名馬であれば馬のうち

読書、映画、ゲーム、その他。


読書、映画、その他。


おまえはネコにふれるたびに人生をセーブする。ーー『Ikenfell』

ゲームの説明に必要なことは他で書いたので、ここでは書きたいことだけ書きます。

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姉について

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姉は何も教えちゃくれない。

『Ikenfell』は失踪した姉を探す妹の話だ。その妹が姉と出会えるのはラスボス戦直前で、直接会話するのはエンディング後のエピローグに入ってから。これは人探しの物語としてはけっこう珍しい。
 本作における姉は徹底して不在の中心であって、不在であるがゆえに関係するひとびとの心をかき乱す。
 主人公である Maritte は姉の Safina と仲良しの姉妹として育った。Safina には魔法の才能があり、実家から離れて魔法学校で生活している。その姉がいなくなった。魔法の力をもたない Maritte であったけれど、勇を鼓して Ikenfell(地名)にある魔法学校へ事情を探りにやってくる。
 捜索の過程で彼女は Safina の学友でありいたずら仲間である Rook や Petronella と出会うのだが、かれらは一様に Maritte の存在に驚く。「Safina に妹がいたなんて、聞いたことなかった」
 Safina は終始謎めいた存在として物語に影を落とす。現在進行系でどこで何をやっているのかがわからないだけでなく、過去にも多くの秘密を抱えていたらしい。親友である Rook たちにも明かしていない秘密を。
 その謎めきはかれらに不信の念を植えつける。自分たちが理解していたはずの Safina は本当は違う人間だったのではないか。いったい彼女は何を考えていたのか? 問いかけに応えるものは存在せず、ただ疑念は反響し、かれら自身に秘められた闇や秘密の種を膨らませていく。
 姉の秘密は世界の存亡にまつわる魔法よりも遥かにマジカルだ。

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戦闘はダンサブルでたのしい。

 
 エピローグで再会した姉が明かす「答え」は実に身勝手で、人間臭くて、矮小で、くだらない回答だ。20時間かけてたどりついたのがこんなものだったのかともおもう。しかし、ゆえに、だからこそ、『Ikenfell』は2020年でも最高の不在の姉ゲームでありうる。
 姉のつまらない自意識と桎梏は、世界の滅亡よりも破滅的だ。

音楽とセクシャルマイノリティ的なテーマについて

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『スティーブン・ユニバース』のエレクトロ・ユニットである aivi & surasshu がサウンドトラックをてがけている。めちゃくちゃいい。神。サントラだけで200点。*1
 ところで、ユニットの片割れである aivi はインタビューに応えてこんなことをいっている。


 クリエイターの Chevy Ray は、私(aivi)と Surasshu が結婚していることが、このゲームのバイブスにハマるだろうといってくれたんです。


https://hardcoregamer.com/2020/10/30/interview-with-ikenfell-composers-aivi-surasshu/391106/


 どういうこっちゃ、とおもわれるだろう。
 これは、Ikenfell で仲間になるキャラクター(主人公含めて)六名のうち三名がそれぞれ異なる三人称代名詞*2を持っていて、物語上でかれらの恋愛や友情といった他者との関係が大きなウェイトを占めていることと関係している。
 そして aivi はノンバイナリーを自認*3していて、クリエイターの Chevy Ray Johnston 自身もノンバイナリー*4だ。社会では現状規定されている男女二元の外にあるジェンダーであっても「他人と関係を築いて」結婚したという経歴を持つ aivi に、Chevy は「バイブス」を見たのかもしれない。
 そして、そうしたアングルは『スティーブン・ユニバース』とも近接している。気がする。

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ところでこれは百合

 セクシャルマイノリティを要素として取り入れることはインディーゲーム界隈においてSFジャンルを中心に枚挙にいとまなく、一歩進んで主題や物語の核に据えた作品もそれなりに存在する*5。それらはだいたいがゲイ&レズビアンの同性愛分野だったりしたのだけれど、近年では『Sweet little Heaven』や『If Found…』のようにトランスジェンダーだったりノンバイナリーだったりをド直球で扱う作品もすこしづつ目立ちはじめてきた。
 しかし、そこらへんの領域に限れば『Ikenfell』の立ち位置はやや独特で、ゲームの彩りにつまんどきました程度のものでもなければ、ジェンダーアイデンティティや自我の揺れについてガッツリ悩む系のものでもない。
 自分の人格は自分として既にあり、そのうえで外部との関係のうえで自分はどうあるべきなのかを悩む、という、まあいってしまえば普遍的な対人関係のテーマを扱っている。ゲーム中に占める割合は大きすぎもしないが小さくもない。そんなバランス。

