名馬であれば馬のうち

読書、映画、その他。


読書、映画、その他。


twitterのアカウントが消えた。



 おまえがメキシコに戻ってきたのは、生者といるより死者といるほうが落ち着くからだ。


 ――ドン・ウィンズロウ田口俊樹・訳『ザ・ボーダー』

【あらすじ】

  10年くらいやってた twitter のアカウントが消えた。

https://twitter.com/nemanoc


【経緯】

 
 ふだんいじらない各種設定欄をいじってるうち、プロフィール欄全部埋めちゃえ生年月日も埋めちゃえというノリになり(深夜0時ごろだった)、2005年生と大嘘を提出。
 13才以上ならイケたはずという算段だったものの、それまであらゆる軽口をアルカイックに流していた twitter さんがとつぜん「”登録時の年齢”が13才以上じゃないとダメなの! 2009年時点だと4才じゃん!! 死ね!」とマジギレしだし、秒でアカウントが停止してしまう。
 返してほしくば政府機関の発行する身分証を出せということなので、おとなしく保険証に黒塗りをかけて提出した。

 すると今度は返信メールで「顔写真がないとダメ」とか抜かしやがる。最初から言えよ。
 顔写真つきの身分証といえば要するに運転免許証なのであるけれど、わたしは免許証というものを持たない。
 パスポート探すのもめんどいし、役所に頼るとなると光年の彼方の気分です。ネトフリで『グレート・ハック』見た直後でもあったし、ぶっちゃけよくわからん理由で twitter ごときにセンシティブな公的書類わたしたくねえ……。
 てきとうにすむやつないかなー、と財布をひっくりかえして出てきたのが動物園の年間パス。
 写真も名前も歳も有効期限も示されてるし、いちおう公的機関発行でもあるから大丈夫だよねーこれでダメなら明日またパスポート探すなりすればいいし、で提出して後はどうにかなるさと肩を組んだ。


 もちろん大丈夫なわけはありません。どうにかもならない。肩を組んでる場合ではない。

 そのうえ、証明画像のアップロードにまごまごしていたせいで twitter さんの逆鱗に触れたらしい。*1
「もう貴様からのお問い合わせは受け付けません。ツイをつづけたいなら新しいアカウントを作れ!! さもなくば死ね」
 とお叱りを受け、わたしは死んだ……。*2

【敗因】

 ふだん表面に見える活動から twitterTSUTAYAなみにルーズな企業だと侮っていたので、個人照会もTSUTAYAのノリでいけるだろうと考えてしまった。

【かなしいこと】

・フォローしていたおともだちの大半が失われてしまった。彼らから見ればわたしが死んだことになりますが、わたしから見たら彼らのほうが大絶滅。わたしたちはもう二度と『将太の寿司』で盛り上がる世界を目撃することはないだろう。
・過去のフォロー欄にもアクセスできないので、誰をフォローをしていたか九割がた思い出せない。
・nemanoc というID、上半分がまるくておさまりよくてかわいくて好きだったのに二度と使えなくなった*3
・過去ログが全部消えた。定期的にバックアップは取っていたんだけど、ここ半年くらいはアップデートしてなかったのでそのあいだに見た映画の感想とかもう見られない……。年末のまとめとかつくるのに難儀する。



