名馬であれば馬のうち

読書、映画、ゲーム、その他。


読書、映画、その他。


幻の漫画家 panpanya 先生は実在したッ!! 衝撃と慟哭の緊急サイン会レポ!

panpanya という漫画家は実在しない」
 と、母から教えられたのは小学校に入るか入らないか、とにかくそんな時分でした。


 そりゃあショックでしたよ。これまで信じてきた世界を突然崩されたのです。納得できるものではありません。
 当然、わたしは「じゃあこのマンガは誰が描いたの?」と『足摺り水族館』を指差して母を問い質しました。
 すると母は微笑んで(そう、大人が世間知らずの子どもを見下すときに浮かべるあの笑みです)、
「『楽園』のマンガはみんな位置原先生が描いてるのよ」
 と言います。


「えっ、じゃあ。イコルスンも?」
「そうよ」
黒咲練導も? kashmir も? シギサヤも?」
「全員そう」
鶴田謙二もなんだ……」
「エレキテ島が出ないのはそのせいね。忙しいから」
「そうか……すごいな……位置原先生は……」
 そう、位置原先生はすごい。位置原先生の新刊をみんな読もう。


先輩の顔も三度まで

先輩の顔も三度まで



 それから十年。

 京都で都のとろめきを惑わす不逞浪士たちを拷問にかける仕事に就いていたわたしは、 その業務中に思いがけず panpanya 先生が京都でサイン会を開くという情報を手に入れました。
 実在しないはずの panpanya 先生が……?
 矢も盾もたまらず罪人から無理やりサイン会の予約券をもぎ取り、乾きパサつく肌をひきずり、四月二十一日先勝、三条のアニメイトへ馳せ参じます。
 サイン会のうわさを聞きつけたのか、通りは世界各国から集結したサブカルおたく(見た目でわかる)たちで溢れていました。意気軒昂な彼ら彼女らは宮崎駿のアニメのように無数の個というよりはなめらかに統一・組織された群的な生命体となってメイトの階段へとなだれ込んでいき、それをメイトの店員たちが「もうだめだ」「ここで俺たちは死ぬんだ」「援軍はどうなっている」などと泣きわめきながらマスケット銃をやぶれかぶれに撃ちまくって押し返そうとしていました。
 わたしも用意したサイン用の本(『蟹に誘われて』)を弾避けにしながら血路を開き、なんとかメイトの出入り口へとたどり着きます。panpanya 先生にはちょっとした防弾効果もあるのです。

 山積された死屍を踏み越えつつ、サイン会担当と思しき店員に今すぐ panpanya 先生に会わせろと要求します。
 すると、店員はセルロイドめいたにこやかな顔で一枚の紙片を差し出し、「整理券です」という。
 聞けば、「整理券」とやらに記載されている時刻にまたメイトに戻ってこいというのです。予約券とはなんだったのか。
 いくら不条理でもルールはルールです。
 一時間後、わたしはふたたび屍山血河を乗り越え、メイト前に立ちます。
 そうして店員に「整理券」を渡すと、今度は別の紙片をよこして「整理券2です」とぬかす。
 言われるがままに「整理券2」に書かれた集合時刻に三度戻ってくると「整理券3」を渡される。
 さすがに何かがおかしい、と勘づいたわたしは、


 コラッ!!!!


 と店員を一喝しました。
 あんまりお客をバカにするんじゃないよ!
 
 すると店員は悪びれてるようなそうでないようなノリでぺろっと舌を出し、
「たはー、あいすいません。これもうちのもてなしというやつで」
 と言い訳しました。

 
 なるほど、京都名物のいけずと言われればもてなしのうちかもしれないな、とひとり合点しているあいだに店員に促され、会場内に入ります。
 予想はある程度していましたが、人がいっぱいです。いっぱいすぎます。
 なんというか、人を人として認識できないレベルでいっぱいです。なんというか形から人だと察しはつくのですが、それがふだんおもっているような人権を有した存在としての人と視るのがむつかしい。おぞましい別の何かに見える。時代が時代なら独裁者が生まれ、虐殺が起こり、統計学が完成していたことでしょう。

「ଇฌㄜဪ༄༮㐋ฌ先生サイン会の待機列はこちらです〜」
 
 会場内に店員の呼びかけが響きます。
 なに? なに先生だって?

