名馬であれば馬のうち

読書、映画、その他。


読書、映画、その他。


私はゲームと書き物がへただ。

 颱風がいくつか北大路通を過ぎて死の季節を開いたようだった十一月、ようするに寒い。両手足のゆびさきが絶妙に冷える。毎朝なじみのゴミ捨て場ずまいのネコも早朝からどこかへと失せるようになって、他人の犬たちの毛も増えた。大きい犬ばかりだ。散歩に出るのは。

 この前なんか、王将の前の横断歩道で信号を待っていたら、わたしの横に大型犬が三匹も溜まったよ。ハスキー、セントバーナードゴールデンレトリバー。そういう奇跡もある土地だ。

 わたしはわたしの犬を飼えない。犬飼いが犬とあそぶ時間を、別の余暇に割かなければならない。だから、さいきんのひと月ばかりは、金をもらって文章を書いていた。

 時間的な順序をただせば、文章を書いて金をもらっていた。人さまに見せると、面白くないと言う。なんだかつまらないものを書いた気になった。

 つまろうがつまるまいが、金はマネーだ。何かを買える。何を? ゲームを買う。Steam では毎日何かしらのパソコンゲームが安売りに出されていて、まるで奴隷市場の様相です。あなたに愛玩してもらうために、かわいらしい産まれたてのゲームたちが媚びながら、数分間の新しい快楽を約束してくれます。


Superflight 七分

Superflight Launch Trailer - Wingsuit Highscore Game


 スタートと同時に宙に投げ出される。眼前にはルネ・マルグリッドの描いた岩をマインクラフトでぶさいくに掘削したような絶壁が立ちはだかっていて、開始三秒以内に避けるなり回りこむしないと墜落する。
 あなたは鳥だ。ただし、カモメやアホウドリのように羽ばたくことはゆるされない。グライダーで滑空するだけだ。運と手管に恵まれれば、気流をつかまえて上昇することもできるだろう。でもそれだってほんの二、三秒しかもたない。すぐに落下する。
 重力の原理にしたがってしまえば楽に死ねる。あるいはできるだけ長い間滑空を続けるのもいいかもしれない。岩壁スレスレに飛べば、ポイントが加算されていく。なんのポイントかわからない。ぐるりと岩壁を周回する。ポイントが二倍になる。なぜ二倍なのか。誰にもわからない。
 意味をもとめてメタファーを探すのは徒労だ。そこに太陽はない。あなたはイカロスではない。
 意地汚く長生きすれば、やがて空間の歪んだ場所を発見できる。そこはポータルと呼ばれていて、くぐれば別のエリアに飛ばされる。別のエリアには、別の色の岩壁。別のポイント。別の墜落。するとまた、別の飛行。


Universal sandbox 2 八分

Universe Sandbox 2 - Teaser Trailer HD

 そこではコッツウィンクルの掌編みたいに、太陽系を貸し出している。あなたは嬉々として天の川銀河を受け取るが、そのあとどうすればいいかわからない。
ひとしきり途方に暮れた末に、太陽系に惑星を追加することに決める。
 そうして形成されたベガクラスの天体に、悪意は微塵も含まれていなかったはずだ。
 数周期もしないうちに異変が発生する。すべては重力のせいだ。まず水星が従来の軌道をかろやかに外れる。次にふきげんな金星が暴れ出す。すでに太陽も不審な挙動を見せはじめる。火星は手前勝手に新しい軌道を引いてそれに沿って回るし、土星はこのままいけば木星と衝突する。
 そして、われらが地球は? とっくに太陽に呑まれて影も形もない。予定より数十億年早いな。
 あなたは海王星をカメラで追尾する。海王星はいまや銀河でいちばん孤独な旅人だ。尻からなんだか正体不明の粒子を吹き出しながら、いつか別の惑星に出逢えることを夢見て、真っ暗な外宇宙をものすごいスピードで旅している。


Kerbal space program 6分

Kerbal Space Program Launch Trailer

 あなたはしちめんどくさいチュートリアルをすっとばして、出来合いのロケットで宇宙征服を企む。
 だが、そのロケットは飛ばない。
 いかにも第二宇宙速度を超越しそうな機体から燃料らしきものを吹き出しているくせに、飛ばない。
 チュートリアルをすっとばしたあなたには発射失敗の原因がわからない。重力に打ち勝つ方法を人類は発見したはずではなかったのか?
 発射場は夜になった。
 あなたの乗組員たちが困りはてている。


Hue 1時間

Hue Gameplay Trailer

 パレットのなかから色を選ぶ。すると世界がその色で塗りつぶされる。
 たとえば、青で世界を塗ったとする。その場合、オレンジの世界のときには見えなかったオレンジの足場が見えるようになり、それまであった青の箱が消えてしまう。
紫のときは紫以外のすべての色のオブジェクトが可視化され、紫のものだけが見えなくなる。
 メランコリックな女の語りがどこからか聴こえる。
でも、色とりどりの殺人岩を避けるのにいそがしいあなたの耳には入らない。


Hollow knight 19分

Hollow Knight: Beneath and Beyond Trailer

 愛らしいガイコツがかわいいクリーチャーたちを地下世界でなぎたおす。どう進めればいいのか誰かおしえてくれ。


GONNER 3時間

GoNNER Launch Trailer – Nintendo Switch

 愛らしいガイコツがデカいクジラのようなイルカ?を救うために、地下世界で銃弾をぶっぱなす。頭は着脱可能だ。武器も。命さえも。
 いつかは回避不能になる瞬間がくる。
 受け入れる準備をしておけ。
 それはあなたが思っているよりも早くやってくるから。


Night in the woods 15分

Night In The Woods Trailer - NEW DATE: FEBRUARY 21st

 大学を中退したネコが故郷の町に戻ってくる。町に入るためには、清掃員だか警備員だかにコーラをおごらなければいけない。家に帰ると父親が待っている。彼はあなたの帰りを予期していない。そこまでしかプレイしていない。


PUBG 1時間

Battlegrounds PS4 & XB1 RELEASE CONFIRMED!! PlayerUnknown's Battlegrounds On PLAYSTATION 4 & XBOX 1

 武器も持たず民家のトイレに籠って敵を待ち受ける。『喧嘩商売』に学んだ必勝法である。誰の足跡も聞こえないまま数分が経過する。プレイエリアの縮小が告知される。トイレから退出することを余儀なくされる。そして、民家を出たところをスナイパーライフルで撃たれる。実にみごとなヘッドショット。順位は32位だ。まあ、そんな日もあるさ。


Fortnite 2時間

Fortnite Battle Royale Gameplay Trailer

あなたはグライダーのおもむくまま、刑務所に降り立つ。
それははじめてのプレイだろう。なので、しらないのはしかたがないんだけれども、刑務所は皆殺しの野なんだよね。あなたは死ぬ。順位は82位。まあ、そんな日もある。


RUINNER 20分

 ヤクザが強い。操作のフィーリングがクソだ。これでIGNはよく満点をつけたものだとあなたは唾を吐く。慣れればおもしろくなりそうな予感はある。その予感を予感のままに残し、あなたは別のゲームへと移る。


Fate grand order 

 どのくらいの回数を回せるか、ではない。
 どのくらいの速度で回せるか、だ。
 忘れないで。


マギアレコード

あなたは本物の絶望をそこで知ることになるだろう。


Unepic 10分

Unepic Wii U Trailer


アメリカのオタクがノリで作ったようなシナリオに付き合うだけの気力が、そのときのあなたには欠けている。


Starbound3時間

Starbound - 1.0 Launch Trailer

 幸運なことにあなたには一緒に遊んでくれる友人がいた。
 ボイスチャットを介せばどんなゲームも楽しいものだ。
 あなたは宇宙船を拡張する。ペンギンを雇う。どこかの星に降りたつ。見知らぬ風景、見知らぬ人々。ときめく冒険心。
 なのに。
 なぜみんな死んでしまったのだろう。
 殺したのはあなただ。
 あなたにそんなつもりはなかったのに。
 ただ異星人の家にあった竹のテーブルが欲しかっただけなのに。
 もらっても怒られないと思ったのに。
 村から追われて別の村へ。そこの人々も敵に見えて、あなたはついブラスターを向ける。
 友人は言う。欲望が誤解を産む。恐怖が虐殺を産む。それはピサロやコルテスの頃から変わらない、征服の作法なんだよ。
 友人は原住民の死体を銃把でどかしながら、金庫を物色する。そしてこちらを向き、かなしく首をふった。なにもない。クズばかりだよ、この星は。いったい何のために存在しているのやら……。
 あなたの船に新しく据えられた竹のテーブルは、野蛮人どもの血に塗れている。


Lobotomy corporation 29分

[ Lobotomy Corp ] Join to Our Manager!

