名馬であれば馬のうち

読書、映画、その他。


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昇り龍はかわいい九井の諒子――九井諒子『ダンジョン飯』二巻

注意

 本記事は九井諒子ダンジョン飯』二巻の一部ネタバレを含みます。


ダンジョン飯』以前の九井諒子認識。

 九井諒子は自分の長所と弱点を的確に認識、一作ごとに前者を伸ばし後者を修正していく成長性Sクラスな未完の大器です。十代でデビューした将来性抜群の少年漫画家を見守るようなドキドキでピュアな期待感をいつも読者にふりまいてくれます。



 九井の弱点は長所と表裏一体です。その作風はおおまかに「ファンタジー(多くの場合は既成の概念として、読者もなんとなく共有している)の世界を現実よりのリアリティライン、人物造形で描く」ことにキモがあると要約されるでしょう。
 九井はマクロ的な世界観を構築し、その内部に現実と共通した情緒を託すことに類まれな才能を発揮します。しかし一方で「読者もなんとなく共有している世界観」へよっかかりすぎるあまり、ときおりリアルに寄り過ぎた不用意な発言をキャラにはかせてしまいます。
 たとえば第一短篇集『竜の学校は山の上』収録の「現代神話」。ホモ・サピエンスの男性とケンタウルスの女性との結婚生活を描いた本短編ですが、番外的な四コマに奥さんが下着ドロに遭う話があります。
 その四コマでは夫が「こんなデカイパンツ(胴体は馬なのでとてもワイド)盗んで興奮するやつとかいるのか……?」と不審がるところでオチがつきます。
 いやいやちょっと待てよ、と。
 興奮するようなやついる世界だから(少数派とはいえ)お前もケンタウルスと結婚しとるちゃうんか、と。
 他のキャラならまだしも、現実にケンタウルスと性生活を営んでいるであろう本人にそんなセリフをうっかり言わせてしまう。
 


 こうした作品内リアリティの不徹底は、おそらく九井式ファンタジー世界の作りこみ不足、もっといえば歴史性を欠いている点に由来すると思われます。特にリアルのなかにファンタジーを埋め込むローファンタジー路線のときに、ボロがでやすい。これは「なぜ人外キャラの世界ができあがったのか」を進化論的体系にもとづき一から考えてキャラ個人個人の思想信条ひいては社会制度までロジカルかつ微細に描出する『セントールの悩み』の村山慶と(長編と読切短編という違いもありますし、そもそも比べるのも酷ですが)比較するとよくわかります。
 ただ、こうした脇の甘さは「あえて」の部分も多分にあるのかな、とも思います。
 村山慶はあくまでファンタジー世界をリアルに描きたいというSFファン的欲望が先立っているけれど、九井にとってのファンタジー設定はあくまでリアルにおける問題意識を抽出・誇張するためのメタファーにすぎない。『竜のかわいい七つの子』には狼人間を疾病として扱った佳品がございましてよく細田守の『おおかみこども』と比べられますけれど、目的意識としてはまさに細田のそれに近い。
 いうてもリアルを装っているのなら、どこまでもリアリティをつきつめるではないのか、という意見もあるでしょう。
 しかし、作家の資質として、ないものは求められないですし、現状の運用として合目的であるならば良しとすべきです。
 なので、村山慶作品に人間的な情緒を要求しても仕方がないように、九井作品に村上慶のようなロジカルさを求めるのは筋違いである。野暮である。
 そう思ってました。
 だから、第三作で中編路線を放棄して設定の精緻さを要求されない雰囲気系掌編作家*1として戦略的転身をはかったのも、腑に落ちる選択でした。
 そう思ってました。




