名馬であれば馬のうち

読書、映画、ゲーム、その他。


読書、映画、その他。


プレイヤーの破滅を目的とするゲームについて―『Balatro』の感想



「塗辺くん」ふいに、真兎が言った。「もしかしてだけど、カードは――」
「「こことは別の場所にある?」」
絵空も声をそろえ、まったく同じ質問をした。


青崎有吾「フォールーム・ポーカー」


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インターネットは今日も平和

 インターネットは行き場のない叫びの行き場であり、神なきひとびとのための教会であり、どんなにみじめな嘆きもここではゆるされる。
 わたしはその夜、Reddit を覗きに行っていた。Reddit とはアメリカ最大の掲示板サイトで、いまどき掲示板なんて流行らないだろうと日本ではおもわれそうだが、なかなかな盛況ぶりを見せていて、2020年代に入ってもゲームストップ株をめぐる大騒動の震源地になったり*1、株式市場では本年度最大規模のIPOが見込まれていたりする*2
 魂が死んでいるときに寄るぶんには、よい場所だ。
 そして、こんなスレが視界に飛び込んできた。

https://www.reddit.com/r/truegaming/comments/1baj1nw/when_does_addictive_gameplay_become_a_bad_thing/

 スレッドのタイトルは「中毒的なゲームプレイはいつ害悪へと変わるのか? 『Balatro』の事例」。

 スレ主は、『Balatro』というゲームにいたく熱中していた。よくデザインされた、実にたのしいゲームである。それを数日のあいだに20時間ほどぶっつづけで遊んだあと、スレ主はきゅうにある恐怖に襲われるようになった。「自分はこのゲームで何を得られているんだろうか?」
 これは20年来のゲーマーであるスレ主が他のゲームを遊んでいるときには抱かなかった恐怖だった。Balatro はあきらかにプレイヤーを中毒にさせるようにデザインされている。実際、ゲームサイトや steam のユーザーレビュー欄には中毒に陥っていることを訴えるプレイヤーたちの(なかば冗談めいた)書き込みがあふれている。
 スレ主はこうした Balatro の中毒性を危惧した。ゲームはそもそも実際的な効用を伴わないものであるけれども、それでも良いアートであることはできるし、スレ主もそうしたゲームを期待する。Balatro のような、快楽中枢をひたすら叩き続けるようなゲームはたしかに楽しく魅力的であるけれども、どこか倫理に反しているような気がする。すくなくとも、子どもたちにはやらせたくない*3――。

 あらゆる問題提起がそうであるように、スレ主の感想に対しては賛否両論がわいた。「典型的な中年の危機だね。私のゲーム仲間たちも30代後半になると、多くがゲームに時間を費やすことに耐えられなくなって離れていったよ」「Dotaを1000時間プレイしたが、『NieR: Automata』や『Spec ops』をプレイした数時間のほうがよほど有意義に感じた」「Balatro は良心的だよ。買い切りゲームなんだから。デイリーやガチャのあるソシャゲやマイクロトランザクションのあるゲームのほうが凶悪だ」……。

 傍から見れば、スレ主は一見矛盾したことに悩んでいるように見えるだろう。ゲームで遊ぶことが一般的な意味での生産性につながらないことはわかりきっている(だからこその遊びなのだ)。なのに、この人物は「見返り」を得られないことに悩んでいる。あるいは、ゲームの「見返り」が”芸術”的な有意義さであるのならば、物語性の高いゲーム(RPGとかアドベンチャーとか)や習熟に時間を要するゲーム(ソウルライクやプラットフォーマー)をやればいいだけであり、それでも足りなければそもそもゲームなどやめたほうがよい。部屋を出ろ。本物の人生を生きるんだ。
 
 だが。

 わたしにはスレ主の気持ちが痛いほどよくわかった。
 なぜなら、わたしも Reddit へアクセスする数分前に自分のPCから Balatro をアンイストールしたばかりだったからだ。

金銭抜きの純粋なギャンブル的中毒性



子曰、飽食終日、無所用心、何矣哉、不有博奕者乎、爲之猶賢乎已。
(先生がいわれた、「一日じゅう腹いっぱいに食べるだけで、何事にも心を働かせない、困ったことだね。さいころ遊びや碁・将棋*4というのがあるだろう。〔あんな遊びでも〕それをするのは何もしないよりはまだましだ。」)


論語』、金谷治・訳注、岩波文庫


Balatro はポーカーをベースにしたローグライトだ。公式には「ポーカーローグライク」と謳われている。ディーラーや他のプレイヤーを相手にするのではなく、その場にいるのはプレイヤーひとり。配られる手札を入れ替えたり入れ替えなかったりしながら役を揃えてスコアを得、一つのラウンドを突破するのに必要な目標点数を稼いでいく。ビデオポーカーからベット要素を差っ引いたものだ。
もちろん、カネもかかってないのに一人ポーカーするだけではおもしろくない。そこで Balatro は倍率に魔法をかけた。詳しいメカニクスは省くが(そんなに複雑でもないけれど)、手役の倍率は一ゲーム中で増加していく*5。ラウンドの合間にローグライトではおなじみのショップがあって、そこで手役やカードを強化して倍率を増やすことができる。

(Balatro のジョーカーのひとつ)

最も重要になってくるのが「ジョーカー」と呼ばれるカードだ。これは普通のポーカーと違ってワイルドカードとしてではなく、100種以上のジョーカーそれぞれに固有の特殊能力が付与されている。主には倍率を増やしたり、ショップで使える資金を増やせたりといった具合。
ジョーカーはゲーム外でスタックされ(基本五枚まで)、ワンハンドごとにその効果を発揮する。さらにジョーカー同士のシナジーが発揮されると、倍率はどんどん跳ね上がっていく。たとえば、最初ワンペアはだいたい最大でも60点ほどしかもらえないのだが、デッキ構築の手練次第で一撃で数万点は出せるようになったりする*6。これが気持ちいい。得点がカウントされるときの小気味よい演出もあいまって、脳から汁が出まくる。
先行作品をよく研究しながらデザインされたようで、プレイの流れも非常に洗練されている。まあ、そのへんの詳しいこと、具体的なゲームについてはググればいくらでも記事が出てくるので、そちらを参照していただきたい。あるいは実際に Balatro を買って遊ぶのもよいだろう。
いや、「よいだろう」ではない。

