名馬であれば馬のうち

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モーテン・ストーム『イスラム過激派二重スパイ』

寒い国から暑い国へやってきた二重スパイ

 今こそあなたと私は、より政治的に敏感になり、何のための投票なのか; 票を投ずる時に何を得ることを支持するのか; はっきりと理解するときだ。そしてまた、もし我々が投票しないのならば、弾丸が撃たれなければならないような事態に陥るだろう。投票(バロット)か弾丸(ブレット)かどちらかだ。

 ――マルコムX*1

 投票(バロット)は我々を裏切ったことがあるが、銃弾(ブレット)は裏切らない。

 ――アンワル・アル=アウラ*2


 2015年に世界を震撼させたシャルリー・エブド襲撃事件。実行犯たちは同社での銃乱射後、逃走のために市民の車を強奪したさいにこう言い放ったという。

「この殺戮はアンワル・アル=アウラキの復讐だ」。

 アウラキはアメリカ生まれのイエメン人*3イスラム過激派で、ビン・ラディン死後に台頭してきた「アラビア半島のアル=カーイダ(AQAP)」の指導者的存在だった。
 父親はアメリカの大学で学びイエメン政府の大臣も務めたエリート、その息子であるアウラキも幼少期と大学時代をアメリカで過ごした(西洋的な意味での)インテリだ。しかしコロンビア大学在学中から過激派との関係を疑われ、FBIからもマークされていたらしい。2001年の9.11テロ事件では犯行前に実行犯と接触していたことから、米国内での行動を制限されるようになり、ワシントン大学での博士課程を中断して故国イエメンに戻った。帰国してからは大学で教鞭を取りつつ、気鋭の説教師として次世代の過激派での地位を着々と築いていった。
 デンマーク生まれの白人青年モーテン・ストームが、ラディカルなサラフィー主義*4イスラム教徒ムラド・ストームとしてアウラキと出会ったのはそんな折*5のことだった。
 五つ年上であるアウラキのカリスマ性に魅了されたモーテンはアウラキ主催の勉強会に熱心に参加するようになり、アウラキもまた暴走族上がりの変わり種改宗者に深い友愛の気持ちを抱く。

 その五年後、モーテンはCIAの二重スパイとしてアウラキ暗殺に深く関わることとなる。

イスラム過激派二重スパイ』は、デンマークの港町で生まれ育ったチンピラがいかにしてイスラム過激派に傾倒し、その中枢に入り込んで名を馳せ、やがて失望して諜報機関の二重スパイとして働くようになり、かつての師や友を葬り去ったか、その過程が克明に記された愛と裏切りのメモワールだ。

二重スパイの日常系

 断っておいたほうがいいと思うけれども、本書を読んでも「なぜヨーロッパ生まれの若者たちがイスラム過激派に参加するのか」だとか「テロの前線に立っている若者たちが何を考えているのか」だとかは、ポリティカルな事柄はあんまりわからない。ところどころ汲み取れそうな部分がないではないけれど、そういう興味を主眼として書かれた本ではない。
 モーテンが改宗した理由も「二十歳を超えて将来に不安を抱える無学な前科者が図書館でムハンマドについて書かれた本に出会って」という(もともとイスラム系の移民のワルガキたちとつるんでいたという文脈はあったとはいえ)突飛なものだし、棄教するくだりもいささか唐突の感はぬぐえない。特に後者はなにか著者の側でぼやかされているものがあるように思われる。

 本書はあくまで、イスラム過激派組織の指導者の側近として、あるいはヨーロッパとイエメンを股にかける二重スパイとしてのミクロな視点から捉えた日常のディテールを描いたものだ。
 モーテン自身は銃弾の飛び交う最前線で砲火を交えたり、テロを実行したりはしない。基本的にはヨーロッパで過激派をリクルートしたり、アウラキのために雑務をこなす仕事が中心だ。彼の視点からはあまり直接的にエグい光景は映されない。
 それでも全体としてはバレたら一発で即終了な緊迫したサスペンスであるはずなのだが、中盤まではどこかゆるく、節々で妙に笑えるシーンも多い。
 たとえば、モーテンを囲おうと接触してくる二大諜報機関、イギリスMI6とアメリカCIAの縄張り争い。彼等らは英米間のライバル意識からか唯一無二の情報源である彼を取り込もうと互いに接待合戦を繰り広げる。CIAのエージェントはモーテンに渡す報酬が詰まったトランクに番号錠をかけて、その暗証番号を「007」に設定するおちゃめさんだ。CIAの使い走りとして直接モーテンと交渉を持つデンマーク公安警察(PET)の一人はモーテンの作戦会議にかこつけてタイへ出張し、売春ツアーのご乱行。もちろん、国民の金で。
 アウラキ側の人間としても、日々ジハードに精励する一方、「パツキンの西洋人妻(三人目)が欲しい」と言い出したアウラキさんのためにフェイスブックで嫁探しを手伝ったり、それが成功すると今度は外に出られない新しい奥さんの買い物を代行したり。「洋酒風味のチョコレートってムスリム的に大丈夫なんですかね?」「不浄だよ不浄」
 「友人」たちが戦争や自爆テロでどんどん死んでいくので、当然のごとくモーテンも自爆テロに誘われて困ったり、なんて一幕も。
 スパイならではのガジェットも豊富だ。さすがに『007』みたいな突飛なものは出てこないけれども、打ち込んだテキストや撮影した写真が自動的にリアルタイムでサーバにアップロードされるPET特製 iPhone などはいかにも「現代」っぽいスパイアイテムで、地味なぶん、それっぽくもある。一方でCIAはやたらに盗聴器を仕込みたがるが、その仕掛けがしょぼいのでモーテンから呆れられてしまう。

 読んでるほうとしては愉快だけれども、現場のモーテンにしてみれば一瞬一瞬が緊張の連続だ。露見の恐怖や、テロリストとはいえ自分を信頼してくれる友人たちの殺害に加担する罪悪感から次第に精神を蝕まれていき、ついには薬物に手を染めてしまう。
 そんな彼の苦悩など意に介さず、諜報機関は容赦なくモーテンに対して無茶な要求を重ねる。

ヒューマン・ファクター

 モーテンの運命はアウラキ暗殺前後から急速にダークさをおびていく。それまではスパイ小説としては牧歌的にすぎる感のあったプロットが、一気に「面白く」なっていってしまう。
 彼が嵌まることになる罠はスパイの末路として古典的ですらある。
 スパイ小説と違うのは、これがノンフィクション、つまり現実である点だ。
 結果としては彼はイスラム過激派と諜報機関の双方に喧嘩を売る行動に出るわけだが、皮肉なことにテロ組織も諜報機関も政府もフィクション内で演じているほどに万能ではないようだ。
 二重スパイとしてマスコミの前に出てきてから四年、伝記を出版してから二年がたった現在でもモーテンは生きながらえている。

 www.cnn.co.jp


 ちなみに2014年に本書がアメリカで出版された当初は『ボーン』シリーズで知られるポール・グリーングラスが映画化する予定だったのだそうだが、続報を聞かない。たぶん頓挫したんだろう。

*1:https://ja.wikipedia.org/wiki/The_Ballot_or_the_Bullet

*2:本書 p.19

*3:したがってアメリカとの二重国籍

*4:wikipediaによると「現状改革の上で初期イスラムの時代(サラフ)を模範とし、それに回帰すべきであるとするイスラムスンナ派の思想」。基本的には穏健であるが、一部の過激派は「サラフィー・ジハード主義」と呼ばれ区別される。

*5:2006年