名馬であれば馬のうち

読書、映画、ゲーム、その他。


読書、映画、その他。


ひさしぶりだな、俺だ、今 VRChat にいる。おまえはどこに?

 あっちこっちへ 余計な話が多い

 まるで聞いた話が全部右から左に流れていくように

 興味が持てん


  ――『邦キチ!映子さん』Season 7 第八話 

 はじめに忠告しておくけれど、このテキストは長く、一貫性を欠いており、有益な知見も含まれていない。帰ってくれ。


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Gunkanjimaverse より。軍艦島を原寸大で再現したワールド。



あれは2019年のことだった。

 VRChatがアツい、と聞いたのは二年前の京都の旅館さわやで開かれた京都SFフェスティバルの夜の部でのことだった。錬金術師として巷間に広く知られる xcloche さんがVRchatについて語る企画部屋を建て、そこでVR専用のおもしろ美術展示を開催した人のことや、他人のアバターを乗っ取る荒しや、毎日ヘッドセットを装着することで視力を回復した体験談などを語ってくれた。そんなことがほんとにあるの? といった魅力的かつ魔術的な物語の連続で、まるで大航海時代に信じがたい冒険をした船乗りの報告やマンデヴィル卿の旅行記を聞いている心地だった。同時に、わたしには遠い出来事のようでもあった。わたしは開拓者精神にも冒険心にも薄い。船乗りどころか、社会と経済が許容してくれるのであれば一生家に引きこもっているタイプだ。VRChatは部屋にこもったままで海原へこぎ出せる機会を提供してくれるけれど、機会くらいで生まれつきの怠惰さが解消されるわけではない。ザッカーバーグはわたしのめんどくさがりっぷりをなめないでほしい。
 だいいち、アーリーアダプターたちがひとつかみの勇気と好奇心を携えて集うようなコミュニティは性に合わない。わたしは技能面でも性向としても自分でなにかしらの価値を生み出す有用な人材ではなくて、そういうひとたちがひとところに集まってわいわいしているのを見るとまぶしくて眼が焼けてしまう。

 そういうわけで、待った。

 VRのかがやきが十分に褪せるまで、ぴかぴかの冒険心や好奇心がすり減るまで。先駆者たちが飽きるまで。といえばなにやら作戦っぽいけれど、ようするに日々縦になったり横になったりを繰り返しながらもたもたしていただけだった。
 そうこうしているあいだに Oculus Quest 2 が出た。より正確にいうならば、AirLink機能が追加された。どういうことかといえば、ヘッドセットをパソコンに直接つながなくてもパソコン上で動くVRソフトにアクセスできるようになったのだ。OQも最近ではソフトがちょっとは充実するようになったのだけれど、ゲーム機として考えた場合にはヴァーチャルデスクトップにつなげるかどうかで遊びの幅が十倍は違ってくる。まあ、Steam で売られているようなVRゲームソフトはたいがいOclulusのストアにもあるのだけれど、気持ちとしてはザッカーバーグよりもValveにショバ代を払いたい。どちらもシャブを売っているエグいヤクザではあるのだけれど、ザッカーバーグよりかはValveのほうがまだマシな気がする。

スラムとイヌとビリオネア

 OQ2を購入してすぐにVRChatにつないだ。わたしのtwitterのTL上にいる先輩たちはのきなみオリジナルのアバターを制作していて、そういうものがないと(そういうものを作れる技術がないと)市民権が得られないのかと思っていたけれど、オフィシャルのほうで用意されているアバター(ホットドッグとかバターとか)もあんがい充実していて、とりあえず着るアバターがなくて外に出るのが恥ずかしい、といった事態は避けられる。だが。
 途方にくれてしまう。どこにいけばいいのかわからない。
 VRChatは、なんていうの? ワールド? と呼ばれる島宇宙インスタンスに分かれていて、ユーザーは行きたいワールドを適宜指定して飛ぶ。プレイステーション世代なら『サガ・フロンティア』みたいな感じと説明すれば一発で通じる。それ以外の世代にはどういってあげたものかわからない。とりあえず、今サガフロのリマスター版が steam とかで売ってるから買ってやればよろしいのではないだろうか。おもしろいよ。
 ところで、花が咲くのはVRだからでしょうか。鳥が飛ぶのはVRだからでしょうか。それはサガフロ1ではなく2での問いかけなのだが、わたしはてきとうに選んで入ったワールドで、生まれて初めてVRを介して他者と邂逅し、英語で罵詈雑言を浴びせられている。


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 声はかなり幼い。どうやら向こうのことばでいうところのキッズであるようだ。
 わたしは留学先だったブライトンの学校の校長室から泣きながら母国に「帰りたい」と電話した日から英語が耳に入ると全身が小刻みに震えて吐き気を催し一言も発することができなくなってしまう。つまり英語で話しかけれても返答できないわけで、知ってか知らずか向こうのキッズは「聞こえないのか? もしかして、×××か、テメー?」などと罵りを重ねてくる。


 耐えがたくなって別のワールドに飛ぶと、そこは街一つがまるごとナイト・クラブのような場所になっている。グルーヴィなヴァイブスが心地よい。オフィシャルで用意されたマシュマロ人間みたいなアバターをぶよぶよ揺らしながら、歩き回っていると突然、「おいっ、あそこに変なのがいるぞっ」と四五名の十代?らしき若者グループに追いかけ回されだす。逃げても笑いながら「待てよ~」などと囃されて、追い詰められた末に路地の隅で取り囲まれる。実世界での経験上、英語をしゃべる四五名くらいの十代のグループはランダムに選んだアジア人を特に理由なく追いかけ回してもよい、と考えているのは知っていて、関わるとろくなことにはならないのもわかっていた。もっとも、わたしのガワはぶよぶよ人間なので国籍まではわからないだろうが。
 かれらはなにやらぶよぶよ人間にコミュニケーションを求めている風だったが、わたしのほうとしては逃げる相手を集団で追いかけるようなやつらには恐怖しかおぼえず、震える指でコントローラを操作してなんとかホームワールドへ脱出した。


 三番目に訪れたワールドでは誰にも絡まれることはなかった。
 そこは「陣内智則の動画を24時間流すだけの部屋」と名付けられたワールドで、日本のひとが作ったようだった。行ってみると、なるほど一室だけのスペースしかなく、壁には Youtube を再生できるスクリーンがあった。ワールドの趣旨からすると、そのスクリーンは陣内智則Youtube 動画を流す目的で設置されたのだろう。
 しかし、その画面に映っているのは陣内智則ではなく、Happy Tree Friends っぽいカートゥーン調のアニメで、数名のキッズたちが床に座ってそれを鑑賞しながら、なにやら英語でささやきあっていた。その反対側では、有名なゲームキャラのアバターを着たなにものかが鏡の前でひとり無言でポーズを取っていた。なにやら縦にした口と目だけでできた奇妙なキャラもいる。わたしの足元には「陣内智則」と書かれたプレートが変死体のように転がっている。もとは壁にでも飾ってあったのだろうか。スラムだな、という感想がわいた。


 このようなプレミアムなファーストコンタクトを経たわたしが「VRChatは知らんガキに絡まれる、治安最悪ろくでもないクソみたいなソフトである」と判断したのは至極当然であった、とご理解いただけることとおもう。OQ2をしばらくは Tetris Effect や Rez:Infinity といったゲームに見せかけた映像ドラッグでたまにキマる用の置物として自室に転がしていた。ちなみに Half-Life:Alyx も買ったけれど、めちゃくちゃ3D酔いする体質なので三十分で放り出した。Vrchat など二度と触るまい。そうおもっていた。


 そんなある日、ひょんな流れからネット上の知人数名と VRChat にログインしておしゃべりすることになった。行ったのは、広いけれど何かおもしろいギミックが用意されているでもない、ふつうのワールド。
 これがめちゃくちゃ楽しかった。
 なにか特別な出来事があったわけではない。特別なトピックの会話が交わされたわけでもない。会話の内容はといえば、Vrchat経験者による初心者へのちょっとしたTips講義、それにワールド内でカーテンを見て「カーテンがある!」とまんま述べるような観光客みたいなはしゃぎかただけだった。
 そんな雑な発話がむしょうにおもしろい。ふだんは Discord 上でやりとりしている無形の存在がエメラルドグリーンの鹿や怪人ミラーボール男やペスト医師に身をやつして動いてしゃべるだけで、なんともいえない愉快さが醸し出されてくる。他人がデジタルに身体あるものとしてたちあがってくると、ひるがえって二足歩行するカエルになっている自分の身体性まで興味の対象となる。
 ここで初めて、OQ2の性能に気づく。OQ2のトラッキング機能は実はけっこうすごくて、腕の位置が精密に反映されるのはもちろん、自分が座れば高低差を感知してVRchat内のアバターも座るし、指も一本単位で動かしてじゃんけんまで可能だったりする。その時接続していた他のユーザーがみなPC組(VRchatはヘッドセットがなくともPCの画面上でプレイできる)だったので、動作のダイナミックさがより際だった。「身体がある」そういう感情、日常生活ではけして確認することのない事実に対する新鮮な驚愕が、わたしのなかに生じた。

