名馬であれば馬のうち

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『ナイト・イン・ザ・ウッズ』とフラナリー・オコナーの関係について

*『ナイト・イン・ザ・ウッズ』に関する多少のネタバレがあります。



 エルサレムの聖キュリロスは教理問答でこう記した。「竜が道の脇に座し、通りすがる人々をじっと見張っている。この竜に食い殺されないよう用心せよ」


ーーフラナリー・オコナー、Mystery and Manners



 世界はものすごく悪い状態にあるよ。


――『ナイト・イン・ザ・ウッズ』


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ナイト・イン・ザ・ウッズ(Night in the Woods) Switch & PS4 PV


 キュートなアートワーク、ウィットに飛んだダイアログ、深みのあるキャラクター、そしてストーリー。
『ナイト・イン・ザ・ウッズ』は間違いなくここ数年で最良のインディー・アドベンチャーゲームのひとつでしょう。PS4かSwitchかPCを所有している人間が今すぐ買うべきゲーム2019ぶっちぎりナンバーワンです。*1開発元の ininite fall はもちろんのこと、スラングの多用される難易度の高い原語版をかくも丁寧かつ上質に訳したプレイズムの功績も讃えたい。
 

 さて、『ナイト・イン・ザ・ウッズ』は多くの顔を具えたゲームです。若者の自意識と葛藤を描いた青春モラトリアム物語であり、死にゆく田舎町の悲哀を捉えたアクチュアルな社会派文学であり、『ツイン・ピークス』めいたビザールなミステリであり、重層的な意味を持ったゴースト・ストーリーでもあり、みんな大好きなコz……いや、これはネタバレだったか。

 どのトピックから語っても記事をまるまる一つ消費してしまえるだろうけれど、今回は「『ナイトインザ・ウッズ』に影響を与えたもの」という切り口から探ってみましょう。

 すなわち、フラナリー・オコナー
 

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 三人の主要クリエイターのひとりで共同脚本などを務めたスコット・ベンソンはあるインタビューで影響を受けた作品群について語るなかでフラナリー・オコナーに言及しています


  
 フラナリー・オコナーはこのゲームのゴシック的な部分について終始影響を与えています。すべてを覆う、ぞっとするような恩寵に満ちた南部アメリカに潜む恐怖を探求する彼女の筆致は、ひとつのインスピレーションでした。
 私は非常に長い間クリスチャンとして過ごしていましたが、今では信仰を完膚なきまでに失ってしまいました。しかし、私はいまだにフラナリー・オコナーの「キリストに取り憑かれた(haunted)」世界とつながっているのです。神は完全に私のもとを去ってしまいましたが、恩寵の瞬間は美しくもナチュラルな形で残っており、私は純粋にひとりの人間として信仰心の探求に興味を持ち続けているのです。『善人はなかなかいない』と『賢い血』は間接的にではありますが本作に明確な影響を及ぼしています。もっとも、私はオコナーと究極的な神の実在に関しての見解は分かれるでしょうが。

 フラナリー・オコナーはファークナーなどと並んで南部アメリカ文学(ときには南部ゴシック文学)の代表的作家のひとりとされる人物です。人間の暴力性や南部特有のグロテクスさ、そして残酷な現実をえぐりだす作風で読者に鮮烈な印象を与え、今でもファンが多い。
 オコナーはまた(プロテスタント国家アメリカでは少数派の)カトリック教徒としての意識からクリスチャン的なテーマだったり、宗教的な道徳や倫理への問いかけをよく扱います。
 影響先で近年で最も話題になったのは一昨年のアカデミー賞で作品賞候補にノミネートされた『スリー・ビルボード』(マーティン・マクドナー監督)でしょう。*2まあそこらへんの詳しい解説はいろんなの人が書いてるので……。


『ナイト・イン・ザ・ウッズ』のクリエイターたちにとっても「信仰」は欠かすことのできない題材でした。killscreenの記事によれば、メインのクリエイター三人(アレック・ホウルカ、ベサニー・ホッケンベリー、スコット・ベンソン)はいずれもキリスト教にいったんはコミットしつつも、やがて信仰から離れていった経験を共通して持っているといいます。
 なかでもスコット・ベンソンはフラナリー・オコナーとおなじくアメリカの南部出身 *3であり、やはり保守的なバブテストの家庭で育ちました。しかし「フェミニズムは世界を破壊してしまう」だとか「AIDSは同性愛者を罰するために神から下された」といった教会の政治的な主張に疑問を抱き、別の教会へと移り、やがて信仰そのものを喪失してしまいます。
 そんな彼が信仰の酷薄な側面を描いたオコナーに惹かれたのはある種自然なことだったといえるでしょう。
 

