名馬であれば馬のうち

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37歳のネコは親でもおじさんでもなくて、まるで天使のようだ――映画『化け猫あんずちゃん』について


 さりながら諸君よ、感じやすく、子供のごとく純粋で、おれのように誠実な心の持ち主である諸君よ、いうまでもなく諸君のためなのだ。

 ーーE・T・A・ホフマン、石丸静雄・訳『牡猫ムルの人生観』




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死んだ母親たち、使えない父親たち、外されたネコ。

 なぜネコに頼むのか、という疑問がある。
 アニメ映画『化け猫あんずちゃん』の話だ。

 片田舎に建つ草成寺にすみつく化け猫・あんずちゃんは、寺の和尚さんから彼の孫である小学生、かりんちゃんの世話を頼まれる。かりんちゃんの父は、声が青木崇高*1であることからも察されるようにまあだらしない父親で、借金取りから逃げまわるあいだ、娘を父である和尚さんにあずけたのだった。
 ここにかりんちゃんを取り巻く三世代ぶんの家族があるわけだけれど、「家族」と呼ぶにはあまりにもやる気がない。なぜなら保護者としての親がひとりも存在しない。

 かりんちゃんの父はねんがらねんじゅう借金とりに追い回され、性格も軽薄で、悪い意味で親としての威厳がない。娘からも「哲也」と名前で呼ばれている。続柄が代名詞になる日本語空間においては、ややおちつかない扱いだ。親しみから親を名前で呼ぶ家庭はあるだろうが、かりんちゃんの場合は侮蔑とまではいわないまでも、あきらかに「敬意を払うに値しないから」という含意が読み取れる。

 その父の父でかりんちゃんの一応の預け先になる和尚さんも、小学生の保護者としてはすこし弱い。
 アウトサイダーばかりの劇中では屈指の常識人として描かれ、かりんちゃんことは気に掛けてやさしくしてはあげている。あげているのだが、存在すら初めて知ったばかりの孫にとまどいを感じているのか、じかに接するとなると、おこづかいをあげて町で遊ばせるぐらいのことしかできない。お話を通しても、あまり保護者という感じがしない。
 では、母と祖母はどうなのか。いってしまえば、どちらも死んでいる。特に祖母は原作では健在であり、生きていればかりんちゃんの保護者となりえたはずの存在だったのだが、映画化にあたって死んだことにされてしまった。
 かりんちゃんの母親は、映画化によって追加されたキャラだ。かりんちゃんはこの母親を恋しがり、何度もその想い出を噛みしめ、ついには再会のために地獄までおもむくことになるのだけれど、まあともかく死んでしまっている。

 父親たちは頼りなく、母親たちは喪われている。そんなかりんちゃんの「めんどうを見る」存在としてあらわれるのが、化け猫あんずちゃんである。

 それにしても、なぜネコなのか。
 フィクションにおけるのネコの表象といえば、自由・無責任・孤高あたりだろうか。
 たとえば、『ヤニねこ』の主人公ヤニねこはヤニを空気のように吸って生きているだけの社会不適合者だが、ネコである。こうしたキャラクターは、他の動物では成立しない。タバコをくゆらせているドーベルマンは警察関係者なんだろうな、という印象を抱かれるだろうし、ペンギンがシーシャを吸っていると潜水能力に影響するのではないか、とハラハラされる。

(にゃんにゃんファクトリー『ヤニねこ』講談社


 実際、『化け猫あんずちゃん』の共同監督のひとりである久野遙子もパンフレットのインタビューでこう語っている。「猫の無責任さって、人の無責任さとは全然意味が違うんです。猫に責任がないのは普通のことだから。そのフラットさがあんずちゃんのキュートなところですね」。

 子どもの世話をする、その保護者になる。それは人類にとり、もっとも重大な責任を課されるタスクのひとつだ。そんな仕事をあえて無責任の象徴たるネコにおしつける。

 しかも、だ。あんずちゃんは、オスである。劇中でもたびたび、たまぶくろが強調されている。オスのネコは、基本的に子育てに参加しないことで有名だ。ますます保護者に不向きすぎる。

