名馬であれば馬のうち

読書、映画、ゲーム、その他。


読書、映画、その他。


同じ人が書いたSFを読む。――『圏外通信 2021裏』『〈未来の文学〉完結記念号 カモガワGブックス vol.3』



「本の話をしよう。お前の書いた小説を読もう。」


 江波光則『密葬 -わたしを離さないで-』



「まず、おたがいに本音で話しあおう」とホロ映像がいった。「だれだって本を読むのは好きじゃない。そうだろう?」


 トマス・M・ディッシュ浅倉久志・訳「本を読んだ男」




”まえがきや序文というのは誰も読まないらしい。”

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高江洲弥『先生、今月どうですか』

 知らない他人の話を聞くのがあまり得意ではない。おそらく同じ理由で同人誌を読むのも苦手である。そもそもプロの作家がプロの編集者と組んで出した小説でさえ七割がた何いってるのかよくわからないのに、これが同人になるとわからなさが平均九割に跳ねあがり、それがSFだと二倍になる。十八割わからないのはたいへんだ。わたしも人間それ自体や物語は好きなのであるし、わかりが可能ならわかりたいのであるが、近年のわたしはモチのベーションがモチモチしている上に、死んでいるテキストはリアルタイムでの応答が不可能でここがよくわからないからといって問いただしても何も答えてくれない。自分でどうにかするしかなく、自分でどうにかした結果、作者の意図とかけ離れた解釈なりあらすじ理解をひねりだしてしまう。バカなのか?
 モデル読者には一定の知性と精神的安定が求められる。作者にも質の良い読者を求める権利はある。だが現実は瀬名秀明の某短編でいうと読解力最低ランクの小説しか与えられないような読者ばかりで、何を隠そうわたしもその一員だったりする。
 読まれない小説は不幸だが、読みきれない読者を得た小説もまた不幸だ。だが小説と読者は本来関係ないもの同士なのであって、互いに互いが不幸であるか幸福であるかなどノンオブマイビジネス(闇夜に影を探すようなもの)だ。小説に読者を幸福にする義務がないように、読者もまた小説を幸福にする義務はない。
 そう考えるとすこしは他人の小説を読むのが楽になる。
 だが、所詮は屁理屈であり、現実に雑に読まれたら作者は傷つく。でも人間は雑な生き物なので傷つくことは防げない。人の心はインヒアレント・ヴァイス、傷ついた人の心は傷ついた人のほうの問題として、傷つけてしまうことで傷つくわたしの心はどうケアするべきなのか。
 さいわいにも歴史は人類創世以来のあらゆる欺瞞と悪徳に通暁している。罪悪感を和らげる方法は、虐殺と屠殺に学べばよろしい。
 距離をとろう。場所を不可視化し、自分たちが殺しているという直接の感覚さえ避けられれば、わたしたちは自分が善き存在と信じたまま死ぬことができる。
 つまり?
 twitter をやめろ。
 twitter をやめろ。
 二度も言ってわからないなら、あなたは永遠にあなたのままだ。

『圏外通信 2021裏』(反重力連盟)

hanjuren.booth.pm



 私はSFにおけるFuckの部分には興味があるが、Shitの部分には一切興味がない。ーエイブラハム・リンカーン



・反重力連盟の二冊目。執筆陣を見るに、京都大学SF・幻想文学研究会のメンバーが大半を占めている。これ以上の事情はよく知らない。これの前に裏じゃないほうが創刊号として出ていて、そちらも愉しい。

「巻頭言」庭幸千

君の銀の庭
ヴァージニア・ウルフは女性が小説を書くのに必要な場所として「自分一人の部屋」*1を挙げたが、この巻頭言も「私が守る、私だけの領域、"庭"」を名指している。種を蒔き、やがて重力に抗って樹が伸びる庭を作ろうとする密やかな試み、それこそが本書であると謳っている。そして、そうした試みが常に失敗含みであることも示唆されており、その上で失敗にすら意味があるのだというようなことが書かれている。基本的に小説は不毛の媒体であり、物語は不稔の運命を課せられている。だが、種を絶えず播き、守り育てていくのなら、いつか芽生える光もあるのだろう。
・p.2 五段落目と六段落目の一字下げ。

「窓の時代」巨大建造

・川に棲みながら水棲生物を貪食している主人公がひさしぶりに勤めている会社へ出社するとデスク三つ分を占拠する頭だけの同僚マヌ岡から「窓の時代がやってくる」と告げられる。
 マヌ岡は「巨頭者」と呼ばれる種族だか役割だからしく、その言葉には予言的な力があるらしい。しかし、「窓の時代」とはなんなのか。
 主人公は水中駄菓子屋を営む夢を見て、これが「窓の時代」ではないかと考える。そうして最後に川の時代がくればよいと。
 だが、マヌ岡は否定し、「今日この日から窓の時代なんだ」といって、開くそばから死滅していく窓の映った画面を見せる。
 そうして世界が崩壊していく。どうやら崩壊していくっぽい。

 巨大建造の作品は常に象徴に満ちており、抽象度が高い。昇天や滅びのイメージを好んで用いる傾向にあるように見受けられ、そこにある種のノスタルジーや詩情を見出すことができる。本作もその例にもれない。
 二段組二ページ半ほどの掌編であり、筋らしい筋もないため読者としては散りばめられたイメージを拾い集めるほかはない。
 主人公が住まう川(水)のイメージとそれに呼応するかのように終盤描かれる虚空のイメージ。なにかが朽ちて失われていく感触。なぜか散発的に登場するイヌ。ラストは「黒い大きなイヌが飼い主を呼んで鳴いた。それからの二千年間は夜が続く。わたしは悲しい。」とメランコリックに締めくくられている。黒いイヌといえば憂鬱症のメタファーとして用いられることが多いけれど、本作も憂鬱の心象風景といえばそんな感じもする。

「老い縋る未来」庭幸千

 ・幼熟児(ネオテニアン)。成熟とともに失われる人体の神経生物学的性質をうまいこといじって幼児期の知的成長をブーストした結果、子どもたちは大人よりも遥かに賢くなり、ついには法的社会的な面でも成人を凌駕するようになった。大人は子どもを「持つもの」ではなく、子どもに「持たれる」存在となり、成人を映したポルノ画像は子どもを映したものよりも卑猥で反倫理的なものとされるようになった。
 そんな世界で30を越えたセキは、健康診断の帰りに、かつてクリプキ型生物研究所という施設で同僚だったアスカという女性に再会する。かつて誇り高かったアスカがすっかり”被保護者”として落ち着いていることをセキはショックを受けつつも、その出来事を呼び水として研究所の創設者で稀代の天才だったマキのことを追憶する。
 他のネオテニアンすら圧倒する知性によって研究所を円滑に(かつマニピュレイティブに)運営していたマキのもと、子どものころのセキは人間の認知を高次元のレベルへと拡張する研究に従事していた。
 ”卒業”間近であることを認識しながら意識拡張研究に追われるセキだったが、知らず、天才マキのとある発明に触れることとなり……といった話。

 本書中随一に魅力ある設定。子どもが特殊な条件下で大人の模倣のような権力や組織を持つという物語はヴェルヌの『十五少年漂流記』をゆるい原型としていくつか存在し*2が、「老い縋る未来」は大人と子どもの権力関係が完全に逆転した社会を描く点でフレッシュだ。
 そうなるとよくあるミラーリング的な社会風刺の寓話が展開されるのか、と思いきや、舞台は研究所内にほぼ限定され、マキというミステリアスな中心についてのミステリーへと絞られていく。*3
 また、アドレッセンスの喪失ものとしての側面も見逃せない。この世界では18歳ごろを境に知能が急激に低下し*4、失職して二度とまともに働かなくなる*5のだが、このタイムリミットが本作での「今しかない」感を演出している。
「大人になって何かが失われてしまう」という感覚は学園ものや青春ものと共通しているわけで、ピーキーな設定で専門的な術語にあふれていながらも、そこのあたりで意外に口当たりがよく読みやすい。そうした下地に人に対する人への感情がうすく乗ったりする。
 ハイブラウな神経医学SFと、それによって引き起こされる社会的変化についての描写、そしてマキを軸にした人間模様と要素的にはかなり欲張りに詰めこんだ一本であり、14、5ページという枚数に対してカロリーが高い。その分やや終盤は感情面で急ぎすぎた印象もあるけれど、シンプルな奇想を科学的に理屈づけるゴテっとしたまさにSF!な力技を見られるというので満足が得られる。

