名馬であれば馬のうち

読書、映画、ゲーム、その他。


読書、映画、その他。


二つの身体をもった心:『君の名前で僕を呼んで』について



 もしだれかに、なぜ彼が好きだったのかと、しつこく聞かれても、「それは彼だったからだし、わたしだったから」と答える以外に、表現のしようがない気がしている。わたしの思惟を越えて、わたしが個別にいえることを越えて、そこには、なにかしら説明しがたい、運命的な力が働いており、この結びつきのなかだちをしてくれたのだ。 


(『エセー』、モンテーニュ宮下志朗・訳、白水社


 北イタリアの夏のやさしい夕暮れ*1がつくり出す影は、恋するふたりの距離を喪失させ、ほとんど一体化させる。ベッドまで連れ立つ影、夜の樹上での逢引、旅先でのホテルのバルコニー。
 

 融合のたくらみは映画の最初から仕掛けられていた。
 アメリカからやってきた大学院生オリヴァーは、主人公の少年エリオにとってまず侵入者として現れる。エリオの部屋の半分がホームステイするオリヴァーのためにあてがわれ、オリヴァーも部屋につくなりまだエリオの私物の残るベッドに倒れ込んですやりと眠る。


 その後も事あるごとにオリヴァーはエリオの領域を侵す。
 オリヴァーの自転車が倒れそうになって、エリオの身体に触れる。友人たちとバレーボールに興じる場で、エリオに渡されかけた水のボトルをオリヴァーが横取りしてがぶ飲みする。そのままエリオの肩をぶしつけに揉む。
 エリオの家族も友人も見知らぬ地元民でさえも、あっというまにオリヴァーに魅了される。
 しかし、もちろん誰よりもオリヴァーに惹かれているのはエリオだ。そのことを口に出せないあいだ、彼は一途にオリヴァーを窃視しつづける。視るだけだ。彼は自分の部屋の半分であったはずのオリヴァーの領域に踏みこめない。
 

 『君の名前で僕を呼んで』というタイトルのとおり、エリオの欲望は同化願望になって顕れる。彼が最初に目をつけたのは、オリヴァーのネックレスだ。




 金のネックレスと、金色のメズーザー(ユダヤ教で用いる、聖句を記した小片をおさめたケース)にダビデの星がついたペンダントだった。これが僕たちを結びつけていた。それ以外のすべてが僕たちを分け隔てるとしても、これだけはあらゆる違いを超越していた。僕がダビデの星を目にしたのは、彼が来てすぐだった。その瞬間、僕は悟った――僕を惑わせたもの、彼を嫌いになるどころか親しくなりたいと思わせたのは、お互いが相手に求めるどんなものよりも大きく、したがって彼の魂より、僕の体より、大地そのものより素晴らしいもの、つまり同じユダヤ人同士という同胞意識なんだと。


(『君の名前で僕を呼んで』、アンドレ・アシマン、高岡香・訳、マグノリアブックス)


  
 映画でもエリオはオリヴァーのペンダントを見て、「ぼくもそういうのを昔持っていた」と言い、どこからか見つけ出して身につけだす。オリヴァーとエリオ一家の他にユダヤ人のいない町において、同じ由来を持つこと示す民族的アイデンティティはふたりをつなぐ特別な共通点だ。

 そして、同化願望といえば、もちろん衣服。初めて肉体的に結ばれ(エリオが最も望んだ「同化」の形だ)「君の名前で僕を呼ん」だ直後、エリオはオリヴァーにこんなことを言う。


その(青い)シャツ、最初うちに来た日にも着ていたね。お別れするときが来たら、ぼくに呉れない?」


 もちろん、その前にエリオがオリヴァーの下着を頭からかぶってオナニーにふけっていたことを観客は忘れてはいない。
 エリオの父親の友人である老ゲイカップル(片方を原作者のアンドレ・アシマンが演じている)を別荘に迎えたとき、父親から「彼らがプレゼントしてくれたシャツを着ろ」と強要されてもエリオが強く拒絶したことも忘れてはいない。


 かくして、エリオはオリヴァーのシャツの手に入れ、そのシャツに身を包むことで画的にも同化を完了する。


 では、なぜそこまで本作は「一体化」を強調するのだろうか。


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モンテーニュとエチエンヌ・ド・ラ・ボエシー


 重要なヒントは最終盤に提示される。エリオが父親と対話するシーンで、父親はエリオとオリヴァーの関係を「それは彼だったからだし、わたしだったから」というモンテーニュのことばを引用して評する。
 これはモンテーニュが親友エチエンヌ・ド・ラ・ボエシーとの間の結びつきについて語ったことばだ。なんとなれば、引用元である『エセー(随想録)』の「友情について」という章はまるまる『君の名前で僕を呼んで』についての注釈であるとも言ってもいい。*2「友情について」は亡友ラ・ボエシーとの思い出を介して男同士の友情や友愛について思弁する、とみせかけて、実際にはラ・ボエシーへの強烈な想いが綴られた章だ。
白水社版の『エセー』訳者である宮下志朗モンテーニュとラ・ボエシーの関係について、白水社ウェブサイトでの連載の一回を割いてよくまとめている。25歳のモンテーニュが共にボルドーの高等法院で同僚として働くことになる28歳のラ・ボエシーと出会うシーンをひこう。




モンテーニュは3歳年長のラ・ボエシーという存在を知っていた。ラ・ボエシーもまた、モンテーニュの噂を聞いていたらしい。なにせラテン語母語として育って、6歳だかで、地元の名門コレージュ・ド・ギュイエンヌに入学し、ずっと年上の連中と張り合った神童なのだから。そして二人は、「人出でにぎわう、町の大きな祭りのときに、初めて偶然に出会ったのだが、たがいにとりことなり、すっかり意気投合して、結びついた」(1・27「友情について」)。モンテーニュによれば、「そこには、なにかしら説明しがたい、運命的な力が働いており、この結びつきのなかだちをしてくれた」のだった。それは、そんじょそこらの友情ではなかった。「世間のありふれた友情を、われわれの友情と同列になど置かないでほしい。わたしだって、そうした友情のことは、人並みに知っているし、そのなかでもっとも完全なものだって知らなくはない。でも[…]、通常の友情の場合は、手綱をしっかり持って、慎重に、注意深く進んでいく必要がある。それは、うっかりしているとほどけてしまうほどの結びつきなのだから」(1・27)。


第8回 友情について - 白水社

 


