名馬であれば馬のうち

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『ファインディング・ニモ』のドリーは本当に記憶障害なのか。

本記事の概要

 『ファインディング・ニモ』に出てくるやたら忘れっぽいナンヨウハギのドリーが記憶障害(健忘症)なのかについて検証した英語記事の翻訳。


前説

 『ファインディング・ドリー』を観て、「『ニモ』のときのドリーの忘れっぽさは単なるキャラづけだと思ってたのに、実はガチだったんだね、驚いたよ(笑)」みたいなことを自撮り写真と一緒に twitter にあげたら、多方面のベテラン・ピクサーファン(半裸のシルベスター・スタローンを想起していただきたい。関係はないが)から「いや、そもそもそんなん一作目のときからガチの障碍だってわかってたやろ」「おまえは何を観てきたんだ」「だからおまえはダメなんだ」「俺の足の裏に生えたフジツボより生きる価値がない」「クローネンバーグに頼んでハエにしてもらえ」というきびしいお言葉を賜り、死にたくなったわけですが、ほんとは死ねとも言われてないし、自撮りもあげてません。足の裏にフジツボが生えた不幸な人もいなかった。
 とにかく、そんな感じで作ってるひとらはどれだけ本気でドリーを記憶障碍として描こうとしていたのか気になったわけです。そこで、グーグル先生に「ニモ ドリー 記憶」的な雑なワード(よくおぼえてない)を打ち込みました。

 すると出てきたのはNeuroPsyFi - NeuroPsyfi brain science behind the moviesなるサイト。主に脳科学者や神経医学者の専門家の視点から作品を読み解く系の映画評サイトらしく、そのひとつに『ファインディング・ニモ』時代のドリーについての考察がありました。その内容がわりに面白かったので、ぶっちゃけスタッフの証言とかどうでもよくなりました。満足した。

 以下、その訳です。相変わらず端折ったり適当にいじったりしてますので、原文と参考文献一覧はbrain disorders movie reviews - NeuroPsyFiを参照のこと。
 あくまで『ファインディング・ニモ』のときのドリーについて語ったものですから、『ファインディング・ドリー』での出来事は考慮されていません。


「泳ぎつづけろ――健忘症とたたかうための海のレッスン」ダニエラ・ブリンクマン

「ええと、あなたと一緒にいるとよく思い出せるようになるの」。
 シンプルでありながら、実に切実な思いが込められたセリフだ。


 『ファインディング・ニモ』のメインキャラであるドリーには、パッと見の印象以上に神経心理学的に興味深い洞察が隠されている。本作は劇映画としては健忘症を精確に描写している数少ない作品のひとつとして専門家からも讃えられている(Baxendale, 2004)。のみならず、健忘症患者の記憶能力に良い影響をおよぼしうる、前向きな姿勢やソーシャル・サポート(家族として、友人として、あるいはその両方として)のヒントを示している。


 ナンヨウハギのドリーが初登場するのは、カクレクマノミのマーリンとぶつかる場面だ。マーリンはスキューバダイバーに拐われた息子のニモを助けだすため、ダイバーのボートを大慌てで追っている途中だった。
 ボートを目撃したことを思い出したドリーは、マーリンにその行き先を教えようとする。ところがちょっと泳ぐと、マーリンが何者か、なぜ彼が自分のあとをついてきているのかを完全に忘却してしまう。彼女はあきらかに前向性健忘を患っているか、あるいは新しい物事を憶えるのに問題を抱えている。こうしたハンデをはらみつつ、マーリンとドリーはチームを組み、ニモを探す旅へ出発する。


 この冒険のあいだ、ドリーの記憶障碍はさまざまな実例をもって描かれる。彼女は他者の名前を(特にニモの名前を)憶えることができない。新しい情報を得たはしから忘れていき、数分前に会話を交わした事実さえ覚えられない。そのうえ自分の泳いでいる方角もおぼつかず、ましてや自分が何をしているのか、なぜそれをしているのかなどわかりようもない。
 暗唱――たとえば、オーストラリアのある住所を憶えるシーンを思い出そう――は別のタスクへ注意をそらさないようにするのに効果を発揮する。だが、彼女の集中はすぐに散漫になり、繰りかえし憶えようとしたはずの情報も忘れてしまう。
 新しい情報をインプットするさいに見られるこうした問題の数々は、前向性健忘の特徴でもある。
 ドリーは彼女の症状を「短期記憶喪失*1」と説明している。この言葉は、前向性健忘の特徴である「新しい情報のインプットにおける困難」と結びつけられる。ドリーの健忘症の由来についてはほとんど説明されてないものの、彼女は「家族もみな忘れっぽい」と述べている。*2
 人類における前向性健忘は、ほとんどの場合、前側頭葉部の損傷と関係している。特に海馬と呼ばれる部位だ。若年層の前向性健忘は通常、頭部の怪我による頭部外傷によって引き起こされる。


 彼女の障碍とそれによる困難にもかかわらず、ドリーは常に楽観的で、ポジティブで、粘り強くありつづけ、健忘症がゴールへ向かう彼女を妨げることをゆるさない。困難や課題に直面したとき、彼女は彼女自身(とマーリン)に「泳ぎつづけろ(just keep swimming)」と言い聞かせる。本作でもっとも知られた名台詞のひとつだ。
 事実、ドリーの前向きな態度と屈託のない性分は、彼女をマーリンの相棒として欠かせない存在にしている。ドリー抜きではニモを発見できなかったかもしれない。
 ドリーの健忘症が旅の障害であったことはまぎれもない事実だ。しかし、彼女の楽観主義がそうした障害に打ち克ち、ともに数々の困難へ立ち向かうことを可能にしたのだ。