 神秘を説き明かせ。幾重にも覆われた謎のベールを一枚一枚丁寧に剥いでいくのだ。
 その過程であなた研究員達は狂気に陥り、研究所内で殺し合いを行うだろう。
 だとしても、この研究はそれを乗り越えるだけの価値がある。
 そう信じたい。
 SCP財団の福音が聴こえる。


Beholder 11分

Beholder Trailer [Polish]

 祖国に対する裏切り者があなたのマンションに潜んでいるらしい。
 監視しろ。鍵穴から覗け、隠しカメラを設置しろ、あらゆる不審をレポートにまとめるのだ。
 祖国はいつか、あなたに報いてくれるはずだ。


Candle 7分

Candle Trailer (2016 Video Game)

 ロウソクが飛んだり跳ねたりしていた。よく覚えていない。


Deceit 30分

 人狼fpsというキャッチーな謳い文句に惹かれて、あなたは閉鎖された病棟に仲間ともに飛び込む。仲間はもちろん、前から見知った友人達であるほうがのぞましい。できれば、ボイスチャットで繋がれる相手あるのがよい。
 あなた自身を含む仲間のうち二人は裏切り者だ。狼だ。夜になれば人を食う。だから、どうかお願い、逃げて。あるいは投票で殺せもするだろうが、現実的とはいえないだろう。あなたの仲間を殺さなきゃいけないのだから。
 野良プレイでは日本語を喋る狂人か、外国のことばを喋る狂人しかいない。近づくな。


Moonhunters 3時間

Moon Hunters | Gameplay trailer

 あなたは力を得て狼に変身する。モンスターを殺して金を集めると、今度はライオンに変身できるようになり、ボスに勝つ。ボスに勝つと、英雄として、そして星座として登録され、別の人生での冒険に添えられるささやかな彩りとなる。
 別の人生であなたは狼に変身できないかもしれないが、やがて星座に昇る運命は変わらない。
 人生は繰り返される。
 四度ほど繰り返されたところであなたは飽きて、九生を生きるネコたちの熱心さに畏敬の念を抱く。




RENOWNED EXPLORERS 2時間

Renowned Explorers: International Society Trailer

『アンリミテッド:サ・ガ』を思い出すよ。なつかしい。
 今では名作ということになっているらしいが、今でもダメなゲームだったと思う。しかし、あのゲームみたいに、見捨てさえしなければ面白さを味えたゲームをいくつ見放してきたことか。いまさら思いを馳せても詮無いけれども。
 REはアンサガより大分わかりやすい。そして、楽しい。
 アイルランドハンガリー、アルゼンチン、世界中を飛び回って冒険する。インディー・ジョーンズみたいに遺跡からお宝を発掘しにいくよ。もちろん、インディー・ジョーンズみたいに危険な目にいっぱいあうけれど、それはやはり映画的な、安全な危険だったりもする。
 倦怠は健全なよろこびだ。現実にはとうの昔に踏破されていると知りながら、あなたたちは未知の領域へと出かける。



 買えば買う分だけ、ひとつのソフトあたりのプレイ時間が短くなる。体験が薄まる。
 それでもまた買う。ライブラリにはアルファベット順に並んだ未プレイソフトたちが優美な屍骸を形成している。
 いつか遊ぶ日が来るかもしれないし、来ないかもしれない。
 
 

私たちは悪魔と取引してデザインされた死を遊んでいる


 『ゆゆ式』を思い出そう。『終末少女旅行』を思い出そう。


 あなたはいつだって、「この問題」を無敵の少女たちに押しつけてきた。
 その罰として、あなたは今、悪魔と契約したコップに成り果てている。
 


Cuphead Launch Trailer



 人生では一回しか体験できず、ゲームでは何度でも味わえるものの一つに死がある。
 ゲームにおいて前提となる要素はかならず洗練されていなければならず、つまり死が前提となるゲームではいかに死という体験を洗礼していくか、そんな話になる。
 中世の王たちが生ではなく死をもって人々を統治したように。


 Cuphead。


 そこにはデザインされた死の体系がある。
 ちょっとした油断、ささやかな操作ミス、初見ではよくわからない敵ボスの当たり判定、結果として明らかに回避不可能となってしまったが事前にもうすこし考えて動いていれば出来していなかったはずの殺し間。

 プレイ動画を観た人間は誰もが「かわいそうに、理不尽に殺されているよ」とプレイヤーをあわれむことだろう。

 だが、プレイヤー本人は「理不尽」とは感じていない。

 彼にはなぜ自分が死んだのかが見える。

 ステージ開始から一分四十三秒後に死んだのなら、その百三秒の一挙手一投足すべてで積み上げてきた因果の結果として死に捕まったのだと知っている。動線が見える。死神の動線が、彼にだけ見える。


 だから、わかってほしい。


 すべてには順序と理由がある。私たちは順序と理由を求めてゲームを遊ぶ。あのときのたったワンフレームの誤操作、あのときのたった一度のライフ喪失。死因は積み重なる。
 やがて訪れるであろう、たった一度の本物の死をそうやって準備するのだ。

 だが、今は三十分のあいだに四十回死ぬ。
 ボクシンググローブをはめたカエルの兄弟、お菓子の城の女王様、カーニバルを支配する変幻自在のピエロ、野菜の形をしたザコ、見えるもの、触れ得るものすべてが冗談みたいにおまえを殺す。悪夢。
 プロメテウスは人類に火を与えた罰として、タンタロスは神々に自分の息子の肉を供した罰として永遠の苦悶を課せられた。おまえの罪はなんだ?
 そんなことを自問しながらフルアニメーションで描かれる美麗な作画に見とれているうちに、おまえのライフはゼロに達している。


 そう、壊れやすい陶器のコップである私たちは、百回の死のチャンスに対してライフを三つしか持っていない。
 これはゲームなので寿命を伸ばすことができる。ライフを四つ、あるいは五つにしたらグンとステージクリアの確率があがるだろう。武器を変更してもいいかもしれない。オススメは追尾弾だ。ただ撃つだけで自動で敵を追ってくれる。おまえは逃げるだけでいい。気分はまるでコロンバインだね。
 cuphead の本質は敵を倒すことじゃない、避けることだ。それは資本主義社会の本質でもある。ある日とつぜん降ってくる死などない、すべてには理由がある、という嘘に支えられた宗教だ。そこではアイテムを買い占めて、細心の注意をもって、踊るように、怯えるように過ごせば死を先延ばしできるはずだった。


 だがいくら眼を背けても、ないふりをしようとしても、完全に逃げ切ることはできない。
 七十回のコンティニューの果てにボスをギリギリで倒す。その瞬間はなにかが……なにかが報われたような気がする。救われた気分になる。
 その幸せは三秒程度しか持続しない。なぜなら、あなたの信仰はすでにリニアなひとつらなりの生にではなく、反復される死に対して捧げられている。「つましく小さなひとつの幸福を抱きしめる――それを「帰依」と呼ぶ。だがそうしながら早くも、新しい小さな幸福を流し目で盗み見ている」*1
 激戦地で九死に一生を得た兵士たちが次の死地に赴くように、マーリンを引いたFGOプレイヤーが宝具レベル2を目指すように、私たちは幸福を抱きしめる権利をかんたんに放棄してしまう。
 そういうふうに、私たちの欲動は、きらら四コマのごとき精密さで完璧にデザインされている。いったんコントローラー(ロジクールのやつ)を握ってしまえば、最低二時間はその慣性に追従しつづけるだろう。


 次の死のために、次の次の死のために。


ゆゆ式 9巻

ゆゆ式 9巻

*1:ツァラトゥストラかく語りき』佐々木中

奔るゾンビ映画――『新感染 ファイナル・エクスプレス』の感想

(原題:부산행、ヨン・サンホ監督、2016、韓国)



「新感染 ファイナル・エクスプレス」予告編

走る列車、トレインするゾンビ

 感染が拡がる、まるで新幹線の速さで。
 などという地口が、場当たり的なノリでなく、しんじつ映画としての速度にマッチしているものだから、一見いかにも二秒でおもいついたようなB級のかおりがぷんぷんする邦題も実は考えに考え抜かれてつけられたものなのだと、心ある観客ならば開始二十分で気づく。


 とにかく列車も映画も止まらない。

 ZPM(Zombeat Per Minutes)は200を超えているだろうか、めちゃくちゃ機敏なゾンビたちが時には波のように、時には滝のように*1、そして時には獣のように人間に襲いかかり、その数を増していく。
 ゾンビ映画にありがちな「噛まれた人間が徐々にゾンビ化していき、蝕まれていく人間性とのあいだでコンフリクトを起こす」なんていうぬるい描写は(一部を除いて)ほとんどない。動脈を噛まれればまず秒でゾンビ化する。本当に秒だ。ウワーッと噛まれて振り向いた瞬間にはもうゾンビ。シャーッと元気に飛び跳ねる。このスピード感、この物分りの良さには走るゾンビ否定派も屈さざるを得ない。R. I. P. ジョージ・A・ロメロ。あなたも草葉の影から、あるいは天国の無人ショッピングモールからごらんになっているでしょうか。
 

銃社会でのゾンビ・マナー

 本作はオールドスクールなゾンビ作法にのっとりつつも、要所要所ではオリジナルな切れ味を発揮している。
 ゾンビの造形に関してひとつ、アイディアだなと感じたのは、その弱点だ。伝統的なゾンビ映画のゾンビにおける絶対確実な弱点として「頭をぶち抜かれると死ぬ」があるわけだが、しかしよく考えてみたら、これ、弱点か? 頭を打ち抜くなんてのは基本的に銃が身近に存在し、銃を失っても素手やバットで頭をストライクできるマッチョなステロイド国家でこそ成り立つ「弱点」であり、憲法で武装する権利を認められていない一億総ウィンプ国家である日本や韓国では到底現実性がない。ましてや強靭な肉体を持った走る系のゾンビを前にすれば、貧弱な東洋人などゴミムシも同然である。
 で、そうした問題を逆手にとって、そのあたりをどうクリアしてゾンビをぶち殺すか、といった興味が日本のゾンビものではひとつ頭のひねりどころだったわけだけれど、ヨン・サンホ監督はそもそもの前提を覆した。

 弱点がないなら、作ればいいじゃん、と。

 本作のゾンビは視覚と聴覚に頼って人を襲う。どちらかといえば、視覚が中心だ。とはいえ、ゾンビたちは感染したとたんに白内障のようなものにかかって視力が低下してしまう。他のゾンビ作品のように視覚と引き換えに嗅覚や聴力が跳ね上がったりはしない(というか、たぶん五感はすべて生前より鈍くなってる)。それでも眼に頼るしかないのが堕落した野生動物の悲しさ、つでいに彼らは思考能力がゼロなのでぼんやり眼についた人間に片っ端から突っ込む。


