名馬であれば馬のうち

読書、映画、その他。


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魔法の羽根としてのダンボーー実写リメイク版『ダンボ』に関する短い感想

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「ダンボ」日本版予告編


 ティム・バートン曰く「歪んだウォルト・ディズニー*1であるところの興行師ヴァンデヴァー(マイケル・キートン)が自身の経営する遊園地〈夢の国〉から偽物のフリークスたち*2を叩き出す。ダンボの属していた弱小サーカスから移籍してきた彼らは、ダンボというお目当てを手にしたヴァンデヴァーから邪魔な付属物としてお払い箱にされたのだ。

 
 解雇を通告されたフリークスたちはダンボのテントに集い、すやすやと睡る仔象を微笑みながら見つめ、それぞれに別れを惜しむ。

 このときダンボは単なるかわいいだけのゾウさんではない。本作においては単なるかわいいゾウであるで十二分な瞬間が山ほどあるけれども、映画を観て涙を流すにはかわいいだけでは足りはしない。


 わたしたちがあのシーンで泣いてしまうのは、ダンボが魔法そのものであり、希望の象徴だからだ。不完全で、不格好で、無力に見えても、ハンデと思われた特質を羽ばたくための翼に変えて自由に宙を舞う。ダンボの魔法を目の当たりにしたからこそ、フリークスたちは窮地にあっても絶望しない。

 そして、その魔法を信じるからこそ、ダンボの母親(ジャンボ)の救出劇に手を貸し、「本物」のフリークスとして自分たちの奇跡を顕す。

 オリジナルの『ダンボ』では、ダンボがティモシー(ネズミ)からカラスの羽根を「魔法の羽根だ」と吹き込まれたのを信じて飛んだ。

 ティム・バートンの『ダンボ』では、ダンボ自身が人々にとっての魔法の羽根になる。オリジナル版で徹底的にオミットされていた人間たち*3がリメイク版のメインをはったのは、けしてナラティブにおける親しみやすさの追及のみが目的ではない。

 
 フリークスのサーカス団員たち、そしてコリン・ファース演じる父子は、オリジナル版『ダンボ』を観た観客自身の映し身なのだ。

 かつて、わたしたちはセルアニメで描かれたダンボに自分を信じることの魔法を学んだ。おそらくはティム・バートンや脚本のエーレン・クルーガーもそうだっただろう。

 要するにリメイク版『ダンボ』とは、オリジナルへの感謝を形にした映画だ。その点で、これまでオリジナルの影をなぞって虚しいダンスを続けたり、変に現代っぽく仕立てようと挑んで見事オリジナルを台無しにしていたディズニーの一連の実写リメイクにあって、唯一といっていいオリジナリティと意義を有する作品となった。


ダンボ (吹替版)

ダンボ (吹替版)

*1:パンフレットのインタビューより

*2:サーカス団長のマックス・メディチ曰く

*3:サーカスの団長は常にテントの影となり、ピエロたちは化粧で素顔を隠す。黒人の作業員たちに至っては「人間」として扱われていなかった。

『ナイト・イン・ザ・ウッズ』とフラナリー・オコナーの関係について

*『ナイト・イン・ザ・ウッズ』に関する多少のネタバレがあります。



 エルサレムの聖キュリロスは教理問答でこう記した。「竜が道の脇に座し、通りすがる人々をじっと見張っている。この竜に食い殺されないよう用心せよ」


ーーフラナリー・オコナー、Mystery and Manners



 世界はものすごく悪い状態にあるよ。


――『ナイト・イン・ザ・ウッズ』


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ナイト・イン・ザ・ウッズ(Night in the Woods) Switch & PS4 PV


 キュートなアートワーク、ウィットに飛んだダイアログ、深みのあるキャラクター、そしてストーリー。
『ナイト・イン・ザ・ウッズ』は間違いなくここ数年で最良のインディー・アドベンチャーゲームのひとつでしょう。PS4かSwitchかPCを所有している人間が今すぐ買うべきゲーム2019ぶっちぎりナンバーワンです。*1開発元の ininite fall はもちろんのこと、スラングの多用される難易度の高い原語版をかくも丁寧かつ上質に訳したプレイズムの功績も讃えたい。
 

