名馬であれば馬のうち

読書、映画、その他。


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クリシェじゃないのよ。ーートレイ・エドワード・シュルツ監督『クリシャ』について

(Krisha, トレイ・エドワード・シュルツ監督、2015年、米)


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『クリシャ』について


Krisha (2015) Official Trailer


 最近の、あるいはむかしからそうだったのかもしれないけれど、アメリカのインディー映画は一幕目で出した銃を三幕目で撃つより、銃がなぜそこにあるのかを映画全体のストーリーテリングによって観客に想像させるほうが好みらしい。
『クリシャ』における撃たれない銃は欠けたひとさし指だ。

 物語冒頭、主人公クリシャは六十代の老体には重そうなトランクをひきながら妹の家を訪ねる。
 その扉の前でさりげなく包帯のまかれた右手のひとさし指が示されて、観客はオッ何かあるなと身構えるわけですが、期待に反してその傷の由来が説明されることはついにない。欠落や違和感を即座に伏線として認識するような、鍛えぬかれた現代の物語鑑賞者たちは肩透かしを食らうだろう。
 けれど作品の文脈的に、監督の「語らない」という選択は正しい。『クリシャ』は、監督であるトレイ・エドワード・シュルツが自分の親類を題材にし*1、自分(自身を含めた)の親類を役者として起用した、極めて私小説的な映画だからだ*2。いや、私小説というよりはホームムービーに近いのかもしれない。伏線とその回収は、物語世界を作り物として見せてしまう副作用があるけれど、『クリシャ』は自然主義的な撮りっぱなしの作法とはまた異なるところであえて放置しているようにおもう。
 あえてあえての説明のなさ。人工的に造られた自然な不自然さ。埋まらない欠落。そこに案外2010年代後半からのアートハウス系現代アメリカインディーホラーの潮流の鍵が眠っているのかも。

 観客は主人公クリシャを寄り添うように追うカメラに導かれ、クリシャ一族の感謝祭パーティへ放り込まれる。合わせて十数名ほどの親戚縁者のうち、クリシャとの関係が明示されるのはほんの数名だ。しかも明かされるにしても、ほとんどの場合、物語が始まってからけっこう経った時点なので、とにかく序盤は話が掴みづらい。
 映画なのだから我慢して観つづければ映画的に決定的な瞬間がいつかは訪れるだろう。そんな経験則にたのんで、観客はなんだかよくわからない不安定なクリシャにつきあっていく羽目になる。
 映画の編集も精神的な疾患を抱えているっぽい*3クリシャの認知に沿ったつくりとなっていて、時系列が微妙に前後していたり、本筋と関係ない映像や音声があったりとみょうにノイズが多い。挙句の果てには不協和音めいたBGMがクリシャの不安と連動するかのようにえんえん鳴り響く。
 登場人物たちを把握しきれないはがゆさとノンリニアな語り口のままならさは、本来あまり共感的なキャラといいがたいクリシャの感情を観客へとリンクさせるだろう。

 すなわち、疎外感。

 最もプリミティブなはずの「家族」という名の輪にひとりだけ外される。戻りたいのに戻れない。自分はそこに属しているべきなのに、属せない。
 その悲しさを私たちは親密に共有しつつ、一方でおもう。でも、しょうがないんじゃないんじゃないか。よく知らないけれど、あなたの現状を見るかぎりでは。
 クリシャは泣きわめく。「私だって頑張ってきたのよ!」
 観客は彼女の「努力」を知らない。クリシャの家族も彼女の「努力」を知らない。見えるのは結果だけだ。今この瞬間のぶざまさだけだ。

 他人の人生や家庭の一場面をアイスクリームのスクープですくうようにえぐりとって覗き、判断する。映画はそうした傲慢さを前提とする*4物語装置で、トレイ・エドワード・シュルツはそのいやらしさを自覚的に使い潰す。
 なにがいちばんずるいって、クリシャの執着する息子役を監督自身が演じているところだ。役名まで「トレイ」。*5映画監督志望だったけれど大学では経営学の道を選んだという背景まで反映されている。*6
 観客の眼に否応なくメタ視点のレンズを取り付けて、ご近所さんのゴシップ的な窃視欲をひきずりだす(それこそシチメンチョウの内臓を取り出すような手際で)監督のいじわるさは第二作となる『イット・カムズ・アット・ナイト』でもいかんなく発揮されている。
 

