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名馬であれば馬のうち

読書、映画、その他。


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ラーメンのたまごをどう食べればいいのか問題

ぼんやりした話

 たいして美味い食い物でもないどころか一食あたりベーコン七枚分ほどの寿命を減らす反滋養食にもかかわらず、ラーメン屋という帝国はなぜだか繁栄を極めており、いっこうに滅びる気配がない。
 ことさら嫌いな文化なわけでもなし、滅びないなら滅びないで結構。しかし、もし近々に滅びる予定があるのなら、せめてたまごの食べ方を教示してから滅んでほしいとおもいます。

 ラーメン屋のたまごはむずかしい。まず「たまごください」と頼むと、頼むのは大抵店員にではなく券売機のなかに入ったイルカに対してだが、ともかく頼むと無条件に半熟たまごが提供される。この時点でもうむずかしい。一般に「たまご」といった場合、全人類の半数が想起するのは生たまごであり、残りの半数が想起するのはゆでたまごだ。なぜ「たまご」と言っただけで、半熟が出てくるのか。あるいはイルカの常識ではたまご=半熟なのかもしれないけれど、イルカは胎生の哺乳類であって、たまごが身近にある動物ともおもえない。
 
 食べるときも困る。食べるときが一番困る。
 半熟とは、ようするに半分しか熟してないたまごである。だから、あつあつのスープにつけるとたちまち熟してない側の半分が溶け出てしまう。このとき、不健康なオレンジ色の卵液が油のように豚骨スープと混ざるさまをもちもちぼんやり眺めていると、ラーメン屋のおやじから怒号が飛んでくる。うちのスープはバラの骨だけで取ったピュアな味わいが売りなのに、さっそく一個百円のたまごと混ぜるとは何事か、と。ラーメン屋のおやじというのは別に自分がラーメンを作ってるわけでもないのにやたらラーメンの食べ方にうるさい。でも、店主だけあって客を怒鳴りつける権利だけは一丁前に保証されていて、怒鳴られた方はその日いろいろつらいことがあったのもあって感情が溢れてしまい、もう泣くしかない。おまえごときが泣いたところで、ラーメン屋のおやじは許さない。鬼である。鬼はおまえの涙が枯れるか、耐えきれなくなって金を払って(すでに券売機で支払っているので二重請求である)遁走するまで怒鳴りつづける。濃厚な甘い豚骨スープのはずがこぼれおちた涙ですっかり塩ラーメンのあじわい。
 
 ではどうすればいいのか。
 取りうる方策はひとつしかない。
 スープに浮かんだたまごの黄身に麺をつけて食べるのだ。
 いってみれば、つけ麺の応用だ。半分こに切られて断面を上にしたたまごを椀に、黄身をつけ汁に見立てる。ラーメン椀のなかでラーメン的な行為をエミュレーションするマインクラフト精神に満ちた処理法であるが、言うほど簡単にはいかない。
 半熟卵の黄身はねばりけがつよい。さきほどのようにうっかりもちもちしていると麺を黄身につけた拍子にたまごの舟が転覆してしまい、乗客たる黄身は全員溺死あるいは行方不明。洞爺丸転覆事故以来の惨事として責任者たるおまえは遺族やイルカやそして何よりラーメン屋のおやじからはげしく糾弾され、そのせいで心身を病んで退職し、残りの人生を精神病院のベッドのうえで「どうすればあの悲劇を防げたのか」という逆『ハドソン川の奇跡』的な後悔に苛まされながら生きることになり、のちに中井英夫がその事故を題材にミステリを書いて江戸川乱歩賞に送ろうとするが、第一部までしか書かれてなかったのでさすがに受賞はできない。ようやく塔晶夫名義で講談社から出版されるころには、おまえはすでに死んでいる。なにもかも報われない。でもそれが人生ってもんじゃないか? すべてはおまえの肉体と精神が脆弱だったせいだ。

 なので、おまえは、身体を鍛えだす。筋肉を鍛えたら、健全な精神もしぜんについてくるだろうと無根拠に盲信し、ジムに通う。いちばん大事なのは指先の筋力、そして箸運びの繊細さだ。おまえは練成する。おまえは練達する。誰よりもビルドアップされた肉体と、巧緻極まる箸使いを獲得する。もうラーメン屋のおやじに怒鳴られても泣きべそをかいたりしないだろう。おまえはつよい。おまえは最強だ。

 おまえは憂いも躊躇いもなくラーメン屋に入る。ラーメンを頼む。もちろん、たまごつきで。券売機のなかのイルカが何かを警告するように、きゅう、と鳴くが、慢心したおまえに届くことはない。というか、超音波なのでそもそも聞こえない。
 ほどなくラーメンが収穫されてカウンターに供され、おまえは驚く。
 
 たまごが割られていない。
 
 普通は、切る。二つに割る。そして、平面をを上にし、湾曲した尻をスープに濡らして、ふたつのミニつけ麺汁が出てくる。そのはずだった。だが、目の前にあって至福の二次曲面を具えるその完全なる楕円体は、高潔なまでに浅黒く、淫靡な黄身をどうしても晒そうとしない。おまえは二十年前の淡い初恋をふと思い出しかけるが、今思い出してみたところでなんになる? 甘美な懐旧ではなく、現実からの逃避にしかならない。
 事ここに至っては、もはや熟練の操箸技術も頑健な筋肉も無為無益だ。モミの木から削り出したと称する店特製の割り箸は、つるりとしたたまごの表面をむなしくすべるばかり。焦りは恐ろしい勢いで時間と精神を蝕んでいき、もはやおまえはラーメン屋のおやじの怒号どころか、コンビニの店員の「袋はお分けしますか?」という問いかけにすら泣き出すだろう。
 もうだめだ。
 なにもかもだめだ。
 頭が割れそうだ。
 鼻の上のあたりがじんじんと痛む。

 なぜ、誰も教えてくれないのだろう。みんなどうやっているのだろう。
 みんなどうやってラーメンのたまごを食べているの? なぜ、ラーメン屋にはラーメンの食べ方マニュアルが置いてないの? 言われなきゃわかんないじゃない? こういうの、教えてくれなきゃできないじゃない? じゃなかったら、券売機だけじゃなくて、食べるところまで全部オートメーション化してよ。
 

 そんなとき、 
「お困りですか」
 と、声をかけてきたのが隣に座っていたテッセクラトである。
 われわれより高次元なからだを持つこの正八胞体は、他人をおもいやるこころまで高次にできているらしく、堅牢な白身に守られたたまごの食し方について実に有用なアドバイスをくれた。

「卵だけ、手でつまみ出して口にいれればいいんですよ」
 
 まさにコペルニクス的転回。四次元存在にしかできない、革命的な発想である。そうして、おまえのなかでパラダイムがひとつシフトした音がなり、おまえは無思慮に指をスープに突っ込む。

 熱い。

 おまえは椅子から転げるようにずりおち、のたうちまわる。客たちの視線がいっせいにおまえへ注がれる。ラーメン屋のおやじはもちろん激怒する。
 テッセクラトは他人のふりをしている。だが、彼は最初から他人であったし、むしろ他人でなかった瞬間など毫もなかった。おまえはその認識不可能な横顔に、四次元をサバイブするものの冷徹さを知る。いくら精神を鍛えようと、けして及ばぬ領域があるのだ。そして、それは。

 ラーメン代を二重徴収されて店の外へ放り出されたおまえはもはやイルカにも劣る生き物だ。引退して余生を過ごすなどもう許されない。おまえは人間としての尊厳を、生きる資格を取り戻す必要がある。つまり、おまえが死ぬか、ラーメンが死ぬかだ。
 おまえがラーメン文化の撲滅を決意したのはまさにこのときだろうと言われている。厳密に史料に照らすと、前後数日のスパンで複数の説が入り乱れていて、学界では今も論争の的であるらしいが、おおよそ大衆に信じずるところの「歴史」というものはわかりやすく劇的でチージーなものだ。
 いまだにラーメンのたまごのただしい食べ方はわからないけれども、殺すべき対象だけは精確に識別できる。 


 麺類のモンテ・クリスト伯と化したおまえは、敵側のやわらかい脇腹にまず食らいつく。イルカだ。券売機のなかで一日四時間二交代制時給三千六百円の奴隷労働を強いられているイルカは賃金が払われている時点で厳密な意味での奴隷にはあたらないかもしれないが、その悪辣な資本の論理は間違いなく現代の奴隷を意図しているであろう旨を強く主張し、おまえの復讐に力を貸す。
 イルカが券売機のボタンの灯りを利用したモールス信号で言うには、ラーメン屋のおやじは実はラーメンを作っていない。ラーメンというものは、ラーメンのたまごからできるものであり、麺はたまごの黄身、スープは白身の部分なのだそうだ。ラーメンを作るにあたっては、ただ器のなかにラーメンのたまごを割って落とせば良い。

 ラーメンがたまごからできると言うのなら、その親はなんなのだ、とおまえは尋ねる。
「わたしたちです。わたしたちフジツボ・イルカの無精卵がラーメンのたまごになるんです。
 ジェラル・ド・バリことジラルドゥス・カンブレンシスは1187年にわれわれについてこう書き残しています。
『当地にはベルナカと呼ばれるイルカがたくさんいる。自然に逆らって生まれる、まことに不思議なイルカである。バンドウイルカに似ているが、少し小さい。海に投げられたたまごから産し、メスは十分に成熟すると陸にあがってモミの木のような形へ変化する。その木とオスがつがい、ベルナカのたまごが成る。たまごは熟すと自然に木から離れ、海へと転がっていく。
 孵化しなかったたまごを割ると、しなやかでつるつるしたツタのような黄身が出てきて、これを白身と一緒に煮ると美味である。こうしたことからアイルランドのいくつかの地方では、司教や牧師が斎日にこの鳥を何のためらいもなく食している‥…』
 マンテヴィル卿やヘリット・ド・フェーアといった名だたる冒険家たちもたびたび著書でわれわれについて言及しています。
 おそらく、アイルランドでほそぼそと食されていたわれわれの無精卵に目をつけて、テッセクラトたちが日本にラーメン食を持ち込んだのでしょう」

 そう。
 券売機で働くフジツボ・イルカたちこそ、ラーメンの原材料だったのだ。
 われわれは彼らのこどもたちをすすっていたのである。
 倫理とは……。

 では、ラーメン屋のおやじにどういう役割が与えられているのかいえば、何も与えられていない。彼らはみな近所の狂人であって、きままにラーメン屋のキッチンにやってきてはてきとうに小麦粉の麺をゆがいたり、使ってもない器を洗ったり、麦飯を盛ったり、客を怒鳴りちらしたりしている。実際の業務をやっているのはテッセクラトたちで、彼らはわれわれ三次元生物には見えない空間でラーメンのたまごを器に落としたり、器を洗ったりしている。
 
 するってえとあれだな、とおまえは鼻先を意味もなく親指で拭いながら言う。あまねく四次元空間をぶっとばしちまえばラーメンは終わる。
 
「そして、われわれイルカたちも解放される。理論上は、そうなりますね。理論上は」
 
 そんなに難しいことなのか、とおまえは訊く。

「少なくとも、人間の物理理論では彼らの領域に攻め入る方法は存在しません。」 

 じゃあ、どうする。

「人間のがダメなら、イルカのがあります。
 いいですか。テッセクラトに支配された食べ物屋は何もラーメン屋だけではありません。
 和食、イタリアン、中華、フレンチ、インド料理、ハンバーガー、ケバブ屋、回転寿司……まあとにかく外食産業はどこもテッセクラトに蚕食されてしまっているんです。そしてどの分野でもイルカとカッパが奴隷として酷使されている。
 そんなテッセクラトの陰謀ネットワークの頂点に位置しているのが『ミシュラン』と呼ばれるガイドブックです。
 彼らはそのガイドブックを通じて人間の食欲を支配し、自分たちに都合のいい店に誘導している……そうそう、『ミシュラン』のマスコットキャラがいるでしょう。
 タイヤが重なった姿と言われていますがあんなのは大嘘で、その正体はテッセクラトたちの王――十六次元存在の戯画化された姿です」

