名馬であれば馬のうち

読書、映画、その他。


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イヌが殺される映画について

realsound.jp


 これ読んで、そういえば犬映画について考えをまとめとく機会を持っていなかったな、と思い出す。
 メモ代わりに軽く整理しておきたい。このエントリは性質上、映画の展開のネタバレを孕みます。


 最近の映画で「イヌが死ぬ話」といえば、『ジョン・ウィック』がまず挙がる。
 引退した伝説の殺し屋ジョン・ウィックは亡き妻が遺した仔犬をチンピラに虐殺され、復讐を決意。ロシアン・マフィアをまるごと敵に回して大立ち回りを繰り広げる。あまりに殺しまくるので敵から「たかがイヌのためになんでここまで……」と突っ込まれる。
 実のところ、チンピラが殺したのは「たかがイヌ」などではなく、「ジョン・ウィックの妻が遺したイヌ」であり、彼岸に旅だった妻(とその思い出)との架け橋となる存在だった。ともすればジョン・ウィックにとっては亡き妻そのものの象徴だったわけで、観客はそれをわかって観ているから「たかがイヌ」とはあなどらない。
 ここで見当はずれな疑問を呈することを許してもらいたい。:「では、『ジョン・ウィック』の物語はイヌ以外では成立しえたのか?」
 妻がジョンに遺したのがネコだったとして、ピラニアだったとして、ツチブタだったとして、観客は復讐に走るジョンに感情移入できただろうか?
 『ジョン・ウィック』の序盤では本当に簡素ではあるが、仔犬とジョンが日常生活を通じて交流を深めるシーンが描写されている。これがイヌ以外であったなら、妻を亡くしたことによる心の傷が癒されていくジョンの姿にあれほど心打たれただろうか?
 そう、『ジョン・ウィック』で殺されるべき動物はイヌでなければならなかった。ネコやツチブタでは亡妻とつながれなかった。なぜならイヌは映画において、人間の依代となるように描かれてきた文脈があるから。


 いかさま、映画におけるイヌの第一義とは人間の身代わりだ。
 身代わりと言ってもその形態は多用で、「友人としてのイヌ」というオーソドックスな役回りから、「(現在はいない)ある人の思い出のよすがとしてのイヌ」、そして文字通り「主人公の代わりに犠牲になるイヌ」までまあ色々いる。ここでは特に詳しくカテゴリ分けしない。
 で、漠然と挙げたこれらのうち、このエントリで扱うのは最後のタイプのイヌ、人間のスケープゴートとしてのイヌだ。

 映画の中で死ぬイヌは多い。劇中で動物が虐待を加えられているシーンの有無を調べることのできるウェブサイトDoes the Dog Die もサイト名を訳せば「イヌ、死んじゃうんですか?」で、映画におけるイヌのパブリック・イメージがよくわかる。暴力的な映画で善良な人物がイヌを伴って出てきたら、まずそのイヌは百二十分以内に何らかの逢難にみまわれるものと覚悟しておいたほうがいい。
 反面、ハリウッドの大作ムービーではなぜか「なんだかんだでイヌと子どもは殺しちゃダメ」という強い風潮というか暗黙のコードが共有されている。いちばんわかりやすいのは『アルマゲドン』の冒頭だろうか。制作予算の多寡で生き死にが左右されると思うとイヌも大変だなあ、とあわれをもよおしますね。
 まあ死ぬにせよ暴力に晒されるにせよ、直截的にそうしたシーンが描かれることはめったにない。『俺たちポリティシャン!』でウィル・フェレルがイヌ(『アーティスト』で脚光を浴びた俳優犬アギー)をドアップかつスローモーションで殴りつけるシーンを観た時はフェイクとわかっていたとはいえ、「え? これ、大丈夫なの? 怒られない?」とひとり勝手に冷や汗をかいた。『25時』でのスパイク・リーや、『ファニーゲーム』のハネケですらそこまではやらなかったのに!