【今度の方針】

・特に以前と変わらない。
・数ヶ月前に別アカ的なものをこしらえていたのでとりあえずそっちに移るっていうか合併する。*4

twitter.com


・思い出せるかぎり前にフォローしていた人たちをちょくちょく見つけていく。せっかくだし以前とは違うTLを作りたいというアレはある。
・アカウントが変わるとふしぎなもので、実際上はなにも変わっていないはずなのに、ポストする文の感触が変わってくる。ほんの一時的な現象なのかもしれません。
・子供のころにインターネットをはじめてから、数年ごとにハンドルネームを変えながら生きてきたのだけれど、nemanocは6年?*5くらい続いて、これが終の名になるのだろうか、ツイだけに……と予感していたところにこれですから、なんといいますか、連続して在るのはむつかしいですね。かつてわたしたちは四肢と頭によって統合された肉体だけが身体だったけれど、今やインターネットに不可視の王冠かぶった自分の複製がいる。それは無料で登録できる不滅でもある一方、いともたやすく失われもする。
・誰もが簡単に死ねるのに死ねない。ならば、どう死ねばいいのか。レベッカ・ソルニットも「忘却ではなく手放す技法こそが肝要なのだ」といっているのだし、意図するにせよしないにせよ過去を洗い磨いていくための切断は大事なのだとおもう。あるいは忘れられることによって自分も研ぎ澄まされていくのかもだけれど、そういうのは年をとると怖くなるよねえ。
・というわけで半端にわたしの twitter はつづいていくのです。
 

【教訓】

・余計なことはしないほうがいい。

暗い鏡の中に (創元推理文庫)

暗い鏡の中に (創元推理文庫)

*1:具体的には、証明書類の提出回数には制限があったらしいのだが、勝手がわからず同じ画像をアップロードして送りまくっていたらあっというまにその制限を超えたらしい。

*2:ちなみに基本的に twitter は想定されうる状況ごとに用意された専用のフォームからしか問い合わせを受付ず、定形外の事態に遭遇しても説明する手段がない。

*3:twitter で一度取得されたIDは消えても(自主的な削除だろうがBANだろうが)再取得できない

*4:そっちはもともと創作用のアカウントだったのだけれど、考えてみれば創作はほとんどしていないので開店休業状態だった。

*5:twitter始めてから数年は別のIDだった

原作をそのままやってもやれなくて。――リメイク版『ライオン・キング』について

(The Lion King, ジョン・ファヴロー監督、2019年、米)


f:id:Monomane:20190810054911p:plain


 ふだんはあんまり愚痴っぽい感想を書かないようにしているんですが、今回だけは思い入れの強さが段違いなので許してください。
 原作厨モードなので「オリジナル版」との比較ばかりとなっております。




「ライオン・キング」予告映像B


顔あるけもの



 ディズニー・アニメのマジックは、個性が内面化したように描かれることである。「ものが動くのではなく、生きて考えているように描かねばならない」とウォルトは言う。ディズニーのアニメーターであるケン・ピーターソンによると、「アニメーション」という言葉は、「動き」を意味すると考えられがちだが、実際はそうではなく、「ANIMUS」とは「生命の原動力・生命」あるいは「生きる」ことを意味するのである。
 ディズニーのアニメーションは生命を描いている。というようりも生命上に大きいものを描いている。ウォルトが追求したのは生命の模倣ではなく、その誇張である。
 ウォルトの言う「生命の風刺」はリアリズムにもとづいて、そのうえに膨張していく。そしてリアリズムは彼の世界を単純化し完璧なものにし、世界をコントロールする。


 ――ニール・ゲイブラー、中谷和男訳『創造の狂気 ウォルト・ディズニーダイヤモンド社


 原作をそのままやる。
 ただそれだけがなんと至難であることでしょう。
 この夏話題の『ドラゴン・クエスト ユア・ストーリー』はまさにそのままやれなかったことが*1炎上につながる結果となりました。*2

 ひるがえって、リメイク版『ライオン・キング』は極めてオリジナルのストーリーに忠実です。プロット単位はもちろん、シーン単位、ともすればカット単位で見てもオリジナル版(1994年)とかなり一致しており、2010年代のディズニークラシック・リメイク作品群のなかでも「そのままやった度」では群を抜いているのではないでしょうか。
 アメリカでの映評のなかにはガス・ヴァン・サントの『サイコ』リメイクと重ねる声もあるくらいです。*3


 にもかかわらず。
 この違和感はなんなのでしょう。
 シンバも、ナラも、スカーも、ザズーも、ハイエナたちも何かが違う。同じセリフを吐き、同じ歌を歌っているはずなのにオリジナルの『ライオン・キング』となにかが決定的に違う。