「ଇฌㄜဪ༄༮㐋ฌ先生サイン会の待機列はこちらです〜」

 外に掲げてある看板を見るかぎり、本日ここでサイン会を催すのは panpanya 先生のみ。
 ということは、「ଇฌㄜဪ༄༮㐋ฌ先生」とは panpanya 先生を指しているのでしょうか。文脈的にそれしか考えられません。
 わたしは今まで panpanya 先生のことを「ぱんぱんや」あるいは「ぱんぱにゃ」と読んできましたが、どうやら間違っていたようです。
 先生にお会いする前に気づけてよかった……
 
 
 待機列に並ぶと地獄の獄卒のような店員たちが「オラッ 本を用意しろッ」と客たちをしばきあげながら、ひとりひとりにペンを渡します。
 どうやら整理券(3)の裏にサイン本に付す為書き用の名前を書け、と言いたいらしい。
 わたしにペンを突き出してきた鬼はこう言いました。
「書いていただく姓か名か、どちらか一方を選べ! フルネームはNGだ!」
 なるほど、時短というやつですね。 
「ちなみに漢字かひらがなか、どっちかに限る。カタカナはダメだ!」
 ……??? 先生はカタカナアレルギーなのでしょうか?
 書き終わってペンを返却し、鬼は待機列の後ろに人にまたペンを渡して、同じような注意をがなりたてます。
「ちなみにカタカナか漢字か、どっちかに限る。ひらがなはダメだ!」
 ……??? さっきと言ってることが違う?
「ちなみにカタカナかひらがなか、どっちかに限る。漢字はダメだ!」
「ちなみにアルファベットか漢字か、どっちかに限る。ローマ字はダメだ!」
「ちなみにイヌかネコか、どっちかに限る。オオサンショウウオはダメだ!」

 
 列が進みます。進行方向の終端には灰色のカーテンに仕切られたスペースが設置してあり、その向こうに先生がいらっしゃることが見て取られました。
 本当にいるのかな、とこの期に及んで疑念を棄てきれません。
 ときどき、メイトの本棚のあいだから巨大な蛇がぬっと飛び出してきて、待機列のファンをぱくりとひとのみして去っていきます。
 サインももらえないうちに蛇に食べられるのはいやだなあ、とおもいましたが、この日は幸い食べられずにすみました。実はちょっとヤバい場面もあったのです。蛇がちろりと舌を出し、味見のつもりなのかわたしの頬を舐めてきて、「ぬめっててまずっ!」とそっぽを向いて退散したのです。あぶなかった。

 
 列はさらに進みます。
 ようやく先生とのご対面です。
 店員が上げてくれたカーテンをくぐり、秘密のヴェールの深奥へと至ります。
 そこにいた panpanya 先生は……

 まさしく作品に「わたし」として出てくるキャラそのものの、ショートカットのかわいらしい少女でした。
 先生のとなりにはイヌのレオナルドまでいます。
「ほんとうにまんがの通りだ……」
 おもわず感嘆すると、先生は照れ気味に「よくいわれます」と頭をかきました。


 感無量の心地で本を差し出し、サインをいただきます。
 わたしは基本サイン会の場では喋らないひとですし、先生もサインに添えるイラストをお描きになるので忙しく、特に会話もなく進行していたのですが、シャイなわたしを慮ってくれたのかレオナルドがいろいろなことばをかけてくれました。

「どのあたりから先生の本を読みはじめられたんですか」
「『足摺り水族館』のころからですね」
「ほう、どこでお知りに?」
「先輩が『すごい漫画がある』とガケ書房に連れてってくれて……」


