂やデビュー直後の鬱病などを聞こうとすると、露骨にいらだちを見せる。リプスキーと親しく接しながらも、折々で「でもお前はビジネスでついてきているんだろ?」と確認し、距離を保つ。出版ツアーの終わりごろ、彼は孤独を吐露する。「ツアーの最中は毎日のように人に会えたが、それで友達が増えたわけじゃない。家に帰るとまた知り合いは二十人と犬二匹だけに戻る」。
 売れないころは成功しさえすれば自分の書くものに自信を与えてくれるものと信じていたが、売れて賛辞や好評がやまほど送られてくるようになっても、その不安が打ち消せない。雪に閉ざされた一軒家、くすんだ居間、クリップボードに留められた家族写真、トイレの壁に貼られた聖書の言葉、冷蔵庫に貼られたジョークの書かれたネタ記事、本の山……ウォレスの住居は言葉やイメージに埋めつくされて、しかし外とはつながれない。十二年後、彼は自ら死を選ぶ。
 アメリカン・ドリームが本質的に救える人間は、実のところ限られているのだ、とこの映画は教えてくれる。成功を手に入れられない人間も不幸なら、成功を手にした人間も不幸だ。それでも、とこの映画は言う。
 人と人とが交わることで希望めいた何かが生まれることもある。それが結果として幻だったとしては、その瞬間瞬間にはおそらく嘘はない。ジェームズ・ポンソルト監督が手持ちカメラの狭いフレームにおさめる二人の姿はうじうじしていて、惨めったらしいけれど、どこかほんのり暖かい。ロード・ムービー特有の「失われていく青春の一場面」感がよく捉えられている。
 めんどくさいすべての人類が観るべき作品だと思う。


 ジェームズ・ポンソルトは日本で前々作にあたる『スマッシュド』もDVDで出ている。こちらはアル中の小学校教師が自分がついた些細な嘘と夫婦関係に翻弄されまくる話で、『人生はローリングストーン』とおなじく全編通じて特に大きな事件が起きるわけではないんだけれど、地味に嫌で人間臭い人々の挙作や機微を非常に明敏に切り取っている。
 次作はエマ・ワトソントム・ハンクスといったスターを迎えてデイヴ・エガーズ『ザ・サークル』の映画版を撮るそうで、実に良くマッチした人選ですね。
 

人生はローリングストーン (字幕版)

人生はローリングストーン (字幕版)

 

2. 菱田正和『KING OF PRISM BY PRETTYRHYTHM』


劇場版「KING OF PRISM by PrettyRhythm」トレーラー(本編ver.)

 なにしろ映画として異形である。
 アニメ映画とは通常の商業映画とは異なる文脈で発展してきた文化であり、往々にしてアヴァンギャルドで破格な作品に仕上がることも多い。今公開されているアニメ映画なら『傷物語』や『ガールズ・アンド・パンツァー』もそのひそみのうちだろうか。
 だが、キンプリはその文脈すら超越している。
 破壊でも逸脱でもない。
 超越している。
 「観客の感情を物理的に殴り続ける」とはななめちゃんさんの言葉だが、我々に残された最後の抵抗手段はただその意見を張り子の虎のごとく肯いつづけるだけである。
 
