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新潮クレスト・ブックス全レビュー〈5〉:『終わりの感覚』ジュリアン・バーンズ

『終わりの感覚』(The Sense of an Ending) 原・2011 訳・2012年12月 訳者・土屋政雄


終わりの感覚 (新潮クレスト・ブックス)

終わりの感覚 (新潮クレスト・ブックス)


 これまでの人生で二度だけジュリアン・バーンズの名を他人の口から聞いた経験があり、そのうちの一回は法月綸太郎だった。
 ある講演会*1で法月が『終わりの感覚』を「海外文学における本格マインドを持った作品」というふうに評していた、ように記憶している。法月なのでもう少し明晰なことばで語っていたのはずだけれど、記憶のみを頼りにしなければならない場合の引用の正確さにあまり自信がない。でも、それに続いたセリフのほうはよく覚えている。「ま、日本だと先に泡坂妻夫がやっていたんですけどね」
 泡坂妻夫ジュリアン・バーンズを同じ皿の上に乗せて語る贅沢をできる国は少ない。『終わりの感覚』が多少ミステリの側に「歩み寄った」作品*2であることや、法月がジョン・バースなどに強烈な影響を受けた作家であることを抜きにしても、だ。

 私たちは自分の人生を頻繁に語る。語るたび、あそこを手直しし、ここを飾り、そこをこっそり端折る。人生が長引くにつれ、私が語る「人生」に難癖をつける人は周囲に減り、「人生」が実は人生でなく、単に人生についての私の物語にすぎないことが忘れられていく。それは他人にも語るが、主として自分自身に語る物語だ。(p.117)
 


 本作は記憶と時間と物語についての物語に貫かれたホワイダニットの話だ。
 語り手のトニー(アントニー)・ウェブスターは人生も終わりにさしかかった老人で、おそらくは著者のバーンズとおなじ一九四六年生まれ。
 平凡な人生を過ぎ、平凡な余生を送るようになった彼のもとに、あるとき弁護士から妙な報せが届く。四十年も前に別れた昔の恋人ベロニカの母親が亡くなり、その彼女の遺言に「トニーに遺産を贈りたい」とあったのだ。
 別れたあとはほぼ一切連絡も取ってなかった昔の恋人の、しかも一度しか会っていない母親から? ますます妙なことにその遺産とは些少のお金、それとトニーの死んだ旧友エイドリアンの日記だという。
 トニーとエイドリアンは中学時代からの親友だったのだが、大学時代にトニーと別れたあとでベロニカの恋人となったのが原因で彼とも絶縁状態にあった。そして、その後間もなくしてエイドリアンは不可解な自殺を遂げていた。
 思慮深く誰もよりも知的だったエイドリアンを敬愛していたトニーは自殺の謎が隠されているかもしれない日記を読みたがる。ところが、ベロニカはなかなか日記を引き渡そうとはしない。往年の恋人とギクシャクした折衝を繰り返すうち、トニーはエイドリアン、ベロニカ、そして自分自身についての「真相」に触れる。


 トニーはいわゆる「信用できない語り手」という技法に当てはめられる主人公ではある。しかし、彼はある種のミステリ*3に見られる語り手のように、明確な意図をもって騙ろうとしているわけでも、認知が病的に歪んでいるためにそうなってしまうわけでもない。
 自分自身でいうようにあらゆる面において「平均的な」人物である彼は、凡庸であるがゆえに「信用できない」のだ。
 彼は継ぎ接ぎだらけの記憶から過去を再構成し、その過程においてある人物や瞬間については美化し、別の人物や瞬間については無意識の悪意でもって貶める。記憶が完全でないことを自覚しつつも、自分は自分の人生についてなんでも知っているのだとわかった気になっている。何も特別なことではなくて、誰しもにとっても日常的な営為だ。
 