It Comes At Night | Trailer #2 | A24


2015〜16年にかけて当時無名だった若手監督によるものとして特に話題になったホラー作品が三本あって、ひとつはデイヴィッド・ロバート・ミッチェルの『イット・フォローズ』、ひとつはロバート・エガース『ウィッチ(The VVitch)』、そしてもうひとつがこの『クリシャ』だった。
 三作とも今ふりかえれば、さまざまな点においてアリ・アスターの『へレディタリー』を準備していたといえなくもない時代性をまとっていた。唯一『クリシャ』だけが日本公開されずにおわるのは悔やまれるところだったけれど、この2015年における「欠けたひとさし指」を上映にまでもっていったグッチーズ・フリースクールさんは、ほんとうにいい仕事をしたとおもいます。


Waves』について


WAVES | Official Trailer HD | A24


 そして気になるシュルツ監督第三作にして最新作の『Waves』。すでにアメリカではテルライド映画祭にてプレミア上映され、批評家筋からも高い評価*7を集めている。10日にはアカデミー賞前哨戦トロント国際映画祭でお披露目される予定だ。
 主演は『イット・カムズ・アット・ナイト』にもメインで出演したケルヴィン・ハリソン・ジュニア、共演にはエミー賞常連で『ブラックパンサー』や『ザ・プレデター』でも存在感を発揮したスターリング・K・ブラウン、ドラマ『ロスト・イン・スペース』で注目をあびたタイラー・ラッセル、そして『マンチェスター・バイ・ザ・シー』以来活躍の著しいルーカス・ヘッジスなど。
 内容は父子の関係に焦点を当てたいつものシュルツの家庭不和ホラーかとおもいきや、後半からおもいがけなく「感動作」になってくるそうで、シュルツとしては新境地っぽい。英国ガーディアン紙は「今年最も視覚的に驚嘆した映画」として五ツ星を与えている。
 インディーの余韻を残しつつもジャンル映画を脱してステップアップした一作であろうと予想され、トロント国際映画祭の評判次第ではアカデミー作品賞の候補にもあがってくるはずだ。
 トレイ・エドワード・シュルツはまだ三十歳。アリ・アスター、ロバート・エガース、サフディ兄弟、ボー・バーナム、グレタ・ガーウィグといった80年代生まれ*8の”A24ギャング”でも、A24究極の秘蔵っ子としていよいよ飛躍していくだろう。


*1:物語の核となるクリシャの設定はシュルツの父親といとこに依ったらしい。(https://www.npr.org/2016/03/16/470668069/we-couldnt-save-them-lessons-from-a-film-about-family-and-addiction)クリシャを演じるクリシャ・フェアチャイルドはシュルツの叔母にあたり、クリシャの姉役がシュルツの実母。祖母はそのまま祖母役で出演。ややこしい。

*2:シュルツ監督は精神科医を本業とする実母に出演を頼むにあたり、ジョン・カサヴェテスを引き合いに出したらしい。返ってきた反応は「だれ、それ?」https://nofilmschool.com/2016/03/trey-edward-shults-breakout-film-krisha-was-shot-9-days

*3:原因が何であるかは終盤になって明かされる

*4:二時間の映画で語られうる物語は小説に換算すると短編一本分、というのはよく言われる話だ

*5:ちなみにクリシャも本名は「クリシャ」。出演陣のほとんどは実名=役名に設定されている

*6:監督も両親に映画の道をいったん反対されたという過去があったようだ。「私の両親はビジネススクールを出て学位を取得し、いい仕事を得ることを私に望んでいました。」結果的に、彼は大学を中退してテレンス・マリックの現場に参加しながら映画を独学する道を選ぶ。https://nofilmschool.com/2016/03/trey-edward-shults-breakout-film-krisha-was-shot-9-days