 まず、主人公らしいけれど主人公のオーラがまったくない青い髪(純潔の象徴)のパンピー男子が OVER THE RAINBOW(以下OTR)なる三人組のアイドルグループのコンサート会場に現れる。OTRはハートを物理的に振りまいている以外に一見なんの変哲もないアイドルグループで、土曜朝の少女向けアニメにありがちなしょっぱい3Dモデリングでせこせこカクカク奇妙な踊りを踊っている。観客は知りも知覚もしないだろうが、この踊りにはおそらくポケモンで言うところの「どくどく」みたいな効果があり、一ターンごとにHPが倍々で減っていく。しかし、今のところそれはどうでもいい。
 主人公はおもむろにペンダントめいたものを取り出し、スイッチ的な何かを押す。
 その瞬間に世界が変わる。現実が侵食される。
 文字通り、改変される。
 ここからの記憶は定かで無い。
 まず三人が空を飛んだような気がする。デイヴィッド・ボウイ以後、いまどきのアイドルは空くらい飛べて当然で、これ自体はなにも驚くに値しない。しかし、彼らのうちの一人にカメラが寄ると、キリストの十字架刑のイメージのように両手を広げ、そして四方八方に分身する。なんだこれは……と浮き足立っているところに、鳥山明が書きそうな髪型の色黒やんちゃキャラっぽい少年が竜に乗って現れる。その竜がカテゴリエラーを起こしている。あきらかに『遊戯王』の世界にでも生息してしかるべき赤い、ごつごつしたテクスチャの竜で、まず女性向けアイドルアニメに出てきていいような面構えではない。とっさに、女性向けアイドルアニメに出てきてしかるべき竜とはどのような竜なのか、という疑問が浮かぶがそれに飛びついては駄目である。罠だ。正解は「ここには竜がいるのだ」という現実を受け入れることだ。竜は火を噴いたような気がする。少年は必殺技名を叫んだような気がする。そういう頼りないおぼろげな記憶も、普段なら「そんなもん、あるわけないでしょう」と脳のデフラグが速やかに否定してくれるはずだが、キンプリに限ってはあり得るからタチが悪い。
 そう、そこは「何でもあり得る」空間なのだ。キンプリとは何でもあり得る映画なのだ。
 なんでもあり得る映画とは、いかにおそろしい映画であることか。
 それはすなわち、あらゆる映画のシーンが、あらゆる映像的記憶がそこでは可能だということだ。
 たとえば、『オデッセイ』は『インターステラー』や『スター・ウォーズ』ではない。何を言っているんだと思われそうだが、この当たり前を事実を確認することが大事だ。これらには我々の考える以上に厳格な線引がなされている。火星をさまようマット・デイモンはそこでマシュー・マコノヒーと出会ったりなどしないし、カイロ・レンくんとライトセーバーを交えたりなどしない。絶対にしない。なぜなら各作品ごとに世界観やリアリティのレベルが異なるからだ。『インターステラー』は異常気象により人類が存続の危機にさらされた未来の話で、『オデッセイ』は現代にそれなりに近い未来の話で、『スターウォーズ』はほとんどファンタジーだ。ファンタジーは何でも許されてそうな気がするが、しかしスタートルーパーたちは火星でじゃがいもを科学的ロジックに基づいて地道に育てたりしない。設定レベルでしていたとしても、画面にはそれを映さない。それが映画のルールというものだ。
 キンプリにはそのルールがない。型がないせいで、型なし、という話でもない。型はある。アイドルアニメという型は厳然と存在する。しかしそれを絶妙なタイミングで、絶妙な箇所で外してくる。
 途中である人物がこう叫ぶ。
「まさか……自爆する気か!?」
 女性向けでも男性向けでも女児向けでもいい。誰がアイドルアニメを観に行って「自爆」という単語を予測できるだろうか。我々は映画を見に行く時に各々で見えない辞書をたずさえていく。その辞書にはその映画の見た目、あらすじ、ジャンルなどから期待しうる語彙が並べられており、その期待が外れることなどまずありえない。俳優の喋る未知の台詞は、実は一言一句「想定内」なのだ。辞書はあいまいに広くとれるように作られていて、製作者側が想定外のワードを繰り出すのは難しい。『オリエント急行殺人事件』でロシア語の話が出てきても、『アントマン』で量子力学の話になっても、我々は当然の有様として受け取る。そして当然『白鯨との闘い』では白鯨との闘いが語られるのだ。
 だが、アイドルアニメで「自爆」とは。
 言葉によって我々の意識の盲点をついてくるのは、キンプリにおけるアナログハックの一手段にすぎない。
 彼らはもちろん視覚によっても、音によっても、映画という概念を崩しにかかる。

