名馬であれば馬のうち

読書、映画、ゲーム、その他。


読書、映画、その他。


新潮クレスト・ブックス全レビュー〈7〉:『人生の段階』ジュリアン・バーンズ

『人生の段階』(Levels of Life、ジュリアン・バーンズ土屋政雄・訳、著2013→訳2017)


人生の段階 (新潮クレスト・ブックス)

人生の段階 (新潮クレスト・ブックス)


 小説なのかノンフィクションなのか判別がつかない。*1奇妙な書物である。『イングランドイングランド』や『フロベールの鸚鵡』を書いたジュリアン・バーンズを「奇妙」と評すほど無意味なことはないけれど、そんなバーンズ作品でもとりわけ異色であることには間違いない。


 本書は二つの国と三つのチャプターから成る。

 第一章「高さの罪」では、十九世紀の気球ブームにまつわるエピソードが気球乗りにして写真家のナダールことフェリックス・トゥルナションを中心に記述される。
 章題が指すのはイカロスの寓話だ。神に近づくことを夢見た人間イカロスは、その傲慢さを咎められて飛行中に偽の翼を焼かれ墜死する。爾来、ヨーロッパ人は飛行を禁忌としてきたわけだが、気球の登場がその「罪」を克服し、人類を新時代の冒険へと誘った。同じく近代を象徴するツールであるカメラを携えたナダールはその象徴というわけだ。


 第二章「地表で」では、第一章でもそれぞれ気球乗りとして言及された英国人冒険家フレッド・バーナビーとフランス人女優サラ・ベルナール恋物語が綴られる。
 どちらも実在の人物だ。バーナビーはヴィクトリア朝を代表する冒険家で、伊藤計劃の遺作『屍者の帝国』(で円城塔が引き継いだパート)では豪放磊落な人物として描かれているが、本作ではむしろ繊細な青年といった印象。ベルナールはベル・エポックを代表する女優で、ユゴーオスカー・ワイルドとも交流を持ち同時代の文化に大きく貢献した。
 ベルナールは恋多き人物として知られているが、バーナビーと付き合っていたという史料はおそらく存在しない。第一章とは打って変わって、この章はバーンズの創作だ。
 だから、冒頭に宣言される「これまで組み合わせたことのないものを、二つ、組み合わせてみる」は第一章とまったく同じだけれど、続くセンテンスが違う。「うまくいくこともあれば、そうでないこともある。」
 続く文章は気球の技術についてのもので、つまりバーンズは愛とその行く末を気球になぞらえている。

 実際に、地に這いつくばる人間がときに神々の高みに達することがある。ある者は芸術で、ある者は宗教で、だがほとんどは愛の力で飛ぶ。もちろん、飛ぶことには墜落がつきものだ。軟着陸はまず不可能で、脚を砕くほどの力で地面に転がされたり、どこか外国の鉄道線路に突き落とされたりする。すべての恋愛は潜在的に悲しみの物語だ。(p.46)


 悲しみの物語であるところの恋愛はそのまま第二章のベルナールとバーナビーの顛末を暗示すると同時に、第三章のバーンズ自身の物語を予告する。


 第三章「深さの喪失」では、妻を病気で失ったバーンズの彷徨が描かれる。人生の半分を共に過ごした伴侶を亡くした老小説家は、世界に対する関心をなくし、友人や知人たちの言葉や態度に反発し、妻を想起させるあらゆる出来事に涙し、やがては希死念慮を抱くようになる。
 妻の死は彼の趣味すら変える。以前は興味を抱けなかったオペラがきゅうに理解できるようになる。彼は『オルフェオとエウリディーチェ』を観劇しにでかける。イカロスと同じくギリシャ神話に材を取ったオペラで、オルフェウスという男が喪った妻を取り戻しに冥界まで降り、妻の手を引いて現世へ戻ろうとするも、「冥界から脱出するときは決して振り返っていけない」という禁忌を破って妻のほうを振り向いてしまったために再度妻を失ってしまう話。
 最初、バーンズはオルフェウスをバカげた愚か者と考える。絶対ダメと念を押されたはずのルールをなぜ破ってしまうのか。結果がわかりきっているのに、なぜ、と。しかし『オルフェオ』を観たバーンズは一転してオルフェウスに共感する。

