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名馬であれば馬のうち

読書、映画、その他。


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地獄にスノードームで勝算はあるのか? ーー『魔女の子供はやってこない』を読むための六夜(2)

良い地獄を待っているーー『魔女の子供はやってこない』を読むための六夜(1) - 名馬であれば馬のうち

のつづき

 

第二話「魔女家に来る」  

 第一話は夏子がぬりえちゃんちへやってくる話でした。第二話はぬりえちゃんが夏子のうちにやってくる話です。
二〇一五年に開かれた講演会(関西ミステリ連合OB会『BIRLSTONE GAMBIT』収録)によると第二話は「中耳炎」と題されたぬりえちゃん視点の話になる予定でした。が、「中耳炎」は結局編集部から没をくらいます。*1本編はその没原稿の代わりに書かれたものです。

 

 

シンギュラリティ・スカイ (ハヤカワ文庫SF)

シンギュラリティ・スカイ (ハヤカワ文庫SF)

 

 


*家、あるいは家族という名の地獄


 本書のタイトルである『魔女の子供はやってこない』をキーワード「地獄は来ない」とつきあわせると、どちらも「来ない」存在であると共通項が見出され、「魔女の子供(ぬりえちゃん)は地獄のメタファーである」とこの時点で短絡しえます。ところが第二話では魔女がやってくる。
 第一話でもともとの友人たちを無くした(無くした記憶を消してしまったので元々ぼっちだったということになっている)夏子は、学校の先生から「最近通り魔が出て危ないから友達とペアを組んで下校するように」と促されるものの、組む相手がいないので教室にぽつねんと残されてしまう。
 そこに、紙飛行機が窓から舞いこんできます。唯一の友人であるぬりえちゃんからのお誘いです。夏子はぬりえちゃんとの関係において、常に待つ側です。
 ふたりは一緒に外で遊びますが、内容は公園で本を読むだけ。他に遊び方がわからないので夏子はこういうことをやるのですが、ぬりえちゃんは「一人でできること、どうして二人でするんだろう」と疑問を呈し、夏子の家に遊びに行くことを提案します。このとき、とまどう夏子にぬりえが言う「友達でしょ?」は第一話で夏子の家に遊びに行きたがった小倉くんのセリフと呼応します。旧仲良し六人組は第二話以降姿を消しますが、このようにセリフを反復する形でふしぎとちょくちょく全編に顔を覗かせます。
 夏子は以前からあまり自分のうちに友達を招待しない子供だったようです。それは彼女自身の強い自意識に由来しています*2。彼女は精神を削りながら自室でぬりえちゃんを歓待しますが、内心では「二人でいる時何をすればいいか、せっかく外ではそれを見つけて決められたのに、どうして家で遊ぶんだろう、ずっと外で遊べたらいいのに、そう思」ってしまう。
 外で遊ぶときは外にあるものを使えばいい、しかし自分の家で遊ぶときは何を使っていても自分と関わりのあるものを使わざるをえない。つまり、自分の内面をさらけ出す必要がある。さらにやっかいなことには、さらけ出したもののになかに自分でも認識していない恥ずかしいサムシングを見いだされてしまうおそれがある。一方で規範を共有せずコントロールも効かないのになぜか他人からは自分の一部とみなされる「家族」という制度もあって、この人たちもなにかまずいことをしでかす恐れがある。
 夏子母の引き留めもあり、ぬりえちゃんはずるずる夕食を相伴し、ついにはお泊まりするのですが、この間に夏子は神経をすり減らしていく。はたから見れば些細なことでも、自分や家族の器の小ささを露見させてしまうのではと過剰に心配します。
 夏子の神経衰弱っぷりの他に夕食の様子から読み取られるのは、夏子と家族の断絶です。母親は子どもの客をあしらうのになれないせいか、やたらぬりえちゃんを引き留めてしまうし、傲慢な姉は割り切れない数のチーズ餃子の余分になんの断りもなく手を出してしまう。そして、父親は一応ふつうっぽく振る舞っているけれどいつ怒りっぽい地を覗かせるかわからない。
 どこの家庭にでもあるような他者としての家族の不可解さや理不尽さが夏子の心に負荷を加えていき、母親からぬりえちゃんと一緒に風呂に入ればと薦められたところで沸点に達します。夏子は「絶対嫌だ! 一人で入る!」と泣き叫んでトイレにひきこもります。まさに地獄。

 

「あまり家には呼びたくなかった?」
「怖い」月が眩しく私は俯きました。布団の姉の膨らみが見えました。「嫌われそうで怖い。やなとこいっぱい知られそうで怖い」
「そうなの」
「もっと仲良くしたくてと、ぬりえちゃんはいっていたけれど」垂れる髪の毛の中に私は隠れました。「私にはもう親友だから、これ以上には仲良くしないで欲しい……」
「どうだろう」魔女の声がしました。「安藤さんはさ、人の目が怖いのかもしれないね」

 

*眼球奇譚


 人の目。
 第三話で複数回反復されるモチーフはいくつかありますが、とりわけ重要なのはこの「目」でしょう。たとえばこんなパラグラフがあります。

 

 道端に不審者注意の立て看板があって、黒地に目玉のイラストが描かれていました。その目が苦手と私が言うと、ぬりえちゃんが腹からマジックを取り出して、さっと塗り潰してしまいました。「憂いは断ったね。さあ行こう」

 

   なぜ目なのでしょうか。なぜ夏子は視線を恐れるのでしょう。

 見る-見られるの関係は映画であれば直感的に「スクリーンと観客との緊張関係」という当たり障りのない一言に要約して了解を得られるところですが、小説ではメタフィジカルな言及なしに登場人物が読者を見返すことはまずありえず、よって作品ごとに個別具体的な視線論をでっちあげる必要があります。
 夏子は観察者としての自分にはわりと無頓着です。姉のプライベートが書いてある日記を平気でぬりえに晒したりします。また、ぬりえの応対にあたる家族の一挙手一投足をパラノイアックな視線と解釈を注いでいます。
 そんな彼女が観察されることを過剰に忌避する。見られることで、「嫌われることが怖い。知られるのが怖い」と言う。自己評価の低い彼女は深く立ち入られると自分の醜い部分がバレてしまうと思いこんでいる。だから、自然と浅いつきあいを志向してしまいます。
 つまり、評価されること、判断されることを恐れているのです。後藤明生ふうに言えば「他者の解釈を拒絶」している。
 

 他者を拒絶するということは、他者の目を拒絶することだ。他者の解釈を拒絶することだ。つまり、他者から見られることを拒絶することであり、他者から解釈されることを拒絶することである。
(中略)
 つまり、そこには「見る←→見られる」という、他者との関係が成立しない。その成立を許さない。「見る←→見られる」という他者との関係を拒絶するのが、志賀直哉の「直写」ということなのである。
(「第二章 裸眼による「直写」 志賀直哉『網走まで』『城の崎にて』」『小説ーーいかに読み、いかに書くか』)

 

 見て見られる。判断して判断される。それらは関係の基盤です。コミュニケーション以前の問題です。
 観察がなければ解釈もなく、解釈がなければ言語化もない。そして、言語化しないのなら願いもない。他人に観察されることで再帰的に自己を識るのは、ねがいにパースをひくための初歩です。『魔女子供』において「ねがい」というテーマがなぜディスコミュニケーションや友人といった人間関係の話の上に描かれてるのかといえば、自分を見てくれる他者がいなければ自分のねがいも描けないからです。文字にならないからです。

 

「文字のない町は綺麗だけれど、景色は変わってしまうから。言葉にしないと伝わらないから、言葉で願うことを書いてるんだよ」(第六話)

 

 ぬりえは夏子に視線を恐れるなと諭します。「人の目が怖いのはさ、慣れれば平気になるんじゃないかな。訓練しようよ」と言います。他者に解釈されることを恐れるな、ということです。そして、安藤家を辞去するとき、夏子に人間の目玉の入ったスノードームを渡します。このスノードームもまた第二話で印象的に反復されるアイテムです。

 これは元々餡子が夏子に旅行のおみやげにプレゼントしたもので、夏子の机にかざってありました。最初もちろん目玉など入っておらず、サンタと橇が封入されていただけです。
 ぬりえは夏子の部屋で生まれて初めて見たスノードームに興味を示し、お風呂にもスノードームがあったと主張します。それは中に水の入った輪投げのおもちゃで、スノードームを「中に水が入ったまるっこい物体」としか認知していなかった彼女にはどちらも同じものに見えたのです。「文字のない町」では機能さえ同一なら区別もないのかもしれませんね。
 夜、眠れないふたりはベッドを船に見立てて航海ごっこを始めます。そのとき、夏子は島に見立てた机からスノードームを取ってきて「宝にしよう」とぬりえに渡します。それをぬりえをふたつに割ると、中から大量の液体が流れ出し、やがて部屋を覆い尽くします。のみならず、町全体も海原に変えてしまいました。ふたりはベッドの船で外にこぎ出し、寝と水にしずまった町の様子を「スノードームのよう」に眺めます。『ドラえもん』の「ブルートレインにのろう」*3を思わせるノスタルジックな幻想です。
 そうして、翌朝にぬりえはスノードームを夏子に返却、というか再プレゼントします。追加された目玉の意味は明白ですね。夏子たちがスノードームの中で町の住民を一方的に眺めていたように、町に住む夏子もまた見られる客体である、ということです。ぬりえを見送るために外に出た彼女はもはや他者の視線を恐れなくなっていました。それもこれもぬりえちゃんという他者が夏子の領域に「やってきた」からこその達成なのです。

 


*目玉の正体


 スノードームに追加された目玉は基本的には他の人々からの視線の象徴なのですが、別の可能性としては神などもありえます。
 劇中、何度か監視者のような飛行体が登場します。第一話の二章目の終わりで、村雨くんが魔女の住むマンションを教えてくれたときに「来るのと彼が訊くのにかぶり、教室の飛行機の音が通り過ぎていきました」。第三話で死者蘇生を迂遠に断るぬりえちゃんと気まずくなったときに「窓の方をヘリコプターの音が通り過ぎていきました」。第六話で子供のときの世界を訪れたふたりがげろアパートで夏子と出会う前のぬりえを見つけたときに「遠くでヘリコプターが飛ぶのが聞こえました」。どれも音だけで姿はありません。第三話で夏子は授業終わりに窓から空を見上げて「雲の少ない澄んだ高い空で、神様がいるのならよく見えそうでした」と述べますが、見られる側からは見えない存在です。

 この神はただ見るだけの存在ですから、たとえば人を罰したりはしません。航海ごっこ中にふたりは通り魔の犯行現場を目撃します。夏子は通報したほうがいいのか迷いますが、ぬりえは「(通り魔を)捕まえるためにしたことじやないし」といってスルーしてしまいます。夏子が「このまま二度と捕まらないかも」と言っても、人の法とは別の世界で生きるぬりえは無関心です。
 すべての魔女は地獄へ行きますが、地獄とは行ったり落ちたりやってきたりする人間的な業の生み出す場所なのであって、神とは関係がない。第三話で夏子の先生が「神様しかしちゃいけないことってあるんだと思うよ」と話したのを受けて、ぬりえが「神様とか聞くとちょっと笑っちゃうね。偉けりゃやってもいいんだったら、私は黙ってやっちゃうけどな」と言い放つのは彼女が神的な上位存在とはまた異なる存在だからでしょう。

 地獄行きを決めるのが魔女であり、神様がいるなら見えるはずの空に神様を見いだせないのならば、やはり彼女たちの住む町の空に神はいないのかもしれません。地上の神のほうは五話に出てきます。

*1:「中耳炎」はのちに矢部嵩twitter にアップされ読めるようになりました

*2:彼女の姉も家に友達をあげるタイプではないと書かれているので、家風でもあるのでしょう

*3:てんとう虫コミックス25巻所収

良い地獄を待っているーー『魔女の子供はやってこない』を読むための六夜(1)

 

 フィクションを読む、とは、こうした記述の運動を把握し、固有の色彩とマチエールを味わい、複数の動きがあるなら相互の関係を見出し、あるロジックを持つ総体に組み上げ、評価することだ、と、取り敢えずはしておきましょう。
佐藤亜紀『小説のストラテジー』ちくま文庫

 