よくないのだ。

ぜんぜん、よくない。

わたしはあまり正直でもなければ、さほど道徳的な人間でもない。
しかし、だからといって、わざわざ自分のブログにアクセスしてなんだかよくわからない曖昧な文章を読んでくれる人間を地獄の釜の底に送り出すような真似はしたくない。たまにそういうことがしたくなる夜もありはするが、すくなくとも、今日ではない。


もちろん、Balatro は違法ではない。
というか、ギャンブルですらない。定価で1700円で支払えば、それ以上の金銭は求められない。正直、今後開発者が儲けを増やせるのかどうか、心配になるほどだ。DLCを売るにしても、ポーカーというゲームの拡張性のなさ、Balatro 自体の完成度の高さを見ると、何をDLCにすればいいのか。キャラグッズを展開するにしても、Balatro に出てくるキャラといえば、ジョーカーの大半に描かれた、どこか不吉さを漂わせる奇妙なピエロぐらいだ。
なにかのソーシャルゲームのように半年ごとに最高レアのキャラの引き換え券を5000円で買うように求めてくることもないし、なにかのソーシャルゲームのように盆暮れ正月クリスマスにガチャを回せと圧をかけてくることもない。

にもかかわらず、Balatro のデザインはあらゆる点でギャンブル的だ。あたかもギャンブルから金銭要素を抜いて中毒性だけを残したようですらある。そんなものを作ってどうするんだ、という気もするけれど、現にこうして存在する。

Balatro を語るとき、ひとは「ポーカーとローグライトとの融合」というくくりで、どうにかして「ゲーム」の範疇に引き入れようとする。実際、ローグライトとして取捨選択を的確に行ったデザインがなければ、Balatro の中毒性はありえなかっただろう。

それでもやはり、Balatro はそのデザインにおいてギャンブル的なのだ。カネも賭けられていないのに、そんなことが有り得るのか? 有り得る。それこそ、まさに Balatro が証明した達成なのだから。

Balatro におけるギャンブルのデザイン



「マシンに向かえばすべてを消去できる--自分自身だって消去できます」と言ったのは、ランダルという名のエレクトロニクス技術者だった。ギャンブルとは“ただで手に入るもの”を欲しがることだという一般的な考えとはうらはらに、彼は“無”こそを求めているという。先にモリーも言っていたように、だいじなのは、「ほかのいっさいがどうでもよくなる」〈ゾーン〉にいつづけることなのだ。


『デザインされたギャンブル依存症』ナターシャ・ダウ・シュール 、日暮雅通・訳、青土社



 建物からマシンまで、現代のカジノがいかに客を搾り取るように設計されているかについて刻銘に分析するノンフィクション本、『デザインされたギャンブル依存症』では、〈ゾーン〉を目指すギャンブラーたちの姿が描かれている。〈ゾーン〉とはかれらにいわせれば「台風の目に入ったような状態」のことで、「視界がクリアなのに、まわりでは世界がぐるぐる回っていて、何も耳に入らない。そこにはいない--マシンのそばにいて、マシンだけを相手にしている」ような感覚になるのだという。
 そうした境地において、ギャンブル行為はもはや勝つことを目的としない。続けることこそを目的とするようになる。
 重要なのは、速度だ。
 デジタル化されたスロットマシンとビデオポーカーは、プレイの速度を極限まで圧縮した。ディーラーや他のプレイヤーといった他者の存在を廃し、レバーやトランプカードをボタンに置き換え、チップをのやりとりを仮想空間上ですばやく行うようにした。プレイヤーが注意をはらうべき事象は劇的に減った。賭け、試し、結果を見る。そのプロセスを一定のテンポで繰り返していくうちにいつしかプレイヤーは〈ゾーン〉に入っていく。
 適切な速度を保つために、マシン上で表示される色、照明、アニメーション*7サウンド、空間の5つの要素が渾然となってプレイヤーの腹側被蓋野ニューロンを叩き続け、プレイヤーをスキナーボックス――脳に電極を埋め込まれたマウスが快楽を生じさせる電気刺激を求め、電気ショックのレバーを一時間に7000回も引いた箱――に閉じ込める。

(ラスベガスのビデオポーカー)

 もちろん、Balatro でも刺激が適切に配置されている。倍率がカウントされるたびにキン、キン、キンとリズミカルに鳴る金属音。ワンハンドで目標点数を突破したときに燃え上がる倍率ゲージ。跳ね上がっていく点数。カードを強化するパックを破るときの派手なエフェクト。メロウで起伏のない単調なBGM*8
 慣れたプレイヤーならオプションでゲーム速度を4倍速に変えるだろう。ラスベガスのビデオポーカーマシンが同時並行で三種から百種の手札をプレイできるようにしてスピードを何十倍にも増したように。〈ゾーン〉中毒者たちがたびたび速度に引きずられて判断ミスを犯すのとおなじように、最大速度で Balatro を遊ぶプレイヤーたちもミスでホールドするカードを間違えたり提出するハンドを勘違いしたり(フラッシュと思って出した手札に一枚だけ違うスートが混じっていたり)する。
 トランプや残り山札を前にして逡巡することはなくなり、あらゆる決断が半自動的に行われるようになる。思考も意識も勝ちも負けも等質にゲームの流れへ溶けこむ。勝ち負けがそんなに重要なことだろうか? 長期的に見れば、ギャンブルのプレイヤーはみな敗北を運命づけられている。エンドレスに続くタイプのビデオゲームもそうだ。『テトリス』のテトリミノはあなたを殺すまで加速しつづける。どんどん速く、速くなり。
 そうして、わたしたちは一日が二十四時間である〈ここ〉とは別の時間が流れる世界へと足を踏みいれる。〈ゾーン〉だ。*9
 自分という存在がゼロになる空間。
 そこが最終目的地だ。わたしはできるだけ、そこに留まりたい。
 しかし、無理だ。そこかで何かが狂う。適切なペースを保てなくなり、〈ゾーン〉に裂け目が生じてしまう。その裂け目から光が覗いている。気づく。朝だ。
 夜九時に Balatro を始めて、気がつけば、朝の五時になっている。
 わたしはさっき、うそをついた。このゲームは「ビデオポーカーからベット要素を差っ引いたものだ」と。とんでもない。
 賭けられているものは確実に存在する。時間だ。そして、まるごとかっぱがれてしまった。現実のギャンブルがそうであるように、だ。ボードレールが言うとおり、貪欲な賭博者である時間はいかさまなどに頼らずとも、あらゆる勝負を物にする。
 Balatro は狂っている。カジノならまだプレイヤーを中毒にする理由がある。金を無限に吸い取るためだ。繰り返しになるが、Balatro には、1700円を払ったっきりでおしまいなこのささやかなゲームには、わたしを底なし沼に突き落とす動機がない。完全な無差別な狂気以外に説明がつかない。純粋なる持続"のみ"を目的とした大量殺人鬼だ。そういえば、マスコットのピエロもなんとなく人を殺して笑っていそうな面構えをしている。

