名馬であれば馬のうち

読書、映画、その他。


読書、映画、その他。


「なぜあなたはFGOのガチャを回すのですか」

 
 不自然な弁明ではなく、解明すること。これが与えられた使命である。


   ――シュテファン・ツヴァイク、『マリー・アントワネット』(下巻、角川文庫、中野京子・訳)



 一度羽生に訊ねたことがある。


 なぜFGOをやるんですか、と。


 羽生がなかなか答えないので、きまずくなって質問をつけ足した。「マロリーとおなじ理由ですか」


 二十世紀初頭の偉大なソシャゲーマー、ジョージ・マロリー(1886〜1924)。ヴィクトリア朝課金スタイル最後の継承者と謳われた彼は「なぜFGOをやるのか」と訊かれ、こう答えたという。〈そこに物語があるからだ〉。
 FGOのシナリオを褒め称える人は数多い。たしかな構成と想像力に支えられた物語こそが凡百のソシャゲと一線を画し、iTunes のランキングで五指に入った原動力である、そんなふうに誰もが認めている。
 だから、漠然と羽生もそうなのだと考えていた。彼もシナリオがあるから、FGOをやるのだろう、と。

 だが、羽生は首を横に振った。
「違うよ。そこに物語があるからじゃない。そもそも〈そこ〉に物語なんてない。あるのはシナリオだけだ」
 素朴な疑問が湧いた。物語とはシナリオのことではないのか? だから問うた。
「じゃあ、なぜ」
 そこで初めて羽生の双眸がわたしをまっすぐに見据えた。自他両方に対する冷厳さに満ちた、ベテランソシャゲーマー特有の眼のかがやき。うっすらと開いたくちびるのあいだから、水着イベントのザリガニを思わせる、硬く、重い響きが漏れた。
「おれがガチャを回すからだ」


 羽生はその一週間後、十八体目の星五サーヴァント宝具五にアタックをかけ、行方知れずとなった。
 生きた人間は星五サーヴァントをどれだけ宝具五にしても伝説にはなれない。死んではじめて伝説となり、英雄となる。

 英雄になることとは、つまり物語そのものになることだ。他人の口から物語られるエピソード、それが伝説の定義なのだとわたしは定義したい。
 今や伝説になった彼の物語は日を追うごとに膨れ上がっていく。行方不明になる直前、前人未到と言われた宝具五サーヴァント宝具五の十八体目を達成していたらしい。どころか十九体目も達成していたらしい。無記名霊基を百基あつめたらしい。1・5章の第七部をクリアしたらしい。
 わたしは、根も葉もない噂には興味がなかった。羽生がやったかやらなかったかわからない事蹟よりも、羽生がたしかに言ったことのほうが気になった。「おれがガチャを回すからだ」。


 わたしたちは最初の十連をおぼえているだろうか。
 アプリをダウンロードし、チュートリアルをこなし、☓☓を死なせ(わたしはあの悲劇を思い出すたびに胸が切なくなり、死者をもてあそぶリヨをにくむ)、序章をクリアし、かならず特定の星4サーヴァントの含まれた十連を、最初のガチャを回す。
 その十連は、わたしたちにとって想起することのできる最初の誕生の記憶だ。羊水から浮上して産道を通り、人生で最初の賭けを張る行為をわたしたちはヴァーチャルに再演する。
 だが、そうやって生を得たあたらしいわたしたちは哺乳類ではない。鳥類だ。目が開き、世界が暗闇から光へとうつろって、そこで最初に見た人物を「親」だと認識する。その人物をわたしたちは「初期星4」と言い換えてもいい。呼び方は自由だ。わたしとしては「運命」と呼びたい。

 そう、運命だ。

 わたしにとっての「運命」はマリー・アントワネット[ライダー]のすがたをとって現れた。人生における諸々の致命的なイベントと同様に、マリー・アントワネットが現れたときにはそれが「初めて見たきんぴかのカード」以上の何かを意味しているとは思われなかった。あまりにも、なんでもなかった。

 そのなんでもなさに、わたしは愕然としてしまった。最初のきんぴかカードは、もっと特別な存在だとどこかで思い込んでしまったいた。
 ギンカの筆によって描かれたマリーはなるほどかわいい女の子ではある。戦力的な観点から言えば、クセの強いサーヴァントではあるが、育てれれば随一のねばりを発揮する。だから? それが? わたしは絵や暴力を求めてFGOをダウンロードしたわけではなかった。物語が欲しくてゲームをはじめたのだ。

 だから、彼女にむりやりに物語を見出そうとした。マリー・アントワネットをフィーチャーした第一章が、コンビニで売っている安物のテーブルワインのように薄いお話であると判明し、幕間の物語もそれ以上ではないと知るや、史実に、シュテファン・ツヴァイクに、遠藤周作に、ソフィア・コッポラに、惣領冬実に、たすけを求めた。文字で書かれたものにこそ物語がやどるのだ。そんな無垢な信仰があった。
 だが、そうしたものにマリー・アントワネットの物語は含まれていなかった。いや、精確に言えば、小説や映画や伝記に描かれたマリー・アントワネットは1793年にフランス革命で処刑された現実のひととしてのマリー・アントワネットなのであって、FGOのマリー・アントワネットではなかったのだった。
 FGOの延長線上のマリー・アントワネットを求めるならば、二次創作などを漁るという手もあっただろう。でも、それはそれで「わたしの」マリー・アントワネットではない。わたしの運命ではない。わたしの運命でなければ、わたしの物語ではない。



 ゲームを進めるにつれ、扱いにくいマリー・アントワネットは主力パーティから外れるようになった。高レベルな敵を打倒するには、お姫様の攻撃力はあまり心もとない。わたしの手札には雷神の化身ニコラ・テスラがおり、殺す意志をもった打ち上げ花火アーシュラがおり、ゲーム中でも一二を争う破壊衝動クー・フーリン[オルタ]がいた。攻撃力がすべてだった。暴落する株価、堕落する議会政治、混迷を極める日本社会、暴力が世界を支配していた。地面から生えた手が金色の種火を落とすたび、わたしのこころは荒んでいった。フレポガチャを回さなくなった。シナリオを読み飛ばすようになった。運命や物語を信じなくなった。親愛度が七で止まったまま、マリーを忘れた。



 そんな時期に羽生と出会い、別れた。
 羽生との短い友人生活を送るあいだに、わたしは諸葛亮孔明[ロード・エルメロイIII世]を引き、エレナ・ブラヴァツキーを引き、ナーセリーライムを引いた。クラス別のきんぴかカードでは、キャスターが最多となった。
 第一部をクリアした。羽生は帰ってこなかった。
 新宿を終え、CCCコラボイベントを終え、アガルタを終えるころになっても羽生は消えたままだった。


 そうして、二〇一七年七月三十日だ。
 わたしはおぼえている。
 よく晴れた日曜日だった。ほどほどに暑く、ほどほどに湿気ていて、なんにせよ合唱するセミを殺してまわりたくなる憎悪はわかない休日だった。

 福袋ガチャの日だった。

 細かい部分を省いて説明すると、福袋ガチャでは四千円払えばタダで星5のサーヴァントが手に入る。ふだんの星5サーヴァントがたった一枚のきんぴかと引き換えに魂や人としての尊厳を要求してくることを考えれば、実に良心的なおねだんだ。なにせ、タダなのだから。

 わたしは特になにも願わずに、回した。
 欲しかったサーヴァントがいなかったわけではない。ただ、五十分の一の確率に願を掛けるほどのピュアさを保てていなかっただけだ。
 倦怠期のカップルが義務で行うセックスみたくけだるい虹色につつまれて、星5確定演出がはじまる。きんぴかのカードの背面はそれがキャスターであることを示していた。

 またキャスターだ。

 かすかな失望でこころが濁る。

 星5キャスターに強力なサーヴァントが多いのは事実だけれど、暴力性の点においては他クラスに劣る。わたしが欲しいのは暴力だった。
 しかしそれもまた人生だ。回ってしまったものは変えようがない。気持ちを切り替える。はたしてどれが来るのだろう。どれが来てもいい。
 二枚目の孔明? 不夜城? 三蔵? 玉藻? それともダ・ヴィンチちゃん? 
 マーリンが当たるとは思っていなかった。それはあまりに都合がよすぎる。ことソシャゲに関して、夢を見る趣味はない。


 だが、マーリンだった。


 マーリンか、と思った。
 ありがたくはある。トップクラスに便利な魔術師だ。声も櫻井孝宏だし。櫻井孝宏だし? でも、特別な感慨は浮かばない。わたしのなかに、マーリンにまつわる物語は用意されていない。
 彼は単なるNPと毎ターン回復を生む道具だ。


 育成用の種火と集めないといけない。
 あと輝石も。
 ああもう。どうしてこんなに術の輝石が不足してるんだ。うちには魔術師がおおすぎる。こんなにキャスターだけ多くてもどうしようもないのに。
 ええい、せっかくだから全員キャスターのパーティでも組むか?


 水着イベ終了で不要になったパーティセットを解散させ、空白となった枠にあたらしいサーヴァントを配置しようとする。
 手持ちのサーヴァント一覧画面を開く。
 サーヴァントはレベルの高い順に並んでいて……孔明、ジャンヌ[ルーラー]、マシュ、アンデルセェン……。
 ふと、ひらめく。

 
 これなら自前でアーツ耐久パを組めるんじゃないか?
 

 わたしは、いわゆる耐久パーティをきらっていた。耐久パを勧める人間もきらっていた。
 100ターン200ターンかけてちまちまと敵の体力ケージを削ることに快楽をおぼえるような人間には、きっとなにかしら欠陥があるに違いない、と思ってもいた。おはしをちゃんと持てないとか。twitter で会話するときはいつもポプテピピックの画像で返すクセがあるとか。かわいそうな人たちだ。


 だが、気がつけば、わたしのカルデアには耐久パに最も適したメンツがそろっていた。意識しないうちに、耐久パ用のメンツを鍛えあげてもいた。
 それなりに育ったマシュと、それなりに育ったジャンヌ。その二枚にそれなりに育てたマーリンを加えて前線に並べれば、FGO一退屈で頑丈な耐久パーティができあがる。どんな敵であろうとボスであろうと寄り切れる無敵パーティだ。最強だ。
 できあがってしまった。
 なんの予告もなく、唐突に、わたしのカルデアはここで戦力的に完成してしまった。
 ガチャを回してしまったがために。
 だが、やはりそこに物語など――。


 そのとき、わたしはまだ手持ちサーヴァント一覧画面を見つめていた。
 視界の焦点が吸い込まれるようにマリーへ合った。
 羽生のことばを思い出した。「物語はシナリオにはない」。
 最初に回した十連を思い出した。
 運命を思い出した。

 史実でも小説でもなく、FGOにおけるマリー・アントワネットとはどういった運命であるのか。
 戦闘中に発揮できる彼女のスキルは三つ。一つ目は敵を〈魅了〉状態にして一ターンのあいだ行動させない能力。二つ目は、自身に敵の攻撃を三回も無効化できる〈無敵〉状態を付加し、かつ毎ターンHP回復状態にする能力。三つ目はHPを大回復させる能力。
 いずれも生き延びることに特化したスキルだ。先述したように、こと生存能力に関して彼女はゲーム中でもずば抜けている。耐久することに長けたキャラである。


 マリー・アントワネットとはどういった運命であるのか。


 わたしが最初の十連を引いたときから、彼女は予言していたのだ。
 いずれわたしが彼女のようなパーティに終着するであろうことを。
 彼女のようにしぶとく、彼女のようにやさしく、彼女のようにしたたかな六枚。それを組むことこそがわたしのFGOにおける運命なのだと。
 そして、そのパーティにマリー・アントワネット自身のすがたはおそらく、ない。魔術師たちと聖女によるアーツカードのチェインをつなげるには、クイック偏重の彼女のカード構成は邪魔になる。でも、かなしくはない。そうだろう? わたしたちは? だからこそ、だろう? だからこそ、なのだろう? それは?