「原始創造性喪失:車輪の発明の困難性について」xcloche

・論文……というか、科学エッセイ形式で綴られている。
 古代の世界ではいたるところで「ころ」(複数の丸太を下にしいて重いものを運搬するアレ)の技術が発生したが、車輪を発明したのはメソポタミア文明ただひとつであった。
 なぜ他の場所で「ころ」が車輪に発展しなかったかといえば、ふつうに思われるよりこれらはかなり構造の隔たった代物であり、連想的に生み出すには飛躍が必要とされ、かつ十分に発展した「ころ」は十分に運送の役目を果たしていてそれ以上の技術が求められなかったからである。
 ”このように、原始創造性喪失とは「既存技術が十分に発達してしまうと、代替技術はどんなに効率的で構造が単純であっても、発明が困難になる」という現象である。”(p.24)
 こうした現象は輸送技術のみならず文明の至るところ、そして生物の構造にさえ発見される。
 どこかでなにかがボトルネックになって文明の発展を阻害しているかもしれない。「ころ」より効率的な車輪をメソポタミアに至るまで誰も発明できなかったように、車輪より単純で効率的な何かをわれわれが発見できないでいる可能性は大いにある。
 そこで世界シミュレーションの分野において考案されたのが「文明焼きなまし法」だ。天災や気候などのパラメータをいじることで、「より車輪が発明されやすい」環境を作り出す。
 さらに複数の世界をシミュレートしたときにどの世界でも発生する「普遍発明」と、特定の世界にしか発生しない「特殊発明」を観測比較するアプローチなどもあり、まあそんな感じでお茶目な事が書かれています。

・ハヤカワの『異常論文』の一篇として紛れ込んでいても違和感がない。
 最初に「なぜ車輪はメソポタミアでしか生まれなかったのか」という大見得をカマすのが痛快だ。その後も説得的で愉しい論考が続いていく。論文や論考に見えて実はびっくりどっきりな仕掛けを持っていた、というのはこの手のものによくあって、本作もその例に漏れない。しかし、それがあまりにシレッと書かれているのが憎らしいとううか、オタクの好きなやつである*6
 ホラ話はデッドパンにて語るべきだとおもう。語り手がすくなくとも当然視している状態を装っていないと、話されるほうも信じない。要するに詐欺師に倣えということで、本作はまごうことなく詐欺を完遂している。
・ラストは(作品世界内の)現状を前向きに肯定するみたいなノリで、このとってつけた感もそれっぽいというか、もしかして(作品世界内での)予算を分捕ってくるために書かれた文章なのか???と勘ぐってしまう。
・あと図がいっぱいあってうれしい。

 
 

「黎明」脊戸融

・ある惑星に入植した地球人たち、しかしそこはカエルラという歩行する森に支配されていた。あらゆるものを貪欲に飲み込むカエルラの影響で地球由来の植物は大地に根付かず、植民は難航。技術局に勤める「私」は上司である九谷主任設計官と共に不毛の惑星に立ち向かう。一方で、その記憶と並行する形で「私」と翠という謎めいた少女との交流が描かれる。果たして「私」と移民たちを待ち受ける運命とは。
・テーマは百合です。
・カエルラというギミック生物を中心とした生態系が緻密に描かれる。カエルラは仮足で移動したり、触れた生き物を片っ端から捕食したりする巨大なアメーバみたいなやつなのだが、九谷によって遺伝資源として移民たちの糧として利用されるようになった。この敵であり共生相手でもあるカエルラと人類とのギリギリの関係が魅力的だ。
・人間の話としては最初にも言ったように、百合です。
・p.34 上段 "私はカエルラ採れた原料で作ったパスタを〜"→"私はカエルラで採れた〜"?
・同ページ 下段 "そのことなんだけど〜"→一字下げ

「ペコとかまどのオカルトごはん! スカイフィッシュ・タコスと釜揚げスカイフィッシュ」赤草露瀬

・メキシコはアマゾン。さすらいの料理人・御厨かまどと神出鬼没のハンター・ペコは、コロ介みたいな語尾で喋る現地ガイドのアントニオをお供に今日も幻の食材を狙う。今回のターゲットはあの超高速UMAーースカイフィッシュ
・"「観光か(sightseeing)?」「ううん。ご飯だよ!(NO. Combat.)」"(p.38)
 コンバットだよ、ではないが、コンバットだよ、では。
・タイトルとセットアップでだいたいわかるとおもうけれど、主として描かれるのはスカイフィッシュハンティングとその調理。特に調理と食事シーンに比重が割かれており、グルメSFとしての興味が強い。漫画界では昨今の異世界ファンタジー流行りで、*7空想生物料理マンガも多いが、まあだいたいそんな感じ。
 スカイフィッシュの調理法は、タイトル通りタコスにしたり釜揚げにしたり刺身にしたりとバリエーション豊か。食感はボイルイカに近いらしい。
 収録作中でも最も語り口がライトで、アクションやギャグもふんだんに散りばめられていてするりと読める。オチもなんか「もうこりごりだよ〜」と叫んでぴょーんと跳びアイリスアウトする感じで終わる。跳んだりはしていなかったかもしれない。

「」巨大建造

・タイトルは入力忘れではなく、実際に空白になっている。空白になっているだけでついていないということではない。ネコの男性器のような言い草と思われそうだが、どういうわけかは読めばわかる。
・独特の用語と節回しに溢れていて筋はよくわからない。末土クレーターと呼ばれる半径一キロほどのクレーターの地権者であるサヴォ島トヲは二十三歳になるが、このほど大学を中退して無職である。手から砂を出せる魔法を使える。*8実家に帰ってからは義理の妹であるアメなどとつるむなどしていたが、あるとき市役所所属の騎士サー・漁人マルコ従六位の訪問を受け、「末土の危機」を防ぐためにの協力を要請される。たぶんそんな感じ?
キリスト教や神話のモチーフが豊富に投入され、それらをファニーな言語センスとオフビートな会話が彩る。50ページ弱は収録作中最長。長ければ長いほどカオス感が増していくので、そうした酩酊感を楽しむのが正しい用法かもしれない。


『〈未来の文学〉完結記念号 カモガワGブックス vol.3』カモガワ編集室

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 トリビュートより、鳥貴族。――サミュエル・ジョンソン



国書刊行会から出ていた〈未来の文学〉叢書がこの度『海の鎖』を持ってめでたく完結したことを受け、その全レビューを行うことを主目的とした同人誌。「絶対読んどけ!」な本と「別にこれは読まんでも…」な本の差がうちのイヌ(故犬)のテンションの上下より激しい叢書であるけれど、本書の全レビューを読んでいるとなんだか全部大傑作におもえてくるから不思議だ。エッセイの寄稿陣も豪華。
 それはともかくこの記事で扱うのは付属しているトリビュート創作コーナーの作品群。
 トリビュート小説は書く方も大変だろうが、読む方も大変である。なぜなら、書く方はまずトリビュート元を読んだものとして書く。だが、読む方はトリビュート元を読んでいるとは限らない。読んでいない状態で読むとどうなるかというと、読みながら常に目の前の展開や人物や語彙ひとつひとつに「これには元ネタがあるのではないか」という強迫観念をおぼえる。不安である。そうなるともう読むどころではない。じゃあ、〈未来の文学〉全巻読んでからおとといいらっしゃい、という話になるのだけれど、いや、だって、『ダール・グレン』とか完読するのダール・グレン*9じゃないですか……。というか読んだものすらだいたい忘れるのが読者であって、そうなるとトリビュート短編を読む直前にトリビュート元の本を読み、記憶が新鮮な状態で挑むというのががいちばん正しいことになるのだが、それができれば苦労はせず、このブログ記事も土曜日の朝9時のキマった精神状態でアップされることもない。朝イチでラストナイトインソーホーを観に行く予定がおじゃんで、これじゃあ、ラストナイトインソーホーじゃなくてラストナイトイントホホ〜だよ。


「世界の穴は世界で」茂木英世



「でもその分私には角があるわ。それって胸に穴がなくて角がない人と何が違うのよ」(p.66)