 といわけで、視界を塞げば無力化できる。

 その方法のバリエーションは実際に本編を観てほしいのだけれど、この特性を応用することでひとつの空間をまるまる安全地帯化できたりもする。さらには、その特性が「列車内で繰り広げられるドラマ」ともマッチするから、監督の作劇センスには舌を巻く。
 

 

韓国映画とゾンビ

 さっき、オールドスクールなゾンビ作法、と書いたけれど、オールドスクールなゾンビ作法といえばゾンビに込められた社会風刺だ。ロメロが『ゾンビ』でショッピングモールに集まるゾンビを描いたのは消費社会批判だった、なんてのは今では『ウォーキング・デッド』をカウチでポテトチップス食べながら見ている太ったガキが空で言えるほど手垢のついた決まり文句で、むしろゾンビと社会風刺をそんなに不可分にしてしまったらゾンビ映画の純粋なエンタメ性を削いでしまわないか? と思ったりしないでもないけれど、こと『新感染』に関してはそうした懸念はあたらない。というより、社会風刺とゾンビがうまいこと相乗効果を生み出して、作品を何倍もおもしろくしている。

 監督が社会問題に対してセンシティブなのは諸々のインタビューでも明らかになっている。近年で階級闘争とエンタメを織り交ぜた列車の映画を撮った韓国人監督といえば、ポン・ジュノだろう。『ニューヨーク・タイムズ』の映画評での「階級闘争を補助線に引いた公共交通機関ホラー映画」という言からもわかるとおり、英語圏のメディアで本作はよくポン・ジュノの『スノーピアサー』と比較されている。
 なるほど、監督自身が抱えている現代資本主義社会に対する問題意識をブロックバスターに耐えうるエンターテイメントに乗せることができる才覚は似ている。*2そういう意味でヨン・サンホはポン・ジュノの後継者なのかもしれない。
 しかしまあ韓国映画のエンタメ大作が社会に対する独特の緊張感をはらんでいるのは何もヨン、ポンのふたりに限った話ではなくて、たとえば最近でも「トンネル、父と娘、極限状況でのサバイバル」といった道具立てが本作と共通しているキム・ソンフン監督の『トンネル 闇に鎖された男』も積極的に韓国のメディアや行政批判を取り込んでいる。しかし、『トンネル』が本編でのサバイバルと社会風刺があまり有機的に成功おらず、ぎこちない印象を与えている一方で、『新感染』の処理は流麗だ。


 たとえば、主人公パーティの一人にホームレスのおっさんがいる。このホームレスは最初薄汚い恰好でわけのわからないことをぶつぶつつぶやいている気味の悪いアンタッチャブルとして登場して、ゾンビ騒動に巻き込まれるうちになし崩し的に主人公たちと行動をともにすることになる。
 特に役立つスキルやドラマティックな過去を持っているわけでもない、そこらへんの浮浪者だ。ふつうのゾンビものなら、あんまりメインキャラとして据えたりはしないだろう。
 そこをあえて起用した理由を、ヨン監督はこう語っている。

――今作でも、その前日譚である『ソウル・ステーションパンデミック』でも、ホームレスのキャラクターがキーになっていますね。


ヨン:『ソウル・ステーションパンデミック』はソウル駅が舞台ですが、ソウル駅というのは経済発展の象徴であり、その経済発展の道からはみ出してしまった人がホームレスになって、ソウル駅にいるのです。ソウル駅に行くと、一般の人はホームレスの人が見えていても見えていないふりをします。ゾンビの身なりや歩き方はホームレスに似ているものがあります。だとしたら、ソウル駅でホームレスを無視していた一般の人達は、ソンビが現れたときに果たしてその存在に気付くのか、というところからアイデアが広がっているのです。
『新感染~』でもホームレスのキャラクターは非常に大切な存在でした。ホームレス以外の登場人物はみな普通の人々です。公権力から阻害されている一般の人達がいて、ゾンビではないけれど一般の人でもないホームレスがいる。そういった状況で、果たして一般の人はホームレスを受け入れられるのか、また、それによってホームレス側の態度がどう変わっていくかを描きたかったんです
『新感染 ファイナル・エクスプレス』ヨン・サンホ監督インタビュー 「クラシカルなゾンビ映画であり、誰でも楽しめる普遍的な物語」 – ホラー通信|ホラー映画情報&ホラー系エンタメニュース


 ゾンビとして出てきたホームレスがゾンビ騒動を通じて人間性を回復していき、やがては「人間」的な行動に出る――彼の物語がヨン監督のいう「一般人」がつぎつぎとゾンビ化していく本編の展開との逆行ヴァージョンになっているのはおもしろい。
 最初薄かった人間味を取り戻していく、という点では主人公もまた同じなのだけれど、ホームレスや主人公とは逆に「一般人」たちはゾンビ化をまぬがれても極限的な状況にさらされて、人間性を喪失していく。
 生存者同士のいがみあい。ゾンビ映画にはよくある「ゾンビより人間がこわい」というやつだ。しかしその描きかたも大雑把なようでいて実は繊細で、彼らの変質もまた恐怖というまさに人間的な感情から発したものだという視線を監督は常に忘れない。
 それに本作における一番の悪役であるバス会社の重役(キム・ウィソン)によく象徴されている。彼は自分が生き延びたい一心で、とんでもない行為を数々やってのけるのだが、そんな彼がなぜ繰り返し「釜山行き」に終着するのかが、終盤に非常に悲劇的な形で明かされる。ド外道である彼もまた人間であったのだと、観客はそこで知るのだ。
 

 
 見えてなかったものをあぶり出す。それがドラマになる。
 夏休み映画になるには一日遅れてしまったが、夏休みを延長してでも見逃せない逸品だ。



ご冥福をお祈りします。

*1:列車内では難しい「縦のアクション」も、ちゃんとある舞台で用意されている。心憎い。

*2:未見だけれど、監督の過去作であるアニメーション作品『豚の王』『我は神なり』も韓国における階級を意識した点があると監督自身がインタビューで語っている

Baby, Please Drive me. ――『ベイビー・ドライバー』の感想

(Baby Driver, エドガー・ライト監督, 2017, 米)


 音楽が鳴っているあいだはきみも音楽。


 ――T・S・エリオット*1


 パンフレットにも載ってある「カーチェイス版『ラ・ラ・ランド』」という惹句に尽きる。ミュージカル的な快楽の点ではララを越えてさえいるのかもしれない。
 思えば常にエドガー・ライトの映画は音楽と共にあった。いまさら、『ショーン・オブ・ザ・デッド』でクイーンの「Don’t Stop Me Now」をかけながらゾンビをビリヤードのキューでたこなぐりにするシーンや、『ワールズ・エンド』でザ・ドアーズの「Alabama Song」がかかるシーンのミュージカル性を指摘するのも恥ずかしいくらい。『ホット・ファズ』でも『スコット・ピルグリム』でもエドガー・ライトはずっとビートを刻んできた。音楽は彼の映画そのものだ。


www.youtube.com


 『ベイビー・ドライバー』の主人公、逃がし屋のベイビー(アンセル・エルゴート)にとっては音楽も車も逃避の手段であり、同時に彼自身だ。幼いころに歌手だった母親を父親ともども車の事故で亡くして以後、彼は耳鳴りを抑えるため常時イヤフォンを耳にはめ、アクセルペダルを踏んできた。

バディ 「耳鳴りを抑えるために音楽を聴いてるって、ほんとか?」
ベイビー「うん、まあね。ついでに物事*2も考えずにすむ。
バディ 「つまりは逃避だな。なるほど」
ベイビー「速く動けるようにもなる。音楽のおかげでなにもかも上手くいくんだ」

――本編より

 彼にとっての世界とは、プラスチックのイヤフォン越しに聴こえ、車のフロントガラス、あるいはサングラス越しに見えるものだ。


 グラスとイヤフォン。ベイビーはこの二つのアイテムによって世界を拒絶している。直に触れるにはあまりにハードすぎるから。イヤフォン越しでなら強盗集団のボスであるドク(ケヴィン・スペイシー)が垂れる犯罪計画(本来のベイビーは正直な正義漢だ)も聞ける。
 聴くことを視ることを拒む、というのは裏を返せば、聴かれることも見られることを嫌いだということにもなる。
 映画の後半で、ドクに命じられてイヤフォンとサングラスをオフにしたまま、郵便局に入るシーンがあったことを思いだそう。彼は耳鳴りに苛まれ、監視カメラに怯える。あるいはヒロインのデボラ(リリー・ジェームズ)に出合うまで唯一の「家族」だった里親のジョー (CJジョーンズ)が聾唖であったのを思いだそう。
 そして、なにより彼は寡黙だ。自分の言葉をほとんど持たない。デボラとジョー以外の前ではほぼ音楽や映画の引用で喋る。*3
 

 つまり音楽はベイビーと世界との関係を象徴しているわけで、 エドガー・ライトは劇中で実にさまざまな角度から音楽を使ってベイビーと外部とのつながりを描く。
 たとえば、彼はドクに秘密で周囲の人々の”イイセリフ”を録音する。その録音をもとに何に使うかといえば、カットだのヒップホップななんだのをやって独自のミックステープを作成する。そうやっておっかないギャングや通りすがりのウェイトレスといった他人を音楽化することで、自分の世界へと取り込む。*4音楽でなければ彼の世界には入れない。なぜなら彼にとって人間とは音楽、歌う母親が原型としてあるからだ(一番大事なテープには「Mom」と書かれていて、中身は母親の歌声だ)。