「それ」はわたしの物語だ。運営の書いたシナリオでも、他人の描いた二次創作でもない。最初の十連を、さっきの十連を、ガチャを回したからこそ生じたわたしだけの物語だ。
 もう暴力は必要はない。これからもテスラやアーシュラを使いつづけるだろうが、彼らが何本手を焼いたとてわたしの魂が落ちぶれることはない。
 わたしのFGOは既に完成したのだ。


 そして完成はかならずしも終わりを意味しない。

 わたしたちは常につぎのガチャを回すことができる。つぎのつぎのガチャを回すことができる。無限にガチャを回しつづけ、無限に物語を生成できる。もちろん、金さえ払えばなにもかもタダだ。自由だ。


 つぎはどんな運命が回るのかな。
 そんなことを考えながら、わたしたちは今日もガチャを回す。
 わたしのマイルームで、レベル100の新宿の犬が、うおんとちからづよく鳴いた。
 羽生もどこかで、聴いているだろうか。



神々の山嶺(上) (集英社文庫)

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『ジョン・ウィック:チャプター2』について:ギリシャ神話・背中・亡霊・犬

ジョン・ウィック:チャプター2』("John Wick: Chapter 2"、チャド・スタエルスキ監督)


『ジョン・ウィック:チャプター2』予告編 #John Wick: Chapter 2



(以下は『ジョン・ウィック2』を既に観た人向けの完全にネタバレなやつです。
 まだ観てない人は、7月21日現在そろそろマジで上映が終わりそうなので、
 映画館で今すぐ『ジョン・ウィック2』を観ましょう)



強いオルフェ

 監督のチャド・スタエルスキは大学生の時分、ギリシャ神話にハマっていたそうで、パンフレットでは前作『ジョン・ウィック』を「冥界を旅する」物語だと明言しています。*1
 妻を亡くした男が冥界をさまようギリシャ神話のエピソードといえば、オルフェウスです。冥界へと下ったオルフェウスは、幽世の王ハデスと交渉して亡き妻をいったんは取り戻します。しかし、そのときにハデスと交わした「冥界から地上へ戻るまでの途上で決して(後ろを歩く)妻の方をふりかえってはならない」という約束をやぶってしまったがために、契約は破棄され、二度と妻に会うことはかなわなくなりました。
 

 この「振り返ってしまう男である」、という点においてオルフェウスと〈ジョン・ウィック〉シリーズの主人公ジョン・ウィックキアヌ・リーヴス)は共通しています。*2特に今回取り扱う『ジョン・ウィック2』では「背後」にまつわるアクションがそのままストーリー・テリングの重要な一要素をなしているといってもいい。


 まずストーリーから見ていきましょう。
ジョン・ウィック2』の前半部はどういう話か。過去から逃げようとするジョンと、その後ろ髪をつかんでひきずり戻そうとする過去の話です。


過去と言う名の運命に捕まる(by クリント・イーストウッド

 本作の冒頭部は前作の直後からはじまります。前作で妻の遺した犬を殺し、大事な車を盗んだロシアン・マフィアどもを皆殺しにしたジョン・ウィックは、車を取り戻すためにぶちころしたロシアン・マフィアのドンの弟が率いる別のマフィア組織へカチコミをしかけます。
 そこでなんやかんやあって車を取り戻すわけですが、取り戻したといっても車体はボロボロ。犬と車(が象徴する亡き妻)*3のために始めた復讐戦だったのに、終わってみれば犬は入れ替わり、車は廃車同然です。
 いったん戦いはじめたら引き返せないし、いったん失ってしまったものは前とおなじ状態では戻ってこないのだ、つまり妻とともにあった平穏な日常は二度と帰ってこない。そんなことが実に即物的な形で観客に示されます。


 ジョンはうすうすその事実に気づいているはずですが、しかしあらがおうとする。日常に回帰しようとふるまう。ベッドに寝そべって、妻の写真*4を眺めながら犬と眠る。そんな平穏な日々が可能だと思いたがる。
 まず彼は、ジョン・レグイザモ演じる車の修理工を呼び、車の修理を依頼します。
 さらに前作で家の地下室に封印されていたのを掘り起こした武器やコンチネンタルのコインの類を再び埋め、入念にセメントで塞ぎます。地味ながらも暗殺者時代には絶対戻りたくない、というジョンの強い意志が伝わってくるシークエンスです。


 ところが、セメントを詰めおわって一息つくかつかないかというところでさっそく過去が追ってくる。チャイムがなります。玄関に行くと扉には男のシルエット。来客は昔の彼の雇い主、ダントニオ(リッカルド・スカマルチョ)でした。
 彼はジョン・ウィックが忘れたい「過去」そのものの具現です。引退する時に交わした血の誓約をもちだして、ジョンに仕事を強要しようとしてくる。ジョンは繰り返し拒絶します。そして言う。


「俺はもう昔の俺じゃない。(I’m not that guy anymore.)」


 ダントニオは返します。


「おまえはいつだって変わらんさ、ジョン(You are always that guy, John.)」


 誓約とダントニオが存在するかぎり、ジョンはいつまでも that guy のままです。
 ジョンはダントニオの要求をはねつけきります。ダントニオはあきらめたのでしょうか? とんでもない。ダントニオはロケットランチャーでジョンの邸宅を木っ端微塵に破壊します。ジョンが大切にしていた妻との思い出の写真もごうごうとあがる火の手に包まれ灰となっていく
 ジョンの家はいわば、妻との思い出のよすがとなる最後の場所でした。ここを奪われてしまえば、もうジョンに戻る場所はなくなってしまいます。
 そしてジョンは暗殺者としての彼と繋がる場所ーーすなわちコンチネンタルへと帰還するのです。
 

 コンチネンタルのマネージャー、ウィンストン(イアン・マクシェーン)から誓約を守るよう諭されたジョンは、しぶしぶながらダントニオの依頼を引き受けます。
 このときウィンストンが説得に用いた「誓約の重要性」はダントニオのものとさしてかわりがありません。そもそもジョンだって裏社会の人間だったのですから誓約の重要さはよくわかっていたはずです。にもかかわらず、ダントニオには彼を説得できず、ウィンストンにはできた。
 それはウィンストンが特別な人物であるからです。終盤、彼がアカウント部にジョンの追放を依頼するときの番号がアンダーグラウンド(=冥界)における彼のポジションを示している、という指摘はなかなかに興味深いところです。彼がラストの公園のシーンで階段の下のスペースに立っているのも、つまりはそういう理由なのでしょう。

 ダントニオの依頼する仕事とは、目の上のたんこぶである姉をローマで葬る仕事です。彼は「ハイテーブル」と呼ばれる裏世界での最高意思決定機関?的なよくわからないがとにかくビッグな席を夢見ていましたが、父親が後継者として姉を指名したことにより、その席が姉に渡ってしまいました。そこで彼女を殺して「ハイテーブル」に成り上がろうと画策したわけです。
 この「ハイテーブル」が「12席」あるという設定は、おそらくギリシャ神話における「オリンポス十二神」を意識しているのでしょう。*5

 
 イタリア行きの直前、ジョンはホテルのコンシェルジュ(ランス・レディック)に犬を預けます。このコンシェルジュの名前はシャロン。 charon と綴ります。これもギリシャ神話由来の名前です。カローンは冥界の川、日本で言えば三途の河の渡し守で、銅貨を一枚受け取って死者を現世からあの世へと連れて行きます。この点は重要です。
 つまり、彼にコインを渡すという行為はオルフェウスたるジョンにとって「あの世」へ戻る行為なのです。

 しかしもちろんジョンは戻りたくて冥界に戻ってきたわけではない。彼は犬を預けたのち、その足でユダヤ人の貸金庫屋(質屋?)に託してあった箱からパスポートと拳銃とコインを請け出します。そこで慟哭するのです。結局戻ってしまった、と。
 ちなみにこの箱は二重底になっていて、しかけを外すと拳銃とコインが出てくる仕組みになっています。これが自宅での武器の隠し場所だった地下室のミニチュアであることは言うまでもありません。彼は常に忌むべき過去をを自らの手で掘りださなければならない。だから、苦痛を感じ苦悶をおぼえ、心がさけびだしもするんだ。
 

 イタリアにて「恐るべき幽霊」を意味する「ブギーマン」へ回帰したジョンは、地下=冥界へと戻ります。その地下世界がカタコンベ(地下墓所)であるとはなんと念の入った演出でしょうか。「地下より地上へ現れるブギーマンとしてのジョン・ウィック」はイタリア編を含め、都合三度ほど劇中で反復されていきます。
 オルフェウスと同じく妻(とともにあった穏やかな日々)を取り戻すために彼は地下を旅し、任務を実行します。実行後にはターゲットの護衛であったカシアン(コモン)の反撃やダントニオの裏切りに遭いながらも、満身創痍でなんとかコンチネンタル・ホテルまで戻ります。
 そして部屋で携帯を取り出すと、画面が割れて使用不可能になっています。その携帯は、ただの携帯ではありません。妻との大切な思い出の映像が記録された代物です。*6
 ここでもまた徹底してジョンの美しい過去が奪われてしまうのか……などと感傷に浸る間もなく、ふたたび醜い過去からの呼び鈴が鳴ります。ホテルの黒電話のベルです。ダントニオからです。ほとんどジョークみたいな宣戦布告。
「もしもし、ジョン。きみが怒るのは理解できる。個人的にも同情する。しかし、実の姉を殺されたのに復讐もしないとなれば、私も男としてのメンツってもんがたたないわけだしさ」
 こうして彼は地獄めいた過去へと本格的にひきずりもどされるのです。


背中に向かって声、弾丸、車

 プロット的には「過去をふりはらおうとして逆に引きずり込まれる」が前半部で三度(最初のダントニオの訪問、コンチネンタルのマネージャーによる説得、イタリアでのダントニオからの電話)描かれているのがわかりました。
 
 では細部やアクション面ではどうでしょう。
 劇中、ジョン・ウィックは何かと後ろからモノを浴びせかけられます。
 浴びせかけられるモノは、友好的な人物であれば声であったり、敵対的な人物の場合は銃弾や車のボンネットであったりするわけですが、どちらにせよジョンを過去へと引っ張る忌まわしい力であることに変わりはありません。
 見ていきましょう。


呼び止められる男

 まずジョンが武器やパスポートを請けだすためにユダヤ人の貸金庫を訪れるシーン。武器を携えたジョンは店を出ようとしますが、その背中に店主が「良い狩りを、ジョン」とヘブライ語でなげかけます。ジョンは立ち止まり、しばしののち、店主の方を振り返ります。そして沈黙したまま頷き、去っていく。ジョンにとってはいかに好意的なものであれ、暗殺者としての過去からの声であることに変わりありません。