*7:rotten tomatoes で9月8日現在、12個のレビューで支持率100%。スコアは8.8

*8:バーナムだけは90年生まれだが

twitterのアカウントが消えた。



 おまえがメキシコに戻ってきたのは、生者といるより死者といるほうが落ち着くからだ。


 ――ドン・ウィンズロウ田口俊樹・訳『ザ・ボーダー』

【あらすじ】

  10年くらいやってた twitter のアカウントが消えた。

https://twitter.com/nemanoc


【経緯】

 
 ふだんいじらない各種設定欄をいじってるうち、プロフィール欄全部埋めちゃえ生年月日も埋めちゃえというノリになり(深夜0時ごろだった)、2005年生と大嘘を提出。
 13才以上ならイケたはずという算段だったものの、それまであらゆる軽口をアルカイックに流していた twitter さんがとつぜん「”登録時の年齢”が13才以上じゃないとダメなの! 2009年時点だと4才じゃん!! 死ね!」とマジギレしだし、秒でアカウントが停止してしまう。
 返してほしくば政府機関の発行する身分証を出せということなので、おとなしく保険証に黒塗りをかけて提出した。

 すると今度は返信メールで「顔写真がないとダメ」とか抜かしやがる。最初から言えよ。
 顔写真つきの身分証といえば要するに運転免許証なのであるけれど、わたしは免許証というものを持たない。
 パスポート探すのもめんどいし、役所に頼るとなると光年の彼方の気分です。ネトフリで『グレート・ハック』見た直後でもあったし、ぶっちゃけよくわからん理由で twitter ごときにセンシティブな公的書類わたしたくねえ……。
 てきとうにすむやつないかなー、と財布をひっくりかえして出てきたのが動物園の年間パス。
 写真も名前も歳も有効期限も示されてるし、いちおう公的機関発行でもあるから大丈夫だよねーこれでダメなら明日またパスポート探すなりすればいいし、で提出して後はどうにかなるさと肩を組んだ。


 もちろん大丈夫なわけはありません。どうにかもならない。肩を組んでる場合ではない。

 そのうえ、証明画像のアップロードにまごまごしていたせいで twitter さんの逆鱗に触れたらしい。*1
「もう貴様からのお問い合わせは受け付けません。ツイをつづけたいなら新しいアカウントを作れ!! さもなくば死ね」
 とお叱りを受け、わたしは死んだ……。*2

【敗因】

 ふだん表面に見える活動から twitterTSUTAYAなみにルーズな企業だと侮っていたので、個人照会もTSUTAYAのノリでいけるだろうと考えてしまった。

【かなしいこと】

・フォローしていたおともだちの大半が失われてしまった。彼らから見ればわたしが死んだことになりますが、わたしから見たら彼らのほうが大絶滅。わたしたちはもう二度と『将太の寿司』で盛り上がる世界を目撃することはないだろう。
・過去のフォロー欄にもアクセスできないので、誰をフォローをしていたか九割がた思い出せない。
・nemanoc というID、上半分がまるくておさまりよくてかわいくて好きだったのに二度と使えなくなった*3
・過去ログが全部消えた。定期的にバックアップは取っていたんだけど、ここ半年くらいはアップデートしてなかったのでそのあいだに見た映画の感想とかもう見られない……。年末のまとめとかつくるのに難儀する。



【今度の方針】

・特に以前と変わらない。
・数ヶ月前に別アカ的なものをこしらえていたのでとりあえずそっちに移るっていうか合併する。*4

twitter.com


・思い出せるかぎり前にフォローしていた人たちをちょくちょく見つけていく。せっかくだし以前とは違うTLを作りたいというアレはある。
・アカウントが変わるとふしぎなもので、実際上はなにも変わっていないはずなのに、ポストする文の感触が変わってくる。ほんの一時的な現象なのかもしれません。
・子供のころにインターネットをはじめてから、数年ごとにハンドルネームを変えながら生きてきたのだけれど、nemanocは6年?*5くらい続いて、これが終の名になるのだろうか、ツイだけに……と予感していたところにこれですから、なんといいますか、連続して在るのはむつかしいですね。かつてわたしたちは四肢と頭によって統合された肉体だけが身体だったけれど、今やインターネットに不可視の王冠かぶった自分の複製がいる。それは無料で登録できる不滅でもある一方、いともたやすく失われもする。
・誰もが簡単に死ねるのに死ねない。ならば、どう死ねばいいのか。レベッカ・ソルニットも「忘却ではなく手放す技法こそが肝要なのだ」といっているのだし、意図するにせよしないにせよ過去を洗い磨いていくための切断は大事なのだとおもう。あるいは忘れられることによって自分も研ぎ澄まされていくのかもだけれど、そういうのは年をとると怖くなるよねえ。
・というわけで半端にわたしの twitter はつづいていくのです。
 

