名馬であれば馬のうち

読書、映画、ゲーム、その他。


読書、映画、その他。


日本姉SF傑作選を編む。

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お願いだから戻ってきて、置いていかないで、と頼んでみても、姉はもうどこにもいない。


――ケヴィン・ウィルソン「今は亡き姉ハンドブック:繊細な少年のための手引き」


日本姉SF短篇傑作選を編む。

2000年代海外SF傑作選 (ハヤカワ文庫 SF エ 7-1)

2000年代海外SF傑作選 (ハヤカワ文庫 SF エ 7-1)

  • 発売日: 2020/11/19
  • メディア: 新書
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・予約注文してた『2000年代海外SF傑作選』が土曜日まで届かねえ〜。ということで織戸さんに便乗して何者にも影響されない、完全にオリジナルな発想から出た企画として架空のアンソロ組むあそびをやります。
saitonaname.hatenablog.com

・「姉SF」というワードが市民権を得たのは飛浩隆『自生の夢』(追記: 織戸さんから指摘がありましたが、単行本化は2016年で、2019年は文庫化の年です)が出た2019年ごろだったと記憶しています。「星窓」がなんか姉SFみたいな言われ方して、前年に出ていた『ランドスケープと夏の定理』もそうではないか、と騒がれ、秋頃に無料公開された小川哲の「魔術師」ですっかり定着しました。ええ、今ではすっかりおなじみです。まるで昔なじみのようなきやすさでここにいます。うるさいな、定着したんだってば。差別ですか? サブジャンル差別ですか? こっちはちゃんと合衆国憲法暗唱してグリーンカードを取得したんですよ。なにもやましいところなどありません。
・実際には定着しなかった。2020年に入るとあんまり言われなくなった。理由:ムーブメントにならず、供給が興らなかったから。*1
・本アンソロは影の歴史を救う試みです。たしかに姉SFはあったのです。論や定義ではなく、作品を並べるだけでそれを証明できる。それがアンソロというものではないですか。作品目次がタペストリーのごとく、ひとつの年表になる。それもアンソロというものでないですか。以下に記すリストは「金史」対する「金史別本」のようなものです。義経ジンギスカンだったんだよ。
・でもアンソロって長編を位置づけられなくない? うーん、そうね。
・なぜ姉でSFなのか。姉とは時間論であり、決定論的存在だから。はい論破。あとはみなさんおうちの人と考えてください。
・編者はSFのあまり良い読者ではない*2ので、「こういうのもあるぞ」というご意見も随時募っています。実力のある読み手がドシドシ編むべきだ。
・ある属性で括って消費することについての罪深さ、後味のわるさ、そうしたものを超克するためにも、わたしたちはわたしたちのテーマアンソロジーを編まねばならない。過去の総括からはじめねばならない。

レギュレーションというか都合

・日本人作家が日本語で発表したもの限定。
・ちゃんと一冊の文庫に収まる分量でまとめる。ゆえに中編(Kindle換算で1000越え)は一遍に絞った。とりあえず総計で5000未満に収めたい。
・編者の姉観に反するものでも歴史的に重要とおもえば入れる。
・確認作業の都合上 Kindle で読めるものに限る。あとページ計算も楽だし。
・以上。

日本姉SF傑作選ラインナップ

神林長平「綺文 kibun」(『言壺』ハヤカワ文庫JA)400
筒井康隆姉弟」「ラッパを吹く弟」(『幻想の未来』角川文庫)80
皆川博子「たまご猫」 (『たまご猫』ハヤカワ文庫JA)230
萩尾望都「半神」(『半神』小学館文庫)16p
高島雄哉 「ランドスケープと夏の定理」(『ランドスケープと夏の定理』創元SF文庫)1160
伏見完「「仮想の在処」(『伊藤計劃トリビュート』ハヤカワ文庫JA) 560
飛浩隆「星窓 remixed version」(『自生の夢』河出文庫) 390
小川哲「魔術師」(『嘘と正典』早川書房) 420
遠藤徹「姉飼」 (『姉飼』角川ホラー文庫)570
山田風太郎「万太郎の耳」(『奇想小説集』講談社文庫) 260
伴名練「ホーリーアイアンメイデン」(『なめらかな世界と、その敵』早川書房)480

総計:4810?