 次に背後からジョンを呼ぶ人物はコンチネンタル・ホテルのローマ支店のマネージャー、ジュリアス*7です。彼はコンチネンタル・ローマの受付に姿を表したジョンを呼び止め、久闊を叙しつつも、きゅうに英語からイタリア語に切り替えシリアスな面持ちでこう訊ねます。「教皇に会いにきたのか?(Are you here for the Pope.)」
 このセリフには色々な解釈が可能だと思いますが、個人的には、ジュリアスは本気で言葉通りの意味で訊ねたのだとおもいます。ジョン・ウィックならばどんな殺しでもやってのける。たとえ、標的が大統領であろうと教皇であろうと彼はためらわない。そう信じるからこそ彼は至極真面目に敬愛する教皇の身を案じたのです(おそらく彼自身敬虔なカトリックなのでしょう)。それは同時にジュリアスがジョンを深く観察し、力量を知悉してきたことの証左です。彼もまた暗殺者としてのジョン・ウィックの証言者なのです。
 

 そして、イタリアのコンチネンタルでみんな大好き銃ソムリエに銃器をみつくろってもらうシーン。


 ここでも立ち去り際、ジョンが背中を向けるとソムリエが「ミスター・ウィック?」と呼び止めます。ジョンが振り向くと「パーティを楽しんできてください」と言う。ずらりとライトアップされてならんだ銃器に囲まれたソムリエがこのセリフをいうところは、ちょっと異世界感があるといいますか、彼もまた奈落の住人なのでしょう。ジョンはまた無言で頷いてソムリエの武器庫を去ります。*8


 彼を背後から呼び止める四人目の人物は、敵です。イタリアにおけるジョンのターゲットの護衛をつとめる男、カシアン。


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 ターゲットを仕留めて現場から脱しようとするジョンはすれちがいざまにカシアンの姿を認め、一瞬表情をこわばらせたのち、通り過ぎようとしますが、カシアンが数歩進んだところでジョンの背後から「ジョンか?」と呼び止められます。ジョンを諦めたように、あるいは意を決して振り向き「カシアンか」と応じます。あくまで表面上は旧知の人間と再会したときの会話です。しかし、カシアンの表情からはジョンがたったいま行ったことを見抜いたような、冷たい緊張感がみなぎっています。「仕事中か?」「ああ。おまえもか?」「そうだな」「楽しんでるか?(Good night?)」「おまえには悪いが、そうだな(Afraid so.)」「そうか、残念だな」
 二人を銃を抜き、真正面から撃ち合います。本格的な銃撃戦がはじまる*9象徴的な場面です。


 以後、全アサシン界が敵にまわり、彼を呼び止めるものはいなくなります。

 
 しかし、ダントニオに復讐を果たし、残骸となった家に犬とともに戻り、灰のなかから妻のネックレス(妻にまつわるものは一つ残らず失われていたとおもったのに)を発掘し、平和へのかすかな希望が芽生えかけたところで、もう一度だけ背後から名前を呼ばれます。
 声の主はコンチネンタルのコンシェルジュ、彼はジョンをウィンストンのもとへ送ります。そこでジョンは終わりなき地獄を宣告されるのです。コンチネンタルのルールを破った彼にもう平穏は訪れず、妻はもどらない。それはハデスとの約束を守れなかったオルフェウスが課せられた苦しみとおなじ罰です。


背中を撃たれる男の美学

 ジョンはよく後ろから撃たれる男でもあります。横から轢かれる男でもあります。


 冒頭のロシアン・マフィアとのカーチェイスシーンでは愛車の側面に敵の車をぶつけられること二度、ついに運転席から放り出され、素手による近接戦闘を強いられます。そして三度目の衝突としておそいかかる車を回避して難局を切り抜けます。

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 カタコンベを抜けたあとのカシアンとの戦闘でも横から車で轢かれていましたね。敵にとっては呼び止めるより、撃ったり轢いたりするほうが礼儀作法にかなった挨拶なのです。
 その証拠に、ニューヨークでの暗殺者勢のひとり、路上ヴァイオリニストの女は最初の弾丸をジョンの背中に見舞います。それより前だとカタコンベの戦闘の後半部でも雑魚に後ろから撃たれて当たっていましたね。*10無敵の防弾スーツを着用しているジョンだからこそ可能なコミュニケーションです。*11
 

 そうした暴力に対して、やはり彼は「振り向」かざるをえません。背後から発される暴力は彼を常に暴力そのものへと引き戻します。


亡霊ふたり

 常に背中を見せる男だからこそ、ジョンが最初から正面切って視線を交わす人物は貴重です(コンチネンタルのウィンストンでさえ、本作ではじめてジョンと会うシーンでは視線がすれちがっていたことを思い出しましょう)。そうした人物というと、コンチネンタル関連の人々(特にコンシェルジュシャロン)、ローレンス・フィッシュバーン演じるホームレスの「キング」といった面々が挙がりますが、しかしなにより本作でジョンとの視線のやりとりが印象的なキャラといえば、カシアンでしょう。
 最初こそすれちがいかけた二人ですが。互いに敵と認めあってからは編集的にもカシアンの視線が強調されます。
 特にNYでの駅前の噴水をはさんで互いに長い間見つめ合うシーンは舞台を含めてほとんどメロドラマ的なエモーションすら感じます。そして、駅構内のひそやかな撃ち合い、プラットフォームを挟んでの凝視合戦、からの電車内での格闘……これらのシークエンスのあいだ、二人が互いに視線を外す瞬間はほとんどありません。カシアンは視界からジョンが消えたら群衆をかきわけてジョンを探し、ジョンは自分を探すカシアンを見出します。なんというロマンス。なんというリレーションシップ。


カシアンという名前はカシアス(カッシウス)というラテン語名に由来し、その原義は「虚ろ(empty, hollow)」です。彼が亡霊であるジョンを直視できるのも、彼もまた「亡霊」であるからかもしれません。
同じ亡霊であるからこそ、直視も可能であり、ジョン・ウィックのライバルたりえるのです。
 ジョン・ウィックを殺せる角度は〇度のみ、真正面から対峙したときのみ、互角の戦いが可能となります。
 それをできるのは『ジョン・ウィック2』ではカシアンと、現代美術館の鏡の間で扉をあけて登場したさいの西宮硝子(ルビー・ローズ)*12だけですね。カシアンも硝子も最終決戦にナイフで挑み、ふたりとも同じような部位をさされて敗北しました。刺したあとの扱いの差に、ジョンの愛情格差が垣間見えます。

亡霊は常に階下から

 さきほど、ジョンのことを「亡霊」と呼びました。なぜ彼は亡霊なのでしょう。それは設定やセリフによってではなく(まあシャロンにコインを渡す行為は設定のうちですが)、行動と演出によって定義されます。

 劇中で「暗殺」を行うとき、彼は地下を経由します。イタリアではカタコンベを通過し、ターゲットであるダントニオの姉に近づきました。
 ニューヨークではやはり地下から美術館へと現れてダントニオに接近しました。
 もうひとつ、「下から上がってくる」画があって、それはラストのウィンストンとの最後の話し合いが終わってからNYの街へ出る時のシーンです。それまでは地下鉄やカタコンベのように地下こそが地獄であったのに、コンチネンタルを追放されてからは地上も地獄に変わってしまう。いっそう彼の依るべなさが際立ちます。

 ジョンが亡霊であることを示す演出はもうひとつあります。鏡です。
 前項でジョンに向けられる視線の話をしましたが、ジョンに殺される人物ーーダントニオとダントニオの姉ーーはどちらも鏡を介してジョンの姿を視認します。直視ではありません。心霊写真等が示すように、幽霊や怪異とは古今東西、人間の眼よりは鏡やレンズといって無機質な物質にこそ投影されるものだという信仰があります。*13ジョン・ウィックが直視できない存在だとしたら、それを視るためには鏡を利用するしかない。クライマックスでの美術館鏡屋敷迷路*14での戦闘は非常に多義的な意味を持つとおもいますが、一面ではそこが唯一亡霊を捉え、殺せる場であるからかもしれません。*15


 一方でジョンはNY篇から徹底して「一方的に視られる」側の存在にもなります。しかし見えるからといって殺そうとしても殺せない。逆に殺されてしまう。彼自身視られることをあまり気にしてるふうではありません。

 しかしラストシーンでウィンストンと別れて公園の階段をあがると、彼はものすごく他人からの視線に怯えるようになっている。
 それまでのジョン・ウィックには、なにもかも失ったように見えて、なんだかんだでコンチネンタルというラストリゾートが存在しました。彼はそこのVIPであり、庇護される貴種だったのです。カシアンとジョンとローマでの戦いに描写されているように、コンチネンタルとはある種の秩序でした。
 しかし、掟をやぶった彼にはもう家どころか羽根をやすめる休息所すらない。秩序なき世界で、四六時中ぶっつづけで戦いつづけなければいけないのです。
 彼は、だからこそ、犬を連れて行く。


亡霊と犬

 〈ジョン・ウィック〉シリーズにおける犬とは何を意味するのでしょう。
 第一作では間違いなく亡き妻との思い出の象徴でした。しかしその犬はむざんにも殺されてしまいます。第一作のラストで手に入れた新しい犬は、亡き妻とは縁もゆかりもない犬です。


 ではなんなのか。


 いわせてもらえるならば、第二作目の犬はジョンの帰るべき場所ではないのでしょうか。


 ジョンはイタリア行きを決断する前に、コンチネンタルのコンシェルジュに犬を預けます。彼の考えうるなかで最も安全なところに愛犬を置いたわけです。それは金庫屋に預けた武器類とは違い、また引き取りに戻るための保護でした。この時点で、彼の旅は、犬のもとから離れまた犬のもとへ戻る、という道程がひかれたのでした。
 大冒険へ出た主人を待つ犬、という構図は、ギリシャ神話に照らすならば、オデュッセウスを二十年のあいだ待ちつづけた忠犬アルゴスを彷彿とさせますね。


 かくしてサントニオをぶち殺し、血みどろの戦いが終結した同時にコンチネンタルからの追放が確定的になり、コンシェルジュから犬を引き取ります。そこからはずっと犬と一緒です。


 コンチネンタルを失ったジョンにとって、犬を置ける場所はもはや自分の身の回りしかない。『少年と犬』以来、男の子の旅の道連れは犬であると相場は決まっています。いってみよう、ぼくらといま、アドベンチャーの国へヘイ! ( ߀ ඨՕ) 人|(ㆆ_ㆆ) |


 いまや一介の野良犬となったジョン・ウィック


 さよう、〈ジョン・ウィック〉とはキアヌ・リーヴスが犬になる物語なのです。*16
 次は神犬ライラプスとなって、痛み分けに終わったカシアン=テウメーッソスの狐を追いかけるのでしょうか。いや、その場合は狐と犬が逆か。

 だいたいそんなところです。


犬にしてくれ 初回盤(CD+DVD)

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*1:ジョン・ウィック2』パンフレット

*2:ちなみに本作と神話との関係を考察した記事は英語圏にいくつかあってこちらなども面白い  →The Hellish Mythology of John Wick | Endless Realms  以下当記事もこの記事に多くを負います。ここでは扱いませんでしたがローレンス・フィッシュバーン演じるバウリー・キング=聖杯伝説の漁夫王(フィッシャー・キング)説も面白い

*3:ジョンにとって車は宝物です。1で妻がジョンに犬をプレゼントするとき「わたしがいなくなっても、あなたには愛する対象が必要よ。この子を愛して。車じゃダメ(the car doesn't count)」と言っています。このセリフを裏を返せば、ジョンにとっては車は愛着の対象であるわけです。1の序盤では犬の描写と愛車の描写が半々であることにも留意しましょう。