「おまえはいったいどこからいろんなお話をこしらえてくるの、オーリャド?」


 ――浅倉久志・訳「ファニーフィンガーズ」



ラファティトリビュート
・頭にツノを生やし心臓あたりに穴の空いた十二歳の少女、マーガレット・タイニーデビル。町一番の噂の娘。彼女は街へ繰り出しておかしな住民たちの家々をめぐる。ヴァルハラに帰りたくて毎日めそめそ泣いている巨人、素数しか口にしない女ロボット、そのロボットを開発した街の発明おじさん、そのおじさんの次なる発明品である未完成の虎、魔法使いに科学を習ったと噂の医者もどき……なにかしらの欠落を抱えたかれらを少女は満たして世界の均衡を救えるのか?
ラファティほんとに好きなんだな、というかんじの詰め込みっぷり。
・で、わたしのほうはラファティは好きかといわれると微妙なところがあって。このまえ出たラファティの短編傑作選を読んでビックリしたのだけれど、昔読んだやつをほぼきれいさっぱり忘れていた。内容や印象や感触を忘れたならまだしも読んだという事実すら忘れてしまい、なんかこれおもしろかったな〜と感じた短篇の初出を見て初めてあれおれこれとっくに読んでたはずだが?? と愕然とする。まあそうした事象がラファティに特有かと言えば別にそんなことはなくジーン・ウルフやディッシュも平等に忘却しているわけなのだけれど、ふつうのSF作家に比べてラファティを忘れることについての罪悪感は小さい。ほら話だからだ。話は変わるが、ほら話と噂話が異なる生き物であることをご存知だろうか。ほら話には理屈があって脈絡がない。噂話には脈絡があって理屈がない。
「世界の穴は世界で」はいちおう噂話と規定されている。けれど、欠落とその解消という点では筋があり、ほら話的である。要するにはラファティ的。しかし、トリビュートもので漠然と「○○(元ネタ)っぽい」と述べるほど怠惰で責任回避的な物言いはないのであって、読者もどこかで虚空を踏んで落下するリスクを負わねばならない。
・マーガレットは軽やかである。胸の穴の心配を母親からされていても、代わりにツノが生えているんだから差し引きゼロだ、というようなことを強弁する。しかし穴は穴であり、ツノはツノだ。局地においてはそれらはどうみても欠落であり、余剰だったりする。けして平坦な地面とおなじ役割は果たさない。穴は呑み込み、ツノは穿つ。そうやって世界に波乱を起こして行くわけで、町に広がる噂もそうした波風にすぎないのかもしれない。
 信仰がある、というのは良いことだ。
・収録五篇中、この作者だけは初顔合わせ。また良い書き手が出たなあ、という印象。


「返却期限日」鷲羽巧



ディケンズは好きか?」(p.85)



「……ディケンズは好きか?」
 ――江波光則『密葬』



・ウルフトリビュート。「返却期限日」がどういう話か、というかどういう趣向であるかは『ジーン・ウルフの記念日の本』を読んでもらったほうが早いけれど、ひとついえるのは”ジーン・ウルフの「返却期限日」”とは「読まれないことを前提にして書かれた(フリをしている)」話であるということ。
・目の悪い伯父からこづかいをもらってSF小説を読み聞かせしていた少年ブーク氏。古本屋を営むその伯父から誕生日プレゼントとして好きな本を選べと言われた彼は余白に「さようなら、いままでありがとう」と書かれた短編集(『ジーン・ウルフの記念日の本』)を貰い受ける。彼は最後の収録作から逆順に一日一編短編を読み、最初の収録作である「返却期限日」まで進む。ところがページがくっついていて開けない。勝手に切り開くのは伯父の主義に反すると判断したブーク氏は伯父の意見を伺いに古本屋へ向かう。しかし到着するや質問をする前に「おまえがこの前もっていった本を読んでくれ」と頼まれ、仕方なく「返却期限日」の物語を捏造する。彼はその後、同じタイトルの別の話をいくつも創る。
 ブーク氏は成長していき、大学を中退したのち軍に入隊し、従軍、暗号解読の仕事に就く。そのあいだに伯父は亡くなっていた。やがて故郷に帰り、すっかり中年になった彼は亡き伯父の古本屋を継ぐ。あるとき、彼は自分の「返却期限日」を元に小説を書き始め……といった話。
後藤明生「なぜ小説を書くのか。小説を読んでしまったからだ」という有名な箴言がある。本作はまさにそういう話で、読書と創作と解読と翻訳がすべて同一の地平にある行為として捉えられており、さらに「読まなかった」という体験すら取り込んでいる。読んできたもの、読まなかったもの、読むはずだったもの、それらは本に生きる人間にとってニアリーイコールで人生であり、本作はそうしたビブリオフィリックな人々に捧げられた物語であるといえる。
 作者は本書における〈未来の文学〉全レビューコーナーで、『ケルベロス第五の首』と本作の直接のオマージュ先となった『ジーン・ウルフの記念日の本』のレビューを担当している。しかし、マインドとして本作にいちばん近いとおもわれる『デス博士の島その他の物語』のレビューからは外れている。実際のところは事情はわからないし、真実に興味はない。本当にない。ただ、本作が作者なりの『デス博士』論だとするとしっくりくる気がする。こんな妄想が芽生えるのも「読んでしまった」からかもしれない。

「イルカと老人」呉衣悠介



そこには「イルカがせめてきたぞっ」という文句とともに、火炎放射器のような装備を持ち、陸上にあがって尾びれで立ち上がったイルカが、後期高齢者を焼き殺す姿があった。「これに見覚えはあるか?」(p.104)



 ぼくをここに閉じこめている張本人は、人間に違いない。要するに、ふつうの人々だ。


 ――伊藤典夫・訳「リスの檻」



バドワイザーウイルス脳炎という感染症が蔓延する近未来の日本。この脳炎にかかるとモラル的な志向がゆるやかに変化していき、最終的に感染前とは正反対の政治的・思想的なグループへと属するようになる。たとえば、リベラルだったハリウッドもこの感染症の影響ですっかり右翼愛国的な映画に席巻されていた。
 転職のタイミングでおりあしく脳炎にかかってしまった主人公・平山は、就職のために"後遺症"が残っていないことを証明しようと病院で検査を受ける。脳炎の影響によってSNSなどでのトラブルが増えたため、雇う側も慎重になっていたのだ。
 ところが平山の結果はクロ。再就職に窮した末に平山は審査を要しないスーパーのアルバイトに就く。あるとき、そのバイト先の同僚に誘われて反ワクチン派のイベントに出る。そして、それをきっかけにさまざまな集まりに出席するようになる。レイシストの集会、反フェミニズムの集会、動物愛護、反出生主義、右から左でも何でも。
 特段、政治に積極的でなかった平山だったが次第に「見ているよりも参加する方が楽しい」と考えるようになり、自分がシンパシーを持てる相手にメンバーに固定して「政治的に自由な発言ができる」ような交流を持つ。ある夜、その集会で脳炎の影響で転職に失敗したことを告白し、同僚(最初に平山を集会に誘った人物)からスーパーの本部で法務部の枠が空いているのとを聞かされ、うまいこと本社勤務におさまる。
 コンプライアンスが重要視される本社では集会でのような政治的発言は抑制していた。その裏で、彼はとあるウェブアプリの開発にかかわるようになる。そのアプリの内容というのが……という話。
・コロナ禍と政治の分断というかなりアクチュアルなテーマを濃厚に反映した一篇。感染症の後遺症によって政治思想や人格が変化していくというギミックが仕込まれていて、主人公が最終的にどんな"思想"に帰着するかというところでもサスペンス・スリラー的な興味がある。
・映画や文学のリファレンスが多く登場する。特にラストにディッシュのある小説*10*11を小説を紹介していたのは誰か、というのは本作のトーン&マナーに通じていてエキサイティング。そこのあたりとは別にマクロな社会のたゆたいやすいイデオロギーに翻弄される個人を描くという点では小松左京っぽい*12し、まったく趣意の異なる集会を渡り歩いたり男たちでちょっとアンダーグラウンドな結社めいたものを作り上げたりするところはパラニュークっぽくもある。
SNSでは右左問わず、あるいは一般的な政治性そのものから離れていようがいまいが、ラジカルなものほど声が大きく響き、そのコミュニティもデカく見える。そういう場所に身を置いているといつのまにか自分も変質していく。そんな感覚(ボディホラーならずイデオロギーホラーとでもいうのか?)は現代的でリアルな恐怖といえばそうで、そこを意識的に掬い取ろうと挑むのはただしくホラー的な態度ではないだろうか。いや、これ自体はホラーじゃないんですけどね。
アメリカン・サイコは最初から狂った人間として現れているけれど、ジャパニーズ・サイコは朱に交わって赤くなった水の底から這い出してくるものなのかもしれないね。

「ピンチベック」巨大建造



「大丈夫、お前が心配することじゃない。
 おれは金輪際、ゴールデンなのだから」(p.136)