 キンプリはまた「感動」の常識を覆す。
 通常、ある作品において観客が味わえる総体的な感動は一回だけだ。いわゆるファースト・インプレッションの衝撃というやつである。
 初めて鑑賞した作品で、「こんなの観たの初めて!」というフレッシュな感動を味わう。あたりまえの話である。
 しかし、キンプリは初めて鑑賞した作品で味わった初体験の感動を、同一作品内で『思い出させて』くれる。四十分前に初めて味わい、しかし四十分後に忘れていないはずなのに忘れてしまった初心をもう一度呼び起こしてくれるのだ。何を言ってるかよくわからないと思うけれども、観ている間もよくわからなかった。だがたしかに感じた。私はあのとき、忘れてしまったピュアな感動をもう一度味わうことができたのだ。
 
 これはもはや映画なのかわからない。アニメなのかすら疑われる。ジョルジュ・メリエス以来のこれまでのどの映像・動画とも似ていない。どう定義すればいいのだろう? 我々の語彙に存在しない異物を、なんと言い表わせばよいのだろう。
 いや、実は観さえしたならすでに知っているのだ。激動の六十分を乗り切って、観客の半数が立ち上がることもすらできない七番スクリーン前、我々は知らず、呆然と、その言葉をつぶやく。
「これがプリズムショーか……」
 

 

3. 水島努『劇場版ガールズ・アンド・パンツァー』


ガールズ&パンツァー 劇場本予告

 ニッポンのセックス、って感じ。
 キンプリもそうなのだけど、ガルパンも「作り手と受け手がほしいと思ったシーン以外は全オミット」的な作り方で、してみるとウンベルト・エーコが提唱したポルノの定義はもはや賞味期限切れなのかもしれない。
 それにしても公開から三ヶ月近く経っているのにまだ日三回上映してるなんて……。

 

4. ロバート・ゼメキス『ザ・ウォーク』


映画『ザ・ウォーク』予告1 2016年1月23日(土)公開

 私にまだ心というものがなかった時代に読んだ円谷英二の伝記漫画によれば、円谷英二は『キング・コング』の上映から出てきた観客がパンフレットをくしゃくしゃに握りしめているのを見て、「こういうふうにさせる映画を作らなければダメだ」と決意したらしい。で、その後『ゴジラ』の観客も同様の反応を示したのを見て、彼は溜飲を下げたとかなんとか。
 「圧倒的な体験」の作用として人間の無意識下の行動や生理へダイレクトに働きかけてくる映画というのはある。キンプリの話ではない。
 3Dだとか IMAX だとか 4DX だとかはそういう圧倒的な体験としての映画の効果を最大限にアンプリファイしようという涙ぐましい努力が産んだ装置で、ところがこれまで十全にその賜り物を活かしきった映画はあんまりなかった。
 『ザ・ウォーク』もスクリーンの表層だけなぞればそういう映画のひとつみたいに思える。題材からして落ちる落ちないの系ドキドキハラハラサスペンスアクションかとおもいきや、途中から主人公が人間を超越して綱渡りの神みたいになってしまって、「こいつはおちねーだろ」というモードに入ってしまう。ウリだったはずの「地上411mからの眺め」も IMAX ですらなんだか物足りない気がする。それもそうで、我々は「実際」に東京タワーやエッフェル塔からの眺めをその眼でその手でその脚で直に味わってしまっている。ジョゼフ・ゴードン=レヴィットが命をかけたつなわたりを行っているあいだ、観ているこちらの肌は風ひとつ感知せず、眼は前の席に座った客の頭を捉え、「これは映画だ」と絶望めいた安心感を得ている。興奮などしようがないではないか?
 なのに、なぜだろう。
 途中から手のひらが湿っているのを感じた。そもそも自分が指を曲げて拳を握っていたことにそれまで気づかなかった。手汗だ。普段まったく手汗なんて、ましてや映画を観ている最中にはまず何も分泌しないはずの自分のアポクリン腺が、静かにかつしたたかに、「これはヤバい」と囁いていた。いつもなら脳が担当するはずの裁定を、この作品に限っては手の平が行ったわけだ。
 もしかしたら、それは初めて味わった「圧倒的な体験」だったのかもしれない。

