名馬であれば馬のうち

読書、映画、その他。


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犬映画探訪――『禁じられた遊び』、『マイライフ・アズ・ア・ドッグ』、『遊星からの物体X』

マイ・ドッグ・デイズ・イン・キョート

 なんの因果かわかりませんが、今現在京都では示しわせたように各映画館がイヌ映画の古典作を上映しています。
 京都シネマでは『禁じられた遊び』、河原町のMOVIXでは『遊星からの物体X』、二条のTOHOでは『マイライフ・・アズ・ア・ドッグ』。
 これはきっとイヌ映画を観ろ愚民どもという神からの徴にちがいありません。イヌ映画の神のな。

 というわけでこの三作の犬映画的なアングルについて軽く触れていきましょう。
 ばらばらに書いたものなのでそれぞれ関連性はとくにありません。

イヌの死とヒトの死が等価だった時代、それは――『禁じられた遊び』(ルネ・クレマン監督、1952年)


映画『禁じられた遊び』予告編


 冒頭、パリから逃れたポーレット一家三人が橋の上でドイツ軍の爆撃を受ける。
 爆撃機が上空を舞う最中、幼いポーレットは逃げ出した犬を追いかけて走り出し、両親も彼女を追いかける。そこに機関銃が掃射され、両親は死亡。ポーレットはピクピクと痙攣している犬*1を抱いて、ひとりで橋の上をさまよう。
 そこに荷車を引いた老夫婦が通りがかり、ポーレットを拾う。
 老夫婦のおばあさんはポーレットの抱いている犬を見て「もう死んでるじゃないか」と引き離し、橋を通る川へと勢いよく投げ捨てる。このときの犬の死体の「モノ」扱い感がすごい。
 犬を恋しがったポーレットは隙を見て老夫婦野元から脱けだし、川に流されていく犬の死骸を追い、拾い上げる。
 田舎の畑のほうではもうひとりの主人公である少年ミシェルが家族と一緒に野良仕事をしている。牛が逃げ出した*2ので林を流れる川縁まで追うと、そこでポーレットと出会う。
 ポーレットはミシェル一家で一時的に養われることに。橋の上で死んだ両親についてミシェルが訊ねると、ポーレットは「お母さんたちも川に投げ捨てられるの? 犬みたいに」とおびえる。ここでポーレットにとって犬は人間と価値的に大差ないことが示される。
 ポーレットは犬を埋葬しようとするが、途中で牧師の邪魔が入る。パリ育ちで宗教的な知識にぜんぜん通じていない*3ポーレットに対し、牧師は「ミシェルが詳しいから聞いてごらん」と促す。
 ミシェルは、死体を埋めることは知っていても埋葬行為自体の意味をよくわかっていないポーレットに墓というものの存在を教え、水車小屋で犬を埋葬する。ポーレットは「一匹だけだとあの世でさびしいから」と一緒に別の動物を埋めることを主張。ミシェルはとりあえず水車小屋に巣くっているフクロウから死んだモグラを取り上げて穴に放り込むが、ポーレットは「ネコとかも入れないと」と要求をエスカレートしていく。
 ミシェルはミシェルで墓には十字架を指すものだということで十字架を調達しようとする。最初は自作しようとするもうまくいかなかったのもあって、教会の墓地からくすねるようになる。墓の数は埋められる動物の種類のともにどんどん増えていく。


 ポーレットは幼く、命の価値に差をつけない。犬のために両親と自分を危険にさらしたこともいまいちわかっていない。両親が死んだことを理解しても、今度は「死んだ犬のように川へ乱暴へ投げ捨てられるのでは」とおそれる。
 その一方で、両親と犬という自分にとっての世界をいっぺんに喪失してしまったせいか、命が失われることに対して非常にセンシティブだ。ミシェルが戯れにゴキブリを潰す場面では「殺しちゃダメ」と憤激してうずくまり、ミシェルとの対話を徹底的に拒否しようとする。
 そのようなポーレットと、日常に根付く権威たるキリスト教にひそかな反発心を抱いているミシェルが手を組んだ結果、動物たちの墓の山が築かれ、その墓標が人間たちの墓からねこそぎ移しかえられてくる、といったグロテクスな事態が出来する。ポーレットは動物の死と人間の死が等価である世界を実現してしまったのだ。
 そして、実のところポーレットの風車小屋は第二次世界大戦という状況を正確に捉えたジオラマでもあった。爆撃機やロケットミサイルによって人も家畜も無差別に焼き殺される世界。それはたしかにあの時代、誰もが肌で感じた現実だったのだろう。