「宇宙の支配者になるのってさあ、そんなにカンタンじゃないんだよな〜〜」


 ――林田球『大ダーク』



ディレイニートリビュートと思われる。思われるというのはわたしが『ドラフトグラス』*13も「ベータ2のバラッド」も読んだことがないからだ。
・外銀河を旅する宇宙船の船員の三代目にしてルナ・リプロという星間企業の一員として働くカナエ・アガタ。以前、航宙中に宇宙生物に襲われた結果すさまじい負債を負う羽目になった彼は「先生」という老人に付き合いながらグズグズな生活を送っていた。さまざまな事情から太陽系出禁になっていた彼らだったが、あるときアガタは"郷帰り"をすることになり……という理解で正しいのかはわからない。
・はからずも短期間で同作者の作品を三作品も読む事態となったが、例に漏れず脳みそを掻き回したようなグルーヴ感である。基調はスラップスティックでしょーもないパロディを好き放題やっている。「天の光はすべて噴射炎だ」ではないんだよ。このしょーもなさが最終的には壮大なスケールにまで到達するのだから侮りがたい。

「衣装箪笥の果てへの短い旅」坂永雄一



 衣装箪笥を旅するもののあめの手引(ワードロープ・トラベラーズ・ガイド)より、一項。
 衣装箪笥のなかへ入るものは多いが、出るものはいない。(p.138)



「あのう、森からぬけ出る道を教えてくださらないかしら?」


 ――ルイス・キャロル、河合 祥一郎・訳『不思議の国のアリス



・いきなりC・S・ルイスの『ナルニア国』の引用から始まる。ルイスって〈未来の文学〉おったっけ? などと思ったら、「ジーン・ウルフやラファティら、カトリック系SFF作家へのささやかなトリビュート」であるらしい。なるほど……あたしゃ『ナルニア国』を読んだことも映画を観たこともないけれど、キリスト教的なイメージが配置されているとどこかで聞きかじったな……などとおもいながら wikipedia を確認するルイスはイングランド国教会系の信徒であったとある。いやならカトリックじゃないじゃん、とおもって更に調べたら、河合祥一郎「『ナルニア国』に出てくるアレゴリーってカトリックっぽいねんで」と話してる記事が出てきてへえ〜〜〜〜となった。
・老境にさしかかりつつあるスーザン・ペベンシーがある夏の終わりの日、衣装箪笥からコートを取り出そうとして誰かの指に触れた。侵入者を捕まえようとして衣装箪笥に入り込むと、そこには広大な冬の世界が広がっていた。その世界には衣装箪笥に十二年間棲まう少年やつぎはぎのコートを羽織った大熊がいて、スーザンはかれらを頼りに衣装箪笥からの脱出の旅へ出る。だが、一行を影でつけねらう得体の知れない怪物がいた。はたしてスーザンの運命はいかに。
・スーザン・ペベンシーとは『ナルニア国物語』に登場する主人公きょうだいたちのうちの一人だ。そう、『ナルニア国』トリビュートなのである。そんなのアリ?  そのことが明示されるのは終盤になってから*14だが、そのとき彼女と彼女のきょうだいが辿った「末路」に、エッ!? あれってそんな展開になるの!? とビビってしまった。途中からどこまでナルニアでどこまでそうではないのかが気になりまくって注意が散ってしまった感があり、そのへんはナルニア履修後に改めて立ち戻りたい。
・スーザンの旅路の合間に「衣装箪笥を旅するもののための手引き」と称してエンサイクロンペディア的な語りが挿入される。それは衣装箪笥の世界の構造や神話や文化につての語りで、かなりホラ話感が強い。一方でスーザンの筋は「ページを開けばまた会えるんだよ」的なノスタルジーを予感させつつもちょっと悪夢っぽい。
・終盤に立ち上がってくる世界観と問題設定はもろにキリスト教的ではある。ここに至ってそういえばキリスト教徒であることとSF・ファンタジーの創作者であることとはどう両立するのだろうという素朴な疑問が立ち上がってくるのだけれど、あるいはそういうこと自体が問題意識に含まれているのかもしれない。
・諸々の元ネタがわからなくとも、不思議の国のアリス的なファンタジックで不条理な世界に迷い込んだ女の話として読めるので、あまり構える必要もないのかもしれない。いさましいちびの鼠とかかわいいですよ。

追伸

*『無花果の断面』は12月11日までに入手できなかったため、感想をつけられませんでした。各自で買って読め。
booth.pm

*1:と十分なお金

*2:最近だと藤田祥平の『すべてが繋がれた世界で』で病原体的ナノマシンによって人類が22歳までしか生きられず、政府を含めたあらゆる政治・社会機能を子どもたちが担うといった世界が描かれていた

*3:「外部」を描くのが結構大変な設定だとは思うので、そこは戦略的な側面を含んでいるのかもしれない

*4:といっても現在の標準的な大人の知能レベル

*5:それまでに形成した資産で暮らしていく

*6:そういえば、前に作者が書いた掌編に似たような趣向のものがあったような気がするけれど、記憶が曖昧。

*7:ダンジョン飯』を筆頭に

*8:五十嵐大介の「すなかけ」みたいに

*9:ミステリにおける「『樽』はタルい」に匹敵するおもしろギャグ

*10:読んだことはないけれど非SFに分類される作品であると思う

*11:ちなみに終盤には『人類皆殺し』も出てくるけどこれはちょっとしたイースターエッグだろうか

*12:私の小松左京観は貧弱なのであってるかは知らない

*13:あるいは『時は準宝石の螺旋のように』

*14:まあ最初からスーザン・ペベンシーといってるし、序盤でもさりげなくそれっぽいことは混ぜてあるので、ナルニア既読者はもちろん少々勘のいい未読者でも気づくだろう

ひさしぶりだな、俺だ、今 VRChat にいる。おまえはどこに?

 あっちこっちへ 余計な話が多い

 まるで聞いた話が全部右から左に流れていくように

 興味が持てん


  ――『邦キチ!映子さん』Season 7 第八話 

 はじめに忠告しておくけれど、このテキストは長く、一貫性を欠いており、有益な知見も含まれていない。帰ってくれ。


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Gunkanjimaverse より。軍艦島を原寸大で再現したワールド。



あれは2019年のことだった。

 VRChatがアツい、と聞いたのは二年前の京都の旅館さわやで開かれた京都SFフェスティバルの夜の部でのことだった。錬金術師として巷間に広く知られる xcloche さんがVRchatについて語る企画部屋を建て、そこでVR専用のおもしろ美術展示を開催した人のことや、他人のアバターを乗っ取る荒しや、毎日ヘッドセットを装着することで視力を回復した体験談などを語ってくれた。そんなことがほんとにあるの? といった魅力的かつ魔術的な物語の連続で、まるで大航海時代に信じがたい冒険をした船乗りの報告やマンデヴィル卿の旅行記を聞いている心地だった。同時に、わたしには遠い出来事のようでもあった。わたしは開拓者精神にも冒険心にも薄い。船乗りどころか、社会と経済が許容してくれるのであれば一生家に引きこもっているタイプだ。VRChatは部屋にこもったままで海原へこぎ出せる機会を提供してくれるけれど、機会くらいで生まれつきの怠惰さが解消されるわけではない。ザッカーバーグはわたしのめんどくさがりっぷりをなめないでほしい。
 だいいち、アーリーアダプターたちがひとつかみの勇気と好奇心を携えて集うようなコミュニティは性に合わない。わたしは技能面でも性向としても自分でなにかしらの価値を生み出す有用な人材ではなくて、そういうひとたちがひとところに集まってわいわいしているのを見るとまぶしくて眼が焼けてしまう。

 そういうわけで、待った。

 VRのかがやきが十分に褪せるまで、ぴかぴかの冒険心や好奇心がすり減るまで。先駆者たちが飽きるまで。といえばなにやら作戦っぽいけれど、ようするに日々縦になったり横になったりを繰り返しながらもたもたしていただけだった。
 そうこうしているあいだに Oculus Quest 2 が出た。より正確にいうならば、AirLink機能が追加された。どういうことかといえば、ヘッドセットをパソコンに直接つながなくてもパソコン上で動くVRソフトにアクセスできるようになったのだ。OQも最近ではソフトがちょっとは充実するようになったのだけれど、ゲーム機として考えた場合にはヴァーチャルデスクトップにつなげるかどうかで遊びの幅が十倍は違ってくる。まあ、Steam で売られているようなVRゲームソフトはたいがいOclulusのストアにもあるのだけれど、気持ちとしてはザッカーバーグよりもValveにショバ代を払いたい。どちらもシャブを売っているエグいヤクザではあるのだけれど、ザッカーバーグよりかはValveのほうがまだマシな気がする。