【教訓】

・余計なことはしないほうがいい。

暗い鏡の中に (創元推理文庫)

暗い鏡の中に (創元推理文庫)

*1:具体的には、証明書類の提出回数には制限があったらしいのだが、勝手がわからず同じ画像をアップロードして送りまくっていたらあっというまにその制限を超えたらしい。

*2:ちなみに基本的に twitter は想定されうる状況ごとに用意された専用のフォームからしか問い合わせを受付ず、定形外の事態に遭遇しても説明する手段がない。

*3:twitter で一度取得されたIDは消えても(自主的な削除だろうがBANだろうが)再取得できない

*4:そっちはもともと創作用のアカウントだったのだけれど、考えてみれば創作はほとんどしていないので開店休業状態だった。

*5:twitter始めてから数年は別のIDだった

原作をそのままやってもやれなくて。――リメイク版『ライオン・キング』について

(The Lion King, ジョン・ファヴロー監督、2019年、米)


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 ふだんはあんまり愚痴っぽい感想を書かないようにしているんですが、今回だけは思い入れの強さが段違いなので許してください。
 原作厨モードなので「オリジナル版」との比較ばかりとなっております。




「ライオン・キング」予告映像B


顔あるけもの



 ディズニー・アニメのマジックは、個性が内面化したように描かれることである。「ものが動くのではなく、生きて考えているように描かねばならない」とウォルトは言う。ディズニーのアニメーターであるケン・ピーターソンによると、「アニメーション」という言葉は、「動き」を意味すると考えられがちだが、実際はそうではなく、「ANIMUS」とは「生命の原動力・生命」あるいは「生きる」ことを意味するのである。
 ディズニーのアニメーションは生命を描いている。というようりも生命上に大きいものを描いている。ウォルトが追求したのは生命の模倣ではなく、その誇張である。
 ウォルトの言う「生命の風刺」はリアリズムにもとづいて、そのうえに膨張していく。そしてリアリズムは彼の世界を単純化し完璧なものにし、世界をコントロールする。


 ――ニール・ゲイブラー、中谷和男訳『創造の狂気 ウォルト・ディズニーダイヤモンド社


 原作をそのままやる。
 ただそれだけがなんと至難であることでしょう。
 この夏話題の『ドラゴン・クエスト ユア・ストーリー』はまさにそのままやれなかったことが*1炎上につながる結果となりました。*2

 ひるがえって、リメイク版『ライオン・キング』は極めてオリジナルのストーリーに忠実です。プロット単位はもちろん、シーン単位、ともすればカット単位で見てもオリジナル版(1994年)とかなり一致しており、2010年代のディズニークラシック・リメイク作品群のなかでも「そのままやった度」では群を抜いているのではないでしょうか。
 アメリカでの映評のなかにはガス・ヴァン・サントの『サイコ』リメイクと重ねる声もあるくらいです。*3


 にもかかわらず。
 この違和感はなんなのでしょう。
 シンバも、ナラも、スカーも、ザズーも、ハイエナたちも何かが違う。同じセリフを吐き、同じ歌を歌っているはずなのにオリジナルの『ライオン・キング』となにかが決定的に違う。

 そのなにかとはなんなのか。
 わたしたちの眼に映っているもの、まさにそれです。


 そう、シンバたちがあまりにリアルすぎる。
 顔が、ではなく、動きが。

 ジョン・ファヴロー監督曰く「自然ドキュメンタリーのような」*4フォトリアルな造作と挙動。それがアニメーションのキャラとしての自由さを制限してしまっているのです。



“完璧すぎない”ことが大事だったんだ。アニメーターたちが動物を動かすときは、本物の動物がやること以上の行動はさせないことも大切だ。キャラクターが人間的な表情をしてしまうと、逆に変になるんだよ。最初の頃のテストで表情を感情的にしてみたら、僕たちが違和感を覚えてしまったんだ。『今見ている映像はリアルかもしれない』と、観客にイリュージョンを感じてもらうことに意味があると僕は思っている