 かたやマーリンはポジティブでいつづけづらい状況にある。終盤、彼は希望を失い、ニモは死んでしまったと思いこみ家へ帰ろうとする。ドリーは、マーリンと一緒だと家にいるみたいな気持ちになれて記憶力が良くなると告白し、彼に留まってくれるよう懇願する。*3このとき、情緒的に安全で前向きになれる環境と、ふたりで築き上げた関係性が彼女の記憶能力に良い影響を与えることを観客は知る。


 コミカルな子ども向け映画という見かけとは裏腹に、『ファインディング・ニモ』はソーシャル・サポートや親密性の潜在的な有益さに触れ、ポジティブな環境が前向性健忘を抱える人の記憶の維持を刺激し促進しうると示している。このテクニックは「リアリティ・オリエンテーション」として活用されている。
 1966年に Taulbee と Folsom によって首唱されたリアリティ・オリエンテーションは、ある人物が今ある現実に順応することを目的としており、健忘症患者のクオリティ・オブ・ライフを抜本的に向上させる。*4親近感のある物や、音楽、写真、音、におい、健忘症患者の周囲に置くことで、症状を和らげる(De Guise, Leblanc, Feyz, Thomas, & Gosselin, 2005)。
 リアリティ・オリエンテーション認知症アルツハイマーの患者によく使われ、ひろく効果を証明している(Zanetti, et al., 2002)。また、このメソッドは頭部外傷によって引き起こされた外傷後健忘の患者にも有効であることが確認されている(De Guise et al., 2005)。同様に、後天的神経障害の患者にも有効である(Kaschel, Zaiser-Kaschel, Shiel, & Mayer, 1995)。
 ドリーはマーリンに深く結びついた環境を「家(Home)」として認識し、この条件下で記憶能力が良くなると信じている。リアリティ・オリエンテーションのフィクション版が、彼女の記憶喪失を軽減する現実的なアプローチになりえることを示している。


 他方、『ファインディング・ニモ』は健忘症患者に対する介護やソーシャル・サポートについても示唆に満ちている。
 彼女がマーリンに対してフラストレーションを与えているのは確かかもしれないが、ドリーは真にマーリンと一緒に彼女の家となるべき居場所を見つけ、家族的で相互扶助的で協力的な関係を彼と発展させていく。他の状況下での彼女の深刻な健忘症状とは異なり、ドリーはマーリンのことを思い出すのに問題を抱えていないようで、こうした関係こそが「よく思い出すこと」を可能にする源となっているのだと彼女は信じている。
 興味深いことに、家族機能*5や、ソーシャル・サポートを含む介護者の人格が決定的な役割を果たし、外傷性脳損傷の改善に貢献すると研究でも証明されている(Vangel, Rapport, & Hanks, 2011)。おそらく、ドリーは我々が考える以上にこうしたことについて洞察に富んでいるのだろう。


 ドリーをなす最も重要な資質は、ポジティブさだろう。おそらくこのポジティブさこそが前向性健忘に彼女を向きあわせ、癒しているのだ。多くの研究が、不屈の楽観主義や前向きな期待がよりよい健康や幸福や改善に繋がると示している(Lench, 2010; Scheier & Carver, 1987)。
 ドリーはたびたび人生に対する楽観主義を「泳ぎつづけろ」というモットーで表現する。*6ニモを探すための旅の道中のみならず、過去の彼女にもそれが助けとなったのだろう。冒険で直面する難事だけではなく、健忘症で直面する日常的な難事にも彼女の態度は有用だろうか?


 『ファインディング・ニモ』からは、前向性健忘では前向きな心がけと協力的な家族・友人関係が重要であることが読み取れる。人生の困難に対して「泳ぎつづけろ」、というメッセージは、驚くべきことではないだろうが、科学的な根拠があったのである。

*1:short-term memory loss

*2:訳注:監督のアンドリュー・スタントンは続編である『ファインディング・ドリー』を作るにあたってこのセリフに沿ってドリーの両親を健忘症的に描こうと試みたが、「忘れっぽい人物が三人そろってしゃべるシーン」が映画として成立しないことに気づいて路線変更した。http://www.slashfilm.com/interview-finding-dory-director/

*3:「こんなに長いあいだ誰かと一緒にいたのは初めてなの。なのに置いていかれたら、置いていかれたら……あなたといると物をよく思い出せるんだ。ほら、P・シャーマン 42……42…….。思い出せるのに。憶えてるのに。知ってるのに。だって、あなたを見てると……感じる(feel)の。あなたを見てると……家にいるみたいで(I’m home)。だから、おねがい……行かないで。私は忘れたくない」

*4:リアリティ・オリエンテーションは日本だと現実当見識訓練とも訳される。リアリティ・オリエンテーションについて知りたい。 | レファレンス協同データベース

*5:family functioning ファミリー・セラピストのエドウィンフリードマンによれば家族機能には情緒機能、社会化と社会付置機能、生殖機能、経済的機能、ヘルスケア機能の5つがある。http://www16.atpages.jp/apr27/kazokuenjoron.html

*6:このフレーズが『ニモ』でも最終盤のピンチを救い、続編『ドリー』でもキーワードとなる。

緑の服、緑の店、緑の国――『ブルックリン』について

『ブルックリン』(ジョン・クロウリー監督、カナダ・アイルランド・イギリス・アメリカ合作、2015年)

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 以下、ネタバレを含みます。記事中程の警告部分以降は結末部を含む重大なネタバレがなされていますのでご注意ください。


あらすじ

 1950年代のアイルランド。第二次大戦後の不況にあえぐこの国*1の港町で、雑貨屋の店員として働くエイリシュ(シアーシャ・ローナン)は姉(フィオナ・グラスコット)を通じてNY在住の神父(ジム・ブロードベント)からアメリカでの職を紹介される。
 アイルランドでの生活に生きがいを持てなかった彼女は一も二もなく渡米、NYの移民街であるブルックリンで下宿しつつ、デパート店員として働くようになる。
 しかし、知り合いも友人もいないNYでの生活は彼女を蝕んでいく。ついには寂しさが募ってホームシックにかかってしまう。
 見かねた神父は彼女に「簿記の勉強をやってみないか」とブルックリン・カレッジでの夜間コース受講をもちかける。簿記の資格を得て、姉と同じ事務職に就くという目標ができたエイリシュは徐々に元気を取り戻していき、やがてイタリア人の恋人トニー(エモリー・コーエン)もゲット。だが、なにもかも順調にいきかけていたところに、故郷から衝撃の報せがまいこむ。