*4:取り返した車のなかにあったものです。わざわざ車を奪還しにいった理由の一つ

*5:rf. http://www.tribality.com/2017/02/22/john-wick-and-mythology/

*6:1の冒頭で印象的に提示され、その後も何度となく再生されてきた重要な動画です

*7:これもまた神話由来のネーミング。原義はユピテルギリシャ神話の最高神ゼウスのローマ神話ヴァージョンの名前です。コンチネンタル・ローマの支配人にふさわしい名前といえます。ちなみにユピテルはドラマの『アメリカン・ゴッズ』にも重要な役回りで出てきますね。

*8:余談ですが、この武器調達シーンの一幕である仕立て屋のところで「ボタンはいくつ?」「ふたつ」「ズボンは?」「細身のものを」「裏地はどうします?」「実戦用のを」というやりとりがありますが、原文では「How many buttons?」「Two.」「Trousers?」「Tapered.」「How about the lining?」「Tactical.」と、ジョンの受け答えがすべてTで頭韻を踏んでいます。だから何だと言われたらそれまでですが

*9:冒頭のロシアン・マフィア戦のメインはカーチェイスと体術でそた

*10:正面からラリアットかましてきた山本山はえらい

*11:背後から追われるのでいえば、NYの駅構内でアジア系の暗殺者二名によってはさみうちされるシーンも含まれるかも

*12:役名はアレス。ギリシャ神話の戦神です。

*13:どこかの本でそう言ってた気がするが、ソースは忘れた

*14:ギリシャ神話の文脈でこれを「ミノタウロスの迷宮」と結びつける人もいますが、さすがにちょっと弱いかな。http://www.tribality.com/2017/02/22/john-wick-and-mythology/

*15:そうした観点でいくと、鏡屋敷で雑魚が鏡に移ったジョンの姿を誤射してしまうところは意味深ですね

*16:『レヴェナント』のときに使った論法の使い回し

Brigsby Bear、ならびに監禁映画と毒親マンガの流行

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今観たい映画ナンバーワン

 wikipedia に載っているあらすじをそのまま訳すと以下のようになる。


 ジェイムズ・ポープは赤ん坊のころに病院から誘拐され、以来子供時代から大人になるまでずっと地下シェルターで『ブリグズビー・ベアー』以外のことを一切知らずに生きてきた。『ブリグズビー・ベアー』とは両親になりかわった誘拐犯夫婦によって制作された架空の子供向けTVショーのことだ。
 ある日、ジェイムズはシェルターから助け出される。現実世界へと放り出された彼は『ブリグズビー・ベアー』が実際の子供向け番組ではなかったと知る。
 他にも色んな出来事につぎつぎと直面し、困惑極まってしまうジェイムズ。彼は『ブリグズビー・ベアー』の映画版制作を決意し、この現実世界で学んだことを映画によって語ろうとするが……。


 なんのあらすじかって、今月末に全米で公開される新作映画『Brigsby Bear(ブリグズビー・ベア)』のあらすじだ。
 監督はデイヴ・マッカリー。主演兼脚本のカイル・ムーニーとは幼馴染らしく、人気コメディ番組『サタデー・ナイト・ライブ』時代もムーニーはコメディアンとして、マッカリーは番組の監督*1としてキャリアを積んできた。そのためか、アンディ・サムバーグをはリーダーとする人気コミックバンド「ロンリー・アイランド」やミシェラ・ワトキンズといったSNLの人脈がプローデューサーやキャストに活かされている。
 そしてプロダクションを担当するのはフィル・ロードクリストファー・ミラーの制作会社「ロード・ミラー・プロダクション」*2。さらに音楽を担当するのはジェフ・ニコルズ(『ラビング』、『MUD』)の盟友デイヴィッド・ウィンゴーと聞けば、この座組だけで傑作の予感しかしない。
 映画批評家の評価を集計する映画情報サイト Rotten Tomatoes でも今のところ評価は上々だ。
 

 しかしまあなんといっても、私たちの乙女ごころをくすぐるのはストーリーと設定だ。
 聞いてるだけでワクワクするような展開で、ティーザー予告に出てくる「こんなプロット観たことねえ!」という賞賛コメントはけして過褒ではない。総体としては。


www.youtube.com


 あくまで、総体としては。


誘拐され、監禁され、奪われて

 部分部分はどこかで最近見たおぼえがある。*3
 地下シェルターに監禁されて誘拐犯からとんでもない法螺を吹き込まれた子どもがエキセントリックな人物に成長してしまうのは、TVドラマアンブレイカブル・キミー・シュミット』(2015-)だし、
 生まれたときから外の世界との接触を禁じられフィクションだけを見て育ったこどもが、はじめて触れた現実世界のカオスを映画制作によってセラピー的に乗り越えようと試みる展開はドキュメンタリー『ウルフ・パック』(2015、クリスタル・モーゼル監督)だ。
 監禁ものだとアカデミー賞にもノミネートされた『ルーム』(2015、レニー・アブラハムソン監督)なんてのもあった。
 いずれもここ一、ニ年の作品だ。
 
 これら三作は共通して、長期間の監禁生活を強いられたこどもたちを描いている。*4しかし、『隣の家の少女』(2007、 グレゴリー・M・ウィルソン監督)のように監禁生活そのものの描写をメインとはせず、むしろ監禁から脱したあとのこどもたち(あるいは元こどもたち)がどう社会に適応していくかを主眼に置いている。つまりは、青春を理不尽に奪われ、他者と関わることが一切なかったピュアな人々が、どうやってサヴァイブしていくのか、だ。



アンブレイカブル・キミー・シュミット予告編 - Netflix [HD]

 14歳からの15年間の監禁生活を経て社会復帰した『キミー・シュミット』のキミーはニューヨークという世界でも有数の最先端都市で、トランスジェンダーの黒人デブとルームシェアしながら少しづつ現代社会を学んできて、数々のトラブルを引き起こしながらもNY生活に馴染んでいく。



映画『ルーム』予告編

 『ルーム』の主人公ジョイは誘拐犯にレイプされて子どもを産み、5歳になった彼の助けを借りて監禁部屋からの脱出に成功する。幼い息子は大した苦労もなく常識のギャップを埋めていき、すぐに世間に適応するのだけれど、24歳のジョイにはそれが果てしなく困難だ。マスコミを含めた世間からの好奇の目、野蛮な犯人から「傷物」にされてしまった娘に対する親の視線、その犯人の子を産んでしまったこと……そうしたストレスにジョイは圧しつぶされそうになる。



The Wolfpack | Trailer | New Release

 『ウルフ・パック』では親からようやく外に出ることを許された兄弟たちの長男坊がいさんで働きに出る。しかし、子どものころから他人との会話を映画でしか学んでこなかった長男の喋り口はどこか芝居がかっていて不自然だ。まともな若者同士の会話ができない。そのため彼は徐々にバイト先で疎外感をおぼえだす。
  

 wikipedia のあらすじを読むかぎり、Brigsby Bear もこれら三作品のような「世間との齟齬」にさらされるのだろう。


なぜアメリカ人は適応の物語を描くのか

 なぜこうした「監禁から解放&適応」ものが近年立て続けにアメリカで撮られるようになったのだろう。


 理由はいくつか考えられる。

 まず思いつくのは、「社会とのディスコミュニケーションと適応は普遍的なテーマだから」だ。
 長期間の誘拐監禁という一見過激で極端な設定に何かと眼を奪われがちになってしまうけれども、そこを抜きにして眺めれば「ルールがわからないまま社会に放り出されて、それでもそこでコミュニケーションをとって生きなければならない」という誰でも経験する社会化のプロセスが浮き上がってくる。
 映画のキャラクターたちは常に観客のディサビリティやコンプレックスが増幅した形で現れる。だからこそ感情移入の対象となりやすく、設定そのものが現実離れしていたとしても共感を呼ぶのだ。
 ちなみに「それでも生きなければならない」という課題は、同じく監禁・偽の物語・解放を扱ったディストピアSF『アイランド』マイケル・ベイ監督)や『わたしを離さないで』マーク・ロマネク監督)における「それでも死ななければならない」という課題とは真逆の問題設定だ。現実世界は死を強制してくるがゆえにおそろしいのではなくて、生存を強制してくるがゆえにむずかしい。


 もうひとつは、逆に「長期間の誘拐監禁にこそ普遍性がある」という観方。

 日本でもこのところエッセイ漫画の分野で『カルト村で生まれました。』(高田かや)や『ゆがみちゃん』(原わた)といった、いわゆる「毒親」によって子供としての大事な時期や青春を奪われた人々の体験記が人気を博しており、『みちくさ日記』(道草晴子)などの精神病闘病記もなどを含めて人生サバイバルエッセイとでも呼ぶべきサブジャンルを形成している。

 病んだ家族や共同体によって可能性を奪われてしまうこどもの話は昔から映画でもよく描かれてきた。サブジャンルの「機能不全家族」もののさらにサブジャンル」といったところだろうか。
 「毒親」概念に最も近い作品といえば、古くは実在の人気女優による児童虐待をもとにした『愛と憎しみの伝説』(1981、フランク・ペリー監督)、最近では昨年のアカデミー賞にノミネートされた『フェンス』デンゼル・ワシントン監督)あたりだろうか。どちらもフォーカスしているのは親のほうではあるけれど。*5

 むしろ日本の「毒親」エッセイまんがに近いのは『フェンス』をおしのけてアカデミー作品賞を果たした『ムーンライト』(バリー・ジェンキンス監督)なのかもしれない。
 まさに「毒親」とゲイを抑圧する世間に挟まれて青春を喪失し、過去の傷を抱えながら独り立ちする男の話だ。*6


ブラッド・ピット製作総指揮!映画『ムーンライト』予告編



 日本の「毒親」ものと監禁&解放もの(呼び方がコロコロ変わるな)の共通点は「根深いトラウマを植え付けられたうえに、一般的な常識や教育を欠いたまま大人になって社会へと放り出される(自分の意志で脱出する)」点だ。
 悲しいことに似たようなトラウマを背負ったこどもたちはたくさんいて、あるいはトラウマとまではいかずともどこかで他者に自分の可能性を理不尽に奪われたという記憶を抱える人たちもいて、だからこそ「毒親」ものや監禁&解放ものの子どもたちに感情移入してしまう。


 どこかで監禁され、レイプされ、何かしらの可能性を奪われてしまった子ども時代の感覚。その責任を実際問題として他者に求めることに正当性があるかどうかは別にしても、感じてしまう心はどうしようもない。
 負った傷を癒す方法はいくつか存在する。
 フィクションを描く、というのもそうした手段のひとつであり、だから Brigsby Bear の主人公も映画を撮ることになるのだろう。たぶん。観てないのでわからんが。観ないとわからないよ、そういうことは。
 というわけで、ソニー・ピクチャーズさんはすみやかに本作を日本に持ってくるように。DVDスルーでもいいからさ。


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カルト村で生まれました。

カルト村で生まれました。

*1:全体のディレクターではなく、スケッチと呼ばれるコント単位での監督

*2:ロードとミラーはプロデューサーも兼任

*3:wikipedia に書かれたあらすじはおそらく導入部かせいぜい中盤までの展開にすぎないだろうし、もしかしたら終盤に「みたこともない」衝撃の展開が待ち受けているのかもしれない。ここで言及するのはプロット全体の話ではなく、あくまで上記の wikipedia の記述部