 ――ジョン・ファヴロー 
「ライオン・キング」ジョン・ファブロー監督、目指したのは“完璧すぎない”こと : 映画ニュース - 映画.com

 多くのディズニーアニメと同じく、オリジナル版『ライオン・キング』のキャラクターたちはかなりデフォルメされた動きをします。端的に言えば、人間っぽく振る舞うのですね。
 たとえば、プライドランドを追放されたシンバがティモンとプンバァ*5と知り合い、彼らから虫を勧められて食べるシーンがあります。
 オリジナル版だとシンバはティモンから渡された虫を前肢の指で器用につまんで口にいれます。現実のライオンにはできない芸当です。
 いっぽう、リメイク版だとシンバは四足獣らしく、這っている虫を口だけで拾い上げ食らうのです。
 このように、オリジナル版に出てきた「本来動物には出来ない動作」は軒並みそれぞれの身の丈にあったアクションに置き換えられています。 *6


 オリジナル版ではどのキャラも表情をコロコロと変えるのも人間くさくて印象的でしたが、リメイク版ではそちらもかなり平坦な演技に変わっています。そりゃ、ふつう動物は笑いませんからね。
 骨格から表情筋までリアル動物基準に合わせてしまったがために、『ライオン・キング』は仏頂面のオンパレードです。「ふつうの動物」の範囲では精一杯表情豊かにふるまっているのですけれど……。
 オリジナル版の活力に溢れた顔に比べると、なんだか本物の動物に『ライオンキング』のセリフを当てて作ったMAD動画のような不吉ささえ帯びています。*7


スカーフェイズ

 「動物化」路線にとりわけ影響を受けたのは悪役のスカーでしょうか。
 彼はオリジナル版だと細身で能弁な策士で、そのオーバーアクト気味な演技力でムファサとシンバの親子を破滅へと追いやっていきます。卑怯者の情けなさと謀略家の冷酷さを伏せ持つ彼のイメージに、シェイクスピア俳優ジェレミー・アイアンズの声はまさにぴったりでした。
 ところがリメイク版のスカーは、ムファサと比べれば若干痩せ気味なものの、それなりに立派な体格のオスライオン。面構えもゴツい。
 演じたのはキウェテル・イジョフォーです。『それでも夜が明ける』や『ドクター・ストレンジ』での朴訥で生真面目なイメージが強いですが、本作でも策士であることは策士なんだけれど、過剰な演技でシンバを誘導するようなことはせず、芯を持ってぶっきらぼうに釣り餌をまいていくアンタッチャブルなヤクザめいた印象です。声そのものはオリジナル版のアイアンズに寄せてきたな、というかんじ。


 ふたりのスカーの違いをよく表しているのは隠れた名曲「Be Prepared」*8
ディズニー公式チャンネルで上がっているクリップを見てみましょう。

 こちらはオリジナル版。
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 実に躍動感溢れるノリで数々のギミック(?)に飛び移ってはハイエナたちとドツキあいつつ、セクシーなシブい声で高らかに自分の野望を歌い上げます。特に最後の"Be king undisputed, respected, saluted, and seen for the wonder I am! Yes, my teeth and ambitions are bared. Be prepared.”は名曲ぞろいの『ライオン・キング』挿入歌中でも屈指のパンチラインではないでしょうか。めちゃくちゃかっこよくて高揚しますね。


 で、イジョフォー版の映像は用意できませんでしたが、曲調はこんな感じ。

www.youtube.com


 場面としては、薄暗い岩陰で足場を(オリジナル版よりは幾分控えめに)飛び移りながら、歌うというよりはハイエナたちへ演説するような調子でリリック*9を乗せます。*10
 ハイエナたちもノリが悪く*11、全体的にヘビーでおとなしめです。たしかに単体の曲としては悪くないし、場面の雰囲気とマッチしてはいて方向性は理解できるのですが、あまりに荒涼としていて愉しさにかけます。


夢と魔法を引かれたアニマルキングダム

 そうなんですよね。ミュージカルシーンが愉しくないのが問題なんです。
 リメイク版は動物たちを「動物化」すると同時に、オリジナル版にあった魔法をも消してしまった。具体的にはこんな感じです。


挿入歌"I JUST CAN’T TO BE KING”比較。
(オリジナル版)

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(リメイク版)

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 オリジナル版ではシンバが歌い始めた途端に画面がアフリカンアートめいたカラフルな色調に塗り替えられ、シンバたちが表情豊かに飛んだり跳ねたりしながらモブ動物たちの大コーラスをバックに狂った世界でシャウトします。同時にザズーとのスピーディな掛け合いもコメディとして良好に機能しています。これがミュージカルの魔法です。