 そのなにかとはなんなのか。
 わたしたちの眼に映っているもの、まさにそれです。


 そう、シンバたちがあまりにリアルすぎる。
 顔が、ではなく、動きが。

 ジョン・ファヴロー監督曰く「自然ドキュメンタリーのような」*4フォトリアルな造作と挙動。それがアニメーションのキャラとしての自由さを制限してしまっているのです。



“完璧すぎない”ことが大事だったんだ。アニメーターたちが動物を動かすときは、本物の動物がやること以上の行動はさせないことも大切だ。キャラクターが人間的な表情をしてしまうと、逆に変になるんだよ。最初の頃のテストで表情を感情的にしてみたら、僕たちが違和感を覚えてしまったんだ。『今見ている映像はリアルかもしれない』と、観客にイリュージョンを感じてもらうことに意味があると僕は思っている


 ――ジョン・ファヴロー 
「ライオン・キング」ジョン・ファブロー監督、目指したのは“完璧すぎない”こと : 映画ニュース - 映画.com

 多くのディズニーアニメと同じく、オリジナル版『ライオン・キング』のキャラクターたちはかなりデフォルメされた動きをします。端的に言えば、人間っぽく振る舞うのですね。
 たとえば、プライドランドを追放されたシンバがティモンとプンバァ*5と知り合い、彼らから虫を勧められて食べるシーンがあります。
 オリジナル版だとシンバはティモンから渡された虫を前肢の指で器用につまんで口にいれます。現実のライオンにはできない芸当です。
 いっぽう、リメイク版だとシンバは四足獣らしく、這っている虫を口だけで拾い上げ食らうのです。
 このように、オリジナル版に出てきた「本来動物には出来ない動作」は軒並みそれぞれの身の丈にあったアクションに置き換えられています。 *6


 オリジナル版ではどのキャラも表情をコロコロと変えるのも人間くさくて印象的でしたが、リメイク版ではそちらもかなり平坦な演技に変わっています。そりゃ、ふつう動物は笑いませんからね。
 骨格から表情筋までリアル動物基準に合わせてしまったがために、『ライオン・キング』は仏頂面のオンパレードです。「ふつうの動物」の範囲では精一杯表情豊かにふるまっているのですけれど……。
 オリジナル版の活力に溢れた顔に比べると、なんだか本物の動物に『ライオンキング』のセリフを当てて作ったMAD動画のような不吉ささえ帯びています。*7


スカーフェイズ

 「動物化」路線にとりわけ影響を受けたのは悪役のスカーでしょうか。
 彼はオリジナル版だと細身で能弁な策士で、そのオーバーアクト気味な演技力でムファサとシンバの親子を破滅へと追いやっていきます。卑怯者の情けなさと謀略家の冷酷さを伏せ持つ彼のイメージに、シェイクスピア俳優ジェレミー・アイアンズの声はまさにぴったりでした。
 ところがリメイク版のスカーは、ムファサと比べれば若干痩せ気味なものの、それなりに立派な体格のオスライオン。面構えもゴツい。
 演じたのはキウェテル・イジョフォーです。『それでも夜が明ける』や『ドクター・ストレンジ』での朴訥で生真面目なイメージが強いですが、本作でも策士であることは策士なんだけれど、過剰な演技でシンバを誘導するようなことはせず、芯を持ってぶっきらぼうに釣り餌をまいていくアンタッチャブルなヤクザめいた印象です。声そのものはオリジナル版のアイアンズに寄せてきたな、というかんじ。


 ふたりのスカーの違いをよく表しているのは隠れた名曲「Be Prepared」*8
ディズニー公式チャンネルで上がっているクリップを見てみましょう。

 こちらはオリジナル版。
www.youtube.com


 実に躍動感溢れるノリで数々のギミック(?)に飛び移ってはハイエナたちとドツキあいつつ、セクシーなシブい声で高らかに自分の野望を歌い上げます。特に最後の"Be king undisputed, respected, saluted, and seen for the wonder I am! Yes, my teeth and ambitions are bared. Be prepared.”は名曲ぞろいの『ライオン・キング』挿入歌中でも屈指のパンチラインではないでしょうか。めちゃくちゃかっこよくて高揚しますね。