 
 音楽で他人と繋がる手段は他にもある。曲の共有だ。ジョーとは同じ曲を聴いてコミュニケーションをとるし、デボラや郵便局のおばさんなんかとは音楽おたくトークで親愛度を上げる。
 でも、一番映画っぽいのは、犯罪集団でベイビーの兄的な存在になっていくバディ(ジョン・ハム)とのひとときだろうか。バディはベイビーがクイーンの「ブライトン・ロック」を好きだと聞いて、左耳のイヤフォンを借りて「ブライトン・ロック」をベイビーとシェアする*5。画としても美しいし、物語的にも後にこの構図が反復されることでその場面のエモーションが高まる。*6
 

 音楽はベイビーの世界観なので、音楽がズレるときに彼の世界も崩れだす。そのズレは撮影時に起きたちょっとした手違いに発している*7のだけれども、奇妙なぐらい映画的なストーリーテリングにマッチしている。映画にも音楽にも愛されないと、こういう偶然は生まれない。


 山田尚子は映画版『聲の形』を「伏し目がちな主人公が顔をあげて世界のうつくしさにちゃんと向き合うまでの物語」と定義したけれど、『ベイビー・ドライバー』にもそんなところがある。ブレーキを踏んで車のキーを投げ捨て、イヤフォンを外し、裸の眼できちんと「うつくしいもの」を捉えることで、傷ついた孤独なこどもはようやく車から人に戻り*8、音楽そのものになる。




 
 

*1:ベイビー・ドライバー』のファースト・ドラフト巻頭に書かれていたとされるエピグラフ

*2:stuff

*3:ドクに対しては『モンスターズ・インク』を使う。

*4:パンフレットによるとベイビーが大量に所有しているiPodはすべて盗んだ車に残されていたもの、という裏設定があるそう

*5:ここで「兄貴もクイーンが好きだった」とバディ言わせているのは重要だ。ベイビーに兄弟めいた情を感じている証拠なのだから

*6:「ひとつのイヤフォンをわけあう」構図だけでなく、「ブライトン・ロック」そのものや「killer track」というフレーズもまた別の場面で反復される。そう、本作でも反復は実に効果的に使用されている。「バナナ」とかね。序盤でジョーと一緒にテレビをザッピングしているときに『ファイト・クラブ』などと共にチラッと『くもり、ときどきミートボール』が映るけれども、エドガー・ライトもまたミラー&ロードの反復伏線芸に感動したクチだろうか

*7:その音楽のズレを生み出すのが誰か、と考えたときに、その人物がベイビーから「テキーラ」を盗むんだことも思い出すはずだ

*8:ここでもちろん私たちは、「人間が車になる物語」である劇場版『少女革命ウテナ』へのオマージュである『スコット・ピルグリム』をエドガー・ライトが映画化した事実を忘れてはいけない

「なぜあなたはFGOのガチャを回すのですか」

 
 不自然な弁明ではなく、解明すること。これが与えられた使命である。


   ――シュテファン・ツヴァイク、『マリー・アントワネット』(下巻、角川文庫、中野京子・訳)



 一度羽生に訊ねたことがある。


 なぜFGOをやるんですか、と。


 羽生がなかなか答えないので、きまずくなって質問をつけ足した。「マロリーとおなじ理由ですか」


 二十世紀初頭の偉大なソシャゲーマー、ジョージ・マロリー(1886〜1924)。ヴィクトリア朝課金スタイル最後の継承者と謳われた彼は「なぜFGOをやるのか」と訊かれ、こう答えたという。〈そこに物語があるからだ〉。
 FGOのシナリオを褒め称える人は数多い。たしかな構成と想像力に支えられた物語こそが凡百のソシャゲと一線を画し、iTunes のランキングで五指に入った原動力である、そんなふうに誰もが認めている。
 だから、漠然と羽生もそうなのだと考えていた。彼もシナリオがあるから、FGOをやるのだろう、と。

 だが、羽生は首を横に振った。
「違うよ。そこに物語があるからじゃない。そもそも〈そこ〉に物語なんてない。あるのはシナリオだけだ」
 素朴な疑問が湧いた。物語とはシナリオのことではないのか? だから問うた。
「じゃあ、なぜ」
 そこで初めて羽生の双眸がわたしをまっすぐに見据えた。自他両方に対する冷厳さに満ちた、ベテランソシャゲーマー特有の眼のかがやき。うっすらと開いたくちびるのあいだから、水着イベントのザリガニを思わせる、硬く、重い響きが漏れた。
「おれがガチャを回すからだ」


 羽生はその一週間後、十八体目の星五サーヴァント宝具五にアタックをかけ、行方知れずとなった。
 生きた人間は星五サーヴァントをどれだけ宝具五にしても伝説にはなれない。死んではじめて伝説となり、英雄となる。

 英雄になることとは、つまり物語そのものになることだ。他人の口から物語られるエピソード、それが伝説の定義なのだとわたしは定義したい。
 今や伝説になった彼の物語は日を追うごとに膨れ上がっていく。行方不明になる直前、前人未到と言われた宝具五サーヴァント宝具五の十八体目を達成していたらしい。どころか十九体目も達成していたらしい。無記名霊基を百基あつめたらしい。1・5章の第七部をクリアしたらしい。
 わたしは、根も葉もない噂には興味がなかった。羽生がやったかやらなかったかわからない事蹟よりも、羽生がたしかに言ったことのほうが気になった。「おれがガチャを回すからだ」。


 わたしたちは最初の十連をおぼえているだろうか。
 アプリをダウンロードし、チュートリアルをこなし、☓☓を死なせ(わたしはあの悲劇を思い出すたびに胸が切なくなり、死者をもてあそぶリヨをにくむ)、序章をクリアし、かならず特定の星4サーヴァントの含まれた十連を、最初のガチャを回す。
 その十連は、わたしたちにとって想起することのできる最初の誕生の記憶だ。羊水から浮上して産道を通り、人生で最初の賭けを張る行為をわたしたちはヴァーチャルに再演する。
 だが、そうやって生を得たあたらしいわたしたちは哺乳類ではない。鳥類だ。目が開き、世界が暗闇から光へとうつろって、そこで最初に見た人物を「親」だと認識する。その人物をわたしたちは「初期星4」と言い換えてもいい。呼び方は自由だ。わたしとしては「運命」と呼びたい。

 そう、運命だ。

 わたしにとっての「運命」はマリー・アントワネット[ライダー]のすがたをとって現れた。人生における諸々の致命的なイベントと同様に、マリー・アントワネットが現れたときにはそれが「初めて見たきんぴかのカード」以上の何かを意味しているとは思われなかった。あまりにも、なんでもなかった。

 そのなんでもなさに、わたしは愕然としてしまった。最初のきんぴかカードは、もっと特別な存在だとどこかで思い込んでしまったいた。
 ギンカの筆によって描かれたマリーはなるほどかわいい女の子ではある。戦力的な観点から言えば、クセの強いサーヴァントではあるが、育てれれば随一のねばりを発揮する。だから? それが? わたしは絵や暴力を求めてFGOをダウンロードしたわけではなかった。物語が欲しくてゲームをはじめたのだ。

 だから、彼女にむりやりに物語を見出そうとした。マリー・アントワネットをフィーチャーした第一章が、コンビニで売っている安物のテーブルワインのように薄いお話であると判明し、幕間の物語もそれ以上ではないと知るや、史実に、シュテファン・ツヴァイクに、遠藤周作に、ソフィア・コッポラに、惣領冬実に、たすけを求めた。文字で書かれたものにこそ物語がやどるのだ。そんな無垢な信仰があった。
 だが、そうしたものにマリー・アントワネットの物語は含まれていなかった。いや、精確に言えば、小説や映画や伝記に描かれたマリー・アントワネットは1793年にフランス革命で処刑された現実のひととしてのマリー・アントワネットなのであって、FGOのマリー・アントワネットではなかったのだった。
 FGOの延長線上のマリー・アントワネットを求めるならば、二次創作などを漁るという手もあっただろう。でも、それはそれで「わたしの」マリー・アントワネットではない。わたしの運命ではない。わたしの運命でなければ、わたしの物語ではない。



 ゲームを進めるにつれ、扱いにくいマリー・アントワネットは主力パーティから外れるようになった。高レベルな敵を打倒するには、お姫様の攻撃力はあまり心もとない。わたしの手札には雷神の化身ニコラ・テスラがおり、殺す意志をもった打ち上げ花火アーシュラがおり、ゲーム中でも一二を争う破壊衝動クー・フーリン[オルタ]がいた。攻撃力がすべてだった。暴落する株価、堕落する議会政治、混迷を極める日本社会、暴力が世界を支配していた。地面から生えた手が金色の種火を落とすたび、わたしのこころは荒んでいった。フレポガチャを回さなくなった。シナリオを読み飛ばすようになった。運命や物語を信じなくなった。親愛度が七で止まったまま、マリーを忘れた。



 そんな時期に羽生と出会い、別れた。
 羽生との短い友人生活を送るあいだに、わたしは諸葛亮孔明[ロード・エルメロイIII世]を引き、エレナ・ブラヴァツキーを引き、ナーセリーライムを引いた。クラス別のきんぴかカードでは、キャスターが最多となった。
 第一部をクリアした。羽生は帰ってこなかった。
 新宿を終え、CCCコラボイベントを終え、アガルタを終えるころになっても羽生は消えたままだった。


 そうして、二〇一七年七月三十日だ。
 わたしはおぼえている。
 よく晴れた日曜日だった。ほどほどに暑く、ほどほどに湿気ていて、なんにせよ合唱するセミを殺してまわりたくなる憎悪はわかない休日だった。

 福袋ガチャの日だった。

 細かい部分を省いて説明すると、福袋ガチャでは四千円払えばタダで星5のサーヴァントが手に入る。ふだんの星5サーヴァントがたった一枚のきんぴかと引き換えに魂や人としての尊厳を要求してくることを考えれば、実に良心的なおねだんだ。なにせ、タダなのだから。

