名馬であれば馬のうち

読書、映画、ゲーム、その他。


読書、映画、その他。


インディーゲームと映画の(雑な)関係――Disasterpeace、デイヴィッド・オライリー、アナプルナ

 例によって動画リンクが多いので重いですが。

デイヴィッド・ロバート・ミッチェルと Disasterpeace


『イット・フォローズ』監督の新作『アンダー・ザ・シルバーレイク』日本版予告編



 めずらしく音楽ネタから入ります(『ザ・プレデター』で『don't starve』が出てきてたよね、という話からはじめるつもりが記事を書いたときにすっかり忘れてた)。


アンダー・ザ・シルバーレイク』が日本公開される時期となりました。はやいな。アメリカ映画なのに、なんと全米公開より早い。
 それもそのはずで、監督のデイヴィッド・ロバート・ミッチェルは前作の『イット・フォローズ』で日米ともに一躍名を売った期待の新鋭。次代のタレントということで、日本の配給会社も気合が違うわけです。
 『イット・フォローズ』は実にいろんな褒めかたができる作品でした。
 わけても印象的だった部分として「劇伴音楽」をあげる人も多いんじゃないでしょうか。

 そんな『イット・フォローズ』のサントラを作曲し、今回の『アンダー・ザ・シルバーレイク』で監督と二度目のタッグを組むのが Disasterpeace。
 『イット・フォローズ』のとき、一部界隈はこの名前を見て震撼しました。あの Disasterpeace が、と。


 どの界隈が?


 インディーゲーム好き界隈です。


 元々インディーゲームの作曲家として有名な人です。その制作経緯含めて*1伝説となったプラットフォームアクションゲーム『FEZ』(めっちゃすき)において評価を確立したのち、


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 これまた世界的な話題を呼んだパズルゲーム『mini metro』(めっちゃすき)、


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 そしてリリース自体は『イット・フォローズ』日本公開より微妙に遅れますがアクションRPG『Hyper Light Drifter』(めっちゃすき)、


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 いずれもその年を代表するアウォード・ウィナー的名作インディーゲームの作曲を務めた、いわばインディーゲーム界のアレクサンドル・デプラとも呼べる存在なのです。


越境するインディー系短編アニメーション作家たち

 そして、ここ最近のシーンを観察するに、どうもインディーゲームで見た名前が映画に関わっていたり、映画で見たクリエイターがインディーゲームを作っていたりすることが妙に多い。
 ゲームと映画は元々つながりの深い業界同士ですから、単に私がここ二三年でインディーゲームに触れるようになった影響で個人的に視野が広がっただけ、ともいえなくもないかもしれません。
 が、それにしても、「そこを出してくるか」というラインを目にする機会が多くなってきている。


 代表的なところで言えば、3D短編アニメーションの若き巨匠デイヴィッド・オライリー
 メジャーどころの仕事だとスパイク・ジョーンズ監督『Her/世界にひとつだけの彼女』の作中内でホアキン・フェニックスが遊んでいるゲームのアニメーションや、『アドベンチャー・タイム』のゲスト監督回(「コワレタセカイ」)などがあります。 *2『Her』にちょっと噛んだだけの人物を映画人として上げるのはどうなんだ、というご意見もあるでしょうが、今回はそういう流れなので我慢して聞いてください。

 もともとはローファイなポリゴンを使用したシュールでスラップスティックな、しかしどこか切なさをはらんだ作風の短編アニメで注目を浴びていた作家です。


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 彼は2010年に集大成的な作品*3『THE EXTERNAL WORLD』を公開したのち、上記の商業作品ゲスト参加以外はオリジナルのアニメプロジェクトをやっていなかったのですが、では何を作っていたかといえば、ゲームです。


 山になる(そして山でいる他はほぼ何もできない)ゲーム『Mountain』


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 原子から銀河まであらゆる「もの」に変化していく『Everything』