 で、イジョフォー版の映像は用意できませんでしたが、曲調はこんな感じ。

www.youtube.com


 場面としては、薄暗い岩陰で足場を(オリジナル版よりは幾分控えめに)飛び移りながら、歌うというよりはハイエナたちへ演説するような調子でリリック*9を乗せます。*10
 ハイエナたちもノリが悪く*11、全体的にヘビーでおとなしめです。たしかに単体の曲としては悪くないし、場面の雰囲気とマッチしてはいて方向性は理解できるのですが、あまりに荒涼としていて愉しさにかけます。


夢と魔法を引かれたアニマルキングダム

 そうなんですよね。ミュージカルシーンが愉しくないのが問題なんです。
 リメイク版は動物たちを「動物化」すると同時に、オリジナル版にあった魔法をも消してしまった。具体的にはこんな感じです。


挿入歌"I JUST CAN’T TO BE KING”比較。
(オリジナル版)

www.youtube.com



(リメイク版)

www.youtube.com




 オリジナル版ではシンバが歌い始めた途端に画面がアフリカンアートめいたカラフルな色調に塗り替えられ、シンバたちが表情豊かに飛んだり跳ねたりしながらモブ動物たちの大コーラスをバックに狂った世界でシャウトします。同時にザズーとのスピーディな掛け合いもコメディとして良好に機能しています。これがミュージカルの魔法です。

 ところがリメイク版ではその魔法がかからない。オリジナル版に似ていながらも縮小された景色を行きながら歌詞をなぞるだけです。
 誇張した表現を使わずとも、ハイパーリアルな映像美で観客を圧倒できる、そういう計算だったのかもしれませんが、実際に展開される光景はナショナルジオグラフィックめいていて退屈です。とてもシンバとナラのわくわくに満ちた子供時代を再現できているとは思えません。


意味かい? 「ぼくたちは大丈夫」だってことさ。(By ティモン)

 たしかにたてがみの一本一本が細やかに風になびく映像技術はすばらしい。実際の動物のモーションを再現するためのリサーチも十分尽くしたのでしょう。
 スクリーンにいるのは完璧なライオンです。ライオンたちが人間的な感情を有していたらこんな感じなんだろうな、と想像させます。そこはすごい。

 ですが、その完璧なまでにリアルなライオンたちに『ライオン・キング』を演じさせたのは、果たして正解だったのでしょうか?

ライオン・キング』はもともと人間寄りに戯画化されたキャラクターたちのために作られた作品です。だからこそディズニーアニメ作品のミュージカル化にあたって真っ先に選ばれたのでしょうし、今に続くロングラン作品となりえたのでしょう。
 そんなものに本物のライオンたちをアテたって馴染むわけがない。奇妙なパロディの感覚を喚ぶだけです。*12
 やはりディズニークラシックのリメイクであったファヴロー監督の前作『ジャングル・ブック』でも登場動物たちは誇張を捨てたリアルな装いを身にまとっていました。しかし、あの作品の中心には人間であるモーグリ少年がいて、「人間と動物」の線を引くことが物語の核心に関わってくるよう構成されていたため、『ライオン・キング』ほどの異物感はありませんでした。


 リアルさを追求するな、リアルっぽい動物に人間のことばを喋らせるな、と言っているわけではありません。
 むしろ、誇張を抑えてリアルに再現された動物たちだけが出てきて喋るCG映画作品があったら何としてでも見てみたい。わたしはそういうものが大好きです。
 もし、あの本物のライオンたちのために用意されたシナリオが、作品があれば、あるいは幸福な映画の可能性もあったやもしれません。
 しかしディズニーはその道を選びませんでした。多額のコストをかけてオリジナル作品に賭けるよりは、すでにヒットの実績があって知名度も高い過去作という器を選んでしまったのです。その器が自分たちの手法に合っているかどうかを考慮することもなく。*13*14