 信用できるにしろできないにしろ、語り手に求められる資質とはなんだろう。おそらくそれは、雑多で間歇的な情報の山を整理し、空白を埋め、ひとつらなりの絵として語ることのできる能力なのだとおもう。物語化の才能、それと、その原動力となるわかりたがりの欲求
 自らの平凡さをくどいまでに自嘲するトニーは、実は探偵の才能というこの一点において卓抜している。たいして話したこともない他人をキャラクタナイズし、不確かな記憶をもとに自分の人生のイベントに意味付けを行い、伏線を回収し、自らの人格や人生を明瞭に定義できる。彼の才能は百八十ページ足らずの本作の緊密な構成にそのまま反映されてもいる。あらゆる要素が意味をもち、物語へ奉仕する。小説だ。
 そして、その小説家的唯才がトニーの陥穽となる。物語終盤、彼はベロニカからこんなことばをつきつけられる。「あなたはまだわかっていない。わかったためしがないし、これからもそう。わかろうとするのをもうやめて」
 輪郭のはっきりしないものをきちんと描こうとすると、どこかでウソをつくことにする。そこに探偵の失敗が生じ、後悔のタネになる。
 ミステリの解決編は事件が起こってしまった後にもたらされるものだ。事件発生以前には(すくなくとも読者は)盲人に等しく、名探偵は訳知り顔の奇人でしかない。悲劇は事件が出来した時点ではなくて、事件の真相が暴かれたときに起こる。隠されていた物語、犯人と被害者との関係が開示されて、だからこんなことになったのだ、と探偵は言う。結果が先に来てしまっているのだから、そこで「あのときあの人がああしておけばこんなことには」と悔やんでも意味がない。 
「悔恨の主たる特徴はもう何もできないことだ」とトニーは言う。彼自身はその言に抗おうとするけれども、事件は既に起こってしまった。やっとわかってみたところで、もう遅い。



The Sense of an Ending Official Trailer 1 (2017) - Michelle Dockery Movie
ちなみに今年映画化もされた。

*1:たぶん2013年12月の大谷大学での講演会

*2:バーンズはダン・カヴァナという別名義でミステリを書いてもいる

*3:ネタバレにつき

今一番期待されている映画作家、ジェレミー・ソルニエとメイコン・ブレアについて

 どこで期待されているかって言ったら、私の心のなかで……。

ジェレミー・ソルニエが欲しい


Blue Ruin Trailer



 今一番新作が観たい作家を三人挙げろ、と言われたら、まずウェス・アンダーソン。次にポール・トーマス・アンダーソン。そして、ジェレミー・ソルニエ。だが、ジェレミー・ソルニエは2017年現在までに長編を三作品しか発表しておらず、日本で見られるのは最近二作だけだ。ソルニエ分が足りない。ベン・ウィートリー? たしかに興味深い作家ではあるし、作風も似ていなくもないが、あれはもうちょっとブリティッシュに複雑だ。

 で、そんなソルニエ飢饉へもってきて忽然とソルニエと同じ血をわける映画作家として登場してきたのが、ソルニエ監督作『ブルーリベンジ』主演俳優であるメイコン・ブレアだ。
 ブレアは初監督・脚本作である『世界に私の居場所なんてない』(ネットフリックスオリジナル)を今年のサンダンス映画祭で発表し、同映画祭でもっとも栄誉あるドラマ部門の審査員グランプリを獲った。同賞の歴史的に鑑みて、コーエン兄弟トッド・ヘインズブライアン・シンガートッド・ソロンズカリン・クサマ、ライアン・クーグラー、デイミアン・チャゼルらと同じクラスの評価を受けてデビューしたわけで、つい四年前の『ブルーリベンジ』以前はたいした芸歴もなかった四十代の冴えないおっさん俳優にしては破格というか、比類のないほどの期待をかけられている。

