名馬であれば馬のうち

読書、映画、ゲーム、その他。


読書、映画、その他。


あなたのフレンズの物語


映画『メッセージ』本予告編



 あなたのおともだちがわたしにある質問をしようとしている。これはわたしたちの人生におけるもっとも大事なひととき。運命のような十二話と、奇跡のような十二・一話が終わった後の真夜中。春アニメをめでようと、わたしたちはネット民のつくった新作アニメ一覧表に目を通していた。そのとき、あなたのおともだちがこう言う。

「十三話はまだかな?」

 このお話の結末がどんなふうになるかはわかっている。そのことの始まり、つまり深夜放送帯に死んだアプリのアニメが出現し、あちこちのちほーにおかしなフレンズが出演したときのこともよくよく考えているし、あのとき、政府はそのことに関してろくすっぽなにも言わなかったけど、twitter はありとあらゆる可能性を書きたてていた。
 そんなとき、ヴィルヌーヴが新作を発表して、わたしは映画館への参観を要請されたというわけ。
 あなたが『メッセージ』を観たら、きっとけらけらとわらったでしょうね。ホークアイが科学至上主義的なセリフをはいて、ヘプタポッドコンビの愛称は「フラッターラズベリー」から「アボットとコステロ」へとかわっていた。まるで映画おたくの映画みたいに。
 国際ポリティカル・サスペンスとスリラーっぽさがふえて、ずっと低温なのりだった原作がエンタメっぽくしあがっていた。あれはあれで好きよ。みていてたのしくなきゃ、映画じゃないわ……。



 奇妙な邦題だった。
「『メッセージ』?」
「そうだ」と配給のソニー・ピクチャーズ大佐はうなずいた。
 映画の原題は「到着」を意味する英単語で……なんといったか。そして原作となったテッド・チャンの短編は the Story of Your life。ハヤカワから出た翻訳のタイトルもそのまま「あなたの人生の物語」だ。
 各国の製作会社や配給会社の思惑が交錯した結果、実に優美な屍骸が出来上がったというわけか。
 それはまあいい。問題は中身だ。
「これを観てくれ」とソニー・ピクチャーズ大佐はドゥニ・ヴィルヌーヴ監督の過去作が焼かれたDVDを何枚かとりだした。ここ七年間の作品、『灼熱の魂』から『ボーダーライン』まで。
「これらの作品から、なにかを推測できるかい?」
「たいして。”かれ”が独特のビザールさと大衆性を破綻ぎりぎりで両立させることのできる稀有な作家なのは誰の目にもあきらかでしょう。でも、常に次回作の成功が確約されるほど信頼を得てるわけじゃないし」
「なにか――ほかになにか、話してもらえることはあるかな?」とソニー・ピクチャーズ大佐。
「CGの使い方からみて、巨大のクモの幻覚にフェティシズムを感じているだろうということぐらいね。あとライティングがいつも暗め」
「女性受けの悪い、シリアスな社会派作家だと?」
マーケティングの世界ではどうだか知らないけど、シリアスな社会派がいつも女性受けしないってわけじゃないわ。ボコボコの血まみれになったポール・ダノはいつだって扇情的。ついでにいえば、SF的な資質もあると目されているみたい。『ブレードランナー』の続編も任されているのがいい証拠」
「単刀直入に訊ねるが、きみは『メッセージ』を鑑賞するつもりはあるか?」
 わたしはうなずいた。
「好きな原作者に好きな監督。しかも脚本のエリック・ハイセラーは姉ホラーの名作『ライト/オフ』の脚本家よ。あんまり役者の映画ってかんじはないけれども、観ない手はない。音楽のヨハン・ヨハンソンはここのところずっとヴィルヌーヴ監督と組んできて前作の『ボーダーライン』でも――」
「たしか」とソニー・ピクチャーズ大佐が早口でまくしたてるわたしのオタクトークを遮る。「メキシコ麻薬戦争映画だったな」

 

