(Killing of a Sacred Deer、ヨルゴス・ランティモス監督、英&アイルランド、2017)
開胸手術が施されている最中の心臓のアップではじまる。脈打つ心臓は脂肪に包まれていて、存外に白い。手術を終えたふたりの医師が、病院内の廊下を画面奥から向かって画面手前へと、雑談を交わしながらまっすぐと手前へと歩いてくる。片方は心臓外科の執刀医で、もう片方は麻酔医だ。新しい腕時計を欲しがる執刀医に麻酔医は彼の元患者が経営する時計屋を勧める。
心臓外科医はある少年とダイナーで待ち合わせする。少年はチキンを注文する。つけあわせのフライドポテトに手をつけない少年を見て、心臓外科医は訊ねる。「きらいか?」
少年は答える。「好きなものは最後にとっておく主義なんです」
心臓外科医は車を停めてある海辺で麻酔医推薦の腕時計を少年に手渡す。少年は感謝のことばを述べ、心臓外科医にハグしていいかと訊ねる。おずおずと心臓外科医はうなずき、少年は抱きつく。
心臓外科医と少年のあいだには不穏なぎこちなさが漂っている。
少年は心臓外科医につきまとう。まず仕事場である病院に連絡もなく何度も押しかける。心臓外科医の家を訪問したり、逆に心臓外科医を自宅に招待したりする。 その過程でどうやら、少年の父親は心臓外科医の執刀中に死亡していたらしい、ということが提示される。
観客にはまだ映画の意図がつかめない。
ある朝、心臓外科医が息子を部屋まで呼びに行くと、息子は「歩けないんだ」という。
「足が動かないんだ」
そして、地獄がはじまる。
映画『聖なる鹿殺し キリング・オブ・ア・セイクリッド・ディア』予告編
「われわれは真っ当なコメディやホラーやスリラーの作り方を知りません。」――ヨルゴス・ランティモス
変な話を取りがちなヨーロッパの監督たちにあって、『籠の中の乙女』、『ロブスター』などでずばぬけた奇天烈さを発揮するヨルゴス・ランティモスの最新作です。
とにかく俳優がすばらしい。
まず、元凶となる少年のたたずまい。演じるバリー・コーガンは『ダンケルク』にも出演した新鋭です。あやうい輪郭に底知れない力強さを湛えた瞳を具えており、『ファニーゲーム』のフリッシュ&ギーリングのコンビや『クリーピー』の香川照之をほうふつとさせる、絶妙に話の通じない異物感を発揮しています。セリフや演出も彼のただならさを高めることに奉仕していて、たとえば、古典的な「扉を開いたり角を曲がったりすると(なぜか)そこにいる」という登場手法を多用することで、彼のホラー存在っぽさを高めているのもグッド。
心臓外科医(『ロブスター』に引き続き主演を張るコリン・ファレル)も心臓外科医で、常識人に見えてけっこう変な人です。優しい妻(ニコール・キッドマン)と快活な二児の父親、学界でも尊敬される専門医、という社会的なイメージとしてはわかりやすい「成功者」なのに、どこかつかみどころがない人物です。特に異質なのが、妻とのセックス。妻は「麻酔患者になるわ」と言って、死体のようにベッドに身体を投げ出します。死姦趣味、というわけでもなさそうなのですが、ここに心臓外科医が他人を扱う態度についてのヒントがあるのかもしれません。
彼は少年と頻繁に会うのに気がのらない様子です。なのに、ストーキングされるに至ってもあんまり強く出られません。割と序盤で「どうやら少年の死んだ父親の執刀医だったらしい」程度の情報は看取できるのですが、ふつうそれだけの理由で他人の子どもと親しくするでしょうか。この不思議な関係性のひっかかりをけっこう長いあいだ疑問として観客は抱きつづけなければいけません。少年との関係にずるずる引きずり込まれていく心臓外科医の押しの弱さは、後半の展開における「解決の手段は明示されているのになかなか決断できない優柔不断さ」の仕込みにもなっています。