 まるで映画のようにドラマチックな出会いと情熱的な友情。
 ラ・ボエシーは十代にして『自発的隷従論』という現代にも参照される名著を書き上げた早熟の天才だったことも、音楽に文学に多彩な才能を見せるエリオに通じる。また早逝したラ・ボエシーをひたすら惜しんで嘆くモンテーニュの筆は、オリヴァーが去ったあとのエリオの愁嘆を想起させる。ラ・ボエシーが亡くなったのも、モンテーニュとの出会いからわすが四年後のことだった。「あの人との甘美なる交わりや付き合いを享受すべく与えられた、あの四年間と比較するならば、それはもう、はかない煙にすぎず、暗くて、やりきれない夜でしかないのだ。」というモンテーニュの詩的な悲嘆はそのまま小説版『君の名前で僕を呼んで』に書かれていてもおかしくない。


 しかし、なにより『君の名前で僕を呼んで』を思わせるのは次の一節、いや二節だ。




 われわれがふつう友人とか、友情とか呼んでいるのは、つまるところ、それによっておたがいの魂が支え合うような、なにか偶然ないし便宜によって取り結ばれた親密さや交際にほかならない。そして、わたしがお話ししている友情の場合、ふたつの魂は混じり合い、完全に渾然一体となって、もはや両者の縫い目がわからないほどなのである



この高貴な交わりにおいては、ほかの友情をはぐくむような、奉仕だとか、恩恵は考慮にもあたいしない。なにしろ、われわれの意志は、完全に融合しているのである。……(中略)……事実、両者のあいだでは、意志、思考法、判断、財産、妻子、名誉、生命など、すべてが共通であって、その和合は、アリストテレスの実に的確な定義にしたがうならば、「体がふたつある心」にほかならず、ふたりはたがいに、なにを貸し与えることもできないのだ。


(両節とも宮下志朗・訳『エセー』「友情について」より)

 『エセー』の訳者・宮下志朗によると「これは友情であって、肉体的な同性愛ではない」そう。が、『君の名前で僕を呼んで』の原作者アンドレ・アシマンはその見解におそらく同意しない。
 



――あなたは長年に渡ってプルーストを研究し、教えてきました。プルーストは回想録と小説の境界を綱渡りする人ですよね。


アシマン:まったくそのとおりです。ルソーもそういう人ですね。彼は自分の人生についてウソを書いてきた。



――とても巧妙に、ですね。


アシマン:とても巧妙に、だよ! モンテーニュもそうでした。


Interview with André Aciman | Features

「回想録と小説のあいだに明確な違いなどありはしない」と公言するアシマンは、成程、自伝的小説である『君の名前で僕を呼んで』を執筆するにあたり、(彼の考える)モンテーニュに倣うことで『エセー』に秘められたモンテーニュの思慕を汲み取ろうとしたのではなかったか。


 原作小説では、タイトルの意味、エリオとは「誰」なのか、オリヴァーとは、エリオの父親とは「誰」なのかがより明確なかたちで読者に示される。*3
 小説からアダプテーションされ映像となった本作でも、主人公が「縫い目のない」「身体のふたつある心」たるを追い求める点は変わらない。*4オリヴァーはエリオのベッドを奪うことでエリオの心に侵入し、エリオはオリヴァーの衣服に袖をとおすことでオリヴァーとひとつになる。それらはあくまで映画的な演出・象徴であって、現実には決して実現しないだろう愛情の究極形態なのだろう。だからこそ、燃え盛るさまがうつくしい。*5




 そしてあの頃みたいに僕の顔をまっすぐに見て、視線をとらえ、そして、僕を君の名前で呼んで。


(『君の名前で僕を呼んで』、アンドレ・アシマン、高岡香・訳)

 
 

君の名前で僕を呼んで (マグノリアブックス)

君の名前で僕を呼んで (マグノリアブックス)


エセー〈2〉

エセー〈2〉


 

 

*1:誰もが眼を奪われる本作のライティングであるけれども、実は撮影時はほとんど雨天で、ほとんどが人為的につくり出した光源で太陽光を再現していたらしい。この功をグァダニーノはタイ人撮影監督のサヨムプー・ムックディプロームに帰している。幻想的な画作りで話題となったアピチャートポン・ウィーラセータクンの『ブンミおじさんの森』でも撮影監督を勤めた人物だ。

*2:実際の原作はあまりに多様な文学的レファレンスで構築されているので、ネタ元をひとつに絞ることは無意味だろう

*3:特に映画版ではオミットされた第三部「クレメンテ症候群」

*4:まるで『饗宴』で喜劇作者アリストパネスが語った愛の起源ーーゼウスによって分かたれた男の半身がもうひとりの男の半身を探すように

*5:もっといえば『リズと青い鳥』もモンテーニュ「友情について」なんですが、それはまあ別の機会に

アニメ作品の私選オールタイム・ベスト10

経緯と選定基準

『アニメ秘宝』発売をきっかけに、村長ななめちゃんさんに「おまえらのアニメベストを教えろ」と煽った結果、なんか自分も書かなきゃいけない空気になった。
 私はアニメで育ったこどもではないのでアニメにはアニメを観るひとほど親しんではいない(特に国内テレビシリーズ)のですが……。


 選ぶにあたっての基準は「個人的な思い入れ」と「映像ドラッグとしての優秀さ」です。
 あんまり例外は設けない方針ですが、本格的に実写パートの混ざっている作品は除外してあります。それやったらファヴロー版『ジャングル・ブック』とかアメコミ映画もアニメじゃん、ってことになるので。*1『ロジャー・ラビット』とかシュヴァンクマイエルの『アリス』とか好きな作品が多いんですけれども。ともかく。

1.『ファンタスティック Mr. FOX』(2009年、米、長編映画ウェス・アンダーソン監督)



ファンタスティック Mr. Fox


 アメリカ土産に父が『ナイトメア・ビフォア・クリスマス』のソフトを買ってきて*2以来、ストップモーションアニメは私を組成する嗜好の重要な一パートを占めています。
 とはいえ、ヘンリー・セリックの血脈であるライカ(『KUBO』とか『パラノーマン』とか)のウルトラハイパー緻密なアニメーションよりは、流麗ではあるけれどどこかぎこちなさという不自然さの残るアードマン(『ウォレスとグルミット』とか)っぽいのが好みで、それというのも「人間でないものが人間っぽく振る舞おうとがんばる」ものに惹かれる性分であるからかもしれません。
 『Mr.Fox』は、ラディスラス・スタレヴィッチの名作『Le Roman de Renard』(1937年)*3にリスペクトを捧げていることからもわかるように、あえてのぎこちなさを残している面もありつつも、そこで描かれているドラマとキャラはたまらなくヒューマン、という奇跡のようなバランスを有します。奇跡と言えばキツネやアナグマが二本足で歩いて喋っていることが「実写」*4ではありえない、アニメーション特有の奇跡です。
 そこにウェス・アンダーソン製の世界観とユーモア、それにアレクサンドル・デスプラ一流の音楽を加えれば最強。完璧。なにも欠けたるところはなし。
 