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少年がイヌになる話――『マイライフ・アズ・ア・ドッグ』(ラッセ・ハルストレム監督、1985年)


『マイライフ・アズ・ア・ドッグ 【HDマスター】』予告編.wmv


 めんどくさいのでここからですます調でいきます。
 現代イヌ映画を語る上ではずせない監督がスウェーデン出身のラッセ・ハルストレム。『ハチ公物語』のリメイク『HACHI 約束の犬』や『僕のワンダフル・ライフ』など犬視点の映画をハリウッドでものにしてきたイヌ映画の巨匠ですね。
マイライフ・アズ・ア・ドッグ』はそんなハルストレムの出世作です。ゴールデングローブ賞外国語映画賞を獲得し、オスカーでも監督賞にノミネート*4され、彼のハリウッド進出への足がかりとなりました。


 本作をイヌ映画という観点でみた場合、イヌ登場シーンの少なさにおどろかされます。にもかかわらず、モチーフとして、あるいは主人公の感情移入先として常に物語に影を落とし、観客の印象にまとわりつく。「人間のメタファーとしてのイヌ」に意識的な作品といえるでしょう。
 冒頭*5は夜空に映る無数の星々のシーンで始まります*6
 その夜空にヴォイスオーヴァーで主人公であるイングマルの声がかぶさり、

「かわいそうな死に方をしたひとたちのことを想う。
 たとえば、ボストンで肝臓の移植手術をした男のひとのこと。色んな新聞に彼のなまえが載ったけれど、結局それは死んだからだった。
 宇宙にいった犬、ライカはどうだろう? ロシア人はスプートニクに彼女を乗せ、宇宙へ飛ばした。心臓や脳に電極をつけて、彼女の感情を計った。ライカの気分が良かったはずはない。
 ライカは五ヶ月も地球を周回したあと、飢えて死んだ。こんなふうに、ものごとを比べるのは大事なことだ」

 まさに「これから、イヌと人間を並列に語りますよ」という宣言で行われます。そして、その宣言の通り、本作は少年がイヌになるお話として進んでいくのです。


 舞台は1950年代終盤のスウェーデン。イングマル少年は兄と結核をわずらった母親、そして一匹のボーダー・テリアと暮らしています。
 母親の身体が衰弱していくのに反比例するかのようにやんちゃの度をましていく兄弟を見かね、かかりつけの医者は兄弟を一時的に田舎へ隔離して母親に療養するよう仕立てます。
 イングマルはいつも一緒だったイヌも連れて行きたいと主張しますが、容れられず、林間学校へ行った兄とも別れ、ひとりで叔父夫婦の家へと向かいます。
 その途上の列車で彼は再びライカについて思いを馳せます。

「かわいそうなライカのことを考えると気が滅入る。十分な食べものも与えられずに宇宙に飛ばされるのはおそろしい。
 ライカは人類の進歩のために宇宙へ行かされた。彼女は行きたいだなんて頼まなかったのに」

 このときもヴォイスオーヴァーが使われますが、重ねられる画は画面の右斜め下から左斜め上へと走行する機関車です。その黒くて細長なボディが「上昇」していくさまは、あきらかにロケットがイメージされています。
 そのなかで自らの意志に反して母性=母星から離されて旅する孤独なライカはイングマル少年、というわけです。