足摺り水族館

足摺り水族館

 
 話すと思い出がよみがえり、知らず目尻に涙が溜まってきます。
 そのあいだにも先生は魔術師のような手際で美麗な線を描き出していきます。

 レオナルドは質問をつづけます。

「今日はどちらからいらしたんですか?」

 無口な客に対するサイン会での常套質問です。

「川から来ました」

「へえ、川。ここまでは大変じゃありませんでしたか。オオサンショウウオなのに」

 オオサンショウウオのわたしは、ベタつく頬をぺしぺし叩きながら嘘をつきました。

「そんなでも」

 そこで先生から「はい、できましたよ。どうぞ」とサイン本を渡されました。

 描いてくださったのは、川のほとりで踊り狂うオオサンショウウオの絵でした。


 わたしは久正人先生サイン会以来の満足をおぼえつつ、同じくサイン会に参加していた後輩のウーパールーパーと合流し、三条の人気ジェラートハウス「SUGITORA」に入りました。味はまあ普通なのですが、虎をフィーチャーしたマスコットが可愛い名店です。

www.sugitora.com

 
 わたしたちはジェラートをつつきながら、サイン会について語らいました。
 よかった。
 ほんとうによかった。
 信じていてほんとうによかった……と。
 信じれば漫画家はかならず具現化するのだ……。


「よかった」を唱えつづけて三十回を超えたころ、わたしの電話が鳴り出します。
 とってみると、母からでした。
 わたしは誇らしい気持ちで、母に panpanya 先生の実在を報告しました。
 母は大して興味なさそうに「そう、よかったね」と返し、「ところで」と話題を変えます。
 
「ゴールデン・ウィークは何をするつもり?」

 深甚な問いかけです。わたしはしばし考え、「年を取ろうかとおもっています」と告げました。
 しばらくは川に戻りたくない気分でした。
 しばらくのあいだは……。

蟹に誘われて

蟹に誘われて

魔法の羽根としてのダンボーー実写リメイク版『ダンボ』に関する短い感想

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「ダンボ」日本版予告編


 ティム・バートン曰く「歪んだウォルト・ディズニー*1であるところの興行師ヴァンデヴァー(マイケル・キートン)が自身の経営する遊園地〈夢の国〉から偽物のフリークスたち*2を叩き出す。ダンボの属していた弱小サーカスから移籍してきた彼らは、ダンボというお目当てを手にしたヴァンデヴァーから邪魔な付属物としてお払い箱にされたのだ。

 
 解雇を通告されたフリークスたちはダンボのテントに集い、すやすやと睡る仔象を微笑みながら見つめ、それぞれに別れを惜しむ。

 このときダンボは単なるかわいいだけのゾウさんではない。本作においては単なるかわいいゾウであるで十二分な瞬間が山ほどあるけれども、映画を観て涙を流すにはかわいいだけでは足りはしない。


 わたしたちがあのシーンで泣いてしまうのは、ダンボが魔法そのものであり、希望の象徴だからだ。不完全で、不格好で、無力に見えても、ハンデと思われた特質を羽ばたくための翼に変えて自由に宙を舞う。ダンボの魔法を目の当たりにしたからこそ、フリークスたちは窮地にあっても絶望しない。

 そして、その魔法を信じるからこそ、ダンボの母親(ジャンボ)の救出劇に手を貸し、「本物」のフリークスとして自分たちの奇跡を顕す。

 オリジナルの『ダンボ』では、ダンボがティモシー(ネズミ)からカラスの羽根を「魔法の羽根だ」と吹き込まれたのを信じて飛んだ。

 ティム・バートンの『ダンボ』では、ダンボ自身が人々にとっての魔法の羽根になる。オリジナル版で徹底的にオミットされていた人間たち*3がリメイク版のメインをはったのは、けしてナラティブにおける親しみやすさの追及のみが目的ではない。