 ところがリメイク版ではその魔法がかからない。オリジナル版に似ていながらも縮小された景色を行きながら歌詞をなぞるだけです。
 誇張した表現を使わずとも、ハイパーリアルな映像美で観客を圧倒できる、そういう計算だったのかもしれませんが、実際に展開される光景はナショナルジオグラフィックめいていて退屈です。とてもシンバとナラのわくわくに満ちた子供時代を再現できているとは思えません。


意味かい? 「ぼくたちは大丈夫」だってことさ。(By ティモン)

 たしかにたてがみの一本一本が細やかに風になびく映像技術はすばらしい。実際の動物のモーションを再現するためのリサーチも十分尽くしたのでしょう。
 スクリーンにいるのは完璧なライオンです。ライオンたちが人間的な感情を有していたらこんな感じなんだろうな、と想像させます。そこはすごい。

 ですが、その完璧なまでにリアルなライオンたちに『ライオン・キング』を演じさせたのは、果たして正解だったのでしょうか?

ライオン・キング』はもともと人間寄りに戯画化されたキャラクターたちのために作られた作品です。だからこそディズニーアニメ作品のミュージカル化にあたって真っ先に選ばれたのでしょうし、今に続くロングラン作品となりえたのでしょう。
 そんなものに本物のライオンたちをアテたって馴染むわけがない。奇妙なパロディの感覚を喚ぶだけです。*12
 やはりディズニークラシックのリメイクであったファヴロー監督の前作『ジャングル・ブック』でも登場動物たちは誇張を捨てたリアルな装いを身にまとっていました。しかし、あの作品の中心には人間であるモーグリ少年がいて、「人間と動物」の線を引くことが物語の核心に関わってくるよう構成されていたため、『ライオン・キング』ほどの異物感はありませんでした。


 リアルさを追求するな、リアルっぽい動物に人間のことばを喋らせるな、と言っているわけではありません。
 むしろ、誇張を抑えてリアルに再現された動物たちだけが出てきて喋るCG映画作品があったら何としてでも見てみたい。わたしはそういうものが大好きです。
 もし、あの本物のライオンたちのために用意されたシナリオが、作品があれば、あるいは幸福な映画の可能性もあったやもしれません。
 しかしディズニーはその道を選びませんでした。多額のコストをかけてオリジナル作品に賭けるよりは、すでにヒットの実績があって知名度も高い過去作という器を選んでしまったのです。その器が自分たちの手法に合っているかどうかを考慮することもなく。*13*14


「原作をそのままやる」ことがかならずしも幸せにはつながらない。ストーリーやセリフだけをなぞっても「そのまま」にはけしてならない。
 映画とは、なんと繊細で深遠なことでしょう(テキトーなシメ)。

 こうした挑戦をひとつひとつ噛み締めながら、人類は進歩していきます。わたしたちは薪に座し、吊るした肝を舐めながら次なるディズニーのリアル動物リメイクものに Be Prepared しましょう。


 で、「次」とは?

 『わんわん物語』です*15
 アメリカでは2019年12月公開予定。*16
 監督はカートゥーン・ネットワークで長年活躍したベテラン、チャーリー・ビーン
 脚本はなんとあの「マンブルコアの帝王」、アンドリュー・バジャルスキです。
 現段階ではティーザーすら出ていないのでどうなるかまったくわからない。
 もしかしたら、リアルなイヌの挙作をするリアルなイヌたちに、ミクロなバジャルスキ脚本はマッチしてしまうかもしれない。そういう希望だけを抱いて生きていきましょう。

 ハクナ・マタタ。心配すんなってことさ。




 なにかと批判の多かった続編ビデオ商法ですが、『ライオン・キング』に限っては三作とも好きです。

*1:そもそも異なるメディア間でのアダプテーションは格段に難しいにしろ

*2:一方でおなじ山崎貴作品の『アルキメデスの大戦』は改変具合こそを褒められたりもしていた

*3:さすがにヴァン・サント版『サイコ』ほど偏執的な完コピ芸ではありませんが。

*4:https://www.gizmodo.jp/2019/08/lion-king-jon-favreau-interview.html

*5:彼らは劇中で唯一、「自然ドキュメンタリー」であることの制約から逃れ得ている存在です。「ハクナ・マタタ」は本編のミュージカル中で唯一オリジナル版に伍することができる出来でしょう。なんたって自由人なのです。彼らには既存秩序から遠く離れて自由であってほしかったからこそ、リメイク版で「サークル・オブ・ライフ」に取り込まれるのはかなしかったですが……