スラムとイヌとビリオネア

 OQ2を購入してすぐにVRChatにつないだ。わたしのtwitterのTL上にいる先輩たちはのきなみオリジナルのアバターを制作していて、そういうものがないと(そういうものを作れる技術がないと)市民権が得られないのかと思っていたけれど、オフィシャルのほうで用意されているアバター(ホットドッグとかバターとか)もあんがい充実していて、とりあえず着るアバターがなくて外に出るのが恥ずかしい、といった事態は避けられる。だが。
 途方にくれてしまう。どこにいけばいいのかわからない。
 VRChatは、なんていうの? ワールド? と呼ばれる島宇宙インスタンスに分かれていて、ユーザーは行きたいワールドを適宜指定して飛ぶ。プレイステーション世代なら『サガ・フロンティア』みたいな感じと説明すれば一発で通じる。それ以外の世代にはどういってあげたものかわからない。とりあえず、今サガフロのリマスター版が steam とかで売ってるから買ってやればよろしいのではないだろうか。おもしろいよ。
 ところで、花が咲くのはVRだからでしょうか。鳥が飛ぶのはVRだからでしょうか。それはサガフロ1ではなく2での問いかけなのだが、わたしはてきとうに選んで入ったワールドで、生まれて初めてVRを介して他者と邂逅し、英語で罵詈雑言を浴びせられている。


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 声はかなり幼い。どうやら向こうのことばでいうところのキッズであるようだ。
 わたしは留学先だったブライトンの学校の校長室から泣きながら母国に「帰りたい」と電話した日から英語が耳に入ると全身が小刻みに震えて吐き気を催し一言も発することができなくなってしまう。つまり英語で話しかけれても返答できないわけで、知ってか知らずか向こうのキッズは「聞こえないのか? もしかして、×××か、テメー?」などと罵りを重ねてくる。


 耐えがたくなって別のワールドに飛ぶと、そこは街一つがまるごとナイト・クラブのような場所になっている。グルーヴィなヴァイブスが心地よい。オフィシャルで用意されたマシュマロ人間みたいなアバターをぶよぶよ揺らしながら、歩き回っていると突然、「おいっ、あそこに変なのがいるぞっ」と四五名の十代?らしき若者グループに追いかけ回されだす。逃げても笑いながら「待てよ~」などと囃されて、追い詰められた末に路地の隅で取り囲まれる。実世界での経験上、英語をしゃべる四五名くらいの十代のグループはランダムに選んだアジア人を特に理由なく追いかけ回してもよい、と考えているのは知っていて、関わるとろくなことにはならないのもわかっていた。もっとも、わたしのガワはぶよぶよ人間なので国籍まではわからないだろうが。
 かれらはなにやらぶよぶよ人間にコミュニケーションを求めている風だったが、わたしのほうとしては逃げる相手を集団で追いかけるようなやつらには恐怖しかおぼえず、震える指でコントローラを操作してなんとかホームワールドへ脱出した。


 三番目に訪れたワールドでは誰にも絡まれることはなかった。
 そこは「陣内智則の動画を24時間流すだけの部屋」と名付けられたワールドで、日本のひとが作ったようだった。行ってみると、なるほど一室だけのスペースしかなく、壁には Youtube を再生できるスクリーンがあった。ワールドの趣旨からすると、そのスクリーンは陣内智則Youtube 動画を流す目的で設置されたのだろう。
 しかし、その画面に映っているのは陣内智則ではなく、Happy Tree Friends っぽいカートゥーン調のアニメで、数名のキッズたちが床に座ってそれを鑑賞しながら、なにやら英語でささやきあっていた。その反対側では、有名なゲームキャラのアバターを着たなにものかが鏡の前でひとり無言でポーズを取っていた。なにやら縦にした口と目だけでできた奇妙なキャラもいる。わたしの足元には「陣内智則」と書かれたプレートが変死体のように転がっている。もとは壁にでも飾ってあったのだろうか。スラムだな、という感想がわいた。


 このようなプレミアムなファーストコンタクトを経たわたしが「VRChatは知らんガキに絡まれる、治安最悪ろくでもないクソみたいなソフトである」と判断したのは至極当然であった、とご理解いただけることとおもう。OQ2をしばらくは Tetris Effect や Rez:Infinity といったゲームに見せかけた映像ドラッグでたまにキマる用の置物として自室に転がしていた。ちなみに Half-Life:Alyx も買ったけれど、めちゃくちゃ3D酔いする体質なので三十分で放り出した。Vrchat など二度と触るまい。そうおもっていた。


 そんなある日、ひょんな流れからネット上の知人数名と VRChat にログインしておしゃべりすることになった。行ったのは、広いけれど何かおもしろいギミックが用意されているでもない、ふつうのワールド。
 これがめちゃくちゃ楽しかった。
 なにか特別な出来事があったわけではない。特別なトピックの会話が交わされたわけでもない。会話の内容はといえば、Vrchat経験者による初心者へのちょっとしたTips講義、それにワールド内でカーテンを見て「カーテンがある!」とまんま述べるような観光客みたいなはしゃぎかただけだった。
 そんな雑な発話がむしょうにおもしろい。ふだんは Discord 上でやりとりしている無形の存在がエメラルドグリーンの鹿や怪人ミラーボール男やペスト医師に身をやつして動いてしゃべるだけで、なんともいえない愉快さが醸し出されてくる。他人がデジタルに身体あるものとしてたちあがってくると、ひるがえって二足歩行するカエルになっている自分の身体性まで興味の対象となる。
 ここで初めて、OQ2の性能に気づく。OQ2のトラッキング機能は実はけっこうすごくて、腕の位置が精密に反映されるのはもちろん、自分が座れば高低差を感知してVRchat内のアバターも座るし、指も一本単位で動かしてじゃんけんまで可能だったりする。その時接続していた他のユーザーがみなPC組(VRchatはヘッドセットがなくともPCの画面上でプレイできる)だったので、動作のダイナミックさがより際だった。「身体がある」そういう感情、日常生活ではけして確認することのない事実に対する新鮮な驚愕が、わたしのなかに生じた。

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カエルになって火にあたると、ほんとにあたたかくなったかんじがする。


ピクニック・アット・ザの。

 めちゃくちゃ怖いワールドがあるらしい。
 わたしは谷戸(仮名)と織林(仮名)とマンソン(仮名)にそう告げた。三人ともわたしと同時期にVRchatを始めた新米で、Vrchatで目にするすべてがフレッシュにきらめいて見えるお年頃だった。
 わたしは『早稲田文学』のホラー特集号を広げた。もともとマーク・フィッシャーの the wierd and the eerie の抄訳が載ると聞いて購入したもので、さっさと全訳を出版してほしいものであるけれど、それはともかくとして、わたしが示したのはホラーゲーム実況者の座談会の記事だった。実況者たちのなかにVRchatのホラーワールドをめぐっているVtuberがいて、そのひとが「いちばん怖い」だかなんだかの触れ込みで Sad Amelia というワールドを記事中で挙げていたのだ。
 わたしはホラーが好きであるし苦手でもある。ジャンプスケアなどの表現にまるで耐性がなく、たまにホラー映画を観にいって怖くなりそうな場面に出くわすと、席のせもたれにのけぞって薄目がちになってしまう。その上、鑑賞後まで恐懼を引きずり、帰りの夜道や就寝前にくらがりが気になっておびえまくる。家でひとりでホラー映画やホラーゲームを観るなどは考えれない。他の誰かといっしょではないとまずやらない。
 そういうわけで、ひとりでは怖いので、いっしょに Sad Amelia に同行してほしい。わたしは三人にそう頼んだ。
 谷戸と織林はしぶった。かれらもまたホラーが苦手だった。「VRchatのなかで一番怖い」のならなおさらだ。「仕事が忙しい」だの「ワクチンの副反応がつらい」だの理由にもならない理由をつけて煮え切らない態度を取る。
「友だちの一生の願いば聞き届けんで何が親友でごわすか」
 そういいきったのはマンソンだった。マンソンがそういうなら・・・・・・と残りのふたりも同意した。持つべきものは決断力を備えた友である。

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たすけてくれ。


 Sad Amelia で起こった出来事についてはあまり語りたくはない。
 わたしがいえるのは、政府は友人を見捨てて逃げるような輩に対しては150%の所得税率を課すべきである、という政治的な意見だけだ。
 一方で Sad Amelia のゲーム性についてはある程度語ることができる。
 織戸によると、ホラーワールドとは、つまるところ、ヴァーチャルなお化け屋敷である。フィジカルなお化け屋敷と異なって現実の物理法則や予算に縛られないぶんだけ、仕掛けでそうとうな無茶をできる。
 たとえば、Sad Amelia のある場所では天地が逆転する。ユーザーは自分がさかさまになった状態で歩かされるわけで、ホラーとしての効果はともかく、かなりビビる。
 また、ある場所ではアバターを剥奪される。一ユーザーが制作したワールドにそんな権限が付与されていることにも驚かされるが、いきなり自分の外見が強制的にチェンジさせられるのは、すごい。この世界では自分が自分であることすら確かではないのだ。いとも簡単に自己同一性を剥ぎ取ってしまえることはホラーコンテンツにおいて大きなアドバンテージではないだろうか。
 そして、ヘッドセットをつけていることで恐怖は倍加する。
 映画なら顔を背けるだけで画面で起こっている出来事から逃げられる。耳をふさぐだけで制作者の罠を避けられる。だが、VRの世界では逃げ場所がない。これはこわい。かなり、そおっとろしい。実際、途中からコントローラーを握った手にいやな汗がにじんでいた。ずっと、同行者の名前を呼ぶだけの動物になっていた。
 ゲームにしろ映画にしろ(すくなくともアメリカの)エンターテイメントは没入感を第一義に発展してきた歴史があるけれど、没入という点ではこれに勝る体験はなかったようにおもう。
 