 そうして三幕構成の二幕目と舞台は移っていくのですが、少年と切り離された愛犬はこれ以降回想を除いてまったく登場しません。少年が母の待つ実家へと帰ってからも姿を見せないのです。
 代わりにイングマルがどんどんイヌになっていく。彼は逗留先の田舎*7で、縦横無尽に鼻を利かせ、男勝りな少女サガや叔父夫婦の社宅の一階に住む死にかけた老人や村のセックスシンボルとなっている美女や彼女に対する叔父の視線などの「秘密」を本能的にかぎつけて、意図するしないに関係なく迫っていきます。
 友達も大勢でき、村に溶け込んで、一見うまくやっているイングマル少年ですが、しかし、そこには母親への思慕がついてまわる。電話で村で起こったことの報告をながながしたり、実家にいたころの母との記憶をしきりに回想したりします。
 衛星軌道上にあって地上のことを想うライカのように、彼の心は本質的にはさびしさに満ちていたのです。
 病床の母親との回想のシーンでは、イングマルは常に愛犬と共にあります。読書に耽る母のベッドの下にイヌといっしょにもぐり込み、たわむれる。イヌの目線でイヌのようにはしゃぐエネルギッシュなイングマルは、読書を好む病弱な母親との対比になっています。精力旺盛なイヌであるイングマルは母親と遊んでもらいたがるわけですが、彼女にはそれがかなわない。むしろやかましく動く子どもにうんざりする。そのかなしい断絶がラスト付近でのイングマルのエモーションを爆発させる遠因となるのです。

 季節はうつろい、イングマルにもようやく実家に戻る時期がやってきます。彼はさっそく*8愛犬について尋ねますが、どうもあいまいな返事しか返ってこない。
 そうこうしているうちに母親の病状が悪化し、入院生活のすえ亡くなってしまいます。
 事実上のみなしごとなったイングマルはふたたび叔父夫婦の家へと預けられます。が、元気だった前回とは打って変わってふさぎこんだ挙げ句脱走し、叔父に「愛犬について預かり所へ問い合わせる」という条件と引き替えに叔父夫婦の家へと戻ります。 
 ところが翌日、叔父に「犬はどうなったのか」と訊いてもまともに答えてくれない。
 もやもやしているうちにイングマルは彼をめぐるサガともう一人のクラスメイトの女子との恋のさやあてに巻き込まれます。いがみあう女の子のあいだで最初はうろたえていた彼でしたが、突然なにを思ったのか、四つん這いになってわんわん吠え、イヌの物まねをやりだします。
 そのままサガとボクシング対決をする流れになったイングマルは、ふっきれたようにイヌの物まねを続け、実力的には優位に立つサガを翻弄します。
 が、イヌ戦法にいらだったサガは「あんたのイヌは死んだんだよ。知らなかったの?」とつい残酷な真実*9をつきつけます。
 それを聞いて逆上したイングマルはサガに対してがむしゃらに殴りかかりますが、勢いあまってリングのあった納屋の二階から落下し、昏倒します。
 そこでまたライカのことを思い出すのです。

「比べることは大事だ。ライカのようなイヌのことだけを考えろ。彼らは最初から知っていたんだ。ライカが二度と地上に戻ってこない、と。
 彼女が死ぬと知っていた。
 彼女を殺したんだ」

 そこで言及されているのは哀れなライカについての扱いであると同時に、自分の愛犬の、そして自分自身のことでもあります。
 母と愛犬を喪い、兄と別れ、幼年期の世界と完全に切り離されてしまったイングマル少年。
 意識を取り戻した彼は叔父の建てたあずま屋に立てこもり、一晩じゅう泣き明かします。
 翌朝やってきた叔父が「すまなかった、おまえに犬の死を伝えることがどうしてもできなかったんだ」と声をかけると、イングマルは「僕が彼女を殺したんじゃない」と独り言のように繰り返します。
 叔父があわてて「そうだとも、おまえじゃない」と言うと、イングマルは「なんで僕を求めてくれなかったの、ママ。どうして」と嘆くのです。
 ここにおいて、「殺してしまったかもしれない彼女」は三つの対象を指しています。
 ひとつは母親。 
 もうひとつは愛犬*10
 そして三つ目はライカ
 どれも自分自身とは不可分の対象であり、それらを無力に喪失した後悔を乗り越えて、少年は大人になっていくのです*11。イヌとして生きた幼年期に別れを告げて。

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イヌ映画のストラテジー――『遊星からの物体X』(ジョン・カーペンター監督、1982年)