*4:『ウルフ・パック』は劇中で明言されないが、あきらかにヒッピーの親が強制的にこどもたちを監禁状況に置いている

*5:書き終わってから『塔の上のラプンツェル』も毒親と監禁の話だったよなあ、と思い出した。そういえば、ギリシャにも『籠の中の乙女』なんて珍品があったけれど、あれは色々特殊すぎるので……

*6:もちろん喪失しっぱなしではなく、回復こそ重要になってくるのだが、そこを書くとネタバレになるので

2017年上半期の映画ベスト20とベストな犬

トップテン

1.『20センチュリー・ウーマン』(マイク・ミルズ監督、アメリカ)

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 佐々木敦は腐す意味で「オシャレなアメリカ文学みたい」と評したけれど、逆にオシャレなアメリカ文学みたいな映画以外にこの世に何があるっていうんだろうか。
 わたしたちはオシャレなアメリカ文学みたいな家族に囲まれたオシャレなアメリカ文学みたいな青春時代をオシャレなアメリカ文学みたいなカットバックやヴォイス・オーヴァーで振り返りたかったし、そもそも憧れるためにアメリカ映画を観るのであって、そこにオシャレがなければ憧れもないんじゃないの。
 それはそれとして、オシャレであるかどうかは別にして、個人的にああいう語り口に弱いのはたしかです。ああいうの、というのはつまり、不意に入ったナレーションで登場人物が未来の自分自身の死について語るようなやつ。フィクションでしかつけないウソです。
 すがすがしいルックのわりには終わりはわりと「けっきょく人間無理なことは無理なんだよ」的なビターさで、そのへんは存外『マンチェスター・バイ・ザ・シー』の手厳しさに似ている。ある種の前向きさも含めて。
 あと、カリフォルニアが舞台ってだけで陽光で勝てるからいいですよね。
 

2.『お嬢さん』(パク・チャヌク監督、韓国)

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 劇場版ウテナ。松田青子もそう言っている。
 サラ・ウォーターズ原作でパク・チャヌクが撮る、と聞いたときは、どう考えても変な映画しかできないけど大丈夫か? と危惧したものだけれど、実際とてつもなくへんてこな映画ができちゃって微笑ましいことです。
 基本、フェティッシュですね、フェティシズムですね。こまやかなものも、おおざっぱなものもぜんぶひっくるめて。
 前者の最高峰は風呂に入ったお嬢様の歯を侍女である主人公がヤスリで削るシーンで、あの耽美さは誰にも真似はできない。
 

3.『夜は短し歩けよ乙女』(湯浅政明監督、日本)

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 中村悠一のキャラデザと森見登美彦の物語が湯浅政明の特質に最高にマッチしているのは『四畳半神話大系』ですでに証明されていたわけであって、そういう意味では安心して観られるファンタジー。快楽しかない。

4.『哭声/コクソン』(ナ・ホンジン監督、韓国)

 もちろん真っ裸で生肉を食う國村隼のビジュアルもちょうおもしろいんですが、それがけして出落ちに終わらなくて『お嬢さん』とおなじくエクストリームな新天地へ観客をいざなってくれる。方向はぜんぜん違うけど。
 最初は韓国映画によくあるど田舎刑事ものっぽいかんじではじまるんですけど、途中から白石晃士みたいな呪術師合戦(「殺を打つ」というとてもいいワードが出てくる)となり、最後は不吉なリドルストーリーで終わるんで、やっぱキリスト教をバックグラウンドに持ってる国は強いなあ、とおもいます。

5.『アイ・イン・ザ・スカイ』(ギャビン・フッド監督、イギリス)

 サスペンス映画としては今年一番じゃないかなってくらい、とにかくサスサスしてる。中東のテロリストたちを見張る現場が直接的なスパイサスペンスである一方で、それを見守る政治家たちがテロリストを爆撃するしないの判断にきゅうきゅうとするところもまたサスペンスであって、まあ、色んなレイヤーで色んな種類のサスペンスがたのしめてお得感あります。
 そういう緊張感を支えるうえで古典的な「見る-見られる」のドキドキ演出が作劇に一本筋を通していて、とても骨太なエンタメにしあがっています。

6.『美しい星』(吉田大八監督、日本)

 話自体は箸にも棒にもかからないんだけど、だからこそというべきか、オーバーな演出がうまくハマっている。モブにちゃんと表情があって動いている映画はいい映画ですよね。 

7.『グリーン・ルーム』(ジェレミー・ソルニエ監督、アメリカ)

 密室に閉じこめられた若者たちに満腔の殺意をもってハゲどもが襲い掛かってくる尺にしてだいたい90分のよくあるサバイバルスリラーかと思いきや、そこは『ブルー・リベンジ』のジェレミー・ソルニエ、クライマックスがおそろしくフレッシュ。
 イヌの使い方もちゃんとこころえている。

8.『沈黙/サイレンス』(マーティン・スコセッシ監督、アメリカ)

 「なぜそうまでして信仰を貫かなくてはいけないのか」というのはアメリカ映画の永遠のテーマで、その根底にはイエス・キリストの生涯がある。
  人間が自分なりに信仰を発見していくのはいいものです。ガーフィールドが神の声を聴くシーンはなんどみてもいい。

9.『セールスマン』(アスガー・ファルハディ監督、イラン)

 構成やモチーフ(ドアや密室)の使い方は『別離』や『ある過去の行方』とぶっちゃけ大差ないんだけど、作を重ねるごとに洗練されてきているとおもう。
 キャラクターごとの情報コントロールの繊細さは高度に発達した日米のエンタメ業界にも観られないレベルであって、アメリカあたりでちょっとミステリ映画撮ってもらいたいものだけれど、監督のキャラ的に無理かなあ。

10.『ラビング 愛という名の二人』(ジェフ・ニコルズ監督、アメリカ)

 ジェフ・ニコルズは今年はDVDスルーで『ミッドナイト・スペシャル』も出ましたね。そちらもなかなかいいかんじです。
 しかし、どちらかというと『ラビング』か。ジョエル・エドガートンをはじめとした役者陣のたたずまい(べんりなことばだ)もよろしいんですが、演出面でも非常に(アメリカ映画的な意味*1で)筋が通っていて、安心して観られる一本です。 
 

+10

11.『レゴ(R)バットマン ザ・ムービー』(クリス・マッケイ監督、アメリカ)

 DC映画のなかではいちばん好き。バットマンの重要要素のひとつである「孤独」についてとことんつきつめた作品でもある。

12.『マンチェスター・バイ・ザ・シー』(ケネス・ロナーガン監督、アメリカ)

 観た直後はそんなでもないんだけれど、日が経つにつれてあれこれ考えてしまう系。やはり最後のキャッチボール。

13.『帝一の國』(永井聡監督、日本)

 こういう観客をバカにしていないコメディがちゃんと評価されてちゃんと興収を稼いでいるのは健全でいいなあとおもいます。

14.『ハクソー・リッジ』(メル・ギブソン監督、アメリカ)

 三幕構成というか実質四幕なんだけれど、最近の映画でここまでちゃんとパッキリ構成を割っているのもめずらしい。

15.『ナイスガイズ!』(シェーン・ブラック監督、アメリカ)

 コメディセンスがツボに入った。ちょっと長いけどね。事件に巻き込まれるガキが無能でない点で珍しいハリウッド映画。

16. 『はじまりへの旅』(マット・ロス監督、アメリカ)

 家族映画。ラストカットがとにかくいい。

17.『パトリオット・デイ』(ピーター・バーグ監督、アメリカ)

 銃撃戦がいいと聞いて観に行ったらたしかに銃撃戦がよく、その他の点でもソリッドな出来。

18.『メッセージ』(ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督、アメリカ)

 SF映画でこのルックが実現できればまあ勝ち戦ですよね。しかしヴィルヌーヴっておもしろいはおもしろいんだけど、いつもアメリカでの評価から-10点されたくらいな印象なのはどうしてなのか。

19.『夜明けを告げるルーのうた』(湯浅政明監督、日本)

 映像ドラッグという観点からはちょっと惜しいところを残した。

20.『ジョイ』(デイヴィッド・O・ラッセル監督、アメリカ)

 O・ラッセルのなかではいちばん好きかも。


その他良作メンション:

『22年目の告白 私が殺人犯です』(入江悠)、『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー・リミックス』(ジェームズ・ガン)、『テキサスタワー』(キース・メイトランド)、『くすぐり』(デイヴィッド・ファリアー、ダイアン・リーヴス)、『この世に私の居場所なんてない』(メイコン・ブレア)、『スモール・クライム』(E・L・カッツ)、『ジョシーとさよならの週末』(ジェフ・ベイナ)、『ノー・エスケープ』(ホナス・キュアロン)、『人生タクシー』(ジャファール・パナヒ)、『スウィート17モンスター』(ケリー・フレモン・クレイグ)、『ムーンライト』(バリー・ジェンキンス)、『フリー・ファイヤー』(ベン・ウィートリー)、『ラ・ラ・ランド』(デイミアン・チャゼル)、『エリザのために』(クリスティアン・ムンジウ)、『こころに剣士を』(クラウス・ハロ)、『ミス・ペレグリンと奇妙なこどもたち』(ティム・バートン)、『ワイルド 私の中の獣』(ニコレッテ・クレビッツ)、『無垢の祈り』(亀井亨)、『王様のためのホログラム』(トム・ティクヴァ)、『モアナと伝説の海』(ロン・クレメンツ、ジョン・マスカー)、『雨の日は会えない、晴れた日は君を想う』(ジャン=マルク・ヴァレ)、『ジャッキー ファーストレディ 最後の使命』(パブロ・ラライン)


ベスト・ドッグ

1.『ノー・エスケープ』のベルジアン・シェパード・ドッグ・マリノア
 国境でメキシコからの不法移民をハントするじじいに飼われている忠実なトラッカー。ジジイとの別れのシーンは涙なしでは見れず、観客はみな凶悪なメキシコ不法移民への怒りをあらたにするだろう。


2.『ワイルド 私の中の獣』のオオカミ
 職場でのストレスからメンタルの狂った女に拉致監禁されるかわいそうなオオカミ。換金された部屋で暴れてウンコを垂れ流すオオカミと女との駆け引きが見もの。


3.『コクソン』の黒いイヌ
 韓国の名も無き村へやってきた謎の異邦人、國村隼の飼い犬。連続殺人事件を調べに来た刑事を撃退するなどの活躍を見せるも、最期は逆ギレした刑事に撲殺される。以て瞑すべし。


4.『夜明けを告げるルーのうた』のワン魚
 捨て犬が人魚に噛まれて半イヌ半魚になっちゃった。劇場でこれのワッペンがついたペンケース買いました。


5.『グリーン・ルーム』のシェパード
 ネオナチのパトリック・スチュワートに使嗾されて主人公たちをおいつめるイヌ使いの飼い犬。なぜか劇中でイヌ使いのイヌに対する愛情がこまかに描写されたりもする。