 
 フリークスのサーカス団員たち、そしてコリン・ファース演じる父子は、オリジナル版『ダンボ』を観た観客自身の映し身なのだ。

 かつて、わたしたちはセルアニメで描かれたダンボに自分を信じることの魔法を学んだ。おそらくはティム・バートンや脚本のエーレン・クルーガーもそうだっただろう。

 要するにリメイク版『ダンボ』とは、オリジナルへの感謝を形にした映画だ。その点で、これまでオリジナルの影をなぞって虚しいダンスを続けたり、変に現代っぽく仕立てようと挑んで見事オリジナルを台無しにしていたディズニーの一連の実写リメイクにあって、唯一といっていいオリジナリティと意義を有する作品となった。


ダンボ (吹替版)

ダンボ (吹替版)

*1:パンフレットのインタビューより

*2:サーカス団長のマックス・メディチ曰く

*3:サーカスの団長は常にテントの影となり、ピエロたちは化粧で素顔を隠す。黒人の作業員たちに至っては「人間」として扱われていなかった。

『ナイト・イン・ザ・ウッズ』とフラナリー・オコナーの関係について

*『ナイト・イン・ザ・ウッズ』に関する多少のネタバレがあります。



 エルサレムの聖キュリロスは教理問答でこう記した。「竜が道の脇に座し、通りすがる人々をじっと見張っている。この竜に食い殺されないよう用心せよ」


ーーフラナリー・オコナー、Mystery and Manners



 世界はものすごく悪い状態にあるよ。


――『ナイト・イン・ザ・ウッズ』


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ナイト・イン・ザ・ウッズ(Night in the Woods) Switch & PS4 PV


 キュートなアートワーク、ウィットに飛んだダイアログ、深みのあるキャラクター、そしてストーリー。
『ナイト・イン・ザ・ウッズ』は間違いなくここ数年で最良のインディー・アドベンチャーゲームのひとつでしょう。PS4かSwitchかPCを所有している人間が今すぐ買うべきゲーム2019ぶっちぎりナンバーワンです。*1開発元の ininite fall はもちろんのこと、スラングの多用される難易度の高い原語版をかくも丁寧かつ上質に訳したプレイズムの功績も讃えたい。
 

 さて、『ナイト・イン・ザ・ウッズ』は多くの顔を具えたゲームです。若者の自意識と葛藤を描いた青春モラトリアム物語であり、死にゆく田舎町の悲哀を捉えたアクチュアルな社会派文学であり、『ツイン・ピークス』めいたビザールなミステリであり、重層的な意味を持ったゴースト・ストーリーでもあり、みんな大好きなコz……いや、これはネタバレだったか。

 どのトピックから語っても記事をまるまる一つ消費してしまえるだろうけれど、今回は「『ナイトインザ・ウッズ』に影響を与えたもの」という切り口から探ってみましょう。

 すなわち、フラナリー・オコナー
 

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 三人の主要クリエイターのひとりで共同脚本などを務めたスコット・ベンソンはあるインタビューで影響を受けた作品群について語るなかでフラナリー・オコナーに言及しています


  
 フラナリー・オコナーはこのゲームのゴシック的な部分について終始影響を与えています。すべてを覆う、ぞっとするような恩寵に満ちた南部アメリカに潜む恐怖を探求する彼女の筆致は、ひとつのインスピレーションでした。
 私は非常に長い間クリスチャンとして過ごしていましたが、今では信仰を完膚なきまでに失ってしまいました。しかし、私はいまだにフラナリー・オコナーの「キリストに取り憑かれた(haunted)」世界とつながっているのです。神は完全に私のもとを去ってしまいましたが、恩寵の瞬間は美しくもナチュラルな形で残っており、私は純粋にひとりの人間として信仰心の探求に興味を持ち続けているのです。『善人はなかなかいない』と『賢い血』は間接的にではありますが本作に明確な影響を及ぼしています。もっとも、私はオコナーと究極的な神の実在に関しての見解は分かれるでしょうが。