 どうして見ずにいられよう。「正気の人間」なら決してしなくても、オルフェオは愛と悲しみと希望で正気をなくした男だ。ほんの一瞥のために世界を失うようなことをするか。もちろん、する。世界は、こういう状況で失われるためにある。(p.115)

 
 墜落するとわかっていてもやめられない。その物語が今のバーンズには納得できる。
 ギリシャ神話、写真、オペラ、愛のメタファーとしての気球、バーナビーとベルナール、イギリスとフランス……反復はパターンを構成する。そしてパターンによって人生は物語化される。バーンズは言う。「たぶん、悲しみはすべてのパターンを打ち壊すだけでなく、パターンが存在するという信念を破壊する。だが、私たちはその信念なしには生きていけないと思う」

 壊れてしまったパターンを直すために断片的な事柄から要素を見出し拾いあつめること。それこそが作家としてのバーンスが行わずにはいられなかった自己セラピー、作中のことばを借りるなら「グリーフ・ワーク」だ。それはそのまま小説を書く作業でもある。本を読み、文豪たちの名言を引き、気球や写真について調べ、ひとつの組織された虚構を著述する。
 その結果として、本書が生まれ、ジュリアン・バーンズはなお生きている。

(2064文字)
 

*1:英語版 wikipedia の作者ページでは「Nonfiction, memoir」にカテゴライズされている

新潮クレスト・ブックス全レビュー〈6〉:『マリアが語り遺したこと』コルム・トビーン

『マリアが語り遺したこと』(コルム・トビーン、とち木伸明・訳、著2012→訳2014)


マリアが語り遺したこと (新潮クレスト・ブックス)

マリアが語り遺したこと (新潮クレスト・ブックス)

 わたしが真実を語るのは、真実が夜を昼に変えるよう期待するからではない。真実の力によって、昼がその美しさを永遠に保ち、老い先短いわたしたちにくれる慰めを永遠に保つようしむけるのが目的ではない。わたしが語るのは、わたしにそれができるから。理由はそれだけだ。すでに起きたたくさんのできごとを語れる機会は、今だけかもしれないと思っているから。(p.106)


 半神半人の英雄たちで溢れていた神話の時代はいざしらず、歴史上の偉大な人物たちはみな母親から生まれてきた。自分の息子がナポレオンだったり、ヒトラーだったり、ガンジーだったりするのはどういう感覚だろう?
 ましてや、それが何億人もの人間から「神の息子」と崇められる人物だったら?

 処女懐胎で知られる聖母マリア。彼女自身、宗教的に重要な人物にもかかわらず、聖書中で言及されることは少ない。
 この「聖母」を、アイルランド出身の作家コルム・トビーンは一介の母親としての命を吹き込んだ。
 イエスの死後、その弟子であった男たちに半ば保護、半ば監視されるようにして暮らすマリア。彼女は彼女の見てきたイエスについて語りはじめる。
 聡明な、しかしふつうの少年だったイエス。故郷を出て戻ってきた彼は、多数の弟子を従えた超然的な宗教者になっていた。母親に対してよそよそしい態度をとる息子に戸惑いつつも、マリアはイエスが起こすいくつかの奇跡を間近で目撃する。
 そのうちの一つがラザロの復活だ。健康的な若者であったラザロが急死してしまい、彼の姉たちは嘆き悲しむが、イエスは「自分がラザロを生き返らせてやる」と宣言し、まさしくその言葉通りのことを実行する。
 死者を蘇生するのは奇跡のなかでも最高クラスの奇跡だ。自然が定めた死という法を破壊して、あらゆる法則を思うがままにする。まさしく、神のみわざだ。革命家イエスの前では、死すら例外なく転覆される。しかし、既存の秩序を破壊する彼の行為が、保守的な勢力のうらみを買っていることもマリアは知っていた。
 死者を生き返らせ、水をワインに変え、周囲の人々から畏敬されている姿を見ても、マリアにとってイエスは自分の息子だ。彼女は「あの男が力を振るうのを見ていたらどういうわけか、無力だった頃よりも愛し、助けてやりたい気持ちが強くな」る。