 さて、『ナイト・イン・ザ・ウッズ』は多くの顔を具えたゲームです。若者の自意識と葛藤を描いた青春モラトリアム物語であり、死にゆく田舎町の悲哀を捉えたアクチュアルな社会派文学であり、『ツイン・ピークス』めいたビザールなミステリであり、重層的な意味を持ったゴースト・ストーリーでもあり、みんな大好きなコz……いや、これはネタバレだったか。

 どのトピックから語っても記事をまるまる一つ消費してしまえるだろうけれど、今回は「『ナイトインザ・ウッズ』に影響を与えたもの」という切り口から探ってみましょう。

 すなわち、フラナリー・オコナー
 

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 三人の主要クリエイターのひとりで共同脚本などを務めたスコット・ベンソンはあるインタビューで影響を受けた作品群について語るなかでフラナリー・オコナーに言及しています


  
 フラナリー・オコナーはこのゲームのゴシック的な部分について終始影響を与えています。すべてを覆う、ぞっとするような恩寵に満ちた南部アメリカに潜む恐怖を探求する彼女の筆致は、ひとつのインスピレーションでした。
 私は非常に長い間クリスチャンとして過ごしていましたが、今では信仰を完膚なきまでに失ってしまいました。しかし、私はいまだにフラナリー・オコナーの「キリストに取り憑かれた(haunted)」世界とつながっているのです。神は完全に私のもとを去ってしまいましたが、恩寵の瞬間は美しくもナチュラルな形で残っており、私は純粋にひとりの人間として信仰心の探求に興味を持ち続けているのです。『善人はなかなかいない』と『賢い血』は間接的にではありますが本作に明確な影響を及ぼしています。もっとも、私はオコナーと究極的な神の実在に関しての見解は分かれるでしょうが。

 フラナリー・オコナーはファークナーなどと並んで南部アメリカ文学(ときには南部ゴシック文学)の代表的作家のひとりとされる人物です。人間の暴力性や南部特有のグロテクスさ、そして残酷な現実をえぐりだす作風で読者に鮮烈な印象を与え、今でもファンが多い。
 オコナーはまた(プロテスタント国家アメリカでは少数派の)カトリック教徒としての意識からクリスチャン的なテーマだったり、宗教的な道徳や倫理への問いかけをよく扱います。
 影響先で近年で最も話題になったのは一昨年のアカデミー賞で作品賞候補にノミネートされた『スリー・ビルボード』(マーティン・マクドナー監督)でしょう。*2まあそこらへんの詳しい解説はいろんなの人が書いてるので……。


『ナイト・イン・ザ・ウッズ』のクリエイターたちにとっても「信仰」は欠かすことのできない題材でした。killscreenの記事によれば、メインのクリエイター三人(アレック・ホウルカ、ベサニー・ホッケンベリー、スコット・ベンソン)はいずれもキリスト教にいったんはコミットしつつも、やがて信仰から離れていった経験を共通して持っているといいます。
 なかでもスコット・ベンソンはフラナリー・オコナーとおなじくアメリカの南部出身 *3であり、やはり保守的なバブテストの家庭で育ちました。しかし「フェミニズムは世界を破壊してしまう」だとか「AIDSは同性愛者を罰するために神から下された」といった教会の政治的な主張に疑問を抱き、別の教会へと移り、やがて信仰そのものを喪失してしまいます。
 そんな彼が信仰の酷薄な側面を描いたオコナーに惹かれたのはある種自然なことだったといえるでしょう。
 

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 ベンソンの言のとおり、『ナイト・イン・ザ・ウッズ』からフラナリー・オコナーの影響を汲み取るのはさして難しくありません。日常に根ざした宗教。不完全で欠陥だらけの人間たち。病んだ父親。*4突然のバイオレンス。どこかユーモラスでウィットに富んだ会話。恩寵と救済。
『ナイト・イン・ザ・ウッズ』には神的な「何か」が出てきます。が、それは慈悲深い神などではありません。というか、自ら「神」であることを否認する何かです。主人公のメイに対してとことんまでに冷たく、無関心で、「おまえは宇宙から忘れられている。私はお前を見ているが、それはお前を心配しているからではない」などとキツいことばをつきつけてきます。
 フラナリー・オコナーのいくつかの短編でも得体のしれない「何か」が登場します。興味深いことにそのうちの二つは「〜 in the woods」というタイトルがつけられているのです。
 ひとつは「森の景色(A View in the Woods)」。偏屈な地主の老人が険悪な仲である娘婿に嫌がらせするために、娘婿が放牧に使っている土地を売ろうとします。しかし老人が唯一心を許してかわいがっていた孫娘は、父親が仕事場を失うことを嫌がり、売却に反対します。
 彼女は猫可愛がりしてくれる祖父よりも、なにかにつけ自分を折檻する父親のほうを愛してしたのです。軽んじられた老人はより頑なになり、土地の売却を強行。しかし、売買契約を結んだ途端に孫娘はおもいがけない暴力をふるいだし、その姿に憎むべき娘婿の姿を見た老人は怒りに身を任せて彼女を殺してしまいます。
 直後、老人はかねてから弱っていた心臓が発作を起こし、臨死体験なのかなんなのか超現実的な光景を幻視します。そこで「怪物」を目撃するのです。