 イメージこそ事件なんだというのが、ぼくの主張です。
フロベールからルイーズ・コレーへの手紙、ナボコフナボコフの文学講義 上』河出文庫

 

 

 


 矢部嵩による魔法少女文学の最高峰『魔女の子供はやってこない』(角川ホラー文庫)で読書会を主催することになってしまいました。
 つきましては覚え書き的なものが欲しい。物覚えが悪いので、そういうものがないと話したかった細部を忘れてしまいます。*1

 矢部嵩はエモーションの作家である、と概してみなされがちで、かくいうわたしも文体のエモさにやられてファンになったクチです。
 しかし、小説は「なんとなくエモそうな文」を並べれば、そのまま「エモい小説」になるわけではありません。エモい物語におけるエモさとは感情誘導技術の結晶です。
 矢部嵩作品も実は緻密な技術の粋でできています。それを成り立たせているのは特定のイメージの反復と接続です。それらの記述の軌跡を「運動」と呼んでもいいかもしれない。かつて佐藤亜紀は「物語だと我々が思い込んで読んでいるのは、しばしば、「運動」のことである」と宣しました。その運動をこれから一緒にたどっていきましょう。基本的には各話の筋をあたまからけつまで割る方向なので、ネタバレに注意してください。

 

第一話「魔女マンション、新しい友達」

第一章「帰り道で」

『魔女の子供はやってこない』は世界の解像度、あるいは視力についての記述からはじまります。
 

 奥から空が暮れ始めていました。

 


 この簡潔な書き出しはこれから語られる物語が「夜」に属する系統の話であることを宣言しています。が、コンセプト説明の役割を託された第一話に関するかぎりでは、二行のちに続く段落がより重要だとおもわれます。

 

 レンズの端の汚れに気付いて、かけていた眼鏡を外すと町はかすんで、文字のない国にいるみたいでした。眼鏡を拭いてまたかけ直し、暗くなった通学路を私は再び歩き出しました。


 このパラグラフは終盤にエモい形でパラフレーズされます。要素としては眼鏡も「文字のない国」というフレーズも以後の五話にわたって繰り返し反復されていくことになります。ここでは、さしあたって、主人公・安藤夏子が視力に劣った人物であるという属性が示されます。夏子は優柔不断で、ぼんやりした人物です。そのキャラクター設定は物語全体のテーマと深く結びついています。
 そもそもの事件のきっかけも彼女の視力の悪さ、迂闊さからもたらされます。下校途中に家の合鍵をなくして探すうち、ふしぎなステッキを発見する。そこで日常が分岐し、非日常的な物語へと発展していくわけです。
 ステッキを発見する場面はなにげないながらも、第一話の根幹を問う上できわめて興味深い。

 

 何かいいことがないかなと思いながら歩いていると、前方に奇妙なものを見つけました。


 鍵をなくして落ち込んでいる夏子が「なにかいいことがないかな」と「ねがいごと」をして、ステッキがもたらされたように読めます。このステッキは周り回って、最高の親友という夏子が(望んでいると自覚していない)ほしがっていたものに交換されるわけですから、なんとなれば魔女に出会う以前、ステッキを拾う以前から夏子をねがいごとをして、それをかなえてもらっていたのです。
 ラストの構造的仕掛けを考慮するならば、ねがいごとは最初からただしく理解され叶えられる予定であったわけで、それを一般的なことばで表現するとなると、運命と呼ぶにふさわしいでしょう。

 ステッキには魔女の住所が記されています。それで持ち主であるらしい魔女が「自由町」に住んでいることが知れる。「自由町」は「自由帳」に通じることばで、第一話を通してちりばめられている絵画のイメージはここに端を発します。


第二章「拾ったステッキ」

 第二章は第一章の出来事を語った夏子に対する友人たちの反応ではじまります。小学校の教室における夏子とその友人たちの描写は一見なんの変哲もない仲良しグループといった趣ですが、実はすでに破滅へと至る種子がそこかしこに蒔かれています。
 まず、友人五人の名前をみてみましょう。餡子、小倉、ずん田、村雨、そして厳密には三章からの登場になりますが、うぐいす。
 いずれもアンコ由来(餡、小倉餡、ずんだ餡、村雨餡、うぐいす餡)のネーミングです。ここに加わる安藤夏子の「あんドーナツ」は相性が良いに思われます。ところが、よくよく考え視てみると、他が純和製の菓子であるのに対して、あんドーナツだけはドーナツという洋菓子を使用しています。一人だけ、立ち位置が曖昧な名前なのです。この曖昧さはそのまま夏子の性格のどっちつかなさにつながっていて、同時に夏子がなんとなく彼らとのコミュニケーションが不全をきたすであろうことも予言しています。

 仲良し六人組の関係の不穏さは、テスト返却の場面にも漂っています。小学生における強さの指標のひとつである「成績の良さ」がグループ内で均質ではない。小倉くんや餡子が優秀な生徒である一方で、ずん田くんは一度も百点を取ったことのない劣等生なのです。
 また、ずん田くんは初登場時に「痛そうに頭をおさえてい」ますが、なぜ痛がっているのかは特に現時点で読者に説明されません。実は村雨くんがずん田くんをいじめているのですが、視点人物である夏子はその事実を知らず、また気にもしません。

 


第三章「私の友達」
 
 村雨くんから魔女の住所について情報を得て、一行は魔女の住むアパートへと向かいます。この章の第二段落で村雨君と初登場のうぐいすさんがテスト結果を見せ合って賭を精算するシーンが描かれます。テストを通じてキャラ同士の仲の良さを表現するのは第二章でも餡子と小倉くんでやっていたテクニックで、夏子以外の五人のうち、ずん田くんだけがそうした関係の意図から巧妙に外されているのが見え隠れしています。
 また、前章のテストで百点を穫ったずん田くんの「奇跡」がもしかしたらステッキによる「魔法」の効果なのかもしれない、という仮説が小倉くんの口から唱えられます。
 ところでこのステッキ*2。本書が魔女と魔法についての話であるとわかって読んでいるとなんとなく「このステッキには魔術が宿っていて、ずん田の百点もその効果なんだな」と無条件に納得してしまいますが、実は劇中ではステッキ自体になんらかの機能があると説明されていない。夏子がステッキに願ってずん田に百点をとらせてしまったのなら、魔女の存在ぬきで魔法が使えることになってしまいます。それは変です。ステッキは単なるプロップにすぎず、ずん田の百点も偶然だったのでしょう。このステッキは最終話である感動的なエピファニーを媒介することになりますが、あれもステッキがただのブツであるこその奇跡なのだとおもいます。
 してみると、ずん田くんはすくなくとも実力で百点を取ったわけで、小倉くんの物言いはあきらかにずん田くんをバカにしています。なのに村雨くんも「ずん田が自分で取るよかはありうるとおれも思う」と真剣に同意する。魔法のステッキが実在する確率よりも実力で百点を取るほうがありえない、とふたりは考えているのです。当事者であるずん田くんは二人の議論に口をはさみません。
 

 ここでグループのリーダー格である小倉くんの提案により、みんなで魔女のところへステッキを返却しに行く流れになります。ついでに夏子が彼に恋心を抱いていると判明します。
 小倉くんはクラスの人気者ですが「誰を好きなのか知る女子はおらず」、夏子も自分の気持ちを押し込めて友人としての距離を保ったまま曖昧なしあわせに安住します。彼の好きな女子はおそらく自分ではないだろうとわかってはいます。それでも彼のしぐさひとつひとつにかすかな希望を寄せてしまうのが女心。
 片思いとは想像上の相手に過度な妄想や期待を重ねるディスコミュニケーションの一形態です。その一方的な期待が崩れてしまうことを失恋と呼ぶわけですが、この終局は夏子にもやがて訪れます。

 さて、第三章で注目したい表現は他にもあります。魔女のすまう「げろマンション」をはじめて夏子が目にしたときの描写です。

 

 十階建てのげろマンションは壁に当たる夕日が眩しく、書き忘れたみたいに輪郭線が飛んでいました。見上げると壁は傾いて見えて、角度のきつい遠近法でした。

 

「輪郭線」も「遠近法」も絵画の技術的な用語であり、小説ではまず用いられません。ここで矢部嵩本人が絵もたしなむ事実を思い出すのも乙でしょう。
 本編における「絵」のイメージは「魔女」を表しています。そのことを鑑みるに、彼女が住むマンションのファーストインプレッションが絵画的に述べられるのは一貫性の点で当然です。
 げろマンションは同時に夏子のすむマンションと同じ丘の反対側に立地しているので、「この世」に相対する「あの世」でもあるのでしょう。げろマンションがホーンテッドな建築として夏子の目におぞましく映るのはそのためです。

  

第四章「魔女のいるマンション」

 第一話全体の約四分の三を占める最重要パートです。
 一行はマンションに潜入します。ここで餡子が夏子に対して不満めいた忠告を与えます。彼女は小倉くんの提案に唯一反対していました。

 

「夏子さ」餡子がいいました。「みんなで一緒に遊ぶのいいけど、一人でまじめに鍵探したの。一人じゃ何も出来ないんなら、そんなのはよくないと私は思うよ」「怒ってるの」「なんだかなとは思ってるよ。こんな届けものより先に鍵探さなきゃじゃん。学校にもなかったのに」「うん・・」「私あんたのそういうとこやだ。しなきゃいけないことは一人でもちゃんとしなよ。手伝うくらいは別にいいけど、いつも助けてるじゃん私」「うん・・」「別にいいけど、それで一人じゃ何も出来なくなるなら、私のせいみたいじゃん」

 

 夏子はどうやら一人では何もできないタイプのようです。餡子は筋をきちんと通さない夏子にご不満なのですが、夏子はそもそも自分のねがいをよくわかっていない曖昧な人間なので、つい流されてしまう。 

 このセリフからうかがえる餡子と夏子との関係は、助け助けられの友人のようでいて実際には夏子の「すべきこと」を餡子が決めて手を引いている、といったところでしょうか。
 続く餡子と夏子との仲良さげな会話から、ふたりが親友であることが看取できます。が、好きな人についての話になると、餡子の側が夏子の好きな人を小倉であると把握している一方で、

 

「ねえ餡子ちゃんは好きな子いないの」
「何急に。いないっつったじゃん前も」


 とツッパります。うそをついています。餡子ちゃんは小倉くんに好意を寄せているのですが、夏子をおもんぱかってなのかどうか、言おうとしない。この態度がのちに餡子に対する幻想の崩壊をひきおこします。
 
 このガールズトークの直後、夏子は謎の老婆に遭遇します。老婆は合い言葉「地獄は来ない」を教えてもらいます。今後幾度となく反復されるフレーズであり、わかりやすく重要な伏線です。「地獄」が何を指すのかについてはとりあえず措いておきましょう。

 魔女の住まいに到着します。あからさまにあやしい部屋の雰囲気にみなチャイムを押すのをためらい、一番立場の弱いずん田くんにその役目を押しつけます。
 ここで夏子はまたほんのりとねがいごとを発します。

 

 応答を待ちながら私は魔女の部屋というのはどういう感じか想像してみました。家具が菓子かも知れないし、窯や鍋などある気もしました。魔女も年寄りか、あるいは若いのか、怖い系よりは、綺麗な女の子がいいなと思いました。

 

