名馬であれば馬のうち

読書、映画、ゲーム、その他。


読書、映画、その他。


名バであれば、ウマのうち。ーー『ウマ娘 プリティーダービー』について



「そのほうが語って聞かせるレースをことごとく観戦する暇が、いつそのほうにあったのか不思議なことよ。そのほうはこのコロナ渦、一歩もスマホの前から動いた様子さえないように朕には思えるのだが。 」


「私が見、またおこなうことはすべてこのスマホ画面と同じ静謐、同じ薄明、また同じネイチャのささやき*1渡るこの静寂が支配する精神の空間において意味を得るのでございます。恐らく、この世界で残されているものはジュエルと金を永遠に吸いこみつづける巨大な虚無と、ウマたちが戯れ遊ぶサークルのミニキャラ画面だけでございます。この二つの場所を距てているのはわれらの瞼でございますが、そのいずれが内にあり、いずれが外にあるかは、だれにもわかりません。」*2


「して、そのほうはこの一月でどれほどのウマを育てたのだ」

 
「200」


「200」


 200のウマがあり、200の生があり、200の死があった。*3



 あれのような名馬だけが馬のうちよ、ほかの馬などすべて獣と呼べばよいのだ。
       (he is indeed a horse, and all other jades you may call beasts.)
                     シェイクスピア『ヘンリー五世』


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人間に蹂躙されてきた家畜の例。



 競走馬の世界に「もし」はない。
 Youtube において、第118回天皇賞(秋)を記録したある動画は2021年3月現在、82万回も再生されているけれど、その82万回の出走で82万回とも、サイレンスズカは四コーナーを回ることなくレースを終える。

 同様にアグネスタキオンがダービーに出走することはなく、ライスシャワーはあらゆる不安材料を飲み込みつつ京都競馬場へと赴き、ハルウララは113戦して一度も勝つことなく、ツインターボの逃げはゴール手前500mで壊滅し、ゴールドシップは宝塚のゲートで誇るように一着のポーズをキメる。 

 記録を幾度観直しても歴史は変わらない。

 やりなおしの効かなさは競馬のレースプログラムにも組み込まれている。たとえば、一部のレースは再挑戦すらゆるされない。国内最高峰とされる日本ダービーもそうだ。三歳馬のみという年齢制限の関係上、生涯一度しか走れない*4。日本国民にとっての最高の玩具である高校球児ですら、理論上は五回も甲子園に挑戦できるのに。そんな一回性に一回性を重ねた容赦のなさが競馬をドラマにしてきた。


 一方、ビデオゲーム*5は「もし」を希求するメディアだ。コンティニューすること、やりなおすこと、過去の結果を修正していくこと、それがゲームをゲームにする。


 ここでわたしたちのテーゼを今一度確認しておきたい。

「あまねく傑作ゲームとは麻雀であり、ローグライトである」。*6


 限られた配牌を一定のランダム性のうねりのなかで上手くやりくりしていき、その局での最善を尽くす。最初はルールや役を把握するだけでもおぼつかないが、繰り返すうちにプレイヤーのなかでなんとなく正解の手筋のようなものが絞られていき、それを軸に場面ごとの最善手を探っていく。

 ローグライトを遊ぶことは、そのゲームにおけるシステムの核心へと掘り進むことであり、その過程でゲームそのものと同化することだと言える。言うのは自由だ。おまえが同意するかどうかはここでは問題ではない。

 こと、ローグライト的な、という条件が付く場合、ビデオゲームのハードコアはインタラクティブ性にはなくなる。*7リプレイ性こそに宿る。


 だが、その”ライフ”はやりなおしてよいものなのだろうか。




ウマ娘』は矛盾したコンセプトを内包している。 

 一回性を極限まで高めた存在である競走馬の一生を何度もやりなおす。しかも、その馬たちは『ダービースタリオン』や『ウイニングポスト』といった他の競馬関連ゲームと違い*8、実在の名馬にもとづいた”物語”を持っている。

 リプレイ性はときに代替可能性に置き換えられがちだが、そのセンでいけば本来代替不可能なものを代替可能としていることになる。


 ウマごとの物語は固有かつ不変であって、経路に多少の差異こそあれ、最終的にはひとつの”グッドエンド”へ収束していく。段階ごとの目標(「○○というレースで何着以上に入れ」など)をクリアできなければ、あっさりとプレイが断ち切られる。分岐はしない。一本道だ。つまりはトレーナーにそれを読め、ということ。