 メイコン・ブレアとジェレミー・ソルニエを同一視することは乱暴にすぎるだろうか? メイコン・ブレアは確かにソルニエと幼馴染でずっと彼と映画を作ってきた。長編三作(Murder Party、『ブルーリベンジ』、『グリーンルーム』)にはすべて出演しており、うち『ブルーリベンジ』では主人公を務めている。しかし、すくなくともクレジット上はソルニエ監督作はどれもソルニエの単独脚本でブレアの関わった痕跡はなく、逆にブレア初監督作『世界に私の居場所なんてない』や脚本作『スモール・クライム』にソルニエが噛んだというような話は聞かない。


 にもかかわらず、ブレアとソルニエの作家性はほとんど血を分けた兄弟を呼んでさしつかえないほどに共通している。

 まずどちらも主人公が致命的なまでに頼りない。
 両親を殺した男が出所したと聞き復讐に立ち上がるホームレス、ネオナチに楽屋に監禁されてしまったパンクバンド、自宅に押し入った窃盗犯を捕まえるべく奔走する中年の看護師、職や家族といったすべてを失い出所した元汚職警官。
 どの作品もバイオレンスでエクストリームな状況に置かれがちなのにも関わらず、アクション・スターみたいに腕っ節一本で苦境を切開なくなんて明らかに期待できそうもない面々ばかりだ。
 ソルニエ映画で唯一スター俳優主人公っぽいポジションだった故アントン・イェルチンにしても、『グリーンルーム』での華のないバンドメンバー四人のなかで更にびっくりするくらい華がなくて、中盤になるまでなかなか主人公っぽい雰囲気が出ない。何も知らずに観せられて、序盤に「この俳優、『スタートレック』に出てますよ」と教えられたら、チョイ役で? と返しそうなものだ。もちろん、中盤以降の存在感はやはりスターの素質があったんだな、と思わせるだけの演技を見せていて、いまさらながら早逝が惜しまれる。
 
 こうしたキャラ配置は当然意図されたものだ。
 本来バイオレンスやアクションの主役になりそうにないキャラを主人公に据える。その采配についてソルニエはインタビューで以下のように語っている。

――『グリーンルーム』は『ブルーリベンジ』や Murder Party といったこれまでの作品と同様に、しばし無能なキャラクターたちが悲劇と喜劇の両方を起こしますね。普通の映画ではまず生き残れそうにないキャラたちです。


ソルニエ:Murder Party ではわかりやすくアホなキャラばかり出して笑わせようと意図しました。『ブルーリベンジ』のドワイトは明らかに主人公に向いていない人間ですが、しかしけしてバカではない。単に不向きなだけです。悲しいまでに主人公に相応しくない。だからこそ切ないし、コメディチックな瞬間も状況から自然に生まれます。
 『グリーンルーム』もそうです。バンドメンバーはアホではありません。ただリアルな人々であるというだけです。ニュースなどを見ていればわかります。極端なプレッシャー*1や泥沼のカオスに囚われてしまった人々はどう見てもバカげた行動をとってしまうものなのです。
 私たちは有能な映画キャラに慣れきっています。映画の中の彼らは伝統的なヒーロー/ヒロインへと一足飛びで成長し、ある種の跳躍を行います。そういうものだと当然視してしまっている。
 しかし、人間を人間としてあるがままに描けば、めちゃくちゃなバカ騒ぎ*2になる。それは、単に真実味があるだけではなく、より喜劇的でより悲劇的であるという点でエキサイティングです。
 スクリーンに観客である自分と重なるキャラの姿を見出したとき、より深いレベルでの信頼が生まれるのです。キャラクターを窮地に追いやれば、衝撃は倍になります。私は深みから抜け出すための出口をキャラに用意して、彼らがもがく姿を眺めるのです(笑)。