いつまでも彼を子ども扱いしたいわけでもなかった。ただわたしはひとつの力が、それ自体としてまぎれもなく立ち上がっているのを目の当たりにした。どこから来たのかわからない力をこの目で確かめたわたしは、日中も、夢を見ているときにも、なんとかしてその力を守ってやりたいと思うようになった。そうするに足る強い愛を、自分は持っていると感じたのだ。息子がどれほど変わったとしても受け止められる、不動の愛を。(p.65)

 
 やがて、イエスは捕縛され、エルサレムで処刑されることになる。マリアは命を賭して、ゴルゴダの丘へと向かう。
 イエスが十字架にかけられたときにやってしまった(というより、やらなかった)ことが彼女を苦しめる。「そうしてさえいれば、少なくとも今のように、とめどなく悩み続けることはなかったはずなのだ(p.94)」と。それはつまり、母親としての愛情を示す行為をできなかった、ということだ。そして、マリアにとって後悔に値するその愛の欠如が、皮肉にも彼女の息子の聖性を高め、人類の罪を一身に背負って孤独に死んだ愛の人イエスのイメージを作り出すことになる。
 愛情深い母親の腕の中で息絶えるイエスの図は、それはそれで宗教画の魅力的なモチーフになったかもしれないけれど、最期に「救われてしまった」感じが出てしまう。イエスはあまねく人類に愛を与えるために、(神である)父と母から見捨てられなければいけなかった。


 本書は「イエスの母親」の話ではなくて、「たまたま子どもがイエスだった母親」の話だ。いくつになっても親にとって子どもは子どものままで、愛情と保護の対象だ。それは時代・宗教・民族を超越した普遍的な関係なのかもしれない。


 作者のコルム・トビーンは前述したようにアイルランド出身。彼のバックグラウンドにはカトリック教文化が深く根ざしている。映画化もされたアイルランド移民の少女の物語、『ブルックリン』(白水社)にもそのあたりがよく反映されている。
 文体の面だけとっても卓抜している。やわらかく、詩情に富んだ筆致を操る一方で、人間の細やかな悪意や不穏さをたくみにすくい取る。

地獄に落ちた少女ども――『魔女の子供はやってこない』を読むための六夜(5)(終)

第五話「魔法少女帰れない家」



 第五話では本書を貫くイメージのひとつである「絵画」のモチーフが前面に打ち出されます。
 ゲストキャラクターである奥さんこと奥様子は元画家の主婦。結婚した夫とのあいだに一男一女をもうけて、夏子たちの目からすると幸せそうに見えます。
 ある日、奥さんのもとに美大時代の旧友から結婚式の招待状が届きます。参列するべきかどうかで迷う奥さんに、夏子とぬりえは助力を申し出て背中を押してあげます。結婚式に出るための準備期間が一週間欲しい、と言う奥さんにその間の身代わりを申し出るのです。
 かくして夏子は奥さんに変装して主婦の役割を引き受けます。が、小学生の彼女に一家四人分+αの家事は重すぎました。客人として眺めれば理想の一家でも、子供は母親をリスペクトしてくれず、夫はまるで化け物。疲弊していく彼女に追い打ちをかけるかのように、奥さんにまつわる不可解な矛盾が徐々に露呈していきます。約束した一週間が過ぎても奥さんは戻ってこず、夏子は壊れかけますが、手抜きを学ぶことでなんとか持ちこたえます。
 出立から二週間たって奥さんはようやく帰宅を果たします。主婦業の大変さとともにその意義を学び、自分なりに体験を総括しようとする夏子に、奥さんはぶちぎれます。「この家のどこに私があるの?」と。奥さんは夏子に自分の描いた絵を見せます。それはこの二週間を費やして描かれた絵でした。平凡以下の絵でした。家のなかで夏子が一度だけ目撃した昔の奥さんの絵とは似ても似つかない下手な絵でした。「これが私だよ。駄目になった! この家に吸われて大事な物全部なくなってしまった! 食われてく、この家の奴らに、全部。持っているもの全部。私全部」
 ぬりえちゃんは毎度の手続き通り、奥さんの記憶を消します。
 家に戻った夏子は衝撃的なニュースを目にします。奥さんが出席する予定だった結婚式で新郎新婦が惨殺されたのです。犯人は明らかに奥さんでした。夏子は自分が二重に謀られていたことを悟りますが、奥さんには夏子の作った二週間ぶんのアリバイがあり、また本人は記憶消去により事件を起こしたことも憶えていません。奥さんは親友を殺されたことで真実泣いてさえいました。
 呆然と夏子は問います。「私たちだけが覚えているの? この人が何をしたかを、私たちが何をしたかを」
 ぬりえちゃんは答えます。「疑われないよ。彼女は家にいたのだもの。願いは叶えられたんだよ」