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カエルになって火にあたると、ほんとにあたたかくなったかんじがする。


ピクニック・アット・ザの。

 めちゃくちゃ怖いワールドがあるらしい。
 わたしは谷戸(仮名)と織林(仮名)とマンソン(仮名)にそう告げた。三人ともわたしと同時期にVRchatを始めた新米で、Vrchatで目にするすべてがフレッシュにきらめいて見えるお年頃だった。
 わたしは『早稲田文学』のホラー特集号を広げた。もともとマーク・フィッシャーの the wierd and the eerie の抄訳が載ると聞いて購入したもので、さっさと全訳を出版してほしいものであるけれど、それはともかくとして、わたしが示したのはホラーゲーム実況者の座談会の記事だった。実況者たちのなかにVRchatのホラーワールドをめぐっているVtuberがいて、そのひとが「いちばん怖い」だかなんだかの触れ込みで Sad Amelia というワールドを記事中で挙げていたのだ。
 わたしはホラーが好きであるし苦手でもある。ジャンプスケアなどの表現にまるで耐性がなく、たまにホラー映画を観にいって怖くなりそうな場面に出くわすと、席のせもたれにのけぞって薄目がちになってしまう。その上、鑑賞後まで恐懼を引きずり、帰りの夜道や就寝前にくらがりが気になっておびえまくる。家でひとりでホラー映画やホラーゲームを観るなどは考えれない。他の誰かといっしょではないとまずやらない。
 そういうわけで、ひとりでは怖いので、いっしょに Sad Amelia に同行してほしい。わたしは三人にそう頼んだ。
 谷戸と織林はしぶった。かれらもまたホラーが苦手だった。「VRchatのなかで一番怖い」のならなおさらだ。「仕事が忙しい」だの「ワクチンの副反応がつらい」だの理由にもならない理由をつけて煮え切らない態度を取る。
「友だちの一生の願いば聞き届けんで何が親友でごわすか」
 そういいきったのはマンソンだった。マンソンがそういうなら・・・・・・と残りのふたりも同意した。持つべきものは決断力を備えた友である。

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たすけてくれ。


 Sad Amelia で起こった出来事についてはあまり語りたくはない。
 わたしがいえるのは、政府は友人を見捨てて逃げるような輩に対しては150%の所得税率を課すべきである、という政治的な意見だけだ。
 一方で Sad Amelia のゲーム性についてはある程度語ることができる。
 織戸によると、ホラーワールドとは、つまるところ、ヴァーチャルなお化け屋敷である。フィジカルなお化け屋敷と異なって現実の物理法則や予算に縛られないぶんだけ、仕掛けでそうとうな無茶をできる。
 たとえば、Sad Amelia のある場所では天地が逆転する。ユーザーは自分がさかさまになった状態で歩かされるわけで、ホラーとしての効果はともかく、かなりビビる。
 また、ある場所ではアバターを剥奪される。一ユーザーが制作したワールドにそんな権限が付与されていることにも驚かされるが、いきなり自分の外見が強制的にチェンジさせられるのは、すごい。この世界では自分が自分であることすら確かではないのだ。いとも簡単に自己同一性を剥ぎ取ってしまえることはホラーコンテンツにおいて大きなアドバンテージではないだろうか。
 そして、ヘッドセットをつけていることで恐怖は倍加する。
 映画なら顔を背けるだけで画面で起こっている出来事から逃げられる。耳をふさぐだけで制作者の罠を避けられる。だが、VRの世界では逃げ場所がない。これはこわい。かなり、そおっとろしい。実際、途中からコントローラーを握った手にいやな汗がにじんでいた。ずっと、同行者の名前を呼ぶだけの動物になっていた。
 ゲームにしろ映画にしろ(すくなくともアメリカの)エンターテイメントは没入感を第一義に発展してきた歴史があるけれど、没入という点ではこれに勝る体験はなかったようにおもう。
 

 翌る週末、わたしたちは終わらない夏にいた。ぬけるような青い空、やさしい輪郭の入道雲、陽光を跳ね返して うそみたいに SHINY な BEACH……。

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 Project:Summer Flare は謎解き型のワールドだ。ビーチや水族館や神社を巡りながら、夏休み感あふれる世界の秘密を解き明かしていく。
 ホラーワールドがお化け屋敷であるならば、謎解き型のアドベンチャーワールドはさしずめ脱出ゲームだ。そして、ホラーワールドと同じく、脱出ゲームにはない体験がPSFにはついてくる。
 まずはアクションだ。PSFでは折々で飛んだり跳ねたり撃ったり振ったりのゲームゲームしたアクションが求められる。そのアクションが謎解きにもからんでいて、これがなかなかよくできている。
 そして、拡張された演出。これは実際にPSFをやってもらわないことには説明しづらい(ネタバレになるので)のだけれど、大規模な舞台の切り替えなどはデジタルな空間でないとなかなかお目にかかれない。
 しかし、ゲーム的な面でPSFに何よりシビれるのは「VRchatというシステム」そのものを利用したある仕掛けだ。ああしたメタなギミックはその媒体やジャンルがある程度成熟したときにようやく登場するものだけれど、VRchatではもうその域に達しているのか、とその成長速度に驚かされる。
 

 続けて、ヴァリア・ライドへも行った。

www.youtube.com

 世界観や設定についての説明は省くが、ここは要するにディズニーランドやユニバーサル・スタジオにあるようなライド施設を再現したワールドだ。というか、ディズニーやUSJのライドをかなり深く研究しているようで、「それっぽさ」の精度に舌を巻く。そうそう、ライドにはナビゲート役のおとぼけキャラがつくんだよな、とか、そうそう、ライドはこういう展開になりがちなんだよな、という定石を踏まえまくっているのだ。ディズニーランドファンやUSJファンはぜひ試してほしい。

ぐーちょでぱーく。

 わたしはVRchatをアトラクションのハブとして受容した。すなわち、テーマパークとして。
 限定された空間を細部まで高度に精緻にデザインすることで”ここ”ではない世界をもうひとつ造り出す、という発想はそのままディズニーランドの設計思想だ。ウォルト・ディズニーの世界創造は単に静止した空間を切り取るだけでなくて、そこに生える動植物が成長していく時間軸まで視野にいれた、パラノイアックなものだった。*1かれはメインの客層である子どもたちの視点にパーク全体の縮尺を合わせ、世界を見せることに徹底的にこだわった。そのことを示す有名なエピソードがある。ウォルトは毎日のようにおしのびでディズニーランドを訪れ、ひとつひとつの施設をゲスト目線で味わっていた。そんなある日にかれは〈ジャングル・クルーズ〉を訪れたあと、スタッフをこう叱ったのだ。「〈ジャングル・クルーズ〉は七分半の川下りだったはずだ。今回は四分しかなかった。きみは半端にはぶかれた映画を観せられたらどうおもうかね? あのカバをゲストに見てもらうためにどれだけの費用をついやしたかきみも知っているだろう?」*2
 グランドデザインを行ったのはウォルトだったが、パーク内のエリアやアトラクションを具体化させたのは「イマジニア」と呼ばれるひとびとだ。イマジネーション(想像)とエンジニア(技術者)を合わせた造語で、それまでディズニー本体でアニメ映画にたずさわっていたアニメイターなどがイマジニアとして多数登用された。かれらはある空間に生じる世界を、時間を、体験をデザインした。夢としてではなく、現実として。
 ディズニーランドのアトラクションとは大なり小なり、物語を語る自然である。本来の自然は少なくとも理解のたやすい形ではわたしたちに物語らない。難解な他者であるはずの自然を物語るための装置としてパッケージングし、親しみやすいものに造る。
 そうして物語のために造られた自然は、言語では語らない。いや言語を使いはするかもしれない。だが、ある種の映画やゲームが夢見るように、いちばん大事ななにかは言語の外であなたがたへ伝えられる。
 Project: Summer Flare の作者であるヨツミフレームはインタビューでこんなことを述べている。



人間は『言葉』というプロトコルを用いてわかりあう生き物であり、同時になにかと「言葉」に縛られる生き物だと思います。VRChat のワールドにせよ、本来はVRChatはUnityを動かすオンラインプラットフォームのようなものなので、文字通りなんでもできるはずなんです。…(中略)…これまで存在した概念を壊し、これまで存在しなかったものを造りたい。そういう思いから、「言葉を壊す」というフレーズが出てきています。