 怖いな、と感じてしまう。

 このゲームは、怖い。
 人生を無益な時間に費やしてしまった焦燥でも、実在のギャンブルをベースにした「非芸術的な」ゲームに淫してしまった罪悪感でもない。ピエロに対して恐怖症を抱いているからでもない。このゲームは、わたしが欲しいもの、ずっと心の底で欲しがっていたのに欲しいと口に出した瞬間に破滅してしまうなにかを知っている。
 だから、怖い。

ゲームには向かない人間



 何度でも初めからやり直すこと――これが賭博の理念の規定しているものである。だから、ボードレールにおいて秒針――〈秒〉――ーが賭博者のパートナーとして登場することには、厳密な意味がある。


 ヴァルター・ベンヤミンボードレールにおけるいくつかのモティーフについて」山口裕之・訳、河出文庫



 ギャンブルはゲームではない。
 ほんとうにそうか? ギャンブリング・マシンの業界人は自分たちの機械のことを「ビデオゲーム」と呼ぶし、内部のシステムを考えるデザイナーは「ゲームデザイナー」と呼ばれる。
 そして、一般的な意味でのビデオゲームの側もギャンブルの技術を使う。

 最近の代表例は、Vampire Survivors だろう。
 スロットなどを扱うオンラインカジノでキャリアを始めた*10開発者の Luca Galante はそこで培ったノウハウを自作のゲームに持ち込んだ。The Verge誌のインタビューでガランテはこう語っている。



「スロットゲームはとてもシンプルです」と彼(ガランテ)は言う。「プレイヤーのやることはボタンを一つ押すことだけです。そして、ゲームデザイナーはそのボタンを押す(press)ようにプレイヤーの背中を押す(Push)方法を探し出さねばなりません。ボタンを押すたびにプレイヤーはお金を使うわけですからね。なので、サウンドやアニメーション、シーケンスの細部にまで細心の注意が払われます。基本的に、(デザイナーは)それらの要素がプレイヤーに与えるインパクトを最大限に引き出そうとします。私はギャンブル業界でその知識を吸収しました。だから、そうしたことを自分の作るゲームにあたりまえに適用したんです」


https://www.theverge.com/2022/2/19/22941145/vampire-survivors-early-access-steam-pc-mac-luca-galante



 Vampire Survivors をプレイしたものなら誰でもあの、宝箱を開けるときのパチンコじみた演出を網膜に刻まれていることだろう。そのときの多幸感も。だが、彼がギャンブル業界から輸入してきた手管がそれだけないことも知っているはずだ。なんといっても、Vampire Survivors はそのタイトル通り「生き延び”続ける”」ことを目的とするゲームであり、プレイヤーもそうするために何度も挑戦したくなるデザインになっている。

Vampire Survivors

 ギャンブルといえば、ピンボールはかつてアメリカ全土で禁止されていた。実際に金が賭けられ、ランダム性も高かったために、ギャンブルだとみなされていたのである*11。一九七六年、娯楽業界からニューヨークの市議会へピンボール解禁の嘆願が出され、それを受けて当時のニューヨーク市長の前でピンボールの達人、ロジャー・シャープがピンボールを実演することになった。彼は数々のショットやテクニックを市長と関係者の前で実演して見せて、ピンボールを「チャンス(運、偶然)ではなくスキル(技)に基づくゲームである」*12ことを実証した。*13
 スキルと運のバランスはゲームの競技性を測る指標でもある。eスポーツの大会に採用するタイトルならそこのあたりに厳密に気を配る必要があるだろう。だが、われわれが日常でなんとなく愉しむのであれば? パチンコにだってテクニックはあり、なんとなれば麻雀は究極のローグライトだ。
 偶然(アレア)と競争(アゴン)の交わるところでは、あらゆる遊びがゲームとギャンブルの境界線上にある。その重なる部分には共通した快楽が宿り、プレイヤーの心や脳の適切な部分を叩けばフローと〈ゾーン〉を生み出せる点ではさして変わらない。*14


 なにが言いたいのかって?