各篇紹介

神林長平「綺文 kibun」

言壺 (ハヤカワ文庫JA)

言壺 (ハヤカワ文庫JA)

  • 作者:神林長平
  • 発売日: 2011/06/10
  • メディア: 文庫
 その*3姉観や扱いに同意するかどうかは別にして、日本の姉SFといえば何をおいても神林長平の名を出さないことにははじまりません。「綺文」は「おれが書きたい文は、こうだった。『私を生んだのは姉だった。姉は私をかわいがってくれた。姉にとって私は大切な息子であり、ただ一人の弟だった』」という象徴的な書き出しから始まる話で、恐るべきことに実体としての「姉」が終始登場しない。リテラルでラジカルな短篇です。どういう話かは『言壺』を読んでもらう*4として、デビュー短編集『狐と踊れ』に収録された「返して!」における「姉という属性と母という属性の二重性/背反性」という神林独特のフレームが発展的に盛り込まれていて、作家論の側面からも大変興味深い一編です。

筒井康隆姉弟」「ラッパを吹く弟」

幻想の未来 (角川文庫)

幻想の未来 (角川文庫)

男系のイメージの強い筒井一家ですが、存外に、あるいはだからこそ、というべきか、姉弟の繊細かつブルータルな関係を掌編サイズでファンタスティックに活写しています。高橋葉介のコミカライズもヨシ。

皆川博子「たまご猫」

たまご猫 (ハヤカワ文庫JA)

たまご猫 (ハヤカワ文庫JA)

 姉フィクション好きを自認するなら、小川未明と並んで皆川博子の短篇はマストでしょう。「禱鬼」「獣舎のスキャット、そして"「私は"姉”ですもの。弟のために滅びる姉ですもの。いつの世でも、姉と弟の物語を、姉が聞きわけないでいるものですか」”という姉文学史上最高の名文句でおなじみの厨子王」。SFのイメージが薄い作家ではあるものの、なんとかねじこみたいので幻想味の強めな「たまご猫」を入れました。『たまご猫』の文庫はハヤカワJAから出ているのでSFです。

萩尾望都「半神」

半神 (小学館文庫)

半神 (小学館文庫)

姉マンガの名作は枚挙にいとまがないのですが、連作や長編がかなりの割合を占め、独立した短篇となると限られてきます。それでも一作のみとなると識者の議論が紛糾することは間違いありません。本当はわたしだって「25時のバカンス」(市川春子をいれたい。でも本来イレギュラーなまんが枠で前後中編サイズのまんがをぶっこむほど非常識でもはしたなくもない。本当に本にするわけでもないのに、一体なにと闘っているのでしょうか。わかりませんか。最後の敵は己自身なのですよ。*5
 ということで、ここは萩尾望都の鉄板傑作でひとつ収めてもらいましょう。たった16pで「双子の姉妹」の関係が何度も反転していきながらその本質をえぐっていく巧みな構成。さすがの切れ味です。

高島雄哉「ランドスケープと夏の定理」

中編サイズでスペース取りまくるの*6ですが、やはり本作を入れないことには姉SFアンソロジーの看板は掲げられないでしょう。2020年代のわれわれはヒロイン的な文脈で理想化された姉をギミックとして扱うことを常に注意を払わねばならないわけですが、それはさておき本作が日本姉SF史におけるマイルストーンであることは間違いなく、たとえば稲田一声の「おねえちゃんのハンマースペース」なども(直接的な影響の有無は別にして)ポスト「ランドスケープ」の流れのなかに位置づけられます。日本姉SFの看板が欲しくば俺を倒してから行け、そんな著者の矜持が聞こえるようです。幻聴ですね。