 ……白い空が水面に映っている小さい空き地。走るうちに、その場所は次第に大きくなり、突如、足もとにさざ波が寄せてくる水際の向こう、老人の目の前に、湖全体が堂々と拡がった。急に自分が泳げないこと、ボートを買ってなかったことを思い出した。両側の痩せた木々が、密度を増して、神秘的な暗い隊列を組み、水面を越えて遠くへ行進していゆくのが見えた。助けを求めてあたりを見まわしたが、人の気配はなく、となりにはただひとつ、巨大な黄色の怪物が、老人とおなじようにじっとして、土をむさぼり喰っていた。


――フラナリー・オコナー「森の景色」、横山貞子・訳、『フラナリー・オコナー全短編 下』ちくま文庫

 この土を食む「巨大な黄色の怪物」とはブルドーザーを指します。アメリカ文学研究者の大久保良子いわく「メアリー・フォーチュン(注:孫娘の名前)のワンピースの色が黄色であることや、少女が怪物的な力で、父権的な父になろうとする祖父を攻撃したことを鑑みれば、黄色いブルドーザーと、黄色いワンピースのメアリー・フォーチュンとが、老人の目に重ね合わされて知覚されているといえ」*5るらしい。
 解釈はともかくとして、幻想的な風景の連続の果に突如として現れる巨大モンスターの姿は『ナイト・イン・ザ・ウッズ』における夢のシークエンスを思わせます。


 
 もうひとつは「An Afternoon in the Woods」。 初期作品である「七面鳥(The Turkey)」(1948)の最終改訂版に付された題名で、オコナーの生前に世へ出ることはなく、死後出版された『Collected Works』(1988)にようやく収録された作品です。
 主人公の名前*6や年齢など細かな違いはあるものの、「An Afternoon in the Woods」と「七面鳥」のプロットはほとんど同じです。*7
 主人公は十歳くらいの少年。彼は森で七面鳥を追いかけています。七面鳥を捕獲すれば、家族や町の人々が自分を褒めてくれるはず、問題を起こしてばかりの厄介者の兄とは違って価値ある人間だと証明できるはずーーそう考えてのことです。
 しかし苦労の甲斐なく七面鳥を逃してしまい、彼は神を呪うことばを吐きます。そうして森を出ようとしたところで、傷を負って死んでいる大きな七面鳥に出くわします。
 彼は喜び勇んで七面鳥を抱え、家への帰路につきます。ついでに神を呪ったことを埋め合わせるため、道中で出会った浮浪者に無理やり十セント硬貨を施したりもします。
 ところが、罪の意識を帳消しにして安心したのもつかの間、年長の少年たちの一団に出くわし、七面鳥を強奪されてしまいます。
 ラストの場面で、少年は後ろから「おそろしいなにものか」が迫ってくる恐怖をおぼえながら、必死で家まで駆け出します。



 足が動くようになった時には、少年たちはもうララーを一区画引き離していた。遠くなって、とうとう後ろ姿も見えなくなったことを、ララーは認めないわけにはゆかなかった。這うようにのろのろと家に向かった。四区画歩いたところでいきなり、もう暗くなってきているのに気がついて、走りだした。走って走って、家に向かう最後の曲がりかどまできた時、心臓が足の動きとおなじくらい早くなっていた。ララーにははっきりわかった。腕に力を入れ、今にもつかみかかろうと指をかまえて、おそろしいなにものかが後ろから迫ってきていた。