 結局のところ、Balatro をギャンブルにしているのは Balatro そのものではない、ということだ。
 わたし自身の技術的向上心のなさが Balatro を呪いをかけているのだ。
 Balatro にもプレイヤースキルの介入する余地はある。大いにある。経験でわかること(ジャック同士のシナジーやパックを買う優先順位や状況に応じた立ち回り)が増えていき、攻略していくことの喜びが用意されている。
 スキルフルなプレイヤーなら随所に散りばめられた有益なヒントを読み取っていけることだろう。残りの山札の内訳をワンクリックで覗かせて、現実のポーカーでは禁止されているカウンティング行為をゆるしてくれるし、現状のデッキ構成が苦しければ一試合スキップして立て直しの機会を与えてくれる。立ち止まって思考し、計算することができるプレイヤーは勇気という名のチップをベッドした本物の賭けを行える。それこそが Balatro の望むゲームのありかただろう。
 でも、わたしはそうはできない。プレイヤーとしてのわたしは単純な反復を好む。どんなゲームであれ、挑戦や新しい戦術の試行にはつい、腰がひけてしまう。ノータイムで捨て札を選択し、ひと呼吸のあいだにわかりやすく高得点なハンドを選び(そしてミスる)、常に似たようなジョーカーと戦略を選び、そして前とおなじように6番目か7番目のアンティで崩壊する。このスキナー箱は7000回の確実な破滅をもたらしてくれる。持続する終わりの感覚。
 わたしはソシャゲのシナリオをスキップしてガチャを回すだけのゲームにしてきたし、ローグライトゲームをひたすらパーマネントレベルアップ要素を貯めるための無の周回を繰り返すゲームにしてしてきた。麻雀とはひたすら自分の手牌に注視し絵合わせをするゲームであり、SEKIROは門番に無限回殺されて終わるゲームだ。
 ゲームにおけるわたしの学習曲線はいつも死人の心電図のように真っ平らだ。
 こんな態度で Balatro を走りつづけるのはゲームに対しても失礼だろう。やめるべきだ。やめろ。やめた。アンイストールした。Balatro をライブラリから削除したぞッ!
 今後はもっと健全な人生を生きよう。
 自己を研鑽し、子どもを育て、イヌを飼い、毎朝の庭の芝刈りをかかさず、ご近所とはさわやかな笑顔で挨拶を交わし、週末にはバーベキューをやる。SEKIROにもちゃんと再挑戦して、芦名なんたらをどうにかする。Elden Ring のDLCが出るまでにどうにかする。自分を高めろ。上昇しろ。無になるな。
 ソシャゲのシナリオもちゃんと読もう。エデン条約編で涙できる大人になろう。
 おっ、そういえば、最近始めた Limbus Company のログボを今日はまだもらってなかったな……Steamを立ち上げねば……
 

>

ア、アンイストールしたはずのおまえがなぜ……??
< 

た、たすけっ……
〜完〜

 

 

 

*1:https://ja.wikipedia.org/wiki/GameStopのショートスクイズ

*2:https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2024-03-11/SA6R66T0AFB400

*3:ちなみに Balatro は実際に Switch で年齢レーティングの不備を理由に一時的に販売を禁じられた。https://www.gamespark.jp/article/2024/03/04/139015.html

*4:博がすごろくのような遊びで、奕が囲碁

*5:稀に減ることもある

*6:ゲームのデザインとしてはデッキ構築型というよりは、Wingspan のようなエンジン構築型と形容したほうが適切な気もするのだが、公式にはデッキ構築ローグライクと称されている。

*7:「一九九〇年後半に考案された(ダイナミックプレイ・レート)は、ユーザーがゲームプレイのペースをコントロールできるようにした革新のひとつだ。これはビデオ・ポーカー機(ファントム・ベル)に搭載された機能で、メインのプレイ画面の上にある補助画面に、カードディーラーの手のアニメーションだけが映る。ディーラーの手は、プレイヤーのペースに合わせてゲームを進めていく。つまり、動きが遅いプレイヤーにはゆっくりカードを出し、動きの速いプレイヤーには素早い手さばきで対応し、最も速いプレイヤーのときにはディーラーの手自体がえてしまうのだ。」。ゲームの速度調整がプレイヤーとゲームのあいだにコミュニケーションを生む」同書より

*8:リズムに変化のないスローな曲は、消費者の行動を調整しやすく、〈機能的音楽〉とも業界では呼ばれる。こうしたものもゾーンを維持する助けになる。

*9:「〈マシン・ゾーン〉における時間は、クロノス的時間ードゥルーズガタリの言う“物と人の位置を定め、形をつくり、主体を決定する“標準時間”ーから逸脱して、“イベントの無期限の時間”に従う。それは“相対的な速さと緩慢さ”によって測られ、ほかのモードにおける時間が前提とする“時計や時系列の価値から独立した”時間だ。ミハイ・チクセントミハイも同様に、〈フロー〉活動の時間は自身の体験に“適応する”のであって、その逆ではないと考えた。」同書, 位置No4761

*10:https://www.youtube.com/watch?v=XQVdR8mJrds

*11:https://en.wikipedia.org/wiki/Pinball

*12:吉田寛デジタルゲーム研究』第六章より。ギャンブルとゲームの境界を探った論文のひとつでもある。

*13:そういえば、balatroの作者が影響を受けたと公言している(プレイ動画を観ただけらしいのだが)『幸運の大家様』も実際のスロットと同じ発展の過程を辿るゲームだ。図柄を増やしていくのだ。

*14:『Palworld』なんかこのへんがよく出来てましたね。

お犬さまが見てる--映画『落下の解剖学』について

(本記事は映画『落下の解剖学』のネタバレを含みます)*1

 


www.youtube.com


ときどき奇妙なカットが挟まりますね。

 

「母親の裁判をもっと見たい」と裁判官に翌日の傍聴を訴える少年を左下から見上げてみたり、自宅近くの小高い丘から現場検証を見下ろす主人公の視点でズームしてみたり、終盤の中華料理屋でそれまで店内に据えられていたカメラが突然ワンカットだけガラス越しに人物を映したり。

 

 

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有名作家である女性、その夫が不審死を遂げ、殺害容疑が作家にかかる、果たして真相は? といった、ひとやまいくらのRASHOMONスタイルのプロットは、さして重要でもないといえるし、同時に大変重要であるともいえます。

たしかにその物語のためにある語りの仕方ではあるからです。

 

『落下の解剖学』は、謎に対してさまざまな角度から視線を浴びせる映画です。

謎はもちろん人間の数だけある。夫の死はジャンル的な意味でもミステリーであり、主人公は犯人なのかそうでないのか判然とせず、主人公の息子が実際になにを目撃したのかは観客には秘されていて、弁護士が心の底から主人公の無実を信じているのかどうかは不明です。

わたしたちは人間というブラックボックスを、外から観察してジャッジすることしかできない。

本作ではその多様な観察の方法を提示します。その手数が『落下の解剖学』のユニークさなのだといってしまってもいい。

 