「魔女が女の子なら友達になれるだろうかと考え」もします。そうして、第一話のラストで実際に彼女は「綺麗な女の子」と「友達に」なるのです。 
 ずん田くんの百点は口に出された願いが叶えられたもので、夏子がぼんやりと願ったこのねがいや第一章の「何かいいこと」は彼女の内部で思われたものです。ねがいごとを口に出して画定するのは大変にむずかしい。その難しさが、夏子にはこのあとずっとついてまわります。
 チャイムに応じて出てきたのは、全裸の中年男性でした。夏子たちは男の言われるがままに入場料として八百円を差しだし、廊下の自動改札機をぬけ、電車の内部を模した部屋に入ります。部屋は実際に駆動しだして、一行を魔女のもとへと運びます。
 モチーフとしての鉄道は一般的に人の手にはどうすることもできない運命のメタファーとして特に映画などで使われます。古典小説なら『アンナ・カレーニナ*3、アニメだと『回るピングドラム』ですね。ピンドラでは「電車の乗り換え=運命の乗り換え」でしたが、夏子も不思議な電車に乗ってしまったがために不思議な運命へと変転していきます。電車には、また、往路と復路が存在します。夏子がのちにもう一度この電車に乗ることになるのはそういうわけです。
 電車は魔女の汚部屋に到着します。不審な子供たちに遭遇した魔女の老婆はパニックのあまり銃を乱射し、餡子を射殺してしまいます。このときのやりとりで夏子たちが「絵の具小学校の三年二組」であることがわかりますので、絵画のモチーフとして留意しておきましょう。
 魔女が完璧に異常な存在であるのは、彼女の言動と部屋の様子によってあますところなく描かれます。基本的には汚物描写です。
 誤解は解け、なんとか魔女と打ち解け(?)たものの、彼女はステッキを見せられても「知らない」と言います。ステッキはどこから来たのか、という疑問が生じますが、第一話ではすっとばされます。
 なんにせよ届けものをしてもらったのだからお礼をしたい、と魔女は「願い事を『ひとつだけ』なんでも叶えてあげるよ」と夏子に申し出ます。夏子はさきほど殺されてしまった餡子を生き返らせてくれるようにお願いします。本作における魔女の力は強大で、ねがえば文字通りなんでも叶うのです。
 ところが餡子の蘇生準備中、小倉くんは魔女に出された殺人ジュースを飲んでしまったのが原因で急死します。かなう願いはひとつだけ。餡子を生き返らせてしまえば、小倉くんの復活は不可能です。
 残された四人は餡子か小倉くんか、どちらを生き返らせるかで議論を戦わせます。ここでの取り交わされるロジックはそれ自体なかなか興味ぶかいです。多数決だと人気者の小倉くんに票が集まって公平ではないと懸念した村雨くんくんはくじで決めることを提案するのですが、うぐいすさんは「どうして気持ちを乗せちゃだめなの」と反駁します。どうせ自然の摂理に反した不公平な行為なのだから、論理や公平性を重視するのはおかしい。一理あります。
 この命の優先順位に関する村雨くんとうぐいすさんの議論が、ずん田くんの暗い思考に火をつけてしまいます。
 夏子が「二人とも生き返らせてという一つのお願いじゃいけないんですか」と魔女に問い合わせるとあっさりとOKをもらいます。ルール違反のようですが、魔女としては最初に提示したルールから一歩も外れてしません。
 しかし願う側の子供たちはこの後急速に混乱していきます。
 まず、ずん田くんが魔女の銃を手に取って夏子たちを脅迫し、死んだ自分の母親を生き返らせるように要求します。このとき銃を魔女にうけて撃つと暴発して射手を殺す仕組みであることが語られます。
 うぐいすさんは折れて餡子と小倉くんに加えてずん田くんの母親も生き返らせるようにねがいを変えようともちかけますが、ずん田は言下に拒否します。餡子も小倉くんも嫌いだというのです。彼はバカにされてきたことをずっと恨んでいたのでした。そして、ずん田くんを除こうと動きかけた村雨くんを撃ち殺し、いじめられてきたストレスを爆発させます。第二章でずん田くんが後頭部を押さえていた理由がここで判明します。
 ずん田くんはうぐいすさんによって椅子で殴られて昏倒しますが、今度はうぐいすさんが銃で夏子を脅し出します。「魔女のお婆さん十億円って出せますか」

 

「生き返すとかはいいの?」「あいいですそっちは。ずん田君見てたらそんなに拘らなくてもいいかなと思って」うぐいすさんはいいました。
「死んだばかり過ぎて囚われてたけど、やっぱり人より自分のことかなって」

 

  ずん田くんの凶行がうぐいすさんのエゴを呼び覚ましてしまった。なんでも願い事が叶う好機を得たならば、それは他人のためではなく自分のために使って当然なのではないか。
 うぐいすさん自身にはずん田くんのような今すぐ叶えたい特定のねがいごとはありません。なので、「十億あれば一生のライン引くのにとりあえず十分」と目的ではなく手段を要求します。
 窮した夏子は魔女に「お願いの回数を増やしてってお願い」をし、魔女に容れられます。うぐいすさんは融通のききすぎる魔女にキレます。

 

「だって村雨君死んじゃったじゃんっ。ずん田殴っちゃったじゃん私っ。いっとけば防げたじゃん、なんで後からいいよとかいうの?」
「それは後から願ったからだよ。願ってないことを私は決められないよ。どれも私の願いじゃないもの。私の基準であなたは願うの」
「知らないよ」「そうか。きっと願うのがへただったんだよ」

 

 おなじく願いを無制限に叶える装置である『魔法少女まどか☆マギカ』のきゅうべえはヒト的な利己心ゆえから願いによる副作用を言い落とすという阿漕な真似をやりますけれど、この魔女の場合は逆です。すべて最初に言ったことの範囲内です。なんでも叶うということはなんでも叶うということ。第二話以降、魔女は願い事にルールを設けますが、それは願い事がねがう側とねがわれる側の関係性によって成立するものと彼女が理解したからです。
 しかし第一話の時点では、ねがう側もねがわれる側も漠然としすぎている。子供たちは「願い事のパース」をひけない。選択肢が事実上無限であるために何をねがえば自分のためになるのかがわからないのです。それを指して、魔女は「きっと願うのがへた」と言っているのです。
 最終的にうぐいすさんは「私の願い死ぬまで全部叶えてよ。他の人のは叶えないで」というやはり「手段」の究極に落ち着きますが、実は生きていたずん田くんや村雨くんとすったもんだを繰り広げたあげくにやはり死にます。『レザボア・ドッグス』じみた仲間内での凄惨な殺し合いの末、ねがいごとをする権利は結局夏子の手に戻ってきます。
 夏子は醜くいがみ合ったうぐいすさん、ずん田くん、村雨くんを生き返らせるとまた殺し合いになると危惧し、最初に死んだ餡子と小倉くんの二人を蘇生させます。
 このとき、魔女の儀式の様子が紹介されます。三十六色のクレヨンをとりだし、何もない空間にねがわれたこと(この場合は餡子の姿)を描くするのです。魔女が絵画的なイメージと結びついている、と言ったのはこういうわけです。ねがわれた内容にきちんと輪郭を与えることで、ねがいごとを十全に叶えることができるのです。
 また夏子が餡子のことを「誰と特別仲のいいわけではな」く、「みんなにちやほやされる小倉君に突っかかることさえあ」ると評価していることが明かされますが、それが夏子の観察不足であることは直後に判明します。
 生き返った餡子は小倉くんが毒で死んだと知るや、彼も蘇生中であることを聞かされる前に、すぐに自殺してしまったのです。まるで『ロミオとジュリエット』。夏子は初めて餡子が小倉くんを好きだったんだと理解します。「好きな人はいない」と夏子に明言していたにもかかわらず。
 つづいて小倉くんが蘇ります。が、友人たちのむごい死体を目の当たりにした小倉くんは彼らが魔女に虐殺されたものと早合点し、ろくに夏子の話もきかずに銃を魔女に向け発砲します。しかし、前述したように、その銃は魔女を撃つと暴発する仕様でした。小倉くんは死んでいたので説明を聞いていなかったのです。またもや情報の齟齬によって小倉くんは二度目の死を迎えます。
 ふたたび全滅です。そして、四人が魔女に殺されたと思いこんで義憤から復讐に出た小倉くんの行動から、いままで自分に向けられていたと信じていた小倉くんの優しさはたんなる親切であり、自分など小倉くんにとってなんでもない存在だと夏子は悟ります。
 内心では六人組のみんなを恨んでいたずん田、ずん田を陰でいじめていた村雨、みずからのエゴのために他人の命をふみにじるうぐいす、親友である夏子にぎりぎりで本心を打ち明けなかった餡子、夏子の淡い期待に反して彼女へ好意を寄せていなかった小倉。仲良しだと思っていた六人の幼なじみたちの誰とも夏子はつながっていなかったのです。
 ねがいごとを消費してしまった今となっては、もはや生き返らせることもできません。

 悲嘆にくれる夏子に魔女は「私と友達になろうよ」と提案します。老婆であると思われていた魔女の正体は実はかわいらしい金髪の女の子でした。血と反吐と夜で彩られてきたこれまでの作中世界とは一線を画したブライトで異質な色です。彼女と夏子はものすごい勢いで通じ合います。

 

「うん」よく判らぬまま私は頷いていました。「よろしく」
「こちらこそ」魔女の女の子は笑いました。「じゃあ早速だけど今日あったことは全部忘れてもらうね」「えっ何で」「口封じだけど」「魔法で記憶を消すってこと」「そうそう」「その後で友達になってくれるの」「えっすごい超伝わってんじゃん話」女の子はぱっと笑いました。「いいでしょ安藤さん、私と友達なってよ」「うんいいよありがとう」
 そういうわけで(何も覚えていませんが)私はその女の子と友達になりました。何があったかもう判りませんが、友達が出来るのは嬉しく思いました。

 

 このとき裸の中年男性から「箒の魔女と白いおばけが五匹、月夜を飛んでいる白黒の印刷絵がクレヨンで雑に塗られてい」る画を渡されます。五人の古くてわかりあえない友達が、以心伝心の新しい親友一人に交換されたのです。
 魔女は「塗絵」という名前であると自己紹介します。絵画のイメージのつなぎあわせがここに収斂します。その彼女が名乗ったそのときに、夏子は望みのものを手にするのです。

 

「私は塗絵」私が床に置いた絵を魔女が拾いました。
「合言葉は地獄は来ない。それで扉は開くから」
「地獄は来ない」合い鍵をもらったみたいだなと思いました。「またねぬりえちゃん」

 

 冒頭でなくしたはずの家の合い鍵。それが新しく得られた真の親友のことばと重ねられるのです。「鍵は鉄より言葉で出来ていた方がいいこともある」とは第四話でぬりえちゃんが語るセリフです。鉄の鍵は一人で開閉ができますが、言葉の鍵は二人以上いないと作動しません。人と人との関わりの物語がここから始まります。
 結末部では、始まりの「夜→眼鏡外し」のイメージの推移が逆回しにされます。

 

 吐息でレンズが曇り、私は眼鏡を外しました。何があったか覚えていませんが、すごくどきどきしていた気がし、こんなどきどきがまたあればいいなと思い、夜の空気を吸いこみました。(中略)起こる筈のないことが起きなくす筈のないものをなくし、持っているのは一枚の絵だけ、それでもその日私はどきどきしたまま、病院のベッドで眠りについたのでした。


 第一話に出てきたフレーズ、モチーフ、アイテムといった各要素は今後展開される五篇において頻繁に反復されます。見落としがちなところで留意しておきたいのは、死んだ夏子の五人の友人たちでしょうか。生きたキャラクターとしては今後一切出番はありませんが、彼らが第一話で残したセリフや行動、問題提起などはちゃんと覚えておきましょう。意外なまでに物語に深く関わってくることになります。(第二話へ続く)

*1:念のために言っておきますが、読書会参加者のために用意したものでももちろんありません。

*2:劇中では「棒」とされたり「杖」とされたりも

*3:「汽車や馬車はこの小説において重要な役割を果たしている(中略)いわばこの物語のなかの旅行業者であり、読者をトルストイの望み通りの場所へ連れて行く」「トルストイの長編では、騒音を発し、蒸気を吐き出す汽車が、作中人物を運んだり殺したりするために用いられ」『ナボコフロシア文学講義 下』河出文庫

ビル・コンドン版『美女と野獣』の感想


 聞くところによればディズニーは長編アニメから十数作ほどを対象に実写リメイクする予定であるらしい。九十年代のいわゆるディズニー・ルネッサンス期の名作群からも『リトル・マーメイド』や『ライオン・キング』、『アラジン』といった顔ぶれが待機作として控えている。
 アラン・メンケンが音楽を、ハワード・アッシュマンが作詞を担当したルネッサンス期のミュージカル群はどれも完璧な魔法に満ちていて、幼少期に体験したならばもはや何者にも代え難いほどの奇跡として私たちの記憶に固着している。
 そもそもアニメーションの原義は命なき者に命を吹き込むことであるはずで、そうした魔術を生身の人間でやり直すこと自体反呪術的というか、無粋であることは決まりきっている。『スターウォーズ』やマーベルが百年帝国を築きつつあるような現代映画界において例えビジネス上の要請で生まれ出た映画であって映画であることには変わりなく、映画である以上は観なければならない。製作側に求められる品性と観客の側に求められる品性はそれぞれ別種のものなのですから。