2.『バンビ』(1942年、米、長編映画、デイヴィッド・ハンド監督)



「バンビ」MovieNEX予告編


 何度も言っていることなのですが、『バンビ』を観たことのない人、あるいは記憶を呼び起こすには幼さなすぎるほど幼かったころに観たっきりの人はもう一度『バンビ』を観てほしい。ビビるから。ただなめらかに動いてる事実そのものに。アニメーションの純粋な暴力性だけで人間は帰依してしまいます。
 本気で現実を模倣しようとしていたディズニー長編初期作品群には現実すら突き破るハイパーな官能性があり、『バンビ』は人間でなはく動物を描いたからこそのエロティックさがほとばしっています。


3.『千年女優』(2002年、日、長編映画今敏監督)



千年女優 特報


 そう、今敏は『千年女優』です。『東京ゴッドファーザーズ』でも『PERFECT BLUE』でもなく、『千年女優』。
 しっかりした劇映画のようで、実のところほとんど筋なんてほとんどないようなスラップスティックなスケッチが矢継ぎ早に展開されていった末に開き直りのような決め台詞と「LOTUS」。永遠のベストエンディングです。


4.『ライオン・キング』(1994年、米、長編映画、ロジャー・アレーズ&ロブ・ミンコフ監督)



ブルーレイ『ライオン・キング』予告編


 戦後のディズニー作品でも『ふしぎの国のアリス』、『101匹わんちゃん』、『おしゃれキャット』、『美女と野獣』、『くまのプーさん』、『シュガーラッシュ』、『ズートピア』、(ピクサーだけど)『ファインディング・ドリー』と人生の一本には枚挙に暇がないわけですが、しかし、『ライオン・キング』にはかないません。幼少期に数十回と観てアニメのイデアとして刷り込まれてしまっているからです。
 
 ミュージカルで捨て曲がないどころか全曲神レベルという事態の尋常ではなさを、われわれはもっと重く見るべきで、ディズニー・ルネッサンスのこの時期でアラン・メンケン*5が関わっていないのに、この出来。ハクナ・マタタ。なんてすばらしい響き!
 なんとなれば悪評高い続編商法の流れで濫造された『ライオンキング2』や『3』でさえミュージカル曲は珠玉です。
 ミュージカルアニメが好きなのは間違いなくこの作品のせい。ちなみに制作背景や音楽の分析は谷口昭弘『ディズニー・ミュージック ディズニー映画 音楽の秘密』(スタイルノート)に詳しいです。全国民必読の書。

 

5.『アドベンチャー・タイム』(2010-18年、米、テレビシリーズ、ペンドルトン・ウォード)



Adventure Time - Funniest Moments Collection #1


 少年と犬というエリスン以来ポスト終末SFのお決まりのホモソーシャルなフォーマットからはじまるも、やがて犬は家庭を持ち、少年は恋を知る。成長とは何か決定的で象徴的な決別ではなくてさらりと語られる細かい別れの連続なのであって、ただ破滅的なギャグアニメを快楽的に観ていたはずなのに、シーズン5にさしかかり第七十五話「レモンホープの旅立ち」と「レモンホープの帰郷」を観おわったとき、ふと、悟るのです。氷漬けのサラリーマンゾンビの群れを無邪気に撃退するような冒険があった時代は、もはや二度と戻ってこないのかもしれない、と。
 あるいはそんな感傷はどうでもよくて、少年と犬がパーティーの好きなクマたちと踊り狂っているさまをぼんやり眺めていることもできる。

 『ホームムービーズ』、『オギー&コックローチ』、『おかしなガムボール』、『デクスターズ・ラボ』、『タイニー・トゥーンズ』、『カウ・アンド・チキン』、『アニマニアックス』、『レギュラーSHOW』、『ぼくらベアベアーズ』、『スティーブン・ユニバース』、『リック・アンド・モーティ』、そして無数のハンナ・バーベラアニメ……カートゥーン・ネットワークはいつも私とともにありました。映像ドラッグの何たるかを、CNから学んだような気がします。


6『serial experiments lain』(1998年、日、テレビシリーズ、中村隆太郎監督)


Serial Experiments Lain Trailer


 『探偵オペラミルキィホームズ』との二者択一で最後まで迷ったんですが、最終的にこっちになりました。正直な話、SFとしてだとか未来観だとか黒沢清が監督しそこねたJホラーだとかはどうでもよくて、この時代特有ののぺっとしたプラスティックみたいでアンニュイな画の感触と雰囲気がとにかく好きです。lain みたいな気分になりたいときに lain みたいな気分にしてくれるアニメが発表から二十年経過した今日でも lain しかない、という状況は嘆くべきなのでしょうか。いいえ、それでも私たちには lain があります。なんなら、ゲーム版もあります。
 第一話で、登校するために家を出た玲音を取り囲む真っ白で無機質な風景からはじまるすべてが愛おしく、陶酔的です。あとはもう、わかるでしょう。
 わたしたちはみんな既に玲音のことが好きになっている。未来は今で、今が未来。それが二十一世紀です。わたしたちの生きるインターネットです。


 

7.『おおかみこどもの雨と雪』(2012年、日、長編映画細田守監督)



映画「おおかみこどもの雨と雪」特報1


 夏。圧倒的に夏。夏というだけで三倍酔える。
 日本アニメ映画でも屈指の純度を有する映像ドラッグです。劇場でたぶん七回は観ています。特に一昨年だか三年前だかに今はなき京都みなみ会館の夏休み上映にてほとんど貸切状態で観たときは最高の極みで、『インヒアレント・ヴァイス』に並ぶ夏休み映像ドラッグムービーだとおもいます。これの快楽中枢をひたすらやさしく愛撫しつづけてくれるような感覚に比べたら『MIND GAME』のドラッギィさなんかラムネ菓子みたいなものです。*6
 特に雪山で親子三人が真っ青な空の下を高木正勝の「きときと 四本足の踊り」に乗せてはしゃぐくだりは百回でも繰り返して観られる。百回でも繰り返して観たい。
 何かとコントラヴァーシャルな物語部分に関しては、まあ、わかるけどわりとどうでもいいかなって気分です。そういえば、『OVER THE CINEMA』で石岡良治先生が「宮﨑駿に比べて細田守はまだ言えば聞いてくれそうな気がするからみんな叩く」とおっしゃっていましたね。細田守もたぶん一生聞く気はないんだとおもいますが。
 

8.『リズと青い鳥』(2018年、日、長編映画山田尚子監督)