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見ること、聞くこと、読むこと、すべてが総動員された映画ですが、とりあえずは見ることです。映像。あるいは画像。

 

オープニングクレジットでは数葉の写真が映ります。主人公家族のポートレイトで、どの写真も幸福そうです。

しかし、写真というのは瞬間を凍結させて切り取るメディアであり、結局長期的には機能不全を起こしている主人公家族を正しく表せなかったともいえるし、逆に、いや、一瞬であればこんなに美しい瞬間もあったのだと振り返られることもできる。実際映画の後半では、そのような使われかたもされていますね。

事件が起こってからは、「真相」を映すべくさまざまなタイプの映像が出てくる。どれもはっきり画面の質感が異なります。それはそれぞれのカメラのレンズがなにを欲望しているかの違いでもある。

報道のテレビカメラは主人公をだれにとっても他人にします。

いちおう中立的ではある。しかし、その中立性は「どちらに転んでもおもしろい」といった野次馬根性的なものでもあります。有名作家のゴシップですからね。

 

一方で、検察側はCGで作った棒人間的なアニメーション(日本でも報道番組でよく見るやつ)で犯行のプロセスを再現しようとします。

その非人間的な映像は非人間的なつめたさを帯びているが故に論理的な事実を提示しているかのような印象もある。たしかにこのような手順を踏まないと、あんな不自然な血痕の付着のしかたはしない。そうだ、検察はただしい。そのように印象づけられます。

 

そう、法廷劇というフィクションにおいて裁判とは印象をいかに操作するかというゲームなのです。

弁護士も主人公にホームビデオの前で証言のリハーサルをさせます。それも事実を洗うためではなく、印象を検証するためです。事件当時、なにをやっていたのか、言葉の上で再演させる。

 

現場検証も一種の再演です。しかしそこには主人公の息子という不確定の要素があって、証言がたびたびブレる。彼は事故で後天的に視神経に障害をおってしまって、眼がほとんど見えないわけです。

しかし、彼は見ないわけではない。法廷で密かに録音されていた事件前日の夫婦喧嘩のシーンで彼は実際に居合わせなかった現場を幻視しますし、終盤には生前の父の言葉を回想します*2

 

もうひとつ、彼は眼を持っています。

イヌです。

父親の遺体を発見するときに少年はボーダーコリーを連れているわけですが、それから警察が現着してからの騒ぎをカメラはこのイヌの目線の高さで捉えます。このイヌにも「視点」があることを提示しているわけです*3

どの登場人物にも依らず、ただ出来事だけを見つめる眼、それは劇中で唯一中立的な眼でもあります*4

裏を返せば、そのほかのカメラの眼はどこかで印象が偏っている、誰かの視線だということ。

 

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本格的な審理に入る前に弁護士は主人公に警告します。「真相は問題じゃないんだ」と。

他人からどう見えるかが問題であって、そういう意味では本作における司法は真実を希求する場ではない。さまざまな人物の視点を観客に提供する場です。

 

主人公はその視線に耐えられない。

自らの私生活をセンセーショナルにフィクション化して、半自伝作家として名声を博している彼女は言ってみれば、それまで一方的にまなざす側であったわけですが、それが完全に反転する。この人は殺人犯ではないか、この人は夫と不仲ではなかったか、この人はバイセクシャルではないか、この人は淫奔な不倫女ではないか……そういう目が法廷とテレビを通して彼女にそそがれます*5

月並みな言い方が許されるならば、観客もまたそのスキャンダラスな好奇の視線に参加しているのです。

途中で彼女は親密になりつつある弁護士の眼の奥底に潜む考えに怯え、「私をジャッジしないで」と乞います。法廷劇においては、かなり直截的なことばです。まさしくジャッジするのが裁判の場なのですし。

 

しかし、彼女がもっともおそれているのは裁判官の眼でも一般大衆の眼でも、あなたの眼でもありません。息子の眼です。見えないはずの彼の眼に、殺人犯としての自分が映るのをなによりもおそれています。

結局は、無罪か有罪かというよりも、少年がどう事件を捉えるか、というのが重要になってくる話なのですね。

 

 

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本作における眼やカメラが現在しか捉えられない、あるいは写真のように限定的にしか切り取ることのできない一方で、音や声は過去を保存できている、ように見える。

夫婦喧嘩の録音、冒頭のインタビューシーンの録音、主人公の書いた小説の朗読、そうしたものは生々しい即物性を帯びています。

しかし、それらもまた結局のところ、解釈のアングルによって印象が左右されてしまいます。この人はわるい妻だ、いや、悪いのは夫だ、この小説に書かれた文章は本心を反映している、いや、それはフィクションであって現実じゃない……ここでは音や声もまた不完全なメディアなわけです。

それは冒頭のインタビューシーン、主人公の声を記録する作業を夫からのノイズによって邪魔されるというくだりからも示されています。

 

本作における声でもっとも重要なのは、劇中で一度も話されない声です。ドイツ人である主人公の母語*6

ロンドンで出会ったフランス人と結婚してフランスに住む彼女は家庭内では英語でコミュニケーションを取り、裁判でも当初はがんばってフランス語を喋ろうとしますが、途中から英語に切り替えます。

夫との夫婦喧嘩のくだりでは、英語は彼女にとっての「中間地点(字幕では妥協点)」であると表現されます。完全アウェイであるフランス語よりは幾分か親しい位置ですが、それでもやっぱり英語は彼女のホームグラウンドではない。

 

山ほどある羅生門スタイル映画でも本作をユニークにしているところは、ここでしょう。

夫を殺したか殺していないかの真実は彼女だけが知っています。しかし、その真実は他人には不可視の彼女の内奥に隠されたまま、外に曝け出されることはない。彼女のドイツ語の声がそうであるように。*7

 


裁判結審後の中華料理店での打ち上げシーンで不自然にはさまるガラス越しのカットもそういうことなのです。

観客は彼女という存在を一枚隔てた側からしか観察することができない。彼女を怪物扱いする視線も、彼女に寄り添った視線も、彼女をただしく捉えることはない。

 

 

 