 翌る週末、わたしたちは終わらない夏にいた。ぬけるような青い空、やさしい輪郭の入道雲、陽光を跳ね返して うそみたいに SHINY な BEACH……。

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 Project:Summer Flare は謎解き型のワールドだ。ビーチや水族館や神社を巡りながら、夏休み感あふれる世界の秘密を解き明かしていく。
 ホラーワールドがお化け屋敷であるならば、謎解き型のアドベンチャーワールドはさしずめ脱出ゲームだ。そして、ホラーワールドと同じく、脱出ゲームにはない体験がPSFにはついてくる。
 まずはアクションだ。PSFでは折々で飛んだり跳ねたり撃ったり振ったりのゲームゲームしたアクションが求められる。そのアクションが謎解きにもからんでいて、これがなかなかよくできている。
 そして、拡張された演出。これは実際にPSFをやってもらわないことには説明しづらい(ネタバレになるので)のだけれど、大規模な舞台の切り替えなどはデジタルな空間でないとなかなかお目にかかれない。
 しかし、ゲーム的な面でPSFに何よりシビれるのは「VRchatというシステム」そのものを利用したある仕掛けだ。ああしたメタなギミックはその媒体やジャンルがある程度成熟したときにようやく登場するものだけれど、VRchatではもうその域に達しているのか、とその成長速度に驚かされる。
 

 続けて、ヴァリア・ライドへも行った。

www.youtube.com

 世界観や設定についての説明は省くが、ここは要するにディズニーランドやユニバーサル・スタジオにあるようなライド施設を再現したワールドだ。というか、ディズニーやUSJのライドをかなり深く研究しているようで、「それっぽさ」の精度に舌を巻く。そうそう、ライドにはナビゲート役のおとぼけキャラがつくんだよな、とか、そうそう、ライドはこういう展開になりがちなんだよな、という定石を踏まえまくっているのだ。ディズニーランドファンやUSJファンはぜひ試してほしい。

ぐーちょでぱーく。

 わたしはVRchatをアトラクションのハブとして受容した。すなわち、テーマパークとして。
 限定された空間を細部まで高度に精緻にデザインすることで”ここ”ではない世界をもうひとつ造り出す、という発想はそのままディズニーランドの設計思想だ。ウォルト・ディズニーの世界創造は単に静止した空間を切り取るだけでなくて、そこに生える動植物が成長していく時間軸まで視野にいれた、パラノイアックなものだった。*1かれはメインの客層である子どもたちの視点にパーク全体の縮尺を合わせ、世界を見せることに徹底的にこだわった。そのことを示す有名なエピソードがある。ウォルトは毎日のようにおしのびでディズニーランドを訪れ、ひとつひとつの施設をゲスト目線で味わっていた。そんなある日にかれは〈ジャングル・クルーズ〉を訪れたあと、スタッフをこう叱ったのだ。「〈ジャングル・クルーズ〉は七分半の川下りだったはずだ。今回は四分しかなかった。きみは半端にはぶかれた映画を観せられたらどうおもうかね? あのカバをゲストに見てもらうためにどれだけの費用をついやしたかきみも知っているだろう?」*2
 グランドデザインを行ったのはウォルトだったが、パーク内のエリアやアトラクションを具体化させたのは「イマジニア」と呼ばれるひとびとだ。イマジネーション(想像)とエンジニア(技術者)を合わせた造語で、それまでディズニー本体でアニメ映画にたずさわっていたアニメイターなどがイマジニアとして多数登用された。かれらはある空間に生じる世界を、時間を、体験をデザインした。夢としてではなく、現実として。
 ディズニーランドのアトラクションとは大なり小なり、物語を語る自然である。本来の自然は少なくとも理解のたやすい形ではわたしたちに物語らない。難解な他者であるはずの自然を物語るための装置としてパッケージングし、親しみやすいものに造る。
 そうして物語のために造られた自然は、言語では語らない。いや言語を使いはするかもしれない。だが、ある種の映画やゲームが夢見るように、いちばん大事ななにかは言語の外であなたがたへ伝えられる。
 Project: Summer Flare の作者であるヨツミフレームはインタビューでこんなことを述べている。



人間は『言葉』というプロトコルを用いてわかりあう生き物であり、同時になにかと「言葉」に縛られる生き物だと思います。VRChat のワールドにせよ、本来はVRChatはUnityを動かすオンラインプラットフォームのようなものなので、文字通りなんでもできるはずなんです。…(中略)…これまで存在した概念を壊し、これまで存在しなかったものを造りたい。そういう思いから、「言葉を壊す」というフレーズが出てきています。


「言葉」を壊した先にあるもの――VRChat「PROJECT: SUMMER FLARE」で過ごした夏 | Mogura VR



 ゲームの分野には、環境(型)ストーリーテリングというタームが存在する。*3ストーリーを主に言語によらず、シーンに配置されたオブジェクトや風景などによって受け手に能動的な読解をしてもらう手法だ。
 たとえば、あなたが誰かの部屋に入るとする。そこには部屋の主はいないが、部屋の主が所有しているモノや活動の痕跡が残されている。たとえば、机に教科書や参考書が積まれていたら、あなたは部屋の主は学生であろう、と推測するかもしれない。その横に古ぼけたクマのぬいぐるみがあって、室内には他にぬいぐるみが見当たらなかったとしたら、あなたは「このクマはきっと部屋の主の思い出の品、あるいはライナスの安心毛布なのだ」などと、不在であるぬいぐるみ所有者のパーソナリティについて思いを馳せることもできる。そもそも、なぜ部屋の主は不在なのだろう? 学校に行っているのか? とおもってふと壁にかけられたひめくりカレンダーを見れば、一ヶ月前でストップしている。毎日めくるのをおっくうがったのだろうか? だが、一月から始めて十月の途中で突然日課をストップするとは考えにくい。もしや、かれの身に、その日なにごとかがあったのではーー?
 こうした受け手の想像を触発するデザインは多かれ少なかれゲームや映画に取り入れられている。極端にいってしまえば、RPGなんかでどこかの街に入り、街をすみずみまで散策する、街の住民と挨拶を交わす、それだけでもう環境ストーリーテリングだ。特にオープンワールドとよばれるジャンルではこうした細部のデザインがプレイ全体の体験の深さに関わってくる。
 環境ストーリーテリングそのものを全面に打ち出したジャンルもあって、ウォーキング・シミュレーターと呼ばれるジャンルがそれだ。プレイヤーは視点人物となるキャラクターに視点を憑依させ、一人称視点で3Dの世界を探索する。
 作例として挙げるなら『GONE HOME』。視点人物(=プレイヤー)の実家を舞台とする。ひさしぶりに帰省してみると、両親も妹もなぜかいない。プレイヤーは家のなかを探索してかれらの生活の断片を拾い集めることで、家族それぞれの人生の物語を知る。『GONE HOME』においては物語やテーマを要約して語ってくれるようなキャラクタ、あるいはナレーターは存在しない。*4バラバラに配置されたてがかりや風景からプレイヤーが脳内でファミリー・ポートレイトを独自に描き出す必要がある。ちなみに『GONE HOME』に限らず、ウォーキング・シムには「そこにいるはずの人々が何らかの理由で失踪している」シチュエーションが多い。それは単に一家族ないし街まるごとひとつぶんのキャラクターを配置するのが大変だという労働リソース上の制約もあるかもしれないけれど、環境ストーリーテリングの手法がそうした状況においてもっとも引き立つから、という理由もあるだろう。VRChatにおけるワールドも、どういう技術的制約があるのかは知らないが、NPCが配されているものは少ない。そうした点ではウォーキング・シム的なゲーム性と親和的であることは理解される。

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『GONE HOME』より


 現代のゲーム、すくなくともアドベンチャー的な要素を含む作品で「環境」について配慮されていないものはまずあり得ない。『Outer Wilds』の作者アレックス・ビーチャムはのちに同作のブループリントとなった学位論文で『Outer Wilds』の目的を「好奇心駆動型の冒険(curiosity-driven exploration)」と定義した。