An Interview With Green Room Director Jeremy Saulnier


 ソルニエ映画のキャラクターたちは平凡さをもって極限状況と対峙する。それは主人公のみならず、対置される「悪役」の側も変わらない。
 『グリーンルーム』でのパトリック・スチュワート演じるネオナチの親玉を思い出してほしい。彼はなにしろプロフェッサーXなので面構えだけはデキる感を醸しているが、バラックの楽屋に閉じ込められた無力なバンドメンバー四人+女一人に対して二十名を超える部下に銃火器と戦力差で圧倒していたにも関わらず、場面場面での判断を誤り、拙劣な戦力の逐次投入と失敗を重ねてしまう。
 これがヒーロー映画だったら「いくらなんでも悪のくせに無能すぎる」と白けてしまうところだ。*3しかしソルニエ的にはこれが「人間としてのリアリティ」なのだ。有能も無能も悪も正義も、すべて「人間」の平凡さの範疇内でおさまってしまう。その事実、世界観自体がたまらなく残酷だ。南部の山奥で蠢いてドラッグ密造で稼ぐネオナチは、そうした地に足の着いた野蛮の姿だ。だから、情けなくもあるけれど、同時にすごくおそろしい。
 そして、映画的シチュエーションは悪役の側にも主人公の側にも常に非凡さを要求する。一般的なアクション映画であれば、二時間の冒険と葛藤を通じてヒーローはソルニエが言うところの「成長と跳躍」を遂げて平凡から非凡へと脱皮する。
 だが、ソルニエ映画のキャラたちはどうしようもなく平凡なままだ。
 非凡さが要求される事態において凡庸を貫こうとするとき、惨を極めた破局がもたらされる。

『世界に私の居場所なんてない』

 そんなソルニエ的世界観の体現者だったメイコン・ブレアもまた、監督脚本を務めた『世界に私の居場所なんてない』で凡庸な主人公と卑小な悪役を描いた。


I Don't Feel at Home in This World Anymore - Trailer HD


 主人公はホスピス病棟に務める中年の看護助手。日々、枯れて死んでいく患者たちを看取りつつ、ファンタジー小説を慰めとして孤独に暮らしている。
 その彼女がある日家に戻ると、家が荒らされていた。パソコンやおばあちゃんの形見である銀食器を空き巣に盗まれた彼女は警察に駆け込むも「鍵をかけ忘れたあんたがわるい」とむしろ警官から責められてしまう。
 彼女は手裏剣の達人であるけったいな隣人トニーの助けを借り、盗品の行方を追う。PCは彼女にとっての貴重な財産だし、銀食器は家族の思い出の品ではあるが、実のところ彼女にとって重要なのはモノの価値や所縁ではない。
 正義だ。彼女は自分はこの世界に必要とされていないと感じていて、居場所を見いだせないでいる。タイトルの『世界に私の居場所なんてない』もつまりはそういう意味だ。生まれて三十年か四十年のあいだずっと独身であり、おそらくこれからも独身でありつづけ、友だちどころか近所付き合いすらなく、家の庭には毎日何者かが犬のフンを残していく。*4そういう生活の延長線上にあるのはただ終点、つまり死のみであって、だから彼女は死ぬのを異常に怖がり、唐突にその恐怖をトニーへ吐露する。

主人公「死にたくない……」
トニー「死なないよ、今はまだ」
主人公「死んだらただの無になるんだわ」
トニー「ならないって」
主人公「なるわよ、トニー。まるでテレビを消すように、フッとなっておしまい」

 
 彼女は世界を正そうとする。他人の家に勝手に忍び込んで物を盗むのは間違っている。その盗品を売るのは間違っている。彼女が独力で突き止めた証拠を無視して盗人を捕まえようとしない警察は間違っている。悪いやつが大きな面してのさばっている世界は間違っている。
 映画の後半で盗人の正体がヤクザ的金持ちのドラ息子だったと判明する。その父親によれば、ドラ息子にはもともと最高の教育環境を与えてやったという。本来盗みなどする必要のない家に生まれた人間がレールを外れて無軌道に暴れまわり、彼女の人生を侵害する。
 彼女はその歪みを正そうとするが、多くの「正しくあろうとする人々」を描いたフィクションとおなじく、なぜかそこでとんでもないバイオレンスが意図せず発生してしまう。
 ラストはソルニエ作品を彷彿とさせるある「等身大の悪役」との直接バトルになる。目をみはるようなアクションも、ツイストの利いた機転も、引用符でくくりたくなるようなクールな名台詞もない。ひたすら地味で、鈍重。だからこそ陰惨さが際立つ。暴力とは本来凄惨ではなく陰惨なものだ。そういうことを思い出させてくれる。