いや、ひとつだけ。

 

 


ラストカットを思い出してください。ベッドに眠りにつく彼女に寄り添ったのは誰だったでしょうか? 愛する息子? 庇護者となった弁護士? いや、そのどちらでもない。

 

 

イヌです。

 

 

曇りなく、いかなるジャッジもくださないがゆえに彼女にそばにいることができる眼。*8

 

本作を本年度でも最高のイヌ映画たらしめているのは、そういうところなのですよ。

 

 

 

 

 

 

*1:まあ、あと見たのちょっと前なので記憶違いなとこあるかも

*2:監督自身は「この映画には回想を入れなかった」と述べているにもかかわらず。あるいは私たちはこの発言を踏まえて、少年の"回想"をもう少し真剣に掘り下げるべきかもしれません。https://diceplus.online/feature/378

*3:三白眼が印象的なイヌですね。まさしく眼が剥き出しにされた存在です。

*4:たびたび本作の評で少年の視点や証言こそが無垢の真実と捉えているようなものもありますが、まあ解釈としては微妙なところで、私としては彼にもバイアスはかかっているように思われます

*5:あまり注目されないシーンですが、彼女の世界観と他者の視線がもっとも深刻に対立するのは夫のかかりつけだった精神科医の証言のシーンです。ふたりはどちらも確固たる夫のイメージを持ち、ゆずりません。

*6:mother-tongue

*7:ちなみに本作はフランス語、英語、ドイツ語の映画としてクレジットされていますが、ドイツ語のシーンは元の脚本に書かれているだけで、劇中からは削られているようです。

つまり、演出や編集として意識的にオミットしたことになり、そこにはもちろん意図があります。https://www.reddit.com/r/Oscars/comments/1ai6mut/when_in_anatomy_of_a_fall_was_german_spoken/

*8:それにしても女性がベッドでイヌとよりそっている映画は最近だとアキ・カウリスマキの『枯れ葉』でも見ましたね。

死にたくもないし生きたくもないし歩きたくもない――『信長の野望・出陣』について



数えた足跡など 気づけば数字でしかない


BUMP OF CHICKEN「カルマ」


走る街を見下ろして のんびり雲が泳いでく






 毎日、歩いている。
 そりゃ、歩くだろう、とおもわれるかもしれない。動物なんだから。そこそこ健やかな人間は一生のうちにおよそ一億五千万歩を歩く*1。よほどの事情でもないかぎり、歩かない日はない。歌にも歌われているように、幸せは歩いてはこず、むしろ音速に近いスピードでわれわれの前をかすめて置いてけぼりにしていく。不運な人間としては肩をすくめてとぼとぼと歩いていくしかない。
 しかし、「あなたはほんとうに生きているのか?」と指をさされて問われれば誰もがたじろいで即答しかねるように、「歩いているのか?」という問いには何か単純な動作のあれこれと異なる別な疑問がはらまれている気がする。
 たとえば、幸田文は「歩く」*2というエッセイでこう自問している。



「歩く」とはいったい何だろう。左右の足を代わり代わりに動かして前へ進むことで、なんでもなく始終やっていることだ。でも、歩いたかと云われると、五十年をふりかえって見て、「歩いた」と返辞のできるのは二度しかないようである。あとは、「ような気」ばかりする空しさである。



 こういうほんものの明晰さに通して我が身を省みれば、頭に書いた「毎日、歩いている」という一文がまるでうそっぱちに見えてくる。
 というのもわたしの歩行は、純粋な散策ではなく、卑しい野望に満ちているからだ。
 その野望は信長に突き動かされている。

煩悩 二本足 walk to walk

信長の野望・出陣』(以下『出陣』)はいわゆる位置情報ゲームだ。
「位置情報ゲーム」とは、『ポケモンGO』や『イングレス』ようなたぐいのスマホゲームだといえばわかりやすい。『ポケモンGO』や『イングレス』なんて知らないのでぜんぜんわかりやすくないよ、とおっしゃる向きに関しては社会性がかなりヤバい状態にあると推測される。個別のゲームタイトルについてここでわたしの講釈を聞くよりも、とりあえずまずは外に出て人に話しかけ、情報の格差を均したほうがよい。もしかしたら、自分が1999年からタイムリープしてきた前世紀人である事実が判明するかもしれない。
信長の野望』という戦国時代を舞台にした戦略シミュレーション、つまり織田信長武田信玄といったFGOなどでおなじみの戦国武将たちを操って天下統一を目指す、そういったようなゲームのシリーズがあり、『出陣』はそのひとつというか、まあスピンオフみたいなやつだ。
 そうした出自なので、当然『出陣』も領地を奪る奪られるといったデザインになっている。市町村を更に細切れにした単位の区画を渡り歩き、島津豊久森可成といった暴力武将たちを編成した軍隊を送りこんでノシていく。歩けば歩くだけ領土は広がっていき、なんとなくいい感じのムードになる。
 最初は近所をとりあえずヨンボリ歩きまわり、ゲーム画面上で表示される地図とにらめっこしながら、まだ占領していない区域を求めてさまようことになるだろう。征服の進行度合いは小さいグループから順に市町村→県→地域→全国といった単位でレイヤー分けされており、それぞれの単位ごとに征服の進行度が10%とか20%とかの割合で示される。この町はもう半分制圧したわ。でも、隣のこの市はまだ10%しか占領していないな。ようし、いままで寄ったことのない街だけれど、ちょっと今度でかけてみよう。
 そうやって、地図をちまちま埋めていく。
 そんなゲームである。
 ワクワクするでしょう? するよね?
 プレイヤーの行動原理は当然、「まだ未占領=未知の土地へ行くこと」になり、近所であってもいままで通ったことのない路地を歩き、いままで見たことのない景色に出会う。なんていうと、すてきな旅のように聴こえるけれど、仮にうつくしいなにかに遭遇したところで、自分の眼はスマートフォン画面上を凝視していて、気付かないままに過ぎていく。いや、実際に見たとしても、気にもとめない。それは『出陣』というゲームには関係ない、余計な要素だ。切り捨て御免の思い出である。