「原作をそのままやる」ことがかならずしも幸せにはつながらない。ストーリーやセリフだけをなぞっても「そのまま」にはけしてならない。
 映画とは、なんと繊細で深遠なことでしょう(テキトーなシメ)。

 こうした挑戦をひとつひとつ噛み締めながら、人類は進歩していきます。わたしたちは薪に座し、吊るした肝を舐めながら次なるディズニーのリアル動物リメイクものに Be Prepared しましょう。


 で、「次」とは?

 『わんわん物語』です*15
 アメリカでは2019年12月公開予定。*16
 監督はカートゥーン・ネットワークで長年活躍したベテラン、チャーリー・ビーン
 脚本はなんとあの「マンブルコアの帝王」、アンドリュー・バジャルスキです。
 現段階ではティーザーすら出ていないのでどうなるかまったくわからない。
 もしかしたら、リアルなイヌの挙作をするリアルなイヌたちに、ミクロなバジャルスキ脚本はマッチしてしまうかもしれない。そういう希望だけを抱いて生きていきましょう。

 ハクナ・マタタ。心配すんなってことさ。




 なにかと批判の多かった続編ビデオ商法ですが、『ライオン・キング』に限っては三作とも好きです。

*1:そもそも異なるメディア間でのアダプテーションは格段に難しいにしろ

*2:一方でおなじ山崎貴作品の『アルキメデスの大戦』は改変具合こそを褒められたりもしていた

*3:さすがにヴァン・サント版『サイコ』ほど偏執的な完コピ芸ではありませんが。

*4:https://www.gizmodo.jp/2019/08/lion-king-jon-favreau-interview.html

*5:彼らは劇中で唯一、「自然ドキュメンタリー」であることの制約から逃れ得ている存在です。「ハクナ・マタタ」は本編のミュージカル中で唯一オリジナル版に伍することができる出来でしょう。なんたって自由人なのです。彼らには既存秩序から遠く離れて自由であってほしかったからこそ、リメイク版で「サークル・オブ・ライフ」に取り込まれるのはかなしかったですが……

*6:セリフやシチュエーションも微妙に改変が加えられているのだけれど、ここではあまり触れません。シンバの母親やハイエナのリーダー格といったメスキャラたちのプレゼンスが意識的に上がっていることは確かです。

*7:この動物的な無表情が面白さに寄与している場面がひとつだけあります。プライドランドに舞い戻ってきたシンバが囮としてプンバァたちを繰り出そうとする場面。シンバとナラのあのキョトンとした表情はフォトリアルならではの通じなさです。圧倒的他者として現れる動物本来の映画的用法だと思います。

*8:ディズニーアニメでヴィランが歌うものとしてはベスト級では

*9:ファヴロー監督曰く、ハイエナのキャラ付けを深めるために歌詞を変更したそう。

*10:こういうふうに「突然ラララと歌い出すミュージカル」というよりは会話の延長線上での歌唱っぽいものが全体として志向されているように思う。https://saebou.hatenablog.com/entry/2019/07/24/152834:=この傾向はリメイク実写版『アラジン』にも見られる

*11:ハイエナたちのキャラ変更ははっきり改悪だと思います。ハイエナ三匹組のリーダー格であるシェンジ(オリジナル版ではウーピー・ゴールドバーグ、リメイク版ではフローレンス・カサンバ)が毅然とした女族長のポジションに据えられたのは、ラストバトル時にサラビやナラといったメスライオンのカウンターパートに置く意図があったのでしょうが、彼女が理性的に群れを統率しているものとして描かれてしまっているためにオリジナル版におけるハイエナたちの壊れた狂気が後退し、スカー始末の場面があまり効かなくなってしまっている。