 わたしは『ノー・エスケープ』(ヨナス・キュアロン監督)を観ている。犬と祖国を愛する老人が、不法に国境を犯したならずものどもを追うヒーロー映画だ。


『ノー・エスケープ 自由への国境』予告編


 ワイドなスクリーンにふもうなさばくちほーの風景が映る。気温40度、湿度0%。このかこくな環境・・・・おれはきおくがフラッシュバックした。いっぱつでわかった。それはつまりMEXICO・・・。おれの体温は高まり、内なる獣がめざめあがり、生存本能が高まっていった。
 軟弱なおまえはけだるい午後の仕事帰りに、ただ暗黒の安寧をもとめて映画館にすいよせられる。もはやスマッホをいじる気力もなく、逆噴射文体をコピーする元気もうしない、死者の日明けのゾンビーのように「うあー」「うあー」とうめている。
 こころもからだもなにもかも会社と資本主義社会に売り渡してしまったおまえは、ほとんどめくらの状態で券売機へと寄りかかり、てきとうなボタンを押しまくっててきとうなチケットを買う。そのあとに続くのは二時間の祝祭ではなく、二時間のそうしつだ。おまえはそうやって、そうして観るべき映画を観たにもかかわらず観ておらず、観るべきでない映画を観てやはり観ていなくて・・・・やがてすべてを観て何も観ないまま老いて死ぬ。それはキンメリアから届いた警告の声だ。
 
 そんなおまえにとって『ノー・エスケープ』はサンチョ・パンサだ。観ることで完全にかくめいされる。
 圧倒的になにもないさばくちほーで、絶望的なまでになにも持たないめひこちほーのふほー移民たちが、暴力する意志である老人と犬にやく五十時間ものあいだ追跡をうけ、ハントされていく。
 ただそれだけでおまえは尻穴の奥まで蹂躙される。魔法のように眠れない九十分が過ぎていく。最終的に壮大なエンディング画面を観たおまえはあるなつかしい歌のフレーズを思い出す。「けものはいても のけものはいない」……。
 それはかつて合衆国憲法で謳われた文句だ。ハミルトンやワシントンの理想だ。だがいまや? たしかにけものがいる。そして、のけものはいない。なぜなら、みな『マチェーテ』のロバート・デ・ニーロのようなクソやろうに殺されたからだ。
 げんじつの合衆国にダニートレホは存在しない。いや、存在するが、ロバート・デ・ニーロをナイフやマシンガンで地獄へ叩き落としてくれるダニートレホはいない。いたとしても、せいぜい『ブレイキング・バッド』で生首になるのがせきの山だ。先生はけして認めやしないだろうが。
 そうだ、先生のことばを思い出す。
「おまえが好きな映画とか作品にいちゃもんつけくるやつは、全員あほなので、きにするな。そいつらはどうせメキシコで死ぬ」
 『ノー・エスケープ』の登場人物たちはみなメキシコとアメリカの間で死ぬ。
 『ノー・エスケープ』が盛り上げりにかける平坦なアクション映画だと dis ったやつらも、地獄と煉獄の間で死ぬ。
 それがめひこちほーだ。Welcome to ようこそ地獄パークへ。きょうもどったんばったんおおさわぎ。

 ああ、なんてこと。『ノー・エスケープ』はけもフレじゃないの……。



 ソニー・ピクチャーズ大佐はウィンドウズ・ペイントを立ち上げて、図表を描いた。

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「オーケイ、これはけもフレと視聴者とのコスモロジーを表した図だ。Aは「どうぶつ Animal」のA。Bは「ぼく Boku」、つまり視聴者だな。両者の間に惹かれた直線はパソコンやテレビの画面だ。そして、空気と水があるだけ。完璧な理想郷といえる」
 わたしはうなずいた。
「もちろん。ところでなんでAとBを結ぶ線が屈折しているの?」
 彼はくびをかしげた。
「ぜんぜん、わからん……でもこうすれば」彼はその図表に破線を一本つけくわえた。

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「三角形になるくない?」
「なるけど。それが?」
 数十秒の沈黙があった。
「……キリスト教には三位一体という概念がある」
「いま、ちょっと考えたでしょ」
「父と精霊と子。父とは要するに神で、子はわれわれ人間だな。精霊はこの二者を橋渡ししてくれる存在だ。だが本当は、父がフレンズであり、子がわれわれだとしたら?」
「じゃあ、あのアルファベットが振られていない三つ目のカドは? テレビが精霊ってこと?」
「惜しい。テレビは直線。正解のカドは『けものフレンズ』という番組そのものだ。これは無二なようでいて代替可能な要素で、けもフレがアプリや漫画といった多様なメディアで同時的に展開されたのと同じように、実は『けものフレンズ』という番組でなくても成り立つ。どんな媒体を通したとしても、AとBの関係は不動なわけだ。これを増えるママの原理という」
 わたしは胸のうちで考えた。点B、つまり、わたしたちは視聴する番組を選べるようになる前に、最終的に視線が到達する地点を知っている。どんなアニメや映画であったとしても、そこ現れるのは常にフレンズたちなのだ。