 育成部分の元になったのは『パワフルプロ野球』のサクセスモードであるけれど、そちらは架空の選手が架空の球団・学校で選手生活を送る*9のであって、製作側もその時々によってドラマ性を盛り込もうとしたりしなかったりの努力を計ってはいたものの、基本的には「スコア(能力値)の高い選手を作る遊び」と割り切られていたように思う。リプレイ性が高ければ高いほど、ドラマ性は薄まるものだ。*10

 ところが、『ウマ娘』ではプレイヤーの視点をウマ娘のコーチ役たるトレーナーに置き、パートナーであるウマ娘との濃密な関係を描く。メンター-アプレンティス的な関係の設計自体はサイゲームスがてがけてきたアイドルプロデュース系ソシャゲ等との延長にあるのは明らかではあるが、*11その濃密さを「競走馬」の世界に持ち込んでよいのか。*12


 どこへ向かおうとも問いかけは消えない。

 それはやりなおしていい物語なのか。

 おまえはどう思う?

 




 胸つぶるるもの 
 競馬*13見る。元結よる。親などの心地あしとて、例ならぬけしきなる。まして、世の中などさわがしと聞こゆる頃は、よろづのことおぼえず。


                    清少納言枕草子


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レースの演出とカメラワークがすごい。



 日本人が馬を擬人化すると戦争や人死にを招く。それは歴史が証明している。サイゲの布告した「馬主を刺激するな」という詔は、「第二の源頼政を生むな」*14という源氏さんサイドの史観に基づいている。でも、あいつら、崖からお馬さん突き落としたりしてたよね。

 ところで、競馬は競技者の死亡率が飛び抜けて高いスポーツだ。医療や知見が発展した現代でさえ、年平均すればレース100回につき1回の割合でレース中に「予後不良」と診断が下される馬を出している。*15*16

 そして、その不吉さから、あるいはうしろめたさから目を背けるように人は競走馬の死に詩や物語を見出してきた。たとえば、沢木耕太郎日本ダービーの勝利後に破傷風安楽死となったトキノミノルについて、こう謳いあげている。「トキノミノルの死には、確かに人間においても夭逝した詩人だけが持ちうる特権的な輝きがあった」。*17

 こうも続く。「悲劇的な死ではあったが、ダービーという"たった一度"のために生まれ、走り、勝ち、そして死んでいったトキノミノルは、至福の生涯を送ったともいえる。」

 競走馬にとっての「至福の生涯」とはなんだろう、という疑問はおそらくここで手に負えるものではない。

 沢木耕太郎はこうも言った。馬には"たった一度"が許される。騎手には、そしてほとんどの人間にはその"たった一度"が許されない。どういうことかといえば、競走馬は生涯でたった一度だけダービーや皐月賞に出走して、勝とうが負けようがそこで終わりだ。しかし騎手には幸か不幸か”次”がある。あってしまう。*18トキノミノルに騎乗してダービーを制した岩下密政はその二十年後に事故で亡くなった。沢木は岩下の姿をギリシャ神話のシジフォスに重ねた。ここにも詩がある。

 でも、シジフォスの苦行に詩はあるだろうか。あるのは単調に刻まれるリズムだけではないのか。

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アニメでもゲームでも開始二秒でこう断言される。ホモサピの手前勝手さにあふれているが、まあコロコロコミックの玩具バトルまんがみたいな世界観だと了解すればよい。

 


 そして、ウマは?


 トウィンクルシリーズへの挑戦はウマ娘たちにとっても"たった一度"のイベントであり、トレーナーと過ごす三年間もそうだ。だが、トレーナーたる我々はその"たった一度"を無限に繰り返す罰を課されている。なんの罰か。わかるだろう。わかるはずだ。おまえには。


 ヘロドトスに言う。

 英雄ヘラクレスが失踪した愛馬を探していたときのこと。

 馬を捜索するうち、ヒュライアという土地で半人半蛇の女と出会った。

 蛇女は「馬は自分の許にいる」と告げ、馬を返す代わりに自分と交われと要求した。

 ヘラクレスは応じたが、契ったのちも蛇女は言を左右にしてなかなか馬を渡さない。

 しばらくのち、蛇女が突然ヘラクレスに馬を返却してきた。と同時に、自分が妊娠したこと*19を報せ、生まれてくる子どもたちを自分の国に住まわせるか、ヘラクレスのもとに送るかを問うた。

 ヘラクレスは蛇女にこういった。

「そなたは子供らが成人したならば、私がこれからいうようにすれば間違いなかろう。子供らのうち、この弓をこのようにと仕草を示し引き絞り、またこの帯をこのように締める者があったならば、その子をこの国に住まわせよ。しかしながら私の命ずるこれらの業を仕損じた子は、この国から追放してしまえ。」*20

 蛇女からは三人の子が生まれたが、ヘラクレスの言いつけた試練を合格できたのは末っ子のスキュテスのみだった。騎馬民族として名高いスキュタイ人はその末裔だという。

 わたしたちトレーナーは、薄情なヘラクレスのほうの末裔だ。

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 Do you know you’re all my very best friends?