 で、『美女と野獣』。
 ポール・ウェルズに指摘されるまでもなく、村のファニーガールであるベルは91年版の時点から明白に「男尊女卑と家父長主義文化の犠牲者」*1として描かれているのであって、それでもまだ旧来的なプリンセス・ストーリーの重力に回収されていた91年版を、ビル・コンドンとディズニーはリメイクにあたってより「現代的」な方向へと改変した。
 伊達男ガストンはベルに求婚するさいに村で物乞いに身をやつしている独身女を示し「結婚しない女の末路はあれだ」と脅す。当時のフランスの田舎では、ベルみたいにシェイクスピアを好む読書家の女性が自立して生きる余地など絶無だった。
 この独身女は折々に印象的な活躍をするのだけれど、村におけるマイノリティはベルや彼女だけではない。ガストンの側近ル・フゥもその一人だ。彼のセクシャリティがゲイに変更されたことは大きな話題を呼び、コードが厳格な一部地域では本作の上映自体が禁じられる騒ぎとなった。と、いっても話題の大きさに反して彼のガストンに対するあこがれはあこがれ程度にとどまり、直接的に彼の想いを爆発させる場面はほとんどない。むしろ原作ファンが驚くのは終盤における彼の転身ではないか。
 こうしたわかりやすいキャラ配置だけでなく、メインとなるベルと野獣の恋愛劇にも実は繊細な配慮がほどこされている。もとから四十分も追加されているので当たり前といえば当たり前なのだけれど、二人が恋愛に陥る課程がより丁寧に、より説得的に描かれるのだ。
 追加描写によって強調されるのはふたりの共通点だ。ふたりとも母親を早くに失い、本を友とし、属するコミュニティで外れものとして生きてきた。だからこそ互いの孤独を理解し、寄り添うことができる。
 そう、孤立の解消こそ本作の裏テーマとみるべきだろう。ベルと父親との関係も不在の母親を介して更に掘り下げられている*2し、村人たちと城の住人たちの意外なつながりもおまけ程度であるけれども断絶していた城と村の再結合、一度は憎しみあったはずの人々の和解に一役買っている。

 なのに、だ。肝心要のミュージカル部分で一番輝きを見せるのは、一人だけ孤立したまま結末を迎えてしまうガストン(ルーク・エヴァンス)なのはどういうわけだろう。コンドン(に代表される制作陣)はミュージカルパートでいちいち役者の動きを止めたり、原曲を細切れにして間延びさせたりして力強いテンポを殺してしまっているわけだけれど、ガストンはその肉体的な説得力ひとつでミュージカルのキャラであることを成立させている。ル・フゥのアシストも貢献大だけど、彼の「強いぞガストン」の躍動は原作以上に力強く、逆に原作の醜悪なパロディに墜してしまった「Be Our Guest」と対照的だ。
 原作以上に怪物化し、ある外的な要因のせいでより惨めな最期を遂げてしまう彼だが、キャラクターとしては報われている。

*1:Paul Wells, "Animation and America"

*2:本作で追加されたパートでも最も印象的な、ある「魔法」によってベルが思い出の場所へ誘われるシーンは白眉だろう

ポスト・トゥルース時代のミステリと高井忍の歴史ミステリと。

0. これまでのあらすじ

 昨晩に孔田多紀さんが、ある人の「ポスト-トゥルースな昨今、多重解決による真実の矮小化を倫理的に簡単に肯定できなくなったよね」的なオピニオンにからめて、歴史ミステリのアティチュードに関する連続ツイートを投稿なさっていた。

 僕個人としてはポスト-トゥルースやオルトファクトといった単語をミステリやフィクションにからめて語ることについてはあんまり興味がない感じなんだけれども*1、それはさておいて、
 歴史ミステリ、特に多紀さんが「資料型」と呼ぶタイプ*2サブジャンルのナイーヴさ*3については最近どこかで考えたな―と思ってたら、そういえば最近出した同人誌『BIRLSTONE GAMBIT』の高井忍特集で書いていたじゃありませんか。えっ、同人誌なのに amazon でも買えるの?*4

 

BIRLSTONE GAMBIT

BIRLSTONE GAMBIT

(最近まで売り切れ状態だったけど、また入荷したみたい)


 ミステリ作家・高井忍は基本的に歴史・時代ミステリを書く人物で、題材として偽史や歴史ミステリへのメタ的な批評をよく扱います。詳しい作歴は wikipedia で……といいたいところですが、よくわからない荒らしユーザーに粘着されているらしく、見るに耐えない感じのページになっちゃってる。
 で、そういう痛ましい現況をいくぶんかどうにかしたい意図もあって、『BIRLSTONE GAMBIT』で高井忍作品の全短編レビューを担当させていただきまして*5、そのための序として前説というか概説というか高井忍の作風紹介的な長文を載せたわけですが、実はこれの前に全没にした文章がありました。
 去年の10月ごろにだいたい出来上がったものなんですけれど、未読者向けのざらりとした作風紹介として書きすすめるうちについネタバレ全開になっちゃって、その後新刊が二冊も発売されたり*6御本人に直接インタビューする機会を持てたこともあり*7、なんとなく特集全体の内容にそぐわなくなったりした*8ので12月あたりに全編書き直しちゃったんですよね。一応、前のやつも新しいのに一部再利用してます。

 で、同人誌が出された文フリから三ヶ月? くらい経ってタイミングもよろしいことですし、ここに没原稿を供養したいと思います。
  
 どういった内容かともうしますと、「高井忍はみてくれこそ『新説』や『歴史の真実』を唱える系の歴史ミステリを書いてるように見えますけれど、実はむしろそういう系の作品を批判的な視点からするどく批評していて独特かつ面白い重要な作家なんだよ。現在の歴史ミステリシーンを理解するうえで欠かせない作家だよ」って感じです。本誌掲載版は「独特かつ面白い作家だよ。不可欠の作家だよ」の部分だけを抽出して紹介に徹したものに直したように記憶していますが、自分にそんなプロめいた根性があるとも思われないので、やっぱりそんなに変わっていないかもしれない。*9

 おおむね内容は没に決めたときからいじっていないですが、ブログに載せるにあたってネタバレにすぎる部分は削除してありますので、たぶん未読書にも既読者にも比較的やさしくなり、作品レビューとしてもそれなりに機能しているかと存じます。たぶん。
 

タイトル:「歴史ミステリの墓標にして道標――高井忍の歴史ミステリ作品群について」

1.略歴

 ミステリ作家、高井忍。
 一九七五年京都府生まれ。立命館大学卒。
 二〇〇五年に短篇「漂流巌流島」で第二回ミステリーズ!新人賞を受賞し、デビュー。
 以降、二〇一六年十二月までに『漂流巌流島』(二〇〇八年、東京創元社)、『柳生十兵衛秘剣考』(二〇一一年、創元推理文庫)、『本能寺遊戯』(二〇一三年、東京創元社)、『蜃気楼の王国』(二〇一四年、光文社)、『柳生十兵衛秘剣考 水月之抄』(二〇一五年、創元推理文庫)、『浮世絵師の遊戯 新説 東洲斎写楽』(二〇一六年、文芸社)、『名刀月影伝』(二〇一六年、角川文庫)と、文庫落ちを除いて七冊の単行本を著している。

2. 作風

 高井忍は一般に「歴史ミステリ」の書き手として認識されている。

 では歴史ミステリとは、具体的にどのように定義されるサブジャンルなのか。

 門井慶喜の歴史ミステリ評論本『マジカル・ヒストリー・ツアー』(幻戯書房)によれば、歴史ミステリは二種類に大別されるという。ひとつは「主人公が『当時の人』である小説」、そしてもうひとつは「主人公が『現代の人』である小説」。特にミステリの分野において峻別する場合、前者は時代ミステリとも呼ばれ、後者は歴史ミステリと呼ばれる、と個人的には定義したいところではあるが、「現代/過去」という二項の他にも「扱う事件が架空のものか/実際に起こったものか」というパラメータもあって色々ややこしい。

 そうでなくともミステリの人たちは基本的に雑なので、歴史要素があったら歴史ミステリだろ的な雑な認識でなんでもかんでも「歴史ミステリ」とくくられてしまう傾向にある。

 まあしかし、一般に「歴史ミステリ」と呼ぶ場合は、「現代の人たち(or 当時の人たち)が実在する『歴史の謎』を解く」ものを指すことが多い。

 ここではとりあえず、「現代人、あるいは当時の人物が歴史上に実在する事件の謎を解く」ものを歴史ミステリ、「当時の人物が(現代では)伝説や風説とされる事件の謎を解く」ものを時代ミステリと仮に定義しよう。なぜなら、高井忍の作品群がその二つに分類されるからだ。


 さて、門井が述べたように、時代ミステリが歴史的イベントをリアルタイムで追うことが可能で小説的に展開しやすいのに比べ、歴史ミステリはどうしても散文的な歴史議論に終始しがちで、小説というよりは評論的な体裁になる。

 そのためか歴史ミステリは、作者読者両方にとって敷居の高いサブジャンルとみなされる。歴史ミステリの元祖である『時の娘』は歴史の謎一本で勝負したが、現在の歴史ミステリではそうした作劇を選ぶ作品は稀である。北森鴻*10〈蓮丈那智〉シリーズや高田崇史の〈Q.E.D〉シリーズなどでは歴史の謎解きに並行する形で、題材に絡んだ殺人事件なども扱い、読者の興味の持続を図っている。

 付随的事件のない、純粋に歴史の謎解きに絞った歴史ミステリとなると、海外では前述のジョセフィン・テイ『時の娘』、国内ではテイに触発された高木彬光の『成吉思汗の秘密』や鯨統一郎の『邪馬台国はどこですか?』シリーズ程度にかぎられるだろう。*11

 
 高井忍の作品群は、この「時代ミステリ/歴史ミステリ」の区分で綺麗に二つのラインに分かれる。

 歴史ミステリのラインとしては、デビュー作『漂流巌流島』からはじまり、『本能寺遊戯』、『蜃気楼の王国』、『浮世絵師の遊戯』の四作品。

 時代ミステリのラインは、『柳生十兵衛秘剣考』、『柳生十兵衛秘剣考 水月之抄』、『名刀月影伝』の三作。来年度には『ジャーロ』で連載中の〈妖曲〉シリーズが加わるから、歴史ミステリと時代ミステリで半々になる。

 ちなみに現在に至るまで発表された作品はすべて短篇であり、長編は一作も存在しない。『名刀月影伝』は表紙に「書き下ろし時代長編」と銘打たれてはいるものの、内実は連作短篇である。


 このように腑分してみると、高井忍という作家はいかにもオーソドックスな歴史/時代ミステリ作家であるように思われる。だが、作風の変化を通しで見ていくと、本質的に先鋭的というか、ジャンル破壊的な性格もかなり強いことが見えてくる。

 歴史ミステリの正統派でありつつもアンチ正統派でもある――一見矛盾した特性をふたつながらに具えているのが、高井忍作品の魅力といえる。


 以下本エッセイでは高井忍による歴史ミステリのライン――『漂流巌流島』、『本能寺遊戯』、『蜃気楼の王国』にスポットライトを当てて作風の発展を概観しつつ、高井忍のユニークさを紹介していきたい。


3. 作品個別紹介

3-1.『漂流巌流島』――Like a Virgin.