伏見完「仮想(おもかげ)の在処」

本アンソロ中ではもっともセオレティカルな姉SFかもしれません。出生直後に呼吸が止まり、その脳機能をコンピュータ上に移植されて成長した双子の姉の話。「死んだ姉」は言うまでもなく姉フィクションにおいて最もポピュラーなモチーフであり、死んだ姉を幽霊として登場させればゴースト・ストーリーにもなる*7。「仮想の在処」ではそうした定型を上手くSF的なアイディアと合流させました。記憶SFにも分類されるかもしれない。伏見完は現状寡作で作風をジャッジしづらいのですが、本作のあとがきを読むかぎりでは百合の文脈を持った人らしい。

飛浩隆「星窓 remixed version」

自生の夢 (河出文庫)

自生の夢 (河出文庫)

夏、姉、星。いまさら編者がどうこう付言する必要もないでしょう。「本物の星は、美しくなんかない。星ぼしは人間にまったく関心なく、ただ超然と、荒涼とかがやくだけだ。だからこそいつまでも見ていたいんだ。」。わたしたちはこのような文章を目の当たりにしたときには一言、こう言うのです。「出来ている」、と。

山田風太郎「万太郎の耳」

奇想小説集 (講談社文庫)

奇想小説集 (講談社文庫)

人間を徹底的に一つの道具、一つの形式として捉える意識の在り処を探るには、まず山田風太郎を再読すべきなのかもしれません。いえ、欺瞞(ウソ)ですね。山田風太郎はいついかなる時に何を考えていようが何度でも読み返すべきです。「万太郎の耳」。耳だけなく全身のあらゆる器官が聴覚機能を有する特殊体質*8の男、万太郎。彼はそんな自分の体質にまつわるある恐ろしい告白を恋人の少女に対して行う……というミステリ短篇です。*9

小川哲「魔術師」

嘘と正典

嘘と正典

  • 作者:小川 哲
  • 発売日: 2019/09/19
  • メディア: 単行本
姉は常に弟妹の先を行く(行ってしまう)存在である。そんな姉フィクションの基本的ドグマを文学の魔人である小川哲は当然のように体得していて、技巧的な短篇のエッセンスに組みこんでしまいます。「父」の人であるとよく指摘される小川哲ですが、姉の扱いひとつ見ても作法通りできてしまう*10のは、視野の広さゆえでしょうか。

遠藤徹「姉飼」

姉飼 (角川ホラー文庫)

姉飼 (角川ホラー文庫)

概念としての姉を弄ぶような人類には、いつか天罰が下ることでしょう。「姉飼」はその日のための黙示録です。「快楽の園」です。「神曲」です。たとえば巷間には「年下の姉」なる唾棄すべき空虚な言葉遊びがはびこっていますが(なぜ twitter はこのようなフェイクの跋扈を許すのでしょう?)、このフレーズがいみじくも表しているように、姉とは一通りの関係を指すものではない。実の姉もいれば義理の姉も制度としての姉もいる。「可哀相な姉」*11の姉も。では、「姉」とはどこまで「姉」なのか。その限界はどこにあるのか。「姉飼」に出てくる「姉」は目をそむけたくなるようにおぞましいなにかです。しかし、確実に「姉」でもある。なぜなのか。わたしたちは問い続けねばなりません。姉フィクションに対する我々の向き合い方を問う警世の書であります。*12

伴名練「ホーリーアイアンメイデン」

なめらかな世界と、その敵

なめらかな世界と、その敵

なぜ、「一蓮托掌」じゃないの? というご意見に関しては「『折り紙衛星の伝説』がどっかいってて現状あらためての確認がとれない」と回答しておきましょう。あと絶版だし、 kindle 版がない。伴名練の書く姉妹はもちろん百合の文脈に根ざしていて、未だ勢いの衰えない百合SFのムーブメントと姉SFの結節点となっています。伴名練とはスタイルとコンセプトを自在に操る作家であり、つまりに非常に分析的な作家であり、そうした人物が「姉」を扱うときにどのような批評眼を見せるのか、今後も興味がつきません。