    『My Little Pony: Friendship is Magic』主題歌



 いつの頃からか、ダイジョーブ博士ダイジョーブ博士ではない)が姿を現さなくなった。

 なぜだろうか。この世の構造を知って、彼女を必要としなくなったからだろうか。

 この世には二種類のウマしかない。名バと、そうでないウマだ。

 名バとは、対人レースに出せる強いウマ。それと、優秀な因子を有したウマ。

 その二者だけが本物のウマ娘として学園のロビーに受肉できる。それら以外は、ただの肉(ポイント)に換えられる。

 200名の収容人数を誇るにもかかわらず、常にガランと寂しいウマ娘の殿堂に、某名調教師のあのことばが響く。「馬は走るために生まれてきた。鍛えて強くせねば肉にされてしまう」。
 戸山師の厩舎がそうであったように、最初我々の元に来るのも”血統”的に貧相なウマだ。青1因子とフレンド青2因子の仔。もしセリという概念が『ウマ娘』にあったら*21、ロクな値がつかないだろう。

 そんなウマを鍛える。徹底的に鍛える。大食いイベントでは「太り気味」のリスクを意識しつつも常に体力が30回復するほうの選択肢を選び、故障率30%はむしろの分のいい賭けだとうそぶきながらぶっこむ。
 肉にしないために鍛えてに鍛えて、走らせて、また鍛えて。そうして。

 みごとな駄バができあがる。

 スピード因子1。

 先行因子1。

 あとは……なんだろう? 垂れウマ回避とか?

 使えないウマだ。

 有馬記念に、URAファイナルに勝った。

 だが、肉だ。

 温泉にも行って、最高のグッドエンドを迎えた。

 だが、肉だ。

 おまえは肉なんだよ、”グラスワンダー”。


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「一定の成績」を残せなかったら……残せなかったら、どうなるんですか。

 ほんとうにすまない。でも、おまえは”グラスワンダー”という名前で三年を過ごしただけで、本物のグラスワンダーにはなれなかった。なにがわるかったのかすらわからなくて、何が間違っていたのかといえばすべて間違いだったのかもしれないけれど、この判断だけは間違えることができない。許してほしい。



 努力や根性*22だけではどうにもならない領域がある。


 血だ。


 人類が5000年かけて改造してきた家畜としての馬の歴史がここでプレイヤーにも牙を剥く。あの三大始祖の像は仰ぎ見てありがたがるような御本尊ではない。敵だ。わたしたちが倒すべきは、終始ライバル面してるくせになんかぼんやり最後のレースにぴょっこり出てきて強いとも弱いともいえない微妙な走りを見せて去っていくハッピーミークではありえない。

 近代競馬400年の蹄跡こそ真の敵だ。

 その400年を凌駕する血の量を獲得しなければならない。大量の死体、大量の肉。

 聞くところによれば大塚英志は「ビデオゲームは死を描きえない」と断じたそうだが、むしろ逆だろう。ゲームは死しか描けない。そこいらじゅうにリストカットよりも手軽な死が充満している。

「死が私たちをどこで待っているかは定かではないのだから、私たちのほうが死をいたるところで待ち受けよう」とモンテーニュは呼びかけた。*23

 積極的かつ能動的な死の繰り返しによって世界を洗練させていくこと、肌触りと身体で真理の形をかたどること、それがローグライトの教義となる。

 必要なのは、リプレイの速さ。

「すべてのイベントをスキップする」にチェックし、テキスト送り最大速度でシナリオをすっとばし、ただ機械的な速度に身を委ねて三年を駆け抜けろ。個体で認識するな。星の数だけ数えろ。アブラハムのように。*24ライアン・テダーのように。*25

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「移籍」。どこへ?