 なんということだ。そんなやつらに勝つ方法があるのか。

「勝算は五分といったところですが……
 われわれはこう考えました。
 相手がガイドブックで人間たちの食欲を都合よくマニピュレートしているのなら、こちらも同じ手段で彼らの『フランチャイズ』から人間たちを引き離せばいい。
 つまり、あたらしいレストランガイドの創設です。
 われわれは何年ものあいだ、そのたまごを温めつづけてきたました。すっかり熟して復讐を受肉するまでね。そして今、あなたが現れて時が満ちました。
 
https://tabelog.com

 『食べログ計画』が今こそ孵化するときです。」

 食べログでやつらのラーメン屋の評判を落とせば……。

「テッセクラトたちの野望は潰える。彼らの目的がなんなのかはよくわかっていないんですが、まあそれはどうでもいいですね。さっそくとりかかりましょう」


 おまえたちは手動でテッセクラトたちの店のレビューを入力する。
 アタックをかけはじめてやっと、なぜイルカたちがおまえの登場を待ったのかが判明する。
 フジツボ・イルカたちのヒレはキーボード入力に向かず、スマホを介したフリック入力も流暢とはいえないのだ。なので、いやがらせの主力はおまえだ。イルカと人類の最後の希望。

「まずい」「うんこのあじがする」「スープの中にコンドームが入っていた」という定番disはもちろんのこと、「味は悪くないけど、料理が出てくるのに十分もかかったので星ひとつです」「店員のツラがむかつく」「そもそもラーメンというのが気にいらない」などの難癖も縱橫に駆使して、テッセクラトたちの店をじわじわと追い詰める。
 攻撃開始から三ヶ月も立つ頃には、潰れる店も出てきた。
 その一ヶ月後には二軒。
 その一ヶ月後には七軒。
 一件潰すたびに、イルカたちが総出でおまえのことをほめてくれる。
 おまえの惨めな人生にはついぞなかった幸福だ。
 おまえは勢いづく。
 ドミノだおしのように店が潰れまくる。あらたに解放されたイルカたちの歓喜の声が大波のようにうねる。カッパたちもおおよろこびだ。三軒に一軒はイルカもカッパも出てこないが、調査管理部は誤差の範囲内であると回答している。

 さらに半年後には一週間で七十三軒。
 市内からラーメン屋のみならず、外食屋という外食屋が消えた。


 その日、イルカたちの様子がおかしい。
 みな挙動不審で、おまえをみると皆目をそらす。
 おまえは不安にかられる。

 なにかまずいことをやってしまったのか?

 また、なにか間違えてしまったのか?

 また、ひとりぼっちになってしまうのか?

 おまえは何ヶ月かぶりに泣きそうになりながら、イルカたちの用意してくれたドミトリーへと戻る。
 真っ暗な部屋に入った瞬間、電源にふれてもないのにパッと灯りがつき、複数の乾いた破裂音がさして広くもない空間に響いた。
 色とりどりのリボンがおまえのからだにまとわりついている。
 おまえはわけがわからない。
 眼をあげると、イルカたちの嬉しそうな顔、そして、天井につりさげられた「お誕生日おめでとう!」の垂れ幕。


 おまえはながらく自分の誕生日など忘れていた。


 おまえは、そこで、やはり泣いてしまうのだ。
 イルカたちが心配そうな顔つきでかけよってきて、
 おどろかせてごめんなさい、
 とすっかりおまえも聴き取れるようになったやさしい超音波で語りかけてくるが、ちがう、そうじゃない、そうじゃないんだ。
 おまえはなにかを言おうとするけれども、それらはすべて目もとから溢れる涙に絡み取られて、けっきょく何もことばにならない。
 だが、イルカたちには伝わっている。
 おまえたちは共鳴している。


 おまえはいまだにラーメンのたまごの正しい食べかたを知らないだろう。
 だが、自分が何者であるかを知っている。
 それで十分だ。


動物たち

動物たち

奇怪動物百科 (ハヤカワ文庫 NF (299))

奇怪動物百科 (ハヤカワ文庫 NF (299))

救おうとするから救えない――模造クリスタル『黒き淀みのヘドロさん』

漫画

 模造クリスタルは常に世間や他人から廃棄された人間を描く。

黒き淀みのヘドロさん 1 (it COMICS)

黒き淀みのヘドロさん 1 (it COMICS)

(作者のサイトで三話目まで読めます。http://www.mozocry.com/hedrosan/01.html

 
 ここにも廃棄されかけた人間がいる。無表情なお嬢様に仕える執事の少年シャンプーボムだ。彼は、お嬢様からあまりに冷淡に扱われているので自分の人生の意味の無さに絶望しかけていた。
 そこに彼のクラスメイトであるお節介焼きの黒魔術少女レーンちゃんが現れて、少年に「人々を助ける『白馬の騎士』を一緒に作ろう」ともちかける。材料はオホーツク海のヘドロ。理屈は曖昧だけれども、このヘドロに魔術書を用いてマニュピュレートした「人間らしさ」を与えるとヘドロ人間ができあがる、らしい。要はホムンクルスみたいなものだ。
 こうして完成したのが、超ポジティブポンコツ人造ヘドロ少女、ヘドロさんである。
 ヘドロさんは自分を作ったマスター(レーンちゃん)の命令どおり、人助けのためにがんばる。
 この漫画は、概ねそういう枠組みで進んでいく。


王様になる夢を十二時間見る職人は、職人の夢を十二時間見る王様と見分けがつかない

 なんやかんやあってお嬢様と執事の件は落着、というかうやむやにされて、第一巻の後半からは「りもん先生編」がはじまる。

 りもん先生はシャンプーボムやレーンちゃんの通う学校の有名人である。とてもきさくなキャラクターで、学校の先生・生徒からの人望も篤い。学校に通い始めたヘドロちゃんにも優しく接し、学校を案内するなどしてくれる。

 だが、その実体は、自分のことを教師だと思いこんでいる近所のアホである。

 彼女の扱いに困った校長は、レーンちゃんに対して「わけのわからんヘドロ生物の通学を認める条件として、りもん先生の身元を調査しろ」と取引を要求する。
 りもん先生が頭のおかしい無害なアホであればよし、何か裏があるようなら善後策を講じなければならない。 
 が、それは学校の事情である。りもん先生を慕うレーンちゃんたちはヘドロちゃんの人間生活のためとはいえ、気がすすまない。レーンちゃんは言う。
 

「りもん先生が先生じゃないのはみんな知ってる。知らないのは、りもん先生だけ。りもん先生だけが知らない。だから、うまくいってる。だから、この事件を解決する必要はないんだ…」(p.152)

 
 りもん先生の認知が歪んでいるからこそ、まるく収まっている。彼女が正気を戻ってしまったら、認知が他の「まとも」な人と合致してしまったら、誰も幸せでなくなってしまう。レーンちゃんはアメリカ皇帝を自称した狂人ジョシュア・ノートンのエジプト版みたいな挿話を紹介しつつ、その危険性を指摘する。にもかかわらず、探偵行をきっぱりやめようとはしない。妄想狂の幸福な世界は、崩壊に向けてまっしぐらへとつきすすむ。


 前述のように、ヘドロちゃんは人助けのために生み出された白馬の騎士だ。ヘドロという悪から生み出された善である(というように作中では言われる)彼女はまったく裏表なく、純粋な善意と熱意でもって皆を助けようとする。
 その行為は歪みを矯める、という意味において治療ともいえるかもしれない。
 彼女自身が悪から善へと変換されたように、彼女は「間違った状態」にある他人を「正しい状態」へと(彼女自身意図する意図しないにかかわらず)戻してしまう。その過程で歪みの膿みたいなものが表出してしまい、トラブル化する。
 
 「お嬢様編」では、お嬢様と執事との閉鎖的で異常な関係に初めての健全な他者として現れた結果、お嬢様を狂わせてしまうし、「りもん先生編」では、先生の異常性を追求することが先生を追い詰めていく。
 人助けのはずが、介入することや解決することそれ自体が不幸を引き起こしてしまう。それは模造クリスタルの代表作である『金魚王国の崩壊』で見られた、虐待されたバッタを救おうとして結果的に不幸なバッタをふやしてしまう主人公みかぜちゃん的なジレンマだ。あるいはこの救いのない無常さこそ模造クリスタル的世界観のキモと言い切ってしまってもいいのかもしれない。


 人間は、どうすれば。
 
 

模造クリスタルという人

 『金魚王国の崩壊』というメンタルの弱った人に人気のウェブ漫画クラシックがあり、さっき引いたバッタの話でいえば、小学生男子がバットの肢をもいで作った肢なしバッタを自然を愛する少女が買い取り、まもなく死なせてしまい、むなしくなっていると翌日に同じ男子からまた肢なしバッタを売りつけられそうになりキレるみたいな、病的な内容です。倉橋由美子はかつて、中井英夫の小説を病気のときに読むといいのはそれが病的な小説だからなのではなく脳に刺激を与える知的な喜びにあふれた小説だからだ、的なことを言ってたと記憶してますが、中井英夫中井英夫でまあいいとして、病的なフィクションも病人には効くんだと思います。ほら、ホメオパシーって疑似科学、あるじゃないですか。

 で、そんなメンタルに効くレメディである『金魚王国』の作者が模造クリスタル先生です。ネットやコミティアで精力的に活躍したのち、四年くらい前に『ビーンク&ロサ』なるキテレツな作品で商業デビューを果たしました。で、第二冊目の単行本として今年出たのが今回紹介した『黒き淀みのヘドロさん』(it COMICS)というわけです。
 amazon で名前を検索すると panpanya (『動物たち』『足摺り水族館』)や派手な看護婦(『魔女団地』)などの漫画家たちがついでにヒットしますが、まあ、そういう感じの漫画家です。
 ここはいい所ですね。なんて世界は目新しいんでしょう。すべてが光って見えますよ。

『モアナ』はいかにしてプリンセスという名の呪縛に打ち克ったか

ディズニー/ピクサー 映画

*公開初日かつコンセプトの話が主なのでストーリーの話はほぼしてませんが、「こういうオチにはならない」と明かしている点においてはネタバレです。

モアナ「あのね、わたしはプリンセスじゃない。族長の娘だよ」
マウイ「いいや、プリンセスだね。ドレスを着て、動物の相棒をつれてるんなら、プリンセスだろ。ナビゲーター(Wayfinder)にはなれない」


映画『モアナと伝説の海』日本版予告編


 先に『モアナと伝説の海』(原題: Moana)の核心となる革新性*1について触れておきます。


 『モアナ』は、プリンセス物語ではない初めてのディズニー・プリンセスものです。


 どういうことか。
 ディズニーのプリンセスものを構成する二大要素がございまして、つまり、「お姫様」と「愛」です。これらに「歌」と「動物」を加えて四大元素といきたいところですが、まあ今回はさておいておきます。今回は「お姫様」と「愛」のみに注目しましょう。

プリンセスいじりの歴史

 90年代にディズニーは新たな可能性を模索するなかで、この二大要素のうち「お姫様」の見直しに着手します。その結果生まれたのが、『アラジン』のジャスミン(アラブ系)や、『ポカホンタス』(アメリカ先住民)のポカホンタスといったマイノリティ人種のプリンセスたち。中国を舞台にした『ムーラン』のムーランは単にマイノリティというだけではなく、男たちに混じって戦争に加わる「戦う」プリンセスでもありました。
 しかし、彼女たちも結局ラストでは「王子様と末永く幸せに暮らしましたさ」で終わるハッピー・エヴァー・アフターの重力に取りこまれます。そこがディズニーをして長らく「なんだかんだで旧来の女性像を押しつけているだけじゃないか」と批判される要因となってきたのです。

 2008年にピクサーを合併してジョン・ラセターとエド・キャットムルがディズニー作品を仕切るようになってからも「プリンセスはいじるけど、お定まりの結婚エンド(とそれに付随する恋愛)はいじらない」という姿勢はさして変わりませんでした。
 2010年の『塔の上のラプンツェル』は、批評的成功と商業的成功の両面でついにディズニープリンセス・ミュージカルを復興したという点においてエポックメイキングでした。が、この作品においても冒険を通じて相棒役の男性キャラとの愛情が育まれ、最後は結婚して終わります。

 そして、2013年の『アナと雪の女王』。アナ雪の何がディズニー的に画期的だったかといえば、「疑うべきは「お姫様」の形態ではなく、「愛」のあり方だったのでは?」と気づいた点に尽きます。それまでディズニーアニメで描かれてきた「愛」とは主に男女間の恋愛(初期には結婚そのもの)であり、それが女性としての幸せに直結していました。
 でも、愛ってそれだけなの? もっと愛って色んな種類があるんじゃないの? ――そうした疑問*2がアナ雪をあのユニークな結末へと導いたわけです。プリンセスものという形式にあえて則ることで、その批評的な再解釈の効果を最大化したのですね。