 フラナリー・オコナーはファークナーなどと並んで南部アメリカ文学(ときには南部ゴシック文学)の代表的作家のひとりとされる人物です。人間の暴力性や南部特有のグロテクスさ、そして残酷な現実をえぐりだす作風で読者に鮮烈な印象を与え、今でもファンが多い。
 オコナーはまた(プロテスタント国家アメリカでは少数派の)カトリック教徒としての意識からクリスチャン的なテーマだったり、宗教的な道徳や倫理への問いかけをよく扱います。
 影響先で近年で最も話題になったのは一昨年のアカデミー賞で作品賞候補にノミネートされた『スリー・ビルボード』(マーティン・マクドナー監督)でしょう。*2まあそこらへんの詳しい解説はいろんなの人が書いてるので……。


『ナイト・イン・ザ・ウッズ』のクリエイターたちにとっても「信仰」は欠かすことのできない題材でした。killscreenの記事によれば、メインのクリエイター三人(アレック・ホウルカ、ベサニー・ホッケンベリー、スコット・ベンソン)はいずれもキリスト教にいったんはコミットしつつも、やがて信仰から離れていった経験を共通して持っているといいます。
 なかでもスコット・ベンソンはフラナリー・オコナーとおなじくアメリカの南部出身 *3であり、やはり保守的なバブテストの家庭で育ちました。しかし「フェミニズムは世界を破壊してしまう」だとか「AIDSは同性愛者を罰するために神から下された」といった教会の政治的な主張に疑問を抱き、別の教会へと移り、やがて信仰そのものを喪失してしまいます。
 そんな彼が信仰の酷薄な側面を描いたオコナーに惹かれたのはある種自然なことだったといえるでしょう。
 

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 ベンソンの言のとおり、『ナイト・イン・ザ・ウッズ』からフラナリー・オコナーの影響を汲み取るのはさして難しくありません。日常に根ざした宗教。不完全で欠陥だらけの人間たち。病んだ父親。*4突然のバイオレンス。どこかユーモラスでウィットに富んだ会話。恩寵と救済。
『ナイト・イン・ザ・ウッズ』には神的な「何か」が出てきます。が、それは慈悲深い神などではありません。というか、自ら「神」であることを否認する何かです。主人公のメイに対してとことんまでに冷たく、無関心で、「おまえは宇宙から忘れられている。私はお前を見ているが、それはお前を心配しているからではない」などとキツいことばをつきつけてきます。
 フラナリー・オコナーのいくつかの短編でも得体のしれない「何か」が登場します。興味深いことにそのうちの二つは「〜 in the woods」というタイトルがつけられているのです。
 ひとつは「森の景色(A View in the Woods)」。偏屈な地主の老人が険悪な仲である娘婿に嫌がらせするために、娘婿が放牧に使っている土地を売ろうとします。しかし老人が唯一心を許してかわいがっていた孫娘は、父親が仕事場を失うことを嫌がり、売却に反対します。
 彼女は猫可愛がりしてくれる祖父よりも、なにかにつけ自分を折檻する父親のほうを愛してしたのです。軽んじられた老人はより頑なになり、土地の売却を強行。しかし、売買契約を結んだ途端に孫娘はおもいがけない暴力をふるいだし、その姿に憎むべき娘婿の姿を見た老人は怒りに身を任せて彼女を殺してしまいます。
 直後、老人はかねてから弱っていた心臓が発作を起こし、臨死体験なのかなんなのか超現実的な光景を幻視します。そこで「怪物」を目撃するのです。



 ……白い空が水面に映っている小さい空き地。走るうちに、その場所は次第に大きくなり、突如、足もとにさざ波が寄せてくる水際の向こう、老人の目の前に、湖全体が堂々と拡がった。急に自分が泳げないこと、ボートを買ってなかったことを思い出した。両側の痩せた木々が、密度を増して、神秘的な暗い隊列を組み、水面を越えて遠くへ行進していゆくのが見えた。助けを求めてあたりを見まわしたが、人の気配はなく、となりにはただひとつ、巨大な黄色の怪物が、老人とおなじようにじっとして、土をむさぼり喰っていた。