 『世界に私の居場所なんてない』がソルニエ映画と異なるのは、地に足の着いたイヤさの一方で、地に足の着いた救いをも用意してくれている点だ。もっともブレアが脚本をてがけた『スモールクライム』ではその救いが同種でより強力な磁場をもつものに絡め取られてしまうのだけれど。


*1:in pressure cooker envrionment 圧力鍋的環境

*2:a flailing clusterfuck

*3:実際ラスト周辺の油断はやりすぎなようにも見えた

*4:その犬の飼い主が前述の手裏剣マスターで、彼女が犬の飼い主をつきとめて文句を言いに行くところから関係が生じはじめる

地獄でなぜ悪い ーー『魔女の子供はやってこない』を読むための六夜(4)

第四話「魔法少女粉と煙」
 

 

ハロウィンの季節 ーー『魔女の子供はやってこない』を読むための六夜(3) - 名馬であれば馬のうちのつづき。

 

 矢部嵩twitter アカウント名は「konakemuri」といいます。粉と煙。まさに第四話の主要モチーフです。

 

地獄でなぜ悪い

地獄でなぜ悪い

 

 出だし*1はこんな感じ。

 

 春の小虫が付いたのに気付き、掛けていた眼鏡を私は外しました。
 眼鏡を外すと視界は霞み、刺繍の裏地で出来た世界みたいでした。

 

「刺繍の裏地で出来た世界」は、眼鏡外しを含めて、もちろん第一話の「文字のない世界」に呼応しています。今回は皮の裏側から世界を眺める話である、と直接的に表現しているのです。
 今回で初めて自主的な依頼人が現れます。鍔広の帽子とお面で顔を隠した中年女性、タヒチさんです。
 タヒチさんには亡くなった姉妹がいて、その息子であるビルマくんがある難病にかかっている。なるべく速やかに手術を受けない病状なのだけれども、ビルマくん本人が頑として手術を拒んでいる。甥が手術をいやがる理由を究明し、なんとか説得してやってくれないだろうかーー。との次第。
 ぬりえちゃんはビルマくん説得のために、ビルマくんの亡母をひきずりだすことにします。といっても生き返らせるのではなく、本人そっくりのきぐるみを作って夏子に母親を演じさせようというのです。ちなみに着ぐるみはちぎり絵式で作ります。ここにも絵画のイメージですね。
 かくして夏子 in ビルマくんのお母さんはビルマくんのお母さんとして病院へ向かいます。病室に入るとそこは粉の霧が舞う世界。ビルマくんの患った難病とは、ひどいかゆみなのでした。粉とは彼が掻いた皮膚の落屑、煙とはその滓が舞い上がる様を指します。

 他人の皮をかぶった夏子と自分の皮を掻きまくった結果エレファントマンじみてしまったビルマくんとの対峙は、それだけでエキサイティングな光景です。ビルマくんは常識人ですから、いくら本物と見分けがつかない外見をしていてもお母さんがそこに実在しているわけがないと疑います。しかし同時に失った母を想う息子でもありますから、疑いつつもそうであってくれという希望にひっぱられていく。このあたりのプログレッシブな機微のうつろいは非常に洗練されています。
 信じたいビルマくんは夏子をテストにかけます。親戚の名前、ビルマくんの好きなこと嫌いなこと、往事のこまごまとしたエピソード、身体的特徴。外見だけではなく内面の連続性も証明することで、目の前に表れたお母さんが「本物」であると示そうとするのです。
 ここで以前誰かが言った「スワンプマン」ということばが思い出されます。「スワンプマン」がなんであるかは各自で適宜 wikipedia か何かを参照してください。問題は「誰が」スワンプマンと言ったのか。
 ずん田くんです。第一話です。亡くなったお母さんを生き返らせたかった彼は魔女に対してこんな質問をぶつけます。