 わたしは特になにも願わずに、回した。
 欲しかったサーヴァントがいなかったわけではない。ただ、五十分の一の確率に願を掛けるほどのピュアさを保てていなかっただけだ。
 倦怠期のカップルが義務で行うセックスみたくけだるい虹色につつまれて、星5確定演出がはじまる。きんぴかのカードの背面はそれがキャスターであることを示していた。

 またキャスターだ。

 かすかな失望でこころが濁る。

 星5キャスターに強力なサーヴァントが多いのは事実だけれど、暴力性の点においては他クラスに劣る。わたしが欲しいのは暴力だった。
 しかしそれもまた人生だ。回ってしまったものは変えようがない。気持ちを切り替える。はたしてどれが来るのだろう。どれが来てもいい。
 二枚目の孔明? 不夜城? 三蔵? 玉藻? それともダ・ヴィンチちゃん? 
 マーリンが当たるとは思っていなかった。それはあまりに都合がよすぎる。ことソシャゲに関して、夢を見る趣味はない。


 だが、マーリンだった。


 マーリンか、と思った。
 ありがたくはある。トップクラスに便利な魔術師だ。声も櫻井孝宏だし。櫻井孝宏だし? でも、特別な感慨は浮かばない。わたしのなかに、マーリンにまつわる物語は用意されていない。
 彼は単なるNPと毎ターン回復を生む道具だ。


 育成用の種火と集めないといけない。
 あと輝石も。
 ああもう。どうしてこんなに術の輝石が不足してるんだ。うちには魔術師がおおすぎる。こんなにキャスターだけ多くてもどうしようもないのに。
 ええい、せっかくだから全員キャスターのパーティでも組むか?


 水着イベ終了で不要になったパーティセットを解散させ、空白となった枠にあたらしいサーヴァントを配置しようとする。
 手持ちのサーヴァント一覧画面を開く。
 サーヴァントはレベルの高い順に並んでいて……孔明、ジャンヌ[ルーラー]、マシュ、アンデルセェン……。
 ふと、ひらめく。

 
 これなら自前でアーツ耐久パを組めるんじゃないか?
 

 わたしは、いわゆる耐久パーティをきらっていた。耐久パを勧める人間もきらっていた。
 100ターン200ターンかけてちまちまと敵の体力ケージを削ることに快楽をおぼえるような人間には、きっとなにかしら欠陥があるに違いない、と思ってもいた。おはしをちゃんと持てないとか。twitter で会話するときはいつもポプテピピックの画像で返すクセがあるとか。かわいそうな人たちだ。


 だが、気がつけば、わたしのカルデアには耐久パに最も適したメンツがそろっていた。意識しないうちに、耐久パ用のメンツを鍛えあげてもいた。
 それなりに育ったマシュと、それなりに育ったジャンヌ。その二枚にそれなりに育てたマーリンを加えて前線に並べれば、FGO一退屈で頑丈な耐久パーティができあがる。どんな敵であろうとボスであろうと寄り切れる無敵パーティだ。最強だ。
 できあがってしまった。
 なんの予告もなく、唐突に、わたしのカルデアはここで戦力的に完成してしまった。
 ガチャを回してしまったがために。
 だが、やはりそこに物語など――。


 そのとき、わたしはまだ手持ちサーヴァント一覧画面を見つめていた。
 視界の焦点が吸い込まれるようにマリーへ合った。
 羽生のことばを思い出した。「物語はシナリオにはない」。
 最初に回した十連を思い出した。
 運命を思い出した。

 史実でも小説でもなく、FGOにおけるマリー・アントワネットとはどういった運命であるのか。
 戦闘中に発揮できる彼女のスキルは三つ。一つ目は敵を〈魅了〉状態にして一ターンのあいだ行動させない能力。二つ目は、自身に敵の攻撃を三回も無効化できる〈無敵〉状態を付加し、かつ毎ターンHP回復状態にする能力。三つ目はHPを大回復させる能力。
 いずれも生き延びることに特化したスキルだ。先述したように、こと生存能力に関して彼女はゲーム中でもずば抜けている。耐久することに長けたキャラである。


 マリー・アントワネットとはどういった運命であるのか。


 わたしが最初の十連を引いたときから、彼女は予言していたのだ。
 いずれわたしが彼女のようなパーティに終着するであろうことを。
 彼女のようにしぶとく、彼女のようにやさしく、彼女のようにしたたかな六枚。それを組むことこそがわたしのFGOにおける運命なのだと。
 そして、そのパーティにマリー・アントワネット自身のすがたはおそらく、ない。魔術師たちと聖女によるアーツカードのチェインをつなげるには、クイック偏重の彼女のカード構成は邪魔になる。でも、かなしくはない。そうだろう? わたしたちは? だからこそ、だろう? だからこそ、なのだろう? それは?


「それ」はわたしの物語だ。運営の書いたシナリオでも、他人の描いた二次創作でもない。最初の十連を、さっきの十連を、ガチャを回したからこそ生じたわたしだけの物語だ。
 もう暴力は必要はない。これからもテスラやアーシュラを使いつづけるだろうが、彼らが何本手を焼いたとてわたしの魂が落ちぶれることはない。
 わたしのFGOは既に完成したのだ。


 そして完成はかならずしも終わりを意味しない。

 わたしたちは常につぎのガチャを回すことができる。つぎのつぎのガチャを回すことができる。無限にガチャを回しつづけ、無限に物語を生成できる。もちろん、金さえ払えばなにもかもタダだ。自由だ。


 つぎはどんな運命が回るのかな。
 そんなことを考えながら、わたしたちは今日もガチャを回す。
 わたしのマイルームで、レベル100の新宿の犬が、うおんとちからづよく鳴いた。
 羽生もどこかで、聴いているだろうか。



神々の山嶺(上) (集英社文庫)

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『ジョン・ウィック:チャプター2』について:ギリシャ神話・背中・亡霊・犬

ジョン・ウィック:チャプター2』("John Wick: Chapter 2"、チャド・スタエルスキ監督)


『ジョン・ウィック:チャプター2』予告編 #John Wick: Chapter 2



(以下は『ジョン・ウィック2』を既に観た人向けの完全にネタバレなやつです。
 まだ観てない人は、7月21日現在そろそろマジで上映が終わりそうなので、
 映画館で今すぐ『ジョン・ウィック2』を観ましょう)



強いオルフェ

 監督のチャド・スタエルスキは大学生の時分、ギリシャ神話にハマっていたそうで、パンフレットでは前作『ジョン・ウィック』を「冥界を旅する」物語だと明言しています。*1
 妻を亡くした男が冥界をさまようギリシャ神話のエピソードといえば、オルフェウスです。冥界へと下ったオルフェウスは、幽世の王ハデスと交渉して亡き妻をいったんは取り戻します。しかし、そのときにハデスと交わした「冥界から地上へ戻るまでの途上で決して(後ろを歩く)妻の方をふりかえってはならない」という約束をやぶってしまったがために、契約は破棄され、二度と妻に会うことはかなわなくなりました。
 

 この「振り返ってしまう男である」、という点においてオルフェウスと〈ジョン・ウィック〉シリーズの主人公ジョン・ウィックキアヌ・リーヴス)は共通しています。*2特に今回取り扱う『ジョン・ウィック2』では「背後」にまつわるアクションがそのままストーリー・テリングの重要な一要素をなしているといってもいい。


 まずストーリーから見ていきましょう。
ジョン・ウィック2』の前半部はどういう話か。過去から逃げようとするジョンと、その後ろ髪をつかんでひきずり戻そうとする過去の話です。


過去と言う名の運命に捕まる(by クリント・イーストウッド

 本作の冒頭部は前作の直後からはじまります。前作で妻の遺した犬を殺し、大事な車を盗んだロシアン・マフィアどもを皆殺しにしたジョン・ウィックは、車を取り戻すためにぶちころしたロシアン・マフィアのドンの弟が率いる別のマフィア組織へカチコミをしかけます。
 そこでなんやかんやあって車を取り戻すわけですが、取り戻したといっても車体はボロボロ。犬と車(が象徴する亡き妻)*3のために始めた復讐戦だったのに、終わってみれば犬は入れ替わり、車は廃車同然です。
 いったん戦いはじめたら引き返せないし、いったん失ってしまったものは前とおなじ状態では戻ってこないのだ、つまり妻とともにあった平穏な日常は二度と帰ってこない。そんなことが実に即物的な形で観客に示されます。


 ジョンはうすうすその事実に気づいているはずですが、しかしあらがおうとする。日常に回帰しようとふるまう。ベッドに寝そべって、妻の写真*4を眺めながら犬と眠る。そんな平穏な日々が可能だと思いたがる。
 まず彼は、ジョン・レグイザモ演じる車の修理工を呼び、車の修理を依頼します。
 さらに前作で家の地下室に封印されていたのを掘り起こした武器やコンチネンタルのコインの類を再び埋め、入念にセメントで塞ぎます。地味ながらも暗殺者時代には絶対戻りたくない、というジョンの強い意志が伝わってくるシークエンスです。


 ところが、セメントを詰めおわって一息つくかつかないかというところでさっそく過去が追ってくる。チャイムがなります。玄関に行くと扉には男のシルエット。来客は昔の彼の雇い主、ダントニオ(リッカルド・スカマルチョ)でした。
 彼はジョン・ウィックが忘れたい「過去」そのものの具現です。引退する時に交わした血の誓約をもちだして、ジョンに仕事を強要しようとしてくる。ジョンは繰り返し拒絶します。そして言う。