 あなたはかしこい。かしこいので、アニメ『けものフレンズ』全十二話が円環であることを知っている。十二話を観た人間は第一話へと戻り新たな発見を得て、また第十二話までをたどる。けもフレ視聴は二百四十分でひとまとまりのループを構成する。文字通りの意味で、永遠に等しい二百四十分。
 それはあなたがけもフレを観てないときにもつづいている。映画を観ているときのあなたにも。ごはんを食べているときのあなたにも。動物園へ行ってサーバルキャットの檻の前ではしゃいでいるときのあなたにも。

 

 シャマランは、ともすれば、『シックス・センス』のときからけもフレを知っていたに違いない。わたしはほとんど確信に近い信仰を得る。


『スプリット』本予告

 シャマラン映画の真髄とはなんだったか。
 けもフレの神髄とはなんだったか。
「見た目は違っていても、わたしはあなたである」
 『スプリット』もまたけもフレであることは、疑いようもなかった。
 姿かたちも十人十色で、「だから」惹かれ合うのだというのならば、二十三の姿かたちを持つジェイムズ・マカヴォイ演じる多重人格者はどれほど魅力的なのだろう。



「やばんちゃん、『メッセージ』の原題ってなんだったっけ?」
 わたしは、Hulu で配信されていた今期の覇権アニメ『アニマルズ』の第二話を移していた画面から目をあげる。
「たしか、『到着』って意味の単語だったとおもうけれど」
「それがわからないと困るの。ディープウェブでコピーを探すときにつかうから。原題がわからなきゃ、サーチもできないでしょ」
「残念だけど、わたしにもわからないわ。マーベル映画にしたらどう? マーベルなら原題と邦題がそんなに違わないし、それに……」
 あなたはぷりぷりして、ニコニコちほーで「アライさんがうどんを打つシリーズ」の新作探しに戻っていくでしょう。



 ジェームズ・ガンという監督が、予想外のヒットを飛ばした『ガーディンズ・オブ・ギャラクシー』の新作をひっさげてやってきた。わたしたちは公開初日に映画館へ殺到して、彼の新作に目と耳をかたむけた。


映画『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:リミックス』日本版予告編


 『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』の一作目は、宇宙の孤児たちが互いにいがみ合いながらも友情を築き、ついには新しいフレンズ――家族を形成する話だった。二作目では主人公に「実の家族」が現れて、フレンズたちのファミリーが揺れる。だが、その実の父親というのが……。
 アメリカ人は実の父をどうしてここまで憎めるのだろう。オイディプスの御代から連綿と伝わるメンタリティやキリスト教文化というだけでは説明できない。
 もっと深いレベルで根付いている憎悪……そういうことに思いを馳せたとき、わたしは彼らの建国の父が、なぜアメリカにやってきたかのを思い出す。
 そして、ピルグリムの父たちの後に続いた第二、第三の移民たちがなぜアメリカにやってきたのかを。
 黒人奴隷たちは例外かもしれないが、彼らは現地で別の父親を与えられた。現在アメリカに棲まう黒人たちの名字のほとんどは彼らの元「主人」から与えられた名字であり、それとは別に彼らの血には少なからぬ割合で「主人」の血が混じっている。旦那様のお手つきだろうとなんだろうと、奴隷女から生まれた子どもは奴隷だった。
 そんな子どもたちが、どうして父親を愛せるのか。本当の愛はどこある?
 血の繋がった父親など必要ない。欲しいのは、同じ由来を持ち、気持ちを理解してくれ、ただしく導いてくれるメンターだ。
 そうだろう、ロケット・アライグマ?
 くたびれたゴミパンダが画面の向こうでうつむきがちにつぶやく。
「なんでもかんでも俺にやっかいごとを押し付けやがって。気楽なもんだよな。そうやって、なんでもアライさんにお任せしていればいいのだバーロー……」



「アライ……バーロー……アライバル……」
「なんて?」 あなたはUターンして、ニコニコからログアウトしてくるでしょう。
「『メッセージ』の原題。Arrival。Arrive の名詞形ね」
「すごーい!」とその語をノートに書きつけながら、あなたは言う。「ありがとう、やばんちゃんってあたまいいんだね!」