アナ雪以後の作品としての『モアナ』

 企画自体はアナ雪の完成以前から立っていた『モアナ』ですが、観客はやはり「アナ雪以後のプリンセス物語」と位置づけて観ます。
 第一印象として、『モアナ』はまた「お姫様いじり」に退行したかのように見えます。モアナはポリネシアンとしては初めての「プリンセス」です。南太平洋を舞台にしたディズニー映画は『リロ・アンド・スティッチ』があります(『モアナ』でも非常に目立つ形でオマージュが捧げられています)が、作品内容とリロの幼さ(五歳)から公式であれ非公式であれ、まずディズニープリンセスに含まれることはありません。
 何より、モアナの隣に控えているのは逞しい筋肉ムキムキの半人半神の男性マウイ。これまでのスマートでハンサムなプリンス像からはかけ離れていますが、観客は「ああ、このベビーフェイスのマッチョマンといい感じになるんだろうな」とある程度予期します。

 
 ところがどっこい、本作には恋愛要素がほぼ出てきません。もっぱら、モアナとマウイのコンビによる冒険と自己探求が描写されます。もちろん、物語が信仰するにつれ、二人の絆は深まっていきます。が、それが恋愛感情へと昇華されることはありません。二人はあくまで相棒(buddy)なわけです。


 ジョン・マスカーとロン・クレメンツのディズニー最年長監督コンビは、インタビューでこう答えています。

マスカー:ジェンダーに左右されないお話にしました。ロマンスもなし。
クレメンツ:彼女はこの映画のヒーローであり、英雄的な旅に出て、海とつながったスーパーパワーを持っています。そういう意味でも、やはりスーパーヒーローなのです。彼らは仲間(buddy)であり、だからこそ助け合う。
http://www.denofgeek.com/uk/movies/moana/45647/ron-clements-john-musker-interview-moana-disney-animation

 

ジョン・マスカー:私たちはモアナは新しい種類のプリンセスであると想像しました。冗談まじりにですが、「バッドアスなプリンセス」としてキャラ付けしたんです。私たちは彼女を冒険アクションのヒーローと考え、青春成長譚(coming-of-age story)として物語を作ったんです。
http://www.denofgeek.com/uk/movies/moana/45647/ron-clements-john-musker-interview-moana-disney-animation

 
 アナ雪でさえ主眼に置いていた「愛」からプリンセスを解き放とうとしたわけです。いくら冒険しようが、いくらおてんばで男勝りな性格に設定しようが「愛」がプリンセスを縛ってしまう――と考えたかどうか。
 「愛」ではなく冒険重視の姿勢はクライマックスの改変からも伺えます。当初考えられていたエンディングはモアナがあるキーアイテムをある場所に埋めこむために海の中へダイブして、そこで閉じ込められてしまい、マウイが救助にかけつける、というものでした。ところが、この案は「あまりにマウイがヒーロー的になりすぎる」という理由で却下され、完成版のモアナが主体的に活躍する案へと変更されたのです。
 そうして『モアナ』は、Time 紙の Eliza Berman が指摘するように、プリンセス物語やラブ・ストーリーというより自己発見の物語となりました。

 別のインタビューで監督たちは作品のテーマは「内なる声を聴け。すべてはそこにある」であるとも言っています。*3
 どうすれば幸せを手に入れられるか、というよりも、自分は何をやりたいか、何をすべきなのか、自分は何ものなのか、どこからやってきて、どこへ行くのか、そういった過去と未来のアイデンティティを探ることこそが本作のキモなのです。
 そのことがよく表れているのがミュージカル部分。それらはすべて「自分(たち)について」の歌です。人物紹介ソングはミュージカルの基本ではありますし、近年のディズニープリンセスものでアイデンティティがらみの歌が出てくることもさして珍しいわけでもなかったのですが、それにしても『モアナ』は多い。アナ雪でさえ、「扉を開けて」があったのに。*4
 そして、「自分とは何者なのか」という問題意識の点でマウイとモアナは相似していて、それが二人の間に結ばれる絆のきっかけとなります。
 

 本作は旅と冒険のスペクタクルに溢れています。しかし、エンディングの先にあるのはハッピー・エヴァー・アフター式の落ち着いた幸せではなく、さらなるスペクタクルと探求の日々です。
 ある人にとってはディズニー映画がアナ雪でさえ描かれていた「愛」を捨てたように見えるでしょう。ある人にとってはディズニー映画がこれまでとは別種の「愛」を獲得したように思えるでしょう。
 一方で、モアナはプリンセスでありつづけます。しかし、それはお城で着飾って王子様とダンスする、という意味でのプリンセスではありません。人々の行くべき未来を示し、道を果敢に切り拓いていくリーダー的存在、劇中での言葉を借りるなら、「族長(チーフ)」です。
 最初に「プリンセス物語ではない初めてのディズニー・プリンセスもの」だと言ったのは、そういう意味です。なんか書いてくうちに、最初の意図と違ったような感じになったかもですが、まあ、ともかくもそういう感じです。


*1:not ダジャレ

*2:まあアナ雪が実際にそうした問題意識でもって制作されたかどうかはまた別にして

*3:また別のインタビューではプロデューサーも同様の趣旨の発言をしているので、チームとしての共通見解なのでしょう

*4:そう、「扉をあけて」はラブソングです。思えば、ディズニーミュージカルのド定番は「A whole new world」にしろ、「Can you feel the love tonight」にしろ、「Beaty and the Beast」にしろラブソングばかりですね。ラブソングであればプリンセスとプリンスのデュエット曲になるのでそこに感動的なケミストリーが生じますし、主演同士が揃いぶむというので映画のクライマックスにも据えやすい。プリンセス・ミュージカルのパロディを志向するアナ雪にとって、「扉を開けて」は避けては通れない道であり、これがあるからこそプリンセスが孤独に歌う「Let it Go」が活きるのです。

『ラビング 愛という名前のふたり』の感想

映画

『ラビング 愛という名前のふたり』( Loving 、ジェフ・ニコルズ監督、2016年、米)



映画『ラビング 愛という名前のふたり』予告


光と影のヴァージニア

 個別の愛自体になんら「特別さ」などなく、愛は常に普遍的で、だから『ラビング』は二人の出会いや生立など語らない。いきなり、黒人女性ミルドレッド(ルース・ネッガ)が白人の恋人リチャード・ラビング(ジョエル・エドガートン)に対して「妊娠したの」と告げるところからはじまる。
 舞台は1950年代のヴァージニア。白人と黒人はそれぞれ違う場所で、交わることなく生活している。
 だが、そんなことは意に介さず、ふたりの幸せは柔らかい陽光にくるまれてトントン拍子に育っていく。
 妊娠から間もなくリチャードはミルドレッドを雑草が伸び放題になっている空き地へ連れていき、「ここに僕たちの家を建てよう。結婚してくれ」とプロポーズ。二人の和合を象徴するかのような黒と白のツートンカラーに塗り分けられたフォードの1957年式フェアライン・クラブ・ヴィクトリアを飛ばし、ワシントンDCの役所でつつましい結婚式を挙げる。
 そうして新居に婚姻証明書を掲げ、ラビング夫妻の蜜月生活がスタートする……はずだった。


 不幸は、深夜、新居のドアをぶちやぶって侵入してくる。
 何者かの通報により*1地元の保安官が現れ、「ヴァージニア州では異人種間結婚は法律違反だ! ワシントンでの結婚証明書? そんなものは無効だ!」とふたりを乱暴にしょっぴいていく。
 牢獄で不安な一夜を過ごしたのち、夫のリチャードだけが先に保釈される。彼に照りつける東部の太陽が眩しい。もはや太陽は彼らの味方ではない。もはや昼間に安息はない。それから二人は夜へと逃げ込むことが多くなる。


 さらなる勾留期間と保釈金を積み、ミルドレッドも牢屋から解放される。夫婦に言い渡された刑は執行猶予のついた一年の懲役、そして、二十五年の州外追放。
 ふたりはワシントンで暮らすミルドレッドの親戚を頼って、緑豊かな故郷を離れ、街で*2暮らすことになる。
 途中で出産のためにヴァージニアに舞い戻って再逮捕されるなどのアクシデントを経たものの、三人の子宝の恵まれて、夫婦はワシントンでの慎ましい平穏を手に入れる。彼らの生活空間には光が溢れ、もはや日陰の身ではない。ツートンカラーだったヴィクトリアも、黒人街での生活に馴染んだ一家に呼応してか、黒一色の車に換わった。
 ところが、ミルドレッドには何かがひっかかっていた。狭くて危険も多い黒人街は小さな子どもを育てるのに適していない。緑多く、温かい彼女の実家のある故郷ヴァージニアでのびのびと育って欲しい……。そんな思いが募っていたある日、彼女はテレビで公民権運動のニュースを観る。もはや理不尽な不平等に縛られる時代ではない――ニュースに刺激されて、彼女はロバート・ケネディ司法長官に自分たち夫婦の苦難について手紙を出す。これがきっかけで、ふたりは全米を揺るがす憲法裁判の当事者となっていく。



レンガを積んで家を建てる男

 劇中、何度も繰り返されるモチーフがある。
 工事現場で働くリチャードがモルタルを塗ってレンガを積み上げていくシーンだ。レンガを積み上げるのは東部の白人男性たる彼の生業であると同時に、「家庭を妻に任せて、外で仕事をする夫」の姿であり、家を自力で築き上げる理想的で男らしいアメリカの男性像でもある。
 積まれるレンガは、どんな場面でも常にせいぜい四五段積まれた程度の低い状態だ。それは不器用で口下手で堅実な彼のキャラクターをよく表している。
 聡い妻が家でテレビを観て時流を敏感に察知し、手紙を書き、テレビのインタビューに答える一方で、彼は朴訥にレンガを積みつづける。
 だが、外で「変化」に直接晒されるのは夫のほうだ。ヴァージニアへ出戻り、ふたりの「犯罪」の見直しを迫る裁判が始まると、仕事場に停めたリチャードの車からミルドレッドの写真に包まれたレンガが発見される。白人の同僚による、あきらかな脅迫だ。しかも、仕事場からの帰路で、不審な車からあとを尾けられたりもする。彼は妻にはそういうことを報告せず、夜、ライフルを握りしめてバルコニー立ち、周囲を警戒する。ふたりを引き裂く侵入者は、夜におとずれるものだから。
 ミルドレッドはミルドレッドで、自分や夫だけでなく子どもや全米の黒人たちの未来を背負っている自覚を持っているので、マスコミの取材に積極的に応えようとする。夫の方はその取材のせいで妻の身が危険にさらされていると知っているので、頭ごなしに止めようとする。妻は口下手な夫の不機嫌の理由がわからない。
 微妙にすれちがっていく二人の愛情が観客からすればはがゆくもあるが、それでもやはりまあ愛は愛なので、落ち着くとこへ落ち着くことだろう。


 彼の築き上げようとしている「家」とはなんなのか、という問いは*3ラストシーンであざやかに効いてくる。
 夫は妻のために、二重の意味で「家」を建てたのだ。



余談

 雑誌のカメラマン役のマイケル・シャノンが取材のために夫婦の家を訪れるシーンがあって、この人とジョエル・エドガートンが同じカットにおさまっているのを観ると、みょうな感動が湧きます。シャノンはジェフ・ニコルズ監督のお気に入りらしく前作『Mud』にも出演していましたね。
 日本では三月にソフトスルーされる同監督のSFジュブナイル『ミッドナイト・スペシャル』でもこのふたりが共演するらしい。楽しみです。

*1:劇中、「誰かがチクらなければバレなかったのに」という冷静に聞いてみれば割りとトンデモない発言が出てくる。当時のお隣さんからすれば目立つことこのうえないであろう異人種間夫婦が白昼堂々同居生活を送っていても、特に悪意をもった人物に密告されないかぎりは平穏にすむ可能性が高かった、ということだ。アメリカのド田舎の治安事情が垣間見える。

*2:街――おそらくはスラムで暮らしている黒人たちをミルドレッドが車のなかから初めて眺めるシーンで、汚らしい浮浪者たちがゴミを漁る野良犬のイメージと重ねられているのが興味深い。

*3:まあ最初から九割がたわかりきったものであるけれどそれでも

映画『ラ・ラ・ランド』の感想――夢を夢見て。

映画

『ラ・ラ・ランド』(La La Land, 2016年、米、ダミアン・チャゼル監督)


 引用が引用であることそれ自体に意味を持つような状況が成立するのは、どのような場合なんだろうか。それはおそらく、物語のあらゆる要素が「過去」で構成されている場合にちがいない。引用が主題ではなく、同種の要素の一部に埋もれていくような場合であるにちがいない。『ラ・ラ・ランド』とは、そういう映画だ。