ネコ

『Ikenfell』ではフィールドのいたるところにネコがいて、触ると体力が全回復する。すごい。さらにセーブまでできる。えらい。

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ネコなで

 あるいはその機構は現実に則っているのかもしれない。
 わたしたちはネコをなでるたびに消耗した身体が全快し、セーブしているのかもしれない。そう考えると極めて現実的におもえてくる。逆に、この世でネコ以外にセーブポイントにふさわしい存在があるだろうか? いや、ない。イヌは頼れるパーティメンバーにはなってくれるだろうが、セーブポイントには絶対にならない。ネコがセーブポイントにはなってくれても、パーティには絶対加入しないように。
 してみると、『Ikenfell』は落下するりんごに重力の作用を初めて見出すような転回を果たしたことになる。
 あなたは『Ikenfell』をやる前とやった後ではネコの見え方が違ってくる。にゃあ、と鳴く声はセーブ完了の証だ。すべてのネコは宇宙のどこかのアカシックレコードにつながっていて、あなたを随時記録している。あなたたちを記録している。

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かとおもえば、道に立ちふさがってプレイヤーを妨害するネコもいる。ネコたちも一枚岩ではない。ドアだけに(?)

 ところ、この世界でネコアレルギーのひとはセーブしたいときはどうすればいいんだろうか。まあオートセーブ機能もありはするのだけれど。

*1:ちなみに一部のキャラにキャラソンみたいなヴォーカル入りの歌がつくのだけれど、一応ゲームに沿ってはいるけど出てくる固有名詞がわたしたちの世界よりというか、サビでキング牧師を讃えたりとなかなかエッジが効いている。

*2:he/him, they/them, ze/zir

*3:https://twitter.com/waltzforluma/status/1283239018839199744

*4:twitter プロフィールより

*5:『Analogue: A Hate Story』、『Butterfly Soup』、『Gone Home』とかか。やったことあるやつとなると偏ってきますね。ネトフリドキュメンタリーの『ハイスコア:ゲーム黄金時代』でも、ゲイ&レズビアンテーマのインディーゲームのはしりみたいなタイトルが取り上げられてた。

落ちる。――『Fall Guys: Ultimate Knockout』

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 六十名からなる豆人間たちがひとところに集まって「ゲームショー」をやらされる。「エピソード」=ステージごとに二割から三割程度が失格となり、最終的にたったひとりが勝者となる。
 わたしたちは Fall Guys でサバイバルのなんたるかを初めて知ることになるだろう。PUBG、Fortnite、Apex Legends、これらのバトルロイヤルは真の意味において人生ではなかった。厳しく残酷な命の取り合いを装いながらも、その実、小学校のグラウンドの行われる雪合戦となんらかわらない牧歌的な遊戯だった。
 撃たれて死んだとしてもそれはプレイヤーの死ではなかったし、敗北はめぐり合わせでプレイヤーの敗北に直結しない。わたしたちは真剣に遊んでいたかもしれないが、真剣に殺し合ってはいなかったのかもしれない。


 Fall Guys を本気(マジ)だと感じるのはなぜだろう。落ちるからだ。負けるときは落ちるときと定められている。タイトルにもそう定義されている。落ちるものども。そのバーティカルな破滅は、他のバトルロイヤルのごときホリゾンタルで(そこでは落下しても無傷で)フラットで(あたかも落下を検討すべき運動などとは考えてはいなくて)テイストレスな敗北(敗因がはっきりしている)とは一線を画している。本気がある。本物の生と死がかかっている。

 
 サバイバルの原義とは、他人をマスティフガンで撃ってアイテムの詰まった棺に変えることではない。特設ステージでクソデカなトラヴィス・スコットや米津玄師を愛でることでもない。生き残ることだ。『死のロングウォーク』のように、背後から迫ってくる死の境界からいかに逃れて続けていられるか。血を吐きながら続ける不毛な競歩こそがサバイバルだ。
 どこかで落ちたとき、あなたは Eliminate される。失格という意味だ。排除されるという意味だ。それは60名の参加者だれの身にも平等に訪れる。ランクマッチが用意されていないのはある種の教義でもある。次はあなたであるかもしれないし、わたしであるかもしれない。誰もが落とし穴に落ちる可能性がある世界。ふとしたスリップで排除されてしまうかもしれない世界。ひとりしか勝てない勝者総取りの世界。それをわたしたちは資本主義と呼ぶ。あるいは、たんに社会と。