*12:重要なのはディズニーのクラシック作品はけしてリアリズムを軽視していなかったことです。『バンビ』でシカの動作を追求するために動物学者を雇ったり、本物のシカをスタジオ内に連れ込んだエピソードは有名です。リアリズムとフィクションのバランスをどう取るか、どうすれば作品の雰囲気にマッチするのか、そういう問題なのです。

*13:悲しいことにディズニー実写リメイク群の多くが多かれ少なかれ似たような轍を踏んでいるとおもいます

*14:話は若干それますが、ディズニーのアニメ映画リメイクにはディズニーにおける過去の贖罪と再創造――ようするに多様性の要素を吹き込むことで現代的な強度をもたせて「王国」を延命する、という目論見があるように思われます。現状ではお仕着せ感が拭えないものが多いですが。一見動物しか出てこないので人種的な多様性など関係なさそうな『ライオン・キング』もその流れにあって、オリジナル版では白人(マシュー・ブロデリックとモイラ・ケリー)が演じていた主人公カップルを黒人(ドナルド・グローヴァービヨンセ)に置き換えたりしています。簒奪されてきたアフリカ的な文化を黒人の手に返す、という意味では『ブラックパンサー』あたりも意識しているのかな。グローヴァー大好きだしそれはそれはいいのですが、そもそも『ライオン・キング』自体がアフリカという土地に対するオリエンタリズムでできているのは否ませんし、そんなこといったらそもそもリメイク対象になってるディズニー映画だいたいそうですよね。特に九十年代はオリエンタリズムを金に変えまくってきましたよね。昔の基準で作られたものをなんとなく声優だとか、ガワだけ現代のクライテリアにあわせて、内実を真剣に検討することなく安易に今のリメイク作品として出してしまうのは危険なのじゃないな、と『アラジン』くらいから考えています。なにせ次に待機しているのはあの『ムーラン』。割とガチ目な中国系俳優(ドニー・イェン!)でキャストを固めてきているようですが、はたして物語としてはどうなるのか。当時でさえ色々批判が多かったからなあ

*15:正確には人間も出てくるので動物オンリーというわけではない

*16:ディズニーの新しい動画ストリーミングプラットフォームであるDisney+のサービス開始同時に配信されるらしいですが、もしかして配信限定?

東京になる、あるいは少年は如何にして「大丈夫」になったか?――『天気の子』について

注意:本記事は新海誠『天気の子』の重大なネタバレを含みます。

(『天気の子』、weathering with you、新海誠監督、日本、2019年)



 彼はその海岸で、ひとにぎりの砂をすくう。それが「世界」だ。もちろんそれが現実に広大さをたずさえた世界であるはずがないことは、だれでも知っている。だがそれでもなお、そのひとにぎりの世界について、局地的に、個人的に、沈黙への誘惑にさからって、熱心に語らなくてはならない。


  ――管啓次郎『狼が連れだって走る月』河出文庫


映画『天気の子』スペシャル予報



 映画は少年によるモノローグから始まる。
 本来なら彼が知らないはずの少女の体験を神の視点から克明に描写する。全知であるかのようにふるまう。
 

 にもかかわらず、観客の前に登場した少年はなにも知らない。
 仕事の捜し方も、都会での生き延び方も、林立する看板やブランドの読み方も、そこに生きる人々も、世界の秘密も、故郷で感じた息苦しさの解消法も知らない。


 そうして、少年にとって触れ得ないものはすべて「東京」に集約される。東京はその本性を徹底的に隠す。そしてその不可解さは少年にとって自分より先にあるものとして映る。

 主人公・帆高が東京で出会うひとびとはみな彼よりおとなだ。彼と同じく十代で家出し、東京でタフな自営業者として生き抜いてきた須賀。高校生の帆高にとって仕事上の先輩であると同時に、ワンステージもツーステージも上の段階にある就活に勤しむ夏美。十七才(「あと一ヶ月で十八才」)と帆高より少し年上で、小学生の弟・凪との二人暮らし生活をひとりで支える陽菜。帆高たちを監視、追跡する警察。風物の由緒に詳しいおばあさん。その孫の神木隆之介。指輪選びのアドバイスをくれるどこかで見た女。