『リズと青い鳥』ロングPV


 山本寛は正しい。というのも、本作は山田尚子の(他人から見れば)絶望的な世界認識(というかコミュニケーション観)においていかに希望を見出すか、という映画で、山尚からすればハッピーエンドなわけですが、ふつーにエンタメのフィクションを観に来ている観客のものさしからすればそんなもんただのバッドエンドじゃねーか、ってことになる。
 ライバルと全力で殴り合えば明日からは無二の友人になれる、という思想の少年マンガを読んで育ってきた私たちは、いつのまにか、百パーセントの「本音」や気持ちをぶつけあえば通じ合える、わかりあえる、そんな神話に毒されていて、ハッピーはそうした衝突に生じるものだと思い込んでいる。
 でもそんな幸せはフィクションのなかにしかない。他人が抱いている気持ちの量や質は自分のそれらとは異なるのがふつうです。だから、コミュニケーションを諦める。他人と自分は違うのだから、と。
 ところが、山尚は諦めない。持ちうるかぎりのあらゆる映像表現を駆使してスクリーンの前の観客に訴えるんですね。錯覚かもしれないその一瞬こそに歓びがあり、つながりが成立するのだと。だからこそ世界は美しいのだと謳います。そんな彼女の歪んだまっすぐさを「闇」だと言いつのる人たちは正しいが、間違っている。
 そうして、結果的に、彼女のあらゆる努力の軌跡が上質の映像ドラッグとして精製されています。



9.『ミトン』(1967年、ソ連、短編、ロマン・カチャーノフ監督)



映画『ミトン+こねこのミーシャ』予告編


 ノルシュテインにしろゼマンにしろトルンカ*7にしろ旧共産圏のアニメは中短編に良いものが多くて、こういう場では何かと不都合なわけですが、何かひとつ選ぶとしたら『チェブラーシカ』で有名なロマン・カチャーノフの『ミトン』でしょうか。
 厳格なお母さんのせいで犬を飼えない女の子が、しかたなく自分の赤いミトンを犬に見立てて遊んでいるうちにだんだん本物の犬に見えてきて……という内容で、朗らかなトーンに騙されてそうは見えませんが、完全にホラーです。
 何がいいって、とにかくかわいい。キャラクターから背景の小道具に至る一切がかわいいで構成されている。かわいいは作れる、と俗にいいますが、人類史において事実上かわいいを作ったのはロマン・カチャーノフ以外だけなのではないかとすら思えてきます。ほんとうにかわいい。断言してもいいが、あなたが想像しうるかわいさの閾値を遥かに越えてくる。
 かわいさは肉を伴った実写作品にとって表現しづらい領域のひとつです。いいや、かわいい人間なんかいくらでもいるよ、と反駁する向きもあるかもしれませんが、では『ミトン』を超えるかわいさを具えた人間がどれだけいると?


10.『スヌーピーの大冒険(Snoopy, Come Home)』(1972年、米、長編映画、ビル・メレンデス監督)



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 当記事を書き出す前から入れようと決めてはいたのですが、てっきり忘れられた作品であると思いこんでいただけに『アニメ秘宝』で二票も入っていたのには驚きました。これも幼少期に狂ったように観返していた作品です。
 冒頭のシーンで、ライナスといっしょに浜辺にたたずチャーリー・ブラウンが地面に落ちていた石をおもむろに海へと放り投げたかと思ったら、ライナスが「なんてことしたんだチャーリー・ブラウン……あの石は何千年もかけて海からこの浜辺までやってきたんだ。それを君は一瞬でだめにしてしまった……」と無表情に非難します。チャーリー・ブラウンはいつもの「#SIGH#」顔で「ぼくのやってることは全部間違ってるような気分になってきたよ……」と応える。いきなりこのペシミスティックさですよ。 
 『アニメ秘宝』でのコメントで「アメリカン・ニューシネマだ」と言われていたのもなるほど納得で、本作のスヌーピーは原作のような達観した詩人ではなく、犬立入禁止の図書館やビーチから叩き出された鬱憤をライナスやルーシーにぶつけて凄惨な事態を招くクレージービートニクです。そんな彼がまさしくヒッピーであるウッドストックを相棒に、手製の楽器をならして放浪するさまはそれだけで理由不明の涙をさそいます。
 『メリー・ポピンズ』などで知られるシャーマン兄弟も関わってるだけあって、音楽もいい。


10.『魔法少女まどか☆マギカ[新編]叛逆の物語』(2013年、日、長編映画新房昭之総監督・宮本幸裕監督)



「劇場版 魔法少女まどか☆マギカ [新編]叛逆の物語」予告編映像 #Puella Magi Madoka Magica #Japanese Anime


 勢いあまって11選になってしまった。
 『アニメ秘宝』の投票コメントで誰かが「劇場で七回観た」と言っていて、へえ、気が合うじゃん、私も当時劇場で七回観ました。
 テレビアニメ本編の悪夢的なビジュアルも映像ドラッグとして良質でしたが、やはりまとまったワンショットとしてパッケージされた映画版にはかなわない。悪夢的というか、本物の悪夢そのものです。




 他にもメンションしたい作品はやまほどありますが、キリがないのでやめておきます。
 あなたのベスト10もぜひ教えて下さいね。


*1:別にアニメってことでもかまわないとは思いますが

*2:サブカルチャーに疎かった父がなぜ幼いこどもの土産にあんなゴスなしろものを買ってきたのか、いまでもよくわからない

*3:ヨーロッパで古くから親しまれている諷刺動物物語『狐物語』の映画化。ちなみにディズニーが同じく『狐物語』を映画化しようとして紆余曲折を経て末に出来上がったのが『ロビン・フッド』であり、その『ロビン・フッド』の劇中歌が『Mr.FOX』で引用されるという奇運もある

*4:かぎかっこでくくるのはファヴロー版『ジャングル・ブック』で観られるように、動物を実写っぽく人間化させようと思えばCG技術のちからでなんとかなるから

*5:『リトル・マーメイド』や『美女と野獣』の名曲群を担当した名匠。本作で歌曲をエルトン・ジョンが担当したのは作詞担当のティム・ライスがジョンを指名したため。

*6:湯浅政明湯浅政明で好きですが。フェイバリットは『夜は短し歩けよ乙女』と『アドベンチャータイム』のゲスト監督回「フード・チェイン」

*7:トルンカの長編『笛吹き男』が大傑作ですが

背中、背中を追うこと、そして孤独。:『リズと青い鳥』についての覚書その2

proxia.hateblo.jp


蹴りたくはない背中

 真正面から抱き合う。なんと残酷な態勢なんだろうとおもいます。なぜなら、抱き合っている瞬間、ふたりの視線はすれ違わざるをえない。ハグは最高の愛情表現であると同時に、互いを最も遠くから見る(あるいは最も近いふたりが見えなくなる)行為なのです。
 そういうエモいことばからはじめていきましょう。拾っていきましょう。
 長いですが、特に総論的な結論とかはありません。ただ冗長なだけ。