 

「生き返ったそれはどれくらい小倉なんですか。家族が見ても小倉に見える?」「完璧同じにするよ」「それは不可能でしょうどんだけ同じでも似せて作れば偽物ですよ」「例えばお金なら見て触って機械で読めてあらゆるシチュエーションで流通相成れば本物として使えるでしょ。これ本物だオッケーという基準があってそれを通れば本物でしょ」「がわが一緒でも精神と歴史はどうなるんです」「スワンプマンは考えだから物作りに持ち出すとただのブランド志向だよ。あなたに観測できないものでも要るというなら実装するし、持つ持たないを問題にするなら要るものはちゃんと持たせるけれど、とにかく超あるよじゃ駄目?」


 チューリング・テストもフォークト=カンプフ検査もアウトプットさえ完璧なら腸や脳が機械だろうがなんだろうが人間として認めてくれます。信じたい者にとって必要なのはそうした判定結果です。
 もちろん一から十まで生き返りを信じてくれたわけではありませんが、それでもビルマくんは夏子のことを「お母さん」と呼ぶようになってくれました。ところがそれでも手術は受けないと粘る。「それに勘違いしてるかも知れないけど、かゆいの掻くのも決して嫌ではないんだ」と主張します。
 ここから滔々と披露される長広舌はいちいち全文引用していたらほぼ違法コピーレベルの代物になってしまいます。私なりにかみ砕きましょう。
 掻くことはかゆみへの対症療法であり、治療行為であると彼は説きます。根治をねがうのは罠です。根治をねがってしまえば詐欺じみた治療法にすがるしかなくなる。「願いは病気を増悪するんだよ」。ほんとうにかゆみを無くしたいのなら、早期に地味で健全な生活を送るべきだった。母親が魔法みたいな奇跡に行き当たりばったりで頼った結果、手遅れになってしまった。なのに今更魔法なんてまた奇跡を持ち出してどうするのか。願うな、掻かせてくれ。
 夏子は伝染したかゆみにさいなまされながらも、お母さんの立場にたって「願うのがそんなに悪いことなのか」と反駁します。
 ビルマくんは「当事者でない人間がきれいごとを言うなよ」的なことばで再反論します。ここからのビルマくんのセリフは約めてしまえば嘘になるので、全文引用しましょう。

 

「判るだろ。全部自分でしてんだ。掻かなきゃいいだけなのに、我慢一つできないんだぜ。爪痕全部瘡蓋全部自制できない心の証だ。鏡に映る体のどこに意志がある。かゆみの奴隷、皮膚のいいなりだ。胸で物なんか考えない、胆や脊髄に何も宿らねえよ。気持ちも思考もいつでもこの皮膚の上の上っ張りで、浮かぶたびに自分で掻き消しているんだよ。
 高潔でありたいだろ。自分で駄目にしてんだ。優れていたいだろ。日ごと卑屈になるんだ。集中したいだろ、没頭したいだろ、本も映画も、何見ててもかゆいんだ。心打たれた台詞にさえ自分の皮が落ちてる。音の海で何聴いてもぼりぼりぼりぼり骨から聞こえるんだよ。二十四時間全身を虫に覆われてる奴がすてきな物語に涙流すの? そういう人見てあなた感動したことあるの? 闘病も糞もない、意志の弱い奴に誰も憧れないし、絶えず曝され続ける惨めな自分は、磨くことも積み重ねることも出来ない。
 結局優れた創作物なんかで上っ面だけの自分が真実救われないはしないと知るんだ。安い幻滅を繰り返す内強い意志とか優れた物の見方だとかが自分の中に育まれることがないと知るんだ。結論が出る、生きてすることで自分を掻き壊すより大事に扱える物事が自分に作り得ないと、優しくありたい。嫌われたくない。気色の悪いことなど口にせず、快い言葉を人のために綴りたい。強い意志が挫けず叶う話をしたい。誰かのことを思って生きたい。人だぜ。当然だよ。だけど薄弱な意志と上っ面の心で、出来ないだろうそんなこと。ただ気持ち悪い上辺の感覚ばかり、浅い心にストックされていく。
 結局自分の思いや人格が幾らでも湧いて剥がれ落ちるこの皮のような物だと知るんだ。怒りも重いも乾いて剥がれて落ちていく。この部屋を見ろ。おれそのものだ。うすっぺらい自分が粉になって積もったものが、今ここにいるおれなんだよ」