漂流巌流島 (創元推理文庫)

漂流巌流島 (創元推理文庫)

 高井忍は二〇〇五年、第二回ミステリーズ!新人賞を「漂流巌流島」で受賞した。同作が同年の『ミステリーズ! vol.13』に掲載され、デビューを果たす。ミステリーズ!新人賞は創元推理短篇賞を前身とする東京創元社の公募新人賞で、第一回は受賞者なしであったから、ミステリーズ!新人賞としては高井忍が初めての受賞者だった。

 その「漂流巌流島」は、宮本武蔵佐々木小次郎の対決で有名な「巌流島の決闘」を題材に据えた歴史ミステリである。

 本短編集は『時の娘』へのオマージュ要素が強い。第二話の「亡霊忠臣蔵」では『時の娘』のエピグラフが引かれているほどだ。第一話「漂流巌流島」でもまず、冒頭で「巌流島」のあらましが詳細に語られる。これは『時の娘』で同じく小説冒頭にて薔薇戦争の概要を述べられたのを彷彿とさせる。

 しかし、「漂流巌流島」で要約された「巌流島の決闘」のあらすじは、講談などで親しまれてきたテンプレからかけ離れた要約になっている。そう、巷間に流通している「巌流島」は史実ではないのだ。

 そもそも開始の一行からしてふるっている。「――巌流島というのは、俗説にあるようにこの島に命果てた剣士の名を採ったものではない。流儀の呼称を採ったものである。」(loc.22, 『漂流巌流島』) 

 なんとなれば、俗説や稗史に対する高井の姿勢は初めから明確に示されていたのである。


 ともあれ「漂流巌流島」の主眼は文献史料の信頼性をメタ評価しつつ、より史実に近い「巌流島の決闘」を導いていくことにある。その役割を担うのが主人公である若手シナリオライターと映画監督の三津木だ。前者は史料文献の調査や収集を行う役割で、後者は史料をもとに解釈を組みたてていく、いわば安楽椅子探偵である。これも『時の娘』のグラント警部と彼の部下を彷彿とさせるキャラ配置だ。

 彼らはテーブルを挟んで、史料の検討およびディスカッションを深めていく。これだけでも一般になんとなく認知されている宮本武蔵や「巌流島」の知られざるディティールがつぎつぎと提示されて意外性に富んでいるのだが、もちろんこれだけで読み物としてのミステリにはならない。

 
 需要の高さにもかかわらず、歴史ミステリが、特に歴史の謎解き一本に絞った歴史ミステリがメジャーになりきれない点もここにある。
 いってしまえば、歴史ミステリはみせものとして本質的に退屈なのだ。人物や場面がほとんど移動せず、ある一室内でのダイアローグだけで構成されがちだ。一般の時代劇小説ならチャンバラなどの活劇、時代ミステリなら聞き込み捜査などでメリハリをつけられる。だが、現代を舞台とする考証劇だとそう軽々に人物を動かせない。結果的に掛け合いと考証そのもの(つまりミステリにおける推理開陳パート)のおもしろさだけでしのぐことを要求される。

 さらに言えば、のちのちサプライズにつながる伏線をさりげなく忍びこませるのにも苦労する。歴史的事件である以上、その大部分は事実として確定していることが多く、作者の一存で都合よくねじまげられないし、劇中で新史料が手に入ったなら逐次オープンにされていかねばならない。伏線のために使用できる空白が限定されすぎている。*12


 さしあたって、高井は物語的構成を工夫した。史料レベルで読者の先入観にもとづいた俗説の転覆をいくらか繰り返したのち、より高いレイヤー、史料を検討しているキャラたちにもひねりを加えた。すなわち、それまで歴史に無知であると自称し、弁が立つもののどちらかといえば主人公の集めてきた史料と彼の推理に耳を傾ける立場だった三津木監督が、それまでの前提をひっくり返す意外な一言を発して主導権をさらっていく、という反転だ。昼行灯が実は、という講談のパターンである。
 以降、「冒頭で歴史的事件のあらすじ要約→史料を集めてディスカッション→三津木の意外な一言で反転→解決後、三津木が事件にまつわる有名な作品を引用して感慨を述べる」の組み立ては短編集を通じた黄金則となる。

 また本書には、以後の高井忍歴史ミステリを卜するにあたって見逃せないある傾向も潜んでいる。個別に詳述するとネタバレになるけれども、要は「歴史の大きな流れから独立していたように見えた事件が、実は藩や国レベルの政治的な動きを背景にしていた」という傾向だ。「漂流巌流島」でいえば、日本史でも最強レベルと認識される剣豪すらも、政治のレイヤーでは陰謀のための道具にすぎない、というように。こうした政治レベルに接続される真相は本短編集に限らず、『本能寺遊戯』や『蜃気楼の王国』といった歴史ミステリのライン、ひいては『柳生十兵衛秘剣考』シリーズでも頻出することとなる。


 歴史的事件の意外な真実をつきとめるのが、歴史ミステリのキモではある。だが、その快楽は本質的に次のようなジレンマをはらんでいる。: 本当に学術的に検討に値する新発見であるなら、小説などにせず、論文として発表するべきではないのか?

 この問に対する高井忍の態度は『本能寺遊戯』で明かされることになる。 


3-2.『本能寺遊戯』――Girls Just Want to Have Fun.

本能寺遊戯 (創元推理文庫)

本能寺遊戯 (創元推理文庫)

 『本能寺遊戯』(東京創元社、のち創元推理文庫)が単行本として出版されたは二〇一三年二月、二〇一一年の『柳生十兵衛秘剣考』を挟んで三作目、歴史ミステリとしては『漂流巌流島』以来五年ぶりとなる。

 コンセプトとしては右のようになる。蓮台野高校二年C組の仲良し歴史好き女子三人衆、扇ヶ谷姫之(通称ヒメ)、朝比奈亜沙日(通称アサ)、アナスタシア・ベズグラヤ(通称ナスチャ)は歴史エンタメ雑誌で懸賞論文を公募しているのを発見する。募集内容は各話ごとに「本能寺の変でなぜ明智光秀が裏切ったのか?」(第一話「本能寺遊戯」)、「ヤマトタケルの生涯と死の真相」(第二話「聖剣パズル」)、「春日局はなぜ江戸幕府において絶大な権力を手にできたのか?」(第三話「大奥番外編」)、「道鏡皇位簒奪計画は真実か? そしてその野望を阻止した宇佐八幡神託事件の真相とは?」(第四話「女帝大作戦」、第五話「『編集部日誌』より」)。高額賞金や歴史作家のサイン本につられた三人は、とっておきの仮説を考え出すべくディスカッションを開始する……といったもの。


 本作も机上で歴史的事件の真相を複数のキャラが議論しあう。その点では、『漂流巌流島』に似た趣向であるともいえる。が、本作が決定的に『漂流巌流島』と異なるのは議論におけるキャラの機能性だ。

 『漂流巌流島』におけるメインの二人、シナリオライターの主人公と映画監督の三津木はそれぞれ史料文献係兼助手と安楽椅子探偵という役割を分担していた。彼らは一致団結して一つの事件に取り組むチームであり、三津木が物語上の要請として意外な隠し玉を放つシーン以外においては思考様式等にさほど差はなく、対立もあまりなかった。

 かたや『本能寺遊戯』の三人組はそれぞれが独自の信条を持つ歴史マニアであり、その態度が探偵としての質的な相違として浮き上がってくる。

 特に、ヒメこと扇ヶ谷とアサこと朝比奈は(ライヴァルと呼ぶにはあまりに仲良しすぎるものの)二項対立的に描かれる。 

 扇ヶ谷は劇中の朝比奈が言うところの「実説至上主義」。歴史フィクションが嫌いなわけではないが、史実を面白おかしくねじまげる俗流解釈は一切許さないハードコア歴史オタクである。「偽史や俗説、裏づけの乏しい憶測のたぐいには冷淡、というより、あからさまに蔑んで」(loc.1378)おり、一話に一回は安易な歴史俗解や「新説」に飛びつく人々を苛烈ともいえる調子で非難する。

 たとえばこんな具合。

「史実通りに歴史を楽しめない、可哀想な人がたくさんいる。それだけの話。何でそんな人たちの好みに合わせて、現実の歴史をいじらなくちゃならないわけ? いっておくと多数決で決めていいなら、堅気の歴史家や真っ当な歴史ファンは、裏も表もない光秀の謀叛を支持する人が大多数よ。けれども、当たり前の話はいまさら話題にならない。犬が人に嚙みつくのは珍しくない、あべこべに人が犬に嚙みついたらちょっとした騒ぎになる。興味本位のろくでもない珍説ばかりが持て囃されるのも、分かりやすくいったらそんな理屈」*13

歴史に興味があるなら、謎とか、真相とか、この手のセンセーショナリズムに首を突っ込んだらいけないよ。面白いかつまらないかじゃなくて、地道な事実の積み重ねが大切なの。初めは史実を押さえるところから。それが楽しくないなら、楽しめるように心のスイッチを切り替えないとね*14


 いっぽう、朝比奈は「史実や考証に対してあまりこだわりがない」。俗説やフィクションを信じようが、空想は空想として楽しんだらよい。本気にするのは当人たちの自己責任である。「そんな考えの亜沙日だから、異説、奇説、トンデモ説に抵抗感はない*15

 この二人の歴史解釈に対する考え方の違いが、安楽椅子探偵あるいは歴史のストーリーテラーとしての思考法の違いとして出てくる。朝比奈は派手な結論(自分でも信じてない大きなウソ)をこしらえて、それを裏付ける証拠を探してくる陰謀論タイプ。扇ヶ谷は文献などの裏付けがある小さな材料をコツコツ積み重ねていき、やがて気宇壮大な結論をみちびきだす実証家タイプ。

 彼女たちの興じる懸賞ゲームでは史実ではなく、魅力的な物語を作り出すことが志向される。果たして歴史探偵として、創作者としてすぐれているのはどちらか――。

 本作は歴史の真実を探求するミステリというよりは、歴史ミステリなるサブジャンルについての一種創作論的な面を具えている。そうした点において第二話「聖剣パズル」は、優れた探偵像と優れた歴史解釈はイコールなのだとダイナミックかつロジカルに提示し、歴史と本格ミステリを理論的に合致させた他に類を見ない傑作であろう。*16


 彼女たちは作家なのである。史実にロマンなどない、最初からそんな冷めたスタンスで実利のためだけに論文を構想する。タイトル通り、新説解釈とは遊戯(ゲーム)なのだ。

 たとえば、第三話「大奥番外編」で扇ヶ谷はそもそも公募に設定された問い自体が成り立たないと言い出す。春日局が大奥を仕切り、幕政にまで容喙していたという俗説はあくまでフィクションのなかだけの話であって、現実には大奥総取締に応分の権力しか有しておらず、大奥内ではともかく男たちの支配する政治に関与する余地などなかった。
 したがって、問いに対する模範解答は「春日局は絶大な権力など握っていなかった」になる。

 それでは面白くない。面白くなければ、懸賞は獲れない。しかし受賞できるほど面白い解釈となれば――しぜん、史実から離れざるを得なくなる。

 それは、歴史ミステリというジャンルそのものにも当てはまる話だ。

 本作のあとがきで、高井忍の歴史ミステリ観があけすけに語られている。引用しよう。

 歴史ミステリというジャンルの小説は、実にへんてこな、喩えていえばヌエのような存在である……(中略)歴史の上の実際に起こった重大事件や実在した人物を採り上げて、謎解きを謳い、隠された真相の追求をかかげ、まことしやかに推理を展開してみせる。建前である。これらは視聴者や読者の興味を惹くことが初めから狙いで、何かしら話題になるような題材を選び、センセーショナルな結論を持ち出そうという企画なのである。何しろ謎解きや真相が大前提なのだから、建前とはあべこべに歴史の真実なんて本当はどうでよくて、むしろ歴史を否定し、引っくり返すというところから始まっている企画だとすらいえる。歴史を極めるだとか、歴史を再解釈するといいつつ不毛な空説が持て囃されるのはそれが話題になるからだ。


 だから、近年のミステリファンには、歴史ミステリとは『猫間地獄のわらべ歌』(幡大介著)や『虚構推理 鋼人七瀬』(城平京著)のようなものだと説明しておけば理解が容易だろう。『丸太町ルヴォワール』(円居挽著)もここに並べておこうか。ただ、これらの諸作が架空の事件を扱い、それぞれ何らかの要請で虚構の真相を捻出する事態に陥るのとは違い、歴史ミステリは現実の出来事を対象として、謎解き、真相を作ることが自体が目的になっている。*17


 ここで本格ミステリ作品である『虚構推理』や『丸太町ルヴォワール』が挙げられているのは、注目に値する。両作は共通して真相とは別の推理をでっち上げ、オーディエンスを説得するというコンセプトを有する。真実とやらが果たしてそんなに大層なものなのか、ともすれば名探偵がもっともらしく言いくるめれば、どうあれ真相になるのではないか。