「俺はもう昔の俺じゃない。(I’m not that guy anymore.)」


 ダントニオは返します。


「おまえはいつだって変わらんさ、ジョン(You are always that guy, John.)」


 誓約とダントニオが存在するかぎり、ジョンはいつまでも that guy のままです。
 ジョンはダントニオの要求をはねつけきります。ダントニオはあきらめたのでしょうか? とんでもない。ダントニオはロケットランチャーでジョンの邸宅を木っ端微塵に破壊します。ジョンが大切にしていた妻との思い出の写真もごうごうとあがる火の手に包まれ灰となっていく
 ジョンの家はいわば、妻との思い出のよすがとなる最後の場所でした。ここを奪われてしまえば、もうジョンに戻る場所はなくなってしまいます。
 そしてジョンは暗殺者としての彼と繋がる場所ーーすなわちコンチネンタルへと帰還するのです。
 

 コンチネンタルのマネージャー、ウィンストン(イアン・マクシェーン)から誓約を守るよう諭されたジョンは、しぶしぶながらダントニオの依頼を引き受けます。
 このときウィンストンが説得に用いた「誓約の重要性」はダントニオのものとさしてかわりがありません。そもそもジョンだって裏社会の人間だったのですから誓約の重要さはよくわかっていたはずです。にもかかわらず、ダントニオには彼を説得できず、ウィンストンにはできた。
 それはウィンストンが特別な人物であるからです。終盤、彼がアカウント部にジョンの追放を依頼するときの番号がアンダーグラウンド(=冥界)における彼のポジションを示している、という指摘はなかなかに興味深いところです。彼がラストの公園のシーンで階段の下のスペースに立っているのも、つまりはそういう理由なのでしょう。

 ダントニオの依頼する仕事とは、目の上のたんこぶである姉をローマで葬る仕事です。彼は「ハイテーブル」と呼ばれる裏世界での最高意思決定機関?的なよくわからないがとにかくビッグな席を夢見ていましたが、父親が後継者として姉を指名したことにより、その席が姉に渡ってしまいました。そこで彼女を殺して「ハイテーブル」に成り上がろうと画策したわけです。
 この「ハイテーブル」が「12席」あるという設定は、おそらくギリシャ神話における「オリンポス十二神」を意識しているのでしょう。*5

 
 イタリア行きの直前、ジョンはホテルのコンシェルジュ(ランス・レディック)に犬を預けます。このコンシェルジュの名前はシャロン。 charon と綴ります。これもギリシャ神話由来の名前です。カローンは冥界の川、日本で言えば三途の河の渡し守で、銅貨を一枚受け取って死者を現世からあの世へと連れて行きます。この点は重要です。
 つまり、彼にコインを渡すという行為はオルフェウスたるジョンにとって「あの世」へ戻る行為なのです。

 しかしもちろんジョンは戻りたくて冥界に戻ってきたわけではない。彼は犬を預けたのち、その足でユダヤ人の貸金庫屋(質屋?)に託してあった箱からパスポートと拳銃とコインを請け出します。そこで慟哭するのです。結局戻ってしまった、と。
 ちなみにこの箱は二重底になっていて、しかけを外すと拳銃とコインが出てくる仕組みになっています。これが自宅での武器の隠し場所だった地下室のミニチュアであることは言うまでもありません。彼は常に忌むべき過去をを自らの手で掘りださなければならない。だから、苦痛を感じ苦悶をおぼえ、心がさけびだしもするんだ。
 

 イタリアにて「恐るべき幽霊」を意味する「ブギーマン」へ回帰したジョンは、地下=冥界へと戻ります。その地下世界がカタコンベ(地下墓所)であるとはなんと念の入った演出でしょうか。「地下より地上へ現れるブギーマンとしてのジョン・ウィック」はイタリア編を含め、都合三度ほど劇中で反復されていきます。
 オルフェウスと同じく妻(とともにあった穏やかな日々)を取り戻すために彼は地下を旅し、任務を実行します。実行後にはターゲットの護衛であったカシアン(コモン)の反撃やダントニオの裏切りに遭いながらも、満身創痍でなんとかコンチネンタル・ホテルまで戻ります。
 そして部屋で携帯を取り出すと、画面が割れて使用不可能になっています。その携帯は、ただの携帯ではありません。妻との大切な思い出の映像が記録された代物です。*6
 ここでもまた徹底してジョンの美しい過去が奪われてしまうのか……などと感傷に浸る間もなく、ふたたび醜い過去からの呼び鈴が鳴ります。ホテルの黒電話のベルです。ダントニオからです。ほとんどジョークみたいな宣戦布告。
「もしもし、ジョン。きみが怒るのは理解できる。個人的にも同情する。しかし、実の姉を殺されたのに復讐もしないとなれば、私も男としてのメンツってもんがたたないわけだしさ」
 こうして彼は地獄めいた過去へと本格的にひきずりもどされるのです。


背中に向かって声、弾丸、車

 プロット的には「過去をふりはらおうとして逆に引きずり込まれる」が前半部で三度(最初のダントニオの訪問、コンチネンタルのマネージャーによる説得、イタリアでのダントニオからの電話)描かれているのがわかりました。
 
 では細部やアクション面ではどうでしょう。
 劇中、ジョン・ウィックは何かと後ろからモノを浴びせかけられます。
 浴びせかけられるモノは、友好的な人物であれば声であったり、敵対的な人物の場合は銃弾や車のボンネットであったりするわけですが、どちらにせよジョンを過去へと引っ張る忌まわしい力であることに変わりはありません。
 見ていきましょう。


呼び止められる男

 まずジョンが武器やパスポートを請けだすためにユダヤ人の貸金庫を訪れるシーン。武器を携えたジョンは店を出ようとしますが、その背中に店主が「良い狩りを、ジョン」とヘブライ語でなげかけます。ジョンは立ち止まり、しばしののち、店主の方を振り返ります。そして沈黙したまま頷き、去っていく。ジョンにとってはいかに好意的なものであれ、暗殺者としての過去からの声であることに変わりありません。


 次に背後からジョンを呼ぶ人物はコンチネンタル・ホテルのローマ支店のマネージャー、ジュリアス*7です。彼はコンチネンタル・ローマの受付に姿を表したジョンを呼び止め、久闊を叙しつつも、きゅうに英語からイタリア語に切り替えシリアスな面持ちでこう訊ねます。「教皇に会いにきたのか?(Are you here for the Pope.)」
 このセリフには色々な解釈が可能だと思いますが、個人的には、ジュリアスは本気で言葉通りの意味で訊ねたのだとおもいます。ジョン・ウィックならばどんな殺しでもやってのける。たとえ、標的が大統領であろうと教皇であろうと彼はためらわない。そう信じるからこそ彼は至極真面目に敬愛する教皇の身を案じたのです(おそらく彼自身敬虔なカトリックなのでしょう)。それは同時にジュリアスがジョンを深く観察し、力量を知悉してきたことの証左です。彼もまた暗殺者としてのジョン・ウィックの証言者なのです。
 

 そして、イタリアのコンチネンタルでみんな大好き銃ソムリエに銃器をみつくろってもらうシーン。


 ここでも立ち去り際、ジョンが背中を向けるとソムリエが「ミスター・ウィック?」と呼び止めます。ジョンが振り向くと「パーティを楽しんできてください」と言う。ずらりとライトアップされてならんだ銃器に囲まれたソムリエがこのセリフをいうところは、ちょっと異世界感があるといいますか、彼もまた奈落の住人なのでしょう。ジョンはまた無言で頷いてソムリエの武器庫を去ります。*8


 彼を背後から呼び止める四人目の人物は、敵です。イタリアにおけるジョンのターゲットの護衛をつとめる男、カシアン。


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 ターゲットを仕留めて現場から脱しようとするジョンはすれちがいざまにカシアンの姿を認め、一瞬表情をこわばらせたのち、通り過ぎようとしますが、カシアンが数歩進んだところでジョンの背後から「ジョンか?」と呼び止められます。ジョンを諦めたように、あるいは意を決して振り向き「カシアンか」と応じます。あくまで表面上は旧知の人間と再会したときの会話です。しかし、カシアンの表情からはジョンがたったいま行ったことを見抜いたような、冷たい緊張感がみなぎっています。「仕事中か?」「ああ。おまえもか?」「そうだな」「楽しんでるか?(Good night?)」「おまえには悪いが、そうだな(Afraid so.)」「そうか、残念だな」
 二人を銃を抜き、真正面から撃ち合います。本格的な銃撃戦がはじまる*9象徴的な場面です。


 以後、全アサシン界が敵にまわり、彼を呼び止めるものはいなくなります。

 
 しかし、ダントニオに復讐を果たし、残骸となった家に犬とともに戻り、灰のなかから妻のネックレス(妻にまつわるものは一つ残らず失われていたとおもったのに)を発掘し、平和へのかすかな希望が芽生えかけたところで、もう一度だけ背後から名前を呼ばれます。
 声の主はコンチネンタルのコンシェルジュ、彼はジョンをウィンストンのもとへ送ります。そこでジョンは終わりなき地獄を宣告されるのです。コンチネンタルのルールを破った彼にもう平穏は訪れず、妻はもどらない。それはハデスとの約束を守れなかったオルフェウスが課せられた苦しみとおなじ罰です。


背中を撃たれる男の美学

 ジョンはよく後ろから撃たれる男でもあります。横から轢かれる男でもあります。


 冒頭のロシアン・マフィアとのカーチェイスシーンでは愛車の側面に敵の車をぶつけられること二度、ついに運転席から放り出され、素手による近接戦闘を強いられます。そして三度目の衝突としておそいかかる車を回避して難局を切り抜けます。

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 カタコンベを抜けたあとのカシアンとの戦闘でも横から車で轢かれていましたね。敵にとっては呼び止めるより、撃ったり轢いたりするほうが礼儀作法にかなった挨拶なのです。
 その証拠に、ニューヨークでの暗殺者勢のひとり、路上ヴァイオリニストの女は最初の弾丸をジョンの背中に見舞います。それより前だとカタコンベの戦闘の後半部でも雑魚に後ろから撃たれて当たっていましたね。*10無敵の防弾スーツを着用しているジョンだからこそ可能なコミュニケーションです。*11
 