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 ベンソンの言のとおり、『ナイト・イン・ザ・ウッズ』からフラナリー・オコナーの影響を汲み取るのはさして難しくありません。日常に根ざした宗教。不完全で欠陥だらけの人間たち。病んだ父親。*4突然のバイオレンス。どこかユーモラスでウィットに富んだ会話。恩寵と救済。
『ナイト・イン・ザ・ウッズ』には神的な「何か」が出てきます。が、それは慈悲深い神などではありません。というか、自ら「神」であることを否認する何かです。主人公のメイに対してとことんまでに冷たく、無関心で、「おまえは宇宙から忘れられている。私はお前を見ているが、それはお前を心配しているからではない」などとキツいことばをつきつけてきます。
 フラナリー・オコナーのいくつかの短編でも得体のしれない「何か」が登場します。興味深いことにそのうちの二つは「〜 in the woods」というタイトルがつけられているのです。
 ひとつは「森の景色(A View in the Woods)」。偏屈な地主の老人が険悪な仲である娘婿に嫌がらせするために、娘婿が放牧に使っている土地を売ろうとします。しかし老人が唯一心を許してかわいがっていた孫娘は、父親が仕事場を失うことを嫌がり、売却に反対します。
 彼女は猫可愛がりしてくれる祖父よりも、なにかにつけ自分を折檻する父親のほうを愛してしたのです。軽んじられた老人はより頑なになり、土地の売却を強行。しかし、売買契約を結んだ途端に孫娘はおもいがけない暴力をふるいだし、その姿に憎むべき娘婿の姿を見た老人は怒りに身を任せて彼女を殺してしまいます。
 直後、老人はかねてから弱っていた心臓が発作を起こし、臨死体験なのかなんなのか超現実的な光景を幻視します。そこで「怪物」を目撃するのです。



 ……白い空が水面に映っている小さい空き地。走るうちに、その場所は次第に大きくなり、突如、足もとにさざ波が寄せてくる水際の向こう、老人の目の前に、湖全体が堂々と拡がった。急に自分が泳げないこと、ボートを買ってなかったことを思い出した。両側の痩せた木々が、密度を増して、神秘的な暗い隊列を組み、水面を越えて遠くへ行進していゆくのが見えた。助けを求めてあたりを見まわしたが、人の気配はなく、となりにはただひとつ、巨大な黄色の怪物が、老人とおなじようにじっとして、土をむさぼり喰っていた。


――フラナリー・オコナー「森の景色」、横山貞子・訳、『フラナリー・オコナー全短編 下』ちくま文庫

 この土を食む「巨大な黄色の怪物」とはブルドーザーを指します。アメリカ文学研究者の大久保良子いわく「メアリー・フォーチュン(注:孫娘の名前)のワンピースの色が黄色であることや、少女が怪物的な力で、父権的な父になろうとする祖父を攻撃したことを鑑みれば、黄色いブルドーザーと、黄色いワンピースのメアリー・フォーチュンとが、老人の目に重ね合わされて知覚されているといえ」*5るらしい。
 解釈はともかくとして、幻想的な風景の連続の果に突如として現れる巨大モンスターの姿は『ナイト・イン・ザ・ウッズ』における夢のシークエンスを思わせます。


 
 もうひとつは「An Afternoon in the Woods」。 初期作品である「七面鳥(The Turkey)」(1948)の最終改訂版に付された題名で、オコナーの生前に世へ出ることはなく、死後出版された『Collected Works』(1988)にようやく収録された作品です。
 主人公の名前*6や年齢など細かな違いはあるものの、「An Afternoon in the Woods」と「七面鳥」のプロットはほとんど同じです。*7
 主人公は十歳くらいの少年。彼は森で七面鳥を追いかけています。七面鳥を捕獲すれば、家族や町の人々が自分を褒めてくれるはず、問題を起こしてばかりの厄介者の兄とは違って価値ある人間だと証明できるはずーーそう考えてのことです。
 しかし苦労の甲斐なく七面鳥を逃してしまい、彼は神を呪うことばを吐きます。そうして森を出ようとしたところで、傷を負って死んでいる大きな七面鳥に出くわします。
 彼は喜び勇んで七面鳥を抱え、家への帰路につきます。ついでに神を呪ったことを埋め合わせるため、道中で出会った浮浪者に無理やり十セント硬貨を施したりもします。
 ところが、罪の意識を帳消しにして安心したのもつかの間、年長の少年たちの一団に出くわし、七面鳥を強奪されてしまいます。
 ラストの場面で、少年は後ろから「おそろしいなにものか」が迫ってくる恐怖をおぼえながら、必死で家まで駆け出します。



 足が動くようになった時には、少年たちはもうララーを一区画引き離していた。遠くなって、とうとう後ろ姿も見えなくなったことを、ララーは認めないわけにはゆかなかった。這うようにのろのろと家に向かった。四区画歩いたところでいきなり、もう暗くなってきているのに気がついて、走りだした。走って走って、家に向かう最後の曲がりかどまできた時、心臓が足の動きとおなじくらい早くなっていた。ララーにははっきりわかった。腕に力を入れ、今にもつかみかかろうと指をかまえて、おそろしいなにものかが後ろから迫ってきていた。