これらの定義(「冒険」と「好奇心」という好奇心駆動型の冒険を構成する二大要素)をもちいれば、好奇心駆動型の冒険とは、あるひとが自分の知識や理解を拡充させることを主目的として(現実であれバーチャルであれ)じしんの環境を探索することを選択したシチュエーションと説明できます


「訳文;「"好奇心駆動型の冒険"とでも言うべき特殊なタイプの冒険に報酬を与えるゲームをつくりたい、それが『Outer Wilds』の主目的です」A・ビーチャム氏の論文より」―『すやすや眠るみたくすらすら書けたら』
https://zzz-zzzz.hatenablog.com/entry/2020/09/21/215800


 
ビーチャムの論文を翻訳したブログ「すやすや眠るみたくすらすら書けたら」では、環境ストーリーテリングという語の起源についても触れている。それによれば、確認しうるかぎりでゲームの文脈における「環境ストーリーテリング」の最古の用例はディズニーのイマジニアであったドン・カーソンの論考「Environmental Story Telling: Creating Immersive 3D Worlds Using Lessons」であるらしく、そこでは「環境ストーリーテリング」はまずディズニーランドをデザインするための思想として用いられている。
 あるエンターテイメント空間の環境設計においてゲーム開発者とディズニーのイマジニアが見る夢が似ているというのは、あまり驚くべきことでもないかもしれない。たとえば、ATARIの創業者であるノーラン・ブッシュネルはゲーム会社を立ち上げる以前は、ディズニーランドへの就職を希望していた。のちにATARIが経営難に陥った際には、会社をディズニーへ売ろうとまでしていたという*5
 ゲームにおける空間設計や建築の重要性は「す眠す書」を参照してもらうとして、VRによってディズニーランド的なイマジニアリングとゲームの世界構築がさらに接近していった印象がある。
 それがただちにメタヴァースの進歩の方向性を規定することになるかはわからない。これは局所的な現象にすぎず、失われたカリフォルニアン・イデオロギーの理想の復活にすがりつくひとびとや、メタヴァースにサード・サマー・オブ・ラブ(何度目だ?)を待望するヒッピーのなりそこないたちとも関係なく未来は更新されていくのかもしれない。
 わたしは世界を作る側の人間ではない。いい魔法使いにもわるい魔法使いにもなれない。くちばしを開けて待つことしかないフリーライダーであり、きみらが憎んでいる「一般人」あるいは大衆そのものだ。お仕着せのレディメイドのアトラクションで遊ぶことしかしないしできない。究極的に欲しているのはめまいを誘ってくれるアシッドな映像ドラッグだ。そんなわたしはとりあえず今はVRChatがたまらなく楽しいけれど、いつかは飽きるんだろうな、とはおもう。アトラクションであるかぎりはコンテンツには賞味期限がつく。*6賞味期限のないプラットフォームのことをわたしたちはインフラと呼ぶ。なぜひとは Facebooktwitter に入り浸るのか。インフラになってしまったからだ。おどろくべきことに mixi にすら住民が残っている。あの核戦争後の終末のような mixi にさえ。インフラになってしまったからだ。なりはててしまったからだ。賞味期限がないからといって、不朽や防腐まで保証してくれるわけではない。

心地よく秘密めいた場所

 マンソンはあの mixi のさびれぐあいが好きだという。かつて人が居て、今はいなくなった空間のさびしさが好きだという。
 わたしは同じ理由で VRChat の非アトラクション的な個人制作のワールドが好きだ。たいていは過疎で、万人に向けて開放されている Public のインスタンスにすら自分以外の訪問者がいない。mixi と違うのは、そこにはかつても人が居らず、現在もいない、という点だが、ふしぎに「かつて人が居た」感覚を嗅ぎ取ってしまう。
 名付けが大好きなわたしたちのインターネットはそうした感覚にもとっくに名前をつけている。Liminal Sapace(s).

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適当な liminal space のスクショがフォルダになかったから、筆者のリミナルアトモスヒア原体験である『クロックタワー2』の画像でも見てくれ。


 リミナル・スペースの概要やホラー性やノスタルジーオントロジーについては fnmnl で木澤佐登志が述べた記事があるのでそれを読めばいいとして、VRChat はワールド自体のクオリティの高低にかかわらず、どこもそんな雰囲気に満たされている。ホラーワールドがコズミックホラー的なインターナルな恐怖だとすれば、誰も居ない寂れワールドを歩くことはHGウェルズの「白壁の緑の扉」的なエクスターナルな不安かもしれない。
 たとえば、ワールド名を忘れてしまったが、わたしはあるとき「美術館」を名乗る過疎ワールドを訪ねた。「美術館」の概要文にはアート作品が飾られているということだったが、壁に掲げてある作品はいずれも英語圏のネットミームでよく使われるキャラたちを雑にコラージュしたもので、中には縦にした口と目だけの気色悪いホラーめいた、知らないキャラまでいた。だがあくまで人を驚かせたり怖がらせたりする意図で置かれたものではないようで、作品の大半はまったくおもしろくないネタ画像の域をでないものだった。建築としても凝ったところはない。ただ間取りがすこし美術館っぽいかな、という程度。
 「美術館」を見て回っていると、だんだん用意した作品が足りなくなったのか、アートの飾られていないスペースが広くなっていく。壁は壁だ。そこには白い地肌しか見えない。
 到着から十分ほどが経過して、わたしは突如としてそのワールドから出たくなった。
「ワールド」タブからてきとうに「陣内智則の動画を24時間流すだけの部屋」を選び、逃げ出すようにして「GO」ボタンを押した。
陣内智則の動画を24時間流すだけの部屋」では、Happy Tree Friends のパロディのような動画が流れていて、数名の子どもたちがささやきあいながらそれを観賞していた。かれらから目を離して横をみやると、あの縦にした口と目だけの怪物がいた。怪物は動画のほうを向かず、背後のミラーのほうも見ず、なにもないほうの壁をただ茫洋と見つめて立ち尽くしていた。

 そう、それと壊れている世界が好き。フォトグラメトリの手法で造られたワールドはリアルである一方で、一部が崩れたり歪んだり浮いたり壊れたりしている。

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 ヴァーチャルな世界が傷ついているさまはいい。しょせんヴァーチャルがリアルのコピーにすぎないから劣化していて当然、というわけではなくて、2021年のリアルワールドもおなじように崩れたり歪んだり浮いたり壊れたりしているからで、ただしく世界の有様を写し取っている。ここも世界なんだという気がしてくる。なんか記事の文字数が1万字越えてめんどくさくなったので、このへんは別の機会にまた語りましょう。ね?


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vanilla sky, anal hospital.



 ね? とわたしはマンソンにいい添えた。
 マンソンはわたしの話すことにたいして興味をそそられなかったようで、あいまいな相づちを打ちながら聞き流していた。そして、話が終わると、Magic Heist なるワールドが今アツいらしい、というようなことをいう。今度行ってみよう、とどちらからともなく提案される。いつもの四人で。きっと楽しいよ。そうかもな。






Oculus Quest 2—完全ワイヤレスのオールインワンVRヘッドセット—128GB
サガフロンティア 裏解体真書 (ファミ通の攻略本)

*1:ウォルト・ディズニーは晩年には実際に街を文字通りまるごと一つ造り出そうとした。その試みはかれの死によって頓挫することになる。映画版の『トゥモローランド』はウォルト最後の野望の残り香めいた作品であるといえるかもしれない。

*2:うろおおぼえだが『ウォルト・ディズニー 創造と冒険の生涯』から

*3:ゲームの分野では、といっても私の知る限り日本でこのタームを批評用語として頻用しているのはIGN JAPANのクラベ・エスラくらいしか存じ上げない

*4:ただ、「本筋」のようなものはあって、それはかなり直接的に語られたりはする。

*5:結果的にはワーナーの傘下へと収まることとなる

*6:わたしはゲームとメタバースの区別がついていないのだろうか。おそらく、そうだろう。

予告された死は喜劇か悲劇か問題――『100日間生きたワニ』について

 映画を観たのだから映画の話をしろ。映画の話をします。

 
 誰が自分自身にこんな誓いに立てるでしょう。「わたしは死を見るにも、喜劇を見ると同じ目で見るだろう……」

 ――セネカ「幸福な人生について」

 死。所詮然し死といふ奴は、語るべきものではないらしい。野々宮は、思つた。まつたくの話が、死といふ言葉は、実感をもつて語られても不思議に空虚なものであるし、まして戯れに語られては、ただただ興ざめた思ひのみ深かめるらしい。