*1:家というモチーフに家族の絆を託すところとか

1930年代から2000年代までの各10年ごとの映画ベスト10

はじめに

 他人がなんか楽しくワイワイしながら盛り上がってるさまを眺めるのはとてもくやしいものです。わたしだってワイワイしたい。
 最近の twitter でのワイワイ案件としては「◯◯年代映画ベスト10」があります。年代ごとにベストな映画を10本挙げるとかいうやつです。それをここでやります。やりたくなるまでお気持ちの変遷については省きます。
 ちなみに twitter でベストを挙げた方々はそろって「年代ごとに10本しか選べないのキツすぎだろ」とおっしゃってます。私のほうはといえば、今まで観た映画の半数弱? くらい*1が2010年代の作品で、裏を返せばそれ以前の映画はあんまり齧っていません。人間には「知らない分野のことほど気軽に大きなことをいいやすい」という性分があります、よって2010年代以前なら出来心で10本挙げやすい。雑誌なんかのベスト本に妙にラインナップが似通うのもそのせいです。こういうのは選者の人となりがわかる一本の筋の通ったものが読んでておもしろいんですが、まあ、マスに巻かれるのが私のパーソナリティです。
 で、140文字制限のあるところだとタイトルを挙げるだけでギュウギュウになるのですが、せっかくそういう縛りのないブログでやるからには何故選んだかの理由を書きたい。付加価値によるプレミアム感というやつです。
 とは言い条、私はだいたい観た映画の内容の99%を忘れる人なんで、細かくどのシーンのどれがよかった、というよりは「ふわっと」とか「ぐんにょり」とかいったオノマトペが頻出することとなるでしょう。そこらへん、ご寛恕いただけると幸いです。
 
 以下、年代ごとの10選です。選ぶにあたって独自に「アニメは別枠で各年代ごとに一本選ぶ(ただしストップモーションアニメは一般枠)」、「ドキュメンタリーは含めない」といったルールがもうけられています。どういった深遠な理由に基づいてそういうルールが課されるのか、といったご質問については残念ながらお答えできません。わたしにもはっきりとわからないからです。

 では、はじめましょう。おおむね番号順が好きな順です。カッコ内は監督の名前。

1930-40年代

1.『桃色の店(街角)』(エルンスト・ルビッチ
2.『ニノチカ』(エルンスト・ルビッチ
3.『マルタの鷹』(ハワード・ホークス
4.『祇園の姉妹』(溝口健二
5.『市民ケーン』(オーソン・ウェルズ
6.『駅馬車』(ジョン・フォード
7.『大人の見る繪本 生れてはみたけれど』(小津安二郎
8.『極楽特急』(エルンスト・ルビッチ
9.『レベッカ』(アルフレッド・ヒッチコック
10.『狐物語』(ラディスラフ・スタレヴィッチ)

A. 『バンビ』(デイヴィッド・ハンド)


 たぶん、通して観た長編映画で一番古い作品はルビッチの『山猫ルシカ』(1920年)で、そこから30年間くらいの映画はあんまり観ていません。要するにサイレント時代の作品をほとんど観てないわけで、そういう教養を持ってないのはどうかな、とも思うのですが人は教養のために映画を観ているのではないのでしょうがなくない?
 この年代の映画は事故的に出会うといったことがあんまりなくて、しぜん、気に入った監督の作品を掘る過程で摂取していくわけで、そうなるとやはり名前が偏る。つまりはルビッチ、ルビッチ、ルビッチ。
 でもルビッチはどの年代に生まれたとしても最低三作品は入れてたと思う。
 なんなら『生きるべきか死ぬべきか』や『生活の設計』なんかもぶっこんでよかった。ルビッチは神です。ワイルダーも小津もそう言っている。
 個人的にはルビッチのいわゆるスクリューボールコメディのテンポと所作が非常に大好きで、『生活の設計』の出会いのシーンや『桃色の店』の郵便局のシーン、なんでみんなああいうのやんないんだろうとも思う。まあやれないからなんですが。ウェス・アンダーソンは『グランド・ブダペスト・ホテル』で頑張っていた。
 『市民ケーン』だいぶ昔に観ましたね。わりによく覚えています。ときどき『市民ケーン』て今観てもいうほどおもろいか? みたいなご意見を目にしますが、十二分におもろいでしょう。キチガイがアメリカン・ドリームを実現するためにがんばってやがては幻滅ないし破滅する話は普遍的に面白いです。フィッツジェラルドの時代からずっとそうです。だから私たちは今でも『ウルフ・オブ・ウォールストリート』や『ナイトクローラー』といったキチガイ成り上がり映画を見に行く。ジョーダン・ベルフォートもナイトクローラーさんも幻滅はしないところが21世紀ですが。

 アニメ枠は『バンビ』。
 常々言ってることですが、『バンビ』を観たこともない人はもちろん、小さい頃に『バンビ』を観てなんとなく忘れかけてる人もぜひもういちど『バンビ』を観直すべきです。ビビるから。
 アニメーションのうごきがとにかくものすごい。「ぬめぬめ動く」という形容はこれのために用意されたといっても過言ではなく、のみならず動物の毛皮がふんわり膨れ上がるところとか……とにかく官能的、そうエロいんです。この動作のエロさは今現在ディズニーを含めたどこのアニメスタジオも達成できていない。ロストテクノロジーです。オーバーテクノロジーです。アトランティスです。『アトランティス 失われた帝国』じゃなくて。この快楽はたぶん言葉では伝えきれないと思います。



1950年代

1.『幕末太陽傳』(川島雄三
2.『サンセット大通り』(ビリー・ワイルダー
3.『恐怖の報酬』(アンリ=ジョルジュ・クルーゾー
4.『イヴの総て』(ジョセフ・L・マンキーウィッツ)
5.『七人の侍』(黒澤明
6.『ぼくの伯父さん』(ジャック・タチ
7.『近松物語』(溝口健二
8.『大人は判ってくれない』(フランソワ・トリュフォー
9.『現金に体を張れ』(スタンリー・キューブリック
10.『大いなる西部』(ウィリアム・ワイラー

A.『眠れる森の美女』(クライド・ジェロニミ *総監督)


 当然のごとくあんまり観ていない。現代っ子なもので。わたしが子どものころはみんな映画なんか観ずにエロゲをやっていました。
 『幕末太陽傳』はこの世でいちばんおもしろい時代劇だと思います。ちゃんばらとかはないんですけど、短いエピソードを細かくテンポよく刻んでいって、最後にフッと哀しいけどどこか爽快な後味を残してくれる。聞けば、元は落語の寄せ集めだそうですが、これと同じ手法で何かまた映画作ろうとしても、そうそう上手くいかないんじゃないかな。川島雄三の演出とフランキー堺の佇まいがとにかくキレまくってる。
 『イヴの総て』と『サンセット大通り』はキチガイがどんな手段を使ってでも成り上がるアメリカン・ドリーム破滅物語のビフォアとアフターって感じで、私の中では二本でワンセットですね。
 『恐怖の報酬』はいつ爆発するかもわからない爆薬を輸送する男たちの話ですが、とにかく観客へのストレスのかけかたが尋常じゃない。ほとんどイジメに近いですよ、これは。しかも、オチな。オチが……。
 時代のわりには全体的に雰囲気やライティングの暗い映画が多いですけれど、『大いなる西部』はカラッと晴れやかな画面で、ガンマンたちは最後は素手で殴り合う古典芸能ってかんじで、同時代の西部劇では好きな方。

 アニメ枠は実質ディズニーからどれを選ぶかの問題。50年代のディズニーではどの作品にもあまりパッションをおぼえないんですが、スタイリッシュさが光る『眠れる森の美女』でここはひとつ。
 
 

1960年代

1.『ワイルドバンチ』(サム・ペキンパー
2.『反撥』(ロマン・ポランスキー
3.『アパートの鍵貸します』(ビリー・ワイルダー
4.『切腹』(小林正樹
5.『殺しの烙印』(鈴木清順
6.『プレイ・タイム』*2ジャック・タチ
7.『日本のいちばん長い日』(岡本喜八
8.『ミトン』(ロマン・カチャーノフ
9.『裸のキッス』(サミュエル・フラー
10.『地下鉄のザジ』(ルイ・マル

A.『101匹わんちゃん』(ウォルフガング・ライザーマン)


 フランス映画ばかりですね。それとアメリカン・ニューシネマ。時代に流されやすい人だよ。ほんとうは『気狂いピエロ』も下三つと甲乙つけがたいかんじだったのですが……短編(ストップモーション)の「ミトン」と入れ替えても……いや、でも「ミトン」はほんとほんとほんとにヤバいので。短編アニメでマジ感動したのはこれと最近の「ひな鳥の冒険」(アラン・バリラロ)くらいでしょうか。いやストップモーション短編ならもっとあるな。
 『プレイ・タイム』と『日本のいちばん長い日』は一見題材からジャンルまで正反対の映画に見えますが、過剰なまでの段取りへの意識という点で非常に似ているとおもいます。ジャック・タチは段取り魔ですね。犬を(たぶん)演技させずに完璧に段取らせることのできた史上唯一の監督だとおもいます(『ぼくの伯父さん』のオープニングのこと)。この段取り力をデイミアン・チャゼル先生も見習ってほしい。
 演出ではタチですが、脚本のソリッドさならやっぱり僕らのビリー・ワイルダー。『アパートの鍵貸します』は元祖反復伏線芸映画と申しますか、特にコンパクトミラーの使い方が神がかっています。
 ポランスキーはこの頃が一番好きかなあ。『袋小路』とかもいいですよね。『反撥』はナーブスリラーなのに、なんの脈絡もなく路上ジャズ・バンドを出現させて主人公につきまとわせたりする茶目っ気が好きです。オープニングが目ン玉のドアップだと名作の法則を確立した一作。
 
『101匹わんちゃん』、俗に犬を映画に一匹出すごとに自乗して傑作になっていく、といいますが*3、その伝でいくと仮に5つ星だとして5の101乗の星が輝く大名作ということになります*4。ライザーマン時代のディズニーはタッチがすばらしいですよね。今観てもモダンでフレッシュ。『バンビ』の官能とはまた別の快楽がある。
 

1970年代

1.『ナッシュヴィル』(ロバート・アルトマン
2.『ジャッカルの日』(フレッド・ジンネマン
3.『ロング・グッドバイ』(ロバート・アルトマン
4.『仁義なき戦い』シリーズ(深作欣二
5.『スティング』(ジョージ・ロイ・ヒル
6.『エル・トポ』(アレハンドロ・ホドロフスキー
7.『地獄の逃避行』(テレンス・マリック
8.『チャイナ・タウン』(ロマン・ポランスキー
9.『サスペリア』(ダリオ・アルジェント
10.『デュエリスト』(リドリー・スコット

A.『フリッツ・ザ・キャット』(ラルフ・バクシ


 他の年代は割と序列がはっきりしてますけれど、70年代はあんまりそういうのがないというか、上にも下にも飛び抜けたものがありません。
 でもやっぱり『ナッシュヴィル』は特別かな。群像ドラマとしては後の『ショートカッツ』とか、弟子のポール・トーマス・アンダーソンの初期作のほうが洗練されてますけれど、『ナッシュヴィル』はラストがね、ラストがほんとうにいいんですよ。もともとダメだったものたちが本当に完膚なきまでになにもかもダメになってしまったけれど、みんなそれに目を反らして生きていくんだな、という諦念と前向きさとの間にあるような不思議なかんじは唯一無二。それに歌がいい。総体的にも歌がいい。

 それにしても孤独な男がひとりでトボトボ歩いている映画が多いですね。二人でなんとかやっている作品は『地獄の逃避行』くらいでしょうか。しかも、あんまりみんな胸を張っているイメージではない。『ロング・グッドバイ』のエリオット・グールド、『チャイナタウン』のジャック・ニコルソン、『デュエリスト』のハーヴェイ・カイテル……みんなくだびれていてさびしげです。ベトナム戦争を経て、アメリカの男たちはみんな疲れてしまったでしょうね。そんな中で南米から飄々とやってきたホドロフスキージョン・レノンを筆頭としたアメリカ人たちに熱狂的に迎えられたのも、ある種の逃避だったのか。
 『サスペリア』は『2』にするかどうかでかなり迷ったんですよ。どちらもベクトルの違うおもしろさで、そもそもシリーズですらありませんが。