 なんとなれば、帆高より年下であるはずの凪ですら恋愛や物事の達観具合において帆高より先を行っている。なにせ、ファーストコンタクトにおいてプレイボーイっぷりを見せつける凪に対して抱いた感想は「東京の小学生って進んでるなあ*1」だ。凪もまた、不可思議のヴェールに覆われた東京の一部として帆高に理解される。


 そう、彼は東京を知らない。東京行きの船内でのビールの値段も、高校生が学生証なしでできるバイトも、都会でありうべき金銭感覚*2も、須賀と夏美の関係も、夏美の抱える苦悩も、陽菜の本当の年齢も*3、陽菜の祈りの対価も、東京に属する事柄はほとんどひとつも知らない。

 帆高にとって迷ったときに頼れる相手は(須賀や陽菜と出会ったあとでさえ)ヤフー知恵袋=インターネットであるのだけれど、しかしネットは有意な答えを返してくれない。世界は彼の相手をしている暇などないか、あるいは彼の求めている個人的な答えなど知らない。ここからネットは決してパーソナルな友人にはなってくれないという監督の思想性を読み取ることもできるけれど、今回は深入りするのはやめよう。


 なぜなら今の世界は、ランタイム二時間のあいだの世界は「東京」とイコールになっている。

 陽菜は初めて自分の家に帆高を迎えたとき、こう尋ねる。「東京に来て、どう?」
 帆高は返す。「そういえば――もう(故郷で感じたような)息苦しくは、ない」。
 すると彼女は「そ、なーんか嬉しっ」と微笑む。
 
 このやりとりから読み取れるのは、帆高が東京にとって客人であるということだ。よそから来た人間が自分の住んでいる土地にやすらぎを見出すのは、土地の人間にとっては「嬉しい」。裏を返せば帆高は陽菜と違って東京の一部ではない。陽菜と帆高は他人である。*4

 と、同時に帆高がふるさとでの息苦しさから脱して呼吸の仕方を覚えたのは、須賀のもとで取材に駆け回ることで東京の貌を知り、陽菜とも出会ったことで、彼もまた東京の一部として根を張りはじめたことの証左でもある。


 以後、陽菜を知ることと東京(=世界)を知ることは連動していく。
 晴れ女稼業を開始することで経済的にも自立*5し、晴れ間という新しい光が射すことで、ますます東京の景色が広がっていく。帆高自身の心もまた、神宮外苑花火大会での浴衣姿といった新しい陽菜の貌によって広がっていき、恋という感情に発展する。

 やがて、陽菜の力の秘密の一端に触れるまでになる。

 
 だが、核心の部分で帆高はまだ東京ではない。彼は陽菜の秘密のすべて――つまり、祈りが彼女の身体におよぼす影響を知らされてはいない。
 では、いつ帆高は東京になるのか。

 
 警察*6に追われるようにしてアパートから退去する準備をしながら、陽菜は帆高に「補導される前に実家へ戻ったほうがいい」と勧め、こう告げる。

「私たちは、大丈夫だから」

 この「私たち」とは陽菜と凪のみを指す。帆高は含まれていない。疑似家族的な関係を結びつつも、ギリギリのところで家族としては認められてはいなかった。

 帆高はしょせん東京の外に帰るべき家をもつ客人なのだ。そこに陽菜は線を引く。日常的に使われる「大丈夫」には場合に応じてさまざまな意味が込められるけれど、このときの「大丈夫」は帆高を切り離して守るやさしさとしての「大丈夫」だ。*7

 