The Thing - John Carpenters Original Trailer


 ジョン・W・キャンベルのSF短編「影が行く」の二度目の映画化となる『遊星からの物体X』はイヌ映画におけるテクニカルな作劇の見本ともいうべき一作です。
 まずはじまりが南極のまっさらな大地を疾走する一匹のハスキー犬*12。この画だけでも感動的です。そして、その後を追うように現れたヘリコプターから、なぜかハスキーに向けて何発もの発砲がなされます。
 なぜ、ヘリコプターの人間たち(ノルウェー南極観測隊)はいたいけなイヌを執念深く撃ち殺そうとするのか? 観客における謎への当惑が画の強烈さもあいまって、やがて興味へと変わることでしょう。
 ハスキーはやがてアメリカの観測隊が駐留している基地へとたどり着き、彼らに保護されます。ちなみにハスキーを追ってきたノルウェー人たちは射殺。イヌを殺そうとしたものの当然の末路でです。よかったね。
 しかし、このハスキーはもちろん招いてはいけない客でした。しばらく基地内をうろうろしたのち、邪魔だというので檻に放り込まれたイヌでしたが、なんとその夜、ほかのイヌたちがおびえながら見守るなか、異形の姿へと変貌します。
 そう、このハスキーは宇宙から飛来してきた恐るべき寄生生物が宿ったモンスターイヌだったのです。寄生生物はより高度な知性体への寄生をめざし、その毒牙を観測隊員たちへと向けます。


 本作でイヌが登場するのは序盤であるこのくだりまでです。しかしすでに十二分に役割を果たしている。
 まずホラー映画の象徴として。
 ホラー映画にはさまざまなパターンが存在します。そのうちのひとつが「イヌはまっさきに死ぬ」。
 人間たちに凶事がおそいかかるときの先触れとして、その忠実なパートナーであるイヌがいのいちばんに生け贄にささげられます。イヌの無惨な死骸を見た人間たちはなにやらただならぬ事態が進行していることを悟ったり悟らなかったりします。
 いわば、「炭鉱のカナリア」としてのイヌの死とでも呼びましょうか。

proxia.hateblo.jp


 そうした意味で『遊星からの物体X』において「最初の犠牲者」としてイヌが登場するのは実にパターンにかなっています。
 しかし、定型をなぞるだけでおわらないのがジャンルムーヴィー中の傑作として称えられるゆえんです。本作ではもうひとひねりが加えられます。

 すなわち、物語的なテーマに説得力を加える存在として。

 本作の最大のキモは人間同士の相互不信。寄生生物は宿主の外見を完全コピーできてしまう。それがゆえの「ガワや言動がそれっぽくても中身はわかったもんじゃない」という不安にもとづく隊員間の(そして観客の)疑心暗鬼です。
 そこに当時の社会情勢なりなんなりの読み込みも可能でしょうが、今日はそんなことはどうでもいい。


 まっさきに寄生されて正体をあらわにするのがイヌ、という事実がストーリーテリング的に重要なのです。
 くりかえしますがイヌは人間のパートナーです。もっとも重要な、永遠の友達といってもいいでしょう。何千年にもわたって馴らされてきたイヌという種が、人間をうらぎるなど誰にも考えられない。
 その悪夢が本作では具現化するのです。あんなにも従順だったイヌの正体が実は人類をほろぼす寄生生物だった、というショック。
 イヌでさえわれわれを裏切る世界で、いったいなにを信じろというのでしょう。いわんや、人間など。
 そう。「忠実」や「信頼」を表象する存在であるイヌが最初に寄生されるからこそ、効果的なのです。これから展開される人狼ゲームを、「信頼」というキーワードをよりきわだたせるのです。
 これこそ『遊星からの物体X』におけるイヌづかいの卓抜さでしょう。「最初に死ぬイヌ」にビジュアル的な印象だけではなく、二重三重ののたくらみをめぐらす。なみのイヌ映画にできることではありません。

 もちろん、イヌの演出自体も見事です。
 寄生されたハスキー犬の何かの確信を湛えたりりしさ目つきとたたずまいは、あきらかにイヌでもヒトでもない知性を感じさせます。
 基地に潜り込んだあとに隊員の部屋に近づく廊下のカットも、動きのタイミングだけで不穏さを見事に切り取っていてうつくしい。
 寄生ハスキーが檻の中で怪物に変化していくシーンに至ってはまさに白眉。慣れ親しんだイヌがイヌでないものになっていくグロテクスさ、くらがりでぎゃんぎゃん吠えまくる周囲のイヌたち、なんとかその場から脱出しようと檻の網を食い破ろうとする一頭イヌ映画史に残る名シークエンスです。


*1:撮影のときにクスリでも飲ませたのか?