 そもそも原作にはかりんちゃんなどという小学生は出てこない。かりんちゃんの母親同様、映画版で追加されたキャラだ。保護者不在の哀しい女の子など、いましろたかしの世界にはいなかった。

『あんずちゃん』にいたるまでの「おじさん」映画の系譜

 本作の共同監督を久野とともにつとめた山下敦弘は、『あんずちゃん』とよく似た映画を以前に撮っている。
 2016年の『ぼくのおじさん』が、それだ。

(『ぼくのおじさん』)


 北杜夫の原作(1972年)でちまたに知られる本作は、小学生である「ぼく」とその叔父である「おじさん」(松田龍平)の交流を描く。
「おじさん」は哲学講師であるのだけれど、受け持つ講義は週に一コマだけで、ほかになにをしているのかよくわからない。「ぼく」の一家の居候として無駄飯を食らい、マンガ雑誌を「ぼく」にたかろうとする。とくに人格的に輝く面を持っているわけでもない。ろくでもない野郎である。

 そんな無為徒食の「おじさん」は、たびたび「ぼく」の親から「ぼく」の面倒をおしつけられるのだけれど、ここでもあまり大人としての保護者力を発揮しない。「ぼく」からは適度にかろんじられていて、どちらかといえば友だち感覚に近い。かといって、小学生である「ぼく」と30前後とおぼしき「おじさん」では完全に対等な友だちということもありえず、なんとも独特な関係を築いている。この距離感は、いかさま、『あんずちゃん』っぽい。


 そして、映画の構成も似ている。この『ぼくのおじさん』は、前半で「おじさん」と「ぼく」の日常描写パート、後半からはガラリと舞台をハワイに移してのわりとしっかりしたドラマパートに分かれている。『あんずちゃん』も前半が日常パート、後半からは黄泉下りだ。 つまり、山下敦弘のフィルモグラフィ上では、「なんかしらんがぶらぶらしている謎のおじさん」と「なんかしらんがぶらぶらしている謎の化け猫」が同一視されている。

 さらに遡るなら、『ぼくのおじさん』で松田龍平演じる「おじさん」とは高等遊民のパロディ、もっといえば夏目漱石の『それから』(1910年)的な明治期の高等遊民のパロディといえる。*2 

『それから』の主人公である代助は、帝大を出ながらも30歳で特に仕事もしない。裕福な家族から就職や結婚といった社会参加への”圧”をかけられてものらりくらりとかわしていく。『ぼくのおじさん』の「おじさん」も、寄生先が富裕でないところ以外、ほぼそうした塩梅である。

『それから』のお見合いを強要されるくだりでは、見合い相手の容貌にいちいちケチをつけるのだけれど、映画『ぼくのおじさん』でもそこもオマージュされている。映画版『ぼくのおじさん』で松田龍平が起用されるにあたり、その父である松田優作森田芳光版『それから』(1985年)で主演を張った事実が意識されなかったはずはないだろう。*3

森田芳光版『それから』。ふとした瞬間の松田優作の顔が松田龍平によく似ていて、やはり親子なのだなと感じる)


あるいは「ネコ=おじさん」映画の系譜。

 ここに高等遊民パロディ映画としての系譜が、『それから』から『ぼくのおじさん』を経由して『化け猫あんずちゃん』へと引かれていく。それは日本の映画史的/文学的なラインなのだけれど、実はもう一本、継承されているモチーフで引けるラインがある。

 ネコだ。映画版『ぼくのおじさん』では序盤から白いネコが出てきて、影のように「おじさん」によりそう。自由で、無責任で、とらえどころのない存在としてのネコ=「おじさん」というわけ。

 そして、「おじさん」がひとなみに恋に落ちていくハワイ編*4で、ネコは姿を消す。『それから』もそうだが、高等遊民は遊民でありつづけることはできない。かれらは恋をし、その恋によって他人に、そしてより大きな枠組みへと関わっていく。ネコみたいな人間は、やがてネコではいられなくなってしまうのだ。