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 といった野心的なゲー……ゲームかなあーー??? これ??? 的なゲームを発表し、プレイヤーの度肝を抜きまくりました。
インタビューによるとノンリニアな物語を描き出せることにゲーム制作の魅力を感じているそうで、やはりストーリーテリングのヴァリエーションのあり方として接近したと思しい。
 彼に限らず短編アニメーション作家がインディーゲームに参入してくる例は増えてきておりまして(『Plug & Play』、『Night in the Woods』)で、作家的な個性を発揮する場としてインディーゲームという場は魅力的なのでしょう。


 余談になりますが、オライリーといえばインディーアニメーション評論家・プロデューサーの土居伸彰の『21世紀のアニメーションがわかる本』でも触れられていますが、彼を紹介した土居先生自身も審査員として関わっている映画祭でインディーゲーム特集を開いたり、ゲーム製作にかかわられたりもされているようで、これも「流れ」っぽいかんじがする。

 

アナプルナの野望〜インディーゲーム編〜

 そして近年におけるインディーゲームと映画のクロスオーバーでもっとも見逃せないのが、アナプルナの暗躍です。
 オラクル創業者の娘でウルトラ金持ちのミーガン・エリソンが2011年に設立するや、毎年のようにアカデミー賞ノミネート作品を送り出している映画製作会社アナプルナ・ピクチャーズ。
 そのアナプルナが母体となって2016年にできたのがゲームパブリッシャー、アナプルナ・インタラクティブ(Annapurna Interactive)です。
 インディー的な感性の映画を豊潤な資金力で多数製作しハリウッドのアナプルナの名に恥じず、創立以来、優秀なゲーム開発者・スタジオを援助してはいい意味で珍奇な作品群を商業ラインに乗せ、映画方面とおなじく批評的な大成功をおさめています。
 
 その最良の収穫が、『フィンチ家の奇妙な屋敷でおきたこと(What Remains of Edith Finch)』。
 
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 とある若い女性が幼少期を過ごした実家に舞い戻り、不可思議な死を次々と遂げていった自分の一族の謎を追体験するアドベンチャーゲームで、その卓抜したストーリーテリングによりゲーム・アワードを始めとして数々の賞を受賞。各種批評紙の評点を集計した metacrtic のスコアも異例の90点超えと昨年度でも最も注目されたインディーゲームです。わたしもだいすき。
 

 『フィンチ家』はアナプルナ新作としては第二弾ですが、第一弾となったパズルゲーム『Gorogoa』も興味深い。
 なんといいますか、説明しにくいのですが、多数のレイヤーが重なったフラクタルな絵画のような画面をクリック(タッチ)することで仕掛けを説いてストーリーを解き明かしていく作品です。 

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 そして最近発売されたオリジナルタイトル第三弾が『Donut County』。
 これはまあドローンのヘリコプターを欲しがるドーナツ屋のアライグマがドーナツの配達先で謎のアプリを駆使しして謎の穴を作り出し、その穴にドーナツを注文した動物たちを含むさまざまなオブジェクトを落としていくことで塊魂的に穴を広げ、落として貯めたポイントでドローンをゲットし友達の女にぶち壊されるという内容のゲームで、何を言っているのかと思われそうですが、まあそういうノリです。
 とにかくビジュアルがポップでかわいく、オフビートな会話のノリがすてき。

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塊魂』っぽいといえば、本家『塊魂』の開発者である高橋慶太の新作『Wattam』もアナプルナがパブリッシャー。たのしみですね。

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 ちなみにわたしは未プレイですが、Apple Store でやたらプッシュされているしゃれおつインタラクティブノベル『Florence』も今年のアナプルナの仕事です。

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 今年の待機作としては他にもローポリで幻想的な雰囲気が特徴のRPG『ASHEN』や、ある惑星が恒星の超新星爆発によって滅ぶ直前の二十分間を繰り返しその謎を探るオープンワールド探索アドベンチャー『Outer Wilds』などが控えており、さらには発売予定日はまだ不明ながらユニークなインターフェイスで話題をさらった推理アドベンチャー『Her Story』の続編もラインナップには見えます。
 いずれもゲームファンとして、いや、人間存在として見逃せない作品ばかり。