 ――フラナリー・オコナー七面鳥」、横山貞子・訳、『フラナリー・オコナー全短編 上』ちくま文庫

 少年につかみかかろうとした「おそろしいなにものか」の正体は何なんなのか。森で悪態をついたときに少年がおそるおそる背後を確認する場面もありますが、そこにいるかもしれなかったのは神なのか、それとも他のなにかなのか。
 オコナーの最初期、修士論文として提出した六作品のなかでは「オコナーが後の作品で常に読者に問いかけてくる、神と人との関わりについて示唆」*8する部分が最も色濃い一篇です。
 タイトルの「An Afternoon in the Woods」は『Night in the Woods』の対になるとも読み取れます。果たして制作陣にどこまでその意識があったのか。


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 超越的な存在に対する信仰と不信のあいだで揺れ動くのは、メイだけではありません。『ナイト・イン・ザ・ウッズ』で最も宗教に近い人物ーー新任牧師のケイトもその一人です。神的な存在と邂逅し「私達が考える(親切な)神様なんて最初からいなくて、神様だと思っていたものは無慈悲で無関心ななにかなのではないか」と考えるようになったメイから「神様っていると思う?」と問いかけられ、ケイトは不信心な自分を告白をします。
「わからないの。調子のいい日は心から(神の存在を)信じられることもあるよ」。しかし、そうでない日はその実在を疑うこともある、と。「神様を信じるっていうのはある種のプロセスなの。毎日毎日、『今日も立ち直ってまた前に進もう』って自分に言い聞かせなきゃいけない」
 そんなケイト牧師に対し、メイは「自分が信じてないものを他人に信じろと言って回るのなんてウソじゃん。信じるのがあんたの『仕事』じゃん」と不実をなじります。
 ケイトは「確かに毎週みんなの前に立って『今回はこれだけ神様を信じられるようになりました』って数字にして報告できたらいいのかもね。でも、そうしたって誰が助かるの? 誰のためになるの?」
 ケイト牧師の信仰のゆらぎは、神への熱烈な愛を日記に書き綴りながらも一方で不安に陥っていた20代のオコナーの想起させます。


 この時代の空気を吸っていると、わたしは神への信仰と不信のはざまでいつも悩んでしまいます。常に信じることは困難です。ましてやこんな世界に生きているとなるとなおさらでしょう。わたしたちの中には、信仰を得るために一歩ずつ踏み出さなければならない人もいれば、信仰なしの人生がどんなものであって、究極的にそんな生活が可能かどうかを烈しく考え抜かなければならない人もいます。


ーーフラナリー・オコナー、”To John Hawkes,” The habit of being: Letters of Flannery O'connor

 ケイト牧師も牧師になる程度には神を信じている。教会にほとんど行かないメイより信仰心は強いでしょう。けれども、「こんな世界」に身を置いているとそんなケイト牧師ですら「常に信じること」が難しくなる。
 

 ケイト牧師は本作には珍しく、はっきりと善意で動いているキャラクターです。オコナー作品にたびたび見られる傲慢な”善人”とは違い、本気で他者を想いやっています。たとえば、教会近くの空き地に住み着いた浮浪者を見かねて教会の中で寝起きできるよう図ろうとする。が、町議会の反対に会って頓挫してしまいます。
 だれかを助け、ケアする。そんなシンプルなことさえ可能でなくなってしまうこの世界においてわたしたちは「何」なのか。そうした苛烈な問いかけをなげかけてくる点で、『ナイト・イン・ザ・ウッズ』とフラナリー・オコナーは姉妹のようなものだといえるのかもしれません。


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「なにも、世の終わりみたいなまねをすることはないだろう? この世は終わってないんだ。これからは新しい世界に生きて、これまでと違う現実に直面するんだよ。元気を出すんだ。それで死ぬようなことはないよ」


――フラナリー・オコナー「すべて上昇するものは一点に集まる」、横山貞子・訳、『フラナリー・オコナー全短編 下』ちくま文庫

 あんまりよくまとまらなかったな。


フラナリー・オコナー全短篇〈上〉 (ちくま文庫)

フラナリー・オコナー全短篇〈上〉 (ちくま文庫)

フラナリー・オコナー全短篇〈下〉 (ちくま文庫)

フラナリー・オコナー全短篇〈下〉 (ちくま文庫)

*1:残念ながら、期待されていた steam 版の日本語化パッチはまだ来ない。プレイズムは独自の販売プラットフォームを持っているため、おそらく steam 版は出ないのではないか。やはり名作の誉れ高い『To the Moon』のときのように。