 
 今回、拾うのは主に「背中」です。あるいは背中を見る視線。そして、背後から追いかける動き。向き合う二者の手前側人物の肩ごしになめるショットは数えません。*1


 みぞれは序盤からのぞみの背中を追うものとして描かれます。
 冒頭、校門で先に待っていたはずのみぞれが、学校前の階段を登るときにはいつのまにか順番がいれかわって希美の後ろについています。
 階段を登る途中*2でみぞれの視点へと切り替わり、希美の首筋を映します。ここで、だしぬけに希美がしゃがみこんで青い羽根を拾うわけですが、後にも示される「上から下への運動をする希美」がここに現れています。 

 ともあれ、希美が青い羽根を拾うシーンは大事です。

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 希美は手を上へ伸ばし、拾った羽根を空に透かして眺めやる。みぞれのカメラアイは希美の背中から青い羽根へと垂直にパンする。大空をバックに羽根がゆらめくさまは、「青空を映した湖のよう」というリズが青い鳥の青さを評したことば*3を想起させます。
 ここでは、ちょっとしたミスリードがしかけられています。「青い羽根をもつ希美=青い鳥を空へと見送るみぞれ=リズ」の図式が、このシーンに込められているように見えるのです。
 が、話はそう単純でもなくて、羽根を掲げている希美は実は「空の羽根を見上げる側の人間」ともいえます。*4

 (作中作の)リズ鳥とのぞみぞの対応関係にかんしては諸説あります。物語的には、希美=リズ、みぞれ=青い鳥のシンプルな図式で通りそうなものです。たしかにある程度までは、そう解釈したほうが明瞭におもわれます。
 たとえば希美は拾った青い羽根をすぐにみぞれへと渡す。*5これによりみぞれは「青」を手に入れるのですが、では希美はリズに対応する色の何を持っているというのか。腕時計です。劇中で幾度となくクローズアップされるピンク色の腕時計がリズのピンクのスカートに対応しています。*6*7
 それに視線も基本的にみぞれがうつむきがちなのに対し、希美は見上げがち。そして、(後に説明しますが)「上から下へ」のカメラパンが希美に、「下から上へ」のカメラパンがみぞれに紐付けられていることを考えると、リズ=希美、青い鳥=みぞれでよさそうなものですが……。
 
 では瞳の色は? 希美は青い瞳、みぞれはピンクの瞳を有しています。これにはまだリズ希美&鳥みぞれ説を押し通せるだけの余地はあって、たとえば瞳は他者を映す鏡のような器官ですと言い張ることができる。みぞれの瞳のピンク色は希美を反射した色であり、逆もまたしかりなのです、と。

 それでも構図を拾い集めていくと、いちがいにリズ希美&鳥みぞれ説だけが正しいとも思えなくなってきます。主人公ふたりの主観的にはリズ=みぞれ、鳥=希美だったのが途中で反転する、というプロットなのでこんがらがるのもいたしかたないですが、順序の問題に帰するのも違う気がします。これは何も山尚という太陽を凝視しすぎて目が潰れたせいばかりでなくて、インタビューでもこういうことが言われていて、


 希美とみぞれの関係は、映画ではある終わり方をしますが、ただその関係性がずっとそのままなわけじゃない。いろいろと逆転する部分もあるけれど、まだまだこれからどっちがどっちにもなりうる、とも思ったんです。同じ場所にいてどちらかが前に行くこともあるけど、それでも横並びに歩いていけるような関係に描こうと気をつけていました。


https://eonet.jp/zing/articles/_4101959.html

 どっちがどっちにもなりうる。とりあえずは、この言葉を胸にとめて、あるいは忘れて、やっていきましょう。背中を見ていきましょう。


ゆでたまご先生、音楽室にあらわる。

 校舎内でみぞれは希美の軌跡を徹底的になぞります。希美が下駄箱のかどに手をふれながら廊下に出たら、みぞれも下駄箱にツツと触れますし、希美が水飲み場で水を飲んだらみぞれも従います。みぞれが希美の背中を追う存在であることが徹底されます。
 そして、校舎内の階段を希美が二段飛ばしであがっていき、踊り場からの折り返しの階段から下にいるみぞれを見降ろす。このとき、目が合う。この「上から下」を見降ろす希美と、「下から上」へと見上げるみぞれの図も、やはりリズ鳥の対応関係について観客を惑わすカットです。
 希美が先に階段を上がりきり、まだ登っている途中のみぞれからは希美の足元、黒いソックスだけが覗きます。みぞれは階段を上がった先の廊下でもう一回、後ろからソックスを眺めやる。そこから昔の希美との登校風景を回想する。
 うつむきがちなみぞれはまず黒いソックスで希美を認識します。

 音楽室の前まで来たみぞれは鍵を差しこみ、一瞬、回すのをためらいます。なぜか。このとき、みぞれと希美は横並びになっているからです。その貴重さを彼女は知っている。ですが、解錠します。すると、そそくさと希美はポニーテールをゆらしながら教室へと入っていく。その背中の無情さ。*8

 音楽室で「リズ鳥」の話になり、希美は原作を知らないみぞれのために図書室から借りた絵本版を譜面台に広げて、みぞれと肩を寄せ合って読もうとします。この本を広げようとするところで、正面を向いたふたりの顔のアップが一画面内におさまりますが、奥行きは微妙にズレていて、みぞれが奥、希美が手前になります。顔をあからめたみぞれの視界に入っているのは、おそらく希美の後頭部。この何気ない構図はラストカットで反復され、さらにもうワンアクションが加わることで劇的な効果を生みます。

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 そうして、「リズと青い鳥」の第三楽章を吹いてタイトルが出る。それぞれフルートとオーボエを鳴らすふたりの背中が、他に誰もいない音楽室の後方から捉えられます。
 この場合の横並び、希美とふたりっきりでの練習風景はまあ、みぞれにとっては「うれしい」とつい漏れてしまうぐらいにはこれ以上望むべくもないものです。しかし同時にこの後の練習風景*9での、下級生に車座に囲まれて談笑する希美の姿をうらめしそうにみやるみぞれ、という図とセットでもあります。ふたりならいっしょにいられるが「その他大勢」がいると希美はそちらに取られてしまう。冒頭シーンでの最初のリズ鳥パートにおいて、リズと愉快な動物たちを遠巻きに眺める青い鳥の姿にも重なります。*10
 とはいえ、リズ鳥パートと異なるのは弾かれたみぞれにも視線を送る存在がいることで、しかし、彼女の初登場は「後姿」で刻まれることになる。
 剣崎梨々花。通称、ゆでたまご先生です。
 ぼんやりと希美に視線を送るみぞれの横顔の向こうでパート仲間と向き合っているゆでたまご先生の後ろ姿をおぼえておいて損はありません。これもやはり、後にもう一度、プラスワンアクションつきで反復されるからです。プールの記念写真をみぞれに見せる直前に、ゆでたまご先生はオーボエをくわえる後ろ姿を見せてからカメラに向かって振り返るのです。話の流れからはほとんど独立したカットですが、みぞれとゆでたまご先生のコミュニケーションの深まりを示唆する重要なカットです。
 