「ラ・ラ・ランド」本予告



 失われていくものへの愛惜というのはどこにでもあるもので、『ラ・ラ・ランド』では、それがジャズ・映画館・ミュージカル・青春と多層的に塗り重ねられていく。
 オールドなフリースタイルジャズを志向するジャズピアニスト、セブ(ライアン・ゴズリング)には自分の好きなジャズを演奏して稼げる場所を持てずにいて、旧友であったキース(ジョン・レジェンド)に誘われてやっとジャズをできるようになるんだけれども、彼のバンドの曲は「一般受け」するようにアレンジされたものだった。


 不満顔のセブに、キースは言う。「おまえが古き良きジャズをやりたがってるのはわかるよ。でも、ジャズは現に死につつある。おまえらみたいなのが殺しつつあるんだ。おまえはジャズバーでピアノを弾いていたけど、客は老人ばかりだっただろ? 子どもや若者が聞かない文化は滅びる。おれたちの曲なら、子どもや若者が聴いてくれる」
 セブは何も言い返さない。黙って、彼のバンドに従ってツアーに参加する。
 適者生存が科学的に正しいとはかぎらない。でも、結果的に適応したものが残るのは確かで、変わらないものは滅んでいく。そういうものだ。
 ここで、セブが墨守しようとしているジャズは本当に「古き良きジャズ」なのか、「古き良きジャズ」などそもそも実在するのか、といった疑問が湧くかもしれない。が、措いておこう。ジャズの内部事情などジャズの人にしかわからない。映画は視覚と視野をフレーミングするメディアだ。その矩形の内部では「映画」以外のあらゆる文化・芸術・歴史が相対化され、陳腐化され、ステロタイプ化される。そして、発信力と訴求力ででっちあげた「真実」で他のメディアを圧倒的に凌駕しうる。



 監督のダミアン・チャゼルはそうした暴力性でもって、画面のそこかしこに失われていく文化を愛すべきものとして刻印している。ハリウッド・スタジオ、シネコン以前の映画館、オープンなアメ車、タップダンス、ファッション、古典映画(『理由なき犯行』)、フィルム、プラネタリウムイングリッド・バーグマン、そして、ひたむきに夢を追う青春時代と愛。
 ヒロインのミア(エマ・ストーン)は女優志望のカフェ店員だ。彼女も過去からやって来た。
「なぜ、女優をめざそうと思ったの?」とセブは訊く。
 ミアは「叔母も女優だったの」と言う。
「巡業劇団のね。私は通りの向こうに小さな図書館がある家で育った。ネヴァダのボウルダー・シティ――どの家もまったく同じ見た目をしていた。十歳のときには、もう何がなんでもこの街から出なきゃ、って思うようになってたわ。そんなある日、叔母が街にやってきたの。彼女は図書館から古典映画を借りてきて、私に見せてくれた。ふたりで一日中映画を観まくったの。『赤ちゃん教育』、『汚名』、『カサブランカ』……世界があんなにも広いんだって、初めて知った。」

 
 ミアとセブ、ふたりの夢は常に過去にある。
 本作の重要な引用元の一つである『雨に唄えば』がサイレント映画からトーキーへの、過去から未来への変化に夢を託したのとは対照的だ。
 現実世界では古きものに拘ったり憧れたりするのは失敗のもとだ。だから、ふたりとも壁にぶつかってしまう。女優として、ミュージシャンとして、行き詰まってしまう。夢を追えなくなってしまう。二人の残された選択肢は、夢見た理想をごまかして妥協するか、夢そのものをすっぱり諦めてしまうか、の地獄の二択だけ。どちらを選んでも、夢見た過去を諦めることになる。

 
 わかっている。
 過去に未来はない。
 過去にある夢とは懐かしむための夢想であって、新しい自分を切り開くタイプの夢とは別物だ。


 しかし、しかしだ。
 そもそも映像とは過去を現在に夢見るためのツールではなかったか。
 何かを撮影し、記録し、再現する。どれだけ技術が発展しても、その要諦は百五十年前から変わらない。劇映画は記録された過去を現在や未来として詐称するけれども、展開される光景は常に過去のいずれかの地点で撮られたものだ。
 さらに言うならば、何かを志向するという意志は過去に起こったものを摂取したから生じるのであって、本作に即して言うならミアは古い映画を見たから今の映画をやりたくなった、セブは古い音楽を聴いたから今の音楽をやりたくなった。
 使い古された後藤明生の名言を今更繰り返すのもちょっとした勇気を要するけれど、何故小説が書かれるのかといえば、作家が「小説を読んでしまったから」なのであって、それは小説、創作のみならずあらゆる営為に当てはまる。読んでしまったから。
 ダミアン・チャゼルも過去に書かれた夢を読んでしまった一人なのだろう。それも、過剰に読んでしまった人なんだろう。
 夜観る夢と物語は本人の想像、つまり自分の見たものの範疇でしか描かれえないという点で似ている。だから、チャゼルは「観たもの」を自分の夢に出しまくる。
 結果、『ラ・ラ・ランド』は不必要なまでに古典ミュージカル映画の引用に埋め尽くされることとなる。不必要なまでに、というか事実、ストーリーテリング的にまともに機能している引用は少ない。
 過去を再現するための夢めいた引用は、たいていの場合、悲惨な結果に終わる。
 夢の文脈は純度百パーセントで本人に依るもので、他人から聞かされる「おもしろかった夢の話」が常に退屈なのはそういう文脈を理解できないからだ。


 だけど、チャゼルはこの夢のジレンマを強引に解決してしまった。
 自分の夢を、登場人物と観客それぞれの脳みそにむりやりぶち込んでしまったのだ。映画の暴力性を利用して、自分の夢で画面の内から観客席までを憧れで染め上げてしまった。
 それを私たちはラストの十分に観る。
 私たちはありえたかもしれない過去を、夢として観る。夢とわかって、観ます。このバランス。その夢が短いピアノ曲一曲のなかに凝縮されています。
 思います。あ、これって映画なんだ、と。これも映画なんだ、と。限定された時間に濃縮された夢を追体験し、共有すること、そういうのって、とっても映画なんじゃないか、って思うんです。だからこそ、美しいんです。画面で展開されている原色の『雨に唄えば』もどき以上に、現に映っているライアン・ゴズリングエマ・ストーンのダンス以上に、綺麗なんです。
 それはどちらの夢でもあるから。
 夜見られる夢であると同時に、未来に浮かぶ夢でもあるから。

2016年に観た新作映画ベスト25とその他

映画まとめ

ベストといいますか、この一年書いた感想のまとめといいますか。
今年は去年ほど映画を観ない気がします。

映画トップ10

1.『クリーピー 偽りの隣人』(黒沢清監督)

 ホラーやサスペンスに共通して重要な要素に「不吉さの予感」がある。人がただ歩いているシーン、談笑しているシーン、食事しているシーン、そういうなんの変哲もない日常が次の一瞬にはもう粉々に砕け散っているかもしれない、そういう破壊的な恐怖がホラーをホラーに、サスペンスをサスペンスにならしめている。人間の一挙手一投足あるいは感情ですらも、すべて暴力的な所作になりうる空間があるとすれば――あるのか? ある。『クリーピー』は、それを作り出した。

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2.『ズートピア』(バイロン・ハワード&リッチ・ムーア監督)

 仮想敵を立てるのは卑怯だと承知してはいるけれど、言わせてほしい、世間には『ズートピア』みたいなウェルメイドな作品を指して「完璧すぎてつまらない」という人がいる。いい子ちゃんすぎるというのだ。われわれは異常なものを観に映画館に来ているのであって、健常なものなんか映画館に溢れているじゃないかと。
 大きな間違いだ。「完璧すぎる」というのは、そもそもが異常な事態だ。人や物事には、ふつう、なにかしら欠落がある。去年の映画でいえば、『スティーヴ・ジョブス』(ダニー・ボイル監督)を観た人ならわかるかもしれない。完璧さを徹底して追求する人、追求できてしまう人は何かがおかしい。
 我々が『ズートピア』に惹かれてやまないのは、この映画が無限に汲み尽きない狂気の鉱脈だからだ。それはディズニーというブランドそのもののコンセプトでもある。完璧な狂気。

ズートピア カテゴリーの記事一覧 - 名馬であれば馬のうち

3.『ハッピーアワー』(濱口竜介監督)

 五時間半ある。二度の休憩を挟んで、六時間。個人的には三時間以上の尺を持つ映画を映画と呼びたくはないのだけれど、まあ実際に映画として公開されている代物だし、映画的なモーメントに満ちているし、なによりものすごくものすごくものすごく面白いのだから、個人的な定義などいくらでも曲げてよくないか?
 なぜおもしろいのか。コミュニケーションとディスコミュニケーションをテーマにしたサスペンスだからだ。この組み合わせは、超々長尺の作品を撮るにあたっての最適解といえる。コミュニケーションが切れたり繋がったりするのは下世話な僕たちの本性を捉えるし、そこにハラハラドキドキのサスペンス性が加わればもう時間なんてものはなくなったに等しい。画面にかぶりついたまま光陰が矢のごとく過ぎていき、気がつけば陽はとうに暮れている。*1

4.『ドント・ブリーズ』(フェデ・アルバレス監督)

 とてもとてもとてもおもしろい、の一言に尽きる。

5.『バタード・バスタード・ベースボール』(ウェイ兄弟)

 Netflix 限定。
 カーク・ダグラスのお父さんがかつて所有していたマイナー野球チームの伝説を負ったドキュメンタリー。ベースボールがアメリカの神話であることがよくわかるし、そういう意味ではフィリップ・ロスの『素晴らしきアメリカ野球』やケン・カルファスの『喜びと哀愁の野球トリビア・クイズ』、あるいは映画*2『フィールド・オブ・ドリームズ』にも比肩する。

 まあ詳しくは以下。

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 それにしても、このころはキチガイみたいな文章量書いてましたね。キチガイだったんでしょうか。

6.『人生はローリング・ストーン』(ジェームズ・ポンソルト監督)

 めんどくさいワナビとめんどくさい作家のロード・ムービー。
 インディーズの監督には人間のめんどくささを描く人も多いけれども、自分にはジェームズ・ポンソルトのそれがしっくりきます。

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7.『ファインディング・ドリー』(アンドリュー・スタントン監督)

 アイデンティティの喪失による孤独を描写した作品としてはあらゆるフィクションのなかでも最高峰。
 
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8.『ディストラクション・ベイビーズ』(真利子哲也監督)

 人が人を殴る。とりあえず殴る。なにがなんでも殴る。そういうものが最高なのはしょうがないんです。映像は暴力を映すのに適したメディアなんですから。
 

9.『映画 聲の形』(山田尚子監督)

 山田尚子という闇を、人類が超克できる日は来るのだろうか。
 
聲の形 カテゴリーの記事一覧 - 名馬であれば馬のうち
 

10.『ミストレス・アメリカ』(ノア・バームバック監督)

 なんだかよくわからないけどパワフルでクズな義姉(予定)についていって、それをネタに小説を書こうと目論むクズの話。去年は劇場公開された『ヤング・アダルト・ニューヨーク』もあったけど、バームバックの最高傑作はこっちだと思う。そうですね、アメリカの神話みたいな話ですよ。ゴッドではなく、ゴッデスの。
九月に観た新作映画短観 - 名馬であれば馬のうち

+10

11.『レヴェナント 蘇りし者』(アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督)

 クマに襲われたディカプリオがだんだんクマになっていくところがよかった。

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12.『ザ・ギフト』(ジョエル・エドガートン監督)

 クズ野郎映画の傑作。「実際にいそう」なクリーピーさでは『クリーピー』に優るし、物語を悪用するのは物語によって復讐されるという説話の構造も巧い。

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13.『マダム・フローレンス! 夢見るふたり』(スティーヴン・フリアー監督)

 こういうダメ人間同士が支え合って世界を構築する話を観ると自動的に泣く。

14.『ハドソン川の奇跡』(クリント・イーストウッド監督)

 語り口のテクニカルさでは群を抜いている。法廷ドラマに「人間要素」を持ち込んで、しかもそれがロジカルに成功する点でも斬新。*3
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15.『ブルックリン』(ジョン・クローリー監督)

 ミア・ワシコウスカ映画を観るのは義務であるが、シアーシャ・ローナン映画を観るのは権利である、とルソーも言っている。*4
 一人暮らししてる人はだいたい感動するんじゃねえかなあ。あと、服飾が抜群にキュート。