*2:スリー・ビルボード』と『ナイト・イン・ザ・ウッズ』の原語版が同じ2017年にリリースされたのは全くの偶然ではない気がします。

*3:ベンソンはテキサスで、オコナーはジョージア

*4:ビーのね

*5:大久保良子「母なる子:フラナリー・オコナー「森の景色」における親子関係の撹乱」https://rikkyo.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=7060&item_no=1&page_id=13&block_id=49

*6:七面鳥」ではララー(Ruller)、「An Afternoon〜」では Manley

*7:手元にないので、wikipedia を読むかぎりでは

*8:渡辺佳余子「フラナリー・オコナーの初期作品再読」http://www.tsc.ac.jp/library/bulletin/detail/pdf/38/y_watanabe.pdf

『異色作家短篇集リミックス』の電子版販売はじめました。+まぼろしの序文について



 ふたりはたがいに相手の忘れたところを補いながら、長々とこの思い出を語りあった。ようやく話し終えると、
「ぼくらにとって、あのころがいちばんよかった」フレデリックが言った。
「ああ、そうかもしれん。いちばんよかったな、あのころが」デローリエは言った。


  ――フローベール太田浩一・訳『感情教育光文社古典新訳文庫

YouTubeで10分ごとに挿入される広告みたいなものと思って諦めてくれ。

前回までのあらすじ

proxia.hateblo.jp
(同人誌の詳しい内容はこちら)

早川書房『異色作家短篇集』シリーズをネタ本に『異色作家短篇集リミックス』という文芸創作(+評論)同人誌を作った。
・なんか最初は身内の創作だけで細々やろうか……3円くらいで売るやつで……というノリだったものの、信頼できる同人たちの勇気とコネクションにより、矢部嵩先生(『〔少女庭国〕』*1、『魔女の子供はやってこない』)の掌編と表紙絵、岩城裕明先生(『牛家』、『呪いに首はありますか』)と伊吹亜門先生(本ミス大賞ノミネート! 『刀と傘 明治京洛推理帖』)のインタビューといった特別寄稿がなされ、オリジナルメンバーからも第九回創元SF新人賞大森望賞受賞者で第十回でも大絶賛一次選考通過中の織戸久貴氏による完全新作姉妹百合SF、殊能将之研究の泰斗・孔田多紀氏のリキの入った論考、さらには次世代のホープ・紙月真魚氏のパワフルな狂気に満ちた漫画短編レビューなどが集まり、思ったよりタイムリーで1000円で売れる級のものが出来てしまった。

呪いに首はありますか

呪いに首はありますか

刀と傘 (明治京洛推理帖) (ミステリ・フロンティア)

刀と傘 (明治京洛推理帖) (ミステリ・フロンティア)


・というわけで、1月の京都文フリで頒布したところ高評につき見事完売。*2
・本ブログを読んで会場へ足を運んでくださったかたもいたようで、ありがたいかぎりです。
・勢いで電子版も作ることになった。

今回のあらすじ

・電子版が出来たよ! 二ヶ月の限定販売だからお早めに!

strange-fictions.booth.pm

 あのムラシットさんも買って凄い勢いで読んどる(ハズ) 買ってへんのはおまえだけ。


おまけ


 デフレ世代なので単に告知するだけだとお得感なくてゴミだなー、とおもってたところに孔田多紀(id:kkkbest)さんからナイスパスがきました。
 
anatataki.hatenablog.com



nemanocさんによる「序文」も紙版のver.2から変わってver.3くらいの一番短いものになってます(一番長いver.1(4000字くらいある)もけっこう面白いと思うんですが公開されたりしないんでしょうか?どうでしょうか?って、ここで書いても意味ないか……)


 この「一番長いヴァージョン」は物語仕立てになっていたんですが、いくらなんでも序文にしては長すぎるのと、内輪ネタすぎるのと、『アラビアの夜の種族』あとがきネタはさすがに関係なさすぎるのと、三つの異なる「異色作家短篇集」が出てきて無駄にややこしいのと、序文時点で「キモっ!」と思わせるのはよくないのと、その他さまざまな理由によるのとで怪文書度数(K: Kaibunshority)が閾値を超えてしまったのでボツにし、紙版掲載の2000字?くらいのヴァージョン2に落ち着き、三ヶ月経ってこれもサムいな、と思ったので一行に切り詰めて現行のヴァージョン3(電子版)になったという経緯*3があります。要するに詩歌が俳句になっていく過程といっしょですね。小さい進化はデカイ進化の経過をなぞるってやつです。