「大丈夫か?」
 ソニー・ピクチャーズ大佐がわたしの肩を揺さぶった。
「感動のあまり気絶していたようだが」
 あたまがかすががったようにぼんやりしている。周りを見渡すと、エンディングのスタッフロールがはじまったというのに誰も席をたたない。マーベル映画のシアターと間違えて入ってしまったのだろうか? 今の時代はみなマーベル映画のようなエンディングを期待している。最後に続編を予告する二分間のおまけがつくエンディングを。次の二時間のための、二分。次の次の二時間のための二分。「つづく」の文字はフランチャイズを永続させるためのトリガーだ。
「そうね」わたしは大佐に応えた。「いいアニメだったわ」
「アニメ?」大佐は首を傾げた。
「まあ、たしかにブルーバックで大体撮影してそうだしな」
 あらゆる映画を通してわたしたちは『けものフレンズ』を観る。だが、ある映画を観ることと、そこに二重写しにされた『けものフレンズ』を観ることははたして両立しうるのだろうか?
 両立しえない、というのが通常の答えになる。そして、その事実は自由意志の問題にもかかわってくる。あらゆるコンテンツ、あらゆる景色、宇宙の至る場所にけもフレが強制的に見出されてしまうとしたならば。
 三位一体。父、精霊、子。フレンズ、コンテンツ、わたし。あなた、それ、わたし。
 『メッセージ』のエンディングが終わっても、次の二時間のための二分間のオマケ映像はこない。
 いや。
 そうなのだろうか?
 ほんとうに?
 大佐はずっとわたしを見つめている。ともだちに送るような、親しみのこもった視線だ。わたしたちをヨハンソン作曲のエンディングテーマ「Kangaru」の旋律がやさしくつつむ。
「大佐、質問が」とわたしは言った。
「めずらしいな。いつもは私が質問する側なのに」
「大佐は、いや『監督』は〈トリガー〉を引いたことが――視聴者に破壊コマンドをつかったことはありますか?」そのセリフを吐き終える前から、わたしは特殊な破壊コマンドを生成するために必要なものの計算にとりかかっていた。
 ソニー・ピクチャーズ大佐の顔がゆがみ、きしみ、はがれおち、本性であるたつき監督のそれが覗く。崩壊はながく続かない。ふたたび表情がプログラムされる。再構築された表情筋の表層に浮かんでいたのは――笑顔だ。
 人さし指を上方にあげて、彼が言う。可視域ぎりぎりの声(フォント)で。

「つづく」

 最初は、なにも感じない。やがて、喜悦が全身を満たす。彼は、たんなる「12・1話」として12・1話を設計してはいなかった。感覚的トリガーでもなかった。それは記憶のトリガー。永劫へといたるメッセージ。一秒一秒は無害な知覚物のつらなりからなるアニメーションで、時限爆弾のようにわたしの脳内に植えこまれていたのだ。ワンクールアニメのひとつの結果として形成されていたはずのそれらの心的構造物が、いまはわたしの永遠を規定するゲシュタルトを形成しつつある。わたしはみずから、その「アニメ」を直感している。
 わたしの心がかつてなく速く働きはじめる。わたしの意志に反して、致命的なアナロジーの了解がひとりでに提示されてくる。わたしはその観念連合を阻止しようとするが、けもフレの想起を押しとどめることはできない。
 それは地獄なのか、天国なのか、はたして現実なのか。
 地獄の住民の大半にとって、そして天国の住民の大半にとっても、地球とそれほど違っているものでもない。けもフレと地獄がそれほど違わないように。
 


 第一話の放送日にサーバルをながめているときのことが心に浮かぶ。あなたはあたまのわるいセリフをくちにして、どうぶつのまま画面をはねまわるでしょう。それを観たわたしたちの大半は「なんと退屈なアニメだろう」と嘆くでしょう。でもそれでも観つづける。
 それで第三話を過ぎたころからわかる。わたしとあなたのあいだにはかけがえのない絆があるんだって。あなたを観る前から、わたしはおおぜいの冬アニメのなかからあなたを見分けることができた。あれはちがう。ううん、これもそうじゃない。待って、あそこのあの子がそうよ。
 そう、そのアニメ。そのやさしいアニメがわたしのフレンズ。