*2:あんなにやたらめっぽう疾走する牛はなかなか映画ではおめにかかれない

*3:十字架にかけられている人物が誰なのかも知らないレベル

*4:外国語映画で監督賞にノミネートされた監督は意外に多いが、スウェーデン人に限れば83年のベルイマン(『ファニーとアレクサンデル』)以来四年ぶり三人目。ちなみに99年に『サイダーハウス・ルール』でハルストレムが二度目のノミニーとなって以降、スウェーデン人映画監督が監督賞にノミネートされた例は英語・スウェーデン語通じて皆無。

*5:母親との浜辺での美しい記憶のファーストカットの後

*6:地球から見あげた宇宙。宇宙から見下ろした地球のカットからはじまる『遊星からの物体X』とは逆。

*7:スウェーデン南部スモーランドにある小さな村という設定

*8:預かり所に預かってもらっていると思っている

*9:聡明なサガであったからこそ叔父の態度から見抜けたことであったという一方で、イングマルも薄々かんづいていたであろう

*10:名前はシッカン。スウェーデンでは男女ともに用いられるファーストネームらしいですが、監督の念頭にあったのはスウェーデンの往年の女優シッカン・カールソンだったでしょうか

*11:本編に横溢する性的なイメージは成長を描くためのひとつの補助線でしょう

*12:ファーストカットは前述したとおり、宇宙からみた地球。その地球にUFOが墜落していくカット

I KILL GIANTS ――『バーバラと心の巨人』

 ピュアな魂があまりにもハードすぎる現実に耐えきれず、膜を隔てて世界と接することがある。『ベイビー・ドライバー』の場合、その膜とは音楽だった。そして、『バーバラと心の巨人』では巨人(ジャイアンツ)*1だった。



映画『バーバラと心の巨人』予告編



 ロングアイランド*2の浜辺に近いボロ家に姉兄らと住む少女バーバラ(マディソン・ウルフ)は、日々攻めよせる巨人から街を守っている。だが、他人の目から見れば完全に変人だ

 うさぎの耳を模したカチューシャをつけ、「コヴェルスキ」という昔のプロ野球選手の名前をつけたポシェットを携行し、呪術めいた奇行に走るバーバラは、学校でも浮いた存在でいじめっ子に目をつけられていた。*3

 そんな彼女もある日イギリスから転校してきたクラスメイト(シドニー・ウェイド)と接近し、「巨人」の何たるかについてレクチャーするほど仲良しになる。

 一方、学校の新任心理カウンセラー(ゾーイ・サルダナ)は素行と家庭に難しい事情*4を抱えたバーバラを心配し、対話しようと試みる。しかしバーバラはカウンセリングを拒む。

 特に家族の話題を出したときのバーバラの反応は頑なだ。バーバラは「巨人」とそれをとりまく世界観に生きているが、その膜を切り裂いてバーバラを傷つける話題が「家族」だ。

 そこのあたりが端的に表れているのが事実上の家長として一家を支える姉(イモージェン・プーツ)と手人形で会話するシーン。架空のキャラクターの口を通じて普段はギスギスしている姉となごやかにやりとりするのだが、姉がふと「私ももっと妹と向き合うべきかしらね」とつぶやくと、途端に人形を引っ込め気まずく沈黙する。「家族」がバーバラを剥き出しの現実に引き戻す。


 一体「家族」のなにが彼女はそこまで追い詰めているのか、というのが本編の興味を牽引するメインの謎だ。

 バーバラの「巨人」は周囲のひとびとから空想と見なされ、映画の物語もあたかも現実逃避に走る少女を友人やカウンセラーを通じて社会化していくかのように展開される。

 転校生の少女は常に黄色のコートを羽織っているが、これはバーバラが常用しているワインレッドのパーカーとの対比であるとともに、劇中で頻繁にスクールバスの黄色と重ねあわされる。つまり、転校生はバーバラにとって学校=健全な社会への媒介だ。


 ところが、そうした見方だけでは取りこぼされる面もある。

 空想癖は現実から逃避する手段である、そういう観念がとかく抱かれがちだ。事実、「現実の苦痛から逃避するためのマジカルでリアルな空想」を描いた映画作品はヴァリエーションまで含めると枚挙にいとまない。*5