 とまあ、ご覧のとおり、アナプルナはビジュアルやデザインは洗練されているもののAAAタイトル的な狂騒やわかりやすいエンタメからは遠く離れた侘び寂びに満ちたゲームを世に出しまくっています。
 ゲームのパブリッシャーの役割は映画のプロデュースと異なるわけで、どこまで映画のほうのノウハウが役に立っているかはわかりませんが、大手から相手にされないようなめんどくさいが観客にとって魅力的な個性を持つ作家にカネをあたえていいものを作らせるスタンスはまさにアナプルナの精神そのものです。
 アナプルナがゲーム業界に参入した理由については今日のところは疲れたので後日また調べたいと思いますが、アナプルナの「本気度」をかんがみるに、アートのプラットフォームとしてのインディーゲームが映画と同レベルの強度を獲得しつつあること、あるいはそのような潮流が生じていることを見込んだのかな、と推察します。
 そうした潮流の一現象として、映像作家だったり作曲家だったりがインディーゲームと映画のあいだを横断している。
 かなり、むりやりなまとめですが、そういうことにしておきましょう。単にわたしの好きなものを並べただけの記事だということがバレないように。


Fez

Fez

Under the Silver Lake

Under the Silver Lake


 

*1:『Indie Game: The Movie』というドキュメンタリーでフィーチャーされています

*2:そういえば、 Disasterpeace も『アドベンチャー・タイム』でゲスト参加回がありますね

*3:といっても公開時25才くらいだったのですが

「これは京都SFフェスティバルの参加レポではない」(I'm not the Kyofes Report.)



*去る人物から京都SFフェスティバルのレポを書けといわれたので書きますが、ほとんどはフィクションです。
 まじめに内容を知りたい方は、

https://virtualgorillaplus.com/topic/kyoto-sf-festival-2018-opening/
http://whiteskunk.hatenablog.com/entry/20181009/1539011800
https://togetter.com/li/1274530

 などをごらんください。


* * *


 神宮丸太町には「京のつくね屋」というすこぶる評判な親子丼の店があります。
 そこで名物の親子丼と鳥餃子(揚げた手羽先の中に餃子めいた野菜の具がつまっている)をのんびり食べておりますと、片付けたころにはとっくに京都SFフェスティバル本会の開始時刻を越している。こうして割と行きたかった一コマ目が飛びます。イコライザーさんが見ていたなら「どうしてチャンスを逃すんだ」と怒ったでしょうが、わたしは『世界と僕のあいだに』を半分ほどしか読まないままうっちゃった人間なので、どうしようもない。

 二コマ目には間に合います。
 酉島伝法先生と飛浩隆先生の対談です。
 酉島先生についてはいつかのやはり京フェスのときに吉村萬壱先生との対談を通じておもろい大阪のおっさんなんだなと知っていたのですが、飛先生はどうだか未知数です。イメージとしては声が中田譲治な白髪知的紳士。酉島先生と話が合うんだろうか、と心配してしまいます。
 会場に着くとたしかに声こそ中田譲治ではなかったものの絵的にはだいたい白髪知的紳士と合致するおじさまが演壇に座っています。不安がさらに募ります。しかし始まってみると、飛先生もおもろいおっさんの類なのだと判明しました。
 対談は飛先生の聴き上手と切れ味鋭いボケがいかんなく発揮され、酉島先生の新作にまつわるあれこれから普段の執筆スタイルまで根堀葉掘りされていきました。あまりに飛先生のインタビュアー力が高すぎたためか、飛先生のほうの話がそれほどなかったように思われましたが、おもしろかったので良しです。酉島先生の新作長編の元ネタが『次郎長三国志』と聞いて、ほう、となりもしました。
 本対談の白眉はなんといっても、「川」でしょう。川をあのように使いに、川に溶け込む酉島先生はやはり彼岸の向こう側が見えているヒトなのではないかと思わされました。詳しくは上記のリンク(下のほう)をお読みください。