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ライフ・アクアティック』より、「イヌに危害を加えるシーンは直截的に描かない」という不文律の例。*1



 それはさておきつ、スケープゴートとしてのイヌである。
 いまさら述べるまでもなく、イヌは有史以前から人類と偕老同穴の契りを結んできた特別な家畜だ。時代や地域によって扱いがピンキリだったネコ*2と異なり、イヌは一貫して人類の忠実なパートナーでありつづけた。イヌのほうも家畜化の過程でジェスチュアに関する認知能力を高めていき*3、飼い主と高いレベルでのコミュニケーションをとれるように進化していった。そうして人間にとって特に親密な家畜としての地位を築いたイヌは、いつからか飼い主たる人間を映す鏡として機能するようになった。川端康成の形容するところの「犬は人なり」*4というやつ。
 そういうイヌ-人の関係の歴程をふまえれば、今日のフィクションにおいてイヌが強い擬人化傾向をほどこされるようになったのも大した不思議に映らない。いくつかの映画において犬が人間と同等の役割を演じるようになった*5のは、ごく自然な流れだったわけだ。犬映画史を丹念に調べたことはないので断言はしかねるけれど、犬は映画のわりあい初期の段階から優れた俳優として重用されてきたのではないかと思われる。
 そうして、「頼れる相棒」としてのイヌたちが映画の陽の部分で活躍する*6一方で、陰の部分では薄暗い役割も押しつけられきた。暴力をふるわれたり、無残に殺されたり……。では、具体的に、どういった場面でイヌたちは人間の代わりに犠牲となるのか。
 例を指折り挙げていこう。
 トマス・ヴィンターベアの『偽りなき者』では、幼い少女を強姦した疑惑をかけられた主人公が居住する田舎の村で壮絶な村八分を受ける。村民たちは表立って襲いかかったりはしないものの、主人公を非難がましい目でみつめ、彼の生活を外縁からゆっくりじわじわとしめつけてくる。中盤、主人公の家の玄関に黒いゴミ袋が出現する。おそるおそる開けてみると、中に入っていたのは主人公の愛犬の変わり果てた姿だった。
 ミヒャエル・ハネケの『ファニー・ゲーム』では、サイコパスじみた謎の二人組により幸せな一家の団欒が破壊されるのだが、そのとき真っ先に殺されるのは一家の飼い犬である。
 ヒッチコックの名サスペンス『裏窓』では動けない探偵役である主人公の代わりに近所のイヌが重要なヒントを探りだす。このイヌがうろうろ嗅ぎまわっていた花壇で何者かによって惨殺されたことで、主人公と観客は花壇に何かがあるのだと推理する。
 ホラー映画のジャンルはイヌの屠殺場といってもいい。現代アメリカン・ホラーの旗手ジェイムズ・ワンが手がけた『死霊館』では、誰よりもまず主人公家族の飼い犬が犠牲となる。
 人間に飼われていなければ安心かといえばそうでもない。『フルートベール駅で』では野良犬が路上で轢かれて放置される。
 これらの映画に共通しているのは、イヌの死がやがて主人公に襲いかかるであろう受難の先触れとして描写されている点だ。たとえば『偽りなき者』では犬の死体はメタファーであると同時に、敵対者からの強烈なメッセージ(「お前もこんな目にあわせてやる」)でもある。悪意に対して真っ先に捧げられる供物としてのイヌをどう扱うによって、その後の人間の扱いも決まってくる。そして、犬が遭難するまさにその瞬間から物語はクライマックスに向けて加速していく。ホラー作品では特にこの傾向が顕著で、おそらく作り手のほとんどは犬を転調のための句読点くらいにしか考えてない。

 敵として描かれる場合はちょうど視点が逆転する。敵としてのイヌは、ラスボスにたどり着く過程における最初の中ボス的存在だ。
 典型例は番犬である。番犬とは戦闘的な警報装置のことで、鼻が利き気配にも敏感な彼らはひそやかに目的地へ潜入したい泥棒やスパイたちにとって厄介な障壁だ。『ファンタスティック Mr. Fox』でも鶏どろぼうを働くミスター・フォックスの前にビーグル犬が第一の敵として立ちはだかる。
 スナイパー映画『山猫は眠らない』では海兵隊のベテランであるベケット上級曹長が彼らを嗅ぎまわるイヌを回避するため、自分の身体にイヌの糞を塗りたくる。
 どちらも大した知恵ではないが、クライマックスに向けて高まるテンションを段階的に盛り上げる役目を果たしている。そして、彼らもまた、敵の人間の身代わりとして捧げられたイヌなのだ。
 レバノン内戦を経験したイスラエル兵士たちのドキュメンタリー『戦場でワルツを』の冒頭で描かれる監督アリ・フォルマンの同僚の夢――パレスチナの村を襲撃する際に「おまえは人間を殺せないから」と村内の犬の鏖殺を命じられた彼は、毎晩二十六匹の猛犬に追いかけられる悪夢にうなされる――が監督自身のドキュメンタリー制作のきっかけとなったのは、偶然以上の意味がある。
 ちなみにメタファーとしてではなく、マジに人間の代わりとして殺されるイヌもいる。『地獄の逃避行』で殺されるイヌは罪を犯した飼い主の代わりに罰せられる。*7