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16.『淵に立つ』(深田晃司監督)

 クリーピーな隣人映画その三。道具立ては『聲の形』に近い。でも、冒頭のメトロノームに象徴されるように、テンポの映画ですね。一家四人の食卓で、浅野忠信の早メシ芸をフルレングスで見せるその心意気。

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17.『この世界の片隅に』(片渕須直監督)

 玉音放送を聞いた皆が「あー戦争終わった終わった」モードに入るなか、すずさんだけが「一億総玉砕するんじゃなかったのかよ! だったら、最後までやれよ! みんな死ぬまでやれよ!」とキレるシーン良かったですよね。こういうキレかた好きです。

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18.『エブリバディ・ウォンツ・サム!!』(リチャード・リンクレイター監督)

 永遠ではない永遠を永遠にするために映画はあるのだ、と気づいた最初の人類なんじゃないかな? リンクレイター。

19.『スロウ・ウエスト』(ジョン・マクリーン監督)

 新人としては今年最大の収穫。ウェス・アンダーソンっぽく西部劇をやる、とそれだけ聞いたら Youtube でよくみかけるパロディ映画以上のクオリティにはならないな、と思うんだけど、ちゃんとどう語れば映画になるのかを監督が熟知しているのでおもしろい。
 ウェス・アンダーソンフォロワー映画といえば、昨年は『僕とアールと彼女のさよなら』がありましたね。こちらもなかなか観せてくれる。

20.『神聖なる一族 24人の娘』(アレクセイ・フェドルチェンコ監督)

 寒い土地で性にまつわる益体のない寓話を24篇垂れ流すだけで極上の時間を過ごせるという新発見。

+5

『DOPE ドープ!』
『さざなみ』
『ロブスター』
サウルの息子
『日本で一番悪い奴ら』

各部門賞

(自分の中で)ブレイクスルー俳優

ジェシー・プレモンス - 『ブラック・スキャンダル』、『ファーゴ』S2、『疑惑のチャンピオン』、『ブリッジ・オブ・スパイ』 
 ドーナル・グリーソン - 『エクスマキナ』、『ブルックリン』、『ソング・オブ・ザ・シー』、『ブラックミラー』S2、『レヴェナント』
 シャメイク・ムーア - 『DOPE』、『ゲット・ダウン』
 テッサ・トンプソン - 『ディアー・ホワイト・ピープル』、『ボージャック・ホースマン』
 ジェニファー・ジェイソン・リー - 『ヘイトフル・エイト』、『アニマリサ』
 ベン・キャロラン - 『シング・ストリート』
 トム・スウィート - 『シークレット・オブ・モンスター』

 あくまでの僕のなかでブレイクした俳優なので……『ナイト・オブ』観てりゃあリズ・アーメッド(『ローグワン』)も入ってたかも。ベン・ウィショー(『ロンドンスパイ』、『パディントン』、『ロブスター』、『白鯨との闘い』、『リリーのすべて』)も迷ったけど、やはり去年の『ホロウ・クラウン』S1だよな、ということで。

歌曲部門

☆シング・ストリート「Drive it like you stole it」(『シング・ストリート』)

Sing Street - Drive It Like You Stole It (Official Video)

 RADWIMPS 「前前前世」(『君の名は。』)
 クリストファー・ウォーケン「I wanna be like you」*5(『ジャングル・ブック』)
Sia「unforgettable」*6(『ファインディング・ドリー』)
 仁科カヅキ、大和アレクサンダー「EZ DO DANCE -K.O.P. REMIX-」*7(『劇場版 KING OF PRISM』)
 中田ヤスタカ「NANIMONO (Feat. 米津玄師)」(『何者』)
 コモン, ビラル & ロバート・グラスパー「Letter to the Free」(『13th ――合衆国憲法修正第十三条――』)
 リンジー・スターリング(ft. アンドリュー・マクマホン)「Something Wild」(『ピートと秘密の友だち』)
 コトリンゴ「たんぽぽ」(『この世界の片隅に』)
 

作曲部門

☆Disasterpeace 『イットフォローズ』
 小野川浩幸『淵に立つ』
 エイドリアン・ブリュー「ひなどりの冒険」
 ブルーノ・クーレイス&キーラ『ソング・オブ・ザ・シー』
 カーター・パーウェル『キャロル』
 牛尾憲輔『聲の形』
 坂本秀一『溺れるナイフ

クマ映画オブザイヤー(Kumamiko d'Or)部門

☆『レヴェナント』
 『ジャングル・ブック
 『パディントン
 『ディズニーネイチャー/クマの親子の物語』
 『くまのアーネストおじさんとセレスティーヌ』(DVD発売)

長編アニメーション部門

☆『ズートピア
2『聲の形』
3『この世界の片隅に
4『ファインディング・ドリー
5『劇場版 探偵オペラミルキィホームズ

アニメ映画ついてはだいたいこちらで書きました。
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あと『ひな鳥の冒険』を讃えるために短篇アニメ部門もやろうとしたけどノミネーションするほど数足らなかった。
ケヴィン・ダートのこれとかいいですよ。

Netflix でしか観られないでしょう部門

☆『バタード・バスタード・ベースボール』
2『タンジェリン』
3『最後の追跡』
 『13th ――憲法修正第十三条――』
 『サイレンス』
 『ディヴァイン』
 『ディアー・ホワイト・ピープル』
 『カンフー・パンダ3』
 『マイ・リトル・ポニー:エクエストリア・ガールズ - フレンドシップ・ゲーム』
 『粒子への熱い想い』

Netflix is 神。
『タンジェリン』はiPhoneで撮影した低予算映画。トランスジェンダーの売春婦が刑務所から出所してきて元カレを探す話。アツい友情話です。
『最後の追跡』は Netflix オリジナル映画で、アメリカでは各紙の年度ベストテンにランクインしてますよね。「奪ったものもまた奪われゆくのだ」という無常さが佳い。
『13th』は『グローリー(Selma)』の監督がとった黒人差別についてのドキュメンタリー。あらゆる意味で、観るべき映画です。『ディアー・ホワイト・ピープル』とセットでね。
 特に推したいのは『サイレンス』。スプラッタホラー版『聲の形』ですね。ぜんぜん違うぞ。監督のマイク・フラナガンは間違いなく今後のアメリカホラー界を代表する人物になる(というか、もうなっている)ので、『オキュラス』と伏せてよろしくお願いします。

ソフトスルー部門*8

☆『人生はローリング・ストーン』
2『ミストレス・アメリカ』
3『スロウ・ウエスト』
 『ワイルド・ギャンブル』
 『遥か群衆を離れて』
 『愛しのグランマ』
 『ミニー・ゲッツの秘密』
 『アノマリサ』
 『ナイト・ビフォア』
 『僕とアールと彼女のさよなら』

『ワイルド・ギャンブル』はクズ野郎俳優ベン・メンデルソーンのクズ野郎っぷり(ダメ人間方面)が遺憾なく発揮されたクズ野郎映画。お相手はデッドプールさんことライアン・レイノルズだから二度クズ美味しい。
『遥か群衆を離れて』はトマス・ヴィンターベア待望の新作。名作文学を映画化した恋愛文芸映画なんですが、ほとばしる変態性が止まらない。特に男がフェンシングの剣をヒロイン(キャリー・マリガン)に素振りするシーン。メタファーにしてもはしたなすぎです!『愛しのグランマ』、佳作とはこういう映画を指すのでしょう。

シアターライブ部門

☆『人と超人』
2『戦火の馬』
3『ロミオとジュリエット
 『ジ・エンターテイナー』
 『ハムレット
 『冬物語

映画館通いを怠けているとすぐに上映が終わるナショナル・シアター・ライヴ。今年はケネス・ブラナーがはじめたKBTLもはじまりましたね。
今年はなんといっても『人と超人』。不朽なるバーナード・ショーの人間観察に万歳。

このクズ野郎俳優がすごい!

ベン・メンデルソーン - 『ワイルド・ギャンブル』、『ローグ・ワン』、『スロウ・ウエスト』
 『ザ・ギフト』のあいつ(ネタバレにつき)
 マイケル・シャノン - 『ドリームホーム 99%を操る男たち』
 ベン・フォスター - 『疑惑のチャンピオン』
 ホアキン・フェニックス - 『教授のおかしな妄想殺人』
 アダム・ドライバー - 『ヤング・アダルト・ニューヨーク』
 アレクサンダー・スカルスガルド - 『ミニー・ゲッツの秘密』
 佐藤健 - 『何者』
 シャーリーズ・セロン - 『ダーク・プレイス』
 本木雅弘 - 『永い言い訳


 昨年に続き、ベン・メンデルソーンが連続受賞。『ワイルド・ギャンブル』の情けないギャンブル依存症の男と、『ローグ・ワン』の哀しい中間管理職役が光りました。

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 『ドリーム・ホーム』のマイケル・シャノンや『疑惑のチャンピオン』のベン・フォスターはクズはクズでもアメリカン・ドリームの狂気の化身って感じである種の崇高さがありました。その点でいえば、『ヤング・アダルト・ニューヨーク』のカイロ・レンことアダム・ドライバーも現代のアメリカが生んだ新手のクズみたいな感じでしたけど、まだこっちは良心ない系のサブカルクズ野郎として卑俗な普遍性があったかな。
 ホアキンは、まあいつものウディ・アレン映画のクズ。六十や七十になってニーチェドストエフスキーをひきずっているのもどうなんだと思わないでもないですが、こういう芸風なのでしょうがない。
 『ミニー・ゲッツ』のアレクサンダー・スカルスガルドは付き合っているシングルマザーの娘(まだ中学生かそのくらい)と関係を持つという、まあこれだけでクズとわかるクズですが、グダグダと責任のがれをしたがる様もなかなかポイント高い。
 『何者』の佐藤健、この人のクズさはユニバーサルさではダントツなので、誰も逃れられないでしょう。反面、本木雅弘は元祖日本のめんどくさいクズ男子といった趣。
 『ダーク・プレイス』のセロンさんは原作よりクズさが薄まっていた気がしますが、やはり一家惨殺事件に同情したひとたちの寄せてくれた募金でニート暮らしをするインパクトは一級品。

クズ野郎映画アンサンブル賞トップ10

☆『日本で一番悪い奴ら』
 『アンフレンデッド』
 『ミストレス・アメリカ』
 『クリーピー 偽りの隣人』
 『エブリバディ・ウォンツ・サム!!』
 『ヤング・アダルト・ニューヨーク』
 『人生はローリング・ストーン』
 『人と超人』
 『淵に立つ』
 『何者』

 基本的にここに挙げた映画に出てくるキャラは漏れなくクズです。でもまあ一口にクズといっても色んなタイプがあって、『日悪』のクズたちは犯罪者だけど犯罪者である点さえなければ気のいいアンちゃんばかりなのでほのぼのします。犯罪者なんですけどね。
 『アンフレンデッド』の人らはホラー映画に出てくる典型的なクズティーンなんですけれど、そのクズっぷりの演出が半端じゃない。胸くそ悪いクズどもが無残な目にあってスカッとしたいアンチクズ野郎映画ファンにもオススメです。
 『エブリバディ・ウォンツ・サム!!』の人たちはクズっていうか、大学内では割りとエリートなんですけれど、まあ愛嬌のあるクズで、むしろバカと言ったほうがいいのかな。『日悪』と似ていないこともない。

姉映画賞

☆『ライト/オフ』(姉弟)
 『ブルックリン』(姉妹)
 『ミストレス・アメリカ』(義姉妹)
 『ブレア・ウィッチ』(姉弟)
 『ドント・ブリーズ』(姉妹)
 『この世界の片隅に』(姉妹・小姑)
 『スーサイド・スクワッド』(姉弟)

 姉映画はやはりホラー映画が強いわけですが、直球の姉弟愛を見せてくれた『ライト/オフ』に栄冠を。
ホラー姉映画といえば、姉はだいたい味方サイドに位置することが多いわけですけど、『ブレア・ウィッチ』は敵対サイド(厳密には違う気もするけど)に立っていて興味深い。
 『ドント・ブリーズ』のどこが姉映画だ、という意見は多いかもしれません。しかし、考えてみてください。物語後半で大金を手に入れた主人公(姉)が異常なまでに金に執着するあまり、脱出の選択を間違えてしまう。傍から見ると、単に金に汚い女の自業自得です。が、ここに姉映画という視座を導入することによってシーンの意味合いが変わる。そもそもなんで主人公に金が必要かというと、最悪な家庭環境から妹を救い出すためなわけです。つまり、彼女にとって老人の金とは妹の命や未来とイコールなのです。そういう目で観てみると、醜悪な狂態が崇高な愚行に見えてきませんか。見えませんか。ならいいです。
 『スーサイド・スクワッド』はラッキー姉映画(姉映画と期待してなかったのに姉映画だった姉映画のこと)でしたね。弟が倒されると一気にヘナヘナとしおらしくなる魔女姉さん、百点。