 三コマ目は小川一水先生による『天冥の標』完結記念トークでしたが、天冥は三巻くらいまでしか読んでいなかったのでそんな状態で出席するのも失礼だと思い、近くのからふね屋でミックスジュースフローズン(おいしい)をすすっていました。
 あとでトークの内容を報告してくれた、やはり天冥を通読していない後輩によると、別に素の状態でも先生のキャラを十分堪能できたそうで、やっぱりいきゃあよかったなとちょっぴり後悔しました。筋を通すのは人間として大事ですが、ときに筋を曲げていい場合もあるのです。学びですね。京フェスはいつだってわれわれを成長をさせてくれます。一抹のほろにがさと共に……。




 さて本会が終わると工場へと案内されます。


 工場の入口で靴とコートをフロントに預けると、スタッフから俳句をしたためるように要請されます。どんな俳句ですか、と訊ねると、今生にお別れするノリで、と注文が付きます。
 俳句を提出すると若こうじょうちょう(両親を亡くしたばかりの小学生)にいざなわれ、暗い地下の奥の奥へと連れて行かれました。
 壁の途中途中には歓迎のメッセージらしきものが刻みつけられており、「いますぐ逃げろ」「死にたくない」「サラミだけはいやだ」などといった個性豊かなセンテンスでわれわれの目を楽しませてくれます。

 
 三十分ほど歩いたでしょうか。
 急に視界がパッと明るくなり、目の前にハリウッド製SF映画でよく見るような清潔感溢れる作業場に出ました。縦横に巡らされたベルトコンベアの上を青い肉と赤い肉が流れていき、働いているひとたちが忙しく処理をほどこしたりしています。
 若こうじょうちょうはわたしにこう言います。
「ここはSFフェスミート工場。二種類のsfフェスミートを生産しています」
 向かって右側がS味で、左側がF味ですね、と手で示しながら、若こうじょうちょうは丁寧に解説してくれます。
「二種類! すごい、スプラツーンみたいだ」
「そう、スプラツーンみたいでしょう」
 若こうじょうちょうは、あなたも肉になってみませんか、とわたしに対して提案してきました。
「ええー、肉ですか。自信ないなあ」
「自信なくても大丈夫です。SFフェスミート工場はどんな肉も拒みません。あなた以外の参加者のみなさまも、全員肉になっておりますよ」
 たしかに周囲の参加者たちもみな肉と化していました。
 自分以外の人間が足並みをそろえて肉になっているのを見ると、ふだんは押し殺している日本人としての本性がむくむくともたげてきて、自分も肉にならないと! という気分が盛り上がります。
「わたしも肉にしてください」
 こうしてわたしも肉になりました。


 肉になったので、若こうじょうちょうはさまざまな肉たちが催しているおもしろコンテンツの部屋をツアーしてくれました。

「これは VRChat の部屋です」
 現実世界では肉だったものがVR世界で寿司になったりしていました。わたしも寿司になりたくなったので、家に帰ってから早速 blender をインストールしようと決意しました。


「これはsf映画を語る部屋です」
 SF映画が観たくなりました。参加者にダンカン・ジョーンズの『mute』をやたら詳しく読解する方がいて、あれ実はおもしろかったのか、という感情を持ちました。


「これは海外SFの最新情報を語る部屋です」
 SFが読みたい! になりました。赴任地のアフリカ諸国に現地語に翻訳した自国のSFをばらまいている旧共産圏の外交官(ジョン・ポールか?)や日本語から直接SFを訳しているハンガリー人などの話を聴き、旧共産圏の人間はヤバイな、と思いました。