 そうした暴力に対して、やはり彼は「振り向」かざるをえません。背後から発される暴力は彼を常に暴力そのものへと引き戻します。


亡霊ふたり

 常に背中を見せる男だからこそ、ジョンが最初から正面切って視線を交わす人物は貴重です(コンチネンタルのウィンストンでさえ、本作ではじめてジョンと会うシーンでは視線がすれちがっていたことを思い出しましょう)。そうした人物というと、コンチネンタル関連の人々(特にコンシェルジュシャロン)、ローレンス・フィッシュバーン演じるホームレスの「キング」といった面々が挙がりますが、しかしなにより本作でジョンとの視線のやりとりが印象的なキャラといえば、カシアンでしょう。
 最初こそすれちがいかけた二人ですが。互いに敵と認めあってからは編集的にもカシアンの視線が強調されます。
 特にNYでの駅前の噴水をはさんで互いに長い間見つめ合うシーンは舞台を含めてほとんどメロドラマ的なエモーションすら感じます。そして、駅構内のひそやかな撃ち合い、プラットフォームを挟んでの凝視合戦、からの電車内での格闘……これらのシークエンスのあいだ、二人が互いに視線を外す瞬間はほとんどありません。カシアンは視界からジョンが消えたら群衆をかきわけてジョンを探し、ジョンは自分を探すカシアンを見出します。なんというロマンス。なんというリレーションシップ。


カシアンという名前はカシアス(カッシウス)というラテン語名に由来し、その原義は「虚ろ(empty, hollow)」です。彼が亡霊であるジョンを直視できるのも、彼もまた「亡霊」であるからかもしれません。
同じ亡霊であるからこそ、直視も可能であり、ジョン・ウィックのライバルたりえるのです。
 ジョン・ウィックを殺せる角度は〇度のみ、真正面から対峙したときのみ、互角の戦いが可能となります。
 それをできるのは『ジョン・ウィック2』ではカシアンと、現代美術館の鏡の間で扉をあけて登場したさいの西宮硝子(ルビー・ローズ)*12だけですね。カシアンも硝子も最終決戦にナイフで挑み、ふたりとも同じような部位をさされて敗北しました。刺したあとの扱いの差に、ジョンの愛情格差が垣間見えます。

亡霊は常に階下から

 さきほど、ジョンのことを「亡霊」と呼びました。なぜ彼は亡霊なのでしょう。それは設定やセリフによってではなく(まあシャロンにコインを渡す行為は設定のうちですが)、行動と演出によって定義されます。

 劇中で「暗殺」を行うとき、彼は地下を経由します。イタリアではカタコンベを通過し、ターゲットであるダントニオの姉に近づきました。
 ニューヨークではやはり地下から美術館へと現れてダントニオに接近しました。
 もうひとつ、「下から上がってくる」画があって、それはラストのウィンストンとの最後の話し合いが終わってからNYの街へ出る時のシーンです。それまでは地下鉄やカタコンベのように地下こそが地獄であったのに、コンチネンタルを追放されてからは地上も地獄に変わってしまう。いっそう彼の依るべなさが際立ちます。

 ジョンが亡霊であることを示す演出はもうひとつあります。鏡です。
 前項でジョンに向けられる視線の話をしましたが、ジョンに殺される人物ーーダントニオとダントニオの姉ーーはどちらも鏡を介してジョンの姿を視認します。直視ではありません。心霊写真等が示すように、幽霊や怪異とは古今東西、人間の眼よりは鏡やレンズといって無機質な物質にこそ投影されるものだという信仰があります。*13ジョン・ウィックが直視できない存在だとしたら、それを視るためには鏡を利用するしかない。クライマックスでの美術館鏡屋敷迷路*14での戦闘は非常に多義的な意味を持つとおもいますが、一面ではそこが唯一亡霊を捉え、殺せる場であるからかもしれません。*15


 一方でジョンはNY篇から徹底して「一方的に視られる」側の存在にもなります。しかし見えるからといって殺そうとしても殺せない。逆に殺されてしまう。彼自身視られることをあまり気にしてるふうではありません。

 しかしラストシーンでウィンストンと別れて公園の階段をあがると、彼はものすごく他人からの視線に怯えるようになっている。
 それまでのジョン・ウィックには、なにもかも失ったように見えて、なんだかんだでコンチネンタルというラストリゾートが存在しました。彼はそこのVIPであり、庇護される貴種だったのです。カシアンとジョンとローマでの戦いに描写されているように、コンチネンタルとはある種の秩序でした。
 しかし、掟をやぶった彼にはもう家どころか羽根をやすめる休息所すらない。秩序なき世界で、四六時中ぶっつづけで戦いつづけなければいけないのです。
 彼は、だからこそ、犬を連れて行く。


亡霊と犬

 〈ジョン・ウィック〉シリーズにおける犬とは何を意味するのでしょう。
 第一作では間違いなく亡き妻との思い出の象徴でした。しかしその犬はむざんにも殺されてしまいます。第一作のラストで手に入れた新しい犬は、亡き妻とは縁もゆかりもない犬です。


 ではなんなのか。


 いわせてもらえるならば、第二作目の犬はジョンの帰るべき場所ではないのでしょうか。


 ジョンはイタリア行きを決断する前に、コンチネンタルのコンシェルジュに犬を預けます。彼の考えうるなかで最も安全なところに愛犬を置いたわけです。それは金庫屋に預けた武器類とは違い、また引き取りに戻るための保護でした。この時点で、彼の旅は、犬のもとから離れまた犬のもとへ戻る、という道程がひかれたのでした。
 大冒険へ出た主人を待つ犬、という構図は、ギリシャ神話に照らすならば、オデュッセウスを二十年のあいだ待ちつづけた忠犬アルゴスを彷彿とさせますね。


 かくしてサントニオをぶち殺し、血みどろの戦いが終結した同時にコンチネンタルからの追放が確定的になり、コンシェルジュから犬を引き取ります。そこからはずっと犬と一緒です。


 コンチネンタルを失ったジョンにとって、犬を置ける場所はもはや自分の身の回りしかない。『少年と犬』以来、男の子の旅の道連れは犬であると相場は決まっています。いってみよう、ぼくらといま、アドベンチャーの国へヘイ! ( ߀ ඨՕ) 人|(ㆆ_ㆆ) |


 いまや一介の野良犬となったジョン・ウィック


 さよう、〈ジョン・ウィック〉とはキアヌ・リーヴスが犬になる物語なのです。*16
 次は神犬ライラプスとなって、痛み分けに終わったカシアン=テウメーッソスの狐を追いかけるのでしょうか。いや、その場合は狐と犬が逆か。

 だいたいそんなところです。


犬にしてくれ 初回盤(CD+DVD)

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*1:ジョン・ウィック2』パンフレット

*2:ちなみに本作と神話との関係を考察した記事は英語圏にいくつかあってこちらなども面白い  →The Hellish Mythology of John Wick | Endless Realms  以下当記事もこの記事に多くを負います。ここでは扱いませんでしたがローレンス・フィッシュバーン演じるバウリー・キング=聖杯伝説の漁夫王(フィッシャー・キング)説も面白い

*3:ジョンにとって車は宝物です。1で妻がジョンに犬をプレゼントするとき「わたしがいなくなっても、あなたには愛する対象が必要よ。この子を愛して。車じゃダメ(the car doesn't count)」と言っています。このセリフを裏を返せば、ジョンにとっては車は愛着の対象であるわけです。1の序盤では犬の描写と愛車の描写が半々であることにも留意しましょう。

*4:取り返した車のなかにあったものです。わざわざ車を奪還しにいった理由の一つ

*5:rf. http://www.tribality.com/2017/02/22/john-wick-and-mythology/

*6:1の冒頭で印象的に提示され、その後も何度となく再生されてきた重要な動画です

*7:これもまた神話由来のネーミング。原義はユピテルギリシャ神話の最高神ゼウスのローマ神話ヴァージョンの名前です。コンチネンタル・ローマの支配人にふさわしい名前といえます。ちなみにユピテルはドラマの『アメリカン・ゴッズ』にも重要な役回りで出てきますね。

*8:余談ですが、この武器調達シーンの一幕である仕立て屋のところで「ボタンはいくつ?」「ふたつ」「ズボンは?」「細身のものを」「裏地はどうします?」「実戦用のを」というやりとりがありますが、原文では「How many buttons?」「Two.」「Trousers?」「Tapered.」「How about the lining?」「Tactical.」と、ジョンの受け答えがすべてTで頭韻を踏んでいます。だから何だと言われたらそれまでですが

*9:冒頭のロシアン・マフィア戦のメインはカーチェイスと体術でそた

*10:正面からラリアットかましてきた山本山はえらい

*11:背後から追われるのでいえば、NYの駅構内でアジア系の暗殺者二名によってはさみうちされるシーンも含まれるかも

*12:役名はアレス。ギリシャ神話の戦神です。

*13:どこかの本でそう言ってた気がするが、ソースは忘れた

*14:ギリシャ神話の文脈でこれを「ミノタウロスの迷宮」と結びつける人もいますが、さすがにちょっと弱いかな。http://www.tribality.com/2017/02/22/john-wick-and-mythology/