「言葉」を壊した先にあるもの――VRChat「PROJECT: SUMMER FLARE」で過ごした夏 | Mogura VR



 ゲームの分野には、環境(型)ストーリーテリングというタームが存在する。*3ストーリーを主に言語によらず、シーンに配置されたオブジェクトや風景などによって受け手に能動的な読解をしてもらう手法だ。
 たとえば、あなたが誰かの部屋に入るとする。そこには部屋の主はいないが、部屋の主が所有しているモノや活動の痕跡が残されている。たとえば、机に教科書や参考書が積まれていたら、あなたは部屋の主は学生であろう、と推測するかもしれない。その横に古ぼけたクマのぬいぐるみがあって、室内には他にぬいぐるみが見当たらなかったとしたら、あなたは「このクマはきっと部屋の主の思い出の品、あるいはライナスの安心毛布なのだ」などと、不在であるぬいぐるみ所有者のパーソナリティについて思いを馳せることもできる。そもそも、なぜ部屋の主は不在なのだろう? 学校に行っているのか? とおもってふと壁にかけられたひめくりカレンダーを見れば、一ヶ月前でストップしている。毎日めくるのをおっくうがったのだろうか? だが、一月から始めて十月の途中で突然日課をストップするとは考えにくい。もしや、かれの身に、その日なにごとかがあったのではーー?
 こうした受け手の想像を触発するデザインは多かれ少なかれゲームや映画に取り入れられている。極端にいってしまえば、RPGなんかでどこかの街に入り、街をすみずみまで散策する、街の住民と挨拶を交わす、それだけでもう環境ストーリーテリングだ。特にオープンワールドとよばれるジャンルではこうした細部のデザインがプレイ全体の体験の深さに関わってくる。
 環境ストーリーテリングそのものを全面に打ち出したジャンルもあって、ウォーキング・シミュレーターと呼ばれるジャンルがそれだ。プレイヤーは視点人物となるキャラクターに視点を憑依させ、一人称視点で3Dの世界を探索する。
 作例として挙げるなら『GONE HOME』。視点人物(=プレイヤー)の実家を舞台とする。ひさしぶりに帰省してみると、両親も妹もなぜかいない。プレイヤーは家のなかを探索してかれらの生活の断片を拾い集めることで、家族それぞれの人生の物語を知る。『GONE HOME』においては物語やテーマを要約して語ってくれるようなキャラクタ、あるいはナレーターは存在しない。*4バラバラに配置されたてがかりや風景からプレイヤーが脳内でファミリー・ポートレイトを独自に描き出す必要がある。ちなみに『GONE HOME』に限らず、ウォーキング・シムには「そこにいるはずの人々が何らかの理由で失踪している」シチュエーションが多い。それは単に一家族ないし街まるごとひとつぶんのキャラクターを配置するのが大変だという労働リソース上の制約もあるかもしれないけれど、環境ストーリーテリングの手法がそうした状況においてもっとも引き立つから、という理由もあるだろう。VRChatにおけるワールドも、どういう技術的制約があるのかは知らないが、NPCが配されているものは少ない。そうした点ではウォーキング・シム的なゲーム性と親和的であることは理解される。

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『GONE HOME』より


 現代のゲーム、すくなくともアドベンチャー的な要素を含む作品で「環境」について配慮されていないものはまずあり得ない。『Outer Wilds』の作者アレックス・ビーチャムはのちに同作のブループリントとなった学位論文で『Outer Wilds』の目的を「好奇心駆動型の冒険(curiosity-driven exploration)」と定義した。



これらの定義(「冒険」と「好奇心」という好奇心駆動型の冒険を構成する二大要素)をもちいれば、好奇心駆動型の冒険とは、あるひとが自分の知識や理解を拡充させることを主目的として(現実であれバーチャルであれ)じしんの環境を探索することを選択したシチュエーションと説明できます


「訳文;「"好奇心駆動型の冒険"とでも言うべき特殊なタイプの冒険に報酬を与えるゲームをつくりたい、それが『Outer Wilds』の主目的です」A・ビーチャム氏の論文より」―『すやすや眠るみたくすらすら書けたら』
https://zzz-zzzz.hatenablog.com/entry/2020/09/21/215800


 
ビーチャムの論文を翻訳したブログ「すやすや眠るみたくすらすら書けたら」では、環境ストーリーテリングという語の起源についても触れている。それによれば、確認しうるかぎりでゲームの文脈における「環境ストーリーテリング」の最古の用例はディズニーのイマジニアであったドン・カーソンの論考「Environmental Story Telling: Creating Immersive 3D Worlds Using Lessons」であるらしく、そこでは「環境ストーリーテリング」はまずディズニーランドをデザインするための思想として用いられている。
 あるエンターテイメント空間の環境設計においてゲーム開発者とディズニーのイマジニアが見る夢が似ているというのは、あまり驚くべきことでもないかもしれない。たとえば、ATARIの創業者であるノーラン・ブッシュネルはゲーム会社を立ち上げる以前は、ディズニーランドへの就職を希望していた。のちにATARIが経営難に陥った際には、会社をディズニーへ売ろうとまでしていたという*5
 ゲームにおける空間設計や建築の重要性は「す眠す書」を参照してもらうとして、VRによってディズニーランド的なイマジニアリングとゲームの世界構築がさらに接近していった印象がある。
 それがただちにメタヴァースの進歩の方向性を規定することになるかはわからない。これは局所的な現象にすぎず、失われたカリフォルニアン・イデオロギーの理想の復活にすがりつくひとびとや、メタヴァースにサード・サマー・オブ・ラブ(何度目だ?)を待望するヒッピーのなりそこないたちとも関係なく未来は更新されていくのかもしれない。
 わたしは世界を作る側の人間ではない。いい魔法使いにもわるい魔法使いにもなれない。くちばしを開けて待つことしかないフリーライダーであり、きみらが憎んでいる「一般人」あるいは大衆そのものだ。お仕着せのレディメイドのアトラクションで遊ぶことしかしないしできない。究極的に欲しているのはめまいを誘ってくれるアシッドな映像ドラッグだ。そんなわたしはとりあえず今はVRChatがたまらなく楽しいけれど、いつかは飽きるんだろうな、とはおもう。アトラクションであるかぎりはコンテンツには賞味期限がつく。*6賞味期限のないプラットフォームのことをわたしたちはインフラと呼ぶ。なぜひとは Facebooktwitter に入り浸るのか。インフラになってしまったからだ。おどろくべきことに mixi にすら住民が残っている。あの核戦争後の終末のような mixi にさえ。インフラになってしまったからだ。なりはててしまったからだ。賞味期限がないからといって、不朽や防腐まで保証してくれるわけではない。

心地よく秘密めいた場所

 マンソンはあの mixi のさびれぐあいが好きだという。かつて人が居て、今はいなくなった空間のさびしさが好きだという。
 わたしは同じ理由で VRChat の非アトラクション的な個人制作のワールドが好きだ。たいていは過疎で、万人に向けて開放されている Public のインスタンスにすら自分以外の訪問者がいない。mixi と違うのは、そこにはかつても人が居らず、現在もいない、という点だが、ふしぎに「かつて人が居た」感覚を嗅ぎ取ってしまう。
 名付けが大好きなわたしたちのインターネットはそうした感覚にもとっくに名前をつけている。Liminal Sapace(s).

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適当な liminal space のスクショがフォルダになかったから、筆者のリミナルアトモスヒア原体験である『クロックタワー2』の画像でも見てくれ。


 リミナル・スペースの概要やホラー性やノスタルジーオントロジーについては fnmnl で木澤佐登志が述べた記事があるのでそれを読めばいいとして、VRChat はワールド自体のクオリティの高低にかかわらず、どこもそんな雰囲気に満たされている。ホラーワールドがコズミックホラー的なインターナルな恐怖だとすれば、誰も居ない寂れワールドを歩くことはHGウェルズの「白壁の緑の扉」的なエクスターナルな不安かもしれない。
 たとえば、ワールド名を忘れてしまったが、わたしはあるとき「美術館」を名乗る過疎ワールドを訪ねた。「美術館」の概要文にはアート作品が飾られているということだったが、壁に掲げてある作品はいずれも英語圏のネットミームでよく使われるキャラたちを雑にコラージュしたもので、中には縦にした口と目だけの気色悪いホラーめいた、知らないキャラまでいた。だがあくまで人を驚かせたり怖がらせたりする意図で置かれたものではないようで、作品の大半はまったくおもしろくないネタ画像の域をでないものだった。建築としても凝ったところはない。ただ間取りがすこし美術館っぽいかな、という程度。
 「美術館」を見て回っていると、だんだん用意した作品が足りなくなったのか、アートの飾られていないスペースが広くなっていく。壁は壁だ。そこには白い地肌しか見えない。
 到着から十分ほどが経過して、わたしは突如としてそのワールドから出たくなった。
「ワールド」タブからてきとうに「陣内智則の動画を24時間流すだけの部屋」を選び、逃げ出すようにして「GO」ボタンを押した。
陣内智則の動画を24時間流すだけの部屋」では、Happy Tree Friends のパロディのような動画が流れていて、数名の子どもたちがささやきあいながらそれを観賞していた。かれらから目を離して横をみやると、あの縦にした口と目だけの怪物がいた。怪物は動画のほうを向かず、背後のミラーのほうも見ず、なにもないほうの壁をただ茫洋と見つめて立ち尽くしていた。

 そう、それと壊れている世界が好き。フォトグラメトリの手法で造られたワールドはリアルである一方で、一部が崩れたり歪んだり浮いたり壊れたりしている。

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 ヴァーチャルな世界が傷ついているさまはいい。しょせんヴァーチャルがリアルのコピーにすぎないから劣化していて当然、というわけではなくて、2021年のリアルワールドもおなじように崩れたり歪んだり浮いたり壊れたりしているからで、ただしく世界の有様を写し取っている。ここも世界なんだという気がしてくる。なんか記事の文字数が1万字越えてめんどくさくなったので、このへんは別の機会にまた語りましょう。ね?