 ――坂口安吾「吹雪物語」


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原作と映画の違いについて

 でもまんがの話からはじめます。当然でしょう。100ワニとは現象であり、インターネットなしにありえなかった現象なのです。

『100日間生きたワニ』の原作である『100日後に死ぬワニ』は当初ギャグまんがとしてはじまり、進行していくにつれドラマに転じました。境目はどこかと問われれば、私は「集中線を使わなくなった時期から」と答えるでしょう。
 初期の100ワニはほぼ毎話のように「ワニのドアップ+集中線」で〆られていました。




 こうした演出は四コマ目のすぐ下に記されているワニの死までカウントダウンと連携してします。
 要するに「こいつは(自覚していないが)○○日後に死にます」というギャグです。観客に周知されている出来事を登場人物だけが知らない、というのはシチュエーションはよくあるギャグの手法です。その「出来事」に「死」を当てはめ、かつインターネットでリアルタイムのコンテンツとして展開したことにきくちゆうきの慧眼があります。 
 すっかり世間に染まったとはいえ、不謹慎さに対する許容度が比較的に高い twitter という場で、死をネタにして笑う。そして、笑ったあとで、ふと我が身にも当てはまることにも気づく。わたしたちはワニ同様、明日にも死ぬかもしれないのに日々を蕩尽して漫然と生きている。ワニのように平気で数ヶ月後の予定なんぞ立てている。良質なコメディとは常にペーソスを孕んでいるものです。だからこそ、笑えるのだともいえます。
 原作における集中線は5日目(ネズミが入院するエピソード)を境に後退していきます。そこから何がはじまるかというと、ワニとバイト先のセンパイの恋模様や友人たちを軸にした日常もの。判断の早さからいって、おそらく既定路線だったのでしょう。100日という時間の流れを描く形式が自然に作劇をドラマ的な方向へ向けたともいえます。あるいは不謹慎ショートコント100連発で保たせるのはさすがに厳しかったとも。

 死は笑える。原作最初期におけるその思想はしかし、映画には受け継がれませんでした。
 当たり前です。映画館で流す作品です。公共の場で、健全な老若男女の目に触れるものです。頭にアルミホイルを巻きつけているユーザーが八割を占めるといわれる twitter なんぞとはわけが違います。
 映画では「死はかなしいもの」としてまっとうに描かれます。
 そうしたアティテュードは開始一分で観客に示されます。
 原作では100日目にあたるエピソード、すなわちワニの死の場面を冒頭に持ってくるのです。
 原作のコメディ性を成り立たせていた要素のひとつに、「ワニがどのように死ぬかはわからない」点があります。死に様がぼやかされているので、彼が死ぬと予告されてもあまりリアリティがなく、だからこそワニの言動を笑うことができた。
 しかし、映画ではいきなりワニが死ぬ。具体的に、こうやって死にますよ、と示される。しかも死の直前に、恋人や友人たちとの思い出の写真をおさめたアルバムなんぞを取り出して眺めたりする。一個の人格が、慕っていくれる仲間のいる人間が(ワニだけど)、死んだんですよ、と突きつけてくる。

 重い。
 シリアスにメランコリックな映画です。100ワニは。他人の死を笑うな。

 原作に路線変更後もちょくちょくあった、ワニがひとりで何もせずに過ごす回をカットしたのも、そのへんが関係してくるのでしょう。このような重い映画で限られた日々を、60分という尺を無駄遣いすることは許されない。 
 映画と原作のトーンの違いが決定的に出ているのは、ワニが横断歩道で車に轢かれそうになったヒヨコを助けるエピソードです。



 原作初期に典型的な構成で、オチのコマは集中線+ワニのアップになっています。ワニの行末や後のトーンを知らない当時の読者からすれば「いや、死ぬのはおまえだろ!」とツッコむ話であり、明らかにそうした反応を誘うようにできている。
 これが映画ではどうなるか。ワニはかなりのオーバーアクション(滑り込んで抱きかかえる)でヒヨコを救助し、めちゃめちゃ心配そうにヒヨコに注意します。冗談事ではないんだぞ、というふうに。そして、そのあいだずっとカメラは引いた視点から動きません。アップも集中線もないのです。そう、死は冗談事ではないのです。

 ひとりの生きた人間(ワニ)としてのワニを印象づけていくこと。それが本作のドグマです。たとえば、原作ではワニの両親は電話越しの声のみの存在で、姿は描かれませんでしたが、映画では後ろ姿だけとはいえ存在を実感できる人物として描く、ワニの実家での両親の生活風景まで映し出されます。
 ワニはだれかの息子であり、だれかの友人であり、だれかの恋人だった。そんなひとの死をあなたは笑えるのですか?

ワニの死後について

 
 映画オリジナルの展開となるワニ死後のストーリーはけっこう技巧的です。
 友人たちの喪失感を生前のエピソードの反復となる場面を描くことで際立たせ*1*2、観客の哀感を盛り上げていく。
 そして、そこに唐突にカエルというオリジナルキャラを投入してくる。
 カエルは根本的に異質な存在として現れます。
 まずひとりだけ喋りのノリが違う。
 映画では原作独特のセリフの間が忠実に再現されています。はっきりいえば映画向きの間とはいえないのですが、それがカエルの登場で活きてくる。カエルはものすごい早口でテンション高めです。そんな彼が故ワニの友人たちの生活圏にことごとく乱入して、ワニの死によってさらに空白が大きくなった空間を音で埋めていく。まさに空気を壊す存在そのものです。
 位置的にはワニのいたポジションにいるのに、空気感だけ全然違う。カエルはネズミたちに対しフレンドリーにグイグイくるのですが、ネズミたちはつい彼を遠ざけてしまいます。まるで「おまえはワニじゃない」とでもいうように。
 さんざん拒絶されたあげく、カエルはこうぼやきます。
「なんか、オレ、ノリ違いますかね?」

 このセリフで、制作側がかなり意図的にカエルを「空気を壊すキャラ」としてデザインしたことが示唆されます。というか、明示に近い。
 
 しかし、ノリが違うからこそ可能なこともある。
 原作由来のキャラは劇中でほぼ泣きません。デッドパンのコメディであること、それが原作のトーンだからです。
 ところがカエルは号泣します。映画オリジナルのキャラだから泣けるのです。そして、泣くという行為がネズミのある感情を誘発します。
 この点において、映画は原作を破壊しているといえます。
 ですが、原作を破壊したからこそネズミたちに(原作のトーンのままだったらありなかったであろう)「喪」を与えられることもできたのです。
 残されたキャラクターの感情の救済。少なくともそれは映画版にしかなしえなかった偉業です。
 それをおもしろいと感じるかどうかは個人によるとしか、いえませんが。

観ないほうがよい人

 本作を絶対に観ない方がいい人もいます。
 仲良しグループの友人を亡くした経験がある人です。
 本作は、主役だったキャラクターが途中で退場し、脇だったキャラがその喪失や戸惑いと向き合ってやがて折り合いをつけ前進していく、という構成をとっています。似たような構造の作品は近年だと『WAVES』がありましたね。
 100ワニでは死んだワニの欠けた場所を埋める存在として、カエルが出てきます。カエルの存在は物語機構的には上記の通り、たいへんテクニカルで興味深い。
 しかし、現実に移し替えるとちょっと問題が出てきます。
 本作ではカエルにワニの行動を再演させたり、彼の後ろ姿を重ねたり、つまりワニのポジションを埋める存在として描いている。すくなくとも、ネズミはそのようにカエルを見ているフシがある。
 ちょっとそれが……許容しがたい。
 死んだ人間は生き返らないし、生きている人間は死んだ誰かの代わりではない。喪失とはそういうものではない。人間はパズルのピースではないのです。
 しかし、どうも作中ではカエルはワニの代替以上の役割を帯びさせられていない。キャラクターそのものはけしてワニにはなりえないパーソナリティを背負わされているにもかかわらず。
 もしかしたら、入口はワニの代わりだとしても、友人関係を継続していけばカエルはカエルとしての人格をグループ内で与えられるのかもしれない。まあ、自然にそうなっていくでしょう。
 でも、映画ではそこまでは描いてくれはしない。
 なので、最近友人を亡くした人は観ないほうがいいです。最後ちょっといやな気分になります。
 だいたいそんなところです。


100日後に死ぬワニ(1) (ゲッサン少年サンデーコミックス)

*1:映画館でセンパイの隣に見知らぬカップルが座り、かつてワニが起こしたアクシデントを再現するとことか、花束か? とおもった

*2:当ブログで単に「花束」と言った場合はほとんどすべて『花束みたいな恋をした』のことを指します