カントリーロード この道

『出陣』の空間は、城と野盗と農民と商人と浪人と軍勢と馬でできている。あと、たまに史跡。城とは領地のことで、農民は米、商人はカネの象徴だ。マップ上に点在する民草をタップしてゲーム内通貨となるそれらを回収する。徴税である。年貢である。自分の領土以外でもこれらのキャラは現れるので、そのときに遭遇した場合は略奪ということになるが、奪われるほうからすれば領主であろうがよそもんだろうが同じ理不尽だ。
 なんにせよ、城と野盗と農民と商人と浪人と軍勢と馬の取り合わせは、日本全国どこへ行っても変わらない。わたしたちは九州で民を強請り、東京で民を強請る。暴力は時代や土地が変わってもレートの変動しない世界屈指の安定通貨だ。誰もが喜んでエクスチェンジしてくれる。その営為は津々浦々で変わらないわけで、そのことが『出陣』の体験を、信長とともに歩くことを平らかに均していく。
 それでもあなたが「歩くこと」のできるひとならば、個別の歩行に固有の思い出を築き上げられるのかもしれない。眼を持ったひとはそうこうことが可能だ。ただぶらつくだけでも細部のみずみずしく語る。たとえば、韓国の詩人である李箱は東京で新宿やら銀座やらをぶらついただけでめっぽうおもしろい随筆を書きあげた*3。銀座でモガを発見し、救世軍の社会鍋をひやかし、公衆便所でうんこを垂れる。網膜で蒸発しそうな頼りない細部を留めておけるのは、才能だ。



 眼を持たないわたしの内面の世界は、『出陣』のマップとほぼ一致している。ある調査によると、GPS画面に頼って移動するひとは地図を持って移動するひとに比べ、途中の情景や道順を記憶しにくいそうだ。この調査を紹介したダヴィッド・ル・ブルトンは「GPSは道をルートに変え、道そのものよりも目的地を優先させ、道を解体して単なる味気ない通路に変えてしまう」*4と嘆いた。その道なき通路の世界をわたしは歩いている。
 次の空白から次の空白へと、地図を自分の国の色に塗っていく。19世紀のオクラホマみたいだ。入植者たちは、未割当の(もとはチェロキー族などが住んでいた)土地に早い者勝ちで殺到し、自分たちのものにした。過去を鑑みるならば、移動することは侵略する*5ことでもある。ならば、『出陣』は『信長の野望』シリーズのどの作品よりも、歴史の本質を射抜いている。わたしたちプレイヤーは、スマホ上に平面化された原野を帝国主義者の歩法で歩く。これこそが野望というものだ。

正しく僕を揺らす 正しい君のあの話

 いいわすれたが、わたしは歩くのがきらいだ。
 歩くことに関するエッセイや本などを読むと、たいていは歩くことが大好きな著者が歩くことを無条件で善きこととして肯定し、序文で歩行の快楽を讃える。歩く系のエッセイ本のなかでも最近に出た島田雅彦の『散歩哲学 よく歩き、よく考える (ハヤカワ新書)』でも、「よく歩く者はよく考える。よく考えるものは自由だ。自由は知性の権利だ」といった言い回しでセルフをボーストしていた。
 どうやら、歩くことについて書く人間は歩くことを好む傾向にあるらしい。わたしのようなアンチ歩行派が歩くのめんどい、などと漏らした日には、ネットイナゴたちから「じゃあ一生歩くな」「ホヤに戻れ」「木という木に『龐涓死於此樹之下』って書いてそう」などといった罵倒を浴びるはめになる。
 そうしたトータリスティックな非道に抗うために今日も今日とてみじんも動きたくない*6のだが、そうはいっても人間歩かなければ死んでしまう。肉体的にも社会的にも経済的にも。だからいやいや歩く。歩いているあいだは脳をぼんやりさせて自分が歩いているという不愉快な現実をあまり直視しないようにつとめる(スマホのなかの信長に意識を預けるのは有効なテクニックだ)のだけれど、歩行フェチ派は歩くことをあえて意識することでわたしの神経を逆撫でする。
 意識を凝すると生まれるのが意味だ。かれらは歩くこととは何かについてよく語る。
 たとえば、ルソーにとって歩くことは自由を味わうことだった。アリストテレスと鴉城蒼也にとって歩くことは考えることだった。ボードレールにとっては一種のオブセッションで(歩きすぎて足を壊したほどだ)、チャトウィンには逃避、ベルナール・オリヴィエには「肉体の絶頂」*7、そして、ロバート・ルイス・スティーブンスンに言わせれば「あの素晴らしい酩酊」*8
「歩行とは徳行である」、そういったのはたしかヴェルナー・ヘルツォークだ。彼はこうも言った。「そして観光とは死に値する大罪だ」*9
 彼らは目的のない旅、そぞろ歩く散歩を至上に戴く。指向性のある野心など抱いてはいけない。偶然に身を委ね、進んで迷子になり、未知との交歓に心震わせねばならない。
 常軌を逸している。
 そもそも、二足歩行自体が常軌を逸しているのだ。人間以外に日常的に二足歩行する動物はクマくらいのものだ。そのクマも自分たち以外に二足歩行を許さない人間たちによって射殺された。*10研究者によれば、歩行とは故意に転倒寸前の状態を作り出し、それを制御することで前に進む運動なのだという。どうりで不安定で危険な動作だ。わたしたちはもっと安定的な視線をとるべきだ。仰向けに寝そべるとか。うつ伏せに寝そべるとか。あるいは自分が自分のことを人間だとおもいこんでいるクマだという可能性も否めないのだし、そうだとすると二足歩行で外を出歩くのはますます危険だ。
 それでも歩け、と命じる声が聴こえる。
 命じているのは国だ。
 一日一万歩歩くべきだ、と厚生労働省はいう。精確には、「国民の健康の増進の総合的な推進を図るための基本的な方針」を謳ったガイドライン*11に則ると、一日6000歩〜9000歩*12だ。WHOによれば運動不足は全世界における死亡に対する危険因子として、高血圧、喫煙、高血糖に次いで、 第4位*13であり、万病のもと。高齢化社会にともなって増大していく医療保険費が国庫を圧迫する昨今において、自らを健康に保つのはもはや国民の義務だ。*14国民であるあなたがたが肉体的に病むと、国家もまた財政的に病む。そういうアナロジーがあなたに健全な生を強いる。昔は歩くだけで政府に反抗できた時代もあったというのにね。*15