視えるグリーン

 色の切り替わりが物語の切り替わりだ。
 『ブルックリン』は物語の進捗に応じて、舞台も移り変わっていく。
 一つ目(序盤)は、主人公エイリシュの生まれ育ったアイルランドの港街エニスコーシー。
 二つ目(中盤)は、エイリシュが移り住むこととなるニューヨークのブルックリン。
 三つ目(終盤)は、再びエニスコーシー。

 監督のジョン・クロウリーFilmmaker Magazine 誌のインタビューに答えて曰く、

 この映画は視覚的に三つの局面に分かれています。
 一つ目の局面はエイリシュがアイルランドを離れる前ですね。フレームは窮屈で、ワイドショットは一切使われていません。エイリシュの顔が重要なんです。
 私たちは(WWII)戦後のアイルランドについて調べました。当時撮られた写真から当時のアイルランドがどういう「色」だったかの知識を得たのです。
 画面を濁った感じにはしたくなかったので、茶色やくすんだ色彩をなるべく避けました。そこで、より緑をくわえるようにしたのです。
 この映画で最初にワイドショットが使用されるのは、エイリシュが旅立ちのために船に乗るシーンです。彼女の地平*2が開ける様子を、文字通り画面上の地平線で示しています。
 ここから色使いがもっと豊かになります。1952年のアメリカは黎明期にあったポップ・カルチャーの最先端でした。終盤でエイリシュの目に映るアイルランドは序盤のそれとは違って見えます。より明るく、カラフルに見えるのです。それは彼女自身と彼女の外見が変化したせいでもあるのでしょう。

第一幕:アイルランドアイルランド

 映画の序盤において、直接的に画面へ「緑をくわえ」ているのは主人公エイリシュの服装だ。
 映画の冒頭、明け方の街へと足を踏みだすファーストシーンから彼女は濃い緑色のダブルブレストコートを羽織っている。
 緑はアイルランドを象徴する色だ。縁起は約千六百年前、キリスト教の伝道師であったパトリキウスがアイルランド島民に対して三つ葉のシャムロック(クローバーなどの葉が三つに分かれた植物の総称)を用いて三位一体の概念を説いたことから、シャムロックが後に聖人パトリックとして讃えられる彼の象徴となり、ひいてはアイルランドの国花とされた。このシャムロックの緑がアイルランドの国の色として結び付けられて、現在世界中で祝われている「聖パトリックの日」のメインカラーとして「アイルランド=緑」のイメージを定着させた。
 そんな緑の国にあって、彼女は一貫して緑系統の服(あるいは暗いところでは緑に見えるエメラルドブルーのニット)を身にまとう。
 エイリシュの愛国心がそうさせるのだろうか? いや、違う。彼女は地元を、アイルランドという国に嫌気がさしている。勤め先の雑貨屋のオーナーは嫌みな因業ババアだし、恋に燃える親友と一緒にダンスパーティーに出てもなんとなく馴染めない。アイルランドに彼女の居場所はない。アイルランドの緑は彼女を囚える鬱屈の緑だ。積極的に嫌っているわけでもないが、ばくぜんと「このままではいけない」と考えている。
 ちなみにファーストルックが薄暗いシーンなので気づきにくいかもしれないが、雑貨屋の外観が緑色なのにも留意しておきたい。のちのち重要な意味を帯びてくる。


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 彼女は緑のコートをしっかりと閉じて、新天地アメリカへと旅立つ。
 その船中で新しい色に出会う。赤だ。三等客室で相部屋になったアメリカ帰りのブロンド美女ジョルジーナが真っ赤なコートとともに彼女の前に現れる。最初のうちは赤い女の押しのつよさに戸惑うものの、旅慣れた彼女のアドバイスに助けられて打ち解ける。
 到着直前、エイリシュは赤い女から入管に際しての助言をもらう。

「検査に備えて、あらかじめバッグを開けたままにしておきなさい。
 あんまり純朴そうに見え過ぎないように。口紅とマスカラを塗っておきましょう。ついでにアイライナーも。
 背筋をピンと伸ばして立ちなさい。靴もちゃんと磨いておくこと。絶対に咳だけはしないこと。*3無作法になっちゃダメ。厚かましくなってもダメ。あんまりビクつくのもダメ。
 自分をアメリカ人として考えるの(Think like an American.)。
 着いたら自分がどこに行くのか知っておきなさい。」


 そして*4、エイリシュは赤い女から「これをつけなさい」とストールを渡される。赤と白のストールだ。
 エイリシュは彼女の助言とストールを例の緑のコートの下に抱き、入管を見事パスする。審査官から「その青い扉へ進みなさい」と言われて、壁一面にさげられたアメリカ国旗のしたをくぐり、緑色の彼女の背中が扉の向こうの光へ吸い込まれていく。
 ストールの赤と白、扉の青。三色揃えば、言うまでもなく、アメリカ国旗の色だ。