というわけで、お蔵出し。


まぼろしの序文



 死ぬほど退屈なあなたに べそをかいていることはない! あなたは抜け出られます。これがその出口です!
 ――旧版『異色作家短篇集13 レベル3』の帯文より。


 あの興奮を忘れない。


 あなたもきっとおぼえているはずだ。


 わたしが旧版『異色作家短篇集リミックス』に初めて出会ったのは、大学に入りたてのころーー青雲の志を抱いて京都に住みはじめた時期だった。
 せっかく古都に来たのだからと毎日のように河原町三条の古書店森見登美彦円居挽の同人誌などを求め漁っていたわたしに、ある日、初老の店主がこう声をかけてきた。

「あンた、ミス研の学生さん? やったら、よほどおもしろいもんあるで」

 店の奥に引っ込んでしばしのち、店主は一冊の薄い書物を持ち出してきた。本にはカバーもかかっておらず、装丁はみすぼらしい。どうみても商業出版された代物ではない。離れていても、饐えたような、ほこりっぽいようなにおいがツンと鼻をついた。

 同人誌ですか? と店主に尋ねると、彼はしたり顔でうなずき、わたしに本を手渡した。「お代は結構。サービスや」と言った。

 ボール紙の安っぽい黒地の表紙にはこう題されていた。『異色作家短篇集リミックス 第一巻』と。



 今となっては関西圏で知らぬものはいない同人誌シリーズであるけれど、一応説明しておこう。
 〈異色作家短篇集〉という叢書がある。もとは一九六〇年代に早川書房から出版された海外作家別短編集のシリーズで、二〇〇五年には新装版として再販された。
 江戸川乱歩の提唱したいわゆる「奇妙な味」との結びつきでよく語られるものの、乱歩の意識した英国新本格や変格の文脈よりはもうすこし広く「変な話」を募っている。

 その〈異色作家短篇集〉をオマージュした変な話の創作をやろう、ということで当時の関西の大学ミス研有志で集まったのが一九七八年の旧版『異色作家短篇集リミックス』……らしい。すくなくとも、巻頭言にはそうある。アジ文めいたその行間からは、関東圏の大学ミス研を中心に設立された全国区的ミステリー団体に対するリージョナルな対抗意識なども読み取れる。そうした地方特有の偏狭さもモチベーションの一つだったのだろう。

 それ以上の成立過程はつまびらかではない。どころか、信用の足らない部分も散見される。「編集長」を名乗る人物の巻頭言では、「同志社立命館など各大学の推理小説研究会の精鋭」が参加したというけれど、当時の立命館にミステリ研究会は存在しなかったし、同志社ミス研所属と称している執筆者の名前も当時の同大の機関紙では確認できない。


 また、巻末の参加者コメントを読むに、京都圏のさまざまなミステリファン(なかには高校生や社会人らしき人物もいる)も参加していたらしい。実態として、「各大学の推理小説研究会」の会員は全体の二割にも満たなかったのではないだろうか。おそらく、「大学ミス研」というカンバンによる権威を借りようとしたのか。当時、そこまで大学ミス研というものにそこまでのブランド力があったのかは疑わしいけれど、背景には先述した関東圏への対抗意識があったものと想像される。


 こんなふうにガワは怪しさ芬々たる旧版『異色作家短篇集リミックス』だったのだけれど、中身はべらぼうにおもしろかった。

 おもしろいものは他人に勧めるのがルールだ。さっそくミス研の友人に貸そうとすると、「もう持っている」と言う。

 聞いてみると先輩も同期もみな既に入手済みだった。いずれも古本屋めぐりの最中に手に入れたのだと言う。しかし時期や店舗、状況などはまちまちであり、たとえば件の友人は河原町OPAの安売りカゴに放り込まれていたものになんとなく興味を惹かれて手にとったらしい。一方である先輩は古本屋でたまたま会ったOP(オーバー・パーソンの略。終わったひとのこと)から「俺も昔OPの人からもらったんだけど処分に困って」と言われて譲り受けたと明かした。