 だが、帆高はその「大丈夫」を拒絶する。

「俺、帰らないよ。一緒に逃げよう!」

 それは陽菜といっしょに東京を生きることの宣言でもある。
 帆高の東京化は一段階上のステージへと移行し、より高度の秘密へのアクセス権を得る。
 

 そうしてなんやかんやがあり、最終的に彼は陽菜の秘密=東京の秘密=世界の秘密を手に入れるわけだ。
 もはや少年は無知ではない。逆に、世界の知らない秘密を自分たちが握るという立場になる。かつて東京の秘密を帆高から隠していた須賀や警察といったおとなたちは、逆転したあとの東京ではむしろ「知らない」ひとたちとして扱われる。
 ふたりだけの秘密。それは東京を滅ぼす秘密でもある。それは「僕たちは世界の形を決定的に変えてしまった」というフレーズで表現される。それは確信をもって描かれる。



 が、その確信はいったん、カッコでくくられる。
 東京になったはずの帆高は陽菜と引き離され、故郷の島へと戻される。そこで三年を過ごす。彼は大学入学を機にふたたび上京する。
 三年後の東京はすっかり海に沈んでいる。
 再会したおとなたちは「東京はもとの姿に戻っただけ」「おまえたちが世界の形を変えてしまったなんて、あるわけない」という。*8

 陽菜と帆高が体験し、ふたりをつないだ秘密は幻想だったのだろうか。ふたたび東京はおとなたちの手に戻ってしまったのだろうか。


 想いがゆらぎ、三年前のように東京と切り離されそうになる。が、陽菜と再会すると、彼はかつて得た確信を取り戻す。
 感極まって号泣する帆高は陽菜*9から「大丈夫?」と訊かれ、こう応える。


「陽菜さん、僕たち、僕たちは大丈夫だ」

 
 これが映画のしめくくりとなるセリフだ。

 逃避行直前の「私たちは大丈夫だから」の指す範囲はここで裏返る。今回の「私たち」には帆高も含まれる。東京の秘密を引き受け、雨に濡れることを、世界の変容を受け入れた先に、ようやく「僕たち」としての東京で生きることができる。
 知っているからこそ「大丈夫」ということばを吐ける。
「世界が君の小さな肩に乗っているのが僕だけには見えて」いるからこそ「君にとっての『大丈夫』にな」りうる。*10

 おたがいにとっての「大丈夫」になれるのは、おたがいしかいない。なぜなら、世界の秘密を真に握っているのは帆高と陽菜のふたりだけなのだから。


 ここに至り、ようやく線は引き直される。
 ふたりは東京になる。



天気の子

天気の子

小説 天気の子 (角川文庫)

小説 天気の子 (角川文庫)

*1:「怖ぇ〜」だったかもしれない

*2:「特売で買えっていったでしょ!」、「五千円は高すぎるかな?」

*3:と同時に彼女がバイト先を首になった理由も

*4:他者性を土地に求めるのはいろんな意味で新海誠らしい見方だ

*5:といっても携帯の費用や家賃はまだ須賀もちなわけですが

*6:来京当初から執拗に帆高を東京から排除しようとする存在として描かれている彼らが、帆高にとっては致命的な陽奈の秘密、すなわちほんとうの年齢を握り、かつ彼にそれを報せる役割を与えられている事実のはきわめて重要です。脚本のいじがわるい。

*7:陽菜たちは東京の一部でありながらも、東京に押しつぶされていきもする両義的な存在だ。東京の歪みを引き受けているといってもいい。彼女は人柱なのだから。その点においては彼女は東京外の人間である帆高を巻き込むわけにはいかなかった

*8:セカイ系というよばれる作品群についてはあまり真剣に向き合ったことがないのだけれど、『イリヤの空』を読んだ記憶から導き出される自分なりの要件は「良きにつけ悪しきにつけ、おとながなんだかんだで世界の全容を把握し、それに対する責任を引き受けていること」になるんだと思います。しかしまあこの二十年でおとなが世界を責任持って把握しハンドリングしているというのは嘘っぱちなんだと小学生でも知るようになってしまった。あとは細分化された体験のみが真実な世界です

*9:陽菜も泣いている

*10:エンディングのRADWIMPS「大丈夫」の歌詞から。ラストのセリフはこの歌から導き出されたものだという(『小説版 天気の子』あとがき)』