背中を見られる側としてのみぞれ

 希美以外との関係性において、みぞれは背中を見られることに鈍感です。ゆでたまご先生からのアフターの誘いを断ったあと、下校時の廊下でふたたびみぞれはゆでたまご先生かちあい、そっけなく去っていきます。その背中を見送るゆでたまご先生は「つれないです〜」としょんぼりするわけですが、そのせつなさをみぞれは感受しません。直前にみぞれが希美を誘おうとして、「パートの子たちとファミレス行くから」と断られたせいでそれどころではないのですね。希美とみぞれがパートの後輩たちと関係においても正反対の状況にあることが、シニカルなユーモアとしてもキャラクターの対比としても効いています。
 さてもとりあえず、われらがゆでたまご先生はあきらめません。みぞれに去られた直後に後輩たちと楽しく下校中の希美を補足し、呼び止めます。みぞれが呼び止められない背中であるのに対し、希美のほうは呼ぶと止まってくれる。これもまた対比ですね。
 この後のやりとりでゆでたまご先生はゆでたまごを希美に渡すのですが、本稿の主題とはあまり関係ないので深く立ち入りません。
 
 みぞれの背中を見られることに対する鈍感さがもっとも色濃いのは、この後に来る「大好きゲーム目撃〜バスケ授業」のあたり。
 いつものように階段から希美をフォローしていたみぞれ*11は、通りすがった教室で、友人同士抱き合いながら「○○ちゃんの△△なところが好き」と互いの長所を羅列するゲームに興じている後輩たちを目撃します。
 「中学のころよくやったよね」と懐かしそうに言う希美に、みぞれは「私は見てただけだから……」と浮かない顔。すると希美は振り返って「ないの? じゃあ」と手を広げます。
 みぞれが抱きつきかけた瞬間に希美は外してジョークにしてしまい、優子といっしょに去っていきます。やはり、ここでもみぞれは希美の後ろ姿を見送るしかない。*12
 ここで、みぞれを背後から呼ぶ声がします。夏紀です。夏紀と優子とみぞれと希美は中学からの同級生なわけですが、まあ、にもかかわらず、夏紀の存在にみぞれは気づかない。右腕をむりやりもちあげて伸ばす、なんていう結構な接触までしないと気づかない。ちなみにこの姿勢は冒頭の「青い羽を掲げて空に透かす希美」の図と重なるように見えますが、うがちすぎでしょうか。一見、希美が飛びだっていく鳥のようだけれど、しかしそれを見送るみぞれの手には羽根は握られていない……。
 それはさておき、夏紀は二期の優子同様、みぞれにとって相対的にわりとどうでもいいポジションにいる人物ですが、『リズと青い鳥』的には結構な重要人物です。
 なぜなら彼女はみぞれに新しい運動を教える。横移動です。本作は人物を正面から捉えた図からその人物を横へ移動させる、なんていうのはあんまりない。*13みぞれが夏紀の呼びかけにやっと気づいたあと、夏紀は彼女を横、すなわち教室へと引き込もうとします。そこで一瞬、教室の引き戸の溝が映されるのも注目すべきポイントです。
 このカットでは、あきらかに「境界」が意識されている。ラストで希美とみぞれが学校の外へ出る際に似たような構図で校門の境目のカットが挿入されることを踏まえれば、夏紀にもみぞれを新たな方向へ導く可能性があった、というふうにも読めます。
 しかし実際にはそうはなりませんでした。みぞれが教室に足を踏み入れかけた瞬間、先生に呼びとめられ、白紙で出した進路票の件で叱られます。今度は希望欄を埋めて出すように、と。結局、みぞれはこの後のバスケの時間も夏紀と同じコートに入ってプレイすることはありません。コートに復帰する夏紀の背中を見送るだけです。

 夏紀が発見した横移動ですが、実はもう一人横移動を駆使する人物がいます。そう、ゆでたまご先生です。ゆでたまご先生が教室から聞こえる吹奏楽部員たちのプール行きについての話し声を盗み聞きするところですね。
 希美がとにかくまっすぐに前へ歩くキャラであるのに対して、みぞれをとりまく別の人間たちは多彩な軌道を見せているのです。


ひとりぼっちの後ろ姿。

 みぞれが背後に対して敏感になることもあって、それはもちろん希美が彼女の背後を通過するときです。希美は劇中でつごう二度ほどみぞれを置いてパートの後輩たちと合流するシーンがありますが、どちらにおいても希美はみぞれの背後を撫でて巻くようにして過ぎていきます。
 このとき何が生じるか。ひとりぼっちで取り残されたみぞれの(引き気味のショットで映された)後ろ姿です。
 一度目の時は例のタイトルの直後だけに、タイトルのときと似たような画面でたった一人だけ残されているみぞれの孤独が際立ちます。
 その直後、みぞれは希美から借りた「リズと青い鳥」の絵本を抱えて教室でひとり窓の外をねめながら「本番なんて一生来なくていい」とうらめしくつぶやきます。ここでも、暗い教室に立つみぞれの後ろ姿が強調されます。この孤独な後ろ姿は、間もなく展開されるリズ鳥パートでの「パン屋で幸せそうな家族連れを見つめるリズの後ろ姿」と呼応しますね。

 みぞれが暗い一室で一人背中を見せるシーンはもうひとつあります。生物室のシーン。フグをながめているうちにうたたねしてしまい、飛び跳ねるように駆ける希美の後ろ姿を夢うつつに見たあと、向かい側の音楽室にいる希美に気づいて交信します。フルートに反射する光を利用した無言のコミュニケーションにしばし至福をあじわうみぞれ。が、ちょっと目をはなしたすきに希美は音楽室から消えてしまいます*14。そのとき、みぞれの後ろ姿が強調されます。

 
 こうして拾っていくとみぞれの一人後ろ姿は「青い鳥を失ったリズ」を連想する光景ばかり目立ちます。*15が、次に出てくる「暗がりでの孤独な後ろ姿」は誰のものか。
 希美です。