 入手当初は同人誌の貧相な見た目のせいで、みな読む気力を起こせなかった。ネタ元である〈異色作家短篇集〉を未読だというのでためらっている人もいた。なので、その時点で旧版『異色作家短篇集リミックス』読み終わっていたのはわたし一人だった。もっともわたしも当時は〈異色作家短篇集〉を一冊も読んだことがなく、単に読書家としての躾がなっていなかったせいで元ネタを通過せずにオマージュ作品を読む蛮行を犯してしまっただけに過ぎない。

 その知的怠慢が、布教のうえでは有利に働いた。

「元ネタ知らなくてもそんなにおもしろいんなら読んでみるか」と友人や先輩は言ってくれた。他人が勧めた本は読む。説得されたら読む。その善き不文律が生きていた最後の時代をわたしたちはいまだに懐かしむ。

 その次の例会は読書会だったはずだ。でも課題本のことはまったく覚えていない。旧版『異色作家短篇集リミックス』の話一色だった。あの短篇がいい、この短篇がいい、いや収録作まるごといい。全部いいのはいいけど好みや差異もあるだろう。そうだな、ランキングを作ろう。ここは教室なので黒板がある。まずタイトルを書き出そう。それから投票で序列をつけるのだ。なんでもかんでもランキングにするのは悪い文化だね、宝島社に毒されてちゃって。そうだな、みんな宝島社が悪い。それはそれとしてランキングを作るのはたのしい。たのしいね。いいから好きなやつのタイトルを挙げて。

 みなのフェイバリットを挙げていくと当然のように食い違った。どころか、互いに「そんなタイトルの短篇はない」と非難しあった。そんなやりとりが新しいタイトルを挙げるたびに湧く。会員たちはめんどくさがりなので相手の本を検めるようなことはしなかったが。

 それでも三回目の異議でさすがに異常さを悟り、それぞれ所持している旧版『異色作家短篇集リミックス』を引き比べてみた。


 どれ一冊として収録作がかぶっていなかった。


 巻数違いとも考えられたが、ナンバリングはどれも「第一巻」だったし、表紙や巻頭言、発行日にも相違は見当たらなかった。同じ本なのだ。「おもしろい」という感想も一致している。ただ、収められている物語が異なる。

 その場では「ずいぶん凝った趣向の同人誌を作ったものだね」という結論に落ち着いた。同じ装丁であつらえて、中身だけを一冊一冊入れ替える。金と手間はかかるものの、仕掛けとしては単純だ。一冊につき各十三篇で編まれているから、あの場にあっただけでも百篇以上の物語が存在していたことになる。そのどれもがおもしろかったのだから、ちょっとした奇跡だ。


 それから数週のあいだはお互いの旧版『異色作家短篇集リミックス』を交換して読みふけった。あんなにも立てつづけに同人小説を読んだ経験はあとにも先にもあれだけだっただろう。気位の高い会員たちには「同人は商業に劣る」という固定観念があった。その風潮を一発で払拭したのだ。
もちろんほぼ全員が元祖〈異色作家短篇集〉を遡って読破しもした。

 そのうち他大のミス研にも旧版『異色作家短篇集リミックス』が流通していることがわかり、ふだんの交流など絶無だったにもかかわらず、他大の例会へおしかけ本を交換しあった。余談になるが、今回のメンツもそのときの交換会を通じて知り合ったひとびとだったりする。

 新たな所有者が判明するにつれ、短篇の数も飛躍的に増えていった。最初は百ちょっとだと思われていたのが、五百を越え、千を越えた。全レビューを行うべきだという声も一部(あくまでほんの一部)であがったが、刷られた正確な冊数も不明だったし、なによりみな億劫がった。量の問題もあるが、簡明なあらすじにまとめるにはあまりに筆力を要求される作品ばかりだったし、その評なり感想なりを書くとなるとなおさらむずかしかった。そこのあたりは元ネタとなった叢書に似ている。


 ミス研員というのは概して小説の感想を精緻に言語化する訓練を積んでいる生きものだ。

 けれども、旧版『異色作家短篇集リミックス』に関しては単純に「おもしろい」としか表現できない人間が多かった。わたしもそのひとりだった。感想の不可能性は敗北の苦さではなく、むしろ特別な秘密の甘美さをまとっていた。読者が偉大な作品に出会ったときに抱きがちな「自分だけに向けられた何か」の感覚は、大量生産大量消費の原則からいってほぼ錯覚であるけれど、旧版『異色作家短篇集リミックス』にかぎっては、現実に、まぎれもなく「自分だけの一冊」だったのだ。