第二幕:アメリカのアイルランド

 とはいえ、エイリシュは最初から赤と白と青の国になじんだわけではない。
 下宿先のかしましい同輩たちはキラキラしすぎて控えめな彼女にはとっつきづらいし、勤務先のデパートでも上手に接客できない。勤務の合間に立ち寄った定食屋では店員のあんちゃんから「俺が天国の門をくぐるときは、そのかわいいアイルランド訛りで呼ばれたいもんだね」とセクハラともナンパともつかない軽口を叩かれる。*5店員にとっては軽口でも、エイリシュにとっては刺さる一言だ。アイルランド訛りをバリバリのNYっ子からひやかされて、自分がまだ「Think like an American」に振る舞えていないことを認識せざるをえない。しかも、なお悪いことに、その定食屋は内装から外観まで緑色で統一されていて、彼女はデパートの制服の上に例の緑のコートを着ている。いやが上にも自分がアイルランドから逃れられないのだと思わされる。
 親友と優しい姉がいない孤独を感じるぶん、もしかしたらNYは故郷より悪いのかもしれない。こうなると故郷が懐かしい。

 定食屋のシーンの直後、彼女のもとに姉からの手紙が届く。家族の近況を報せつつ、妹の身を案じる、なんでもないような内容の手紙だが、これがそのなんでもなさゆえにエイリシュのホームシックにとどめをさす*6。心をこわしてしまった彼女は勤務中に泣き出してしまう。
 駆けつけた神父は「すべて私の責任だ。故郷を離れるということがどんなにきついか、忘れていたよ」と詫びてエイリシュに簿記の資格を取るための夜間コースを紹介する。
 「なぜですか?」と問うエイリシュに神父はこう答える。

神父:
 きみのように賢い子がアイルランドでちゃんとした仕事を見つけられないと知っておどろかされたんだ。
 私はアメリカに長く住みすぎた。
 アイルランドで生きるということがどういうことが忘れてしまったんだ(I forget what it’s like in Ireland.)
 だから、きみのお姉さんが手紙できみのことを知らせてきたとき、私は教会で手助けできるかもしれないと申し出たんだ。ともあれ、ブルックリンに住むアイルランド人の女の子が教会として必要でもあったしね。
 ホームシックは他の病気と変わらない。いつかは他の人に伝染って、自分はケロリと治るのさ。


 これもまたなにげないセリフであるけれども、「アイルランドで生きるということがどういうことが忘れてしまったんだ(I forget what it’s like in Ireland.)」というラインは終盤の極めて印象的な場面でリフレインされる。*7

 ともあれ、簿記のクラスは彼女にとって丁度いいきばらしとなる。

 もうひとつ、エイリシュにとって印象的な出来事が起こる。
 クリスマスの晩、教会の慈善活動として恵まれないアイルランド人労働者(というか失業者)たちにクリスマスディナーをふるまう催しに参加するのだが、そこで彼女は年老いたアイルランド人を大量に目にしてショックを受ける。

 エイリシュ:
  この人たちはみんなアイルランド人なんですか?

 神父:
  そうだとも。みんなアイルランド人さ。


 彼らもエイリシュとおなじようにアイルランドから渡米してきて肉体労働者としてニューヨークの建設ラッシュを支えたのだが、ひとたび摩天楼が完成してしまうと放り出されて浮浪者同然になってしまった。故郷であるアイルランドにも移民先のニューヨークにも行き場のない人々。エイリシュは彼らに自らの状況と心情を重ねる。*8
 一方で、苦節をおなじくする先輩たちの姿に触れたことで、彼女は「寂しいのは自分だけじゃないんだ」と逆説的に孤独ではないと知ったのではないか。あるいは、故郷を遠く離れたNYもまたアイルランドと地続きなのだと悟ったのか。
 いずれにしろ、クリスマス明けにはもう彼女のホームシックは完治している。
 目に鮮やかなクリームレモン*9のシャレた服装で街を闊歩する姿は、もういっぱしのニューヨーカーだ。*10

 そして、エイリシュは教会主催のダンスパーティでイタリア人の青年トニーと出会う。
 彼とひとしきり踊ったあと、下宿まで送ってもらうことに。このとき、彼女はジョルジーナを思わせる真っ赤なコートを着用している。これより先、あの緑のコートは退場し、いっさい姿を見せなくなる。孤独の孤独でなさを知り、恋を知った彼女のワードローブは一新され、それまでのおぼこい地味な服装とは様変わりして、ニューヨークで仕入れたとおぼしきコレクションを着て歩く。

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 本作の衣装デザイナー、オディール・ディックス=ミローの証言。

 エイリッシュの服装は、到着して間もない世界に溶け込んで自信を持って成長していく若い女性の物語を飲み込みやすくします。
 だから彼女のワードローブは、アイルランドに居たときのものとニューヨークに住んでからのものとで異なっているんです。このふたつはまったく別の世界ですからね。
 第二次大戦でヨーロッパは甚大な被害を被りましたが、NYは無傷でした。
 なので、エイリッシュがアメリカにいるときは、よりくっきりと力強く見えるように意識したんです。

http://www.instyle.com/reviews-coverage/movies/7-gorgeous-50s-outfits-look-when-you-watch-movie-brooklyn


 以降、トニーとデートを重ねていくが、彼女はいつも赤いコートを身につける。アメリカのコートを。

 しかし、トニーの家族を晩餐をともにした帰り道で彼女は白い地味な服に身を包んでいる。どういうことだろうか、こちらがいぶかしんでいると、トニーが別れ際に「きみを愛してる」と告げる。同じく彼を愛していてもどこかで躊躇ってしまう彼女*11は返事を保留してしまう。
 エイリシュはその夜、人生の先輩でもある下宿先の友人と結婚についての会話を交わしたことで背中を押され、翌日のデートで「わたしもあなたを愛している」と告げる。もちろん、赤いコートを着て。

 こうして大きな一歩を踏み出したカップルは、次なるステップとして海水浴デートに出かける。このときの彼女はエメラルドグリーンのカーディガンを着ているが、全体として占める面積では内に着込んだパールピンクのシャツと花柄のロングスカートの装いが印象的だ*12。さらには可愛らしいポーチをぶらさげた手にピンクのわたがしを持ち、目にはなんと派手なサングラス。すっかりアイルランドの緑をアメリカナイズしてしまっている。このファッションだけでももはやエイリシュが以前の彼女とは違う、自信に満ちた女性へ変化したことが伺える。ちなみに当時としては格段にセクシーな水着も緑色だ。