 『メッセージ』を観たことで、わたしの人生は変わった。
 そもそものはじめから、わたしはどの映画もあなたであることを知っていたし、当然のものとしてそのアナロジーを利用したりもした。けれど、わたしが目指しているのは歓喜の極致なのか、それとも苦痛の極致なのか? わたしは父と子のどちらになるのだろうか?
 いずれにせよ、あなたはずっとわたしのそばにいる。これからもあなたを観つづける。
 誰かがわたしを映画に誘ってこう言う。
けもフレの第七十四話をみにいきたいかい?」
 で、わたしはほほえんで、こう答える。
「ええ」
 そして、わたしたちは手をつないで映画館にはいって、スターウォーズの新作のチケットを買い、ともだちにあうの。つまりはこれからもどうぞよろしくね。



引用文献

テッド・チャン『あなたの人生の物語』ハヤカワ文庫SF
「理解」公手成幸・訳
「あなたの人生の物語」公手成幸・訳
「地獄とは神の不在なり」古沢嘉通・訳


逆噴射聡一郎(ダイハード・テイルズ)
「【日報】おまえはSNSばかりやっていないでホットYOGAで肩こりと腰痛をなおせ」https://diehardtales.com/n/nc1953bb1f6f4?gs=a8df537ae2fe
「コナンが、おれの道を教えてくれる」https://diehardtales.com/n/ndd3aa2b70958
 

新潮クレスト・ブックス全レビュー〈5〉:『終わりの感覚』ジュリアン・バーンズ

『終わりの感覚』(The Sense of an Ending) 原・2011 訳・2012年12月 訳者・土屋政雄


終わりの感覚 (新潮クレスト・ブックス)

終わりの感覚 (新潮クレスト・ブックス)


 これまでの人生で二度だけジュリアン・バーンズの名を他人の口から聞いた経験があり、そのうちの一回は法月綸太郎だった。
 ある講演会*1で法月が『終わりの感覚』を「海外文学における本格マインドを持った作品」というふうに評していた、ように記憶している。法月なのでもう少し明晰なことばで語っていたのはずだけれど、記憶のみを頼りにしなければならない場合の引用の正確さにあまり自信がない。でも、それに続いたセリフのほうはよく覚えている。「ま、日本だと先に泡坂妻夫がやっていたんですけどね」
 泡坂妻夫ジュリアン・バーンズを同じ皿の上に乗せて語る贅沢をできる国は少ない。『終わりの感覚』が多少ミステリの側に「歩み寄った」作品*2であることや、法月がジョン・バースなどに強烈な影響を受けた作家であることを抜きにしても、だ。

 私たちは自分の人生を頻繁に語る。語るたび、あそこを手直しし、ここを飾り、そこをこっそり端折る。人生が長引くにつれ、私が語る「人生」に難癖をつける人は周囲に減り、「人生」が実は人生でなく、単に人生についての私の物語にすぎないことが忘れられていく。それは他人にも語るが、主として自分自身に語る物語だ。(p.117)
 


 本作は記憶と時間と物語についての物語に貫かれたホワイダニットの話だ。
 語り手のトニー(アントニー)・ウェブスターは人生も終わりにさしかかった老人で、おそらくは著者のバーンズとおなじ一九四六年生まれ。
 平凡な人生を過ぎ、平凡な余生を送るようになった彼のもとに、あるとき弁護士から妙な報せが届く。四十年も前に別れた昔の恋人ベロニカの母親が亡くなり、その彼女の遺言に「トニーに遺産を贈りたい」とあったのだ。
 別れたあとはほぼ一切連絡も取ってなかった昔の恋人の、しかも一度しか会っていない母親から? ますます妙なことにその遺産とは些少のお金、それとトニーの死んだ旧友エイドリアンの日記だという。
 トニーとエイドリアンは中学時代からの親友だったのだが、大学時代にトニーと別れたあとでベロニカの恋人となったのが原因で彼とも絶縁状態にあった。そして、その後間もなくしてエイドリアンは不可解な自殺を遂げていた。
 思慮深く誰もよりも知的だったエイドリアンを敬愛していたトニーは自殺の謎が隠されているかもしれない日記を読みたがる。ところが、ベロニカはなかなか日記を引き渡そうとはしない。往年の恋人とギクシャクした折衝を繰り返すうち、トニーはエイドリアン、ベロニカ、そして自分自身についての「真相」に触れる。


 トニーはいわゆる「信用できない語り手」という技法に当てはめられる主人公ではある。しかし、彼はある種のミステリ*3に見られる語り手のように、明確な意図をもって騙ろうとしているわけでも、認知が病的に歪んでいるためにそうなってしまうわけでもない。
 自分自身でいうようにあらゆる面において「平均的な」人物である彼は、凡庸であるがゆえに「信用できない」のだ。
 彼は継ぎ接ぎだらけの記憶から過去を再構成し、その過程においてある人物や瞬間については美化し、別の人物や瞬間については無意識の悪意でもって貶める。記憶が完全でないことを自覚しつつも、自分は自分の人生についてなんでも知っているのだとわかった気になっている。何も特別なことではなくて、誰しもにとっても日常的な営為だ。
 