 それはともかくとして、『ぼくのおじさん』の「おじさん」に『それから』の代助という先祖がいたのとおなじく、『ぼくのおじさん』のネコにも参照されるべき先達がいる。フランスの巨匠、ジャック・タチの『ぼくの伯父さん』(1958年)に出てくるイヌたちがそれだ。

ジャック・タチぼくのおじさん』に出てくるダックスフント


『ぼくの伯父さん』も戯画的なほどにガッチガチに厳格な両親のもと*5で息苦しくなっている少年を、浮世離れした(しかし日本の「おじさん」と違って洒脱な)「伯父さん」たるユロ氏が逃避へと誘う話なのであり、タイトル的にも『ぼくのおじさん』へ明白な影響をおよぼしている。

『ぼくの伯父さん』は、街をうろつく野良イヌの集団をながながと映すカットから始まる。イヌたちは薄汚いけれど、かろやかに、自由に街をかけていく。やがて、そのうちの一匹、服を着たダックスフントが群れから外れ、フューチャリズム建築っぽい住宅へと入っていく。ダックスフントは、この家の子どもである「ぼく」の飼い犬なのだ。

 このダックスフントと無口な「伯父さん」氏のイメージはふしぎと重なっていき、「伯父さん」が「ぼく」の家に現れるときにもダックスフントが同時に画面に出てくる。そうして犬としての「伯父さん」のイメージが強化されていく。

 もちろん、スタイリストであるジャック・タチのことだから、偶さかにそうした印象ができあがったわけではない*6。映画と同時並行で書かれたノベライズ版を読めば、そのことは疑いようもない。

ぼくが忘れることの出来ないのはダキだ。ダキはダックスフント種の犬で、ちょうどうなぎに四本足をつけたように胴長の犬だ。パパとママがいるときは、ぼくはお行儀よくしていなければならない。あぐらかきで呑気にのおのお出来るのは、伯父さんといるときか、ダキと遊んでいるときだ。もっとも、伯父さんとダキも、はなすことが出来ない仲良し同志。
(中略)
現在にも、未来にも、そして過去にさえ興味や希望の思い出を持たなかった伯父さんは、ときどき、ふうっと自分が宙にういてしまっていたのではないか。時間とともに音をたてないで、流れてゆくいのちを涙ぐんで見つめている動物的な感覚が、伯父さんを自失状態においたのだ。そんなときでも、伯父さんは別に悲しい顔なんかしていなかった。ぼくの犬のダキのような表情が、その瞳にあるような気がした。

 ――ジャック・タチ、秦早穂子・訳『ぼくの伯父さん』三一書房



 イヌは人類のもっとも古い友だちである、とはよくいわれるところ。「ぼく」はそのイヌを最良の友とし、同時にその友の面影を自分の「伯父さん」とダブらせる。閑静で清潔感溢れる「ぼく」の家と、雑然とした下町を自在に行き来するイヌと「伯父さん」は、「ぼく」の息苦しさを救ってくれる。*7

 なにかと世界が狭くなりがちな子ども時代にとって、ここではないもうひとつの世界を見せてくる存在がどんなに貴重なことか。
『ぼくの伯父さん』は、徹底したイヌ映画だ。イヌに始まりイヌに終わる。人ではない、いまここではない出口としてのイヌ。そのイメージは日本の『ぼくのおじさん』にネコへ変換*8されて持ちこまれ、『化け猫あんずちゃん』で人そのものと融合した。
 

 と、このような仕方で山下敦弘は、ジャック・タチの『ぼくの伯父さん』と森田芳光の『それから』を組み合わせて『ぼくのおじさん』を造り出し、それを『化け猫あんずちゃん』へと昇華させていった。そうした流れが、まあ、ある。あるということにする。*9