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vanilla sky, anal hospital.



 ね? とわたしはマンソンにいい添えた。
 マンソンはわたしの話すことにたいして興味をそそられなかったようで、あいまいな相づちを打ちながら聞き流していた。そして、話が終わると、Magic Heist なるワールドが今アツいらしい、というようなことをいう。今度行ってみよう、とどちらからともなく提案される。いつもの四人で。きっと楽しいよ。そうかもな。






Oculus Quest 2—完全ワイヤレスのオールインワンVRヘッドセット—128GB
サガフロンティア 裏解体真書 (ファミ通の攻略本)

*1:ウォルト・ディズニーは晩年には実際に街を文字通りまるごと一つ造り出そうとした。その試みはかれの死によって頓挫することになる。映画版の『トゥモローランド』はウォルト最後の野望の残り香めいた作品であるといえるかもしれない。

*2:うろおおぼえだが『ウォルト・ディズニー 創造と冒険の生涯』から

*3:ゲームの分野では、といっても私の知る限り日本でこのタームを批評用語として頻用しているのはIGN JAPANのクラベ・エスラくらいしか存じ上げない

*4:ただ、「本筋」のようなものはあって、それはかなり直接的に語られたりはする。

*5:結果的にはワーナーの傘下へと収まることとなる

*6:わたしはゲームとメタバースの区別がついていないのだろうか。おそらく、そうだろう。

予告された死は喜劇か悲劇か問題――『100日間生きたワニ』について

 映画を観たのだから映画の話をしろ。映画の話をします。

 
 誰が自分自身にこんな誓いに立てるでしょう。「わたしは死を見るにも、喜劇を見ると同じ目で見るだろう……」

 ――セネカ「幸福な人生について」

 死。所詮然し死といふ奴は、語るべきものではないらしい。野々宮は、思つた。まつたくの話が、死といふ言葉は、実感をもつて語られても不思議に空虚なものであるし、まして戯れに語られては、ただただ興ざめた思ひのみ深かめるらしい。

 ――坂口安吾「吹雪物語」


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原作と映画の違いについて

 でもまんがの話からはじめます。当然でしょう。100ワニとは現象であり、インターネットなしにありえなかった現象なのです。

『100日間生きたワニ』の原作である『100日後に死ぬワニ』は当初ギャグまんがとしてはじまり、進行していくにつれドラマに転じました。境目はどこかと問われれば、私は「集中線を使わなくなった時期から」と答えるでしょう。
 初期の100ワニはほぼ毎話のように「ワニのドアップ+集中線」で〆られていました。




 こうした演出は四コマ目のすぐ下に記されているワニの死までカウントダウンと連携してします。
 要するに「こいつは(自覚していないが)○○日後に死にます」というギャグです。観客に周知されている出来事を登場人物だけが知らない、というのはシチュエーションはよくあるギャグの手法です。その「出来事」に「死」を当てはめ、かつインターネットでリアルタイムのコンテンツとして展開したことにきくちゆうきの慧眼があります。 
 すっかり世間に染まったとはいえ、不謹慎さに対する許容度が比較的に高い twitter という場で、死をネタにして笑う。そして、笑ったあとで、ふと我が身にも当てはまることにも気づく。わたしたちはワニ同様、明日にも死ぬかもしれないのに日々を蕩尽して漫然と生きている。ワニのように平気で数ヶ月後の予定なんぞ立てている。良質なコメディとは常にペーソスを孕んでいるものです。だからこそ、笑えるのだともいえます。
 原作における集中線は5日目(ネズミが入院するエピソード)を境に後退していきます。そこから何がはじまるかというと、ワニとバイト先のセンパイの恋模様や友人たちを軸にした日常もの。判断の早さからいって、おそらく既定路線だったのでしょう。100日という時間の流れを描く形式が自然に作劇をドラマ的な方向へ向けたともいえます。あるいは不謹慎ショートコント100連発で保たせるのはさすがに厳しかったとも。

 死は笑える。原作最初期におけるその思想はしかし、映画には受け継がれませんでした。
 当たり前です。映画館で流す作品です。公共の場で、健全な老若男女の目に触れるものです。頭にアルミホイルを巻きつけているユーザーが八割を占めるといわれる twitter なんぞとはわけが違います。
 映画では「死はかなしいもの」としてまっとうに描かれます。
 そうしたアティテュードは開始一分で観客に示されます。
 原作では100日目にあたるエピソード、すなわちワニの死の場面を冒頭に持ってくるのです。
 原作のコメディ性を成り立たせていた要素のひとつに、「ワニがどのように死ぬかはわからない」点があります。死に様がぼやかされているので、彼が死ぬと予告されてもあまりリアリティがなく、だからこそワニの言動を笑うことができた。
 しかし、映画ではいきなりワニが死ぬ。具体的に、こうやって死にますよ、と示される。しかも死の直前に、恋人や友人たちとの思い出の写真をおさめたアルバムなんぞを取り出して眺めたりする。一個の人格が、慕っていくれる仲間のいる人間が(ワニだけど)、死んだんですよ、と突きつけてくる。

 重い。
 シリアスにメランコリックな映画です。100ワニは。他人の死を笑うな。

 原作に路線変更後もちょくちょくあった、ワニがひとりで何もせずに過ごす回をカットしたのも、そのへんが関係してくるのでしょう。このような重い映画で限られた日々を、60分という尺を無駄遣いすることは許されない。 
 映画と原作のトーンの違いが決定的に出ているのは、ワニが横断歩道で車に轢かれそうになったヒヨコを助けるエピソードです。



 原作初期に典型的な構成で、オチのコマは集中線+ワニのアップになっています。ワニの行末や後のトーンを知らない当時の読者からすれば「いや、死ぬのはおまえだろ!」とツッコむ話であり、明らかにそうした反応を誘うようにできている。
 これが映画ではどうなるか。ワニはかなりのオーバーアクション(滑り込んで抱きかかえる)でヒヨコを救助し、めちゃめちゃ心配そうにヒヨコに注意します。冗談事ではないんだぞ、というふうに。そして、そのあいだずっとカメラは引いた視点から動きません。アップも集中線もないのです。そう、死は冗談事ではないのです。

 ひとりの生きた人間(ワニ)としてのワニを印象づけていくこと。それが本作のドグマです。たとえば、原作ではワニの両親は電話越しの声のみの存在で、姿は描かれませんでしたが、映画では後ろ姿だけとはいえ存在を実感できる人物として描く、ワニの実家での両親の生活風景まで映し出されます。
 ワニはだれかの息子であり、だれかの友人であり、だれかの恋人だった。そんなひとの死をあなたは笑えるのですか?

ワニの死後について

 
 映画オリジナルの展開となるワニ死後のストーリーはけっこう技巧的です。
 友人たちの喪失感を生前のエピソードの反復となる場面を描くことで際立たせ*1*2、観客の哀感を盛り上げていく。
 そして、そこに唐突にカエルというオリジナルキャラを投入してくる。
 カエルは根本的に異質な存在として現れます。
 まずひとりだけ喋りのノリが違う。
 映画では原作独特のセリフの間が忠実に再現されています。はっきりいえば映画向きの間とはいえないのですが、それがカエルの登場で活きてくる。カエルはものすごい早口でテンション高めです。そんな彼が故ワニの友人たちの生活圏にことごとく乱入して、ワニの死によってさらに空白が大きくなった空間を音で埋めていく。まさに空気を壊す存在そのものです。
 位置的にはワニのいたポジションにいるのに、空気感だけ全然違う。カエルはネズミたちに対しフレンドリーにグイグイくるのですが、ネズミたちはつい彼を遠ざけてしまいます。まるで「おまえはワニじゃない」とでもいうように。
 さんざん拒絶されたあげく、カエルはこうぼやきます。
「なんか、オレ、ノリ違いますかね?」