「これはsf映画を観る部屋です」
 うおー観たい、と思っていると突如としてベルトコンベアが動き出し、わたしは大広間へ運ばれました。


 大広間には二種よりはるかにヴァリエーションに富んださまざまな肉がひしめていていました。肉フェスじゃん、とおもいました。
 馬肉、牛肉、羊肉、魚肉、バイオミートなどに仕分けされた肉たちが肉々しているのに目移りして自分はどのグループに属する肉なだろうと惑っていると、百合の花を匂いを放っているグループになんとなくつられました。
 そこで百合だと思われる作品リストを手渡され、ここに載ってるやつ以外で百合だと思うものがあったらどしどしあげてほしい、と言われたので、いっしょうけんめい考えようとしましたが、私は花についてあまり詳しくないものですから、たちまちに腐りかけました。
 今にして思えば『少女境界線』あげりゃあよかったのですが、あれもリストに記入済みだっかな? なにもおぼえていません。前回の創元SF短編賞で審査員賞をおとりになられた百合とミステリの泰斗、織戸久貴先生がいたらな、とおしまれました。


d.hatena.ne.jp

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 時計も十二時を回り、わたしも他の肉もぶよぶよにやわらかくなりはじめます。

 気がつけば映画の部屋で mute を熱心に語っていた人をはじめとした数名と百合の議論を白熱させており、そのうちのひとりがガンガンに載っているマンガで何か外伝的なエピソードが出ると百合っぽくなる*1カドカワの陰謀ではないか、とおっしゃったので、わたしは「では、ひとつのプログラムのなかでたまに百合回があるだけの作品は百合なのでしょうか?」と問いました。
 すると mute のひとが、
「そういうものは百合とはみとめがたい。外伝とか別枠ならアリかもだが」
 じゃあ、このリストに『スティーヴン・ユニヴァース』が入ってますけど、『アドベンチャー・タイム』のほうはダメだってことですか、と不安がちに尋ねると、「『アドベンチャー・タイム』は百合だよ!」と一喝があり、百合ということになりました。
 ATが百合かどうかでないかは大した問題ではない、とみなすレモンピープルもいるかもしれません。わたしもふだんはそう思います。しかし百合であるかどうかで生きるか死ぬかみたいな鉄火場はたしかに実在し、いかなる場であれATを殺すのは忍びない、そうではありませんか? 愛とはそういう力です。

 あとなんかホモ・ソーシャルなブロマンス好きだから百合好きなところあるよね、などと親和性を論じていると、いきなり百合原理主義テロリストが乱入してきて肉切り包丁をつきつけつつ私たちを壁を前に整列させ、SF百合聖書(『裏世界ピクニック』か?)の一文を原語で暗唱するように要求し、わたしはできなかったので向こうの景色が透けるほど薄く芸術的にスライスされました。


 スライスの妙による酸化作用でもっとおいしくなっていると、ゲームにくわいひとがやってきて、伸びるイヌのゲームを紹介してくれました。


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「うはははは、伸びてる伸びてる。すげえ。ウケる」
 わたしはウケました。
 ひとしきりウケたあと、ふと大広間を見渡してみるとほかのみんなも伸びている。わたしも伸びている。なんか肉の状態で伸びるとソーセージ(スライスされているのでむしろハムですが)みたいな心地でみっともないな、と恥じていると、伸びるイヌのゲームを紹介してくれたひとが別の伸びてるひとをつれてきました。あんまり他人のテイストをこういう場で話すのもどうかな、と思いますが、味は星野源に似ていてすてきでした。
 お源さんは、人生ってなんだろうな、みたいな問答を発されたので、私は生まれて初めて人生について思いを馳せ、人生、人生か、なんなんでしょうね人生、でも今肉だしな〜人生とかもう……みたいなことしか返せなかった。もっとちゃんと考えていこうとおもいました。肉の生に意味などなく、暮らしがあるだけなのかもしれませんが、それでも生活はつづくのです。