「おじさん」でも「ネコ」でもあり、「おじさん」でも「ネコ」でもない。

 ところで、代助、「おじさん(松田龍平)」、「伯父さん(ユロ氏)」といったおじさんたちには共通した美点がある。
 つまり、子ども(甥や姪)にやたら好かれる。
 さきほど『ぼくの伯父さん』の話で触れたように、きっちりしたレールの上におらず、大人と子どもの中間のような位置にいる「おじさん」たちは、親類の子どもたちにとって一種のアジールだ。
 しかし、それは責任持って子どもをはぐくむ「ちゃんとした父母」という存在がいて、家庭という枠組みが機能しているからこそ出現する逃避先だ。

 ひるがって、あんずちゃんはどうか? 
 子どもであるかりんちゃんは、完全に規範となりうる親を見失っている。母を喪い、父親に見捨てられ(たと感じ)、いままでろくに会ったこともなかった祖父の寺にいきなり預けられ、ろくに知り合いもいない田舎で暮らす。孤児ではないけれど、気分は孤児に近い。山の妖怪たちでなくとも同情して大号泣ものだろう。*10
 そこに登場するのが、あんずちゃんだ。37歳。見た目も仕草もおっさんとネコのハイブリッドだ。

 そして、あんずちゃんはネコであるがゆえに、代助や「おじさん」のように結婚だの就職だのの圧力を受けない。
 そう聞くと『ゲゲゲの鬼太郎』のテーマソングのようでお気楽至極なようだけれど、『あんずちゃん』で描かれるあんずちゃんの日常は、もうすこし陰惨だ。なぜなら、あんずちゃんは社会から拒絶されつつも社会で生きるしかない存在として描かれている。
 和尚さんの扶養の下にあるものの、人間のような図体で人間のようにメシや娯楽を消費するあんずちゃんにはカネがいる。それを稼ぐために、按摩*11や川から鵜を追い払うといった仕事未満のアルバイトをこなしていく。

 だが、バイト帰りにスクーターで走行中、あんずちゃんは警察に捕まる。そして、免許証の不所持をとがめられる。「だめだよ」と警官はいう。「免許は16歳から取れるんだから」
 おかしみに満ちつつも、酷な発言だ。なぜなら、あんずちゃんは30歳を越えてやっとイエネコから化け猫に転化したという設定であり、16歳のときはふつうのネコにすぎなかった。免許など取りようがない。*12

 社会からはじき出されたまま、システムには付き合わなければならない。責任や義務を履行しようにも、その支払い先がわからない。完全なアウトサイダーだ。市民未満であり、人間未満。

 いつもノンシャランとしているあんずちゃんの様子からはわかりずらいかもしれないけれど、かれもどうもそうした状況に対して鬱屈を抱えているらしい。

 その鬱積が爆発するのが、自転車の盗難に遭う場面だ。パチンコの帰りに自転車を盗まれたかれは家に帰るや尋常ならぬ面持ちでぶつぶつ恨みをつぶやきながら、棒に包丁をガムテープでまきつけて即製の槍を作り始める。終始興奮を抑えられず、和尚さんの静止もきかず、四つ足で忙しなくばたばたと廊下を駆け回ったりしながら、自作の槍でふすまを突きまくる。そして半べそをかきながら、「だってだって、くっそ~~~~、俺は悔しいんだよ、おしょうさん!」

いましろたかし『化け猫あんずちゃん』講談社

 自分に向けられた顔のない悪意*13。それは人間からの自分への攻撃的な拒否でもある。あんずちゃんは、そう捉えたのではないか。

 代助や「おじさん」には見られない屈折が、ここにはくすぶっている。生まれたときから人間社会へ包摂される可能性を閉ざされた存在、それがあんずちゃんだ。飲み会にさそってもロクに「つるまない」山の妖怪たち*14に対してあんずちゃんが不満を漏らすのも、そうした孤独からの脱出口を妖怪たちに見出そうとしたからにおもわれる。*15