 『スティング』いいですよね。なんかどこかで映画通のひとにコケにされてましたが、なぜあの手の方々(主語)は『ニュー・シネマ・パラダイス』だとか『レオン』だとか『ライフ・イズ・ビューティフル』を貶すんでしょうか。どれも良い映画じゃないですか。
 

1980年代

1.『ロジャー・ラビット』(ロバート・ゼメキス
2.『アリス』(ヤン・シュヴァンクマイエル
3.『笛吹き男』(イジー・バルタ)
4.『アナザー・カントリー』(マレク・カニエフスカ)
5.『フルメタル・ジャケット』(スタンリー・キューブリック
6.『狂い咲きサンダーロード』(石井聰互)
7.『ホワイト・ドッグ』(サミュエル・フラー
8.『食人族』(ルッジェロ・デオダート)
9.『終電車』(フランソワ・トリュフォー
10.『動くな、死ね、甦れ!』(ヴィターリー・カネフスキー

A『となりのトトロ


 屈指の激戦区。実質アニメ作品が三本くらい入ってるようにも見えますが、気にせんといてください。『ロジャー・ラビット』は半分は実写だし、『笛吹き男』には実写のネズミが、『アリス』の主人公は実際の女の子だからセーフというルールです。
 『ロジャー・ラビット』はおそらく映画史に残る傑作というわけではないでしょうし、ライブアクションと2Dアニメの融合という意味では『メリー・ポピンズ』はもちろん下手すればジョー・ダンテの『ルーニー・テューンズ/バック・イン・アクション』にすら勝ってるかどうか怪しいんですが、まあアニメキャラがわちゃわちゃ出てきてアホくさくてとにかく楽しいんです。楽しいって大事ですよ。エンタメですからね。
 楽しいという基準で行けば『笛吹き男』なんか最高に楽しくない映画の一つでしょう。「ハーメルンの笛吹き男」を題材にしてストップモーションアニメでまあとにかく暗いのなんの。画面が暗いし話もドス暗い。人間は絶望するしかないんだなって思う。ソ連とかチェコとかの旧共産圏のアニメってマーケティング的にはかわいさで売ってるくせに、なんか暗澹たる雰囲気のもの多いですよね。でもベクトルがプラスにしろマイナスにしろ、圧倒的な迫力で押し切られたら降伏するしかありません。
 『アリス』、『フルメタル・ジャケット』、『アナザー・カントリー』、どれもカット単位のエロティックさがヤバいです。それぞれ質的に異なる手触りですが、物語だとかテーマだとかそういうものとは別のところで永遠に観続けられるアレがある。
 『ホワイト・ドッグ』は犬映画を語る上では欠かせない一本です。別にここでは語りませんが。『食人族』とセットで観ると明日から「人間は野蛮なのだ……
わるい文明なんだ……」というアルテラさん気分で生きていけます。滅ぼしましょう。
終電車』、作品要素的にも螺旋階段だとか電話だとかトリュフォー映画の集大成みたいなものです。トリュフォーのなかでは一番好きかもしれない。そういえば『動くな、死ね、甦れ!』の感触は『大人は判ってくれない』に似てる気がします。
 ヘルツォークの『フィッツカラルド』が最後まで粘っていたんですが、内容あんま覚えてないし、『食人族』に負けました。メッセージはナレーションで入るくらいわかりやすいほうがいいですね。そのおかげで作ってるほうも絶対こんなおためごかし信じてるわけないと知れますから。
 『狂い咲きサンダーロード』は元祖ウテナ。人間がバイクになります。
 
 アニメ枠はいよいよ選ぶのが難しくなってきましたね。ディズニーは斜陽期ですが日本勢が元気で、『ビューティフル・ドリーマー』、『AKIRA』、『ニムの秘密』、『ドラえもん のび太の大魔境』、宮﨑駿、どれもいいような気もするし、どれでもいいような気もする。でもコンサバなので、『トトロ』で。


1990年代

1.『エド・ウッド』(ティム・バートン
2.『約束 ラ・プロミッセ』(ドニ・バルディオ)
3.『ナイトメア・ビフォア・クリスマス』(ヘンリー・セリック
4.『コルチャック先生』(アンジェイ・ワイダ
5.『許されざる者』(クリント・イーストウッド
6.『フルスタリョフ、車を!』(アレクセイ・ゲルマン
7.『ブギーナイツ』(ポール・トーマス・アンダーソン
8.『ファーゴ』(コーエン兄弟
9.『ファイト・クラブ』(デヴィッド・フィンチャー
10.『フロム・ダスク・ティル・ドーン』(ロバート・ロドリゲス

A.『少女革命ウテナ アドゥレセンス黙示録』(幾原邦彦


 日本映画が入ってませんが、単に絶望的なまでに観てないだけです。
 1~4までは他の年代だったらどれもトップに置いたでしょうね。『ラ・プロミッセ』はかなり昔に一回観たっきりなので思い出補正入ってるとおもうんですが、それでもやはりラストシーンのエモさは屈指だと思います。エモいラストシーンといえば『コルチャック先生』も。なんか最後でエモくなればオッケーになる病気だな、というのはうすうす自覚しているところでもあります。
 っていうかまあリストの上半分はエモい作品ばかりです。下半分はなんというか……人が死んでますね。いや、『ファイト・クラブ』は死んでないけど、精神的にさ。
 『ファイト・クラブ』はとても哀しいお話です。それはそれとしてブラピやジャレッド・レトと殴り合うエドワード・ノートンはいいものです。
 『フロム・ダスク・ティル・ドーン』は何が良かったのか今となってはまったく思い出せないんですけど、鑑賞当時の自分のメモを観てみると「100点!」とあるので100点だったんだと思います。過去の私に免じてエモと人死にが高度に結びついた傑作であるところの『プライベート・ライアン』を押しのけて10枠に滑り込みました。イイ話だな。
 『エド・ウッド』もね、ほんとにイイ話なんですよ。要約すると「どんなに下手の横好きであろうと、自分の好きを貫くことが尊いんだ(報われないけどね)」というお話で、要するに『ユリ熊嵐』ですね。そうか? キチガイにやさしい数少ないアメリカ映画。父親と若いして以降のティム・バートン映画はどれも(『ビッグフィッシュ』とかね)好きです。


 アニメは『もののけ姫』か『ウテナ』か『ライオンキング』か。90年代はいつのまにか「エモさ」がテーマになっているようなので、エモ成分の一番強い『ウテナ』でいきましょう。

2000年代

1.『ファンタスティック Mr.FOX』(ウェス・アンダーソン
2.『コラテラル』(マイケル・マン
3.『イングロリアス・バスターズ』(クエンティン・タランティーノ
4.『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』(ポール・トーマス・アンダーソン
5.『その土曜日、7時58分』(シドニー・ルメット
6.『カンフーハッスル』(チャウ・シンチー
7.『ノー・カントリー』(コーエン兄弟
8.『エレクション』二部作(ジョニー・トー
9.『ミュンヘン』(スティーブン・スピルバーグ
10.『かいじゅうたちのいるところ』(スパイク・ジョーンズ

A.『千年女優』(今敏

 まあ迷いますよね。2000年以降はね。現代っ子ですからね。
 オールタイムベストの『ファンタスティックMr.FOX』は揺るがないとして、あとはどう選んだものか。コーエン兄弟とかPTAとか他で入れたんだからエドガー・ライトとかサム・メンデスとかハネケとかに目を向けるべきではないのか。
 それでも欲望のおもむくままに選ぶとこういう感じになってしまう。業ですな。
 なんか色んな意味で説教映画が多い気がします。みんな説教してもらいたいんでしょう。ある日あなたの前に殺し屋のトム・クルーズや殺し屋のハビエル・バルデムやナチぶっ殺し隊のブラッド・ピットが現れてあなたに説教をし、そして殺す。ブラピは特に説教せずに殺してるだけだったな。あとダニエル・デイ=ルイスがおまえのミルクセーキを吸いに来る。
 『Mr.Fox』、『コラテラル』、『その土曜日』あたりは「なんとなくそれなりに生きてるけど、おれの本当にやりたかったことなんなのかなあ……」映画でもあります。どれも大惨事になりますが。『その土曜日』のフィリップ・シーモア・ホフマンフィリップ・シーモア・ホフマン然とした情けなさでいい感じですが、2000年代のフィリップ・シーモア・ホフマンなら『カポーティ』も良い。ハマりすぎて逆にフィリップ・シーモア・ホフマン感ないですが。
 『カンフー・ハッスル』は生まれて初めて映画館で二度観た思い出の作品です。イイ話枠。
 ジョニー・トーはマジ迷いますよね。『エグザイル』、『ブレイキング・ニュース』、『柔道龍虎房』……別に1から10まで全部ジョニー・トーで埋めてもよかったんですが、コンサバなのでそういう冒険はできないタチのです。しょうがないので人が一番死ぬ作品を選びました。
(追記:『フィクサー』を『ミュンヘン』と入れ替えました。)

 『千年女優』はアニメ映画のなかでもマイオールタイムベスト。今敏、生き返らねえかなあ。


2010年代

 あと二年半くらいあるけど、すでになんか各年代の三倍くらいパンパンで選べなくなってる……。


90年代アメリカ映画100 (アメリカ映画100シリーズ)

90年代アメリカ映画100 (アメリカ映画100シリーズ)

*1:自分的にはけっこう衝撃的な割合で、自分は映画が好きというより映画館に居るために映画を観てるのかな……などとドン・デリーロの小説みたいなことを考えました。

*2:ただし観たのは「新世紀修復版」のほう

*3:今考えた

*4:作中では101匹より多いから本当はもっといく

『20センチュリー・ウーマン』に関する覚書

今年ベストクラスの映画です。
気になったところでまとまりそうなところを箇条書きで。



「20センチュリー・ウーマン」予告編

海(辺)と土と空

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上が『20センチュリー・ウーマン』の、下が『ザ・マスター』のファーストカット。



20センチュリー・ウーマン』は波打つ海を直下に眺めたショットからはじまる。ここでわたしたちはポール・トーマス・アンダーソンの『ザ・マスター』をひきあいに「ファーストカットが波打つ海な映画は大名作」という法則を謳うこともできる。けれども、思い出してほしい。『ザ・マスター』で波状していたのは船による航行の結果であって、『20センチュリー・ウーマン』での何者にも妨げられない本物の波とは違う。
 『ザ・マスター』は「船」に乗っているひとびとの物語だった。かたや『20センチュリー・ウーマン』の登場人物たちは波打ち際であるサンタバーバラに封じこめられている。もちろん、若者たちが過半数を占めるこの映画においてそんな束縛は一時的なものでしかないのだけれど、既に五十の坂を越した母親(アネット・ベニング)にとっては終着点だ。
 そこは何かにつながる場所でもある。日本では主に文字通りの彼岸として用いられがち(最近だと『武曲』)な浜辺は、『大人は判ってくれない』以来の文脈だと行き詰まりであると同時に本当の行き止まりでないところ。船出の場、外から何かが運ばれてくる場。
 だからかもしれない、彼女は息子(ルーカス・ジェイド・ズマン)の育て方に行き詰まったときは決まって浜辺に行く。エル・ファニンググレタ・ガーウィグに「子離れ」の協力を頼む直前も、それを取り消そうと息子を説得する前も極めて短い浜辺のシーンが挿入される。彼女は押し寄せてくる息子の成長という荒波に、彼女なりに対処しようと奮闘しているのだろう。