 わたしが大学を去るころには、旧版『異色作家短篇集リミックス』のヴァージョン違いは二百近くにのぼっていた。そのころには京都圏だけでなく関西圏全域、大学ミス研員やそのOBだけなく市井の一部蒐集家などにも所有の環が広まっていることがわかっていた。たしか会の内部でヴァージョンごとの所有者と収録作を書き記したリストがあったはずだけれど、いまごろどれくらい膨れあがっているか、想像するだにわくわくする。『二巻』や『三巻』はついぞ見つからなかったようだけれど。


 あのすばらしい思い出を復興しよう。わたしがそう思い至ったのは、この夏の高知への旅行がきっかけだ。

 同地に暮らしている後輩に会って酒を飲み交わしていたら、ふと旧版『異色作家短篇集リミックス』の話になった。

 それまでに繰り返し何度も語らった話題であったけれど、このとき後輩はふいに奇妙なことを言った。

「もしかしたら、どの本も内容は一緒だったのかもしれませんね。読むぼくたちが違っていただけだったのかも」

 どういう意味だろう? わたしは発言の真意を問いたかったが、酒で思考と発声がのろくなっていたために、彼に先んじられた。

「ああいう話が書きたいんですよ。僕は。あれと同じ同人誌っていうか……本自体の趣向じゃなくて……うまくいえないんですけど……ああいう感じの短篇、ぼくの読んだ短篇のような短篇を書きたいんです」

 わたしは彼の旧版『異色作家短篇集リミックス』を読んだことがない。その後輩は他の誰にも自分の本を見せなかった。だが、それを読んだ彼が作品に対してどういう気持を抱いていたかならわかる。そこは全員に共有されている。

 わたしは言った。今、ミス研OBたちとあたらしく創作文芸サークルを作る話が持ち上がっている。サークルの名は〈ストレンジ・フィクションズ〉。河出書房新社の不滅の叢書にリスペクトを捧げた名前だ。ついては、きみも参加しないか。

 彼は赤ら顔を眠たそうにもたげながら、夢のように訊ねた。

「テーマは……決まってるんですか」

 高知に来るまでは決まっていなかったが、今決まったよ。『異色作家短篇集リミックス』だ。早川の〈異色作家短篇集〉は出て四十年後に新版が出た。あの『異色作家短篇集リミックス』が出て、今年で四十年だ。ちょうどいい符合だろう?

「いいですね」と彼は笑い、空いたグラスにビールを注いだ。


 そうした驚くべき小さな奇跡の積み重ねのうえに、今ここにこの本がある。


 謎の円盤が浮かぶ街でおかしくなっていく妹を案じる姉の話。
 浜辺で起こった足跡のない殺人事件の話。
 伯父の遺した奇妙なSF小説を読み解こうとする少女の話。 
 警官の前で繰り返しの姉の話をする妹の話。
 地下鉄に体当たりをする象の話。
 小説が忘れ去られてしまった未来で図書委員に任命された少年の話……。


 ここに収められた短篇はどれも異なる色を持つ、わたしたちだけの秘密の部屋であり、あなただけの秘密の部屋でもある。ここ以外の、どこにも属さない。


 かつての〈異色作家短篇集〉のように。


 かつての『異色作家短篇集リミックス』のように。


 奇妙(ストレンジ)であることとは特別(イスペシャル)であることの謂である。


 あなたもきっと忘れられなくなるはずだ。


〈おしまい〉*4


レベル3 (異色作家短篇集)

レベル3 (異色作家短篇集)


くじ (ハヤカワ・ミステリ文庫)

くじ (ハヤカワ・ミステリ文庫)

*1:文庫化おめでとうございます

*2:時間内ギリギリで売り切れる量だけしか刷らなかった編集長の眼力が優れていたともいう。なお、印刷ギリギリになって参加者たちから「さすがに部数少なすぎるでしょ。もうちょっと増やしたほうがいい」と説得されてようやく腰を上げた模様。

*3:ver2まではいちおう『異色作家短篇集』という叢書についてのざっくりとした説明みたいなものがついてましたけれど、電子版で買う人は文フリの客層と違ってそもそも異色作家短篇集が何であるかを知ってるひとが大半であろう、ということで大幅カットしたみたいなとこもあります。

*4:なお、文中に出てくる”旧版『異色作家短篇集リミックス』”についての問い合わせに関しましては一切お答えできません