 しかしバーバラの「巨人殺し」はストーリーは逃避のみに徹しているわけではない。

 冒頭におけるバーバラのパンチラインを思い出していただきたい。

「私は巨人を見つける。巨人を狩る。そして、殺す。(I find giants I hunt giants. I kill giants.)」

 バーバラは自らを「戦士」と認じ、「巨人」を捕捉するための罠を日々試験し、巨人を倒すために呪文を張り巡らせている。必殺の武器はポシェットに秘めた巨大ハンマーだ。引きこもるために作り出すストーリーとしてはかなりアグレッシブであるといえる。

 バーバラにとり、「巨人殺し」は生の現実に向き合うためのプロセスの一部だ。
 個人的には自己セラピーと形容したくはない。バーバラにとって「巨人」は明らかに現実であり、そして世界だ。*6 *7
 ラストシーンにも描かれているように、彼女は「巨人」がいたからこそ、自らと戦えた。空想は弱さの現れかもしれないが、同時に強さを与えてくれる道具でもある。
 あるいは想像力が本来はバラバラに独立している身の回りの物事を統合し、意味のある物語に整えるからこそみな日々をギリギリに生きられるのであって、そう考えれば本作は誰しもが持っている正気についての物語なのかもしれない。



I KILL GIANTS (IKKI COMIX)

I KILL GIANTS (IKKI COMIX)

 ずいぶんひさしぶりに読み直したけど、コミック版はバーバラ視点でのマジックリアリズム的世界のディテールが豊富で、映画版はそこを削った分、姉を中心とした家族の話に注力した印象。

*1:大枠は北欧神話のそれに則っている。共同原作者のケン・ニイムラ曰く『ワンダと巨像』や『千と千尋の神隠し』に影響を受けたそう。http://collider.com/i-kill-giants-movie-interview-joe-kelly-ken-niimura/

*2:共同原作者で脚本も務めるジョー・ケリーの実家がある場所。「変化の象徴としての水辺」の意味合いも込められているらしい。ちなみに実際の撮影場所はダブリンやベルギーだったとか。https://nofilmschool.com/2018/03/i-kill-giants-screenwriter-joe-kelly

*3:いじめっ子がバーバラを袋叩きにするシーンは割と真正面から物理的に暴力的で、女の子同士がいじめが描かれる映画としては珍しい描写な気がする

*4:コミック版では終盤までかなり強引に隠匿されるが、映画版ではかなり早い段階で見抜けるように作られている。

*5:最近だとテーマ的に非常によく似た作品にJ・A・バヨナ監督『怪物はささやく』がある。原作の出版も『I KILL GIANTS』とほぼ同時期。

*6:コミック版では巨人と人間の質感がフラットだったために現実と非現実の境目がより曖昧であり、巨人以外にも妖精などのファンタジーキャラが登場するためよりマジックリアリズム感が強い。一方映画ではバーバラのネガティブな神経質さが強調され、巨人がCGで描かれるため、逃避癖的空想感が強くなってしまっている

*7:さらにいえば、監督のアンダース・ウォルターは「状況に伴う苦痛を緩和するためのイマジナリな世界やファンタジー」に興味があると述べている。すくなくとも彼自身は空想の逃避的な面を描きたいようだ。https://www.filminquiry.com/interview-anders-walter/

インディーゲームと映画の(雑な)関係――Disasterpeace、デイヴィッド・オライリー、アナプルナ

 例によって動画リンクが多いので重いですが。

デイヴィッド・ロバート・ミッチェルと Disasterpeace


『イット・フォローズ』監督の新作『アンダー・ザ・シルバーレイク』日本版予告編



 めずらしく音楽ネタから入ります(『ザ・プレデター』で『don't starve』が出てきてたよね、という話からはじめるつもりが記事を書いたときにすっかり忘れてた)。


アンダー・ザ・シルバーレイク』が日本公開される時期となりました。はやいな。アメリカ映画なのに、なんと全米公開より早い。
 それもそのはずで、監督のデイヴィッド・ロバート・ミッチェルは前作の『イット・フォローズ』で日米ともに一躍名を売った期待の新鋭。次代のタレントということで、日本の配給会社も気合が違うわけです。
 『イット・フォローズ』は実にいろんな褒めかたができる作品でした。
 わけても印象的だった部分として「劇伴音楽」をあげる人も多いんじゃないでしょうか。

 そんな『イット・フォローズ』のサントラを作曲し、今回の『アンダー・ザ・シルバーレイク』で監督と二度目のタッグを組むのが Disasterpeace。
 『イット・フォローズ』のとき、一部界隈はこの名前を見て震撼しました。あの Disasterpeace が、と。


 どの界隈が?