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 アメリカに溶け込み、恋人もできて、幸せ街道まっしぐらかに見えたエイリシュだったが、そんな矢先にとんでもない悲報がアイルランドからもたらされる。そしてその報せが、彼女の人生をおおきくゆさぶることとなる。




 ここから先は結末部を含む物語の重要なネタバレを含みます。



第三幕・アイルランドのアメリカ人

 エイリシュの姉が心臓の病で急逝した。
 激しく落ち込むエイリシュ。なにはともあれ葬式に参列するために、アイルランドへ帰国しなければならない。トニーはエイリシュを慰めながらも「きみが行ったままアメリカに帰ってこないかもしれないのがこわい」と吐露する。エイリシュは「もう自分に家(Home)があるのかもわからなくなっちゃった」と言う。エイリシュにとって自分をいつも気にかけてくれる姉こそが家の象徴だった。その姉を亡くすということは世界中のどこにも帰る場所がなくなってしまいことと同義だ。
 そんなエイリシュの心情を察したのかトニーは翌日、彼女をロングアイランドへ連れて行く。そこで購入したばかりの空き地を見せて「ここに一緒に住んで、店をやろう。結婚してくれ」とプロポーズ。新しい、自分たちの家をここにつくろうと言ってくれたのだ。エイリシュは申し出を諾う。このときのエイリシュの服装は涙をすべて吸い取ったようなペイルブルーで統一されている。
 ふたりは役所にでかけ結婚の手続きをすませる。しかし、この婚姻はまだお互いだけの秘密だ。
 このとき、エイリシュにとってのNYは単なる下宿先ではなくて、終の棲家と定まった。

 役所の場面から切り替わるともうアイルランドで、姉の葬式は終わっている。
 エイリシュは母を伴って教会から出てくるが、このときの彼女の装いは頭部こそ黒いセパレートのヴェールで覆っているものの、服はNYで買った派手なレモンイエローのシャツドレス。葬式にはどう考えても不釣り合いだが、これも「NYこそが私の家」と無言に主張したい彼女のアティテュードなのだろう。渡米前から懇意だったエイリシュの親友ナンシーはその姿を見るなり、「すいぶんセクシーになっちゃたじゃないの!」と賛嘆の声をあげる。
 彼女はNYから持ち帰ったワードローブを着続ける。今より情報の伝播が遅い時代、しかもアイルランドという保守的な土地ではNYの最新モードは他人からは好奇の対象だ。サングラス姿のエイリシュとすれ違った婦人は「なにあの格好?」と不審げに声をひそめる。

 とはいえ、『ブルックリン』は「都会帰りの女が出戻った田舎で嫉妬混じりのいじめを受ける」系の話ではない。一人の引っ込み思案な女性がまったくタイプの違う二人の男性の間でゆれうごく、ジェーン・オースティンやトマス・ハーディ風の古典的なロマンス劇だ。
 地元に戻って早々、エイリシュはナンシーから、ナンシーの婚約者の友人ジム(ドーナル・グリーソン)を紹介される。ジムは商店を親から継いだばかりの裕福な中産階級だ。NYの下町の移民労働者であるトニーとは対照的に、洗練された穏やかな人物として描かれている。最初は秘密とはいえ夫を持つ身ということで、ジムと彼女をくっつけようと勤しむナンシーのおせっかいをうとましく思っていたものの、亡くなった姉の話題(ジムの母親とエイリシュの姉がおなじゴルフクラブに所属していた)を通じてだんだん打ち解けていき、いつしか強く惹かれていく。
 一方で、亡くなった姉の後釜として、なし崩し的に事務員の仕事もひきうけて、期せずして渡米前には得られなかった「魅力的な恋人」と「相応の仕事」を一挙に手にしてしまう。生前の姉が妹のキャリアアップのためにNYの仕事を神父を通じて手配してくれたように、死後の姉の導きがエイリシュをアイルランドにとどまらせようとしたのだろうのか。*13
 「アイルランドに行く前にあなたに出会えたらよかったのに」とエイリシュは複雑な心境をジムに漏らし、姉の墓に花を供える表情も曇る。

 エイリシュとジムはナンシーと彼女の婚約とで連れ立って海水浴ダブルデートを行う。このときのエイリシュの服装は、トニーと海水浴デートに行ったときと同じサングラス+グリーンのカーディガン+花柄のスカート(と微妙に仕立てが異なるが同じく淡いピンクのシャツ)という出で立ちで、そのうえ水着までブルックリン時代と一緒。
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 渡米直後のときはアイルランドの緑色の忘れられなさが彼女のホームシックを引き起こしたわけだが、今度はNYのヴィヴィッドなファッションが彼女の後ろ髪をひく。本作において、常に「故郷(Home)」はワンテンポ遅れてやってきてエイリシュを引き裂く。
 彼女は夫のある身でありながら別の男性へ惹かれていくことによるトニーへの罪悪感と、夫がいることを隠しながら付き合いを続けてしまうジムへの罪悪感、その二重の重圧につぶされそうで、トニーから絶え間なく送られてくる手紙に返事を書くこともできない。

 それでもやはり物理的に近くにいる存在の方が強いのか、彼女はますますジムに接近していく。ジムの両親にも紹介され、エイリシュの母親もすっかりその気になっている。
 そしてついにダンスホール*14エイリシュはジムから求婚される。しかしエイリシュははっきりと返答できない。