 ――フラナリー・オコナー七面鳥」、横山貞子・訳、『フラナリー・オコナー全短編 上』ちくま文庫

 少年につかみかかろうとした「おそろしいなにものか」の正体は何なんなのか。森で悪態をついたときに少年がおそるおそる背後を確認する場面もありますが、そこにいるかもしれなかったのは神なのか、それとも他のなにかなのか。
 オコナーの最初期、修士論文として提出した六作品のなかでは「オコナーが後の作品で常に読者に問いかけてくる、神と人との関わりについて示唆」*8する部分が最も色濃い一篇です。
 タイトルの「An Afternoon in the Woods」は『Night in the Woods』の対になるとも読み取れます。果たして制作陣にどこまでその意識があったのか。


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 超越的な存在に対する信仰と不信のあいだで揺れ動くのは、メイだけではありません。『ナイト・イン・ザ・ウッズ』で最も宗教に近い人物ーー新任牧師のケイトもその一人です。神的な存在と邂逅し「私達が考える(親切な)神様なんて最初からいなくて、神様だと思っていたものは無慈悲で無関心ななにかなのではないか」と考えるようになったメイから「神様っていると思う?」と問いかけられ、ケイトは不信心な自分を告白をします。
「わからないの。調子のいい日は心から(神の存在を)信じられることもあるよ」。しかし、そうでない日はその実在を疑うこともある、と。「神様を信じるっていうのはある種のプロセスなの。毎日毎日、『今日も立ち直ってまた前に進もう』って自分に言い聞かせなきゃいけない」
 そんなケイト牧師に対し、メイは「自分が信じてないものを他人に信じろと言って回るのなんてウソじゃん。信じるのがあんたの『仕事』じゃん」と不実をなじります。
 ケイトは「確かに毎週みんなの前に立って『今回はこれだけ神様を信じられるようになりました』って数字にして報告できたらいいのかもね。でも、そうしたって誰が助かるの? 誰のためになるの?」
 ケイト牧師の信仰のゆらぎは、神への熱烈な愛を日記に書き綴りながらも一方で不安に陥っていた20代のオコナーの想起させます。


 この時代の空気を吸っていると、わたしは神への信仰と不信のはざまでいつも悩んでしまいます。常に信じることは困難です。ましてやこんな世界に生きているとなるとなおさらでしょう。わたしたちの中には、信仰を得るために一歩ずつ踏み出さなければならない人もいれば、信仰なしの人生がどんなものであって、究極的にそんな生活が可能かどうかを烈しく考え抜かなければならない人もいます。


ーーフラナリー・オコナー、”To John Hawkes,” The habit of being: Letters of Flannery O'connor

 ケイト牧師も牧師になる程度には神を信じている。教会にほとんど行かないメイより信仰心は強いでしょう。けれども、「こんな世界」に身を置いているとそんなケイト牧師ですら「常に信じること」が難しくなる。
 

 ケイト牧師は本作には珍しく、はっきりと善意で動いているキャラクターです。オコナー作品にたびたび見られる傲慢な”善人”とは違い、本気で他者を想いやっています。たとえば、教会近くの空き地に住み着いた浮浪者を見かねて教会の中で寝起きできるよう図ろうとする。が、町議会の反対に会って頓挫してしまいます。
 だれかを助け、ケアする。そんなシンプルなことさえ可能でなくなってしまうこの世界においてわたしたちは「何」なのか。そうした苛烈な問いかけをなげかけてくる点で、『ナイト・イン・ザ・ウッズ』とフラナリー・オコナーは姉妹のようなものだといえるのかもしれません。


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「なにも、世の終わりみたいなまねをすることはないだろう? この世は終わってないんだ。これからは新しい世界に生きて、これまでと違う現実に直面するんだよ。元気を出すんだ。それで死ぬようなことはないよ」


――フラナリー・オコナー「すべて上昇するものは一点に集まる」、横山貞子・訳、『フラナリー・オコナー全短編 下』ちくま文庫

 あんまりよくまとまらなかったな。


フラナリー・オコナー全短篇〈上〉 (ちくま文庫)

フラナリー・オコナー全短篇〈上〉 (ちくま文庫)

フラナリー・オコナー全短篇〈下〉 (ちくま文庫)

フラナリー・オコナー全短篇〈下〉 (ちくま文庫)

*1:残念ながら、期待されていた steam 版の日本語化パッチはまだ来ない。プレイズムは独自の販売プラットフォームを持っているため、おそらく steam 版は出ないのではないか。やはり名作の誉れ高い『To the Moon』のときのように。→追記: 4月16日に steam 版も日本語対応しました。えらい。

*2:スリー・ビルボード』と『ナイト・イン・ザ・ウッズ』の原語版が同じ2017年にリリースされたのは全くの偶然ではない気がします。

*3:ベンソンはテキサスで、オコナーはジョージア

*4:ビーのね

*5:大久保良子「母なる子:フラナリー・オコナー「森の景色」における親子関係の撹乱」https://rikkyo.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=7060&item_no=1&page_id=13&block_id=49

*6:七面鳥」ではララー(Ruller)、「An Afternoon〜」では Manley

*7:手元にないので、wikipedia を読むかぎりでは

*8:渡辺佳余子「フラナリー・オコナーの初期作品再読」http://www.tsc.ac.jp/library/bulletin/detail/pdf/38/y_watanabe.pdf