5. スコット・クーパー『ブラック・スキャンダル』


映画『ブラック・スキャンダル』特別映像

 スコット・クーパーという人はなんだかよくわからない映画監督で、あらすじと俳優とルックスから期待される「えげつないノワール」を脱臼させて後味が良いようなそうでないような、面白いようなつまらないような映画を作る。
 前作の『ファーナス』もそういう感じで、個人的には大好きだったんだけど、世間的には「重いし長い」、六十点くらいの評価だった。今後もそういう見た目は重厚長大なんだけど終わってみればなんか微妙……な失敗したアンドリュー・ドミニクみたいな(ドミニクが成功しているかはさておき)作品を作り続けていくんだろうし、そうあってほしいとホント思う。

 一方で『ブラック・スキャンダル』は映画の題材として複雑すぎた面もある。この映画はサウスボストンをシめていたギャングが情報屋としてFBIとつながっていて、FBIは見返りに人殺しや強盗を見逃していたという実話を元にしている。だけれど、同じ題材を扱ったドキュメンタリー『ホワイティ容疑者を捕まえろ』(ネットフリックスで観られる)を見るにつけ、実際はこんなシンプルな図式ではなかったようだ。事件を担当した弁護士らの調査によると、ギャングがFBIに提供したとされる情報は実はFBI側で捏造されたもの(他のチクり屋の情報のコピペ)で、実はギャングは情報提供者ではなかったというのだ。すると、FBIはなんの見返りもなしにギャングを野放しにしていたことになる。そんなことをして、FBIに何の利益があるんだろう? もちろん、FBI自身がそんなこと認めるわけもなく「ギャングは実際に情報提供者だった」「報告書が混乱するのはよくあること」と言い訳している。真相は藪の中。
 『ブラック・スキャンダル』のほうでは不可解な「捏造」にある一定程度の理由付けを行っている。ギャングと(同じアイルランド系として)幼なじみであるFBI捜査官の憧れまじりの友情だ。
 その捜査官は劇中「世の中には法律なんかより大事なことがある。地縁や血縁に基づいた『仲間』だ」と述べる。
 ちょうど今公開されているスピルバーグの『ブリッジ・オブ・スパイ』ではトム・ハンクス演じる弁護士がアメリカの国家精神の基盤として「君はドイツ系、僕はユダヤ系。異なる出自を持つ民族を同じ『アメリカ国民』たらしめているのは法なんだよ」と唱えたのと対になっているように思える。どっちかが、というより、どっちもアメリカなんだろう。


6. パトリシア・ハイスミス『キャロル』(河出文庫

キャロル (河出文庫)

キャロル (河出文庫)

 50年代の百合小説。なんでこんな平坦で退屈なラブロマンスをここまでエモく細やかに書けるのか。プロット単位でもラストの構図のリプライズが卓抜している。






 

*1:タイトルは『ハムレット』でハムレットが旧知の道化師ヨリックの頭蓋骨を手に彼の末路を憐れむ台詞からの引用。「際限なく冗談を言う男」(河合訳)、「のべつ幕なしにとんでもない洒落や冗談を言うやつ」(松岡訳)

*2:ちなみに他の候補二作はデニス・ジョンソン『Train Dreams』とカレン・ラッセルの『スワンプディラ!』

*3:アメリカでは作家も歌手みたいに何か出すと「ドサ回り」して、朗読会や講演会を開いたりする

*4:これに関してはラストにちょっとしたサプライズがあるけれど

*5:微妙に記憶違いあるかもしれない

*6:過去形にしているのは、いまや彼もベストセラー作家であるから