ドラマ

☆『シリコンバレー』シーズン1〜3
 『ファーゴ』シーズン2
 『ストレンジャー・シングス』シーズン1
 『ゲットダウン』シーズン1(半分)
 『ハウス・オブ・カード』シーズン4
 『Empire 成功の代償』シーズン2〜シーズン3途中
 『レディーダイナマイト』シーズン1
 『ロンドン・スパイ』
 『Veep』シーズン1
 『ホロウ・クラウン 嘆きの王冠』シーズン2

アニメ

☆『リック・アンド・モーティ』シーズン1〜2
 
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 『ボージャック・ホースマン』シーズン3
 『アドベンチャータイム』シーズン5
 『シンプソンズ』シーズン27
 『フリップフラッパーズ』第一期
 『ぼくらベアベアーズ』シーズン1
 『くまみこ』第一期
 『宇宙パトロールルル子』第一期
 『ユーリ!! ON ICE』第一期
 『FはFamilyのF』シーズン1

*1:ここでいうサスペンスとは、つまりウソや隠し事がバレるかバレないか、というハラハラドキドキのことだ。人は誰しも致命的な秘密を抱えながら、そしらぬ顔で他人と会話に興じている。致命的な秘密、といっても何も人を殺したとか実は狼男だとか、そんな大層なものでなくていい。
たとえば、さっき勢いでナンパした主婦と偶然飲み会で一緒になって、その場の流れで自分が相手の不倫で離婚する羽目になったバツイチだと告白する羽目になるだとか。夫である編集者との不貞が疑われている女性作家が、その妻の前で不倫と関係あるようなないような短篇を朗読するだとか。  観客は登場人物たちの抱えたささやかで致命的な秘密を神の視点から把握し、その秘密が露呈する一歩手前のハラハラを楽しむことができる。『ハッピーアワー』が卓抜しているのは、観客が知れるのはその秘密のガワの部分だけで、核心部のところは巧妙に隠されている点だ。
さっきのたとえでいえば、ナンパした主婦とバツイチの男は飲み会のあいだじゅうアイコンタクトっぽい視線を交わすが、そこのあたりの二人の本心はわからない。朗読劇にしても、本当にその編集と作家が一線を越えてしまっているのかについては、妻と観客には伏せられている。
各自の「行為」までは覗き見できても、「心」までは覗けない。この作劇のバランスが、テーマとも合致して、本作を豊穣な群像ドラマに仕立てている。

*2:原作は小説だけど

*3:たいていまあ挑発で相手の失言を誘って大勝利、みたいなガッカリ展開が多いじゃないですかそういうの

*4:言ってない

*5:元曲は1967年版から

*6:元曲はナット・キング・コール

*7:元はTM

*8:限定公開・特集上映含

2016年に見た新作長編アニメ映画ベスト24+α

映画まとめ

シーズンですね。今年はやたらアニメ映画を観た気がしました。なんででしょうね。まあいいか。
ベスト24と言っても、今年観た新作アニメ映画が全部で24本というだけです。

ズートピア』と『聲の形』と『ファインディング・ドリー』は三回くらい観たと思います。あとは全部一回ずつでの印象です。
ではまいりましょう。

 長編のベストの前に短篇のベストの紹介を。

神『ひな鳥の冒険』(アラン・バリラーロ監督、ピクサー

 『ファインディング・ドリー』の併映短篇。シギのひな鳥が自力で餌を取れるようになるまでを描く。

 とにかく、神、としかいいようがない。浜辺の砂の一粒一粒、小鳥の眼に揺れる光のひとつひとつ、画面に映るすべてに奇跡が宿っている。あらゆる瞬間が現実以上に生きている。無機物から生命が発生したというのも、この短篇を観たなら信じられる。

ベスト5

☆『ズートピア』(リッチ・ムーア&バイロン・ハワード監督、ディズニー)

 擬人化された動物たちの街で発生した連続失踪事件を、理想主義的なウサギの警官が厭世的な詐欺師のキツネをバディに捜査するクライム・サスペンス。


 言いたいことはだいたいブログ記事のほうで言ったんで、いまさら特につけくわえることもありません。3DCG、アニメーション、ストーリーテリング、映画、おおよそ技術と名のつくものの粋であり、ディズニーアニメ史に残る傑作です。

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2『聲の形』(山田尚子監督、京都アニメーション

 元いじめっ子兼元いじめられっ子の高校生が、昔いじめていた聾の少女に再会してさあどうすんの、っていう青春ドラマ。大今良時の漫画原作。

 これもだいたい言いたいことはブログのほうで言ったような気がする(けど感想的な部分はあんま出してない気もする)。


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 なんだかんだで一番好きなのは、動作のディティールなのかもしれません。
 小学生時代の植野が遊具を伝わせる指。
 将也を追い出した結絃がパイプ椅子に腰掛けながらぼんやりと雑誌のページをいじる指。
 画面が豊かである事実そのものが、作品のテーマにかかわってきます。

3『この世界の片隅に』(片渕須直監督)

 戦時中に広島から呉に嫁いできた若い女性が、だんだんとどん詰まりになっていく日本をかろやかにでも必死に生き抜いていくさまを描く戦時下日常ドラマ。こうの史代の漫画原作。

この世界の片隅に 上 (アクションコミックス)

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 戦争の暴力、と聞くと、まあ『プライベート・ライアン』の冒頭みたいに弾丸がガンガンとんできて冗談みたいに兵士が死んでいく戦場を人は連想しがちなものですが、近代戦が総力戦である以上、後方にも暴力は波及してくるわけですよね。それも『アドルフに告ぐ』の峠草平みたいな、いかにも波乱万丈の人生を送っている人間でなくったって、さしあたって思想を表明せず日々洗濯して買い物して掃除して裁縫してメシ作って愛を営んでいる主婦だって、ちゃんと区別なく戦争から殺しにこられます。
 わかりやすいのは空襲ですよね。空が蹂躙される。焼夷弾が降ってくる。みんなの家が燃える。家が燃える、というのは映画では大変なことです。家族、ふるさと、アイデンティティの帰属先、それがいっぺんに失くなってしまうのですから。
 でも、空襲や爆弾ばかりが脅威であるとはかぎらない。怪我や病気、物資の不足、官憲による統制、出征した家族の戦死、それらは主人公のすずに襲い掛かってくる暴力ですが、彼女以外だって、たとえば娼館で働く女性は色街から一生出られない。昭和二十年ですよ。すげえ時代だな、と思います。
 現代と比べるとそりゃあすさまじいというか凄惨な状況なわけですけれど、それでも人間はそこそこに生きている。二重に、すげえ時代だな、と思います。話がちょっと変わりますけど、わたしはミステリ作家や文豪が戦時中につけてた日記やエッセイを読むのが好きで、といってもごくたまに読むくらいですけど、そんなたまの機会に毎回、みんなそこそこに生きていたことに驚かされます。みんな普通に泣いたり笑ったりくだんないことやってたり悪態をついたり怒ったり食べたり死んだりしていて、まあでもよくそういうことを戦争中にできるな、と思う。戦争中に小説とか読んでる場合じゃねえだろう。そう思うんだけど、でも読む人は空襲受けようがなんだろうが読む。どころか、戦地に行っても読んでる。なんか岡本かの子とかスタンダールとか読んでる。読んで、つまんねえよな、とか日記に書く。人が死んでるんですよ。人がわりとイレギュラーな形で死んでるのに、小説を読んでつまんないとか感じて書く。感じられて、書ける。生きてます。大変なことです。
 全然話ズレちゃいましたけど、だから、簡単に死ねる時代に生きてるってすごいんだなあ、という映画です。

4『ファインディング・ドリー』(アンドリュー・スタントン監督、ピクサー

 『ファインディング・ニモ』の続編。健忘症のナンヨウハギ、ドリーが両親の存在を思い出し、再会すべく旅に出る。

 基本的に世間に出しちゃいけないレベルでダメな人に対してやさしい映画に弱いんですけど、これもそういう類で、映画館で泣きました。今年の映画で、他に泣いたのは『マダム・フローレンス!』くらいですね。
 ドリーは『ファインディング・ニモ』のころから病的なまでに忘れっぽいキャラとして描かれてきました。その忘れっぽさはすさまじく、何かを話している最中に数秒前に話していたことを忘れて混乱してしまうほどです。まず、一人(魚だけど)でまともな社会生活を営める人(魚だけど)ではありません。


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 でも、そういうあなたでも、あなたとして、ちゃんと生きていいんだよ、と『ファインディング・ドリー』では言ってくれる。
 理想主義的だけど、絵空事ではないレベルでの地に足のついた(もちろん魚ですから抽象的な感じではるんですけど)処方を用意してくれていて、物語もそのために作りこまれている。『ズートピア』同様、『ドリー』がひとやまいくらの教条的な訓話に堕していないのは、テーマを伝えるために物語面で妥協をしていないからだと思う。ただ『ドリー』の場合は、ちょっとテーマにひっぱられすぎているのは否めないかなあ、とも。
 監督が大御所のスタントンだとピクサーご自慢のブレイン・トラストが十全に機能しないんですかね。

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5『劇場版 探偵オペラミルキィホームズ 〜逆襲のミルキィホームズ〜』(森脇真琴監督、J.C.STAFF

 TVアニメ『探偵オペラ・ミルキィホームズ』の劇場版。あらすじはよく憶えてないけど、またトイズがなくなって気がする。

 思えば、といって思いさえすればなんでも放言してかまわないのではないのだろうけれど、『探偵オペラミルキィホームズ』はシリーズを通じてずっっっっっっと、探偵小説における「探偵」の存在についてラジカルな問いを投げかけてきたアニメだった。問いとは、究極的に、「探偵とは『推理する能力』がなくても、なお探偵でいられるのか?」ということだ。
 この麻耶雄嵩ばりの探偵論物語に、劇場版では回答が出る。
 先んじて言ってしまえば、探偵とは、能力ではない。資格でもない。まして職業などでは絶対にない。
 態度なのだ。
 自分が探偵である、という心意気さえあれば、世界は自然にあなたを探偵にしてくれる。
 私がなにを言ってるのかわからない向きは、是非『劇場版 探偵オペラミルキィホームズ』をご覧になってほしい。それでもわからないなら、それでいい。ミルキイホームズが真犯人を指摘するときに頬を伝うであろうその涙が本物でさえあるのなら、他に何も要らない。*1
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以下それ以外。

基本的には楽しめた順で並べています。降るにつれて雑になっていくのはそのせいです。まあ、作品同士でそんなに差はないですが。観ればだいたい面白いです。

君の名は。』(新海誠監督、コミックス・ウェーブ・フィルム

 あらすじは全国民が知ってるだろうし省略します。

 ぼくの周囲ではロジックで物事を見る人が多いせいか評判悪かったんですが、まあでもエモいからいいじゃん、感情でつながってるからつながってるじゃん、RADWIMPSでアガるからいいじゃん、でいいじゃん、じゃないですか。
 ところで、
 なんでみんなRADWIMPSを憎むのでしょう?
 なんでみんな中高生のころにRADWIMPSを聴いていた記憶を嘘にしたがるのでしょう?
 変質したのは野田洋次郎ではなく、あなたなのでは?
 心が身体を追い越してきたのでは?
 銀河何個分かの果てに出逢えたその手を壊さずにどう握ったらいい?