 インディーゲーム好き界隈です。


 元々インディーゲームの作曲家として有名な人です。その制作経緯含めて*1伝説となったプラットフォームアクションゲーム『FEZ』(めっちゃすき)において評価を確立したのち、


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 これまた世界的な話題を呼んだパズルゲーム『mini metro』(めっちゃすき)、


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 そしてリリース自体は『イット・フォローズ』日本公開より微妙に遅れますがアクションRPG『Hyper Light Drifter』(めっちゃすき)、


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 いずれもその年を代表するアウォード・ウィナー的名作インディーゲームの作曲を務めた、いわばインディーゲーム界のアレクサンドル・デプラとも呼べる存在なのです。


越境するインディー系短編アニメーション作家たち

 そして、ここ最近のシーンを観察するに、どうもインディーゲームで見た名前が映画に関わっていたり、映画で見たクリエイターがインディーゲームを作っていたりすることが妙に多い。
 ゲームと映画は元々つながりの深い業界同士ですから、単に私がここ二三年でインディーゲームに触れるようになった影響で個人的に視野が広がっただけ、ともいえなくもないかもしれません。
 が、それにしても、「そこを出してくるか」というラインを目にする機会が多くなってきている。


 代表的なところで言えば、3D短編アニメーションの若き巨匠デイヴィッド・オライリー
 メジャーどころの仕事だとスパイク・ジョーンズ監督『Her/世界にひとつだけの彼女』の作中内でホアキン・フェニックスが遊んでいるゲームのアニメーションや、『アドベンチャー・タイム』のゲスト監督回(「コワレタセカイ」)などがあります。 *2『Her』にちょっと噛んだだけの人物を映画人として上げるのはどうなんだ、というご意見もあるでしょうが、今回はそういう流れなので我慢して聞いてください。

 もともとはローファイなポリゴンを使用したシュールでスラップスティックな、しかしどこか切なさをはらんだ作風の短編アニメで注目を浴びていた作家です。


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 彼は2010年に集大成的な作品*3『THE EXTERNAL WORLD』を公開したのち、上記の商業作品ゲスト参加以外はオリジナルのアニメプロジェクトをやっていなかったのですが、では何を作っていたかといえば、ゲームです。


 山になる(そして山でいる他はほぼ何もできない)ゲーム『Mountain』


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 原子から銀河まであらゆる「もの」に変化していく『Everything』


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 といった野心的なゲー……ゲームかなあーー??? これ??? 的なゲームを発表し、プレイヤーの度肝を抜きまくりました。
インタビューによるとノンリニアな物語を描き出せることにゲーム制作の魅力を感じているそうで、やはりストーリーテリングのヴァリエーションのあり方として接近したと思しい。
 彼に限らず短編アニメーション作家がインディーゲームに参入してくる例は増えてきておりまして(『Plug & Play』、『Night in the Woods』)で、作家的な個性を発揮する場としてインディーゲームという場は魅力的なのでしょう。


 余談になりますが、オライリーといえばインディーアニメーション評論家・プロデューサーの土居伸彰の『21世紀のアニメーションがわかる本』でも触れられていますが、彼を紹介した土居先生自身も審査員として関わっている映画祭でインディーゲーム特集を開いたり、ゲーム製作にかかわられたりもされているようで、これも「流れ」っぽいかんじがする。

 

アナプルナの野望〜インディーゲーム編〜

 そして近年におけるインディーゲームと映画のクロスオーバーでもっとも見逃せないのが、アナプルナの暗躍です。
 オラクル創業者の娘でウルトラ金持ちのミーガン・エリソンが2011年に設立するや、毎年のようにアカデミー賞ノミネート作品を送り出している映画製作会社アナプルナ・ピクチャーズ。
 そのアナプルナが母体となって2016年にできたのがゲームパブリッシャー、アナプルナ・インタラクティブ(Annapurna Interactive)です。
 インディー的な感性の映画を豊潤な資金力で多数製作しハリウッドのアナプルナの名に恥じず、創立以来、優秀なゲーム開発者・スタジオを援助してはいい意味で珍奇な作品群を商業ラインに乗せ、映画方面とおなじく批評的な大成功をおさめています。
 