 では、ベニングはやはり『ザ・マスター』と一緒で船長的な存在なのか。海の人なのか。違う。『ザ・マスター』のファーストカットと『20センチュリー・ウーマン』のファースト・カットで決定的に異なる点がある。視点の高さだ。つまり、『ザ・マスター』があきらかに船の後尾(くらい)の高さから撮影したものであるのに対し、本作は高高度から波を捉えている。眼は空にある。
 本作を最後まで観た人ならおわかりだろうけれど、最後にベニングは子供の頃の夢だった「飛行士」になる。彼女は空の人だ。
 だからなのか、ガーウィグに大地の神秘を語り、母なる地球と合一する瞑想を好み、のちに趣味が高じて陶芸家になる土の人、居候のウィリアム(ビリー・クラダップ)とはやはりくっつかない運命にある*1。雲の高きに舞う鳥は、地上で羽根を休めてもまた飛びだっていくものだ。だからこそのラストカット。最初のカットとは対になるものであると同時に、答え合わせでもある。


マイク・ミルズにおけるネコとイヌ

20センチュリー・ウーマン』では主人公家の飼い猫が優雅な存在感を放っている。
 ネコとくればイヌ。マイク・ミルズのイヌといえば前作『人生はビギナーズ』における主人公の忠犬アーサー(コズモ)が思い出される。これには単なる偶然以上の作為を見出さざるをえない。
 なぜなら、『人生はビギナーズ』はミルズの父親がモデルの、『20センチュリー・ウーマン』はミルズの母親がモデルの、どちらも半自伝的映画なのだから。
 『ビギナーズ』のアーサーは死んだ父親と主人公自身の曖昧な弱さを具現化した存在だ。元は父親の飼い犬で、父の死後に主人公へ引き取られた。彼はとても寂しがりやだ。主人公がパーティへ出かけるために他人へ預けようとすると、切なく喚いて結局主人公を呼び戻す。
 一方的に主人公へ依存しているかといえばむしろ逆な面もあって、主人公のほうでもアーサーの「声(主に人生に関する助言)」が聴こえてきたり過剰な擬人化をほどこすなど依存の兆候が見え隠れする。
 物語上でも、アーサーとの別離が亡き父親に引きずられてきた生活に対する一区切りとなる。アーサーは映画本編全体でも『20センチュリー・ウーマン』のネコに比べてかなり大きな比重を占めているので、詳しい活躍は本編をご覧になってほしい。

 父親と息子を半々で分け合っていたのが『ビギナーズ』のアンニュイなイヌだったが、『20センチュリー・ウーマン』の自由奔放なネコは100パーセント母親だ。
 ネコは常に母親を伴って出現する。大抵は、ベニングが物思いにふけっているシーンだ。そして彼女が思案しだすや、ネコはぴょんと飛んで画面外へと消えてしまう。ネコはベニングの奔放さを表すと同時に、その胡乱さや迷いをも示唆している。
 ネコが彼女の思考と連動する存在であることは、家族に断りを入れずにロサンゼルスへ出かけた息子が帰ってくる直前、ベッドの上で彼女がネコをさわって話しかけるところによく描かれている。ベニングは他人としてネコではなく、自分の分身に言い聞かせるように話すのだ。
 
 イヌであるところの父親とネコであるところの母親、(生物学的にはまったく対立する必要がないのだが文化的には)対立する(しているということになっている)ふたつの種がなぜ結婚してしまったのか。最初から離婚は目に見えていたのではないか。
 この疑問に対する解答は既に『20センチュリー・ウーマン』の劇中でベニング自身の口からなされている。

「あの人が左利きだったからよ。
 私は右利きで、だから朝に二人で新聞を読みながら株価をチェックするときに、彼は左手で値を書きながら、右手で私のおしりを掻いてくれた」
「それだけ?」
「それが好きだったの」

 まったく対照的な二人だったからこそ、なのだろう。


エル・ファニングの階段。

 十五歳のズマンの部屋に毎晩、二歳上のエル・ファニングが泊まりにくる。ふたりのあいだに、いっさいの性的な接触はない。ただ同じベッドで眠るだけだ。
 エルファに恋心を寄せる思春期少年ズマンはこの中途半端な関係に悶々とした毎日を送っているわけだけれども、ところで彼女は二階に位置している少年の部屋までどうやって侵入するのか。
 あらかじめ、彼の部屋に通じるハシゴが設置されているのだ。なぜハシゴがそこにあるのか。家が普請中だからだ。古い屋敷を戦後に買い取ったため、ベニングがクラダップの助けを借りて、毎日ツナギに身をつつんで改装工事を行っている。

 家、家、家。またアメリカ人の映画に家が出てきた。
 しかも、工事中の家だ。さすがに『許されざる者』に出てくる保安官の家のような邪悪さはないけれど、未完成であることはそのままベニングの未完成の家庭状況に対応している。
 そうした未完成な家に住む未完成な家庭の未熟な子どもの心のすきまにハシゴをかけて、毎晩エル・ファニングは少年をふりまわしにやってくる。イレギュラーな訪問手段*2を使うのは彼女も少年とどうなりたいのかよくわかっていないからで、だから一緒にモーテルへ連れ立って一対一の生身の人間として接したときに、それまでの仮初の関係が崩れ去る。そのコテージに出入りするための扉は一つしかない。
 

突然出来た友だち以上義姉未満の存在としてのグレタ・ガーウィグ

(ここにシチュエーションがよく似ているといえなくもない二作、姉弟版であるところの『20センチュリー・ウーマン』と姉妹版であるところの『ミストレス・アメリカ』のそれぞれにおけるグレタ・ガーウィグについて書くつもりだったが既に記事が長くなってしまったので、まあまた今度ということで。) 

*1:ベニングのキッチンが鮮やかなレモンイエローで、クラダップの寝室が青で染められそれぞれ「色分け」されているところにも注目したい

*2:このイレギュラーな訪問手段の使い方が最上級に上手いのが『アナザー・カントリー』

新潮クレスト・ブックス全レビュー〈7〉:『人生の段階』ジュリアン・バーンズ

『人生の段階』(Levels of Life、ジュリアン・バーンズ土屋政雄・訳、著2013→訳2017)


人生の段階 (新潮クレスト・ブックス)

人生の段階 (新潮クレスト・ブックス)


 小説なのかノンフィクションなのか判別がつかない。*1奇妙な書物である。『イングランドイングランド』や『フロベールの鸚鵡』を書いたジュリアン・バーンズを「奇妙」と評すほど無意味なことはないけれど、そんなバーンズ作品でもとりわけ異色であることには間違いない。


 本書は二つの国と三つのチャプターから成る。

 第一章「高さの罪」では、十九世紀の気球ブームにまつわるエピソードが気球乗りにして写真家のナダールことフェリックス・トゥルナションを中心に記述される。
 章題が指すのはイカロスの寓話だ。神に近づくことを夢見た人間イカロスは、その傲慢さを咎められて飛行中に偽の翼を焼かれ墜死する。爾来、ヨーロッパ人は飛行を禁忌としてきたわけだが、気球の登場がその「罪」を克服し、人類を新時代の冒険へと誘った。同じく近代を象徴するツールであるカメラを携えたナダールはその象徴というわけだ。


 第二章「地表で」では、第一章でもそれぞれ気球乗りとして言及された英国人冒険家フレッド・バーナビーとフランス人女優サラ・ベルナール恋物語が綴られる。
 どちらも実在の人物だ。バーナビーはヴィクトリア朝を代表する冒険家で、伊藤計劃の遺作『屍者の帝国』(で円城塔が引き継いだパート)では豪放磊落な人物として描かれているが、本作ではむしろ繊細な青年といった印象。ベルナールはベル・エポックを代表する女優で、ユゴーオスカー・ワイルドとも交流を持ち同時代の文化に大きく貢献した。
 ベルナールは恋多き人物として知られているが、バーナビーと付き合っていたという史料はおそらく存在しない。第一章とは打って変わって、この章はバーンズの創作だ。
 だから、冒頭に宣言される「これまで組み合わせたことのないものを、二つ、組み合わせてみる」は第一章とまったく同じだけれど、続くセンテンスが違う。「うまくいくこともあれば、そうでないこともある。」
 続く文章は気球の技術についてのもので、つまりバーンズは愛とその行く末を気球になぞらえている。

 実際に、地に這いつくばる人間がときに神々の高みに達することがある。ある者は芸術で、ある者は宗教で、だがほとんどは愛の力で飛ぶ。もちろん、飛ぶことには墜落がつきものだ。軟着陸はまず不可能で、脚を砕くほどの力で地面に転がされたり、どこか外国の鉄道線路に突き落とされたりする。すべての恋愛は潜在的に悲しみの物語だ。(p.46)


 悲しみの物語であるところの恋愛はそのまま第二章のベルナールとバーナビーの顛末を暗示すると同時に、第三章のバーンズ自身の物語を予告する。


 第三章「深さの喪失」では、妻を病気で失ったバーンズの彷徨が描かれる。人生の半分を共に過ごした伴侶を亡くした老小説家は、世界に対する関心をなくし、友人や知人たちの言葉や態度に反発し、妻を想起させるあらゆる出来事に涙し、やがては希死念慮を抱くようになる。
 妻の死は彼の趣味すら変える。以前は興味を抱けなかったオペラがきゅうに理解できるようになる。彼は『オルフェオとエウリディーチェ』を観劇しにでかける。イカロスと同じくギリシャ神話に材を取ったオペラで、オルフェウスという男が喪った妻を取り戻しに冥界まで降り、妻の手を引いて現世へ戻ろうとするも、「冥界から脱出するときは決して振り返っていけない」という禁忌を破って妻のほうを振り向いてしまったために再度妻を失ってしまう話。
 最初、バーンズはオルフェウスをバカげた愚か者と考える。絶対ダメと念を押されたはずのルールをなぜ破ってしまうのか。結果がわかりきっているのに、なぜ、と。しかし『オルフェオ』を観たバーンズは一転してオルフェウスに共感する。

 どうして見ずにいられよう。「正気の人間」なら決してしなくても、オルフェオは愛と悲しみと希望で正気をなくした男だ。ほんの一瞥のために世界を失うようなことをするか。もちろん、する。世界は、こういう状況で失われるためにある。(p.115)

 
 墜落するとわかっていてもやめられない。その物語が今のバーンズには納得できる。
 ギリシャ神話、写真、オペラ、愛のメタファーとしての気球、バーナビーとベルナール、イギリスとフランス……反復はパターンを構成する。そしてパターンによって人生は物語化される。バーンズは言う。「たぶん、悲しみはすべてのパターンを打ち壊すだけでなく、パターンが存在するという信念を破壊する。だが、私たちはその信念なしには生きていけないと思う」

 壊れてしまったパターンを直すために断片的な事柄から要素を見出し拾いあつめること。それこそが作家としてのバーンスが行わずにはいられなかった自己セラピー、作中のことばを借りるなら「グリーフ・ワーク」だ。それはそのまま小説を書く作業でもある。本を読み、文豪たちの名言を引き、気球や写真について調べ、ひとつの組織された虚構を著述する。
 その結果として、本書が生まれ、ジュリアン・バーンズはなお生きている。

(2064文字)
 

*1:英語版 wikipedia の作者ページでは「Nonfiction, memoir」にカテゴライズされている