 だが結局、かれは山では暮らせないし、人間にもなりきれない。もはやネコにも戻れない。えらく半端な境界上の生き物だ。かりんちゃんとの東京行きの直前で和尚さんが指摘するようにあんずちゃんは「大人」ではある。だが、それは「一定の年齢を重ねている」以上の意味を持たない。かれは父親でもなければ、なんらかの地位を持つ社会的存在でもない。


 そんなあんずちゃんが、かりんちゃんの親代わり、あるいは保護者となりうるのか。


 いってしまえば、なれない。映画でも、そうなってはいない。

 かりんちゃんにとって、ケアしてくれる大人は死んだ母親以外に存在しない。かりんちゃんに同情してくれる山の妖怪たちも志だけは保護者マインドなのだが、なさけないまでに惰弱であり、子どもを守る力を持たない。

 けっきょく、かりんちゃんはその母親と決別したあと、父親に対して「早く大人になる」ことを宣言する*16。自分以外に頼れるものがない。それが彼女の生きていくことになる世界だ。


 それでも。


「大人」になるまでの猶予を過ごすパートナーとして、彼女は(父親ではなく)あんずちゃんを選ぶ。
 疑問が反芻される。
 なぜ、ネコなのか?

世界の果てまでつきあって

 劇中でのあんずちゃんは、かりんちゃんに対して保護者らしい行動をあまり取っていない。
 特に、日常の描かれる映画前半パートでは、あんずちゃんはかりんちゃんと別行動していることも多い。「いっしょにやった」といえるのは、鵜を川から追い立てるバイトくらいだろうか。ちょっと距離がある。

 しかし、同時に、あんずちゃんはなんだかんだでかりんちゃんを見捨てない。かりんちゃんが行方不明になれば、めんどくさがりながらも見つかるまで探す。唐突な東京行きにもつきそう。貧乏神がかりんちゃんに取り憑きそうになると、ひきはがそうとする。地獄までもつきあう。
 かりんちゃんの母親を地獄から連れ出して、追っ手である鬼たちから逃げるくだり。あんずちゃんは禁じられているはずのスクーターに乗り込み、かりんちゃん母娘を乗せて爆走する。


「どこまで行くの?」とかりんちゃんは訊く。*17

 あんずちゃんは叫ぶ。

「そりゃあ、世界の果てまで行くんだにゃ~」

 どこまでも連れだってくれる存在。

 それがあんずちゃんの定義だ。



 なにかを与えてくれるわけでもない、戦って勝ってくれるわけでもない、頼りにはまったくならない。ただ、いっしょにいてくれる。
 それはあんずちゃんが人間と異なる種だからこそ成り立つ距離感だ。これがヒトであれば、ほかの「おじさん」たち同様に、多かれ少なかれ人間社会の磁場にからめとられてしまう。


 ネコは自由だ。なにから自由なのか。人間社会の重力から自由なのだ。

 だからこそ、世界の果てまでも、かりんちゃんのそばにいられる。そのことばに真実味を持たせられる。ネコにしか頼めない仕事だ。*18
 ふたたび、パンフレットのインタビューを引こう。山下敦弘はこう述べている。

 終盤あんずちゃんが「ずっとかりんちゃんのそばにいるニャー」というんですよ。でも、それはなにかをしてくれるわけじゃない。ただ隣にいるだけ。それがあんずちゃんと人間の距離感なんです。



 それはまあ、けっきょくところの人間にとって都合のよい動物の搾取なのかもしれない。
 だが、フィクションで動物を描くとき、人間は搾取以外のなにができるっていうんです?
 ともあれ上の山下監督のインタビューに呼応することばが、文学者ドリス・レッシングのネコエッセイ『Particularly Cats』*19にある。今日はこれでしめくくることにしよう。