 二つの愛に引き裂かれそうになるエイリシュ。しかしジムの求婚劇の直後、思いもよらぬところから刺客が舞い込んでくる。
 渡米以前に働いていた雑貨屋のオーナーから突然呼び出されるのだ。
 あの人とは切れたと思ったのに、と訝しみつつも雑貨屋までエイリシュは出向く。この時、はじめてまともに観客は雑貨屋の外観を目の当たりにするのだが、日中の店舗は思ったより緑のペンキが濃い。
 彼女はオーナーである老女の私室へと招じ入れられる。日光が窓からわずかにさしこむだけのうすぐらい室内。壁にかかげられた年代物の絵画やアンティークの調度品から、部屋自体が持ち主の老婆のようにここでずっと年月を重ねてきたことがうかがえる。窓際には鉢がいくつも並べられ、緑の植物が植わっている。
 エイリシュは老婆から緑のベルベットのソファーを薦められ、そこに腰をおろす。
 清新なパールホワイトのカーディガンを羽織るエイリシュに対し、老婆が袖を通しているカーディガンは緑色。緑色の店の緑色の古い部屋。
 ここはかつてエイリシュが倦んだアイルランドそのもののミニチュアだ。

 劇中でそれまでさりげなくばらまかれてきた断片が、一挙に寄せ集まって爆発するシーン。それをひとは「クライマックス」と呼ぶ。『ブルックリン』のクライマックスはこの静かな対決だ。

 老婆は雑貨屋の常連客のなかに、ブルックリン在住の親類を持つ人がいるという。
「世界っていうのは狭いものね、え?」
 そういえば、あなたジムとずいぶん仲がいいそうじゃないの。噂によると結婚するとか。でも――その常連さんによると、あなたもう結婚してるらしいじゃない?
 そして老婆は勝ち誇った顔で言う。「あなたが婚姻届を出すところを役所で見たそうよ。なんでも、イタリア系の苗字に変わったとか」
 エイリシュの表情が硬まる。たしかに、役所で結婚手続きするときにたまたま知りあった人の奥さんがアイルランド系で、エニスコーシーあたりの出身だと聞いた気はしたが。
「白を切るのはよして、ミス・ランシー*15。もっとも、今はどんな苗字か私は知らないけれど」
 エイリシュは言う。「忘れてたんです」

 老婆:
  忘れてたですって!? よくもまあ……

 エイリシュ:
  私はここがどんな町だったか、忘れていたんです。(I’d forgotten what this town is like.)
  それで、このあと貴方はどうなさるおつもりですか。
  ジムとの仲を裂きたい?
  アメリカに戻るのをやめさせたい?
  ……きっと貴方自身にもどうしたいのかわからないでしょうね。


 I’d forgotten what this town is like. というセリフは、ブルックリンでホームシックにかかったエイリシュを慰めた神父の「私はここに長く暮らしすぎた。アイルランドで生きるということがどういうことが忘れてしまったんだ(I forget what it’s like in Ireland.)」というセリフと共鳴する。
 故郷からあまり長く離れすぎてしまったがゆえに、彼女は故郷のクソさを、なぜここを離れたいと思っていたのかを忘れてしまった。それは、恋人やまともな仕事などでは償われない、もっと根深く、おそらくは名づけえない昏い感情だった。
 彼女にとってのアイルランドとは、まさに目の前に座っている業突く張りの老婆のような存在だったのだ。ただ目的も思想もなく、歴史と執着のみでもって若者の人生をからめとる濃緑の呪い。

 そしてエイリシュは思い出す。彼女の家はいまやアメリカに、ロングアイランドにある。彼女はそこで仕事を見つけ、恋人を見つけ、自分の人生を見つけたのだ。たとえ、「本物の幸せ」がジムとともにあるのかもしれなくとも、「家」はあそこだ。
 だから、エイリシュは泣きながらこう宣言する。
「私の名前は、エイリシュ・フィオレロです」
 そして彼女はものすごい勢いで店を出て、店の緑の扉を閉め、目を閉じる。大きく肩で息を継ぎながら激しく動悸する心臓を落ち着かせ、やがて閉じた目をゆっくりと開く。アイルランドとの別れを決意する。


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 彼女は実家に戻るや、母親に結婚の事実を告げ、ジムに置き手紙を残し、アメリカ行きの船に乗る。
 その船上で、アメリカに初めて行くのだという若い女性と出会う。初渡米時のエイリシュの引き写しのように純朴そうな若い女性に。

 女性:
  アメリカに移住しに行くんですか?

 エイリシュ:
  いいえ。

 女性:
  じゃあ、観光?

 エイリシュ:
  もとからアメリカに住んでるの。

 ブルックリンに住む予定だという女性は、傷心のエイリシュにブルックリンがどういった場所かを興味津々で訊ねる。

 女性:
  みんなが言うには、ブルックリンにはいっぱいアイルランド人がいて、まるで故郷(home)みたいなんだって! ホントですか?

 エイリシュ:
  そうね。まるで故郷みたいな場所よ。


 エイリシュは、かつて自分が赤い女ジョルジーナから教えてもらった船上でのサバイバル術と入管の心得を(神父から教えてもらったホームシック対処法も添えて)若い女性に伝授する。
「自分をアメリカ人として考えるの。(Think like an American.)」とアメリカ人になったエイリシュが言う。

「そうして、いつかは過去と何の繋がりもない誰かや何かについて考えるようになる。あなただけの誰かについて。そのとき、気づくの。ここにこそ、あなたの人生があるんだって」

ブルックリン、ニューヨーク

 『ブルックリン』は端的に言えば、女性視点から描いた移民物語、ということになるだろうか。
 最終的にエイリシュは過去=故郷=アイルランドと訣別し、同じく移民であるイタリア人の若者とともにアメリカ国民として、移民国家アメリカの二十世紀へと乗り出していく。
 彼女がなかば属していきつづけるであろうアイリッシュのコミュニティは、アイルランドとつながってはいてもアイルランドそのものではない。このへんの移民の繊細な機微が移民国家の外に住んでいるとわかりづらいところもあるけれど、田舎から都市へ出てきた人間が新しい土地と古い土地のあいだでいたばさみになる上京&帰郷物語として読めばある程度の普遍性はある*16し、実際日本ではそういう読まれ方をされるのだろう。