 その最良の収穫が、『フィンチ家の奇妙な屋敷でおきたこと(What Remains of Edith Finch)』。
 
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 とある若い女性が幼少期を過ごした実家に舞い戻り、不可思議な死を次々と遂げていった自分の一族の謎を追体験するアドベンチャーゲームで、その卓抜したストーリーテリングによりゲーム・アワードを始めとして数々の賞を受賞。各種批評紙の評点を集計した metacrtic のスコアも異例の90点超えと昨年度でも最も注目されたインディーゲームです。わたしもだいすき。
 

 『フィンチ家』はアナプルナ新作としては第二弾ですが、第一弾となったパズルゲーム『Gorogoa』も興味深い。
 なんといいますか、説明しにくいのですが、多数のレイヤーが重なったフラクタルな絵画のような画面をクリック(タッチ)することで仕掛けを説いてストーリーを解き明かしていく作品です。 

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 そして最近発売されたオリジナルタイトル第三弾が『Donut County』。
 これはまあドローンのヘリコプターを欲しがるドーナツ屋のアライグマがドーナツの配達先で謎のアプリを駆使しして謎の穴を作り出し、その穴にドーナツを注文した動物たちを含むさまざまなオブジェクトを落としていくことで塊魂的に穴を広げ、落として貯めたポイントでドローンをゲットし友達の女にぶち壊されるという内容のゲームで、何を言っているのかと思われそうですが、まあそういうノリです。
 とにかくビジュアルがポップでかわいく、オフビートな会話のノリがすてき。

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塊魂』っぽいといえば、本家『塊魂』の開発者である高橋慶太の新作『Wattam』もアナプルナがパブリッシャー。たのしみですね。

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 ちなみにわたしは未プレイですが、Apple Store でやたらプッシュされているしゃれおつインタラクティブノベル『Florence』も今年のアナプルナの仕事です。

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 今年の待機作としては他にもローポリで幻想的な雰囲気が特徴のRPG『ASHEN』や、ある惑星が恒星の超新星爆発によって滅ぶ直前の二十分間を繰り返しその謎を探るオープンワールド探索アドベンチャー『Outer Wilds』などが控えており、さらには発売予定日はまだ不明ながらユニークなインターフェイスで話題をさらった推理アドベンチャー『Her Story』の続編もラインナップには見えます。
 いずれもゲームファンとして、いや、人間存在として見逃せない作品ばかり。


 とまあ、ご覧のとおり、アナプルナはビジュアルやデザインは洗練されているもののAAAタイトル的な狂騒やわかりやすいエンタメからは遠く離れた侘び寂びに満ちたゲームを世に出しまくっています。
 ゲームのパブリッシャーの役割は映画のプロデュースと異なるわけで、どこまで映画のほうのノウハウが役に立っているかはわかりませんが、大手から相手にされないようなめんどくさいが観客にとって魅力的な個性を持つ作家にカネをあたえていいものを作らせるスタンスはまさにアナプルナの精神そのものです。
 アナプルナがゲーム業界に参入した理由については今日のところは疲れたので後日また調べたいと思いますが、アナプルナの「本気度」をかんがみるに、アートのプラットフォームとしてのインディーゲームが映画と同レベルの強度を獲得しつつあること、あるいはそのような潮流が生じていることを見込んだのかな、と推察します。
 そうした潮流の一現象として、映像作家だったり作曲家だったりがインディーゲームと映画のあいだを横断している。
 かなり、むりやりなまとめですが、そういうことにしておきましょう。単にわたしの好きなものを並べただけの記事だということがバレないように。


Fez

Fez

Under the Silver Lake

Under the Silver Lake


 

*1:『Indie Game: The Movie』というドキュメンタリーでフィーチャーされています

*2:そういえば、 Disasterpeace も『アドベンチャー・タイム』でゲスト参加回がありますね

*3:といっても公開時25才くらいだったのですが