 信用できるにしろできないにしろ、語り手に求められる資質とはなんだろう。おそらくそれは、雑多で間歇的な情報の山を整理し、空白を埋め、ひとつらなりの絵として語ることのできる能力なのだとおもう。物語化の才能、それと、その原動力となるわかりたがりの欲求
 自らの平凡さをくどいまでに自嘲するトニーは、実は探偵の才能というこの一点において卓抜している。たいして話したこともない他人をキャラクタナイズし、不確かな記憶をもとに自分の人生のイベントに意味付けを行い、伏線を回収し、自らの人格や人生を明瞭に定義できる。彼の才能は百八十ページ足らずの本作の緊密な構成にそのまま反映されてもいる。あらゆる要素が意味をもち、物語へ奉仕する。小説だ。
 そして、その小説家的唯才がトニーの陥穽となる。物語終盤、彼はベロニカからこんなことばをつきつけられる。「あなたはまだわかっていない。わかったためしがないし、これからもそう。わかろうとするのをもうやめて」
 輪郭のはっきりしないものをきちんと描こうとすると、どこかでウソをつくことにする。そこに探偵の失敗が生じ、後悔のタネになる。
 ミステリの解決編は事件が起こってしまった後にもたらされるものだ。事件発生以前には(すくなくとも読者は)盲人に等しく、名探偵は訳知り顔の奇人でしかない。悲劇は事件が出来した時点ではなくて、事件の真相が暴かれたときに起こる。隠されていた物語、犯人と被害者との関係が開示されて、だからこんなことになったのだ、と探偵は言う。結果が先に来てしまっているのだから、そこで「あのときあの人がああしておけばこんなことには」と悔やんでも意味がない。 
「悔恨の主たる特徴はもう何もできないことだ」とトニーは言う。彼自身はその言に抗おうとするけれども、事件は既に起こってしまった。やっとわかってみたところで、もう遅い。



The Sense of an Ending Official Trailer 1 (2017) - Michelle Dockery Movie
ちなみに今年映画化もされた。

*1:たぶん2013年12月の大谷大学での講演会

*2:バーンズはダン・カヴァナという別名義でミステリを書いてもいる

*3:ネタバレにつき

今一番期待されている映画作家、ジェレミー・ソルニエとメイコン・ブレアについて

 どこで期待されているかって言ったら、私の心のなかで……。

ジェレミー・ソルニエが欲しい


Blue Ruin Trailer



 今一番新作が観たい作家を三人挙げろ、と言われたら、まずウェス・アンダーソン。次にポール・トーマス・アンダーソン。そして、ジェレミー・ソルニエ。だが、ジェレミー・ソルニエは2017年現在までに長編を三作品しか発表しておらず、日本で見られるのは最近二作だけだ。ソルニエ分が足りない。ベン・ウィートリー? たしかに興味深い作家ではあるし、作風も似ていなくもないが、あれはもうちょっとブリティッシュに複雑だ。

 で、そんなソルニエ飢饉へもってきて忽然とソルニエと同じ血をわける映画作家として登場してきたのが、ソルニエ監督作『ブルーリベンジ』主演俳優であるメイコン・ブレアだ。
 ブレアは初監督・脚本作である『世界に私の居場所なんてない』(ネットフリックスオリジナル)を今年のサンダンス映画祭で発表し、同映画祭でもっとも栄誉あるドラマ部門の審査員グランプリを獲った。同賞の歴史的に鑑みて、コーエン兄弟トッド・ヘインズブライアン・シンガートッド・ソロンズカリン・クサマ、ライアン・クーグラー、デイミアン・チャゼルらと同じクラスの評価を受けてデビューしたわけで、つい四年前の『ブルーリベンジ』以前はたいした芸歴もなかった四十代の冴えないおっさん俳優にしては破格というか、比類のないほどの期待をかけられている。