 このセリフで、制作側がかなり意図的にカエルを「空気を壊すキャラ」としてデザインしたことが示唆されます。というか、明示に近い。
 
 しかし、ノリが違うからこそ可能なこともある。
 原作由来のキャラは劇中でほぼ泣きません。デッドパンのコメディであること、それが原作のトーンだからです。
 ところがカエルは号泣します。映画オリジナルのキャラだから泣けるのです。そして、泣くという行為がネズミのある感情を誘発します。
 この点において、映画は原作を破壊しているといえます。
 ですが、原作を破壊したからこそネズミたちに(原作のトーンのままだったらありなかったであろう)「喪」を与えられることもできたのです。
 残されたキャラクターの感情の救済。少なくともそれは映画版にしかなしえなかった偉業です。
 それをおもしろいと感じるかどうかは個人によるとしか、いえませんが。

観ないほうがよい人

 本作を絶対に観ない方がいい人もいます。
 仲良しグループの友人を亡くした経験がある人です。
 本作は、主役だったキャラクターが途中で退場し、脇だったキャラがその喪失や戸惑いと向き合ってやがて折り合いをつけ前進していく、という構成をとっています。似たような構造の作品は近年だと『WAVES』がありましたね。
 100ワニでは死んだワニの欠けた場所を埋める存在として、カエルが出てきます。カエルの存在は物語機構的には上記の通り、たいへんテクニカルで興味深い。
 しかし、現実に移し替えるとちょっと問題が出てきます。
 本作ではカエルにワニの行動を再演させたり、彼の後ろ姿を重ねたり、つまりワニのポジションを埋める存在として描いている。すくなくとも、ネズミはそのようにカエルを見ているフシがある。
 ちょっとそれが……許容しがたい。
 死んだ人間は生き返らないし、生きている人間は死んだ誰かの代わりではない。喪失とはそういうものではない。人間はパズルのピースではないのです。
 しかし、どうも作中ではカエルはワニの代替以上の役割を帯びさせられていない。キャラクターそのものはけしてワニにはなりえないパーソナリティを背負わされているにもかかわらず。
 もしかしたら、入口はワニの代わりだとしても、友人関係を継続していけばカエルはカエルとしての人格をグループ内で与えられるのかもしれない。まあ、自然にそうなっていくでしょう。
 でも、映画ではそこまでは描いてくれはしない。
 なので、最近友人を亡くした人は観ないほうがいいです。最後ちょっといやな気分になります。
 だいたいそんなところです。


100日後に死ぬワニ(1) (ゲッサン少年サンデーコミックス)

*1:映画館でセンパイの隣に見知らぬカップルが座り、かつてワニが起こしたアクシデントを再現するとことか、花束か? とおもった

*2:当ブログで単に「花束」と言った場合はほとんどすべて『花束みたいな恋をした』のことを指します

2021年上半期でよかった新刊マンガ10選+α

 アジで勢いつけて真夜中に一気に書き上げないとブログやれなくなった。

 でもこれもいつか癖になんだ
 怖いけど読んじゃう彼岸島
 お化けみたいにいつも思い出すのさ

      ——VaVa「Ziploc


 今日もどこかで新連載がはじまる。ジャンプで。ジャンプ+で。マガジンで。ヤンマガで。イブニングで。モーニングで。アフタヌーンで。good! アフタヌーンで。サンデーで。裏サンデーで。チャンピオンで。ビッグコミックで。スピリッツで。ゴラクで。BELOVEで。なかよしで。ちゃおで。りぼんで。KISSで。feel で。くらげバンチで。LINEマンガで。コミコで。めちゃコミで。アックスで。楽園で。ハルタで。ニコニコ静画で。トーチで。マトグロッソで。KDPで。pixiv で。コミケで。コミティアで。twitter で。ここで。世界で。
 これからはじまるすべての作品が「おれを読め!」と産声で迫ってくる。
 でも、すべてを読破するなんて現実には不可能だ。それにマンガなんて読んでいるとろくなことはない。年に2000冊マンガを読んでいる倫理学者もいるそうだけれど*1、あなたは倫理学者になりたくはないでしょう? 人生は短く、マンガは多い。
 一方で集合知もたよりにならない。次に来るといわれたマンガはだいたいもう来ているし、このマンガがすごいなんて言われんでも知っている。どこで知った? インターネットで。
 そう、あなたの実人生はインターネットの絞り汁でできている。インターネットで読めといわれたものをすべて読み、言えといわれた感想をすべて言う。サバサバ女、ベーグル、1000万金と星5秘書。供給が需要を創出する。そこにあなた自身の欲望が介在する余地など微塵もない。あなたに欲望と呼べるものがあったとして、だけれど。
 だからこそ、あなたはリスト記事を書くべきなのです。それは単なるライフログでもメモでもアフィリエイトの言い訳でもない。インターネットという彼岸島で自分が人間であり正気であることをたしかめるための、たったひとつの手段なのです。
 

レギュレーション

・2021年1月〜6月に発売された漫画単行本で、期間内に第一巻が発売された連載もの、単発もの、短編集を対象する。
・順番に特に意味はない。
・7月6日深夜時点の気分で選んだものなので十選とそれ以外で特に差があったりなかったりする。

十選

切畑水葉『阪急タイムマシン』(BRIDGE COMICS)(単巻完結)

 阪急電車というとまんま有川浩の『阪急電車』が連想されるのですが、そちらは内容をまったくおもいだせない。でもなんか人情っぽかった感触はおぼえている。これもそんな話なのだろうと、手にとってみると、おもったとおりにあたたかくやさしい絵柄で、しかし意外にハードな物語をつきつけてきます。
 主人公・野仲いずみは毎日通勤のために阪急電車に乗っています。てもちぶさたな乗車中の愉しみは、大好きな編み物作家FIKAの作品集を眺めること。おっとりしていて引っ込み思案、職場の同僚たちともなんとなくソリのあわない彼女にとって、編み物は楽しかった子ども時代を思い出させてくれる避難所であり、FIKAはあこがれの象徴でした。
 そして、いつものように電車でFIKAの作品集をながめていると、ちょうど視線の先にFIKAのセーターを来た女性が。いずみは意を決して女性に話しかけます。「FIKAさん、ええですよね!」
 と、実はセーターの女性は幼馴染の編み物仲間で、小学生のころ別れたっきりだったサトウさんでした。
 FIKAの作品がきっかけで昔の親友と再会できたことに運命を感じ、気分が高揚するいずみ。しかし、いっぽうのサトウさんは浮かない顔です。「阪急乗んでええとこやったら、会わずに済んだのに……」

 人生における輝かしい時期は人によって異なります。若い頃が最高で、あとは降るだけどとぼやく人もいるでしょうし、逆に若い頃は暗黒期で今のほうが断然良い、という人もいるでしょう。そしてある人は特定の出来事を強く記憶していて、おなじイベントを共有した別の人はほとんど忘れかけていることもある。
 そういう「子ども時代に対する思い入れ」がまったく異なるふたりがふたたび出会ってしまったことから記憶という名の「タイムマシン」が動き出す、そういう話です。
 人は苦い記憶に蓋をしがちですが、自分にとっては思い出したくはなかったネガティブな出来事でも、あえて向き合うことでひとつ過去にケリをつけ、前に進む契機になる。ハッピーでもバッドでもないけれど、ポジティブな物語はある。そういうバランスのお話をかける作家は稀でしょう。
 絵。絵がいいですね。等身を伸ばしたこうの史代といった趣で、ハードな話を辛すぎない程度にくるんでくれる天与のやさしさがある。
 秀作ファンタジー短編集である『春の一重』(2018年)のころから実力の高さは折り紙つき*2でしたが、『阪急タイムマシン』で現実的な話も達者であることを証明して、今後もどういう作品を見せてくれるのか、いい意味で予想できない作家です。
 

伊奈子『泥濘の食卓』(バンチコミックス)(連載)

前回の記事でちょっとだけ触れたのですが、「リスおねえちゃん」のナカハラエイジが2019年にちばてつや賞で準優秀賞を獲ったときの大賞のひとですね。天才に打ち勝っただけはあり、ルーキーのころから大物感を漂わせる逸材でありました。
 そんな伊奈子先生の初単行本がこちら。『泥濘の食卓』。こいつが、まあ、とんでもねえ。
 セッティングはドロドロ不倫恋愛モノです。
 スーパーで働く25才の独身女性、捻木深愛(すげえ名前だ)は、店長の那須川(中年男性)と不倫関係にあります。
 那須川は精神を病んだ妻に疲れ切っていて、深愛はそんな店長を支えてあげたいと本気で願っている。ところが、那須川はある日、深愛に対して別れを切り出します。妻の病状が悪化しており、ここで踏ん張らないと家庭が崩壊する、などという。前は妻と別れて深愛といっしょになりたいといっていたくせに。
 那須川の幸せを第一に願う深愛は別れ話を受け入れますが、ここからがすごい。
「奥さんの鬱がよくなりさえすれば、私達は元の関係に戻れるはずだ」と考えた深愛は家庭崩壊しつつある那須川の家族を「自分が救わねば」と思い立ち、行動に打って出ます。
 自分は特に具合が悪いわけでもないのに精神科に通って医者から得た知見を参考に、大量のカウンセリング勧誘チラシを偽造。その連絡先をすべて自分のケータイにつなげることで、那須川の妻と直接接触し、自ら彼女をカウンセリングしようと試みるのです。
 狂っています。でも、狂ったひとの話はおもしろい。狂いっぷりに強靭さがあるまんがは信頼に値します。伊奈子を信頼しましょう。
 ちなみに本作には深愛那須川、那須川の妻以外にももうひとり那須川の息子が登場して物語に深く関わってきます。この深愛那須川一家の関係がなんだか見たことないグロテスクさで、いったい自分はこれからどこに連れて行かれるのかというワクワクを喚び起こされますね。
 深愛は25歳という設定ですが、かなり顔立ちが幼く描かれていて、その危うい感じが彼女の前のめりな不安定さとマッチしていて実にすばらしい。
 ただしいか間違っているかでいえば、完全に間違ってしまった恋愛なのですが、でも間違っている人間をエンターテイメントとして楽しめるのがマンガのよいところなのではないでしょうか。よし、まとまった。
  