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 「リズと青い鳥」の真の物語読解に至ったのち、リズの「神様、どうしてわたしに籠の開け方を教えたのですか」という声にオーバーラップして、丘の上のベンチ*16から夕暮れの街を見降ろす希美の後ろ姿が映ります。*17
 いまや、みぞれの焦燥は希美のものへと転化してしまっている。みぞれのリズ鳥読解によれば、青い鳥を空に還すか否かはリズマタ―であり、青い鳥は彼女の決定を汲むしかありません。鳥は勝手に飛びだつのではなく、リズが飛び出たせるのであって、それは選択ではなくてほとんど運命に近い。この運命に希美は愕然とします。

 この後に、もう一度だけ孤独な後ろ姿が映ります。希美への告白のあと、ひとり生物室に残されたみぞれの姿です。互いに互いを手放した寂寥が彼女を包みます。


鳥の背中は誰の背中か

 一回目の生物室に戻りましょう。生物室から出てきたみぞれは音楽室から出てきた希美と、橋のように校舎間をつなぐ渡り廊下*18で再会します。
 例のようにみぞれは黒いソックスから希美を視認し、このとき両者は真正面で向き合っています。が、右手のみぞれの方角へともに移動することになり、希美がみぞれの背後につく形になります。
 そして、校舎の廊下に入るとほとんど横並びになりかけますが、ここで希美がみぞれの抱えている音大のパンフレットに気づきます。パンフを奪い取った希美はみぞれに背を向けて先行する形となり、いつのまにかいつものポジションに回帰してしまいます。
 パンフを見ながら、この音大、わたしも受けようかな、などと希美はつぶやきます。すると、みぞれも目をかがやかせ身を乗り出し、「私も」と言い出す。そのセリフに反応して希美が振り返ります。「のぞみが受けるなら私も」
 生物室&音楽室間での光によるコミュニケーションで生まれかけた関係性が、パンフひとつで崩壊し、どころか、別方向に新しい関係性――みぞれを見つめる希美の視線を生んでしまいます。
 それまで希美視点のカメラもないわけではありませんでしたが、音楽室で希美、みぞれ、優子、夏紀の四人が集まった場面において希美がみぞれに一方的に投げかける視線はあきらかにこれまでのトーンからすると異質さを帯びています。ある引き気味のカットで他の三人の顔は見えているのに、希美だけは背中しか映っていない、という図が出てくるのも不穏さをあおります。

 表面上の態度や歩くときの位置関係こそ変わらないものの、あきらかに何かが変化がしている。そうにおわせるのが、みぞれが図書室に「リズと青い鳥」の児童文学版を返却しにいった帰りの廊下のシーン。
 そもそも図書返却時に、みぞれの背中に触れてすらこなかった希美が背後からずいっと現れるのも異常でしたが、廊下での会話も一見なごやかに見えながらもなかなかどうしてキテいます。
 まず会話の噛み合わなさ。本を又貸しするのしないの流れで、みぞれは珍しくユーモアを発揮して先ほど見た陰険な図書委員のモノマネをやりだします。希美もいちおう愛想よく笑いますが、どうもネタそのものは理解していないよう。
 互いに意味のやりとりが十全に機能していなくても外見上はなんとなくコミュニケーションが成立してしまっている、という状況はラストの「ハッピーアイスクリーム」にもつながる話で、それをホラーと捉えるか、幸福と捉えるかは見る側の心情によります。*19
 奇妙に思ってしまえば、歩くときに希美が妙にみぞれのほうも振り返るのもなんだか奇妙で、そういえば歩きながら会話することってこれまでなかったなあ、とおもいます。
 その変化がいいのか悪いのかは、ともかくとして。

 音楽室に特訓用の毛布を敷くシーン。床にかかんで毛布をしきつめるみぞれの背後から椅子をもった希美が話しかけるという、これまでのふたりの上下の位置関係を保ちつつも、「みぞれの背後から希美が」という図書室での場面同様にこれまでなかったアクション。
 ですが、ここで見る後ろ姿は、窓を開けたときの希美の後ろ姿。吹いてくる風に髪や衣服がそよぐ姿は、リズ鳥パートで洗濯物を抱きしめながら風を感じる青い鳥の姿と重なりますが、決定的に異なる部分がある。
 カメラワークです。青い鳥のときは風に舞う白いハンカチを追うように下から上へと(ティルトか「し」の字か忘れましたが)カメラが走る。かたや窓を開けた希美を映すカメラは上から下へと叩き落されるようにパンされます。
 青い羽を拾ったとき、そして「本気の音」の演奏で青い鳥のイメージが飛びたつシーンのカメラワークによる上昇イメージに、希美のそれは明確に反してします。つまり、希美が青い鳥ではないことが決定的になってしまう。
 
 ここからプロットは「リズと青い鳥」の物語解釈の解決編となだれこみます。
 

鳥を見送る涙目の

 廊下。希美はみぞれに音大のパンフを渡した新山を背後から呼びとめます。繰り返しますが、希美は背中を見る側ではなく見せる側だったはずです。それが、新山に対しては背後に回り、あまつさえ「音大志望を伝えても芳しい反応を得られない」という敗北を味わったままその背中を見送ることになります。
 さらにその次の練習シーンでは、希美の眼を通したカメラが、横並びで仲睦まじそうに(見える)みぞれと新山を捉えます。優子や夏紀と四人で音楽室に集ったシーンと同じく、一方的にみぞれへ視線を注ぐ希美のカットです。ただその圧力は前回よりも強い。
 希美の視線を感知したみぞれは、手をふります。が、希美はぶっきらぼうに眼をそらします。

 帰りの廊下でみぞれは希美を背後から呼びとめます。みぞれが希美を背後から呼びとめる。その事態の重大さにきづいてほしい。はりつめた緊張が最高潮に達します。
 みぞれは以前未遂に終わった「大好きゲーム」を要求します。しかし希美は「今度ね」と拒み、去っていきます。立ち尽くすみぞれの背中が画面の手前に、歩み去る希美の背中が同一線上の画面の奥に来る構図。反復の二回目。三度目は成就するものですが。

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 そうして黄前と高坂の「リズ鳥」練習が終わり、みぞれは新山の前で、希美は夏紀と優子の前で自分たちの関係の真実を解き明かします。
 このとき、青い鳥を送り出そうとするリズのシーンも挿入され、青い鳥を送り出そうとするリズの背中、リズの家から去る青い鳥の背中と展開されていき、青い鳥の背中が飛び立った瞬間、見上げるような顔の希美のアップを正面から捉えたカットが来ます。鳥を見送る動作がその顔に滲みます。
 ここにおいてリズ鳥とのぞみぞの対応関係は、すくなくともプロット上においては、確定し、「本気の音」のシークエンスにつながるのです。