*6:セリフやシチュエーションも微妙に改変が加えられているのだけれど、ここではあまり触れません。シンバの母親やハイエナのリーダー格といったメスキャラたちのプレゼンスが意識的に上がっていることは確かです。

*7:この動物的な無表情が面白さに寄与している場面がひとつだけあります。プライドランドに舞い戻ってきたシンバが囮としてプンバァたちを繰り出そうとする場面。シンバとナラのあのキョトンとした表情はフォトリアルならではの通じなさです。圧倒的他者として現れる動物本来の映画的用法だと思います。

*8:ディズニーアニメでヴィランが歌うものとしてはベスト級では

*9:ファヴロー監督曰く、ハイエナのキャラ付けを深めるために歌詞を変更したそう。

*10:こういうふうに「突然ラララと歌い出すミュージカル」というよりは会話の延長線上での歌唱っぽいものが全体として志向されているように思う。https://saebou.hatenablog.com/entry/2019/07/24/152834:=この傾向はリメイク実写版『アラジン』にも見られる

*11:ハイエナたちのキャラ変更ははっきり改悪だと思います。ハイエナ三匹組のリーダー格であるシェンジ(オリジナル版ではウーピー・ゴールドバーグ、リメイク版ではフローレンス・カサンバ)が毅然とした女族長のポジションに据えられたのは、ラストバトル時にサラビやナラといったメスライオンのカウンターパートに置く意図があったのでしょうが、彼女が理性的に群れを統率しているものとして描かれてしまっているためにオリジナル版におけるハイエナたちの壊れた狂気が後退し、スカー始末の場面があまり効かなくなってしまっている。

*12:重要なのはディズニーのクラシック作品はけしてリアリズムを軽視していなかったことです。『バンビ』でシカの動作を追求するために動物学者を雇ったり、本物のシカをスタジオ内に連れ込んだエピソードは有名です。リアリズムとフィクションのバランスをどう取るか、どうすれば作品の雰囲気にマッチするのか、そういう問題なのです。

*13:悲しいことにディズニー実写リメイク群の多くが多かれ少なかれ似たような轍を踏んでいるとおもいます

*14:話は若干それますが、ディズニーのアニメ映画リメイクにはディズニーにおける過去の贖罪と再創造――ようするに多様性の要素を吹き込むことで現代的な強度をもたせて「王国」を延命する、という目論見があるように思われます。現状ではお仕着せ感が拭えないものが多いですが。一見動物しか出てこないので人種的な多様性など関係なさそうな『ライオン・キング』もその流れにあって、オリジナル版では白人(マシュー・ブロデリックとモイラ・ケリー)が演じていた主人公カップルを黒人(ドナルド・グローヴァービヨンセ)に置き換えたりしています。簒奪されてきたアフリカ的な文化を黒人の手に返す、という意味では『ブラックパンサー』あたりも意識しているのかな。グローヴァー大好きだしそれはそれはいいのですが、そもそも『ライオン・キング』自体がアフリカという土地に対するオリエンタリズムでできているのは否ませんし、そんなこといったらそもそもリメイク対象になってるディズニー映画だいたいそうですよね。特に九十年代はオリエンタリズムを金に変えまくってきましたよね。昔の基準で作られたものをなんとなく声優だとか、ガワだけ現代のクライテリアにあわせて、内実を真剣に検討することなく安易に今のリメイク作品として出してしまうのは危険なのじゃないな、と『アラジン』くらいから考えています。なにせ次に待機しているのはあの『ムーラン』。割とガチ目な中国系俳優(ドニー・イェン!)でキャストを固めてきているようですが、はたして物語としてはどうなるのか。当時でさえ色々批判が多かったからなあ

*15:正確には人間も出てくるので動物オンリーというわけではない

*16:ディズニーの新しい動画ストリーミングプラットフォームであるDisney+のサービス開始同時に配信されるらしいですが、もしかして配信限定?