――フラナリー・オコナー「森の景色」、横山貞子・訳、『フラナリー・オコナー全短編 下』ちくま文庫

 この土を食む「巨大な黄色の怪物」とはブルドーザーを指します。アメリカ文学研究者の大久保良子いわく「メアリー・フォーチュン(注:孫娘の名前)のワンピースの色が黄色であることや、少女が怪物的な力で、父権的な父になろうとする祖父を攻撃したことを鑑みれば、黄色いブルドーザーと、黄色いワンピースのメアリー・フォーチュンとが、老人の目に重ね合わされて知覚されているといえ」*5るらしい。
 解釈はともかくとして、幻想的な風景の連続の果に突如として現れる巨大モンスターの姿は『ナイト・イン・ザ・ウッズ』における夢のシークエンスを思わせます。


 
 もうひとつは「An Afternoon in the Woods」。 初期作品である「七面鳥(The Turkey)」(1948)の最終改訂版に付された題名で、オコナーの生前に世へ出ることはなく、死後出版された『Collected Works』(1988)にようやく収録された作品です。
 主人公の名前*6や年齢など細かな違いはあるものの、「An Afternoon in the Woods」と「七面鳥」のプロットはほとんど同じです。*7
 主人公は十歳くらいの少年。彼は森で七面鳥を追いかけています。七面鳥を捕獲すれば、家族や町の人々が自分を褒めてくれるはず、問題を起こしてばかりの厄介者の兄とは違って価値ある人間だと証明できるはずーーそう考えてのことです。
 しかし苦労の甲斐なく七面鳥を逃してしまい、彼は神を呪うことばを吐きます。そうして森を出ようとしたところで、傷を負って死んでいる大きな七面鳥に出くわします。
 彼は喜び勇んで七面鳥を抱え、家への帰路につきます。ついでに神を呪ったことを埋め合わせるため、道中で出会った浮浪者に無理やり十セント硬貨を施したりもします。
 ところが、罪の意識を帳消しにして安心したのもつかの間、年長の少年たちの一団に出くわし、七面鳥を強奪されてしまいます。
 ラストの場面で、少年は後ろから「おそろしいなにものか」が迫ってくる恐怖をおぼえながら、必死で家まで駆け出します。



 足が動くようになった時には、少年たちはもうララーを一区画引き離していた。遠くなって、とうとう後ろ姿も見えなくなったことを、ララーは認めないわけにはゆかなかった。這うようにのろのろと家に向かった。四区画歩いたところでいきなり、もう暗くなってきているのに気がついて、走りだした。走って走って、家に向かう最後の曲がりかどまできた時、心臓が足の動きとおなじくらい早くなっていた。ララーにははっきりわかった。腕に力を入れ、今にもつかみかかろうと指をかまえて、おそろしいなにものかが後ろから迫ってきていた。


 ――フラナリー・オコナー七面鳥」、横山貞子・訳、『フラナリー・オコナー全短編 上』ちくま文庫

 少年につかみかかろうとした「おそろしいなにものか」の正体は何なんなのか。森で悪態をついたときに少年がおそるおそる背後を確認する場面もありますが、そこにいるかもしれなかったのは神なのか、それとも他のなにかなのか。
 オコナーの最初期、修士論文として提出した六作品のなかでは「オコナーが後の作品で常に読者に問いかけてくる、神と人との関わりについて示唆」*8する部分が最も色濃い一篇です。
 タイトルの「An Afternoon in the Woods」は『Night in the Woods』の対になるとも読み取れます。果たして制作陣にどこまでその意識があったのか。