 あと観たらみんな必ずゆきちゃん先生の話をしますね。ぼくは、ゆきちゃん先生の鬱はまだ治ってない派です。

『ソング・オブ・ザ・シー』(トム・ムーア監督、カートゥーンサルーン

 あざらしの妖精ケルピーのお母さんと人間のおとうさんとのあいだに生まれた兄妹の話。家族の話。

ソング・オブ・ザ・シー 海のうた (オリジナル・サウンドトラック)

ソング・オブ・ザ・シー 海のうた (オリジナル・サウンドトラック)

『ブレンダンとケルズの秘密』のトム・ムーアの映画を観ない、とは選択というよりむしろ敗北主義的な自殺に近くて、公開されたからには観に行かねばならないわけです。観るわけです。当然のごとくすばらしいわけです。
 『ケルズの書』のカリグラフィーを下敷きにした『ケルズの秘密』のスタイリッシュさはさすがにちょっと薄れていたものの、そのぶんアニメーションの快楽が前面に押し出されていた印象(魔女の頭が膨張するシーンとかちょっと宮﨑駿っぽかった)。
 でもまあ、なによりキャラクターのかわいさですよね。ヒロインのシアーシャは跳ねた前髪を直す仕草がいちいちかわいいし、主人公ベンの親友であるイヌ(オールド・イングリッシュ・シープドッグ)もでかくてかわいいし、アザラシたちも最高にキュート。人がアザラシに、アザラシが人にメタモルフォーゼする瞬間はたぶん手塚治虫に観せたら失禁しながら号泣してスケッチとるレベルですよ。
 お話も、きょうだい、父子、母子、祖母と孫、少年と犬といった複合的な家族の関係をあますところなく優しくたおやかに掬い取った物語で、ご家族誰もが愉しめること間違い無し。

KING OF PRISM by PrettyRhythm

 あらすじ:これがプリズムショーかあ〜〜〜〜〜〜。

 感想:これがプリズムショーかあ〜〜〜〜〜〜〜〜〜。

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 話としては至極どうでもいい(どうでもよくないんだと主張する勢力も存在しますが、彼らを招き入れてはなりません。悪魔のささやきであり、聞いたが最期で死にます)んですが、映画館で得られる体験としては突出してユニークであり、圧倒的。自分がなにをされているのか、なにを見せられているのか、なにを感じさせられているのか理解できないまま、自失と涜神の六十分が過ぎていく。
 観終わった直後はこの看過しえない体験をノーマライズしようと、自分を説得にかかることでしょう。
 あれは話としてはなんてことないんだ。ああいう仕掛けのアニメはキンプリがはじめてなわけじゃない。ただ、みんなが狂っている狂っているといっているからそう思い込んでしまっただけ。
 やがて人はキャラや設定の話に逃げます。
 あのキャラは変だよね、設定どうなってるんだよ、あのシーンはおかしかったよね。バカだったよね、そうバカな映画だった。ははは。


 全部うそです。逃避です。


 現実を直視なさい。
 キンプリはアニメではない。
 キンプリは映画ではない。
 キンプリは聖書ではない。
 キンプリはあなたが精通したときに左手に握りしめていた安いエロ雑誌ではない。
 キンプリはワンショット六十分の映像ドラッグです。
 脳へダイレクトアタックする人造ウィルスです。それは伝染し、拡散され、やがて地上を覆い尽くします。逃げ場はありません。体験は有限ですが、滅びは永遠です。
 あとに残るのは、廃墟となった京都イオンシネマの七番スクリーンだけなのです。
 観るもののいなくなった大画面に、七夕の夜のプリズムショーが無限にリピートされます。
 一日二十四回、精確に繰り返されます。その光景は、二十四コマで二十四回繰り返される映画一秒あたりの死に一致します。「ということは、映画というメディアはキンプリを上映するために生まれたのか?」

 その問いかけに答える人間は、もう地上のどこにも存在しません。
 あとに残るのは、廃墟となった京都イオンシネマの七番スクリーンだけなのです。
 観るもののいなくなった大画面に、七夕の夜のプリズムショーが、一日に二十四回、一秒に二十四コマ……。



『アノマリサ』(チャーリー・カウフマン&デューク・ジョンソン監督)

 ビジネス書で一山当てた男が講演先のホテルで「運命の女」に出会う。他の人間たちが全員同じ顔見え、同じ声に聞こえていた男の眼には、その女性、リサだけは違う顔、違う声を持っているように見えた……。『脳内ニューヨーク』のチャーリー・カウフマン監督作。

 人形をコマ撮りする、いわゆるストップ・モーションと呼ばれる手法で作られた作品。『ウォレスとグルミット』とか『コララインとボタンの魔女』を想像していただけるとわかりやすいでしょうか。
 人形アニメ部分を担当したデューク・ジョンソンはデューク・ジョンソンで、アメリカTVコメディ界の仕掛け人ダン・ハーモンとの絡みでなかなか興味の尽きない人ではあるのですが、『アノマリサ』はやはりチャーリー・カウフマンの映画と言ったほうがいい。
 おもいだしてください。『マルコヴィッチの穴』のチャーリー・カウフマンです。『エターナル・サンシャイン』のチャーリー・カウフマンです。『存在の耐えられない軽さ』のフィリップ・カウフマンではありません。チャーリー・”『脳内ニューヨーク』”・カウフマンです。
 チャーリーは基本、実写の人ですので、ストップ・モーションという手法をただのんべんだらりと消費しません。人形を用いることで「世界が偽物に見える主人公の視点」に一定の没入感を与えます。
 どういうことかといえば、登場人物たちの頭に不自然な線が走ってるわけですよ。後頭部をぐるりとまわって両の目尻をつなぐように。最初観ているうちは、未熟な技術のせいでパーツとパーツの継ぎ目があらわになってしまっているんだな、と思いますが、あんな高度に繊細なアニメーションを達成できるスタッフが、こんな初歩的なポカをやらかすはずがない。もちろん、仕掛けが眠っているわけです。
 この不自然な継ぎ目以外にも『アノマリサ』はテクニカルな仕掛けに満ちています。
 主人公(デイヴィッド・シューリス)とヒロイン(ジェニファー・ジェイソン・リー)以外の人物の声は、すべてトム・ヌーナンが担当し、それらのキャラは男女の区別なく顔の造作もみんな同一です。
 他にも夢とも現実ともつかない幻想的なシーンに放り出される、世界や建物が変容する、(人形アニメなのに)人形がフィーチャーされる、やたらアダルトなシーンが出てくる……つきなみな言い方をすればカフカ的な現実に、チャーリー・カウフマンファン的にはいつものチャーリー・カウフマン的な現実に、観客は主人公を通してどんどん侵食されていきます。そういう現実崩壊感覚が、そもそもが不自然さだらけであるストップモーションの手触りによくマッチしている。

 最終的には、愛の話です。ハードでにがい、愛の話です。
 色んな意味で、大人向けのアニメですね。

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『ペット』(クリス・ルノー&ヤーロー・チーニー監督、イルミネーション・エンターテイメント)

 ジャック・ラッセル・テリアのマックス🐶は飼い主の女性がだーい好き❤。しかし、ある日、デュークという名のデカくてイヤミな雑種犬👿が現れ、幸せだった日常は思わぬ方向に転がり始める……。

 『怪盗グルー』フランチャイズの大成功により、売上的にはディズニー/ピクサーに互する有力スタジオに成り上がったイルミネーションですが、内容はといえばピクサーの模倣から逃れきれていませんでした。
 そんなイルミネーションに対する私の見る目が変わったのは、『ミニオンズ』からでしょうか。*2ピクサーお家芸である「深くてイイ話」を諦め、ほとんど露悪スレスレのスラップスティックギャグ路線へ舵を切ったのです。その結果『ミニオンズ』は映画史上でも稀に見るイギリス国辱映画として批評的に敗北しますが、ともかくこれ以降のイルミネーションが吹っ切れたことはたしかです。
 全然的はずれなことを言いますが、ピクサードラえもんだとすれば、イルミネーションはクレヨンしんちゃんでしょうか。

 で、『ペット』ね。『ペット』ですよ。かわいいよね。かわいい動物がいっぱい出てきてカーワイー*ଘ(੭*ˊᵕˋ)੭* ੈ✩‧₊みたいな……すいません、ウソつきました。そんなにかわいくないです。ひょうたんみたいな顔の主人公、ブサイクの極みのような雑種、ほとんど円形のめつきわるいネコ、劇中で可愛いキャラとされているウサギでさえなんというか……何? ノリをまいてないおにぎりってなんて呼ぶんだっけ? おむすび?
 どいつもこいつも握りつぶしたくなるような憎ッたらしいツラしてんスよ。
 そいつらがマアひどい目にあったり、ひどい目にあわせたりする。そういうギャグがいちいち極まっている。もちろん擬人化されているんですが、そのへんの動物アニメよりも、ああ、こいつら畜生なんだなあ感が強い。
 ただギャグがちょっと面白いってだけなら『コウノトリ大作戦!』とそんなに変わらない好きさ(あれ? けっこう好きだぞ?)なんですが、この映画を一段上に押し上げたのはなんといってもポメラニアンを演じる沢城みゆき
 このポメラニアンがね、頭おかしいんですよ。主人公のこと大好きで大好きでしょうがない夢見る乙女です。が、テレビで毎日観ているテレノヴェラ(スパニッシュ系の昼メロ)に影響されて、愛する主人公が窮地に陥ったと知るや情熱的に物事を解決しにかかる。愛ゆえに強い。愛ゆえに最強。暴力で愛を通そうとすらします。
 挙動もいちいち完璧で、チョコマカ動いて躁気味に喋る。自分の内部の論理で納得して素早く行動する。そこへきてCV.沢城みゆきとくれば、全人類の普遍的な記憶として蘇るのが、『マイ・リトル・ポニー』の主人公トワイライト・スパークル。シーズン2の第3話『トワイライトがピンチ!(Lesson Zero)』ですよ。キチトワイですよ。切羽詰まって煮詰まった感のあるときの沢城みゆき演技を正味一時間くらいのあいだ堪能できる。それだけで『ペット』は吹き替えで観る価値がある。

 とまあさんざん他人に伝わらない形で褒めましたが、大筋のストーリーは『トイ・ストーリー』のパクリです。その点だけとれば劣化コピーといってもいいと思います。ですが、『白雪姫』以降のディズニー/ピクサー二重帝国のウェルメイドな「良きアニメ」的な作劇に対して、ワーナーアニメのルーニー・テューンズに代表される「わるいアニメ」の道統がイルミネーションにはたしかに受け継がれている。
 現在のアメリカアニメ映画界の最前線を張っている作品のひとつであることは間違いありません。イルミネーションの次の作品は『シング/SING』。見逃すなかれ。

『モンスター・ホテル2』(ゲンディ・タルタコフスキー監督、ソニー・ピクチャーズ)

 人間と結婚して一児のママとなったドラキュラ娘、メイヴィス。彼女はクレイジーなモンスターが集うモンスター・ホテルで子育てをつづけるべきか、夫の故郷である人間界で「まともな」子どもを育てるべきか悩み出す。

 前作のヒロイン、それもどう観たってティーンエイジャーみたいな見た目だったヒロイン(ドラキュラなんで数百才オーダーだけど)が開始一分で人妻となり、五分で妊娠し、十五分で五歳児の母親になる衝撃。こんな子供向けアニメ映画は初めてやで。
 そして、新ジャンル、腹ボテこうもり。

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 まあ内容は前作にひきつづきシングルファーザーである父と娘の和解といいますか。前作と違うのはお互い子を持つ親になったことですね。子持ちの親子同士の相克を描くアニメ映画はめずらしい。ソニーなりに苦心して独自の路線を見出そうとしているのがうかがえます。ギャグもストーリーもそこそこにバランスがよろしくて、なによりキャラデザがあいかわらずキュート。愛嬌だけでいったら今年トップクラスかもしれません。

 この作品の持つもう一つのアングルは、テレビアニメ界の逆襲、でしょうか。監督は、『デクスターズ・ラボ』や『サムライ・ジャック』といったカートゥーン・ネットワークで育った人間にとっては涙の出るほど懐かしいタイトルを生み出した英雄、ゲンディ・タルタコフスキー。第一作から継続しての起用です。大物とはいえ、テレビアニメとアニメ映画で(すくなくとも監督クラスの)人材の住み分けがハッキリしているアメリカアニメ界では、めずらしい抜擢でした。
 たとえそれがアダム・サンドラー映画であったとしても、タルタコフスキーが長編を撮る、というのは米国アニメ界における事件なわけで、とりあえず観る義務が生じます。*3
 現在でもアメリカTVアニメ界の主流は2D*4なわけですが、そういうところの第一線級を走り続けてきたひとが3Dを舞台にするとどういう風にアニメーションをアニメートしていくのか。そういう興味で観てるとやはり『ドリー』や『ペット』と何かひとつひとつの所作やショットが違う気がする。気がするだけかもしれないというか、むしろ作家性に還元されるべき差異なのかもしれませんが、なんだか新鮮に観える。
 とくにクライマックスのバトルシーン。テンポや構図が『パワーパフガールズ』っぽくて、眼福。

『同級生』(中村章子監督、A-1 Pictures

 男子高校生二人が恋愛関係になるんだけど、ふたりのあいだにエロカッコイイ教師がからんできてたいへ〜ん💦みたいな感じだった気がするけど、あってる?