 高井忍作品の恐るべきは、そうした相対主義的な*18ニヒリズムの機構が歴史ミステリというジャンルそのものにビルドインされていたことを看破した点にある。実証過程における精緻さや証拠の信頼性や議論の積み重ねではなく、結論の突拍子のなさがなにより重視されるエンターテイメントとしての偽史を、どう誠実に物語化していくかという試み。特に歴史ミステリには本格ミステリと違い、明確な敵役としての犯人が存在しない。探偵が真相をつきとめて滾々と推理を披露したところで、膝を屈して追認してくれる人間がいないのだ。*19

 したがって、真相の信頼性の判断はほぼ全面的に読者へと委ねられる。しかし、先述したように歴史の真実を本気で知りたいのであれば、小説などではなく、その筋の研究書に手を伸ばすはずだ。歴史ミステリに求められているのは、あくまで物語としての面白さである。脇を固める証拠類は壮大な新説に「もっともらしさ」をあじつけするための調味料にすぎない。歴史ミステリを読むのは、端から歴史に対して怠惰で不誠実な行為なのである。

 読者にとって歴史ミステリのもっともらしさは、それこそ「らしさ」程度で十分だ。「現代においてはむしろ、歴史は消費者の期待に応えてメディアが提供するものである、と定義するほうが正しいように筆者には思えてならない」と語るあとがきの結びは歴史ミステリと、新解釈を謳う諸種の歴史本に対する極めて的確で苛烈な批評となっている。

 このような視点から再読したならば、『漂流巌流島』で主人公コンビが歴史エンタメ映画の監督と脚本家という「メディア」に属する人間たちだったのも相応の必然性を帯びてくることだろう。


 高井忍の歴史ミステリ作家としての認識(それが諦観なのか、矜持なのか、当人の内心でどちらに属するのかはわからない)は、『本能寺遊戯』の最終話「『編集部日誌』より」で文字通り大人である歴史エンタメ雑誌の編集者の視点を導入することによって描かれる。

 この編集者は「歴史の謎を解くことと、歴史の謎解きは違う」と主張したうえで、高校生三人組に現実を説く。

「それではお訊ねしますが、比留間さんは興味がありますか? 噓偽りなしに歴史上のミステリーといっていい、姉小路公知広沢真臣の暗殺事件の真相に」
 私が訊ねると、真昼嬢は両腕を組み、うーんと唸った。
「正直な話、よく知らないんですよね。ちらっと聞いた覚えがある程度で。それとも読んだ覚えだったかな」
「比留間さんでその程度でしたら、歴史の話題に熱心なわけでもない、平均的な視聴者、読者の反応がどんなものか、おおよその見当はつきますね。歴史の謎解きや真相を売り物にするなら、世間の注目を集めることができる題材というのが条件の第一になるんです。そうでないなら本が売れない。だから、時々、史実のままでおかしなところもないような事件が抜け抜けと謎解きのテーマに選ばれることがあるでしょう? それどころか、とても史実とは認められない、噓臭い巷説のイメージでそのまま出題されたり……」
「分かっててやってたんだ!」
「どうして坂本龍馬の暗殺事件が歴史の謎として盛んに採り上げられ、いろいろな真相が飛び交うのか、おおよその事情はこれでお分かりですね?」
 確認の口吻で私は訊いた。
「世間のニーズですか、ひと言でいって」*20

 真昼嬢は何度も頷いた。
「目的は謎を解くことじゃなくて、謎解きそのもの。世間さまの興味を惹くような、センセーショナルな真相を作ること。どこが謎なのかはわりとどうでもいい。ちゃんとした検証なんてものは世間のニーズと一致する場合にだけ採用してもらえる――」*21

 こうして気ままにおもしろおかしく歴史や偽史と戯れてきた子どもたちは、人々を楽しませる、エンタメとしての歴史ミステリ作家の態度を手に入れる。本作は歴史ミステリ論ミステリであるのと同時に、アマチュアがプロへと羽化する青春成長譚でもあるのだ。
 

 ところで、本節では朝比奈の「先にセンセーショナルな結論をぶちあげて、あとづけで証拠を探していく」スタイルを陰謀論的と呼んだ。じっさい、『本能寺遊戯』で提示される主人公たちの解釈は『漂流巌流島』同様、政治レベルを巻き込んだ(『漂流巌流島』と違って題材そのものが政治性が高いというもあるが)陰謀論が多い。

 元々陰謀論的だった『漂流巌流島』から何がアップグレードされているか、といえば、そのスケールである。陰謀論はその規模が大きければ大きいほどウケやすい。『漂流巌流島』や本作の前半では政治といってもせいぜい国内政治の範疇であったが、第四話「女帝大作戦」に至っては日本を越えた国際的陰謀を俎上に載せる。

 そして、このエスカーレーションが『蜃気楼の王国』で炸裂する。


3-3.『蜃気楼の王国』――Everybody Wants To Rule the World.

 『蜃気楼の王国』(光文社)は『本能寺遊戯』につづく、高井忍にとって第四作目の短編集である。発売は二〇一四年二月。これまでの三作はデビュー元である東京創元社から出ていたが、本作は光文社から出版された。そのためか、『漂流巌流島』や『本能寺遊戯』のように現代を舞台に固定された面子で歴史的事件をディスカッションする連作短編形式からも離れ、それぞれ異なる時代に生きる人々が同時代あるいはその時代より前の歴史的事件の真相についてディスカッションするオムニバス形式をとっている。

 本稿の冒頭で掲げた定義に沿うならば時代ミステリの範疇に入るし、見方によっては『柳生十兵衛秘剣考』シリーズのほうへ近いのだが、やはり有名な歴史的事件についてのディスカッションが主としているためこちらのラインへ入れさせてもらった。

 本作のコンセプトを一言で説明するならば、「歴史上の有名人が探偵役の歴史ミステリ」であろうか。東郷平八郎秋山真之からはじまり、シーボルト、加藤宇万伎(美樹)、遠山左衛門尉(金四郎)、ベッテルハイムと錚々たる面々が各短篇の探偵役として名を連ねる。

 本作におさめられた五篇はいずれも歴史ミステリではあるものの、歴史ミステリとはかぎらない。おおまかに、歴史的事件の真相を扱う短篇と、架空の事件を扱う短篇に分かれている。前者に属するのが「琉球王の陵(レキオのみささぎ)」(源為朝琉球王説)、「蒙古帝の碑(モンゴリアのいしぶみ)」(源義経清朝皇帝元祖/ジンギス・カン説)、「槐説弓張月」(源為朝琉球王説アゲイン)の三つで、後者に属するのが「雨月物語だみことば」と「蜃気楼の王国」だ。

 さらに劇中年代もバリエーションに富んでいる。「雨月物語だみことば」(一七七六年)、「槐説弓張月」(一八一一年)、「蒙古帝の碑」(一八二六年)と「蜃気楼の王国」(一八五四年)は江戸時代、「琉球王の陵」(一九〇五年)はぐっと下がって明治時代を舞台とする。一冊で百三十年を実地にひとまたぎするのは独立短編集ならではというか、これまでの連作短編集路線からは考えられないスケールである。


 ことほどさように前二作のフレームで捉えようとすると一筋縄ではいかないのが『蜃気楼の王国』であるのだが、一篇一篇はつながっていなくとも、核となるモチーフは存在する。琉球(沖縄)だ。「琉球王の陵」、「蜃気楼の王国」では沖縄を舞台にし、「槐説弓張月」では源為朝琉球王朝開祖説を扱う。

 だが、琉球はあくまでモチーフであり、モチーフとはテーマを語る道具にすぎない。

 『蜃気楼の王国』の主題とはなにか。

 「偽史は”なぜ”作られるのか」という問いかけである。


 このホワイダニットの問いにおいて、『漂流巌流島』や『本能寺遊戯』で扱ってきた陰謀論的な真相やエンターテイメントとしての歴史解釈論が一つ上の小説的ステージへと昇る。ネタバレにならないギリギリの範囲で具体的に言えば、国際政治の力学が偽史作者たちに偽史をつくることを要求するのだ。しかし『蜃気楼の王国』における偽史作者たちは、それこそ陰謀論に出てくるような全能の黒幕などではない。姿すら定かではない敵におびえ、何かを積極的に動かすためというよりは、それまでの安寧を墨守するために、とにかく事なかれ主義をつらぬこうとしているだけの小人たちだ。

 なので偽史の内容の壮大さや突飛さとは対照的に、彼ら自身の固陋さや矮小さがなおさら哀しく浮きたつ。自分の身の丈のうちでしか物事を考えられない想像力の偏狭さが歴史をねじまげてしまう。うそをつける小説だからこその痛烈な偽史批判だ。


 近代のあけぼのを迎えて、どうしても世界を意識せざるを得なかった日本と、その近代以前から日本と中国のはざまに挟まれて外交的な綱渡りを強いられてきた琉球。これら大小二つの王国が自らに向ける自意識に、グローバルな西洋人からの、あるいは開化的な同時代人からの批評的なまなざしが重ねられていく。

 特に「蒙古帝の碑」では「その歴史的事件の『真相』は真実か?」という検証の話を進行させるとみせかけておきながら、探偵役がその真相が偽物であると看破したうえで「稚拙な偽史に対してより精巧で利用価値の高い偽史を提案する」というかなりトリッキーな構成を取る。これもまた『本能寺遊戯』からの発展系であり、オッカムの剃刀理論にもとづく最短経路での合理的解決を理想とする、探偵小説な物語理論とはパラレルな価値体系でゲームが行われていることを示唆している。

 真実の価値が失効してしまった反探偵小説的な世界観において、真実を追求する行為はどんな意味を持ち、真実を手にしてしまった人間はどうすればいいのか。歴史ミステリの極北まで行き着いてしまった高井忍があえてそうした世界観を保持したまま、本格探偵小説的なる事件を持ち込み、フィードバック実験を試みたのが最終話にして表題作「蜃気楼の王国」だ。

 ペリー艦隊が停泊する那覇で起きた米国人水兵殺害事件。あるいは事故かもしれない一見単純なこの事件の「犯人」が白日のもとへ引きずり出されたとき、探偵たるベッテルハイム医師は「犯人」からある選択を託される。司法の枠をとびこえて、犯罪者を裁くべきか裁かざるべきの選択を委ねられた探偵はミステリの歴史にも数多い。だが、ベッテルハイム医師の場合は善悪ではなく政治や歴史といった、一個人が背負うにはあまりに重すぎる事柄について選択させられる。

 本来のプレイグラウンドではない場でのゲームを強いられた場違いな本格探偵、それが「蜃気楼の王国」のベッテルハイムなのである。


4. まとめ

 かくして、一見素朴なディスカッション歴史ミステリ『漂流巌流島』にはじまった高井忍の歴史ミステリのラインは、『本能寺遊戯』での歴史ミステリというサブジャンルに対する内省的な自問自答を経て、『蜃気楼の王国』で歴史ミステリどころか本格探偵小説という大枠すら揺るがしかねない自己破壊的な彼岸に行き着いた。

 この発展の過程で重要なのは、歴史の謎解きの対象となる「物語」の変化だ。

 デビュー作『漂流巌流島』は素朴な意味での歴史ミステリに近かった。文献を突き合わせて真摯に考察すれば、歴史に隠された史実を垣間見ることができるかもしれないというプリミティブな希望が読者の側に与えられていた。 

 しかしそうした文献学的な態度は『本能寺遊戯』においては物語化・娯楽化された歴史に対しての徹底した懐疑と分析へと変容し、エンターテイメントとして消費される歴史とアカデミズムで日々蓄積されていく歴史との摩擦を浮き彫りにした。楽しみのために歴史を無邪気に物語として消費してよいものなのか?