 

 人生の話です。ここまでくれば、どんなに鈍感な人でもわかるでしょう。ビルマくんは人生について極めて直截に話している。*2
 生きて、そのときどきでかゆいところを自制できずに掻きむしるうちに自分の形を保つ皮膚が崩れていき人間でなくなってしまう。すこしずつすこしずつ人から外れていき、やがて美しい人たちが感動するような美しい世界に属する資格がないのだと識る。それがビルマくんの人生です。矢部嵩が「粉煙」ということばに託した寓意です。あ、要約できるじゃん。

 

皮と粉

 

 第三話の「服」と同様、「皮」は本短編集全体に通底するモチーフです。安藤夏子と最初の五人の友人たちはみな「アンコ」関連の名前でした。第一話で初登場したぬりえちゃんは当初、老婆の皮をかぶっていました。第二話は家という皮膜にぬりちゃんがずかずかと入り込んでいく話で、そういえば餃子をめぐる葛藤もありましたね。第三話ではMの父親の皮を加工して押し花を作りました。第五話では奥さんの皮をかぶった夏子が仮初めの主婦として奮闘します。第六話では夏子が魔女という「皮」をかぶって魔法を起こそうとします。
 第四話は少し逆説めいていて、皮をかぶれなかったこその悲劇であるわけです。ビルマくんは言います。「なりたい自分も装った自分も最後は自分の手で引ん剥いてしまうんだ。変わりたいと幾ら念じても信じても結局駄目な自分のまま。違う誰かなどにはなれない。嘘の自分は必ず剥がれて一番醜い自分が出て来る」。
 皮の変化の否定、変身の否定はすなわち旧友たちを失って以降装いを変えつづける夏子に対する否定でもあります。キャラクターの対比ですね。ビルマくんは変身を否定することで魔法を否定する。では生*3の自分をどうやって守るのか。
 そこで四話では「皮」に加えて、「粉」なるタームも出てきます。皮と粉です。大福です。タヒチさんが依頼に表れたときの会話を思い出してみましょう。

 

「大福のこの粉って苦手だな。のどごし苦しいもの。水大福だとまだ楽だけど、何故つけるんだろおいしくないのに」「餅を守っているのでは。くっつかぬよう乾かぬよう」「餅の皮みたいなもんか」「皮は餅でしょ」

 

 粉は餅を守る存在である。ビルマくんは皮膚を掻きますが、皮そのものは彼のオブセッションではない。粉です。

 

「粉めいたこの部屋にいると壁や床の粉と自分とどこが境界か判らなくなる。掻きすぎて気持ちよくて何も考えらんない時意識がぼんやりして霧か煙の中にいるようになる。頭で感じる容量全部が皮膚の話で埋まるんだ。本当に何も見えなくなるんだ。この粉と煙の中で、一体何が見定められるんだ。何一つ透き通らない覆い包まれたこんな地獄の中の、どこに正しい道があるんだ」

 