 やりなおすたびにウマたちは前世の記憶を桜井裕章のごとく忘却していく。

 そうやって一回一回のゲームプレイをかぎりなく圧縮させていけば、どのウマも等しくのっぺらぼうにしてしまえば、どうだろう、忘れられるか、いや、無理だ。忘れたくない。忘れたくねーよ。

 シナリオは飛ばせる。だが、レースは観てしまう。なぜか。わからない。物語は走るだけで完成する。もうどこにもいかない。

 ヘミングウェイは「最高の競馬アニメが読みたかったら、アニメ版『ウマ娘』を観ろ」と提言した。違った。「最高の小説が読みたかったら、競馬新聞を読め」といったんだ。

 馬は喋らないからこそ、人間が過剰に思いを乗せる器にふさわしい。ウマ娘たちもまた語らない。

 わたしたちの思い出は、地獄は、レース結果の積み重ねとリザルト画面にある。

 ウマ娘たちのモデルになった競走馬たちに固有のドラマがあったように、わたしたちの”グラスワンダー”や”エルコンドルパサー”にもそのプレイ限りのドラマがある。30頭の”シンボリルドルフ”は、誰一人として同じ”シンボリルドルフ”ではない。
 
 それでも依然、ウマはウマで、肉は肉だ。

 この絶望に見覚えはないか。

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市川春子「虫と歌」より)



 替えのきかない物語を重ね、間引き、継いでいく。


 継がれていく血は選りすぐられた勝ちウマだけだ。だが、わたしたちは選ばれなかったウマたちも覚えている。

 生き残ったウマの血の中に、血統表の系統樹以上のウマたちがひしめいていることを知っている。

 憶えているがゆえに、わたしたちは日々削られていく。

 わたしたちにはチェンソーマン*26はいないし、リメイク版『サスペリア』のスージー・バニヨン*27もいない。すべて憶えている。記憶しつづけることで、何かを支払っている。あなたが『ウマ娘』をプレイすることに疲れているのは、ゲームのせいではあるがゲームのせいではない。

 シェイクスピアのリチャード三世は、最後の戦場で自らの王国と引き換えに一頭のウマを望んだ。*28

 キュロスの王は、あるトレーナーに彼のウマと王国を交換しないかと持ちかけた。*29

 本来ならそのくらいの対価が必要なのだ。

 寺山修司が「トウィンクルシリーズは人生のメタファーではない。人生がトウィンクルシリーズのメタファーなのだ」と言ったのは有名であるが、これは荘子の「万物は一頭のウマであると同時にウマではない」という万物斉ウマ説を踏まえている。つまり、世界とはウマである。

 世界というマクロコスモスと等価に引き換えできるのは、自分というミクロコスモスだけだ。

 全部ギブしろ。

 全身全霊で自分のウマに賭けろ。

 2500メートルはそのまま最高の小説だ。

 レースはすべて観ろ。勝ちも負けもすべて聞け。

 償え。


 そして、第四コーナーだ。大歓声です。中山の直線は短いぞ。澄み切った師走の空気を切り裂いて、最後の力競べが始まります。

 ハッピーミークがまだ先頭。ハッピーミークがまだ先頭。テイエムは今日は来ないのか。外の方からトウカイテイオーも来ている。ビワハヤヒデトウカイテイオー。ダービーバの意地を見せるか。それともグランプリ史上にスピード全振りの栄冠を刻むか、サクラバクシンオー。しかしアグネス、アグネス。いや、外からぐーんと飛んできた。物凄い脚、物凄い脚だ。来たぞ来た来た来たぞ、シンボリルドルフがやって来た。こっからが強い、こっからが強い! キングは追いつくか。ライアン、マックイーンはまだ後方。そして内からエアグルーヴがバ群を食いちぎっていく。グラスワンダーもちぎっていくか。そして、大外から、大外からゴールドシップ。今年もまた大波乱。その荒波の向こうにはスペシャルウィークエルコンドルパサータイキシャトルハルウララナイスネイチャサクラバクシンオーマヤノトップガンウオッカダイワスカーレットスーパークリークマルゼンスキーミホノブルボンウイニングチケットライスシャワーサイレンススズカ。みんないます、みんな走っています。あなたは憶えています。そうだ。見えないのか。感じないのか。伝説はここにある。風は吹いている。有馬記念、冬の中山、雪、重バ場、あなたの夢、わたしの夢、懐かしい未来、そして永遠、すべての美しい君の愛バが。


 あの坂を越えて、やってくる。


 おまえだけが、やってくる。





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浅田次郎『競馬どんぶり』より。『競馬どんぶり』には今日からソシャゲにも適用できる金言がいっぱい詰まっているのでみんな読もう))