*15:そうした観点でいくと、鏡屋敷で雑魚が鏡に移ったジョンの姿を誤射してしまうところは意味深ですね

*16:『レヴェナント』のときに使った論法の使い回し

Brigsby Bear、ならびに監禁映画と毒親マンガの流行

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今観たい映画ナンバーワン

 wikipedia に載っているあらすじをそのまま訳すと以下のようになる。


 ジェイムズ・ポープは赤ん坊のころに病院から誘拐され、以来子供時代から大人になるまでずっと地下シェルターで『ブリグズビー・ベアー』以外のことを一切知らずに生きてきた。『ブリグズビー・ベアー』とは両親になりかわった誘拐犯夫婦によって制作された架空の子供向けTVショーのことだ。
 ある日、ジェイムズはシェルターから助け出される。現実世界へと放り出された彼は『ブリグズビー・ベアー』が実際の子供向け番組ではなかったと知る。
 他にも色んな出来事につぎつぎと直面し、困惑極まってしまうジェイムズ。彼は『ブリグズビー・ベアー』の映画版制作を決意し、この現実世界で学んだことを映画によって語ろうとするが……。


 なんのあらすじかって、今月末に全米で公開される新作映画『Brigsby Bear(ブリグズビー・ベア)』のあらすじだ。
 監督はデイヴ・マッカリー。主演兼脚本のカイル・ムーニーとは幼馴染らしく、人気コメディ番組『サタデー・ナイト・ライブ』時代もムーニーはコメディアンとして、マッカリーは番組の監督*1としてキャリアを積んできた。そのためか、アンディ・サムバーグをはリーダーとする人気コミックバンド「ロンリー・アイランド」やミシェラ・ワトキンズといったSNLの人脈がプローデューサーやキャストに活かされている。
 そしてプロダクションを担当するのはフィル・ロードクリストファー・ミラーの制作会社「ロード・ミラー・プロダクション」*2。さらに音楽を担当するのはジェフ・ニコルズ(『ラビング』、『MUD』)の盟友デイヴィッド・ウィンゴーと聞けば、この座組だけで傑作の予感しかしない。
 映画批評家の評価を集計する映画情報サイト Rotten Tomatoes でも今のところ評価は上々だ。
 

 しかしまあなんといっても、私たちの乙女ごころをくすぐるのはストーリーと設定だ。
 聞いてるだけでワクワクするような展開で、ティーザー予告に出てくる「こんなプロット観たことねえ!」という賞賛コメントはけして過褒ではない。総体としては。


www.youtube.com


 あくまで、総体としては。


誘拐され、監禁され、奪われて

 部分部分はどこかで最近見たおぼえがある。*3
 地下シェルターに監禁されて誘拐犯からとんでもない法螺を吹き込まれた子どもがエキセントリックな人物に成長してしまうのは、TVドラマアンブレイカブル・キミー・シュミット』(2015-)だし、
 生まれたときから外の世界との接触を禁じられフィクションだけを見て育ったこどもが、はじめて触れた現実世界のカオスを映画制作によってセラピー的に乗り越えようと試みる展開はドキュメンタリー『ウルフ・パック』(2015、クリスタル・モーゼル監督)だ。
 監禁ものだとアカデミー賞にもノミネートされた『ルーム』(2015、レニー・アブラハムソン監督)なんてのもあった。
 いずれもここ一、ニ年の作品だ。
 
 これら三作は共通して、長期間の監禁生活を強いられたこどもたちを描いている。*4しかし、『隣の家の少女』(2007、 グレゴリー・M・ウィルソン監督)のように監禁生活そのものの描写をメインとはせず、むしろ監禁から脱したあとのこどもたち(あるいは元こどもたち)がどう社会に適応していくかを主眼に置いている。つまりは、青春を理不尽に奪われ、他者と関わることが一切なかったピュアな人々が、どうやってサヴァイブしていくのか、だ。



アンブレイカブル・キミー・シュミット予告編 - Netflix [HD]

 14歳からの15年間の監禁生活を経て社会復帰した『キミー・シュミット』のキミーはニューヨークという世界でも有数の最先端都市で、トランスジェンダーの黒人デブとルームシェアしながら少しづつ現代社会を学んできて、数々のトラブルを引き起こしながらもNY生活に馴染んでいく。



映画『ルーム』予告編

 『ルーム』の主人公ジョイは誘拐犯にレイプされて子どもを産み、5歳になった彼の助けを借りて監禁部屋からの脱出に成功する。幼い息子は大した苦労もなく常識のギャップを埋めていき、すぐに世間に適応するのだけれど、24歳のジョイにはそれが果てしなく困難だ。マスコミを含めた世間からの好奇の目、野蛮な犯人から「傷物」にされてしまった娘に対する親の視線、その犯人の子を産んでしまったこと……そうしたストレスにジョイは圧しつぶされそうになる。



The Wolfpack | Trailer | New Release

 『ウルフ・パック』では親からようやく外に出ることを許された兄弟たちの長男坊がいさんで働きに出る。しかし、子どものころから他人との会話を映画でしか学んでこなかった長男の喋り口はどこか芝居がかっていて不自然だ。まともな若者同士の会話ができない。そのため彼は徐々にバイト先で疎外感をおぼえだす。
  

 wikipedia のあらすじを読むかぎり、Brigsby Bear もこれら三作品のような「世間との齟齬」にさらされるのだろう。


なぜアメリカ人は適応の物語を描くのか

 なぜこうした「監禁から解放&適応」ものが近年立て続けにアメリカで撮られるようになったのだろう。


 理由はいくつか考えられる。

 まず思いつくのは、「社会とのディスコミュニケーションと適応は普遍的なテーマだから」だ。
 長期間の誘拐監禁という一見過激で極端な設定に何かと眼を奪われがちになってしまうけれども、そこを抜きにして眺めれば「ルールがわからないまま社会に放り出されて、それでもそこでコミュニケーションをとって生きなければならない」という誰でも経験する社会化のプロセスが浮き上がってくる。
 映画のキャラクターたちは常に観客のディサビリティやコンプレックスが増幅した形で現れる。だからこそ感情移入の対象となりやすく、設定そのものが現実離れしていたとしても共感を呼ぶのだ。
 ちなみに「それでも生きなければならない」という課題は、同じく監禁・偽の物語・解放を扱ったディストピアSF『アイランド』マイケル・ベイ監督)や『わたしを離さないで』マーク・ロマネク監督)における「それでも死ななければならない」という課題とは真逆の問題設定だ。現実世界は死を強制してくるがゆえにおそろしいのではなくて、生存を強制してくるがゆえにむずかしい。


 もうひとつは、逆に「長期間の誘拐監禁にこそ普遍性がある」という観方。

 日本でもこのところエッセイ漫画の分野で『カルト村で生まれました。』(高田かや)や『ゆがみちゃん』(原わた)といった、いわゆる「毒親」によって子供としての大事な時期や青春を奪われた人々の体験記が人気を博しており、『みちくさ日記』(道草晴子)などの精神病闘病記もなどを含めて人生サバイバルエッセイとでも呼ぶべきサブジャンルを形成している。

 病んだ家族や共同体によって可能性を奪われてしまうこどもの話は昔から映画でもよく描かれてきた。サブジャンルの「機能不全家族」もののさらにサブジャンル」といったところだろうか。
 「毒親」概念に最も近い作品といえば、古くは実在の人気女優による児童虐待をもとにした『愛と憎しみの伝説』(1981、フランク・ペリー監督)、最近では昨年のアカデミー賞にノミネートされた『フェンス』デンゼル・ワシントン監督)あたりだろうか。どちらもフォーカスしているのは親のほうではあるけれど。*5

 むしろ日本の「毒親」エッセイまんがに近いのは『フェンス』をおしのけてアカデミー作品賞を果たした『ムーンライト』(バリー・ジェンキンス監督)なのかもしれない。
 まさに「毒親」とゲイを抑圧する世間に挟まれて青春を喪失し、過去の傷を抱えながら独り立ちする男の話だ。*6


ブラッド・ピット製作総指揮!映画『ムーンライト』予告編



 日本の「毒親」ものと監禁&解放もの(呼び方がコロコロ変わるな)の共通点は「根深いトラウマを植え付けられたうえに、一般的な常識や教育を欠いたまま大人になって社会へと放り出される(自分の意志で脱出する)」点だ。
 悲しいことに似たようなトラウマを背負ったこどもたちはたくさんいて、あるいはトラウマとまではいかずともどこかで他者に自分の可能性を理不尽に奪われたという記憶を抱える人たちもいて、だからこそ「毒親」ものや監禁&解放ものの子どもたちに感情移入してしまう。


 どこかで監禁され、レイプされ、何かしらの可能性を奪われてしまった子ども時代の感覚。その責任を実際問題として他者に求めることに正当性があるかどうかは別にしても、感じてしまう心はどうしようもない。
 負った傷を癒す方法はいくつか存在する。
 フィクションを描く、というのもそうした手段のひとつであり、だから Brigsby Bear の主人公も映画を撮ることになるのだろう。たぶん。観てないのでわからんが。観ないとわからないよ、そういうことは。
 というわけで、ソニー・ピクチャーズさんはすみやかに本作を日本に持ってくるように。DVDスルーでもいいからさ。


ムーンライト スタンダード・エディション [Blu-ray]

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カルト村で生まれました。

カルト村で生まれました。

*1:全体のディレクターではなく、スケッチと呼ばれるコント単位での監督

*2:ロードとミラーはプロデューサーも兼任

*3:wikipedia に書かれたあらすじはおそらく導入部かせいぜい中盤までの展開にすぎないだろうし、もしかしたら終盤に「みたこともない」衝撃の展開が待ち受けているのかもしれない。ここで言及するのはプロット全体の話ではなく、あくまで上記の wikipedia の記述部

*4:『ウルフ・パック』は劇中で明言されないが、あきらかにヒッピーの親が強制的にこどもたちを監禁状況に置いている

*5:書き終わってから『塔の上のラプンツェル』も毒親と監禁の話だったよなあ、と思い出した。そういえば、ギリシャにも『籠の中の乙女』なんて珍品があったけれど、あれは色々特殊すぎるので……

*6:もちろん喪失しっぱなしではなく、回復こそ重要になってくるのだが、そこを書くとネタバレになるので