 武器やアイテムなどどこにも落ちていない。アビリティやアルティメットなんてもの使えない。自分の肉体さえ自由とは言えない。できることはジャンプとタックルとエモート、それと哀れっぽく他人の袖を引く動作くらいだ。あなたは何度も落下し、回る棒やハンマーに弾き飛ばされ、ドラムの上を回り、シーソーで滑り、他人に踏み潰され、転ばされ、卵やボールを奪ったり奪われたりしながら、五つの「エピソード」を勝ち残っていく。
 そうだ。思い出してほしい。これは「ショー」だ。誰かがスライム床で滑りながらもがくあなたを見て笑っている。でもその観覧者の姿を捉えることはできない。それもまたリアルだ。必死な人間の姿を見るのはわれわれにとっての最高の娯楽だ。スポーツがそうだ。リアリティ番組がそうだ。インターネットがそうだ。現実がそうだ。生きるとはそういうことだ。


 山田風太郎だったかスティーブン・キングだったかが、物語には二つの型しか存在しないといっていた。穴に落ちる話か、落ちたあとその穴から這い上がる話か。
 誰もかれもが落ちていく。
 問題は落ちないでいられるかどうかではない。
 いつ落ちるのか、だ。

『レキヨミ』も読まずに天国へ行くつもりかい?



 神。信頼。犠牲。正義。
 信心。望み。愛。
 言うまでもなく、”姉”も。そう、そう。これはいつだってそう。

  ーーマーガレット・アトウッド『昏き眼の暗殺者』鴻巣友季子

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 レキとヨミは姉妹です。森の奥にふたりで暮らしています。妹のヨミは薬を作る才能はあるのですが、人見知りなために薬売りとの交渉以外の外向きの用事は姉のレキにまかせきりです。基調はファンタジーで、ふたりを含めた人間キャラには獣耳としっぽが生えている(かつ指行性)という世界観設定があるのですが、まあそれはここでは措いておきます。
 レキは妹のことが大好きです。大好きなのですが、第一話の冒頭でいきなり妹の財布を盗んで雑貨屋でお菓子を買おうとします。また、あるエピソードでは石化したレキをやはり雑貨屋に飴玉一個で売りとばします。
 繰り返しますが、レキは妹のことが大好きです。妹のよだれを何のためらいもなく飲むくらいには。まあしかし、愛情だの信頼だのといった感情を抱いているからといってひとはひとに全面的にやさしくしたり、その裏返しとしていじわるしたりするわけではありません。倫理や欲望といった行動基準は愛とはまた別の軸にあるのだし、妹を家の壁に埋めたまま一日じゅういじくり倒す姉妹愛だって存在します。おそらくは。
 ヨミは外では引っ込み思案ですが、姉妹の間に限っては活発に振る舞います。レキの行き過ぎた行いに不利益や不快を被るたびに思い切り腹パンし、レキは死にます。


 レキはよく死にます。

 
 一話に二度三度死ぬのもよくあります。この世界では死亡するとどうやら生首のような霊体が身体から抜けでて生者とも意思疎通を図れる仕組みらしいのですが、なにぶんギャグ漫画のことなのでよくわかりません。説明もありません。ただレキは繰り返し死に、繰り返し復活します。妹から殴られるだけではなく、ガラスの破片を踏んだり、すっ転んだだけでも死にます。死んだり生きたり直角になったり伸びたり分裂したりしながら、彼女なりに姉としての役割を果たそうとします。

 なぜならヨミにはレキしかいない。
 最初、ヨミとまともな関係(まともではないですが)を築けているのは姉のレキだけです。世間とはほとんどまともな交渉を持っていない。それでいて、ある冒険家の記した冒険記を耽読し、憧れたりもする。外界に興味がないわけではありません。
 混沌としたスラップスティックコメディである『レキヨミ』になんらかの筋を見出すとすれば、ヨミが「外」へ出る、というところでしょうか。
 一巻では、レキがひきこもりがちなヨミをなんとか外へ連れ出そうと試みたりもします。結局そのときは成功しないのですが、全三巻をつうじて、ヨミはすこしずつ外へと進出していきます。その媒介となるのが、雑貨屋のおねえさんや前述の冒険家のおねえさんや警察官のおねえさんやとにかく理不尽なキノコ屋のおねえさん(このまんがに出てくるのは基本女性キャラだけです)との交友で、要するに姉や姉的な人物が世界への窓口となっている。
 レキがよく死ぬのも姉だからです。妹に先立つ存在として姉がいるのだから、先に死ぬのはあたりまえです。そして死なないのもまた当然なのです。
 
 なにかと華美で華麗な作品のならぶ『ハルタ』誌上では「唾液と血と暴力にあふれた意地汚い『ハクメイとミコチ』」、「ファッショナブルでも耽美でもない『エニデヴィ』」などと不当な揶揄をされがちな本作[誰によって?]ですが、ことに姉妹の真理を射抜いている点ではこれ以上ないほどにうつくしく、2020年代を代表する姉まんがのひとつになることは間違いないでしょう。全三巻。おしい良作が終わりました。もって瞑すべし。


レキヨミ 1 (HARTA COMIX)

レキヨミ 1 (HARTA COMIX)