なんか女神像すげえくれるらしい。

*1:効果:「レース中盤にすぐ前のウマ娘をわずかに戸惑わせる<中距離>」。ナイスネイチャだけでなくスイープトウショウでも取得可能

*2:カルヴィーノ『見えない都市』米川良夫訳

*3:注意:これはゲームの攻略記事でもなければ、分析記事でも、ウマ娘と社会を絡めて何か世相を語っているふうな記事でもない。一切、あなたのためにならない。世の中には吐き出さなければどうにもならないことがあり、このブログの他の記事同様、これもまたそのように排泄されたものだ。

*4:そもそも出られるようになるだけでも大変なのだが

*5:ここではデジタルベースのゲームくらいの意味にとってほしい

*6:これはうちのテーゼなので、あなたは信じても信じなくてもいい。なんとなれば、私も『The Return of the Obra Dinn』とか大好きだ

*7:グラント・タヴィナーは芸術の形式としてのビデオゲームをこう定義している。「Xは、以下のときにビデオゲーム作品である。それが視覚的なデジタル媒体を持った人工物であり、かつ娯楽の対象として意図されており、かつ、そのような娯楽が、以下のいずれかまたは両方の参加方式を使って提供されるように意図されているとき、ルールと目的を持ったゲームプレイ、インタラクティブなフィクション」:松永伸司『ビデオゲームの美学』

*8:厳密にいえば、『ウイニングポスト』では実在の名馬の足跡を追体験できる要素がある。

*9:7あたりで実在のプロ野球チームに入団できたことはあった

*10:この妥協に抗おうとしたのが『パワプロクンポケット』シリーズだということはできる。

*11:「”美少女”を”育成”する」という合せ技は『パワプロ』以前にも『プリンセスメーカー』(ガイナックス)が存在し、恋愛ゲームの『ときめきメモリアル』に引き継がれていった。アイマスとかもその系譜ということになるんじゃないかと思うんだけど、あんまり詳しくない分野なので深入りは避ける。rf. 多根清史『教養としてのゲーム史』

*12:前注に出てきたゲーム研究者の多根清史は『ダービースタリオン』の楽しさを「プレイヤーが馬主と生産者と調教師の三役を兼ねる」点にあると指摘したけれど、この見方に則れば、『ウマ娘』は「(ヒトとして対等な)パートナー」という役割を追加したといえる。

*13:くらべうま

*14:いわゆる、以仁王の乱

*15:参考:https://umas.club/stat-fatality ”レース中に負ったけがによって予後不良の診断が下された馬が対象で、レース前後(発走前や入線後)に生じたけがによるものは含まれていません。予後不良であっても安楽死処置がとられないこともあります。”

*16:ちなみに騎手の死亡率はドイツで約17万5000人に1人。サッカーで死ぬ人は約10万人に1人で、水泳は5万6000人に1人なので、人間に関しては比較的安全なスポーツといえる。http://www.bandolier.org.uk/booth/Risk/sports.html

*17:イシノヒカル、おまえは走った!」より

*18:だからこそ、テイエムオペラオーの主戦騎手だった和田竜二などにもドラマが生まれる

*19:フロイトによれば、馬は(馬にかぎらずフロイトの手にかかれば何でもそうなるのだが)それ自体、性的なシンボルである。サイゲウマ娘のエロ同人を禁じたのは馬主からの反発を恐れたためではない。在るだけでセクシャルな象徴についてエロを描くなどとは、屋上屋を重ねるごとき不粋である。風流を知る企業であるサイゲはその恥辱に耐えられなかったのだろう。

*20:ヘロドトス『歴史』松平千秋訳

*21:種付け権に関しては、ある。フレンド機能で実行できる

*22:スペシャルウィークは根性トレーニングのときだけでなくスピードトレーニングのときも「根性です!」と叫ぶ。

*23:『エセー』宮下志朗・訳を一部改変

*24:”そして主は彼を外に連れ出して言われた、「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみなさい」。また彼に言われた、「あなたの子孫はあのようになるでしょう」”『創世記』15:5

*25:「最近、どうもなんだか眠れない/僕たちの後悔を夢に見るようで/だけどね、ベイビー。一生懸命祈ってもいるんだ/金を数えるのをやめて、星を数えよう」One Republic「Counting Stars

*26:漫画『チェンソーマン』に出てくるチェンソーの悪魔が食べた悪魔は概念ごと抹殺される。

*27:ルカ・グァダニーノ監督版『サスペリア』では魔女として覚醒した主人公スージーは、ある辛い経験に苛まさてきた老人の記憶を消してあげる。

*28:ウィリアム・シェイクスピア『リチャード三世』

*29:クセノポン『キュロスの教育』