 粉ははげ落ちた自意識であると同時に、拡張された思考であることが示唆されています。とすると、第四話でもっとも読者の印象に残るであろうルビ芸*4も粉による保護と拡張という文脈にあることが理解されてきます。
 カントはかつて日本語の書き言葉を「音読みが訓読みを注釈する」「焼きたてのゴッフル」とたとえましたけれども、矢部嵩の場合は日本語とは大福です。ビルマくんは皮膚を激しく掻きながら生前の母親の失敗を難詰する。彼の台詞には端から端にわたって「ぼりぼり」というルビがふられるます。掻痒によって剥がれた粉が夏子にも映り、夏子はかゆみにロジックで反論します。ここの地の文が「ビルマ君のお母さんが泣き出しました」と書かれているのは単なる綾ではありません。泣きながらビルマくんに語りかけているのはアンコである夏子ではなく、粉によってビルマくんとリンクしたお母さんの皮です。先ほど「夏子が反論した」と書きましたが厳密には間違いですね。
 しかし拡張したり感染したりするのはあくまで思考の部分であって、身体ではありません。だからこそ、別れ際に「抱きしめて」と願うわけです。粉は防壁だけれども、隔離壁でもあるから。

 ビルマくんは最後には手術を受け入れます。装った夏子が母親であることを否定し、たとえ彼女が本物の母親であったとしても手術を受ける気はないと断言した彼がなぜ魔法を信じたのでしょうか。
「手術を受けたらお母さんはずっと君の側にいるよ」という嘘を信じたかったからです。法月綸太郎のウィズネス概念にも通じますが、『魔女の子供はやってこない』において「共にいること」は一つ強力な魔法です。そして、夏子とぬりえちゃんの間柄においてはそれこそたぶん地獄への道程という言葉で言い表される。 
 嘘にすがったビルマくんは永劫の苦しみに落ちます。芽生えた希望を摘めず、粉にも頼れず、素の自分を曝すしかない。願ってしまったことに対する罰です。
 

 

お願いシンデレラ


 どこかで言及しようと思って結局できなかったモチーフがあります。
 シンデレラです。矢部嵩はこの童話を巧妙に操ってストーリーテリングをなめらかにしている。筋は誰でも知っているでしょうからいちいち説明は付けません。羅列します。
 ぬりえちゃんは変身した夏子を送り出すときにこう言い含めます。「帰りも遅くはならないように。魔法はいつか解けるのだから」。十二時に解ける魔女の魔法です。
 そして、夏子は馬車で病院まで向かいます。ビルマくんの演説を聞くうちにかゆみが伝染してしまった夏子は皮を掻きますが、そのせいで変装が崩れかけ、焦ります。ビルマくんが「手術は受けない。治さない」と鋼鉄の決意を口にした直後、病室のテレビから「舞踏会の喧噪」が鳴り出します。あわてた夏子は粉ですべって転んでしまい、靴が脱げてしまいます。

 

「靴脱げたよ」ビルマ*5がかがんで禿げた頭が見えました。「ほら、足出して」
 私は涙を拭い、足裏を払い、ビルマ君の持つ靴に、右足の先を差し込みました。
 入りませんでした。


 原典である『シンデレラ』において、王子様の差し出した靴に足が入らなかったのはシンデレラの義姉たちです。それまでシンデレラをトレースしていた夏子が実は「偽物」の側だったと露見してしまう。まさにそれがきっかけでビルマくんは目の前の母親が本物ではないことを看破するのです。おとぎばなしのモチーフは次の第五話にも出てきます。

*1:最初のエピグラフめいた長文をのぞくと

*2:ここで小説において思想や人生をストレートな形で演説することについての是非については問いません。技巧の範疇だとは思いますが

*3:

*4:ブログ媒体でお伝えするのは難しいですが、ビルマくんと夏子の長台詞に「ポリポリ」とか「かゆい」とかいったルビがカギかっこの端から端までリピートされている

*5:原文ママ