*1:そういえば、『シオンズ・フィクション イスラエルSF傑作選』のシモン・アダフ「立ち去らなくては」はよかったです。

*2:っていうか下記のリストもプロパーなSF短篇は少ないな

*3:ともすれば片岡義男めいた

*4:日本国民は義務として『言壺』を購入済みであるはずなので、ここでは「買って」という動詞は省きます

*5:精神に余裕がある人は尾玉なみえの「511姉ダーハイム」(『マコちゃんのリップクリーム』第六巻)を読んでください。サイコホラーギャグですが、日本で唯一、ケヴィン・ウィルソンの「今は亡き姉ハンドブック:繊細な少年のための手引き」に肉薄した短篇まんがです。

*6:他の中編作品の収録候補としては、仁木稔「「はじまりと終わりの世界樹」、 瀬名秀明「絆」、稲田一声「おねえちゃんのハンマースペース」などがあった。

*7:近年の作例だと、海野久遠「姉の弔い」https://shonenjumpplus.com/episode/13933686331711074857 ナカハラエイジ「リスおねえちゃん」http://www.moae.jp/comic/risuoneechan

*8:描写的には他人の所作や感情が音楽に聴こえるなど共感覚のすごいバージョンめいていて、実際「続発性聴覚」という架空の? 名称で共感覚の説明が挿入される。

*9:舞城王太郎の「アユの嫁」とどちらにするか迷ったけれど、SFならこっちかなと。

*10:「父」の話に姉がいっちょ噛みしてくるSF短篇で思い出されるのは円城塔の「良い夜を持っている Have a good night.」ですが、こちらはあくまでフレーバー程度に留まっています。

*11:渡辺温

*12:ちなみに姉ホラーという分野もあり、編者はSFに輪をかけてホラーに通じていないので詳しくないのですが、小川未明の「灰色の姉と桃色の妹」https://www.aozora.gr.jp/cards/001475/files/51030_51605.html)などは怪物としての姉を描いた、読まれるべき一作であるといえるでしょう。

おまえはネコにふれるたびに人生をセーブする。ーー『Ikenfell』

ゲームの説明に必要なことは他で書いたので、ここでは書きたいことだけ書きます。

store.steampowered.com

姉について

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姉は何も教えちゃくれない。

『Ikenfell』は失踪した姉を探す妹の話だ。その妹が姉と出会えるのはラスボス戦直前で、直接会話するのはエンディング後のエピローグに入ってから。これは人探しの物語としてはけっこう珍しい。
 本作における姉は徹底して不在の中心であって、不在であるがゆえに関係するひとびとの心をかき乱す。
 主人公である Maritte は姉の Safina と仲良しの姉妹として育った。Safina には魔法の才能があり、実家から離れて魔法学校で生活している。その姉がいなくなった。魔法の力をもたない Maritte であったけれど、勇を鼓して Ikenfell(地名)にある魔法学校へ事情を探りにやってくる。
 捜索の過程で彼女は Safina の学友でありいたずら仲間である Rook や Petronella と出会うのだが、かれらは一様に Maritte の存在に驚く。「Safina に妹がいたなんて、聞いたことなかった」
 Safina は終始謎めいた存在として物語に影を落とす。現在進行系でどこで何をやっているのかがわからないだけでなく、過去にも多くの秘密を抱えていたらしい。親友である Rook たちにも明かしていない秘密を。
 その謎めきはかれらに不信の念を植えつける。自分たちが理解していたはずの Safina は本当は違う人間だったのではないか。いったい彼女は何を考えていたのか? 問いかけに応えるものは存在せず、ただ疑念は反響し、かれら自身に秘められた闇や秘密の種を膨らませていく。
 姉の秘密は世界の存亡にまつわる魔法よりも遥かにマジカルだ。

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戦闘はダンサブルでたのしい。

 
 エピローグで再会した姉が明かす「答え」は実に身勝手で、人間臭くて、矮小で、くだらない回答だ。20時間かけてたどりついたのがこんなものだったのかともおもう。しかし、ゆえに、だからこそ、『Ikenfell』は2020年でも最高の不在の姉ゲームでありうる。
 姉のつまらない自意識と桎梏は、世界の滅亡よりも破滅的だ。