 

幾花にいろ『あんじゅう』(楽園コミックス)(連載)

 幾花にいろの欲望は、巧妙に秘されているのでも、そもそも存在しないのでもありません。あまりに巨大すぎてわれわれには知覚できないのです。
 だらしないけど凝り性の後輩と、しっかりものでソツのない先輩がルームシェアする生活を描いた日常もの。百合ですか。百合といっていいとおもいます。
 個人的に、細部や機微について語ることは苦手なのですが、それでも本作からでるこの香りが濃厚であることはわかります。硬質な髪の質感、その髪のあいだから覗く耳朶、必ず描かれる鎖骨、しなやかな指のうごき、豊かな表情を帯びる眼、死ぬほど顔のいい女。
 ふたりのあらゆる細部が同居生活を通して接近し、接触し、唯一無二の化学反応を起こすのです。その一瞬一瞬が作品世界を信じるに足るものにしてくれます。ここではすべてウソだが、すべてリアルだ。
 もういっこ、楽園コミックスからは『イマジナリー』が出てますね。こちらもこちらでオススメ。

ナガノ『ちいかわ なんか小さくてかわいいやつ』(モーニングコミックス)(連載)

twitter で日々ちいかわの更新を見守って怯えていたいままでのわたしたちでさえ、たわむれにすぎなかった。
・バラバラに読まれ、瞬間瞬間で消費されていたものがきちんと順序づけられて整理され、ひとつらなりの物語になる。そうして、初めてわたしたちはちいかわの真の恐怖を知るだろう。
 聖書が政治的な力そして物語としての磁力を持つようになったのは、バラバラだった説話や詩の断片が一冊の本として束られた瞬間だった。
・不安とは「ここは家(home)ではない」という感覚であり、恐怖とは家だとおもっていた場所が別の様相を呈する時に生じる感情である。ちいかわはホラーである。
・ちいさくてかわいい生き物になりたいという欲望は言語以前の存在、つまりは赤ん坊への回帰の欲望であった。ことばのない初期のちいかわは苦しみのない楽園であり、そこでは食べる喜び、遊ぶ快楽だけが咲いていた。
・言語はキメラが持ち込んでくる。このまんがで初めて言語らしい言語を発するかれは見事に絶望しきっている。「あはっあはっ こんなになっちゃった……」「なっちゃったからにはもう……ネ……」

・喋るものは哀しみを知る化け物である。キメラも、「なんだってんだよ」に詰められて「イヤ」と拒絶を発するちいかわも、ハチワレも。言語が物語をもらたし、物語は悲劇をもたらす。

・ハチワレの初登場回でスフィンクスに言及しているのは象徴的である。『オイディプス王』は最古の悲劇であり、言葉に呪われた人々の物語であるからだ。
・聖書においては光以前から言語があった。かれらの世界が艱難に満ちているのはそのせいだ。そこには外敵がおり、労働があり、貨幣が流通している。すべての悪が、善の顔をして。
・そう、『ちいかわ』とは失楽園なのである。
・ちいかわの世界では家すら安住の場所ではない。そこでは常に外敵の侵入する可能性があり、われわれはさすまたを常備して覚悟を決めておかねばならない。
・もはやだれも安全ではない。
・ナガノ先生は怪物ではない。わたしたちの怪物的な側面を映し出す鏡だ。

熊倉献『ブランクスペース』(ヒーローズコミックス)(連載)

 1月はその年を占う良質なサブカルマンガ(死語)が発売される季節、という通念を『春と盆暗』(2017)で決定づけた熊倉献先生による全サブカルクソ野郎待望の単行本第二作*3
 失恋したばかりの高校生ショーコはひょんなきっかけから、クラスメイトの陰キャである片桐さんが「想像したものを具現化する能力」を持っていることを知ります。そうして、それまで触れ合うことのなかったふたりが交流を持つようになるのですが、ショーコの知らないところで片桐さんは陰湿ないじめを受けており、世界に対する怨念をひそかに育んでおりました。
 やがて片桐さんは銃器や刃物といった武器の「想像」を始めます。片桐さんがだんだんヤバい方へ向かいはじめていることに危惧を抱くショーコ。彼女は片桐さんを説得し、「武器ではなく片桐さんの彼氏をつくろう」、つまり、人間を「想像」しようと提案します。
 
 視ることを第一義に置くメディアであるマンガにおいて、「視えないこと」を視えるようにする大胆さとその作劇を成り立たせる筆力はそれだけで表彰もの。
 SF的な想像力をテコに陰に陽に青春を転がしていく熊倉先生のセンスが本作に極まった、そういえる一作になるのではないでしょうか。そういいたくなるだけの魅力が現時点では詰まっています。シンプルでポップな絵で静かに刻みつつも、節目節目でズドンとくる大ゴマを繰り出してくる。その手管はわれわれを飽きさせず、ストーリー自体もいい具合に予測不能で超気になる。
 カルヴィーノボルヘスといったサクソ(サブカルクソ野郎の略)ごころをくすぐるめくばせもニクい。
 近頃、なにげに良作を送り出しつづけている『ヒーローズ』系列からの新たな期待作です。

町田とし子『交換漫画日記』(マガジンポケットコミックス)(連載・2巻完結)

 なんかここまで「女がふたり出てくるまんが」ばかり紹介している気がしますが、安心してください、これもそれです。
 
 高校のクラスメイトで大親友のアイコとユーカにはふたりだけの趣味がありました。それは交換形式でマンガを共作すること。夢はもちろんプロ漫画家デビューです。クラスの日陰者として、恋愛などとも縁遠いまま二人の世界を突き進んでいくものと思われていましたが、リア充グループに属する大沢と交流を持ったことがきっかけで、運命が、そして交換漫画の内容が変転していくことに……。
 
 このマンガ、なにがいいかって、アイコの描く絵が『彼岸島』(松本光史)なんですよ。『彼岸島』の絵でファンタジー少女漫画やるのってよくないですか? よいですよね。例の丸太っぽいシーンもある。
 そういうフックはさておき、中身は友情と恋愛のはざまで揺れる甘酸っぱい青春もの。ひとつひとつのアクションやエモーションの動かし方が丁寧で、それでいて2巻という短さのわりに余裕さえある。キャラごとの表情が非常に豊かなおかげで、ワンシーンあたりで伝わってくる情報が多いのかな。
 創作によってつながる結束のもろさと強固さが同時に味わえる良作です。
 あと作中作の『武者子さんは戯れる』(こっちは明確に原哲夫リスペクト)、ふつーに読んでみたい。
 

双見酔『ダンジョンの中の人』(webアクションコミックス)(連載)

 なんかここまで「女がふたり出てくるまんが」ばかり紹介している気がしますが、安心してください、これもそれです。(2)
 その日発売されるマンガ一覧を毎日チェックしていると、この世にはもはやBLと百合となろう系異世界ファンタジーとハーレクインコミックしか存在しないのでは? みたいな気持ちになる日もあります。ぶっちゃけた話、RPGベースの異世界ものって量に対して個人的なアタリを引ける確率があまりに低すぎて、たまに好きな漫画家さんがそっち方面のコミカライズに取られたりするとアア〜ッと、明訓高校の方の山岡さんを見たときみたいなモードになるのですが、まあしかし、いいものはある。いいものは常にある。
 一般にはアニメ化された『魔法少女なんてもういいですから。』で知られる双見酔の最新作。
 腕利きのシーフ、クレイは数年前にダンジョンの深部へ消えた父を追い、自らも単身ダンジョンに潜る日々を送っていました。しかし最深部近くでモンスターと交戦中に崩れた壁から「ダンジョンの中身」を見てしまったことをきっかけに、ダンジョンの管理人である女性と邂逅。腕を見込まれ、ダンジョンの運営側として雇われることになる、というお話です。ベースはウィザードリィ系でしょうか。