 まとむるに、イヌは動物俳優として異例ともいえるほどの厚遇を受け、ときに人間と同等の役割と人格を賦与されてきた。が、同時にイヌはやはりどこかで人間より若干落ちる存在であり、そのせいで「後に人間へ降りかかる受難を予告するもの」として酷い目にあったりする。そうしたイヌたちのことを、ここでは「スケープゴートとしてのイヌ」と呼ぶ。*8ここで何かしらの神話や民俗の引用など挿入するとカッコいいのだが、特に何もおもいつかない。

 イヌを死なせたままにするのは、飼い主が無力だからだ。愛犬が死んでとりあえず悲しいけれど、これから自らの身にふりかかる艱難辛苦やサイコキラーを思えばなんぼのもんでもない。こうしてイヌの死は舞台の後景へ退いていく。
 だがしかし。死なされた犬の飼い主が一定レベルの殺人術の持ち主であり、かつ殺した主体が明確に殺せる対象である場合、『ジョン・ウィック』や『極大射程』といった「イヌを酷い目に合わせたやつは死んでもいい」系の映画*9が爆誕する。人間未満の声なき嬰児としてイヌをあわれんで、マッチョな人間様が復讐を代行するのだ。*10そこにはまだ人間の犬に対する優越性、そんな傲慢が読み取れる。
 2015年最強のイヌ映画である『ホワイト・ゴッド』はそこから一歩進んで、イヌ自身の手(という牙)で酷い目にあわせた人間どもに対して復仇を果たす。『ホワイト・ゴッド』を観た政治的に意識の高い観客はおそらく擬人化度合い高めなイヌたちの造型について、ある種の反撥を抱く。が、『ホワイト・ゴッド』は単なる犬の反逆暴動映画ではない。あの映画は、そんな小さな作品ではない。ああした擬人化を行うことで「スケープゴートとしての犬」を形成してきたイヌの映画史に対するイヌたちによる壮大な反逆、それこそが『ホワイト・ゴッド』の本質だった。今はそう思います。たぶんね。



犬たちの肖像

犬たちの肖像

犬の文学史を知りたいならコレ。

*1:どうでもいいが、本作にかぎらずウェス・アンダーソン作品ではよくイヌが虐待される。『ファンタスティック Mr.Fox』では毒入りブドウを食べさせられ、『ザ・ロイヤル・テネンバウムズ』では車に轢かれて死に、『ムーンライズ・キングダム』では矢で射られて殺される。『ダージリン急行』では犬顔のエイドリアン・ブロディがいじめられているし、まあ似たようなもんだろう。『グランド・ブダペスト・ホテル』ではついにネコにまで手をのばしはじめる。盟友たるノア・バームバックも悪い影響を受けたのか『マーゴット・ウェディング』ではWアンダーソンの某作を想起させる酷な目にあわせている。もしかしてウェス・アンダーソン、犬が嫌いなんかな、と思っていたら次回作は「日本の話にインスパイアされた犬の映画」(忠犬ハチ公?)を撮るそうで、これまでの所業はむしろ愛がありあまった結果なんだろうなと推察される。

*2:特にドイツは酷い

*3:ブライアン・ヘア『あなたの犬は天才だ』

*4:「愛犬家作法」

*5:冒頭に挙げた記事をひくなら「ほとんど主演を張れるだけの器」

*6:『アーティスト』や『ウォレスとグルミット』など

*7:ちなみについでに脱線するが、スケープゴートの役割は別に犬の寡占物と決まっているわけではない。そもそもの語源が羊なのだし、他の動物が担当することも少なくない。たとえば、白雪姫の物語を翻案した『ブランカニエベス』。虐待されている主人公の少女は鶏を親友とたのむが、いじわるな継母に目をつけられたこの鶏はある晩、丸焼き姿で主人公の食卓に供される。少女はもちろん大きなショックを受け、絶望する。ともすればカートゥーン的ですらある描写だけれど、鶏のイメージに着目した秀抜な起用だと思う。

*8:よく考えたら「スケープゴート」の用法が微妙な気がするのですが、他に適当なアレも思いつかないので今回はさしあたってこれですませとこう。

*9:『キングスマン』も入るかな

*10:『ジョン・ウィック』の場合はほとんど奥さんの敵討ちだけど。