 あるいはそれは、死ぬために歩け、と命じる権力よりはマシなのかもしれない。軍隊がそうだ。ナポレオンが大陸を制覇できたのもひとえにその驚異的な機動力のためといわれる。羽柴秀吉が信長死後に天下人になったのも、備中や美濃から大返しできたからだ。*16
 わたし自身はといえば、ジョン・ランボー以来のたった一人の軍隊なので、天下を平定をするためには独力をもってしなければいけない。ナポレオンが言ったとされているが実際にはどうか疑わしい箴言のひとつに、「歩くことを望むのなら、孤独をゆかねばねならない」というのがある。であるならば、わたしはひとりでグラン・ダルメの心意気というところだけれども、残念なことに、『ランペルール』(1990年)以来、コーエーナポレオン戦争を題材にしたゲームを出していない。
 しかし、孤独を吸い吐きするのに大陸のさびしさは必要ない。『出陣』に広がるローポリ*17な列島だけで十分だ。クランにも入らず、日本以外*18の外部が存在しない世界で、領土を脅かす敵もおらず、一揆を企む窮民もいない。
 紀行や歩行を描いた大半の文学で、描写の中核をなしているのは実は建物や風景ではない。ひとだ。他者との出会いと交わりが歩行者たちの記憶を呼び覚ます。『出陣』の日本で、新しい誰かに出会いたいのならば、ガチャを回すしかない。毛利元就斎藤道三といった金ピカの大名たちが、金ピカの演出で舞い降りてくる。
 対人戦?
 ああ、あるね。たしかにある。自分で編成した軍団で攻めたり守ったりしながら城を奪い合うやつ。だが、その城はわたしの保有する領地の請求権となんら関係がない。負けても勝っても版図は増減しない。なんの愛憎ももよおさない。いてもいなくてもいい、無個性な他人だ。 
 そしてだからつまり、『出陣』では歩くしかない。漫然と、あいまいに、薄味の、「ような気がする」一歩一歩を積み重ね、歩数を数字に還元し、その数字をガチャ用の札と交換していく。

(湯布院にいた人、今川家でよく見かける人兼今川家でよく見かける人の父親、よく知らん人、センゴク、難癖力ナンバーワン芸人、龍造寺四天王、有名じゃない方の直江、といった超豪華メンバーの排出されるガチャ)


 ゆるやかな歩行のリズムをときどき乱暴に断ち切って立ち止まり、スマホ画面をいじってプレゼントボックスやイベントミッションや確認し、二分の前にわかりかけていたなにか、レスリー・スティーヴンスが「真の歩行者」に宿るとした「静謐で朦朧とした精神の豊かな流れ」*19の芽生えのようなものも完全に忘れ去って、また次の空虚へと移動していく。移動の間の記憶はいまや一切思い出せない。紀行なき彷徨、進軍なき征服。「歩いた」という返辞が不可能な謎めいた運動。
 健康、自由、思索、記憶。歩行に付随するすべてが憎い。なぜだか憎くてしょうがない。それらは左右の足を代わり代わりに動かして前へ進むことで、なんでもなく始終やっているあの運動を、なんの臆面もなく晴れがましく「歩いた」と断言できるあなたがたのものだからだ。よちよち歩きを初めた昔から、わたしの歩行とは無縁なものだ。わたしの一億五千万歩の足跡はすべて洗い流されて、なにひとつ思い出せない。書くべき記憶がない。なにもない。
 だから、頼む、弾正忠信長。
 おまえの野望をくれ。
 わたしに歩けと命じてくれ。
 ガチャの回転にしか還元できない数字を与えてくれ。
 歩くことの価値をすり減らしてくれ。



*1:ジェレミー・デシルヴァ:直立二足歩行の人類史 人間を生き残らせた出来の悪い足 (文春e-book)

*2:包む (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ)

*3:翼~李箱作品集~ (光文社古典新訳文庫)

*4:歩き旅の愉しみ: 風景との対話、自己との対話

*5:いわゆるランドラン(ランドラッシュ)

*6:梅崎春生は加藤哲太郎の遺書(「わたしは貝になりたい」)を引用して、「わたしは滝になりたい」と戯れていた。

*7:『ロング・マルシュ 長く歩く――アナトリア横断』

*8:「徒歩旅行」

*9:管啓次郎狼が連れだって走る月 (河出文庫)

*10:https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/16/101900394/

*11:https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/kenkou_iryou/kenkou/kenkounippon21.html

*12:20-50代男性が9000歩、60代以上で7000歩、20-50代女性で8500歩、60代以上で6000歩

*13:https://www.mhlw.go.jp/content/10904750/001171393.pdf

*14:国土交通省のまとめでは、一日一歩当たり、0.0015円〜0.061円の医療費抑制効果があると算出されている。https://www.mlit.go.jp/common/001186372.pdf

*15:「歩くことは、放浪や犯罪、社会的困難や貧困と結びつけて考えられていた。みすぼらしい道は、物乞いや放浪者、貧民や失業者、音楽家、行商人、ホームレスの歩くもの」だった。/トマス・エスペダル:歩くこと、または飼いならされずに詩的な人生を生きる術

*16:そういえば、ビデオゲームの世界では、「FPSから銃を抜いたらどうなるか」という実験から生まれたウォーキング・シミュレーターというジャンルについて、その反戦性を評価する識者もいた。https://www.salon.com/2017/11/11/a-brief-history-of-the-walking-simulator-gamings-most-detested-genre/

*17:ローポリなのはわたしの設定のせいだけれど

*18:それも南は八重山、北は稚内まで。どちらも安土桃山期には「天下」に勘定されていなかった。

*19:in praise of walking https://en.m.wikisource.org/wiki/Studies_of_a_Biographer/In_Praise_of_Walking