 本来”敵”であるダンジョンの運営側に視点を置く、というのは特に新鮮なアイデアでもなくて、古くはゲームなら『ダンジョンキーパー』シリーズ(エレクトロニック・アーツ)、『AZITO』シリーズ(アステックツーワン)、『刻命館』シリーズ(旧テクモ)、『悪代官』シリーズ(グローバル・A・エンターテイメント)と枚挙にいとまがなく*4、調べたかぎり小説投稿サイトでも「ダンジョン運営もの」が一ジャンルを築いているとか。文脈はちょっと違いますが、まんがだと水あさと先生の『異世界デスゲームに転送されてつらい』がありましたね。ダンジョンやデスゲーム等の運営を一種の会社とみなすのなら、むしろ冒険者よりは社会人の感覚に近く(多くは働きながら書いているだろう著者にとっては特に)親しみやすい立場とみなせるかもしれません。
『ダンジョンの中の人』は運営といっても一巻時点では管理人の補佐みたいな役回りで、モンスターの姿を借りて”現場”に降り立って冒険者パーティと相対したりもします。ここでいいな、とおもったのが、モンスター視点を物事を見る事で、冒険者側だったときには気づかなかったことに気づくところ。ゲームなんかでもやっててCPUである敵がこっちの動きを読んで先回りしたような行動をとったりすると、「ズルじゃん!」となじりたくなることがありますが、その「ズルさの感覚」をわれわれのいる現実世界の論理ではなくちゃんと物語世界のなかで処理している。
 根本のアイデアやデザインは借りるけれど、自分の足で立つぞ、という作者の矜持が垣間見えます。
 いつの世でも、良質なファンタジーの条件は変わりません。世界が緻密に豊かに編まれていること。先達のアイデアをうまく取り入れつつも、クリシェに頼りきらずに物語世界を作者のものにしていく。
 ファンタジーの強さとは「自己」の強さであり、内的世界から引き出されるものである、とル・グィンはかつて述べました。ウィザードリィドラクエベースの現代ファンタジーは物語類型を含めたあらゆるアセットが外部に用意されていて、自分を怠けさせようとおもったらいくらでも怠けさせることができる。そこに妥協せずに物語世界の合理と経済を探求できる作家だけが――ふたたびル・グィンのことばを借りるならば――「神話」に届くことができるのでしょう。
 

安田佳澄『フールナイト』(ビックコミックス)(連載)

 SFってあらすじ説明すんの、めんどうだな。サボっていいですか。ダメ?
 気候変動で植物が育たなくなり、人間を植物にしてなんとかする技術ができました。その技術で植物になってくれた人には家族に高額の年金が支給されます。よかったね。植物になったあとも、その人の意識はあるんだか、ないんだか。それにしても、みどりいろのぷるぷるちゃんのじんせいって、いったいなんなの?と、おもったのは、ぼくだけでしょうか?
 最後サボテンくんになっちゃいましたが、まあ、そういう社会なので当然貧しいものは家族を養うために植物化の道を選び、富めるものはそれを搾取する、みたいな構造になるわけです。
 愉快な設定でしょう。こういう世界をおもいついた時点で勝ちみたいなところはあります。資本主義の底辺でうごめくヴィヴィッドなんだか絶望しきってるんだかな野良犬みたいな人間がフィーチャーされるところは、ポスト『チェンソーマン』感もあります。
 展開されるストーリー自体はややオーソドックスに落ちすぎているきらいはあるものの、その分構成はきっちりしていてマンガとしては堅い。
 新人ということもあって、2巻以降でハネる予感を漂わせています。青田を買うなら、今でしょう。

岩田ユキ『ピーチクアワビ』(アクションコミックス)(連載)

 ワイの『映画大好きポンポさん』は、コレや。
 時は2005年。23歳にして国際映画祭*5で栄冠に輝いた映画監督の望月キナコだったが、その次回作でコケてしまい、評価が完膚なきまでに失墜。
 さまざまなしがらみによって自分の思う通りに撮れなかった不満と同世代の監督に抜かれたことの焦りその他から暴発して警察のお世話になってしまう。釈放の身元引受人になってくれたのは知らない人物。
 お礼のためにその人を尋ねると、そこはAV制作会社「ピーチクアワビ」でした。彼女はその社長から「映画を撮ってみないか」と誘われます。一度は躊躇するキナコだったものの、どん底から立ち直るためにあえてAV撮影の現場に飛び込みます。

 オトナどもとの折衝やネゴシエーションに折りたたまれてクリエイターの自由と自信を失っていたキナコが、AV現場の経験を通じて自分の「感覚」への信頼を取り戻す。その過程が軽やかかつ爽やかに描かれます。ポルノ現場ものの側面を持つが画風のポップさもあって生々しさが薄く、読み味も快適。
 ちなみに本作は2007年に岩田ユキ(当時の名義は「はと実鶴」)が原案協力し、渡辺ペコが執筆を担当した『キナコタイフーン』のリブート。岩田ユキは2000年代から長年インディー映画界で活躍し、ぴあフィルムフェスティバル受賞やメジャーどころの映画を監督(山田孝之主演の『指輪のころ』)した華々しい経歴を持ちながら2018年ごろから漫画家としても活動している異色の作家です。
 『キナコタイフーン』当時から映画人としての実体験や感情が反映されていたと察されますが、さらに十余年のキャリアで酸いも甘いも経験した作者がどこまで深く潜れるのか、期待したいところです。

北村薫・原作、タナカミホ・画『空飛ぶ馬』(トーチコミックス)(単巻完結)

 だって、高野文子なわけですよ。原作の表紙は。
 あなたは高野文子が表紙書いてる小説のコミカライズやれっていわれてやれますか。神ですよ。高野文子といったら、ほぼまんがの神です。第二の高野文子といったら『秋津』の秋津が全力で囲い込むレベルです。
 高野文子や神や『秋津』を知らない人でも三国志ならご存知でしょうから仕方なく三国志でたとえますが、曹操からちょっと呂布と一騎打ちして勝ってきて、と頼まれるようなもんですよ。そんな関羽雲長が令和の日本にいるか? いないだろ?

 いた。

 タナカミホ。五六年前に『いないボクは蛍町にいる』で才気をほとばしらせまくったっきり、(すくなくともわたしの観測範囲では)どこかへ行ってしまっていた作家がすさまじい成長を遂げて帰ってきた。

 いわゆる「日常の謎」と呼ばれるミステリのサブジャンルの嚆矢にしてマスターピースとされる北村薫の〈円紫さんと私〉シリーズ。女子大生の〈私〉を狂言回しとして、落語家の円紫さんを探偵役に、彼女らの日常で生じた、小さいながらも底の深い謎の数々を解決していきます。
 本作はその〈円紫さん〉シリーズ第一作である『空飛ぶ馬』のコミカライズです。
 
 ミステリのコミカライズって、けっこう難儀そうじゃないですか。思いません?
 だって、ミステリってほとんど会話と説明から成っているわけです。人が殺される瞬間はあっても謎に伏されるからアクションは描けないし、探偵が聞き込みしたり推理を披露したりするシーンはひたすらセリフが並ぶだけで画面に動きは少ないし。推理時の犯行再現シーンで差別化するって手もありますけど、あれだって「終わったこと」の再現なわけで、物語の盛り上げ手段としては幅がかなり限られてくる。
 じゃあ金田一少年式におどろどろしい装飾的な死体で映゛えようとおもったり、コナン式に謎の組織との暗闘を盛り込もうとおもったところで、『空飛ぶ馬』には死体も闇の組織もでてきません。
 犯人といえば、喫茶店で砂糖壺をせっせといじっているような普通の市井のひとばかり。
 難易度Aのミステリコミカライズという分野でも更に難易度特Aの原作チョイスなわけです。
 にもかかわらず。
 できてしまっている。
 なぜだ。
 わからん。わからねば!(by 漏瑚)

 原作と比較できればいいんですけれど、引っ越しの時に「もういい! ターボ、ミステリやめる!」とミステリを大量に処分した関係で手元に『空飛ぶ馬』がない(ウマだけに)。つーか、北村薫ってほぼ電子化されてないんだね。
 しょうがないので勘でやりやす。
「赤頭巾」とかはわかりやすいんですよね。まんが的に再構成されてるんだろうなあ、というのが。絵本の再現というユニークなレイヤーが混じっている分、メリハリつけて読みやすいのだろうし、絵本的なタッチと物語内の現実が混ざるシーンはわかりやすく技巧的。それはわかる。それはまあ、わかるんだけど。
 にしたって、「砂糖合戦」は。
 それこそ、ほとんど*6卓上での会話なわけですよ。大して派手なことが起こるわけでもない。それなのにめちゃめちゃエキサイティングでおもしろい。円紫さんのキメゴマ、タイトルコールが出るときの犯人のあの表情、その反復、動と静の操作、ラストの切れ味、見せ方、なにもかもが最高。
 どこからどう見ても〈円紫さん〉シリーズだよ、これは。
 オチのうまさや話のおもしろさはもちろん原作に由来するところではありますけれど、それをこんな高精度かつ高純度で再現できるとは。長生きはしてみるものです。最初からこのコミカライズありきだった気さえしてくる。90年代の雰囲気をたしかに醸しだしつつも、この時代のためにリファインされたような清新さ。さっきもいったけれど、表情、表情がいいのかな。人間のささやかでねっとりとした悪意をすくい取ったような犯人たちの造形を、キャラの繊細な表情を止めて切り取ることで再現している。そして、主人公は徹底してその表情を観察する側に置かれている。カメラなんですね。映画だ。映画だからか。