 
 映画にくわしい肉のひとも複数いました。
 やたらマイナー映画をおさえているひとがいました。インドのサスペンスやホーガンの名作のタイトルをパクった吉岡里帆の映画がアツい、アツいが、どれもソフト化される気配がない、という話を聞いて淀川長治の戦前トークを聞かされたみたいな空気になりもしました。
 映画をすごくよく記憶しているひともいました。
 映画を動きで見られる人すごいですよね、なんかわたしは静止画の連続としてでしか動画を認識できないのでアレです、と話すと、流派はいろいろですよね、編集が映画の動きを決めてるみたいな部分があって、たとえば鈴木清順、『ピストルオペラ』なんかは編集のタイミングだけで動きを創出しようとしていたんです、と言われて、なるほど、あれはそういう映画だったのか、と感心し、やっぱり映画を読むのは大事だな、mute みたいに、と内省しました。あと観賞録をつけるなら、KINENOTE より、Filmarks がいいのかなあ、とも思いました。ネトフリとかの作品は登録されてないんですよね、KINENOTE
 そのあとは、マックGのネトフリ映画『ザ・ベビーシッター』は最高だという流れになり、最高になりました。気分は熟成肉です。気がつけばもう四時ですよ。熟すのも当然ですね。
 メタンがわたしの全身を包み、睡りの国へと連れていきます。夢の中のわたしは神戸牛で、ロシアの大富豪に買われましたが、大富豪はあまりに大富豪すぎたのでわたしはロットワイラー犬の餌に供されました。肉のいのちはなんと儚いものでしょう。


 朝目覚め、校長先生の朝礼を聞いたのち、三々五々出荷の次第とあいなりました。
 わたしは加工プロセスでなんらかの不具合が発生したらしく、家畜用の餌として世に出される情勢となり、残念だけどしょうがないな、という諦念をのみこみつつ工場の外へ運びだされたその瞬間、川側の草地の影から飛びだしてきた野良犬に襲われガブガブかじられました。
 わたしは、たすけてくれー、とわめきますが、犬の勢いがあまりにものすごいので、運送員のひとも近寄れません。わたしの含有している塩分は犬の身体にはあまりよくないはずですが、そんなことは餓狼と化した犬には関係ないようです。
 運送員のひとは「ハイクだ、ハイクを思い出せ!」とわたしに対して必死に呼びかけます。それを聞いて、ああ、あのときに出したハイクは辞世の句だったのだな、とわかり、あんなうろんな夜にも伏線がはらまれていた事実にちょっとおどろきながら、犬の食道へと嚥み下されました。


 数時間後、三条のあたりが野良犬が草地にうんこをプリッとひねると、それが養分となって、あとからきれいな百合の花が咲いたそうです。


 

金沢・酒宴 (講談社文芸文庫)

金沢・酒宴 (講談社文芸文庫)



 企業機密や個人情報というのもあって、工場のなかのことはよく明かせませんが、まあだいたいそんな感じでした。そういう感じなのでは、なかったでしょうか。色んな方にお世話になりました*2。こんな規模の大会を四十年以上続けている京都大学のSF研のかたがたはすごいなあ、文化に貢献しているなあ、とおもいました。ありがとうございました。

*1:実際の発言の主旨とは微妙に異なっているかも

*2:特にSF映画企画に誘っていただいたKさんには。多分それがなかったら本会止まりだったので

ホラー映画における奪われやすい対象としての子どもたち――『クワイエット・プレイス』

微妙にネタバレ注意



「大きく存在する寓意は、いつかは子どもたちを外の暗く深い森へと出さなければいけないときがくる、ということだ。この映画で家族を襲う“何か”のようなものが外の世界にはいるものだ」
「クワイエット・プレイス」に隠された裏テーマとは? 監督が明かす : 映画ニュース - 映画.com


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 狙われるのは常に子どもたちだ。
 大きな音を立てれば「何か*1」に襲われて殺される世界。
 ジョン・クラシンスキとエミリー・ブラント演じる夫婦*2は、「何か」から子どもたちを守るために奮闘する。
 