 まあ、とはいえ、『ブルックリン』は単純なストーリーのようでいていろいろな読み方ができる話だ。
 生まれついた土地などではなく、自分が心から「故郷」と信じられる場所をさがしもとめる魂のクエスト。
 常に後ろから追ってくる「故郷」、外での生活が長くなる内に思い出の糞な部分がそぎおとされてなんとなく美化されるノスタルジーの危険性、そういう過去からいかに逃れるかというエクソダス・ストーリー。
 いくぶん粗野だがワイルドで頼もしいピュアな肉体労働者タイプの男性と、洗練されたオトナな金持ちのあいだでふらふら恋のいたばさみに陥るロマンス。
 ぼんやりとした田舎娘が上京して自己を確立していく成長物語。
 心優しい姉の影に人生を導かれたり、ふりまわされたりする姉妹物語。


 ひとつ『ブルックリン』について確かなことが言えるととしたら、間違いなくシアーシャ・ローナンの映画である、ということでしょうか。



ブルックリン (エクス・リブリス)

ブルックリン (エクス・リブリス)

原作。映画パンフの訳者解説によれば続編(といってもエイリシュは出てこなそう)が近々出るとか。

*1:パンフレットによるとアイルランドは第二次大戦で中立の立場をとったせいでマーシャル・プランの恩恵を享受できなかったそう

*2:horizon には(人の)「視野」や「限界」という意味もある

*3:当時は入管で結核と見なされてしまったら強制送還の憂き目にあったため。ジェームズ・グレイ監督『エヴァの告白』にもそんなシーンが描かれている

*4:時系列的には上記の助言の前だが

*5:とはいえ、ここでエイリシュが発する「Could I have a bill, please?」の一言は本当にやばいくらい可憐なので、店員の気持ちはわからなくもない

*6:手紙を読んでいるあいだに挿入されるモンタージュが見事だ。横断歩道を渡るカットなのだが、色とりどり服装の群衆にあって濃い緑色のコートを着たエイリシュがやけに浮いている。コートの下に着ている薄いピンクのシャツにオレンジのジャケットならおそらくNYに”埋没"できるだろうに、彼女にまとわりつく緑色が境界となって同化を妨害しているのだ

*7:「an Irish girl in Brooklyn」が欲しかったと言う神父に対して、エイリシュが返す「できるならアイルランドに住むアイルランド人の女の子(an Irish girl in Ireland)でいたかった」というセリフも割に重要で、ここからブルックリンが彼女にとっての「故郷」になっていく

*8:ここで労働者の一人がゲール語で歌う印象的な場面があり、町山智浩の解説に詳しい。http://miyearnzzlabo.com/archives/37844

*9:黄色のシャツはこの映画は二種類登場する。胸元がV字に大きく開いたものと、首元でキュッとしまっているののふたつ。よく似ているが微妙に違う

*10:このシーンがどのあたりにくるか実は記憶が曖昧で、もしかしたら婚姻届を出した直後だったかもしれない

*11:古い体質のカトリックであるアイルランド人女性にとって結婚というのは後戻りのできない極めて重要な選択

*12:このコーディネートはもう一つの海水浴のシーン、そしてラストでも繰り返し登場する。カーディガンと花柄のスカートは同一だが、なかのシャツは同じような色合いでいて微妙にどれも違う

*13:余談だけれども、エイリシュの姉は仕事場に妹の写真を飾っていた。姉の死後、エイリシュが仕事を引き継ぐときにその写真立てを見つける。いいシーンだ。いいシーンですよね?

*14:ダンスホールは都合三度ほど本作で繰り返し使用される舞台だ。いずれも恋愛がらみ。一回目は序盤のアイルランドで、ナンシーが意中の男性とお近づきになり、エイリシュが孤独をおぼえるシーン。二回目はブルックリンのカトリック教会のダンスホールでトニーと出逢うシーン。そして三回目がアイルランドでジムに求婚されるこのシーン

*15:エイリシュの苗字

*16:ズートピア』でも田舎から都会に出てきたアニメスタッフのホームシック体験談が反映されているというインタビューを読んだ

モーテン・ストーム『イスラム過激派二重スパイ』

寒い国から暑い国へやってきた二重スパイ

 今こそあなたと私は、より政治的に敏感になり、何のための投票なのか; 票を投ずる時に何を得ることを支持するのか; はっきりと理解するときだ。そしてまた、もし我々が投票しないのならば、弾丸が撃たれなければならないような事態に陥るだろう。投票(バロット)か弾丸(ブレット)かどちらかだ。

 ――マルコムX*1

 投票(バロット)は我々を裏切ったことがあるが、銃弾(ブレット)は裏切らない。

 ――アンワル・アル=アウラ*2


 2015年に世界を震撼させたシャルリー・エブド襲撃事件。実行犯たちは同社での銃乱射後、逃走のために市民の車を強奪したさいにこう言い放ったという。

「この殺戮はアンワル・アル=アウラキの復讐だ」。

 アウラキはアメリカ生まれのイエメン人*3イスラム過激派で、ビン・ラディン死後に台頭してきた「アラビア半島のアル=カーイダ(AQAP)」の指導者的存在だった。
 父親はアメリカの大学で学びイエメン政府の大臣も務めたエリート、その息子であるアウラキも幼少期と大学時代をアメリカで過ごした(西洋的な意味での)インテリだ。しかしコロンビア大学在学中から過激派との関係を疑われ、FBIからもマークされていたらしい。2001年の9.11テロ事件では犯行前に実行犯と接触していたことから、米国内での行動を制限されるようになり、ワシントン大学での博士課程を中断して故国イエメンに戻った。帰国してからは大学で教鞭を取りつつ、気鋭の説教師として次世代の過激派での地位を着々と築いていった。
 デンマーク生まれの白人青年モーテン・ストームが、ラディカルなサラフィー主義*4イスラム教徒ムラド・ストームとしてアウラキと出会ったのはそんな折*5のことだった。
 五つ年上であるアウラキのカリスマ性に魅了されたモーテンはアウラキ主催の勉強会に熱心に参加するようになり、アウラキもまた暴走族上がりの変わり種改宗者に深い友愛の気持ちを抱く。