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 超越的な存在に対する信仰と不信のあいだで揺れ動くのは、メイだけではありません。『ナイト・イン・ザ・ウッズ』で最も宗教に近い人物ーー新任牧師のケイトもその一人です。神的な存在と邂逅し「私達が考える(親切な)神様なんて最初からいなくて、神様だと思っていたものは無慈悲で無関心ななにかなのではないか」と考えるようになったメイから「神様っていると思う?」と問いかけられ、ケイトは不信心な自分を告白をします。
「わからないの。調子のいい日は心から(神の存在を)信じられることもあるよ」。しかし、そうでない日はその実在を疑うこともある、と。「神様を信じるっていうのはある種のプロセスなの。毎日毎日、『今日も立ち直ってまた前に進もう』って自分に言い聞かせなきゃいけない」
 そんなケイト牧師に対し、メイは「自分が信じてないものを他人に信じろと言って回るのなんてウソじゃん。信じるのがあんたの『仕事』じゃん」と不実をなじります。
 ケイトは「確かに毎週みんなの前に立って『今回はこれだけ神様を信じられるようになりました』って数字にして報告できたらいいのかもね。でも、そうしたって誰が助かるの? 誰のためになるの?」
 ケイト牧師の信仰のゆらぎは、神への熱烈な愛を日記に書き綴りながらも一方で不安に陥っていた20代のオコナーの想起させます。


 この時代の空気を吸っていると、わたしは神への信仰と不信のはざまでいつも悩んでしまいます。常に信じることは困難です。ましてやこんな世界に生きているとなるとなおさらでしょう。わたしたちの中には、信仰を得るために一歩ずつ踏み出さなければならない人もいれば、信仰なしの人生がどんなものであって、究極的にそんな生活が可能かどうかを烈しく考え抜かなければならない人もいます。


ーーフラナリー・オコナー、”To John Hawkes,” The habit of being: Letters of Flannery O'connor

 ケイト牧師も牧師になる程度には神を信じている。教会にほとんど行かないメイより信仰心は強いでしょう。けれども、「こんな世界」に身を置いているとそんなケイト牧師ですら「常に信じること」が難しくなる。
 

 ケイト牧師は本作には珍しく、はっきりと善意で動いているキャラクターです。オコナー作品にたびたび見られる傲慢な”善人”とは違い、本気で他者を想いやっています。たとえば、教会近くの空き地に住み着いた浮浪者を見かねて教会の中で寝起きできるよう図ろうとする。が、町議会の反対に会って頓挫してしまいます。
 だれかを助け、ケアする。そんなシンプルなことさえ可能でなくなってしまうこの世界においてわたしたちは「何」なのか。そうした苛烈な問いかけをなげかけてくる点で、『ナイト・イン・ザ・ウッズ』とフラナリー・オコナーは姉妹のようなものだといえるのかもしれません。


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「なにも、世の終わりみたいなまねをすることはないだろう? この世は終わってないんだ。これからは新しい世界に生きて、これまでと違う現実に直面するんだよ。元気を出すんだ。それで死ぬようなことはないよ」


――フラナリー・オコナー「すべて上昇するものは一点に集まる」、横山貞子・訳、『フラナリー・オコナー全短編 下』ちくま文庫

 あんまりよくまとまらなかったな。


フラナリー・オコナー全短篇〈上〉 (ちくま文庫)

フラナリー・オコナー全短篇〈上〉 (ちくま文庫)

フラナリー・オコナー全短篇〈下〉 (ちくま文庫)

フラナリー・オコナー全短篇〈下〉 (ちくま文庫)

*1:残念ながら、期待されていた steam 版の日本語化パッチはまだ来ない。プレイズムは独自の販売プラットフォームを持っているため、おそらく steam 版は出ないのではないか。やはり名作の誉れ高い『To the Moon』のときのように。→追記: 4月16日に steam 版も日本語対応しました。えらい。

*2:スリー・ビルボード』と『ナイト・イン・ザ・ウッズ』の原語版が同じ2017年にリリースされたのは全くの偶然ではない気がします。

*3:ベンソンはテキサスで、オコナーはジョージア

*4:ビーのね

*5:大久保良子「母なる子:フラナリー・オコナー「森の景色」における親子関係の撹乱」https://rikkyo.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=7060&item_no=1&page_id=13&block_id=49

*6:七面鳥」ではララー(Ruller)、「An Afternoon〜」では Manley

*7:手元にないので、wikipedia を読むかぎりでは

*8:渡辺佳余子「フラナリー・オコナーの初期作品再読」http://www.tsc.ac.jp/library/bulletin/detail/pdf/38/y_watanabe.pdf