コーガンにしろファレルにしろニコール・キッドマンにしろ、ランティモス作品の特徴である平坦で感情の揺れが少ない演技に徹しつつも、けっして薄っぺらくはありません。累積していく激情をこらえつづけることで物語のエモーションが高まっていく、そんな印象さえ受けます。
そして、卓抜したサスペンスの手際。
設定的には二段構えのタイムリミットサスペンス的な要素がありまして、メジャーなレイヤーでの「呪い」とマイナーなのレイヤーでの「呪い」を同時進行させることで主人公の心臓外科医にとてつもない負荷をかけます。
そのうえ、両方のレイヤーで、あらかじめ「この『呪い』には『三段階目』がある」と予告しておいて、三つ目の発生をひきのばし、常に「いつ三つ目の、そして決定的な『呪い』が発動するかわからない」緊張を保ちます。
かとおもえば、『呪い』が一時的にふっと解ける瞬間もあります。しかし、それは観客に一時の安心を与えるためではなく、不安を増幅させるために用意されたものです。静謐なルックに反して、とにかく観客と主人公に圧をかけまくる演出はとてもエキサイティングで、いっときも画面から目を離せません。
画作りはキューブリックの一点透視図法的な撮影とよく比較されているようです。しかし、本作の場合はシンメトリーというよりは、画面上に奥行きのある三角形を作り出すことに重点が置かれているように見受けられます。開放感にある構図に一〜三人しかいない画面というのはそれだけで作品の異常な雰囲気づくりに貢献していますけれども、最終盤にまさしく「奥行きのある三角形」に人物を配置してきて、そこもまたたまらない。
ジャンルに当てはめられることを峻拒しているランティモスですが、それでもあえて本作をジャンル分けするならば、スリラー/ホラーのあたりでしょうか。心臓外科医たちが見舞われる厄災はほとんど超常現象的です。では、呪術だったり魔法だったりするのかといえば、そういう理屈付けすら行われていない。「犯人」は怪物的に描かれますが、怪物そのものではありません。刺したり撃ったりすれば死ぬであろうことは劇中でも示唆されています。
では何があるのか。ただ純粋な「等価交換の原理」「目には目を、歯に歯を」*1のオートマティックな力学だけがある。その点の印象でいえば、カルロス・ベルムトの『マジカル・ガール』に近いものを感じます。トリックもない。魔法もない。しかし、誰かが死ねばカウンターパートの誰かも死ぬ。死ななければならない。
「呪い」に関するロジカルな設定や説明をほとんど放棄している*2にもかかわらず、本作や『マジカル・ガール』がリアルな重みをもって観客に迫ってくるのは、それが、暴力のプロセスを言い当てているからかもしれません。一度発動したら、設定条件を満たすまで止まらない。心臓のように、個人の意志では止めたり動かしたりはできないのです。
イヌ。イヌの使い方もいいですね。そんなに目立つ存在ではないといいますか、ほとんどのシーンで画面から外れていますが、出てくる場面では意味ありげな使われ方をしています。
初めて登場するのは心臓外科医一家が食卓を囲むシーンです。みなが楽しげに談笑している横で、ほとんど死んだように四肢を投げ出して寝そべっています。カットが切り替わる直前に立ち上がりますが、このイヌの「モノ」な感じは後の展開の不吉さを暗示させます。
そして皮肉なことに、イヌが元気に歩き回るようになるのは、心臓外科医の息子から歩行の自由が奪われてからなのです。飼い主である人間の家族がどんな災難に直面しようが、イヌはイヌで関係なく生きている。ここのあたりにランティモス監督のいじわるさが出ているように思います。
監督の次作として控えているのはエマ・ストーン主演の『The Favourite』。イギリスのアン女王時代を舞台にした政治の内幕もので、ランティモスがこういう仕事をやるのは意外の感がありますね。脚本にも関わっていないようだし、どうなることやら。
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