 レトリックをこねるなら、歴史もまた物語の範疇である。だが、ファクトを説明するために物語があるのであって、物語のためにファクトを用意するのは歴史ではない。ファクトをあと付けした物語とは、偽史だ。ならば、「面白さ」という大義のために物語先行でファクトを集める歴史ミステリというジャンルはそもそも歴史に対する大罪を背負っているのではないのか。 

 そうした自省が『蜃気楼の王国』では偽史形成のホワイダニットという、相当程度メタかつテクニカルな形での批評的視座に繋がる。人はなぜ物語を事実として信じたがるのか、そもそもなぜ歴史を、物語を必要とするのか。

 高井忍の一連の歴史ミステリは、偽史陰謀論、歴史エンタメ、あるいは自分たちが歴史と信じこんでいる何かに淫する我々に対しての皮肉な文明批評でもある。果たして、このユニークな作家が「漂流」の果てにたどりつくのはどこか――今後も注視していきたい。*22



浮世絵師の遊戯 新説 東洲斎写楽

浮世絵師の遊戯 新説 東洲斎写楽

(歴史ミステリのラインの最新作。写楽の謎に迫るというか、写楽の謎の迫りたい人たちの謎に迫る連作短編集。偽史好きな人に特におすすめ。小谷部全一郎とか出てきてスーパー偽史作家大戦をやるぞ。FGOだ。)


柳生十兵衛秘剣考

柳生十兵衛秘剣考

(とはいうものの各読書サイトの評判をつら眺めるに、『漂流巌流島』以降の高井忍の歴史ミステリは一般読者にウケが悪い。歴史ミステリや歴史探偵のパロディであると知らずに歴史ミステリだと思って読むから当然の有様*23なのだけれど、読者にそこまでのリテラシーを求めるのは酷だろう。
 というわけで、高井忍初心者におすすめなのがこちらのちゃんばら時代本格ミステリ。高井忍が本格ミステリ作家として「ふつうに腕がいい」ことがわかる作品だ)

*1:実際にイデオロギーによって指向される真実というのは非常に多重解決、あるいは討論型ミステリによくマッチしているので、こうしたワードでもって作品を語ること自体が間違っているとは思わない。自分個人がミステリと現実空間それぞれにおけるオピニオンの複数性を分析することに情熱を持てないだけです

*2:僕は基本的に「時代ミステリ」との区別で「歴史ミステリ」、特に強調したい場合には「考証劇ミステリ」と呼んでいる

*3:誤用。

*4:あたかも多紀さんのおかげでたまたま思い出したとでもいうふうにふるまっているが、実は宣伝の機会を虎視眈々と狙っていた私の深謀遠慮が冴えている

*5:楽しかったけど本当にキツかった。もう短編ごとの全レビューなんて二度とやらぬ決心である

*6:『浮世絵師の遊戯』と『名刀月影伝』。特に『本能寺遊戯』の後継であり「歴史ミステリ」のラインに属する『浮世絵師の遊戯』が致命的だった

*7:インタビューも『BIRLSOTNE GAMBIT』で読めます

*8:あとわりと既存の文献をあまり参照せずにざっくりしたテーマでざっくりしたことを語っているので、エッセイといえどこのまま金取る本に載せるのは憚られるなー、とも思い

*9:手元に本誌がないので最終稿が確認できない

*10:民俗学ではあるが

*11:「現代の人物たちが歴史の謎に迫る」という条件を緩めて、「当時の人物たちが〜」も含めるようにしてもジョン・ディクスン・カーの『エドマンド・ゴドフリー卿事件』などがある程度。

*12:そこで高井はミステリに必須である「意外な伏線」を仕込むためにあるトリッキーな術策をあみだす。Birlstone Gambit 掲載の全レビュー参照のこと

*13:loc.166、「本能寺遊戯」

*14:loc.188、同上

*15:loc.1378

*16:傑作である理由については、特にここでは解説をはさまない。詳しくは実際に読むか『BIRLSTONE GAMBIT』のレビューを読んでくれ

*17:loc.4878

*18:本エッセイの初稿では「後期クイーン問題的な」と形容していたように覚えている

*19:陰謀論や歴史の新説本に対する高井忍の懐疑的な態度は『BIRLSTONE GAMBIT』掲載のインタビューで詳しく語られているぞい

*20:loc.4536、「『編集部日誌』より」

*21:loc.4574、同上

*22:とくにまとめきれなかった場合になんとなくいい感じで終わらせたいときに使うフレーズ

*23:俗説を史実で潰す高井忍式歴史ミステリのスタイルは、必然的に文献の引用が多くなる。それが読者には退屈に映るのだ

映画『夜は短し歩けよ乙女』の感想というか体験談

夜は短し歩けよ乙女』(湯浅政明監督、日本、2017年)

『夜は短し歩けよ乙女』 90秒予告


わたしたちは森見登美彦被害者友の会である。

 だれもが森見小説を愛していた。『四畳半神話大系』や『夜は短し歩けよ乙女』にあこがれて京都へやってきた。京都には夢があるのだとおもっていた。魔法が息づいているのだと信じていた。

 そして、裏切られた。

 実際の京都には夢も魔法も存在しない。あるのは二通りの現実だけで、つまり魔法めいた現実か現実めいた現実のどちらかだ。下鴨神社の古本祭りを徘徊するのは野獣のような眼光を湛えた古本極道たちと森見登美彦を読んでやってきたサブカルクソ野郎ども、木屋町をうろつくのはポン引きと川に吐瀉物をぶちまけるスーツ姿のおっさんたち。金閣寺、御所、寺町、伏見稲荷、名前のついている名所史跡はいつでも三百六十五日、クラッシャー帽をかぶった観光客たちで埋めつくされている。どうしようもなく世間だ。*1
 そんな惨状を目の当たりにしても、意外に失望は湧かなかった。最初からうすうす勘付いていたのだ。「そんなもの」は最初からないのだと。
 やがて、わたしたちは森見登美彦を信仰しなくなった。あるいは最初から信仰などしていなかったのだろうか?
 書店には森見登美彦万城目学のフォロワーとしての京都小説が積まれるようになり、いつのまにかストロングホールドな一大エクスプロイテーション・ジャンルが築かれた。森見と違って魔術師の才能に恵まれたものは多くなかったようだったが、それでも商業的には成功を収めた。
 京都は売れた。京都は金になった。京都はそうやって、いつからか夢も魔法も内在させていないことを隠さなくなった。
 それから、七百年がすぎた。

湯浅政明が『夜は短し歩けよ乙女』をアニメ映画化する

 という真偽定かならぬ噂を聞き、わたしたちは二条のTOHOへ、三条のMOVIXへ、京都駅前のTジョイへと向かった。このうちMOVIXへ行ったものは現地で『夜は短し』の上映が行われていない事実を知り、寺町のアニメイトをひやかして帰った。
 幸運にもチケットを購入しえたものはもぎりのお姉さんの脇を抜け、重くてたいそうな扉を開き、映画館の暗闇へと身を沈める。


 Tジョイではシアター9だ。
 TOHOではスクリーン1だ。


 席を埋めている人々はみなわたしたちだ。学校帰りの高校生も、早くも講義もサボってやってきた大学生も、若いカップルも、見た目から仕草から型どおりに典型的なオタクも、父親がIT企業で働いてそうな見た目の親子連れも、よく映画館で見かける孤独そうな老人も、誰もが森見登美彦を信仰し、裏切られた末にここにやってきた。
 半券に指定された席に座ると周囲の闇からささやく声が聞こえる。
 ”おまえは森見登美彦を読んだことがあるか。『夜は短し歩けよ乙女』を知っているか。”
 知っている。『四畳半神話大系』も『太陽の塔』も『ペンギン・ハイウェイ』も、思い出の彼方、胸の奥に眠っている。だが、あれからもう七百年も経ってしまって、眠ったままだよ。たぶん、もう二度と目覚めないかもしれない……。

 苦笑いで吐いたそんな予言が上映開始三分で覆される。
 おそろしいほど甘美なテンポ。
 かぐわしいほどにキュートなアニメーション。
 すさまじい勢いで発動していく湯浅政明一流の魔術で、わたしたちの知っている京都の景色が塗り替えられていく。いや、すり替えられていく。
 目が覚めてしまう。
 信じてしまう。
 今、この瞬間、この眼に映っている京都こそがほんものの京都なのだと、信じ込まされてしまう。
 わたしたちはこの感動的な詐術に既視感を持つ。森見の、原作小説を読んだときにも味わった感覚と同質の酩酊をひきおこしていることに気づいてしまう。あの饒舌な原作が大幅にカットされて純粋に湯浅政明のアニメーションになっているにも関わらず。なぜ同じなのか?

速度。

 そう、速度だ。あの原作小説の声の速さがそのまま映画のBPMに変換されている。だからこんなにも心地が良い。すべてが愛らしく、その愛さしさが減衰されないまま、ただひたすら愛しいままに90数分間をつっきってしまう。
 この速度の前では絵面と星野源の声のマッチしなさ*2など顧みられない。現実の京都の空の曇り模様など消し飛ぶ。憂いなど、まるでこの世界のどこにも存在しないかのようだ。
 花澤香菜演じる乙女が酒を一杯飲み干すたびに、わたしたちはこれまでの七百年を思い起こす。そういえば、アニメなら『四畳半神話大系』もあった。『有頂天家族』もあった。どちらもすばらしいアニメシリーズだったじゃないか? っていうか、『四畳半』のキャラが本作にも出てるんだけど。
 だが、映画版『夜は短し歩けよ乙女』はスウィートさで言うのなら、その二作を圧倒する。理由は単純で、尺が短いからだ。何度も言うように、必要なら何度でも言うけれど、速いからだ。
 

 映画『夜は短し歩けよ乙女』は一年のできごとを一晩の夢酔に圧縮した物語である。そういうフレームで捉えると、本作が『四畳半』のようなアニメシリーズではなく一本の映画になったのは必然であるように思われる。ゆっくり長大に語るのではなく、遠大でありつつも迅速に語る。そのスタイルにこそマジックが宿る。
 夢には夢の職人がいるもので、世界一の夢職人である湯浅政明はその点において最も本作に人材だ。こういう請負仕事に*3「『マインドゲーム』以来のマスターピース」と言ってしまうのはさすがに湯浅ファンの怒りを買いそうだけれど、でも事実そうなんだからしかたがない。

 劇中、「時計」がモチーフとして繰り返し用いられる。年齢によって経つ時間の速さが異なる時計だ。若ければ分刻み、老人は年刻みで光陰が過ぎ去っていく。
 時間の体感速度が違えば体験の質もまた違う。そのせいで老人たちは人生を味気ないものと感じて日々を過ごしていくが、黒髪の乙女という強力な地場が経過する時間と体験の質を等質化してしまう。 
 そうして、観客にとっても映画の登場人物たちにとっても、ほんとうの意味で夢のような一時間半が過ぎていく。そのあいだだけは、この京都はあの日夢見たはずの京都だ。

*1:よく言われるように鴨川の向こう側とこちら側では流れる時間と世界が違う。

*2:念の為に言うが星野源の演技が下手なのではない

*3:ただ一点、学園祭のミュージカルパートは湯浅本人も「気が進まなかった」(公式パンフより)せいもあってか全体のテンポを削いでしまっているのが残念。

『ルポ ネットリンチで人生を壊された人たち』(ジョン・ロンソン、光文社新書)

 ツイッターは、かつては何気なく、深く考えずに自分の考えをつぶやくことのできる場だった。ところが今では、常に不安を感じながら、慎重に物を言わねばならない場に変わってしまった。*1


www.ted.com

(本書に関連したロンソンのTEDトーク。ウィンドウ右下のタブから日本語字幕が選べます。)

あらすじ

 ノンフィクション作家のジョン・ロンソンはある日 twitter で自分を騙る bot アカウントに遭遇する。彼は、削除に応じようとしない bot 制作者に対してネットでいわゆる「晒し」行為を行いアカウントを取り下げさせるのだが、この件の成功に酔いしれ、「悪と闘うために、悪人を晒し者にするという手段」に興味を抱く。

 まもなく、ポピュラー・サイエンスの人気ライターであるジョナ・レーラー(日本でも『一流のプロは「感情脳」で決断する』と『プルーストの記憶、セザンヌの眼』の二冊が訳出されている)が自著のなかで引用していたボブ・ディランの引用の捏造が発覚し、大スキャンダルに。ロンソンは捏造を暴いたジャーナリスト、そして炎上当事者であるレーラー本人に取材を敢行する。

 若くして名声を得ていたレーラーだったが、この事件をきっかけにてがけた記事の不正がつぎつぎと発覚し、ほとんど一夜にしてポピュラー・サイエンス界の寵児からパブリック・エネミー・ナンバーワンへと転落してしまう。職を失い、ジャーナリストとしての未来も断たれた。このあたりの経緯が映画『ニュースの天才』(ビリー・レイ監督、二〇〇三年)の題材になったスティーブン・グラス事件*2と重ねられるのは興味深い。ただ、一から記事を捏造したグラスに較べて、レーラーの「捏造」はディランの言い回しにちょっとしたつけたしを行ってせいぜいニュアンスを変えた程度だ。なのにグラスと同等か、それ以上の恥辱がSNS社会から与えられていることにロンソンは違和感を持つ。