 けっきょくなんだかよくわかりませんでしたね。
 いかがでしたか。
 ひとつだけいえるのは、「砂糖合戦」はミステリ小説コミカライズの歴史に残る一編となるのではないか、ということです。むしろ、北村薫初読者にはここから勧めたっていいのかもしれない。プルトラ。
 
 

他よかったもので今思い出せるもの。

谷口菜津子『教室の片隅で青春がはじまる』(ビームコミックス)(単巻完結)
・いまさら谷口菜津子の天稟についてわたしが述べられるようなことはないと思います。はずれものの少女がモコモコした宇宙人の転校生と結託し、青春時代に逆転ホームランをかっ飛ばそうぜと奮闘する。ドロドロしているけれど前向きで爽快。
・メディアの描き方がいいんですよね。いかがでしたかブログとかいかにもありそう。

吉田真百合『ライカの星』(ハルタコミックス)(短編集)
・イヌSF。みんなライカ犬すきですね。わたしも好きです。人類をきちんと滅ぼしてほしかった。

ネルノダイスキ『いえめぐり』(ビームコミックス)(短編集)
・不足しがちな panpanya 成分をお求めのかたはこちら。ポスト panpanya の枠に収まりきらない良い意味での俗っぽさがある。

ひうち棚『急がなくてもよいことを 』(ビームコミックス)(短編集)

・ビームに求められているテイストにかっちりハマる。

ばったん『まばたき』(トーチコミックス)『いてもたってもいられないの』(FEEL COMICS)(短編集)
・博士(志村貴子学)の織戸久貴大先生によればポスト志村貴子の座を確固たるものにしつつあるらしい*7作家の百合短編集と女の性欲テーマ短編集。トーチから出た『姉の友人』はややトリッキーでポリフォニックな構成だったものの、今度はわりかし正攻法。
・膂力のある作家は真正面から殴りにいってもつよい。

ももせしゅうへい『向井くんはすごい!』(ビームコミックス)(上下完結)
セクシャルマイノリティに関するストーリーをこのバランスで出せてしっかりメジャー感あるのが、令和〜ってかんじ。
・なにげに群像劇を回すのもうまい。最後はやや締まってない印象もある。

高江洲弥『先生、今月どうですか』(ハルタコミックス)(連載)
・『煙と蜜』と同様、ハルタの罪深さは年齢差ポルノがポルノ以上のものに昇華されてしまっていることにある。反省しろ。
・本を周囲にオススメするエピソードがいい。しょせん、レコメンドとは多分に属人的な行為であり、”純粋”に”おもしろい本を紹介”するなんて不可能なだという示唆を与えてくれます。

鎌谷悠希『ヒラエスは旅路の果て』(モーニングコミックス)(連載)
・うめえなあ、とおもったら『しまなみたそがれ』の鎌谷先生だと遅れて気づいた。
・設定は特異なんだけど、ガワそのものは生と死をみつめなおしていくロードムービーなので、そこに拘泥しすぎると平凡になりすぎてしまうおそれがあり、予断をゆるさない。すくなくとも一巻はよい。

早池峰キゼン『テンバイヤー金木くん』(MeDu COMICS)(連載)
・ツンツン系小学生転売ヤー金木くんと金木くんに並び屋として雇われたお人好しのアンちゃんのコメディ・ドラマ。転売というヘイトをあつめそうなヤクいネタかましつつも、ていねいな作劇とキャラビルドで読ませてくれる。かなりよいです。

なるめ『ILY.』(FUZコミックス)(連載)
・全編ピクセルアートという狂気。大丈夫? ひと、死んでない?
・話もひとむかしまえの恋愛ホラーノベルゲーム? 風で、ガラケーが出てきたりとそれなりにドットであることを活かしている。活かしきっている、というかんじはまだしないか。

おぎぬまX『謎尾解美の爆裂推理!!』(ジャンプコミックス)(連載)
・元芸人!30年ぶりの赤塚賞入選!小説家としてもデビュー!みたいな話題性に高さにしゃらくせ〜〜と上げていたハードルを十二分に越えてきた。
・ライバル探偵たちが独特の推理法でギャグをかましてくるんですが、それが単発のギャグに終わらずにちゃんと事件の解決にもからんできてうまい。
・JDCってキン肉マンだったんだな、という気づきを得られた。

二階堂幸『雨と君と』(ヤングマガジンコミックス)(連載)
・かわいい。

Patu『虎鶫 とらつぐみ ―TSUGUMI PROJECT―』(ヤングマガジンコミックス)(連載)
・虎鶫がよい。

鈴木ジュリエッタ『名探偵耕子は憂鬱』(花とゆめコミックス)(連載)
・ミステリとラブコメは両立しない。わたしもそう思っていました。このまんがを読むまでは……。

三浦風『スポットライト』(アフタヌーンコミックス)(連載)
・『メダリスト』のつるまいかだ、『友達として大好き』のゆうち巳くみとならぶ、2020年アフタヌーン大型新人三人衆のひとり……だったのだけれど、『友達として大好き』が惜しくも終わってしまった。アフタヌーンの未来はどっちだ。
・基本的に人間嫌いなのがいいですね。それは人間が好きってことなので。

永田カビ『迷走戦士・永田カビ』(webアクションコミックス)(コミックエッセイ)
・死なないで描いてほしいけれど、描きつづけると死にそうというジレンマがある。

しおやてるこ『変と乱』(ヤングキングコミックス)(単巻完結)
・あまりにむきだしの暗黒暴力百合。
・顔のつなぎはぎこちないのだが、そのぎこちなさがサイコっぽさを際立たせていてたいへんによい。

柴田ヨクサル・原作、沢真・画『ヒッツ』(ヒーローズコミックス)(連載)
・『ブルーストライカー』のタッグふたたび。今度は特にどこともクロスオーバーしてないっぽいけれど、いつものヨクサルワールド。

平庫ワカ『天雷様と人間のへそ 平庫ワカ初期作品集』(BRIDGE COMICS)(短編集)
・基本的に習作集みたいなかんじなので読んで格別おもしろい作品は少ない。ただ表題作は設定の奇想や絵の力強さが群を抜いていて、天稟の萌芽をうかがえる。

西餅『僕はまだ野球を知らない・second』(自費出版)(連載)
・いったん商業で打ち切られても自費出版へ移ってまで継続させようとするレベルで作者が入れ込んでる作品がおもしろくないわけないんですよね。

篠原健太『ウィッチウォッチ』(ジャンプコミックス)(連載)
・ロジックでギャグを組み立てるのがうまい。

仲間りょう『高校生家族』(ジャンプコミックス)(連載)
シットコムがひたすら巧み。

武井宏之・原作、 ジェット草村・構成、鵺澤京・画『SHAMAN KING &a garden』(KCデラックス)(連載)
花組スピンオフ。お嬢様とメイドの百合。

『アンタイトル・ブルー』(BE・LOVEコミックス)(連載)
・タイトルといい題材といい『ブルーピリオド』の二番煎じかとおもいきや、ストレートなサスペンスとして読ませる。

真鍋昌平『九条の大罪』(ビッグコミックス)(連載)
・暴力とは本来楽しいものでもなんでもなくて、怖いものだと読者に教えてくれる倫理的な漫画家は真鍋昌平だけ。

おまけ:五巻以内で終わったマンガ暫定報告五選

山田果苗『東京城址女子高生』4巻完結
ドリヤス工場異世界もう帰りたい』3巻完結
雨玉さき『JSのトリセツ』2巻完結
マクレーン『怒りのロードショー』3巻完結
ゆーき『魔々ならぬ』3巻完結

・ほかにはニャオ将軍、なずなさんなど。
・『スインギンドラゴンタイガーブギ』と『友達として大好き』は七月以降。

*1:学問系の新書で『サタノファニ』ってタイトルだしてもいいんだ……と感心した。

*2:『春の一重』のなかにもたしか編み物の話があって、おそらく作者の慣れ親しんだモチーフなのでしょう

*3:単行本になってない作品はある

*4:やったことあるの『悪代官』だけだナ……

*5:ベロ(ル)リンで新人賞を獲ったという設定。『往生際の意味を知れ!』の主人公もたしかカンヌだったっけ?

*6:とまではいかなくとも半分以上は

*7:とはいえ群像劇志向みたいなものは薄い