 原作のストーリーほとんど忘れた状態で鑑賞して、今となっては映画のストーリーもほとんど忘れてしまっていますね。ちゃんと明日美子的な透明なエロスが再現されていて良かったなあ、という感触だけが残っています。
 これを書くために予告編を観ていてちょっと思い出しかけましたが、二人の距離感の表現がすばらしいですよね。間合いのとり方、肉体的な接触の詰め方、ショットの切り方、なんかね、いいなあと。

ガールズ&パンツァー劇場版』(2015)(水島努監督、アクタス

 学校のお取り潰しを回避すべく、高校生戦車乗りたちが大学生戦車乗りたちと戦う。

 今年になって観ました。バカスカ撃ち合う戦車を観てて、楽しくならないわけがない。たまらなく巨大な自走砲の砲身をリアルな存在として信じられたなら、それで十分なんじゃないでしょうか。
 関係ないですが、一週間くらい前にアンチョビは頭悪いから大学進学できなさそうでかわいそうだなあ、という話を他人にしたらその人から、まあ意外と勉強はできそうだし、第一戦車推薦があるだろうから進学するくらいは大丈夫だろう的なことで説得されました。よかったなあ、アンチョビ。

『アーロと少年』(ピーター・ソーン監督、ピクサー

 建築や耕作といった文明生活を営む恐竜たちの世界で、自分のミスで父を失った少年恐竜が、野蛮な「動物」である人間の子供と出会うロード・ムーヴィ。

 巷では「ついにピクサーが駄作を作った」と騒がれていたようですが、本当にこの作品を観て言っているようならその目ン玉の方がクソでできているのでしょう。たしかにピクサー作品としては、ストーリーの力強さに欠けるのは否めませんが、そのぶん表現にポイントを振っています。テクスチャのリアルさと官能は『ファインディング・ドリー』までを含めたピクサー史上最高クラスでしょう。
 古き良き西部劇へのリスペクトにあふれた雄大な自然美です。
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コウノトリ大作戦!』(ニコラス・ストーラー&ダグ・スウィートランド監督、ワーナー・ブロス・アニメーション)

 かつて世界中に赤ちゃんを配達していたコウノトリたち。現在では赤ちゃんの配送をやめ、普通の宅配会社として営業している。しかしある男の子のねがいによって産まれてしまった赤ちゃんが、大騒動をひきおこす。

 配給会社としてはともかく、制作会社としては『レゴ・ムービー』によって一躍アメリカ・アニメ映画戦国時代に版図を築き上げたWAGですが、この『コウノトリ大作戦!』で『レゴ』の成功がフロックでなかったことを見事証明しました。
 この作品も『ペット』的なスラップスティックギャグ寄りのカラーなわけですが、やはり「第二のピクサー」への野心が捨てきれないのか、とってつけたような人情ドラマも展開されます。とってつけたような、といってもそこは2016年のとってつけですから、そこそこバランスがとれていて、物語的にも強度がある。だからフツーに観られるし、フツーに感動できる。
 ですが、この作品はなんといってもギャグでしょう。オオカミたちの集団メタモルフォーゼ芸や、ペンギンたちとのサイレント格闘シーンは出色の切れ味で、瞬間最大風速的には本年度最高のギャグアニメ映画といってもよいかもしれません。

 WAGはこの調子でどんどんオリジナル企画を出していけばいいと思います。が、次の四年で制作予定だという『レゴ・ムービー』の続編を含めた五本、どれもレゴだったりスクゥードゥービーだったりと既存のIPの使い回しになるっぽい。五本のうち唯一オリジナル企画はイエティを題材にした『smallfoot』のみ。
 ヴァラエティ誌の報道を読むと、原案は『怪盗グルーの月泥棒』でストーリーを担当したセルジオ・パブロス、脚本は『フィリップ、君を愛している!』や『フォーカス』といった実写方面で活躍するジョン・レクーアとグレン・フィカーラのコンビ、監督はディズニー出身で『クルードさんちのはじめての冒険』(ドリームワークス)で作監を務めたライアン・オルリン。ずいぶん寄せ集め感の強い面子ですが、むしろ新進の気概をこそ買うべきでしょうか。

『レッド・タートル ある島の物語』(マイケル・デュドク・ドゥ・ヴィット監督、プリマ・リネア・プロダクションズ)

 無人島に一人取り残された男が、たまたま見かけた赤い亀をひっくりかえして殺したら、なんか美人の嫁ができてかわいい子供にも恵まれました、というお話。ほんとうにそういう話。

 今年のアカデミー賞長編アニメーション部門ノミネート最有力作品です。全編がサイレント。アート映画ですね。抜けるような南洋の空と清澄な海、たおやかな木々、そして亀たちといった自然の空気感がスクリーンを通して強烈ににおってくる。そうした自然は美麗であると同時に脅威でもあって、ある瞬間に猛然と襲い掛かってきたり、かとおもえば気まぐれに恵みを与えてくれたりもします。一種のサバイバル物語といえばそうなんですが、多数の漂流もの映画とおなじく、人生が濃密に凝縮された寓話でもあります。
 他のサバイバルものと一線を画しているのは、後半からの展開でしょう。孤独に生きのびるだけだと思われていた主人公に、たまさかのプレゼントが贈られます。そこからは、もう、本当に人生ですね。
 鈴木敏夫がプロデューサーとして、高畑勲がアーティスティック・プロデューサーとして関わっている、といえば(それが日本向けプロモーションの一環とはいえ)ある程度の傾向は事前に予想できるのではないでしょうか。

カンフー・パンダ3』(ジェニファー・ユウ監督、ドリームワークス)

 ウーグウェイ導師のライバルであったカイが「魂の国」(死後の世界的な場所)から蘇った。力を渇望する彼は中国全土のマスターたちの能力を奪い、ウーグウェイに対する復讐のためにポーたちを襲う。一方、ポーのもとに自分の父親を名乗るパンダが現れて……。

 『2』で主人公ポーのアイデンティティ問題を解決したのでもうそういうのはやんないのかなー、と思ってたけど、よく考えたら過去の問題が全部明らかになっていたわけではありませんでしたね。
 今回は親子テーマ。どっちかというと親寄りの描写が多いですね。ポーの前に実の父親が現れるんですが、育ての親であるラーメン屋の鳥がポーを取られるんじゃないかとやきもきしたり、逆に生みの親のほうが距離のとり方に失敗したり。子どもであるポー自身については板挟み的な状況にあまり思い悩んだりはしません。
 生みの父親と育ての親が直接対話するシーンは白眉ですね。
 親も一個の人間だから間違ったりもするんだよ、と濱口竜介の『ハッピーアワー』と似たようなセリフも出てきますが、『ハッピーアワー』が人間を突き放すためのセリフであったのに対して、『3』はむしろ親である人々に対するいたわりというか、おもいやりから出ています。
 ここまで親向けに振って大丈夫かな、と心配してしまうほどのバランス。

 子どもたちにはおなじみカンフー描写でサービスします。
 今回はスケールといいカメラワークといい、ちょっとドラゴンボールっぽくすらありますね。これはこれでいい。

『マイ・リトル・ポニー:エクエストリア・ガールズ - フレンドシップ・ゲーム』(アイシ・ルーデル監督、DHX&ハズブロ

 人気テレビシリーズ映画版第三弾。今度は運動会でフレンドシップ・イズ・マジック。

 おまえらには一生わからないだろうし、こっちもわかってもらおうとは思わない。
 あと Netflix は神。

『父を探して』(アレ・アブレウ監督)

 昨年度のアカデミー賞ノミネート作品。ブラジルの作品ですね。抽象的でカラフルなタッチのアートアニメ。

父を探して

父を探して

 きちんと観ればとてもすばらしい作品だと思います。きちんと観られれば。
 不幸なことに、私は上映時間の半分くらい寝てしまっていたので。

『預言者』(ロジャー・アレーズ監督、ヴェンタナローザ他)

 レバノン人作家ジブランの大ベストセラーのアニメ映画化。父親を失って唖になってしまった少女、アルミトラと政治犯として軟禁状態にある詩人ムスタファとの交流、そしてムスタファの含蓄ある幻想詩世界を描く。

預言者 [DVD]

預言者 [DVD]

 いちおう長編アニメではあるのですが、詩人ムスタファが折々で詩を紡ぐと、アラーズとは別の監督によるファンタジックなシークエンスがはじまり、美しい言葉に乗せて蠱惑的な映像詩が展開されます。
 どのパートもすばらしいのですが、やはりベストは『ソング・オブ・ザ・シー』のトム・ムーア担当パート。愛についての詩に沿って、グラフィカルに完成された短篇が流れます。
 監督のロジャー・アレーズは、90年代にディズニー第二次黄金期を支えたレジェンド。『ライオンキング』を共同監督したロブ・ミンコフも最近ドリームワークスで『天才ピーボ博士』という良質の作品を残しましたね。

きんいろモザイク Pretty Days!』(天衝監督、Studio五組

 あらすじ:綾ちゃんがしのに愛されようとがんばる!

きんいろモザイク (1) (まんがタイムKRコミックス)

きんいろモザイク (1) (まんがタイムKRコミックス)

 宗教映画の傑作。
 なぜ俺は神から愛されないのかと悩むカルト宗教の信者の寓話。さも悩みを解消するために端緒になりそうな感じで思い出される過去のエピソードが、結局悩みの原因が発生するより前の出来事なため、思い出したところで何も慰めにもならないという脚本上の欠陥を抱えるものの、物語的にも観客的にも問題とされないためオッケーみたいな。
 神の愛は一方的で気まぐれだが、信者は気持ちの持ちようでポジティブに生きられる。そういうお話。まあ現代のヨブ記みたいなもんです。ヨブは途中でキレるけど。
 今年はこれと『フリップフラッパーズ』で鬼才、綾奈ゆにこ先生を知りました。いまさらでしょうが。

名探偵コナン 純黒の悪夢』(静野孔文監督、TMS)

 もちろんコナンが事件を解決しようとがんばる。

 人間記憶装置に対するなんだその雑な条件付けは、だとか、いくらなんでも黒の組織潜入に捜査官いすぎだろ、ほとんど潜入捜査官じゃん、だとか、ウォッカとジンがドイツで黒の組織に潜入したスパイを処理したあと「日本に飛ぶぞ」と言うシーンで、こいつら、この服装のまま飛行機乗るんだろうなあ、と想像したりだとか。
 あと、そうですね潜入捜査官の一人がカナダのタワーで観光ガイドみたいなことやってたんだけど、黒の組織にしろカナダの諜報機関にしろ、そんなところで仕事させて何を期待していたのか……。あと裏切り者とはいえガイドツアーの真っ最中に殺すなんてめんどくさいことしなくても……。
 だとか。
 随所にしこまれたおかしみを味わうだけで時間があっという間にすぎていく、優良なコメディであります。

 次作は『福家警部補』シリーズの大倉崇裕先生が脚本を担当されるそうで、まじめに期待してます。

『アングリーバード』(クリス・ケイティス&ファーガル・レイリー監督、ロヴィオ・アニメーション&ソニー・ピクチャーズ・イメージワークス

 怒りっぽい鳥が島を侵略してきたブタどもに対して怒りを爆発させる。

 移民問題の露骨な寓話(原作であるスマホゲームからまんま持ってきた)なのはともかくとして、全体的にダルい。とはいえ、クライマックスであるアングリーバーズ発射シーンは『この世界の片隅に』ほどではないにしろ破壊のスペクタクルに満ちていた。

バットマンキリング・ジョーク

 名作アメコミの映画化。あいかわらずひどいことをするジョーカーを、バットマンがしばこうとがんばる。

 原作の性差別的な部分を糊塗しようとして前より性差別的になってしまう悲劇。そこをのぞけば、そこそこ原作に忠実な映画化。

番外編:実写+アニメ系映画

パディントン』(ポール・キング監督):クマがいいですね。
ジャングル・ブック』(ジョン・ファヴロー監督):クマがいいですね。
『ピートと秘密の友達』(デイヴィッド・ロウリー監督):クマもいいけど、ワンコみたいなドラゴンもね。

*1:私は泣きませんでしたが

*2:その前の『怪盗グルーのミニオン危機一髪』から好きといえば好きだったのですが

*3:前作に参加していたレベッカ・シュガー(『スティーヴン・ユニヴァース』)は残念ながら今回未参加

*4:もちろん作業はほとんどこんぴーたーでやってるわけですが