音楽とセクシャルマイノリティ的なテーマについて

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『スティーブン・ユニバース』のエレクトロ・ユニットである aivi & surasshu がサウンドトラックをてがけている。めちゃくちゃいい。神。サントラだけで200点。*1
 ところで、ユニットの片割れである aivi はインタビューに応えてこんなことをいっている。


 クリエイターの Chevy Ray は、私(aivi)と Surasshu が結婚していることが、このゲームのバイブスにハマるだろうといってくれたんです。


https://hardcoregamer.com/2020/10/30/interview-with-ikenfell-composers-aivi-surasshu/391106/


 どういうこっちゃ、とおもわれるだろう。
 これは、Ikenfell で仲間になるキャラクター(主人公含めて)六名のうち三名がそれぞれ異なる三人称代名詞*2を持っていて、物語上でかれらの恋愛や友情といった他者との関係が大きなウェイトを占めていることと関係している。
 そして aivi はノンバイナリーを自認*3していて、クリエイターの Chevy Ray Johnston 自身もノンバイナリー*4だ。社会では現状規定されている男女二元の外にあるジェンダーであっても「他人と関係を築いて」結婚したという経歴を持つ aivi に、Chevy は「バイブス」を見たのかもしれない。
 そして、そうしたアングルは『スティーブン・ユニバース』とも近接している。気がする。

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ところでこれは百合

 セクシャルマイノリティを要素として取り入れることはインディーゲーム界隈においてSFジャンルを中心に枚挙にいとまなく、一歩進んで主題や物語の核に据えた作品もそれなりに存在する*5。それらはだいたいがゲイ&レズビアンの同性愛分野だったりしたのだけれど、近年では『Sweet little Heaven』や『If Found…』のようにトランスジェンダーだったりノンバイナリーだったりをド直球で扱う作品もすこしづつ目立ちはじめてきた。
 しかし、そこらへんの領域に限れば『Ikenfell』の立ち位置はやや独特で、ゲームの彩りにつまんどきました程度のものでもなければ、ジェンダーアイデンティティや自我の揺れについてガッツリ悩む系のものでもない。
 自分の人格は自分として既にあり、そのうえで外部との関係のうえで自分はどうあるべきなのかを悩む、という、まあいってしまえば普遍的な対人関係のテーマを扱っている。ゲーム中に占める割合は大きすぎもしないが小さくもない。そんなバランス。

ネコ

『Ikenfell』ではフィールドのいたるところにネコがいて、触ると体力が全回復する。すごい。さらにセーブまでできる。えらい。

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ネコなで

 あるいはその機構は現実に則っているのかもしれない。
 わたしたちはネコをなでるたびに消耗した身体が全快し、セーブしているのかもしれない。そう考えると極めて現実的におもえてくる。逆に、この世でネコ以外にセーブポイントにふさわしい存在があるだろうか? いや、ない。イヌは頼れるパーティメンバーにはなってくれるだろうが、セーブポイントには絶対にならない。ネコがセーブポイントにはなってくれても、パーティには絶対加入しないように。
 してみると、『Ikenfell』は落下するりんごに重力の作用を初めて見出すような転回を果たしたことになる。
 あなたは『Ikenfell』をやる前とやった後ではネコの見え方が違ってくる。にゃあ、と鳴く声はセーブ完了の証だ。すべてのネコは宇宙のどこかのアカシックレコードにつながっていて、あなたを随時記録している。あなたたちを記録している。

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かとおもえば、道に立ちふさがってプレイヤーを妨害するネコもいる。ネコたちも一枚岩ではない。ドアだけに(?)