 その五年後、モーテンはCIAの二重スパイとしてアウラキ暗殺に深く関わることとなる。

イスラム過激派二重スパイ』は、デンマークの港町で生まれ育ったチンピラがいかにしてイスラム過激派に傾倒し、その中枢に入り込んで名を馳せ、やがて失望して諜報機関の二重スパイとして働くようになり、かつての師や友を葬り去ったか、その過程が克明に記された愛と裏切りのメモワールだ。

二重スパイの日常系

 断っておいたほうがいいと思うけれども、本書を読んでも「なぜヨーロッパ生まれの若者たちがイスラム過激派に参加するのか」だとか「テロの前線に立っている若者たちが何を考えているのか」だとかは、ポリティカルな事柄はあんまりわからない。ところどころ汲み取れそうな部分がないではないけれど、そういう興味を主眼として書かれた本ではない。
 モーテンが改宗した理由も「二十歳を超えて将来に不安を抱える無学な前科者が図書館でムハンマドについて書かれた本に出会って」という(もともとイスラム系の移民のワルガキたちとつるんでいたという文脈はあったとはいえ)突飛なものだし、棄教するくだりもいささか唐突の感はぬぐえない。特に後者はなにか著者の側でぼやかされているものがあるように思われる。

 本書はあくまで、イスラム過激派組織の指導者の側近として、あるいはヨーロッパとイエメンを股にかける二重スパイとしてのミクロな視点から捉えた日常のディテールを描いたものだ。
 モーテン自身は銃弾の飛び交う最前線で砲火を交えたり、テロを実行したりはしない。基本的にはヨーロッパで過激派をリクルートしたり、アウラキのために雑務をこなす仕事が中心だ。彼の視点からはあまり直接的にエグい光景は映されない。
 それでも全体としてはバレたら一発で即終了な緊迫したサスペンスであるはずなのだが、中盤まではどこかゆるく、節々で妙に笑えるシーンも多い。
 たとえば、モーテンを囲おうと接触してくる二大諜報機関、イギリスMI6とアメリカCIAの縄張り争い。彼等らは英米間のライバル意識からか唯一無二の情報源である彼を取り込もうと互いに接待合戦を繰り広げる。CIAのエージェントはモーテンに渡す報酬が詰まったトランクに番号錠をかけて、その暗証番号を「007」に設定するおちゃめさんだ。CIAの使い走りとして直接モーテンと交渉を持つデンマーク公安警察(PET)の一人はモーテンの作戦会議にかこつけてタイへ出張し、売春ツアーのご乱行。もちろん、国民の金で。
 アウラキ側の人間としても、日々ジハードに精励する一方、「パツキンの西洋人妻(三人目)が欲しい」と言い出したアウラキさんのためにフェイスブックで嫁探しを手伝ったり、それが成功すると今度は外に出られない新しい奥さんの買い物を代行したり。「洋酒風味のチョコレートってムスリム的に大丈夫なんですかね?」「不浄だよ不浄」
 「友人」たちが戦争や自爆テロでどんどん死んでいくので、当然のごとくモーテンも自爆テロに誘われて困ったり、なんて一幕も。
 スパイならではのガジェットも豊富だ。さすがに『007』みたいな突飛なものは出てこないけれども、打ち込んだテキストや撮影した写真が自動的にリアルタイムでサーバにアップロードされるPET特製 iPhone などはいかにも「現代」っぽいスパイアイテムで、地味なぶん、それっぽくもある。一方でCIAはやたらに盗聴器を仕込みたがるが、その仕掛けがしょぼいのでモーテンから呆れられてしまう。

 読んでるほうとしては愉快だけれども、現場のモーテンにしてみれば一瞬一瞬が緊張の連続だ。露見の恐怖や、テロリストとはいえ自分を信頼してくれる友人たちの殺害に加担する罪悪感から次第に精神を蝕まれていき、ついには薬物に手を染めてしまう。
 そんな彼の苦悩など意に介さず、諜報機関は容赦なくモーテンに対して無茶な要求を重ねる。

ヒューマン・ファクター

 モーテンの運命はアウラキ暗殺前後から急速にダークさをおびていく。それまではスパイ小説としては牧歌的にすぎる感のあったプロットが、一気に「面白く」なっていってしまう。
 彼が嵌まることになる罠はスパイの末路として古典的ですらある。
 スパイ小説と違うのは、これがノンフィクション、つまり現実である点だ。
 結果としては彼はイスラム過激派と諜報機関の双方に喧嘩を売る行動に出るわけだが、皮肉なことにテロ組織も諜報機関も政府もフィクション内で演じているほどに万能ではないようだ。
 二重スパイとしてマスコミの前に出てきてから四年、伝記を出版してから二年がたった現在でもモーテンは生きながらえている。

 www.cnn.co.jp


 ちなみに2014年に本書がアメリカで出版された当初は『ボーン』シリーズで知られるポール・グリーングラスが映画化する予定だったのだそうだが、続報を聞かない。たぶん頓挫したんだろう。

*1:https://ja.wikipedia.org/wiki/The_Ballot_or_the_Bullet

*2:本書 p.19

*3:したがってアメリカとの二重国籍

*4:wikipediaによると「現状改革の上で初期イスラムの時代(サラフ)を模範とし、それに回帰すべきであるとするイスラムスンナ派の思想」。基本的には穏健であるが、一部の過激派は「サラフィー・ジハード主義」と呼ばれ区別される。

*5:2006年