かれはしずかに私といっしょに座るのを好む。でも、それは私にとって簡単なことではない。書き物や庭の手入れや家事に追われていると、かれとゆっくり座っているひまなどなくなる。かれは子猫のころから、私に注意を要求する猫だった。本を読みながら義務的に撫でているだけでは、たちまちにそぞろな心を見抜かれてしまう。私がかれのことを考えなくなると、かれはそっぽをむいて去ってしまう。
かれと一緒に座りたいならば、私は自分自身をゆっくりと落ち着かさせ、いらだちや焦りを頭から追い払わねばならない。かれもまた、心身を落ち着いている必要がある。そうして私は、かれに、猫に、猫の本質に、かれの最高の部分に近づいていくのだ。人間と猫、私たちは私たちを隔てるものを超えていく。

――ドリス・レッシング『Particularly Cats』



 おつかれまんにゃー。


原作。


共同監督の久野遥子のまんが。傑作。

*1:リメイク版『蛇の道』、『ミッシング』のながれ

*2:現実の明治・大正期における高等遊民たちは、いまでいう高学歴就職難民的な、日露戦争後の社会問題としての側面があり、われわれが『それから』を読んでイメージするほど優雅な存在ではない。『近代日本の就職難物語』(吉川弘文館)参照。

*3:夏目漱石つながりでいえば、『吾輩は猫である』の元ネタといわれるホフマンの『牡猫ムルの人生観』がドイツ的なビルトゥングスロマンのパロディであることも思い出していいのかもしれない。ネコとは、アンチビルトゥングスロマン的な存在だ

*4:ちなみにおじさんが異性と恋に落ちる展開は映画版のオリジナル

*5:1958年に出たノベライズ版『ぼくの伯父さん』の訳者・秦早穂子の解説によると、ジャック・タチは機械中心主義的な近代に対するアンチテーゼとして本作を作りあげたという。

*6:そもそも「偶然」とはジャック・タチの映画から一番遠い言葉だ

*7:映画版では描かれないが、ノベライズ版では「伯父さん」は風邪をこじらせて死んでしまい、「伯父さん」がアトリエを構えて野良イヌたちが遊んでいた古い下町も開発にともなって失われていく。

*8:その変化は「おじさん」とユロ氏との質的な違いにも関係している。ユロ氏は保護者とまではいわないものの、「ぼく」にとっての守護天使的なポジションにいる。イヌはネコよりはやや保護者に近いポジションにいる、というわけだ

*9:もっと山下敦弘のフィルモグラフィを丹念に精査すれば、山下敦弘における「おじさん」たちの扱いについて一定の見解がえられるのだろうけれど、ここでやりすぎるようなトピックでもなく、今はその元気もない

*10:とはいえ、子ども向けフィクションにはよくあるシチュエーションではある。

*11:この職業がかつて盲者、すなわち被差別層の仕事だったことに留意しなければならない

*12:最初から疎外してくるくせに、ショバ代だけはきっちり徴収していく。そうしたシステムへの不信感は高等遊民的というより、原作者のいましろたかしが『釣れんボーイ』などで描いてきた肌感覚に発したものだろう。いましろ的な感覚とは個人的には「大人になりたいという願いはあるのに、自身の抱える(逃避的)衝動のせいでできない」といったジレンマであり、そうしたところを踏まえると彼が「あんずちゃん」お脚本の改変に不満を抱いたのも当然な気もするが、ここではいましろについては論じない。

*13:映画では犯人が出てくるが、原作では結局犯人の正体は不明のまま終わる

*14:そして終盤の展開を見ればわかるように、かれらもまた人間にとってが「役立たず」である。

*15:あんずちゃんは「友だち」に対してはかなり強めの責任感を持つ。よっちゃんに取り憑いた貧乏神との交渉を見よう。

*16:同級生の男子とは結婚の約束までする

*17:母親が訊いてた気もする

*18:ここで、ダナ・ハラウェイ的な伴侶種概念を持ち出すこともできるけれど、あるいはあんずちゃんが「おれ、死なないから、化け猫だから」と言ったことに注目して、むりやり『マルクスの亡霊たち』を結びつけてもいい気がするけれど

*19:邦訳は『なんといったって猫』晶文社