 
 「願いは叶えられた」。最初から奥さんは二人を殺すことをこそ望んでいたのでした。絵を描いていたのは往年の夢が取り戻せるという希みを抱いたからではなく、自分の絶望を確認する儀式にすぎませんでした。凶器や変装道具を家からあらかじめ持ち出していた事実がその計画性を証拠づけています。
 願いがそもそも歪んでいるのだから、叶える道具であるぬりえちゃんには救えません。夏子は奥さんが帰ってきた直後に「二週より長い時間をあげられていたら。別の原因を取り除けたなら。ちゃんと力になれていたなら。よりよい結末があったかもしれないし、更に悪い結果になっていたかも知れませんでした」と第二話の繰り返しのように魔法の失敗を悔やみますが、虐殺のニュースを聞いて最初から彼女が自分たちを騙すつもりだったのだと悟ります。
 ねがいごとはねがう本人が決めます。基本的には叶える側は介入できない。介入できないのはいいにしても、何故オリジナルな奥さんの願いを事前に夏子たちは把握できなかったのか。。れは彼女たちの知る奥さんが、家を離れて事件を起こした奥さんとは文字通りの意味で全く別の存在だったからです。鶴だったからです。

 第四話では『シンデレラ』がモチーフとして使用されていましたが、第五話でも童話といいますか、昔話が引用されています。それが『鶴の恩返し』です。
 奥さんが昔描いたとおぼしき「海辺と鳥の絵」を家の一角から発掘した直後、夏子は『鶴の恩返し』について思いを馳せます。

 例えば考えるのは鳥のことでした。奥さんが本当は大きめの鳥で、飛び去って帰ってこないような想像でした。鳥が家に帰らないのなら、それは自然という気がしました。
 昔の鶴でもたくらみの個室があてがわれ、隠れる場所がなければ鶴は何もしなかったのか。その家で手も足も出なかったら、自分の正体を鶴はどうしていたのか。

 
 まさしく奥さんは隠れる場所を持たない鶴だったわけです。家族の視線に晒され、家事に忙殺されて、機を織る場所も暇もなかった。奥さんと旦那さんとのあいだにあったであろう恩返しの「恩」は劇中で語られることはないのですが、ともかくも人間に化けた鶴であるところの奥さんは鶴に戻って機を織るタイミングを見失ったまま昔鶴であったことさえ忘れてしまった。ここでいう鶴とは単に恩情と義理の深い動物ではなくて、昔の、絵を描いていたころの奥さんです。
 なぜ結婚式で惨劇で夏子の作った不出来な鶴のマスクをかぶったのか、もはや明らかですね。彼女は鶴に戻って、鶴のなすべきことをしたのです。
 鶴は人間になった今の奥さんとまったくつながりのない生き物ですから、テレビで鶴のマスクを見ても「アハハ」と笑える。隠れ場所を、家から離れた場所を夏子たちが提供してしまったがゆえに鶴としての面を思い出してしまったわけで、夏子たちは彼女の家で奥さんに会うかぎりは鶴としての奥さんの顔を知り得ません。
 結局、夏子たちにはどうしようもできなかったのです。

次回予告

 どうしようもないこと、とりかえしのつかないことは我々の人生においても常に生起します。
 たとえば、本連載。
 最終回となる第六回ではいよいよ本書を貫く「地獄」とは何か、について迫っていきたいと思っていましたが、一ヶ月くらい考えていい感じの結論がでなかったのでこれでおしまいです。おわびとして自転車に乗るサーカスのクマのクリップをもってかえさせていただきます。

www.youtube.com

 サーカスのクマの動画はどれもクマがあきらかにやる気ない感じで趣深いですね。