ダンジョン飯』までは。



ダンジョン飯』以降

 『ダンジョン飯』は衝撃でした。九井諒子の既存の作風内でありながらも、あきらかに何かが違う。すばらしくパワフル。なぜだ。
 本作の賢明な点は、ファンタジーのなかにリアルを埋めこむハイ・ファンタジー路線に舵をきったことです。もともと初期には「魔王を倒したあとの世界」などを描いていた作家なので、このこと自体に驚きはありません。
 しかし、割とリアル寄りの画風(かつシリアスな作風)だったその頃に比べて、『ダンジョン飯』のキャラたちはうまい具合に戯画化されています。キャラ自体をフィクショナルに見せることでギャグ漫画としての性格を強調するとともに、リアルさの欠如に対して一定の免責を得たのです。
 まあ、フツーのファンタジーギャグ漫画の手といえばそれまでなのですが、九井はそこから一歩進めてその世界ならではのキャラクターを作り出しました。 
 キャラクターを掘り下げるプロセスにあたって「料理」にフォーカスし、世界観処理の中心へ据えたのです。実はこの料理が作品内リアリティをこの上なく効率的に高めている。どうやって? 論理の力によって。
 グルメ漫画といえば、料理そのものの描き方、あるいは食べるときの描写ばかりに目がいきがちです。しかし、作品内リアリティの底上げ、という切り口で見た場合、むしろ重要なのは調理の過程そのものです。
 料理は極めて論理的に組織化された体系です。材料を揃えて、レシピというマニュアルに従えばいつでも再現できる。そして、材料は違ったとしてもある程度近似していれば、レシピに近いものを作り出すことができます。
 料理の手順というものはプロの技ですが、我々素人から見ても理解しやすい。いみじくもななめちゃんが嘆いたように、ミステリにおいてもロジックへの理解とは読者からの歩み寄りがないと成立しません。しかも密室殺人で誰がいつどんな手でアレをこーして……という入り組んだ複雑な手続きを逐一理解せねばならないハードルもあります。
 その点、料理というのは日常に根ざしたものですから、読者に対してシンプルに「リアルっぽさ」の説得力を持ちます。また、ビジュアルで説明されるのでお子様にもキャッチアップしやすいのですね。理解できるものは存在を知覚しやすい。理解できるものはそこに在る気がする。
 また材料確保を狩りから行うことでダンジョン内のランドスケープを提示できますし、そこにアクションやドラマも取り入れられる。
 加えて、食べ物に対するリアクションは定式化されていて、その違いによってキャラの性格を語ることもできる。この食い物に対する反応というのも読者にとっては三大欲求と直結した、見慣れたものなので共感しやすい。
 いいことづくめだ。
 ことほどさようにレシピという骨組みをリアルと共通させ、材料という胎を交換することで、『ダンジョン飯』は読者のいる現実世界との結節点を作り出しました。そのうえでロジック構築を料理に限定することで、強固な作品内リアリティと幅広い共感を獲得することに成功したのです。


 繰り返しになりますが、『ダンジョン飯』の一巻を読んだときは衝撃でした。
 もう一度繰り返しますが衝撃でした。
 今から考えると都庁前で土下座しても足りないくらいに失礼ですが、九井に長編を描ける資質はないと値踏んでいたからです。限界へ到達したのち、無限後退し、そこに安住する作家いや人間はいくらでもいます。しかし、その限界に挑戦し、限界をひねりつぶし、限界を乗り越える作家は稀です。九井先生は作品で楽しませるだけでなく、その生き様でもって我々読者に人生の可能性を示してくれたのです。



 そして、なにより『ダンジョン飯』は単体の作品として底抜けにおもしろい。
 キャラ同士の掛け合いはもとより、なんだか短篇集時代にはなかったキャラや世界観に対する細やかな配慮までなされている気がする。二巻で行われた「なぜダンジョン内の宝箱には金貨が詰まっているか」を『ダンジョン飯』独自の論理づけでもってさり気なくしかし鮮やかに述べた部分は芸術ですらあります。
 まあ要するに自分は勝手にナメて、勝手にビビるという忙しい一人芝居を演じていたわけですが、こういう新鮮な裏切りがあるので一人の作家に対して勝手な予断を持つのはやめられない。


二巻へ。

 二巻です。当然、九井は進化している。
 飯でももってストーリーテリングを行うのは『ダンジョン飯』に運命づけられた義務ですが、二巻では調理のプロセスすらもストーリーテリングに取り入れています。


 p.45-46ではパンをこねる作業にシンクロさせてオークとエルフの言い争いがヒートアップするさまを描いています。おもしろいのはそこに料理人センシの冷静な視点が混じっていることで、キャラ同士の感情のぶつけあいが料理という冷たいリング内で行われているということのおかしさをセリフレベルでも見せていてとても巧い。パンづくりとキャラ同士の関係が連動しているわけですからもちろん最後はアレがアーなるわけですが、そこのシーンも丁寧です。



 ついで特筆すべきは p. 39 のオークたちのセリフ:「うわっエルフだ」「ぶさいくだなー」
 種族ごとに相対化した視点を取り入れてあるんですね。一般に「美しい」という認識でとおっているエルフに対して「醜い」というオーク側の価値観をぶつけることはいかにも”ありそう”で世界観の深化に極めて効果的です。先述の「宝箱のなかに金の謎」といい、小さいコマで吹き出しすらついてない、というのもつつましやかで上品ですね。
 この種族ごとの視点の相対化、認識の違いというのは巻末のおまけ四コマでも再度取り上げられていて、作者がけっこう自覚的にこの問題を捉えていることがわかります。




ハルタ』に誌名が変わって以降、雑誌で連載を追わなくなっているので単行本待ちですが、三巻ではどんな高みを見せてくれるのか、今から愉しみです。



ストイックですなあ。

*1:もともとストーリーテリングが上手い作家なのでこの呼称は不当なんでしょうが、個人的に「雰囲気系」は褒め言葉です