 興味深いのは、「何か」の脅威に晒されるのが、ほぼ常に子どもたちであるという点だ。
 もちろん、家族を描いたホラー映画その他において、家族のもっともやわらかい部分である「子ども」がターゲットにされるのはめずらしくない。 
 しかし本作は「何か」の凶手はほぼ子どもたちに向けられおり、両親、特にクラシンスキ演じる父親は子どもたちを守る存在として描かれ、「狩られるもの」として受け身に回ることはあまりない。
 エミリー・ブラントを演じる母親ですら、直接「何か」と対峙するのは妊娠した赤ん坊を守るためだ。「何か」が彼女の前に現れるのはどういうタイミングだったか。彼女が陣痛をもよおしたとき、だ。
  

 ここから導ける寓意は無数にあるけれど、本記事では一本に絞ろう。
 かつて、ヒトの子どもは生物として今よりずっと弱い存在だった。
 まず産まれるのが大変だった。
 たとえば十九世紀なかばのアメリカにおける新生児死亡率は出生児千人につき約二百十六人と推定されている。これは白人のこどもの数字で、アフリカ系となると千人につき約三百四十人の命が失われていた。*3
 今日におけるアメリカでの新生児死亡率は出生児千人につき六人*4だ。そしてこの数字ですら他の先進国に比べて格段(一・五倍〜三倍)に多い。
 不衛生な環境で誕生を強いられた赤ん坊、そして妊婦たちがいかにフラジャイルな存在であったか、医療の発達した現代では忘れがちな視点だ。

 無事生まれたところで成人に至るまで生き延びられる子どもの数も今よりずっと少なかった。なにせ、ちょっとした病気や事故であっけなく亡くなってしまう。
 そういう現象や子どもの不安定さをひっくるめて、「得体の知れない『何か』が子どもをさらっていく」と捉えるのは古今東西に汎く見られた発想だ。古くは旧約聖書の「出エジプト記」に出てくるユダヤの神によってエジプトへもたらされた十の災いの十個目「長子を皆殺しにする」もそのうちだろうし、ヨーロッパのチェンジリング(取り替え子)なる妖精のいたずら、日本でも河童などは本来子どもの命をねらう凶悪な妖怪だという話をどこかで聞いたおぼえがある。*5日本でそこらへんが文化として能く現れていたのが幼名、つまり小さい頃の仮の名をつける慣習で、もちろん長福丸だの千寿王だの福々しくめでたい名付けで長寿を勝ち取ろうとする戦略もあった一方、棄*6だの阿古久曽*7だのととても自分の子どもにつけないような汚らしい、あるいは禍々しい名をつける親たちもいた。
 これは、『何か』は親が大切にしている子どもを奪ってしまうため、無関心を装ったり、不浄な感じを加えたりしなければならない、というわかるようなわからないような魔除けの発想*8で、やはり「意志を有した『何か』が親から子どもを奪っていく」というスタンスがあったのだろう。

 言ってしまえば、お父さんやお母さんが自分の子どもを守る系ホラー映画はすべてこうした万古不易の恐怖心を具現化した内容だと言ってもさしつかえない。
 その中にあって『クワイエット・プレイス』が「奪われていく子ども」のイメージをとりわけ意識させるのは、先述したように、狙われる対象としての妊婦や子どもたちの描写が多いせいだろう。

 それに「何か」を子どもを取り巻く危険の歴史と重ね合わせたなら、ラストの展開がよりするりと腑に落ちてくる。
 現代において子どもたちが命をながらえられるようになったのは、科学的思考により発展した技術と、親から受け継ぐ有形無形の資産のおかげなのだから。

*1:劇中では Creature としか呼ばれていない

*2:もちろん二人は実生活上でも夫婦である

*3:https://en.wikipedia.org/wiki/Infant_mortality#cite_ref-107

*4:https://data.worldbank.org/indicator/SP.DYN.IMRT.IN

*5:おぼえがあるだけ

*6:豊臣鶴松

*7:紀貫之

*8:http://membrane.jugem.jp/?eid=296