 メイコン・ブレアとジェレミー・ソルニエを同一視することは乱暴にすぎるだろうか? メイコン・ブレアは確かにソルニエと幼馴染でずっと彼と映画を作ってきた。長編三作(Murder Party、『ブルーリベンジ』、『グリーンルーム』)にはすべて出演しており、うち『ブルーリベンジ』では主人公を務めている。しかし、すくなくともクレジット上はソルニエ監督作はどれもソルニエの単独脚本でブレアの関わった痕跡はなく、逆にブレア初監督作『世界に私の居場所なんてない』や脚本作『スモール・クライム』にソルニエが噛んだというような話は聞かない。


 にもかかわらず、ブレアとソルニエの作家性はほとんど血を分けた兄弟を呼んでさしつかえないほどに共通している。

 まずどちらも主人公が致命的なまでに頼りない。
 両親を殺した男が出所したと聞き復讐に立ち上がるホームレス、ネオナチに楽屋に監禁されてしまったパンクバンド、自宅に押し入った窃盗犯を捕まえるべく奔走する中年の看護師、職や家族といったすべてを失い出所した元汚職警官。
 どの作品もバイオレンスでエクストリームな状況に置かれがちなのにも関わらず、アクション・スターみたいに腕っ節一本で苦境を切開なくなんて明らかに期待できそうもない面々ばかりだ。
 ソルニエ映画で唯一スター俳優主人公っぽいポジションだった故アントン・イェルチンにしても、『グリーンルーム』での華のないバンドメンバー四人のなかで更にびっくりするくらい華がなくて、中盤になるまでなかなか主人公っぽい雰囲気が出ない。何も知らずに観せられて、序盤に「この俳優、『スタートレック』に出てますよ」と教えられたら、チョイ役で? と返しそうなものだ。もちろん、中盤以降の存在感はやはりスターの素質があったんだな、と思わせるだけの演技を見せていて、いまさらながら早逝が惜しまれる。
 
 こうしたキャラ配置は当然意図されたものだ。
 本来バイオレンスやアクションの主役になりそうにないキャラを主人公に据える。その采配についてソルニエはインタビューで以下のように語っている。

――『グリーンルーム』は『ブルーリベンジ』や Murder Party といったこれまでの作品と同様に、しばし無能なキャラクターたちが悲劇と喜劇の両方を起こしますね。普通の映画ではまず生き残れそうにないキャラたちです。


ソルニエ:Murder Party ではわかりやすくアホなキャラばかり出して笑わせようと意図しました。『ブルーリベンジ』のドワイトは明らかに主人公に向いていない人間ですが、しかしけしてバカではない。単に不向きなだけです。悲しいまでに主人公に相応しくない。だからこそ切ないし、コメディチックな瞬間も状況から自然に生まれます。
 『グリーンルーム』もそうです。バンドメンバーはアホではありません。ただリアルな人々であるというだけです。ニュースなどを見ていればわかります。極端なプレッシャー*1や泥沼のカオスに囚われてしまった人々はどう見てもバカげた行動をとってしまうものなのです。
 私たちは有能な映画キャラに慣れきっています。映画の中の彼らは伝統的なヒーロー/ヒロインへと一足飛びで成長し、ある種の跳躍を行います。そういうものだと当然視してしまっている。
 しかし、人間を人間としてあるがままに描けば、めちゃくちゃなバカ騒ぎ*2になる。それは、単に真実味があるだけではなく、より喜劇的でより悲劇的であるという点でエキサイティングです。
 スクリーンに観客である自分と重なるキャラの姿を見出したとき、より深いレベルでの信頼が生まれるのです。キャラクターを窮地に追いやれば、衝撃は倍になります。私は深みから抜け出すための出口をキャラに用意して、彼らがもがく姿を眺めるのです(笑)。


An Interview With Green Room Director Jeremy Saulnier


 ソルニエ映画のキャラクターたちは平凡さをもって極限状況と対峙する。それは主人公のみならず、対置される「悪役」の側も変わらない。
 『グリーンルーム』でのパトリック・スチュワート演じるネオナチの親玉を思い出してほしい。彼はなにしろプロフェッサーXなので面構えだけはデキる感を醸しているが、バラックの楽屋に閉じ込められた無力なバンドメンバー四人+女一人に対して二十名を超える部下に銃火器と戦力差で圧倒していたにも関わらず、場面場面での判断を誤り、拙劣な戦力の逐次投入と失敗を重ねてしまう。
 これがヒーロー映画だったら「いくらなんでも悪のくせに無能すぎる」と白けてしまうところだ。*3しかしソルニエ的にはこれが「人間としてのリアリティ」なのだ。有能も無能も悪も正義も、すべて「人間」の平凡さの範疇内でおさまってしまう。その事実、世界観自体がたまらなく残酷だ。南部の山奥で蠢いてドラッグ密造で稼ぐネオナチは、そうした地に足の着いた野蛮の姿だ。だから、情けなくもあるけれど、同時にすごくおそろしい。
 そして、映画的シチュエーションは悪役の側にも主人公の側にも常に非凡さを要求する。一般的なアクション映画であれば、二時間の冒険と葛藤を通じてヒーローはソルニエが言うところの「成長と跳躍」を遂げて平凡から非凡へと脱皮する。
 だが、ソルニエ映画のキャラたちはどうしようもなく平凡なままだ。
 非凡さが要求される事態において凡庸を貫こうとするとき、惨を極めた破局がもたらされる。