 「本気の音」の場面は、カメラがときどき滲むことからもわかるように、三人称視点に希美の視点が混ざったように回っていきます。はばたく鳥の後ろ姿を見送る場面です。希美視点であるのは当然でしょう。


去る背中

 音楽室から消えた希美を追って、みぞれは生物室にたどり着きます。呆けたように虚空をみあげる希美の表情が印象的です。

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 なんやかんやで互いに感情を吐き出したあと、みぞれは希美に抱きつきます。これまでかわされてきた「大好きゲーム」三度目の正直です。
 背伸びしてハグするみぞれの背中は、生物室にひとりぼっちで佇んでいた彼女自身のそれ(音楽室の希美と交信するくだり)と呼応します。
 ですが、思いを吐き出すみぞれと希美の視線は、抱き合っているがゆえに交わらない。みぞれの思いの大きさに希美自身という存在はつりあわない。すくなくとも、希美自身はそう思っている。
 希美はようやく「みぞれのオーボエが好き」というTV版二期でも吐いたセリフをつぶやいて、ハグをほどき、笑いだし、みぞれの眼を直視します。背中を見せるのでもなく、振り返るのでもなく、しっかりと真正面から見据えて。言うのです。「ありがとう」

 みぞれを生物室に残して、廊下を歩く希美は直前に「おぼえてない」と主張していた「中学のころにみぞれを吹奏楽部に誘ったときの会話」を思い出します。*20この会話のディティールが前半でみぞれが思い出している内容と微妙に異なるのがほんとうによいのですが、それはともかく、希美は何かがふっきれたような清々しい後ろ姿を観客に残し、去っていきます。

 

直視する関係

 あとは語るべきこともさしてないでしょう。
 図書館でみぞれの背後から登場する希美、という反復が行われたのち、それぞれの分かたれた進路を見据えて別々の場所で受験準備を行うふたりの姿がモンタージュで繰り広げられます。モンタージュ中でふたりの肢、頭、全身が背後から捉えられますが、ピックアップすべきは頭、というより髪の毛でしょう。廊下を足早に歩くみぞれの後頭部でゆれる長髪は、冒頭部で揺れていた希美のポニーテールのゆれとにほぼ対応しています。アクションを等質にすることで、異なる道を選んだふたりが同等に尊いことが示されます。

 みぞれが校門を出ると希美が最初から正面を向いて手をふってくれている。ふたりは背後から追ったり追われたりするのではなく、対等に向き合える存在になったのです。
 そうして、なんなく「カゴの中」(by 山尚)から校門というの名の「境界」を飛び越えて、外の世界で横並びに歩き出します。このときのふたりの後ろ姿は冒頭でタイトルが出たときの演奏するふたりの後ろ姿にもオーバーラップします。楽器や吹奏楽部というツールがなくとも、学校の内部でなくとも、ちゃんと共に歩くことができる。そういう関係になったわけです。おそらくは。
 
 横並びの歩行はやがてくずれ、いつもどおり希美が先行する形になるのですが、今度は階段を登るのではなく降る。振り返って、みぞれを見上げて、「ちゃんとみぞれのこと支えるから」と決意表明をする。構図的には冒頭の階段でみぞれを見降ろすシーンと逆転しています。
 みぞれも「オーボエを続ける」と返す。鳥が性分として飛ぶことを宿命づけられているように、みぞれも宿命としてオーボエをふきつづけるしかない。希美とのささやかな別離がその運命を強化している。悲壮ですが、本人は悲劇とは受け取っていないでしょう。

 階段を降りきって、ふたりは路上を画面右から左へと移動します。「ハッピーアイスクリーム」のあと、カメラは切り替わってふたりを正面から映すショットになります。先述したように、左の希美が手前に、右のみぞれが若干奥に来るのは冒頭の音楽室での場面と同じです。
 しかし、ここにワンアクションが加わります。先行した希美が勢い良く、振り返るのです。
 背中を克服した映画が背中で終わる。それもまたそれ。

 次は何を拾おうか。


*1:この構図はこの構図で集めてショット分析に回すとおもしろいと思いますが

*2:カメラは二人と向き合った位置から撮っている

*3:映画における最初のシークエンス

*4:さらに終盤から逆算的に導くならば、「青い鳥(=みぞれ)を見上げる希美を見上げるみぞれ」というループ的な構図ができあがるわけで、まあそこまで行くと大した意味があるようにもおもわれないので、考えすぎでしょう。

*5:劇中でルビンの壺のように希美とみぞれが一画面内で横対横で向き合っているカットがない、と言うひとがいますが、このとき完全にそういう構図になっています。身長差があるために若干目線がずれているようにも見えますが、それも「どういたしまして?」で希美がかがむときに解消されます

*6:ユーフォニアム二期でも希美はピンクの腕時計をしていますね。キャラデザの変更に伴って若干モデルチェンジして、よりゴツく目立つようになっています。

*7:ちなみに『響け!ユーフォニアム』本編と映画で対応している箇所は色々あって、まあたぶんディープなオタクブログとかが拾うでしょうのでうちではやりませんが、たとえば、一期で高坂と黄前がのぞみぞと同じように黒白ソックスで対比されていたり……二期の序盤はもろに映画本編に直結する部分が多くて、「音楽が大好きなんだ」とか「みぞれのオーボエが好き」とか檻を象徴する鉄格子だとか生物室だとか渡り廊下だとか

*8:というか、冒頭の登校シーンにおける希美ウキウキ具合と感情のなさ加減はサイコパスっぽくていいですね

*9:正確には二番目のリズ鳥パートを挟んでの

*10:さらにいえば、「本気の音」を出したときに後輩たちに囲まれるみぞれの後ろ姿が映るわけですが

*11:登校時の下駄箱の時点では一人だったので、いつのまにか希美を発見して自動で追尾していたことになります

*12:このくだりでかなり複雑というか不可解な運動が行われていたとaruinue氏は主張していましたが、正直よく覚えてない

*13:間違っていたらすまない

*14:「忽然と姿を消すのぞみ」はクライマックスの「本気の音」演奏シーンでも再演されます

*15:ちなみに単に一人の後ろ姿というだけなら、高坂と黄前が「リズと青い鳥」を吹く場面で廊下を歩くみぞれのカットもありますね。

*16:太陽公園?

*17:このシーンは劇中でほぼ唯一、「籠の外に出る前に」学校の外へ出ているところです。もっとも、カゴの中の鳥であるみぞれは出ていないので、そこのあたりでたいした意味があるようには思えませんが

*18:テレビアニメ本編でもたびたび出ていた舞台装置ですね

*19:山尚はおそらく後者で、こういうのをもって「歯車の一瞬の噛合」と呼ぶのでしょう

*20:これもTV版でちょみっと出てきていましたね