 なにもかも失ったレーラーは、起死回生のためにあるカンファレンスでの講演の依頼をひきうける。彼は公の場で謝罪することで反省の意を世間に示し、ジャーナリストとしてのキャリアを復活させる緒をつかもうと考えた。
 はたして、カンファレンス当日。謝罪公演の模様はインターネットでストリーミング中継され、壇上の彼の背後にはリアルタイムに twitter での反応を表示するスクリーンまで用意された。打ちひしがれた様子で頼りなく反省のことばを吐くレーラーに、最初はネットの住民たちも好意的な反応を示し、講演は成功するかと思われたが――。

 レーラーへの取材後、ロンソンはネットで炎上した一般人たちにインタビューを試み、炎上の本質やその対処法を探っていく。

著者とそのスタイル

 ジョン・ロンソン*3ウェールズ出身のノンフィクション/ドキュメンタリー作家。既訳書には『サイコパスを探せ!』などがある。映画ファンにはドキュメンタリー『キューブリックの秘密の箱』(ジョン・ロンソン監督、二〇〇八年)、ジョージ・クルーニー主演の『ヤギと男と男と壁と』(グラント・ヘスロヴ監督、二〇〇九年)の原作、およびドーナル・グリーソン&マイケル・ファスベンダー主演の『FRANK』(レニー・アブラハムソン監督、二〇一四年)の原作脚本でなじみがあるかもしれない。ちなみに次の脚本作はなんとポン・ジュノ監督の韓国-アメリカ映画『Okja』。
 英語版 wikipedia によるといわゆるゴンゾ・ジャーナリストを自称しているようで、著書の視点も俯瞰して物事を観察する、というより、現場や当事者に直接突撃してその目線からみずからの思考をぶつけていく、というのが中心のスタイルをとる。 

 そういうわけで、本書の大部分は著者が行ったインタビューのやりとりで占められ、その様子が克明に記録されている。この対話というか、著者のキャラクターがおもしろい。
 彼の書きっぷりはアイロニカルかつ明け透けだ。地の文では場面ごとに自分の感じたこと、思ったことが事細かに書かれており、時にふてぶてしい。イングランド人の皮肉な笑いがウェールズ人の血にも宿っているのだろうか。たとえば、こんなやりとり。
 

 彼(注・レーラー)は何度もこう言った。 「僕のことは本に書かないでください。僕は、あなたの書く本にはふさわしくない」  私の方も何度も同じことを言った。
「いえ、ふさわしいと思うので書かせてください」  
 彼が何を言っているのか、よく理解できなかった。私はまさに彼のような人について書こうとしていたからだ。レーラーは虚偽の文章を書くという罪を犯し、公の場で恥をかかされるという罰を受けた。まさに私の本のテーマにふさわしい人だと思っていた。*4


 取材でも思ったことをすぐに口するタイプなため、たびたび取材対象に対して苦言を呈したりするが、それでもインタビュイーから敬遠されないのは人徳だろうか。
 一方で人への取材だけに頼らず、炎上・ネットリンチ現象の根源を調べるために多くの国で近代まで存在した羞恥刑の歴史をひもといたりもすることも忘れない。題材が題材だけあって、巻末の参考文献リストは細心の注意が払われ、充実している。

さまよえるウェールズ

 『サイコパスを探せ!』でサイコパスへの理解が深まるにつれて「自分もサイコパスではないか?」という不安に陥っていったロンソンだが、本書でも炎上当事者と似たような言動をしていた自分の迂闊さを思い出して冷や汗をかき、逆に「晒し」行為に加担していた過去を悔やむ場面が出てくる。
 彼は悲惨な炎上事例に触れるたびに、正義感から煽動していた twitter での晒し上げに思いを馳せるものの、個別の被害者については「数が多すぎて名前を思い出せない」と言及を避ける。だが、中盤になってついに「どうしても忘れられない相手がいる」と具体的な名前を白状する。ほんとうは憶えていたのだ。
 その人の名はA・A・ギル。コラムニストの彼は、ある日「見知らぬ何者かを撃つのというのはどういうことか、体験してみたくてサルを撃ってみた」と雑誌のコラムに書いた。この記事をロンソンが twitter で告発すると、たちまち「霊長類殺し」ギルに対する非難の声が拡散し、新聞なども便乗してちょっとした騒ぎになった。人道の勝利である。
 ところが、ロンソンには自分の動機が真に正義感から発したものではなかったことを知っていた。「A・A・ギルの動向に私が注目していたのは、彼がいつも私の手がけたテレビ・ドキュメンタリーをけなしていたからだ。何か言い返したくて、そのきっかけを待っていたようなところもある。」*5

 ジョン・ロンソンというおもしろおじさんを主眼に読むならスリリングな一瞬だが、もちろんこれは特殊な事例だ。彼が晒してきた他の人たちは、おそらく、ロンソン自身とは直接なんのかかわりもなかった人ばかりだっただろう。

 私(注・ロンソン)はこれまで何人もの人を公開羞恥刑にした。うっかり本音を言ってしまった人、普段かぶっている仮面をほんの一瞬、うっかり脱いでしまった人、そんな人をめざとく見つけては、多くの人達に知らせる。そういうことを何度も繰り返してきたのだ。今はその相手のことをほとんど思い出せない。確かに怒っていたはずなのに、怒りのほとんどを忘れてしまっている。*6


 そして、大抵の炎上はロンソンのような善意の人たちによって起こる。

 本書に出てくる炎上当事者たちはみな程度の差はあれ、「愚か」とレッテルに貼られてもしかたないの言動を犯したかもしれない。「自分は白人だからエイズにかからない」という自分では自虐的なジョークのつもりなことをつぶやいた人、米軍墓地の「静かに、そして敬意をもって」と表示された標識の前で中指を立てた写真を撮り Facebook にアップした人、ITカンファレンスの聴衆席で女性蔑視的な卑猥なジョークを友人と囁きあっていた人、そのジョークを飛ばしてた二人を写真に撮り twitter に「女性の敵」として晒し上げた人。
 これら全員が、何百何千という見知らぬ人たちからともすればひどい暴言(ともすれば炎上者の発したものより差別的な)を投げつけられ*7、人格を否定され、個人情報を暴かれ、職を失った。
 彼らの名前でグーグルを検索すると炎上事件関連がヒットするようになり、そのせいで次の職にもなかなかありつけない。人生を徹底的に破壊されたのだ。すくなくとも、誰一人として法を犯さなかったにもかかわらず。
 それは世間による私刑だ。罪を犯した人物を、名も無き個人たちが執拗に追跡し、実況し、追い詰め、滅ぼし、消費する、デイヴ・エガーズの小説『ザ・サークル』みたいな監視ディストピア社会。

 ロンソンは疲労困憊し、人生に倦み疲れた炎上当事者たちの姿を直接かいま見ることで感化される。
 直接に利害や怨恨があるにせよないにせよ、人間のうっかりした瑕疵や失言を責めてその人の人生を破壊する権利などあるのだろうか? 人間だれしも弱みの一つや二つを隠しているものだ。その弱みが何かの拍子で引きずり出されて、世界じゅうから非難の的にならないなんて、誰が断言できるだろう?
 彼は、終盤、「炎上しても立ち直る方法」を探す旅に出る。それはやがて「恥とは何か」の探究へと発展していく。
 
  

たったひとつの冴えた炎上回避策

 基本的に文章を書いて公共の眼に晒す行為は常に賭けをともなうわけだけれども、現在のSNSで行われるそれはほとんど『カイジ』の鉄骨渡りに近い。自分でもなんでもなく思っているような発言がどこぞの誰ぞに拡散されて炎上し、リンチを受けないのは奇跡のたまものだ。
 本書に出てくる炎上した一般人はある共通項を有していた。それは「自分の周囲でこういう行為(わるふざけ)は容認されていた」という油断だ。気心の知れた知り合いなら、多少不愉快で品の悪い冗談で気分を害しても「まあそういう人間だしな」程度で済む。ところがそれが第三者によって拡散され、世間という異なる文脈に乗せられたとたん、発言者は生まれてきたこと自体呪われるような鬼や悪魔のあつかいを受けてしまう。
 
 この文脈の越境がやっかいだ。SNSで発言するとき、私たちは多かれ少なかれ読者を意識する。その読者とは、友人であり、理解者であり、私たちに対して寛容でやさしい人たちだ。趣味や志向や倫理基準も似通っており、TLという実体を伴った空気を共有している。
 ところがSNSは閉じたコミュニケーション空間の構築を強要する一方で、リツイートだのシェアだのでかんたんに文脈の越境を生じさせてしまいもする。一見、誰の眼から見ても同じような意味にしかとれないように思われることばでも、シマが移れば空気の組成も変わり、笑いや共感とは別の感情を誘爆してしまう。たまにそういう誤配の現場を実見すると胸がざわつきますね。

 だったら、いつも常識に注意を払い、気をつければいい。そうかもしれない。世間で共有されているらしい倫理の最低限のラインさえ守れば、たまに異なる文脈を持つ他人を傷つけることはあっても、一万人が憤怒する大炎上にまで至ることはないかもしれない。
 しかし二十四時間三百六十五日常に注意深くいられないのが人間という生き物で、そのせいで今日もどこかで誰かが車に轢かれている。人間の認知もまた完璧でなく、もしかしたら、自分では交通法規を守っていたはずなのに通行人を轢いていた、なんてことも起こりうるかもしれない。
 
 結局のところリアルな個人情報と細い糸一本でもひもづけた状態で発言するかぎり、「気をつけた」ことにはならない。
 もっとも確実かつ安全な炎上自衛策とは、ロンソンの友人であるステケルマンが実践した方法だろう。

 ステケルマンはもうツイッター上にはいない。彼の最後のツイートは、二〇一二年五月十日のものだ。「ツイッターは人間がいられるような場所ではない」と書いていた。*8


ルポ ネットリンチで人生を壊された人たち (光文社新書)

ルポ ネットリンチで人生を壊された人たち (光文社新書)

ザ・サークル

ザ・サークル

*1:loc. 5477

*2:九十年代にIT関連の報道で人気を博していた若手記者スティーブン・グラスによる記事捏造スキャンダル

*3:ロンスンとも

*4:loc.608

*5:loc.2669

*6:loc. 2658

*7:余談だが男性の炎上者には見られず、女性の炎上者だけに見られる現象として、「レイプ予告で脅迫すること」が指摘されているのは興味深い。

*8:loc.5477

擬人化されたネコのアニメが出てくるMVは名作の法則10選

これまでのあらすじ:

 近頃巷は「擬人化されたネコのアニメが出てくるMVはどれも名作である」といううわさで持ちきりだとか。
 本当でしょうか?
 そこでわれわれは擬人化されたネコのアニメが出てくるMVを10本みつくろって検証してみました。ヴァイラルサイトのクソ記事みたいな書き出しですね。


Lone Digger - Caravan Palace

www.youtube.com
 たぶん現状世界でいちばん有名な擬人化ネコアニメMV。

Shoot Him Down - Alice Francis

www.youtube.com
 エレクトロ・スウィングはやたらネコをフィーチャーしてくる印象がある。

Opposites Attract - Paula Abdul

www.youtube.com
 擬人化アニメネコMVといえばポーラ・アブドゥル

Skat Strut - MC Skat Kat featuring Paula Abdul

www.youtube.com
 ポーラ・アブドゥルといえば擬人化アニメネコMV。

I'm Not Yours - Angus and Julia Stone

www.youtube.com
 叙情的。

When I'm Around U - BURNS

www.youtube.com
 映像ドラッグ感が一番強い。

Harlem Shuffle - The Rolling Stones

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 ローリング・ストーンズも擬人化ネコアニメMVを鋭敏に取り入れていた。さすがの慧眼である。

けっこう毛だらけ猫灰だらけ - ねこね、こねこね。

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 美大バンド臭がしますが美大バンドです。

Asleep In The Deep - Mastodon

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 ストップモーション枠。

あんこくねこぐんだん - アンディーメンテ

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 不朽の名作。


検証の結果、

 擬人化されたネコのアニメが出てくるMVは名作であることが証明されましたね。
 今後も擬人化ネコされたネコのアニメに期待しましょう! (おわり)
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