『世界に私の居場所なんてない』

 そんなソルニエ的世界観の体現者だったメイコン・ブレアもまた、監督脚本を務めた『世界に私の居場所なんてない』で凡庸な主人公と卑小な悪役を描いた。


I Don't Feel at Home in This World Anymore - Trailer HD


 主人公はホスピス病棟に務める中年の看護助手。日々、枯れて死んでいく患者たちを看取りつつ、ファンタジー小説を慰めとして孤独に暮らしている。
 その彼女がある日家に戻ると、家が荒らされていた。パソコンやおばあちゃんの形見である銀食器を空き巣に盗まれた彼女は警察に駆け込むも「鍵をかけ忘れたあんたがわるい」とむしろ警官から責められてしまう。
 彼女は手裏剣の達人であるけったいな隣人トニーの助けを借り、盗品の行方を追う。PCは彼女にとっての貴重な財産だし、銀食器は家族の思い出の品ではあるが、実のところ彼女にとって重要なのはモノの価値や所縁ではない。
 正義だ。彼女は自分はこの世界に必要とされていないと感じていて、居場所を見いだせないでいる。タイトルの『世界に私の居場所なんてない』もつまりはそういう意味だ。生まれて三十年か四十年のあいだずっと独身であり、おそらくこれからも独身でありつづけ、友だちどころか近所付き合いすらなく、家の庭には毎日何者かが犬のフンを残していく。*4そういう生活の延長線上にあるのはただ終点、つまり死のみであって、だから彼女は死ぬのを異常に怖がり、唐突にその恐怖をトニーへ吐露する。

主人公「死にたくない……」
トニー「死なないよ、今はまだ」
主人公「死んだらただの無になるんだわ」
トニー「ならないって」
主人公「なるわよ、トニー。まるでテレビを消すように、フッとなっておしまい」

 
 彼女は世界を正そうとする。他人の家に勝手に忍び込んで物を盗むのは間違っている。その盗品を売るのは間違っている。彼女が独力で突き止めた証拠を無視して盗人を捕まえようとしない警察は間違っている。悪いやつが大きな面してのさばっている世界は間違っている。
 映画の後半で盗人の正体がヤクザ的金持ちのドラ息子だったと判明する。その父親によれば、ドラ息子にはもともと最高の教育環境を与えてやったという。本来盗みなどする必要のない家に生まれた人間がレールを外れて無軌道に暴れまわり、彼女の人生を侵害する。
 彼女はその歪みを正そうとするが、多くの「正しくあろうとする人々」を描いたフィクションとおなじく、なぜかそこでとんでもないバイオレンスが意図せず発生してしまう。
 ラストはソルニエ作品を彷彿とさせるある「等身大の悪役」との直接バトルになる。目をみはるようなアクションも、ツイストの利いた機転も、引用符でくくりたくなるようなクールな名台詞もない。ひたすら地味で、鈍重。だからこそ陰惨さが際立つ。暴力とは本来凄惨ではなく陰惨なものだ。そういうことを思い出させてくれる。

 『世界に私の居場所なんてない』がソルニエ映画と異なるのは、地に足の着いたイヤさの一方で、地に足の着いた救いをも用意してくれている点だ。もっともブレアが脚本をてがけた『スモールクライム』ではその救いが同種でより強力な磁場をもつものに絡め取られてしまうのだけれど。


*1:in pressure cooker envrionment 圧力鍋的環境

*2:a flailing clusterfuck

*3:実際ラスト周辺の油断はやりすぎなようにも見えた

*4:その犬の飼い主が前述の手裏剣マスターで、彼女が犬の飼い主をつきとめて文句を言いに行くところから関係が生じはじめる