 ところ、この世界でネコアレルギーのひとはセーブしたいときはどうすればいいんだろうか。まあオートセーブ機能もありはするのだけれど。

*1:ちなみに一部のキャラにキャラソンみたいなヴォーカル入りの歌がつくのだけれど、一応ゲームに沿ってはいるけど出てくる固有名詞がわたしたちの世界よりというか、サビでキング牧師を讃えたりとなかなかエッジが効いている。

*2:he/him, they/them, ze/zir

*3:https://twitter.com/waltzforluma/status/1283239018839199744

*4:twitter プロフィールより

*5:『Analogue: A Hate Story』、『Butterfly Soup』、『Gone Home』とかか。やったことあるやつとなると偏ってきますね。ネトフリドキュメンタリーの『ハイスコア:ゲーム黄金時代』でも、ゲイ&レズビアンテーマのインディーゲームのはしりみたいなタイトルが取り上げられてた。

落ちる。――『Fall Guys: Ultimate Knockout』

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 六十名からなる豆人間たちがひとところに集まって「ゲームショー」をやらされる。「エピソード」=ステージごとに二割から三割程度が失格となり、最終的にたったひとりが勝者となる。
 わたしたちは Fall Guys でサバイバルのなんたるかを初めて知ることになるだろう。PUBG、Fortnite、Apex Legends、これらのバトルロイヤルは真の意味において人生ではなかった。厳しく残酷な命の取り合いを装いながらも、その実、小学校のグラウンドの行われる雪合戦となんらかわらない牧歌的な遊戯だった。
 撃たれて死んだとしてもそれはプレイヤーの死ではなかったし、敗北はめぐり合わせでプレイヤーの敗北に直結しない。わたしたちは真剣に遊んでいたかもしれないが、真剣に殺し合ってはいなかったのかもしれない。


 Fall Guys を本気(マジ)だと感じるのはなぜだろう。落ちるからだ。負けるときは落ちるときと定められている。タイトルにもそう定義されている。落ちるものども。そのバーティカルな破滅は、他のバトルロイヤルのごときホリゾンタルで(そこでは落下しても無傷で)フラットで(あたかも落下を検討すべき運動などとは考えてはいなくて)テイストレスな敗北(敗因がはっきりしている)とは一線を画している。本気がある。本物の生と死がかかっている。

 
 サバイバルの原義とは、他人をマスティフガンで撃ってアイテムの詰まった棺に変えることではない。特設ステージでクソデカなトラヴィス・スコットや米津玄師を愛でることでもない。生き残ることだ。『死のロングウォーク』のように、背後から迫ってくる死の境界からいかに逃れて続けていられるか。血を吐きながら続ける不毛な競歩こそがサバイバルだ。
 どこかで落ちたとき、あなたは Eliminate される。失格という意味だ。排除されるという意味だ。それは60名の参加者だれの身にも平等に訪れる。ランクマッチが用意されていないのはある種の教義でもある。次はあなたであるかもしれないし、わたしであるかもしれない。誰もが落とし穴に落ちる可能性がある世界。ふとしたスリップで排除されてしまうかもしれない世界。ひとりしか勝てない勝者総取りの世界。それをわたしたちは資本主義と呼ぶ。あるいは、たんに社会と。


 武器やアイテムなどどこにも落ちていない。アビリティやアルティメットなんてもの使えない。自分の肉体さえ自由とは言えない。できることはジャンプとタックルとエモート、それと哀れっぽく他人の袖を引く動作くらいだ。あなたは何度も落下し、回る棒やハンマーに弾き飛ばされ、ドラムの上を回り、シーソーで滑り、他人に踏み潰され、転ばされ、卵やボールを奪ったり奪われたりしながら、五つの「エピソード」を勝ち残っていく。
 そうだ。思い出してほしい。これは「ショー」だ。誰かがスライム床で滑りながらもがくあなたを見て笑っている。でもその観覧者の姿を捉えることはできない。それもまたリアルだ。必死な人間の姿を見るのはわれわれにとっての最高の娯楽だ。スポーツがそうだ。リアリティ番組がそうだ。インターネットがそうだ。現実がそうだ。生きるとはそういうことだ。


 山田風太郎だったかスティーブン・キングだったかが、物語には二つの型しか存在しないといっていた。穴に落ちる話か、落ちたあとその穴から這い上がる話か。
 誰もかれもが落ちていく。
 問題は落ちないでいられるかどうかではない。
 いつ落ちるのか、だ。